The Paulownia Court 桐壷更衣に帝の御おぼえまばゆし

いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶら ひたまひける中に、いとやむごとなき際に はあらぬが、すぐれて時めきたまふありけ り。はじめより我はと思ひあがりたまへる御方々、めざまし きものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下臈の 更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕につけても、人 の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけん、いとあ つしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあか ずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたま はず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。上達部上人な ども、あいなく目を側めつつ、いとまばゆき人の御おぼえな り。唐土にも、かかる事の起りにこそ、世も乱れあしかりけ

れと、やうやう、天の下にも、あぢきなう人のもてなやみぐ さになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、いと はしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひな きを頼みにてまじらひたまふ。  父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人の よしあるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなや かなる御方々にもいたう劣らず、何ごとの儀式をももてなし たまひけれど、取りたてて、はかばかしき後見しなければ、 事ある時は、なほ拠りどころなく心細げなり。 更衣に皇子誕生、方々の憎しみつのる 前の世にも、御契りや深かりけん、世にな くきよらなる玉の男皇子さへ生まれたまひ ぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、 急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなるちごの御容貌なり。  一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひな きまうけの君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほ

ひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむご となき御思ひにて、この君をば、私ものに思ほしかしづきた まふこと限りなし。  はじめよりおしなべての上宮仕したまふべき際にはあらざ りき。おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりな くまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びのをりをり、 なにごとにもゆゑある事のふしぶしには、まづ参う上らせた まふ、ある時には大殿篭りすぐして、やがてさぶらはせたま ひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに、 おのづから軽き方にも見えしを、この皇子生まれたまひて後 は、いと心ことに思ほしおきてたれば、坊にも、ようせずは、 この皇子のゐたまふべきなめりと、一の皇子の女御は思し疑 へり。人よりさきに参りたまひて、やむごとなき御思ひなべ てならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌め をのみぞ、なほわづらはしう、心苦しう思ひきこえさせたま

ひける。  かしこき御蔭をば頼みきこえながら、おとしめ、疵を求め たまふ人は多く、わが身はか弱く、ものはかなきありさまに て、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。  御局は桐壼なり。あまたの御方々を過ぎさせたまひて、隙 なき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、げにことわり と見えたり。参う上りたまふにも、あまりうちしきるをりを りは、打橋渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、 御送り迎への人の衣の裾、たへがたく、まさなきこともあり。 またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかな た、心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。 事にふれて、数知らず苦しきことのみまされば、いといたう 思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよ りさぶらひたまふ更衣の曹司を、ほかに移させたまひて、上- 局に賜はす。その恨みましてやらむ方なし。 若宮三歳になり、袴着の儀を行う

この皇子三つになりたまふ年、御袴着のこ と、一の宮の奉りしに劣らず、内蔵寮納殿 の物を尽くして、いみじうせさせたまふ。 それにつけても、世のそしりのみ多かれど、この皇子のおよ すけもておはする御容貌心ばへ、ありがたくめづらしきまで 見えたまふを、えそねみあへたまはず。ものの心知りたまふ 人は、かかる人も世に出でおはするものなりけりと、あさま しきまで目を驚かしたまふ。 更衣、帝に別れて退出、命果てる その年の夏、御息所、はかなき心地にわづ らひて、まかでなんとしたまふを、暇さら にゆるさせたまはず。年ごろ、常のあつし さになりたまへれば、御目馴れて、 「なほしばしこころみ よ」とのみのたまはするに、日々に重りたまひて、ただ五六- 日のほどに、いと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかで させたてまつりたまふ。かかるをりにも、あるまじき恥もこ

そと、心づかひして、皇子をば止めたてまつりて、忍びてぞ 出でたまふ。  限りあれば、さのみもえ止めさせたまはず、御覧じだに送 らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。いとにほひやか に、うつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとも のを思ひしみながら、言に出でても聞こえやらず、あるかな きかに消え入りつつ、ものしたまふを、御覧ずるに、来し方 行く末思しめされず、よろづのことを、泣く泣く契りのたま はすれど、御答へもえ聞こえたまはず。まみなどもいとたゆ げにて、いとどなよなよと、われかの気色にて臥したれば、 いかさまにと思しめしまどはる。輦車の宣旨などのたまはせ ても、また入らせたまひて、さらにえゆるさせたまはず。 「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。 さりともうち棄てては、え行きやらじ」とのたまはするを、 女もいといみじと見たてまつりて、

「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命な   りけり いとかく思ひたまへましかば」と息も絶えつつ、聞こえまほ しげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、 かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむ、と思しめす に、 「今日はじむべき祈祷ども、さるべき人々うけたまはれ る、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながら、 まかでさせたまふ。 御胸つとふたがりて、つゆまどろ まれず、明かしかねさせたまふ。御- 使の行きかふほどもなきに、なほい ぶせさを限りなくのたまはせつるを、 「夜半うち過ぐるほどになむ、絶え はてたまひぬる」とて泣き騒げば、 御使も、いとあへなくて帰り参りぬ。

聞こしめす御心まどひ、なにごとも思しめし分かれず、篭り おはします。 無心の若宮更衣の里に退出する 皇子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、 かかるほどにさぶらひたまふ、例なきこと なれば、まかでたまひなむとす。何ごとか あらむとも思したらず、さぶらふ人々の泣きまどひ、上も御- 涙の隙なく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへ るを。よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなき わざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。 更衣の葬送三位の追贈 人人の哀惜深し 限りあれば、例の作法にをさめたてまつる を、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣 きこがれたまひて、御送りの女房の車に、 慕ひ乗りたまひて、愛宕といふ所に、いといかめしうその作- 法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。 「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふが、

いとかひなければ、灰になりたまはむを見たてまつりて、今 は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなん」
と、さかしうのたま ひつれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつ かしと、人々もてわづらひきこゆ。  内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来て、 その宣命読むなん、悲しきことなりける。女御とだに言はせ ずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位を だにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても、憎みたま ふ人々多かり。  もの思ひ知りたまふは、さま容貌などのめでたかりしこと、 心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今 ぞ思し出づる。さまあしき御もてなしゆゑこそ、すげなうそ ねみたまひしか、人がらのあはれに、情ありし御心を、上の 女房なども恋ひしのびあへり。「なくてぞ」とは、かかるをり にやと見えたり。 帝、涙にしずみ、悲しみの秋来たる

はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにも、 こまかにとぶらはせたまふ。ほど経るまま に、せむ方なう悲しう思さるるに、御方々 の御宿直なども、絶えてしたまはず、ただ涙にひちて明かし 暮らさせたまへば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。「亡 きあとまで、人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな」と ぞ、弘徽殿などには、なほゆるしなうのたまひける。一の宮 を見たてまつらせたまふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出 でつつ、親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを 聞こしめす。 勅使靫負命婦、母君を訪れ共に故人を偲ぶ 野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、 常よりも思し出づること多くて、靫負命婦 といふを遣はす。 タ月夜のをかしきほどに、出だし立てさせたまひて、やが てながめおはします。かうやうのをりは、御遊びなどせさせ

たまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こ え出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影 につと添ひて思さるるにも、闇の現にはなほ劣りけり。  命婦かしこにまで着きて、門引き入るるより、けはひあは れなり。やもめ住みなれど、人ひとりの御かしづきに、とか くつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまへる、闇に くれて臥ししづみたまへるほどに、草も高くなり、野分にい とど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重葎にもさはらず さし入りたる。  南面におろして、母君もとみにえものものたまはず。 「今までとまりはべるがいとうきを、かかる御使の、蓬生 の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなん」とて、 げにえたふまじく泣いたまふ。 「『参りてはいとど心苦し う、心肝も尽くるやうになん』と、典侍の奏したまひしを、 もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうは

べりけれ」
とて、ややためらひて、仰せ言伝へきこゆ。 「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひしづ まるにしも、さむべき方なくたへがたきは、いかにすべきわ ざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りた まひなんや。若宮の、いとおぼつかなく、露けき中に過ぐし たまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』など、は かばかしうも、のたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、 かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしも あらぬ御気色の心苦しさに、うけたまはりはてぬやうにてな ん、まかではべりぬる」とて御文奉る。 「目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてな ん」とて、見たまふ。  ほど経ばすこしうちまぎるることもやと、待ち過ぐす月-  日に添へて、いと忍びがたきはわりなきわざになん。い  はけなき人をいかにと思ひやりつつ、もろともにはぐく

 まぬおぼつかなさを。今はなほ、昔の形見になずらへて  ものしたまへ。 など、こまやかに書かせたまへり。  宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそや   れ とあれど、え見たまひはてず。 「命長さの、いとつらう思ひたまへ知らるるに、松の思 はむことだに、恥づかしう思ひたまへはべれば、ももしきに 行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなん。かしこ き仰せ言をたびたびうけたまはりながら、みづからはえなん 思ひたまへ立つまじき。若宮は、いかに思ほし知るにか、参 りたまはむことをのみなん思し急ぐめれば、ことわりに悲し う見たてまつりはべるなど、うちうちに思ひたまふるさまを 奏したまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますも、 いまいましう、かたじけなくなん」とのたまふ。

宮は大殿篭りにけり。 「見たてまつりて、くはしう御あ りさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに。夜- 更けはべりぬべし」とて急ぐ。 「くれまどふ心の闇もたへがたき片はしをだに、はるく ばかりに聞こえまほしうはべるを、私にも、心のどかにま かでたまへ。年ごろ、うれしく面だたしきついでにて、立 ち寄りたまひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、 かへすがへすつれなき命にもはべるかな。生まれし時より、 思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、ただ、 『この人の宮仕の本意、かならず遂げさせたてまつれ。我亡 くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、かへすがへす 諌めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなき交 らひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただか の遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身にあ まるまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき

恥を隠しつつ、交らひたまふめりつるを、人のそねみ深くつ もり、やすからぬこと多くなり添ひはべりつるに、よこさま なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつ らくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これ もわりなき心の闇になむ」
と、言ひもやらず、むせかへりた まふほどに、夜も更けぬ。 「上もしかなん。『わが御心ながら、あながちに人目驚 くばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらか りける人の契りになん。世に、いささかも人の心をまげたる ことはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさる まじき人の恨みを負ひしはてはては、かううち棄てられて、 心をさめむ方なきに、いとど人わろうかたくなになりはつる も、前の世ゆかしうなむ』と、うち返しつつ、御しほたれが ちにのみおはします」と語りて尽きせず。泣く泣く、 「夜 いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参

る。  月は入方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、 草むらの虫の声々もよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草 のもとなり。  鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙   かな えも乗りやらず。 「いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おきそふる雲の   上人 かごとも聞こえつべくなむ」と、言はせたまふ。  をかしき御贈物などあるべきをりにもあらねば、ただか の御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける、御装束- 一領、御髪上の調度めく物、添へたまふ。  若き人々、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝- 夕にならひて、いとさうざうしく、上の御ありさまなど思ひ

出できこゆれば、とく参りたまはんことをそそのかしきこゆ れど、かくいまいましき身の添ひたてまつらむも、いと人聞 きうかるべし、また見たてまつらでしばしもあらむは、いと うしろめたう思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせた てまつりたまはぬなりけり。 命婦帰参、さらに帝の哀傷深まる 命婦は、まだ大殿篭らせたまはざりけると、 あはれに見たてまつる。御前の壼前栽の、 いとおもしろき盛りなるを、御覧ずるや うにて、忍びやかに、心にくきかぎりの女房四五人さぶらは せたまひて、御物語せさせたまふなりけり。  このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院の描か せたまひて、伊勢貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、 唐土の詩をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせたまふ。  いとこまやかにありさま問はせたまふ。あはれなりつるこ と、忍びやかに奏す。御返り御覧ずれば、 「いともかしこ

きは、置き所もはべらず。かかる仰せ言につけても、かきく らす乱り心地になん。   あらき風ふせぎしかげの枯れしより小萩がうへぞしづご   ころなき」
などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと、御覧 じゆるすべし。  いとかうしも見えじと、思ししづむれど、さらにえ忍びあ へさせたまはず。御覧じはじめし年月のことさへ、かき集め よろづに思しつづけられて、時の間もおぼつかなかりしを、 かくても月日は経にけりと、あさましう思しめさる。 「故大納言の遺言あやまたず、宮仕の本意深くものした りしよろこびは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ、言 ふかひなしや」とうちのたまはせて、いとあはれに思しやる。 「かくても、おのづから、若宮など生ひ出でたまはば、さ るべきついでもありなむ。命長くとこそ思ひ念ぜめ」などの

たまはす。 かの贈物御覧ぜさす。亡き人の住み処尋ね出でたりけん、 しるしの釵ならましかば、と思ほすも、いとかひなし。 たづねゆくまぽろしもがなつてにても魂のありかをそ   こと知るべく 絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆 限りありければ、いとにほひすくなし。太液の芙蓉、未央の 柳も、げに、かよひたりし容貌を、唐めいたるよそひはうる はしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしを思し出づ るに、花鳥の色にも音にも、よそふべき方ぞなき。朝夕の言 ぐさに、翼をならべ、枝をかはさむと契らせたまひしに、か なはざりける命のほどぞ、尽きせずうらめしき。 風の音、虫の音につけ て、もののみ悲しう思さ るるに、弘徽殿には、久

しく上の御局にも参う上りたまはず、月のおもしろきに、夜- 更くるまで遊びをぞしたまふなる。いとすさまじう、ものし と聞こしめす。このごろの御気色を見たてまつる上人女房な どは、かたはらいたしと聞きけり。いとおし立ちかどかどし きところものしたまふ御方にて、ことにもあらず思し消ちて、 もてなしたまふなるべし。  月も入りぬ。 雲のうへもなみだにくるる秋の月いかですむらん浅茅-  生のやど 思しめしやりつつ、燈火を挑げ尽くして、起きおはします。 右近の司の宿直奏の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし。 人目を思して、夜の殿に入らせたまひても、まどろませた まふことかたし。朝に起きさせたまふとても、明くるも知ら で、と思し出づるにも、なほ朝政は怠らせたまひぬべかめ り。ものなどもきこしめさず。朝餉の気色ばかりふれさせた

まひて、大床子の御膳などは、いとはるかに思しめしたれば、 陪膳にさぶらふかぎりは、心苦しき御気色を見たてまつり嘆 く。すべて、近うさぶらふかぎりは、男女、いとわりなきわ ざかな、と言ひあはせつつ嘆く。さるべき契りこそはおはし ましけめ、そこらの人のそしり、恨みをも憚らせたまはず、 この御ことにふれたることをば、道理をも失はせたまひ、今 はた、かく世の中の事をも思ほし棄てたるやうになりゆくは、 いとたいだいしきわざなりと、他の朝廷の例まで引き出で、 ささめき嘆きけり。 若宮参内、祖母北の方の死去 月日経て、若宮参りたまひぬ。いとど、こ の世のものならず、きよらにおよすけたま へれば、いとゆゆしう思したり。  明くる年の春、坊定まりたまふにも、いとひき越さまほし う思せど、御後見すべき人もなく、また世のうけひくまじき ことなりければ、なかなかあやふく思しはばかりて、色にも

出ださせたまはずなりぬるを、さばかり思したれど、限りこ そありけれ、と世人も聞こえ、女御も御心落ちゐたまひぬ。  かの御祖母北の方、慰む方なく思ししづみて、おはすらむ 所にだに尋ね行かむ、と願ひたまひししるしにや、つひに亡 せたまひぬれば、またこれを悲しび思すこと限りなし。皇子 六つになりたまふ年なれば、このたびは思し知りて恋ひ泣き たまふ。年ごろ馴れむつびきこえたまひつるを、見たてまつ りおく悲しびをなむ、かへすがへすのたまひける。 若宮の神才と美貌、内裏を圧する 今は内裏にのみさぶらひたまふ。七つにな りたまへば、読書始などせさせたまひて、 世に知らず聡うかしこくおはすれば、あま り恐ろしきまで御覧ず。 「今は誰も誰もえ憎みたまはじ。 母君なくてだにらうたうしたまへ」とて、弘徽殿などにも渡 らせたまふ御供には、やがて御簾の内に入れたてまつりたま ふ。いみじき武士、仇敵なりとも、見てはうち笑まれぬべきさ

まのしたまへれば、えさし放ちたまはず。女御子たち二所、 この御腹におはしませど、なずらひたまふべきだにぞなかり ける。御方々も隠れたまはず、今よりなまめかしう恥づかし げにおはすれば、いとをかしううちとけぬ遊びぐさに、誰も 誰も思ひきこえたまへり。  わざとの御学問はさるものにて、琴笛の音にも雲ゐをひび かし、すべて言ひつづけば、ことごとしう、うたてぞなりぬ べき人の御さまなりける。 高麗人の観相、若宮、源姓を賜わる そのころ、高麗人の参れるなかに、かしこ き相人ありけ るを聞こしめ して、宮の内に召さむことは、 宇多帝の御誡あれば、いみじ う忍びて、この皇子を鴻炉*館に 遣はしたり。御後見だちて仕う

まつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、相人 驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。 「国の親となりて、帝- 王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見 れば、乱れ憂ふることやあらむ。おほやけのかためとなりて、 天の下を輔弼くる方にて見れば、またその相違ふべし」と言 ふ。  弁も、いと才かしこき博士にて、言ひかはしたることども なむ、いと興ありける。文など作りかはして、今日明日帰り 去りなむとするに、かくあり難き人に対面したるよろこび、 かへりては悲しかるべき心ばへを、おもしろく作りたるに、 皇子もいとあはれなる句を作りたまへるを、限りなうめでた てまつりて、いみじき贈物どもを捧げたてまつる。おほや けよりも多くの物賜はす。おのづから事ひろごりて、漏らさ せたまはねど、春宮の祖父大臣など、いかなることにかと思 し疑ひてなんありける。

 帝、かしこき御心に、倭相を仰せて思しよりにける筋なれ ば、今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを、相人 はまことにかしこかりけり、と思して、無品親王の外戚の寄 せなきにては漂はさじ、わが御世もいと定めなきを、ただ人 にておほやけの御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめる ことと思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせたまふ。際 ことにかしこくて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王と なりたまひなば、世の疑ひ、負ひたまひぬべくものしたまへ ば、宿曜のかしこき道の人に勘へさせたまふにも、同じさま に申せば、源氏になしたてまつるべく思しおきてたり。 先帝の四の宮(藤壺)入内さる 年月にそへて、御息所の御ことを思し忘る るをりなし。慰むやと、さるべき人々参ら せたまへど、なずらひに思さるるだにいと かたき世かなと、うとましうのみよろづに思しなりぬるに、 先帝の四の宮の、御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはしま

す、母后世になくかしづききこえたまふを、上にさぶらふ典- 侍は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたり ければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今も ほの見たてまつりて、 「亡せたまひにし御息所の御容貌に 似たまへる人を、三代の宮仕に伝はりぬるに、え見たてまつ りつけぬを、后の宮の姫宮こそ、いとようおぼえて生ひ出で させたまへりけれ。ありがたき御容貌人になん」と奏しける に、まことにやと御心とまりて、ねむごろに聞こえさせたま ひけり。  母后、 「あな恐ろしや、春宮の女御のいとさがなくて、桐- 壼更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう」 と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、 后も亡せたまひぬ。心細きさまにておはしますに、 「ただわ が女御子たちの同じつらに思ひきこえむ」と、いとねむごろ に聞こえさせたまふ。さぶらふ人々、御後見たち、御兄の兵-

部卿の親王など、かく心細くておはしまさむよりは、内裏住 みせさせたまひて、御心も慰むべくなど思しなりて、参らせ たてまつりたまへり。藤壼と聞こゆ。げに御容貌ありさま、 あやしきまでぞおぼえたまへる。これは、人の御際まさりて、 思ひなしめでたく、人もえおとしめきこえたまはねば、うけ ばりてあかぬことなし。かれは、人のゆるしきこえざりしに、 御心ざしあやにくなりしぞかし。思しまぎるとはなけれど、 おのづから御心うつろひて、こよなう思し慰むやうなるも、 あはれなるわざなりけり。 源氏、亡母に似る藤壺の宮を慕う 源氏の君は、御あたり去りたまはぬを、ま してしげく渡らせたまふ御方は、え恥ぢあ へたまはず。いづれの御方も、我人に劣ら むと思いたるやはある。とりどりにいとめでたけれど、うち 大人びたまへるに、いと若ううつくしげにて、せちに隠れた まへど、おのづから漏り見たてまつる。母御息所も、影だにお

ぼえたまはぬを、 「いとよう似たまへり」と典侍の聞こえける を、若き御心地にいとあはれと思ひきこえたまひて、常に参 らまほしく、なづさひ見たてまつらばや、とおぼえたまふ。  上も、限りなき御思ひどちにて、 「な疎みたまひそ。あや しくよそへ聞こえつべき心地なんする。なめしと思さで、ら うたくしたまへ。頬つきまみなどは、いとよう似たりしゆ ゑ、かよひて見えたまふも、似げなからずなむ」など聞こえ つけたまへれば、幼心地にも、はかなき花紅葉につけても 心ざしを見えたてまつる。こよなう心寄せきこえたまへれば、 弘徽殿女御、またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うち添 へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。世 にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名高うおはする宮の御- 容貌にも、なほにほはしさはたとへむ方なく、うつくしげな るを、世の人光る君と聞こゆ。藤壼ならびたまひて、御おぼ えもとりどりなれば、かかやく日の宮と聞こゆ。 源氏の元服の儀、左大臣家の婿となる

この君の御童姿、いと変へまうく思せど、 十二にて御元服したまふ。居起ち思しいと なみて、限りあることに、ことを添へさせ たまふ。一年の春宮の御元服、南殿にてありし儀式、よそほ しかりし御ひびきにおとさせたまはず。ところどころの饗な ど、内蔵寮穀倉院など、おほやけごとに仕うまつれる、おろ そかなることもぞと、とりわき仰せ言ありて、きよらを尽く して仕うまつれり。  おはします殿の東の廂、東向に倚子立てて、冠者の御座、 引き入れの大臣の御座御前にあり。申の刻にて源氏参りたま ふ。みづら結ひたまへる頬つき、顔のにほひ、さま変へた まはむこと惜しげなり。大蔵卿くら人仕うまつる。いときよ らなる御髪をそぐほど、心苦しげなるを、上は、御息所の見 ましかば、と思し出づるに、たへがたきを、心づよく念じか へさせたまふ。

 かうぶりしたまひて、御休所にまかでたまひて、御衣 奉りかへて、下りて拝したてまつりたまふさまに、皆人涙- 落したまふ。帝はた、ましてえ忍びあへたまはず、思しまぎ るるをりもありつる昔のこと、取りかへし悲しく思さる。い とかうきびはなるほどは、あげ劣りやと疑はしく思されつる を、あさましううつくしげさ添ひたまへり。  引き入れの大臣の、皇女腹にただ一人かしづきたまふ御む すめ、春宮よりも御気色あるを、思しわづらふことありける、 この君に奉らむの御心なりけり。内裏にも、御気色賜はらせ たまへりければ、 「さらば、このをりの後見なかめるを、添- 臥にも」と、もよほさせたまひければ、さ思したり。  さぶらひにまかでたまひて、人々大御酒などまゐるほど、 親王たちの御座の末に源氏着きたまへり。 大臣気色ばみきこ えたまふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかく もあへしらひきこえたまはず。

 御前より、内侍、宣旨うけたまはり伝へて、大臣参りたま ふべき召しあれば、参りたまふ。御禄の物、上の命婦取りて 賜ふ。白き大袿に御衣一領、例のことなり。御盃のついで に、   いときなきはつもとゆひに長き世をちぎる心は結びこ   めつや 御心ばへありておどろかさせたまふ。   結びつる心も深きもとゆひに濃きむらさきの色し   あせずは と奏して、長橋よりおりて、舞踏した まふ。  左馬寮の御馬、蔵人所の鷹すゑて賜 はりたまふ。御階のもとに、親王たち 上達部つらねて、禄ども品々に賜はり たまふ。

 その日の御前の折櫃物篭物など、右大弁なむうけたまはり て仕うまつらせける。屯食、禄の唐櫃どもなど、ところせき まで、春宮の御元服のをりにも数まされり。なかなか限りも なくいかめしうなん。  その夜、大臣の御里に、源氏の君まかでさせたまふ。作法 世にめづらしきまで、もてかしづききこえたまへり。いとき びはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひきこえたま へり。女君は、すこし過ぐしたまへるほどに、いと若うおは すれば、似げなく恥づかし、と思いたり。 左右大臣家並び立つ 蔵人少将と四の君 この大臣の御おぽえいとやむごとなきに、 母宮、内裏のひとつ后腹になむおはしけれ ば、いづかたにつけてもいとはなやかなる に、この君さへかくおはし添ひぬれば、春宮の御祖父にて、 つひに世の中を知りたまふべき、右大臣の御勢は、ものに もあらずおされたまへり。御子どもあまた、腹々にものした

まふ。宮の御腹は、蔵人少将にて、いと若うをかしきを、 右大臣の、御仲はいとよからねど、え見過ぐしたまはで、か しづきたまふ四の君にあはせたまへり、劣らずもてかしづき たるは、あらまほしき御あはひどもになん。 源氏、一途に藤壺の宮を恋慕する 源氏の君は、上の常に召しまつはせば、心 やすく里住みもえしたまはず。心のうちに は、ただ藤壼の御ありさまを、たぐひなし と思ひきこえて、さやうならむ人をこそ見め、似る人なくも おはしけるかな、大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる 人とは見ゆれど、心にもつかずおぼえたまひて、幼きほどの 心ひとつにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。大人に なりたまひて後は、ありしやうに、御廉の内にも入れたまは ず。御遊びのをりをり、琴笛の音に聞こえ通ひ、ほのかなる 御声を慰めにて、内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ。五六- 日さぶらひたまひて、大殿に二三日など、絶え絶えにまかで

たまへど、ただ今は、幼き御ほどに、罪なく思しなして、い となみかしづききこえたまふ。御方々の人々、世の中におし なべたらぬを、選りととのへすぐりてさぶらはせたまふ。御- 心につくべき御遊びをし、おほなおほな思しいたつく。  内裏には、もとの淑景舎を御曹司にて、母御息所の御方の 人々、まかで散らずさぶらはせたまふ。里の殿は、修理職、 内匠寮に宣旨下りて、二なう改め造らせたまふ。もとの木立、 山のたたずまひおもしろき所なりけるを、池の心広くしなし て、めでたく造りののしる。かかる所に、思ふやうならむ人 を据ゑて住まばやとのみ、嘆かしう思しわたる。 光る君といふ名は、高麗人のめできこえて、つけたてまつ りけるとぞ、言ひ伝へたるとなむ。 The Broom Tree 源氏のあやにくな本性--語り手の前口上

光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消た れたまふ咎多かなるに、いとど、かかるす き事どもを末の世にも聞きつたへて、かろ びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、 語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく 世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきこ とはなくて、交野の少将には、笑はれたまひけむかし。  まだ中将などにものしたまひし時は、内裏にのみさぶらひ ようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ。忍ぶの乱 れやと疑ひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴 れたるうちつけのすきずきしさなどは好ましからぬ御本性に て、まれにはあながちにひき違へ、心づくしなることを御心

に思しとどむる癖なむあやにくにて、さるまじき御ふるまひ もうちまじりける。 五月雨の夜の宿直に、女の品定めはじまる 長雨晴れ間なきころ、内裏の御物忌さしつ づきて、いとど長居さぶらひたまふを、大 殿にはおぼつかなくうらめしく思したれど、 よろづの御よそひ、何くれとめづらしきさまに調じ出でたま ひつつ、御むすこの君たち、ただこの御宿直所に宮仕をつと めたまふ。宮腹の中将は、中に親しく馴れきこえたまひて、 遊び戯れをも人よりは心やすくなれなれしくふるまひたり。 右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は、この君もいとも のうくして、すきがましきあだ人なり。  里にても、わが方のしつらひまばゆくして、君の出で入り したまふにうち連れきこえたまひつつ、夜昼学問をも遊びを ももろともにして、をさをさ立ちおくれず、いづくにてもま つはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおか

ず、心の中に思ふことも隠しあへずなん、睦れきこえたまひ ける。  つれづれと降り暮らして、しめやかなる宵の雨に、殿上に もをさをさ人少なに、御宿直所も例よりはのどやかなる心地 するに、大殿油近くて、書どもなど見たまふ。近き御廚子な るいろいろの紙なる文どもを別き出でて、中将わりなくゆか しがれば、 「さりぬべきすこしは見せむ、かたはなるべき もこそ」と、ゆるしたまはねば、 「その、うちとけてかた はらいたしと思されんこそゆかしけれ。おしなべたるおほか たのは、数ならねど、ほどほどにつ けて、書きかはしつつも見はべりな ん。おのがじしうらめしきをりをり、 待ち顔ならむ夕暮などのこそ、見ど ころはあらめ」と怨ずれば、やむごと なくせちに隠したまふべきなどは、

かやうにおほぞうなる御廚子などにうち置き、散らしたまふ べくもあらず、深くとり置きたまふべかめれば、二の町の心 やすきなるべし、片はしづつ見るに、 「よくさまざまなる物 どもこそはべりけれ」とて、心あてに、「それか」「かれか」 など問ふなかに、言ひあつるもあり、もて離れたることをも 思ひ寄せて疑ふもをかしと思せど、言少なにて、とかく紛ら はしつつとり隠したまひつ。 「そこにこそ多くつどへたまふらめ。すこし見ばや。さ てなん、この廚子も快く開くべき」とのたまへば、 「御覧じ どころあらむこそかたくはべらめ」など聞こえたまふついで に、 「女の、これはしもと難つくまじきはかたくもあるか なと、やうやうなむ見たまへ知る。ただうはべばかりの情に 手走り書き、をりふしの答へ心得てうちしなどばかりは、随- 分によろしきも多かりと見たまふれど、そも、まことにその 方を取り出でん選びに、かならず漏るまじきはいとかたしや。

わが心得たることばかりを、おのがじし心をやりて、人をば おとしめなど、かたはらいたきこと多かり。親など立ち添ひ もてあがめて、生ひ先篭れる窓の内なるほどは、ただ片かど を聞きつたへて、心を動かすこともあめり。容貌をかしくう ちおほどき若やかにて、紛るることなきほど、はかなきすさ びをも人まねに心を入るることもあるに、おのづから一つゆ ゑづけて、し出づることもあり。見る人後れたる方をば言ひ 隠し、さてありぬべき方をばつくろひてまねび出だすに、そ れしかあらじと、そらにいかがは推しはかり思ひくたさむ。 まことかと見もてゆくに、見劣りせぬやうはなくなんあるべ き」
と、うめきたる気色も恥づかしげなれば、いとなべては あらねど、我も思しあはすることやあらむ、うちほほ笑みて、 「その片かどもなき人はあらむや」とのたまへば、 「い とさばかりならむあたりには、誰かはすかされ寄りはべらむ。 取る方なく口惜しき際と、優なりとおぼゆばかりすぐれたる

とは、数ひとしくこそはべらめ。人の品たかく生まれぬれば、 人にもてかしづかれて、隠るること多く、自然にそのけはひ こよなかるべし、中の品になん、人の心々おのがじしの立て たるおもむきも見えて、分かるべきことかたがた多かるべき。 下のきざみといふ際になれば、ことに耳立たずかし」
とて、 いとくまなげなる気色なるも、ゆかしくて、 「その品々や いかに。いづれを三つの品におきてか分くべき。もとの品た かく生まれながら、身は沈み、位みじかくて人げなき、また 直人の上達部などまでなり上り、我は顔にて家の内を飾り、 人に劣らじと思へる、そのけぢめをばいかが分くべき」と問 ひたまふほどに、左馬頭、藤式部丞御物忌に篭らむとて 参れり。世のすき者にて、ものよく言ひとほれるを、中将待 ちとりて、この品々をわきまへ定めあらそふ。いと聞きにく きこと多かり。 左馬頭の弁--女の三階級について

「なり上れども、もとよりさるべき筋な らぬは、世人の思へることもさは言へどな ほことなり。また、もとはやむごとなき筋 なれど、世に経るたづき少なく、時世にうつろひて、おぼえ 衰へぬれば、心は心として事足らず、わろびたることども出 でくるわざなめれば、とりどりにことわりて、中の品にぞお くべき。受領といひて、人の国のことにかかづらひ営みて、 品定まりたる中にも、またきざみきざみありて、中の品のけ しうはあらぬ選り出でつべきころほひなり。なまなまの上達- 部よりも、非参議の四位どもの、世のおぼえ口惜しからず、 もとの根ざしいやしからぬ、やすらかに身をもてなしふるま ひたる、いとかわらかなりや。家の内に足らぬことなど、は たなかめるままに、省かずまばゆきまでもてかしづけるむす めなどの、おとしめがたく生ひ出づるもあまたあるべし。宮- 仕に出で立ちて、思ひがけぬ幸ひ取り出づる例ども多かりか

し」
など言へば、 「すべてにぎははしきによるべきなむな り」とて、笑ひたまふを、 「他人の言はむやうに心得ず仰 せらる」と、中将憎む。 左馬頭の弁--中流の女のおもしろさ 「もとの品、時世のおぼえうち合ひ、や むごとなきあたりの、内々のもてなしけは ひ後れたらむはさらにも言はず、何をして かく生ひ出でけむと、言ふかひなくおぼゆべし。うち合ひて すぐれたらむもことわり、これこそはさるべきこととおぼえ て、めづらかなることと心も驚くまじ。なにがしが及ぶべき ほどならねば、上が上はうちおきはべりぬ。さて世にありと 人に知られず、さびしくあばれたらむ葎の門に、思ひの外に らうたげならん人の閉ぢられたらんこそ限りなくめづらしく はおぼえめ、いかで、はたかかりけむと、思ふより違へるこ となん、あやしく心とまるわざなる。父の年老いものむつか しげにふとりすぎ、兄の顔にくげに、思ひやりことなることな

き閨の内に、いといたく思ひあがり、はかなくし出でたるこ とわざもゆゑなからず見えたらむ、片かどにても、いかが思 ひの外にをかしからざらむ。すぐれて瑕なき方の選びにこそ 及ばざらめ、さる方にて捨てがたきものをば」
とて、式部を 見やれば、わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたま ふにやとや心得らむ、ものも言はず。 「いでや、上の品と思 ふにだにかたげなる世を」と、君は思すべし。白き御衣ども のなよよかなるに、直衣ばかりをしどけなく着なしたまひて、 紐などもうち捨てて、添ひ臥したまへる、御灯影いとめでた く、女にて見たてまつらまほし。この御ためには上が上を選 り出でても、なほあくまじく見えたまふ。 左馬頭の弁--理想の妻は少ないこと さまざまの人の上どもを語りあはせつつ、 「おほかたの世につけてみるには咎なき も、わがものとうち頼むべきを選らんに、 多かる中にもえなん思ひ定むまじかりける。男の朝廷に仕う

まつり、はかばかしき世のかためとなるべきも、まことの器 ものとなるべきを取り出ださむにはかたかるべしかし。され ど、かしこしとても、一人二人世の中をまつりごちしるべき ならねば、上は下に助けられ、下は上になびきて、事ひろき にゆづらふらん。狭き家の内のあるじとすべき人ひとりを思 ひめぐらすに、足らはであしかるべき大事どもなむかたがた 多かる。とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさて もありぬべき人の少なきを、すきずきしき心のすさびにて、 人のありさまをあまた見合はせむの好みならねど、ひとへに 思ひ定むべきよるべとすばかりに、同じくはわが力いりをし、 直しひきつくろふべきところなく、心にかなふやうにもやと 選りそめつる人の定まりがたきなるべし。かならずしもわが 思ふにかなはねど、見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひ とまる人はものまめやかなりと見え、さてたもたるる女のた めも、心にくく推しはからるるなり。

 されど、なにか、世のありさまを見たまへ集むるままに、 心におよばず、いとゆかしきこともなしや。君達の上なき御- 選びには、まして、いかばかりの人かはたぐひたまはん。容- 貌きたなげなく、若やかなるほどの、おのがじしは、塵もつ かじと身をもてなし、文を書けど、おほどかに言選りをし、 墨つきほのかに、こころもとなく思はせつつ、またさやかに も見てしがなと、すべなく待たせ、わづかなる声聞くばかり 言ひ寄れど、息の下にひき入れ、言ずくななるが、いとよく もて隠すなりけり。なよびかに女しと見れば、あまり情にひ きこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめの難と すべし。  事が中に、なのめなるまじき人の後見の方は、もののあは れ知りすぐし、はかなきついでの情あり、をかしきにすすめ る方なくてもよかるべしと見えたるに、またまめまめしき筋 を立てて、耳はさみがちに、美相なき家刀自の、ひとへにう

ちとけたる後見ばかりをして、朝夕の出で入りにつけても、 おほやけわたくしの人のたたずまひ、よきあしきことの、目 にも耳にもとまるありさまを、うとき人にわざとうちまねば んやは、近くて見ん人の聞きわき思ひ知るべからむに、語り もあはせばやと、うちも笑まれ、涙もさしぐみ、もしは、あ やなきおほやけ腹立たしく、心ひとつに思ひあまることなど 多かるを、何にかは、聞かせむと思へば、うち背かれて、人- 知れぬ思ひ出で笑ひもせられ、あはれとも、うちひとりごた るるに、何ごとぞなど、あはつかにさし仰ぎゐたらむは、い かがは口惜しからぬ。  ただひたぶるに児めきて柔かならむ人を、とかくひきつく ろひては、などか見ざらん。こころもとなくとも、直しどこ ろある心地すべし。げに、さし向ひて見むほどは、さても、 らうたき方に罪ゆるし見るべきを、立ち離れて、さるべきこ とをも言ひやり、をりふしにし出でむわざの、あだ事にもま

め事にも、わが心と思ひ得ることなく、深きいたりなからむ は、いと口惜しく、頼もしげなき咎やなほ苦しからむ。常は すこしそばそばしく、心づきなき人の、をりふしにつけて出 でばえするやうもありかし」
など、隈なきもの言ひも、定め かねて、いたくうち嘆く。 左馬頭、夫婦間の寛容と知性を説く 「今はただ品にもよらじ、容貌をばさら にも言はじ、いと口惜しくねぢけがましき おぼえだになくは、ただひとへにものまめ やかに、静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひの頼み どころには思ひおくべかりける。あまりのゆゑよし心ばせう ち添へたらむをばよろこびに思ひ、すこし後れたる方あらむ をもあながちに求め加へじ。うしろやすくのどけきところだ に強くは、うはべの情はおのづからもてつけつべきわざをや。 艶にもの恥して、恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍び て、上はつれなくみさをづくり、心ひとつに思ひあまる時は、

言はん方なくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき、しの ばるべき形見をとどめて、深き山里、世離れたる海づらなど に這ひ隠れぬるをりかし。童にはべりし時、女房などの物語 読みしを聞きて、いとあはれに、悲しく、心深きことかなと、 涙をさへなん落しはべりし。今思ふには、いとかるがるしく ことさらびたることなり。心ざし深からん男をおきて、見る 目の前につらきことありとも、人の心を見知らぬやうに逃げ 隠れて、人をまどはし心を見んとするほどに、永き世のもの 思ひになる、いとあぢきなきことなり。
『心深しや』など ほめたてられて、あはれ進みぬれば、やがて尼になりぬかし。 思ひ立つほどはいと心澄めるやうにて、世にかへりみすべく も思へらず、 『いで、あな悲し、かくはた思しなりにける よ』などやうに、あひ知れる人、来とぶらひ、ひたすらにう しとも思ひ離れぬ男、聞きつけて涙落せば、使ふ人古御達な ど、 『君の御心はあはれなりけるものを、あたら御身を』

ど言ふ。みづから額髪をかきさぐりて、あへなく心細ければ、 うちひそみぬかし。忍ぶれど涙こぼれそめぬれば、をりをり ごとにえ念じえず、くやしきこと多かめるに、仏もなかなか 心ぎたなしと見たまひつべし。濁りにしめるほどよりも、な ま浮びにては、かへりて悪しき道にも漂ひぬべくぞおぼゆる。 絶えぬ宿世浅からで、尼にもなさで尋ね取りたらんも、やが てその思ひ出うらめしきふしあらざらんや。あしくもよくも、 あひ添ひて、とあらむをりもかからんきざみをも見過ぐした らん仲こそ、契り深くあはれならめ、我も人もうしろめたく 心おかれじやは。  また、なのめにうつろふ 方あらむ人を恨みて、気色 ばみ背かん、はたをこがま しかりなん、心はうつろふ 方ありとも、見そめし心ざ

しいとほしく思はば、さる方のよすがに思ひてもありぬべき に、さやうならむたぢろきに、絶えぬべきわざなり。  すべて、よろづのこと、なだらかに、怨ずべきことをば、 見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをも、憎から ずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし。多 くはわが心も見る人からをさまりもすべし。あまりむげにう ちゆるべ、見放ちたるも、心やすくらうたきやうなれど、お のづからかろきかたにぞおぼえはべるかし。繋がぬ舟の浮き たる例も、げにあやなし。さははべらぬか」と言へば、中将 うなづく。 「さし当りて、をかしともあはれとも心に入ら む人の、頼もしげなき疑ひあらむこそ大事なるべけれ、わが 心あやまちなくて、見過ぐさば、さし直してもなどか見ざら む、とおぼえたれど、それさしもあらじ。ともかくも、違ふ べきふしあらむを、のどやかに見しのばむよりほかに、ます ことあるまじかりけり」と言ひて、わが妹の姫君は、この定

めにかなひたまへりと思へば、君のうちねぶりて、言葉まぜ たまはぬを、さうざうしく心やましと思ふ。 左馬頭の弁--芸能のたとえごと 馬頭、物定めの博士になりて、ひひらきゐ たり。中将はこのことわり聞きはてむと、 心入れてあへしらひゐたまへり。 「よろづの事によそへて思せ。木の道の匠の、よろづの 物を心にまかせて作り出だすも、臨時のもてあそび物の、そ の物と跡も定まらぬは、そばつきざればみたるも、げにかう もしつべかりけりと、時につけつつさまを変へて、今めかし きに目移りて、をかしきもあり。大事として、まことにうる はしき人の調度の飾とする、定まれるやうある物を、難なく し出づることなん、なほまことの物の上手はさまことに見え 分かれはべる。また絵所に上手多かれど、墨書きに選ばれて、 つぎつぎにさらに劣りまさるけぢめふとしも見え分かれず。 かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚のすがた、

唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などのおどろおど ろしく作りたる物は、心にまかせてひときは目驚かして、実 には似ざらめど、さてありぬべし。世の常の山のたたずまひ、 水の流れ、目に近き人の家ゐありさま、げにと見え、なつか しく柔いだる形などを静かに描きまぜて、すくよかならぬ山 のけしき、木深く世離れて畳みなし、け近き籬の内をば、そ の心しらひおきてなどをなん、上手はいと勢ことに、わろ 者は及ばぬところ多かめる。  手を書きたるにも、深きことはなくて、ここかしこの、点 長に走り書き、そこはかとなく気色ばめるは、うち見るにか どかどしく気色だちたれど、なほまことの筋をこまやかに書 き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、いまひとたびとり 並べて見れば、なほ実になんよりける。はかなき事だにかく こそはべれ。まして人の心の、時にあたりて気色ばめらむ見 る目の情をば、え頼むまじく思うたまへてはべる。そのはじ

めの事、すきずきしくとも申しはべらむ」
とて、近くゐ寄れ ば、君も目覚ましたまふ。中将いみじく信じて、頬杖をつき て、向ひゐたまへり。法の師の、世のことわり説き聞かせむ 所の心地するも、かつはをかしけれど、かかるついでは、お のおの睦言もえ忍びとどめずなんありける。 左馬頭の体験談--指喰いの女 「はやう、まだいと下臈にはべりし時、 あはれと思ふ人はべりき。聞こえさせつる やうに容貌などいとまほにもはべらざりし かば、若きほどのすき心には、この人をとまりにとも思ひと どめはべらず、よるべとは思ひながら、さうざうしくて、と かく紛れはべりしを、もの怨じをいたくしはべりしかば、心 づきなく、いとかからで、おいらかならましかばと思ひつつ、 あまりいとゆるしなく疑ひはべりしもうるさくて、かく数な らぬ身を見もはなたで、などかくしも思ふらむと、心苦しき をりをりもはべりて、自然に心をさめらるるやうになんはべ

りし。  この女のあるやう、もとより思ひいたらざりけることにも、 いかでこの人のためにはと、なき手を出だし、後れたる筋の 心をも、なほ口惜しくは見えじと思ひ励みつつ、とにかくに つけて、ものまめやかに後見、つゆにても心に違ふことはな くもがなと思へりしほどに、すすめる方と思ひしかど、とか くになびきてなよびゆき、醜き容貌をも、この人に見や疎ま れんと、わりなく思ひつくろひ、疎き人に見えば面伏せにや 思はんと、憚り恥ぢて、みさをにもてつけて、見馴るるまま に、心もけしうはあらずはべりしかど、ただこの憎き方ひと つなん心をさめずはべりし。  そのかみ思ひはべりしやう、かうあながちに従ひ怖ぢたる 人なめり。いかで、懲るばかりのわざして、おどして、この 方もすこしよろしくもなり、さがなさもやめむ、と思ひて、 まことにうしなども思ひて絶えぬべき気色ならば、かばかり

我に従ふ心ならば、思ひ懲りなむと思ひたまへえて、ことさ らに情なくつれなきさまを見せて、例の、腹立ち怨ずるに、
『かくおぞましくは、いみじき契り深くとも、絶えてまた 見じ。限りと思はば、かくわりなきもの疑ひはせよ。行く先 長く見えむと思はば、つらきことありとも念じて、なのめに 思ひなりて、かかる心だに失せなば、いとあはれとなん思ふ べき。人なみなみにもなり、すこし大人びんに添へても、ま た並ぶ人なくあるべき』やうなど、かしこく教へたつるかな と思ひたまへて、われたけく言ひそしはべるに、すこしうち 笑ひて、 『よろづに見だてなく、ものげなきほどを見過ぐし て、人数なる世もやと待つ方は、いとのどかに思ひなされて、 心やましくもあらず。つらき心を忍びて、思ひ直らんをりを 見つけんと、年月を重ねんあいな頼みは、いと苦しくなんあ るべければ、かたみに背きぬべききざみになむある』と、ね たげに言ふに、腹立たしくなりて、憎げなることどもを言ひ

励ましはべるに、女もえをさめぬ筋にて、指ひとつを引き寄 せて、食ひてはべりしを、おどろおどろしくかこちて、 『かかる傷さへつきぬれば、いよいよ交らひをずべきにもあら ず。辱しめたまふめる官位、いとどしく何につけてかは人め かん。世を背きぬべき身なめり』など、言ひおどして、 『さ らば今日こそは限りなめれ』と、この指をかがめてまかでぬ。    『手を折りてあひみしことを数ふればこれひとつやは   君がうきふし え恨みじ』など言ひはべれば、さすがにうち泣きて、   うきふしを心ひとつに数へきてこや君が手を別るべき   をり など言ひしろひはべりしかど、まことには変るべきこととも 思ひたまへずながら、日ごろ経るまで消息も遣はさず、あく がれまかり歩くに、臨時の祭の調楽に夜更けて、いみじう霙 降る夜、これかれまかりあかるる所にて、思ひめぐらせば、

なほ家路と思はむ方はまたなかりけり。内裏わたりの旅寝す さまじかるべく、気色ばめるあたりはそぞろ寒くやと思うた まへられしかば、いかが思へると気色も見がてら、雪をうち 払ひつつ、なま人わるく爪食はるれど、さりとも今宵日ごろ の恨みは解けなむと思ひたまへしに、灯ほのかに壁に背け、 萎えたる衣どもの厚肥えたる、大いなる寵にうちかけて、引 きあぐべきものの帷子などうちあげて、今宵ばかりやと待ち けるさまなり。さればよと心おごりするに、正身はなし。さ るべき女房どもばかりとまりて、『親の家にこの夜さりなん 渡りぬる』と答へはべり。艶なる歌も詠まず、気色ばめる消 息もせで、いとひたや寵りに情なかりしかば、あへなき心地 して、さがなくゆるしなかりしも我を疎みねと思ふ方の心や ありけむと、さしも見たまへざりしことなれど、心やましき ままに思ひはべりしに、着るべき物、常よりも心とどめたる 色あひしざまいとあらまほしくて、さすがにわが見棄ててん

後をさへなん、思ひやり後見たりし。  さりとも絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて、と かく言ひはべりしを、背きもせず、尋ねまどはさむとも隠れ 忍びず、かかやかしからず答へつつ、ただ、『ありしながら はえなん見過ぐすまじき。あらためてのどかに思ひならばな んあひ見るべき』など言ひしを、さりともえ思ひ離れじと思 ひたまへしかば、しばし懲らさむの心にて、『しかあらため む』とも言はず、いたくつなびきて見せしあひだに、いとい たく思ひ嘆きてはかなくなりはべりにしかば、戯れにくくな むおほえはべりし。ひとへにうち頼みたらむ方は、さばかり にてありぬべくなん思ひたまへ出でらるる。はかなきあだ事 をもまことの大事をも、言ひあはせたるにかひなからず、龍- 田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじく、 その方も具して、うるさくなんはべりし」とて、いとあはれ と思ひ出でたり。中将、 「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、

長き契りにぞあえまし。げにその龍田姫の錦にはまたしくも のあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつき なくはかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。 さあるによりかたき世とは定めかねたるぞや」
と、言ひはや したまふ。 左馬頭の体験談--浮気な女 「さて、また同じころ、まかり通ひし所は、 人も立ちまさり、心ばせまことにゆゑあり と見えぬべく、うち詠み走り書き、かい弾 く爪音、手つき口つき、みなたどたどしからず見聞きわたり はべりき。見るめも事もなくはべりしかば、このさがな者を うちとけたる方にて、時々隠ろへ見はべりしほどは、こよな く心とまりはべりき。この人亡せて後、いかがはせむ、あは れながらも過ぎぬるはかひなくて、しばしばまかり馴るるに は、すこしまばゆく、艶に好ましきことは、目につかぬところ あるに、うち頼むべくは見えず、かれがれにのみ見せはべる

ほどに、忍びて心かはせる人ぞありけらし。  神無月のころほひ、月おもしろかりし夜、 内裏よりまかではべるに、ある上人来あひ て、この車にあひ乗りてはべれば、大納言 の家にまかりとまらむとするに、この人言 ふやう、
『今宵人待つらむ宿なん、あ やしく心苦しき』とて、この女の家はた避 きぬ道なりければ、荒れたる崩れより、池の水かげ見えて、 月だに宿る住み処を過ぎむもさすがにて、おりはべりぬかし。 もとよりさる心をかはせるにやありけん、この男いたくすず ろきて、門近き廊の簀子だつものに尻かけて、とばかり月を見 る。菊いとおもしろくうつろひわたり、風に競へる紅葉の乱 れなど、あはれと、げに見えたり。懐なりける笛取り出でて吹 き鳴らし、影もよしなど、つづしりうたふほどに、よく鳴る 和琴を調べととのへたりける、うるはしく掻きあはせたりし

ほど、けしうはあらずかし。律の調べは、女のもの柔かに掻 き鳴らして、簾の内より聞こえたるも、今めきたる物の声な れば、清く澄める月に、をりつきなからず。男いたくめでて、 簾のもとに歩み来て、 『庭の紅葉こそ踏み分けたる跡も なけれ』など、ねたます。菊を折りて、   『琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひき   やとめける わろかめり』など言ひて、 『いま一声。聞きはやすべき 人のある時、手な残いたまひそ』など、いたくあざれかかれ ば、女、声いたうつくろひて、    木枯に吹きあはすめる笛の音をひきとどむべきことの   葉ぞなき と、なまめきかはすに、憎くなるをも知らで、また箏の琴を 盤渉調に調べて、今めかしく掻い弾きたる爪音、かどなき にはあらねど、まばゆき心地なんしはべりし。ただ時々うち

語らふ宮仕人などの、あくまでざればみすきたるは、さても 見る限りはをかしくもありぬべし、時々にても、さる所にて 忘れぬよすがと思うたまへんには、頼もしげなく、さし過ぐ いたりと心おかれて、その夜のことにことつけてこそ、まか り絶えにしか。  この二つのことを思うたまへあはするに、若き時の心にだ に、なほさやうにもて出でたることは、いとあやしく頼もし げなくおぼえはべりき。今より後は、ましてさのみなん思う たまへらるべき。御心のままに折らば落ちぬべき萩の露、拾 はば消えなんと見ゆる玉笹の上の霰などの、艶にあえかなる すきずきしさのみこそをかしく思さるらめ、いまさりとも七 年あまりがほどに思う知りはべなん。なにがしがいやしき諌 めにて、すきたわめらむ女に心おかせたまへ。あやまちして 見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」と、戒む。  中将、例のうなづく。君すこしかた笑みて、さることとは

思すべかめり。 「いづかたにつけても、人わるくはしたな かりけるみ物語かな」とて、うち笑ひおはさうず。 頭中将の体験談--内気な女 中将、 「なにがしは、しれ者の物語をせむ」 とて、 「いと忍びて見そめたりし人の、 さても見つべかりしけはひなりしかば、な がらふべきものとしも思うたまへざりしかど、馴れゆくまま に、あはれとおぼえしかば、絶え絶え、忘れぬものに思ひた まへしを、さばかりになれば、うち頼める気色も見えき。頼 むにつけては、うらめしと思ふこともあらむと、心ながらお ぼゆるをりをりもはべりしを、見知らぬやうにて、久しきと だえをもかうたまさかなる人とも思ひたらず、ただ朝夕にも てつけたらむありさまに見えて、心苦しかりしかば、頼めわ たることなどもありきかし。  親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと、事に ふれて思へるさまも、らうたげなりき。かうのどけきにおだ

しくて、久しくまからざりしころ、この見たまふるわたりよ り、情なくうたてあることをなん、さる便りありて、かすめ 言はせたりける、後にこそ聞きはべりしか。  さるうき事やあらむとも知らず、心に忘れずながら、消息 などもせで久しくはべりしに、むげに思ひしをれて、心細か りければ、幼き者などもありしに、思ひわづらひて撫子の花 を折りておこせたりし」
とて、涙ぐみたり。 「さて、その文の言葉は」と、問ひたまへば、 「いさ や、ことなることもなかりきや、   山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよ撫子  の露 思ひ出でしままにまかりたりしかば、例の、うらもなきもの から、いともの思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきをながめ て、虫の音に競へる気色、昔物語めきておぼえはべりし。   咲きまじる色はいづれと分かねどもなほとこなつに

  しくものぞなき
大和撫子をばさしおきて、まづ塵をだになど、親の心をとる。   うち払ふ袖も露けきとこなつに嵐吹きそふ秋も来にけ り と、はかなげに言ひなして、まめまめしく恨みたるさまも見 えず、涙を漏らし落しても、いと恥づかしくつつましげに紛 らはし隠して、つらきをも思ひ知りけりと見えむはわりなく 苦しきものと思ひたりしかば、心やすくて、またとだえおき はべりしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。  まだ世にあらば、はかなき世にぞさすらふらん。あはれと 思ひしほどに、わづらはしげに思ひまつはす気色見えましか ば、かくもあくがらさざらまし。こよなきとだえおかず、さ るものにしなして、長く見るやうもはべりなまし。かの撫子 のらうたくはべりしかば、いかで尋ねむと思ひたまふるを、 今もえこそ聞きつけはべらね。これこそのたまへるはかなき

例なめれ。つれなくて、つらしと思ひけるも知らで、あはれ 絶えざりしも、益なき片思ひなりけり。今やうやう忘れゆく 際に、かれはた、えしも思ひ離れず、をりをり人やりならぬ 胸こがるる夕もあらむと、おぼえはべり。これなん、えたも つまじく頼もしげなき方なりける。  されば、かのさがな者も、思ひ出である方に忘れがたけれ ど、さしあたりて見んにはわづらはしく、よくせずはあきた きこともありなんや。琴の音すすめけんかどかどしさも、す きたる罪重かるべし。このこころもとなきも、疑ひ添ふべけ れば、いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ。世の中や、 ただかくこそとりどりに、比べ苦しかるべき。このさまざま のよきかぎりをとり具し、難ずべきくさはひまぜぬ人は、い づこにかはあらむ。吉祥天女を思ひかけむとすれば、法気づ き、霊しからむこそ、またわびしかりぬべけれ」とて、みな 笑ひぬ。 式部丞の体験談--博士の娘

「式部がところにぞ、気色あることはあ らむ。すこしづつ語り申せ」と、責めらる。 「下が下の中には、なでふことか聞こし めしどころはべらむ」と言へど、頭の君、まめやかに、 「お そし」と責めたまへば、何ごとをとり申さんと、思ひめぐら すに、 「まだ文章生にはべりし時、かしこき女の例をな ん見たまへし。かの馬頭の申したまへるやうに、おほやけご とをも言ひあはせ、わたくしざまの世に住まふべき心おきて を思ひめぐらさむかたもいたり深く、才の際、なまなまの博- 士恥づかしく、すべて口あかすべくなんはべらざりし。  それは、ある博士のもとに、学問などしはべるとて、まか り通ひしほどに、あるじのむすめども多かりと聞きたまへて、 はかなきついでに言ひよりてはべりしを、親聞きつけて、盃 もて出でて、わが両つの途歌ふを聴けとなん、聞こえごちは べりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を

憚りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに 思ひ後見、寝覚めの語らひにも、身の才つき、おほやけに仕 うまつるべき道々しきことを教へて、いときよげに、消息文 にも仮名といふもの書きまぜず、むべむべしく言ひまはしは べるに、おのづからえまかり絶えで、その者を師としてなん、 わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば、今にその 恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無- 才の人、なまわろならむふるまひなど見えむに、恥づかしく なん見えはべりし。まいて、君達の御ため、はかばかしくし たたかなる御後見は、何にかせさせたまはん。はかなし、口- 惜しと、かつ見つつも、ただわが心につき、宿世の引く方は べるめれば、男しもなん、仔細なきものははべるめる」
と、 申せば、残りを言はせむとて、 「さてさてをかしかりける女 かな」と、すかいたまふを、心は得ながら、鼻のわたりをこ つきて、語りなす。

「さて、いと久しくまからざりしに、ものの便りに立ち 寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心や ましき物越しにてなん会ひてはべる。ふすぶるにやと、をこ がましくも、またよきふしなりとも思ひたまふるに、このさ かし人、はた、かるがるしきもの怨じすべきにもあらず、世 の道理を思ひ取りて、恨みざりけり。声もはやりかにて言ふ やう、『月ごろ風病重きにたへかねて、極熱の草薬を服して、 いと臭きによりなん、え対面賜はらぬ。目のあたりならずと も、さるべからん雑事らはうけたまはらむ』と、いとあはれ に、むべむべしく言ひはべり。答へに何とかは。ただ、『う けたまはりぬ』とて、立ち出ではべるに、さうざうしくやお ぼえけん、『この香失せなん時に立ち寄りたまへ』と、高やか に言ふを、聞きすぐさむもいとほし、しばし休らふべきには たはべらねば、げにそのにほひさへはなやかに立ち添へるも、 すべなくて、逃げ目を使ひて、

  
『ささがにのふるまひしるき夕暮にひるますぐせと言  ふがあやなさ いかなることつけぞや』と、言ひもはてず、走り出ではべり ぬるに、追ひて、   あふことの夜をし隔てぬ仲ならばひるまも何かまばゆ  からまし さすがに口疾くなどははべりき」と、しづしづと申せば、君- 達、あさましと思ひて、 「そらごと」とて、笑ひたまふ。 「い づこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向ひゐたらめ。 むくつけきこと」と、つまはじきをして、言はむ方なしと、 式部をあはめ憎みて、 「すこしよろしからむことを申せ」と、 責めたまへど、 「これよりめづらしき事はさぶらひなん や」とて、をり。 左馬頭、女性論のまとめをする

「すべて男も女も、わろ者は、わづかに 知れる方のことを、残りなく見せ尽くさむ と、思へるこそ、いとほしけれ。三史五経- 道々しき方を明らかに悟り明かさんこそ、愛敬なからめ、な どかは女といはんからに、世にあることのおほやけわたくし につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひま ねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまるこ と、自然に多かるべし。さるままには、真名を走り書きて、 さるまじきどちの女文に、なかば過ぎて書きすくめたる、あ なうたて、この人のたをやかならましかば、と見えたり。心- 地にはさしも思はざらめど、おのづからこはごはしき声に読 みなされなどしつつ、ことさらびたり。上臈の中にも多かる ことぞかし。  歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれ、をかしき故事 をもはじめより取りこみつつ、すさまじきをりをり、詠みか

けたるこそ、ものしきことなれ。返しせねば情なし、えせざ らむ人ははしたなからん。さるべき節会など、五月の節に急 ぎ参る朝、何のあやめも思ひしづめられぬに、えならぬ根を 引きかけ、九日の宴にまづ難き詩の心を思ひめぐらし暇なき をりに、菊の露をかこち寄せなどやうの、つきなき営みにあ はせ、さならでも、おのづから、げに、後に思へば、をかし くもあはれにもあべかりけることの、そのをりにつきなく目 にとまらぬなどを、推しはからず詠み出でたる、なかなか心 おくれて見ゆ。  よろづの事に、などかは、さても、とおぼゆるをりから、 時々思ひ分かぬばかりの心にては、よしばみ情だたざらむな ん、めやすかるべき。すべて、心に知れらむことをも知らず 顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのふし は過ぐすべくなんあべかりける」
と言ふにも、君は人ひとり の御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ。これに、足ら

ずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかなと、あり 難きにもいとど胸ふたがる。  いづかたに寄りはつともなく、はてはてはあやしき事ども になりて、明かしたまひつ。 品定めの翌日、源氏、左大臣邸へ退出 からうじて、今日は日のけしきも直れり。 かくのみ篭りさぶらひたまふも、大殿の御- 心いとほしければ、まかでたまへり。おほ かたの気色、人のけはひも、けざやかに気高く、乱れたるとこ ろまじらず、なほこれこそは、かの人々の捨てがたくとり出 でしまめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、あまりう るはしき御ありさまのとけがたく、恥づかしげに思ひしづま りたまへるを、さうざうしくて、中納言の君中務などやう のおしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑 さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえ たり。大臣も渡りたまひて、かくうちとけたまへれば、御几-

帳隔てておはしまして、 御物語聞こえたまふを、 「暑き に」と、にがみたまへば、人々笑ふ。 「あなかま」とて、 脇息に寄りおはす。いと安らかなる御ふるまひなりや。 源氏、紀伊守邸へ方違えにおもむく 暗くなるほどに、 「今宵、中神、内裏よ りは塞がりてはべりけり」と聞こゆ。 「さかし。例は忌みたまふ方なりけり。二条- 院にも同じ筋にて、いづくにか違へん。いと悩ましきに」と て、大殿篭れり。 「いとあしき事なり」と、これかれ聞こゆ。   「紀伊守にて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる 家なん、このごろ水塞き入れて、涼しき蔭にはべる」と聞こ ゆ。 「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべ からむ所を」と、のたまふ。忍び忍びの御方違へ所はあまた ありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて ひき違へ外ざまへと思さんはいとほしきなるべし。  紀伊守に仰せ言賜へば、うけたまはりながら、退きて 「伊-

予守朝臣の家につつしむことはべりて、女房なんまかり移れ るころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらん」
と下に嘆くを聞きたまひて、 「その人近からむなんうれし かるべき。女遠き旅寝はもの恐ろしき心地すべきを。ただそ の几帳の背後に」とのたまへば、 「げに、よろしき御座所に も」とて、人走らせやる。いと忍びて、ことさらにことごと しからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまは ず、御供にも睦ましき限りしておはしましぬ。 「にはかに」と、わぶれど、人も聞き入れず。寝殿の東- 面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ば へなど、さる方にを かしくしなしたり。 田舎家だつ柴垣して、 前栽など心とめて植 ゑたり。風涼しくて、

そこはかとなき虫の声々聞こえ、螢しげく飛びまがひて、を かしきほどなり。人々渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒 のむ。あるじも肴求むと、こゆるぎのいそぎ歩くほど、君は のどやかにながめたまひて、かの中の品にとり出でて言ひし、 このなみならむかしと思し出づ。  思ひあがれる気色に、聞きおきたまへるむすめなれば、ゆ かしくて、耳とどめたまへるに、この西面にぞ、人のけはひ する。衣の音なひはらはらとして、若き声ども憎からず。さ すがに忍びて笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。格子を 上げたりけれど、守、 「心なし」とむつかりて、下ろしつれば、 灯ともしたる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りた まひて、見ゆやと思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふ に、この近き母屋に集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふ ことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし。 「いといた うまめだちて、まだきにやむごとなきよすが定まりたまへる

こそ、さうざうしかむめれ」
「されど、さるべき隈にはよく こそ隠れ歩きたまふなれ」など言ふにも、思すことのみ心に かかりたまへば、まづ胸つぶれて、かやうのついでにも、人 の言ひ漏らさむを聞きつけたらむ時など、おぼえたまふ。  ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿宮の姫- 君に、朝顔奉りたまひし歌などを、すこし頬ゆがめて語るも 聞こゆ。くつろぎがましく歌誦じがちにもあるかな、なほ見- 劣りはしなんかしと、思す。  守出で来て、燈篭かけ添へ、灯あかくかかげなどして、御 くだものばかりまゐれり。 「とばり帳もいかにぞは。さる 方の心もなくては、めざましきあるじならむ」と、のたまへ ば、 「何よけむともえうけたまはらず」と、かしこまりてさ ぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿篭れば、人々 も静まりぬ。 あるじの子どもをかしげにてあり。童なる、殿上のほどに

御覧じなれたるもあり、伊予介の子もあり。あまたある中に、 いとけはひあてはかにて、十二三ばかりなるもあり。 「い づれかいづれ」など問ひたまふに、 「これは故衛門督の末の 子にて、いと愛しくしはべりけるを、幼きほどに後れはべり て、姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。才などもつき はべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思うたまへ かけながら、すがすがしうはえ交らひはべらざめる」と、申 す。 「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親」 「さなんはべる」と申すに、 「似げなき親をもまうけたり けるかな。上にも聞こしめしおきて、 『宮仕に出だし立て むと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやものた まはせし。世こそ定めなきものなれ」と、いとおよすけのた まふ。 「不意にかくて、ものしはべるなり。世の中といふも の、さのみこそ、今も昔も定まりたることはべらね。中につ いても、女の宿世はいと浮びたるなんあはれにはべる」なん

ど聞こえさす。 「伊予介かしづくや。君と思ふらむな」   「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを、すきずき しき事と、なにがしよりはじめて、承け引きはべらずなむ」 と申す。 「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきた らむに、おろしたてんやは。かの介はいとよしありて、気色 ばめるをや」など、物語したまひて、 「いづ方にぞ」 「みな下屋におろしはべりぬるを、えやまかり下りあへざら む」と、聞こゆ。  酔ひすすみて、みな人々簀子に臥しつつ、静まりぬ。 翌日、方違えの夜、源氏、空蝉と契る 君は、とけても寝られたまはず。いたづら 臥しと思さるるに御目さめて、この北の障- 子のあなたに人のけはひするを、こなたや かく言ふ人の隠れたる方ならむ、あはれやと、御心とどめて、 やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、 「も のけたまはる。いづくにおはしますぞ」と、かれたる声のを

かしきにて言へば、 「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬ るか。 いかに近からむと思ひつるを、されどけ遠かりけり」 と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、 妹と聞きたまひつ。 「廂にぞ大殿篭りぬる。音に聞きつる 御ありさまを見たてまつりつる。げにこそめでたかりけれ」 と、みそかに言ふ。 「昼ならましかば、のぞきて見たてま つりてまし」と、ねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。 ねたう、心とどめても問ひ聞けかしと、あぢきなく思す。 「まろは端に寝はべらん。 あな暗」とて、灯かかげなどす べし。女君はただこの障子口筋違ひたるほどにぞ臥したるべ き。 「中将の君は、いづくにぞ。人げ遠き心地してもの恐 ろし」と言ふなれば、長押の下に人々臥して答へすなり。 「下に湯におりて、ただ今参らむとはべり」と言ふ。  みな静まりたるけはひなれば、掛け金をこころみに引き開 けたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口に

は立てて、灯はほの暗きに見たまへば、唐櫃だつ物どもを置 きたれば、乱りがはしき中を分け入りたまひて、けはひしつ る所に入りたまへれば、ただ独りいとささやかにて臥したり。 なまわづらはしけれど、上なる衣おしやるまで、求めつる人 と思へり。 「中将召しつればなん。人知れぬ思ひのしるし ある心地して」とのたまふを、ともかくも思ひ分かれず、物 におそはるる心地して、やとおびゆれど、顔に衣のさはりて、 音にも立てず。 「うちつけに、深からぬ心のほどと見たま ふらん、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心の中も聞こえ 知らせむとてなん。かかるをりを待ち出でたるも、さらに浅 くはあらじと思ひなしたまへ」と、いとやはらかにのたまひ て、鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、 「ここ に人」とも、えののしらず。心地はたわびしく、あるまじき ことと思へば、あさましく、 「人違へにこそはべるめれ」 と言ふも、息の下なり。消えまどへる気色いと心苦しくらう

たげなれば、をかしと見たまひて、 「違ふべくもあらぬ心 のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな。すきがましき さまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべ きぞ」とて、いと小さやかなれば、かき抱きて障子のもとに 出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。 「や や」とのたまふにあやしくて、探り寄りたるにぞ、いみじく 匂ひ満ちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひよりぬ。 あさましう、こはいかなることぞと、思ひまどはるれど、聞 こえん方なし。なみなみの人ならばこそ、荒らかにも引きか なぐらめ、それだに人のあまた知らむはいかがあらん、心も 騒ぎて慕ひ来たれど、どうもなくて、奥なる御座に入りたま ひぬ。障子を引き立てて、 「暁に御迎へにものせよ」と、 のたまへば、女はこの人の思ふらむことさへ死ぬばかりわり なきに、流るるまで汗になりて、いとなやましげなる、いと ほしけれど、例のいづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、

あはれ知るばかり情々しくのたまひ尽くすべかめれど、なほ いとあさましきに、 「現ともおぼえずこそ。数ならぬ身な がらも、思し下しける御心ばへのほどもいかが浅くは思うた まへざらむ。いとかやうなる際は際とこそはべなれ」とて、 かくおし立ちたまへるを深く情なくうしと思ひ入りたるさま も、げにいとほしく心恥づかしきけはひなれば、 「その際- 際をまだ知らぬ初事ぞや。なかなかおしなべたるつらに思ひ なしたまへるなん、うたてありける。おのづから聞きたまふ やうもあらむ。あながちなるすき心はさらにならはぬを。さ るべきにや、げにかくあはめられたてまつるもことわりなる 心まどひを、みづからもあやしきまでなん」など、まめだち てよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよ いようちとけきこえんことわびしければ、すくよかに心づき なしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過 ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人がらのた

をやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地し てさすがに折るべくもあらず。  まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、言ふか たなしと思ひて、泣くさまなどいとあはれなり。心苦しくは あれど、見ざらましかば口惜しからましと思す。慰めがたく うしと思へれば、 「などかくうとましきものにしも思すべ き。おぼえなきさまなるしもこそ、契りあるとは思ひたまは め。むげに世を思ひ知らぬやうにおぼほれたまふなん、いと つらき」と、恨みられて、 「いとかくうき身のほどの定まら ぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、 あるまじきわが頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ 慰めましを、いとかう仮なるうき寝のほどを思ひはべるに、 たぐひなく思うたまへまどはるるなり。よし、今は見きとな かけそ」とて、思へるさまげにいとことわりなり。おろかな らず契り慰めたまふこと多かるべし。

 鳥も鳴きぬ。人々起き出でて、 「いといぎたなかりける 夜かな」 「御車引き出でよ」など言ふなり。守も出で来て、 女などの、 「御方違へこそ、夜深く急がせたまふべきかは」 など言ふもあり。君は、またかやうのついであらむこともい とかたく、さしはへてはいかでか、御文なども通はんことの、 いとわりなきを思すに、いと胸いたし。奥の中将も出でて、 いと苦しがれば、ゆるしたまひても、また引きとどめたまひ つつ、 「いかでか聞こゆべき。世に知らぬ御心のつらさも あはれも、浅からぬ世の思ひ出は、さまざまめづらかなるべ き例かな」とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。 鳥もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、    つれなきを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまで   おどろかすらむ 女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆき心地して、 めでたき御もてなしも何ともおぼえず、常はいとすくすくし

く心づきなしと思ひあなづる伊予の方のみ思ひやられて、夢 にや見ゆらむとそら恐ろしくつつまし。    身のうさを嘆くにあかで明くる夜はとりかさねてぞね   もなかれける ことと明くなれば、障子口まで送りたまふ。内も外も人騒が しければ、引き立てて別れたまふほど、心細く、隔つる関と 見えたり。御直衣など着たまひて、南の高欄にしばしうちな がめたまふ。西面の格子そそき上げて、人々のぞくべかめり。 簀子の中のほどに立てたる小障子の上よりほのかに見えたま へる御ありさまを、身にしむばかり思へるすき心どもあめり。  月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、 なかなかをかしきあけぼのなり。何心なき空のけしきも、た だ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御- 心には、いと胸いたく、言伝てやらんよすがだになきをと、 かへりみがちにて出でたまひぬ。

殿に帰りたまひても、とみにもまどろまれたまはず。また、 あひ見るべき方なきを、まして、かの人の思ふらん心の中い かならむと心苦しく思ひやりたまふ。すぐれたることはなけ れど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな、隈なく見 あつめたる人の言ひしことは、げにと思しあはせられけり。 源氏、小君を召して文使いとする このほどは大殿にのみおはします。なほ、 いと、かき絶えて、思ふらむことの、いと ほしく御心にかかりて、苦しく思しわびて、 紀伊守を召したり。 「かのありし中納言の子は得させてん や。らうたげに見えしを、身近く使ふ人にせむ。上にも我奉 らむ」とのたまへば、 「いとかしこき仰せ言にはべるなり。 姉なる人にのたまひみん」と申すも、胸つぶれて思せど、 「その姉君は朝臣の弟やもたる」 「さもはべらず。この二年 ばかりぞかくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ 嘆きて、心ゆかぬやうになん聞きたまふる」 「あはれのこ

とや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」
とのた まへば、  「けしうははべらざるべし。もて離れてうとうと しくはべれば、世のたとひにて睦びはべらず」と申す。  さて、五六日ありてこの子率て参れり。こまやかにをかし とはなけれど、なまめきたるさましてあて人と見えたり。召 し入れて、いとなつかしく語らひたまふ。童心地にいとめで たくうれしと思ふ。妹の君のこともくはしく問ひたまふ。さ るべきことは答へ聞こえなどして、恥づかしげにしづまりた れば、うち出でにくし。されどいとよく言ひ知らせたまふ。 かかることこそはとほの心得るも、思ひの外なれど、幼心地 に深くしもたどらず、御文をもて来たれば、女、あさましき に涙も出できぬ。この子の思ふらんこともはしたなくて、さ すがに御文を面隠しにひろげたり。いと多くて、   「見し夢をあふ夜ありやとなげく間に目さへあはでぞ  ころも経にける

寝る夜なければ」
など、目も及ばぬ御書きざまも、霧りふた がりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひつづけて、臥し たまへり。  またの日、小君召したれば、参るとて、御返り乞ふ。 「か かる御文見るべき人もなし、と聞こえよ」と、のたまへば、 うち笑みて、 「違ふべくものたまはざりしものを、いかが さは申さむ」と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ知 らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。 「いで、およす けたることは言はぬぞよき。さば、な参りたまひそ」とむつ かられて、 「召すにはいかでか」とて、参りぬ。  紀伊守、すき心に、この継母のありさまをあたらしきもの に思ひて、追従しありけば、この子をもてかしづきて、率て 歩く。  君、召し寄せて、 「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふ まじきなめり」と、怨じたまへば、顔うち赤めてゐたり。

「いづら」
とのたまふに、しかじかと申すに、 「言ふかひな のことや。あさまし」とて、またも賜へり。 「あこは知ら じな。その伊予の翁よりは先に見し人ぞ。されど、頼もしげ なく頸細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かくあなづり たまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この 頼もし人は行く先短かりなん」とのたまへば、さもやありけ ん、いみじかりけることかな、と思へる、をかしと思す。  この子をまつはしたまひて、内裏にも率て参りなどしたま ふ。わが御匣殿にのたまひて、装束などもせさせ、まことに 親めきてあつかひたまふ。 御文は常にあり。されど、この子もいと幼し、心よりほか に散りもせば、かろがろしき名さへ取り添へん身のおぼえを、 いとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそ と思ひて、うちとけたる御答へも聞こえず。ほのかなりし御 けはひありさまは、げになべてにやはと、思ひ出できこえぬ

にはあらねど、をかしきさまを見えたてまつりても、何にか はなるべき、など思ひ返すなりけり。  君は思しおこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくも思し 出づ。思へりし気色などのいとほしさも、情るけん方なく思 しわたる。かろがろしく這ひ紛れ立ち寄りたまはんも、人目 しげからむ所に、便なきふるまひやあらはれん、人のためも いとほしくと、思しわづらふ。 源氏、再び紀伊守の邸を訪れる 例の、内裏に日数経たまふころ、さるべき 方の忌待ち出でたまふ。にはかにまかでた まふまねして、道の程よりおはしましたり。 紀伊守驚きて、遣り水の面目と、かしこまり喜ぶ。小君には、昼 より、 「かくなん思ひよれる」とのたまひ契れり。明け暮 れまつはし馴らはしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。  女も、さる御消息ありけるに、思したばかりつらむほどは 浅くしも思ひなされねど、さりとて、うちとけ、人げなきあ

りさまを見えたてまつりても、あぢきなく、夢のやうにて過 ぎにし嘆きをまたや加へんと、思ひ乱れて、なほさて待ちつ けきこえさせんことのまばゆければ、小君が出でて去ぬるほ どに、 「いとけ近ければかたはらいたし。なやましければ、 忍びてうち叩かせなどせむに、ほど離れてを」とて、渡殿に、 中将といひしが局したる隠れに移ろひぬ。  さる心して、人とく静めて御消息あれど、小君は尋ねあは ず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、からうじて 辿り来たり。いとあさましくつらしと思ひて、 「いかにか ひなしと思さむ」と、泣きぬばかり言ヘば、 「かくけしから ぬ心ばヘはつかふものか。 幼き人のかかること言ひ伝ふる は、いみじく忌むなるものを」と言ひおどして、 「『心地なや ましければ、人々退けず押ヘさせてなむ』と、聞こえさせよ。 あやしと誰も誰も見るらむ」と言ひ放ちて、心の中には、い とかく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けは

ひとまれる古里ながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、 をかしうもやあらまし。しひて思ひ知らぬ顔に見消つも、い かにほど知らぬやうに思すらむと、心ながらも胸いたく、さ すがに思ひ乱る。とてもかくても、今は言ふかひなき宿世な りければ、無心に心づきなくてやみなむと、思ひはてたり。  君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく 待ち臥したまヘるに、不用なるよしを聞こゆれば、あさまし くめづらかなりける心のほどを、 「身もいと恥づかしくこ そなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかりもの ものたまはず、いたくうめきて、うしと思したり。   「帚木の心をしらでその原の道にあやなくまどひぬる   かな 聞こえん方こそなけれ」とのたまヘり。女も、さすがにまど ろまざりければ、    数ならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消

  ゆる帚木
と、聞こえたり。  小君、いといとほしさに、眠たくもあらでまどひ歩くを、 人あやしと見るらんとわびたまふ。  例の、人々はいぎたなきに、一所、すずろにすさまじく思 しつづけらるれど、人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ちのぼ れりけると、ねたく、かかるにつけてこそ心もとまれと、か つは思しながら、めざましくつらければ、さばれと思せども、 さも思しはつまじく、 「隠れたらむ所になほ率ていけ」と のたまヘど、 「いとむつかしげにさし篭められて、人あま たはべるめれば、かしこげに」と聞こゆ。いとほしと思ヘり。 「よし、あこだにな棄てそ」と、のたまひて、御かたはら に臥せたまヘり。若くなつかしき御ありさまを、うれしくめ でたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれに 思さるとぞ。 The Shell of the Locust 源氏、空蝉を断念せず、小君を責む

寝られたまはぬままには、 「我はかく人 に憎まれても習はぬを、今宵なむ初めてう しと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくてな がらふまじうこそ思ひなりぬれ」などのたまヘば、涙をさヘ こぼして臥したり。いとらうたしと思す。手さぐりの、細く 小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさま通ひたるも、 思ひなしにやあはれなり。あながちにかかづらひたどり寄ら むも人わろかるべく、まめやかにめざましと思し明かしつつ、 例のやうにものたまひまつはさず、夜深う出でたまヘば、こ の子は、いといとほしくさうざうしと思ふ。  女もなみなみならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶 えてなし。思し懲りにけると思ふにも、やがてつれなくてや

みたまひなましかば、うからまし。しひていとほしき御ふる まひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどに、かくて閉 ぢめてんと思ふものから、ただならずながめがちなり。  君は心づきなしと思しながら、かくてはえやむまじう御心 にかかり、人わろく思ほしわびて、小君に、「いとつらうもう れたうもおぼゆるに、しひて思ひかヘせど、心にしも従はず 苦しきを、さりぬべきをりみて対面すべくたばかれ」と、の たまひわたれば、わづらはしけれど、かかる方にても、のた まひまつはすは、うれしうおぼえけり。 源氏、空蝉と軒端荻の碁打つ姿をのぞく 幼き心地に、いかならんをりと待ちわたる に、紀伊守国に下りなどして、女どちのどや かなる夕闇の道たどたどしげなるまぎれに、 わが車にて率てたてまつる。この子も幼きをいかならむと思 せど、さのみもえ思しのどむまじかりければ、さりげなき姿 にて、門など鎖さぬさきにと、急ぎおはす。人見ぬ方より引

き入れて、下ろしたてまつる。童なれば、宿直人などもこと に見入れ追従せず心やすし。  東の妻戸に立てたてまつりて、我は南の隅の間より、格子 叩きののしりて入りぬ。御達、 「あらはなり」と言ふなり。 「なぞ、かう暑きにこの格子は下ろされたる」と問ヘば、 「昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言 ふ。さて向ひゐたらむを見ばやと思ひて、やをら歩み出でて、 簾のはさまに入りたまひぬ。この入りつる格子はまだ鎖さね ば、隙見ゆるに寄りて、西ざ まに見通したまヘば、この際 に立てたる屏風も端の方おし 畳まれたるに、紛るべき几帳 なども、暑ければにや、うち かけて、いとよく見入れらる。  灯近うともしたり。母屋の

中柱にそばめる人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、 濃き綾の単襲なめり、何にかあらむ上に着て、頭つき細や かに小さき人のものげなき姿ぞしたる、顔などは、さし向ひ たらむ人などにもわざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩 せ痩せにて、いたうひき隠しためり。いま一人は東向きに て、残る所なく見ゆ。白き羅の単襲、二藍の小袿だつもの ないがしろに着なして、紅の腰ひき結ヘる際まで胸あらはに、 ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげにつぶつぶと 肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、 まみ、口つきいと愛敬づき、はなやかなる容貌なり。髪はい とふさやかにて、長くはあらねど、下り端、肩のほどきよげ に、すべていとねぢけたる所なく、をかしげなる人と見えた り。むべこそ親の世になくは思ふらめと、をかしく見たまふ。 心地ぞなほ静かなる気を添ヘばやと、ふと見ゆる。かどなき にはあるまじ。碁打ちはてて結さすわたり、心とげに見えて

きはきはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、 「待ちたまヘや。そこは持にこそあらめ、このわたりの劫を こそ」など言ヘど、 「いで、この度は負けにけり。隅の 所、いでいで」と、指をかがめて、 「十、二十、三十、四十」 など数ふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。 少し品おくれたり。  たとしヘなく口覆ひてさやかにも見せねど、目をしつとつ けたまヘれば、おのづから側目に見ゆ。目少しはれたる心地 して、鼻などもあざやかなる所なうねびれて、にほはしき所 も見えず。言ひ立つればわろきによれる容貌を、いといたう もてつけて、このまされる人よりは心あらむと目とどめつべ きさましたり。  にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりか にうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さ る方にいとをかしき人ざまなり。あはつけしとは思しながら、

まめならぬ御心はこれもえ思し放つまじかりけり。  見たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろ ひそばめたる表面をのみこそ見たまヘ、かくうちとけたる人 のありさまかいま見などはまだしたまはざりつることなれば、 何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはま ほしきに、小君出でくる心地すれば、やをら出でたまひぬ。 源氏、空蝉の寝所に忍び、軒端荻と契る 渡殿の戸口に寄りゐたまヘり、いとかたじ けなしと思ひて、 「例ならぬ人はべりて え近うも寄りはべらず」 「さて今宵も やかヘしてんとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」 とのたまへば、 「などてか。あなたに帰りはべりなば、た ばかりはべりなん」と聞こゆ。さもなびかしつべき気色にこ そはあらめ。童なれど、物の心ばヘ、人の気色見つべくしづ まれるを、と思すなりけり。  碁打ちはてつるにやあらむ、うちそよめく心地して人々あ

かるるけはひなどすなり。 「若君はいづくにおはしますな らむ。この御格子は鎖してん」とて、鳴らすなり。 「しづ まりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」と、のたまふ。この 子も、妹の御心は撓むところなくまめだちたれば、言ひあは せむ方なくて、人少なならんをりに入れたてまつらんと思ふ なりけり。 「紀伊守の妹もこなたにあるか。我にかいま見 せさせよ」と、のたまヘど、 「いかでかさははべらん。格- 子には几帳添へてはべり」と聞こゆ。さかし、されどもと、 をかしく思せど、見つとは知らせじ、いとほし、と思して、 夜更くることの心もとなさをのたまふ。  こたみは妻戸を叩きて入る。みな人々しづまり寝にけり。 「この障子口にまろは寝たらむ。風吹き通せ」とて、畳 ひろげて臥す。御達東の廂にいとあまた寝たるべし。戸放 ちつる童べもそなたに入りて臥しぬれば、とばかりそら寝し て、灯明き方に屏風をひろげて、影ほのかなるに、やをら入

れたてまつる。いかにぞ、をこがましきこともこそ、と思す に、いとつつましけれど、導くままに母屋の几帳の帷子引き 上げて、いとやをら入りたまふとすれど、みなしづまれる夜 の御衣のけはひ、やはらかなるしも、いとしるかりけり。  女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやし く、夢のやうなることを、心に離るるをりなきころにて、心 とけたるいだに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがち なれば、春ならぬ木のめもいとなく嘆かしきに、碁打ちつる 君、今宵はこなたにと、今めかしくうち語らひて、寝にけり。 若き人は何心なういとようまどろみたるべし。かかるけはひ のいとかうばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、ひとヘう ちかけたる几帳の隙間に、暗けれど、うちみじろき寄るけは ひいとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれ ず、やをら起き出でて、生絹なる単衣をひとつ着て、すべり 出でにけり。

 君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心安く思す。床 の下に、二人ばかりぞ臥したる。衣を押しやりて寄りたまヘ るに、ありしけはひよりはものものしくおぼゆれど、思ほし も寄らずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく変りて、や うやう見あらはしたまひて、あさましく、心やましけれど、 人違ヘとたどりて見えんもをこがましく、あやしと思ふべし。 本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひ なう、をこにこそ思はめ、と思す。かのをかしかりつる灯影 ならばいかがはせむに、思しなるも、わろき御心浅さなめり かし。やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あ きれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし。世の 中をまだ思ひ知らぬほどよりは、ざればみたる方にて、あえ かにも思ひまどはず。我とも知らせじと思せど、いかにして かかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事に もあらねど、あのつらき人のあながちに名をつつむも、さす

がにいとほしければ、たびたびの御方違ヘにことつけたまひ しさまを、いとよう言ひなしたまふ。たどらむ人は心得つべ けれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれ ど、えしも思ひ分かず。憎しとはなけれど、御心とまるべき ゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思 す。いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ、かく しふねき人はありがたきものを、と思すにしも、あやにくに 紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人のなま心なく若やか なるけはひもあはれなれば、さすがに情々しく契りおかせた まふ。 「人知りたることよりも、かやうなるはあはれも添 ふこととなむ、昔の人も言ひける。あひ思ひたまヘよ。つつ むことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじく なんありける。また、さるべき人々もゆるされじかしと、かね て胸痛くなん。忘れで待ちたまヘよ」など、なほなほしく語 らひたまふ。 「人の思ひはべらんことの恥づかしきにな

ん、え聞こえさすまじき」
と、うらもなく言ふ。 「なべて 人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝ヘて聞こえん。 気色なくもてなしたまヘ」など言ひおきて、かの脱ぎすべし たると見ゆる薄衣をとりて出でたまひぬ。 源氏、老女に見咎められ、危ない目をみる 小君近う臥したるを起こしたまヘば、うし ろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろき ぬ。戸をやをら押し開くるに、老いたる御- 達の声にて、 「あれは誰そ」と、おどろおどろしく問ふ。わづ らはしくて、 「まろぞ」と答ふ。 「夜半に、こはなぞと歩 かせたまふ」と、さかしがりて、外ざまヘ来。いと憎くて、 「あらず。ここもとヘ出づるぞ」とて、君を押し出でたて まつるに、暁近き月隈なくさし出でて、ふと人の影見えけれ ば、 「またおはするは誰そ」と問ふ。 「民部のおもとな めり。けしうはあらぬおもとの丈だちかな」と言ふ。丈高き 人の常に笑はるるを言ふなりけり。老人、これを連ねて歩き

けると思ひて、 「いま、ただ今立ち並びたまひなむ」と言ふ言 ふ、我もこの戸より出でて来。わびしけれど、えはた押しか ヘさで、渡殿の口にかい添ひて、隠れ立ちたまヘれば、この おもとさしよりて、 「おもとは、今宵は上にやさぶらひた まひつる。一昨日より腹を病みて、いとわりなければ、下に はべりつるを、人少ななりとて召ししかば、昨晩参う上りし かど、なほえ堪ふまじくなむ」と憂ふ。答ヘも聞かで、 「あ な腹々。今聞こえん」とて過ぎぬるに、からうじて出でたま ふ。なほかかる歩きはかろがろしくあやふかりけりと、いよ いよ思し懲りぬべし。 源氏、空蝉ともに歌に思いを託す 小君、御車のしりにて、二条院におはしま しぬ。ありさまのたまひて、 「幼かりけ り」とあはめたまひて、かの人の心をつま はじきをしつつ、恨みたまふ。いとほしうてものもえ聞こえ ず、 「いと深う憎みたまふべかめれば、身もうく思ひはて

ぬ。などかよそにても、なつかしき答ヘばかりはしたまふま じき。伊予介に劣りける身こそ」
など、心づきなしと思ひて のたまふ。ありつる小袿を、さすがに御衣の下にひき入れて、 大殿籠れり。小君を御前に臥せて、よろづに怨み、かつは語 らひたまふ。 「あこはらうたけれど、つらきゆかりにこそ、 え思ひはつまじけれ」と、まめやかにのたまふを、いとわび しと思ひたり。  しばしうち休みたまヘど、寝られたまはず。御硯いそぎ召 して、さしはヘたる御文にはあらで、畳紙に手習のやうに書 きすさびたまふ。 空蝉の身をかへてける  木のもとになほ人がらのな   つかしきかな と書きたまヘるを、懐にひき入 れて持たり。かの人もいかに思

ふらんといとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御こと つけもなし。かの薄衣は小袿のいとなつかしき人香に染める を、身近く馴らして見ゐたまヘり。  小君、かしこにいきたれば、姉君待ちつけていみじくのた まふ。 「あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思 ひけむこと避りどころなきに、いとなむわりなき。いとかう 心幼きを、かつはいかに思ほすらん」とて、恥づかしめたま ふ。左右に苦しう思ヘど、かの御手習取り出でたり。さす がに取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに伊勢をのあまの しほなれてやなど、思ふもただならず、いとよろづに思ひ乱 れたり。西の君も、もの恥づかしき心地して、渡りたまひに けり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめて ゐたり。小君の渡り歩くにつけても胸のみふたがれど、御消- 息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、ざれたる心にも のあはれなるべし。つれなき人もさこそしづむれど、いとあ

さはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、 取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ 方に、   空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびにぬるる袖   かな Evening Faces 源氏、乳母を見舞い、女から扇を贈られる

六条わたりの御忍び歩きのころ、内裏より まかでたまふ中宿に、大弐の乳母のいたく わづらひて、尼になりにけるとぶらはむと て、五条なる家たづねておはしたり。  御車入るべき門は鎖したりければ、人して惟光召させて、 待たせたまひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見わた したまへるに、この家のかたはらに、檜垣といふもの新しう して、上は半蔀四五間ばかり上げわたして、簾などもいと白 う涼しげなるに、をかしき額つきの透影あまた見えてのぞく。 立ちさまよふらむ下つ方思ひやるに、あながちに丈高き心地 ぞする。いかなる者の集ヘるならむと、やう変りて思さる。  御車もいたくやつしたまへり、前駆も追はせたまはず、誰

とか知らむと、うちとけたまひて、すこしさしのぞきたまヘ れば、門は蔀のやうなる押し上げたる、見入れのほどなくも のはかなき住まひを、あはれに、いづこかさしてと思ほしな せば、玉の台も同じことなり。  切懸だつ物に、いと青やかなる葛の心地よげに這ひかか れるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉ひらけたる。 「をちかた人にもの申す」と、ひとりごちたまふを、御随身つ いゐて、 「かの白く咲けるをなむ、タ顔と申しはべる。花 の名は人めきて、かうあやしき垣根になん咲きはべりける」 と、申す。  げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、この面か の面あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまな どに這ひまつはれたるを、「口惜しの花の契りや、一房折 りてまゐれ」と、のたまヘば、この押し上げたる門に入りて 折る。

 さすがにされたる遣り戸口に、黄なる生絹の単袴長く着 なしたる童のをかしげなる、出で来てうち招く。  白き扇のいたうこがしたるを、 「これに置きてまゐらせよ、 枝も情なげなめる花を」とて、取らせたれば、門開けて惟光 朝臣出で来たるして奉らす。 「鍵を置きまどはしはべりて、 いと不便なるわざなりや。 もののあやめ見たまヘ分くべき人もはべらぬわたりなれど、 らうがはしき大路に立ちおはしまして」と、かしこまり申す。 源氏、心から老病の乳母を見舞い、慰める 引き入れて下りたまふ。惟光が兄の阿闍梨、 婿の三河守、むすめなど渡りつどひたるほ どに、かくおはしましたるよろこびをまた なきことに、かしこまる。  尼君も起き上りて、 「惜しげなき身なれど、 棄てがたく 思うたまへつることは、ただかく御前にさぶらひ御覧ぜらる ることの変りはべりなんことを、口惜しく思ひたまヘたゆた

ひしかど、戒のしるしによみがヘりてなん、かく渡りおはし ますを、見たまヘはべりぬれば、今なむ阿弥陀仏の御光も、 心清く待たれはべるべき」
など聞こえて、弱げに泣く。 「日ごろおこたりがたくものせらるるを、やすからず嘆 きわたりつるに、かく世を離るるさまにものしたまヘば、い とあはれに口惜しうなん。命長くて、なほ位高くなど見なし たまヘ。さてこそ九品の上にも障りなく生まれたまはめ。こ の世にすこし恨み残るはわろきわざとなむ聞く」など、涙ぐ みてのたまふ。  かたほなるをだに、乳母やうの思ふべき人はあさましうま ほに見なすものを、ましていと面だたしう、なづさひ仕うま つりけん身もいたはしう、かたじけなく思ほゆべかめれば、 すずろに涙がちなり。子どもは、いと見苦しと思ひて、背き ぬる世の去りがたきやうに、みづからひそみ御覧ぜられたま ふと、つきしろひ、目くはす。

 君はいとあはれと思ほして、 「いはけなかりけるほどに、思 ふべき人々の、うち捨ててものしたまひにけるなごり、はぐ くむ人あまたあるやうなりしかど、親しく思ひむつぶる筋は、 またなくなん思ほえし。人となりて後は、限りあれば、朝夕に しもえ見たてまつらず、心のままにとぶらひ参うづることは なけれど、なほ久しう対面せぬ時は心細くおぼゆるを、さら ぬ別れはなくもがなとなん」などこまやかに語らひたまひて、 おし拭ひたまヘる袖の匂ひも、いとところせきまで薫り満ち たるに、げによに思ヘば、おしなべたらぬ人の御宿世ぞかし と、尼君をもどかしと見つる子どもみなうちしほたれけり。 源氏、歌に興をおぼえ、返歌を贈る 修法など、またまたはじむべきことなど、 おきてのたまはせて、 出でたまふとて、惟光 に紙燭召して、ありつる扇御覧ずれば、 もて馴らしたる移り香、いとしみ深うな

つかしくて、をかしうすさみ書きたり。   心あてにそれかとぞ見る白露の光そヘたる夕顔の花 そこはかとなく書きまぎらはしたるも、あてはかにゆゑづき たれば、いと思ひのほかにをかしうおぼえたまふ。  惟光に、 「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」 とのたまヘば、例のうるさき御心とは思へどもえさは申さで、 「この五六日ここにはべれど、病者のことを思うたまヘあつ かひはべるほどに、隣のことはえ聞きはべらず」など、はし たなやかに聞こゆれば、 「憎しとこそ思ひたれな。されど、 この扇の尋ぬべきゆゑありて見ゆるを、なほこのわたりの心 知れらん者を召して問ヘ」とのたまヘば、入りて、この宿守 なる男を呼びて、問ひ聞く。 「揚名介なる人の家になんはべりける。男は田舎にまかりて、 妻なん若く事好みて、はらからなど宮仕人にて来通ふ、と申 す。くはしきことは、下人のえ知りはべらぬにやあらむ」

と、聞こゆ。さらば、その宮仕人ななり。したり顔にもの馴 れて言へるかなと、めざましかるべき際にやあらんと、思せ ど、さして聞こえかかれる心の憎からず、過ぐしがたきぞ、 例の、この方には重からぬ御心なめるかし。御畳紙に、いた うあらぬさまに書きかヘたまひて、 寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つ る花の夕顔 ありつる御随身して遣はす。  まだ見ぬ御さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたま ヘる御側目を見すぐさでさしおどろかしけるを、答ヘたまは でほど経ければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしけれ ば、あまえて、 「いかに聞こえむ」など、言ひしろふべか めれど、めざましと思ひて、随身は参りぬ。  御前駆の松明ほのかにて、いと忍びて出でたまふ。半蔀は 下してけり。隙々より見ゆる灯の光、螢よりけにほのかにあ

はれなり。 源氏、六条邸を訪れ、夕顔の家を意識する 御心ざしの所には、木立前栽など、なべて の所に似ず、いとのどかに心にくく住みな したまヘり。うちとけぬ御ありさまなどの、 気色ことなるに、ありつる垣根思ほし出でらるべくもあらず かし。つとめて、すこし寝過ぐしたまひて、日さし出づるほ どに出でたまふ。朝明の姿は、げに人のめできこえんもこと わりなる御さまなりけり。  今日もこの蔀の前渡りしたまふ。来し方も過ぎたまひけん わたりなれど、ただはかなき一ふしに御心とまりて、いかな る人の住み処ならんとは、往き来に御目とまりたまひけり。 源氏、惟光の報告で関心を強める 惟光、日ごろありて参れり。 「わづらひ はべる人、なほ弱げにはべれば、とかく見 たまヘあつかひてなむ」など聞こえて、近 く参り寄りて聞こゆ。 「仰せられし後なん、隣のこと知り

てはべる者呼びて、問はせはべりしかど、はかばかしくも申 しはべらず。いと忍びて、五月のころほひよりものしたまふ 人なんあるべけれど、その人とは、さらに家の内の人にだに 知らせず、となん申す。時々中垣のかいま見しはべるに、げ に若き女どもの透影見えはべり。褶だつものかごとばかりひ きかけて、かしづく人はべるなめり。昨日、タ日のなごりな くさし入りてはべりしに、文書くとてゐてはべりし人の顔こ そ、いとよくはべりしか。もの思ヘるけはひして、ある人々 も忍びてうち泣くさまなどなむ、しるく見えはべる」
と、聞 こゆ。君うち笑みたまひて、知らばや、と思ほしたり。  おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど、御齢のほど、人 のなびきめできこえたるさまなど思ふには、すきたまはざら んも情なく、さうざうしかるべしかし。人の承け引かぬほど にてだに、なほ、さりぬべきあたりのことは、好ましうおぼ ゆるものを、と思ひをり。

「もし見たまへ得ることもやはべると、はかなきついで 作り出でて、消息など遣はしたりき。書きなれたる手して、 口とく返りごとなどしはべりき。いと口惜しうはあらぬ若人 どもなんはべるめる」と、聞こゆれば、 「なほ言ひよれ。 尋ねよらではさうざうしかりなん」と、のたまふ。かの下が 下と人の思ひ捨てし住まひなれど、その中にも、思ひのほか に口惜しからぬを見つけたらばと、めづらしく思ほすなり けり。 源氏、伊予介の訪れにより空蝉を思う さて、かの空蝉のあさましくつれなきを、 この世の人には違ひて思すに、おいらかな らましかば、心苦しきあやまちにてもやみ ぬべきを、いとねたく、負けてやみなんを、心にかからぬを りなし。かやうのなみなみまでは思ほしかからざりつるを、 ありし雨夜の品定の後、いぶかしく思ほしなる品々あるに、 いとど隈なくなりぬる御心なめりかし。

 うらもなく待ちきこえ顔なる片つ方人を、あはれと思さぬ にしもあらねど、つれなくて聞きゐたらむことの恥づかしけ れば、まづこなたの心見はてて、と思すほどに、伊予介上りぬ。  まづ急ぎ参れり。舟路のしわざとて、すこし黒みやつれた る旅姿、いとふつつかに心づきなし。されど、人もいやしから ぬ筋に、容貌などねびたれどきよげにて、ただならず気色よ しづきて、などぞありける。国の物語など申すに、 「湯桁はい くつ」と、問はまほしく思せど、あいなくまばゆくて、御心 のうちに思し出づることもさまざまなり。ものまめやかなる 大人をかく思ふも、げにをこがましく、うしろめたきわざな りや。げにこれぞなのめならぬかたはなべかりけると、馬頭 の諌め思し出でて、いとほしきに、つれなき心はねたけれど、 人のためはあはれと思しなさる。  むすめをばさるべき人に預けて、北の方をば率て下りぬべ し、と聞きたまふに、ひとかたならず心あわたたしくて、

いま一度はえあるまじきことにやと、小君を語らひたまヘど、 人の心を合はせたらんことにてだに、軽らかにえしも紛れた まふまじきを、まして似げなきことに思ひて、いまさらに見 苦しかるべしと、思ひ離れたり。さすがに、絶えて思ほし忘 れなんことも、いと言ふかひなくうかるべきことに思ひて、 さるべきをりをりの御答ヘなどなつかしく聞こえつつ、なげ の筆づかひにつけたる言の葉、あやしくらうたげに目とまる べきふし加ヘなどして、あはれと思しぬべき人のけはひなれ ば、つれなくねたきものの、忘れがたきに思す。いま一方は 主強くなるとも、変らずうちとけぬべく見えしさまなるを頼 みて、とかく聞きたまヘど、御心も動かずぞありける。 秋、源氏六条の御方を訪れる 秋にもなりぬ。人やりならず、心づくしに 思し乱るる事どもありて、大殿には、絶え 間おきつつ、うらめしくのみ思ひきこえた まへり。

 六条わたりにも、とけがたかりし御気色を、おもむけきこ えたまひて後、ひき返しなのめならんはいとほしかし。され ど、よそなりし御心まどひのやうに、あながちなることはな きも、いかなることにかと見えたり。女は、いとものをあま りなるまで思ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、 人の漏り聞かむに、いとどかくつらき御夜離れの寝覚め寝覚 め、思ししをるること、いとさまざまなり。  霧のいと深き朝、いたくそそのかされたまひて、ねぶたげ なる気色にうち嘆きつつ出でたまふを、中将のおもと、御格- 子一間上げて、見たてまつり送りたまヘとおぼしく、御几帳 ひきやりたれば、御髪もたげて見出だしたまヘり。前栽の色- 色乱れたるを、過ぎがてにやすらひたまへるさま、げにたぐ ひなし。廊の方ヘおはするに、中将の君、御供に参る。紫苑- 色のをりにあひたる、羅の裳あざやかにひき結ひたる腰 つき、たをやかになまめきたり。見返りたまひて、隅の間の

高欄に、しばしひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、 髪の下り端、めざましくもと見たまふ。 「咲く花にうつるてふ名はつつめども折らで過ぎうき けさの朝顔 いかがすべき」とて、手をとらヘたまヘれば、いと馴れて、 とく、 朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬと ぞ見る と、公事にぞ聞こえなす。  をかしげなる侍童の姿好ましう、ことさらめきたる指貫 の裾露けげに、花の中にまじりて、朝顔折りてまゐるほどな ど、絵に描かまほしげなり。  おほかたにうち見たてまつる人だに、心とめたてまつらぬ はなし。ものの情知らぬ山がつも、花の蔭にはなほ休らはま ほしきにや、この御光を見たてまつるあたりは、ほどほどに

つけて、わがかなしと思ふむすめを仕うまつらせばやと願ひ、 もしは口惜しからずと思ふ妹など持たる人は、いやしきにて も、なほこの御あたりにさぶらはせんと思ひよらぬはなかり けり。まして、sa りぬべきついでの御言の葉も、なつかしき 御気色を見たてまつる人の、すこしものの心思ひ知るは、い かがはおろかに思ひきこえん。明け暮れうちとけてしもおは せぬを、心もとなきことに思ふべかめり。 惟光、夕顔の家を偵察、源氏を手引きする まことや、かの惟光が預りのかいま見はい とよく案内見取りて申す。 「その人とはさ らにえ思ひえはべらず。人にいみじく隠れ 忍ぶる気色になむ見えはべるを、つれづれなるままに、南の 半蔀ある長屋に渡り来つつ、車の音すれば、若き者どものの ぞきなどすべかめるに、この主とおぼしきも這ひ渡る時はべ べかめる。容貌なむ、ほのかなれど、いとらうたげにはべる。 一日、前駆追ひて渡る車のはべりしを、のぞきて、童べの急

ぎて、『右近の君こそ、まづ物見たまヘ。中将殿こそこれよ り渡りたまひぬれ』と言ヘば、またよろしき大人出で来て、
『あなかま』と、手かくものから、 『いかでさは知るぞ。 いで見む』とて這ひ渡る。打橋だつものを道にてなむ通ひは べる。急ぎ来るものは、衣の裾を物にひきかけて、よろぼひ 倒れて、橋よりも落ちぬべければ、 『いで、この葛城の神 こそ、さがしうしおきたれ』と、むつかりて、物のぞきの心 もさめぬめりき。 『君は御直衣姿にて、御随身どももあり し。なにがし、くれがし』と数ヘしは、頭中将の随身、その 小舎人童をなん、しるしに言ひはべりし」など、聞こゆれば、 「たしかにその車をぞ見まし」と、のたまひて、もしかの あはれに忘れざりし人にや、と思ほしよるも、いと知らまほ しげなる御気色を見て、 「私の懸想もいとよくしおきて、 案内も残る所なく見たまヘおきながら、ただ我どちと知らせ て、ものなど言ふ若きおもとのはべるを、そらおぼれしてな

む、隠れまかり歩く。いとよく隠したりと思ひて、小さき子 どもなどのはべるが、言あやまりしつべきも、言ひ紛らはし て、また人なきさまを強ひて作りはべり」
など、語りて笑ふ。 「尼君のとぶらひにものせんついでに、かいま見せさせよ」と、 のたまひけり。かりにても、宿れる住まひのほどを思ふに、 これこそ、かの人の定め侮りし下の品ならめ、その中に思ひ の外にをかしき事もあらばなど、思すなりけり。  惟光、いささかのことも御心に違はじと思ふに、おのれも、 隈なきすき心にて、いみじくたばかりまどひ歩きつつ、しひ ておはしまさせそめてけり。このほどの事くだくだしければ、 例のもらしつ。 源氏、名も知れぬ夕顔の女に耽溺する 女、さしてその人と尋ね出でたまはねば、 我も名のりをしたまはで、いとわりなくや つれたまひつつ、例ならず下り立ち歩きた まふは、おろかに思されぬなるべしと見れぱ、わが馬をば奉

りて、御供に走り歩く。 「懸想人のいとものげなき足もとを見 つけられてはべらん時、からくもあるべきかな」などわぶれど、 人に知らせたまはぬままに、かの夕顔のしるべせし随身ばか り、さては顔むげに知るまじき童ひとりばかりぞ、率ておは しける。もし思ひ寄る気色もやとて、隣に中宿をだにしたま はず。女も、いとあやしく心得ぬ心地のみして、御使に人を 添ヘ、暁の道をうかがはせ、御ありか見せむと尋ぬれど、そ こはかとなくまどはしつつ、さすがにあはれに、見ではえあ るまじく、この人の御心に懸りたれば、便なくかろがろしき 事と思ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。  かかる筋は、まめ人の乱るるをりもあるを、いとめやすく しづめたまひて、人の咎めきこゆべきふるまひはしたまはざ りつるを、あやしきまで、今朝のほど昼間の隔てもおぼつか なくなど、思ひわづらはれたまヘば、かつはいともの狂ほし く、さまで心とどむべき事のさまにもあらずと、いみじく思

ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましく柔らかに、 おほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びた るものから、世をまだ知らぬにもあらず、いとやむごとなき にはあるまじ、いづくにいとかうしもとまる心ぞと、かヘす がヘす思す。  いとことさらめきて、御装束をもやつれたる狩の御衣を奉 り、さまを変ヘ、顔をもほの見せたまはず、夜深きほどに、 人をしづめて出で入りなどしたまヘば、昔ありけん物の変化 めきて、うたて思ひ嘆かるれど、人の御けはひ、はた手さぐ りにもしるきわざなりければ、誰ばかりにかはあらむ、なほ このすき者のしいでつるわざなめりと、大夫を疑ひながら、 せめてつれなく知らず顔にて、かけて思ひ寄らぬさまに、た ゆまずあざれ歩けば、いかなることにかと心得がたく、女が たもあやしうやう違ひたるもの思ひをなむしける。  君も、かくうらなくたゆめて這ひ隠れなば、いづこをはか

りとか我も尋ねん、かりそめの隠れ処とはた見ゆめれば、い づ方にも、いづ方にも、移ろひゆかむ日を何時とも知らじと 思すに、追ひまどはして、なのめに思ひなしつべくは、ただ かばかりのすさびにても過ぎぬべきことを、さらにさて過ぐ してんと思されず。人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜な などは、いと忍びがたく苦しきまでおぼえたまヘば、なほ誰 となくて二条院に迎ヘてん、もし聞こえありて、便なかるべ き事なりとも、さるべきにこそは。わが心ながら、いとかく 人にしむことはなきをいかなる契りにかはありけんなど、思 ほしよる。 「いざ、いと心やすき所にて、のどかに聞こえ ん」など、語らひたまへば、 「なほあやしう。かくのたまへ ど、世づかぬ御もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」と、 いと若びて言へば、げにとほほ笑まれたまひて、 「げに、 いづれか狐なるらんな。ただはかられたまヘかし」と、なつ かしげにのたまヘば、女もいみじくなびきて、さもありぬべ

く思ひたり。世になくかたはなることなりとも、ひたぶるに 従ふ心はいとあはれげなる人、と見たまふに、なほかの頭中- 将の常夏疑はしく、語りし心ざままづ思ひ出でられたまヘど、 忍ぶるやうこそはと、あながちにも問ひ出でたまはず。気色 ばみて、ふと背き隠るべき心ざまなどはなければ、かれがれ にと絶えおかむをりこそは、さやうに思ひ変ることもあらめ、 心ながらも、少し移ろふことあらむこそあはれなるべけれ、 とさヘ思しけり。 源氏、中秋の夜、夕顔の家に宿る 八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板- 屋残りなく漏り来て、見ならひたまはぬ住 まひのさまもめづらしきに、暁近くなりに けるなるべし、隣の家々、あやしき賎の男の声々、目覚まし て、 「あはれ、いと寒しや」 「今年こそなりはひにも頼む所 すくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ、北殿 こそ、聞きたまふや」など、言ひかはすも聞こゆ。いとあは

れなるおのがじしの営みに、起き出でてそそめき騒ぐもほど なきを、女いと恥づかしく思ひたり。艶だち気色ばまむ人は、 消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。されど、のどか に、つらきもうきもかたはらいたきことも、思ひ入れたるさ まならで、わがもてなしありさまは、いとあてはかに児めか しくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなる事 とも聞き知りたるさまならねば、なかなか恥ぢかかやかんよ りは罪ゆるされてぞ見えける。ごほごほと鳴神よりもおどろ おどろしく、踏みとどろかす唐臼の音も枕上とおぼゆる、あ な耳かしがましと、これにぞ思さるる。何の響きとも聞き入 れたまはず、いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたま ふ。くだくだしきことのみ多かり。  白拷の衣うつ砧の音も、かすかに、こなたかなた聞きわた され、空とぶ雁の声、とり集めて忍びがたきこと多かり。端 近き御座所なりければ、遣り戸を引きあけて、もろともに

見出だしたまふ。ほどなき庭に、されたる呉竹、前栽の露は なほかかる所も同じごときらめきたり。虫の声々乱りがはし く、壁の中のきりぎりすだに間遠に聞きならひたまヘる御耳 に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかヘて 思さるるも、御心ざしひとつの浅からぬに、よろづの罪ゆる さるるなめりかし。  白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、 いとらうたげに、あえかなる心地して、そこと取り立ててす ぐれたることもなけれど、細やかにたをたをとして、ものう ち言ひたるけはひ、あな心苦しと、ただいとらうたく見ゆ。 心ばみたる方をすこし添へたらばと見たまひながら、なほう ちとけて見まほしく思さるれば、 「いざ、ただこのわたり 近き所に、心やすくて明かさむ。かくてのみはいと苦しかり けり」と、のたまヘば、 「いかでか。にはかならん」と、 いとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどま

で頼めたまふに、うちとくる心ばヘなど、あやしく様変りて、 世馴れたる人ともおぼえねば、人の思はむところもえ憚りた まはで、右近を召し出でて、随身を召させたまひて、御車引 き入れさせたまふ。このある人々も、かかる御心ざしのおろ かならぬを見知れば、おぼめかしながら頼みかけ聞こえたり。  明け方も近うなりにけり。鳥の声などは聞こえで、御嶽精- 進にやあらん、ただ翁びたる声に額づくぞ聞こゆる。起居の けはひたヘがたげに行ふ。いとあはれに、朝の露にことなら ぬ世を、何をむさぼる身の祈りにか、と聞きたまふ。南無当- 来導師とぞ拝むなる。 「かれ聞きたまヘ。この世とのみは 思はざりけり」と、あはれがりたまひて、 優婆塞が行ふ道をしるべにて来む世も深き契りたが ふな 長生殿の古き例はゆゆしくて、翼をかはさむとはひきかヘて、 弥勒の世をかねたまふ。行く先の御頼めいとこちたし。

  先の世の契り知らるる身のうさに行く末かねて頼みが たさよ かやうの筋なども、さるは、こころもとなかめり。 源氏、夕顔の女を廃院に伴う いさよふ月にゆくりなくあくがれんことを、 女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、 にはかに雲がくれて、明けゆく空いとをか し。はしたなきほどにならぬさきにと、例の急ぎ出でたまひ て、軽らかにうち乗せたまヘれば、右近ぞ乗りぬる。そのわ たり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づる ほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしヘ なく木暗し。霧も深く露けきに、簾をさヘ上げたまへれば、 御袖もいたく濡れにけり。 「まだかやうなる事をならはざ りつるを、心づくしなることにもありけるかな。   いにしヘもかくやは人のまどひけんわがまだ知らぬしの のめの道

ならひたまヘりや」
と、のたまふ。女恥ぢらひて、   「山の端の心もしらでゆく月はうはのそらにて影や絶 えなむ 心細く」とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、かのさし 集ひたる住まひのならひならんと、をかしく思す。  御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、高欄に御- 車ひき懸けて立ちたまヘり。右近艶なる心地して、来し方の ことなども、人知れず思ひ出でけり。預りいみじく経営し歩 く気色に、この御ありさま知りはてぬ。  ほのぼのと物見ゆるほどに、下りたまひぬめり。かりそめ なれど、きよげにしつらひたり。 「御供に人もさぶらはざり けり、不便なるわざかな」とて、睦ましき下家司にて、殿にも 仕うまつる者なりければ、参り寄りて、 「さるべき人召すべ きにや」など申さすれど、 「ことさらに人来まじき隠れ処 求めたるなり。さらに心より外に漏らすな」と、口がためさ

せたまふ。御粥など急ぎまゐらせたれど、取りつぐ御まかな ひうちあはず。まだ知らぬことなる御旅寝に、息長川と契り たまふことよりほかのことなし。  日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。 いといたく荒れて、人目もなくはるばると見わたされて、木- 立いと疎ましくもの古りたり。け近き草木などはことに見所 なく、みな秋の野らにて、池も水草に埋もれたれば、いとけ うとげになりにける所かな。別納の方にぞ曹司などして人住 むべかめれど、こなたは離れたり。 「けうとくもなりにけ る所かな、さりとも、鬼なども我をば見ゆるしてん」とのた まふ。顔はなほ隠したまヘれど、女のいとつらしと思ヘれば、 げにかばかりにて隔てあらむも事のさまに違ひたりと思して、   「夕露に紐とく花は玉ぼこのたよりに見えしえにこそ ありけれ 露の光やいかに」と、のたまへば、後目に見おこせて、

  「光ありと見し夕顔の上露はたそかれ時の空目なりけり と、ほのかに言ふ。をかしと思しなす。げに、うちとけたま ヘるさま、世になく、所がらまいてゆゆしきまで見えたまふ。 「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつる ものを。今だに名のりしたまヘ。いとむくつけし」と、のた まヘど、 「海人の子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、 いとあいだれたり。 「よし、これもわれからなめり」と、 恨み、かつは語らひ暮らしたまふ。  惟光尋ねきこえて、御くだものなど参らす。右近が言はむ こと、さすがにいとほしければ、近くもえさぶらひ寄らず。 かくまでたどり歩きたまふ、をかしう、さもありぬべきあり さまにこそはと推しはかるにも、 「わがいとよく思ひ寄りぬ べかりしことを、譲りきこえて、心広さよ」など、めざまし う思ひをる。  たとしヘなく静かなる夕の空をながめたまひて、奥の方

は暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾を上げて添 ひ臥したまヘり。タ映えを見かはして、女もかかるありさま を思ひの外にあやしき心地はしながら、よろづの嘆き忘れて すこしうちとけゆく気色、いとらうたし。つと御傍に添ひ 暮らして、物をいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。格 子とく下したまひて、大殿油まゐらせて、 「なごりなく なりにたる御ありさまにて、なほ心の中の隔て残したまヘる なむつらき」と、恨みたまふ。内裏にいかに求めさせたまふら んを、いづこにも尋ぬらんと思しやりて、かつはあやしの心や、 六条わたりにもいかに思ひ乱れたまふらん、恨みられんに苦 しうことわりなりと、いとほしき筋はまづ思ひきこえたまふ。 何心もなきさし向ひをあはれと思すままに、あまり心深く、 見る人も苦しき御ありさま を、すこし取り捨てばやと、 思ひくらべられたまひける。 物の怪、夕顔の女を取り殺す

宵過ぐるほど、すこし寝入りたまヘるに、 御枕上にいとをかしげなる女ゐて、 「おの が、いとめでたしと見たてまつるをば、尋 ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして、時め かしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」とて、この御か たはらの人をかき起こさむとすと見たまふ。物に襲はるる心- 地して、おどろきたまヘれば、灯も消えにけり。うたて思さ るれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こ したまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて参り寄れり。 「渡殿なる宿直人起こして、紙燭さして参れと言へ」と、 のたまヘば、 「いかでかまからん、暗うて」と言ヘば、 「あな若々し」と、うち笑ひたまひて、手を叩きたまヘば、 山彦の答ふる声いとうとまし。人え聞きつけで、参らぬに、 この女君いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思ヘ り。汗もしとどになりて、我かの気色なり。 「物怖ぢをなん

わりなくせさせたまふ本性にて、いかに思さるるにか」
と、 右近も聞こゆ。いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、 いとほしと思して、 「我人を起こさむ、手叩けば山彦の答 ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」とて、右近を 引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへ れば、渡殿の灯も消えにけり。風すこしうち吹きたるに、人 は少なくて、さぶらふかぎりみな寝たり。この院の預りの子、 睦ましく使ひたまふ若き男、また上童ひとり、例の随身ばか りぞありける。召せば、御答して起きたれば、 「紙燭さして 参れ。随身も弦打して、絶えず声づくれ、と仰せよ。人離れた る所に心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらんは」 と、問はせたまへば、 「さぶらひつれど仰せ言もなし、 暁に御迎ヘに参るべきよし申してなん、まかではべりぬる」 と聞こゆ。このかう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつ きづきしくうち鳴らして、 「火危し」と言ふ言ふ、預りが曹司

の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、名対面は過ぎぬらん、 滝口の宿直奏今こそ、と推しはかりたまふは、まだいたう更 けぬにこそは。  帰り入りて探りたまヘば、女君はさながら臥して、右近は かたはらにうつ伏し臥したり。 「こはなぞ、あなもの狂ほ しの物怖ぢや。荒れたる所は、狐などやうのものの、人をおび やかさんとて、け恐ろしう思はするならん。まろあれば、さや うのものにはおどされじ」とて、引き起こしたまふ。 「い とうたて、乱り心地のあしうはべれば、うつ伏し臥してはべ るや。御前にこそわりなく思さるらめ」と言ヘば、 「そよ、な どかうは」とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かし たまヘど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、いと いたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめりと、せむか たなき心地したまふ。紙燭持て参れり。右近も動くべきさま にもあらねば、近き御几帳を引き寄せて、 「なほ持て参れ」

と、のたまふ。例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬつつ ましさに、長押にもえのぼらず。 「なほ持て来や。所に従 ひてこそ」とて、召し寄せて、見たまヘば、ただこの枕上に 夢に見えつる容貌したる女、面影に見えて、ふと消え失せぬ。 昔の物語などにこそかかる事は聞け、といとめづらかにむく つけけれど、まづこの人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、 身の上も知られたまはず、添ひ臥して、ややとおどろかした まヘど、ただ冷えに冷え入りて、息はとく絶えはてにけり。 言はむ方なし。頼もしくいかにと言ひふれたまふべき人もな し、法師などをこそはかかる方の頼もしきものには思すべけ れど。さこそ強がりたまヘど、若き御心にて、言ふかひなく なりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、 「あ が君、生き出でたまヘ、いといみじき目な見せたまひそ」と のたまヘど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。 右近は、ただあなむつかしと思ひける心地みなさめて、泣き

まどふさまいといみじ。南殿の鬼のなにがしの大臣おびやか しけるたとひを思し出でて、心強く、 「さりともいたづら になりはてたまはじ。夜の声はおどろおどろし。あなかま」と 諌めたまひて、いとあわたたしきにあきれたる心地したまふ。  この男を召して、 「ここに、いとあやしう、物に襲はれ たる人のなやましげなるを、ただ今惟光朝臣の宿る所にまか りて、急ぎ参るべきよし言ヘと仰せよ。なにがし阿闍梨そこ にものするほどならば、ここに来べきよし忍びて言ヘ。かの 尼君などの聞かむに、おどろおどろしく言ふな、かかる歩き ゆるさぬ人なり」など、もののたまふやうなれど、胸塞りて、 この人を空しくしなしてんことのいみじく思さるるに添ヘて、 おほかたのむくむくしさ譬へん方なし。夜半も過ぎにけんか し、風のやや荒々しう吹きたるは。まして松の響き木深く聞 こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、梟東はこれにやと おぼゆ。うち思ひめぐらすに、こなたかなたけ遠くうとまし

きに、人声はせず、などてかくはかなき宿は取りつるぞと、 くやしさもやらん方なし。右近はものもおぼえず、君につと 添ひたてまつりて、わななき死ぬべし。またこれもいかなら んと心そらにてとらヘたまヘり。我ひとりさかしき人にて、 思しやる方ぞなきや。灯はほのかにまたたきて、母屋の際に 立てたる屏風の上、ここかしこのくまぐましくおぼえたまふ に、物の、足音ひしひしと踏みならしつつ、背後より寄り来 る心地す。惟光とく参らなんと思す。あり処定めぬ者にて、 ここかしこ尋ねけるほどに、夜の明くるほどの久しさ、千夜 を過ぐさむ心地したまふ。  からうじて鳥の声はるかに聞こゆるに、 「命をかけて、何 の契りにかかる目を見るらむ。わが心ながら、かかる筋にお ほけなくあるまじき心のむくいに、かく来し方行く先の例と なりぬべきことはあるなめり。忍ぶとも世にあること隠れな くて、内裏に聞こしめさむをはじめて、人の思ひ言はんこと、

よからぬ童べの口ずさびになるべきなめり。ありありて、を こがましき名をとるべきかな」
と思しめぐらす。 惟光参上して、夕顔の遺骸を東山に送る からうじて惟光朝臣参れり。夜半暁といは ず御心に従へる者の、今宵しもさぶらはで、 召しにさヘ怠りつるを憎しと思すものから、 召し入れて、のたまひ出でんことのあヘなきに、ふとものも 言はれたまはず。右近、大夫のけはひ聞くに、はじめよりの ことうち思ひ出でられて泣くを、君もえたヘたまはで、我ひ とりさかしがり抱き持たまヘりけるに、この人に息をのべた まひてぞ、悲しきことも思されける、とばかり、いといたく えも止めず泣きたまふ。  ややためらひて、 「ここに、いとあやしき事のあるを、 あさましと言ふにもあまりてなんある。かかるとみの事には 誦経などをこそはすなれとて、そのことどももせさせん、願 なども立てさせむとて、阿闍梨ものせよ、と言ひやりつるは」

と、のたまふに、 「昨日山ヘまかり登りにけり。まづいと めづらかなる事にもはべるかな。かねて例ならず御心地もの せさせたまふことやはべりつらん」 「さることもなかり つ」とて、泣きたまふさま、いとをかしげにらうたく、見たて まつる人も、いと悲しくて、おのれもよよと泣きぬ。さ言ヘ ど、年うちねび、世の中のとあることとしほじみぬる人こそ、 もののをりふしは頼もしかりけれ、いづれもいづれも若きど ちにて、言はむ方もなけれど、 「この院守などに聞かせむ ことは、いと便なかるべし。この人ひとりこそ睦ましくもあ らめ、おのづからもの言ひ漏らしつべき眷属もたち交りたら む。まづこの院を出でおはしましね」と、言う。 「さて、こ れより人少ななる所はいかでかあらん」と、のたまふ。 「げ にさぞはべらん。かの古里は、女房などの悲しびにたヘず、 泣きまどひはべらんに、隣しげく、咎むる里人多くはべらん に、おのづから聞こえはべらんを、山寺こそなほかやうの事

おのづから行きまじり、物紛るることはべらめ」
と、思ひま はして、 「昔見たまヘし女房の、尼にてはべる、東山の 辺に移したてまつらん、惟光が父の朝臣の乳母にはべりし者 のみづはぐみて住みはべるなり。あたりは人しげきやうには べれど、いとかごかにはべり」と聞こえて、明けはなるるほ どのまぎれに、御車寄す。この人をえ抱きたまふまじければ、 上蓆に押しくくみて、惟光乗せたてまつる。いとささやかに て、うとましげもなくらうたげなり。したたかにしもえせね ば、髪はこぼれ出でたるも、目くれまどひて、あさましう悲 しと思せば、なりはてんさまを見むと思せど、 「はや御馬 にて二条院ヘおはしまさん、人さわがしくなりはべらぬほど に」とて、右近を添へて乗すれば、徒歩より、君に馬は奉り て、括り引き上げなどして、かつはいとあやしく、おぼえぬ 送りなれど、御気色のいみじきを見たてまつれば、身を捨て て行くに、君はものもおぼえたまはず、我かのさまにてお

はし着きたり。 源氏、二条院に帰る、人々あやしむ 人々、 「いづこよりおはしますにか、悩ま しげに見えさせたまふ」など言ヘど、御帳 の内に入りたまひて、胸を押ヘて思ふに、 いといみじければ、 「などて乗り添ひて行かざりつらん、生 きかヘりたらん時いかなる心地せん、見捨てて行きあかれに けりと、つらくや思はむ」と、心まどひの中にも思ほすに、御 胸せき上ぐる心地したまふ。御ぐしも痛く、身も熱き心地し て、いと苦しく、まどはれたまヘば、かくはかなくて我もい たづらになりぬるなめり、と思す。日高くなれど、起き上り たまはねば、人々あやしがりて、御粥などそそのかしきこゆ れど、苦しくて、いと心細く思さるるに、内裏より御使あり。 昨日え尋ね出でたてまつらざりしより、おぼつがなからせた まふ。大殿の君達参りたまヘど、頭中将ばかりを、 「立ちな がらこなたに入りたまへ」とのたまひて、御廉の内ながらの

たまふ。 「乳母にてはべる者の、この五月のころほひより、 重くわづらひはべりしが、頭剃り戒受けなどして、そのし るしにやよみがヘりたりしを、このごろまた起こりて、弱く なんなりにたる、いま一たびとぶらひ見よと申したりしか ば、いときなきよりなづさひし者のいまはのきざみにつらし とや思はんと思うたまへて、まかれりしに、その家なりける 下人の病しけるが、にはかに出であヘで亡くなりにけるを、 怖ぢ憚りて、日を暮らしてなむ取り出ではべりけるを、聞き つけはべりしかば、神事なるころいと不便なることと思ひた まヘかしこまりて、え参らぬなり。この暁より、咳病にやは べらん、頭いと痛くて苦しくはべれば、いと無礼にて聞こゆ ること」などのたまふ。中将、 「さらば、さるよしをこそ奏 しはべらめ。昨夜も、御遊びにかしこく求めたてまつらせた まひて、御気色あしくはべりき」と聞こえたまひて、たち返 り、 「いかなる行き触れにかからせたまふぞや。述べやらせ

たまふことこそ、まことと思ひたまヘられね」
と言ふに、胸 つぶれたまひて、 「かくこまかにはあらで、ただおぼえぬ 穢らひに触れたるよしを奏したまへ、いとこそたいだいしく はべれ」と、つれなくのたまヘど、心の中には、言ふかひな く悲しきことを思すに、御心地もなやましければ、人に目も 見あはせたまはず。蔵人弁を召し寄せて、まめやかにかかる よしを奏せさせたまふ。大殿などにも、かかる事ありてえ参 らぬ御消息など聞こえたまふ。 源氏、惟光に案内され、東山におもむく 日暮れて惟光参れり。かかる穢らひありと のたまひて、参る人々もみな立ちながらま かづれば、人しげからず。召し寄せて、 「いかにぞ、いまはと見はてつや」とのたまふままに、袖を 御顔に押し当てて泣きたまふ。惟光も泣く泣く、 「今は限り にこそはものしたまふめれ。長々と籠りはべらんも便なきを、 明日なん日よろしくはべれば、とかくの事、いと尊き老僧の

あひ知りてはべるに、言ひ語らひつけはべりぬる」
と聞こゆ。 「添ひたりつる女はいかに」と、のたまヘば、 「それな んまたえ生くまじくはべるめる。我も後れじとまどひはべり て、今朝は谷に落ち入りぬとなん見たまヘつる。 『かの古- 里人に告げやらん』と申せど、 『しばし思ひしづめよ、事 のさま思ひめぐらして』となん、こしらヘおきはべりつる」 と語りきこゆるままに、いといみじと思して、 「我もいと 心地なやましく、いかなるべきにかとなんおぼゆる」とのた まふ。 「何か、さらに思ほしものせさせたまふ。さるべき にこそよろづのことはべらめ。人にも漏らさじと思うたまふ れば、惟光下り立ちてよろづはものしはべる」など申す。 「さかし、さみな思ひなせど、浮びたる心のすさびに人をいた づらになしつるかごと負ひぬべきが、いとからきなり。少将- 命婦などにも聞かすな。尼君ましてかやうのことなど諌めら るるを、心恥づかしくなんおぼゆべき」と、口がためたまふ。

「さらぬ法師ばらなどにも、みな言ひなすさまことにはべ る」と聞こゆるにぞ、かかりたまヘる。ほの聞く女房など、 「あやしく、何ごとならん。穢らひのよしのたまひて、内裏に も参りたまはず、またかくささめき嘆きたまふ」と、ほのぼ のあやしがる。 「さらに事なくしなせ」と、そのほどの作- 法のたまヘど、 「何か、ことごとしくすべきにもはべらず」 とて立つがいと悲しく思さるれば、 「便なしと思ふべけれ ど、いま一たびかの亡骸を見ざらむがいといぶせかるべきを、 馬にてものせん」とのたまふを、いとたいだいしきこととは 思ヘど、 「さ思されんはいかがせむ。はやおはしまして、 夜更けぬさきに帰らせおはしませ」と申せば、このごろの御 やつれにまうけたまへる狩の御装束着かヘなどして出でたま ふ。御心地かきくらし、いみじくたヘがたければ、かくあやし き道に出で立ちても、危ふかりし物懲りに、いかにせんと思 しわづらヘど、なほ悲しさのやる方なく、ただ今の骸を見で

は、またいつの世にかありし容貌をも見む、と思し念じて、 例の大夫随身を具して出でたまふ。  道遠くおぼゆ。十七日の月さし出でて、河原のほど、御前- 駆の火もほのかなるに、鳥辺野の方など見やりたるほどなど、 ものむつかしきも何ともおぼえたまはず、かき乱る心地した まひて、おはし着きぬ。  あたりさヘすごきに、板屋のかたはらに堂建てて行ヘる尼 の住まひ、いとあはれなり。御燈明の影ほのかに透きて見ゆ。 その屋には、女ひとり泣く声のみして、外の方に法師ばらの 二三人物語しつつ、わざとの声立てぬ念仏ぞする。寺々の初- 夜もみな行ひはてて、いとしめやかなり。清水の方ぞ光多く 見え、人のけはひもしげかりける。この尼君の子なる大徳の、 声尊くて経うち読みたるに、涙の残りなく思さる。  入りたまへれば、灯取り背けて、右近は屏風隔てて臥した り。いかにわびしからんと見たまふ。恐ろしきけもおぼえず、

いとらうたげなるさまして、まだいささか変りたるところな し。手をとらヘて、 「我にいま一度声をだに聞かせたまヘ。 いかなる昔の契りにかありけん、しばしのほどに心を尽くし てあはれに思ほえしを、うち棄ててまどはしたまふがいみじ きこと」と、声も惜しまず泣きたまふこと限りなし。大徳た ちも、誰とは知らぬに、あやしと思ひてみな涙落しけり。  右近を、 「いざ二条院へ」と、のたまヘど、 「年ごろ 幼くはべりしより片時たち離れたてまつらず馴れきこえつる 人に、にはかに別れたてまつりて、いづこにか帰りはべらん。 いかになりたまひにきとか人にも言ひはべらん。悲しきこと をばさるものにて、人に言ひ騒がれはべらんがいみじきこと」 と言ひて、泣きまどひて、 「煙にたぐひて慕ひ参りなん」 と言ふ。 「ことわりなれど、さなむ世の中はある。別れと いふもの悲しからぬはなし。とあるもかかるも、同じ命の限 りあるものになんある。思ひ慰めて我を頼め」とのたまひこ

しらへても、 「かく言ふわが身こそは、生きとまるまじき 心地すれ」とのたまふも、頼もしげなしや。  惟光、 「夜は明け方になりはべりぬらん。はや帰らせたま ひなん」と聞こゆれば、かヘりみのみせられて、胸もつとふ たがりて、出でたまふ。道いと露けきに、いとどしき朝霧に、 いづこともなくまどふ心地したまふ。ありしながらうち臥し たりつるさま、うちかはしたまヘりしが、わが御紅の御衣 の着られたりつるなど、いかなりけん契りにかと、道すがら 思さる。御馬にもはかばかしく乗りたまふまじき御さまなれ ば、また惟光添ひ助けて、おはしまさするに、堤のほどにて御 馬よりすべり下りて、いみじく御心地まどひければ、 「か かる道の空にてはふれぬべきにやあらん、さらにえ行き着く まじき心地なんする」とのたまふに、惟光心地まどひて、わ がはかばかしくは、さのたまふとも、かかる道に率て出でた てまつるべきかは、と思ふに、いと心あわたたしければ、川

の水に手を洗ひて、清水の観音を念じたてまつりても、すべ なく思ひまどふ。君もしひて御心を起こして、心の中に仏を 念じたまひて、またとかく助けられたまひてなん、二条院へ 帰りたまひける。  あやしう夜深き御歩きを、人々、 「見苦しきわざかな、この ごろ例よりも静心なき御忍び歩きのしきる中にも、昨日の御- 気色のいと悩ましう思したりしに、いかでかくたどり歩きた まふらん」と、嘆きあヘり。 源氏,東山より帰邸後、重くわずらう まことに、臥したまひぬるままに、いとい たく苦しがりたまひて、二三日になりぬる に、むげに弱るやうにしたまふ。内裏にも 聞こしめし嘆くこと限りなし。御祈祷方々に隙なくののしる。 祭祓修法など言ひつくすべくもあらず。世にたぐひなくゆ ゆしき御ありさまなれば、世に長くおはしますまじきにやと、 天の下の人の騒ぎなり。苦しき御心地にもかの右近を召し寄

せて、局など近く賜ひてさぶらはせたまふ。惟光心地も騒ぎ まどヘど、思ひのどめて、この人のたづきなしと思ひたるを もてなし助けつつさぶらはす。  君はいささかひまありて思さるる時は、召し出でて使ひな どすれば、ほどなく交らひつきたり。服いと黒くして、容貌 などよからねど、かたはに見苦しからぬ若人なり。 「あや しう短かりける御契りに引かされて、我も世にえあるまじき なめり。年ごろの頼み失ひて心細く思ふらん慰めにも、もし ながらヘばよろづにはぐくまむとこそ思ひしか、ほどもなく また立ち添ひぬべきが口惜しくもあるべきかな」と、忍びや かにのたまひて、弱げに泣きたまヘば、言ふかひなきことを ばおきて、いみじく惜しと思ひきこゆ。  殿の内の人、足を空にて思ひまどふ。内裏より御使雨の脚 よりもけにしげし。思し嘆きおはしますを聞きたまふにいと かたじけなくて、せめて強く思しなる。大殿も経営したまひ

て、大臣日々に渡りたまひつつ、さまざまの事をせさせたま ふしるしにや、二十余日いと重くわづらひたまヘれど、こと なるなごり残らずおこたるさまに見えたまふ。穢らひ忌みた まひしもひとつに満ちぬる夜なれば、おぼつかながらせたま ふ御心わりなくて、内裏の御宿直所に参りたまひなどす。大- 殿、わが御車にて迎ヘたてまつりたまひて、御物忌何やとむ つかしうつつしませたてまつりたまふ。我にもあらずあらぬ 世によみがヘりたるやうに、しばしはおぼえたまふ。 源氏、病癒え、右近に夕顔の素姓を聞く 九月二十日のほどにぞおこたりはてたまひ て、いといたく面痩せたまヘれど、なかな かいみじくなまめかしくて、ながめがちに 音をのみ泣きたまふ。見たてまつり咎むる人もありて、御物 の怪なめりなどいふもあり。右近を召し出でて、のどやかな る夕暮に物語などしたまひて、 「なほいとなむあやしき。 などてその人と知られじとは隠いたまヘりしぞ。まことに海-

人の子なりとも、さばかりに思ふを知らで隔てたまひしかば なむつらかりし」
とのたまへば、 「などてか深く隠しきこ えたまふことははべらん。いつのほどにてかは、何ならぬ御 名のりを聞こえたまはん。はじめよりあやしうおぼえぬさま なりし御事なれば、 『現ともおぼえずなんある』とのたま ひて、御名隠しもさばかりにこそはと、聞こえたまひながら、 なほざりにこそ紛らはしたまふらめとなん、うきことに思し たりし」と聞こゆれば、 「あいなかりける心くらべどもか な、我はしか隔つる心もなかりき。ただかやうに人にゆるさ れぬふるまひをなん、まだならはぬことなる。内裏に諌めの たまはするをはじめ、つつむこと多かる身にて、はかなく人 に戯れ言を言ふもところせう、とりなしうるさき身のありさ まになんあるを、はかなかりし夕より、あやしう心にかか りて、あながちに見たてまつりしも、かかるべき契りこそは ものしたまひけめと、思ふもあはれになむ。またうち返しつ

らうおぼゆる。かう長かるまじきにては、などさしも心にし みてあはれとおぼえたまひけん。なほくはしく語れ。今は何 ごとを隠すべきぞ。七日七日に仏かかせても、誰がためとか 心の中にも思はん」
とのたまへば、 「何か隔てきこえさせ はべらん。みづから忍び過ぐしたまひしことを、亡き御後に 口さがなくやはと、思うたまふるばかりになん。親たちはは や亡せたまひにき。三位中将となん聞こえし。いとらう たきものに思ひきこえたまへりしかど、わが身のほどの心も となさを思すめりしに、命さヘたヘたまはずなりにし後、は かなきもののたよりにて、頭中将なんまだ少将にものしたま ひし時、見そめたてまつらせたまひて、三年ばかりは心ざし あるさまに通ひたまひしを、去年の秋ごろ、かの右の大殿よ りいと恐ろしきことの聞こえ参で来しに、もの怖ぢをわりな くしたまひし御心に、せん方なく思し怖ぢて、西の京に御乳- 母の住みはべる所になむ、這ひ隠れたまへりし。それもいと

見苦しきに住みわびたまひて、山里に移ろひなんと思したり しを、今年よりは塞がりける方にはべりければ、違ふとて、あ やしき所にものしたまひしを見あらはされたてまつりぬるこ とと、思し嘆くめりし。世の人に似ずものづつみをしたまひ て、人にもの思ふ気色を見えんを恥づかしきものにしたまひ て、つれなくのみもてなして御覧ぜられたてまつりたまふめ りしか」
と語り出づるに、さればよと思しあはせて、いよい よあはれまさりぬ。 「幼き人まどはしたりと中将の愁へし は、さる人や」と問ひたまふ。 「しか。一昨年の春ぞもの したまへりし。女にていとらうたげになん」と語る。 「さ ていづこにぞ。人にさとは知らせで、我に得させよ。あとは かなくいみじと思ふ御形見に、いと嬉しかるべくなん」との たまふ。 「かの中将にも伝ふべけれど、言ふかひなきかご と負ひなん。とざまかうざまにつけて、育まむに咎あるまじ きを、そのあらん乳母などにも異ざまに言ひなしてものせよ

かし」
など語らひたまふ。 「さらばいと嬉しくなんはべる べき。かの西の京にて生ひ出でたまはんは心苦しくなん。は かばかしく扱ふ人なしとて、かしこになむ」と聞こゆ。  タ暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、御前の前栽枯 れ枯れに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、 絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして、心より外にを かしき交らひかなと、かの夕顔の宿を思ひ出づるも恥づかし。 竹の中に家鳩といふ鳥のふつつかに鳴くを聞きたまひて、か のありし院にこの鳥の鳴きしをいと恐ろしと思ひたりしさま の面影にらうたく思し出でらるれば、 「年齢は幾つにかも のしたまひし。あやしく世の人に似ず、あえかに見えたまひ しも、かく長かるまじくてなりけり」とのたまふ。 「十- 九にやなりたまひけん。右近は、亡くなりにける御乳母の捨 ておきてはべりければ、三位の君のらうたがりたまひて、か の御あたり去らず生ほし立てたまひしを、思ひたまヘ出づれ

ば、いかでか世にはべらんとすらん。いとしも人にと、くや しくなん。ものはかなげにものしたまひし人の御心を頼もし き人にて、年ごろならひはべりけること」
と聞こゆ。 「は かなびたるこそはらうたけれ。かしこく人になびかぬ、いと 心づきなきわざなり。みづからはかばかしくすくよかならぬ 心ならひに、女はただやはらかに、とりはづして人に欺かれ ぬべきが、さすがにものづつみし、見ん人の心には従はんな むあはれにて、わが心のままにとり直して見んに、なつかし くおぼゆべき」などのたまヘば、 「この方の御好みにはも て離れたまはざりけりと思ひたまふるにも、口惜しくはべる わざかな」とて泣く。空のうち曇りて、風冷やかなるに、い といたくながめたまひて、   見し人の煙を雲とながむれば夕の空もむつましき かな と、独りごちたまヘど、えさし答ヘも聞こえず。かやうにて

おはせましかばと思ふにも、胸ふたがりておぼゆ。耳かしが ましかりし砧の音を思し出づるさへ恋しくて、「正に長き夜」 と、うち誦じて臥したまヘり。 源氏、空蝉や軒端荻と歌を贈答する かの伊予の家の小君参るをりあれど、こと にありしやうなる言づてもしたまはねば、 うしと思しはてにけるをいとほしと思ふに、 かくわづらひたまふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。遠く 下りなんとするを、さすがに心細ければ、思し忘れぬるかと こころみに、 「うけたまはり悩むを、言に出でてはえこそ、  問はぬをもなどかと問はでほどふるにいかばかりかは思 ひ乱るる 益田はまことになむ」と 聞こえたり。めづらしき に、これもあはれ忘れた まはず、 「生けるかひ

なきや、誰が言はましごとにか、 うつせみの世はうきものと知りにしをまた言の葉にかかる命よ はかなしや」
と、御手もうちわななかるるに、乱れ書きたま ヘるいとうつくしげなり。なほかのもぬけを忘れたまはぬを、 いとほしうもをかしうも思ひけり。かやうに憎からずは聞こ えかはせど、け近くとは思ひ寄らず、さすがに言ふかひなか らずは見えたてまつりてやみなんと、思ふなりけり。  かの片つ方は蔵人少将をなん通はすと聞きたまふ。あやし や、いかに思ふらむと、少将の心の中もいとほしく、またか の人の気色もゆかしければ、小君して、 「死にかヘり思ふ 心は知りたまヘりや」と言ひ遣はす。   ほのかにも軒端の荻を結ばずは露のかごとを何にか けまし 高やかなる荻につけて、 「忍びて」とのたまヘれど、とりあや

まちて、少将も見つけて、我なりけりと思ひあはせば、さり とも罪ゆるしてんと、思ふ御心おごりぞあいなかりける。少- 将のなきをりに見すれば、心うしと思ヘど、かく思し出でた るもさすがにて、御返り、口ときばかりをかごとにて取らす。   ほのめかす風につけても下荻のなかばは霜に結ぼ ほれつつ 手はあしげなるを、紛らはし、ざればみて書いたるさま、品 なし。灯影に見し顔思し出でらる。うちとけで向ひゐたる人 は、え疎みはつまじきさまもしたりしかな。何の心ばせあり げもなくさうどき誇りたりしよと、思し出づるに憎からず。 なほ懲りずまにまたもあだ名立ちぬべき御心のすさびなめり。 源氏、夕顔の四十九日の法要を行なう かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂に て、事そがず、装束より始めてさるべき物 どもこまかに、誦経などせさせたまふ。経- 仏の飾までおろかならず、惟光が兄の阿闍梨いと尊き人に

て、二なうしけり。御文の師にて睦ましく思す文章博士召し て、願文作らせたまふ。その人となくて、あはれと思ひし人 の、はかなきさまになりにたるを、阿弥陀仏に譲りきこゆる よし、あはれげに書き出でたまヘれば、 「ただかくながら。 加ふべきことはべらざめり」と申す。忍びたまヘど、御涙も こぼれて、いみじく思したれば、 「何人ならむ。その人と聞こ えもなくて、かう思し嘆かすばかりなりけん宿世の高さ」と 言ひけり。忍びて調ぜさせたまへりける装束の袴をとり寄せ させたまひて、   泣くなくも今日はわが結ふ下紐をいづれの世にかと けて見るべき このほどまでは漂ふなるを、いづれの道に定まりて赴くらん と、思ほしやりつつ、念誦をいとあはれにしたまふ。頭中将 を見たまふにも、あいなく胸騒ぎて、かの撫子の生ひ立つあ りさま聞かせまほしけれど、かごとに怖ぢてうち出でたまは

ず。 その後の事--源氏、夕顔の夢を見る かの夕顔の宿には、いづかたにと思ひまど ヘど、そのままにえ尋ねきこえず。右近だ に訪れねば、あやしと思ひ嘆きあヘり。た しかならねど、けはひをさばかりにやとささめきしかば、惟- 光をかこちけれど、いとかけ離れ、気色なく言ひなして、な ほ同じごとすき歩きければ、いとど夢の心地して、もし受領 の子どものすきずきしきが、頭の君に怖ぢきこえて、やがて 率て下りにけるにやとぞ思ひよりける。この家主ぞ西の京の 乳母のむすめなりける。三人その子はありて、右近は他人な りければ、思ひ隔てて、御ありさまを聞かせぬなりけりと、 泣き恋ひけり。右近はた、かしがましく言ひ騒がれんを思ひ て、君も今さらに漏らさじと忍びたまヘば、若君の上をだに え聞かず、あさましく行く方なくて過ぎゆく。君は夢をだに 見ばやと思しわたるに、この法事したまひてまたの夜、ほの

かに、かのありし院ながら、添ひた りし女のさまも同じやうにて見えけ れば、荒れたりし所に棲みけん物の 我に見入れけんたよりに、かくなり ぬることと思し出づるにもゆゆしく なん。 空蝉、伊予国に下向し、源氏、餞別を贈る 伊予介、神無月の朔日ごろに下る。 「女- 房の下らんに」とて、手向け心ことにせさ せたまふ。また内々にもわざとしたまひて、 こまやかにをかしきさまなる櫛扇多くして、幣などわざと がましくて、かの小袿も遣はす。   逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽 ちにけるかな  こまかなる事どもあれど、うるさければ書かず。御使帰り にけれど、小君して小袿の御返りばかりは聞こえさせたり。

  蝉の羽もたちかへてける夏衣かヘすを見ても音はな かれけり 思ヘど、あやしう人に似ぬ心強さにてもふり離れぬるかな、 と思ひつづけたまふ。今日ぞ冬立つ日なりけるもしるく、う ちしぐれて、空のけしきいとあはれなり。ながめ暮らしたま ひて、   過ぎにしもけふ別るるもふた道に行く方知らぬ秋の 暮かな なほかく人知れぬことは苦しかりけり、と思し知りぬらんか し。  かやうのくだくだしきことは、あながちに隠ろへ忍びたま ひしもいとほしくて、みなもらし止めたるを、 「など帝の皇- 子ならんからに、見ん人さヘかたほならず物ほめがちなる」 と、作り事めきてとりなす人ものしたまひければなん。あま りもの言ひさがなき罪避り所なく。 Lavender 源氏、瘧病にわずらい、北山の聖を訪れる

瘧病にわづらひたまひて、よろづにまじな ひ、加持などまゐらせたまヘど、しるしな くて、あまたたびおこりたまひければ、あ る人、 「北山になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ 人はべる。去年の夏も世におこりて、人々まじなひわづらひ しを、やがてとどむるたぐひあまたはべりき。ししこらかし つる時はうたてはべるを、疾くこそこころみさせたまはめ」 など聞こゆれば、召しに遣はしたるに、 「老いかがまりて室 の外にもまかでず」と申したれば、 「いかがはせむ。いと 忍びてものせん」とのたまひて、御供に睦ましき四五人ばか りして、まだ暁におはす。  やや深う入る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花、

さかりはみな過ぎにけり。山の桜はまださかりにて、入りも ておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、か かるありさまもならひたまはず、ところせき御身にて、めづ らしう思されけり。寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深 き岩の中にぞ、聖入りゐたりける。登りたまひて、誰とも知 らせたまはず、いといたうやつれたまヘれど、しるき御さま なれば、 「あなかしこや。一日召しはべりしにやおはします らむ。今はこの世のことを思ひたまへねば、験方の行ひも、 棄て忘れてはべるを、いかで、かうおはしましつらむ」と、 驚き騒ぎ、うち笑みつつ見たてまつる。いとたふとき大徳な りけり。さるべきもの作りて、すかせたてまつり、加持など まゐるほど、日高くさしあがりぬ。 源氏、なにがし僧都の坊に少女の姿を見る すこし立ち出でつつ見わたしたまヘば、高 き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに 見おろさるる。ただこのつづら折の下に、

同じ小柴なれど、うるはしくしわたして、きよげなる屋廊な どつづけて、木立いとよしあるは、 「何人の住むにか」と 問ひたまヘば、御供なる人、 「これなん、なにがし僧都の、 この二年籠りはべる方にはべるなる」 「心恥づかしき人住 むなる所にこそあなれ。あやしうも、あまりやつしけるかな。 聞きもこそすれ」などのたまふ。きよげなる童などあまた出 で来て、閼伽奉り、花折りなどするもあらはに見ゆ。 「か しこに女こそありけれ」 「僧都は、よもさやうにはすゑたま はじを」「いかなる人ならむ」と口々言ふ。下りてのぞくも あり。 「をかしげなる女子ども、若き人、童べなん見ゆる」 と言ふ。 ある供人、明石の入道父娘のことを語る 君は行ひしたまひつつ、日たくるままに、 いかならんと思したるを、 「とかう紛らは させたまひて、思し入れぬなんよくはべ る」と聞こゆれば、後の山に立ち出でて、京の方を見たまふ。

はるかに霞みわたりて、四方の梢そこはかとなうけぶりわた れるほど、 「絵にいとよくも似たるかな。かかる所に住む 人、心に思ひ残すことはあらじかし」とのたまヘば、 「こ れはいと浅くはべり。外の国などにはべる海山のありさまな どを御覧ぜさせてはべらば、いかに御絵いみじうまさらせた まはむ」 「富士の山、なにがしの嶽」など語りきこゆるもあ り。また西国のおもしろき浦々、磯のうへを言ひつづくるも ありて、よろづに紛らはしきこゆ。 「近き所には、播磨の明石の浦こそなほことにはべれ。 何のいたり深き隈はなけれど、ただ海のおもてを見わたした るほどなん、あやしく他所に似ず、ゆほびかなる所にはべる。 かの国の前の守、新発意のむすめかしづきたる家、いといた しかし。大臣の後にて、出で立ちもすべかりける人の、世の ひがものにて、交らひもせず、近衛中将を棄てて、申し賜 はれりける司なれど、かの国の人にもすこしあなづられて、

『何の面目にてか、また都にもかヘらん』と言ひて、頭髪もお ろしはべりにけるを、すこし奥まりたる山住みもせで、さる 海づらに出でゐたる、ひがひがしきやうなれど、げに、かの 国の内に、さも人の籠りゐぬべき所どころはありながら、深 き里は人離れ心すごく、若き妻子の思ひわびぬべきにより、 かつは心をやれる住まひになんはべる。先つころ、まかり下 りてはべりしついでに、ありさま見たまヘに寄りてはべりし かば、京にてこそところえぬやうなりけれ、そこら遥かにい かめしう占めて造れるさま、さはいヘど、国の司にてしおき けることなれば、残りの齢ゆたかに経べき心がまヘも、二な くしたりけり。後の世の勤めもいとよくして、なかなか法師 まさりしたる人になんはべりける」
と申せば、 「さてその むすめは」と問ひたまふ。 「けしうはあらず、容貌心ばせ などはべるなり。代々の国の司など、用意ことにして、さる 心ばヘ見すなれど、さらに承け引かず。『わが身のかくいた

づらに沈めるだにあるを。この人ひとりにこそあれ。思ふさ まことなり。もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひ おきつる宿世違はば、海に入りね』と、常に遺言しおきては べるなる」
と聞こゆれば、君もをかしと聞きたまふ。人々、 「海龍王の后になるべきいつきむすめななり」「心高さ苦し や」とて笑ふ。  かく言ふは播磨守の子の、蔵人より今年冠得たるなりけ り。 「いとすきたる者なれば、かの入道の遺言破りつべき 心はあらんかし」 「さてたたずみ寄るならむ」と言ひあヘり。 「いで、さいふとも、田舎びたらむ。幼くよりさる所に 生ひ出でて、古めいたる親にのみ従ひたらむは」「母こそゆ ゑあるべけれ。よき若人、童など、都のやむごとなき所どこ ろより、類にふれて、尋ねとりて、まばゆくこそもてなすな れ」 「情なき人なりてゆかば、さて心やすくてしも、えおき たらじをや」など言ふもあり。君、 「何心ありて、海の底ま

で深う思ひ入るらむ。底のみるめもものむつかしう」
などの たまひて、ただならず思したり。かやうにても、なべてなら ず、もてひがみたること好みたまふ御心なれば、御耳とどま らむをや、と見たてまつる。   「暮れかかりぬれど、おこらせたまはずなりぬるにこそ はあめれ。はや帰らせたまひなん」とあるを、大徳、 「御物の 怪など加はれるさまにおはしましけるを、今宵はなほ静かに 加持などまゐりて、出でさせたまヘ」と申す。 「さもあるこ と」と皆人申す。君も、かかる旅寝もならひたまはねば、さ すがにをかしくて、 「さらば暁に」とのたまふ。 源氏、紫の上を見いだして恋慕する 人なくて、つれづれなれば、タ暮のいたう 霞みたるにまぎれて、かの小柴垣のほどに 立ち出でたまふ。人々は帰したまひて、惟- 光朝臣とのぞきたまヘば、ただこの西面にしも、持仏すゑた てまつりて行ふ、尼なりけり。簾すこし上げて、花奉るめり。

中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげ に読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、い と白うあてに、痩せたれど、頬つきふくらかに、まみのほ ど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりも こよなう今めかしきものかな、とあはれに見たまふ。  きよげなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で入り遊ぶ。 中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎 えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似る べうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌な り。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤 くすりなして立てり。 「何ごとぞや。童べと腹立ちたまヘるか」とて、尼君の 見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、子なめりと 見たまふ。 「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠の中に籠め たりつるものを」とて、いと口惜しと思ヘり。このゐたる

大人、 「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこ そ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかし うやうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ」とて立 ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納- 言の乳母とこそ人言ふめるは、この子の後見なるべし。  尼君、 「いで、あな幼や。言ふかひなうものしたまふかな。 おのがかく今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、 雀慕ひたまふほどよ。罪得ることぞと常に聞こゆるを、心憂 く」とて、 「こちや」と言ヘば、ついゐたり。  頬つきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いは けなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。ね びゆかむさまゆかしき人かな、 と目とまりたまふ。さるは、 限りなう心を尽くしきこゆる 人に、いとよう似たてまつれ

るが、まもらるるなりけり、と思ふにも涙ぞ落つる。  尼君、髪をかき撫でつつ、 「梳ることをうるさがりたまヘ ど、をかしの御髪や。いとはかなうものしたまふこそ、あは れにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人も あるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れたまひしほど、 いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし。ただ今おのれ見 棄てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」とて、い みじく泣くを見たまふも、すずろに悲し。幼心地にも、さす がにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれ かかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。    おひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消え   んそらなき またゐたる大人、 「げに」とうち泣きて、 初草のおひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えんとす  らむ

と聞こゆるほどに、僧都あなたより来て、 「こなたはあら はにやはべらむ。今日しも端におはしましけるかな。この上 の聖の方に、源氏の中将の、瘧病まじなひにものしたまひけ るを、ただ今なむ聞きつけはべる。いみじう忍びたまひけれ ば、知りはべらで、ここにはべりながら、御とぶらひにもま でざりける」とのたまヘば、 「あないみじや。いとあやし きさまを人や見つらむ」とて、簾下ろしつ。  「この世にの のしりたまふ光る源氏、かかるついでに見たてまつりたまは んや。世を棄てたる法師の心地にも、いみじう世の愁ヘ忘れ、 齢のぶる人の御ありさまなり。いで御消息聞こえん」とて立 つ音すれば、帰りたまひぬ。  あはれなる人を見つるかな、かかれば、このすき者どもは、 かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなり けり、たまさかに立ち出づるだに、かく思ひの外なることを 見るよと、をかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児

かな、何人ならむ、かの人の御かはりに、明け暮れの慰めに も見ばや、と思ふ心深うつきぬ。 源氏、招かれて僧都の坊を訪れる うち臥したまヘるに、僧都の御弟子、惟光 を呼び出でさす。ほどなき所なれば、君も やがて聞きたまふ。 「過きりおはしまし けるよし、ただ今なむ人申すに、驚きながら、さぶらふべき を、なにがしこの寺に籠りはべりとはしろしめしながら忍び させたまへるを、愁はしく思ひたまヘてなん。草の御むしろ も、この坊にこそまうけはべるべけれ。いと本意なきこと」 と申したまへり。 「去ぬる十余日のほどより、瘧病にわづ らひはべるを、たび重なりてたヘがたくはべれば、人の教ヘ のままに、にはかに尋ね入りはべりつれど、かやうなる人の、 しるしあらはさぬ時、はしたなかるべきも、ただなるよりは いとほしう思ひたまへつつみてなむ、いたう忍びはべりつる。 いまそなたにも」とのたまへり。

 すなはち僧都参りたまへり。法師なれど、いと心恥づかし く、人がらもやむごとなく世に思はれたまへる人なれば、か るがるしき御ありさまを、はしたなう思す。かく籠れるほど の御物語など聞こえたまひて、 「同じ柴の庵なれど、すこ し涼しき水の流れも御覧ぜさせん」と、せちに聞こえたまへ ば、かのまだ見ぬ人々に、ことごとしう言ひ聞かせつるを、 つつましう思せど、あはれなりつるありさまもいぶかしくて おはしぬ。  げに、いと心ことによしありて、同じ木草をも植ゑなした まへり。月もなきころなれば、遣水に篝火ともし、燈籠など もまゐりたり。南面いときよげにしつらひたまへり。そらだ きものいと心にくくかをり出で、名香の香など匂ひ満ちたる に、君の御追風いとことなれば、内の人々も心づかひすべか めり。 源氏、紫の上の素姓を聞き僧都に所望する

僧都、世の常なき御物語、後の世のことな ど聞こえ知らせたまふ。わが罪のほど恐ろ しう、あぢきなきことに心をしめて、生け るかぎりこれを思ひなやむべきなめり、まして後の世のいみ じかるべき、思しつづけて、かうやうなる住まひもせまほし うおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ、 「ここにものしたまふは誰にか。尋ねきこえまほしき夢を 見たまへしかな。今日なむ思ひあはせつる」と聞こえたまへ ば、うち笑ひて、 「うちつけなる御夢語りにぞはべるなる。 尋ねさせたまひても、御心劣りせさせたまひぬべし。故按察- 大納言は、世になくて久しくなりはべりぬれば、えしろしめ さじかし。その北の方なむ、なにがしが妹にはべる。かの按- 察隠れて後、世を背きてはべるが、このごろわづらふ事はべ るにより、かく京にもまかでねば、頼もし所に籠りてものし はべるなり」と聞こえたまふ。

  「かの大納言の御むすめ、ものしたまふと聞きたまへし は。すきずきしき方にはあらで、まめやかに聞こゆるなり」 と、推しあてにのたまへば、 「むすめただ一人はべりし。亡 せてこの十余年にやなりはべりぬらん。故大納言、内裏に奉 らむなど、かしこういつきはべりしを、その本意のごとくも ものしはべらで、過ぎはべりにしかば、ただこの尼君ひとり もてあつかひはべりしほどに、いかなる人のしわざにか、兵- 部卿宮なむ、忍びて語らひつきたまへりけるを、もとの北の 方、やむごとなくなどして、安からぬこと多くて、明け暮れ ものを思ひてなん、亡くなりはべりにし。もの思ひに病づく ものと、目に近く見たまへし」など申したまふ。  さらば、その子なりけり、と思しあはせつ。親王の御筋に て、かの人にも通ひきこえたるにやと、いとどあはれに、見 まほし。人のほどもあてにをかしう、なかなかのさかしら心 なく、うち語らひて心のままに教へ生ほし立てて見ばや、と

思す。   「いとあはれにものしたまふことかな。それはとどめた まふ形見もなきか」と、幼かりつる行く方の、なほたしかに 知らまほしくて、問ひたまへば、 「亡くなりはべりしほど にこそはべりしか。それも女にてぞ。それにつけてもの思ひ のもよほしになむ、齢の末に思ひたまへ嘆きはべるめる」と 聞こえたまふ。さればよ、と思さる。   「あやしきことなれど、幼き御後見に思すべく聞こえた まひてんや。思ふ心ありて、行きかかづらふ方もはべりなが ら、世に心のしまぬにやあらん、独り住みにてのみなむ。ま だ似げなきほどと、常の人に思しなずらへて、はしたなくや」 などのたまへば、 「いとうれしかるべき仰せ言なるを、ま だむげにいはけなきほどにはべるめれば、戯れにても御覧じ がたくや。そもそも女人は、人にもてなされて大人にもなり たまふものなれば、くはしくはえとり申さず。かの祖母に語

らひはべりて聞こえさせむ」
と、すくよかに言ひて、ものご はきさましたまへれば、若き御心に恥づかしくて、えよくも 聞こえたまはず。 「阿弥陀仏ものしたまふ堂に、する事は べるころになむ。初夜いまだ勤めはべらず。過ぐしてさぶら はむ」とて、上りたまひぬ。 源氏、尼君に意中を訴え、拒まれる 君は心地もいとなやましきに、雨すこしう ちそそき、山風ひややかに吹きたるに、滝 のよどみもまさりて、音高う聞こゆ。すこ しねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろ なる人も、所がらものあはれなり。まして思しめぐらすこと 多くて、まどろませたまはず。初夜といひしかども、夜もい たう更けにけり。内にも人の寝ぬけはひしるくて、いと忍び たれど、数珠の脇息にひき鳴らさるる音ほの聞こえ、なつか しううちそよめくおとなひ、あてはかなり、と聞きたまひて、 ほどもなく近ければ、外に立てわたしたる屏風の中をすこし

ひき開けて、扇を鳴らしたまへば、おぼえなき心地すべかめ れど、聞き知らぬやうにやとて、ゐざり出づる人あなり。す こし退きて、 「あやし。ひが耳にや」とたどるを聞きたまひ て、 「仏の御しるべは、暗きに入りても、さらに違ふまじ かなるものを」とのたまふ御声の、いと若うあてなるに、う ち出でむ声づかひも、恥づかしけれど、 「いかなる方の御 しるべにか。おぼつかなく」と聞こゆ。 「げに、うちつけ なり、とおぼめきたまはむもことわりなれど、   はつ草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖もつゆぞかわ   かぬ と聞こえたまひてむや」とのたまふ。 「さらにかやうの御 消息うけたまはり分くべき人もものしたまはぬさまは、しろ しめしたりげなるを、誰にかは」と聞こゆ。「おのづから、 さるやうありて聞こゆるならん、と思ひなしたまへかし」と のたまへば、入りて聞こゆ。 「あな、今めかし。この君や 世づいたるほどにおはする、とぞ思すらん、さるにては、か の若草を、いかで聞いたまへることぞ」とさまざまあやしき に、心乱れて、久しうなれば、情なしとて、    「枕ゆふ今宵ばかりの露けさを深山の苔にくらべざら   なむ ひがたうはべるものを」と聞こえたまふ。   「かうやうの伝なる御消息は、まださらに、聞こえ知ら ず、ならはぬことになむ。かたじけなくとも、かかるついで にまめまめしう聞こえさすべきことなむ」と聞こえたまへれ ば、尼君、 「ひが事聞きたまへるならむ。いと恥づかしき御 けはひに、何ごとをかは答へきこえむ」とのたまへば、 「はし たなうもこそ思せ」と人々聞こゆ。 「げに、若やかなる人 こそうたてもあらめ。まめやかにのたまふ、 かたじけなし」 とて、ゐざり寄りたまへり。   「うちつけに、あさはかなりと御覧ぜられぬべきついで

なれど、心にはさもおぼえはべらねば、仏はおのづから」
と て、おとなおとなしう、恥づかしげなるにつつまれて、とみ にもえうち出でたまはず。 「げに思ひたまへ寄りがたきつ いでに、かくまでのたまはせ、聞こえさするも、浅くはいか が」とのたまふ。 「あはれにうけたまはる御ありさまを、 かの過ぎたまひにけむ御かはりに思しないてむや。言ふかひ なきほどの齢にて、睦ましかるべき人にも立ちおくれはべり にければ、あやしう浮きたるやうにて、年月をこそ重ねはべ れ。同じさまにものしたまふなるを、たぐひになさせたまへ、 といと聞こえまほしきを、かかるをりはべりがたくてなむ、 思されんところをも憚らず、うち出ではべりぬる」と聞こえ たまへば、 「いとうれしう思ひたまへぬべき御ことながら も、聞こしめしひがめたることなどやはべらん、とつつまし うなむ。あやしき身ひとつを、頼もし人にする人なむはべれ ど、いとまだ言ふかひなきほどにて、御覧じゆるさるる方も

はべりがたげなれば、えなむうけたまはりとどめられざりけ る」
とのたまふ。 「みなおぼつかなからずうけたまはるも のを、ところせう思し憚らで、思ひたまへ寄るさまことなる 心のほどを御覧ぜよ」と聞こえたまへど、いと似げなきこと をさも知らでのたまふ、と思して、心とけたる御答へもなし。 僧都おはしぬれば、 「よし、かう聞こえそめはべりぬれば、 いと頼もしうなむ」とて、おし立てたまひつ。 翌朝、源氏再び僧都と対座和歌の贈答 暁方になりにければ、法華三味おこなふ 堂の懺法の声、山おろしにつきて聞こえく る、いと尊く、滝の音に響きあひたり。    吹き迷ふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音   かな    「さしぐみに袖ぬらしける山水にすめる心は騒ぎやは   する 耳馴れはべりにけりや」と聞こえたまふ。

 明けゆく空は、いといたう霞みて、山の鳥ども、そこはか となう囀りあひたり。名も知らぬ木草の花どもも、いろいろ に散りまじり、錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くも めづらしく見たまふに、なやましさも紛れはてぬ。  聖、動きもえせねど、とかうして護身まゐらせたまふ。か れたる声の、いといたうすきひがめるも、あはれに功づきて、 陀羅尼読みたり。 僧都らと惜別 源氏、尼君と和歌を贈答 御迎への人々参りて、おこたりたまへるよ ろこび聞こえ、内裏よりも御とぶらひあり。 僧都、世に見えぬさまの御くだもの、何く れと、谷の底まで掘り出で、いとなみきこえたまふ。 「今- 年ばかりの誓ひ深うはべりて、御送りにもえ参りはべるまじ きこと。なかなかにも思ひたまへらるべきかな」など聞こえ たまひて、大御酒まゐりたまふ。 「山水に心とまりはべり ぬれど、内裏よりおぼつかながらせたまへるもかしこければ

なむ。いまこの花のをり過ぐさず参り来む。  宮人に行きて語らむ山桜風よりさきに来ても見るべく」
とのたまふ御もてなし、声づかひさへ目もあやなるに、    優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそうつ   らね と聞こえたまへば、ほほ笑みて、 「時ありて一たび開くな るは、かたかなるものを」とのたまふ。聖、御土器賜はりて、   奥山の松のとぼそをまれにあけてまだ見ぬ花のかほを   見るかな とうち泣きて見たてまつる。聖、御まもりに、独鈷奉る。見 たまひて、僧都、聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子 の数珠の玉の装束したる、やがてその国より入れたる箱の唐 めいたるを、透きたる袋に入れて、 五葉の枝につけて、紺瑠璃の壼ども に、御薬ども入れて、藤桜などにつ

けて、所につけたる御贈物ども捧げたてまつりたまふ。君、 聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、 さまざまに取りに遣はしたりければ、そのわたりの山がつま で、さるべき物ども賜ひ、御誦経などして出でたまふ。  内に僧都入りたまひて、かの聞こえたまひしこと、まねび 聞こえたまへど、 「ともかくも、ただ今は聞こえむ方なし。 もし御心ざしあらば、いま四五年を過ぐしてこそは、ともか くも」とのたまへば、 「さなむ」と同じさまにのみあるを、 本意なし、と思す。御消息、僧都のもとなる小さき童して、    夕まぐれほのかに花の色を見てけさは霞の立ちぞわ   づらふ 御返し、    まことにや花のあたりは立ちうきとかすむる空のけ   しきをも見む とよしある手のいとあてなるを、うち棄て書いたまへり。 源氏、君達らと帰還 紫の上、源氏を慕う

御車に奉るほど、大殿より、 「いづちとも なくておはしましにけること」とて、御迎 への人々、君たちなどあまた参りたまへり。 頭中将、左中弁、さらぬ君たちも慕ひきこえて、 「かう やうの御供には、仕うまつりはべらむ、と思ひたまふるを、 あさましくおくらさせたまへること」と恨みきこえて、 「いといみじき花の蔭に、しばしもやすらはず、たちかへり はべらむは、あかぬわざかな」とのたまふ。岩隠れの苔の上 に並みゐて、土器まゐる。落ち来る水のさまなど、ゆゑある 滝のもとなり。  頭中将、懐なりける笛取り出でて、吹きすましたり。弁の 君、扇はかなううち鳴らして、 「豊浦の寺の西なるや」とうた ふ。人よりはことなる君たちを、源氏の君いといたううちな やみて、岩に寄りゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御あり さまにぞ、何ごとにも目移るまじかりける。例の、篳篥吹く

随身、笙の笛持たせたるすき者などあり。僧都、琴をみづか ら持てまゐりて、 「これ、ただ御手ひとつあそばして、同 じうは、山の鳥もおどろかしはべらむ」と、せちに聞こえた まへば、 「乱り心地いとたへがたきものを」と聞こえたまへ ど、けにくからず掻き鳴らして、みな立ちたまひぬ。  あかず口惜しと、言ふかひなき法師童べも、涙を落しあへ り。まして内には、年老いたる尼君たちなど、まださらにか かる人の御ありさまを見ざりつれば、 「この世のものともお ぼえたまはず」と聞こえあへり。僧都も、 「あはれ、何の契 りにて、かかる御さまながら、いとむつかしき日本の末の世 に、生まれたまへらむ、と見るに、いとなむ悲しき」とて、 目おし拭ひたまふ。  この若君、幼心地に、めでたき人かなと見たまひて、 「宮 の御ありさまよりも、まさりたまへるかな」などのたまふ。 「さらば、かの人の御子になりておはしませよ」と聞こゆ

れば、うちうなづきて、いとようありなむ、と思したり。雛- 遊びにも、絵描いたまふにも、源氏の君と作り出でて、きよ らなる衣着せ、かしづきたまふ。 源氏、葵の上と不和 紫の上を思う 君はまづ内裏に参りたまひて、日ごろの御 物語など聞こえたまふ。いといたう衰へに けりとて、ゆゆしと思しめしたり。聖の尊 かりけることなど問はせたまふ。詳しう奏したまへば、 「阿- 闍梨などにもなるべきものにこそあなれ。行ひの労は積もり て、おほやけにしろしめされざりけること」と、らうたがり のたまはせけり。  大殿参りあひたまひて、 「御迎へにもと思ひたまへつれ ど、忍びたる御歩きに、いかがと、思ひ憚りてなむ。のどや かに一二日うち休みたまへ」とて、 「やがて御送り仕うま つらむ」と申したまへば、さしも思さねど、ひかされてまか でたまふ。わが御車に乗せたてまつりたまうて、みづからは

ひき入りて奉れり。もてかしづききこえたまへる御心ばへの あはれなるをぞ、さすがに心苦しく思しける。 殿にも、おはしますらむと心づかひしたまひて、久しく見 たまはぬほど、いとど玉の台に磨きしつらひ、よろづをとと のへたまへり。女君、例の、はひ隠れてとみにも出でたまは ぬを、大臣せちに聞こえたまひて、からうじて渡りたまへり。 ただ絵に描きたるものの姫君のやうに、しすゑられて、うち みじろきたまふこともかたく、うるはしうてものしたまへ ば、思ふこともうちかすめ、山路の物語をも聞こえむ、言ふ かひありて、をかしう答へたまはばこそあはれならめ、世に は心もとけず、うとく恥づかしきものに思して、年の重なる に添へて、御心の隔てもまさるを、いと苦しく、思はずに、 「時々は世の常なる御気色を見ばや。たへがたうわづらひ はべりしをも、いかがとだに問ひたまはぬこそ、めづらしか らぬことなれど、なほうらめしう」と聞こえたまふ。からう

じて、 「問はぬはつらきものにやあらん」と、後目に見おこ せたまへるまみ、いと恥づかしげに、気高ううつくしげなる 御容貌なり。 「まれまれは、あさましの御言や。問はぬな どいふ際は、ことにこそはべるなれ。心うくものたまひなす かな。世とともにはしたなき御もてなしを、もし思しなほる をりもやと、とざまかうざまに試みきこゆるほど、いとど思 ほしうとむなめりかし。よしや、命だに」とて、夜の御座に 入りたまひぬ。女君、ふとも入りたまはず。聞こえわづらひ たまひて、うち嘆きて臥したまへるも、なま心づきなきにや あらむ、ねぶたげにもてなして、とかう世を思し乱るること 多かり。  この若草の生ひ出でむほどのなほゆかしきを、似げないほ どと思へりしもことわりぞかし、言ひよりがたきことにもあ るかな、いかにかまへて、ただ心やすく迎へ取りて、明け暮 れの慰めに見ん、兵部卿宮は、いとあてになまめいたまへ

れど、にほひやかになどもあらぬを、いかでかの一族におぼ えたまふらむ、ひとつ后腹なればにや、など思す。ゆかりい と睦ましきに、いかでか、と深うおぼゆ。 翌日、源氏北山の人々に消息を遣わす またの日、御文奉れたまへり。僧都にもほ のめかしたまふべし。尼上には、    もて離れたりし御気色のつつま   しさに、思ひたまふるさまをも、えあらはしはてはべ   らずなりにしをなむ。かばかり聞こゆるにても、おし   なべたらぬ心ざしのほどを御覧じ知らば、いかにうれ   しう。 などあり。中に小さくひき結びて、    「面影は身をも離れず山ざくら心のかぎりとめて来   しかど 夜の間の風もうしろめたくなむ」とあり。御手などはさるも のにて、ただはかなうおしつつみたまへるさまも、さだ過ぎ

たる御目どもには、目もあやに好ましう見ゆ。あなかたはら いたや、いかが聞こえん、と思しわづらふ。    ゆくての御ことは、なほざりにも思ひたまへなされ   しを、ふりはへさせたまへるに、聞こえさせむ方なくな   む。まだ難波津をだにはかばかしうつづけはべらざめれ   ば、かひなくなむ。さても、   嵐吹く尾上の桜散らぬ間を心とめけるほどのはかなさ   いとどうしろめたう。 とあり。僧都の御返りも同じさまなれば、口惜しくて、二三- 日ありて、惟光をぞ奉れたまふ。 「少納言の乳母といふ人 あべし。尋ねて、くはしう語らへ」などのたまひ知らす。 さもかからぬ隈なき御心かな、さばかりいはけなげなりし けはひをと、まほならねども、見しほどを思ひやるもをか し。 わざとかう御文あるを、僧都もかしこまり聞こえたまふ。

少納言に消息してあひたり。くはしく、思しのたまふさま、 おほかたの御ありさまなど語る。言葉多かる人にて、つきづ きしう言ひつづくれど、いとわりなき御ほどを、いかに思す にかと、ゆゆしうなむ誰も誰も思しける。御文にも、いとね むごろに書いたまひて、例の、中に 「かの御放ち書きなむ、 なほ見たまへまほしき」とて、    あさか山あさくも人を思はぬになど山の井のかけは   なるらむ 御返し、    汲みそめてくやしと聞きし山の井の浅きながらや影   を見るべき  惟光も同じことを聞こゆ。  「このわづらひたまふこと よろしくは、このごろ過ぐして、京の殿に渡りたまひてなむ、 聞こえさすべき」とあるを、心もとなう思す。 藤壷、宮中を退出 源氏、藤壷と逢う

藤壼の宮、なやみたまふことありて、まか でたまへり。上のおぼつかながり嘆ききこ えたまふ御気色も、いといとほしう見たて まつりながら、かかるをりだにと、心もあくがれまどひて、 いづくにもいづくにも参うでたまはず、内裏にても里にても、 昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば、王命婦を責め歩 きたまふ。いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつ るほどさへ、現とはおぼえぬぞわびしきや。宮もあさましか りしを思し出づるだに、世とともの御もの思ひなるを、さて だにやみなむ、と深う思したるに、いとうくて、いみじき御- 気色なるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちと けず、心深う恥づかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似 させたまはぬを、などかなのめなることだにうちまじりたま はざりけむ、と、つらうさへぞ思さるる。  何ごとをかは聞こえつくしたまはむ。くらぶの山に宿も取

らまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなか なかなり。    見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるる   わが身ともがな とむせかへりたまふさまも、さすがにいみじければ、    世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を醒めぬ夢   になしても 思し乱れたるさまも、いとことわりにかたじけなし。命婦の 君ぞ、御直衣などは、かき集めもて来たる。 源氏・藤壷の苦悩 藤壷懐妊、宮中に帰参 殿におはして、泣き寝に臥し暮らしたまひ つ。御文なども、例の御覧じ入れぬよしの みあれば、常のことながらも、つらう、い みじう思しほれて、内裏へも参らで、二三日籠りおはすれば、 また、いかなるにかと、御心動かせたまふべかめるも、恐ろ しうのみおぼえたまふ。

 宮も、なほいと心うき身なりけり、と思し嘆くに、なやま しさもまさりたまひて、とく参りたまふべき御使しきれど、 思しも立たず。まことに御心地例のやうにもおはしまさぬは、 いかなるにかと、人知れず思すこともありければ、心うく、 いかならむとのみ思し乱る。暑きほどはいとど起きも上がり たまはず。三月になりたまへば、いとしるきほどにて、人々 見たてまつりとがむるに、あさましき御宿世のほど心うし。 人は思ひよらぬことなれば、この月まで奏せさせたまはざり けること、と驚ききこゆ。わか御心ひとつには、しるう思し分 くこともありけり。御湯殿などにも親しう仕うまつりて、何 ごとの御気色をもしるく見たてまつり知れる、御乳母子の弁、 命婦などぞ、あやしと思へど、かたみに言ひあはすべきにあ らねば、なほのがれがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさま しと思ふ。内裏には御物の怪のまぎれにて、とみに気色なう おはしましけるやうにぞ奏しけむかし。見る人もさのみ思ひ

けり。いとどあはれに限りなう思されて、御使などのひまな きもそら恐ろしう、ものを思すこと隙なし。  中将の君も、おどろおどろしうさま異なる夢を見たまひて、 合はする者を召して問はせたまへば、及びなう思しもかけぬ 筋のことを合はせけり。 「その中に違ひ目ありて、つつし ませたまふべきことなむはべる」と言ふに、わづらはしくお ぼえて、 「みづからの夢にはあらず、人の御ことを語るなり。 この夢合ふまで、また人にまねぶな」とのたまひて、心の中 には、いかなることならむと思しわたるに、この女宮の御こ と聞きたまひて、もしさるやうもや、と思しあはせたまふに、 いとどしくいみじき言の葉尽くし聞こえたまへど、命婦も思 ふに、いとむくつけう、わづらはしさまさりて、さらにたば かるべき方なし。はかなき一行の御返りのたまさかなりしも、 絶えはてにたり。  七月になりてぞ参りたまひける。めづらしうあはれにて、

いとどしき御思ひのほど限りなし。すこしふくらかになりた まひて、うちなやみ面痩せたまへる、はた、げに似るものな くめでたし。例の明け暮れこなたにのみおはしまして、御遊 びもやうやうをかしき空なれば、源氏の君もいとまなく召し まつはしつつ、御琴笛など、さまざまに仕うまつらせたま ふ。いみじうつつみたまへど、忍びがたき気色の漏り出づる をりをり、宮もさすがなる事どもを、多く思しつづけけり。 尼君ら帰京源氏訪れて紫の上の声を聞く かの山寺の人は、よろしくなりて出でたま ひにけり。京の御住み処尋ねて、時々の御 消息などあり。同じさまにのみあるもこと わりなるうちに、この月ごろは、ありしにまさるもの思ひに、 ことごとなくて過ぎゆく。  秋の末つ方、いともの心細くて嘆きたまふ。月のをかしき 夜、忍びたる所に、からうじて思ひたちたまへるを、時雨め いてうちそそく。おはする所は六条京極わたりにて、内裏よ

りなれば、すこしほど遠き心地するに、荒れたる家の、木立 いとものふりて、木暗く見えたるあり。例の御供に離れぬ惟- 光なむ、 「故按察大納言の家にはべりて、もののたより にとぶらひてはべりしかば、かの尼上、いたう弱りたまひに たれば、何ごともおぼえず、となむ申してはべりし」と聞こ ゆれば、 「あはれのことや。とぶらふべかりけるを。など かさなむとものせざりし。入りて消息せよ」とのたまへば、 人入れて案内せさす。わざとかう立ち寄りたまへること、と 言はせたれば、入りて、 「かく御とぶらひになむおはしま したる」と言ふに、おどろきて、 「いとかたはらいたきこ とかな。この日ごろ、むげにいと頼もしげなくならせたまひ にたれば、御対面などもあるまじ」と言へども、帰したてま つらむはかしこしとて、南の廂ひきつくろひて入れたてま つる。   「いとむつかしげにはべれど、かしこまりをだにとて。

ゆくりなう、もの深き御座所になむ」
と聞こゆ。げにかかる 所は、例に違ひて思さる、 「常に思ひたまへたちながら、 かひなきさまにのみもてなさせたまふに、つつまれはべりて なむ。なやませたまふこと重くともうけたまはらざりけるお ぼつかなさ」など聞こえたまふ。 「乱り心地は、いつとも なくのみはべるが、限りのさまになりはべりて、いとかたじ けなく立ち寄らせたまへるに、みづから聞こえさせぬこと。 のたまはすることの筋、たまさかにも思しめしかはらぬやう はべらば、かくわりなき齢過ぎはべりて、かならずかずまへ させたまへ。いみじう心細げに見たまへおくなん、願ひはべ る道のほだしに、思ひたまへられぬべき」など聞こえたまへ り。  いと近ければ、心細げなる御声絶え絶え聞こえて、 「い とかたじけなきわざにもはべるかな。この君だに、かしこま りも聞こえたまつべきほどならましかば」とのたまふ。あは

れに聞きたまひて、 「何か、浅う思ひたまへむことゆゑ、 かうすきずきしきさまを見えたてまつらむ。いかなる契りに か、見たてまつりそめしより、あはれに思ひきこゆるも、あ やしきまで、この世の事にはおぼえはべらぬ」などのたまひ て、 「かひなき心地のみしはべるを、かのいはけなうもの したまふ御一声、いかで」とのたまへば、 「いでや、よろ づもの思し知らぬさまに、大殿籠り入りて」など聞こゆるを りしも、あなたより来る音して、 「上こそ。この寺にありし 源氏の君こそおはしたなれ。など見たまはぬ」とのたまふを、 人々いとかたはらいたしと思ひて、 「あなかま」と聞こゆ。 「いさ、見しかば心地のあしさ慰みき、とのたまひしかばぞ かし」と、かしこきこと聞こえたりと思してのたまふ。いと をかしと聞いたまへど、人々の苦しと思ひたれば、聞かぬや うにて、まめやかなる御とぶらひを聞こえおきたまひて帰り たまひぬ。げに言ふかひなのけはひや、さりとも、いとよう

教へてむ、と思す。 翌日、源氏尼君に消息 紫の上への執心 またの日もいとまめやかにとぶらひきこえ たまふ。例の小さくて、    「いはけなき鶴の一声聞きしより葦-   間になづむ舟ぞえならぬ 同じ人にや」と、ことさら幼く書きなしたまへるも、いみじ うをかしげなれば、やがて御手本に、と人々聞こゆ。少納言 ぞ聞こえたる。 「訪はせたまへるは、今日をも過ぐしが たげなるさまにて、山寺にまかり渡るほどにて。かう訪はせ たまへるかしこまりは、この世ならでも聞こえさせむ」とあ り。いとあはれと思す。  秋の夕は、まして、 心のいとまなく思し乱るる人の御あ たりに心をかけて、あながちなる、ゆかりもたづねまほしき 心もまさりたまふなるべし。「消えんそらなき」とありし 夕、思し出でられて、恋しくも、また、見ば劣りやせむ、と

さすがに危し。    手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺   の若草 尼君の死去源氏、紫の上をいたわり弔う 十月に朱雀院の行幸あるべし。舞人など、 やむごとなき家の子ども、上達部殿上人ど もなども、その方につきづきしきは、みな 選らせたまへれば、親王たち大臣よりはじめて、とりどりの 才ども習ひたまふ。いとまなし。  山里人にも、久しくおとづれたまはざりけるを、思し出で て、ふりはへ遣はしたりければ、僧都の返りごとのみあり。 「たちぬる月の二十日のほどになむ、つひにむなしく見 たまへなして、世間の道理なれど、悲しび思ひたまふる」な どあるを見たまふに、世の中のはかなさもあはれに、うしろ めたげに思へりし人もいかならむ、幼きほどに恋ひやすらむ、 故御息所に後れたてまつりしなど、はかばかしからねど思ひ

出でて、浅からずとぶらひたまへり。少納言、ゆゑなからず 御返りなど聞こえたり。 源氏、紫の上の邸を訪れ、一夜を過す 忌みなど過ぎて、京の殿になど聞きたまへ ば、ほど経て、みづからのどかなる夜おは したり。いとすごげに荒れたる所の、人少 ななるに、いかに幼き人おそろしからむと見ゆ。例の所に入 れたてまつりて、少納言、御ありさまなど、うち泣きつつ聞 こえつづくるに、あいなう御袖もただならず。   「宮に渡したてまつらむとはべるめるを、 故姫君のい と情なく、うきものに思ひきこえたまへりしに、いとむげに 児ならぬ齢の、またはかばかしう人のおもむけをも見知りた まはず、中空なる御ほどにて、あまたものしたまふなる中の、 あなづらはしき人にてや交りたまはんなど、過ぎたまひぬる も、世とともに思し嘆きつること、しるきこと多くはべるに、 かくかたじけなきなげの御言の葉は、後の御心もたどりきこ

えさせず、いとうれしう思ひたまへられぬべきをりふしには べりながら、すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず、 御年よりも若びてならひたまへれば、いとかたはらいたくは べる」
と聞こゆ。 「何か、かうくり返し聞こえ知らする心 のほどを、つつみたまふらむ。その言ふかひなき御心のあり さまの、あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ、 心ながら思ひ知られける。なほ人づてならで、聞こえ知らせ ばや。   あしわかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへ   る波かは めざましからむ」とのたまへば、 「げにこそいとかしこ けれ」とて、   「寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかんほど   ぞ浮きたる わりなきこと」と聞こゆるさまの馴れたるに、すこし罪ゆる されたまふ。 「なぞ越えざらん」と、うち誦じたまへるを、 身にしみて若き人々思へり。  君は、上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに、御遊 びがたきどもの、 「直衣着たる人のおはする。宮のおはしま すなめり」と聞こゆれば、起き出でたまひて、 「少納言よ。 直衣着たりつらむは、いづら。宮のおはするか」とて、寄り おはしたる御声、いとらうたし。 「宮にはあらねど、また 思し放つべうもあらず。こち」とのたまふを、恥づかしかり し人と、さすがに聞きなして、あしう言ひてけり、と思して、 乳母にさし寄りて、 「いざかし、ねぶたきに」とのたまへば、 「いまさらに、など忍びたまふらむ。この膝のうへに大殿- 籠れよ。いますこし寄りたまへ」とのたまへば、乳母の、 「さればこそ。かう世づかぬ御ほどにてなむ」とて、押し寄 せたてまつりたれば、何心もなくゐたまへるに、手をさし入 れて探りたまへれば、なよよかなる御衣に、髪はつやつやと

かかりて、末のふさやかに探りつけられたる、いとうつくし う思ひやらる。手をとらへたまへれば、うたて、例ならぬ人 の、かく近づきたまへるは、恐ろしうて、 「寝なむといふも のを」とて強ひて引き入りたまふにつきて、すべり入りて、 「今は、まろぞ思ふべき人。なうとみたまひそ」とのたま ふ。 「いで、あなうたてや。ゆゆしうもはべるかな。 聞こえさせ知らせたまふとも、さらに何のしるしもはべらじ ものを」とて、苦しげに思ひたれば、 「さりとも、かかる 御ほどをいかがはあらん。なほ、ただ世に知らぬ心ざしのほ どを見はてたまへ」とのたまふ。 霰降り荒れて、すごき夜のさまなり。 「いかで、かう人 少なに、心細うて過ぐしたまふらむ」とうち泣いたまひて、 いと見捨てがたきほどなれば、 「御格子まゐりね。もの恐 ろしき夜のさまなめるを、宿直人にてはべらむ。人々近うさ ぶらはれよかし」とて、いと馴れ顔に御帳の内に入りたまへ

ば、あやしう思ひの外にも、とあきれて、誰も誰もゐたり。 乳母は、うしろめたうわりなしと思へど、荒らましう聞こえ 騒ぐべきならねば、うち嘆きつつゐたり。若君は、いと恐ろ しう、いかならんとわななかれて、いとうつくしき御肌つき も、そぞろ寒げに思したるを、らうたくおぼえて、単衣ばか りを押しくくみて、わが御心地も、かつは、うたておぼえた まへど、あはれにうち語らひたまひて、 「いざたまへよ。 をかしき絵など多く、雛遊び などする所に」と、心につく べきことをのたまふけはひの、 いとなつかしきを、幼き心地 にも、いといたう怖ぢず、さ すかにむつかしう、寝も入ら ずおぼえて、身じろき臥した まへり。

 夜ひと夜風吹き荒るるに、 「げにかうおはせざらましか ば、いかに心細からまし。同じくはよろしきほどにおはしま さましかば」とささめきあへり。乳母は、うしろめたさに、 いと近うさぶらふ。風すこし吹きやみたるに、夜深う出でた まふも、事あり顔なりや。 「いとあはれに見たてまつる御 ありさまを、今はまして片時の間もおぼつかなかるべし。明 け暮れながめはべる所に渡したてまつらむ。かくてのみはい かが。もの怖ぢしたまはざりけり」とのたまへば、 「宮も 御迎へになど聞こえのたまふめれど、この御四十九日過ぐし てや、など思うたまふる」と聞こゆれば、 「頼もしき筋な がらも、よそよそにてならひたまへるは、同じうこそ疎うお ぼえたまはめ。今より見たてまつれど、浅からぬ心ざしはま さりぬべくなむ」とて、かい撫でつつ、かへりみがちにて出 でたまひぬ。 源氏、帰途に忍び所の門をたたかす

いみじう霧りわたれる空もただならぬに、 霜はいと白うおきて、まことの懸想もをか しかりぬべきに、さうざうしう思ひおはす。 いと忍びて通ひたまふ所の、道なりけるを思し出でて、門う ち叩かせたまへど、聞きつくる人なし。かひなくて、御供に 声ある人して、うたはせたまふ。   あさぼらけ霧立つそらのまよひにも行き過ぎがたき妹が  門かな と二返りばかりうたひたるに、よしある下仕を出だして、   立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは草のとざしにさはり  しもせじ と言ひかけて入りぬ。また人も出で来ねば、帰るも情なけれ ど、明けゆく空もはしたなくて、殿へおはしぬ。  をかしかりつる人のなごり恋しく、ひとり笑みしつつ臥し たまへり。日高う大殿籠り起きて、文やりたまふに、書くべ

き言葉も例ならねば、筆うち置きつつすさびゐたまへり。を かしき絵などをやりたまふ。 父兵部卿宮紫の上を訪ね、あわれむ かしこには、今日しも、宮渡りたまへり。 年ごろよりもこよなう荒れまさり、広うも の古りたる所の、いとど人少なにさびしけ れば、見わたしたまひて、 「かかる所には、いかでか、しば しも幼き人の過ぐしたまはむ。なほかしこに渡したてまつり てむ。何のところせきほどにもあらず。乳母は、曹司などし てさぶらひなむ。君は、若き人々あれば、もろともに遊びて、 いとようものしたまひなむ」などのたまふ。  近う呼び寄せたてまつりたまへるに、かの御移り香の、い みじう艶に染みかへらせたまへれば、 「をかしの御匂ひや。 御衣はいと萎えて」と心苦しげに思いたり。 「年ごろも、 あつしくさだすぎたまへる人に添ひたまへるよ。かしこに渡 りて見ならしたまへなどものせしを、あやしう疎みたまひて、

人も心おくめりしを、かかるをりにしもものしたまはむも、 心苦しう」
などのたまへば、 「何かは。心細くとも、し ばしはかくておはしましなむ。すこしものの心思し知りなむ に渡らせたまはむこそ、よくははべるべけれ」と聞こゆ。 「夜昼恋ひきこえたまふに、はかなきものも聞こしめ さず」とて、げにいといたう面痩せたまへれど、いとあてに うつくしく、なかなか見えたまふ。 「何か、さしも思す。今 は世に亡き人の御ことはかひなし。おのれあれば」など語ら ひきこえたまひて、暮るれば帰らせたまふを、いと心細しと 思いて泣いたまへば、宮うち泣きたまひて、 「いとかう思ひ な入りたまひそ。今日明日渡したてまつらむ」など、かへす がへすこしらへおきて、出でたまひぬ。なごりも慰めがたう 泣きゐたまへり。  行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず、ただ年ご ろたち離るるをりなうまつはしならひて、今は亡き人となり

たまひにける、と思すがいみじきに、幼き御心地なれど、胸 つとふたがりて、例のやうにも遊びたまはず、昼はさても紛 らはしたまふを、タ暮となれば、いみじく屈したまへば、か くてはいかでか過ごしたまはむ、と慰めわびて、乳母も泣き あへり。 源氏、惟光を遣わし、父宮の意図を知る 君の御もとよりは、惟光を奉れたまへり。 「参り来べきを、内裏より召しあればなむ。 心苦しう見たてまつりしも、静心なく」と て、宿直人奉れたまへり。 「あぢきなうもあるかな。戯れ にても、もののはじめにこの御ことよ。宮聞こしめしつけば、 さぶらふ人々のおろかなるにぞさいなまむ。あなかしこ。 もののついでに、いはけなくうち出できこえさせたまふな」 など言ふも、それをば何とも思したらぬぞあさましきや。少- 納言は、惟光にあはれなる物語どもして、 「あり経て後 や、さるべき御宿世、のがれきこえたまはぬやうもあらむ。

ただ今は、かけてもいと似げなき御ことと見たてまつるを、 あやしう思しのたまはするも、いかなる御心にか、思ひよる 方なう乱れはべる。今日も宮渡らせたまひて、『うしろやす く仕うまつれ、心幼くもてなしきこゆな』と、のたまはせつ るも、いとわづらはしう、ただなるよりは、かかる御すき事 も思ひ出でられはべりつる」
など言ひて、この人も事あり顔 にや思はむ、など、あいなければ、いたう嘆かしげにも言ひ なさず。大夫も、いかなることにかあらむ、と心得がたう思 ふ。  参りてありさまなど聞こえければ、あはれに思しやらるれ ど、さて通ひたまはむも、さすがにすずろなる心地して、か るがるしう、もてひがめたると、人もや漏り聞かむなど、つ つましければ、ただ迎へてむと思す。御文はたびたび奉れた まふ。暮るれば、例の大夫をぞ奉れたまふ。 「さはる事ど ものありて、え参り来ぬを、おろかにや」などあり。 「宮

より、明日にはかに御迎へにとのたまはせたりつれば、心あ わたたしくてなむ。年ごろの蓬生をかれなむも、さすがに心- 細く、さぶらふ人々も思ひ乱れて」
と、言少なに言ひて、を さをさあへしらはず、物縫ひいとなむけはひなどしるければ、 参りぬ。 葵の上と不和、紫の上を邸から連れ出す 君は大殿におはしけるに、例の女君、とみ にも対面したまはず。ものむつかしくおぼ えたまひて、あづまをすが掻きて、 「常陸 には田をこそつくれ」といふ歌を、声はいとなまめきて、す さびゐたまへり。参りたれば、召し寄せてありさま問ひたま ふ。しかじかなど聞こゆれば、口惜しう思して、かの宮に渡 りなば、わざと迎へ出でむも、すきずきしかるべし、幼き人 を盗み出でたりと、もどき負ひなむ、その前に、しばし人に も口がためて、渡してむ、と思して、 「暁、かしこにもの せむ。車の装束さながら、随身一人二人仰せおきたれ」との

たまふ。うけたまはりて立ちぬ。  君、いかにせまし、聞こえありて、すきがましきやうなる べきこと、人のほどだにものを思ひ知り、女の心かはしける 事と、推しはかられぬべくは、世の常なり、父宮の尋ね出で たまへらむも、はしたなうすずろなるべきを、と思し乱るれ ど、さてはづしてむはいと口惜しかべければ、まだ夜深う出 でたまふ。女君、例のしぶしぶに、心もとけずものしたまふ。 「かしこにいとせちに見るべき事のはべるを、思ひたまへ 出でてなん。立ちかへり参り来なむ」とて、出でたまへば、 さぶらふ人々も知らざりけり。わが御方にて、御直衣などは 奉る。惟光ばかりを馬に乗せておはしぬ。  門うち叩かせたまへば、心も知らぬものの開けたるに、御 車をやをら引き入れさせて、大夫妻戸を鳴らしてしはぶけば、 少納言聞き知りて、出で来たり。 「ここに、おはします」 と言へば、 「幼き人は御殿籠りてなむ。などか、いと夜深

うは出でさせたまへる」
と、もののたよりと思ひて言ふ。 「宮へ渡らせたまふべかなるを、その前に聞こえおかむと てなむ」とのたまへば、 「何ごとにかはべらむ。いかに はかばかしき御答へ聞こえさせたまはむ」とて、うち笑ひて ゐたり。  君入りたまへば、いとかたはらいたく、 「うちとけて、 あやしきふる人どものはべるに」と聞こえさす。 「まだお どろいたまはじな。いで御目さましきこえむ。かかる朝霧を 知らでは寝るものか」とて入りたまへば、 「や」ともえ聞こ えず。  君は、何心もなく寝たまへるを、抱きおどろかしたまふに、 おどろきて、宮の御迎へにおはしたる、と寝おびれて思した り。御髪掻きつくろひなどしたまひて、 「いざたまへ。宮 の御使にて参り来つるぞ」とのたまふに、あらざりけり、と あきれて、おそろしと思ひたれば、 「あな心う。まろも同

じ人ぞ」
とて、かき抱きて出でたまへば、大夫少納言など、 「こはいかに」と聞こゆ。 「ここには、常にもえ参らぬがおぼつかなければ、心や すき所にと聞こえしを、心うく渡りたまへるなれば、まして 聞こえがたかべければ。人ひとり参られよかし」とのたまへ ば、心あわたたしくて、 「今日はいと便なくなむはべる べき。宮の渡らせたまはんには、いかさまにか聞こえやらん。 おのづから、ほど経てさるべきにおはしまさば、ともかうも はべりなむを、いと思ひやりなきほどのことにはべれば、さ ぶらふ人々苦しうはべるべし」と聞こゆれば、 「よし、後 にも人は参りなむ」とて、御車寄せさせたまへば、あさまし う、いかさまに、と思ひあへり。若君も、あやしと思して泣 いたまふ。少納言、とどめきこえむ方なければ、昨夜縫ひし 御衣どもひきさげて、みづからもよろしき衣着かへて乗り ぬ。 紫の上を二条院に迎える紫の上の心慰む

二条院は近ければ、まだ明うもならぬほど におはして、西の対に御車寄せて下りたま ふ。若君をば、いと軽らかにかき抱きて下 ろしたまふ。少納言、 「なほいと夢の心地しはべるを、いか にしはべるべきことにか」とやすらへば、 「そは心ななり。 御みづから渡したてまつりつれば、帰りなむとあらば、送り せむかし」とのたまふに、わらひて下りぬ。にはかに、あさ ましう、胸も静かならず。宮の思しのたまはむこと、いかに なりはてたまふべき御ありさまにか、とてもかくても、頼も しき人々に後れたまへるがいみじさ、と思ふに、涙のとまら ぬを、さすがにゆゆしければ、念じゐたり。  こなたは住みたまはぬ対なれば、御帳などもなかりけり。 惟光召して、御帳御屏風など、あたりあたりしたてさせたま ふ。御几帳の帷子引き下ろし、御座などただひきつくろふば かりにてあれば、東の対に、御宿直物召しに遣わして、大殿-

籠りぬ。若君は、いとむくつけく、いかにすることならむ、 とふるはれたまへど、さすがに声たててもえ泣きたまはず。 「少納言がもとに寝む」とのたまふ声いと若し。 「いまは、 さは大殿籠るまじきぞよ」と、教へきこえたまへば、いとわ びしくて泣き臥したまへり。乳母はうちも臥されず、ものも おぼえず、起きゐたり。  明けゆくままに見わたせば、殿の造りざま、しつらひざ ま、さらにもいはず、庭の砂子も玉を重ねたらむやうに見え て、かかやく心地するに、はしたなく思ひゐたれど、こなた には女などもさぶらはざりけり。けうとき客人などの参るを りふしの方なりければ、男どもぞ御廉の外にありける。かく 人迎へたまへり、と聞く人、 「誰ならむ。おぼろけにはあら じ」とささめく。  御手水御粥など、こなたにまゐる。日高う寝起きたまひて、 「人なくてあしかめるを、さるべき人々、タづけてこそは 迎へさせたまはめ」とのたまひて、対に童べ召しに遣わす。 「小さきかぎり、ことさらに参れ」とありければ、いとをか しげにて、四人参りたり。君は御衣にまとはれて臥したまへ るを、せめて起こして、 「かう心うくなおはせそ。すずろ なる人は、かうはありなむや。女は、心やはらかなるなむよ き」など、今より教へきこえたまふ。御容貌は、さし離れて 見しよりも、きよらにて、なつかしううち語らひつつ、をか しき絵遊び物ども取りに遣わして、見せたてまつり、御心に つく事どもをしたまふ。やうやう起きゐて見たまふに、鈍- 色のこまやかなるが、うち萎えたるどもを着て、何心なくう ち笑みなどしてゐたまへるが、いとうつくしきに、我もうち 笑まれて見たまふ。  東の対に渡りたまへるに、たち出でて、庭の木立、池の 方などのぞきたまへば、霜枯れの前栽絵にかけるやうにおも しろくて、見も知らぬ四位五位こきまぜに、隙なう出で入り

つつ、げにをかしき所かな、と思す。御屏風どもなど、いと をかしき絵を見つつ、慰めておはするもはかなしや。 紫の上に手習いを教え、ともに遊ぶ 君は二三日内裏へも参りたまはで、この人 をなつけ語らひきこえたまふ。やがて本に と思すにや、手習絵などさまざまにかき つつ見せたてまつりたまふ。いみじうをかしげにかき集めた まへり。「武蔵野といへばかこたれぬ」と紫の紙に書いたま へる、墨つきのいとことなるを取りて見ゐたまへり。すこし 小さくて、 ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草   のゆかりを とあり。 「いで君も書いたまへ」とあれば、 「まだようは 書かず」とて、見上げたまへるが、何心なくうつくしげなれ ば、うちほほ笑みて、 「よからねど、むげに書かぬこそわ ろけれ。教へきこえむかし」とのたまへば、うちそばみて書

いたまふ手つき、筆とりたまへるさまの幼げなるも、らうた うのみおぼゆれば、心ながらあやしと思す。 「書きそこなひ つ」と恥ぢて隠したまふを、せめて見たまへば、 かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆ   かりなるらん と、いと若けれど、生ひ先見えて、ふくよかに書いたまへり。 故尼君のにぞ似たりける。今めかしき手本習はば、いとよう 書いたまひてむ、と見たまふ。雛など、わざと屋ども作りつ づけて、もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひのまぎらは しなり。 父兵部卿宮と、邸に残る女房たちの困惑 かのとまりにし人々、宮渡りたまひて尋ね きこえたまひけるに、聞こえやる方なくて ぞわびあへりける。 「しばし人に知らせじ」 と君ものたまひ、少納言も思ふことなれば、せちに口がため やりたり。ただ、 「行く方も知らず、少納言が率て隠しきこえ

たる」
とのみ聞こえさするに、宮も言ふかひなう思して、故 尼君もかしこに渡りたまはむことを、いとものしと思したり しことなれば、乳母のいとさし過ぐしたる心ばせのあまり、 おいらかに、渡さむを便なしなどは言はで、心にまかせて、 率てはふらかしつるなめり、と泣く泣く帰りたまひぬ。 「も し聞き出でたてまつらば告げよ」とのたまふもわづらはしく。 僧都の御もとにも尋ねきこえたまへど、あとはかなくて、あ たらしかりし御容貌など恋しくかなし、と思す。北の方も、 母君を憎しと思ひきこえたまひける心もうせて、わが心にま かせつべう思しけるに違ひぬるは、口惜しうおぼしけり。 紫の上、無心に源氏と馴れむつぶ やうやう人参り集りぬ。御遊びがたきの童 べ児ども、いとめづらかに今めかしき御あ りさまどもなれば、思ふことなくて遊びあ へり。君は、男君のおはせずなどしてさうざうしき夕暮など ばかりぞ、尼君を恋ひきこえたまひて、うち泣きなどしたま

へど、宮をばことに思ひ出できこえたまはず。もとより見な らひきこえたまはでならひたまへれば、今はただこの後の親 を、いみじう睦びまつはしきこえたまふ。ものよりおはすれ ば、まづ出でむかひて、あはれにうち語らひ、御懐に入り ゐて、いささかうとく恥づかしとも思ひたらず。さる方に、 いみじうらうたきわざなりけり。  さかしら心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わ が心地もすこし違ふふしも出で来やと、心おかれ、人も恨み がちに、思ひのほかのこと、おのづから出で来るを、いとを かしきもてあそびなり。むすめなどはた、かばかりになれば、 心やすくうちふるまひ、隔てなきさまに臥し起きなどは、え しもすまじきを、これは、いとさま変りたるかしづきぐさな り、と思ほいためり。 The Safflower 源氏、亡き夕顔の面影を追い求める

思へどもなほあかざりし夕顔の露に後れし 心地を、年月経れど思し忘れず、ここもか しこもうちとけぬかぎりの、気色ばみ心深 き方の御いどましさに、け近くうちとけたりし、あはれに、 似るものなう恋しく思ほえたまふ。  いかで、ことごとしきおぼえはなく、いとらうたげならむ 人の、つつましきことなからむ、見つけてしがなと、懲りず まに思しわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは、 御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもやと思し寄るばかりの けはひあるあたりにこそ、 一くだりをもほのめかしたまふ めるに、なびききこえずもて離れたるは、をさをさあるまじ きぞ、いと目馴れたるや。つれなう心強きは、たとしへなう

情おくるるまめやかさなど、あまりもののほど知らぬやうに、 さてしも過ぐしはてず、なごりなくくづほれて、なほなほし き方に定まりなどするもあれば、のたまひさしつるも多かり けり。  かの空蝉を、もののをりをりには、ねたう思し出づ。荻の 葉も、さりぬべき風の便りある時は、おどろかしたまふをり もあるべし。灯影の乱れたりしさまは、またさやうにても見 まほしく思す。おほかた、なごりなきもの忘れをぞ、えした まはざりける。 源氏、大輔命婦から末摘花の噂を聞く 左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎにおぼ いたるがむすめ、大輔命婦とて、内裏にさ ぶらふ。わかむどほりの兵部大輔なるむす めなりけり。いといたう色好める若人にてありけるを、君も 召し使ひなどしたまふ。母は筑前守の妻にて下りにければ、 父君のもとを里にて行き通ふ。

 故常陸の親王の、末にまうけていみじうかなしうかしづき たまひし御むすめ、心細くて残りゐたるを、もののついでに 語りきこえければ、 「あはれのことや」とて、御心とどめて 問ひ聞きたまふ。 「心ばへ容貌など、深き方はえ知りはべらず。かいひそ め、人うとうもてなしたまへば、さべき宵など、物越しにて ぞ語らひはべる。琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」と聞 こゆれば、 「三つの友にて、いま一くさやうたてあらむ」 とて、 「我に聞かせよ。父親王の、さやうの方にいとよ しづきてものしたまうければ、おしなべての手づかひにはあ らじとなむ思ふ」とのたまへば、 「さやうに聞こしめすば かりにはあらずやはべらむ」と言へど、御心とまるばかり聞 こえなすを、 「いたう気色ばましや。このごろのおぼろ月 夜に忍びてものせむ。まかでよ」とのたまへば、わづらはし と思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかで

ぬ。父の大輔の君は、ほかにぞ住みける。ここには時々ぞ通 ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あ たりを睦びて、ここには来るなりけり。 源氏、おぼろ月夜に末摘花の琴を聞く のたまひしもしるく、十六夜の月をかし きほどにおはしたり。 「いとかたはらい たきわざかな。物の音すむべき夜のさまに もはべらざめるに」と聞こゆれど、 「なほあなたに渡りて、 ただ一声ももよほしきこえよ。空しくて帰らむが、ねたかる べきを」とのたまへば、うちとけたる住み処にすゑたてまつ りて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれ ば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてもの したまふ。よきをりかなと思ひて、 「御琴の音いかにまさ りはべらむ、と思ひたまへらるる夜の気色にさそはれはべり てなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ 口惜しけれ」と言へば、 「聞き知る人こそあなれ、ももし

きに行きかふ人の聞くばかりやは」
とて、召し寄するも、あ いなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。  ほのかに掻き鳴らしたまふ。をかしう聞こゆ。なにばかり 深き手ならねど、物の音がらの筋ことなるものなれば、聞き にくくも思されず。いといたう荒れわたりて、さびしき所に、 さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしずきすゑた りけむなごりなく、いかに思ほし残すことなからむ、かやう の所にこそは、昔物語にもあはれなる事どももありけれなど、 思ひつづけても、ものや言ひ寄らましと思 せど、うちつけにや思さむと、心恥づかし くて、やすらひたまふ。  命婦かどある者にて、いたう耳ならさせ たてまつらじと思ひければ、 「曇りがち にはべるめり。まらうとの来むとはべりつ る。いとひ顔にもこそ。いま心のどかにを。

御格子まゐりなむ」
とて、いたうもそそのかさで、帰りたれ ば、 「なかなかなるほどにてもやみぬるかな。もの聞き分 くほどにもあらで、ねたう」とのたまふ。気色をかしと思し たり。 「同じくは、けぢかきほどの立ち聞きせさせよ」と のたまへど、心にくくてと思へば、 「いでや、いとかすか なるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、 うしろめたきさまにや」と言へば、げにさもあること、には かに、我も人も、うちとけて語らふべき人の際は際とこそあ れなど、あはれに思さるる人の御ほどなれば、 「なほ、さ やうの気色をほのめかせ」と語らひたまふ。  また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。 「上の、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたま ふこそをかしう思うたまへらるるをりをりはべれ。かやうの 御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」と聞こゆれば、た ち返り、うち笑ひて、 「こと人の言はむやうに、咎なあら

はされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女のあり さま苦しからむ」
とのたまへば、あまり色めいたりと思し て、をりをりかうのたまふを、恥づかしと思ひて、ものも言 はず。 頭中将、源氏の後をつけ、おどし戯れる 寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやと思 して、やをら立ちのきたまふ。透垣のただ すこし折れ残りたる隠れの方に、立ち寄り たまふに、もとより立てる男ありけり。誰ならむ、心かけた るすき者ありけりと思して、蔭につきてたち隠れたまへば、 頭中将なりけり。この夕つ方、内裏よりもろともにまかで たまひける、やがて大殿にも寄らず、二条院にもあらで、引 き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、我も 行く方あれど、あとにつきてうかがひけり。あやしき馬に、 狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さす がに、かう異方に入りたまひぬれば、心も得ず思ひけるほど

に、物の音に聞きついて立てるに、帰りや出でたまふと、し た待つなりけり。  君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと、ぬき足 に歩みのきたまふに、ふと寄りて、 「ふり捨てさせたまへる つらさに、御送り仕うまつりつるは。  もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの   月」 と恨むるも、ねたけれど、この君と見たまふに、すこしをか しうなりぬ。 「人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、 里分かぬかげをば見れど行く月のいるさの山を誰か  たづぬる 「かう慕ひ歩かば、いかにせさせたまはむ」と聞こえたま ふ。 「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはか ばかしきこともあるべけれ、後らさせたまはでこそあらめ。 やつれたる御歩きは、かるがるしきことも出で来なむ」とお

し返し諌めたてまつる。かうのみ見つけらるるを、ねたしと 思せど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心の中に 思し出づ。 源氏と頭中将、同車して左大臣邸へ行く おのおの契れる方にも、あまえて、え行き 別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをか しきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹きあ はせて大殿におはしぬ。前駆なども追はせたまはず、忍び入 りて、人見ぬ廊に、御直衣ども召して着かへたまふ。つれな う今来るやうにて、御笛ども吹きすさびておはすれば、大臣、 例の聞き過ぐしたまはで、高麗笛とり出でたまへり。いと上 手におはすれば、いとおもしろう吹きたまふ。御琴召して、 内にも、この方に心得たる人々に弾かせたまふ。  中務の君、わざと琵琶は弾けど、頭の君心かけたるをもて 離れて、ただこのたまさかなる御気色のなつかしきをば、え 背ききこえぬに、おのづから隠れなくて、大宮なども、よろ

しからず思しなりたれば、もの思はしくはしたなき心地して、 すさまじげに寄り臥したり。絶えて見たてまつらぬ所にかけ 離れなむも、さすがに心細く、思ひ乱れたり。  君たちは、ありつる琴の音を思し出でて、あはれげなりつ る住まひのさまなども、様変へてをかしう思ひつづけ、あら ましごとに、いとをかしうらうたき人の、さて年月を重ねゐ たらむ時、見そめていみじう心苦しくは、人にももて騒がる ばかりやわが心もさまあしからむなどさへ、中将は思ひけり。 この君の、かう気色ばみ歩きたまふを、まさにさては過ぐし たまひてむやと、なまねたうあやふがりけり。 源氏と頭中将、末摘花を競い合う その後、こなたかなたより、文などやりた まふべし。いづれも返り事見えず。おぼつ かなく心やましきに、あまりうたてもある かな。さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたる気色、 はかなき木草、空のけしきにつけても、とりなしなどして、

心ばせ推しはからるるをりをりあらむこそあはれなるべけれ。 重しとても、いとかうあまり埋れたらむは、心づきなくわる びたりと、中将はまいて心いられしけり。  例の隔てきこえたまはぬ心にて、 「しかじかの返り事は 見たまふや。こころみにかすめたりしこそ、はしたなくてや みにしか」と愁ふれば、 「さればよ。言ひ寄りにけるをや」 とほほ笑まれて、 「いさ。見むとしも思はねばにや、見る としもなし」と答へたまふを、人分きしけると思ふに、いと ねたし。  君は、深うしも思はぬことの、かう情なきを、すさまじく 思ひなりたまひにしかど、かうこの中将の言ひ歩きけるを、 言多く言ひ馴れたらむ方にぞなびかむかし。したり顔にて、 もとの事を思ひ放ちたらむ気色こそ愁はしかるべけれと思し て、命婦を、まめやかに語らひたまふ。 「おぼつかなくも て離れたる御気色なむ、いと心うき。すきずきしき方に、 疑ひよせたまふにこそあらめ。さりとも、短き心ばへつかは ぬものを。人の心ののどやかなることなくて、思はずにのみ あるになむ、おのづからわがあやまちにもなりぬべき。心の どかにて、親兄弟のもてあつかひ恨むるもなう、心やすから む人は、なかなかなむらうたかるべきを」とのたまへば、 「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿には、えしもやと、 つきなげにこそ見えはべれ。ひとへにものづつみし、ひき入 りたる方はしも、あり難うものしたまふ人になむ」と、見る ありさま語りきこゆ。 「らうらうじうかどめきたる心はな きなめり。いと児めかしう、おほどかならむこそ、らうたく はあるべけれ」と思し忘れずのたまふ。  瘧病にわづらひたまひ、人知れぬもの思ひのまぎれも、御 心のいとまなきやうにて、春夏過ぎぬ。 いらだつ源氏、命婦に手引きをうながす

秋のころほひ、静かに思しつづけて、かの 砧の音も、耳につきて聞きにくかりしさへ、 恋しう思し出でらるるままに、常陸の宮に はしばしば聞こえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、 世づかず心やましう、負けてはやまじの御心さへ添ひて、命- 婦を責めたまふ。 「いかなるやうぞ。いとかかることこそ まだ知らね」と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほし と思ひて、 「もて離れて、似げなき御事とも、おもむけは べらず。ただおほかたの御ものづつみのわりなきに、手をえ さし出でたまはぬとなむ見たまふる」と聞こゆれば、 「そ れこそは世づかぬことなれ。もの思ひ知るまじきほど、ひと り身をえ心にまかせぬほどこそ、さやうにかかやかしきもこ とわりなれ、何ごとも思ひしづまりたまへらむと思ふこそ。 そこはかとなく、つれづれに心細うのみおぼゆるを、同じ心 に答へたまはむは、願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと、

世づける筋ならで、その荒れたる簀子にたたずままほしきな り。いとうたて心得ぬ心地するを、かの御ゆるしなくともた ばかれかし。心いられし、うたてあるもてなしには、よもあ らじ」
など、語らひたまふ。  なほ、世にある人のありさまを、おほかたなるやうにて聞 きあつめ、耳とどめたまふ癖のつきたまへるを、さうざうし き宵居など、はかなきついでに、さる人こそとばかり聞こえ 出でたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、なま わづらはしく、女君の御ありさまも、世づかはしく、よしめ きなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしきことや 見えむなむど思ひけれど、君のかうまめやかにのたまふに、 聞き入れざらむもひがひがしかるべし。父親王おはしけるを りにだに、古りにたるあたりとて、音なひきこゆる人もな かりけるを、まして今は、浅茅分くる人もあと絶えたるに、 かく世にめづらしき御けはひの漏りにほひくるをば、生女ば

らなども笑みまけて、「なほ聞こえたまへ」とそそのかした てまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶ るに見も入れたまはぬなりけり。  命婦は、さらば、さりぬべからんをりに、物越しに聞こえ たまはむほど御心につかずは、さてもやみねかし、またさる べきにて、仮にもおはし通はむを、咎めたまふべき人なしな ど、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にも、かかる ことなども言はざりけり。 源氏、常陸宮邸を訪れ、末摘花に逢う 八月二十余日、宵過ぐるまで待たるる月の 心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松 の梢吹く風の音心細くて、いにしへのこと 語り出でて、うち泣きなどしたまふ。いとよきをりかなと思 ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。  月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましく、うちな がめたまふに、琴そそのかされて、ほのかに掻き鳴らしたま

ふほど、けしうはあらず。すこしけ近う、今めきたるけをつ けばやとぞ、乱れたる心には心もとなく思ひゐたる。人目し なき所なれば、心やすく入りたまふ。命婦を呼ばせたまふ。 今しも驚き顔に、 「いとかたはらいたきわざかな。しかじ かこそおはしましたなれ。常にかう恨みきこえたまふを、心 にかなはぬよしをのみ、いなびきこえはべれば、 『みづか らことわりも聞こえ知らせむ』とのたまひわたるなり。いか が聞こえかへさむ。並々のたはやすき御ふるまひならねば、 心苦しきを、物越しにて、聞こえたまはむこと聞こしめせ」 と言へば、いと恥づかしと思ひて、 「人にもの聞こえむや うも知らぬを」とて奥ざまへゐざり入りたまふさま、いとう ひうひしげなり。うち笑ひて、 「いと若々しうおはします こそ心苦しけれ。限りなき人も、親などおはしてあつかひ後- 見きこえたまふほどこそ、若びたまふもことわりなれ、かば かり心細き御ありさまに、なほ世を尽きせず思し憚るは、つ

きなうこそ」
と教へきこゆ。さすがに、人の言ふことは強う もいなびぬ御心にて、 「答へきこえで、ただ聞けとあらば、 格子など鎖してはありなむ」とのたまふ。 「簀子などは便 なうはべりなむ。おしたちて、あはあはしき御心などは、よ も」など、いとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づか らいと強く鎖して、御褥うち置きひきつくろふ。  いとつつましげに思したれど、かやうの人にもの言ふらむ 心ばへなども、ゆめに知りたまはざりければ、命婦のかう言 ふを、あるやうこそはと思ひてものしたまふ。乳母だつ老人 などは、曹司に入り臥して、タまどひしたるほどなり。若き 人二三人あるは、世にめでられたまふ御ありさまを、ゆかし きものに思ひきこえて、心げさうしあへり。よろしき御衣奉 りかへ、つくろひきこゆれば、正身は、何の心げさうもなく ておはす。男は、いと尽きせぬ御さまを、うち忍び用意した まへる御けはひ、いみじうなまめきて、 「見知らむ人にこそ見

せめ、はえあるまじきわたりを。あないとほし」
と、命婦は思 へど、ただおほどかにものしたまふをぞ、うしろやすうさし 過ぎたることは見えたてまつりたまはじと思ひける。わが常 に責められたてまつる罪避りごとに、心苦しき人の御もの思 ひや出で来むなど、やすからず思ひゐたり。  君は人の御ほどを思せば、ざれくつがへる、今様のよしば みよりは、こよなう奥ゆかしうと思さるるに、いたうそその かされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、しのびやかに、えひ の香いとなつかしう薫り出でて、おほどかなるを、さればよ と思す。年ごろ思ひわたるさまなど、いとよくのたまひつづ くれど、まして近き御答へは絶えてなし。わりなのわざやと、 うち嘆きたまふ。 「いくそたび君がしじまに負けぬらんものな言ひそと   いはぬたのみに のたまひも棄ててよかし。玉だすき苦し」とのたまふ。女君

の御乳母子、侍従とて、はやりかなる若人、いと心もとなう、 かたはらいたしと思ひて、さし寄りて聞こゆ。 鐘つきてとぢめむことはさすがにてこたへまうきぞ  かつはあやなき いと若びたる声の、ことにおもりかならぬを、人づてにはあ らぬやうに聞こえなせば、ほどよりはあまえてと聞きたまへ ど、 「めづらしきが、なかなか口ふたがるわざかな。   いはぬをもいふにまさると知りながらおしこめたるは苦   しかりけり」 何やかやとはかなきことなれど、をかしきさまにも、まめや かにも、のたまへど、何のかひなし。  いとかかるも、さま変り、思ふ方ことにものしたまふ人に やと、ねたくて、やをら押し開けて入りたまひにけり。命婦、 あなうたて、たゆめたまへる、といとほしければ、知らず顔 にてわが方へ往にけり。この若人ども、はた世にたぐひなき

御ありさまの音聞きに、罪ゆるしきこえて、おどろおどろし うも嘆かれず、ただ思ひもよらずにはかにて、さる御心もな きをぞ思ひける。正身は、ただ我にもあらず、恥づかしくつ つましきよりほかのことまたなければ、今はかかるぞあはれ なるかし、まだ世馴れぬ人のうちかしづかれたると、見ゆる したまふものから、心得ずなまいとほしとおぼゆる御さまな り。何ごとにつけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、 夜深う出でたまひぬ。命婦は、いかならむと目覚めて聞き臥 せりけれど、知り顔ならじとて、御送りにとも声づくらず。 君も、やをら忍びて出でたまひにけり。 源氏、二条院に帰り、頭中将と参内する 二条院におはして、うち臥したまひても、 なほ思ふにかなひがたき世にこそと思しつ づけて、かるらかならぬ人の御ほどを、 心苦しとぞ思しける。思ひ乱れておはするに、頭中将おはし て、 「こよなき御朝寝かな。ゆゑあらむかしとこそ思ひた

まへらるれ」
と言へば、起き上りたまひて、 「心やすき独 り寝の床にてゆるびにけりや。内裏よりか」とのたまへば、 「しか。まかではべるままなり。朱雀院の行幸、今日なむ、 楽人、舞人定めらるべきよし、昨夜うけたまはりしを、大臣 にも伝へ申さむとてなむ、まかではべる。やがて帰り参りぬ べうはべる」と、いそがしげなれば、 「さらば、もろとも に」とて、御粥強飯召して、まらうとにもまゐりたまひて、 引きつづけたれど、ひとつにたてまつりて、 「なほいとねぶ たげなり」と、とがめ出でつつ、 「隠いたまふこと多かり」 とぞ恨みきこえたまふ。事ども多く定めらるる日にて、内裏 にさぶらひ暮らしたまひつ。 源氏、後朝の文を夕刻に遣わす かしこには、文をだにといとほしく思し出 でて、タつ方ぞありける。雨降り出でて、 ところせくもあるに、笠宿せむとはた思さ れずやありけむ。かしこには、待つほど過ぎて、命婦も、い

といとほしき御さまかなと、心うく思ひけり。正身は、御心 の中に恥づかしう思ひたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、 なかなか、咎とも思ひわきたまはざりけり。 「夕霧のはるる気色もまだ見ぬにいぶせさそふる宵の  雨かな 雲間待ち出でむほど、いかに心もとなう」とあり。おはしま すまじき御気色を、人々胸つぶれて思へど、 「なほ聞こえ させたまへ」と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れたま へるほどにて、え型のやうにもつづけたまはねば、 「夜更け ぬ」とて、侍従ぞ例の教へきこゆる。   晴れぬ夜の月まつ里をおもひやれおなじ心にながめせず  とも 口々に責められて、紫の紙の、年経にければ灰おくれ古めい たるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下ひと しく書いたまへり。見るかひなううち置きたまふ。いかに思

ふらんと、思ひやるもやすからず。かかることをくやしなど はいふにやあらむ、さりとていかがはせむ、我はさりとも心- 長く見はててむと、思しなす御心を知らねば、かしこにはい みじうぞ嘆いたまひける。 行幸の準備に紛れて、源氏訪れを怠る 大臣、夜に入りてまかでたまふに、ひかれ たてまつりて、大殿におはしましぬ。行幸 のことを興ありと思ほして、君たち集まり てのたまひ、おのおの舞ども習ひたまふを、そのころの事に て過ぎゆく。物の音ども、常よりも耳かしがましくて、方々 いどみつつ、例の御遊びならず、大篳篥、尺八の笛などの、 大声を吹きあげつつ、太鼓をさへ、高欄のもとにまろばし寄 せて、手づからうち鳴らし、 遊びおはさうず。御いとま なきやうにて、せちに思す 所ばかりにこそ、ぬすまは

れたまへ、かのわたりには、いとおぼつかなくて、秋暮れは てぬ。なほ頼みこしかひなくて過ぎゆく。  行幸近くなりて、試楽などののしるころぞ、命婦は参れる。 「いかにぞ」など問ひたまひて、いとほしとは思したり。 ありさま聞こえて、 「いとかうもて離れたる御心ばへは、 見たまふる人さへ心苦しく」など、泣きぬばかり思へり。心 にくくもてなしてやみなむと思へりしことを、くたいてける、 心もなく、この人の思ふらむをさへおぼす。正身の、ものは 言はで思し埋もれたまふらむさま、思ひやりたまふもいとほ しければ、 「暇なきほどぞや。わりなし」とうち嘆いたま ひて、 「もの思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思 ふぞかし」と、ほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、 我もうち笑まるる心地して、わりなの、人に恨みられたまふ 御齢や、思ひやり少なう、御心のままならむもことわりと思 ふ。この御いそぎのほど過ぐしてぞ、時々おはしける。 雪の夜に訪れ、女房たちの貧しき姿を見る

かの紫のゆかりたづねとりたまひて、そ のうつくしみに心入りたまひて六条わた りにだに、離れまさりたまふめれば、まし て荒れたる宿は、あはれに思しおこたらずながら、ものうき ぞわりなかりける。ところせき御もの恥を見あらはさむの御 心もことになうて過ぎゆくを、内返し、見まさりするよう もありかし、手探りのたどたどしきに、あやしう心得ぬこと もあるにや、見てしがな、と思ほせど、けざやかにとりなさ むもまばゆし、うちとけたる宵居のほど、やをら入りたまひ て、格子のはさまより見たまひけり。されど、みづからは見え たまふべくもあらず。几帳など、いたくそこなはれたるもの から、年経にける立処変らず、おしやりなど乱れねば、心も となくて、御達四五人ゐたり。御台、秘色やうの唐土のもの なれど、人わろきに、何のくさはひもなくあはれげなる、ま かでて人々食ふ。隅の間ばかりぞ、いと寒げなる女ばら、

白き衣のいひしらず煤けたるに、きたなげなる褶ひき結ひつ けたる腰つき、かたくなしげなり。さすがに櫛おしたれてさ したる額つき、内教坊、内侍所のほどに、かかる者どもある はやと、をかし。かけても、人のあたりに近うふるまふ者と も知りたまはざりけり。 「あはれ、さも寒き年かな。命長 ければ、かかる世にも逢ふものなりけり」とて、うち泣くも あり。 「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。 かく頼みなくても過ぐるものなりけり」とて、飛び立ちぬべ くふるふもあり。さまざまに人わろき事どもを愁へあへるを、 聞きたまふもかたはらいたければ、たちのきて、ただ今おは するやうにてうち叩きたまふ。 「そそや」など言ひて、灯 とりなほし、格子放ちて入れたてまつる。 翌朝、末摘花の醜き姿を見て驚く 侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、このこ ろはなかりけり。いよいよあやしう、ひな びたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。

いとど、愁ふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。空の けしきはげしう、風吹きあれて、大殿油消えにけるを、点しつ くる人もなし。かの物に襲はれしをり思し出でられて、荒れ たるさまは劣らざめるを、ほどの狭う、人げのすこしあるな どに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさま なり。をかしうも、あはれにも、やう変へて心とまりぬべき ありさまを、いと埋れ、すくよかにて、何のはえなきをぞ、 口惜しう思す。  からうじて明けぬる気色なれば、格子手づから上げたまひ て、前の前栽の雪を見たまふ。踏みあけたる跡もなく、はる ばると荒れわたりて、いみじうさびしげなるに、ふり出でて 行かむこともあはれにて、 「をかしきほどの空も見たまへ。 つきせぬ御心の隔てこそわりなけれ」と恨みきこえたまふ。 まだほの暗けれど、雪の光に、いとどきよらに若う見えたま ふを、老人ども笑みさかえて見たてまつる。 「はや出でさ

せたまへ。あぢきなし」
「心うつくしきこそ」など教へきこ ゆれば、さすがに、人の聞こゆることを、えいなびたまはぬ 御心にて、とかうひきつくろひて、ゐざり出でたまへり。見 ぬやうにて、外の方をながめたまへれど、後目はただならず。 いかにぞ、うちとけまさりのいささかもあらば、うれしから むとおぼすも、あながちなる御心なりや。  まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、さればよと、 胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なり けり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさまし う高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、こ とのほかにうたてあり。色は雪はづかしく白うて、さ青に、 額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほ かたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、い とほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣 の上まで見ゆ。何に残りなう見あらはしつらむと思ふものか

ら、めづらしきさまのしたれば、さすがにうち見やられたま ふ。頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思 ひきこゆる人々にも、をさをさ劣るまじう、袿の裾にたまり て、ひかれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。  着たまへる物どもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなき やうなれど、昔物語にも、人の御装束をこそまづ言ひためれ。 ゆるし色のわりなう上白みたる一かさね、なごりなう黒き袿 かさねて、表着には黒貂の皮衣、いときよらにかうばしきを 着たまへり。古代のゆゑづきたる御装束なれど、なほ若やか なる女の御よそひには、似げなうおどろおどろしきこと、い ともてはやされたり。されど、げにこの皮なうて、はた寒か らましと見ゆる御顔ざまなるを、心苦しと見たまふ。何ごと も言はれたまはず、我さへ口とぢたる心地したまへど、例の しじまもこころみむと、とかう聞こえたまふに、いたう恥ぢ らひて、口おほひしたまへるさへ、ひなび古めかしう、こと

ごとしく儀式官の練り出でたる肘もちおぼえて、さすがにう ち笑みたまへる気色、はしたなうすずろびたり。いとほしく あはれにて、いとど急ぎ出でたまふ。 「頼もしき人なき御 ありさまを、見そめたる人には、うとからず思ひ睦びたまは むこそ、本意ある心地すべけれ。ゆるしなき御気色なれば、 つらう」などことつけて、    朝日さす軒のたるひはとけながらなどかつららのむすぼ   ほるらむ とのたまへど、ただ 「むむ」とうち笑ひて、いと口重げなる もいとほしければ、出でたまひぬ。 貧しき門番に同情、末摘花の鼻を連想する 御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよ ろぼひて、夜目にこそ、しるきながらも、 よろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあ はれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみあたたかげに降 りつめる、山里の心地してものあはれなるを、かの人々の言

ひし葎の門は、かうやうなる所なりけむかし、げに心苦しく らうたげならん人をここにすゑて、うしろめたう恋しと思は ばや。あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかしと、思ふ やうなる住み処にあはぬ御ありさまは、とるべき方なしと思 ひながら、我ならぬ人は、まして見忍びてむや、わがかうて 見馴れけるは、故親王のうしろめたしとたぐへおきたまひけ む魂のしるべなめりとぞ、思さるる。  橘の木の埋もれたる、御随身召して払はせたまふ。うら やみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も、 名にたつ末のと見ゆるなどを、いと深からずとも、なだらか なるほどに、あひしらはむ人もがなと見たまふ。御車出づべ き門は、まだ開けざりければ、鍵の預り尋ね出でたれば、翁 のいといみじきぞ出で来たる。むすめにや、孫にや、はした なる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へ る気色ふかうて、あやしきものに、火をただほのかに入れて

袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助 くる、いとかたくななり。御供の人寄りてぞ開けつる。 「ふりにける頭の雪を見る人もおとらずぬらす朝の袖   かな 幼き者は形蔽れず」とうち誦じたまひても、鼻の色に出でて、 いと寒しと見えつる御面影、ふと思ひ出でられて、ほほ笑ま れたまふ。頭中将にこれを見せたらむ時、いかなることをよ そへ言はむ、常にうかがひ来れば、いま見つけられなむと、 すべなう思す。 末摘花の生活を援助、空蝉を思い出す 世の常なるほどの、ことなる事なさならば 思ひ棄ててもやみぬべきを、さだかに見た まひて後は、なかなかあはれにいみじくて まめやかなるさまに、常におとづれたまふ。黒貂の皮ならぬ 絹綾綿など、老人どもの着るべき物のたぐひ、かの翁のた めまで上下思しやりて、奉りたまふ。かやうのまめやか事も

恥づかしげならぬを、心やすく、さる方の後見にてはぐくま むと思ほしとりて、さまことにさならぬうちとけわざもした まひけり。 「かの空蝉の、うちとけたりし宵の側目には、い とわろかりし容貌ざまなれど、もてなしに隠されて口惜しう はあらざりきかし。劣るべきほどの人なりやは。げに品にも よらぬわざなりけり。心ばせのなだらかにねたげなりしを、 負けてやみにしかな」と、もののをりごとには思し出づ。 歳暮、末摘花、源氏の元日の装束を贈る 年も暮れぬ。内裏の宿直所におはしますに、 大輔命婦参れり。御梳櫛などには、懸想だ つ筋なく、心やすきものの、さすがにのた まひ戯れなどして、使ひ馴らしたまへれば、召しなき時も、 聞こゆべきことあるをりは参う上りけり。 「あやしきこと のはべるを、聞こえさせざらむも、ひがひがしう思ひたまへ わづらひて」と、ほほ笑みて聞こえやらぬを、 「何ざまの ことぞ。我にはつつむことあらじとなむ思ふ」とのたまへば、

「いかがは。みづからの愁へは、 かしこくともまづこそは。これは いと聞こえさせにくくなむ」と、 いたう言籠めたれば、 「例の艶 なる」と憎みたまふ。 「かの宮 よりはべる御文」とて取り出でた り。 「ましてこれは、とり隠す べきことかは」とて、取りたまふも胸つぶる。みちのくに紙 の厚肥えたるに、匂ひばかりは深うしめたまへり。いとよう 書きおほせたり。歌も、 からころも君が心のつらければたもとはかくぞそ  ぼちつつのみ 心得ず、うちかたぶきたまへるに、つつみに衣箱の重りかに 古代なる、うち置きておし出でたり。 「これを、いかでか はかたはらいたく思ひたまへざらむ。されど、朔日の御よそ

ひとて、わざとはべるめるを、はしたなうはえ返しはべらず。 ひとり引き籠めはべらむも人の御心違ひはべるべければ、御- 覧ぜさせてこそは」
と聞こゆれば、 「引き籠められなむは、 からかりなまし。袖まきほさむ人もなき身に、いとうれしき 心ざしにこそは」とのたまひて、ことにもの言はれたまはず。 さても、あさましの口つきや。これこそは手づからの御事の 限りなめれ。侍従こそ取り直すべかめれ、また筆のしりとる 博士ぞなかべきと、言ふかひなく思す。心を尽くして詠み出 でたまひつらむほどを思すに、いともかしこき方とは、これ をも言ふべかりけりと、ほほ笑みて見たまふを、命婦おもて 赤みて見たてまつる。今様色の、えゆるすまじくつやなう古 めきたる、直衣の裏表ひとしうこまやかなる、いとなほなほ しう、つまづまぞ見えたる。あさましと思すに、この文をひ ろげながら、端に手習すさびたまふを、側目に見れば、 「なつかしき色ともなしに何にこのすゑつむ花を袖に

 ふれけむ 色こき花と見しかども」
など、書きけがしたまふ。花の咎め を、なほあるやうあらむと、思ひあはするをりをりの月影な どを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ。 「紅のひとはな衣薄くともひたすらくたす名をした  てずは 心苦しの世や」と、いといたう馴れて独りごつを、よきには あらねど、かうやうのかいなでにだにあらましかばと、かへ すがへす口惜し。人のほどの心苦しきに、名の朽ちなむはさ すがなり。人々参れば、 「取り隠さむや。かかるわざは人 のするものにやあらむ」とうちうめきたまふ。何に御覧ぜさ せつらむ。我さへ心なきやうにと、いと恥づかしくてやをら おりぬ。  またの日、上にさぶらへば、台盤所にさしのぞきたまひて、 「くはや。昨日の返り事。あやしく心ばみ過ぐさるる」とて

投げたまへり。女房たち、何ごとならむとゆかしがる。 「ただ、 梅の花の、色のごと、三笠の山の、をとめをば、すてて」と、 歌ひすさびて出でたまひぬるを、命婦はいとをかしと思ふ。 心知らぬ人々は、 「なぞ。御独り笑みは」と、とがめあへ り。 「あらず。寒き霜朝に、掻練このめるはなの色あひや 見えつらむ。御つづしり歌のいとほしき」と言へば、 「あ ながちなる御ことかな。このなかには、にほへるはなもなか めり。左近命婦肥後采女やまじらひつらむ」など、心もえず 言ひしろふ。御返り奉りたれば、宮には女房つどひて見めで けり。 逢はぬ夜をへだつる中の衣手にかさねていとど見も   し見よとや 白き紙に、捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。  晦日の日、タつ方、かの御衣箱に、御料とて人の奉れる御- 衣一具、葡萄染の織物の御衣、また山吹かなにぞ、いろいろ

見えて、命婦ぞ奉りたる。ありし色あひをわろしとや見たま ひけんと、思ひ知らるれど、 「かれはた、紅のおもおもしか りしをや。さりとも消えじ」と、ねび人どもは定むる。 「御歌も、これよりのは、ことわり聞こえてしたたかにこそ あれ、御返りは、ただをかしき方にこそ」など、口々に言ふ。 姫君も、おぼろけならでし出でたまひつるわざなれば、物に 書きつけておきたまへりけり。 正月七日の夜、源氏、末摘花を訪れる 朔日のほど過ぎて、今年、男踏歌あるべけ れば、例の所どころ遊びののしりたまふに、 もの騒がしけれど、淋しき所のあはれに思 しやらるれば、七日の日の節会はてて、夜に入りて御前より まかでたまひけるを、御宿直所にやがてとまりたまひぬるや うにて、夜更かしておはしたり。例のありさまよりは、けは ひうちそよめき世づいたり。君もすこしたをやぎたまへる気- 色もてつけたまへり。いかにぞ、あらためてひきかへたらむ

時、とぞ思しつづけらるる。日さし出づるほどにやすらひな して、出でたまふ。東の妻戸押し開けたれば、むかひたる廊 の、上もなくあばれたれば、日の脚、ほどなくさし入りて、 雪すこし降りたる光に、いとけざやかに見入れらる。御直衣 など奉るを見出だして、すこしさし出でて、かたはら臥した まひつる頭つき、こぼれ出でたるほど、いとめでたし。生ひ なほりを見出でたらむ時、と思されて、格子引き上げたまへ り。  いとほしかりし物懲りに、上げもはてたまはで、脇息をお し寄せて、うちかけて、御鬢ぐきのしどけなきをつくろひた まふ。わりなう古めきた る鏡台の、唐櫛笥、掻上 の箱など取り出でたり。 さすがに、男の御具さへ ほのぼのあるを、ざれて

をかしと見たまふ。女の御装束、今日は世づきたりと見ゆる は、ありし箱の心ばへをさながらなりけり。さも思しよらず、 興ある紋つきてしるき表着ばかりぞ、あやしと思しける。 「今年だに声すこし聞かせたまへかし。待たるるものはさ しおかれて、御気色のあらたまらむなむゆかしき」とのた まへば、 「さへづる春は」とからうじてわななかしいでた り。 「さりや。年経ぬるしるしよ」と、うち笑ひたまひて、 「夢かとぞ見る」とうち誦じて出でたまふを、見送りて、添 ひ臥したまへり。口おほひの側目より、なほ、かの末摘花、 いとにほひやかにさし出でたり。見苦しのわざやと思さる。 源氏、二条院で、紫の上と睦び戯れる 二条院におはしたれば、紫の君、いともう つくしき片生ひにて、紅はかうなつかしき もありけりと見ゆるに、無紋の桜の細長な よらかに着なして、何心もなくてものしたまふさま、いみじ うらうたし。古代の祖母君の御なごりにて、歯ぐろめもまだ

しかりけるを、ひきつくろはせたまへれば、眉のけざやかに なりたるもうつくしうきよらなり。心から、などかかううき 世を見あつかふらむ、かく心苦しきものをも見てゐたらで、 と思しつつ、例の、もろともに雛遊びしたまふ。  絵など描きて、色どりたまふ。よろづにをかしうすさび散 らしたまひけり。我も描き添へたまふ。髪いと長き女を描き たまひて、鼻に紅をつけて見たまふに、形に描きても見まう きさましたり。わが御影の鏡台にうつれるが、いときよらな るを見たまひて、手づからこの紅花を描きつけ、にほはして みたまふに、かくよき顔だに、さてまじれらむは見苦しかる べかりけり。姫君見て、いみじく笑ひたまふ。 「まろが、 かくかたはになりなむ時、いかならむ」とのたまへば、 「う たてこそあらめ」とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひ たまへり。そら拭ひをして、「さらにこそ白まね。用なき すさびわざなりや。内裏にいかにのたまはむとすらむ」と、

いとまめやかにのたまふを、いといとほしと思して、寄りて 拭ひたまへば、 「平中がやうに色どり添へたまふな。赤か らむはあへなむ」と戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見 えたまへり。日のいとうららかなるに、いつしかと、霞みわ たれる梢どもの、心もとなき中にも、梅は気色ばみほほ笑み わたれる、とり分きて見ゆ。階隠のもとの紅梅、いととく咲 く花にて、色づきにけり。   「紅の花ぞあやなくうとまるる梅の立ち技はなつかしけ  れど いでや」と、あいなくうちうめかれたまふ。  かかる人々の末々いかなりけむ。 An Autumn Excursion 行幸の試楽に、源氏、青海波を舞う

朱雀院の行幸は神無月の十日あまりなり。 世の常ならず、おもしろかるべきたびのこ となりければ、御方々、物見たまはぬこと を口惜しがりたまふ。上も、藤壼の見たまはざらむを、あか ず思さるれば、試楽を御前にてせさせたまふ。  源氏の中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿 の頭中将、容貌用意人にはことなるを、立ち並びては、な ほ花のかたはらの深山木なり。入り方の日影さやかにさした るに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足 踏面持、世に見えぬさまなり。詠などしたまへるは、これや 仏の御迦陵頻伽の声ならむと聞こゆ。おもしろくあはれなる に、帝涙をのごひたまひ、上達部親王たちも、みな泣きた

まひぬ。詠はてて、袖うち なほしたまへるに、待ちと りたる楽のにぎははしきに、 顔の色あひまさりて、常よ りも光ると見えたまふ。春- 宮の女御、かくめでたきにつけても、ただならず思して、 「神など、空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」とのた まふを、若き女房などは、心うし、と耳とどめけり。  藤壼は、おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく 見えまし、と思すに、夢の心地なむしたまひける。宮は、や がて御宿直なりける。 「今日の試楽は、青海波に事みな尽き ぬな。いかが見たまひつる」と聞こえたまへば、あいなう、 御答へ聞こえにくくて、 「ことにはべりつ」とばかり聞こ えたまふ。 「片手もけしうはあらずこそ見えつれ。舞のさま 手づかひなむ、家の子はことなる。この世に名を得たる舞の

男どもも、げにいとかしこけれど、ここしうなまめいたる筋 を、えなむ見せぬ。試みの日かく尽くしつれば、紅葉の蔭や さうざうしくと思へど、見せたてまつらんの心にて、用意せ させつる」
など聞こえたまふ。 翌朝、源氏と藤壷、和歌を贈答する つとめて中将の君、 「いかに御覧じけむ。 世に知らぬ乱り心地ながらこそ。  もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の  袖うちふりし心知りきや あなかしこ」とある御返り、目もあやなりし御さま容貌に、 見たまひ忍ばれずやありけむ、 「から人の袖ふることは遠けれど立ちゐにつけてあは  れとは見き おほかたには」とあるを、限りなうめづらしう、かやうの方 さへたどたどしからず、他の朝廷まで思ほしやれる、御后言- 葉のかねても、とほほ笑まれて、持経のやうにひきひろげて

見ゐたまへり。 朱雀院の舞楽に、源氏妙技を尽くす 行幸には、親王たちなど、世に残る人なく 仕うまつりたまへり。春宮もおはします。 例の楽の船ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗 と尽くしたる舞ども、くさ多かり。楽の声、鼓の音、世をひ びかす。 一日の源氏の御夕影、ゆゆしう思されて、御誦経な ど所どころにせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれが りきこゆるに、春宮の女御は、「あながちなり」と憎みきこえ たまふ。垣代など、殿上人地下も、心ことなりと世人に思は れたる、有職のかぎりととのへさせたまへり。宰相二人、左- 衛門督、右衛門督、左右の楽のこと行ふ。舞の師どもなど、 世になべてならぬをとりつつ、おのおの籠りゐてなむ習ひけ る。  木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、いひ知らず吹き立てた る物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞こえ

て吹きまよひ、色々に散りかふ木の葉の中より、青海波のか かやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。かざしの紅葉 いたう散りすぎて、顔のにほひにけおされたる心地すれば、 御前なる菊を折りて、左大将さしかへたまふ。日暮れかかる ほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り 顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々うつろひ、えならぬを かざして、今日はまたなき手を尽くしたる、入り綾のほど、そ ぞろ寒く、この世の事ともおぼえず。もの見知るまじき下人 などの、木のもと岩がくれ、山の木の葉に埋もれたるさへ、 すこしものの心知るは涙落しけり。  承香殿の御腹の四の皇子、まだ童にて、秋風楽舞ひたま へるなむ、さしつぎの見物なりける。これらにおもしろさの 尽きにければ、こと事に目も移らず、かへりてはことざまし にやありけむ。その夜、源氏の中将正三位したまふ。頭中将- 正下の加階したまふ。上達部は、みなさるべきかぎりよろこ

びしたまふも、この君にひかれたまへるなれば、人の目をも 驚かし、心をもよろこばせたまふ、昔の世ゆかしげなり。 源氏と葵の上との仲 紫の上、源氏を慕う 宮は、そのころまかでたまひぬれば、例の、 隙もやとうかがひ歩きたまふを事にて、大- 殿には騒がれたまふ。いとど、かの若草尋 ね取りたまひてしを、 「二条院には人迎へたまふなり」と人 の聞こえければ、いと心づきなしと思いたり。うちうちのあ りさまは知りたまはず、さも思さむはことわりなれど、心う つくしく、例の人のやうに恨みのたまはば、我もうらなくう ち語りて慰めきこえてんものを、思はずにのみとりないたま ふ心づきなさに、さもあるまじきすさびごとも出で来るぞか し。人の御ありさまの、かたほに、そのことのあかぬとおぼ ゆる疵もなし。人よりさきに見たてまつりそめてしかば、あ はれにやむごとなく思ひきこゆる心をも知りたまはぬほどこ そあらめ、つひには思しなほされなむと、おだしくかるがる

しからぬ御心のほども、おのづからと頼まるる方は、ことな りけり。  幼き人は、見ついたまふままに、いとよき心ざま容貌にて、 何心もなく睦れまとはしきこえたまふ。しばし殿の内の人に も誰と知らせじ、と思して、なほ離れたる対に、御しつらひ 二なくして、我も明け暮れ入りおはして、よろづの御事ども を教へきこえたまひ、手本書きて習はせなどしつつ、ただほ かなりける御むすめを迎へたまへらむやうにぞ思したる。政- 所家司などをはじめ、ことにわかちて、心もとなからず仕う まつらせたまふ。惟光よりほかの人は、おぼつかなくのみ思 ひきこえたり。かの父宮も、え知りきこえたまはざりけり。 姫君は、なほ時々思ひ出できこえたまふ時、尼君を恋ひきこ えたまふをり多かり。君のおはするほどは紛らはしたまふを、 夜などは、時々こそとまりたまへ、ここかしこの御いとまな くて、暮るれば出でたまふを、慕ひきこえたまふをりなどあ

るを、いとらうたく思ひきこえたまへり。二三日内裏にさぶ らひ、大殿にもおはするをりは、いといたく屈しなどしたま へば、心苦しうて、母なき子持たらむ心地して、歩きも静心 なくおぼえたまふ。僧都は、かくなむと聞きたまひて、あや しきものから、うれしとなむ思ほしける。かの御法事などし たまふにも、いかめしうとぶらひきこえたまへり。 源氏、三条宮に藤壷をとぶらう 藤壼のまかでたまへる三条宮に、御ありさ まもゆかしうて、参りたまへれば、命婦、 中納言の君、中務などやうの人々対面した り。けざやかにももてなしたまふかなと、やすからず思へど、 しづめて、おほかたの御物語聞こえたまふほどに、兵部卿- 宮参りたまへり。この君おはすと聞きたまひて、対面したま へり。いとよしあるさまして、色めかしうなよびたまへるを、 女にて見むはをかしかりぬべく、人知れず見たてまつりたま ふにも、かたがた睦ましくおぼえたまひて、こまやかに御物-

語など聞こえたまふ。宮も、この御さまの常よりもことにな つかしううちとけたまへるを、いとめでたし、と見たてまつ りたまひて、婿になどは思しよらで、女にて見ばや、と色め きたる御心には思ほす。暮れぬれば御簾の内に入りたまふを、 うらやましく、昔は上の御もてなしに、いとけ近く、人づて ならでものをも聞こえたまひしを、こよなう疎みたまへるも、 つらうおぼゆるぞわりなきや。 「しばしばもさぶらふべけ れど、事ぞとはべらぬほどは、おのづから怠りはべるを、さ るべきことなどは、仰せ言もはべらむこそうれしく」など、 すくすくしうて出でたまひぬ。命婦もたばかりきこえむ方な く、宮の御気色も、ありしよりは、いとどうきふしに思しお きて、心とけぬ御気色も、恥づかしくいとほしければ、何の しるしもなくて過ぎゆく。はかなの契りや、と思し乱るるこ と、かたみに尽きせず。 源氏、幼き紫の上をいとしみ相睦ぶ

少納言は、おぼえずをかしき世を見るかな、 これも故尼上の、この御ことを思して、御- 行ひにも祈りきこえたまひし、仏の御しる しにや、とおぼゆ。大殿、いとやむごとなくておはします、こ こかしこあまたかかづらひたまふをぞ、まことに、大人びた まはむほどは、むつかしきこともや、とおぼえける。されど、 かくとりわきたまへる御おぼえのほどは、いと頼もしげなり かし。御服、母方は三月こそはとて、晦日には脱がせたてま つりたまふを、また、親もなくて生ひ出でたまひしかば、ま ばゆき色にはあらで、紅、紫、山吹の、地のかぎり織れる御- 小袿などを着たまへるさま、いみじう今めかしく、をかしげ なり。  男君は、朝拝に参りたまふとて、さしのぞきたまへり。 「今日よりは、おとなしくなりたまへりや」とて、うち笑 みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。いつしか、雛

をしすゑて、そそきゐたまへる、三尺の御厨子一よろひに、 品々しつらひすゑて、また小さき屋ども作り集めて奉りたま へるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。 「儺やらふと て、犬君がこれをこぼちはべりにければ、つくろひはべるぞ」 とて、いと大事と思いたり。 「げにいと心なき人のしわざ にもはべるなるかな。いまつくろはせはべらむ。今日は言忌 して、な泣いたまひそ」とて、出でたまふ気色ところせき を、人々端に出でて見たてまつれば、姫君も立ち出でて見た てまつりたまひて、雛の中の源氏の君つくろひ立てて、内裏 に参らせなどしたまふ。 「今年だにすこし 大人びさせたまへ。十 にあまりぬる人は、雛- 遊びは忌みはべるもの を、かく御男などまう

けたてまつりたまひては、あるべかしうしめやかにてこそ、 見えたてまつらせたまはめ。御髪まゐるほどをだに、ものう くせさせたまふ」
など、少納言聞こゆ。御遊びにのみ心入れ たまへれば、恥づかしと思はせたてまつらむ、とて言へば、 心の中に、我はさは男まうけてけり、この人々の男とてある は、みにくくこそあれ、我はかくをかしげに若き人をも持た りけるかな、と、今ぞ思ほし知りける。さはいへど、御年の 数添ふしるしなめりかし。かく幼き御けはひの、事にふれて しるければ、殿の内の人々も、あやしと思ひけれど、いとか う世づかぬ御添臥ならむとは思はざりけり。 源氏、左大臣邸に退出 翌日、藤壷へ参賀 内裏より、大殿にまかでたまへれば、例の うるはしうよそほしき御さまにて、心うつ くしき御気色もなく、苦しければ、 「今- 年よりだに、すこし世づきてあらためたまふ御心見えば、い かにうれしからむ」など聞こえたまへど、わざと人すゑてか

しづきたまふ、と聞きたまひしよりは、やむごとなく思し定 めたることにこそはと、心のみおかれて、いとどうとく恥づ かしく思さるべし。しひて見知らぬやうにもてなして、乱れ たる御けはひには、えしも心強からず、御答へなどうち聞こ えたまへるは、なほ人よりはいとことなり。四年ばかりがこ のかみにおはすれば、うちすぐし、恥づかしげに、さかりに ととのほりて見えたまふ。何ごとかはこの人のあかぬところ はものしたまふ、わが心のあまりけしからぬすさびに、かく 恨みられたてまつるぞかし、と思し知らる。同じ大臣と聞こ ゆる中にも、おぼえやむごとなくおはするが、宮腹にひとり いつきかしづきたまふ御心おごり、いとこよなくて、すこし もおろかなるをば、めざましと思ひきこえたまへるを、男君 は、などかいとさしも、と馴らはいたまふ、御心の隔てとも なるべし。  大臣も、かく頼もしげなき御心を、つらしと思ひきこえた

まひながら、見たてまつりたまふ時は、恨みも忘れて、かし づきいとなみきこえたまふ。つとめて、出でたまふところに、 さしのぞきたまひて、御装束したまふに、名高き御帯、御手 づから持たせて、渡りたまひて、御衣の後ひきつくろひなど、 御沓を取らぬばかりにしたまふ、いとあはれなり。 「こ れは、内宴などいふこともはべるなるを、さやうのをりにこ そ」など聞こえたまへば、 「それはまされるもはべり。こ れはただ目馴れぬさまなればなむ」とて、しひてささせたて まつりたまふ。げによろづにかしづき立てて見たてまつりた まふに、生けるかひあり、たまさかにても、かからん人を出 だし入れて見んにますことあらじ、と見えたまふ。  参座しにとても、あまた所も歩きたまはず。内裏、春宮、 一院ばかり、さては藤壼の三条宮にぞ参りたまへる。 「今日 はまたことにも見えたまふかな。ねびたまふままに、ゆゆし きまでなりまさりたまふ御ありさまかな」と、人々めできこ

ゆるを、宮、几帳の隙より、ほの見たまふにつけても、思ほ すことしげかりけり。 皇子の誕生と源氏・藤壷の苦悩 この御事の、十二月も過ぎにしが心もとな きに、この月はさりとも、と宮人も待ちき こえ、内裏にもさる御心まうけどもあり。 つれなくてたちぬ。御物の怪にや、と世人も聞こえ騒ぐを、 宮いとわびしう、このことにより、身のいたづらになりぬべ きこと、と思し嘆くに、御心地もいと苦しくてなやみたまふ。 中将の君は、いとど思ひあはせて、御修法など、さとはなく て所どころにせさせたまふ。世の中の定めなきにつけても、 かくはかなくてややみなむと、取り集 めて嘆きたまふに、二月十余日のほど に、男皇子生まれたまひぬれば、なご りなく、内裏にも宮人もよろこびきこ えたまふ。命長くも、と思ほすは心う

けれど、弘徽殿などの、うけはしげにのたまふと聞きしを、 空しく聞きなしたまはましかば人笑はれにや、と思しつより てなむ、やうやうすこしづつさはやいたまひける。  上の、いつしかとゆかしげに思しめしたること限りなし。 かの人知れぬ御心にも、いみじう心もとなくて、人間に参り たまひて、 「上のおぼつかながりきこえさせたまふを、ま づ見たてまつりて奏しはべらむ」と聞こえたまへど、 「む つかしげなるほどなれば」とて、見せたてまつりたまはぬも、 ことわりなり。さるは、いとあさましう、めづらかなるまで 写し取りたまへるさま、違ふべくもあらず。宮の、御心の鬼 にいと苦しく、人の見たてまつるも、あやしかりつるほどの あやまりを、まさに人の思ひ咎めじや、さらぬはかなきこと をだに、疵を求むる世に、いかなる名のつひに漏り出づべき にか、と思しつづくるに、身のみぞいと心うき。  命婦の君に、たまさかに逢ひたまひて、いみじき言どもを

尽くしたまへど、何のかひあるべきにもあらず。若宮の御事 を、わりなくおぼつかながりきこえたまへば、 「など、か うしもあながちにのたまはすらむ。いま、おのづから見たて まつらせたまひてむ」と聞こえながら、思へる気色かたみに ただならず。かたはらいたきことなれば、まほにもえのたま はで、 「いかならむ世に、人づてならで聞こえさせむ」と て、泣いたまふさまぞ心苦しき。 「いかさまに昔むすべる契りにてこの世にかかる中の   へだてぞ かかることこそ心得がたけれ」とのたまふ。命婦も、宮の思 ほしたるさまなどを見たてまつるに、えはしたなうもさし放 ちきこえず。 「見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむこや世の人のま   どふてふ闇 あはれに心ゆるびなき御事どもかな」と、忍びて聞こえけり。

かくのみ言ひやる方なくて帰りたまふものから、人のもの言 ひもわづらはしきを、わりなきことにのたまはせ思して、命 婦をも、昔思いたりしやうにも、うちとけ睦びたまはず。人- 目立つまじく、なだらかにもてなしたまふものから、心づき なしと思す時もあるべきを、いとわびしく思ひの外になる心- 地すべし。 皇子参内 帝の寵愛と、源氏・藤壷の苦悩 四月に内裏へ参りたまふ。ほどよりは大き におよすけたまひて、やうやう起きかへり などしたまふ。あさましきまで、紛れどこ ろなき御顔つきを、思しよらぬことにしあれば、また並びな きどちは、げに通ひたまへるにこそは、と思ほしけり。いみ じう思ほしかしづくこと限りなし。源氏の君を限りなきもの に思しめしながら、世の人のゆるしきこゆまじかりしにより て、坊にも据ゑたてまつらずなりにしを、あかず口惜しう、 ただ人にてかたじけなき御ありさま容貌にねびもておはする

を御覧ずるままに、心苦しく思しめすを、かうやむごとなき 御腹に、同じ光にてさし出でたまへれば、瑕なき玉と思しか しづくに、宮はいかなるにつけても、胸の隙なく、やすから ずものを思ほす。  例の、中将の君、こなたにて御遊びなどしたまふに、抱き 出でたてまつらせたまひて、 「皇子たちあまたあれど、そこ をのみなむ、かかるほどより明け暮れ見し。されば思ひわた さるるにやあらむ、いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほ どは、みなかくのみあるわざにやあらむ」とて、いみじくう つくしと思ひきこえさせたまへり。中将の君、面の色かはる 心地して、恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あは れにも、かたがたうつろふ心地して、涙落ちぬべし。物語な どして、うち笑みたまへるが、いとゆゆしううつくしきに、 わが身ながらこれに似たらむは、いみじういたはしうおぼえ たまふぞあながちなるや。宮は、わりなくかたはらいたきに、

汗も流れてぞおはしける。中将は、なかなかなる心地の乱る やうなれば、まかでたまひぬ。 源氏・藤壷和歌に託して思いをかわす わが御方に臥したまひて、胸のやる方なき ほど過ぐして、大殿へと思す。御前の前栽 の、何となく青みわたれる中に、常夏のは なやかに咲き出でたるを、折らせたまひて、命婦の君のもと に、書きたまふこと多かるべし。 「よそへつつ見るに心は慰まで露けさまさるなでしこ   の花 花に咲かなんと思ひたまへしも、かひなき世にはべりけれ ば」とあり。さりぬべき隙にやありけむ、御覧ぜさせて、 「ただ塵ばかり、この花びらに」と聞こゆるを、わが御心 にも、ものいとあはれに思し知らるるほどにて、 袖ぬるる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやま   となでしこ

とばかり、ほのかに書きさしたるやうなるを、喜びながら奉 れる、例のことなれば、しるしあらじかし、とくづほれてな がめ臥したまへるに、胸うちさわぎて、いみじくうれしきに も涙落ちぬ。 源氏、紫の上との遊びに思いを慰める つくづくと臥したるにも、やる方なき心地 すれば、例の、慰めには、西の対にぞ渡り たまふ。しどけなくうちふくだみたまへる 鬢ぐき、あざれたる袿姿にて、笛をなつかしう吹きすさびつ つ、のぞきたまへれば、女君、ありつる花の露にぬれたる心- 地して、添ひ臥したまへるさま、うつくしうらうたげなり。 愛敬こぼるるやうにて、おはしながらとくも渡りたまはぬ、 なまうらめしかりければ、例ならず背きたまへるなるべし、 端の方についゐて、 「こちや」とのたまへどおどろかず、 「入りぬる磯の」と口ずさみて、口おほひしたまへるさま、 いみじうざれてうつくし。 「あなにく。かかること口馴れ

たまひにけりな。みるめにあくは正なきことぞよ」
とて、人 召して、御琴取り寄せて弾かせたてまつりたまふ。 「箏の 琴は、中の細緒のたへがたきこそところせけれ」とて、平調 におしくだして調べたまふ。掻き合はせばかり弾きて、さし やりたまへれば、え怨じはてず、いとうつくしう弾きたまふ。 ちひさき御ほどに、さしやりてゆしたまふ御手つき、いとう つくしければ、らうたしと思して、笛吹き鳴らしつつ教へた まふ。いとさとくて、かたき調子どもを、ただ一わたりに習 ひとりたまふ。おほかた、らうらうしうをかしき御心ばへを、 思ひしことかなふ、と思す。保曾呂倶世利といふものは、名 は憎けれど、おもしろう吹きすさびたまへるに、掻き合はせ まだ若けれど、拍子違はず上手めきたり。  大殿油まゐりて、絵どもなど御覧ずるに、出でたまふべし、 とありつれば、人々声づくりきこえて、 「雨降りはべりぬべ し」など言ふに、姫君、例の、心細くて屈したまへり。絵も

見さして、うつぶしておはすれば、いとらうたくて、御髪の いとめでたくこぼれかかりたるを、かき撫でて、 「ほかな るほどは恋しくやある」とのたまへば、うなづきたまふ。 「我も、一日も見たてまつらぬはいと苦しうこそあれど、幼 くおはするほどは、心やすく思ひきこえて、まづくねくねし く怨むる人の心破らじと思ひて、むつかしければ、しばしか くもありくぞ。大人しく見なしてば、ほかへもさらに行くま じ。人の恨み負はじなど思ふも、世に長うありて、思ふさま に見えたてまつらんと思ふぞ」など、こまごまと語らひきこ えたまへば、さすがに恥づかしうて、ともかくも答へきこえ たまはず。やがて御膝によりかかりて、寝入りたまひぬれば、 いと心苦しうて、 「今宵は出でずなりぬ」とのたまへば、 みな立ちて、御膳などこなたにまゐらせたり。姫君起こした てまつりたまひて、 「出でずなりぬ」と聞こえたまへば、 慰みて起きたまへり。もろともに物などまゐる。いとはかな

げにすさびて、 「さらば寝たまひねかし」と、あやふげに思 ひたまひつれば、かかるを見棄てては、いみじき道なりとも、 おもむきがたくおぼえたまふ。 紫の上との風評につき、帝源氏を戒む かやうに、とどめられたまふをりをりなど も多かるを、おのづから漏り聞く人、大殿 に聞こえければ、 「誰ならむ。いとめざ ましきことにもあるかな。今までその人とも聞こえず、さや うにまつはし、戯れなどすらんは、あてやかに心にくき人に はあらじ。内裏わたりなどにて、はかなく見たまひけむ人を、 ものめかしたまひて、人や咎めむと隠したまふななり。心なげ にいはけて聞こゆるは」など、さぶらふ人々も聞こえあへり。  内裏にも、かかる人あり、と聞こしめして、 「いとほしく 大臣の思ひ嘆かるなることも、げに。ものげなかりしほどを、 おほなおほなかくものしたる心を、さばかりのことたどらぬ ほどにはあらじを、などかなさけなくはもてなすなるらむ」

とのたまはすれど、かしこまりたるさまにて、御答へも聞こ えたまはねば、心ゆかぬなめり、といとほしく思しめす。 「さるは、すきずきしううち乱れて、この見ゆる女房にまれ、 またこなたかなたの人々など、なべてならず、なども見え聞 こえざめるを、いかなるものの隈に隠れ歩きて、かく人にも 恨みらるらむ」とのたまはす。 源氏、老女源典侍とたわむれる 帝の御年ねびさせたまひぬれど、かうやう の方え過ぐさせたまはず、采女女蔵人など をも、かたち心あるをば、ことにもてはや し思しめしたれば、よしある宮仕人多かるころなり。はかな きことをも言ひふれたまふには、もてはなるることもありが たきに、目馴るるにやあらむ、げにぞあやしうすいたまはざ めると、こころみに戯れ言を聞こえかかりなどするをりあれ ど、情なからぬほどにうち答へて、まことには乱れたまはぬ を、まめやかにさうざうしと思ひきこゆる人もあり。

 年いたう老いたる典侍、人も やむごとなく心ばせあり、あて におぼえ高くはありながら、い みじうあだめいたる心ざまにて、 そなたには重からぬあるを、か うさだ過ぐるまでなどさしも乱 るらむ、といぶかしくおぼえたまひければ、戯れ言いひふれ てこころみたまふに、似げなくも思はざりける。あさましと 思しながら、さすがにかかるもをかしうて、ものなどのたま ひてけれど、人の漏り聞かむも、古めかしきほどなれば、つ れなくもてなしたまへるを、女はいとつらしと思へり。  上の御梳櫛にさぶらひけるを、はてにければ、上は御袿の 人召して、出でさせたまひぬるほどに、また人もなくて、こ の内侍常よりもきよげに、様体頭つきなまめきて、装束あり さま、いとはなやかに好ましげに見ゆるを、さも旧りがたう

もと、心づきなく見たまふものから、いかが思ふらんと、さ すがに過ぐしがたくて、裳の裾を引きおどろかしたまへれば、 かはほりのえならずゑがきたるを、さし隠して見かへりたる まみ、いたう見延べたれど、目皮らいたく黒み落ち入りて、 いみじうはづれそそけたり。似つかはしからぬ扇のさまかな、 と見たまひて、わが持たまへるに、さしかへて見たまへば、 赤き紙の、映るばかり色深きに、木高き森のかたを塗り隠し たり。片つ方に、手はいとさだ過ぎたれど、よしなからず、 「森の下草老いぬれば」など書きすさびたるを、言しもあれ、 うたての心ばへや、と笑まれながら、 「森こそ夏の、と見 ゆめる」とて、何くれとのたまふも、似げなく、人や見つけ ん、と苦しきを、女はさも思ひたらず。 君し来ば手なれの駒に刈り飼はむさかり過ぎたる下-   葉なりとも と言ふさま、こよなく色めきたり。

「笹分けば人や咎めむいつとなく駒なつくめる森の木  がくれ わづらはしさに」とて、立ちたまふを、ひかへて、 「まだ かかるものをこそ思ひはべらね。今さらなる身の恥になむ」 とて、泣くさまいといみじ。 「いま聞こえむ。思ひながら ぞや」とて、引き放ちて出でたまふを、せめておよびて、 「橋- 柱」と恨みかくるを、上は御袿はてて、御障子よりのぞかせ たまひけり。似つかはしからぬあはひかなと、いとをかしう 思されて、 「すき心なしと、常にもてなやむめるを、さはい へど、すぐさざりけるは」とて、笑はせたまへば、内侍は、 なままばゆけれど、憎からぬ人ゆゑは、濡れ衣をだに着まほ しがるたぐひもあなればにや、いたうもあらがひきこえさせ ず。人々も、思ひの外なることかな、とあつかふめるを、頭- 中将聞きつけて、いたらぬ隈なき心にて、まだ思ひよらざり けるよ、と思ふに、尽きせぬ好み心も、見まほしうなりにけ

れば、語らひつきにけり。 源氏と典侍との逢瀬を、頭中将おどす この君も、人よりはいとことなるを、かの つれなき人の御慰めに、と思ひつれど、見 まほしきは限りありけるをとや。うたての 好みや。いたう忍ぶれば、源氏の君はえ知りたまはず。見つ けきこえては、まづ恨みきこゆるを、齢のほどいとほしけれ ば、慰めむと思せど、かなはぬものうさに、いと久しくなり にけるを、タ立して、なごり涼しき宵のまぎれに、温明殿の わたりをたたずみ歩きたまへば、この内侍、琵琶をいとをか しう弾きゐたり。御前などにても、男方の御遊びにまじりな どして、ことにまさる人なき上手なれば、もの恨めしうおぼ えけるをりから、いとあはれに聞こゆ。 「瓜作りになりや しなまし」と、声はいとをかしうて謡ふぞ、すこし心づきな き。鄂州にありけむ昔の人も、かくやをかしかりけむと、耳 とまりて聞きたまふ。弾きやみて、いといたう思ひ乱れたる

けはいなり。君、東屋を忍びやかに謡ひて、寄りたまへるに、 「おし開いて来ませ」と、うち添へたるも、例に違ひたる 心地ぞする。 立ち濡るる人しもあらじ東屋にうたてもかかる雨そ    そきかな とうち嘆くを、われひとりしも聞きおふまじけれど、うとま しや、何ごとをかくまでは、とおぼゆ。 人妻はあなわづらはし東屋の真屋のあまりも馴れじ    とぞ思ふ とてうち過ぎなまほしけれど、あまりはしたなくや、と思ひ かへして、人に従へば、すこしはやりかなる戯れ言など言ひ かはして、これもめづらしき心地ぞしたまふ。  頭中将は、この君の、いたうまめだち過ぐして、常にもど きたまふがねたきを、つれなくて、うちうち忍びたまふ方々 多かめるを、いかで見あらはさむとのみ思ひわたるに、これ

を見つけたる心地、いとうれし。かかるをりに、すこしおど しきこえて、御心まどはして、 「懲りぬや」と言はむと思ひ て、たゆめきこゆ。  風冷やかにうち吹きて、やや更けゆくほどに、すこしまど ろむにやと見ゆる気色なれば、やをら入りくるに、君はとけ てしも寝たまはぬ心なればふと聞きつけて、この中将とは思 ひよらず、なほ忘れがたくすなる修理大夫にこそあらめと思 すに、おとなおとなしき人に、かく似げなきふるまひをして、 見つけられんことは恥づかしければ、 「あな、わづらはし。 出でなむよ。蜘珠のふるまひはしるかりつらむものを。心う くすかしたまひけるよ」とて、直衣ばかりを取りて、屏風の 後に入りたまひぬ。中将をかしきを念じて、引きたてたまへ る屏風のもとに寄りて、こぼこぼと畳み寄せて、おどろおど ろしく騒がすに、内侍は、ねびたれど、いたくよしばみなよ びたる人の、さきざきもかやうにて心動かすをりをりありけ

れば、ならひて、いみじく心あわたたしきにも、この君をい かにしきこえぬるかと、わびしさにふるふふるふ、つと控へ たり。誰と知られで出でなばやと思せど、しどけなき姿にて、 冠などうちゆがめて走らむ後手思ふに、いとをこなるべし と思しやすらふ。中将、いかで我と知られきこえじ、と思ひ て、ものも言はず、ただいみじう怒れる気色にもてなして、 太刀を引き抜けば、女、 「あが君、あが君」と向ひて手をす るに、ほとほど笑ひぬべし。好ましう若やぎてもてなしたる うはべこそさてもありけれ、五十七八の人の、うちとけても の思ひ騒げるけはひ、えならぬ二十の若人たちの御中にて物- 怖ぢしたるいとつきなし。かうあらぬさまにもてひがめて、 恐ろしげなる気色を見すれど、なかなかしるく見つけたまひ て、我と知りてことさらにするなりけりと、をこになりぬ。 その人なめり、と見たまふに、いとをかしければ、太刀抜き たる腕をとらへていといたうつみたまへれば、ねたきものか

ら、えたへで笑ひぬ。 「まことはうつし心かとよ。戯れに くしや。いでこの直衣着む」とのたまへど、つととらへてさ らにゆるしきこえず。 「さらばもろともにこそ」とて、中- 将の帯をひき解きて脱がせたまへば、脱がじとすまふを、と かくひきしろふほどに、綻びはほろほろと絶えぬ。中将、   「つつむめる名やもり出でん引きかはしかくほころぶる  中の衣に 上に取り着ば、しるからん」といふ。君、   かくれなきものと知る知る夏衣きたるをうすき心とぞ見 る と言ひかはして、うらやみなきしどけな姿に引きなされて、 みな出でたまひぬ。 源典侍とのことで、源氏、頭中将と応酬 君はいと口惜しく、見つけられぬること、 と思ひ臥したまへり。内侍は、あさましく おぼえければ、落ちとまれる御指貫帯など、

つとめてたてまつれり。 「うらみても言ふかひぞなきたちかさね引きてかへり   し波のなごりに 底もあらはに」とあり。面なのさまやと、見たまふも憎けれ ど、わりなしと思へりしもさすがにて、 あらだちし波にこころは騒がねど寄せけむ磯をいか  がうらみぬ とのみなむありける。帯は、中将のなりけり。わが御直衣よ りは色深し、と見たまふに、端袖もなかりけり。あやしの事 どもや、下り立ちて乱るる人は、むべをこがましきことは多 からむと、いとど御心をさめられたまふ。  中将、宿直所より、 「これまづとぢつけさせたまへ」とて、 おし包みておこせたるを、いかで取りつらむ、と心やまし。 この帯をえざらましかば、と思す。その色の紙につつみて、 中絶えばかごとやおふとあやふさにはなだの帯を取

 りてだに見ず
とて遣りたまふ。たち返り、 「君にかく引き取られぬる帯なればかくて絶えぬる中  とかこたむ え逃れさせたまはじ」とあり。  日たけて、おのおの殿上に参りたまへり。いと静かに、も の遠きさましておはするに、頭の君もいとをかしけれど、公- 事多く奏し下す日にて、いとうるはしくすくよかなるを見る も、かたみにほほ笑まる。人間にさし寄りて、 「もの隠しは 懲りぬらむかし」とて、いとねたげなる後目なり。 「など てかさしもあらむ。立ちながらかへりけむ人こそいとほしけ れ。まことは、うしや世の中よ」と言ひ合はせて、「とこの 山なる」と、かたみに口がたむ。  さてその後、ともすれば事のついでごとに、言ひむかふる くさはひなるを、いとど、ものむつかしき人ゆゑと、思し知

るべし。女は、なほいと艶に恨みかくるを、わびしと思ひあ りきたまふ。中将は、妹の君にも聞こえ出でず。たださるべ きをりのおどしぐさにせむ、とぞ思ひける。  やむごとなき御腹々の御子たちだに、上の御もてなしのこ よなきに、わづらはしがりて、いとことに避りきこえたまへ るを、この中将は、さらにおし消たれきこえじと、はかなき ことにつけても、思ひいどみきこえたまふ。この君ひとりぞ、 姫君の御ひとつ腹なりける。帝の皇子といふばかりこそあれ、 我も、同じ大臣と聞こゆれど、御おぼえことなるが、皇女腹 にて、またなくかしづかれたるは、何ばかり劣るべき際とお ぼえたまはぬなるべし。人がらもあるべき限りととのひて、 何ごともあらまほしく、足らひてぞものしたまひける。この 御仲どものいどみこそ、あやしかりしか。されどうるさくて なむ。 藤壺、弘徽殿女御を超えて后に立つ

七月にぞ后ゐたまふめりし。源氏の君、宰- 相になりたまひぬ。帝おりゐさせたまはむ の御心づかひ近うなりて、この若宮を坊に、 と思ひきこえさせたまふに、御後見したまふべき人おはせず。 御母方の、みな親王たちにて、源氏の公事知りたまふ筋な らねば、母宮をだに動きなきさまにしおきたてまつりて、つ よりにと思すになむありける。弘徽殿、いとど御心動きたま ふ、ことわりなり。されど、 「春宮の御世、いと近うなりぬ れば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」とぞ聞こえさせ たまひける。げに、春宮の御母にて二十余年になりたまへる 女御をおきたてまつりては、引き越したてまつりたまひがた きことなりかしと、例の、安からず世人も聞こえけり。  参りたまふ夜の御供に、宰相の君も仕うまつりたまふ。同 じ宮と聞こゆる中にも、后腹の皇女、玉光りかかやきて、た ぐひなき御おぼえにさへものしたまへば、人もいとことに思

ひかしづききこえたり。まして、わりなき御心には、御輿の うちも思ひやられて、いとど及びなき心地したまふに、すず ろはしきまでなむ。   尽きもせぬ心のやみにくるるかな雲ゐに人を見るに   つけても とのみ、独りごたれつつ、ものいとあはれなり。 生いたつ皇子、源氏と相並んで美しく 皇子は、およすけたまふ月日に従ひて、い と見たてまつり分きがたげなるを、宮いと 苦しと思せど、思ひよる人なきなめりかし。 げにいかさまに作りかへてかは、劣らぬ御ありさまは、世に 出でものしたまはまし。月日の光の空に通ひたるやうにぞ、 世人も思へる。 The Festival of the Cherry Blossoms 花の宴に、源氏と頭中将、詩作し、舞う

二月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせ たまふ。后、春宮の御局、左右にして、参 う上りたまふ。弘徽殿女御、中宮のかくて おはするを、をりふしごとに安からず思せど、物見にはえ過 ぐしたまはで参りたまふ。日いとよく晴れて、空のけしき、 鳥の声も心地よげなるに、親王たち、上達部よりはじめて、 その道のは、みな探韻賜はりて文作りたまふ。宰相中将、 「春といふ文字賜はれり」とのたまふ声さへ、例の、人にこ となり。次に頭中将、人の目移しもただならずおぼゆべかめ れど、いとめやすくもてしづめて、声づかひなど、ものもの しくすぐれたり。さての人々は、みな臆しがちにはなじろめ る多かり。地下の人は、まして、帝、春宮の御才かしこくす

ぐれておはします、かかる方にやむごとなき人多くものした まふころなるに、恥づかしく、はるばるとくもりなき庭に立 ち出づるほど、はしたなくて、やすきことなれど苦しげなり。 年老いたる博士どもの、なりあやしくやつれて、例馴れたる も、あはれに、さまざま御覧ずるなむ、をかしかりける。  楽どもなどは、さらにもいはず調へさせたまへり。やうや う入日になるほど、春の鶯囀るといふ舞、いとおもしろく見 ゆるに、源氏の御紅葉の賀のをり思し出でられて、春宮、か ざし賜はせて、せちに責めのたまはするに、のがれがたくて、 立ちて、のどかに、袖かへすところを、一をれ気色ばかり舞 ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。左大臣、うらめしさ も忘れて、涙落したまふ。 「頭中将、いづら。遅し」とあれ ば、柳花苑といふ舞を、これはいますこし過ぐして、かかる こともや、と心づかひやしけむ、いとおもしろければ、御衣 賜はりて、いとめづらしきことに人思へり。上達部みな乱れ

て舞ひたまへど、夜に入りては、ことにけぢめも見えず。文 など講ずるにも、源氏の君の御をば、講師もえ読みやらず、 句ごとに誦じののしる。博士どもの心にもいみじう思へり。 かうやうのをりにも、まづこの君を光にしたまへれば、帝も いかでかおろかに思されん。中宮、御目のとまるにつけて、 春宮の女御のあながちに憎みたまふらむもあやしう、わがか う思ふも心うしとぞ、みづから思しかへされける。 おほかたに花の姿をみましかば露も心のおかれまし  やは 御心の中なりけんこと、いかで漏りにけむ。 宴後、弘徽殿の細殿で朧月夜の君に会う 夜いたう更けてなむ、事はてける。上達部 おのおのあかれ、后、春宮かへらせたまひ ぬれば、のどやかになりぬるに、月いと明 かうさし出でてをかしきを、源氏の君酔ひ心地に、見すぐし がたくおぼえたまひければ、上の人々もうち休みて、かやう

に思ひかけぬほどに、もしさりぬべき隙もやあると、藤壼わ たりを、わりなう忍びてうかがひありけど、語らふべき戸口 も鎖してければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿の細殿 に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。女御は、上の御局 に、やがて参う上りたまひにければ、人少ななるけはひなり。 奥の枢戸も開きて、人音もせず。かやうにて世の中のあやま ちはするぞかしと思ひて、やをら上りてのぞきたまふ。人は みな寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、なべての人と は聞こえぬ、 「朧月夜に似るものぞなき」と、うち誦じて、 こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとら へたまふ。女、恐ろしと思へる気色にて、 「あなむくつけ。 こは誰そ」とのたまへど、 「何かうとましき」とて、 深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契   りとぞ思ふ とて、やをら抱き降ろして、戸は押し立てつ。あさましきに

あきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわ ななく、 「ここに、人」とのたまへど、 「まろは、皆人に ゆるされたれば、召し寄せたりとも、なむでふことかあらん。 ただ忍びてこそ」とのたまふ声に、この君なりけり、と聞き 定めて、いささか慰めけり。  わびしと思へるものから、情なくこはごはしうは見えじ、 と思へり。酔ひ心地や例ならざりけむ、ゆるさんことは口惜 しきに、女も若うたをやぎて、強き心も知らぬなるべし。ら うたしと見たまふに、ほどなく明けゆけば、心あわたたし。 女はまして、さまざまに思ひ乱れたる気色なり。 「なほ名 のりしたまへ。いかで聞こゆべき。かうてやみなむとは、さ りとも思されじ」とのたまへば、 うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじ   とや思ふ と言ふさま、艶になまめきたり。 「ことわりや。聞こえ違

へたるもじかな」
とて、 「いづれぞと露のやどりをわかむまに小笹が原に風も   こそ吹け わづらはしく思すことならずは、何かつつまむ。もし、すか いたまふか」とも言ひあへず、人々起き騒ぎ、上の御局に参 りちがふ気色どもしげく迷へば、いとわりなくて、扇ばかり を、しるしに取りかへて出でたまひぬ。  桐壼には、人々多くさぶらひて、おどろきたるもあれば、 かかるを、 「さもたゆみなき御忍び歩きかな」とつきしろひ つつ、そら寝をぞしあへる。入りたまひて臥したまへれど、 寝入られず。をかしかりつる人のさまかな。女御の御おとう とたちにこそはあらめ、まだ世に馴れぬは、五六の君ならん かし、帥宮の北の方、頭中将のすさめぬ四の君などこそ、よ しと聞きしか、なかなかそれならましかば、いますこしをか しからまし、六は春宮に奉らんと心ざしたまへるを、いとほ

しうもあるべいかな、わづらはしう尋ねむほども紛らはし、 さて絶えなむとは思はぬ気色なりつるを、いかなれば、言通 はすべきさまを教へずなりぬらんなど、よろづに思ふも、心 のとまるなるべし。かうやうなるにつけても、まづかのわた りのありさまの、こよなう奥まりたるはやと、ありがたう思 ひくらべられたまふ。 従者をやって、朧月夜の君の素姓を探る その日は後宴の事ありて、紛れ暮らしたま ひつ。箏の琴仕うまつりたまふ。昨日の事 よりも、なまめかしうおも しろし。藤壼は、暁に参うのぼりたまひに けり。かの有明出でやしぬらんと、心もそら にて、思ひいたらぬ隈なき良清、惟光をつけ てうかがはせたまひければ、御前よりまかで たまひけるほどに、 「ただ今、北の陣より、 かねてより隠れ立ちてはべりつる車どもまか

り出づる。御方々の里人はべりつる中に、四位少将、右中弁 など急ぎ出でて、送りしはべりつるや、弘徽殿の御あかれな らん、と見たまへつる。けしうはあらぬけはひどもしるくて、 車三つばかりはべりつ」
と聞こゆるにも、胸うちつぶれたま ふ。いかにして、いづれと知らむ、父大臣など聞きて、こと ごとしうもてなさんも、いかにぞや、まだ人のありさまよく 見定めぬほどは、わづらはしかるべし、さりとて知らであら ん、はた、いと口惜しかるべければ、いかにせまし、と思し わづらひて、つくづくとながめ臥したまへり。  姫君いかにつれづれならん、日ごろになれば屈してやあら むと、らうたく思しやる。かのしるしの扇は、桜がさねにて、 濃きかたに霞める月を描きて、水にうつしたる心ばへ、目馴 れたることなれど、ゆゑなつかしうもてならしたり。 「草の 原をば」と言ひしさまのみ心にかかりたまへば、 世に知らぬ心地こそすれ有明の月のゆくへを空にま

 がへて と書きつけたまひて、置きたまへり。 源氏、二条院に退出、紫の上を見る 大殿にも久しうなりにける、と思せど、若 君も心苦しければ、こしらへむ、と思して、 二条院へおはしぬ。見るままに、いとうつ くしげに生ひなりて、愛敬づき、らうらうじき心ばへいとこ となり。飽かぬ所なう、わが御心のままにをしへなさむ、と 思すにかなひぬべし。男の御をしへなれば、すこし人馴れた ることや交らむ、と思ふこそうしろめたけれ。日ごろの御物- 語、御琴などをしへ暮らして、出でたまふを、例の、と口惜 しう思せど、今はいとようならはされて、わりなくは慕ひま つはさず。 源氏、大殿を訪れ、大臣らと語る 大殿には、例の、ふとも対面したまはず。 つれづれとよろづ思しめぐらされて、箏の 御琴まさぐりて、
「やはらかにぬる夜はな

くて」
とうたひたまふ。大臣渡りたまひて、一日の興ありし こと聞こえたまふ。 「ここらの齢にて、明王の御代、四- 代をなん見はべりぬれど、このたびのやうに、文ども警策に、 舞、楽、物の音ども調ほりて、齢延ぶることなむはべらざり つる。道々の物の上手ども多かるころほひ、くはしうしろし めし調へさせたまへるけなり。翁もほとほど舞ひ出でぬべき 心地なんしはべりし」と聞こえたまへば、 「ことに調へ行 ふこともはべらず。ただおほやけごとに、そしうなる物の師 どもを、ここかしこに尋ねはべりしなり。よろづのことより は、柳花苑、まことに後代の例ともなりぬべく見たまへしに、 ましてさかゆく春に立ち出でさせたまへらましかば、世の面- 目にやはべらまし」と聞こえたまふ。弁、中将など参りあひ て、高欄に背中おしつつ、とりどりに物の音ども調べあはせ て遊びたまふ、いとおもしろし。 右大臣家の藤の宴で、朧月夜の君と再会

かの有明の君は、はかなかりし夢を思し出 でて、いともの嘆かしうながめたまふ。春- 宮には、卯月ばかりと思し定めたれば、い とわりなう思し乱れたるを、男も、尋ねたまはむにあとはか なくはあらねど、いづれとも知らで、ことにゆるしたまはぬ あたりにかかづらはむも、人わるく、思ひわづらひたまふに、 三月の二十余日、右大殿の弓の結に、上達部親王たち多く つどへたまひて、やがて藤の宴したまふ。花ざかりは過ぎに たるを、「ほかの散りなむ」とやをしへられたりけむ、おく れて咲く桜二木ぞいとおもしろき。新しう造りたまへる殿を、 宮たちの御裳着の日、磨きしつらはれたり。はなばなともの したまふ殿のやうにて、なにごとも今めかしうもてなしたま へり。  源氏の君にも、一日内裏にて、御対面のついでに聞こえた まひしかど、おはせねば、口惜しう、ものの栄なし、と思し

て、御子の四位少将を奉りたまふ。 わが宿の花しなべての色ならば何かはさらに君を  待たまし 内裏におはするほどにて、上に奏したまふ。 「したり顔な りや」と笑はせたまひて、 「わざとあめるを、早うものせ よかし。女御子たちなども、生ひ出づる所なれば、なべての さまには思ふまじきを」などのたまはす。御装ひなどひきつ くろひたまひて、いたう暮るるほどに、待たれてぞ渡りたま ふ。桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて、 皆人は袍衣なるに、あざれたるおほぎみ姿のなまめきたるに て、いつかれ入りたまへる御さま、げにいとことなり。花の にほひもけおされて、なかなかことざましになむ。遊びなど いとおもしろうしたまひて、夜すこし更けゆくほどに、源氏 の君、いたく酔ひなやめるさまにもてなしたまひて、まぎれ 立ちたまひぬ。

 寝殿に女一の宮、女三の宮のおはします、東の戸口におは して、寄りゐたまへり。藤はこなたのつまにあたりてあれば、 御格子ども上げわたして、人々出でゐたり。袖口など、踏歌 のをりおぼえて、ことさらめきもて出でたるを、ふさはしか らずと、まづ藤壼わたり思し出でらる。 「なやましきに、 いといたう強ひられて、わびにてはべり。かしこけれど、こ の御前にこそは、蔭にも隠させたまはめ」とて、妻戸の御廉 を引き着たまへば、 「あな、わづらはし。よからぬ人こそ、 やむごとなきゆかりはかこちはべるなれ」といふ気色を見た まふに、重々しうはあらねど、おしなべての若人どもにはあ らず、あてにをかしきけはひしるし。そらだきものいとけぶ たうくゆりて、衣のおとなひいとはなやかにふるまひなして、 心にくく奥まりたるけはひは立ちおくれ、今めかしきことを 好みたるわたりにて、やむごとなき御方々物見たまふとて、 この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことな

れど、さすがにをかしう思ほされて、いづれならむ、と胸う ちつぶれて、 「扇を取られて、からきめを見る」と、うち おほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。 「あやしく もさま変へける高麗人かな」と答ふるは、心知らぬにやあら ん。答へはせで、ただ時々うち嘆くけはひする方に寄りかか りて、几帳ごしに手をとらへて、 「あづさ弓いるさの山にまどふかなほのみし月の影や  見ゆると 何ゆゑか」と、おしあてにのたまふを、え忍ばぬなるべし、 心いる方ならませばゆみはりのつきなき空に迷はまし  やは といふ声、ただそれなり。いとうれしきものから。 Heartvine 桐壺帝譲位後の源氏と藤壺の宮

世の中変りて後、よろづものうく思され、 御身のやむごとなさも添ふにや、軽々しき 御忍び歩きもつつましうて、ここもかしこ も、おぼつかなさの嘆きを重ねたまふ報いにや、なほ我につ れなき人の御心を尽きせずのみ思し嘆く。今は、まして隙な う、ただ人のやうにて添ひおはしますを、今后は心やましう 思すにや、内裏にのみさぶらひたまへば、立ち並ぶ人なう心 やすげなり。をりふしに従ひては、御遊びなどを好ましう世 の響くばかりせさせたまひつつ、今の御ありさましもめでた し。ただ、春宮をぞいと恋しう思ひきこえたまふ。御後見の なきをうしろめたう思ひきこえて、大将の君によろづ聞こえ つけたまふも、かたはらいたきものからうれしと思す。 伊勢下向を思案する御息所と源氏の心境

まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の 姫宮斎宮にゐたまひにしかば、大将の御心 ばへもいと頼もしげなきを、幼き御ありさ まのうしろめたさにことつけて、下りやしなましと、かねて より思しけり。院にも、かかることなむと聞こしめして、 「故宮のいとやむごとなく思し、時めかしたまひしものを、 軽々しうおしなべたるさまにもてなすなるがいとほしきこと。 斎宮をもこの皇女たちの列になむ思へば、いづ方につけても おろかならざらむこそよからめ。心のすさびにまかせて、か くすきわざするは、いと世のもどき負ひぬべきことなり」な ど、御気色あしければ、わが御心地にもげにと思ひ知らるれ ば、かしこまりてさぶらひたまふ。 「人のため恥がましき ことなく、いづれをもなだらかにもてなして、女の怨みな負 ひそ」とのたまはするにも、けしからぬ心のおほけなさを聞 こしめしつけたらむ時と、恐ろしければ、かしこまりてまか

でたまひぬ。  また、かく院にも聞こしめしのたまはするに、人の御名も わがためも、すきがましう、いとほしきに、いとどやむごと なく心苦しき筋には思ひきこえたまへど、まだあらはれては わざともてなしきこえたまはず。女も、似げなき御年のほど を恥づかしう思して心とけたまはぬ気色なれば、それにつつ みたるさまにもてなして、院に聞こしめし入れ、世の中の人 も知らぬなくなりにたるを、深うしもあらぬ御心のほどを、 いみじう思し嘆きけり。 朝顔の姫君の深慮 葵の上の懐妊 かかることを聞きたまふにも、朝顔の姫君 は、いかで人に似じ、と深う思せば、はか なきさまなりし御返りなどもをさをさなし。 さりとて、人憎くはしたなくはもてなしたまはぬ御気色を、 君も、なほことなりと、思しわたる。  大殿には、かくのみ定めなき御心を心づきなしと思せど、

あまりつつまぬ御気色の言ふかひなければにやあらむ、深う も怨じきこえたまはず。心苦しきさまの御心地に悩みたまひ てもの心細げにおぼいたり。めづらしくあはれと思ひきこえ たまふ。誰も誰もうれしきものからゆゆしう思して、さまざ まの御つつしみせさせたてまつりたまふ。かやうなるほど、 いとど御心の暇なくて、思しおこたるとはなけれど、とだえ 多かるべし。 新斎院御禊の日、葵の上物見に出る そのころ、斎院もおりゐたまひて、后腹の 女三の宮ゐたまひぬ。帝后いとことに思 ひきこえたまへる宮なれば、筋異になりた まふをいと苦しう思したれど、他宮たちのさるべきおはせず。 儀式など、常の神事なれど、厳しうののしる。祭のほど、限 りある公事に添ふこと多く、見どころこよなし。人柄と見え たり。御禊の日、上達部など数定まりて仕うまつりたまふわ ざなれど、おぼえことに、容貌あるかぎり、下襲の色、表袴

の紋、馬、鞍までみなととのへたり、とりわきたる宣旨にて、 大将の君も仕うまつりたまふ。かねてより物見車心づかひし けり。一条の大路所なくむくつけきまで騒ぎたり。所どころ の御桟敷、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さへいみ じき見物なり。  大殿には、かやうの御歩きもをさをさしたまはぬに、御心- 地さへ悩ましければ、思しかけざりけるを、若き人々、 「い でや、おのがどちひき忍びて見はべらむこそはえなかるべけ れ。おほよそ人だに、今日の物見には、大将殿をこそは、あ やしき山がつさへ見たてまつらんとすなれ。遠き国々より妻- 子をひき具しつつも参うで来 なるを、御覧ぜぬはいとあま りもはべるかな」と言ふを、 大宮聞こしめして、 「御心地 もよろしき隙なり。さぶらふ

人々もさうざうしげなめり」
とて、にはかにめぐらし仰せた まひて見たまふ。 葵の上の一行、御息所の車に乱暴をする 日たけゆきて、儀式もわざとならぬさまに て出でたまへり。隙もなう立ちわたりたる に、よそほしうひきつづきて立ちわづらふ。 よき女房車多くて、雑々の人なき隙を思ひ定めてみなさし 退けさする中に、網代のすこし馴れたるが、下簾のさまなど よしばめるに、いたうひき入りて、ほのかなる袖口、裳の裾、 汗衫など、物の色いときよらにて、ことさらにやつれたるけ はひしるく見ゆる車二つあり。 「これは、さらにさやうに さし退けなどすベき御車にもあらず」と、口強くて手触れさ せず。いづ方にも、若き者ども酔ひすぎ立ち騒ぎたるほどの ことは、えしたためあへず。おとなおとなしき御前の人々は、 「かくな」などいへど、え止めあへず。  斎宮の御母御息所、もの思し乱るる慰めにもやと、忍びて

出でたまへるなりけり。つれなしづくれど、おのづから見知 りぬ。 「さばかりにては、さな言はせそ。大将殿をぞ豪- 家には思ひきこゆらむ」など言ふを、その御方の人もまじれ れば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、 知らず顔をつくる。つひに御車ども立てつづけつれば、副車 の奥に押しやられてものも見えず。心やましきをばさるもの にて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたき こと限りなし。榻などもみな押し折られて、すずろなる車の 筒にうちかけたれば、またなう人わろく、悔しう何に来つら ん、と思ふにかひなし。  ものも見で帰らんとしたまへど、通り出でん隙もなきに、 「事なりぬ」と言へば、さすがにつらき人の御前渡りの待た るるも心弱しや。笹の隈にだにあらねばにや、つれなく過ぎ たまふにつけても、なかなか御心づくしなり。げに、常より も好みととのへたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下-

簾の隙間どもも、さらぬ顔なれど、ほほゑみつつ後目にとど めたまふもあり。大殿のはしるければ、まめだちて渡りたま ふ。御供の人々うちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、お し消たれたるありさまこよなう思さる。   影をのみみたらし川のつれなきに身のうきほどぞ   いとど知らるる と、涙のこぼるるを人の見るもはしたなけれど、目もあやな る御さま、容貌のいとどしう、出でばえを見ざらましかば、 と思さる。 見物の人々源氏の美しさを賛嘆する ほどほどにつけて、装束、人のありさまい みじくととのへたりと見ゆる中にも、上達- 部はいとことなるを、一所の御光にはおし 消たれためり。大将の御かりの随身に殿上の将監などのする ことは常のことにもあらず、めづらしき行幸などのをりのわ ざなるを、今日は右近の蔵人の将監仕うまつれり。さらぬ御-

随身どもも、容貌、姿まばゆくととのへて、世にもてかしづ かれたまへるさま、木草もなびかぬはあるまじげなり。壼装- 束などいふ姿にて、女房のいやしからぬや、また尼などの世 を背きけるなども、倒れまろびつつ物見に出でたるも、例は、 あながちなりや、あな憎、と見ゆるに、今日はことわりに、 口うちすげみて、髪着こめたるあやしの者どもの、手をつく りて額にあてつつ見たてまつり上げたるもをこがましげなる。 賤の男まで、おのが顔のならむさまをば知らで笑みさかえた り。何とも見入れたまふまじきえせ受領のむすめなどさへ、 心の限り尽くしたる車どもに乗り、さまことさらび、心化粧 したるなむ、をかしきやう やうの見物なりける。まし て、ここかしこにうち忍び て通ひたまふ所どころは、 人知れずのみ数ならぬ嘆き

まさるも多かり。  式部卿宮、桟敷にてぞ見たまひける。 「いとまばゆきまで ねびゆく人の容貌かな。神などは目もこそとめたまへ」とゆ ゆしく思したり。姫君は、年ごろ聞こえわたりたまふ御心ば への世の人に似ぬを、なのめならむにてだにあり、ましてか うしもいかで、と御心とまりけり。いとど近くて見えむまで は思し寄らず。若き人々は、聞きにくきまでめできこえあ へり。 源氏、葵の上と御息所の車争いを耳にする 祭の日は、大殿には物見たまはず。大将の 君、かの御車の所争ひをまねびきこゆる人 ありければ、いといとほしう、うしと思し て、 「なほ、あたら、重りかにおはする人の、ものに情おく れ、すくすくしきところつきたまへるあまりに、みづからは さしも思さざりけめども、かかるなからひは情かはすべきも のともおぼいたらぬ御掟に従ひて、次々よからぬ人のせさせ

たるならむかし。御息所は、心ばせのいと恥づかしく、よし ありておはするものを、いかに思しうむじにけん」
といとほ しくて、参うでたまへりけれど、斎宮のまだ本の宮におはし ませば、榊の憚りにことつけて、心やすくも対面したまはず。 ことわりとは思しながら、 「なぞや。かくかたみにそばそ ばしからでおはせかし」とうちつぶやかれたまふ。 祭りの日、源氏、紫の上と物見に出る 今日は、二条院に離れおはして、祭見に出 でたまふ。西の対に渡りたまひて、惟光に 車のこと仰せたり。 「女房、出でたつや」 とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておは するをうち笑みて見たてまつりたまふ。 「君は、いざたま へ。もろともに見むよ」とて、御髪の常よりもきよらに見ゆ るをかき撫でたまひて、 「久しう削ぎたまはざめるを、今- 日はよき日ならむかし」とて、暦の博士召して時刻問はせな どしたまふほどに、 「まづ、女房、出でね」とて、童の姿

どものをかしげなるを御覧ず。いとらうたげなる髪どもの末 はなやかに削ぎわたして、浮紋の表袴にかかれるほどけざや かに見ゆ。 「君の御髪は我削がむ」とて、 「うたて、と ころせうもあるかな。いかに生ひやらむとすらむ」と削ぎわ づらひたまふ。 「いと長き人も、額髪はすこし短うぞあめ るを、むげに後れたる筋のなきや、あまり情なからむ」とて、 削ぎはてて、 「千尋」と祝ひきこえたまふを、少納言、あは れにかたじけなしと見たてまつる。   はかりなき千尋の底の海松ぶさの生ひゆく末は我の みぞ見む と聞こえたまへば、   千尋ともいかでか知らむさだめなく満ち干る潮の   のどけからぬに と物に書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若 うをかしきを、めでたしと思す。 源氏、好色女源典侍と歌の応酬をする

今日も所もなく立ちにけり。馬場殿のほど に立てわづらひて、 「上達部の車ども多 くて、もの騒がしげなるわたりかな」と やすらひたまふに、よろしき女車のいたう乗りこぼれたる より、扇をさし出でて人を招き寄せて、 「ここにやは立たせ たまはぬ。所避りきこえむ」と聞こえたり。いかなるすき者 ならむ、と思されて、所もげによきわたりなれば、ひき寄せ させたまひて、 「いかで得たまへる所ぞと、ねたさになん」 とのたまへば、よしある扇の端を折りて、   「はかなしや人のかざせるあふひゆゑ神のゆるしのけ   ふを待ちける 注連の内には」とある手を思し出づれば、かの典侍なりけり。 「あさましう、古りがたくも今めくかな」と憎さに、はした なう、   かざしける心ぞあだに思ほゆる八十氏人になべてあ

  ふひを
女はつらしと思ひきこえけり。   くやしくもかざしけるかな名のみして人だのめなる   草葉ばかりを と聞こゆ。人とあひ乗りて簾をだに上げたまはぬを、心やま しう思ふ人多かり。 「一日の御ありさまのうるはしかりしに、 今日うち乱れて歩きたまふかし。誰ならむ、乗り並ぶ人けし うはあらじはや」と推しはかりきこゆ。 「いどましからぬか ざし争ひかな」とさうざうしく思せど、かやうにいと面なか らぬ人、はた人あひ乗りたまへるにつつまれて、はかなき御 いらへも心やすく聞こえんもまばゆしかし。 車争いのため、御息所のもの思い深まる 御息所は、ものを思し乱るること年ごろよ りも多く添ひにけり。つらき方に思ひはて たまへど、今はとてふり離れ下りたまひな むはいと心細かりぬべく、世の人聞きも人わらへにならんこ

とと思す。さりとて立ちとまるべく思しなるには、かくこよ なきさまにみな思ひくたすべかめるも安からず、 「釣する海- 人のうけなれや」と、起き臥し思しわづらふけにや、御心地 も浮きたるやうに思されて、悩ましうしたまふ。大将殿には、 下りたまはむことを、もて離れて、あるまじきことなども妨 げきこえたまはず、 「数ならぬ身を見まうく思し棄てむも ことわりなれど、今は、なほいふかひなきにても、御覧じは てむや浅からぬにはあらん」と聞こえかかづらひたまへば、 定めかねたまへる御心もや慰む、と立ち出でたまへりし御禊- 河の荒かりし瀬に、いとどよろづいとうく思し入れたり。 懐妊中の葵の上、物の怪に悩まされる 大殿には、御物の怪めきていたうわづらひ たまへば、誰も誰も思し嘆くに、御歩きな ど便なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡 りたまふ。さはいへど、やむごとなき方はことに思ひきこえ たまへる人の、めづらしきことさへ添ひたまへる御悩みなれ

ば、心苦しう思し嘆きて、御修法や何やなど、わが御方にて 多く行はせたまふ。物の怪、生霊などいふもの多く出で来て さまざまの名のりする中に、人にさらに移らず、ただみづか らの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしう わづらはしきこゆることもなけれど、また片時離るるをりも なきもの一つあり。いみじき験者どもにも従はず、執念きけ しきおぼろけのものにあらずと見えたり。大将の君の御通ひ 所ここかしこと思しあつるに、「この御息所、二条の君など ばかりこそは、おしなべてのさまには思したらざめれば、怨 みの心も深からめ」とささめきて、ものなど問はせたまへど、 さして聞こえあつることもなし。物の怪とても、わざと深き 御敵と聞こゆるもなし。過ぎにける御乳母だつ人、もしは親 の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目に出で来たるなど、 むねむねしからずぞ乱れ現はるる。ただ、つくづくと音をの み泣きたまひて、をりをりは胸をせき上げつついみじうたへ

がたげにまどふわざをしたまへば、いかにおはすべきにかと、 ゆゆしう悲しく思しあわてたり。  院よりも御とぶらひ隙なく、御祈祷のことまで思し寄らせ たまふさまのかたじけなきにつけても、いとど惜しげなる人 の御身なり。世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふに も、御息所はただならず思さる。年ごろはいとかくしもあら ざりし御いどみ心を、はかなかりし所の車争ひに人の御心の 動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄らざりけり。 源氏、もの思いに乱れる御息所を訪問する かかる御もの思ひの乱れに御心地なほ例な らずのみ思さるれば、他所に渡りたまひて 御修法などせさせたまふ。大将殿聞きたま ひて、いかなる御心地にかと、いとほしう、思し起こして渡 りたまへり。例ならぬ旅所なればいたう忍びたまふ。心より 外なる怠りなど罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて、悩 みたまふ人の御ありさまもうれへきこえたまふ。 「みづか

らはさしも思ひ入れはべらねど、親たちのいとことごとしう 思ひまどはるるが心苦しさに、かかるほどを見過ぐさむとて なむ。よろづを思しのどめたる御心ならば、いとうれしう なむ」
など語らひきこえたまふ。常よりも心苦しげなる御気- 色をことわりにあはれに見たてまつりたまふ。  うちとけぬ朝ぼらけに出でたまふ御さまのをかしきにも、 なほふり離れなむことは思し返さる。やむごとなき方に、 いとど心ざし添ひたまふべきことも出で来にたれば、ひとつ 方に思ししづまりたまひなむを、かやうに待ちきこえつつあ らむも心のみ尽きぬべきこと、なかなかもの思ひのおどろか さるる心地したまふに、御文ばかりぞ暮つ方ある。 「日ご ろすこしおこたるさまなりつる心地の、にはかにいといたう 苦しげにはべるを、えひき避かでなむ」とあるを、例のこと つけと見たまふものから、    「袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子

  のみづからぞうき 山の井の水もことわりに」
とぞある。御手はなほここらの人 の中にすぐれたりかし、と見たまひつつ、いかにぞやもある 世かな、心も容貌もとりどりに、棄つべくもなく、また思ひ 定むべきもなきを苦しう思さる。御返り、いと暗うなりにた れど、 「袖のみ濡るるやいかに。深からぬ御ことになむ。   浅みにや人は下り立つわが方は身もそぼつまで深きこひ   ぢを おぼろけにてや、この御返りをみづから聞こえさせぬ」など あり。 御息所、物の怪となって葵の上を苦しめる 大殿には、御物の怪いたう起こりていみじ うわづらひたまふ。この御生霊、故父大臣 の御霊など言ふものありと聞きたまふにつ けて、思しつづくれば、身ひとつのうき嘆きよりほかに人を あしかれなど思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる

魂は、さもやあらむと思し知らるることもあり。年ごろ、 よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれどかうしも砕けぬを、 はかなき事のをりに、人の思ひ消ち、無きものにもてなすさ まなりし御禊の後、一ふしに思し浮かれにし心鎮まりがたう 思さるるけにや、すこしうちまどろみたまふ夢には、かの姫- 君と思しき人のいときよらにてある所に行きて、とかく引き まさぐり、現にも似ず、猛くいかきひたぶる心出で来て、う ちかなぐるなど見えたまふこと度重なりにけり。あな心うや、 げに身を棄ててや往にけむと、うつし心ならずおぼえたまふ をりをりもあれば、さならぬことだに、人の御ためには、よ さまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、ましてこれはいとよ う言ひなしつべきたよりなり、と思すに、いと名立たしう、 「ひたすら世に亡くなりて後に怨み残すは世の常のことな り。それだに人の上にては、罪深うゆゆしきを、現のわが身 ながらさるうとましきことを言ひつけらるる、宿世のうきこ

と。すべてつれなき人にいかで心もかけきこえじ」
と思し返 せど、「思ふもものを」なり。  斎宮は、去年内裏に入りたまふべかりしを、さまざまさは ることありて、この秋入りたまふ。九月には、やがて野宮に 移ろひたまふべければ、二度の御祓のいそぎとり重ねてある べきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくと臥し悩み たまふを、宮人いみじき大事にて、御祈祷などさまざま仕う まつる。おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなく て月日を過ぐしたまふ。大将殿も常にとぶらひきこえたまへ ど、まさる方のいたうわづらひたまへば、御心のいとまなげ なり。 源氏、不意に御息所の物の怪と対面する まださるべきほどにもあらず、と皆人もた ゆみたまへるに、にはかに御気色ありて悩 みたまへば、いとどしき御祈祷数を尽くし てせさせたまへれど、例の執念き御物の怪ひとつさらに動か

ず。やむごとなき験者ども、めづらかなりともてなやむ。さ すかにいみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、 「すこしゆるべたまへや。大将に聞こゆべきことあり」との たまふ。「さればよ。あるやうあらん」とて、近き御几帳のも とに入れたてまつりたり。むげに限りのさまにものしたまふ を、聞こえおかまほしきこともおはするにやとて、大臣も宮 もすこし退きたまへり。加持の僧ども声静めて法華経を読み たる、いみじう尊し。御几帳の帷子ひき上げて見たてまつり たまへば、いとをかしげにて、御腹はいみじう高うて臥した まへるさま、よそ人だに見たてまつらむに心乱れぬべし。ま して惜しう悲しう思す、ことわりなり。白き御衣に、色あひ いと華やかにて、御髪のいと長うこちたきをひき結ひてうち 添へたるも、かうてこそらうたげになまめきたる方添ひてを かしかりけれと見ゆ。御手をとらへて、 「あないみじ。心 うきめを見せたまふかな」とて、ものも聞こえたまはず泣き

たまへば、例はいとわづらはしう恥づかしげなる御まみを、 いとたゆげに見上げてうちまもりきこえたまふに、涙のこぼ るるさまを見たまふは、いかがあはれの浅からむ。  あまりいたう泣きたまへば、心苦しき親たちの御ことを思 し、またかく見たまふにつけて口惜しうおぼえたまふにやと 思して、 「何ごともいとかうな思し入れそ。さりともけし うはおはせじ。いかなりとも必ず逢ふ瀬あなれば、対面はあ りなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても絶 えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ」と慰めたまふに、 「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめた まへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、 もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける」とな つかしげに言ひて、 なげきわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたが  ひのつま

とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず変りたまへり。い とあやしと思しめぐらすに、ただかの御息所なりけり。あさ ましう、人のとかく言ふを、よからぬ者どもの言ひ出づるこ とと聞きにくく思してのたまひ消つを、目に見す見す、世に はかかることこそはありけれと、うとましうなりぬ。 「あな 心憂」と思されて、 「かくのたまへど誰とこそ知らね。た しかにのたまへ」とのたまへば、ただそれなる御ありさまに、 あさましとは世の常なり。人々近う参るもかたはらいたう思 さる。 葵の上、男子出産 御息所の苦悩深し すこし御声も静まりたまへれば、隙おはす るにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、 かき起こされたまひて、ほどなく生まれた まひぬ。うれしと思すこと限りなきに、人に駆り移したまへ る御物の怪どもねたがりまどふけはひいともの騒がしうて、 後のことまたいと心もとなし。言ふ限りなき願ども立てさせ

たまふけにや、たひらかに事なりはてぬれば、山の座主、何 くれやむごとなき僧ども、したり顔に汗おし拭ひつつ急ぎま かでぬ。多くの人の心を尽くしつる日ごろのなごりすこしう ちやすみて、今はさりともと思す。御修法などは、またまた 始め添へさせたまへど、まづは興あり、めづらしき御かしづ きに、皆人ゆるべり。院をはじめたてまつりて、親王たち、 上達部残るなき産養どものめづらかに厳しきを、夜ごとに見 ののしる。男にてさへおはすれば、そのほどの作法にぎはは しくめでたし。  かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただ ならず。かねてはいとあ やふく聞こえしを、たひ らかにもはた、とうち思 しけり。あやしう、我に もあらぬ御心地を思しつ

づくるに、御衣などもただ芥子の香にしみかへりたる、あや しさに、御沮参り、御衣着かへなどしたまひて試みたまへど、 なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだにうとましう思 さるるに、まして人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべ きことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変りも まさりゆく。大将殿は、心地すこしのどめたまひて、あさま しかりしほどの問はず語りも心うく思し出でられつつ、いと ほど経にけるも心苦しう、またけ近う見たてまつらむには、 いかにぞや、うたておぼゆべきを、人の御ためいとほしうよ ろづに思して、御文ばかりぞありける。  いたうわづらひたまひし人の、御なごりゆゆしう、心ゆる びなげに誰も思したれば、ことわりにて御歩きもなし。なほ いと悩ましげにのみしたまへば、例のさまにてもまだ対面し たまはず。若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを、 今からいとさまことにもてかしづききこえたまふさまおろか

ならず、事あひたる心地して、大臣もうれしういみじと思ひ きこえたまへるに、ただこの御心地おこたりはてたまはぬを 心もとなく思せど、さばかりいみじかりしなごりにこそはと 思して、いかでかはさのみは心をもまどはしたまはん。 源氏、左大臣家の人々、すべて参内する 若君の御まみのうつくしさなどの、春宮に いみじう似たてまつりたまへるを見たてま つりたまひても、まづ恋しう思ひ出でられ させたまふに、忍びがたくて、参りたまはむとて、 「内裏 などにもあまり久しう参りはべらねば、いぶせさに、今日な む初立ちしはべるを、すこしけ近きほどにて聞こえさせばや。 あまりおぼつかなき御心の隔てかな」と恨みきこえたまへれ ば、 「げにただひとへに艶にのみあるべき御仲にもあらぬ を、いたう衰へたまへりといひながら、物越しにてなどあべ きかは」とて、臥したまへる所に御座近う参りたれば、入り てものなど聞こえたまふ。御答へ時々聞こえたまふも、なほ

いと弱げなり。されど、むげに亡き人と思ひきこえし御あり さまを思し出づれば夢の心地して、ゆゆしかりしほどの事ど もなど聞こえたまふついでにも、かのむげに息も絶えたるや うにおはせしが、ひき返しつぶつぶとのたまひしことども思 し出づるに心うければ、 「いさや、聞こえまほしき事いと 多かれど、まだいとたゆげに思しためればこそ」とて、 「御- 湯まゐれ」などさへあつかひきこえたまふを、何時ならひた まひけんと、人々あはれがりきこゆ。  いとをかしげなる人の、いたう弱りそこなはれて、あるか なきかの気色にて臥したまへるさま、いとらうたげに心苦し げなり。御髪の乱れたる筋もなく、はらはらとかかれる枕の ほど、ありがたきまで見ゆれば、年ごろ何ごとを飽かぬこと ありて思ひつらむと、あやしきまでうちまもられたまふ。 「院などに参りて、いととうまかでなむ。かやうにて、お ぼつかなからず見たてまつらばうれしかるべきを、宮のつと

おはするに、心地なくや、とつつみて過ぐしつるも苦しきを、 なほやうやう心強く思しなして、例の御座所にこそ。あまり 若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ」
など聞こえおきたまひて、いときよげにうち装束きて出でた まふを、常よりは目とどめて見出だして臥したまへり。  秋の司召あるべき定めにて、大殿も参りたまへば、君たち も功労望みたまふことどもありて、殿の御あたり離れたまは ねば、みなひき続き出でたまひぬ。 留守中に葵の上急逝、その葬送を行なう 殿の内人少なにしめやかなるほどに、には かに、例の御胸をせき上げていといたうま どひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほ どもなく絶え入りたまひぬ。足を空にて誰も誰もまかでたま ひぬれば、除目の夜なりけれど、かくわりなき御さはりなれ ば、みな事破れたるやうなり。ののしり騒ぐほど、夜半ばか りなれば、山の座主、何くれの僧都たちもえ請じあへたまは

ず。今はさりともと思ひたゆみたりつるに、あさましければ、 殿の内の人、物にぞ当る。所どころの御とぶらひの使など立 ちこみたれどえ聞こえつがず、揺りみちて、いみじき御心ま どひどもいと恐ろしきまで見えたまふ。御物の怪のたびたび 取り入れたてまつりしを思して、御枕などもさながら二三日 見たてまつりたまへど、やうやう変りたまふことどものあれ ば、限りと思しはつるほど、誰も誰もいといみじ。  大将殿は、悲しきことに事を添へて、世の中をいとうきも のに思ししみぬれば、ただならぬ御あたりのとぶらひどもも 心うしとのみぞなべて思さるる。院に思し嘆きとぶらひきこ えさせたまふさま、かへりて面だたしげなるを、うれしき瀬 もまじりて、大臣は御涙のいとまなし。人の申すに従ひて、 厳しきことどもを、生きや返りたまふと、さまざまに残るこ となく、かつ損はれたまふことどものあるを見る見るも尽き せず思しまどへど、かひなくて日ごろになれば、いかがはせ

むとて鳥辺野に率てたてまつるほど、いみじげなること多 かり。  こなたかなたの御送りの人ども、寺々の念仏僧など、そこ ら広き野に所もなし。院をばさらにも申さず、后の宮春宮な どの御使、さらぬ所どころのも参りちがひて、飽かずいみじ き御とぶらひを聞こえたまふ。大臣はえ立ち上りたまはず。 「かかる齢の末に、若く盛りの子に後れたてまつりても こよふこと」と恥ぢ泣きたまふを、ここらの人悲しう見たて まつる。夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いと もはかなき御骨ばかりを御なごりにて、暁深く帰りたまふ。 常のことなれど、人ひとりか、あまたしも見たまはぬことな ればにや、たぐひなく思し焦がれたり。八月廿余日の有明な れば、空のけしきもあはれ少なからぬに、大臣の闇にくれま どひたまへるさまを見たまふもことわりにいみじければ、空 のみながめられたまひて、

のぼりぬる煙はそれと分かねどもなべて雲ゐのあは れなるかな 源氏、葵の上の死去を哀悼する 殿におはし着きて、つゆまどろまれたまは ず。年ごろの御ありさまを思し出でつつ、 「などて、つひにはおのづから見なほした まひてむ、とのどかに思ひて、なほざりのすさびにつけても、 つらしとおぼえられたてまつりけむ、世を経てうとく恥づか しきものに思ひて過ぎはてたまひぬる」など、悔しきこと多 く思しつづけらるれど、かひなし。鈍める御衣奉れるも、夢 の心地して、我先立たましかば、深くぞ染めたまはまし、と 思すさへ、   限りあれば薄墨ごろもあさけれど涙ぞそでをふちと   なしける とて念誦したまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経 忍びやかに読みたまひつつ、 「法界三昧普賢大士」とうちのた

まへる、行ひ馴れたる法師よりはけなり。若君を見たてまつ りたまふにも、 「何に忍ぶの」と、いとど露けけれど、かか る形見さへなからましかば、と思し慰さむ。  宮は沈み入りて、そのままに起き上りたまはず、危ふげに 見えたまふを、また思し騒ぎて御祈祷などせさせたまふ。  はかなう過ぎゆけば、御法事のいそぎなどせさせたまふも、 思しかけざりし事なれば、尽きせずいみじうなむ。なのめに かたほなるをだに、人の親はいかが思ふめる。ましてことわ りなり。またたぐひおはせぬをだにさうざうしく思しつるに、 袖の上の玉の砕けたりけむよりもあさましげなり。  大将の君は、二条院にだに、あからさまにも渡りたまはず、 あはれに心深う思ひ嘆きて、行ひをまめにしたまひつつ明か し暮らしたまふ。所どころには御文ばかりぞ奉りたまふ。  かの御息所は、斎宮は左衛門の司に入りたまひにければ、 いとどいつくしき御浄まはりにことつけて聞こえも通ひたま

はず。うしと思ひしみにし世もなべて厭はしうなりたまひて、 かかる絆だに添はざらましかば、願はしきさまにもなりなま し、と思すには、まづ対の姫君のさうざうしくてものしたま ふらむありさまぞ、ふと思しやらるる。  夜は御帳の内に独り臥したまふに、宿直の人々は近うめぐ りてさぶらへど、かたはらさびしくて、 「時しもあれ」と寝 覚めがちなるに、声すぐれたるかぎり選りさぶらはせたまふ 念仏の暁方など忍びがたし。 源氏と御息所和歌を贈答、ともに思い悩む 深き秋のあはれまさりゆく風の音身にしみ けるかな、とならはぬ御独り寝に、明かし かねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、 菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置 きて往にけり。 「今めかしうも」とて見たまへば、御息所 の御手なり。 「聞こえぬほどは思し知るらむや。   人の世をあはれと聞くも露けきにおくるる袖を思ひこそ

やれ ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ」
とあり。 「常よりも 優にも書いたまへるかな」と、さすがに置きがたう見たまふ ものから、つれなの御とぶらひや、と心うし。さりとて、か き絶え音なうきこえざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬ べきことを思し乱る。過ぎにし人は、とてもかくても、さる べきにこそはものしたまひけめ、何にさる事をさださだとけ ざやかに見聞きけむと悔しきは、わが御心ながらなほえ思し なほすまじきなめりかし。斎宮の御浄まはりもわづらはしく やなど、久しう思ひわづらひたまへど、わざとある御返りな くは情なくやとて、紫のにばめる紙に、 「こよなうほど経 はべりにける を、思ひたま へ怠らずなが ら、つつまし

きほどは、さらば思し知るらむとてなむ。   とまる身も消えしも同じ露の世に心おくらむほどぞはか   なき かつは思し消ちてよかし。御覧ぜずもやとて、これにも」
と 聞こえたまへり。  里におはするほどなりければ、忍びて見たまひて、ほのめ かしたまへる気色を心の鬼にしるく見たまひて、さればよ、 と思すもいといみじ。なほいと限りなき身のうさなりけり。 かやうなる聞こえありて、院にもいかに思さむ、故前坊の同 じき御はらからといふ中にも、いみじう思ひかはしきこえさ せたまひて、この斎宮の御ことをも、懇に聞こえつけさせた まひしかば、 「その御代りにも、やがて見たてまつりあつか はむ」など常にのたまはせて、 「やがて内裏住みしたまへ」と たびたび聞こえさせたまひしをだに、いとあるまじきことと 思ひ離れにしを、かく心より外に、若々しきもの思ひをして、

つひにうき名をさへ流しはてつべきこと、と思し乱るるに、 なほ例のさまにもおはせず。さるは、おほかたの世につけて、 心にくくよしある聞こえありて、昔より名高くものしたまへ ば、野宮の御移ろひのほどにも、をかしう今めきたる事多く しなして、殿上人どもの好ましきなどは、朝夕の露分け歩く をそのころの役になむする、など聞きたまひても、大将の君 は、 「ことわりぞかし、ゆゑは飽くまでつきたまへるものを。 もし世の中に飽きはてて下りたまひなば、さうざうしくもあ るべきかな」と、さすがに思されけり。 時雨する日源氏・三位中将・大宮の傷心の歌 御法事など過ぎぬれど、正日まではなほ籠 りおはす。ならはぬ御つれづれを心苦しが りたまひて、三位中将は常に参りたまひつ つ、世の中の御物語など、まめやかなるも、また例の乱りが はしきことをも聞こえ出でつつ慰めきこえたまふに、かの内 侍ぞうち笑ひたまふくさはひにはなるめる。大将の君は、 「あ

ないとほしや。祖母殿の上ないたう軽めたまひそ」
と諫めた まふものから、常にをかしと思したり。かの十六夜のさやか ならざりし秋の事など、さらぬも、さまざまのすき事どもを かたみに隈なく言ひあらはしたまふ。はてはては、あはれな る世を言ひ言ひてうち泣きなどもしたまひけり。  時雨うちしてものあはれなる暮つ方、中将の君、鈍色の直- 衣、指貫うすらかに更衣して、いとををしうあざやかに心恥 づかしきさまして参りたまへり。君は、西の妻の高欄にお しかかりて霜枯の前栽見たまふほどなりけり。風荒らかに吹 き時雨さとしたるほど、涙もあらそふ心地して、 「雨とな り雲とやなりにけん、今は知らず」とうち独りごちて頬杖つ きたまへる御さま、女にては、見棄てて亡くならむ魂必ず とまりなむかしと、色めかしき心地にうちまもられつつ、近 うついゐたまへれば、しどけなくうち乱れたまへるさまなが ら、紐ばかりをさしなほしたまふ。これは、いますこし濃や

かなる夏の御直衣に、紅の艶やかなるひきかさねてやつれた まへるしも、見ても飽かぬ心地ぞする。中将も、いとあはれ なるまみにながめたまへり。   「雨となりしぐるる空の浮雲をいづれの方とわきてな   がめむ 行く方なしや」と独り言のやうなるを、   見し人の雨となりにし雲ゐさへいとど時雨にかきく   らすころ とのたまふ御気色も浅からぬほどしるく見ゆれば、 「あやし う。年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを、院などゐたちての たまはせ、大臣の御もてなしも心苦しう、大宮の御方ざまに もて離るまじきなど、かたがたにさしあひたれば、えしもふ り棄てたまはで、ものうげなる御気色ながらあり経たまふな めりかし、といとほしう見ゆるをりをりありつるを、まこと にやむごとなく重き方はことに思ひきこえたまひけるなめ

り」
と見知るに、いよいよ口惜しうおぼゆ。よろづにつけて 光失せぬる心地して、屈じいたかりけり。  枯れたる下草の中に、龍胆、撫子などの咲き出でたるを折 らせたまひて、中将の立ちたまひぬる後に、若君の御乳母の 宰相の君して、   「草枯れのまがきに残るなでしこを別れし秋のかたみ   とぞ見る 匂ひ劣りてや御覧ぜらるらむ」と聞こえたまへり。げに何心 なき御笑顔ぞいみじううつくしき。宮は、吹く風につけてだ に木の葉よりけにもろき御涙は、まして取りあへたまはず。    今も見てなかなか袖を朽すかな垣ほ荒れにし大和な   でしこ 源氏、時雨につけ、朝顔の姫君と歌を贈答 なほいみじうつれづれなれば、朝顔の宮に、 今日のあはれはさりとも見知りたまふらむ と推しはからるる御心ばへなれば、暗きほ

どなれど聞こえたまふ。絶え間遠けれど、さのものとなりに たる御文なれば咎なくて御覧ぜさす。空の色したる唐の紙に、   「わきてこの暮こそ袖は露けけれもの思ふ秋はあまた   へぬれど いつも時雨は」とあり。御手などの心とどめて書きたまへる、 常よりも見どころありて、 「過ぐしがたきほどなり」と人々 も聞こえ、みづからも思されければ、 「大内山を思ひやり きこえながら、えやは」とて、   秋霧に立ちおくれぬと聞きしよりしぐるる空もいか   がとぞ思ふ とのみ、ほのかなる墨つきにて思ひなし心にくし。何ごとに つけても、見まさりは難き世なめるを、つらき人しもこそと、 あはれにおぼえたまふ人の御心ざまなる。つれなながら、さ るべきをりをりのあはれを過ぐしたまはぬ、これこそかたみ に情も見はつべきわざなれ、なほゆゑづきよし過ぎて、人目

に見ゆばかりなるは、あまり の難も出で来けり。対の姫君 をさは生ほしたてじ、と思す。 つれづれにて恋しと思ふらむ かし、と忘るるをりなけれど、 ただ女親なき子を置きたらむ心地して、見ぬほど、うしろめ たく、いかが思ふらむとおぼえぬぞ心やすきわざなりける。 女房ら、源氏との別離近きを悲しむ 暮れはてぬれば、御殿油近くまゐらせたま ひて、さるべきかぎりの人々、御前にて物- 語などせさせたまふ。中納言の君といふは、 年ごろ忍び思ししかど、この御思ひのほどは、なかなかさや うなる筋にもかけたまはず。あはれなる御心かなと見たてま つる。おほかたには、なつかしううち語らひたまひて、 「かう、この日ごろ、ありしよりけに誰も誰も紛るる方なく見 なれ見なれて、えしも常にかからずは、恋しからじや。いみ

じきことをばさるものにて、ただうち思ひめぐらすこそたへ がたきこと多かりけれ」
とのたまへば、いとどみな泣きて、 「言ふかひなき御ことは、ただかきくらす心地しはべるは さるものにて、なごりなきさまにあくがれはてさせたまはむ ほど思ひたまふるこそ」と聞こえもやらず。あはれ、と見わ たしたまひて、 「なごりなくはいかがは。心浅くも取りな したまふかな。心長き人だにあらば、見はてたまひなむもの を。命こそはかなけれ」とて、灯をうちながめたまへるまみ のうち濡れたまへるほどぞめでたき。  とり分きてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく いと心細げに思へる、ことわりに見たまひて、 「あてきは、 今は我をこそは思ふべき人なめれ」とのたまへば、いみじう 泣く。ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き汗衫、萱草の 袴など着たるも、をかしき姿なり。 「昔を忘れざらむ人は、 つれづれを忍びても、幼き人を見棄てずものしたまへ。見し

世のなごりなく、人々さへ離れなば、たづきなさもまさりぬ べくなむ」
など、みな心長かるべきことどもをのたまへど、 「いでや、いとど待遠にぞなりたまはむ」と思ふに、いとど 心細し。大殿は、人々に、際々、ほどをおきつつ、はかなき もて遊び物ども、またまことにかの御形見なるべき物など、 わざとならぬさまに取りなしつつ、みな配らせたまひけり。 源氏参院、涙ながらに左大臣家を辞去 君は、かくてのみもいかでかはつくづくと 過ぐしたまはむとて、院へ参りたまふ。御- 車さし出でて、御前など参り集まるほど、 をり知り顔なる時雨うちそそきて、木の葉さそふ風あわたた しう吹きはらひたるに、御前にさぶらふ人々、ものいと心細 くて、すこし隙ありつる袖ども湿ひわたりぬ。夜さりは、や がて二条院に止まりたまふべしとて、侍ひの人々も、かしこ にて待ちきこえんとなるべし、おのおの立ち出づるに、今日 にしも閉ぢむまじきことなれど、またなくもの悲し。大臣も

宮も、今日のけしきにまた悲しさあらためて思さる。宮の御- 前に御消息聞こえたまへり。   院におぼつかながりのたまはするにより、今日なむ   参りはべる。あからさまに立ち出ではべるにつけても、   今日までながらへはべりにけるよ、と乱り心地のみ動き   てなむ、聞こえさせむもなかなかにはべるべければ、そ   なたにも参りはべらぬ。 とあれば、いとどしく宮は目も見えたまはず沈み入りて、御- 返りも聞こえたまはず。大臣ぞやがて渡りたまへる。いとた へがたげに思して、御袖もひき放ちたまはず。見たてまつる 人々もいと悲し。  大将の君は、世を思しつづくることいとさまざまにて、泣 きたまふさまあはれに心深きものから、いとさまよくなまめ きたまへり。大臣久しうためらひたまひて、 「齢のつもりには、 さしもあるまじきことにつけてだに涙もろなるわざにはべる

を、まして干る世なう思ひたまへまどはれはべる心をえのど めはべらねば、人目もいと乱りがはしう心弱きさまにはべる べければ、院などにもえ参りはべらぬなり。事のついでには、 さやうにおもむけ奏せさせたまへ。いくばくもはべるまじき 老の末にうち棄てられたるがつらうもはべるかな」
と、せめ て思ひしづめてのたまふ気色いとわりなし。君も、たびたび 鼻うちかみて、 「後れ先立つほどの定めなさは世の性と見た まへ知りながら、さし当りておぼえはべる心まどひはたぐひ あるまじきわざになむ。院にも、ありさま奏しはべらむに、 推しはからせたまひてむ」と聞こえたまふ。 「さらば、 時雨も隙なくはべるめるを、暮れぬほどに」とそそのかしき こえたまふ。 源氏去って左大臣家の寂寥いよいよ深まる うち見まはしたまふに、御几帳の背後、 障子のあなたなどの開き通りたるなどに、 女房三十人ばかりおしこりて、濃き薄き鈍-

色どもを着つつ、みないみじう心細げにてうちしほたれつつ ゐ集まりたるを、いとあはれと見たまふ。 「思し棄つま じき人もとまりたまへれば、さりとももののついでには立ち 寄らせたまはじやなど慰めはべるを、ひとへに思ひやりなき 女房などは、今日を限りに思し棄てつる古里と思ひ屈じて、 永く別れぬる悲しびよりも、ただ時々馴れ仕うまつる年月の なごりなかるべきを嘆きはべるめるなむことわりなる。うち とけおはしますことははべらざりつれど、さりともつひには と、あいな頼めしはべりつるを。げにこそ心細き夕にはべれ」 とても、泣きたまひぬ。 「いと浅はかなる人々の嘆きにも はべるなるかな。まことに、いかなりとも、とのどかに思ひ たまへつるほどは、おのづから御目離るるをりもはべりつら むを、なかなか今は何を頼みにてかは怠りはべらん。いま御- 覧じてむ」とて出でたまふを、大臣見送りきこえたまひて、 入りたまへるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変ること

もなけれど、空蝉のむなしき心地ぞしたまふ。  御帳の前に御硯などうち散らして手習ひ棄てたまへるを取 りて、目をおししぼりつつ見たまふを、若き人々は、悲しき 中にもほほ笑むあるべし。あはれなる古言ども、唐のも倭 のも書きけがしつつ、草にも真字にも、さまざまめづらしき さまに書きまぜたまへり。 「かしこの御手や」と、空を 仰ぎてながめたまふ。他人に見たてまつりなさむが惜しきな るべし。「旧き枕故き衾、誰と共にか」とある所に、   亡き魂ぞいとど悲しき寝し床のあくがれがたき心な   らひに また、「霜華白し」とある所に、    君なくて塵積りぬるとこなつの露うち払ひいく夜寝   ぬらむ 一日の花なるべし、枯れてまじれり。  宮に御覧ぜさせたまひて、 「言ふかひなきことをばさ

るものにて、かかる悲しきたぐひ世になくやは、と思ひなし つつ、契り長からでかく心をまどはすべくてこそはありけめ と、かへりてはつらく前の世を思ひやりつつなむ覚ましはべ るを、ただ日ごろに添へて恋しさのたへがたきと、この大将 の君の、今はと他人になりたまはむなん、飽かずいみじく思 ひたまへらるる。一日二日も見えたまはず、離れ離れにおは せしをだに飽かず胸いたく思ひはべりしを、朝夕の光失ひて は、いかでか永らふべからん」
と、御声もえ忍びあへたまは ず泣いたまふに、御前なるおとなおとなしき人など、いと悲 しくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕のけしきなり。  若き人々は、所どころに群れゐつつ、おのがどちあはれな ることどもうち語らひて、 「殿の思しのたまはするやうに、 若君を見たてまつりてこそは慰むべかめれ、と思ふも、いと はかなきほどの御形見にこそ」とて、おのおの、 「あからさ まにまかでて、参らむ」と言ふもあれば、かたみに別れ惜し

むほど、おのがじしあはれなることども多かり。 源氏、桐壺院並びに藤壺の宮に参上する 院へ参りたまへれば、 「いといたう面痩せ にけり。精進にて日を経るけにや」と心苦 しげに思しめして、御前にて物などまゐら せたまひて、とやかくやと思しあつかひきこえさせたまへる さま、あはれにかたじけなし。中宮の御方に参りたまへれば、 人々めづらしがり見たてまつる。命婦の君して、 「思ひ尽 きせぬことどもを。ほど経るにつけてもいかに」と御消息聞 こえたまへり。 「常なき世はおほかたにも思うたまへ知り にしを、目に近く見はべりつるに、厭はしきこと多く、思ひ たまへ乱れしも、たびたびの御消息に慰めはべりてなむ今日 までも」とて、さらぬをりだにある御気色とり添へて、いと 心苦しげなり。無紋の表の御衣に鈍色の御下襲、纓巻きたま へるやつれ姿、華やかなる御装ひよりもなまめかしさまさり たまへり。春宮にも久しう参らぬおぼつかなさなど聞こえた

まひて、夜更けてぞまかでたまふ。 源氏、二条院に帰り、紫の上の成人を知る 二条院には、方々払ひ磨きて、男女待ち きこえたり。上臈どもみな参う上りて、我 も我もと装束き化粧じたるを見るにつけて も、かのゐ並み屈じたりつる気色どもぞあはれに思ひ出でら れたまふ。御装束奉りかへて西の対に渡りたまへり。更衣の 御しつらひ曇りなくあざやかに見えて、よき若人、童べのな り、姿めやすくととのへて、少納言がもてなし心もとなきと ころなう、心にくしと見たまふ。  姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。 「久しか りつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」とて、 小さき御几帳ひき上げて見たてまつりたまへば、うち側みて 恥ぢらひたまへる御さま飽かぬところなし。灯影の御かたは ら目、頭つきなど、ただかの心尽くしきこゆる人に違ふとこ ろなくもなりゆくかな、と見たまふにいとうれし。近く寄り

たまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなと聞こえた まひて、 「日ごろの物語のどかに聞こえまほしけれど、い まいましうおぼえはべれば、しばし他方にやすらひて参り来 む。今はと絶えなく見たてまつるべければ、厭はしうさへや 思されむ」と語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞く ものから、なほあやふく思ひきこゆ。やむごとなき忍び所多 うかかづらひたまへれば、またわづらはしきや立ちかはりた まはむと思ふぞ、憎き心なるや。  御方に渡りたまひて、中将の君といふに、御足などまゐり すさびて、大殿籠りぬ。あしたには、若君の御もとに御文奉 りたまふ。あはれなる御返りを見たまふにも、尽きせぬこと どものみなむ。 源氏、紫の上と新枕をかわす いとつれづれにながめがちなれど、何とな き御歩きもものうく思しなられて思しも立 たれず。姫君の何ごともあらまほしうとと

のひはてて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬ ほどにはた見なしたまへれば、けしきばみたることなど、を りをり聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬ気色なり。  つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなど しつつ日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうじく愛敬づき、 はかなき戯れごとの中にもうつくしき筋をし出でたまへば、 思し放ちたる年月こそ、たださる方のらうたさのみはありつ れ、忍びがたくなりて、心苦しけれど、いかがありけむ、人 のけぢめ見たてまつり分くべき御仲にもあらぬに、男君はと く起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬあしたあり。人- 人、 「いかなればかくおはしますならむ。御心地の例ならず 思さるるにや」と見たてまつり嘆くに、君は渡りたまふとて、 御硯の箱を御帳の内にさし入れておはしにけり。人間に、か らうじて頭もたげたまへるに、ひき結びたる文御枕のもとに あり。何心もなくひき開けて見たまへば、

  あやなくも隔てけるかな夜を重ねさすがに馴れしよ   るの衣を と書きすさびたまへるやうなり。かかる御心おはすらむとは かけても思し寄らざりしかば、などてかう心うかりける御心 をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむ、とあさましう思 さる。  昼つ方渡りたまひて、 「悩ましげにしたまふらむはいか なる御心地ぞ。今日は碁も打たでさうざうしや」とてのぞき たまへば、いよいよ御衣ひき被きて臥したまへり。人々は退 きつつさぶらへば、寄りたまひて、 「などかくいぶせき御 もてなしぞ。思ひの外に心うくこそおはしけれな。人もいか にあやしと思ふらむ」とて、御衾をひきやりたまへれば、汗 におし漬して、額髪もいたう濡れたまへり。 「あな、うた て。これはいとゆゆしきわざぞよ」とて、よろづにこしらへ きこえたまへど、まことにいとつらしと思ひたまひて、つゆ

の御いらへもしたまはず。 「よしよし。さらに見えたてま つらじ。いと恥づかし」など怨じたまひて、御硯開けて見た まへど物もなければ、 「若の御ありさまや」とらうたく見た てまつりたまひて、日ひと日入りゐて慰めきこえたまへど、 解けがたき御気色いとどらうたげなり。 源氏、三日夜の餠を紫の上に供する その夜さり、亥の子餠参らせたり。かかる 御思ひのほどなれば、ことごとしきさまに はあらで、こなたばかりに、をかしげなる 檜破子などばかりをいろいろにて参れるを見たまひて、君、 南の方に出でたまひて、惟光を召して、 「この餠、かう数 数にところせきさまにはあらで、明日の暮に参らせよ。今日 はいまいましき日なりけり」と うちほほ笑みてのたまふ御気色 を、心とき者にて、ふと思ひ寄 りぬ。惟光、たしかにもうけた

まはらで、 「げに、愛敬のはじめは日選りして聞こしめす べきことにこそ。さても子の子はいくつか仕うまつらすべう はべらむ」と、まめだちて申せば、 「三つが一つにても あらむかし」とのたまふに、心得はてて立ちぬ。もの馴れの さまや、と君は思す。人にも言はで、手づからといふばかり、 里にてぞ作りゐたりける。  君は、こしらへわびたまひて、今はじめ盗みもて来たらむ 人の心地するもいとをかしくて、 「年ごろあはれと思ひきこ えつるは片端にもあらざりけり。人の心こそうたてあるもの はあれ。今は、一夜も隔てむことのわりなかるべきこと」と 思さる。  のたまひし餠、忍びていたう夜更かして持て参れり。少納- 言は大人しくて、恥づかしくや思さむ、と思ひやり深く心し らひて、むすめの弁といふを呼び出でて、 「これ忍びて参 らせたまへ」とて、香壼の箱を一つさし入れたり。 「たし

かに御枕上に参らすべき祝のものにはべる。あなかしこ、あ だにな」
と言えば、あやし、と思へど、 「あだなることはま だなはぬものを」とて取れば、 「まことに、今はさる文- 字忌ませたまへよ。よもまじりはべらじ」と言ふ。若き人に て、けしきもえ深く思ひよらねば、持て参りて、御枕上の御- 几帳よりさし入れたるを、君ぞ、例の、聞こえ知らせたまふ らむかし。  人はえ知らぬに、つとめて、この箱をまかでさせたまへる にぞ、親しきかぎりの人々思ひあはすることどもありける。 御皿どもなど、何時の間にかし出でけむ、華足いときよらに して、餠のさまもことさらび、いとをかしうととのへたり。 小納言は、いとかうしもや、とこそ思ひきこえさせつれ、あ はれにかたじけなく、思したらぬことなき御心ばへを、ま づうち泣かれぬ。 「さても、内々にのたまはせよな、かの人 もいかに思ひつらむ」とささめきあへり。 紫の上と新枕の後の源氏の感懐

かくて後は、内裏にも院にも、あからさま に参りたまへるほどだに、静心なく面影に 恋しければ、あやしの心や、と我ながら思 さる。通ひたまひし所どころよりは、怨めしげにおどろかし きこえたまひなどすれば、いとほしと思すもあれど、新手枕 の心苦しくて、 「夜をや隔てむ」と思しわづらはるれば、い とものうくて、悩ましげにのみもてなしたまひて、 「世の 中のいとうくおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてま つるべき」とのみ答へたまひつつ過ぐしたまふ。  今后は、御厘殿なほこの大将にのみ心つけたまへるを、 「げに、はた、かくやむごとなかりつる方も亡せたまひぬめる を、さてもあらむになどか口惜しからむ」など大臣のたまふ に、いと憎しと思ひきこえたまひて、 「宮仕もをさをさしく だにしなしたまへらば、などかあしからむ」と、参らせたて まつらむことを、思しはげむ。君も、おしなべてのさまには

おぼえざりしを、口惜しとは思せど、ただ今は異ざまに分く る御心もなくて、 「何かは。かばかり短かめる世に。かくて 思ひ定まりなむ。人の怨みも負ふまじかりけり」と、いとど あやふく思し懲りにたり。  かの御息所はいといとほしけれど、まことのよるべと頼み きこえむには必ず心おかれぬべし、年ごろのやうにて見過ぐ したまはば、さるべきをりふしにもの聞こえあはする人にて はあらむなど、さすがに事の外には思し放たず。  この姫君を、 「今まで世人もその人とも知りきこえぬもも のげなきやうなり。父宮に知らせきこえてむ」と思ほしなり て、御裳着のこと、人にあまねくはのたまはねど、なべてな らぬさまに思しまうくる御用意など、いとあり難けれど、女- 君はこよなう疎みきこえたまひて、 「年ごろよろづに頼みき こえて、まつはしきこえけるこそあさましき心なりけれ」と、 悔しうのみ思して、さやかにも見あはせたてまつりたまはず、

聞こえ戯れたまふも、いと苦しうわりなきものに思し結ぼほ れて、ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを、をかし うもいとほしうも思されて、 「年ごろ思ひきこえし本意な く、馴れはまさらぬ御気色の心うきこと」と恨みきこえたま ふほどに、年も返りぬ。 源氏、参賀の後、左大臣家を訪れる 朔日は、例の、院に参りたまひてぞ、内- 裏、春宮などにも参りたまふ。それより大- 殿にまかでたまへり。大臣、新しき年とも 言はず、昔の御ことども聞こえ出でたまひて、さうざうしく 悲しと思すに、いとど、かくさへ渡りたまへるにつけて、念 じ返したまへどたへがたう思したり。御年の加はるけにや、 ものものしき気さへ添ひたまひて、ありしよりけにきよらに 見えたまふ。立ち出でて御方に入りたまへれば、人々もめづ らしう見たてまつりて忍びあへず。若君見たてまつりたまへ ば、こよなうおよすけて、わらひがちにおはするもあはれな

り。まみ、口つき、ただ春宮の御同じさまなれば、人もこそ 見たてまつりとがむれ、と見たまふ。御しつらひなども変ら ず、御衣掛の御装束など、例のやうにし懸けられたるに、女 のが並ばぬこそさうざうしくはえなけれ。  宮の御消息にて、 「今日はいみじく思ひたまへ忍ぶるを、 かく渡らせたまへるになむ、なかなか」など聞こえたまひて、 「昔にならひはべりにける御装ひも、月ごろはいとど涙に霧 りふたがりて、色あひなく御覧ぜられはべらむ、と思ひたま ふれど、今日ばかりはなほやつれさせたまへ」とて、いみじ くし尽くしたまへるものど も、また重ねて奉れたまへり。 必ず今日奉るべきと思しける 御下襲は、色も織りざまも世 の常ならず心ことなるを、か ひなくやは、とて着かへたま

ふ。来ざらましかば口惜しう思さまし、と心苦し。御返りに は、 「春や来ぬる、ともまづ御覧ぜられになん参りはべり つれど、思ひたまへ出でらるること多くて、え聞こえさせは べらず、   あまた年けふあらためし色ごろもきては涙ぞふる心地   する えこそ思ひたまへしづめね」と聞こえたまへり。御返り、   新しき年ともいはずふるものはふりぬる人の涙なり けり おろかなるべきことにぞあらぬや。 The Sacred Tree 六条御息所伊勢への下向を決心する

斎宮の御下り近うなりゆくままに、御息所 もの心細く思ほす。やむごとなくわづらは しきものにおぼえたまへりし大殿の君も亡 せたまひて後、さりともと、世人も聞こえあつかひ、宮の内 にも心ときめきせしを、その後しもかき絶え、あさましき御 もてなしを見たまふに、まことにうしと思す事こそありけめ と、知りはてたまひぬれば、よろづのあはれを思し棄てて、 ひたみちに出で立ちたまふ。  親添ひて下りたまふ例も、ことになけれど、いと見放ちが たき御ありさまなるにことつけて、うき世を行き離れむと思 すに、大将の君、さすがに今はとかけ離れたまひなむも口惜 しく思されて、御消息ばかりは、あはれなるさまにて、たび

たび通ふ。対面したまはんことをば、今さらにあるまじきこ と、と女君も思す。人は心づきなしと思ひおきたまふことも あらむに、我はいますこし思ひ乱るることのまさるべきを、 あいなしと心強く思すなるべし。 源氏、御息所を野宮に訪れる もとの殿には、あからさまに渡りたまふを りをりあれど、いたう忍びたまへば、大将- 殿え知りたまはず。たはやすく御心にまか せて、参うでたまふべき御住み処にはたあらねば、おぼつか なくて月日も隔たりぬるに、院の上、おどろおどろしき御悩 みにはあらで、例ならず時々悩ませたまへば、いとど御心の いとまなけれど、つらきものに思ひはてたまひなむもいとほ しく、人聞き情なくやと、思しおこして、野宮に参うでたま ふ。九月七日ばかりなれば、むげに今日明日と思すに、女方 も心あわたたしけれど、立ちながらと、たびたび御消息あり ければ、いでやとは思しわづらひながら、いとあまり埋れい

たきを、物越しばかりの対面はと、人知れず待ちきこえたま ひけり。  はるけき野辺を分け入りたまふよりいとものあはれなり。 秋の花みなおとろへつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、 松風すごく吹きあはせて、そのこととも聞きわかれぬほどに、 物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。  睦ましき御前十余人ばかり、御随身ことごとしき姿なら で、いたう忍びたまへれど、ことにひきつくろひたまへる御- 用意、いとめでたく見えたまへば、御供なるすき者ども、 所がらさへ身にしみて思 へり。御心にも、などて 今まで立ちならさざりつ らむと、過ぎぬる方悔し う思さる。ものはかなげ なる小柴垣を大垣にて、

板屋どもあたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居ども、 さすがに神々しう見わたされて、わづらはしきけしきなるに、 神官の者ども、ここかしこにうちしはぶきて、おのがどちも のうち言ひたるけはひなども、ほかにはさま変りて見ゆ。火- 焼屋かすかに光りて、人げ少なくしめじめとして、ここにも の思はしき人の、月日を隔てたまへらむほどを思しやるに、 いといみじうあはれに心苦し。  北の対のさるべき所に立ち隠れたまひて、御消息聞こえた まふに、遊びはみなやめて、心にくきけはひあまた聞こゆ。 何くれの人づての御消息ばかりにて、みづからは対面したま ふべきさまにもあらねば、いとものしと思して、 「かうや うの歩きも、今はつきなきほどになりにてはべるを思ほし 知らば、かう、注連の外にはもてなしたまはで。いぶせうは べることをもあきらめはべりにしがな」と、まめやかに聞こ えたまへば、人々、 「げに、いとかたはらいたう、立ちわづ

らはせたまふに、いとほしう」
など、あつかひきこゆれば、 「いさや、ここの人目も見苦しう、かの思さむことも若々し う、出でゐんが今さらにつつましきこと」と思すに、いとも のうけれど、情なうもてなさむにもたけからねば、とかくう ち嘆きやすらひて、ゐざり出でたまへる御けはひ、いと心に くし。   「こなたは、簀子ばかりのゆるされははべりや」とて、 上りゐたまへり。はなやかにさし出でたる夕月夜に、うちふ るまひたまへるさま、にほひ似るものなくめでたし。月ごろ のつもりを、つきづきしう聞こえたまはむもまばゆきほどに なりにければ、榊をいささか折りて持たまへりけるをさし入 れて、 「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりに けれ。さも心うく」と、聞こえたまへば、   神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折 れるさかきぞ

と聞こえたまへば、   少女子があたりと思へば榊葉の香をなつかしみとめ   てこそ折れ おほかたのけはひわづらはしけれど、御簾ばかりはひき着て、 長押におしかかりてゐたまへり。 感慨胸中を往来 歌を唱和して別れる 心にまかせて見たてまつりつべく、人も慕 ひざまに思したりつる年月は、のどかなり つる御心おごりに、さしも思されざりき。 また心の中に、いかにぞや、瑕ありて思ひきこえたまひにし 後、はたあはれもさめつつ、かく御仲も隔たりぬるを、めづ らしき御対面の昔おぼえたるに、あはれと思し乱るること限 りなし。来し方行く先思しつづけられて、心弱く泣きたま ひぬ。女は、さしも見えじと思しつつむめれど、え忍びた まはぬ御けしきを、いよいよ心苦しう、なほ思しとまるべき さまにぞ聞こえたまふめる。月も入りぬるにや、あはれなる

空をながめつつ、恨みきこえたまふに、ここら思ひあつめた まへるつらさも消えぬべし。やうやう今はと思ひ離れたまへ るに、さればよと、なかなか心動きて思し乱る。  殿上の若君達などうち連れて、とかく立ちわづらふなる庭 のたたずまひも、げに艶なる方に、うけばりたるありさまな り。思ほし残すことなき御仲らひに、聞こえかはしたまふこ とども、まねびやらむ方なし。  やうやう明けゆく空のけしき、ことさらに作り出でたらむ やうなり。   あかつきの別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋   の空かな 出でがてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうな つかし。風いと冷やかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、 をり知り顔なるを、さして思ふことなきだに、聞き過ぐしが たげなるに、ましてわりなき御心まどひどもに、なかなかこ

ともゆかぬにや。   おほかたの秋の別れもかなしきに鳴く音な添へそ   野辺の松虫 悔しきこと多かれど、かひなければ、明けゆく空もはしたな うて出でたまふ。道のほどいと露けし。  女もえ心強からず、なごりあはれにてながめたまふ。ほの 見たてまつりたまへる月影の御容貌、なほとまれる匂ひなど、 若き人々は身にしめて、過ちもしつべくめできこゆ。 「い かばかりの道にてか、かかる御ありさまを見棄てては、別れ きこえん」と、あいなく涙ぐみあへり。 伊勢下向の日近く、御息所の憂悶深し 御文、常よりもこまやかなるは、思しなび くばかりなれど、またうち返し定めかねた まふべきことならねば、いとかひなし。男 は、さしも思さぬことをだに、情のためにはよく言ひつづけ たまふべかめれば、ましておしなべての列には思ひきこえた

まはざりし御仲の、かくて背きたまひなんとするを、口惜し うもいとほしうも思しなやむべし。旅の御装束よりはじめ、 人々のまで、何くれの御調度など、いかめしうめづらしきさ まにて、とぶらひきこえたまへど、何とも思されず。あはあ はしう心うき名をのみ流して、あさましき身のありさまを、 今はじめたらむやうに、ほど近くなるままに、起き臥し嘆き たまふ。斎宮は、若き御心地に、不定なりつる御出立の、 かく定まりゆくを、うれしとのみ思したり。世人は、例なき ことと、もどきもあはれがりもさまざまに聞こゆべし。何ご とも、人にもどきあつかはれぬ際は安げなり。なかなか、世 にぬけ出でぬる人の御あたりは、ところせきこと多くなむ。 群行の日、源氏、御息所と斎宮に消息する 十六日、桂川にて御祓したまふ。常の儀式 にまさりて、長奉送使など、さらぬ上達部 も、やむごとなくおぼえあるを選らせたま へり。院の御心寄せもあればなるべし。

 出でたまふほどに、大将殿より例の尽きせぬことども聞こ えたまへり。 「かけまくもかしこき御前に」とて、木綿につ けて、 「鳴る神だにこそ、   八洲もる国つ御神もこころあらば飽かぬわかれのなかを   ことわれ 思うたまふるに、飽かぬ心地しはべるかな」とあり。いと騒 がしきほどなれど、御返りあり。宮の御をば、女別当して書 かせたまへり。    国つ神空にことわるなかならばなほざりごとをまづやた   ださむ 大将は、御ありさまゆかしうて、内裏にも参らまほしく思せ ど、うち棄てられて見送らむも、人わろき心地したまへば、 思しとまりて、つれづれにながめゐたまへり。宮の御返りの おとなおとなしきを、ほほ笑みて見ゐたまへり。御年のほど よりはをかしうもおはすべきかな、とただならず。かうやう

に、例に違へるわづらはしさに、必ず心かかる御癖にて、 「いとよう見たてまつりつべかりし、いはけなき御ほどを、 見ずなりぬるこそねたけれ。世の中定めなければ、対面する やうもありなむかし」など思す。 斎宮と御息所参内 別れの櫛の儀 心にくくよしある御けはひなれば、物見車- 多かる日なり。申の刻に、内裏に参りたま ふ。御息所、御輿に乗りたまへるにつけて も、父大臣の限りなき筋に思し心ざして、いつきたてまつり たまひしありさま変りて、末の世に内裏を見たまふにも、も ののみ尽きせずあはれに思さる。十六にて故宮に参りたまひ て、二十にて後れたてまつりたまふ。三十にてぞ、今日また 九重を見たまひける。   そのかみを今日はかけじと忍ぶれど心のうちにも  のぞかなしき 斎宮は十四にぞなりたまひける。いとうつくしうおはする

さまを、うるはしうしたてたてまつ りたまへるぞ、いとゆゆしきまで見 えたまふを、帝御心動きて、別れの 櫛奉りたまふほど、いとあはれにて、 しほたれさせたまひぬ。 御息所、斎宮に伴って伊勢へ出発する 出でたまふを待ちたてまつるとて、八省に 立てつづけたる、出車どもの袖口色あひも、 目馴れぬさまに心にくきけしきなれば、殿 上人どもも、私の別れ惜しむ多かり。  暗う出でたまひて、二条より洞院の大路を折れたまふほど、 二条院の前なれば、大将の君いとあはれに思されて、榊にさ して、   ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖は   ぬれじや と聞こえたまへれど、いと暗うもの騒がしきほどなれば、ま

たの日、関のあなたよりぞ御返しある。   鈴鹿川八十瀬の波にぬれぬれず伊勢まで誰か思ひ   おこせむ ことそぎて書きたまへるしも、御手いとよしよししくなまめ きたるに、あはれなるけをすこし添へたまへらましかば、と 思す。霧いたう降りて、ただならぬ朝ぼらけに、うちなかめ て独りごちおはす。   行く方をながめもやらむこの秋はあふさか山を霧な   へだてそ 西の対にも渡りたまはで、人やりならず、ものさびしげにな がめ暮らしたまふ。まして旅の空は、いかに御心づくしなる こと多かりけん。 桐壺院の御病重く、帝に遺戒する 院の御悩み、神無月になりては、いと重く おはします。世の中に惜しみきこえぬ人な し。内裏にも思し嘆きて行幸あり。弱き御

心地にも、春宮の御ことを、かへすがへす聞こえさせたまひ て、次には大将の御こと、 「はべりつる世に変らず、大小の ことを隔てず、何ごとも御後見と思せ。齢のほどよりは、世 をまつりごたむにも、をさをさ憚りあるまじうなむ見たまふ る。必ず世の中たもつべき相ある人なり。さるによりて、わ づらはしさに、親王にもなさず、ただ人にて、朝廷の御後見 をせさせむ、と思ひたまへしなり。その心違へさせたまふ な」と、あはれなる御遺言ども多かりけれど、女のまねぶべ きことにしあらねば、この片はしだにかたはらいたし。帝も、 いと悲しと思して、さらに違へきこえさすまじきよしを、か へすがへす聞こえさせたまふ。御容貌もいときよらに、ねび まさらせたまへるを、うれしく頼もしく見たてまつらせたま ふ。限りあれば急ぎ帰らせたまふにも、なかなかなること多 くなん。 東宮と源氏院に参上 最後の拝謁をする

春宮も、一たびにと思しめしけれど、もの 騒がしきにより、日をかへて渡らせたまへ り。御年のほどよりは、大人びうつくしき 御さまにて、恋しと思ひきこえさせたまひけるつもりに、 何心もなくうれしと思して、見たてまつりたまふ御気色いと あはれなり。中宮は涙に沈みたまへるを、見たてまつらせた まふも、さまざま御心乱れて思しめさる。よろづのことを聞 こえ知らせたまへど、いとものはかなき御ほどなれば、うし ろめたく悲しと見たてまつらせたまふ。大将にも、朝廷に仕 うまつりたまふべき御心づかひ、この宮の御後見したまふべ きことを、かへすがへすのたまはす。夜更けてぞ帰らせたま ふ。残る人なく仕うまつりてののしるさま、行幸におとるけ ぢめなし。飽かぬほどにて帰らせたまふを、いみじう思し めす。 桐壺院の崩御 そののちの藤壺と源氏

大后も参りたまはむとするを、中宮のかく 添ひおはするに御心おかれて、思しやすら ふほどに、おどろおどろしきさまにもおは しまさで、隠れさせたまひぬ。足を空に思ひまどふ人多かり。 御位を去らせたまふといふばかりにこそあれ、世の政をし づめさせたまへることも、わか御世の同じことにておはしま いつるを、帝はいと若うおはします、祖父大臣、いと急にさ がなくおはして、その御ままになりなん世を、いかならむと、 上達部、殿上人みな思ひ嘆く。  中宮、大将殿などは、ましてすぐれてものも思しわかれず。 後々の御わざなど、孝じ仕うまつりたまふさまも、そこらの 親王たちの御中にすぐれたまへるを、ことわりながら、いと あはれに、世人も見たてまつる。藤の御衣にやつれたまへる につけても、限りなくきよらに心苦しげなり。去年今年とう ちつづき、かかる事を見たまふに、世もいとあぢきなう思さ

るれど、かかるついでにも、まづ思し立たるることはあれど、 またさまざまの御絆多かり。  御四十九日までは、女御御息所たち、みな院に集ひたまへ りつるを、過ぎぬれば、散り散りにまかでたまふ。十二月の 二十日なれば、おほかたの世の中とぢむる空のけしきにつけ ても、まして晴るる世なき中宮の御心の中なり。大后の御心 も知りたまへれば、心にまかせたまへらむ世のはしたなく住 みうからむを思すよりも、馴れきこえたまへる年ごろの御あ りさまを思ひ出できこえたまはぬ時の間なきに、かくてもお はしますまじう、みな外々へと出でたまふほどに、悲しきこ と限りなし。  宮は、三条宮に渡りたまふ。御迎へに兵部卿宮参りたまへ り。雪うち散り風はげしうて、院の内やうやう人目離れゆき てしめやかなるに、大将殿こなたに参りたまひて、古き御物 語聞こえたまふ。御前の五葉の雪にしをれて、下葉枯れたる

を見たまひて、親王、   かげ広みたのみし松や枯れにけん下葉散りゆく年   の暮かな 何ばかりのことにもあらぬに、をりからものあはれにて、大- 将の御袖いたう濡れぬ。池の隙なう凍れるに、   さえわたる池の鏡のさやけきに見なれしかげを見ぬ   ぞかなしき と思すままに。あまり若々しうぞあるや。王命婦、   年暮れて岩井の水もこほりとぢ見し人かげのあせもゆく   かな そのついでにいと多かれど、さのみ書きつづくべきことかは。  渡らせたまふ儀式変らねど、思ひなしにあはれにて、旧き 宮は、かへりて旅心地したまふにも、御里住み絶えたる年月 のほど、思しめぐらさるべし。 源氏の邸、昔と変わって寂寥をきわめる

年かへりぬれど、世の中今めかしきことな く静かなり。まして大将殿は、ものうくて 籠りゐたまへり。除目のころなど、院の御- 時をばさらにも言はず、年ごろ劣るけぢめなくて、御門のわ たり、所なく立ちこみたりし馬車うすらぎて、宿直物の袋を さをさ見えず。親しき家司どもばかり、ことに急ぐ事なげに てあるを見たまふにも、今よりはかくこそはと思ひやられて、 ものすさまじくなむ。 朧月夜、尚侍になる 源氏と心を通わす 御匣殿は、二月に尚侍になりたまひぬ。院 の御思ひに、やがて尼になりたまへるかは りなりけり。やむごとなくもてなして、人- 柄もいとよくおはすれば、あまた参り集まりたまふ中にも、 すぐれて時めきたまふ。后は、里がちにおはしまいて、参り たまふ時の御局には梅壼をしたれば、弘徽殿には尚侍の君住 みたまふ。登花殿の埋れたりつるに、晴れ晴れしうなりて、

女房なども数知らず集ひ参りて、今めかしうはなやぎたまへ ど、御心の中は、思ひの外なりし事どもを、忘れがたく嘆き たまふ。いと忍びて通はしたまふことはなほ同じさまなるべ し。ものの聞こえもあらばいかならむと思しながら、例の御- 癖なれば、今しも御心ざしまさるべかめり。  院のおはしましつる世こそ憚りたまひつれ、后の御心いち はやくて、かたがた思しつめたる事どもの報いせむと思すべ かめり。事にふれてはしたなきことのみ出で来れば、かかる べきこととは思ししかど、見知りたまはぬ世のうさに、立ち まふべくも思されず。 左大臣家の不遇 源氏のまめやかな訪れ 左の大殿も、すさまじき心地したまひて、 ことに内裏にも参りたまはず。故姫君を、 ひき避きてこの大将の君に聞こえつけたま ひし御心を、后は思しおきて、よろしうも思ひきこえたまは ず。大臣の御仲も、もとよりそばそばしうおはするに、故院

の御世にはわがままにおはせしを、時移りて、したり顔にお はするを、あぢきなしと思したる、ことわりなり。  大将は、ありしに変らず渡り通ひたまひて、さぶらひし人- 人をも、なかなかにこまかに思しおきて、若君をかしづき思 ひきこえたまへること限りなければ、あはれにありがたき御- 心と、いとどいたつききこえたまふことども、同じさまなり。 限りなき御おぼえの、あまりもの騒がしきまで暇なげに見え たまひしを、通ひたまひし所どころも、かたがたに絶えたま ふことどもあり、軽々しき御忍び歩きも、あいなう思しなり て、ことにしたまはねば、いとのどやかに、今しもあらまほ しき御ありさまなり。 紫の上の幸運 朝顔の姫君斎院となる 西の対の姫君の御幸ひを、世人もめできこ ゆ。少納言なども、人知れず、故尼上の御- 祈りのしるしと見たてまつる。父親王も思 ふさまに聞こえかはしたまふ。嫡腹の、限りなくと思すは、

はかばかしうもえあらぬに、ねたげなること多くて、継母の 北の方は、安からず思すべし。物語に、ことさらに作り出で たるやうなる御ありさまなり。  斎院は御服にて、おりゐたまひにしかば、朝顔の姫君は、 かはりにゐたまひにき。賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ 例多くもあらざりけれど、さるべき皇女やおはせざりけむ。 大将の君、年月経れど、なほ御心離れたまはざりつるを、か う筋異になりたまひぬれば、口惜しくと思す。中将におとづ れたまふことも同じことにて、御文などは絶えざるべし。昔 に変る御ありさまなどをば、ことに何とも思したらず、かや うのはかなし事どもを、紛るることなきままに、こなたかな たと思しなやめり。 源氏、朧月夜と密会 藤少将の非難 帝は、院の御遺言たがへず、あはれに思し たれど、若うおはしますうちにも、御心な よびたる方に過ぎて、強きところおはしま

さぬなるべし、母后、祖父大臣とりどりにしたまふことは、 え背かせたまはず、世の政、御心にかなはぬやうなり。  わづらはしさのみまされど、尚侍の君は、人知れぬ御心し 通へば、わりなくてもおぼつかなくはあらず。五壇の御修法 のはじめにて、つつしみおはします隙をうかがひて、例の夢 のやうに聞こえたまふ。かの昔おぼえたる細殿の局に、中納- 言の君紛らはして入れたてまつる。人目もしげきころなれば、 常よりも端近なる、そら恐ろしうおぼゆ。朝夕に見たてまつ る人だに、飽かぬ御さまなれば、ましてめづらしきほどにの みある御対面の、いかでかはおろかならむ。女の御さまも、 げにぞめでたき御盛りなる、重りかなる方はいかがあらむ、 をかしうなまめき若びたる心地して、見まほしき御けはひ なり。  ほどなく明けゆくにやとおぼゆるに、ただここにしも、 「宿 直申しさぶらふ」と声づくるなり。 「またこのわたりに隠ろ

へたる近衛司ぞあるべき。腹ぎたなきかたへの教へおこする ぞかし」
と、大将は聞きたまふ。をかしきものから、わづら はし。ここかしこ尋ね歩きて、 「寅一つ」と申すなり。女君、    心からかたがた袖をぬらすかなあくとをしふる声につけ   ても とのたまふさま、はかなだちて、いとをかし。   嘆きつつわがよはかくて過ぐせとや胸のあくべき時   ぞともなく 静心なくて出でたまひぬ。夜深き暁月夜のえもいはず霧り わたれるに、いといたうやつれてふるまひなしたまへるしも、 似るものなき御ありさまにて、承香殿の御兄の藤少将、藤壼 より出でて月のすこし隈ある立蔀の下に立てりけるを知らで、 過ぎたまひけんこそいとほしけれ。もどききこゆるやうもあ りなんかし。 源氏、藤壺の寝所に近づく両人の苦悩

かやうの事につけても、もて離れつれなき 人の御心を、かつはめでたしと思ひきこえ たまふものから、わが心の引く方にては、 なほつらう心うしとおぼえたまふをり多かり。  内裏に参りたまはんことは、うひうひしくところせく思し なりて、春宮を見たてまつりたまはぬをおぼつかなく思ほえ たまふ。また頼もしき人もものしたまはねば、ただこの大将 の君をぞ、よろづに頼みきこえたまへるに、なほこのにくき 御心のやまぬに、ともすれば御胸をつぶしたまひつつ、いさ さかもけしきを御覧じ知らずなりにしを思ふだに、いと恐ろ しきに、今さらにまたさる事の聞こえありて、わが身はさる ものにて、春宮の御ために必ずよ からぬこと出で来なんと思すに、 いと恐ろしければ、御祈祷をさへ せさせて、このこと思ひやませた

てまつらむと、思しいたらぬ事なくのがれたまふを、いかな るをりにかありけん、あさましうて近づき参りたまへり。心- 深くたばかりたまひけんことを、知る人なかりければ、夢の やうにぞありける。  まねぶべきやうなく聞こえつづけたまへど、宮いとこよな くもて離れきこえたまひて、はてはては御胸をいたう悩み たまへば、近うさぶらひつる命婦、弁などぞ、あさましう見 たてまつりあつかふ。男は、うしつらしと思ひきこえたまふ こと限りなきに、来し方行く先かきくらす心地して、うつし 心失せにければ、明けはてにけれど、出でたまはずなりぬ。  御悩みにおどろきて、人々近う参りてしげうまがへば、我 にもあらで、塗籠に押し入れられておはす。御衣ども隠し持 たる人の心地ども、いとむつかし。宮はものをいとわびしと 思しけるに、御気あがりて、なほ悩ましうせさせたまふ。兵 部卿宮、大夫など参りて「僧召せ」など騒ぐを、大将いとわ

びしう聞きおはす。からうじて、暮れゆくほどにぞおこたり たまへる。  かく籠りゐたまへらむとは思しもかけず、人々も、また御- 心まどはさじとて、かくなんとも申さぬなるべし。昼の御座 にゐざり出でておはします。よろしう思さるるなめりとて、 宮もまかでたまひなどして、御前人少なになりぬ。例もけ近 く馴らさせたまふ人少なければ、ここかしこの物の背後など にぞさぶらふ。命婦の君などは、 「いかにたばかりて出だし たてまつらむ。今宵さへ御気あがらせたまはん、いとほしう」 など、うちささめきあつかふ。  君は、塗籠の戸の細目に開きたるを、やをら押し開けて、 御屏風のはさまに伝ひ入りたまひぬ。めづらしくうれしきに も、涙落ちて見たてまつりたまふ。 「なほ、いと苦しうこ そあれ。世や尽きぬらむ」とて、外の方を見出だしたまへる かたはら目、言ひ知らずなまめかしう見ゆ。御くだものをだ

にとて、まゐりすゑたり。箱の蓋などにも、なつかしきさま にてあれど、見入れたまはず。世の中をいたう思しなやめる 気色にて、のどかにながめ入りたまへる、いみじうらうたげ なり。髪ざし、頭つき、御髪のかかりたるさま、限りなきに ほはしさなど、ただかの対の姫君に違ふところなし。年ごろ すこし思ひ忘れたまへりつるを、あさましきまでおぼえたま へるかな、と見たまふままに、すこしもの思ひのはるけどこ ろある心地したまふ。  けだかう恥づかしげなるさまなども、さらにこと人とも思 ひ分きがたきを、なほ、限りなく昔より思ひしめきこえてし 心の思ひなしにや、さまことにいみじうねびまさりたまひに けるかなと、たぐひなくおぼえたまふに、心まどひして、や をら御帳の内にかかづらひ入りて、御衣の褄を引きならした まふ。けはひしるく、さと匂ひたるに、あさましうむくつけ う思されて、やがてひれ臥したまへり。 「見だに向きたまへ

かし」
と、心やましうつらうて、引き寄せたまへるに、御衣 をすべしおきて、ゐざり退きたまふに、心にもあらず、御髪 の取り添へられたりければ、いと心うく、宿世のほど思し知 られて、いみじと思したり。  男も、ここら世をもてしづめたまふ御心みな乱れて、うつ しざまにもあらず、よろづのことを泣く泣く恨みきこえたま へど、まことに心づきなしと思して、いらへも聞こえたまは ず。ただ、 「心地のいと悩ましきを。かからぬをりもあら ば聞こえてむ」とのたまへど、尽きせぬ御心のほどを言ひつ づけたまふ。さすがにいみじと聞きたまふ節もまじるらん。 あらざりしことにはあらねど、あらためていと口惜しう思さ るれば、なつかしきものから、いとようのたまひのがれて、 今宵も明けゆく。せめて従ひきこえざらむもかたじけなく、 心恥づかしき御けはひなれば、 「ただかばかりにても、時ー 時いみじき愁へをだにはるけはべりぬべくは、何のおほけな

き心もはべらじ」
など、たゆめきこえたまふべし。なのめな ることだに、かやうなる仲らひはあはれなることも添ふなる を、ましてたぐひなげなり。  明けはつれば、二人していみじきことどもを聞こえ、宮は、 なかばは亡きやうなる御気色の心苦しければ、 「世の中に ありと聞こしめされむもいと恥づかしければ、やがて亡せは べりなんも、またこの世ならぬ罪となりはべりぬべきこと」 など聞こえたまふも、むくつけきまで思し入れり。    「逢ふことのかたきを今日にかぎらずはいまいく世を   か嘆きつつ経ん 御ほだしにもこそ」と聞こえたまへば、さすかにうち嘆きた まひて、    ながき世のうらみを人に残してもかつは心をあだと   知らなむ  はかなく言ひなさせたまへるさまの、言ふよしなき心地すれ

ど、人の思さむところもわが御ためも苦しければ、我にもあ らで出でたまひぬ。 源氏の憂悶藤壺出家を決意して参内する いづこを面にてかはまたも見えたてまつら ん、いとほしと思し知るばかり、と思して、 御文も聞こえたまはず。うち絶えて内裏、 春宮にも参りたまはず、籠りおはして、起き臥し、いみじか りける人の御心かなと、人わろく恋しう悲しきに、心魂も うせにけるにや、悩ましうさへ思さる。もの心細く、なぞや、 世に経ればうさこそまされと思し立つには、この女君のいと らうたげにて、あはれにうち頼みきこえたまへるを、ふり棄 てむこと、いとかたし。  宮も、そのなごり、例にもおはしまさず。かうことさらめ きて籠りゐ、おとづれたまはぬを、命婦などはいとほしがり きこゆ。宮も、春宮の御ためを思すには、 「御心おきたまは むこといとほしく、世をあぢきなきものに思ひなりたまはば、

ひたみちに思し立つこともや」
と、さすがに苦しう思さるべ し。 「かかること絶えずは、いとどしき世に、うき名さへ漏 り出でなむ。大后のあるまじきことにのたまふなる位をも去 りなん」と、やうやう思しなる。院の思しのたまはせしさま のなのめならざりしを思し出づるにも、 「よろづのこと、あ りしにもあらず変りゆく世にこそあめれ。戚夫人の見けむ目 のやうにはあらずとも、必ず人笑へなる事はありぬべき身に こそあめれ」など、世のうとましく過ぐしがたう思さるれば、 背きなむことを思しとるに、春宮見たてまつらで面変りせむ ことあはれに思さるれば、忍びやかにて参りたまへり。 藤壺、東宮にそれとなく訣別する 大将の君は、さらぬことだに思し寄らぬこ となく仕うまつりたまふを、御心地悩まし きにことつけて、御送りにも参りたまはず。 おほかたの御とぶらひは同じやうなれど、むげに思し屈しに けると、心知るどちはいとほしがりきこゆ。

宮はいみじううつくしう大人びたまひて、めづらしううれ しと思して睦れきこえたまふを、かなしと見たてまつりたま ふにも、思し立つ筋はいと難けれど、内裏わたりを見たまふ につけても、世のありさまあはれにはかなく、移り変ること のみ多かり。大后の御心もいとわづらはしくて、かく出で入 りたまふにもはしたなく、事にふれて苦しければ、宮の御た めにもあやふく、ゆゆしうよろづにつけて思ほし乱れて、 「御覧ぜで久しからむほどに、かたちの異ざまにてうたて げに変りてはべらば、いかが思さるべき」と聞こえたまへば、 御顔うちまもりたまひて、 「式部がやうにや。いかでかさ はなりたまはん」と、笑みてのたまふ。言ふかひなくあはれ にて、 「それは、老いてはべれば醜きぞ。さはあらで、 髪はそれよりも短くて、黒き衣などを着て、夜居の僧のやう になりはべらむとすれば、見たてまつらむこともいとど久し かるべきぞ」とて泣きたまへば、まめだちて、 「久しうお

はせぬは恋しきものを」
とて、涙の落つれば、恥づかしと思 して、さすがに背きたまへる、御髪はゆらゆらときよらにて、 まみのなつかしげににほひたまへるさま、大人びたまふまま に、ただかの御顔を脱ぎすべたまへり。御歯のすこし朽ちて、 口の中黒みて、笑みたまへる、かをりうつくしきは、女にて 見たてまつらまほしうきよらなり。いとかうしもおぼえたま へるこそ心うけれと、玉の瑕に思さるるも、世のわづらはし さのそら恐ろしうおぼえたまふなりけり。 源氏、雲林院に参籠 紫の上と消息しあう 大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえた まへど、あさましき御心のほどを、時々は 思ひ知るさまにも見せたてまつらむと、念 じつつ過ぐしたまふに、人わるくつれづれに思さるれば、秋 の野も見たまひがてら、雲林院に詣でたまへり。故母御息- 所の御兄の律師の籠りたまへる坊にて、法文など読み、行ひ せむと思して、二三日おはするに、あはれなること多かり。

紅葉やうやう色づきわたりて、秋の野のいとなまめきたる など見たまひて、古里も忘れぬべく思さる。法師ばらの才あ るかぎり召し出でて論議せさせて聞こしめさせたまふ。所か らに、いとど世の中の常なさを思しあかしても、なほ 「うき 人しもぞ」と思し出でらるるおし明け方の月影に、法師ばら の閼伽たてまつるとて、からからと鳴らしつつ、菊の花、濃 き薄き紅葉など、折り散らしたるもはかなげなれど、 「この 方の営みは、この世もつれづれならず、後の世はた頼もしげ なり。さもあぢきなき身をもてなやむかな」など、思しつづ けたまふ。律師のいと尊き声にて、 「念仏衆生摂取不捨」と、 うちのべて行ひたまへるがいとうらやましければ、なぞやと 思しなるに、まづ姫君の心にかかりて、思ひ出でられたまふ ぞ、いとわろき心なるや。  例ならぬ日数も、おぼつかなくのみ思さるれば、御文ばか りぞしげう聞こえたまふめる。

行き離れぬべしやと試みはべる道なれど、つれづれ   も慰めがたう、心細さまさりてなむ。聞きさしたること   ありて、やすらひはべるほど、いかに。 など、陸奥国紙にうちとけ書きたまへるさへぞめでたき。    あさぢふの露のやどりに君をおきて四方のあらしぞ   静心なき などこまやかなるに、女君もうち泣きたまひぬ。御返り、白 き色紙に、   風吹けばまづぞみだるる色かはるあさぢか露にか   かるささがに とのみあり。 「御手はいとをかしうのみなりまさるものか な」と独りごちて、うつくしとほほ笑みたまふ。常に書きか はしたまへば、わか御手にいとよく似て、今すこしなまめか しう、女しきところ書き添へたまへり。何ごとにつけても、 けしうはあらず生ほし立てたりかし、と思ほす。 源氏、朝顔の斎院と贈答、往時をしのぶ

吹きかふ風も近きほどにて、斎院にも聞こ えたまひけり。中将の君に、 「かく旅の 空になむもの思ひにあくがれにけるを、思 し知るにもあらじかし」など恨みたまひて、御前には、   「かけまくはかしこけれどもそのかみの秋思ほゆる木- 綿襷かな 昔を今に、と思ひたまふるもかひなく、とり返されむものの やうに」と、馴れ馴れしげに、唐の浅緑の紙に、榊に木綿つ けなど、神々しうしなして参らせたまふ。御返り、中将、 「ま ぎるることなくて、来し方のことを思ひたまへ出づるつれづ れのままには、思ひやりきこえさすること多くはべれど、か ひなくのみなむ」と、すこし心とどめて多かり。御前のは、 木綿の片はしに、   「そのかみやいかがはありし木綿襷心にかけて忍ぶら   んゆゑ

近き世に」
とぞある。御手こまやかにはあらねど、らうらう じう、草などをかしうなりにけり。まして朝顔もねびまさり たまへらむかしと、思ほゆるもただならず、恐ろしや。あは れ、このころぞかし、野宮のあはれなりしこと、と思し出で て、あやしう、やうのものと、神恨めしう思さるる御癖の見- 苦しきぞかし。わりなう思さば、さもありぬべかりし年ごろ はのどかに過ぐいたまひて、今は悔しう思さるべかめるも、 あやしき御心なりや。院も、かくなべてならぬ御心ばへを見- 知りきこえたまへれば、たまさかなる御返りなどは、えしも もて離れきこえたまふまじかめり。すこしあいなきことなり かし。 源氏、雲林院を出て二条院に帰る 六十巻といふ書読みたまひ、おぼつかなき 所どころ解かせなどしておはしますを、 山寺には、いみじき光行ひ出だしたてまつ れりと、仏の御面目ありと、あやしの法師ばらまでよろこび

あへり。しめやかにて世の中を思ほしつづくるに、帰らむこ ともものうかりぬべけれど、人ひとりの御こと思しやるがほ だしなれば、久しうもえおはしまさで、寺にも御誦経いかめ しうせさせたまふ。あるべきかぎり、上下の僧ども、そのわ たりの山がつまで物賜び、尊きことの限りを尽くして出でた まふ。見たてまつり送るとて、このもかのもに、あやしきし はぶるひどもも集まりてゐて、涙を落しつつ見たてまつる。 黒き御車の内にて、藤の御袂にやつれたまへれば、ことに見 えたまはねど、ほのかなる御ありさまを、世になく思ひきこ ゆべかめり。 女君は、日ごろのほどに、ねびまさりたまへる心地して、 いといたうしづまりたまひて、世の中いかがあらむと思へる 気色の、心苦しうあはれにおぼえたまへば、あいなき心のさ まざま乱るるやしるからむ、 「色かはる」とありしもらうた うおぼえて、常よりことに語らひきこえたまふ。 源氏、藤壺に山の紅葉を贈る

山づとに持たせたまへりし紅葉、御前のに 御覧じくらぶれば、ことに染めましける露 の心も見過ぐしがたう、おぼつかなさも、 人わるきまでおぼえたまへば、ただおほかたにて宮に参らせ たまふ。命婦のもとに、   入らせたまひにけるを、めづらしき事とうけたまは   るに、宮の間のこと、おぼつかなくなりはべりにければ、 静心なく思ひたまへながら、行ひも勤めむなど思ひ立ち   はべりし日数を、心ならずやとてなん、日ごろになりは   べりにける。紅葉は、独り見はべるに錦くらう思ひたま   ふればなむ。をりよくて御覧ぜさせたまへ。 などあり。げにいみじき枝どもなれば、御目とまるに、例の いささかなるものありけり。人々見たてまつるに、御顔の色 もうつろひて、 「なほかかる心の絶えたまはぬこそ、いとう とましけれ。あたら、思ひやり深うものしたまふ人の、ゆく

りなく、かうやうなる事をりをりまぜたまふを、人もあやし と見るらむかし」
と、心づきなく思されて、瓶にささせて廂 の柱のもとに押しやらせたまひつ。  おほかたのことども、宮の御ことにふれたることなどをば、 うち頼めるさまに、すくよかなる御返りばかり聞こえたまへ るを、さも心かしこく、尽きせずも、と恨めしうは見たまへ ど、何ごとも後見きこえならひたまひにたれば、人あやしと 見とがめもこそすれと思して、まかでたまふべき日参りたま へり。 源氏参内して、帝と昔今の物語をする まづ内裏の御方に参りたまへれば、のどや かにおはしますほどにて、昔今の御物語聞 こえたまふ。御容貌も、院にいとよう似た てまつりたまひて、いますこしなまめかしき気添ひて、なつ かしうなごやかにぞおはします。かたみにあはれと見たてま つりたまふ。尚侍の君の御ことも、なほ絶えぬさまに聞こし

めし、けしき御覧ずるをりもあれど、 「何かは、今はじめた る事ならばこそあらめ、ありそめにけることなれば、さも心 かはさむに、似げなかるまじき人のあはひなりかし」とぞ思 しなして、咎めさせたまはざりける。よろづの御物語、文の 道のおぼつかなく思さるることどもなど、問はせたまひて、 またすきずきしき歌語なども、かたみに聞こえかはさせたま ふついでに、かの斎宮の下りたまひし日のこと、容貌のをか しくおはせしなど語らせたまふに、我もうちとけて、野宮の あはれなりし曙も、みな聞こえ出でたまひてけり。 二十日の月やうやうさし出でて、をかしきほどなるに、 「遊びなどもせまほしきほどかな」とのたまはす。 「中- 宮の今宵まかでたまふなる、とぶらひにものしはべらむ。院 ののたまはせおくことはべりしかば、また後見仕うまつる人 もはべらざめるに、春宮の御ゆかり、いとほしう思ひたまへ られはべりて」と奏したまふ。 「春宮をば今の皇子になし

てなど、のたまはせおきしかば、とりわきて心ざしものすれ ど、ことにさし分きたるさまにも何ごとをかはとてこそ。年 のほどよりも、御手などのわざと賢うこそものしたまふべけ れ。何ごとにもはかばかしからぬみづからの面おこしにな む」
とのたまはすれば、 「おほかた、したまふわざなど、 いとさとく大人びたるさまにものしたまへど、まだいとかた なりに」など、その御ありさまも奏したまひて、まかでたま ふに、大宮の御兄の藤大納言の子の頭弁といふが、世にあひ はなやかなる若人にて、思ふことなきなるべし、味の麗景殿 の御方に行くに、大将の御前駆を忍びやかに追へば、しばし 立ちとまりて、「白虹日を貫けり。太子畏ぢたり」と、いとゆ るらかにうち誦じたるを、大将いとまばゆしと聞きたまへど、 咎むべき事かは。后の御気色はいと恐ろしうわづらはしげに のみ聞こゆるを、かう親しき人々もけしきだち言ふべかめる 事どももあるに、わづらはしう思されけれど、つれなうのみ

もてなしたまへり。 「御前にさぶらひて、今までふかしはべりにける」と、 聞こえたまふ。 源氏、藤壺の御方に参上、歌に思いを託す 月のはなやかなるに、昔かうやうなるをり は、御遊びせさせたまひて、今めかしうも てなさせたまひしなど、思し出づるに、同 じ御垣の内ながら、変れること多く悲し。   ここのへに霧やへだつる雲の上の月をはるかに思ひ   やるかな と命婦して聞こえ伝へたまふ。ほどなければ、御けはひもほ のかなれど、なつかしう聞こゆるに、つらさも忘られて、ま づ涙ぞ落つる。   「月かげは見し世の秋にかはらぬをへだつる霧のつら   くもあるかな 霞も人のとか、昔もはべりけることにや」など聞こえたまふ。

宮は、春宮を飽かず思ひきこえたまひて、よろづのことを 聞こえさせたまへど、深うも思し入れたらぬを、いとうしろ めたく思ひきこえたまふ。例はいととく大殿籠るを、出でた まふまでは起きたらむ、と思すなるべし。恨めしげに思した れど、さすがにえ慕ひきこえたまはぬを、いとあはれと見た てまつりたまふ。 朧月夜より源氏へ消息をおくる 大将、頭弁の誦じつることを思ふに、御心 の鬼に、世の中わづらはしうおぼえたまひ て、尚侍の君にもおとづれきこえたまはで 久しうなりにけり。初時雨いつしかとけしきだつに、いかが 思しけん、かれより、   木枯の吹くにつけつつ待ちし間におぼつかなさのこ   ろもへにけり と聞こえたまへり。をりもあはれに、あながちに忍び書きた まへらむ御心ばへも憎からねば、御使とどめさせて、唐の紙

ども入れさせたまへる御廚子開けさせたまひて、なべてなら ぬを選り出でつつ、筆なども心ことにひきつくろひたまへる けしき艶なるを、御前なる人々、誰ばかりならむ、とつきし ろふ。 「聞こえさせてもかひなきもの懲りにこそ、むげに くづほれにけれ。身のみものうきほどに、   あひ見ずてしのぶるころの涙をもなべての空の時雨とや   見る 心の通ふならば、いかにながめの空ももの忘れしはべらむ」 など、こまやかになりにけり。  かうやうにおどろかしきこゆるたぐひ多かめれど、情なか らずうち返りごちたまひて、御心には深うしまざるべし。 桐壺院の一周忌 源氏と藤壺との追憶の歌 中宮は、院の御はての事にうちつづき、御- 八講のいそぎを、さまざまに心づかひせさ せたまひけり。霜月の朔日ごろ、御国忌な るに、雪いたう降りたり。大将殿より宮に聞こえたまふ。

別れにしけふは来れども見し人にゆきあふほどをい   つとたのまん いづこにも、今日はもの悲しう思さるるほどにて、御返り あり。   ながらふるほどはうけれどゆきめぐり今日はその世   にあふ心地して ことにつくろひてもあらぬ御書きざまなれど、あてにけだか きは思ひなしなるべし。筋変り今めかしうはあらねど、人に はことに書かせたまへり。今日はこの御ことも思ひ消ちて、 あはれなる雪の雫に濡れ濡れ行ひたまふ。 法華八講の果ての日、藤壺出家する 十二月十余日ばかり、中宮の御八講なり。 いみじう尊し。日々に供養せさせたまふ御- 経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の 飾りも、世になきさまにととのへさせたまへり。さらぬ事の きよらだに、世の常ならずおはしませば、ましてことわりな

り。仏の御飾り、花机の覆ひなどま で、まことの極楽思ひやらる。初の 日は先帝の御料、次の日は母后の御 ため、またの日は院の御料、五巻の 日なれば、上達部なども、世のつつ ましさをえしも憚りたまはで、いと あまた参りたまへり。今日の講師は、心ことにえらせたまへ れば、薪こるほどよりうちはじめ、同じういふ言の葉も、い みじう尊し。親王たちもさまざまの捧物ささげてめぐりたま ふに、大将殿の御用意など、なほ似るものなし。常に同じこ とのやうなれど、見たてまつるたびごとに、めづらしからむ をばいかがはせむ。  最終の日、わが御ことを結願にて、世を背きたまふよし仏 に申させたまふに、みな人々驚きたまひぬ。兵部卿宮、大- 将の御心も動きて、あさましと思す。親王は、なかばのほ

どに、立ちて入りたまひぬ。心強う思し立つさまをのたまひ て、果つるほどに、山の座主召して、忌むこと受けたまふべ きよしのたまはす。御をぢの横川の僧都近う参りたまひて、 御髪おろしたまふほどに、宮の内ゆすりて、ゆゆしう泣きみ ちたり。何となき老い衰へたる人だに、今はと世を背くほど は、あやしうあはれなるわざを、まして、かねての御気色に も出だしたまはざりつることなれば、親王もいみじう泣きた まふ。  参りたまへる人々も、おほかたの事のさまもあはれに尊け れば、みな袖濡らしてぞ帰りたまひける。 源氏、出家した藤壺の御前に参上する 故院の皇子たちは、昔の御ありさまを思し 出づるに、いとどあはれに悲しう思されて、 みなとぶらひきこえたまふ。大将は立ちと まりたまひて、聞こえ出でたまふべき方もなく、くれまどひ て思さるれど、などかさしも、と人見たてまつるべければ、

親王など出でたまひぬる後にぞ、御前に参りたまへる。  やうやう人静まりて、女房ども、鼻うちかみつつ、所どこ ろに群れゐたり、月は隈なきに、雪の光りあひたる庭のあり さまも、昔の事思ひやらるるに、いとたへがたう思さるれど、 いとよう思ししづめて、 「いかやうに思し立たせたまひて、 かうにはかには」と聞こえたまふ。 「今はじめて思ひたま ふる事にもあらぬを。もの騒がしきやうなりつれば、心乱れ ぬべく」など、例の命婦して聞こえたまふ。御簾の内のけは ひ、そこら集ひさぶらふ人の衣の音なひ、しめやかにふるま ひなして、うち身じろきつつ、悲しげさの慰めがたげに漏り 聞こゆるけしき、ことわりにいみじと聞きたまふ。風はげし う吹きふぶきて、御簾の内の匂ひ、いともの深き黒方にしみ て、名香の煙もほのかなり。大将の御匂ひさへ薫りあひ、め でたく、極楽思ひやらるる世のさまなり。春宮の御使も参 れり。のたまひしさま思ひ出できこえさせたまふにぞ、御心-

強さもたへがたくて、御返りも聞こえさせやらせたまはねば、 大将ぞ言加へ聞こえたまひける。  誰も誰も、あるかぎり心をさまらぬほどなれば、思すこと どももえうち出でたまはず。   「月のすむ雲ゐをかけてしたふともこのよのやみにな   ほやまどはむ と思ひたまへらるるこそ、かひなく。思し立たせたまへるう らやましさは、限りなう」とばかり聞こえたまひて、人々近 うさぶらへば、さまざま乱るる心の中をだに、え聞こえあら はしたまはず、いぶせし。   「おほかたのうきにつけてはいとへどもいつかこの世   を背きはつべき かつ濁りつつ」など、かたへは御使の心しらひなるべし。あ はれのみ尽きせねば、胸苦しうてまかでたまひぬ。 源氏、藤壺出家後の情勢を思いめぐらす

殿にても、わか御方に独りうち臥したまひ て、御目もあはず、世の中厭はしう思さる るにも、春宮の御事のみぞ心苦しき。 「母- 宮をだに、おほやけ方ざまにと思しおきてしを、世のうさに たへず、かくなりたまひにたれば、もとの御位にてもえおは せじ。我さへ見たてまつり棄てては」など、思し明かすこと 限りなし。今はかかる方ざまの御調度どもをこそは、と思せ ば、年の内にと急がせたまふ。命婦の君も御供になりにけれ ば、それも心深うとぶらひたまふ。詳しう言ひつづけんにこ とごとしきさまなれば、漏らしてけるなめり。さるは、かう やうのをりこそ、をかしき歌など出でくるやうもあれ、さう ざうしや。  参りたまふも、今はつつましさ薄らぎて、御みづから聞こ えたまふをりもありけり。思ひしめてしことは、さらに御心 に離れねど、ましてあるまじきことなりかし。 寂寥たる新年の三条宮に源氏参上する

年もかはりぬれば、内裏わたりはなやかに、 内宴踏歌など聞きたまふも、もののみあは れにて、御行ひしめやかにしたまひつつ、 後の世のことをのみ思すに、頼もしく、むつかしかりしこと 離れて思ほさる。常の御念誦堂をばさるものにて、ことに建 てられたる御堂の西の対の南にあたりて、少し離れたるに渡 らせたまひて、とりわきたる御行ひせさせたまふ。  大将参りたまへり。あらたまるしるしもなく、宮の内のど かに人目まれにて、宮司どもの親しきばかり、うちうなだれ て、見なしにやあらむ、屈しいたげに思へり。白馬ばかりぞ、 なほひきかへぬものにて、女房などの見ける。ところせう参 り集ひたまひし上達部など、道を避きつつひき過ぎて、むか ひの大殿に集ひたまふを、かかるべきことなれど、あはれに 思さるるに、千人にもかへつべき御さまにて、深う尋ね参り たまへるを見るに、あいなく涙ぐまる。

客人も、いとものあはれなるけしきに、うち見まはしたま ひて、とみにものものたまはず。さま変れる御住まひに、御- 簾の端、御几脹も青鈍にて、隙々よりほの見えたる薄鈍、梔- 子の袖口など、なかなかなまめかしう、奥ゆかしう思ひやら れたまふ。解けわたる池の薄氷、岸の柳のけしきばかりは時 を忘れぬなど、さまざまながめられたまひて、 「むべも心 ある」と忍びやかにうち誦じたまへる、またなうなまめかし。    ながめかるあまのすみかと見るからにまづしほたる   る松が浦島 と聞こえたまへば、奥深うもあらず、みな仏に譲りきこえた まへる御座所なれば、すこしけ近き心地して、   ありし世のなごりだになき浦島に立ち寄る浪のめづ   らしきかな とのたまふもほの聞こゆれば、忍ぶれど、涙ほろほろとこぼ れたまひぬ。世を思ひすましたる尼君たちの見るらむも、は

したなければ、言少なにて出でたまひぬ。 「さもたぐひなく ねびまさりたまふかな。心もとなきところなく世に栄え、時 に逢ひたまひし時は、さる一つものにて、何につけてか世を 思し知らむ、と推しはかられたまひしを、今はいといたう思 ししづめて、はかなきことにつけても、ものあはれなる気色 さへ添はせたまへるは、あいなう心苦しうもあるかな」など、 老いしらへる人々、うち泣きつつめできこゆ。宮も思し出づ ること多かり。 藤壺・源氏方への圧迫 左大臣辞任する 司召のころ、この宮の人は賜はるべき官 も得ず、おほかたの道理にても、宮の御た まはりにても、必ずあるべき加階などをだ にせずなどして、嘆くたぐひいと多かり。かくても、いつし かと、御位を去り御封などのとまるべきにもあらぬを、こと つけて変ること多かり。みなかねて思し棄ててし世なれど、 宮人どもも拠りどころなげに悲しと思へる気色どもにつけて

ぞ、御心動くをりをりあれど、わが身をなきになしても春宮 の御世をたひらかにおはしまさばとのみ思しつつ、御行ひた ゆみなく勤めさせたまふ。人知れずあやふくゆゆしう思ひ聞 こえさせたまふことしあれば、我にその罪を軽めてゆるした まへと、仏を念じきこえたまふに、よろづを慰めたまふ。大- 将も、しか見たてまつりたまひて、ことわりに思す。この殿 の人どもも、また同じさまにからき事のみあれば、世の中は したなく思されて籠りおはす。  左大臣も、公私ひきかへたる世のありさまに、ものう く思して、致仕の表たてまつりたまふを、帝は、故院のやむ ごとなく重き御後見と思して、長き世の固めと聞こえおきた まひし御遺言を思しめすに、棄てがたきものに思ひきこえた まへるに、かひなきことと、たびたび用ゐさせたまはねど、 せめてかへさひ申したまひて、籠りゐたまひぬ。今はいとど 一族のみ、かへすがへす栄えたまふこと限りなし。世のおも

しとものしたまへる大臣の、かく世をのがれたまへば、おほ やけも心細う思され、世の人も心あるかぎりは嘆きけり。 源氏、三位中将文事に憂悶の情を慰める 御子どもは、いづれともなく、人柄めやす く世に用ゐられて、心地よげにものしたま ひしを、こよなうしづまりて、三位中将な ども、世を思ひ沈めるさまこよなし。かの四の君をも、な ほかれがれにうち通ひつつ、めざましうもてなされたれば、 心とけたる御婿の中にも入れたまはず。思ひ知れとにや、こ のたびの司召にも漏れぬれど、いとしも思ひ入れず。大将殿 かう静かにておはするに、世ははかなきものと見えぬるを、 ましてことわりと思しなして、常に参り通ひたまひつつ、学- 問をも遊びをももろともにしたまふ。いにしへももの狂ほし きまで、いどみきこえたまひしを思し出でて、かたみに今も はかなき事につけつつ、さすがにいどみたまへり。春秋の御- 読経をばさるものにて、臨時にも、さまざま尊き事どもをせ

させたまひなどして、またいたづらに暇ありげなる博士ども 召し集めて、文作り韻塞などやうのすさびわざどもをもしな ど、心をやりて、宮仕をもをさをさしたまはず。御心にまか せてうち遊びておはするを、世の中には、わづらはしきこと どもやうやう言ひ出づる人々あるべし。  夏の雨のどかに降りて、つれづれなるころ、中将、さるべ き集どもあまた持たせて参りたまへり。殿にも、文殿開けさ せたまひて、まだ開かぬ御廚子どもの、めづらしき古集のゆ ゑなからぬ、すこし選り出でさせたまひて、その道の人々、 わざとはあらねどあまた召したり。殿上人も大学のも、いと 多う集ひて、左右にこまどりに方分かせたまへり。賭け物ど もなど、いと二なくて、いどみあへり。塞ぎもてゆくままに、 難き韻の文字どもいと多くて、おぼえある博士どもなどのま どふ所どころを、時々うちのたまふさま、いとこよなき御才 のほどなり。 「いかでかうしも足らひたまひけん。なほさる

べきにて、よろづのこと、人にすぐれたまへるなりけり」
と めできこゆ。つひに右負けにけり。  二日ばかりありて、中将負態したまへり。ことごとしうは あらで、なまめきたる檜破子ども、賭け物などさまざまにて、 今日も例の人々多く召して文など作らせたまふ。階の底の薔- 薇けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをか しきほどなるに、うちとけ遊びたまふ。中将の御子の、今年 はじめて殿上する、八つ九つばかりにて、声いとおもしろく、 笙の笛吹きなどするを、うつくしびもてあそびたまふ。四の 君腹の二郎なりけり。世の 人の思へる寄せ重くて、お ぼえことにかしづけり。心 ばへもかどかどしう、容貌 もをかしくて、御遊びのす こし乱れゆくほどに、高砂

を出だしてうたふ、いとうつくし。大将の君、御衣ぬぎてか づけたまふ。例よりはうち乱れたまへる御顔のにほひ、似る ものなく見ゆ。羅の直衣単衣を着たまへるに、透きたまへる 肌つき、ましていみじう見ゆるを、年老いたる博士どもなど、 遠く見たてまつりて涙落しつつゐたり。「あはましものをさ ゆりはの」とうたふとぢめに、中将御土器まゐりたまふ。   それもがとけさひらけたる初花におとらぬ君がにほ   ひをぞ見る ほほ笑みて取りたまふ。   「時ならでけさ咲く花は夏の雨にしをれにけらしにほ   ふほどなく おとろへにたるものを」と、うちさうどきて、らうがはしく 聞こしめしなすを、咎め出でつつ強ひきこえたまふ。多かめ りし言どもも、かうやうなるをりのまほならぬこと数々に書 きつくる、心地なきわざとか、貫之が諫め、たうるる方にて、

むつかしければとどめつ。みなこの御事をほめたるすぢにの み、倭のも唐のも作りつづけたり。わが御心地にもいたう思 しおごりて、 「文王の子武王の弟」とうち誦じたまへる、 御名のりさへぞげにめでたき。成王の何とかのたまはむとす らむ。そればかりやまた心もとなからむ。 兵部卿宮も常に渡りたまひつつ、御遊びなどもをかしうお はする宮なれば、今めかしき御あそびどもなり。 源氏、朧月夜と密会 右大臣に発見される そのころ尚侍の君まかでたまへり。瘧病に 久しう悩みたまひて、まじなひなども心や すくせんとてなりけり。修法などはじめて、 おこたりたまひぬれば、誰も誰もうれしう思すに、例のめづ らしき隙なるをと、聞こえかはしたまひて、わりなきさまに て夜な夜な対面したまふ。いと盛りに、にぎははしきけはひ したまへる人の、すこしうち悩みて、痩せ痩せになりたま へるほど、いとをかしげなり。后の宮も一所におはするころ

なれば、けはひいと恐ろしけれど、かかることしもまさる御- 癖なれば、いと忍びて度重なりゆけば、けしき見る人々もあ るべかめれど、わづらはしうて、宮にはさなむと啓せず。大- 臣はた思ひかけたまはぬに、雨にはかにおどろおどろしう降 りて、雷いたう鳴りさわぐ暁に、殿の君達、宮司など立ちさ わぎて、こなたかなたの人目しげく、女房どもも怖ぢまどひ て近う集ひまゐるに、いとわりなく出でたまはん方なくて、 明けはてぬ。御帳のめぐりにも、人々しげく並みゐたれば、 いと胸つぶらはしく思さる。心知りの人二人ばかり、心をま どはす。  雷鳴りやみ、雨すこしをやみぬるほどに、大臣渡りたまひ て、まづ宮の御方におはしけるを、村雨の紛れにて、え知り たまはぬに、軽らかにふと這ひ入りたまひて、御簾引き上げ たまふままに、 「いかにぞ。いとうたてありつる夜の さまに思ひやりきこえながら、参り来でなむ。中将、宮の亮

などさぶらひつや」
など、のたまふけはひの舌疾にあはつけ きを、大将はものの紛れにも、左大臣の御ありさま、ふと思 しくらべられて、たとしへなうぞほほ笑まれたまふ。げに入 りはててものたまへかしな。  尚侍の君いとわびしう思されて、やをらゐざり出でたまふ に、面のいたう赤みたるを、なほ悩ましう思さるるにやと 見たまひて、 「など御気色の例ならぬ。物の怪などのむ つかしきを。修法延べさすべかりけり」とのたまふに、薄二- 藍なる帯の、御衣にまつはれて引き出でられたるを見つけた まひて、あやしと思すに、また畳紙の手習などしたる、御几- 帳のもとに落ちたりけり。これはいかなる物どもぞ、と御心 おどろかれて、 「かれは誰がぞ。けしき異なる物のさま かな。たまへ。それ取りて誰がぞと見はべらむ」とのたまふ にぞ、うち見返りて、我も見つけたまへる。紛らはすべき方 もなければ、いかがは、いらへきこえたまはむ。我にもあら

でおはするを、子ながらも恥づかしと思すらむかし、とさば かりの人は思し憚るべきぞかし。されどいと急に、のどめ たるところおはせぬ大臣の、思しもまはさずなりて、畳紙を 取りたまふままに、几帳より見入れたまへるに、いといたう なよびて、つつましからず添ひ臥したる男もあり。今ぞやを ら顔ひき隠して、とかう紛らはす。あさましう、めざましう 心やましけれど、直面にはいかでかあらはしたまはむ。目も くるる心地すれば、この畳紙を取りて、寝殿に渡りたまひぬ。 尚侍の君は、我かの心地して死ぬべく思さる。大将殿も、い とほしう、つひに用なきふるまひのつもりて、人のもどきを 負はむとすること、と思せど、女君の心苦しき御気色を、と かく慰めきこえたまふ。 大臣の報告を聞き、弘徽殿源氏放逐を画策 大臣は、思ひのままに、籠めたるところお はせぬ本性に、いとど老の御ひがみさへ添 ひたまひにたれば、何ごとにかはとどこほ

りたまはん、ゆくゆくと宮にも愁へきこえたまふ。 「か うかうの事なむはべる。この畳紙は右大将の御手なり。昔も 心ゆるされでありそめにける事なれど、人柄によろづの罪 をゆるして、さても見むと言ひはべりしをりは、心もとどめ ず、めざましげにもてなされにしかば、安からず思ひたまへ しかど、さるべきにこそはとて、世にけがれたりとも思し棄 つまじきを頼みにて、かく本意のごとく奉りながら、なほそ の憚りありて、うけばりたる女御なども言はせはべらぬをだ に、飽かず口惜しう思ひたまふるに、またかかる事さへはべ りければ、さらにいと心うくなむ思ひなりはべりぬる。男の 例とはいひながら、大将もいとけしからぬ御心なりけり。斎- 院をもなほ聞こえ犯しつつ、忍びに御文通はしなどして、け しきあることなど、人の語りはべりしをも、世のためのみに もあらず、わがためもよかるまじきことなれば、よもさる思 ひやりなきわざし出でられじとなむ、時の有幟と天の下をな

びかしたまへるさまことなめれば、大将の御心を疑ひはべら ざりつる」
などのたまふに、宮はいとどしき御心なれば、い とものしき御気色にて、 「帝と聞こゆれど、昔より皆人思 ひおとしきこえて、致仕の大臣も、またなくかしづく一つ女 を、兄の坊にておはするには奉らで、弟の源氏にていときな きが元服の添臥にとりわき、またこの君をも宮仕にと心ざし てはべりしに、をこがましかりしありさまなりしを、誰も誰 もあやしとやは思したりし。みなかの御方にこそ御心寄せは べるめりしを、その本意違ふさまにてこそは、かくてもさぶ らひたまふめれど、いとほしさに、いかでさる方にても、人 に劣らぬさまにもてなしきこえん、さばかりねたげなりし 人の見るところもあり、などこそは思ひはべりつれど、忍び てわが心の入る方に、なびきたまふにこそははべらめ。斎院 の御事はましてさもあらん。何ごとにつけても、朝廷の御方 にうしろやすからず見ゆるは、春宮の御世心寄せことなる人

なればことわりになむあめる」
と、すくすくしうのたまひつ づくるに、さすがにいとほしう、など聞こえつることぞと思 さるれば、 「さはれ、しばしこの事漏らしはべらじ。内- 裏にも奏せさせたまふな。かくのごと罪はべりとも、思し棄 つまじきを頼みにて、あまえてはべるなるべし。内々に制し のたまはむに、聞きはべらずは、その罪に、ただみづから当 りはべらむ」など、聞こえなほしたまへど、ことに御気色も なほらず。 「かく一所におはして隙もなきに、つつむところ なく、さて入りものせらるらむは、ことさらに軽め弄ぜらる るにこそは」と思しなすに、いとどいみじうめざましく、こ のついでに、さるべき事ども構へ出でむに、よき便りなり、 と思しめぐらすべし。 The Orange Blossoms 源氏、五月雨の晴れ間に花散里を訪れる

人知れぬ御心づからのもの思はしさは何時 となきことなめれど、かくおほかたの世に つけてさへわづらはしう、思し乱るること のみまされば、もの心細く、世の中なべて厭はしう思しなら るるに、さすがなること多かり。  麗景殿と聞こえしは、宮たちもおはせず、院崩れさせたま ひて後、いよいよあはれなる御ありさまを、ただこの大将殿 の御心にもて隠されて、過ぐしたまふなるべし。御妹の三の 君、内裏わたりにてはかなうほのめきたまひしなごりの、例 の御心なれば、さすがに忘れもはてたまはず、わざとももて なしたまはぬに、人の御心をのみ尽くしはてたまふべかめる をも、このごろ残ることなく思し乱るる世のあはれのくさは

ひには思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづ らしく晴れたる雲間に渡りたまふ。 源氏、中川の辺で昔の女と歌を贈答する 何ばかりの御よそひなくうちやつして、御- 前などもなく、忍びて中川のほどおはし過 ぐるに、ささやかなる家の木立などよしば めるに、よく鳴る琴をあづまに調べて掻き合はせ賑はしく弾 きなすなり。御耳とまりて、門近なる所なれば、すこしさし 出でて見入れたまへば、大きなる桂の樹の追風に祭のころ思 し出でられて、そこはかとなくけはひをかしきを、ただ一目 見たまひし宿なり、と見たまふ。ただならず。 「ほど経にける。 おぼめかしくや」とつつましけれど、過ぎがてにやすらひた まふ。をりしも郭公鳴きて渡る。催しきこえ顔なれば、御車 おし返させて、例の、惟光入れたまふ。   をち返りえぞ忍ばれぬほととぎすほの語らひし宿の   垣根に

寝殿とおぼしき屋の西のつまに人々ゐたり。さきざきも聞き し声なれば、声づくり気色とりて御消息聞こゆ。若やかなる けしきどもしておぼめくなるべし。   ほととぎす言問ふ声はそれなれどあなおぼつかな五月-   雨の空 ことさらたどる、と見れば、 「よしよし、植ゑし垣根も」 とて出づるを、人知れぬ心にはねたうもあはれにも思ひけり。 さもつつむべきことぞかし、ことわりにもあれば、さすがな り。 「かやうの際に、筑紫の五節がらうたげなりしはや」と まづ思し出づ。いかなるに つけても、御心の暇なく苦 しげなり。年月を経ても、 なほかやうに、見しあたり 情過ぐしたまはぬにしも、 なかなかあまたの人のもの

思ひぐさなり。 源氏、麗景殿女御と昔語りをする かの本意の所は、思しやりつるもしるく、 人目なく静かにておはするありさまを見た まふもいとあはれなり。まづ、女御の御方 にて、昔の御物語など聞こえたまふに、夜更けにけり。二十- 日の月さし出づるほどに、いとど木高き影ども木暗く見えわ たりて、近き橘のかをりなつかしく匂ひて、女御の御けはひ、 ねびにたれど、飽くまで用意あり、あてにらうたげなり。す ぐれてはなやかなる御おぼえこそなかりしかど、睦ましうな つかしき方には思したりしものを、など思ひ出できこえたま ふにつけても、昔のことかき連ね思されて、うち泣きたまふ。  郭公、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。慕ひ来に けるよ、と思さるるほども艶なりかし。 「いかに知りてか」 など忍びやかにうち誦じたまふ。   「橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねて

ぞとふ いにしへの忘れがたき慰めにはなほ参りはべりぬべかりけり。 こよなうこそ紛るることも、数そふこともはべりけれ。おほ かたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人少なう なりゆくを、ましてつれづれも紛れなく思さるらん」
と聞こ えたまふに、いとさらなる世なれど、ものをいとあはれに思 しつづけたる御気色の浅からぬも、人の御さまからにや、多 くあはれぞ添ひにける。   人目なく荒れたる宿はたちばなの花こそ軒のつまと   なりけれ とばかりのたまへる、さはいへど人にはいとことなりけり、 と思しくらべらる。 西面に花散里を訪れ、なつかしく語らう 西面には、わざとなく忍びやかにうちふる まひたまひてのぞきたまへるも、めづらし きに添へて、世に目馴れぬ御さまなれば、

つらさも忘れぬべし。何やかやと、例の、なつかしく語らひ たまふも、思さぬことにあらざるべし。仮にも、見たまふ かぎりは、おし並べての際にはあらず、さまざまにつけて、 言ふかひなしと思さるるはなければにや、憎げなく、我も人 も情をかはしつつ過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと 思ふ人は、とにかくに変るもことわりの世の性、と思ひなし たまふ。ありつる垣根も、さやうにてありさま変りにたるあ たりなりけり。 Suma 源氏、須磨に退去を決意 人々と訣別する

世の中いとわづらはしく、はしたなきこと のみまされば、せめて知らず顔にあり経て も、これよりまさることもやと思しなりぬ。  かの須磨は、昔こそ人の住み処などもありけれ、今はいと 里ばなれ心すごくて、海人の家だにまれになど聞きたまへど、 人しげく、ひたたけたらむ住まひは、いと本意なかるべし、 さりとて、都を遠ざからんも、古里おぼつかなかるべきを、 人わるくぞ思し乱るる。  よろづの事、来し方行く末思ひつづけたまふに、悲しきこ といとさまざまなり。うきものと思ひ棄てつる世も、今はと 住み離れなんことを思すには、いと棄てがたきこと多かる中 にも、姫君の明け暮れにそへては思ひ嘆きたまへるさまの心-

苦しうあはれなるを、行きめぐりてもまたあひ見むことを必 ずと思さむにてだに、なほ一二日のほど、よそよそに明かし 暮らすをりをりだに、おぼつかなきものにおぼえ、女君も心- 細うのみ思ひたまへるを、幾年そのほどと限りある道にもあ らず、逢ふを限りに隔たり行かんも、定めなき世に、やがて 別るべき門出にもやといみじうおぼえたまへば、忍びてもろ ともにもやと思し寄るをりあれど、さる心細からん海づらの 波風よりほかに立ちまじる人もなからんに、かくらうたき御 さまにてひき具したまへらむもいとつきなく、わが心にもな かなかもの思ひのつまなるべきをなど思し返すを、女君は、 「いみじからむ道にも、おくれきこえずだにあらば」とおも むけて、恨めしげにおぼいたり。  かの花散里にも、おはし通ふことこそまれなれ、心細くあ はれなる御ありさまを、この御蔭に隠れてものしたまへば、 思し嘆きたるさまも、いとことわりなり。なほざりにてもほ

のかに見たてまつり通ひたまひし所どころ、人知れぬ心をく だきたまふ人ぞ多かりける。  入道の宮よりも、ものの聞こえやまたいかがとりなされむ と、わが御ためつつましけれど、忍びつつ御とぶらひ常にあ り。昔かやうにあひ思し、あはれをも見せたまはましかばと、 うち思ひ出でたまふに、さもさまざまに心をのみ尽くすべか りける人の御契りかなと、つらく思ひきこえたまふ。  三月二十日あまりのほどになむ、都離れたまひける。人に、 いまとしも知らせたまはず、ただいと近う仕うまつり馴れた るかぎり、七八人ばかり御供にて、いとかすかに出で立ちた まふ。さるべき所どころに、御文ばかり、うち忍びたまひし にも、あはれとしのばるばかり尽くいたまへるは、見どころ もありぬべかりしかど、そのをりの心地のまぎれに、はかば かしうも聞きおかずなりにけり。 左大臣邸を訪れて人々と別れを惜しむ

二三日かねて、夜に隠れて大殿に渡りたま へり。網代車のうちやつれたるにて、女- 車のやうにて隠ろへ入りたまふも、いとあ はれに、夢とのみ見ゆ。御方いとさびしげにうち荒れたる心- 地して、若君の御乳母ども、昔さぶらひし人の中に、まかで 散らぬかぎり、かく渡りたまへるをめづらしがりきこえて、 参う上り集ひて、見たてまつるにつけても、ことにもの深か らぬ若き人々さへ、世の常なさ思ひ知られて、涙にくれたり。 若君はいとうつくしうて、ざれ走りおはしたり。 「久しき ほどに忘れぬこそあはれなれ」とて、膝に据ゑたまへる御気- 色、忍びがたげなり。  大臣こなたに渡りたまひて、対面したまへり。 「つれ づれに籠らせたまへらむほど、何とはべらぬ昔物語も、参り 来て聞こえさせむと思うたまふれど、身の病重きにより、朝- 廷にも仕うまつらず、位をも返したてまつりてはべるに、

私ざまには腰のべてなむと、ものの聞こえひがひがしかる べきを、今は世の中憚るべき身にもはべらねど、いちはやき 世のいと恐ろしうはべるなり。かかる御事を見たまふるにつ けて、命長きは心うく思うたまへらるる世の末にもはべるか な。天の下をさかさまになしても、思うたまへ寄らざりし御 ありさまを見たまふれば、よろづいとあぢきなくなん」
と聞 こえたまひて、いたうしほたれたまふ。   「とあることもかかることも、前の世の報いにこそはべ るなれば、言ひもてゆけば、ただみづからのおこたりになむ はべる。さしてかく官爵をとられず、浅はかなることにかか づらひてだに、公のかしこまりなる人の、うつしざまにて世 の中にあり経るは、咎重きわざに、外国にもしはべるなるを、 遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなるは、さまことな る罪に当るべきにこそはべるなれ。濁りなき心にまかせてつ れなく過ぐしはべらむも、いと憚り多く、これより大きなる

恥にのぞまぬさきに世をのがれなむと思うたまへ立ちぬる」
など、こまやかに聞こえたまふ。昔の御物語、院の御事、思 しのたまはせし御心ばへなど聞こえ出でたまひて、御直衣の 袖もえ引きはなちたまはぬに、君もえ心強くもてなしたまは ず。若君の何心なく紛れ歩きて、これかれに馴れきこえたま ふを、いみじとおぼいたり。 「過ぎはべりにし人を、世 に思うたまへ忘るる世なくのみ、今に悲しびはべるを、この 御事になむ、もしはべる世ならましかば、いかやうに思ひ嘆 きはべらまし、よくぞ短くて、かかる夢を見ずなりにけると、 思ひたまへ慰めはべり。幼くものしたまふが、かく齢過ぎぬ る中にとまりたまひて、なづさひきこえぬ月日や隔たりたま はむと、思ひたまふるをなむ、よろづの事よりも、悲しうは べる。いにしへの人も、まことに犯しあるにてしも、かかる 事に当らざりけり。なほさるべきにて、他の朝廷にもかかる たぐひ多うはべりけり。されど、言ひ出づるふしありてこそ、

さる事もはべりけれ。とざまかうざまに思ひたまへ寄らむ方 なくなむ」
など、多くの御物語聞こえたまふ。三位中将も参 りあひたまひて、大御酒など参りたまふに、夜更けぬれば、 とまりたまひて、人々御前にさぶらはせたまひて、物語など せさせたまふ。人よりはこよなう忍び思す中納言の君、いへ ばえに悲しう思へるさまを、人知れずあはれと思す。人みな 静まりぬるに、とりわきて語らひたまふ。これによりとまり たまへるなるべし。明けぬれば、夜深う出でたまふに、有明 の月いとをかし。花の木どもやうやう盛り過ぎて、わづかな る木蔭のいと白き庭に、薄く霧 りわたりたる、そこはかとなく 霞みあひて、秋の夜のあはれに 多くたちまされり。隅の高欄に おしかかりて、とばかりながめ たまふ。中納言の君見たてまつ

り送らむとにや、妻戸押し開けてゐたり。 「また対面あら むことこそ、思へばいと難けれ。かかりける世を知らで、心 やすくもありぬべかりし月ごろ、さしも急がで隔てしよ」な どのたまへば、ものも聞こえず泣く。  若君の御乳母の宰相の君して、宮の御前より、御消息聞こ えたまへり。 「みづからも聞こえまほしきを、かきくらす 乱り心地ためらひはべるほどに、いと夜深う出でさせたまふ なるも、さま変りたる心地のみしはべるかな。心苦しき人の いぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまはで」と聞こえ たまへれば、うち泣きたまひて、    鳥辺山もえし煙もまがふやと海人の塩やく浦見にぞ   行く 御返りともなくうち誦じたまひて、 「暁の別れは、かうの みや心づくしなる。思ひ知りたまへる人もあらむかし」との たまへば、 「いつとなく、別れといふ文字こそうたてはべ

るなる中にも、今朝はなほたぐひあるまじう思うたまへらる るほどかな」
と鼻声にて、げに浅からず思へり。 「聞こえさせまほしきことも、かへすがへす思うたまへ ながら、ただにむすぼほれはべるほど、推しはからせたまへ。 いぎたなき人は、見たまへむにつけても、なかなかうき世の がれ難う思うたまへられぬべければ、心強う思ひたまへなし て、急ぎまかではべり」と聞こえたまふ。  出でたまふほどを、人々のぞきて見たてまつる。入方の月 いと明かきに、いとどなまめかしうきよらにて、ものをおぼ いたるさま、虎狼だに泣きぬべし。ましていはけなくおは せしほどより見たてまつりそめてし人々なれば、たとしへな き御ありさまをいみじと思ふ。まことや、御返り、    亡き人の別れやいとど隔たらむけぶりとなりし雲ゐ   ならでは とり添へてあはれのみ尽きせず、出でたまひぬるなごり、ゆ

ゆしきまで泣きあへり。 源氏、二条院で紫の上と嘆きをかわす 殿におはしたれば、わが御方の人々も、ま どろまざりけるけしきにて、所どころに群 れゐて、あさましとのみ世を思へるけしき なり。侍所には、親しう仕うまつるかぎりは、御供に参るべ き心まうけして、私の別れ惜しむほどにや、人目もなし。さ らぬ人は、とぶらひ参るも重き咎めあり、わづらはしきこと まされば、所せく集ひし馬車の形もなくさびしきに、世はう きものなりけり、と思し知らる。台盤などもかたへは塵ばみ て、畳所どころひき返したり。見るほどだにかかり、まして いかに荒れゆかんと思す。  西の対に渡りたまへれば、御格子も参らでながめ明かした まひければ、簀子などに、若き童べ所どころに臥して、今ぞ 起き騒ぐ。宿直姿どもをかしうてゐるを見たまふにも心細 う、年月経ば、かかる人々も、えしもありはてでや行き散ら

むなど、さしもあるまじきことさへ御目のみとまりけり。 「昨夜はしかじかして夜更けにしかばなん。例の思はずな るさまにや思しなしつる。かくてはべるほどだに御目離れず と思ふを、かく世を離るる際には、心苦しきことのおのづか ら多かりけるを、ひたや籠りにてやは。常なき世に、人にも 情なきものと、心おかれはてんと、いとほしうてなむ」と聞 こえたまへば、 「かかる世を見るより外に、思はずなる 事は、何ごとにか」とばかりのたまひて、いみじと思し入れ たるさま、人よりことなるを、ことわりぞかし。父親王はい とおろかに、もとより思しつきにけるに、まして世の聞こえ をわづらはしがりて、訪れきこえたまはず、御とぶらひにだ に、渡りたまはぬを、人の見るらむことも恥づかしく、なか なか知られたてまつらでやみなましを、継母の北の方などの、 「にはかなりし幸ひのあわたたしさ。あなゆゆしや。思ふ人、 かたがたにつけて別れたまふ人かな」とのたまひけるを、さ

るたよりありて漏り聞きたまふにも、いみじう心憂ければ、 これよりも絶えて訪れきこえたまはず。また頼もしき人もな く、げにぞあはれなる御ありさまなる。 「なほ世に赦されがたうて年月を経ば、巌の中にも迎へ たてまつらむ。ただ今は、人聞きのいとつきなかるべきなり。 朝廷にかしこまりきこゆる人は、明かなる月日の影をだに見 ず、安らかに身をふるまふことも、いと罪重かなり。過ちな けれど、さるべきにこそかかる事もあらめと思ふに、まして 思ふ人具するは、例なきことなるを、ひたおもむきにもの狂 ほしき世にて、立ちまさる事もありなん」など聞こえ知らせ たまふ。日たくるまで大殿籠れり。  帥宮、三位中将などおはしたり。対面したまはむとて、御- 直衣など奉る。 「位なき人は」とて、無紋の直衣、なかな かいとなつかしきを着たまひてうちやつれたまへる、いと めでたし。御鬢かきたまふとて、鏡台に寄りたまへるに、面-

痩せたまへる影の、我ながらいとあてにきよらなれば、 「こよなうこそおとろへにけれ。この影のやうにや痩せて はべる。あはれなるわざかな」とのたまへば、女君、涙を一- 目浮けて見おこせたまへる、いと忍びがたし。   身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡の影   は離れじ と聞こえたまへば、   別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐ   さめてまし 柱隠れにゐ隠れて、涙を紛らはしたまへるさま、なほここら 見る中にたぐひなかりけりと、思し知らるる人の御ありさま なり。  親王は、あはれなる御物語聞こえたまひて、暮るるほどに 帰りたまひぬ。 源氏、花散里を訪れて懐旧の情をかわす

花散里の心細げに思して、常に聞こえたま ふもことわりにて、かの人もいま一たび見 ずはつらしとや思はんと思せば、その夜は また出でたまふものから、いとものうくて、いたう更かして おはしたれば、女御、 「かく数まへたまひて、立ち寄らせた まへること」と、よろこび聞こえたまふさま、書きつづけむ もうるさし。いといみじう心細き御ありさま、ただこの御蔭 に隠れて過ぐいたまへる年月、いとど荒れまさらむほど思し やられて、殿の内いとかすかなり。月おぼろにさし出でて、 池広く山木深きわたり、心細げに見ゆるにも、住み離れたら む巌の中思しやらる。  西面は、かうしも渡りたまはずやと、うち屈して思しける に、あはれ添へたる月影の、なまめかしうしめやかなるに、 うちふるまひたまへるにほひ、似るものなくて、いと忍びや かに入りたまへば、すこしゐざり出でて、やがて月を見てお

はす。またここに御物語のほどに、明け方近うなりにけり。 「短夜のほどや。かばかりの対面もまたはえしもやと思ふ こそ。事なしにて過ぐしつる年ごろも悔しう、来し方行く先 の例になるべき身にて、何となく心のどまる世なくこそあり けれ」と、過ぎにし方の事どものたまひて、鶏もしばしば鳴 けば、世につつみて急ぎ出でたまふ。例の、月の入りはつる ほど、よそへられて、あはれなり。女君の濃き御衣に映りて、 げに、濡るる顔なれば、    月影のやどれる袖はせばくともとめても見ばやあ   かぬ光を いみじとおぼいたるが心苦しければ、かつは慰めきこえたま ふ。    「行きめぐりつひにすむべき月影のしばし曇らむ空な   ながめそ 思へばはかなしや。ただ、知らぬ涙のみこそ、心をくらすも

のなれ」
などのたまひて、明けぐれのほどに出でたまひぬ。 旅立ちの準備 邸内所領の処置をきめる よろづの事どもしたためさせたまふ。親し う仕うまつり、世になびかぬかぎりの人々、 殿の事とり行ふべき上下定めおかせたまふ。 御供に慕ひきこゆるかぎりは、また選り出でたまへり。  かの山里の御住み処の具は、え避らずとり使ひたまふべき ものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき書ど も、文集など入りたる箱、さては琴一つぞ持たせたまふ。と ころせき御調度、華やかなる御よそひなどさらに具したまは ず、あやしの山がつめきてもてなしたまふ。さぶらふ人々よ りはじめ、よろづのこと、みな西の対に聞こえわたしたまふ。 領じたまふ御庄、御牧よりはじめて、さるべき所どころの券 など、みな奉りおきたまふ。それよりほかの御倉町、納殿な どいふことまで、少納言をはかばかしきものに見おきたまへ れば、親しき家司ども具して、知ろしめすべきさまどものた

まひ預く。  わが御方の中務、中将などやうの人々、つれなき御もてな しながら、見たてまつるほどこそ慰めつれ、何ごとにつけて かと思へども、 「命ありてこの世にまた帰るやうもあらむ を、待ちつけむと思はむ人は、こなたにさぶらへ」とのたま ひて、上下みな参う上らせたまふ。  若君の御乳母たち、花散里などにも、をかしきさまのはさ るものにて、まめまめしき筋に思し寄らぬことなし。 源氏、朧月夜と忍んで消息をかわす 尚侍の御もとに、わりなくして聞こえた まふ。 「とはせたまはぬもことわりに思 ひたまへながら、今はと世を思ひはつるほ どのうさもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。  逢ふ瀬なきなみだの川に沈みしや流るるみをのはじめな   りけむ と思ひたまへ出づるのみなむ、罪のがれがたうはべりける」

道のほどもあやふければ、こまかには聞こえたまはず。女い といみじうおぼえたまひて、忍びたまへど、御袖よりあまる もところせうなん。   涙川うかぶみなわも消えぬべし流れてのちの瀬をも   またずて 泣く泣く乱れ書きたまへる御手いとをかしげなり。いま一た び対面なくてやと思すは、なほ口惜しけれど、思し返して、 うしと思しなすゆかり多うて、おぼろけならず忍びたまへば、 いとあながちにも聞こえたまはずなりぬ。 藤壺の宮へ参上 次いで故院の山陵を拝む 明日とての暮には、院の御墓拝みたてまつ りたまふとて、北山へ参うでたまふ。暁か けて月出づるころなれば、まづ入道の宮に 参うでたまふ。近き御簾の前に御座まゐりて、御みづから聞 こえさせたまふ。春宮の御ことを、いみじううしろめたき ものに思ひきこえたまふ。かたみに心深きどちの御物語は、

よろづあはれまさりけんかし。  なつかしうめでたき御けはひの昔に変らぬに、つらかりし 御心ばへもかすめ聞こえさせまほしけれど、今さらにうたて と思さるべし。わが御心にも、なかなかいま一きは乱れまさ りぬべければ、念じ返して、ただ、 「かく思ひかけぬ罪に 当りはべるも、思うたまへあはすることの一ふしになむ、空 も恐ろしうはべる。惜しげなき身は亡きになしても、宮の御- 世にだに事なくおはしまさば」とのみ聞こえたまふぞことわ りなるや。宮も、みな思し知らるる事にしあれば、御心のみ 動きて聞こえやりたまはず。大将、よろづのことかき集め、 思しつづけて泣きたまへる 気色いと尽きせずなまめき たり。 「御山に参りはべ るを、御言づてや」と聞こ えたまふに、とみにものも

聞こえたまはず、わりなくためらひたまふ御気色なり。   見しはなくあるは悲しき世のはてを背きしかひもな   くなくぞ経る いみじき御心まどひどもに、思しあつむることどもも、えぞ つづけさせたまはぬ。   別れしに悲しきことは尽きにしをまたぞこの世のう   さはまされる  月待ちいでて出でたまふ。御供にただ五六人ばかり、下人 も睦ましきかぎりして、御馬にてぞおはする。さらなること なれど、ありし世の御歩きに異なり。みないと悲しう思ふ。 中に、かの御禊の日仮の御随身にて仕うまつりし右近将監の 蔵人、得べき冠もほど過ぎつるを、つひに御簡削られ、官も とられてはしたなければ、御供に参る中なり。賀茂の下の御- 社を、かれと見わたすほど、ふと思ひ出でられて、下りて御- 馬の口を取る。

ひき連れて葵かざししそのかみを思へばつらし賀茂   のみづがき といふを、げにいかに思ふらむ、人よりけに華やかなりしも のを、と思すも心苦し。君も御馬より下りたまひて、御社の 方拝みたまふ。神に罷申ししたまふ。    うき世をば今ぞ別るるとどまらむ名をばただすの神   にまかせて とのたまふさま、ものめでする若き人にて、身にしみてあは れにめでたしと見たてまつる。  御山に参うでたまひて、おはしましし御ありさま、ただ目 の前のやうに思し出でらる。限りなきにても、世に亡くなり ぬる人ぞ、言はむ方なく口惜しきわざなりける。よろづのこ とを泣く泣く申したまひても、そのことわりをあらはにえ 承りたまはねば、さばかり思しのたまはせしさまざまの御- 遺言は、いづちか消え失せにけん、と言ふかひなし。御墓は、

道の草しげくなりて、分け入りたまふほどいとど露けきに、 月も雲隠れて、森の木立木深く心すごし。帰り出でん方もな き心地して、拝みたまふに、ありし御面影さやかに見えたま へる、そぞろ寒きほどなり。   なきかげやいかが見るらむよそへつつながむる月も 雲がくれぬる 東宮方の女房ら、源氏の悲運を嘆く 明けはつるほどに帰りたまひて、春宮にも 御消息聞こえたまふ。王命婦を御かはりに てさぶらはせたまへば、その局にとて、 「今日なん都離れはべる。また参りはべらずなりぬるなん、 あまたの愁へにまさりて思うたまへられはべる。よろづ推し はかりて啓したまへ。   いつかまた春のみやこの花を見ん時うしなへる山がつに   して」 桜の散りすぎたる枝につけたまへり。「かくなむ」と御覧ぜ

さすれば、幼き御心地にも、まめだちておはします。 「御- 返りいかがものしはべらむ」と啓すれば、 「しばし見ぬだ に恋しきものを、遠くはましていかに、と言へかし」とのた まはす。ものはかなの御返りやと、あはれに見たてまつる。 あぢきなき事に御心をくだきたまひし昔のこと、をりをりの 御ありさま、思ひつづけらるるにも、もの思ひなくて我も人 も過ぐいたまひつべかりける世を、心と思し嘆きけるを、悔 しう、わが心ひとつにかからむことのやうにぞおぼゆる。 御返りは、 「さらに聞こえさせやりはべらず。御前には啓 しはべりぬ。心細げに思しめしたる御気色もいみじくなむ」 と、そこはかとなく、心の乱れけるなるべし。   「咲きてとく散るはうけれどゆく春は花の都を立ちか   へりみよ 時しあらば」と聞こえて、なごりもあはれなる物語をしつつ、 一宮の内忍びて泣きあへり。一目も見たてまつれる人は、

かく思しくづほれぬる御ありさまを、嘆き惜しみきこえぬ人 なし。まして常に参り馴れたりしは、知りおよびたまふまじ き長女、御厠人まで、ありがたき御かへりみの下なりつるを、 しばしにても見たてまつらぬほどや経むと、思ひ嘆きけり。  おほかたの世の人も、誰かはよろしく思ひきこえん。七つ になりたまひしこのかた、帝の御前に夜昼さぶらひたまひて、 奏したまふことのならぬはなかりしかば、この御いたはりに かからぬ人なく、御徳を喜ばぬやはありし。やむごとなき上- 達部弁官などの中にも多かり。それより下は数知らぬを、 思ひ知らぬにはあらねど、さしあたりて、いちはやき世を思 ひ憚りて、参り寄るもなし。世ゆすりて惜しみきこえ、下に は朝廷をそしり恨みたてまつれど、身を棄ててとぶらひ参ら むにも、何のかひかはと思ふにや。かかるをりは、人わろく、 恨めしき人多く、世の中はあぢきなきものかなとのみ、よろ づにつけて思す。 源氏、紫の上とも別れて須磨の浦へ行く

その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮 らしたまひて、例の夜深く出でたまふ。狩 の御衣など、旅の御よそひいたくやつした まひて、 「月出でにけりな。なほすこし出でて見だに送り たまへかし。いかに聞こゆべきこと多くつもりにけりとおぼ えむとすらん。 一二日たまさかに隔つるをりだに、あやしう いぶせき心地するものを」とて、御簾捲き上げて、端にいざ なひきこえたまへば、女君泣き沈みたまへる、ためらひてゐ ざり出でたまへる、月影に、いみじうをかしげにてゐたまへ り。わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさ すらへたまはむと、うしろめたく悲しけれど、思し入りたる に、いとどしかるべければ、   「生ける世の別れを知らで契りつつ命を人にかぎりけ   るかな はかなし」など、浅はかに聞こえなしたまへば、

惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめ   てしかな げにさぞ思さるらむ、といと見捨てがたけれど、明けはてな ばはしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。  道すがら面影につとそひて、胸も塞がりながら、御舟に乗 りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへそひて、まだ申の 刻ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。かりそめの道にても、 かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづ らかなり。大江殿と言ひける所は、いたう荒れて、松ばかり ぞしるしなる。   唐国に名を残しける人よりも行く方しられぬ家ゐを   やせむ 渚に寄る波のかつ返るを見たまひて、 「うらやましくも」と うち誦じたまへるさま、さる世の古事なれど、めづらしう聞 きなされ、悲しとのみ、御供の人々思へり。うちかへりみた

まへるに、来し方の山は霞遥かにて、まことに三千里の外の 心地するに、擢の雫もたへがたし。   ふる里を峰の霞はへだつれどながむる空はおなじ雲   ゐか つらからぬものなくなむ。 須磨の住まいの有様 都の人々へ文を送る おはすべき所は、行平の中納言の、藻塩た れつつわびける家ゐ近きわたりなりけり。 海づらはやや入りて、あはれにすごげなる 山中なり。垣のさまよりはじめてめづらかに見たまふ。茅屋 ども、葦ふける廊めく屋など、をかしうしつらひなしたり。 所につけたる御住まひ、やう変りて、かかるをりならずは、 をかしうもありなましと、昔の御心のすさび思し出づ。近き 所どころの御庄の司召して、さるべき事どもなど、良清朝 臣、親しき家司にて、仰せ行ふもあはれなり。時の間に、い と見どころありてしなさせたまふ。水深う遣りなし、植木ど

もなどして、今はと静まりたまふ心地現ならず。国守も親し き殿人なれば、忍びて心寄せ仕うまつる。かかる旅所ともな う、人騒がしけれども、はかばかしうものをものたまひあは すべき人しなければ、知らぬ国の心地して、いと埋れいたく、 いかで年月を過ぐさましと思しやらる。  やうやう事静まりゆくに、長雨のころになりて、京のこと も思しやらるるに、恋しき人多く、女君の思したりしさま、 春宮の御こと、若君の何心もなく紛れたまひしなどをはじめ、 ここかしこ思ひやりきこえたまふ。  京へ人出だしたてたまふ。二条院へ奉りたまふと、入道の 宮のとは、書きもやりたまはず、くらされたまへり。宮には、    「松島のあまの苫屋もいかならむ須磨の浦人しほたる   るころ いつとはべらぬ中にも、来し方行く先かきくらし、汀まさり てなん」

尚侍の御もとに、例の中納言の君の私事のやうにて、 中なるに、 「つれづれと、過ぎにし方の思ひたまへ出でら るるにつけても、   こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼くあまやいかが   思はん」 さまざま書き尽くしたまふ言の葉、思ひやるべし。  大殿にも、宰相の乳母にも、仕うまつるべきことなど書き つかはす。 紫の上、源氏をしのんで嘆き悲しむ 京には、この御文、所どころに見たまひつ つ、御心乱れたまふ人々のみ多かり。二条- 院の君は、そのままに起きも上りたまはず、 尽きせぬさまに思しこがるれば、さぶらふ人々もこしらへ わびつつ、心細う思ひあへり。もてならしたまひし御調度 ども、弾きならしたまひし御琴、ぬぎ捨てたまひつる御衣 の匂ひなどにつけても、今はと世に亡からむ人のやうにのみ

思したれば、かつはゆゆしうて、少納言は、 僧都に御祈祷のことなど聞こゆ。二方に御- 修法などせさせたまふ。かつは思し嘆く御- 心しづめたまひて、思ひなき世にあらせた てまつりたまへ、と心苦しきままに祈り申 したまふ。旅の御宿直物など調じて奉りた まふ。謙*の御直衣指貫、さま変りたる心地 するもいみじきに、 「去らぬ鏡」とのたまひ し面影の、げに身に添ひたまへるもかひなし。出で入りたま ひし方、寄りゐたまひし真木柱などを見たまふにも、胸のみ 塞がりて、ものをとかう思ひめぐらし、世にしほじみぬる齢 の人だにあり、まして馴れ睦びきこえ、父母にもなりて生ほ し立てならはしたまへれば、恋しう思ひきこえたまへる、こ とわりなり。ひたすら世に亡くなりなむは言はむ方なくて、 やうやう忘れ草も生ひやすらん、聞くほどは近けれど、いつ

までと限りある御別れにもあらで、思すに尽きせずなむ。 藤壺・朧月夜・紫の上それぞれ返書 入道の宮にも、春宮の御ことにより、思し 嘆くさまいとさらなり。御宿世のほどを思 すには、いかが浅く思されん。年ごろは、 ただものの聞こえなどのつつましさに、すこし情ある気色見 せば、それにつけて人のとがめ出づることもこそとのみ、ひ とへに思し忍びつつ、あはれをも多う御覧じすぐし、すくす くしうもてなしたまひしを、かばかりうき世の人言なれど、 かけてもこの方には言ひ出づることなくてやみぬるばかりの 人の御おもむけも、あながちなりし心の引く方にまかせず、 かつはめやすくもて隠しつるぞかし。あはれに恋しうもいか が思し出でざらむ。御返りもすこしこまやかにて、 「この ごろはいとど、   しほたるることをやくにて松島に年ふるあまも嘆きをぞ   つむ」

尚侍の君の御返りには、   「浦にたくあまだにつつむ恋なればくゆる煙よ行く方   ぞなき さらなる事どもはえなむ」とばかり、いささかにて、中納言 の君の中にあり。思し嘆くさまなど、いみじう言ひたり。あ はれと思ひきこえたまふふしぶしもあれば、うち泣かれたま ひぬ。  姫君の御文は、心ことにこまかなりし御返りなれば、あは れなること多くて、    浦人のしほくむ袖にくらべみよ波路へだつる夜の   ころもを 物の色、したまへるさまなど、いときよらなり。  何ごともらうらうじうものしたまふを、思ふさまにて、今 は他事に心あわたたしう行きかかづらふ方もなく、しめやか にてあるべきものをと思すに、いみじう口惜しう、夜昼面影

におぼえて、たへがたう思ひ出でられたまへば、なほ忍びて や迎へましと思す。またうち返し、なぞや、かく、うき世に 罪をだに失はむと思せば、やがて御精進にて、明け暮れ行ひ ておはす。大殿の若君の御ことなどあるにも、いと悲しけれ ど、おのづからあひ見てん、頼もしき人々ものしたまへば、 うしろめたうはあらずと思しなさるるは、なかなかこの道の まどはれぬにやあらむ。 六条御息所と文通 花散里への配慮 まことや、騒がしかりしほどの紛れに漏ら してけり。かの伊勢の宮へも御使ありけり。 かれよりもふりはへたづね参れり。浅から ぬことども書きたまへり。言の葉、筆づかひなどは、人より ことになまめかしく、いたり深う見えたり。 「なほ現と は思ひたまへられぬ御住まひを承るも、明けぬ夜の心まどひ かとなん。さりとも、年月は隔てたまはじと、思ひやりきこ えさするにも、罪深き身のみこそ、また聞こえさせむことも

はるかなるべけれ。   うきめ刈る伊勢をの海人を思ひやれもしほたるてふ須磨   の浦にて よろづに思ひたまへ乱るる世のありさまも、なほいかになり はつべきにか」
と多かり。   伊勢島や潮干の潟にあさりてもいふかひなきはわ   が身なりけり ものをあはれと思しけるままに、うち置きうち置き書きたま へる、白き唐の紙四五枚ばかりをまき続けて、墨つきなど見 どころあり。  あはれに思ひきこえし人を、一ふしうしと思ひきこえし心 あやまりに、かの御息所も思ひうむじて別れたまひにしと思 せば、今にいとほしうかたじけなきものに思ひきこえたまふ。 をりからの御文、いとあはれなれば、御使さへ睦ましうて、 二三日据ゑさせたまひて、かしこの物語などせさせて聞こし

めす。若やかに、けしきあるさぶらひの人なりけり。かくあ はれなる御住まひなれば、かやうの人も、おのづからもの遠 からでほの見たてまつる御さま容貌を、いみじうめでたし と涙落しをりけり。 御返り書きたまふ。言の葉思ひやるべし。 「かく世を離 るべき身と、思ひたまへましかば、おなじくは慕ひきこえま しものをなどなむ。つれづれと心細きままに、 伊勢人の波の上こぐ小舟にもうきめは刈らで乗らましも のを 海人がつむ嘆きの中にしほたれていつまで須磨の浦にな がめむ 聞こえさせむことの、何時ともはべらぬこそ、尽きせぬ心地 しはべれ」などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつか なからず聞こえかはしたまふ。 花散里も、悲しと思しけるままに、かき集めたまへる御心

ごころ見たまふ。をかしきも、目馴れぬ心地して、いづれも うち見つつ慰めたまへど、もの思ひのもよほしぐさなめり。   荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露の   かかる袖かな とあるを、げに葎よりほかの後見もなきさまにておはすらん、 と思しやりて、長雨に築地所どころ崩れてなむと聞きたまへ ば、京の家司のもとに仰せつかはして、近き国々の御庄の者 など催させて、仕うまつるべきよしのたまはす。 朧月夜、帝の寵を受けつつ源氏を慕う 尚侍の君は、人わらへにいみじう思しくづ ほるるを、大臣いとかなしうしたまふ君に て、切に宮にも内裏にも奏したまひければ、 限りある女御御息所にもおはせず、公ざまの宮仕と思しなほ り、またかの憎かりしゆゑこそ、厳しきことも出で来しか、 赦されたまひて、参りたまふべきにつけても、なほ心にしみ にし方ぞあはれにおぼえたまひける。

七月になりて参りたまふ。いみじかりし御思ひのなごりな れば、人のそしりも知ろしめされず、例の上につとさぶらは せたまひて、よろづに怨み、かつはあはれに契らせたまふ。 御さま容貌もいとなまめかしうきよらなれど、思ひ出づる ことのみ多かる心の中ぞかたじけなき。御遊びのついでに、 「その人のなきこそいとさうざうしけれ。いかにましてさ 思ふ人多からむ。何ごとも光なき心地するかな」とのたまは せて、 「院の思しのたまはせし御心を違へつるかな。罪得 らむかし」とて、涙ぐませたまふに、え念じたまはず。 「世 の中こそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、と思ひ 知るままに、久しく世にあらむものとなむさらに思はぬ。さ もなりなむに、いかが思さるべき。近きほどの別れに、思ひ おとされんこそねたけれ。生ける世にとは、げによからぬ人 の言ひおきけむ」と、いとなつかしき御さまにて、ものをま ことにあはれと思し入りてのたまはするにつけて、ほろほろ

とこぼれ出づれば、 「さりや。いづれに落つるにか」との たまはす。 「今まで御子たちのなきこそさうざうしけれ。 春宮を院ののたまはせしさまに思へど、よからぬ事ども出で 来めれば、心苦しう」など、世を御心の外にまつりごちなし たまふ人々のあるに、若き御心の強きところなきほどにて、 いとほしと思したることも多かり。 須磨の秋、源氏憂愁の日々を過ごす 須磨には、いとど心づくしの秋風に、海は すこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き 越ゆると言ひけん浦波、夜々はげにいと近 く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なり けり。  御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、独り目をさ まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただこ こもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに枕浮くば かりになりにけり。琴をすこし掻き鳴らしたまへるが、我な

がらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、   恋ひわびてなく音にまかふ浦波は思ふかたより風や   吹くらん とうたひたまへるに人々おどろきて、めでたうおぼゆるに忍 ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。 げにいかに思ふらむ、わが身ひとつにより、親兄弟、片時た ち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かくま どひあへると思すに、いみじくて、いとかく思ひ沈むさまを 心細しと思ふらむと思せば、昼は何くれと戯れ言うちのたま ひ紛らはし、つれづれなるままに、いろいろの紙を継ぎつつ、 手習をしたまひ、めづらしきさまなる唐の綾などに、さまざま の絵どもを書きすさびたまへる、屏風の面どもなど、いとめ でたく見どころあり。人々の語りきこえし海山のありさまを、 はるかに思しやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のた たずまひ、二なく書き集めたまへり。 「このごろの上手に

すめる千枝、常則などを召 して、作り絵仕うまつらせ ばや」
と、心もとながりあ へり。なつかしうめでたき 御さまに、世のもの思ひ忘 れて、近う馴れ仕うまつる をうれしきことにて、四五人ばかりぞつとさぶらひける。  前栽の花いろいろ咲き乱れ、おもしろき夕暮に、海見やら るる廊に出でたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうき よらなること、所がらはましてこの世のものと見えたまはず。 白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやか なる御直衣、帯しどけなくうち乱れたまへる御さまにて、 「釈迦牟尼仏弟子」と名のりて、ゆるるかに誦みたまへる、 また世に知らず聞こゆ。沖より舟どものうたひののしりて漕 ぎ行くなども聞こゆ。ほのかに、ただ小さき鳥の浮べると見や

らるるも、心細げなるに、雁の連ねて鳴く声楫の音にまがへ るを、うちながめたまひて、涙のこぼるるをかき払ひたまへ る御手つき黒き御数珠に映えたまへる、古里の女恋しき人々、 心みな慰みにけり。   初雁は恋しき人のつらなれやたびのそらとぶ声の悲   しき とのたまへば、良清、    かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はその世のともならね   ども 民部大輔、    心から常世をすててなく雁をくものよそにもおもひける   かな 前右近将監、    「常世いでてたびのそらなるかりがねも列におくれぬほ   どぞなぐさむ

友まどはしては、いかにはべらまし」
と言ふ。親の常陸にな りて下りしにも誘はれで、参れるなりけり。下には思ひくだ くべかめれど、誇りかにもてなして、つれなきさまにしあ りく。  月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけ り、と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、所どころながめた まふらむかしと、思ひやりたまふにつけても、月の顔のみま もられたまふ。 「二千里外故人心」と誦じたまへる、例の涙 もとどめられず。入道の宮の、 「霧やへだつる」とのたまは せしほどいはむ方なく恋しく、をりをりの事思ひ出でたまふ に、よよと泣かれたまふ。 「夜更けはべりぬ」と聞こゆれど、 なほ入りたまはず。    見るほどぞしばしなぐさむめぐりあはん月の都は遥   かなれども  その夜、上のいとなつかしう昔物語などしたまひし御さま

の、院に似たてまつりたまへりしも、恋しく思ひ出できこえ たまひて、 「恩賜の御衣は今此に在り」と誦じつつ入りたま ひぬ。御衣はまことに身をはなたず、傍に置きたまへり。   うしとのみひとへにものはおもほえでひだりみぎに  もぬるる袖かな 大宰大弐、上京の途次、源氏を見舞う そのころ大弐は上りける。いかめしく類ひ ろく、むすめがちにてところせかりければ、 北の方は舟にて上る。浦づたひに逍遥しつ つ来るに、外よりもおもしろきわたりなれば、心とまるに、 大将かくておはすと聞けば、あいなう、すいたる若きむすめ たちは、舟の中さへ恥づかしう、心げさうせらる。まして五- 節の君は、綱手ひき過ぐるも口惜しきに、琴の声風につきて 遥かに聞こゆるに、所のさま、人の御ほど、物の音の心細さ とり集め、心あるかぎりみな泣きにけり。帥、御消息聞こえ たり。 「いと遥かなるほどよりまかり上りては、まづいつし

かさぶらひて、都の御物語もとこそ思ひたまへはべりつれ、 思ひの外にかくておはしましける御宿を、まかり過ぎはべる、 かたじけなう悲しうもはべるかな。あひ知りてはべる人々、 さるべきこれかれまで、来向ひてあまたはべれば、ところせ さを思ひたまへ憚りはべる事どもはべりて、えさぶらはぬこ と。ことさらに参りはべらむ」
など聞こえたり。子の筑前守 ぞ参れる。この殿の蔵人になしかへりみたまひし人なれば、 いとも悲し、いみじと思へども、また見る人々のあれば、聞 こえを思ひて、しばしもえ立ちとまらず。 「都離れて後、 昔親しかりし人々あひ見ること難うのみなりにたるに、かく わざと立ち寄りものしたること」とのたまふ。御返りもさや うになむ。守泣く泣く帰りて、おはする御ありさま語る。帥 よりはじめ、迎への人々、まがまがしう泣き満ちたり。五節 は、とかくして聞こえたり。    「琴の音にひきとめらるる綱手繩たゆたふ心君しるら

  めや すきずきしさも、人な咎めそ」
と聞こえたり。ほほ笑みて見 たまふ。いと恥づかしげなり。    「心ありてひきての綱のたゆたはばうち過ぎましや須-   磨の浦波 いさりせむとは思はざりしはや」とあり。駅の長にくしとら する人もありけるを、ましておちとまりぬべくなむおぼえ ける。 弘徽殿の意向を憚る人々と二条院の状況 都には、月日過ぐるままに、帝をはじめた てまつりて、恋ひきこゆるをりふし多かり。 春宮はまして常に思し出でつつ、忍びて泣 きたまふ、見たてまつる御乳母、まして命婦の君は、いみじ うあはれに見たてまつる。  入道の宮は、春宮の御ことをゆゆしうのみ思ししに、大将 もかくさすらへたまひぬるを、いみじう思し嘆かる。御兄弟

の皇子たち、睦ましう聞こえたまひし上達部など、初めつ 方はとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなる文を作り かはし、それにつけても、世の中にのみめでられたまへば、 后の宮聞こしめしていみじうのたまひけり。 「朝廷の勘事 なる人は、心にまかせてこの世のあぢはひをだに知ること難 うこそあなれ、おもしろき家ゐして、世の中を譏りもどきて、 かの鹿を馬と言ひけむ人のひがめるやうに追従する」など、 あしきことども聞こえければ、わづらはしとて、絶えて消息 聞こえたまふ人なし。  二条院の姫君は、ほど経るままに思し慰むをりなし。東の 対にさぶらひし人々も、みな渡り参りしはじめは、などかさ しもあらむと思ひしかど、見たてまつり馴るるままに、なつ かしうをかしき御ありさま、まめやかなる御心ばへも、思ひ やり深うあはれなれば、まかで散るもなし。なべてならぬ際 の人々には、ほの見えなどしたまふ。そこらの中に、すぐれ

たる御心ざしもことわりなりけりと、見たてまつる。 須磨の源氏流究*の思いに嘆きわびる かの御住まひには、久しくなるままに、え 念じ過ぐすまじうおぼえたまへど、わが身 だにあさましき宿世とおぼゆる住まひに、 いかでかはうち具しては、つきなからむさまを思ひ返したま ふ。所につけて、よろづのことさま変り、見たまへ知らぬ下- 人の上をも、見たまひならはぬ御心地に、めざましう、かた じけなうみづから思さる。煙のいと近く時々立ち来るを、こ れや海人の塩焼くならむと思しわたるは、おはします背後の 山に、柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、    山がつのいほりに焚けるしばしばもこと問ひ来なん   恋ふる里人  冬になりて雪降り荒れたるころ、空のけしきもことにすご くながめたまひて、琴を弾きすさびたまひて、良清に歌うた はせ、大輔横笛吹きて遊びたまふ。心とどめてあはれなる手

など弾きたまへるに、こと物の声どもはやめて、涙を拭ひあ へり。昔胡の国に遣はしけむ女を思しやりて、ましていかな りけん、この世にわが思ひきこゆる人などをさやうに放ちや りたらむことなど思ふも、あらむ事のやうにゆゆしうて、 「霜の後の夢」と誦じたまふ。月いと明かうさし入りて、は かなき旅の御座所は奥まで隈なし。床の上に、夜深き空も見 ゆ。入り方の月影すごく見ゆるに、 「ただ是れ西に行くな り」と、独りごちたまて、   いづかたの雲路にわれもまよひなむ月の見るらむこ   ともはづかし と独りごちたまひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いと あはれに鳴く。   友千鳥もろ声に鳴くあかつきはひとり寝ざめの床も   たのもし また起きたる人もなければ、かへすがへす独りごちて臥した

まへり。夜深く御手水参り、御念誦などしたまふも、めづら しき事のやうに、めでたうのみおぼえたまへば、え見たてま つり棄てず、家にあからさまにもえ出でざりけり。 明石の入道わが娘を源氏に奉ることを思う 明石の浦は、ただ這ひ渡るほどなれば、良 清朝臣、かの入道のむすめを思ひ出でて文 などやりけれど、返り事もせず。父の入- 道ぞ、<入道> 「聞こゆべきことなむ。あからさまに対面もがな」と 言ひけれど、承け引かざらむものゆゑ、行きかかりて、空し く帰らむ後手もをこなるべし、と屈じいたうて行かず。  世に知らず心高く思へるに、国の内は、守のゆかりのみこ そは、かしこきことにすめれど、ひがめる心はさらにさも思 はで年月を経けるに、この君かくておはすと聞きて、母君に 語らふやう、 「桐壼更衣の御腹の、源氏の光る君こそ、朝- 廷の御かしこまりにて、須磨の浦にものしたまふなれ。吾 子の御宿世にて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるつ

いでに、この君に奉らむ」
といふ。母、 「あなかたはや。京 の人の語るを聞けば、やむごとなき御妻ども、いと多く持ち たまひて、そのあまり、忍び忍び帝の御妻をさへ過ちたまひ て、かくも騒がれたまふなる人は、まさにかくあやしき山が つを、心とどめたまひてむや」と言ふ。腹立ちて、 「え知 りたまはじ。思ふ心ことなり。さる心をしたまへ。ついで して、ここにもおはしまさせむ」と、心をやりて言ふも、か たくなしく見ゆ。まばゆきまでしつらひ、かしづきけり。母 君、 「などか、めでたくとも、ものの初めに、罪に当りて流 されておはしたらむ人をしも思ひかけむ。さても、心をとど めたまふべくはこそあらめ、戯れにてもあるまじきことな り」と言ふを、いといたくつぶやく。 「罪に当ることは、 唐土にもわが朝廷にも、かく世にすぐれ、何ごとも人にこと になりぬる人の必ずあることなり。いかにものしたまふ君ぞ。 故母御息所は、おのがをぢにものしたまひし按察大納言のむ

すめなり。いと警策なる名をとりて、宮仕に出だしたまへり しに、国王すぐれて時めかしたまふこと並びなかりけるほど に、人のそねみ重くて亡せたまひにしかど、この君のとまり たまへる、いとめでたしかし。女は心高くつかふべきものな り。おのれ、かかる田舎人なりとて、思し捨てじ」
など言ひ ゐたり。  このむすめすぐれたる容貌ならねど、なつかしうあてはか に、心ばせあるさまなどぞ、げにやむごとなき人に劣るまじ かりける。身のありさまを、口惜しきものに思ひ知りて、高 き人は我を何の数にも思さじ、ほどにつけたる世をばさらに 見じ、命長くて、思ふ人々におくれなば、尼にもなりなむ、 海の底にも入りなむなどぞ思ひける。父君、ところせく思ひ かしづきて、年に二たび住吉に詣でさせけり。神の御しるし をぞ、人知れず頼み思ひける。 春めぐりくる須磨に、宰相中将訪問する

須磨には、年かへりて日長くつれづれなる に、植ゑし若木の桜ほのかに咲きそめて、 空のけしきうららかなるに、よろづのこと 思し出でられて、うち泣きたまふをり多かり。二月二十日あ まり、去にし年、京を別れし時、心苦しかりし人々の御あり さまなどいと恋しく、南殿の桜盛りになりぬらん、一年の花 の宴に、院の御気色、内裏の上のいときよらになまめいて、 わが作れる句を誦じたまひしも、思ひ出できこえたまふ。   いつとなく大宮人の恋しきに桜かざししけふも来に   けり  いとつれづれなるに、大殿の三位中将は、今は宰相になり て、人柄のいとよければ、時世のおぼえ重くてものしたまへ ど、世の中あはれにあぢきなく、もののをりごとに恋しくお ぼえたまへば、事の聞こえありて罪に当るともいかがはせむ と思しなして、にはかに参うでたまふ。うち見るより、めづ

らしううれしきにも、ひとつ涙ぞこぼれける。  住まひたまへるさま、言はむ方なく唐めいたり。所のさま 絵にかきたらむやうなるに、竹編める垣しわたして、石の階、 松の柱、おろそかなるものから、めづらかにをかし。山がつ めきて、聴色の黄がちなるに、青鈍の狩衣指貫、うちやつれ て、ことさらに田舎びもてなしたまへるしも、いみじう見る に笑まれてきよらなり。取り使ひたまへる調度も、かりそめ にしなして、御座所もあらはに見入れらる。碁双六の盤、調- 度、弾某*の具など、田舎わざにしなして、念誦の具、行ひ勤 めたまひけりと見えたり。物参れるなど、ことさら所につけ、 興ありてしなしたり。海人ども 漁りして、貝つ物持て参れるを、 召し出でて御覧ず。浦に年経る さまなど問はせたまふに、さま ざま安げなき身の愁へを申す。

そこはかとなくさへづるも、心の行く方は同じこと、何かこ となると、あはれに見たまふ。御衣どもなどかづけさせたま ふを、生けるかひありと思へり。御馬ども近う立てて、見や りなる倉か何ぞなる稲取り出でて飼ふなど、めづらしう見た まふ。飛鳥井すこしうたひて、月ごろの御物語、泣きみ笑ひ み、
「若君の何とも世を思さでものしたまふ悲しさを、 大臣の明け暮れにつけて思し嘆く」など語りたまふに、たへ がたく思したり。尽きすべくもあらねば、なかなか片はしも えまねばず。夜もすがらまどろまず、文作りあかしたまふ。 さ言ひながらも、ものの聞こえをつつみて、急ぎ帰りたまふ。 いとなかなかなり。御土器まゐりて、 「酔ひの悲しび涙灑く 春の盃の裏」ともろ声に誦じたまふ。御供の人も涙をながす。 おのがじしはつかなる別れ惜しむべかめり。  朝ぼらけの空に、雁連れて渡る。主の君、   ふる里をいづれの春か行きて見んうらやましきは帰

るかりがね
宰相さらに立ち出でん心地せで、   あかなくに雁の常世を立ち別れ花のみやこに道やま   どはむ さるべき都のつとなど、よしあるさまにてあり。主の君、 かくかたじけなき御送りにとて、黒駒奉りたまふ。 「ゆゆ しう思されぬべけれど、風に当りては、嘶えぬべければな む」と申したまふ。世にありがたげなる御馬のさまなり。 「形見に忍びたまへ」とて、いみじき笛の名ありけるなど ばかり、人咎めつべきことは、かたみにえしたまはず。日や うやうさしあがりて、心あわたたしければ、かへりみのみし つつ出でたまふを、見送りたまふ気色、いとなかなかなり。 「いつまた対面たまはらんとすらん。さりともかくてや は」と申したまふに、主、    「雲ちかく飛びかふ鶴もそらに見よわれは春日のくも

りなき身ぞ かつは頼まれながら、かくなりぬる人は、昔の賢き人だに、 はかばかしう世にまたまじらふこと難くはべりければ、何か。 都のさかひをまた見んとなむ思ひはべらぬ」
などのたまふ。 宰相、   「たづがなき雲ゐにひとりねをぞ泣くつばさ並べし友   を恋ひつつ かたじけなく馴れきこえはべりて、いとしも、と悔しう思ひ たまへらるるをり多く」など、しめやかにもあらで帰りたま ひぬるなごり、いとど悲しうながめ暮らしたまふ。 三月上巳の祓の比、暴風雨に襲われる 弥生の朔日に出で来たる巳の日、「今日な む、かく思すことある人は、禊したまふべ き」と、なまさかしき人の聞こゆれば、海 づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかり を引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓せさ

せたまふ。舟にことごとしき人形のせて流すを見たまふに、 よそへられて、   知らざりし大海の原に流れきてひとかたにやはもの   は悲しき とて、ゐたまへる御さま、さる晴に出でて、言ふよしなく見 えたまふ。海の面うらうらとなぎわたりて、行く方もしらぬ に、来し方行く先思しつづけられて、   八百よろづ神もあはれと思ふらむ犯せる罪のそれと   なければ とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかきくれぬ。御- 祓もしはてず、立ち騒ぎたり。肘笠雨とか降りきて、いとあ わたたしければ、みな帰りたまはむとするに、笠も取りあへ ず。さる心もなきに、よろづ吹き散らし、またなき風なり。 浪いといかめしう立ちきて、人々の足をそらなり。海の面は、 衾を張りたらむやうに光り満ちて、雷鳴りひらめく。落ちか

かる心地して、からうじてたどりきて、 「かかる目は、見 ずもあるかな」 「風などは、吹くも、気色づきてこそあれ。 あさましうめづらかなり」とまどふに、なほやまず鳴りみち て、雨の脚、あたる所徹りぬべく、はらめき落つ。かくて世 は尽きぬるにやと、心細く思ひまどふに、君はのどやかに経 うち誦じておはす。暮れぬれば、雷すこし鳴りやみて、風ぞ 夜も吹く。 「多く立てつる願の力なるべし」 「いましばし かくあらば、浪に引かれて入りぬべかりけり」 「高潮といふ ものになむ、とりあへず人損はるるとは聞けど、いとかかる ことは、まだ知らず」と言ひあへり。暁方みなうち休みたり。 君もいささか寝入りたまへれば、そのさまとも見えぬ人来て、 「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」とて、たどり歩 くと見るに、おどろきて、さは海の中の龍王の、いといたう ものめでするものにて、見入れたるなりけりと思すに、いと ものむつかしう、この住まひたへがたく思しなりぬ。 Akashi 風雨やまず京より紫の上の使者来る

なほ雨風やまず、雷鳴り静まらで、日ごろ になりぬ。いとどものわびしきこと数知ら ず、来し方行く先悲しき御ありさまに、心 強うしもえ思しなさず、 「いかにせまし、かかりとて都に帰 らんことも、まだ世に赦されもなくては、人笑はれなること こそまさらめ。なほこれより深き山をもとめてや跡絶えなま し」と思すにも、 「浪風に騒がれてなど、人の言ひ伝へんこ と、後の世まで、いと軽々しき名をや流しはてん」と思し乱 る。御夢にも、ただ同じさまなる物のみ来つつ、まつはしき こゆと見たまふ。雲間もなくて明け暮るる日数にそへて、京 の方もいとどおぼつかなく、かくながら身をはふらかしつる にやと、心細う思せど、頭さし出づべくもあらぬ空の乱れに、

出で立ち参る人もなし。  二条院よりぞ、あながちに、あやしき姿にてそぼち参れる。 道交ひにてだに、人か何ぞとだに御覧じわくべくもあらず、 まづ追ひ払ひつべき賤の男の、睦ましうあはれに思さるるも、 我ながらかたじけなく、屈しにける心のほど思ひ知らる。御- 文に、 「あさましく小止みなきころのけしきに、いとど空 さへ閉づる心地して、ながめやる方なくなむ。   浦風やいかに吹くらむ思ひやる袖うちぬらし波間なきこ   ろ」 あはれに悲しきことども書き集めたまへり。ひき開くるより、 いとど汀まさりぬべく、かきくらす心地したまふ。 「京にも、この雨風、いとあやしき物のさとしなりとて、 仁王会など行はるべしとなむ聞こえはべりし。内裏に参り たまふ上達部なども、すべて道閉ぢて、政も絶えてなむは べる」など、はかばかしうもあらず、かたくなしう語りなせ

ど、京の方のことと思せば、いぶかしうて、御前に召し出で て問はせたまふ。 「ただ、例の、雨の小止みなく降りて、風 は時々吹き出でつつ、日ごろになりはべるを、例ならぬ事に 驚きはべるなり。いとかく地の底徹るばかりの氷降り、雷 の静まらぬことははべらざりき」など、いみじきさまに驚き 怖ぢてをる顔の、いとからきにも心細さぞまさりける。 暴風雨つのり、高潮襲来、廊屋に落雷する かくしつつ世は尽きぬべきにやと思さるる に、そのまたの日の暁より風いみじう吹き、 潮高う満ちて、浪の音荒きこと、巌も山も 残るまじきけしきなり。雷の鴫りひらめくさまさらに言はむ 方なくて、落ちかかりぬとおぼゆるに、あるかぎりさかしき 人なし。 「我はいかなる罪を犯してかく悲しき目を見るら む。父母にもあひ見ず、かなしき妻子の顔をも見で死ぬべき こと」と嘆く。君は御心を静めて、何ばかりの過ちにてかこ の渚に命をばきはめん、と強う思しなせど、いともの騒がし

ければ、いろいろ の幣帛捧げさせた まひて、 「住吉 の神、近き境を鎮 め護りたまふ。ま ことに迹を垂れたまふ神ならば助けたまへ」と、多くの大願 を立てたまふ。おのおのみづからの命をばさるものにて、か かる御身のまたなき例に沈みたまひぬべきことのいみじう悲 しきに、心を起こして、少しものおぼゆるかぎりは、身に代 へてこの御身ひとつを救ひたてまつらむととよみて、もろ声 に仏神を念じたてまつる。 「帝王の深き宮に養はれたまひ て、いろいろの楽しみに驕りたまひしかど、深き御うつくし み、大八洲にあまねく、沈める輩をこそ多く浮かべたまひし か。今何の報いにか、ここら横さまなる浪風にはおぼほれた まはむ。天地ことわりたまへ。罪なくて罪に当り、官位をと

られ、家を離れ、境を去りて、明け暮れやすき空なく嘆きた まふに、かく悲しき目をさへ見、命尽きなんとするは、前の 世の報いか、この世の犯しか、神仏明らかにましまさば、 この愁へやすめたまへ」
と、御社の方に向きてさまざまの願 を立てたまふ。また海の中の龍王、よろづの神たちに願を立 てさせたまふに、いよいよ鳴りとどろきて、おはしますにつ づきたる廊に落ちかかりぬ。炎燃えあがりて廊は焼けぬ。心- 魂なくて、あるかぎりまどふ。背後の方なる大炊殿と思し き屋に移したてまつりて、上下となく立ちこみて、いとらう がはしく、泣きとよむ声雷にもおとらず。空は墨をすりた るやうにて日も碁れにけり。 風雨静まる源氏、夢に父桐壺院を見る やうやう風なほり、雨の脚しめり、星の光 も見ゆるに、この御座所のいとめづらかな るも、いとかたじけなくて、寝殿に返し移 したてまつらむとするに、 「焼け残りたる方もうとましげ

に、そこらの人の踏みとどろかしまどへるに、御簾などもみ な吹き散らしてけり」
「夜を明かしてこそは」と、たどり あへるに、君は御念誦したまひて、思しめぐらすに、いと心 あわたたし。月さし出でて、潮の近く満ち来ける跡もあらは に、なごりなほ寄せかへる浪荒きを、柴の戸おし開けてなが めおはします。近き世界に、ものの心を知り、来し方行く先 のことうちおぼえ、とやかくやとはかばかしう悟る人もなし。 あやしき海人どもなどの、貴き人おはする所とて、集まり参 りて、聞きも知りたまはぬことどもをさへづりあへるも、い とめづらかなれど、え追ひも払はず。 「この風いましばし 止まざらましかば、潮上りて残る所なからまし。神の助けお ろかならざりけり」と言ふを聞きたまふも、いと心細しと言 へばおろかなり。   海にます神のたすけにかからずは潮のやほあひにさ  すらへなまし

終日にいりもみつる雷の騒ぎに、さこそいへ、いたう困じた まひにければ、心にもあらずうちまどろみたまふ。かたじけ なき御座所なれば、ただ寄りゐたまへるに、故院ただおはし まししさまながら立ちたまひて、 「などかくあやしき所に はものするぞ」とて、御手を取りて引き立てたまふ。 「住吉の 神の導きたまふままに、はや舟出してこの浦を去りね」との たまはす。いとうれしくて、 「かしこき御影に別れたてま つりにしこなた、さまざま悲しき事のみ多くはべれば、今は この渚に身をや棄てはべりなまし」と聞こえたまへば、 「い とあるまじきこと。これはただいささかなる物の報いなり。 我は位に在りし時、過つことなかりしかど、おのづから犯し ありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世をかへり みざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るに、たへがたくて、 海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに 内裏に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上りぬる」とて、立

ち去りたまひぬ。  飽かず悲しくて、御供に参りなんと泣き入りたまひて、見- 上げたまへれば、人もなく、月の顔のみきらきらとして、夢 の心地もせず、御けはひとまれる心地して、空の雲あはれに たなびけり。年ごろ夢の中にも見たてまつらで、恋しうおぼ つかなき御さまを、ほのかなれど、さだかに見たてまつりつ るのみ面影におぼえたまひて、我かく悲しびをきはめ、命尽 きなんとしつるを、助けに翔りたまへるとあはれに思すに、 よくぞかかる騒ぎもありけると、なごり頼もしう、うれしう おぼえたまふこと限りなし。胸つと塞がりて、なかなかなる 御心まどひに、現の悲しき事もうち忘れ、夢にも御答へをい ますこし聞こえずなりぬることと、いぶせさに、またや見え たまふと、ことさらに寝入りたまへど、さらに御目もあはで、 暁方になりにけり。 入道に迎えられ、明石の浦に移る

渚に小さやかなる舟寄せて、人二三人ばか り、この旅の御宿をさして来。何人なら むと問へば、 「明石の浦より、前の守新- 発意の、御舟よそひて参れるなり。源少納言さぶらひたまは ば、対面して事の心とり申さん」と言ふ。良清驚きて、 「入- 道はかの国の得意にて、年ごろあひ語らひはべれど、私にい ささかあひ恨むる事はべりて、ことなる消息をだに通はさで、 久しうなりはべりぬるを、浪のまぎれに、いかなることかあ らむ」とおぼめく。君の、御夢なども思しあはすることもあ りて、 「はや会へ」とのたまへば、舟に行きて会ひたり。 さばかりはげしかりつる浪風に、いつの間にか舟出しつらむ と、心えがたく思へり。   「去ぬる朔日の夢に、さまことなる物の告げ知らする ことはべりしかば、信じがたきことと思うたまへしかど、『十- 三日にあらたなるしるし見せむ。舟よそひ設けて、必ず、雨-

風止まばこの浦にを寄せよ』と、かねて示すことのはべりし かば、こころみに舟のよそひを設けて待ちはべりしに、いか めしき雨風、雷のおどろかしはべりつれば、他の朝廷にも、 夢を信じて国を助くるたぐひ多うはべりけるを、用ゐさせた まはぬまでも、このいましめの日を過ぐさず、このよしを告 げ申しはべらんとて、舟出だしはべりつるに、あやしき風細 う吹きて、この浦に着きはべること、まことに神のしるべ違 はずなん。ここにも、もし知ろしめすことやはべりつらんと てなむ。いと憚り多くはべれど、このよし申したまへ」
と 言ふ。  良清しのびやかに伝へ申す。君思しまはすに、夢現さまざ ま静かならず、さとしのやうなる事どもを、来し方行く末思 しあはせて、 「世の人の聞き伝へん後のそしりも安からざる べきを憚りて、まことの神の助けにもあらむを、背くものな らば、またこれよりまさりて、人笑はれなる目をや見む。現

の人の心だになほ苦し。はかなき事をもつつみて、我より齢 まさり、もしは位高く、時世の寄せいま一きはまさる人には、 靡き従ひて、その心むけをたどるべきものなりけり。退きて 咎なしとこそ、昔のさかしき人も言ひおきけれ、げにかく命 をきはめ、世にまたなき目の限りを見尽くしつ。さらに後の あとの名をはぶくとても、たけきこともあらじ。夢の中にも 父帝の御教へありつれば、また何ごとか疑はむ」
と思して、 御返りのたまふ。   「知らぬ世界に、めづらしき愁への限り見つれど、都の 方よりとて、言問ひおこする人もなし。ただ行く方なき空の 月日の光ばかりを、古里の友とながめはべるに、うれしき釣- 舟をなむ。かの浦に静やかに隠ろふべき隈はべりなんや」と のたまふ。限りなくよろこび、かしこまり申す。 「ともあ れかくもあれ、夜の明けはてぬさきに御舟に奉れ」とて、例 の親しきかぎり四五人ばかりして奉りぬ。例の風出で来て、

飛ぶやうに明石に着きたまひぬ。ただ這ひ渡るほどに、片時 の間と言へど、なほあやしきまで見ゆる風の心なり。 入道の住まいの風情、都に劣らず 浜のさま、げにいと心ことなり。人しげう 見ゆるのみなむ、御願ひに背きける。入道 の領じ占めたる所どころ、海のつらにも山- 隠れにも、時々につけて、興をさかすべき渚の苫屋、行ひを して後の世のことを思ひすましつべき山水のつらに、いかめ しき堂を立てて三昧を行ひ、この世の設けに、秋の田の実を 刈り収め残りの齢積むべき稲の倉町どもなど、をりをり所に つけたる見どころありてしあつめたり。高潮に怖ぢて、この ごろ、むすめなどは岡辺の宿に移して住ませければ、この浜 の館に心やすくおはします。  舟より御車に奉り移るほど、日やうやうさし上りて、ほの かに見たてまつるより、老忘れ齢のぶる心地して、笑みさか えて、まづ住吉の神をかつがつ拝みたてまつる。月日の光を

手に得たてまつりたる心地して、営み仕うまつることことわ りなり。所のさまをばさらにもいはず、作りなしたる心ばへ、 木立立石前栽などのありさま、えもいはぬ入江の水など、 絵にかかば、心のいたり少なからん絵師は描き及ぶまじと見 ゆ。月ごろの御住まひよりは、こよなく明らかに、なつかし き御しつらひなどえならずして、住まひけるさまなど、げに 都のやむごとなき所どころに異ならず、艶にまばゆきさまは、 まさりざまにぞ見ゆる。 紫の上へ消息を送る 源氏の心なごむ すこし御心静まりては、京の御文ども聞こ えたまふ。参れりし使は、今は、 「いみ じき道に出で立ちて悲しき目をみる」と泣 き沈みて、あの須磨にとまりたるを、召して、身にあまれる 物ども多く賜ひて遣はす。睦ましき御祈祷の師ども、さるべ き所どころには、このほどの御ありさま、くはしく言ひ遣は すべし。入道の宮ばかりには、めづらかにて蘇るさまなど聞

こえたまふ。二条院のあはれなりしほどの御返りは、書きも やりたまはず、うち置きうち置きおし拭ひつつ聞こえたまふ 御気色、なほことなり。   「かへすがへすいみじき目の限りを見尽くしはてつるあ りさまなれば、今はと世を思ひ離るる心のみまさりはべれど、 『鏡を見ても』とのたまひし面影の離るる世なきを、かくお ぼつかなながらや、とここら悲しきさまざまの愁はしさはさ しおかれて、   はるかにも思ひやるかな知らざりし浦よりをちに浦づた   ひして 夢の中なる心地のみして、覚めはてぬほど、いかにひが言多 からむ」と、げにそこはかとなく書き乱りたまへるしもぞ、 いと見まほしき側目なるを、いとこよなき御心ざしのほど、 と人々見たてまつる。おのおの、古里に、心細げなる言伝て すべかめり。小止みなかりし空のけしき、なごりなく澄みわ

たりて、あさりする海人どもほこらしげなり。須磨はいと心- 細く、海人の岩屋もまれなりしを、人しげき厭ひはしたまひ しかど、ここは、また、さまことにあはれなること多くて、 よろづに思し慰まる。 明石の入道の人柄とその思惑 明石の入道、行ひ勤めたるさま、いみじう 思ひすましたるを、ただこのむすめ一人を もてわづらひたるけしき、いとかたはらい たきまで、時々もらし愁へ聞こゆ。御心地にもをかしと聞き おきたまひし人なれば、かくおぼえなくてめぐりおはしたる も、さるべき契りあるにやと思しなから、なほかう身を沈め たるほどは、行ひよりほかの事は思はじ、都の人も、ただな るよりは、言ひしに違ふと思さむも心恥づかしう思さるれば、 気色だちたまふことなし。事にふれて、心ばせありさまなべ てならずもありけるかなと、ゆかしう思されぬにしもあらず。  ここにはかしこまりて、みづからもをさをさ参らず、もの

隔たりたる下の屋にさぶらふ。さるは明け暮れ見たてまつら まほしう、飽かず思ひきこえて、いかで思ふ心をかなへむ、 と仏神をいよいよ念じたてまつる。年は六十ばかりになりた れど、いときよげに、あらまほしう、行ひさらぼひて、人の ほどのあてはかなればにやあらむ、うちひがみほれぼれしき ことはあれど、古昔のことをも見知りて、ものきたなからず、 よしづきたる事もまじれれば、昔物語などせさせて聞きたま ふに、すこしつれづれの紛れなり。年ごろ公私御暇なく て、さしも聞きおきたまはぬ世の古事どもくづし出でて、か かる所をも人をも、見ざらましかばさうざうしくやとまで、 興ありと思すこともまじる。  かうは馴れきこゆれど、いと気高う心恥づかしき御ありさ まに、さこそ言ひしか、つつましうなりて、わが思ふことは 心のままにもえうち出で聞こえぬを、心もとなう口惜しと、 母君と言ひあはせて嘆く。正身は、おしなべての人だにめや

すきは見えぬ世界に、世にはかかる人もおはしけりと見たて まつりしにつけて、身のほど知られて、いとはるかにぞ思ひ きこえける。親たちのかく思ひあつかふを聞くにも、似げな きことかな、と思ふに、ただなるよりはものあはれなり。 初夏の月夜源氏、琴を弾き入道と語る 四月になりぬ。更衣の御装束、御帳の帷子 など、よしあるさまにしいづ。よろづに仕 うまつり営むを、いとほしうすずろなりと 思せど、人ざまのあくまで思ひあがりたるさまのあてなるに、 思しゆるして見たまふ。  京よりも、うちしきりたる御とぶらひども、たゆみなく多 かり。のどやかなる夕月夜に、海の上曇りなく見えわたれる も、住み馴れたまひし古里の池水に、思ひまがへられたまふ に、言はむ方なく恋しきこと、いづ方となく行く方なき心地 したまひて、ただ目の前に見やらるるは、淡路島なりけり。 「あはとはるかに」などのたまひて、

あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄め   る夜の月 久しう手ふれたまはぬ琴を、袋より取り出でたまひて、はか なく掻き鳴らしたまへる御さまを、見たてまつる人もやすか らずあはれに悲しう思ひあへり。  広陵といふ手をあるかぎり弾き澄ましたまへるに、かの 岡辺の家も、松の響き波の音にあひて、心ばせある若人は身 にしみて思ふべかめり。何とも聞きわくまじきこのもかのも のしはふる人どもも、すずろはしくて浜風をひき歩く。入道 もえたへで、供養法たゆみて急ぎ参れり。 「さらに、背きにし世の中もとり返し思ひ出でぬべくは べり。後の世に頼ひはべる所のありさまも、思うたまへやら るる夜のさまかな」と、泣く泣くめできこゆ。わか御心にも、 をりをりの御遊び、その人かの人の琴笛、もしは声の出でし さま、時々につけて、世にめでられたまひしありさま、帝よ

りはじめたてまつりて、もてかしづきあがめたてまつりたま ひしを、人の上もわか御身のありさまも、思し出でられて、 夢の心地したまふままに、掻き鳴らしたまへる声も、心すご く聞こゆ。ふる人は涙もとどめあへず、岡辺に琵琶箏の琴 取りにやりて、入道、琵琶の法師になりて、いとをかしうめ づらしき手一つ二つ弾き出でたり。箏の御琴参りたれば、す こし弾きたまふも、さまざまいみじうのみ思ひきこえたり。 いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものな るを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかな か、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂 れる蔭どもなまめかしきに、水鶏のうちたたきたるは、誰が 門さして、とあはれにおぼゆ。  音もいと二なう出づる琴どもを、いとなつかしう弾き鳴ら したるも、御心とまりて、 「これは、女のなつかしきさま にてしどけなう弾きたるこそをかしけれ」と、おほかたにの

たまふを、入道はあいなくうち笑みて、 「遊ばすよりなつ かしきさまなるは、いづこのかはべらん。なにがし、延喜の 御手より弾き伝へたること三代になんなりはべりぬるを、か うつたなき身にて、この世のことは棄て忘れはべりぬるを、 ものの切にいぶせきをりをりは、掻き鳴らしはべりしを、あ やしうまねぶ者のはべるこそ、自然にかの前大王の御手に通 ひてはべれ。山伏のひが耳に松風を聞きわたしはべるにやあ らん。いかで、これ忍びて聞こしめさせてしがな」と聞こゆ るままに、うちわななきて涙落すべかめり。  君、 「琴を琴とも聞きたまふまじかりけるあたりに。ねた きわざかな」とて、押しやりたまふに、 「あやしう昔より 箏は女なん弾きとる物なりける。嵯峨の御伝へにて、女五の 宮さる世の中の上手にものしたまひけるを、その御筋にて、 とり立てて伝ふる人なし。すべてただ今世に名を取れる人々、 かきなでの心やりばかりにのみあるを、ここにかう弾きこめ

たまへりける、いと興ありけることかな。いかでかは聞くべ き」
とのたまふ。 「聞こしめさむには何の憚りかはべらん。 御前に召しても。商人の中にてだにこそ、古ごと聞きはやす 人ははべりけれ。琵琶なむ、まことの音を弾きしづむる人い にしへも難うはべりしを、をさをさとどこほることなう、な つかしき手など筋ことになん。いかでたどるにかはべらん。 荒き浪の声にまじるは、悲しくも思うたまへられながら、か き集むるもの嘆かしさ、紛るるをりをりもはべり」など、す きゐたれば、をかしと思して、箏の琴とりかへて賜はせたり。 げにいとすぐして掻い弾きたり。  今の世に聞こえぬ筋弾きつけて、手づかひいといたう唐め き、揺の音深う澄ました り。伊勢の海ならねど、 清き渚に貝や拾はむなど、 声よき人にうたはせて、

我も時々拍子とりて、声うち添へたまふを、琴弾きさしつつ めできこゆ。御くだものなどめづらしきさまにて参らせ、人- 人に酒強ひそしなどして、おのづからもの忘れしぬべき夜の さまなり。 入道、娘への期待を源氏に打ち明ける いたく更けゆくままに、浜風涼しうて、月 も入り方になるままに澄みまさり、静かな るほどに、御物語残りなく聞こえて、この 浦に住みはじめしほどの心づかひ、後の世を勤むるさまかき くづし聞こえて、このむすめのありさま、問はず語りに聞こ ゆ。をかしきものの、さすがにあはれと聞きたまふ節もあり。 「いととり申しがたきことなれど、わが君、かうおぼえな き世界に、仮にても移ろひおはしましたるは、もし、年ごろ 老法師の祈り申しはべる神仏の憐びおはしまして、しばしの ほど御心をも悩ましたてまつるにやとなん思うたまふる。そ のゆゑは、住吉の神を頼みはじめたてまつりて、この十八年

になりはべりぬ。女の童のいときなうはべりしより、思ふ心 はべりて、年ごとの春秋ごとに必ずかの御社に参ることなむ はべる。昼夜の六時の勤めに、みづからの蓮の上の願ひをば さるものにて、ただこの人を高き本意かなへたまへとなん念 じはべる。前の世の契りつたなくてこそかく口惜しき山がつ となりはべりけめ、親、大臣の位をたもちたまへりき。みづ からかく田舎の民となりにてはべり。次々さのみ劣りまから ば、何の身にかなりはべらんと、悲しく思ひはべるを、これ は生まれし時より頼むところなんはべる。いかにして都の貴 き人に奉らんと思ふ心深きにより、ほどほどにつけて、あま たの人のそねみを負ひ、身のためからき目をみるをりをりも 多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず。『命の限りは せばき衣にもはぐくみはべりなむ。かくながら見捨てはべり なば、浪の中にもまじり失せね』となん掟てはべる」
など、 すべてまねぶべくもあらぬ事どもを、うち泣きうち泣き聞こ

ゆ。君もものをさまざま思しつづくるをりからは、うち涙ぐ みつつ聞こしめす。 「横さまの罪に当りて、思ひかけぬ世界に漂ふも、何の 罪にかとおぼつかなく思ひつるを、今宵の御物語に聞きあは すれば、げに浅からぬ前の世の契りにこそはとあはれになむ。 などかは、かくさだかに思ひ知りたまひけることを、今まで は告げたまはざりつらむ。都離れし時より、世の常なきもあ ぢきなう、行ひよりほかの事なくて月日を経るに、心もみな くづほれにけり。かかる人ものしたまふとはほの聞きながら、 いたづら人をば、ゆゆしきものにこそ思ひ棄てたまふらめ、 と思ひ屈しつるを、さらば導きたまふべきにこそあなれ。心- 細き独り寝の慰めにも」などのたまふを、限りなくうれしと 思へり。    「ひとり寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしのう   らさびしさを

まして年月思ひたまへわたるいぶせさを、推しはからせたま へ」
と聞こゆるけはひ、うちわななきたれど、さすがにゆゑ なからず。  「されど浦なれたまへらむ人は」とて、   旅ごろもうらがなしさにあかしかね草の枕は夢もむ   すばず と、うち乱れたまへる御さまは、いとぞ愛敬づき、いふよし なき御けはひなる。  数知らぬ事ども聞こえ尽くしたれど、うるさしや。ひが事 どもに書きなしたれば、いとどをこにかたくなしき入道の心 ばへも、あらはれぬべかめり。 源氏、入道の娘に文を遣わす 娘の思案 思ふことかつがつかなひぬる心地して、涼 しう思ひゐたるに、またの日の昼つ方、岡- 辺に御文遣はす。心恥づかしきさまなめる も、なかなかかかるものの隈にぞ思ひの外なることも籠るべ かめると、心づかひしたまひて、高麗の胡桃色の紙に、えな

らずひきつくろひて、   「をちこちも知らぬ雲ゐにながめわびかすめし宿の梢   をぞとふ 思ふには」とばかりやありけん。入道も、人知れず待ちきこ ゆとて、かの家に来ゐたりけるもしるければ、御使いとまば ゆきまで酔はす。御返りいと久し。  内に入りてそそのかせど、むすめはさらに聞かず。いと恥 づかしげなる御文のさまに、さし出でむ手つきも恥づかしう つつましう、人の御ほどわが身のほど思ふにこよなくて、心- 地あしとて寄り臥しぬ。言ひわびて入道ぞ書く。 「いとか しこきは、田舎びてはべる袂に、つつみあまりぬるにや。さ らに見たまへも及びはべらぬかしこさになん。さるは、   ながむらん同じ雲ゐをながむるは思ひもおなじ思ひなる   らむ となん見たまふる。いとすきずきしや」と聞こえたり。陸奥-

国紙に、いたう古めきたれど、書きざまよしばみたり。げに もすきたるかなと、めざましう見たまふ。御使に、なべてな らぬ玉裳などかづけたり。  またの日、 「宣旨書きは見知らずなん」とて、   「いぶせくも心にものをなやむかなやよやいかにと問   ふ人もなみ 言ひがたみ」と、この度は、いといたうなよびたる薄様に、 いとうつくしげに書きたまへり。若き人のめでざらむも、い とあまり埋れいたからむ。めでたしとは見れど、なずらひな らぬ身のほどの、いみじうかひなければ、なかなか世にある ものと尋ね知りたまふにつけて、涙ぐまれて、さらに、例の、 動なきを、せめて言はれて、浅からずしめたる紫の紙に、墨 つき濃く薄く紛らはして、   思ふらん心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きか   なやまむ

手のさま書きたるさまなど、やむごとなき人にいたうおとる まじう上衆めきたり。  京のことおぼえて、をかしと見たまへど、うちしきりて遣 はさむも、人目つつましければ、二三日隔てつつ、つれづれ なる夕暮れ、もしはものあはれなる曙などやうに紛らはして、 をりをり人も同じ心に見知りぬべきほど推しはかりて、書き かはしたまふに、似げなからず。心深う思ひあがりたる気色 も、見ではやまじと思すものから、良清が領じて言ひし気色 もめざましう、年ごろ心つけてあらむを、目の前に思ひ違へ んもいとほしう思しめぐらされて、人進み参らばさる方にて も紛らはしてんと思せど、女はた、なかなかやむごとなき際 の人よりもいたう思ひあがりて、ねたげにもてなしきこえた れば、心くらべにてぞ過ぎける。  京のことを、かく関隔たりては、いよいよおぼつかなく思 ひきこえたまひて、いかにせまし、戯れにくくもあるかな、

忍びてや迎へたてまつりてましと、思し弱るをりをりあれど、 さりともかくてやは年を重ねんと、今さらに人わろきことを ばと、思ししづめたり。 朱雀帝、桐壺院の幻を見て御目を病む その年、朝廷に物のさとししきりて、もの 騒がしきこと多かり。三月十三日、雷鳴り ひらめき雨風騒がしき夜、帝の御夢に、院 の帝、御前の御階の下に立たせたまひて、御気色いとあしう て睨みきこえさせたまふを、かしこまりておはします。聞こ えさせたまふことども多かり。源氏の御ことなりけんかし。 いと恐ろしう、いとほしと思して、后に聞こえさせたまひけ れば、 「雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしなる事 はさぞはべる。軽々しきやうに、思し驚くまじきこと」と聞 こえたまふ。  睨みたまひしに目見あはせたまふと見しけにや、御目わづ らひたまひて、たへ難う悩みたまふ。御つつしみ、内裏にも

宮にも限りなくせさせたまふ。  太政大臣亡せたまひぬ。ことわりの御齢なれど、次々に おのづから騒がしき事あるに、大宮もそこはかとなうわづら ひたまひて、ほど経れば弱りたまふやうなる、内裏に思し嘆 くことさまざまなり。 「なほこの源氏の君、まことに犯しな きにてかく沈むならば、必ずこの報いありなんとなむおぼえ はべる。今はなほもとの位をも賜ひてむ」とたびたび思しの たまふを、 「世のもどき軽々しきやうなるべし。罪に怖ぢ て都を去りし人を、三年をだに過ぐさず赦されむことは、世 の人もいかが言ひ伝へはべらん」など、后かたく諫めたまふ に思し憚るほどに、月日重なりて、御悩みどもさまざまに重 りまさらせたまふ。 入道の娘や親たち、思案にくれる 明石には、例の、秋は浜風の異なるに、独 り寝もまめやかにものわびしうて、入道に もをりをり語らはせたまふ。 「とかく紛

らはして、こち参らせよ」
とのたまひて、渡りたまはむこと をばあるまじう思したるを、正身はたさらに思ひ立つべくも あらず。「いと口惜しき際の田舎人こそ、仮に下りたる人 のうちとけ言につきて、さやうに軽らかに語らふわざをもす なれ、人数にも思されざらんものゆゑ、我はいみじきもの思 ひをや添へん。かく及びなき心を思へる親たちも、世ごもり て過ぐす年月こそ、あいな頼みに行く末心にくく思ふらめ、 なかなかなる心をや尽くさむ」と思ひて、「ただこの浦にお はせんほど、かかる御文ばかりを聞こえかはさむこそおろか ならね。年ごろ音にのみ聞きて、いつかはさる人の御ありさ まをほのかにも見たてまつらんなど思ひかけざりし御住まひ にて、まほならねど、ほのかにも見たてまつり、世になきも のと聞き伝へし御琴の音をも風につけて聞き、明け暮れの御 ありさまおぼつかなからで、かくまで世にあるものと思した づぬるなどこそ、かかる海人の中に朽ちぬる身にあまること

なれ」など思ふに、いよいよ恥づかしうて、つゆもけ近きこ とは思ひ寄らず。  親たちは、ここらの年ごろの祈りのかなふべきを思ひなが ら、ゆくりかに見せたてまつりて思し数まへざらん時、いか なる嘆きをかせんと思ひやるに、ゆゆしくて、めでたき人と 聞こゆとも、つらういみじうもあるべきかな、目に見えぬ仏- 神を頼みたてまつりて、人の御心をも宿世をも知らでなど、 うち返し思ひ乱れたり。君は、 「このごろの波の音にかの物 の音を聞かばや。さらずはかひなくこそ」など常はのたまふ。 八月十三夜源氏、入道の娘を訪う 忍びてよろしき日みて、母君のとかく思ひ わづらふを聞きいれず、弟子どもなどにだ に知らせず、心ひとつに立ちゐ、輝くばか りしつらひて、十三日の月のはなやかにさし出でたるに、た だ 「あたら夜の」と聞こえたり。君はすきのさまやと思せど、 御直衣奉りひきつくろひて夜ふかして出でたまふ。御車は

二なく作りたれど、ところせしとて御馬にて出でたまふ。惟- 光などばかりをさぶらはせたまふ。やや遠く入る所なりけり。 道のほども四方の浦々見わたしたまひて、思ふどち見まほし き入江の月影にも、まづ恋しき人の御ことを思ひ出で聞こえ たまふに、やがて馬引き過ぎて赴きぬべく思す。   秋の夜のつきげの駒よわが恋ふる雲ゐをかけれ時の   まも見ん とうち独りごたれたまふ。  造れるさま木深く、いたき所まさりて見どころある住まひ なり。海のつらはいかめしうおもしろく、これは心細く住み たるさま、ここにゐて思ひのこすことはあらじと思しやら るるに、ものあはれなり。三昧堂近くて、鐘の声松風に響き あひてもの悲しう、巌に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさ まなり。前栽どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのあり さまなど御覧ず。むすめ住ませたる方は、心ことに磨きて、

月入れたる真木の戸口けしきばかりおし開けたり。  うちやすらひ何かとのたまふにも、かうまでは見えたてま つらじと深う思ふに、もの嘆かしうて、うちとけぬ心ざまを、 「こよなうも人めきたるかな。さしもあるまじき際の人だに、 かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、 いとかくやつれたるにあなづらはしきにや」と、ねたうさま ざまに思しなやめり。 「情なうおし立たむも、事のさまに違 へり。心くらべに負けんこそ人わろけれ」など、乱れ恨みた まふさま、げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ。近 き几帳の紐に、箏の琴のひき鳴らされたるも、けはひしどけ なく、うちとけながら掻きまさぐりけるほど見えてをかしけ れば、 「この聞きならしたる琴をさへや」など、よろづに のたまふ。   むつごとを語りあはせむ人もがなうき世の夢もなか   ばさむやと

明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわき   て語らむ ほのかなるけはひ、伊勢の御息所にいとようおぼえたり。何- 心もなくうちとけてゐたりけるを、かうものおぼえぬに、い とわりなくて、近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけ るにかいと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。さ れどさのみもいかでかあらむ。人ざまいとあてにそびえて、 心恥づかしきけはひぞしたる。かうあながちなりける契りを 思すにも、浅からずあはれなり。御心ざしの近まさりするな るべし、常は厭はしき夜の 長さも、とく明けぬる心地 すれば、人に知られじと思 すも、心あわたたしうて、 こまかに語らひおきて出で たまひぬ。

御文いと忍びてぞ今日はある。あいなき御心の鬼なりや。 ここにも、かかる事いかで漏らさじとつつみて、御使ことご としうももてなさぬを、胸いたく思へり。かくて後は、忍びつ つ時々おはす。ほどもすこし離れたるに、おのづからもの言 ひさがなき海人の子もや立ちまじらんと思し憚るほどを、さ ればよと思ひ嘆きたるを、げに、いかならむと、入道も極楽 の願ひをば忘れて、ただこの御気色を待つことにはす。今さ らに心を乱るも、いといとほしげなり。 都の紫の上に、明石の君の事をほのめかす 二条の君の、風の伝てにも漏り聞きたまは むことは、戯れにても心の隔てありけると 思ひうとまれたてまつらんは、心苦しう恥 づかしう思さるるも、あながちなる御心ざしのほどなりかし。 かかる方のことをば、さすがに心とどめて恨みたまへりしを りをり、などてあやなきすさび事につけても、さ思はれたて まつりけむなど、とり返さまほしう、人のありさまを見たま

ふにつけても、恋しさの慰む方なければ、例よりも御文こま やかに書きたまひて、奥に、 「まことや、我ながら心より 外なるなほざりごとにて、疎まれたてまつりしふしぶしを、 思ひ出づるさへ胸いたきに、またあやしうものはかなき夢を こそ見はべりしか。かう聞こゆる問はず語りに、隔てなき心 のほどは思しあはせよ。誓ひしことも」など書きて、 「何 ごとにつけても、   しほしほとまづぞ泣かるるかりそめのみるめはあまのす   さびなれども」 とある御返り、何心なくらうたげに書きて、 「忍びかね たる御夢語につけても、思ひあはせらるること多かるを、   うらなくも思ひけるかな契りしを松より浪は越えじもの   ぞと」 おいらかなるものから、ただならずかすめたまへるを、いと あはれにうち置きがたく見たまひて、なごり久しう、忍びの

旅寝もしたまはず。 源氏、紫の上を思う 明石の君の嘆き 女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身も 投げつべき心地する。行く末短げなる親ば かりを頼もしきものにて、何時の世に人な みなみになるべき身とは思はざりしかど、ただそこはかとな くて過ぐしつる年月は、何ごとをか心をも悩ましけむ、かう いみじうもの思はしき世にこそありけれと、かねて推しはか り思ひしよりもよろづに悲しけれど、なだらかにもてなして、 憎からぬさまに見えたてまつる。あはれとは月日にそへて思 しませど、やむごとなき方のおぼつかなくて、年月を過ぐし たまふが、ただならずうち思ひおこせたまふらむが、いと心 苦しければ、独り臥しがちにて過ぐしたまふ。絵をさまざま 描き集めて、思ふことどもを書きつけ、返りごと聞くべきさ まにしなしたまへり。見む人の心にしみぬべき物のさまなり。 いかでか空に通ふ御心ならむ、二条の君も、ものあはれに慰

む方なくおぼえたまふをりをり、同じやうに絵を描き集めた まひつつ、やがてわが御ありさま、日記のやうに書きたまへ り。いかなるべき御さまどもにかあらむ。 赦免の宣旨下る 明石の君懐妊する 年かはりぬ。内裏に御薬のことありて、世 の中さまざまにののしる。当帝の御子は、 右大臣のむすめ、承香殿女御の御腹に男御- 子生まれたまへる、二つになりたまへば、いといはけなし。 春宮にこそは譲りきこえたまはめ、朝廷の御後見をし、世を まつりごつべき人を思しめぐらすに、この源氏のかく沈みた まふこといとあたらしうあるまじき事なれば、つひに后の御- 諫を背きて、赦されたまふべき定め出で来ぬ。去年より、后 も御物の怪悩みたまひ、さまざまの物のさとししきり、騒が しきを、いみじき御つつしみどもをしたまふしるしにや、よ ろしうおはしましける御目の悩みさへこのごろ重くならせた まひて、もの心細く思されければ、七月二十余日のほどに、

また重ねて京へ帰りたまふべき宣旨くだる。  つひの事と思ひしかど、世の常なきにつけても、いかにな りはつべきにかと嘆きたまふを、かうにはかなれば、うれし きにそへても、またこの浦を今はと思ひ離れむことを思し嘆 くに、入道、さるべきことと思ひながら、うち聞くより胸ふ たがりておぼゆれど、思ひのごと栄えたまはばこそは、わが 思ひのかなふにはあらめなど、思ひなほす。  そのころは夜離れなく語らひたまふ。六月ばかりより心苦 しきけしきありて悩みけり。かく別れたまふべきほどなれば、 あやにくなるにやありけむ、ありしよりもあはれにおぼして、 あやしうもの思ふべき身にもありけるかなと思し乱る。女は さらにもいはず思ひ沈みたり。いとことわりなりや。思ひの 外に悲しき道に出で立ちたまひしかど、つひには行きめぐり 来なむと、かつは思し慰めき。このたびはうれしき方の御出- 立の、またやは帰りみるべきと思すに、あはれなり。

さぶらふ人々、ほどほどにつけてはよろこび思ふ。京より も御迎へに人々参り、心地よげなるを、主の入道涙にくれて、 月も立ちぬ。ほどさへあはれなる空のけしきに、なぞや心づ から今も昔もすずろなることにて身をはふらかすらむと、さ まざまに思し乱れたるを、心知れる人々は、 「あな憎。例の 御癖ぞ」と、見たてまつりむつかるめり。 「月ごろは、つ ゆ人に気色見せず、時々這ひ紛れなどしたまへるつれなさを、 このごろあやにくに、なかなかの、人の心づくしに」と、つ きしろふ。少納言、しるべして聞こえ出でしはじめの事など ささめきあへるを、ただならず思へり。 源氏、明石の君と琴を弾き別れを惜しむ 明後日ばかりになりて、例のやうにいたく もふかさで渡りたまへり。さやかにもまだ 見たまはぬ容貌など、いとよしよししう気 高きさまして、めざましうもありけるかなと、見棄てがたく 口惜しうおぼさる。さるべきさまにして迎へむと思しなりぬ。

さやうにぞ語らひ慰めたまふ。男の御容貌ありさま、はたさ らにも言はず、年ごろの御行ひにいたく面痩せたまへるしも、 言ふ方なくめでたき御ありさまにて、心苦しげなる気色にう ち涙ぐみつつ、あはれ深く契りたまへるは、ただかばかりを 幸ひにても、などかやまざらむとまでぞ見ゆめれど、めでた きにしも、わか身のほどを思ふも尽きせず。波の声、秋の風 にはなほ響きことなり。塩焼く煙かすかにたなびきて、とり 集めたる所のさまなり。   このたびは立ちわかるとも藻塩やくけぶりは同じか   たになびかむ とのたまへば、    かきつめてあまのたく藻の思ひにも今はかひなきう   らみだにせじ あはれにうち泣きて、言少ななるものから、さるべきふしの 御答へなど浅からず聞こゆ。この常にゆかしがりたまふ物の

音などさらに聞かせたてまつらざりつるを、いみじう恨みた まふ。 「さらば、形見にも忍ぶばかりの一ことをだに」と のたまひて、京より持ておはしたりし琴の御琴取りに遣はし て、心ことなる調べをほのかに掻き鳴らしたまへる、深き夜 の、澄めるはたとへん方なし。入道、えたへで箏の琴取りて さし入れたり。みづからもいとど涙さへそそのかされて、と どむべき方なきに、さそはるるなるべし、忍びやかに調べた るほどいと上衆めきたり。入道の宮の御琴の音をただ今のま たなきものに思ひきこえたるは、今めかしう、あなめでたと、 聞く人の心ゆきて、容貌さへ思ひやらるることは、げにいと 限りなき御琴の音なり。これは、あくまで弾き澄まし、心に くくねたき音ぞまされる。この御心にだにはじめてあはれに なつかしう、まだ耳馴れたまはぬ手など心やましきほどに弾 きさしつつ、飽かず思さるるにも、月ごろ、など強ひても聞 きならさざりつらむ、と悔しう思さる。心の限り行く先の契

りをのみしたまふ。 「琴はまた掻き合はするまでの形見に」 とのたまふ。女、    なほざりに頼めおくめる一ことをつきせぬ音にやかけて   しのばん 言ふともなき口ずさびを恨みたまひて、    「逢ふまでのかたみに契る中の緒のしらべはことに変   らざらなむ この音違はぬさきに必ずあひ見む」と頼めたまふめり。され ど、ただ別れむほどのわりなさを思ひむせたるも、いとこと わりなり。 源氏、明石の浦を去る 明石一族の悲しみ 立ちたまふ暁は、夜深く出でたまひて、御- 迎への人々も騒がしければ、心も空なれど、 人間をはからひて、 うちすててたつも悲しき浦波のなごりいかにと思ひ やるかな

御返り、   年へつる苫屋も荒れてうき波のかへるかたにや身を   たぐへまし とうち思ひけるままなるを見たまふに、忍びたまへど、ほろ ほろとこぼれぬ。心知らぬ人々は、なほかかる御住まひなれ ど、年ごろといふばかり馴れたまへるを、今はと思すはさも あることぞかし、など見たてまつる。良清などは、おろかな らず思すなむめりかしと、憎くぞ思ふ。  うれしきにも、げに今日を限りにこの渚を別るることなど あはれがりて、口々しほたれ言ひあへることどもあめり。さ れど何かはとてなむ。  入道、今日の御設け、いと厳しう仕うまつれり。人々、下 の品まで、旅の装束めづらしきさまなり。いつの間にかしあ へけむと見えたり。御よそひは言ふべくもあらず、御衣櫃あ また荷さぶらはす。まことの都のつとにしつべき御贈物ど

も、ゆゑづきて、思ひ寄らぬ隈なし。今日奉るべき狩の御- 装束に、   寄る波にたちかさねたる旅ごろもしほどけしとや人   のいとはむ とあるを御覧じつけて、騒がしけれど、   かたみにぞかふべかりける逢ふことの日数へだてん   中のころもを とて、 「心ざしあるを」とて、奉りかふ。御身に馴れたる どもを遣はす。げに今ひとへ忍ばれたまふべきことを添ふる 形見なめり。えならぬ御衣に匂ひの移りたるを、いかが人の 心にもしめざらむ。入道、 「今はと世を離れはべりにし身な れども、今日の御送りに仕うまつらぬこと」など申して、か ひをつくるもいとほしながら、若き人は笑ひぬべし。   「世をうみにここらしほじむ身となりてなほこの岸を   えこそ離れね

心の闇はいとどまどひぬべくはべれば、境までだに」
と聞こ えて、 「すきずきしきさまなれど、思し出でさせたまふを りはべらば」など、御気色たまはる。いみじうものをあはれ と思して、所どころうち赤みたまへる御まみのわたりなど、 言はむ方なく見えたまふ。 「思ひ棄てがたき筋もあめれば。 いまいととく見なほしたまひてむ。ただこの住み処こそ見棄 てがたけれ。いかがすべき」とて、   都出でし春のなげきにおとらめや年ふる浦をわかれ   ぬる秋 とて、おし拭ひたまへるに、いとどものおぼえず、しほたれ まさる。起居もあさましうよろぼふ。  正身の心地たとふべき方なくて、かうしも人に見えじと思 ひしづむれど、身のうきをもとにて、わりなきことなれど、 うち棄てたまへる恨みのやる方なきに、面影そひて忘れがた きに、たけきこととはただ涙に沈めり。母君も慰めわびて、

「何にかく心づくしなることを 思ひそめけむ。すべてひがひがし き人に従ひける心の怠りぞ」と言 ふ。 「あなかまや。思し棄つま じきこともものしたまふめれば、 さりとも思すところあらむ。思ひ慰めて、御湯などをだに参 れ。あなゆゆしや」とて、片隅に寄りゐたり。乳母、母君な ど、ひがめる心を言ひあはせつつ、「いつしか、いかで思ふ さまにて見たてまつらむと、年月を頼み過ぐし、今や思ひか なふとこそ頼みきこえつれ、心苦しきことをも、もののはじ めにみるかな」と嘆くを見るにも、いとほしければ、いとど ほけられて、昼は日一日寝をのみ寝暮らし、夜はすくよかに 起きゐて、 「数珠の行く方も知らずなりにけり」とて、手をお しすりて仰ぎゐたり。弟子どもにあはめられて、月夜に出で て行道するものは、遣水に倒れ入りにけり。よしある岩の片

そばに、腰もつきそこなひて、病み臥したるほどになん、す こしもの紛れける。 源氏帰京して、権大納言に昇進する 君は難波の方に渡りて御祓したまひて、住- 吉にも、たひらかにて、いろいろの願はた し申すべきよし、御使して申させたまふ。 にはかに、ところせうて、みづからはこの度え詣でたまはず。 ことなる御逍遥などなくて、急ぎ入りたまひぬ。  二条院におはしましつきて、都の人も、御供の人も、夢の心- 地して行きあひ、よろこび泣きもゆゆしきまでたち騒ぎたり。 女君もかひなきものに思し棄てつる命、うれしう思さるらむ かし。いとうつくしげにねびととのほりて、御もの思ひのほ どに、ところせかりし御髪のすこしへがれたるしもいみじう めでたきを、今はかくて見るべきぞかしと、御心落ちゐるに つけては、またかの飽かず別れし人の思へりしさま心苦しう 思しやらる。なほ世とともに、かかる方にて御心の暇ぞなき

や。その人のことどもなど聞こえ出でたまへり。思し出でた る御気色浅からず見ゆるを、ただならずや見たてまつりたま ふらん。わざとならず、 「身をば思はず」などほのめかし たまふぞ、をかしうらうたく思ひきこえたまふ。かつ見るに だに飽かぬ御さまを、いかで隔てつる年月ぞ、とあさましき まで思ほすに、とり返し世の中もいと恨めしうなん。  ほどもなく、もとの御位あらたまりて、数より外の権大納- 言になりたまふ。次々の人も、さるべきかぎりは、もとの官- 還し賜はり世にゆるさるるほど、枯れたりし木の春にあへる 心地して、いとめでたげなり。 源氏参内して、しめやかに帝と物語する 召しありて、内裏に参りたまふ。御前にさ ぶらひたまふに、ねびまさりて、いかでさ るものむつかしき住まひに年経たまひつら む、と見たてまつる。女房などの、院の御時よりさぶらひて、 老いしらへるどもは、悲しくて、今さらに泣き騒ぎめできこ

ゆ。上も、恥づかしうさへ思しめされて、御よそひなど、こ とにひきつくろひて出でおはします。御心地例ならで、日ご ろ経させたまひければ、いたうおとろへさせたまへるを、昨- 日今日ぞすこしよろしう思されける。御物語しめやかにあり て、夜に入りぬ。十五夜の月おもしろう静かなるに、昔のこ とかきつくし思し出でられて、しほたれさせたまふ。もの心- 細く思さるるなるべし。 「遊びなどもせず、昔聞きし物の 音なども聞かで久しうなりにけるかな」とのたまはするに、   わたつ海にしづみうらぶれ蛭の子の脚立たざりし年   はへにけり と聞こえたまへば、いとあはれに心恥づかしう思されて、   宮柱めぐりあひける時しあれば別れし春のうらみの   こすな いとなまめかしき御ありさまなり。  院の御ために、八講行はるべきこと、まづ急かせたまふ。

春宮を見たてまつりたまふに、こよなくおよすけさせたまひ て、めづらしう思しよろこびたるを、限りなくあはれと見た てまつりたまふ。御才もこよなくまさらせたまひて、世をた もたせたまはむに憚りあるまじく、賢く見えさせたまふ。入- 道の宮にも、御心すこし静めて、御対面のほどにも、あはれ なる事どもあらむかし。 源氏、明石へ文を送る 五節と歌の贈答 まことや、かの明石には、返る波につけて 御文遣はす。ひき隠してこまやかに書きた まふめり。 「波のよるよるいかに。   嘆きつつあかしのうらに朝ぎりのたつやと人を思ひやる   かな」  かの帥のむすめの五節、あいなく人知れぬもの思ひさめぬ る心地して、まくなぎつくらせてさし置かせけり。   須磨の浦に心をよせし舟人のやがて朽たせる袖を見  せばや

手などこよなくまさりにけりと、見おほせたまひて、遣はす。   かへりてはかごとやせまし寄せたりしなごりに袖の   ひがたかりしを 飽かずをかしと思ししなごりなれば、おどろかされたまひて いとど思し出づれど、このごろはさやうの御ふるまひさらに つつみたまふめり。花散里などにも、ただ御消息などばかり にて、おぼつかなく、なかなか恨めしげなり。 Channel Buoys 故院追善の御八講と源氏の政界復帰

さやかに見えたまひし夢の後は、院の帝の 御ことを心にかけきこえたまひて、いかで かの沈みたまふらん罪救ひたてまつる事を せむ、と思し嘆きけるを、かく帰りたまひては、その御いそ ぎしたまふ。神無月御八講したまふ。世の人なびき仕うまつ ること、昔のやうなり。  大后御悩み重くおはしますうちにも、つひにこの人をえ 消たずなりなむこと、と心病み思しけれど、帝は、院の御遺- 言を思ひきこえたまふ。ものの報いありぬべく思しけるを、 なほし立てたまひて、御心地涼しくなむ思しける。時々おこ り悩ませたまひし御目もさわやぎたまひぬれど、おほかた世 にえ長くあるまじう、心細きこととのみ、久しからぬことを

思しつつ、常に召しありて、源氏の君は参りたまふ。世の中 のことなども、隔てなくのたまはせつつ、御本意のやうなれ ば、おほかたの世の人もあいなくうれしきことによろこびき こえける。 朱雀帝の尚侍への執着と尚侍の悔恨 おりゐなむの御心づかひ近くなりぬるにも、 尚侍心細げに世を思ひ嘆きたまへる、い とあはれに思されけり。 「大臣亡せたま ひ、大宮も頼もしげなくのみ篤いたまへるに、わが世残り少 なき心地するになむ、いといとほしう、なごりなきさまにて とまりたまはむとすらむ。昔より人には思ひおとしたまへれ ど、みづからの心ざしのまたなきならひに、ただ御ことのみ なむあはれにおぼえける。たちまさる人また御本意ありて見 たまふとも、おろかならぬ心ざしはしもなずらはざらむと思 ふさへこそ心苦しけれ」とて、うち泣きたまふ。女君、顔は いとあかくにほひて、こぼるばかりの御愛敬にて、涙もこぼ

れぬるを、よろづの罪忘れて、あはれにらうたしと御覧ぜら る。 「などか御子をだに持たまへるまじき。口惜しうもある かな。契り深き人のためには、いま見出でたまひてむと思ふ も口惜しや。限りあれば、ただ人にてぞ見たまはむかし」な ど、行く末のことをさへのたまはするに、いと恥づかしうも 悲しうもおぼえたまふ。御容貌などなまめかしうきよらにて、 限りなき御心ざしの年月にそふやうにもてなさせたまふに、 めでたき人なれど、さしも思ひたまへらざりし気色心ばへな どもの思ひ知られたまふままに、などてわか心の若くいはけ なきにまかせて、さる騒ぎをさへひき出でて、わか名をばさ らにもいはず、人の御ためさへなど思し出づるに、いとうき 御身なり。 冷泉帝即位し、源氏内大臣となる あくる年の二月に、春宮の御元服のことあ り。十一になりたまへど、ほどより大きに 大人しうきよらにて、ただ源氏の大納言の

御顔を二つにうつしたらむやうに見えたまふ。いとまばゆき まで光りあひたまへるを、世人めでたきものに聞こゆれど、 母宮、いみじうかたはらいたきことに、あいなく御心を尽く したまふ。内裏にもめでたしと見たてまつりたまひて、世の 中譲りきこえたまふべきことなど、なつかしう聞こえ知らせ たまふ。  同じ月の二十余日、御国譲りのことにはかなれば、大后 思しあわてたり。 「かひなきさまながらも、心のどかに 御覧ぜらるべきことを思ふなり」とぞ、聞こえ慰めたまひけ る。坊には承香殿の皇子ゐたまひぬ。世の中改まりて、ひき かへ今めかしき事ども多かり。源氏の大納言、内大臣になり たまひぬ。数定まりて、くつろぐ所もなかりければ、加はり たまふなりけり。  やがて世の政をしたまふべきなれど、 「さやうの事し げき職にはたへずなむ」とて、致仕の大臣、摂政したまふべ

きよし譲りきこえたまふ。  「病によりて、位を返した てまつりてしを、いよいよ老のつもり添ひて、さかしきこと はべらじ」と、承け引き申したまはず。他の国にも、事移り  世の中定まらぬをりは深き山に跡を絶えたる人だにも、をさ まれる世には、白髪も恥ぢず出で仕へけるをこそ、まことの 聖にはしけれ、病に沈みて返し申したまひける位を、世の中 かはりてまた改めたまはむに、さらに咎あるまじう、公私 定めらる。さる例もありければ、すまひはてたまはで、太政- 大臣になりたまふ。御年も六十三にぞなりたまふ。 世の中すさまじきにより、かつは籠りゐたまひしを、とり 返しはなやぎたまへば、御子どもなど、沈むやうにものした まへるを、みな浮かびたまふ。とりわきて宰相中将、権中納- 言になりたまふ。かの四の君の御腹の姫君十二になりたまふ を、内裏に参らせむとかしづきたまふ。かの高砂うたひし君 も、かうぶりせさせて、いと思ふさまなり。腹々に御子ども

いとあまた次々に生ひ出でつつ、にぎははしげなるを、源氏 の大臣はうらやみたまふ。  大殿腹の若君、人よりことにうつくしうて、内裏春宮の殿- 上したまふ。故姫君の亡せたまひにし嘆きを宮大臣またさら にあらためて思し嘆く。されどおはせぬなごりも、ただこの 大臣の御光に、よろづもてなされたまひて、年ごろ思し沈み つるなごりなきまで栄えたまふ。なほ昔に御心ばへ変らず、 をりふしごとに渡りたまひなどしつつ、若君の御乳母たち、 さらぬ人々も、年ごろのほどまかで散らざりけるは、みなさ るべき事にふれつつ、よすがつけむことを思しおきつるに、 幸ひ人多くなりぬべし。  二条院にも同じごと待ちきこえける人を、あはれなるもの に思して、年ごろの胸あくばかりと思せば、中将中務やう の人々には、ほどほどにつけつつ情を見えたまふに、御暇な くて、外歩きもしたまはず。二条院の東なる宮、院の御処分

なりしを、二なく改め造らせたまふ。花散里などやうの心苦 しき人々住ませむなど、思しあててつくろはせたまふ。 かねての予言どおり、明石の君に女子誕生 まことや、かの明石に心苦しげなりしこと はいかに、と思し忘るる時なければ、公- 私いそがしき紛れに、え思すままにもと ぶらひたまはざりけるを、三月朔日のほど、このころやと思 しやるに、人知れずあはれにて、御使ありけり。とく帰り参 りて、 「十六日になむ。女にてたひらかにものしたまふ」と 告げきこゆ。めづらしきさまにてさへあなるを思すに、おろ かならず。などて、京に迎へてかかる事をもせさせざりけむ、 と口惜しう思さる。  宿曜に「御子三人、帝、后必ず並びて生まれたまふべし。 中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」、勘へ申したり しこと、さしてかなふなめり。おほかた上なき位にのぼり、 世をまつりごちたまふべきこと、さばかり賢かりしあまたの

相人どもの聞こえ集めたるを、年ごろは世のわづらはしさに みな思し消ちつるを、当帝のかく位にかなひたまひぬること を、思ひのごとうれしと思す。みづからも、もて離れたまへ る筋は、さらにあるまじきこと、と思す。 「あまたの皇子た ちの中に、すぐれてらうたきものに思したりしかど、ただ人 に思しおきてける御心を思ふに、宿世遠かりけり。内裏のか くておはしますを、あらはに人の知ることならねど、相人の 言空しからず」と御心の中に思しけり。いま行く末のあらま しごとを思すに、 「住吉の神のしるべ、まことにかの人も世 になべてならぬ宿世にて、ひがひがしき親も及びなき心をつ かふにやありけむ。さるにては、かしこき筋にもなるべき人 の、あやしき世界にて生まれたらむは、いとほしうかたじけ なくもあるべきかな。このほど過ぐして迎へてん」と思して、 東の院急ぎ造らすべきよし、もよほし仰せたまふ。 源氏、明石の姫君のために乳母を選ぶ

さる所にはかばかしき人しもあり難からむ を思して、故院にさぶらひし宣旨のむすめ、 宮内卿の宰相にて亡くなりにし人の子なり しを、母なども亡せて、かすかなる世に経けるが、はかなき さまにて子産みたり、と聞こしめしつけたるを、知るたより ありて事のついでにまねびきこえける人召して、さるべきさ まにのたまひ契る。まだ若く、何心もなき人にて、明け暮れ 人知れぬあばら家にながむる心細さなれば、深うも思ひたど らず、この御あたりのことをひとへにめでたう思ひきこえて、 参るべきよし申させたり。いとあはれにかつは思して、出だ し立てたまふ。  もののついでに、いみじう忍び紛れておはしまいたり。 さは聞こえながら、いかにせまし、と思ひ乱れけるを、いと かたじけなきによろづ思ひ慰めて、 「ただのたまはせ むままに」と聞こゆ。よろしき日なりければ、急がし立てた

まひて、 「あやしう思ひやりなきやう なれど、思ふさまことなる事にてなむ。 みづからもおぼえぬ住まひにむすぼほれ たりし例を思ひよそへて、しばし念じた まへ」など、事のありやうくはしう語ら ひたまふ。上の宮仕時々せしかば、見 たまふをりもありしを、 「いたう衰へに けり。家のさまも言ひ知らず荒れまどひて、さすかに大きな る所の、木立などうとましげに、いかで過ぐしつらむ」と見 ゆ。人のさま若やかにをかしければ、御覧じ放たれず。とか く戯れたまひて、 「取り返しつべき心地こそすれ。いかに」 とのたまふにつけても、げに同じうは御身近うも仕うまつり 馴ればうき身も慰みなまし、と見たてまつる。 「かねてより隔てぬなかとならはねど別れはをしきも のにぞありける。

慕ひやしなまし」とのたまへば、うち笑ひて、
うちつけの別れを惜しむかごとにて思はむ方に慕 ひやはせぬ 馴れて聞こゆるを、いたしと思す。 乳母明石に到着 明石の人々よろこぶ 車にてぞ京のほどは行き離れける。いと親 しき人さし添へたまひて、ゆめに漏らすま じく、口がためたまひて遣はす。御佩刀、 さるべき物など、ところせきまで思しやらぬ隈なし。乳母に も、あり難うこまやかなる御いたはりのほど浅からず。入道 の思ひかしづき思ふらむありさま、思ひやるもほほ笑まれた まふこと多く、またあはれに心苦しうもただこの事の御心に かかるも、浅からぬにこそは。御文にも、おろかにもてなし 思ふまじと、かへすがへすいましめたまへり。 いつしかも袖うちかけむをとめ子が世をへてなづる 岩のおひさき

津の国までは舟にて、それよりあなたは馬にて急ぎ行き着 きぬ。  入道待ちとり、喜びかしこまりきこゆること限りなし。そ なたに向きて拝みきこえて、あり難き御心ばへを思ふに、い よいよいたはしう、恐ろしきまで思ふ。児のいとゆゆしきま でうつくしうおはすることたぐひなし。げに、賢き御心にか しづききこえむと思したるは、むべなりけり、と見たてま つるに、あやしき道に出で立ちて、夢の心地しつる嘆きもさ めにけり。いとうつくしうらうたうおぼえて、あつかひき こゆ。  子持ちの君も、月ごろものをのみ思ひ沈みて、いとど弱れ る心地に、生きたらむともおぼえざりつるを、この御おきて の、すこしもの思ひ慰めらるるにぞ、頭もたげて、御使にも 二なきさまの心ざしを尽くす。「とく参りなむ」と急ぎ苦し がれば、思ふことどもすこし聞こえつづけて、

ひとりしてなづるは袖のほどなきに覆ふばかりのか げをしぞまつ と聞こえたり。あやしきまで御心にかかり、ゆかしう思さる。 源氏、明石の君のことを紫の上に語る 女君には、言にあらはしてをさをさ聞こえ たまはぬを、聞きあはせたまふこともこそ と思して、 「さこそあなれ。あやしうね ぢけたるわざなりや。さもおはせなむと思ふあたりには心も となくて、思ひの外に口惜しくなん。女にてあなれば、いと こそものしけれ。尋ね知らでもありぬべき事なれど、さはえ 思ひ棄つまじきわざなりけり。呼びにやりて見せたてまつ らむ。憎みたまふなよ」と聞こえたまへば、面うち赤みて、 「あやしう、常にかやうなる筋のたまひつくる心のほど こそ、我ながらうとましけれ。もの憎みはいつならふべきに か」と怨じたまへば、いとよくうち笑みて、 「そよ、誰が ならはしにかあらむ。思はずにぞ見えたまふや。人の心より

外なる思ひやりごとして、もの怨じなどしたまふよ。思へば 悲し」
とて、はてはては涙ぐみたまふ。年ごろ飽かず恋しと 思ひきこえたまひし御心の中ども、をりをりの御文の通ひな ど思し出づるには、よろづの事すさびにこそあれと、思ひ消 たれたまふ。 「この人をかうまで思ひやり言とふは、なほ思ふやうの はべるぞ。まだきに聞こえば、またひが心得たまふべければ」 とのたまひさして、 「人柄のをかしかりしも、所がらに や、めづらしうおぼえきかし」など語りきこえたまふ。あは れなりし夕の煙、言ひしことなど、まほならねどその夜の 容貌ほの見し、琴の音のなまめきたりしも、すべて御心とま れるさまにのたまひ出づるにも、我はまたなくこそ悲しと思 ひ嘆きしか、すさびにても心を分けたまひけむよ、とただ ならず思ひつづけたまひて、我は我と、うち背きながめて、 「あはれなりし世のありさまかな」と、独り言のやうに

うち嘆きて、 思ふどちなびく方にはあらずともわれぞけぶりに さきだちなまし 「何とか。心憂や。 誰により世をうみやまに行きめぐり絶えぬ涙にうきしづ む身ぞ いでや、いかでか見えたてまつらむ。命こそかなひ難かべい ものなめれ。はかなき事にて人に心おかれじと思ふも、ただ ひとつゆゑぞや」とて、箏の御琴引き寄せて、掻き合はせす さびたまひて、そそのかしきこえたまへど、かのすぐれたり けむもねたきにや、手も触れたまはず。いとおほどかに、う つくしうたをやぎたまへるものから、さすがに執念きところ つきて、もの怨じしたまへるが、なかなか愛敬づきて腹立ち なしたまふを、をかしう見どころありと思す。 源氏、姫君の五十日の祝いの使いを遣わす

五月五日にぞ、五十日にはあたるらむと、 人知れず数へたまひて、ゆかしうあはれに 思しやる。 「何ごとも、いかにかひあるさ まにもてなし。うれしからまし。口惜しのわざや。さる所に しも、心苦しきさまにて出で来たるよ」と思す。男君ならま しかばかうしも御心にかけたまふまじきを、かたじけなうい とほしう、わが御宿世も、この御事につけてぞかたほなりけ り、と思さるる。御使出だし立てたまふ。 「必ずその日違 へずまかり着け」とのたまへば、五日に行き着きぬ。思しや ることも、あり難うめでたきさまにて、まめまめしき御とぶ らひもあり。 「海松や時ぞともなきかげにゐて何のあやめもいかに わくらむ 心のあくがるるまでなむ。なほかくてはえ過ぐすまじきを、 思ひ立ちたまひね。さりともうしろめたきことは、よも」

書いたまへり。入道、例の、喜び泣きしてゐたり。かかるを りは、生けるかひもつくり出でたる、ことわりなりと見ゆ。  ここにも、よろづところせきまで思ひ設けたりけれど、こ の御使なくは、闇の夜にてこそ暮れぬべかりけれ。乳母も、 この女君のあはれに思ふやうなるを語らひ人にて、世の慰め にしけり。をさをさ劣らぬ人も、類にふれて迎へ取りてあ らすれど、こよなく衰へたる宮仕人などの、巌の中尋ぬるが 落ちとまれるなどこそあれ、これはこよなうこめき思ひあが れり。聞きどころある世の物語などして、大臣の君の御あり さま、世にかしづかれたまへる御おぼえのほども、女心地に まかせて限りなく語り尽くせば、げにかく思し出づばかりの なごりとどめたる身も、いとたけくやうやう思ひなりけり。 御文ももろともに見て、心の中に、 「あはれ、かうこそ思ひ の外にめでたき宿世はありけれ。うきものはわが身こそあり けれ」と思ひつづけらるれど、 「乳母のことはいかに」など、

こまかにとぶらはせたまへるもかたじけなく、何ごとも慰め けり。  御返りには、 「数ならぬみ島がくれに鳴く鶴を今日もいかにととふ 人ぞなき よろづに思うたまへむすぼほるるありさまを、かくたまさか の御慰めにかけはべる命のほども、はかなくなむ。げにうし ろやすく思うたまへおくわざもがな」と、まめやかに聞こえ たり。  うち返し見たまひつつ、 「あはれ」と長やかに独りごち たまふを、女君、後目に見おこせて、 「浦よりをちに漕 ぐ舟の」と、忍びやかに独りごちながめたまふを、 「まこ とはかくまでとりなしたまふよ。こはただかばかりのあはれ ぞや。所のさまなどうち思ひやる時々、来し方のこと忘れが たき独り言を、ようこそ聞きすぐいたまはね」など、恨みき

こえたまひて、上包ばかりを見せたてまつらせたまふ。手な どのいとゆゑづきて、やむごとなき人苦しげなるを、かかれ ばなめりと思す。 源氏、花散里を訪れる 五節、尚侍を思う かくこの御心とりたまふほどに、花散里を 離れはてたまひぬるこそいとほしけれ。 公事もしげく、ところせき御身に、思し 憚るにそへても、めづらしく御目おどろくことのなきほど、 思ひしづめたまふなめり。  五月雨つれづれなるころ、公私もの静かなるに、思しお こして渡りたまへり。よそながらも、明け暮れにつけてよろ づに思しやりとぶらひきこえたまふを頼みにて、過ぐいたま ふ所なれば、今めかしう心にくきさまにそばみ恨みたまふべ きならねば、心やすげなり。年ごろにいよいよ荒れまさり、 すごげにておはす。女御の君に御物語聞こえたまひて、西の 妻戸に夜更かして立ち寄りたまへり。月おぼろにさし入りて、

いとど艶なる御ふるまひ尽きもせず見えたまふ。いとどつつ ましけれど、端近ううちながめたまひけるさまながら、のど やかにてものしたまふけはひ、いとめやすし。水鶏のいと近 う鳴きたるを、 水鶏だにおどろかさずはいかにして荒れたる宿に 月をいれまし いとなつかしう言ひ消ちたまへるぞ、 「とりどりに捨てがた き世かな。かかるこそなかなか身も苦しけれ」と思す。 「おしなべてたたく水鶏におどろかばうはの空なる月 もこそいれ うしろめたう」とは、なほ言に聞こえたまへど、あだあだし き筋など、疑はしき御心ばへにはあらず。年ごろ待ち過ぐし きこえたまへるも、さらにおろかには思されざりけり。 「空 なながめそ」と、頼めきこえたまひしをりの事ものたまひ出 でて、 「などて、たぐひあらじ、といみじうものを思ひ

沈みけむ。うき身からは同じ嘆かしさにこそ」
とのたまへる も、おいらかにらうたげなり。例のいづこの御言の葉にかあ らむ、尽きせずぞ語らひ慰めきこえたまふ。  かやうのついでにも、かの五節を思し忘れず。また見てし がな、と心にかけたまへれど、いと難きことにて、え紛れた まはず。女、もの思ひ絶えぬを、親はよろづに思ひ言ふこと もあれど、世に経んことを思ひ絶えたり。心やすき殿造りし ては、かやうの人集へても、思ふさまにかしづきたまふべき 人も出でものしたまはば、さる人の後見にも、と思す。かの 院の造りざま、なかなか見どころ多く、今めいたり。よしあ る受領などを選りて、あてあてにもよほしたまふ。  尚侍の君、なほえ思ひ放ちきこえたまはず。こりずまに たち返り、御心ばへもあれど、女はうきに懲りたまひて、昔 のやうにもあひしらへきこえたまはず。なかなかところせう、 さうざうしう世の中思さる。 治世の交替に伴って人々の動静も変化する

院はのどやかに思しなりて、時々につけて、 をかしき御遊びなど、好ましげにておはし ます。女御更衣みな例のごとさぶらひたま へど、春宮の御母女御のみぞ、とり立てて時めきたまふこと もなく、尚侍の君の御おぼえにおし消たれたまへりしを、か くひきかへめでたき御幸ひにて、離れ出でて宮に添ひたてま つりたまへる。  この大臣の御宿直所は昔の淑景舎なり。梨壼に春宮はおは しませば、近隣の御心寄せに、何ごとも聞こえ通ひて、宮を も後見たてまつりたまふ。  入道后の宮、御位をまた改めたまふべきならねば、太上天- 皇になずらへて、御封賜はらせたまふ。院司どもなりて、さま ことにいつくし。御行ひ功徳の事を、常の御営みにておはし ます。年ごろ、世に憚りて出で入りも難く、見たてまつりたま はぬ嘆きを、いぶせく思しけるに、思すさまにて参りまかで

たまふも、いとめでたければ、大后は、うきものは世なりけ り、と思し嘆く。大臣は事にふれて、いと恥づかしげに仕ま つり、心寄せきこえたまふも、なかなかいとほしげなるを、 人もやすからず聞こえけり。  兵部卿の親王、年ごろの御心ばへのつらく思はずにて、た だ世の聞こえをのみ思し憚りたまひしことを、大臣はうきも のに思しおきて、昔のやうにも睦びきこえたまはず。なべて の世には、あまねくめでたき御心なれど、この御あたりは、 なかなか情なきふしもうちまぜたまふを、入道の宮は、いと ほしう本意なきことに見たてまつりたまへり。  世の中の事、ただ、なかばを分けて、太政大臣この大臣の 御ままなり。  権中納言の御むすめ、その年の八月に参らせたまふ。祖父- 殿ゐたちて、儀式などいとあらまほし。兵部卿宮の中の君も、 さやうに心ざしてかしづきたまふ名高きを、大臣は、人より

まさりたまへ、としも思さずなむありける。いかがしたまは むとすらむ。 源氏・明石の君、それぞれ住吉参詣をする その秋、住吉に詣でたまふ。願どもはたし たまふべければ、いかめしき御歩きにて、 世の中ゆすりて、上達部殿上人、我も我も と仕うまつりたまふ。  をりしもかの明石の人、年ごとの例の事にて詣づるを、去- 年今年はさはる事ありて怠りけるかしこまり、とり重ねて思 ひ立ちけり。舟にて詣でたり。岸にさし着くるほど見れば、 ののしりて詣でたまふ人のけはひ渚に満ちて、いつくしき 神宝を持てつづけたり。楽人十列など装束をととのへ容貌を 選びたり。 「誰が詣でたまへるぞ」と問ふめれば、 「内大臣殿 の御願はたしに詣でたまふを、知らぬ人もありけり」とて、 はかなきほどの下衆だに心地よげにうち笑ふ。げに、あさま しう、月日もこそあれ、なかなか、この御ありさまをはるか

に見るも、身のほど口惜しうおぼゆ。さすがにかけ離れたて まつらぬ宿世なから、かく口惜しき際の者だに、もの思ひな げにて仕うまつるを色節に思ひたるに、何の罪深き身にて、 心にかけておぼつかなう思ひきこえつつ、かかりける御響き をも知らで立ち出でつらむなど思ひつづくるに、いと悲しう て、人知れずしほたれけり。  松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたると見ゆる、 袍衣の濃き薄き数知らず。六位の中にも蔵人は青色しるく見 えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監も靫負になりて、こと ごとしげなる随身具したる蔵人なり。良清も同じ佐にて、人 よりことにもの思ひなき気色にて、おどろおどろしき赤衣姿 いときよげなり。すべて見し人々ひきかへ華やかに、何ごと 思ふらむと見えてうち散りたるに、若やかなる上達部殿上人 の、我も我もと思ひいどみ、馬鞍などまで飾りをととのへ 磨きたまへるは、いみじき見物に、田舎人も思へり。

 御車をはるかに見やれば、 なかなか心やましくて、恋し き御影をもえ見たてまつらず。 河原の大臣の御例をまねびて、 童随身を賜はりたまひける。 いとをかしげに装束き、角髪結ひて、紫裾濃の元結なまめ かしう、丈姿ととのひうつくしげにて十人、さまことに今め かしう見ゆ。大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬副- 童のほど、みなつくりあはせて、やうかへて装束きわけたり。 雲ゐはるかにめでたく見ゆるにつけても、若君の数ならぬさ まにてものしたまふをいみじと思ふ。いよいよ御社の方を拝 みきこゆ。  国守参りて、御設け、例の大臣などの参りたまふより は、ことに世になく、仕うまつりけむかし。いとはしたなけ れば、 「立ちまじり、数ならぬ身のいささかの事せむに、

神も見入れ数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空な り。今日は難波に舟さしとめて、祓をだにせむ」
とて、漕ぎ 渡りぬ。  君はゆめにも知りたまはず、夜一夜いろいろの事をせさせ たまふ。まことに神のよろこびたまふべき事をし尽くして、 来し方の御願にもうち添へ、ありがたきまで遊びののしり明 かしたまふ。惟光やうの人は、心の中に神の御徳をあはれに めでたしと思ふ。あからさまに立ち出でたまへるにさぶらひ て、聞こえ出でたり。 すみよしのまつこそものは悲しけれ神代のことをか けて思へば げに、と思し出でて、 「あらかりし浪のまよひにすみよしの神をばかけてわ すれやはする しるしありな」とのたまふも、いとめでたし。

 かの明石の舟、この響きにおされて、過ぎぬる事も聞こゆ れば、知らざりけるよ、とあはれに思す。神の御しるべを思 し出づるもおろかならねば、 「いささかなる消息をだにして 心慰めばや。なかなかに思ふらむかし」と思す。御社立ちた まて、所どころに逍遥を尽くしたまふ。難波の御祓、七瀬に よそほしう仕まつる。堀江のわたりを御覧じて、 「今はた同 じ難波なる」と、御心にもあらでうち誦じたまへるを、御車 のもと近き惟光、承りやしつらむ、さる召しもや、と例に ならひて懐に設けたる、柄短き筆など、御車とどむる所にて 奉れり。をかしと思して、畳紙に、 みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけ るえには深しな とてたまへれば、かしこの心知れる下人してやりけり。駒並 めてうち過ぎたまふにも心のみ動くに、露ばかりなれど、い とあはれにかたじけなくおぼえて、うち泣きぬ。

数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし 思ひそめけむ 田蓑の島に禊仕うまつる、御祓のものにつけて奉る。日暮 れ方になりゆく。タ潮満ち来て、入江の鶴も声惜しまぬほど のあはれなるをりからなればにや、人目もつつまずあひ見ま ほしくさへ思さる。 露けさのむかしに似たる旅ごろも田蓑の島の名には かくれず  道のままに、かひある逍遥遊びののしりたまへど、御心に はなほかかりて思しやる。遊女どもの集ひ参れる、上達部と 聞こゆれど、若やかに事- 好ましげなるは、みな目 とどめたまふべかめり。 されど、いでや、をかし きことももののあはれも

人からこそあべけれ、なのめなることをだに、すこしあは き方に寄りぬるは、心とどむるたよりもなきものを、と思 すに、おのが心をやりてよしめきあへるも、うとましう思 しけり。  かの人は過ぐしきこえて、またの日ぞよろしかりければ、 幣帛奉る。ほどにつけたる願どもなど、かつがつはたしける。 またなかなかもの思ひ添はりて、明け暮れ口惜しき身を思ひ 嘆く。今や京におはし着くらむと思ふ日数も経ず御使あり。 このごろのほどに迎へむことをぞのたまへる、 「いと頼もし げに、数まへのたまふめれど、いさや、また、島漕ぎ離れ、 中空に心細き事やあらむ」と思ひわづらふ。入道も、さて出 だし放たむはいとうしろめたう、さりとて、かく埋もれ過ぐ さむを思はむも、なかなか来し方の年ごろよりも、心づくし なり。よろづにつつましう、思ひ立ちがたきことを聞こゆ。 源氏、帰京して六条御息所の病を見舞う

まことや、かの斎宮もかはりたまひにしか ば、御息所上りたまひて後、変らぬさま に、何ごともとぶらひきこえたまふことは、 あり難きまで情を尽くしたまへど、昔だにつれなかりし御心 ばへの、なかなかならむなごりは見じ、と思ひ放ちたまへれ ば、渡りたまひなどすることは、ことになし。あながちに動 かしきこえたまひても、わが心ながら知りがたく、とかくか かづらはむ御歩きなども、ところせう思しなりにたれば、強 ひたるさまにもおはせず。斎宮をぞ、いかにねびなりたまひ ぬらむ、とゆかしう思ひきこえたまふ。  なほ、かの六条の古宮をいとよく修理しつくろひたりけれ ば、みやびかにて住みたまひけり。よしづきたまへること古 りがたくて、よき女房など多く、すいたる人の集ひ所にて、 ものさびしきやうなれど、心やれるさまにて経たまふほどに、 にはかに重くわづらひたまひて、もののいと心細く思されけ

れば、罪深き所に年経つるも、いみじう思して、尼になりた まひぬ。  大臣聞きたまひて、かけかけしき筋にはあらねど、なほさ る方のものをも聞こえあはせ人に思ひきこえつるを、かく思 しなりにけるが口惜しうおぼえたまへば、驚きながら渡りた まへり。飽かずあはれなる御とぶらひ聞こえたまふ。近き御- 枕上に御座よそひて、脇息におしかかりて、御返りなど聞こ えたまふも、いたう弱りたまへるけはひなれば、絶えぬ心ざ しのほどはえ見えたてまつらでやと口惜しうて、いみじう泣 いたまふ。かくまでも思しとどめたりけるを、女もよろづに あはれに思して、斎宮の御ことをぞ聞こえたまふ。 「心- 細くてとまりたまはむを、必ず事にふれて数まへきこえたま へ。また見ゆづる人もなく、たぐひなき御ありさまになむ。 かひなき身ながらも、いましばし世の中を思ひのどむるほど は、とざまかうざまにものを思し知るまで見たてまつらむ、

とこそ思ひたまへつれ」
とても、消え入りつつ泣いたまふ。 「かかる御事なくてだに、思ひ放ちきこえさすべきにも あらぬを、まして心の及ばむに従ひては、何ごとも後見きこ えむとなん思うたまふる。さらにうしろめたくな思ひきこえ たまひそ」など聞こえたまへば、 「いと難きこと。まこと にうち頼むべき親などにて見ゆづる人だに、女親に離れぬる は、いとあはれなることにこそはべるめれ。まして思ほし人 めかさむにつけても、あぢきなき方やうちまじり、人に心も おかれたまはむ。うたてある思ひやりごとなれど、かけてさ やうの世づいたる筋に思し寄るな。うき身をつみはべるにも、 女は思ひの外にてもの思ひを添ふるものになむはべりければ、 いかでさる方をもて離れて見たてまつらむと思うたまふる」 など聞こえたまへば、あいなくものたまふかな、と思せど、 「年ごろによろづ思うたまへ知りにたるものを、昔のすき 心のなごりあり顔にのたまひなすも本意なくなむ。よしおの

づから」
とて、外は暗うなり、内は大殿油のほのかに物より 透りて見ゆるを、もしもやと思して、やをら御几帳のほころ びより見たまへば、心もとなきほどの灯影に、御髪いとをか しげにはなやかに削ぎて、寄りゐたまへる、絵に描きたらむ さまして、いみじうあはれなり。帳の東面に添ひ臥したま へるぞ宮ならむかし。御几帳のしどけなく引きやられたるよ り、御目とどめて見通したまへれば、頬杖つきて、いともの 悲しとおぼいたるさまなり。はつかなれど、いとうつくしげ ならむと見ゆ。御髪のかかりたるほど、頭つきけはひ、あて に気高きものから、ひぢぢかに愛敬づきたまへるけはひしる く見えたまへば、心もとなくゆかしきにも、さばかりのたま ふものを、と思し返す。 「いと苦しさまさりはべり。かたじけなきを、はや渡 らせたまひね」とて、人にかき臥せられたまふ。 「近く参 り来たるしるしに、よろしう思さればうれしかるべきを、心-

苦しきわざかな。いかに思さるるぞ」
とて、のぞきたまふ気- 色なれば、 「いと恐ろしげにはべるや。乱り心地のいと かく限りなるをりしも渡らせたまへるは、まことに浅からず なむ。思ひはべることをすこしも聞こえさせつれば、さりと もと頼もしくなむ」と聞こえさせたまふ。 「かかる御遺言 の列に思しけるも、いとどあはれになむ。故院の御子たちあ またものしたまへど、親しく睦び思ほすもをさをさなきを、 上の同じ御子たちの中に数まへきこえたまひしかば、さこそ は頼みきこえはべらめ。すこし大人しきほどになりぬる齢な がら、あつかふ人もなければ、さうざうしきを」など聞こえ て、帰りたまひぬ。御とぶらひいますこしたちまさりて、し ばしばきこえたまふ。 六条御息所死去 源氏、前斎宮をいたわる 七八日ありて亡せたまひにけり。あへなう 思さるるに、世もいとはかなくて、もの心- 細く思されて、内裏へも参りたまはず、と

かくの御事などおきてさせたまふ。また頼もしき人もことに おはせざりけり。古き斎宮の宮司など、仕うまつり馴れたる ぞ、わづかに事ども定めける。  御みづからも渡りたまへり。宮に御消息聞こえたまふ。 「何ごともおぼえはべらでなむ」と、女別当して聞こえ たまへり。 「聞こえさせのたまひおきしこともはべしを、 今は隔てなきさまに思されば、うれしくなむ」と聞こえたま ひて、人々召し出でて、あるべきことども仰せたまふ。いと 頼もしげに、年ごろの御心ばへ、取り返しつべう見ゆ。いと いかめしう、殿の人々数もなう仕うまつらせたまへり。  あはれにうちながめつつ、御精進にて、御簾おろしこめて 行はせたまふ。宮には、常にとぶらひきこえたまふ。やうや う御心静まりたまひては、みづから御返りなど聞こえたまふ。 つつましう思したれど、御乳母など、 「かたじけなし」と、 そそのかしきこゆるなりけり。

 雪霙かき乱れ荒るる日、いかに宮の御ありさまかすかに ながめたまふらむ、と思ひやりきこえたまひて、御使奉れた まへり。 「ただ今の空を、いかに御覧ずらむ。 降りみだれひまなき空に亡きひとの天かけるらむ宿ぞか なしき」 空色の紙の、くもらはしきに書いたまへり。若き人の御目に とどまるばかりと、心してつくろひたまへる、いと目もあや なり。宮はいと聞こえにくくしたまへど、これかれ、 「人づ てには、いと便なきこと」と責めきこゆれば、鈍色の紙の、 いとかうばしう艶なるに、墨つきなど紛らはして、 消えがてにふるぞ悲しきかきくらしわが身それと も思ほえぬ世に つつましげなる書きざま、いとおほどかに、御手すぐれては あらねど、らうたげにあてはかなる筋に見ゆ。下りたまひし ほどより、なほあらず思したりしを、今は心にかけてともか

くも聞こえ寄りぬべきぞかし、と思すには、例のひき返し、 「いとほしくこそ、故御息所のいとうしろめたげに心おきた まひしを、ことわりなれど、世の中の人もさやうに思ひより ぬべきことなるを、ひき違へ心清くてあつかひきこえむ。上 のいますこしもの思し知る齢にならせたまひなば、内裏住み せさせたてまつりて、さうざうしきに、かしづきぐさにこ そ」と思しなる。  いとまめやかにねむごろに聞こえたまひて、さるべきをり をりは渡りなどしたまふ。 「かたじけなくとも、昔の御な ごりに思しなずらへてけ遠からずもてなさせたまはばなむ、 本意なる心地すべき」など聞こえたまへど、わりなくもの恥 ぢをしたまふ奥まりたる人ざまにて、ほのかにも御声など聞 かせたてまつらむは、いと世になくめづらかなることと思し たれば、人々も聞こえわづらひて、かかる御心ざまを愁へき こえあへり。 「女別当内侍などいふ人々、あるは離れたてま

つらぬわかむどほりなどにて、心ばせある人々多かるべし。 この人知れず思ふ方のまじらひをせさせたてまつらむに、人 に劣りたまふまじかめり。いかでさやかに御容貌を見てしが な」
と思すも、うちとくべき御親心にはあらずやありけむ。 わが御心も定めがたければ、かく思ふといふことも、人にも 漏らしたまはず。御わざなどの御事をもとり分きてせさせた まへば、あり難き御心を宮人もよろこびあへり。 前斎宮の悲しみの日々と朱雀院の執心 はかなく過ぐる月日にそへて、いとどさび しく、心細きことのみまさるに、さぶらふ 人々もやうやうあかれゆきなどして、下つ 方の京極わたりなれば、人げ遠く、山寺の入相の声々にそへ ても、音泣きかちにてぞ過ぐしたまふ。同じき御親と聞こえ し中にも、片時の間も立ち離れたてまつりたまはでならはし たてまつりたまひて、斎宮にも親添ひて下りたまふことは 例なき事なるを、あながちに誘ひきこえたまひし御心に、

限りある道にてはたぐひきこえたまはずなりにしを、干る世 なう思し嘆きたり。  さぶらふ人々、貴きも賤しきもあまたあり。されど大臣の 「御乳母たちだに、心にまかせたること、ひき出だし仕うま つるな」など、親がり申したまへば、いと恥づかしき御あり さまに、便なきこと聞こしめしつけられじ、と言ひ思ひつつ、 はかなきことの情もさらにつくらず。  院にも、かの下りたまひし大極殿のいつかしかりし儀式に、 ゆゆしきまで見えたまひし御容貌を、忘れがたう思しおきけ れば、 「参りたまひて、斎院など御はらからの宮々おはしま すたぐひにて、さぶらひたまへ」と、御息所にも聞こえたま ひき。されど、やむごとなき人々さぶらひたまふに、数々な る御後見もなくてやと思しつつみ、上はいとあつしうおはし ますも恐ろしう、またもの思ひや加へたまはん、と憚り過ぐ したまひしを、今はまして誰かは仕うまつらむ、と人々思ひ

たるを、ねむごろに院には思しのたまはせけり。 源氏、藤壺にはかり斎宮の入内を計画する 大臣聞きたまひて、院より御気色あらむを、 ひき違へ横取りたまはむを、かたじけなき 事と思すに、人の御ありさまのいとらうた げに、見放たむはまた口惜しうて、入道の宮にぞ聞こえたま ひける。 「かうかうの事をなむ思うたまへわづらふに、母御息所 いと重々しく心深きさまにものしはべりしを、あぢきなきす き心にまかせて、さるまじき名をも流し、うきものに思ひお かれはべりにしをなん、世にいとほしく思ひたまふる。この 世にて、その恨みの心とけず過ぎはべりにしを、いまはとな りての際に、この斎宮の御ことをなむものせられしかば、さ も聞きおき、心にも残すまじうこそは、さすがに見おきたま ひけめ、と思ひたまふるにも、忍びがたう。おほかたの世に つけてだに、心苦しきことは見聞き過ぐされぬわざにはべる

を、いかで亡き蔭にてもかの恨み忘るばかり、と思ひたまふ るを、内裏にもさこそ大人びさせたまへど、いときなき御齢 におはしますを、すこしものの心知る人はさぶらはれてもよ くやと思ひたまふるを、御定めに」
など聞こえたまへば、 「いとよう思し寄りけるを。院にも思さむことは、げにか たじけなう、いとほしかるべけれど、かの御遺言をかこちて 知らず顔に参らせたてまつりたまへかし。今はた、さやうの 事わざとも思しとどめず、御行ひがちになりたまひて、か う聞こえたまふを、深うしも思し咎めじと思ひたまふる」 「さらば御気色ありて数まへさせたまはば、もよほしばか りの言を添ふるになしはべらむ。とざまかうざまに思ひたま へ残すことなきに、かくまでさばかりの心構へもまねびはべ るに、世人やいかにとこそ、憚りはべれ」など聞こえたまて、 後には、げに知らぬやうにてここに渡したてまつりてむ、と 思す。女君にも、 「しかなん思ふ。語らひきこえて過ぐい

たまはむに、いとよきほどなるあはひならむ」
と、聞こえ知 らせたまへば、うれしきことに思して、御わたりの事をいそ ぎたまふ。  入道の宮、兵部卿宮の、姫君をいつしかとかしづき騒ぎた まふめるを、大臣の隙ある仲にて、いかがもてなしたまはむ、 と心苦しく思す。  権中納言の御むすめは、弘徽殿女御と聞こゆ。大殿の御子 にて、いとよそほしうもてかしづきたまふ。上もよき御遊び がたきに思いたり。 「宮の中の君も同じほどにおはすれば、 うたて雛遊びの心地すべきを、大人しき御後見は、いとうれ しかべいこと」と思しのたまひて、さる御気色聞こえたまひ つつ、大臣のよろづに思しいたらぬことなく、公方の御後- 見はさらにもいはず、明け暮れにつけて、こまかなる御心ば への、いとあはれに見えたまふを、頼もしきものに思ひきこ えたまひて、いとあつしくのみおはしませば、参りなどした

まひても、心やすくさぶらひたまふことも難きを、すこし 大人びて、添ひさぶらはむ御後見は、必ずあるべきことなり けり。 The Wormwood Patch 源氏謫居の間、人々ひそかに嘆きを重ねる

藻塩たれつつわびたまひしころほひ、都に も、さまざま思し嘆く人多かりしを、さて もわが御身の拠りどころあるは、一方の思 ひこそ苦しげなりしか、二条の上などものどやかにて、旅の 御住み処をもおぼつかなからず聞こえ通ひたまひつつ、位を 去りたまへる仮の御よそひをも、竹の子の世のうき節を、 時々につけてあつかひきこえた まふに、慰めたまひけむ、なかな か、その数と人にも知られず、立 ち別れたまひしほどの御ありさま をもよそのことに思ひやりたまふ 人々の、下の心砕きたまふたぐひ

多かり。 末摘花の邸一途に窮乏し、荒廃する 常陸の宮の君は、父親王の亡せたまひにし なごりに、また思ひあつかふ人もなき御身 にていみじう心細げなりしを、思ひかけぬ 御事の出で来て、とぶらひきこえたまふこと絶えざりしを、 いかめしき御勢にこそ、事にもあらず、はかなきほどの御- 情ばかりと思したりしかど、待ち受けたまふ袂の狭きに、大- 空の星の光を盥の水に映したる心地して、過ぐしたまひしほ どに、かかる世の騒ぎ出で来て、なべての世うく思し乱れし 紛れに、わざと深からぬ方の心ざしはうち忘れたるやうにて、 遠くおはしましにし後、ふりはへてしもえ尋ねきこえたまは ず。そのなごりに、しばしば泣く泣くも過ぐしたまひしを、 年月経るままに、あはれにさびしき御ありさまなり。  古き女ばらなどは、 「いでや、いと口惜しき御宿世なりけ り。おぼえず神仏の現はれたまへらむやうなりし御心ばへ

に、かかるよすがも人は出でおはするものなりけりと、あり 難う見たてまつりしを、おほかたの世の事といひながら、ま た頼む方なき御ありさまこそ悲しけれ」
と、つぶやき嘆く。 さる方にありつきたりしあなたの年ごろは、言ふかひなきさ びしさに目馴れて過ぐしたまふを、なかなかすこし世づきて ならひにける年月に、いとたへがたく思ひ嘆くべし。すこし もさてありぬべき人々は、おのづから参りつきてありしを、 みな次々に従ひて行き散りぬ。女ばらの命たへぬもありて、 月日に従ひては、上下人数少なくなりゆく。 末摘花、荒れまさる邸を守り生きる もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の住 み処になりて、うとましうけ遠き木立に、 梟の声を朝夕に耳馴らしつつ、人げにこ そさやうのものもせかれて影隠しけれ、木霊など、けしか らぬ物ども、ところ得て、やうやう形をあらはし、ものわ びしき事のみ数知らぬに、まれまれ残りてさぶらふ人は、

「なほいとわりなし。この受領どもの、おもしろき家造り好 むが、この宮の木立を心につけて、放ちたまはせてむやと、 ほとりにつきて、案内し申さするを、さやうにせさせたまひ て、いとかうもの恐ろしからぬ御住まひに、思し移ろはなむ。 立ちとまりさぶらふ人も、いとたへがたし」など聞こゆれど、 「あないみじや。人の聞き思はむこともあり。生ける世 に、しかなごりなきわざはいかがせむ。かく恐ろしげに荒れ はてぬれど、親の御影とまりたる心地する古き住み処と思ふ に、慰みてこそあれ」 と、うち泣きつつ、思しもかけず。  御調度どもも、いと古代に馴れたるが昔様にてうるはし きを、なま物のゆゑ知らむと思へる人、さるもの要じて、わ ざとその人かの人にせさせたまへる、とたづね聞きて案内す るも、おのづからかかる貧しきあたりと思ひ侮りて言ひ来 るを、例の女ばら、 「いかがはせん。そこそは世の常のこ と」とて、取り紛らはしつつ、目に近き今日明日の見苦しさ

をつくろはんとする時もあるを、いみじう諫めたまひて、 「見よと思ひたまひてこそ、しおかせたまひけめ。など てかかろがろしき人の家の飾とはなさむ。亡き人の御本意違 はむがあはれなること」とのたまひて、さるわざはせさせた まはず。  はかなきことにても、見とぶらひきこゆる人はなき御身な り。ただ御兄の禅師の君ばかりぞ、まれにも京に出でたまふ 時はさしのぞきたまへど、それも世になき古めき人にて、同 じき法師といふ中にも、たづきなく、この世を離れたる聖に ものしたまひて、しげき草蓬をだに、かき払はむものとも思 ひ寄りたまはず。  かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒をあ らそひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉ぢ籠めたるぞ頼 もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を、馬牛などの踏みな らしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞめ

ざましき。  八月、野分荒かりし年、廊どもも倒れ伏し、下の屋どもの、 はかなき板葺なりしなどは骨のみわづかに残りて、立ちとま る下衆だになし。煙絶えて、あはれにいみじきこと多かり。 盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりのさびしければ にや、この宮をば不用のものに踏み過ぎて寄り来ざりければ、 かくいみじき野ら藪なれども、さすがに寝殿の内ばかりはあ りし御しつらひ変らず。つややかに掻い掃きなどする人もな し、塵は積れど、紛るることなきうるはしき御住まひにて、 明かし暮らしたまふ。 末摘花、時代離れの古風な日常を過ごす はかなき古歌物語などやうのすさびごとに てこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住 まひをも思ひ慰むるわざなめれ、さやうの ことにも心おそくものしたまふ。わざと好ましからねど、お のづから、また急ぐことなきほどは、同じ心なる文通はしな

どうちしてこそ、若き人は木草につけても心を慰めたまふべ けれど、親のもてかしづきたまひし御心おきてのままに、世 の中をつつましきものに思して、まれにも言通ひたまふべき 御あたりをも、さらに馴れたまはず、古りにたる御廚子開け て、唐守、藐姑射の刀自、かぐや姫の物語の絵に描きたるを ぞ、時々のまさぐりものにしたまふ。  古歌とても、をかしきやうに選り出で、題をも、よみ人を もあらはし心得たるこそ見どころもありけれ、うるはしき紙- 屋紙、陸奥国紙などのふくだめるに、古言どもの目馴れたる などは、いとすさまじげなるを、せめてながめたまふをりを りは、引きひろげたまふ。今の世の人のすめる、経うち誦み、 行ひなどいふことはいと恥づかしくしたまひて、見たてまつ る人もなけれど、数珠など取り寄せたまはず。かやうにうる はしくぞものしたまひける。 叔母、末摘花に対して報復を企てる

侍従などいひし御乳母子のみこそ、年ごろ あくがれはてぬ者にてさぶらひつれど、通 ひ参りし斎院亡せたまひなどして、いとた へがたく心細きに、この姫君の母北の方のはらから、世にお ちぶれて受領の北の方になりたまへるありけり。むすめども かしづきて、よろしき若人どもも、むげに知らぬ所よりは、 親どもも参うで通ひしを、と思ひて、時々行き通ふ。この姫- 君は、かく人疎き御癖なれば、睦ましくも言ひ通ひたまはず。 「おのれをばおとしめたまひて、面ぶせに思したりしかば、 姫君の御ありさまの心苦しげなるも、えとぶらひきこえず」 など、なま憎げなる言葉ども言ひ聞かせつつ、時々聞こえ けり。  もとよりありつきたるさやうの並々の人は、なかなかよき 人のまねに心をつくろひ、思ひあがるも多かるを、やむごと なき筋ながらも、かうまで落つべき宿世ありければにや、心

すこしなほなほしき御叔母にぞありける。 「わがかく劣りの さまにて、あなづらはしく思はれたりしを、いかでかかる世 の末に、この君を、わがむすめどもの使ひ人になしてしがな。 心ばせなどの古びたる方こそあれ、いとうしろやすき後見な らむ」と思ひて、 「時々ここに渡らせたまひて。御琴の音 も承らまほしがる人なむはべる」と聞こえけり。この侍従 も、常に言ひもよほせど、人にいどむ心にはあらで、ただこ ちたき御ものづつみなれば、さも睦びたまはぬを、ねたしと なむ思ひける。 叔母、西国へ同行を勧誘、末摘花拒む かかるほどに、かの家主大弐になりぬ。 むすめどもあるべきさまに見おきて、下り なむとす。この君をなほもいざなはむの心- 深くて、 「遥かにかくまかりなむとするに、心細き御あり さまの、常にしもとぶらひきこえねど、近き頼みはべりつる ほどこそあれ、いとあはれにうしろめたなくなむ」など言よ

がるを、さらに承け引きたまはねば、 「あな憎。ことごと しや。心ひとつに思しあがるとも、さる藪原に年経たまふ人 を、大将殿もやむごとなくしも思ひきこえたまはじ」など、 怨じうけひけり。  さるほどに、げに世の中に赦されたまひて、都に帰りたま ふと、天の下のよろこびにてたち騒ぐ。我もいかで、人より 先に、深き心ざしを御覧ぜられんとのみ思ひきほふ男女に つけて、高きをも下れるをも、人の心ばへを見たまふに、あ はれに思し知ること、さまざまなり。かやうにあわたたしき ほどに、さらに思ひ出でたまふけしき見えで月日経ぬ。 「今は限りなりけり。年ごろあらぬさまなる御さまを、悲 しういみじきことを思ひながらも、萌え出づる春に逢ひたま はなむ、と念じわたりつれど、たびしかはらなどまでよろこ び思ふなる御位改まりなどするを、よそにのみ聞くべきなり けり。悲しかりしをりの愁はしさは、ただわか身ひとつのた

めになれるとおぼえし、かひなき世かな」
と、心砕けてつら く悲しければ、人知れず音をのみ泣きたまふ。 大弐の北の方、 「さればよ。まさにかくたづきなく、人わ ろき御ありさまを、数まへたまふ人はありなむや。仏聖も、 罪軽きをこそ導きよくしたまふなれ、かかる御ありさまにて、 たけく世を思し、宮上などのおはせし時のままにならひたま へる、御心おごりのいとほしきこと」といとどをこがましげ に思ひて、 「なほ思ほしたちね。世のうき時は見えぬ山路 をこそは尋ぬなれ。田舎などはむつかしきものと思しやるら めど、ひたぶるに人わろげには、よももてなしきこえじ」な ど、いと言よく言へば、むげに屈じにたる女ばら、 「さもな びきたまはなむ。たけきこともあるまじき御身を、いかに思 して、かく立てたる御心ならむ」と、もどきつぶやく。  侍従も、かの大弐の甥だつ人語らひつきて、とどむべくも あらざりければ、心より外に出で立ちて、 「見たてまつり

おかんがいと心苦しきを」
とて、そそのかしきこゆれど、な ほかくかけ離れて久しうなりたまひぬる人に頼みをかけたま ふ。御心の中に、 「さりとも、あり経ても思し出づるつ いであらじやは。あはれに心深き契りをしたまひしに、わが 身はうくて、かく忘られたるにこそあれ、風のつてにても、 わがかくいみじきありさまを聞きつけたまはば、必ずとぶら ひ出でたまひてん」と、年ごろ思しければ、おほかたの御家 ゐも、ありしよりけにあさましけれど、わが心もて、はかな き御調度どもなどもとり失はせたまはず、心強く同じさまに て念じ過ごしたまふなりけり。  音泣きがちに、いとど思し沈みたるは、ただ山人の赤き木 の実ひとつを顔に放たぬと見えたまふ、御側目などは、おぼ ろけの人の見たてまつりゆるすべきにもあらずかし。くはし くは聞こえじ。いとほしう、もの言ひさがなきやうなり。 末摘花の絶望 叔母来訪し侍従を連れ去る

冬になりゆくままに、いとどかきつかむ方 なく、悲しげにながめ過ごしたまふ。かの 殿には、故院の御料の御八講、世の中ゆす りてしたまふ。ことに僧などは、なべてのは召さず、才すぐ れ行ひにしみ、尊きかぎりを選らせたまひければ、この禅師 の君参りたまへりけり。帰りざまに立ち寄りたまひて、 「しかじか。権大納言殿の御八講に参りてはべりつるなり。 いとかしこう、生ける浄土の飾におとらず、いかめしうおも しろき事どもの限りをなむしたまひつる。仏菩薩の変化の 身にこそものしたまふめれ。五つの濁り深き世になどて生ま れたまひけむ」と言ひて、やがて出でたまひぬ。言少なに、 世の人に似ぬ御あはひにて、かひなき世の物語をだにえ聞こ えあはせたまはず。さても、かばかりつたなき身のありさま を、あはれにおぼつかなくて過ぐしたまふは、心憂の仏菩薩 やとつらうおぼゆるを、げに限りなめり、とやうやう思ひな

りたまふに、大弐の北の方にはかに来たり。  例はさしも睦びぬを、さそひたてむの心にて、奉るべき御- 装束など調じて、よき車に乗りて、面もち気色ほこりかにも の思ひなげなるさまして、ゆくりもなく走り来て、門開けさ するより、人わろくさびしきこと限りもなし。左右の戸もみ なよろぼひ倒れにければ、男ども助けてとかく開け騒ぐ。い づれか、このさびしき宿にも必ず分けたる跡あなる三つの径 とたどる。  わづかに南面の格子上げたる間に寄せたれば、いとどはし たなし、と思したれど、あさましう煤けたる几帳さし出でて、 侍従出で来たり。容貌などおとろへにけり。年ごろいたうつ ひえたれど、なほものきよげによしあるさまして、かたじけ なくとも、とりかへつべく見ゆ。 「出で立ちなむことを思ひながら、心苦しきありさまの、 見捨てたてまつりがたきを、侍従の迎へになむ参り来たる。

心うく思し隔てて、御みづからこそあからさまにも渡らせた まはね、この人をだにゆるさせたまへとてなむ。などかうあ はれげなるさまには」
とて、うちも泣くべきぞかし。されど 行く道に心をやりて、いと心地よげなり。 「故宮おはせし 時、おのれをば、面ぶせなり、と思し棄てたりしかば、疎々 しきやうになりそめにしかど、年ごろも何かは。やむごとな きさまに思しあがり、大将殿などおはしまし通ふ御宿世のほ どをかたじけなく思ひたまへられしかばなむ、睦びきこえさ せんも憚ること多くて過ぐしはむべるを、世の中のかくさだ めもなかりければ、数ならぬ身は、なかなか心やすくはべる ものなりけり。及びなく見たてまつりし御ありさまのいと悲 しく心苦しきを、近きほどは怠るをりものどかに頼もしくな むはべりけるを、かく遥かにまかりなむとすれば、うしろめ たくあはれになむおぼえたまふ」など語らへど、心とけても 答へたまはず。

「いとうれしきことなれど、世に似ぬさまにて、何か は。かうながらこそ朽ちも亡せめとなむ思ひはべる」とのみ のたまへば、 「げにしかなむ思さるべけれど、生ける身を 棄てて、かくむくつけき住まひするたぐひははべらずやあら む。大将殿の造り磨きたまはむにこそは、ひきかへ玉の台に もなりかへらめとは、頼もしうははべれど、ただ今は式部卿- 宮の御むすめより外に心わけたまふ方もなかなり。昔よりす きずきしき御心にて、なほざりに通ひたまひける所どころ、 みな思し離れにたなり。ましてかうものはかなきさまにて、 藪原に過ぐしたまへる人をば、心清く我を頼みたまへるあり さまと、尋ねきこえたまふこと、いと難くなむあるべき」な ど言ひ知らするを、げに、と思すもいと悲しくて、つくづく と泣きたまふ。  されど動くべうもあらねば、よろづに言ひわづらひ暮らし て、 「さらば、侍従をだに」と、日の暮るるままに急げば、

心あわたたしくて、泣く泣く、 「さらば、まづ今日は、か うせめたまふ送りばかりに参うではべらむ。かの聞こえたま ふもことわりなり。また思しわづらふもさることにはべれば、 中に見たまふるも心苦しくなむ」と忍びて聞こゆ。この人さ へうち棄ててむとするを、恨めしうもあはれにも思せど、言 ひとどむべき方もなくて、いとど音をのみたけきことにても のしたまふ。  形見に添へたまふべき身馴れ衣も、しほなれたれば、年経 ぬるしるし見せたまふべきものなくて、わが御髪の落ちたり けるを取り集めて鬘にしたまへるが、九尺余ばかりにて、い ときよらなるを、をかしげなる箱に入れて、昔の薫衣香のい とかうばしき一壼具してたまふ。 「たゆまじき筋を頼みし玉かづら思ひのほかにかけ はなれぬる 故ままの、のたまひおきしこともありしかば、かひなき身な

りとも、見はててむとこそ思ひつれ。うち棄てらるるもこと わりなれど、誰に見ゆづりてか、と恨めしうなむ」
とて、い みじう泣いたまふ。この人もものも聞こえやらず。 「まま の遺言はさらにも聞こえさせず。年ごろの忍びがたき世のう さを過ぐしはべりつるに、かくおぼえぬ道にいざなはれて、 遙かにまかりあくがるること」とて、 「玉かづら絶えてもやまじ行く道のたむけの神もかけ てちかはむ 命こそ知りはべらね」など言ふに、 「いづら、暗うなり ぬ」とつぶやかれて、心もそらにてひき出づれば、かへり見 のみせられける。  年ごろ、わびつつも行き離れざりつる人の、かく別れぬる ことを、いと心細う思すに、世に用ゐらるまじき老人さへ、 「いでや、ことわりぞ。いかでか立ちとまりたまはむ。我ら もえこそ念じはつまじけれ」と、おのが身々につけたるたよ

りども思ひ出でて、とまるまじう思へるを、人わろく聞きお はす。 末摘花の邸わびしく雪に埋もれる 霜月ばかりになれば、雪霰がちにて、外に は消ゆる間もあるを、朝日夕日をふせぐ蓬- 葎の蔭に深う積りて、越の白山思ひやらる る雪の中に、出で入る下人だになくて、つれづれとながめた まふ。はかなきことを聞こえ慰め、泣きみ笑ひみ紛らはしつ る人さへなくて、夜も塵がましき御帳の中もかたはらさびし く、もの悲しく思さる。  かの殿には、めづらし人に、いとどもの騒がしき御ありさ まにて、いとやむごとなく思されぬ所どころには、わざとも え訪れたまはず。まして、その人はまだ世にやおはすらむと ばかり思し出づるをりもあれど、たづねたまふべき御心ざし も急がであり経るに、年かはりぬ。 源氏、末摘花の邸のそばを通りかかる

卯月ばかりに、花散里を思ひ出できこえた まひて、忍びて、対の上に御暇聞こえて 出でたまふ。日ごろ降りつるなごりの雨い ますこしそそきて、をかしきほどに月さし出でたり。昔の御- 歩き思し出でられて、艶なるほどの夕月夜に、道のほどよろ づの事思し出でておはするに、形もなく荒れたる家の、木立 茂く森のやうなるを過ぎたまふ。  大きなる松に藤の咲きかかりて、月影になよびたる、風に つきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなきかをりなり。 橘にはかはりてをかしければ、さし出でたまへるに、柳も いたうしだりて、築地もさはらねば、乱れ伏したり。見し心- 地する木立かな、と思すは、はやうこの宮なりけり。いとあ はれにておしとどめさせたなふ。例の、惟光はかかる御忍び 歩きに後れねばさぶらひけり。召し寄せて、 「ここは常陸 の宮ぞかしな」 「しかはべり」と聞こゆ。 「ここにあり

し人は、まだやながむらん。とぶらふべきを、わざとものせむ もところせし。かかるついでに入りて消息せよ。よくたづね 寄りてをうち出でよ。人違へしてはをこならむ」
とのたまふ。  ここには、いとどながめまさるころにて、つくづくとおは しけるに、昼寝の夢に故宮の見えたまひければ、覚めていと なごり悲しく思して、漏り濡れたる廂の端つ方おし拭はせて、 ここかしこの御座ひきつくろはせなどしつつ、例ならず世づ きたまひて、 亡き人を恋ふる袂のひまなきに荒れたる軒のしづ くさへ添ふ も心苦しきほどになむありける。 惟光、邸内を探り、かろうじて案内を乞う 惟光入りて、めぐるめぐる人の音する方や と見るに、いささかの人げもせず。されば こそ、往き来の道に見入るれど、人住みげ もなきものを、と思ひて、帰り参るほどに、月明かくさし出

でたるに見れば、格子二間ばかりあげて、簾動くけしきなり。 わづかに見つけたる心地、恐ろしくさへおぼゆれど、寄りて 声づくれば、いともの古りたる声にて、まづ咳を先にたてて、 「かれは誰ぞ。何人ぞ」と問ふ。名のりして、 「侍従の君 と聞こえし人に対面たまはらむ」と言ふ。 「それは外になん ものしたまふ。されど思しわくまじき女なむはべる」と言ふ。 声いたうねび過ぎたれど、聞きし老人と聞き知りたり。  内には、思ひも寄らず、狩衣姿なる男、忍びやかに、もて なしなごやかなれば、見ならはずなりにける目にて、もし狐 などの変化にやとおぼゆれど、近う寄りて、 「たしかにな む承らまほしき。変らぬ御ありさまならば、たづねきこえ させたまふべき御心ざしも絶えずなむおはしますめるかし。 今宵も行き過ぎがてにとまらせたまへるを、いかが聞こえさ せむ。うしろやすくを」と言へば、女どもうち笑ひて、 「変 らせたまふ御ありさまならば、かかる浅茅が原をうつろひた

まはでははべりなんや。ただ推しはかりて聞こえさせたまへ かし。年経たる人の心にも、たぐひあらじとのみ、めづらか なる世をこそは見たてまつり過ごしはべる」
と、ややくづし 出でて、問はず語りもしつべきがむつかしければ、 「よし よし。まづかくなむ聞こえさせん」とて参りぬ。 源氏、惟光に導かれて邸内にはいる 「などかいと久しかりつる。いかにぞ。 昔の跡も見えぬ蓬のしげさかな」とのたま へば、 「しかじかなむたどり寄りてはべ りつる。侍従がをばの少将といひはべりし老人なん、変らぬ 声にてはべりつる」と、ありさま聞こゆ。いみじうあはれに、 「かかるしげき中に、何心地して過ぐしたまふらむ。今までと はざりけるよ」と、わが御心の情なさも思し知らる。 「い かがすべき。かかる忍び歩きも難かるべきを。かかるついで ならではえ立ち寄らじ。変らぬありさまならば、げにさこそ はあらめと推しはからるる人ざまになむ」とはのたまひなが

ら、ふと入りたまはむこと、なほつつましう思さる。ゆゑあ る御消息もいと聞こえまほしけれど、見たまひしほどの口お そさもまだ変らずは、御使の立ちわづらはむもいとほしう、 思しとどめつ。惟光も、 「さらにえ分けさせたまふまじき蓬 の露けさになむはべる。露すこし払はせてなむ、入らせたま ふべき」と聞こゆれば、 たづねてもわれこそとはめ道もなく深きよもぎのも とのこころを と独りごちて、なほ下りたまへば、御さきの露を馬の鞭して 払ひつつ入れたてまつる。雨そそきも、なほ秋の時雨めきて うちそそけば、 「御かささぶらふ。げに木の下露は、雨に まさりて」と聞こゆ。御指貫の裾はいたうそぼちぬめり。昔 だにあるかなきかなりし中門など、まして形もなくなりて、 入りたまふにつけても、いと無徳なるを、立ちまじり見る人 なきぞ心やすかりける。 末摘花、源氏と対面、和歌を唱和する

姫君は、さりともと、待ち過ぐしたまへる 心もしるくうれしけれど、いと恥づかしき 御ありさまにて対面せんもいとつつましく 思したり。大弐の北の方の奉りおきし御衣どもをも、心ゆか ず思されしゆかりに、見入れたまはざりけるを、この人々の 香の御唐櫃に入れたりけるが、いとなつかしき香したるを奉 りければ、いかがはせむに着かへたまひて、かのすすけたる 御几帳ひき寄せておはす。  入りたまひて、 「年ごろの隔てにも、心ばかりは変らず なん、思ひやりきこえつるを、さしもおどろかいたまはぬ恨 めしさに、今まで試みき こえつるを、杉ならぬ木- 立のしるさに、え過ぎで なむ負けきこえにける」 とて、帷子をすこしかき

やりたまへれば、例のいとつつましげに、とみにも答へきこ えたまはず。かくばかり分け入りたまへるが浅からぬに、思 ひおこしてぞ、ほのかに聞こえ出でたまひける。 「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれもおろ かならず、また変らぬ心ならひに、人の御心の中もたどり知 らずながら、分け入りはべりつる露けさなどをいかが思す。 年ごろの怠り、はた、なべての世に思しゆるすらむ。今より 後の御心にかなはざらむなん、言ひしに違ふ罪も負ふべき」 など、さしも思されぬことも、情々しう聞こえなしたまふこ とどもあんめり。  たちとどまりたまはむも、所のさまよりはじめ、まばゆき 御ありさまなれば、つきづきしうのたまひすぐして出でたま ひなむとす。ひき植ゑしならねど、松の木高くなりにける年- 月のほどもあはれに、夢のやうなる御身のありさまも思しつ づけらる。

「藤波のうち過ぎがたく見えつるはまつこそ宿のしる しなりけれ 数ふればこよなうつもりぬらむかし。都に変りにける事の多 かりけるも、さまざまあはれになむ。いまのどかにぞ鄙の別 れにおとろへし世の物語も聞こえ尽くすべき。年経たまへら む、春秋の暮らしがたさなども、誰にかは愁へたまはむと、 うらもなくおぼゆるも、かつはあやしうなむ」など聞こえた まへば、 年をへてまつしるしなきわが宿を花のたよりにす ぎぬばかりか と忍びやかにうちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、昔 よりはねびまさりたまへるにや、と思さる。  月入り方になりて、西の妻戸の開きたるより、さはるべき 渡殿だつ屋もなく、軒のつまも残りなければ、いとはなやか にさし入りたれば、あたりあたり見ゆるに、昔に変らぬ御し

つらひのさまなど、忍ぶ草にやつれたる上の見るめよりは、 みやびかに見ゆるを、昔物語に、たふこぼちたる人もありけ るを思しあはするに、同じさまにて年ふりにけるもあはれな り。ひたぶるにものづつみしたるけはひの、さすがにあてや かなるも、心にくく思されて、さる方にて忘れじ、と心苦し く思ひしを、年ごろさまざまのもの思ひにほれぼれしくて隔 てつるほど、つらしと思はれつらむと、いとほしく思す。  かの花散里も、あざやかに今めかしうなどははなやぎたま はぬ所にて、御目移しこよなからぬに、咎多う隠れにけり。 源氏、末摘花を心厚く庇護する 祭、御禊などのほど、御いそぎどもにこと つけて、人の奉りたる物いろいろに多かる を、さるべきかぎり御心加へたまふ。中に も、この宮には、こまやかに思しよりて、睦ましき人々に仰 せ言たまひ、下部どもなど遣はして、蓬払はせ、めぐりの 見苦しきに、板垣といふものうち堅め繕はせたまふ。かうた

づね出でたまへりと聞き伝へんにつけても、わが御ため面目 なければ、渡りたまふことはなし。御文いとこまやかに書き たまひて、二条院近き所を造らせたまふを、 「そこになむ渡 したてまつるべき。よろしき童べなど、求めさぶらはせたま へ」など、人々の上まで思しやりつつ、とぶらひきこえたま へば、かくあやしき蓬のもとには置きどころなきまで、女ば らも空を仰ぎてなむ、そなたに向きてよろこびきこえける。  なげの御すさびにても、おしなべたる世の常の人をば目と どめ耳たてたまはず、世にすこしこれはと思ほえ、心地にと まるふしあるあたりを尋ね寄りたまふものと人の知りたるに、 かくひき違へ、何ごともなのめにだにあらぬ御ありさまをも のめかし出でたまふは、いかなりける御心にかありけむ。こ れも昔の契りなめりかし。  今は限りとあなづりはてて、さまざまに競ひ散りあかれし 上下の人々、我も我も参らむとあらそひ出づる人もあり。心

ばへなど、はた、埋れいたきまでよくおはする御ありさまに、 心やすくならひて、ことなる事なきなま受領などやうの家に ある人は、ならはずはしたなき心地するもありて、うちつけ の心みえに参り帰る。  君は、いにしへにもまさりたる御勢のほとにて、ものの 思ひやりもまして添ひたまひにければ、こまやかに思しおき てたるに、にほひ出でて、宮の内やうやう人目見え、木草の 葉もただすごくあはれに見えなされしを、遣水かき払ひ、前- 栽の本立ちも涼しうしなしなどして、ことなるおぼえなき下- 家司の、ことに仕へまほしきは、かく御心とどめて思さるる ことなめりと見とりて、御気色たまはりつつ、追従し仕うま つる。 末摘花、二条東院に移り住む 二年ばかりこの古宮にながめたまひて、 東の院といふ所になむ、後は渡したてま つりたまひける。対面したまふことなどは、

いと難けれど、近き標のほどにて、おほかたにも渡りたまふ に、さしのぞきなどしたまひつつ、いとあなづらはしげにも てなしきこえたまはず。  かの大弐の北の方上りて驚き思へるさま、侍従が、うれし きものの、いましばし待ちきこえざりける心浅さを恥づかし う思へるほどなどを、いますこし問はず語りもせまほしけれ ど、いと頭いたう、うるさくものうければなむ、いままたも ついであらむをりに、思ひ出でてなむ聞こゆべきとぞ。 The Gatehouse 常陸より帰京の空蝉、逢坂で源氏と出あう

伊予介といひしは、故院崩れさせたまひて またの年、常陸になりて下りしかば、かの 帚木もいざなはれにけり。須磨の御旅居も はるかに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざり しかど、伝へきこゆべきよすがだになくて、筑波嶺の山を吹 き越す風も浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて年- 月重なりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に 帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ常陸は上りける。  関入る日しも、この殿、石山に御願はたしに詣でたまひけ り。京より、かの紀伊守などいひし子ども、迎へに来たる人- 人、この殿かく詣でたまふべし、と告げければ、道のほど騒 がしかりなむものぞとて、まだ暁より急ぎけるを、 女車多

く、ところせうゆるぎ来るに、日たけぬ。打出の浜来るほど に、 「殿は粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人々、道も避 りあへず来こみぬれば、関山にみな下りゐて、ここかしこの 杉の下に車どもかきおろし、木隠れにゐかしこまりて過ぐし たてまつる。車などかたへは後らかし、前に立てなどしたれ ど、なほ類ひろく見ゆ。車十ばかりぞ、袖口物の色あひな ども漏り出でて見えたる、田舎びずよしありて、斎宮の御下 り、何ぞやうのをりの物見車思し出でらる。殿もかく世に栄 え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、みな目とど めたり。  九月晦日なれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯の草、むら むらをかしう見えわたるに、関屋よりさとくづれ出でたる 旅姿どもの、いろいろの襖のつきづきしき縫ひ物、括り染の さまも、さる方にをかしう見ゆ。御車は簾おろしたまひて、 かの昔の小君、今は右衛門佐なるを召し寄せて、 「今日の

御関迎へは、え思ひ棄てたまはじ」
などのたまふ。御心の中 いとあはれに思し出づる事多かれど、おほぞうにてかひな し。女も、人知れず昔の事忘れねば、とり返してものあはれ なり。 行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は 見るらむ え知りたまはじかし、と思ふに、いとかひなし。 源氏、右衛門左を通じて空蝉と文通する 石山より出でたまふ御迎へに右衛門佐参れ り。一日まかり過ぎしかしこまりなど申す。 昔、童にていと睦ましうらうたきものにし たまひしかば、かうぶりなど得しまで、この御徳に隠れたり しを、おぼえぬ世の騒ぎありしころ、ものの聞こえに憚りて 常陸に下りしをぞ、すこし心おきて年ごろは思しけれど、色 にも出だしたまはず。昔のやうにこそあらねど、なほ親しき 家人の中には数へたまひけり。紀伊守といひしも、今は河内-

守にぞなりにける。その弟の右近将監解けて御供に下りしを ぞ、とり分きてなし出でたまひければ、それにぞ誰も思ひ知 りて、などてすこしも世に従ふ心をつかひけん、など思ひ出 でける。  佐召し寄せて御消息あり。今は思し忘れぬべきことを、心- 長くもおはするかな、と思ひゐたり。 「一日は契り知られ しを、さは思し知りけむや。 わくらばに行きあふみちをたのみしもなほかひなしやし ほならぬ海 関守の、さもうらやましく、めざましかりしかな」とあり。 「年ごろのと絶えもうひうひしくなりにけれど、心にはい つとなく、ただ今の心地するならひになむ。すきずきしう、 いとど憎まれむや」とてたまへれば、かたじけなくて持て行 きて、 「なほ聞こえたまへ。昔にはすこし思し退くこと あらむと思ひたまふるに、同じやうなる御心のなつかしさな

む、いとどあり難き。すさびごとぞ用なきことと思へど、え こそすくよかに聞こえかへさね。女にては負けきこえたまへ らむに、罪ゆるされぬべし」
など言ふ。今はましていと恥づ かしう、よろづの事うひうひしき心地すれど、めづらしきに や、え忍ばれざりけむ、 「あふさかの関やいかなる関なれば繁きなげきの中を わくらん 夢のやうになむ」と聞こえたり。  あはれもつらさも忘れぬふしと思しおかれたる人なれば、 をりをりはなほのたまひ動かしけり。 空蝉、夫と死別 河内守の懸想を避け出家 かかるほどに、この常陸守、老いのつもり にや、悩ましくのみして、もの心細かりけ れば、子どもに、ただこの君の御ことをの み言ひおきて、 「よろづの事、ただこの御心にのみまかせて、 ありつる世に変らで仕うまつれ」とのみ、明け暮れ言ひけり。

女君、心うき宿世ありて、この人にさへ後れて、いかなるさ まにはふれまどふべきにかあらん、と思ひ嘆きたまふを見る に、 「命の限りあるものなれば、惜しみとどむべき方もなし。 いかでか、この人の御ために残しおく魂もがな。わが子ども の心も知らぬを」とうしろめたう悲しきことに言ひ思へど、 心にえとどめぬものにて、亡せぬ。  しばしこそ、さのたまひしものをなど、情づくれど、うは べこそあれ、つらき事多かり。とあるもかかるも世の道理な れば、身ひとつのうきことにて嘆き明かし暮らす。ただこの 河内守のみぞ、昔よりすき心ありてすこし情がりける。 「あはれにのたまひおきし、数ならずとも、思し疎までのた まはせよ」など追従し寄りて、いとあさましき心の見えけれ ば、うき宿世ある身にて、かく生きとまりて、はてはてはめ づらしきことどもを聞き添ふるかなと、人知れず思ひ知りて、 人にさなむとも知らせで、尼になりにけり。ある人々、いふ

かひなしと思ひ嘆く。守もいとつらう、 「おのれを厭ひ たまふほどに、残りの御齢は多くものしたまふらむ、いかで か過ぐしたまふべき」などぞ。あいなのさかしらや、などぞ はべるめる。 A Picture Contest 前斎宮入内する 朱雀院の豪勢な贈物

前斎宮の御参りのこと、中宮の御心に入れ てもよほしきこえたまふ、こまかなる御と ぶらひまで、とり立てたる御後見もなしと 思しやれど、大殿は、院に聞こしめさむことを憚りたまひて、 二条院に渡したてまつらむことをも、この度は思しとまりて、 ただ知らず顔にもてなしたまへれど、おほかたの事どもはと りもちて、親めききこえたまふ。  院はいと口惜しく思しめせど、人わろければ、御消息など 絶えにたるを、その日になりて、 えならぬ御よそひども、御櫛の 箱、うちみだりの箱、香壼の箱 ども世の常ならず、くさぐさの

御薫物ども、薫衣香、またなきさまに、百歩の外を多く過ぎ 匂ふまで、心ことにととのへさせたまへり。大臣見たまひも せんにと、かねてよりや思し設けけむ、いとわざとがましか むめり。  殿も渡りたまへるほどにて、かくなむと女別当御覧ぜさす。 ただ御櫛の箱の片つ方を見たまふに、尽きせずこまかになま めきてめづらしきさまなり。さし櫛の箱の心葉に、 わかれ路に添へし小櫛をかごとにてはるけきなかと神 やいさめし 大臣これを御覧じつけて、思しめぐらすに、いとかたじけな くいとほしくて、わが御心のならひあやにくなる身をつみて、 かの下りたまひしほど、御心に思ほしけんこと、かう年経て 帰りたまひて、その御心ざしをも遂げたまふべきほどに、か かる違ひ目のあるを、 「いかに思すらむ。御位を去り、もの 静かにて、世をうらめしとや思すらむ」など、我になりて心

動くべきふしかな、と思しつづけたまふに、いとほしく、 「何 にかくあながちなる事を思ひはじめて、心苦しく思ほしなや ますらむ。つらしとも思ひきこえしかど、またなつかしうあ はれなる御心ばへを」など、思ひ乱れたまひて、とばかりう ちながめたまへり。 「この御返りは、いかやうにか聞こえさせたまふらむ。 また御消息もいかが」など聞こえたまへど、いとかたはらい たければ、御文はえひき出でず。宮は悩ましげに思して、 御返りいとものうくしたまへど、 「聞こえたまはざらむも、 いと情なくかたじけなかるべし」と、人々そそのかしわづら ひきこゆるけはひを聞きたまひて、 「いとあるまじき御事 なり。しるしばかり聞こえさせたまへ」と聞こえたまふも、 いと恥づかしけれど、いにしへ思し出づるに、いとなまめき きよらにて、いみじう泣きたまひし御さまを、そこはかとな くあはれと見たてまつりたまひし御幼心も、ただ今の事と

おぼゆるに、故御息所の御ことなど、かきつらねあはれに思 されて、ただかく、 別るとてはるかにいひしひとこともかへりてもの は今ぞかなしき とばかりやありけむ。御使の禄品々に賜はす。大臣は御返り をいとゆかしう思せど、え聞こえたまはず。 源氏参内、故六条御息所を回想する 「院の御ありさまは、女にて見たてまつら まほしきを、この御けはひも似げなからず、 いとよき御あはひなめるを、内裏はまだい といはけなくおはしますめるに、かくひき違へきこゆるを、 人知れず、ものしとや思すらむ」など、憎きことをさへ思し やりて、胸つぶれたまへど、今日になりて思しとどむべきこ とにしあらねば、事どもあるべきさまにのたまひおきて、睦 ましう思す修理宰相をくはしく仕うまつるべくのたまひて、 内裏に参りたまひぬ。

 うけばりたる親ざまには聞こしめされじ、と院をつつみき こえたまひて、御とぶらひばかりと見せたまへり。よき女房 などはもとより多かる宮なれば、里がちなりしも参りつどひ て、いと二なく、けはひあらまほし。 「あはれ、おはせまし かば、いかにかひありて思しいたづかまし」と昔の御心ざま 思し出づるに、 「おほかたの世につけては、惜しうあたらし かりし人の御ありさまぞや。さこそえあらぬものなりけれ。 よしありし方はなほすぐれて」もののをりごとに思ひ出でき こえたまふ。 冷泉帝、斎宮の女御・弘徽殿女御と睦ぶ 中宮も内裏にぞおはしましける。上は、め づらしき人参りたまふと聞こしめしければ、 いとうつくしう御心づかひしておはします。 ほどよりはいみじうざれ大人びたまへり。宮も、 「かく恥づ かしき人参りたまふを、御心づかひして、見えたてまつらせ たまへ」と聞こえたまひけり。人知れず、大人は恥づかしう

やあらむと思しけるを、いたう夜更けて参う上りたまへり。 いとつつましげにおほどかにて、ささやかにあえかなるけは ひのしたまへれば、いとをかし、と思しけり。  弘徽殿には御覧じつきたれば、睦ましうあはれに心やすく 思ほし、これは人ざまもいたうしめり恥づかしげに、大臣の 御もてなしもやむごとなくよそほしければ、あなづりにくく 思されて、御宿直などは等しくしたまへど、うちとけたる御- 童遊びに、昼など渡らせたまふことは、あなたがちにおは します。権中納言は、思ふ心ありて聞こえたまひけるに、か く参りたまひて、御むすめにきしろふさまにてさぶらひたま ふを、かたがたに安からず思すべし。 朱雀院、源氏と対面 帝の後宮二所相競う 院には、かの櫛の箱の御返り御覧ぜしにつ けても、御心離れがたかりけり。そのころ 大臣の参りたまへるに、御物語こまやかな り。事のついでに、斎宮の下りたまひしこと、さきざきもの

たまひ出づれば、聞こえ出でたまひて、さ思ふ心なむありし などはえあらはしたまはず。大臣も、かかる御気色聞き顔に はあらで、ただいかが思したるとゆかしさに、とかうかの御 ことをのたまひ出づるに、あはれなる御気色あさはかならず 見ゆれば、いといとほしく思す。  めでたしと思ほししみにける御容貌、いかやうなるをかし さにかと、ゆかしう思ひきこえたまへど、さらにえ見たてま つりたまはぬを、ねたう思ほす。いと重りかにて、ゆめにも いはけたる御ふるまひなどのあらばこそ、おのづからほの見 えたまふついでもあらめ、心にくき御けはひのみ深さまされ ば、見たてまつりたまふままに、いとあらまほし、と思ひき こえたまへり。  かく隙間なくて二ところさぶらひたまへば、兵部卿宮、 すがすがともえ思ほし立たず、帝大人びたまひなば、さりと もえ思ほし棄てじ、とぞ待ち過ぐしたまふ。二ところの御お

ぼえども、とりどりに、いどみたまへり。 帝、絵を好む 後宮、絵の蒐集にまた競う 上はよろづの事にすぐれて絵を興あるもの に思したり。立てて好ませたまへばにや、 二なく描かせたまふ。斎宮の女御、いとを かしう描かせたまひければ、これに御心移りて、渡らせたま ひつつ、描きかよはさせたまふ。殿上の若き人々もこの事ま ねぶをば、御心とどめてをかしきものに思ほしたれば、まし て、をかしげなる人の、心ばへあるさまに、まほならず描き すさび、なまめかしう添ひ臥して、とかく筆うちやすらひた まへる御さま、らうたげさに御心しみて、いとしげう渡らせ たまひて、ありしよりけに御思ひまされるを、権中納言聞き たまひて、あくまでかどかどしく今めきたまへる御心にて、 我人に劣りなむやと思しはげみて、すぐれたる上手どもを召 し取りて、いみじくいましめて、またなきさまなる絵どもを、 二なき紙どもに描き集めさせたまふ。 「物語絵こそ心

ばへ見えて見どころあるものなれ」
とて、おもしろく心ばへ あるかぎりを選りつつ描かせたまふ。例の月次の絵も、見馴 れぬさまに、言の葉を書きつづけて御覧ぜさせたまふ。わざ とをかしうしたれば、またこなたにてもこれを御覧ずるに、 心やすくも取り出でたまはず、いといたく秘めて、この御方 へ持て渡らせたまふを惜しみ領じたまへば、大臣聞きたまひ て、 「なほ権中納言の御心ばへの若々しさこそあらたまり がたかめれ」など笑ひたまふ。 「あながちに隠して、心やすくも御覧ぜさせず、悩まし きこゆる、いとめざましや。古代の御絵どものはべる、まゐ らせむ」と奏したまひて、殿に古きも新しきも絵ども入りた る御廚子ども開かせたまひて、女君ともろともに、今めかし きはそれそれと選りととのへさせたまふ。長恨歌王昭君など やうなる絵は、おもしろくあはれなれど、事の忌あるはこた みは奉らじと選りとどめたまふ。

 かの旅の御日記の箱をも取り出でさせたまひて、このつい でにぞ、女君にも見せたてまつりたまひける。御心深く知ら で今見む人だに、すこしもの思ひ知らむ人は、涙惜しむまじ くあはれなり。まいて忘れがたく、その世の夢を思しさます をりなき御心どもには、とり返し悲しう思し出でらる。今ま で見せたまはざりける恨みをぞ聞こえたまひける。 「ひとりゐて嘆きしよりはあまのすむかたをかくて ぞ見るべかりける おぼつかなさは、慰みなましものを」とのたまふ。いとあは れと思して、 うきめ見しそのをりよりも今日はまた過ぎにしかた にかへる涙か 中宮ばかりには、見せたてまつるべきものなり。かたはなる まじき一帖づつ、さすがに浦々のありさまさやかに見えたる を選りたまふついでにも、かの明石の家ゐぞ、まづいかにと

思しやらぬ時の間なき。  かう絵ども集めらると聞きたまひて、権中納言いとど心を 尽くして、軸、表紙、紐の飾、いよいよととのへたまふ。三- 月の十日のほどなれば、空もうららかにて、人の心ものび、 ものおもしろきをりなるに、内裏わたりも、節会どものひま なれば、ただかやうの事どもにて、御方々暮らしたまふを、 同じくは、御覧じどころもまさりぬべくて奉らむの御心つき て、いとわざと集めまゐらせたまへり。こなたかなたとさま ざまに多かり。物語絵はこまやかに、なつかしさまさるめる を、梅壼の御方は、いにしへの物語、名高くゆゑあるかぎり、 弘徽殿は、そのころ世にめづらしく、をかしきかぎりを選り 描かせたまへれば、うち見る目の今めかしき華やかさは、い とこよなくまされり。上の女房なども、よしあるかぎり、こ れはかれはなど定めあへるを、このごろの事にすめり。 藤壺の御前で物語絵の優劣を争う

中宮も参らせたまへるころにて、かたがた 御覧じ棄てがたく思ほすことなれば、御行 ひも怠りつつ御覧ず。この人々のとりどり に論ずるを聞こしめして、左右と方分かたせたまふ。梅壼の 御方には、平典侍、侍従内侍、少将命婦、右には大弐典- 侍、中将命婦、兵衛命婦をただ今は心にくき有職どもにて、心- 心にあらそふ口つきどもををかしと聞こしめして、まづ、物- 語の出で来はじめの親なる竹取の翁に宇津保の俊蔭を合はせ てあらそふ。 「なよ竹の世々に古りにける事をかしきふし もなけれど、かぐや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに 思ひのぼれる契りたかく、神世のことなめれば、浅はかなる 女、目及ばぬならむかし」と言ふ。右は、 「かぐや姫の上り けむ雲ゐはげに及ばぬことなれば、誰も知りがたし。この世 の契りは竹の中に結びければ、下れる人のこととこそは見ゆ めれ。ひとつ家の内は照らしけめど、ももしきのかしこき御-

光には並ばずなりにけり。阿倍のおほしが千々の金を棄てて、 火鼠の思ひ片時に消えたるもいとあへなし。車持の親王の、 まことの蓬莱の深き心も知りながら、いつはりて玉の枝に瑕 をつけたるを、あやまちとなす」
絵は巨勢相覧、手は紀貫之 書けり。紙屋紙に唐の綺を陪して、赤紫の表紙、紫檀の軸、 世の常のよそひなり。 「俊蔭は、激しき浪風におぼほれ、 知らぬ国に放たれしかど、なほさして行きける方の心ざしも かなひて、つひに他の朝廷にもわが国にもありがたき才のほ どを弘め、名を残しける古き心をいふに、絵のさまも唐土と 日本とを取り並べて、おもしろきことどもなほ並びなし」と 言ふ。白き色紙、青き表紙、黄なる玉の軸なり。絵は常則、 手は道風なれば、今めかしうをかしげに、目も輝くまで見ゆ。 左にはそのことわりなし。  次に伊勢物語に、正三位を合はせて、また定めやらず。こ れも右はおもしろくにぎははしく、内裏わたりよりうちはじ

め、近き世のありさまを描きたるは、をかしう見どころまさ る。平内侍、 「伊勢の海のふかきこころをたどらずてふりにし跡と波 や消つべき 世の常のあだごとのひきつくろひ飾れるにおされて、業平か 名をや朽すべき」と、あらそひかねたり。右の典侍、 雲のうへに思ひのぼれる心には千ひろの底もはるかにぞ 見る 「兵衛の大君の心高さは、げに棄てがたけれど、在五中将 の名をば、え朽さじ」とのたまはせて、宮、 見るめこそうらふりぬらめ年へにし伊勢をのあまの 名をや沈めむ かやうの女言にて、乱りがはしく争ふに、一巻に言の葉を尽 くして、えも言ひやらず。ただ、浅はかなる若人どもは死に かへりゆかしがれど、上のも、宮のも、片はしをだにえ見ず、

いといたう秘めさせたまふ。 朱雀院、秘蔵の絵巻を斎宮の女御に贈る 大臣参りたまひて、かくとりどりに争ひ騒 ぐ心ばへども、をかしく思して、 「同 じくは、御前にてこの勝負定めむ」とのた まひなりぬ。かかる事もやと、かねて思しければ、中にもこ となるは選りとどめたまへるに、かの須磨明石の二巻は、 思すところありて取りまぜさせたまへり。中納言もその御心 劣らず。このころの世には、ただかくおもしろき紙絵をとと のふることを、天の下営みたり。 「今あらため描かむこと は本意なきことなり。ただありけむかぎりをこそ」とのたま へど、中納言は人にも見せで、わりなき窓をあけて描かせた まひけるを、院にもかかる事聞かせたまひて、梅壼に御絵ど も奉らせたまへり。  年の内の節会どものおもしろく興あるを、昔の上手どもの とりどりに描けるに、延喜の御手づから、事の心描かせたま

へるに、またわが御世の事も描かせたまへる巻に、かの斎宮 の下りたまひし日の大極殿の儀式、御心にしみて思しければ、 描くべきやうくはしく仰せられて、公茂が仕うまつれるが、 いといみじきを奉らせたまへり。艶に透きたる沈の箱に、同 じき心葉のさまなどいと今めかし。御消息はただ言葉にて、 院の殿上にさぶらふ左近中将を御使にてあり。かの大極殿の 御輿寄せたる所の、神々しきに、 身こそかくしめのほかなれそのかみの心のうちを忘れ しもせず とのみあり。聞こえたまはざらむもいとかたじけなければ、 苦しう思しながら、昔の御髪ざしの端をいささか折りて、 しめのうちは昔にあらぬ心地して神代のことも今ぞ 恋しき とて、縹の唐の紙につつみて参らせたまふ。御使の禄などい となまめかし。

 院の帝御覧ずるに、限りなくあはれと思すにぞ、ありし世 をとり返さまほしく思ほしける。大臣をもつらしと思ひきこ えさせたまひけんかし。過ぎにし方の御報いにやありけむ。  院の御絵は、后の宮より伝はりて、あの女御の御方にも多 く参るべし。尚侍の君も、かやうの御好ましさは人にすぐれ て、をかしきさまにとりなしつつ集めたまふ。 帝の御前の絵合 源氏の絵日記他を圧する その日と定めて、にはかなるやうなれど、 をかしきさまにはかなうしなして、左右の 御絵ども参らせたまふ。女房のさぶらひに 御座よそはせて、北南方々分かれてさぶらふ。殿上人は 後涼殿の簀子におのおの心寄 せつつさぶらふ。左は紫檀の 箱に蘇芳の華足、敷物には紫- 地の唐の錦、打敷は葡萄染の 唐の綺なり。童六人、赤色に

桜襲の汗衫、衵は紅に藤襲の織物なり。姿用意などなべて ならず見ゆ。右は沈の箱に浅香の下机、打敷は青地の高麗の 錦、あしゆひの組、華足の心ばへなど今めかし。童、青色に 柳の汗衫、山吹襲の衵着たり、みな御前にかき立つ。上の女- 房前後と装束き分けたり。  召しありて、内大臣権中納言参りたまふ。その日、帥宮も 参りたまへり。いとよしありておはするうちに、絵を好みた まへば、大臣の下にすすめたまへるやうやあらむ、ことご としき召しにはあらで、殿上におはするを、仰せ言ありて、 御前に参りたまふ。この判仕うまつりたまふ。いみじうげに 描きつくしたる絵どもあり。さらにえ定めやりたまはず。例 の四季の絵も、いにしへの上手どものおもしろき事どもを選 びつつ筆とどこほらず描きながしたるさま、たとへん方なし と見るに、紙絵は限りありて、山水のゆたかなる心ばへをえ 見せ尽くさぬものなれば、ただ筆の飾り、人の心に作りたて

られて、今の浅はかなるも昔の跡に恥なく、にぎははしくあ なおもしろと見ゆる筋はまさりて、多くの争ひども、今日は かたがたに興あることも多かり。  朝餉の御障子を開けて、中宮もおはしませば、深う知ろし めしたらむと思ふに、大臣もいと優におぼえたまひて、所ど ころの判ども心もとなきをりをりに、時々さしいらへたまひ けるほどあらまほし。定めかねて夜に入りぬ。  左はなほ数ひとつあるはてに、須磨の巻出で来たるに、中- 納言の御心騒ぎにけり。あなたにも心して、はての巻は心こ とにすぐれたるを選りおきたまへるに、かかるいみじきもの の上手の、心の限り思ひ澄まして静かに描きたまへるは、た とふべき方なし。親王よりはじめたてまつりて、涙とどめた まはず。その世に、心苦し悲しと思ほししほどよりも、おは しけむありさま、御心に思ししことども、ただ今のやうに見 え、所のさま、おぼつかなき浦々磯の隠れなく描きあらはし

たまへり。草の手に仮名の所どころに書きまぜて、まほのく はしき日記にはあらず、あはれなる歌などもまじれる、たぐ ひゆかし。誰も他ごと思ほさず、さまざまの御絵の興、これ にみな移りはてて、あはれにおもしろし。よろづみなおしゆ づりて、左勝つになりぬ。 源氏と帥宮才芸・絵画を論ずる 後の遊宴 夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれ に思されて、御土器などまゐるついでに、 昔の御物語ども出で来て、 「いはけなき ほどより、学問に心を入れてはべりしに、すこしも才などつ きぬべくや御覧じけむ、院ののたまはせしやう、才学といふ もの、世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進み ぬる人の、命幸ひと並びぬるは、いと難きものになん。品- 高く生まれ、さらでも人に劣るまじきほどにて、あながち にこの道な深く習ひそ、といさめさせたまひて、本才のかた がたのもの教へさせたまひしに、拙なきこともなく、またと

り立ててこの事と心得ることもはべらざりき。絵描くことの みなむ、あやしく、はかなきものから、いかにしてかは心ゆ くばかり描きてみるべきと思ふをりをりはべりしを、おぼえ ぬ山がつになりて、四方の海の深き心を見しに、さらに思ひ 寄らぬ隈なくいたられにしかど、筆のゆく限りありて、心よ りは事ゆかずなむ思うたまへられしを、ついでなくて御覧ぜ さすべきならねば、かうすきずきしきやうなる、後の聞こえ やあらむ」
と、親王に申したまへば、  「何の才も、心よ り放ちて習ふべきわざならねど、道々に物の師あり、まねび どころあらむは事の深さ浅さは知らねど、おのづからうつさ むに跡ありぬべし。筆とる道と碁打つこととぞ、あやしう 魂のほど見ゆるを、深き労なく見ゆるおれ者も、さるべき にて描き打つたぐひも出で来れど、家の子の中には、なほ人 に抜けぬる人、何ごとをも好み得けるとぞ見えたる。院の御- 前にて、親王たち、内親王、いづれかはさまざまとりどりの

才ならはさせたまはざりけむ。その中にも、とり立てたる御- 心に入れて、伝へうけとらせたまへるかひありて、文才をば さるものにていはず、さらぬことの中には、琴弾かせたまふ ことなん一の才にて、次には横笛、琵琶、箏の琴をなむ次々 に習ひたまへると、上も思しのたまはせき。世の人しか思ひ きこえさせたるを、絵はなほ筆のついでにすさびさせたまふ あだ事とこそ思ひたまへしか。いとかうまさなきまで、いに しへの墨書きの上手ども跡をくらうなしつべかめるは、かへ りてけしからぬわざなり」
と、うち乱れて聞こえたまひて、 酔泣きにや、院の御事聞こえ出でて、みなうちしほたれたま ひぬ。  二十日あまりの月さし出でて、こなたはまださやかならね ど、おほかたの空をかしきほどなるに、書司の御琴召し出で て、和琴、権中納言たまはりたまふ。さは言へど、人にまさ りて掻きたてたまへり。親王、箏の御琴、大臣、琴、琵琶は

少将命婦仕うまつる。上人の中にすぐれたるを召して、拍子 たまはす。いみじうおもしろし。明けはつるままに、花の色 も人の御容貌どももほのかに見えて、鳥のさへづるほど、心- 地ゆき、めでたき朝ぼらけなり。禄どもは、中宮の御方より たまはす。親王は御衣、また重ねてたまはりたまふ。 源氏、わが栄華を恐れ、後生を思う そのころのことには、この絵のさだめをし たまふ。 「かの浦々の巻は、中宮にさぶ らはせたまへ」と聞こえさせたまひければ、 これがはじめ、また残りの巻々ゆかしがらせたまへど、 「今つぎつぎに」と聞こ えさせたまふ。上にも御- 心ゆかせたまひて思しめ したるを、うれしく見た てまつりたまふ。はかな き事につけても、かうも

てなしきこえたまへば、権中納言は、なほおぼえおさるべき にや、と心やましう思さるべかめり。上の御心ざしは、もと より思ししみにければ、なほこまやかに思しめしたるさまを、 人知れず見たてまつり知りたまひてぞ、頼もしく、さりとも と思されける。  さるべき節会どもにも、この御時よりと、末の人の言ひ伝 ふべき例を添へむと思し、私ざまのかかるはかなき御遊びも めづらしき筋にせさせたまひて、いみじきさかりの御世なり。  大臣ぞ、なほ常なきものに世を思して、今すこしおとなび おはしますと見たてまつりて、なほ世を背きなんと、深く思 ほすべかめる。 「昔のためしを見聞くにも、齢足らで官位 高くのぼり、世に抜けぬる人の、長くえ保たぬわざなりけり。 この御世には、身のほどおぼえ過ぎにたり。中ごろなきにな りて沈みたりし愁へにかはりて、今までもなからふるなり。 今より後の栄えはなほ命うしろめたし。静かに籠りゐて、後

の世のことをつとめ、かつは齢をも延べん」
と思ほして、山- 里ののどかなるを占めて、御堂を造らせたまふ。仏経のい となみ添へてせさせたまふめるに、末の君たち、思ふさまに かしづき出だして見む、と思しめすにぞ、とく棄てたまはむ ことは難げなる。いかに思しおきつるにかと、いと知りがた し。 The Wind in the Pines 二条の東院成り、花散里などを住まわせる

東の院造りたてて、花散里と聞こえし、 移ろはしたまふ。西の対、渡殿などかけて、 政所家司など、あるべきさまにしおかせた まふ。東の対は、明石の御方と思しおきてたり。北の対は、 ことに広く造らせたまひて、かりにてもあはれと思して、行 く末かけて契り頼めたまひし人々集ひ住むべきさまに、隔て 隔てしつらはせたまへるしも、なつかしう見どころありて、 こまかなり。寝殿は塞げたまはず、時々渡りたまふ御住み所 にして、さる方なる御しつらひどもしおかせたまへり。 明石の入道娘のために大堰の邸を修築する 明石には御消息絶えず、今はなほ上りぬべ きことをばのたまへど、女はなほわか身の ほどを思ひ知るに、 「こよなくやむごとな

き際の人々だに、なかなかさてかけ離れぬ御ありさまのつれ なきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして何ばか りのおぼえなりとてかさし出でまじらはむ。この若君の御面- 伏せに、数ならぬ身のほどこそあらはれめ。たまさかに這ひ 渡りたまふついでを待つことにて、人わらへにはしたなきこ といかにあらむ」
と思ひ乱れても、また、さりとて、かかる 所に生ひ出で、数まへられたまはざらむも、いとあはれなれ ば、ひたすらにもえ恨み背かず。親たちもげにことわりと思 ひ嘆くに、なかなか心も尽きはてぬ。  昔、母君の御祖父、中務宮と聞こえけるが領じたまひけ る所、大堰川のわたりにありけるを、その御後はかばかし う相継ぐ人もなくて、年ごろ荒れまどふを思ひ出でて、かの 時より伝はりて宿守のやうにてある人を呼びとりて語らふ。 「世の中を今はと思ひはてて、かかる住まひに沈みそめし かども、末の世に思ひかけぬ事出で来てなん、さらに都の住

み処求むるを、にはかにまばゆき人中いとはしたなく、田舎 びにける心地も靜かなるまじきを、古き所尋ねてとなむ思ひ よる。さるべき物は上げ渡さむ。修理などして、形のごと、 人住みぬべくは繕ひなされなむや」
と言ふ。預り、 「この年 ごろ、領ずる人もものしたまはず、あやしき藪になりてはべ れば、下屋にぞ繕ひて宿りはべるを、この春のころより、内 の大殿の造らせたまふ御堂近くて、かのわたりなむ、いとけ 騒がしうなりにてはべる。いかめしき御堂ども建てて、多く の人なむ造り営みはべるめる。静かなる御本意ならば、それ や違ひはべらむ」 「何か。それも、かの殿の御蔭にかたか けて、と思ふことありて。おのづからおひおひに内のことど もはしてむ。まづ急ぎておほかたの事どもをものせよ」と言 ふ。 「みづから領ずる所にはべらねど、また知り伝へたま ふ人もなければ、かごかなるならひにて、年ごろ隠ろへはべ りつるなり。御庄の田畠などいふことのいたづらに荒れは

べりしかば、故民部大輔の君に申し賜はりて、さるべき物な ど奉りてなん、領じ作りはべる」
など、そのあたりの貯へ のことどもをあやふげに思ひて、鬚がちにつなし憎き顔を、 鼻などうち赤めつつはちぶき言へば、 「さらにその田など やうのことはここに知るまじ。ただ年ごろのやうに思ひても のせよ。券などはここになむあれど、すべて世の中を棄てた る身にて、年ごろともかくも尋ね知らぬを、そのこともいま 詳しくしたためむ」など言ふにも、大殿のけはひをかくれば、 わづらはしくて、その後、物など多く受け取りてなん急ぎ造 りける。  かやうに思ひ寄るらんとも知りたまはで、上らむことをも のうがるも心得ず思し、若君のさてつくづくとものしたまふ を、後の世に人の言ひ伝へん、いま一際人わろき瑕にや、と 思ほすに、造り出でてぞ、 「しかじかの所をなむ思ひ出でた る」と聞こえさせける。人にまじらはむことを、苦しげにの

みものするは、かく思ふなりけり、と心得たまふ。口惜しか らぬ心の用意かなと、思しなりぬ。  惟光朝臣、例の忍ぶる道は、いつとなくいろひ仕うまつ る人なれば遣はして、さるべきさまに、ここかしこの用意な どせさせたまひけり。 「あたりをかしうて、海づらに通ひ たる所のさまになむはべりける」と聞こゆれば、さやうの住 まひによしなからずはありぬべし、と思す。造らせたまふ御- 堂は、大覚寺の南に当りて、滝殿の心ばへなど劣らずおもし ろき寺なり。これは川づらに、えもいはぬ松蔭に、何のいた はりもなく建てたる寝殿のことそぎたるさまも、おのづから 山里のあはれを見せたり。内のしつらひなどまで思しよる。 京より迎えの使者下る 明石一家の哀歓 親しき人々、いみじう忍びて下し遣わす。 のがれ難くて、いまはと思ふに、年経つる 浦を離れなむことあはれに、入道の心細く て独りとまらんことを思ひ乱れて、よろづに悲し。すべてな

どかく心づくしになりはじめけむ身にかと、露のかからぬた ぐひうらやましくおぼゆ。親たちも、かかる御迎へにて上 る幸ひは、年ごろ寝ても覚めても願ひわたりし心ざしのかな ふと、いとうれしけれど、あひ見で過ぐさむいぶせさの、た へがたう悲しければ、夜昼思ひほれて、同じことをのみ、 「さらば若君をば見たてまつらでははべるべきか」と言ふ よりほかのことなし。母君もいみじうあはれなり。年ごろだ に、同じ庵にも住まずかけ離れつれば、まして誰によりてか は、かけとどまらむ。ただ、あだにうち見る人の、あさはか なる語らひだに、みなれそなれて、別るるほどはただならざ めるを、まして、もてひがめたる頭つき、心おきてこそ頼も しげなけれど、またさる方に、これこそは世を限るべき住み 処なれと、ありはてぬ命を限りに思ひて、契り過ぐしきつる を、にはかに行き離れなむも心細し。若き人々のいぶせう思 ひ沈みつるは、うれしきものから、見捨てがたき浜のさまを、

またはえしも帰らじかし、と寄する波にそへて、袖濡れがち なり。 出発の朝の贈答 入道の別離の言葉 秋のころほひなれば、もののあはれとり重 ねたる心地して、その日とある暁に、秋風 涼しくて虫の音もとりあへぬに、海の方を 見出だしてゐたるに、入道、例の後夜より深う起きて、鼻す すりうちして行ひいましたり。いみじう言忌すれど、誰も誰 もいと忍びがたし。若君は、いともいともうつくしげに、夜- 光りけむ玉の心地して、袖より外に放ちきこえざりつるを、 見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまでかく人 に違へる身をいまいましく思ひながら、片時見たてまつらで は、いかでか過ぐさむとすらむ、とつつみあへず。 「ゆくさきをはるかに祈るわかれ路にたえぬは老のな みだなりけり いともゆゆしや」とて、おしのごひ隠す。尼君、

もろともに都は出できこのたびやひとり野中のみちにま どはん とて泣きたまふさま、いとことわりなり。ここら契りかはし てつもりぬる年月のほどを思へば、かう浮きたることを頼み て棄てし世に帰るも、思へばはかなしや。御方、 「いきてまたあひ見むことをいつとてかかぎりもしら ぬ世をばたのまむ 送りにだに」と切にのたまへど、かたがたにつけて、えさる まじきよしを言ひつつ、さすがに道のほどもいとうしろめた なき気色なり。 「世の中を棄てはじめしに、かかる他の国 に思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふやう に明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもや、と思ひたま へたちしかど、身のつたなかりける際の思ひ知らるること多 かりしかば、さらに都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて、 貧しき家の蓬葎、もとのありさまあらたむることもなきもの

から、公私にをこがましき名を弘めて、親の御亡き影を辱 づかしめむことのいみじさになむ、やがて世を棄てつる門出 なりけり、と人にも知られにしを、その方につけては、よう 思ひ放ちてけり、と思ひはべるに、君のやうやう大人びたま ひ、もの思ほし知るべきにそへては、などかう口惜しき世界 にて錦を隠しきこゆらんと、心の闇晴れ間なく嘆きわたりは べりしままに、仏神を頼みきこえて、さりともかうつたなき 身にひかれて、山がつの庵にはまじりたまはじ、と思ふ心ひ とつを頼みはべりしに、思ひよりがたくてうれしきことども を見たてまつりそめても、なかなか身のほどを、とざまかう ざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君の、かう出でおはしま したる御宿世の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまは むもいとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たて まつらざらむ心まどひはしづめがたけれど、この身は長く世 を棄てし心はべり、君たちは世を照らしたまふべき光しるけ

れば、しばしかかる山がつの心を乱りたまふばかりの御契り こそはありけめ、天に生まるる人の、あやしき三つの途に帰 るらむ一時に思ひなづらへて、今日長く別れたてまつりぬ。 命尽きぬと聞こしめすとも、後の事思しいとなむな。避らぬ 別れに御心動かしたまふな」
と言ひ放つものから、 「煙と もならむ夕まで、若君の御ことをなむ、六時の勤めにもなほ 心きたなくうちまぜはべりぬべき」とて、これにぞうちひそ みぬる。 明石の浦を出立 大堰の邸に移り住む 御車は、あまたつづけむもところせく、か たへづつ分けむもわづらはしとて、御供の 人々もあながちに隠ろへ忍ぶれば、舟にて 忍びやかに、と定めたり。辰の刻に舟出したまふ。昔の人もあ はれと言ひける浦の朝霧、隔たりゆくままにいともの悲しく て、入道は、心澄みはつまじくあくがれながめゐたり。ここ ら年を経て、いまさらに帰るも、なほ思ひ尽きせず、尼君は

泣きたまふ。 かの岸に心よりにしあま舟のそむきしかたにこぎか へるかな 御方、 いくかへりゆきかふ秋をすぐしつつうき木にのりて われかへるらん  思ふ方の風にて、限りける日違へず入りたまひぬ。人に見- 咎められじの心もあれば、道のほども軽らかにしなしたり。 家のさまもおもしろうて、年ごろ経つる海づらにおぼえたれ ば、所かへたる心地もせず。昔のこと思ひ出でられて、あは れなること多かり。造りそへたる廊など、ゆゑあるさまに、 水の流れもをかしうしなしたり。まだこまやかなるにはあら ねども、住みつかばさてもありぬべし。親しき家司に仰せた まひて、御設けのことせさせたまひけり。渡りたまはむこと は、とかう思したばかるほどに日ごろ経ぬ。なかなかもの思

ひつづけられて、捨てし家ゐも恋しうつれづれなれば、かの 御形見の琴を掻き鳴らす。をりのいみじう忍びがたければ、 人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、松風はしたなく響 きあひたり。尼君もの悲しげにて寄り臥したまへるに、起き あがりて、 身をかへてひとりかへれる山ざとに聞きしににたる 松風ぞふく 御方、 ふる里に見しよのともを恋ひわびてさへづることを たれかわくらん 源氏、大堰訪問の口実を作る 紫の上不満 かやうにものはかなくて明かし暮らすに、 大臣、なかなか静心なく思さるれば、人目 をもえ憚りあへたまはで渡りたまふを、女- 君は、かくなむとたしかに知らせたてまつりたまはざりける を、例の、聞きもやあはせたまふとて消息聞こえたまふ。

「桂に見るべきことはべるを、いさや、心にもあらでほど 経にけり。とぶらはむと言ひし人さへ、かのわたり近く来ゐ て待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にも、飾なき 仏の御とぶらひすべければ、二三日ははべりなん」と聞こえ たまふ。桂の院といふ所、にはかに造らせたまふと聞くは、 そこに据ゑたまへるにやと思すに、心づきなければ、 「斧の柄さへあらためたまはむほどや、待ち遠に」と、心ゆか ぬ御気色なり。 「例のくらべ苦しき御心。いにしへのあり さまなごりなし、と世人も言ふなるものを」何やかやと御心 とりたまふほどに、日たけぬ。 源氏、大堰を訪れ、明石の君と再会する 忍びやかに、御前疎きはまぜで、御心づか ひして渡りたまひぬ。黄昏時におはし着き たり。狩の御衣にやつれたまへりしだに、 世に知らぬ心地せしを、まして、さる御心してひきつくろひ たまへる御直衣姿、世になくなまめかしう、まばゆき心地す

れば、思ひむせべる心の闇も晴るるやうなり。めづらしうあ はれにて、若君を見たまふも、いかが浅く思されん。今まで 隔てける年月だに、あさましく悔しきまで思ほす。大殿腹 の君を、うつくしげなり、と世人もて騒ぐは、なほ時世によ れば、人の見なすなりけり。かくこそは、すぐれたる人の山- 口はしるかりけれと、うち笑みたる顔の何心なきが、愛敬づ きにほひたるを、いみじうらうたしと思す。乳母の、下りし ほどはおとろへたりし容貌、ねびまさりて、月ごろの御物語 など馴れ聞こゆるを、あはれに、さる塩屋のかたはらに過ぐ しつらむことを思しのたまふ。 「ここにも、いと里離れて、 渡らむことも難きを、なほかの本意ある所に移ろひたまへ」 とのたまへど、 「いとうひうひしきほど過ぐして」と聞こ ゆるもことわりなり。夜一夜、よろづに契り語らひ明かした まふ。 源氏、造園などを指図し、尼君をねぎらう

繕ふべき所、所の預り、いま加へたる家司 などに仰せらる。桂の院に渡りたまふべし とありければ、近き御庄の人々、参り集ま りたりけるも、みな尋ね参りたり。前栽どもの折れ臥したる など繕はせたまふ。 「ここかしこの立て石どもも、みな転 び失せたるを、情ありてしなさば、をかしかりぬべき所かな。 かかる所をわざとつくろふもあいなきわざなり。さても過ぐ しはてねば、立つ時ものうく心とまる、苦しかりき」など、 来し方のことものたまひ出でて、泣きみ笑ひみうちとけのた まへる、いとめでたし。尼君、のぞきて見たてまつるに、老 も忘れ、もの思ひもはるる心地してうち笑みぬ。  東の渡殿の下より出づる水の心ばへ繕はせたまふとて、 いとなまめかしき袿姿うちとけたまへるを、いとめでたうう れしと見たてまつるに、閼伽の具などのあるを見たまふに思 し出でて、 「尼君はこなたにか。いとしどけなき姿なりけ

りや」
とて、御直衣召 し出でて奉る。几帳の もとに寄りたまひて、 「罪軽く生ほしたて たまへる人のゆゑは、御行ひのほどあはれにこそ思ひなしき こゆれ。いといたく思ひ澄ましたまへりし御住み処を捨てて、 うき世に帰りたまへる心ざし浅からず。またかしこには、 いかにとまりて思ひおこせたまふらむと、さまざまになむ」 といとなつかしうのたまふ。 「棄てはべりし世を、いまさ らにたち帰り、思ひたまへ乱るるを、推しはからせたまひけ れば、命長さのしるしも思ひたまへ知られぬる」とうち泣き て、 「荒磯蔭に心苦しう思ひきこえさせはべりし二葉の松 も、今は頼もしき御生ひ先、と祝ひきこえさするを、浅き根 ざしゆゑやいかが、とかたがた心尽くされはべる」など聞こ ゆるけはひよしなからねば、昔物語に、親王の住みたまひけ

るありさまなど語らせたまふに、繕はれたる水の音なひかご とがましう聞こゆ。 すみなれし人はかへりてたどれども清水はやどのあ るじ顔なる わざとはなくて言ひ消つさま、みやびかによしと聞きたまふ。 「いさらゐははやくのことも忘れじをもとのあるじや 面がはりせる あはれ」とうちながめて立ちたまふ姿にほひ、世に知らずと のみ思ひきこゆ。 源氏明石の君と唱和 姫君の将来を考える 御寺に渡りたまうて、月ごとの十四五日、 晦日の日行はるべき普賢講、阿弥陀釈迦の 念仏の三昧をばさるものにて、またまた加 へ行はせたまふべき事など、定めおかせたまふ。堂の飾、仏 の御具などめぐらし仰せらる。月の明かきに帰りたまふ。 ありし夜のこと、思し出でらるるをり過ぐさず、かの琴の

御琴さし出でたり。そこはかとなくものあはれなるに、え忍 びたまはで掻き鳴らしたまふ。まだ調べも変らず、ひき返し、 そのをり今の心地したまふ。 契りしにかはらぬことのしらべにて絶えぬこころの ほどは知りきや 女、 かはらじと契りしことをたのみにて松のひびきに音 をそへしかな と聞こえかはしたるも、似げなからぬこそは、身に余りたる ありさまなめれ。こよなうねびまさりにける容貌けはひ、思 ほし棄つまじう、若君、はた、尽きもせずまぼられたまふ。 「いかにせまし。隠ろへたるさまにて生ひ出でむが、心苦し う口惜しきを、二条院に渡して、心のゆく限りもてなさば、 後のおぼえも罪免れなむかし」と思ほせど、また思はむこと いとほしくて、えうち出でたまはで、涙ぐみて見たまふ。幼

き心地に、すこし恥ぢらひたりしが、やうやううちとけて、 もの言ひ笑ひなどして睦れたまふを見るままに、にほひまさ りてうつくし。抱きておはするさま、見るかひありて、宿世 こよなしと見えたり。 源氏、大堰を去る その堂々たる風貌 またの日は京へ帰らせたまふべければ、す こし大殿籠り過ぐして、やがてこれより出 でたまふべきを、桂の院に人々多く参り集 ひて、ここにも殿上人あまた参りたり。御装束などしたまひ て、 「いとはしたなきわざかな。かく見あらはさるべき隈 にもあらぬを」とて、騒がしきに引かれて出でたまふ。心苦 しければ、さりげなく紛らはして立ちとまりたまへる戸口に、 乳母若君抱きてさし出でたり。あはれなる御気色にかき撫で たまひて、 「見ではいと苦しかりぬべきこそいとうちつけ なれ。いかがすべき。いと里遠しや」とのたまへば、 「遙 かに思ひたまへ絶えたりつる年ごろよりも、今からの御もて

なしのおぼつかなうはべらむは心づくしに」
など聞こゆ。若- 君手をさし出でて、立ちたまへるを慕ひたまへば、突いゐた まひて、 「あやしう、もの思ひ絶えぬ身にこそありけれ。 しばしにても苦しや。いづら。などもろともに出でては惜し みたまはぬ。さらばこそ人心地もせめ」とのたまへば、うち 笑ひて、女君にかくなむと聞こゆ。なかなかもの思ひ乱れて 臥したれば、とみにしも動かれず。あまり上衆めかしと思し たり。人々もかたはらいたがれば、しぶしぶにゐざり出でて、 几帳にはた隠れたるかたはら目、いみじうなまめいてよしあ り。たをやぎたるけはひ、皇女たちと言はむにも足りぬべし。 帷子ひきやりて、こまやかに語らひたまふとて、とばかりか へり見たまへるに、さこそしづめつれ、見送りきこゆ。言は む方なきさかりの御容貌なり。いたうそびやぎたまへりしが、 すこしなりあふほどになりたまひにける御姿など、かくてこ そものものしかりけれと、御指貫の裾まで、なまめかしう

愛敬のこぼれ出づるぞ、あながちなる見なしなるべき。  かの解けたりし蔵人も、還りなりにけり。靫負の尉にて、 今年冠得てけり。昔に改め、心地よげにて御佩刀取りに寄 り来たり。人影を見つけて、 「来し方のもの忘れしはべ らねど、かしこければえこそ。浦風おぼえはべりつる暁の寝- 覚にも、おどろかしきこえさすべきよすがだになくて」と気- 色ばむを、 「八重たつ山は、さらに島がくれにも劣らざり けるを、松も昔の、とたどられつるに、忘れぬ人もものした まひけるに頼もし」など言ふ。 「こよなしや。我も思ひなき にしもあらざりしを」など、あさましうおぼゆれど、 「い まことさらに」とうちけざやぎて参りぬ。 源氏、桂の院に赴き饗応する 帝歌を賜う いとよそほしくさし歩みたまふほど、かし がましう追ひ払ひて、御車の後に頭中将- 兵衛督乗せたまふ。 「いと軽々しき隠れ 処見あらはされぬるこそねたう」と、いたうからがりたまふ。

「よべの月に、口惜しう御供に後れはべりにけると思ひ たまへられしかば、今朝、霧を分けて参りはべりつる。山の 錦はまだしうはべりけり。野辺の色こそ盛りにはべりけれ。 なにがしの朝臣の、小鷹にかかづらひて立ち後れはべりぬる、 いかがなりぬらむ」など言ふ。今日は、なほ桂殿にとて、そ なたざまにおはしましぬ。にはかなる御饗応と騒ぎて、鵜飼 ども召したるに、海人のさへづり思し出でらる。野にとまり ぬる君達、小鳥しるしばかりひきつけさせたる荻の枝など苞 にして参れり。大御酒あまたたび順流れて、川のわたりあや ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。おのおの絶- 句など作りわたして、月はなやかにさし出づるほどに、大御- 遊びはじまりて、いと今めかし。弾き物、琵琶和琴ばかり、 笛ども、上手のかぎりして、をりにあひたる調子吹きたつる ほど、川風吹きあはせておもしろきに、月高くさし上がり、 よろづのこと澄める夜の、やや更くるほどに、殿上人四五人

ばかり連れて参れり。上にさぶらひけるを、御遊びありける ついでに、 「今日は六日の御物忌あく日にて、必ず参りたま ふべきを、いかなれば」と仰せられければ、ここにかうとま らせたまひにけるよし聞こしめして、御消息あるなりけり。 御使は蔵人弁なりけり。 「月のすむ川のをちなる里なればかつらのかげはのど けかるらむ うらやましう」とあり。かしこまりきこえさせたまふ。上の 御遊びよりも、なほ所がらのすごさ添へたる物の音をめでて、 また酔ひ加はりぬ。ここには設けの物もさぶらはざりければ、 大堰に、 「わざとならぬ設け の物や」と、言ひ遣はしたり。 とりあへたるに従ひて参らせ たり。衣櫃二荷にてあるを、 御使の弁はとく帰り参れば、

女の装束かづけたまふ。 久かたのひかりに近き名のみしてあさゆふ霧も晴れ ぬ山里 行幸待ちきこえたまふ心ばへなるべし。 「中に生ひたる」 とうち誦じたまふついでに、かの淡路島を思し出でて、躬恒 が、 「所がらか」とおぼめきけむことなどのたまひ出でたる に、ものあはれなる酔泣きどもあるべし。 めぐり来て手にとるばかりさやけきや淡路の島のあ はと見し月 頭中将、 うき雲にしばしまがひし月かげのすみはつるよぞのどけ かるべき 左大弁、すこし大人びて、故院の御時にも睦ましう仕うまつ り馴れし人なりけり、 雲のうへのすみかをすててよはの月いづれの谷に

かげかくしけむ
心々にあまたあめれど、うるさくてなむ。け近ううち静まり たる御物語すこしうち乱れて、千年も見聞かまほしき御あり さまなれば、斧の柄も朽ちぬべけれど、今日さへは、とて急 ぎ帰りたまふ。物ども品々にかづけて、霧の絶え間に立ちま じりたるも、前栽の花に見えまがひたる色あひなど、ことに めでたし。近衛府の名高き舎人、物の節どもなどさぶらふに、 さうざうしければ、 「その駒」など乱れ遊びて、脱ぎかけた まふ色々、秋の錦を風の吹きおほふかと見ゆ。ののしりて帰 らせたまふ響き、大堰には物隔てて聞きて、なごりさびしう ながめたまふ。御消息をだにせで、と大臣も御心にかかれり。 源氏帰邸 姫君の引き取りを紫の上に相談 殿におはして、とばかりうち休みたまふ。 山里の御物語など聞こえたまふ。 「暇- 聞こえしほど過ぎつれば、いと苦しうこそ。 このすき者どもの尋ね来て、いといたう強ひとどめしにひか

されて。今朝はいと悩まし」
とて、大殿籠れり。例の、心と けず見えたまへど、見知らぬやうにて、 「なずらひならぬ ほどを思しくらぶるも、わるきわざなめり。我は我と思ひな したまへ」と教へきこえたまふ。暮れかかるほどに、内裏へ 参りたまふに、ひきそばめて急ぎ書きたまふは、かしこへな めり。側目こまやかに見ゆ。うちささめきて遣はすを、御達 など憎みきこゆ。  その夜は内裏にもさぶらひたまふべけれど、とけざりつる 御気色とりに、夜更けぬれどまかでたまひぬ。ありつる御返 り持て参れり。えひき隠したまはで御覧ず。ことに憎かるべ き節も見えねば、 「これ破り隠したまへ。むつかしや。か かるものの散らむも、今はつきなきほどになりにけり」とて、 御脇息に寄りゐたまひて、御心の中には、いとあはれに恋し う思しやらるれば、灯をうちながめて、ことにものものたま はず。文は広ごりながらあれど、女君見たまはぬやうなるを、

「せめて見隠したまふ御眼尻こそわづらはしけれ」とてう ち笑みたまへる、御愛敬ところせきまでこぼれぬべし。さし 寄りたまひて、 「まことは、らうたげなるものを見しかば、 契り浅くも見えぬを、さりとてものめかさむほども憚り多か るに、思ひなむわづらひぬる。同じ心に思ひめぐらして、御- 心に思ひ定めたまへ。いかがすべき。ここにてはぐくみたま ひてんや。蛙の子が齢にもなりにけるを。罪なきさまなるも、 思ひ棄てがたうこそ。いはけなげなる下つかたも、紛らはさ むなど思ふを、めざましと思さずはひき結ひたまへかし」 と聞こえたまふ。 「思はずにのみとりなしたまふ御心の 隔てを、せめて見知らずうらなくやは、とてこそ。いはけな からん御心には、いとようかなひぬべくなん。いかにうつく しきほどに」とて、すこしうち笑みたまひぬ。児をわりなう らうたきものにしたまふ御心なれば、得て抱きかしづかばや、 と思す。

 いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。渡りたまふこ といとかたし。嵯峨野の御堂の念仏など待ちいでて、月に二- 度ばかりの御契りなめり。年の渡りには、たちまさりぬべか めるを、及びなきことと思へども、なほいかがもの思はしか らぬ。 A Rack of Cloud 源氏、明石の姫君を紫の上の養女にと望む

冬になりゆくままに、川づらの住まひいと ど心細さまさりて、上の空なる心地のみし つつ明かし暮らすを、君も、 「なほかくて はえ過ぐさじ。かの近き所に思ひ立ちね」とすすめたまへど、 「つらきところ多く試みはてむも残りなき心地すべきを、い かに言ひてか」などいふやうに思ひ乱れたり。 「さらばこ の若君を。かくてのみは便なきことなり。思ふ心あればかた じけなし。対に聞きおきて常にゆかしがるを、しばし見なら はさせて、袴着の事なども、人知れぬさまならずしなさんと なむ思ふ」と、まめやかに語らひたまふ。さ思すらん、と思 ひわたることなれば、いとど胸つぶれぬ。 「あらためてや んごとなき方にもてなされたまふとも、人の漏り聞かんこと

は、なかなかにやつくろひがたく思されん」
とて、放ちがた く思ひたる、ことわりにはあれど、 「うしろやすからぬ方 にやなどはな疑ひたまひそ。かしこには年経ぬれどかかる人 もなきが、さうざうしくおほぼるままに、前斎宮の大人びも のしたまふをだにこそ、あながちに扱ひきこゆめれば、まし て、かく憎みがたげなめるほどを、をろかには見放つまじき 心ばへに」など、女君の御ありさまの思ふやうなることも語 りたまふ。 明石の君、その是非の判断に悩む 「げにいにしへは、いかばかりのことに定 まりたまふべきにかと、伝にもほの聞こえ し御心のなごりなく静まりたまへるは、お ぼろけの御宿世にもあらず、人の御ありさまも、ここらの御- 中にすぐれたまへるにこそは」と思ひやられて、 「数ならぬ 人の並びきこゆべきおぼえにもあらぬを、さすがに、立ち出 でて、人もめざましと思す事やあらむ。わが身はとてもかく

ても同じこと、生ひ先遠き人の御上もつひにはかの御心にか かるべきにこそあめれ。さりとならば、げにかう何心なきほ どにや譲りきこえまし」
と思ふ。また、 「手を放ちてうしろ めたからむこと。つれづれも慰む方なくては、いかが明かし 暮らすべからむ。何につけてかたまさかの御立寄りもあら む」など、さまざまに思ひ乱るるに、身のうきこと限りなし。 尼君、姫君を紫の上に渡すことを勧める 尼君、思ひやり深き人にて、 「あぢきな し。見たてまつらざらむことはいと胸痛か りぬべけれど、つひにこの御ためによかる べからんことをこそ思はめ。浅く思してのたまふことにはあ らじ。ただうち頼みきこえて、渡したてまつりたまひてよ。 母方からこそ、帝の御子もきはぎはにおはすめれ。この大臣 の君の、世に二つなき御ありさまながら世に仕へたまふは、 故大納言の、いま一階なり劣りたまひて、更衣腹と言はれた まひしけぢめにこそはおはすめれ。ましてただ人は、なずら

ふべきことにもあらず。また、親王たち、大臣の御腹といへ ど、なほさし向かひたる劣りの所には、人も思ひおとし、親 の御もてなしもえ等しからぬものなり。まして、これは、や むごとなき御方々にかかる人出でものしたまはば、こよなく 消たれたまひなむ。ほどほどにつけて、親にも一ふしもてか しづかれぬる人こそ、やがておとしめられぬはじめとはなれ。 御袴着のほども、いみじき心を尽くすとも、かかる深山隠れ にては何のはえかあらむ。ただまかせきこえたまひて、もて なしきこえたまはむありさまをも聞きたまへ」
と教ふ。 明石の君、姫君を手放すことを決心する さかしき人の心の占どもにも、もの問はせ などするにも、なほ 「渡りたまひてはまさ るべし」とのみ言へば、思ひ弱りにたり。 殿もしか思しなから、思はむところのいとほしさに、しひて もえのたまはで、 「御袴着のこと、いかやうにか」とのた まへる御返りに、 「よろづのことかひなき身にたぐへき

こえては、げに生ひ先もいとほしかるべくおぼえはべるを、 立ちまじりてもいかに人笑へにや」
と聞こえたるを、いとど あはれに思す。日などとらせたまひて、忍びやかにさるべき ことなどのたまひ掟てさせたまふ。放ちきこえむことは、な ほいとあはれにおぼゆれど、君の御ためによかるべきことを こそは、と念ず。 「乳母をもひき別れなんこと。明け暮れのもの思はしさ、 つれづれをも、うち語らひて慰め馴らひつるに、いとどたづ きなきことさへとり添へ、いみじくおぼゆべきこと」と君も 泣く。乳母も、 「さるべきにや、おぼえぬさまにて見たてま つりそめて、年ごろの御心ばへの忘れがたう、恋しうおぼえ たまふべきを、うち絶えきこゆる事はよもはべらじ。つひに はと頼みながら、しばしにてもよそよそに、思ひの外のまじ らひしはべらむが、やすからずもはべるべきかな」など、う ち泣きつつ過ぐすほどに、十二月にもなりぬ。 雪の日、明石の君、乳母と和歌を唱和する

雪霰がちに、心細さまさりて、あやしくさ まざまにもの思ふべかりける身かな、とう ち嘆きて、常よりもこの君を撫でつくろひ つつ見ゐたり。雪かきくらし降りつもる朝、来し方行く末の こと残らず思ひつづけて、例はことに端近なる出でゐなども せぬを、汀の氷など見やりて、白き衣どものなよよかなるあ また着て、ながめゐたる様体、頭つき、後手など、限りなき 人と聞こゆとも、かうこそはおはすらめ、と人々も見る。落 つる涙をかき払ひて、 「かやうならむ日、ましていかにお ぼつかなからむ」とらうたげにうち嘆きて、 雪ふかみみ山の道ははれずともなほふみかよへあと 絶えずして とのたまへば、乳母うち泣きて、 雪まなきよしのの山をたづねても心のかよふあと絶 えめやは

と言ひ慰む。 明石の姫君を二条院に迎える 袴着のこと この雪すこしとけて渡りたまへり。例は待 ちきこゆるに、さならむとおぼゆること により、胸うちつぶれて人やりならずおぼ ゆ。 「わが心にこそあらめ。辞びきこえむを強ひてやは。あ ぢきな」とおぼゆれど、軽々しきやうなりとせめて思ひかへ す。いとうつくしげにて前にゐたまへるを見たまふに、おろ かには思ひがたかりける人の宿世かなと思ほす。この春より 生ほす御髪、尼そぎのほどにてゆらゆらとめでたく、つらつ き、まみのかをれるほどなど、いへばさらなり。よそのもの に思ひやらむほどの心の闇、推しはかりたまふにいと心苦し ければ、うち返しのたまひ明かす。 「何か。かく口惜しき 身のほどならずだにもてなしたまはば」と聞こゆるものから、 念じあへずうち泣くけはひあはれなり。  姫君は、何心もなく、御車に乗らむことを急ぎたまふ。寄

せたる所に、母君みづから抱きて出でたまへり。片言の、声 はいとうつくしうて、袖をとらへて、乗りたまへと引くも、 いみじうおぼえて、 末遠きふたばの松にひきわかれいつか木だかきかげ を見るべき えも言ひやらずいみじう泣けば、さりや、あな苦しと思して、 「生ひそめし根もふかければたけくまの松にこまつの 千代をならべん のどかにを」と慰めたまふ。さることとは思ひ静むれど、え なむたへざりける。乳母、少将とてあてやかなる人ばかり、 御佩刀、天児やうの物取りて乗る。副車によろしき若人、童 など乗せて、御送りに参らす。道すがら、とまりつる人の心- 苦しさを、いかに罪や得らむと思す。  暗うおはし着きて、御車寄するより、華やかにけはひこと なるを、田舎びたる心地どもは、はしたなくてやまじらはむ

と思ひつれど、西面をことにしつらはせたまひて、小さき御- 調度ども、うつくしげにととのへさせたまへり。乳母の局に は、西の渡殿の北に当れるをせさせたまへり。  若君は、道にて寝たまひにけり。抱きおろされて、泣きな どはしたまはず。こなたにて御くだもの参りなどしたまへど、 やうやう見めぐらして、母君の見えぬを求めて、らうたげに うちひそみたまへば、乳母召し出でて慰め紛らはしきこえた まふ。山里のつれづれ、ましていかに、と思しやるはいとほ しけれど、明け暮れ思すさまにかしづきつつ見たまふは、も のあひたる心地したまふらむ。いかにぞや、人の思ふべき瑕 なきことは、このわ たりに出でおはせで、 と口惜しく思さる。 しばしは人々求めて 泣きなどしたまひし

かど、おほかた心やすくをかしき心ざまなれば、上にいとよ くつき睦びきこえたまへれば、いみじううつくしきもの得た りと思しけり。他ごとなく抱き扱ひ、もてあそびきこえたま ひて、乳母も、おのづから近う仕うまつり馴れにけり。また やむごとなき人の乳ある、添へてまゐりたまふ。  御袴着は、何ばかりわざと思しいそぐ事はなけれど、けし きことなり。御しつらひ、雛遊びの心地してをかしう見ゆ。 参りたまへる客人ども、ただ明け暮れのけぢめしなければ、 あながちに目もたたざりき。ただ、姫君の襷ひき結ひたまへ る胸つきぞ、うつくしげさ添ひて見えたまひつる。 明石の君、姫君の女房に歳暮の贈物をする 大堰には、尽きせず恋しきにも、身のおこ たりを嘆きそへたり。さこそ言ひしか、尼- 君もいとど涙もろなれど、かくもてかしづ かれたまふを聞くはうれしかりけり。何ごとをか、なかなか とぶらひきこえたまはむ。ただ、御方の人々に、乳母よりは

じめて、世になき色あひを思ひいそぎてぞ、贈りきこえたま ひける。待ち遠ならむも、いとどさればよと思はむに、いと ほしければ、年の内に忍びて渡りたまへり。いとどさびしき 住まひに、明け暮れのかしづきぐさをさへ離れきこえて思ふ らむことの心苦しければ、御文なども絶え間なく遣はす。女- 君も、今はことに怨じきこえたまはず、うつくしき人に罪ゆ るしきこえたまへり。 新春、人々参賀 花散里の好ましき日常 年も返りぬ。うららかなる空に、思ふこと なき御ありさまはいとどめでたく、磨きあ らためたる御よそひに参り集ひたまふめる 人の、大人しきほどのは、七日、御よろこびなどしたまふ、 ひきつれたまへり。若やかなるは、何ともなく心地よげに見 えたまふ。次々の人も、心の中には思ふこともやあらむ、う はべは誇りかに見ゆるころほひなりかし。東の院の対の御方 も、ありさまは好ましう、あらまほしきさまに、さぶらふ人-

人、童べの姿などうちとけず、心づかひしつつ過ぐしたまふ に、近きしるしはこよなくて、のどかなる御暇のひまなどに は、ふと這ひ渡りなどしたまへど、夜たちとまりなどやうに わざとは見えたまはず。ただ御心ざまのおいらかにこめきて、 かばかりの宿世なりける身にこそあらめと思ひなしつつ、あ り難きまでうしろやすくのどかにものしたまへば、をりふし の御心おきてなども、こなたの御ありさまに劣るけぢめこよ なからずもてなしたまひて、侮りきこゆべうはあらねば、 同じごと、人参り仕うまつりて、別当どもも事怠らず、なか なか乱れたるところなくめやすき御ありさまなり。 源氏、大堰を訪問する 紫の上との唱和 山里のつれづれをも絶えず思しやれば、 公私もの騒がしきほど過ぐして渡りた まふとて、常よりことにうち化粧じたまひ て、桜の御直衣にえならぬ御衣ひき重ねて、たきしめ、装束 きたまひて、罷申したまふさま、隈なき夕日にいとどしく

きよらに見えたまふを、女君ただならず見たてまつり送り たまふ。姫君は、いはけなく御指貫の裾にかかりて慕ひきこ えたまふほどに、外にも出でたまひぬべければ、立ちとまり て、いとあはれと思したり。こしらへおきて、 「明日帰り 来む」と口ずさびて出でたまふに、渡殿の戸口に待ちかけて、 中将の君して聞こえたまへり。 舟とむるをちかた人のなくはこそあすかへりこむ 夫と待ちみめ いたう馴れて聞こゆれば、いとにほひやかにほほ笑みて、 行きてみてあすもさねこむなかなかにをちかた人は 心おくとも 何ごととも聞き分かで戯れ歩きたまふ人を、上はうつくしと 見たまへば、をちかた人のめざましきもこよなく思しゆるさ れにたり。いかに思ひおこすらむ、我にていみじう恋しかり ぬべきさまを、とうちまもりつつ、ふところに入れて、うつ

くしげなる御乳をくくめたまひつつ戯れゐたまへる御さま、 見どころ多かり。御前なる人々は、 「などか同じくは」 「いで や」など語らひあへり。 源氏、明石の君の心用意を重んじいたわる かしこには、いとのどやかに、心ばせある けはひに住みなして、家のありさまも、や う離れめづらしきに、みづからのけはひな どは、見る度ごとに、やむごとなき人々などに劣るけぢめこ よなからず、容貌、用意あらまほしうねびまさりゆく。 「た だ世の常のおぼえにかき紛れたらば、さるたぐひなくやはと 思ふべきを、世に似ぬひがものなる親の聞こえなどこそ苦し けれ。人のほどなどはさてもあるべきを」など思す。はつか に、飽かぬほどにのみあればにや、心のどかならずたち帰り たまふも苦しくて、 「夢のわたりの浮橋か」とのみうち嘆か れて、筝の琴のあるを引き寄せて、かの明石にて小夜更け たりし音も、例の思し出でらるれば、琵琶をわりなくせめた

まへば、すこし掻き合はせたる、いかでかうのみひき具しけ むと思さる。若君の御ことなどこまやかに語りたまひつつお はす。  ここはかかる所なれど、かやうにたちとまりたまふをりを りあれば、はかなきくだもの、強飯ばかりはきこしめす時も あり。近き御寺、桂殿などにおはしまし紛らはしつつ、いと まほには乱れたまはねど、またいとけざやかにはしたなく、 おしなべてのさまにはもてなしたまはぬなどこそは、いとお ぼえことには見ゆめれ。女も、かかる御心のほどを見知りき こえて、過ぎたりと思すばかりの事はし出でず、また、いた く卑下せずなどして、御心おきてにもて違ふことなく、いと めやすくぞありける。おぼろけにやむごとなき所にてだに、 かばかりもうちとけたまふことなく、気高き御もてなしを聞 きおきたれば、「近きほどにまじらひては、なかなかいとど 目馴れて人侮られなることどももぞあらまし。たまさかに

て、かやうにふりはへたまへるこそ、たけき心地すれ」
と思 ふべし。明石にも、さこそ言ひしか、この御心おきて、あり さまをゆかしがりて、おぼつかなからず人は通はしつつ、胸 つぶるることもあり、また、面だたしくうれしと思ふことも 多くなむありける。 太政大臣薨去 源氏ねんごろに弔問する そのころ、太政大臣亡せたまひぬ。世の重 しとおはしつる人なれば、おほやけにも思 し嘆く。しばし籠りたまへりしほどをだに、 天の下の騒ぎなりしかば、まして悲しと思ふ人多かり。源氏 の大臣も、いと口惜しく、よろづの事おし譲りきこえてこそ 暇もありつるを、心細く、事しげくも思されて、嘆きおはす。 帝は、御年よりはこよなう大人大人しうねびさせたまひて、 世の政もうしろめたく思ひきこえたまふべきにはあらねど も、またとりたてて御後見したまふべき人もなきを、誰に譲 りてかは静かなる御本意もかなはむと思すに、いと飽かず口-

惜し。後の御わざなどにも、御子ども孫に過ぎてなん、こま やかにとぶらひ扱ひたまひける。 天変地異しきり 藤壺の宮重態に陥る その年、おほかた世の中騒がしくて、公 ざまにもののさとししげく、のどかならで、 天つ空にも、例に違へる月日星の光見え、 雲のたたずまひありとのみ世の人おどろくこと多くて、道々 の勘文ども奉れるにも、あやしく世になべてならぬ事ども まじりたり。内大臣のみなむ、御心の中にわづらはしく思し 知らるることありける。  入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて、三- 月には、いと重くならせたまひぬれば、行幸などあり。院に 別れたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくてもの深 くも思されざりしを、いみじう思し嘆きたる御気色なれば、 宮もいと悲しく思しめさる。 「今年は必ずのがるまじき年 と思ひたまへつれど、おどろおどろしき心地にもはべらざり

つれば、命の限り知り顔にはべらむも、人やうたてことごと しう思はむと憚りてなむ、功徳の事なども、わざと例よりも とりわきてしもはべらずなりにける。参りて、心のどかに昔 の御物語もなど思ひたまへながら、うつしざまなるをり少な くはべりて、口惜しくいぶせくて過ぎはべりぬること」
と、 いと弱げに聞こえたまふ。三十七にぞおはしましける。され ど、いと若く、盛りにおはしますさまを、惜しく悲しと見た てまつらせたまふ。つつしませたまふべき御年なるに、晴れ 晴れしからで月ごろ過ぎさせたまふことをだに嘆きわたりは べりつるに、御つつしみなどをも常よりことにせさせたま はざりけることと、いみじう思しめしたり。ただこのごろ ぞ、おどろきてよろづの事せさせたまふ。月ごろは常の御悩 みとのみうちたゆみたりつるを、源氏の大臣も深く思し入り たり。限りあれば、ほどなく還らせたまふも、悲しきこと多 かり。

 宮いと苦しうて、はかばかしうものも聞こえさせたまはず。 御心の中に思しつづくるに、高き宿世、世の栄えも並ぶ人な く、心の中に飽かず思ふことも人にまさりける身、と思し知 らる。上の、夢の中にも、かかることの心を知らせたまはぬ を、さすがに心苦しう見たてまつりたまひて、これのみぞ、 うしろめたくむすぼほれたることに思しおかるべき心地した まひける。 源氏、藤壺の宮を見舞う 藤壺の宮の崩御 大臣は、公方ざまにても、かくやむごと なき人のかぎり、うちつづき亡せたまひな むことを思し嘆く。人知れぬあはれ、はた、 限りなくて、御祈祷など、思し寄らぬことなし。年ごろ思し 絶えたりつる筋さへ、いま一たび聞こえずなりぬるがいみじ く思さるれば、近き御几帳のもとによりて、御ありさまなど もさるべき人々に問ひ聞きたまへば、親しきかぎりさぶらひ て、こまかに聞こゆ。 「月ごろ悩ませたまへる御心地に、

御行ひを時の間もたゆませたまはずせさせたまふつもりの、 いとどいたうくづほれさせたまふに、このごろとなりては、 柑子などをだに触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころ なくならせたまひにたること」
と泣き嘆く人々多かり。 「院の御遺言にかなひて、内裏の御後見仕うまつりたま ふこと、年ごろ思ひ知りはべること多かれど、何につけてか はその心寄せことなるさまをも漏らしきこえむとのみ、のど かに思ひはべりけるを、いまなむあはれに口惜しく」とほの かにのたまはするも、ほのぼの聞こゆるに、御答へも聞こえ やりたまはず泣きたまふさま、いといみじ。などかうしも心- 弱きさまに、と人目を思し返せど、いにしへよりの御ありさ まを、おほかたの世につけてもあたらしく惜しき人の御さま を、心にかなふわざならねばかけとどめきこえむ方なく、言 ふかひなく思さるること限りなし。 「はかばかしからぬ身 ながらも、昔より御後見仕うまつるべきことを、心のいたる

限りおろかならず思ひたまふるに、太政大臣の隠れたまひぬ るをだに、世の中心あわたたしく思ひたまへらるるに、また かくおはしませば、よろづに心乱れはべりて、世にはべらむ ことも残りなき心地なむしはべる」
と聞こえたまふほどに、 燈火などの消え入るやうにてはてたまひぬれば、いふかひな く悲しきことを思し嘆く。 人々、藤壺を痛惜 源氏、悲傷の歌を詠む かしこき御身のほどと聞こゆる中にも、御 心ばへなどの、世のためにもあまねくあは れにおはしまして、豪家にこと寄せて、人 の愁へとある事などもおのづからうちまじるを、いささかも さやうなる事の乱れなく、人の仕うまつることをも、世の苦 しみとあるべきことをばとどめたまふ。功徳の方とても、勧 むるによりたまひて、厳しうめづらしうしたまふ人なども、 昔のさかしき世にみなありけるを、これはさやうなることな く、ただもとよりの財物、えたまふべき年官、年爵、御封の

ものの、さるべき限りして、まことに心深き事どものかぎり をしおかせたまへれば、何とわくまじき山伏などまで惜しみ きこゆ。  をさめたてまつるにも、世の中響きて悲しと思はぬ人なし。 殿上人などなべて一つ色に黒みわたりて、ものの栄なき春の 暮なり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴のをりなど 思し出づ。 「今年ばかりは」と独りごちたまひて、人の見と がめつべければ、御念誦堂にこもりゐたまひて、日一日泣き 暮らしたまふ。タ日はなやかにさして、山際の梢あらはなる に、雲の薄くわたれるが鈍色なるを、何ごとも御目とどまら ぬころなれど、いとものあはれに思さる。 入日さすみねにたなびく薄雲はもの思ふ袖にいろや まがへる 人聞かぬ所なればかひなし。 夜居の僧都冷泉帝に秘密の大事を奏上する

御わざなども過ぎて、事ども静まりて、帝 もの心細く思したり。この入道の宮の御母- 后の御世より伝はりて、次々の御祈祷の師 にてさぶらひける僧都、故宮にもいとやむごとなく親しき者 に思したりしを、おほやけにも重き御おぼえにて、厳しき御- 願ども多く立てて、世にかしこき聖なりける、年七十ばかり にて、いまは終りの行ひをせむとて籠りたるが、宮の御事に よりて出でたるを、内裏より召しありて常にさぶらはせたま ふ。このごろは、なほもとのごとく参りさぶらはるべきよし、 大臣もすすめのたまへば、 「今は夜居などいとたへがたう おぼえはべれど、仰せ言のかしこきにより、古き心ざしを添 へて」とてさぶらふに、静かなる暁に、人も近くさぶらはず、 あるはまかでなどしぬるほどに、古代にうちしはぶきつつ世 の中の事ども奏したまふついでに、 「いと奏しがたく、か へりては罪にもやまかり当らむと思ひたまへ憚る方多かれど、

知ろしめさぬに罪重くて、天の眼恐ろしく思ひたまへらるる ことを、心にむせびはべりつつ命終りはべりなば、何の益か ははべらむ。仏も心ぎたなしとや思しめさむ」
とばかり奏し さして、えうち出でぬことあり。  上、 「何ごとならむ。この世に怨み残るべく思ふことやあ らむ。法師は聖といへども、あるまじき横さまのそねみ深く、 うたてあるものを」と思して、 「いはけなかりし時より隔 て思ふことなきを、そこにはかく忍び残されたることありけ るをなむ、つらく思ひぬる」とのたまはすれば、 「あなか しこ。さらに仏のいさめ守りたまふ真言の深き道をだに、隠 しとどむることなく弘め仕うまつりはべり。まして心に隈あ ること、何ごとにかはべらむ。これは来し方行く先の大事と はべることを、過ぎおはしましにし院后の宮、ただ今世をま つりごちたまふ大臣の御ため、すべてかへりてよからぬこと にや漏り出ではべらむ。かかる老法師の身には、たとひ愁へ

はべりとも何の悔かはべらむ。仏天の告げあるによりて、奏 しはべるなり。わが君孕まれおはしましたりし時より、故宮 の深く思し嘆くことありて、御祈祷仕うまつらせたまふゆゑ なむはべりし。くはしくは法師の心にえさとりはべらず。事 の違ひ目ありて、大臣横さまの罪に当りたまひし時、いよい よ怖ぢ思しめして、重ねて御祈祷ども承りはべりしを、大臣 も聞こしめしてなむ、またさらに事加へ仰せられて、御位に 即きおはしまししまで仕うまつる事どもはべりし。その承り しさま」
とて、くはしく奏するを聞こしめすに、あさましう めづらかにて、恐ろしうも悲しうも、さまざまに御心乱れた り。とばかり御 答へもなければ、 僧都、進み奏し つるを便なく思 しめすにやとわ

づらはしく思ひて、やをらかしこまりてまかづるを、召しと どめて、 「心に知らで過ぎなましかば、後の世までの咎め あるべかりけることを、今まで忍びこめられたりけるをなむ、 かへりてはうしろめたき心なり、と思ひぬる。またこのこと を知りて漏らし伝ふるたぐひやあらむ」とのたまはす。 「さらに。なにがしと王命婦とより外の人、この事のけしき 見たるはべらず。さるによりなむ、いと恐ろしうはべる。 天変頻りにさとし、世の中静かならぬはこのけなり。いとき なく、ものの心知ろしめすまじかりつるほどこそはべりつれ、 やうやう御齢足りおはしまして、何ごともわきまへさせた まふべき時にいたりて、咎をも示すなり。よろづの事、親の 御世よりはじまるにこそはべるなれ。何の罪とも知ろしめさ ぬが恐ろしきにより、思ひたまへ消ちてし事を、さらに心よ り出だしはべりぬること」と、泣く泣く聞こゆるほどに明け はてぬればまかでぬ。 冷泉帝煩悶する 源氏に譲位をほのめかす

上は、夢のやうにいみじき事を聞かせたま ひて、色々に思し乱れさせたまふ。故院の 御ためもうしろめたく、大臣の、かくただ 人にて世に仕へたまふもあはれにかたじけなかりけること、 かたがた思し悩みて、日たくるまで出でさせたまはねば、か くなむと聞きたまひて、大臣も驚きて参りたまへるを御覧ず るにつけても、いとど忍びがたく思しめされて、御涙のこぼ れさせたまひぬるを、おほかた故宮の御ことを干る世なく思 しめしたるころなればなめり、と見たてまつりたまふ。  その日式部卿の親王亡せたまひぬるよし奏するに、いよい よ世の中の騒がしきことを嘆き思したり。かかるころなれば、 大臣は里にもえまかでたまはで、つとさぶらひたまふ。しめ やかなる御物語のついでに、 「世は尽きぬるにやあらむ。 もの心細く例ならぬ心地なむするを、天の下もかくのどかな らぬに、よろづあわたたしくなむ。故宮の思さむところによ

りてこそ世間のことも思ひ憚りつれ、今は心やすきさまにて も過ぐさまほしくなむ」
と語らひきこえたまふ。 「いとあ るまじき御事なり。世の静かならぬことは、かならず政の 直くゆがめるにもよりはべらず。さかしき世にしもなむ、よ からぬ事どももはべりける。聖の帝の世にも、横さまの乱れ 出で来ること、唐土にもはべりける。わが国にもさなむはべ る。ましてことわりの齢どもの、時いたりぬるを、思し嘆く べきことにもはべらず」など、すべて多くのことどもを聞こ えたまふ。片はしまねぶも、いとかたはらいたしや。常より も黒き御装ひにやつしたまへる御容貌、違ふところなし。上 も年ごろ御鏡にも思し寄ることなれど、聞こしめししことの 後は、またこまかに見たてまつりたまうつつ、ことにいとあ はれに思しめさるれば、いかでこのことをかすめ聞こえばや と思せど、さすがにはしたなくも思しぬべきことなれば、若 き御心地につつましくて、ふともえうち出できこえたまはぬ

ほどは、ただおほかたのことどもを、常よりことになつかし う聞こえさせたまふ。うちかしこまりたまへるさまにて、い と御気色ことなるを、かしこき人の御目にはあやしと見たて まつりたまへど、いとかくさださだと聞こしめしたらむとは 思さざりけり。 帝、皇統乱脈の先例を典籍に求める 上は、王命婦にくはしき事は問はまほしう 思しめせど、 「今さらに、しか忍びたまひ けむこと知りにけり、とかの人にも思はれ じ。ただ大臣に、いかでほのめかし問ひきこえて、さきざき のかかる事の例はありけりや、と問ひ聞かむ」とぞ思せど、 さらについでもなければ、いよいよ御学問をせさせたまひつ つ、さまざまの書どもを御覧ずるに、唐土には、顕はれても 忍びても、乱りがはしきこといと多かりけり。日本には、さ らに御覧じうるところなし。たとひあらむにても、かやうに 忍びたらむ事をば、いかでか伝へ知るやうのあらむとする。

一世の源氏、また納言大臣になりて後に、さらに親王にもな り、位にも即きたまひつるも、あまたの例ありけり。人柄の かしこきに事よせて、さもや譲りきこえましなど、よろづに ぞ思しける。 源氏、帝意に恐懼 秘事漏洩を命婦に質す 秋の司召に太政大臣になりたまふべきこと、 うちうちに定め申したまふついでになむ、 帝、思し寄する筋のこと漏らしきこえたま ひけるを、大臣、いとまばゆく恐ろしう思して、さらにある まじきよしを申し返したまふ。 「故院の御心ざし、あまた の皇子たちの御中に、とりわきて思しめしながら、位を譲ら せたまはむことを思しめし寄らずなりにけり。何か、その御- 心あらためて、及ばぬ際には上りはべらむ。ただ、もとの御- 掟てのままに、朝廷に仕うまつりて、いますこしの齢重なり はべりなば、のどかなる行ひに籠りはべりなむと思ひたまふ る」と、常の御言の葉に変らず奏したまへば、いと口惜しう

なむ思しける。太政大臣になりたまふべき定めあれど、しば しと思すところありて、ただ御位添ひて、牛車聴されて参り まかでしたまふを、帝、飽かずかたじけなきものに思ひきこ えたまひて、なほ親王になりたまふべきよしを思しのたまは すれど、 「世の中の御後見したまふべき人なし。権中納言、 大納言になりて右大将かけたまへるを、いま一際上りなむに、 何ごとも譲りてむ。さて後に、ともかくも静かなるさまに」 とぞ思しける。  なほ思しめぐらすに、故宮の御ためにもいとほしう、また、 上のかく思しめし悩めるを見たてまつりたまふもかたじけな きに、誰かかる事を漏らし奏しけむとあやしう思さる。命婦 は、御匣殿のかはりたるところに移りて、曹司賜はりて参り たり。大臣対面したまひて、この事を、もし物のついでに、 つゆばかりにても漏らし奏したまふことやありし、と案内し たまへど、 「さらに。かけても聞こしめさむことをいみじ

きことに思しめして、かつは、罪得ることにやと、上の御た めをなほ思しめし嘆きたりし」
と聞こゆるにも、ひとかたな らず心深くおはせし御ありさまなど、尽きせず恋ひきこえた まふ。 源氏、斎宮の女御を訪れ、恋情を訴える 斎宮の女御は、思ししも著き御後見にて、 やむごとなき御おぼえなり。御用意、あり さまなども、思ふさまにあらまほしう見え たまへれば、かたじけなきものにもてかしづききこえたま へり。  秋のころ、二条院にまかでたまへり。寝殿の御しつらひ、 いとど輝くばかりしたまひて、今は、むげの親ざまにもてな して扱ひきこえたまふ。秋の雨いと静かに降りて、御前の前- 栽の色々乱れたる露のしげさに、いにしへの事どもかきつづ け思し出でられて、御袖も濡れつつ、女御の御方に渡りたま へり。こまやかなる鈍色の御直衣姿にて、世の中の騒がしき

などことつけたまひて、やがて御精進なれば、数珠ひき隠し て、さまよくもてなしたまへる、尽きせずなまめかしき御あ りさまにて、御簾の中に入りたまひぬ。御几帳ばかりを隔て て、みづから聞こえたまふ。 「前栽どもこそ残りなく紐と きはべりにけれ。いとものすさまじき年なるを、心やりて時- 知り顔なるもあはれにこそ」とて、柱に寄りゐたまへる夕映 えいとめでたし。昔の御事ども、かの野宮に立ちわづらひし 曙などを聞こえ出でたまふ。いとものあはれと思したり。 宮も、 「かくれば」とにや、すこし泣きたまふけはひいとら うたげにて、うち身じろきたまふほども、あさましく柔かに なまめきておはすべかめる、見たてまつらぬこそ口惜しけれ と、胸のうちつぶるるぞうたてあるや。 「過ぎにし方、こ とに思ひ悩むべき事もなくてはべりぬべかりし世の中にも、 なほ心から、すきずきしきことにつけて、もの思ひの絶えず もはべりけるかな。さるまじきことどもの心苦しきがあまた

はべりし中に、つひに心もとけずむすぼほれてやみぬること、 二つなむはべる。一つは、この過ぎたまひにし御ことよ。あ さましうのみ思ひつめてやみたまひにしが、長き世の愁はし きふしと思ひたまへられしを、かうまでも仕うまつり御覧ぜ らるるをなむ、慰めに思うたまへなせど、燃えし煙のむすぼ ほれたまひけむは、なほいぶせうこそ思うたまへらるれ」
と て、いま一つはのたまひさしつ。源氏「中ごろ、身のなきに沈 みはべりしほど、かたがたに思ひたまへしことは、片はしづ つかなひにたり。東の院にものする人の、そこはかとなくて 心苦しうおぼえわたりはべりしも、おだしう思ひなりにては べり。心ばへの憎からぬなど、我も人も見たまへあきらめて、 いとこそさはやかなれ。かくたち帰り、おほやけの御後見仕 うまつるよろこびなどは、さしも心に深くしまず、かやうな るすきがましき方は、しづめがたうのみはべるを、おぼろけ に思ひ忍びたる御後見とは思し知らせたまふらむや。あはれ

とだにのたまはせずは、いかにかひなくはべらむ」とのたま へば、むつかしうて、御答へもなければ、 「さりや。あな 心う」とて、他事に言ひ紛らはしたまひつ。 「今は、いか でのどやかに、生ける世の限り、思ふこと残さず、後の世の 勤めも心にまかせて籠りゐなむと思ひはべるを、この世の思 ひ出にしつべきふしのはべらぬこそ、さすがに口惜しうはべ りぬべけれ、数ならぬ幼き人のはべる、生ひ先いと待ち遠な りや。かたじけなくとも、なほこの門ひろげさせたまひて、 はべらずなりなむ後にも数まへさせたまへ」など聞こえたま ふ。御答へは、いとおほどかなるさまに、からうじて一言ば かりかすめたまへるけはひ、いとなつかしげなるに、聞きつ きて、しめじめと暮るるまでおはす。 春秋優劣論に、女御、秋を好しとする 「はかばかしき方の望みはさるものにて、 年の内ゆきかはる時々の花紅葉、空のけし きにつけても、心のゆくこともしはべりに

しがな。春の花の林、秋の野の盛りを、とりどりに人あらそ ひはべりける、そのころのげにと心寄るばかりあらはなる定 めこそはべらざなれ。唐土には、春の花の錦にしくものなし と言ひはべめり。やまと言の葉には、秋のあはれをとりたて て思へる、いづれも時々につけて見たまふに、目移りてえこ そ花鳥の色をも音をもわきまへはべらね。狭き垣根の内なり とも、そのをりの心見知るばかり、春の花の木をも植ゑわた し、秋の草をも掘り移して、いたづらなる野辺の虫をもすま せて、人に御覧ぜさせむと思ひたまふるを、いづ方にか御心 寄せはべるべからむ」
と聞こえたまふに、いと聞こえにくき ことと思せど、むげに絶えて御答へ聞こえたまはざらんもう たてあれば、 「ましていかが思ひ分きはべらむ。げにいつ となき中に、あやしと聞きし夕こそ、はかなう消えたまひに し露のよすがにも思ひたまへられぬべけれ」と、しどけなげ にのたまひ消つもいとらうたげなるに、え忍びたまはで、

「君もさはあはれをかはせ人しれずわが身にしむる秋 の夕風 忍びがたきをりをりもはべるかし」と聞こえたまふに、いづ この御答へかはあらむ、心得ずと思したる御気色なり。この ついでに、え籠めたまはで恨みきこえたまふことどもあるべ し。いますこし、ひがこともしたまひつべけれども、いとう たてとおぼいたるもことわりに、わが御心も若々しうけしか らずと思し返して、うち嘆きたまへるさまの、もの深うなま めかしきも、心づきなうぞ思しなりぬる。やをらづつひき入 りたまひぬるけしきなれば、 「あさましうもうとませたま ひぬるかな。まことに心深き人はかくこそあらざなれ。よし、 今よりは憎ませたまふなよ。つらからむ」とて、渡りたまひ ぬ。うちしめりたる御匂ひのとまりたるさへ、うとましく思 さる。人々、御格子など参りて、 「この御褥の移り香、言ひ 知らぬものかな」 「いかでかく、とり集め、柳の枝に咲かせ

たる御ありさまならん。ゆゆしう」
と聞こえあへり。  対に渡りたまひて、とみにも入りたまはず、いたうながめ て、端近う臥したまへり。燈籠遠くかけて、近く人々さぶら はせたまひて、物語などせさせたまふ。かうあながちなるこ とに胸塞がる癖のなほありけるよ、とわが身ながら思し知ら る。 「これはいと似げなきことなり。恐ろしう罪深き方は多 うまさりけめど、いにしへのすきは、思ひやり少なきほどの 過ちに、仏神もゆるしたまひけん」と思しさますも、なほこ の道はうしろやすく深き方のまさりけるかな、と思し知られ たまふ。  女御は、秋のあはれを知り顔に答へきこえてけるも、悔し う恥づかしと、御心ひとつにものむつかしうて、悩ましげに さへしたまふを、いとすくよかにつれなくて、常よりも親が りありきたまふ。女君に、 「女御の、秋に心を寄せたまへ りしもあはれに、君の、春の曙に心しめたまへるもことわり

にこそあれ。時々につけたる木草の花に寄せても、御心とま るばかりの遊びなどしてしがな」
と、 「公私の営みしげ き身こそふさはしからね、いかで思ふことしてしがな」と、 「ただ、御ためさうざうしくやと思ふこそ心苦しけれ」など 語らひきこえたまふ。 源氏、大堰を訪れ、明石の君と歌をかわす 山里の人も、いかになど、絶えず思しやれ ど、ところせさのみまさる御身にて、渡り たまふこといと難し。 「世の中を、あぢき なくうし、と思ひ知る気色、などかさしも思ふべき。心やす く立ち出でて、おほぞうの住まひはせじ、と思へるを、おほ けなし」とは思すものから、いとほしくて、例の不断の御念- 仏にことつけて渡りたまへり。  住み馴るるままに、 いと心すごげなる所の さまに、いと深からざ

らむことにてだにあはれ添ひぬべし。まして見たてまつるに つけても、つらかりける御契りのさすがに浅からぬを思ふに、 なかなかにて慰めがたき気色なれば、こしらへかねたまふ。 いと木繁き中より、篝火どもの影の、遣水の螢に見えまがふ もをかし。 「かかる住まひにしほじまざらましかば、めづ らかにおぼえまし」とのたまふに、 「いさりせし影わすられぬかがり火は身のうき舟やし たひきにけん 思ひこそまがへられはべれ」と聞こゆれば、 「あさからぬしたの思ひをしらねばやなほかがり火の かげはさわげる 誰うきもの」とおし返し恨みたまふ。おほかたもの静かに思 さるるころなれば、尊きことどもに御心とまりて、例よりは 日ごろ経たまふにや、すこし思ひ紛れけむとぞ。 The Morning Glory 源氏、故式部卿宮邸に女五の宮を訪問する

斎院は、御服にておりゐたまひにきかし。 大臣、例の思しそめつること絶えぬ御癖に て、御とぶらひなどいとしげう聞こえたま ふ。宮、わづらはしかりしことを思せば、御返りもうちとけ て聞こえたまはず。いと口惜しと思しわたる。  長月になりて、桃園の宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五 の宮のそこにおはすれば、そなたの御とぶらひにことづけて 参うでたまふ。故院の、この御子たちをば、心ことにやむご となく思ひきこえたまへりしかば、今も親しく次々に聞こえ かはしたまふめり。同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける。 ほどもなく荒れにける心地して、あはれにけはひしめやか なり。

 宮、対面したまひて、御物語聞こえたまふ。いと古めきた る御けはひ、咳がちにおはす。このかみにおはすれど、故大- 殿の宮は、あらまほしく古りがたき御ありさまなるを、もて 離れ、声ふつつかに、こちごちしくおぼえたまへるも、さる 方なり。 「院の上崩れたまひて後、よろづ心細くおぼえはべ りつるに、年のつもるままに、いと涙がちにて過ぐしはべる を、この宮さへかくうち棄てたまへれば、いよいよあるかな きかにとまりはべるを、かく立ち寄り訪はせたまふになむ、 もの忘れしぬべくはべる」と聞こえたまふ。かしこくも古り たまへるかなと思へど、うちかしこまりて、 「院崩れたま ひて後は、さまざまにつけて、同じ世のやうにもはべらず。 おぼえぬ罪に当りはべりて、知らぬ世にまどひはべりしを、 たまたま朝廷に数まへられたてまつりては、またとり乱り暇 なくなどして、年ごろも、参りていにしへの御物語をだに聞

こえ承らぬを、いぶせく思ひたまへわたりつつなむ」
など 聞こえたまふを、 「いともいともあさましく、いづ方 につけても定めなき世を、同じさまにて見たまへすぐす、命- 長さの恨めしきこと多くはべれど、かくて世にたち返りたま へる御よろこびになむ、ありし年ごろを見たてまつりさして ましかば、口惜しからまし、とおぼえはべり」と、うちわな なきたまひて、 「いときよらにねびまさりたまひにけ るかな。童にものしたまへりしを見たてまつりそめし時、世 にかかる光の出でおはしたることと驚かれはべりしを。時々 見たてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなむ。『内裏 の上なむ、いとよく似たてまつらせたまへる』と、人々聞こ ゆるを、さりとも劣 りたまへらむとこそ、 推しはかりはべれ」 と、ながながと聞こ

えたまへば、ことにかくさし向ひて人のほめぬわざかなと、 をかしく思す。 「山がつになりて、いたう思ひくづほれは べりし年ごろの後、こよなく衰へにてはべるものを。内裏の 御容貌は、いにしへの世にも並ぶ人なくやとこそ、ありがた く見たてまつりはべれ。あやしき御推しはかりになむ」と聞 こえたまふ。 「時々見たてまつらば、いとどしき命や 延びはべらむ。今日は老も忘れ、うき世の嘆きみなさりぬる 心地なむ」とても、また泣いたまふ。 「三の宮うらや ましく、さるべき御ゆかりそひて、親しく見たてまつりたま ふを、うらやみはべる。この亡せたまひぬるも、さやうにこ そ悔いたまふをりをりありしか」とのたまふにぞ、すこし耳 とまりたまふ。 「さもさぶらひ馴れなましかば、今に思ふ さまにはべらまし。みなさし放たせたまひて」と、恨めしげ に気色ばみきこえたまふ。 源氏朝顔の姫君を訪ね、女房を介して話す

あなたの御前を見やりたまへば、枯れ枯れ なる前栽の心ばへもことに見わたされて、 のどやかにながめたまふらむ御ありさま容- 貌もいとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、 「かく さぶらひたるついでを過ぐしはべらむは、心ざしなきやうな るを、あなたの御とぶらひ聞こゆべかりけり」とて、やがて 簀子より渡りたまふ。暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾 に、黒き御几帳の透影あはれに、追風なまめかしく吹きとほ し、けはひあらまほし。簀子はかたはらいたければ、南の廂 に入れたてまつる。  宣旨、対面して、御消息は聞こゆ。 「今さらに若々しき 心地する御簾の前かな。神さびにける年月の労数へられはべ るに、今は内外もゆるさせたまひてむとぞ、頼みはべりけ る」とて、飽かず思したり。 「ありし世は、みな夢に見な して、今なむさめてはかなきにや、と思ひたまへ定めがたく

はべるに、労などは静かにや定めきこえさすべうはべらむ」
と、聞こえ出だしたまへり。げにこそ定めがたき世なれと、 はかなきことにつけても思しつづけらる。 「人知れず神のゆるしを待ちし間にここらつれなき世 を過ぐすかな 今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。なべて 世にわづらはしき事さへはべりし後、さまざまに思ひたまへ 集めしかな。いかで片はしをだに」と、あながちに聞こえた まふ。御用意なども、昔よりもいますこしなまめかしき気さ へ添ひたまひにけり。さるは、いといたう過ぐしたまへど、 御位のほどにはあはざめり。 なべて世のあはればかりをとふからに誓ひしことと 神やいさめむ とあれば、 「あな心憂。その世の罪はみな科戸の風にたぐ へてき」とのたまふ愛敬もこよなし。 「禊を神はいかがは

べりけん」
など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかには いとかたはらいたし。世づかぬ御ありさまは、年月にそへて も、もの深くのみひき入りたまひて、え聞こえたまはぬを見 たてまつりなやめり。 「すきずきしきやうになりぬるを」 など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。 「齢のつもり には、面なくこそなるわざなりけれ。世に知らぬやつれを、 今ぞとだに聞こえさすべくやは、もてなしたまひける」とて 出でたまふなごり、ところせきまで例の聞こえあへり。  おほかたの空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけて も、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、そのをりをり、を かしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思 ひ出できこえさす。 源氏帰邸後姫君と朝顔の歌を贈答する 心やましくて立ち出でたまひぬるは、まし て寝ざめがちに思しつづけらる。とく御格- 子まゐらせたまひて、朝霧をながめたまふ。

枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれに這ひまつはれて、 あるかなきかに咲きて、にほひもことに変れるを、折らせた まひて奉れたまふ。 「けざやかなりし御もてなしに、人わ ろき心地しはべりて、後手も、いとどいかが御覧じけむ、と ねたく。されど、 見しをりのつゆわすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやし ぬらん 年ごろのつもりも、あはれとばかりは、さりとも思し知るら むやとなむ、かつは」など聞こえたまへり。おとなびたる御- 文の心ばへに、おぼつかなからむも、見知らぬやうにやと思 し、人々も御硯とりまかなひて聞こゆれば、 「秋はてて霧のまがきにむすぼほれあるかなきかにう つる朝顔 似つかはしき御よそへにつけても、露けく」とのみあるは、 何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧

ずめり。青鈍の紙の、なよびかなる墨つきはしも、をかしく 見ゆめり。人の御ほど、書きざまなどにつくろはれつつ、そ のをりは罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほ ゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつお ぼつかなきことも多かりけり。  たち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこ とと思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御気色ながら、口- 惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじく思さるれば、さ らがへりてまめやかに聞こえたまふ。 源氏、朝顔の姫君に執心 紫の上思い悩む 東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ 語らひたまふ。さぶらふ人々の、さしもあ らぬ際のことをだに、なびきやすなるなど は、過ちもしつべくめできこゆれど、宮はその上だにこよな く思し離れたりしを、今はまして、誰も思ひなかるべき御齢、 おぼえにて、はかなき木草につけたる御返りなどのをり過ぐ

さぬも、軽々しくやとりなさるらむなど、人のもの言ひを憚 りたまひつつ、うちとけたまふべき御気色もなければ、古り がたく同じさまなる御心ばへを、世の人に変り、めづらしく もねたくも思ひきこえたまふ。  世の中に漏りきこえて、 「前斎院を、ねむごろに聞こえ たまへばなむ、女五の宮などもよろしく思したなり。似げな からぬ御あはひならむ」など言ひけるを、対の上は伝へ聞 きたまひて、しばしは、 「さりとも、さやうならむ事もあら ば隔てては思したらじ」と思しけれど、うちつけに目とどめ きこえたまふに、御気色なども、例ならずあくがれたるも心 うく、 「まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに 言ひなしたまひけんよ」と、 「同じ筋にはものしたまへど、 おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心な ど移りなば、はしたなくもあべいかな、年ごろの御もてなし などは、立ち並ぶ方なくさすがにならひて、人に押し消たれ

むこと」
など、人知れず思し嘆かる。 「かき絶えなごりなき さまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにて 見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあ らめ」など、さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしき事こそ、 うち怨じなど憎からずきこえたまへ、まめやかにつらしと思 せば、色にも出だしたまはず。端近うながめかちに、内裏住 みしげくなり、役とは御文を書きたまへば、 「げに人の言は むなしかるまじきなめり。気色をだにかすめたまへかし」と、 うとましくのみ思ひきこえたまふ。 源氏五の宮の見舞いにかこつけて外出する 夕つかた、神事などもとまりてさうざうし きに、つれづれと思しあまりて、五の宮に 例の近づき参りたまふ。雪うち散りて、艶 なる黄昏時に、なつかしきほどに馴れたる御衣どもを、いよ いよたきしめたまひて、心ことに化粧じ暮らしたまへれば、 いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。

 さすがに、罷り申しはた聞こえたまふ。 「女五の宮の悩 ましくしたまふなるを、とぶらひきこえになむ」とて、突い ゐたまへれど、見もやりたまはず。若君をもてあそび、紛ら はしおはする側目のただならぬを、 「あやしく御気色のか はれるべきころかな。罪もなしや。塩焼き衣のあまり目馴れ、 見だてなく思さるるにやとて、と絶えおくを、またいかが」 など聞こえたまへば、 「馴れゆくこそげにうきこと多か りけれ」とばかりにて、うち背きて臥したまへるは、見捨て て出でたまふ道ものうけれど、宮に御消息聞こえたまひてけ れば、出でたまひぬ。  かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ と、思ひつづけて臥したまへり。鈍びたる御衣どもなれど、 色あひ重なり好ましくなかなか見えて、雪の光にいみじく艶 なる御姿を見出だして、まことに離れまさりたまはば、と忍 びあへず思さる。御前など忍びやかなるかぎりして、 「内-

裏よりほかの歩きは、ものうきほどになりにけりや。桃園の 宮の心細きさまにてものしたまふも、式部卿宮に年ごろは譲 りきこえつるを、今は頼むなど思しのたまふも、ことわりに いとほしければ」
など、人々にものたまひなせど、 「いでや。 御すき心の古りがたきぞ、あたら御瑕なめる。軽々しき事も 出で来なむ」などつぶやきあへり。 源氏、式部卿宮邸で、源典侍に出会う 宮には、北面の人繁き方なる御門は、入り たまはむも軽々しければ、西なるがことご としきを、人入れさせたまひて、宮の御方 に御消息あれば、今日しも渡りたまはじと思しけるを、おど ろきて開けさせたまふ。御門守寒げなるけはひうすすき出で 来て、とみにもえ開けやらず。これより外の男はたなきなる べし、ごほごほと引きて、 「錠のいといたく銹びにければ、 開かず」と愁ふるを、あはれと聞こしめす。 「昨日今日と思 すほどに、三年のあなたにもなりにける世かな。かかるを見

つつ、かりそめの宿をえ思ひ棄てず、木草の色にも心を移す よ」
と、思し知らるる。口ずさびに、 いつのまによもぎがもととむすぼほれ雪ふる里と荒れし 垣根ぞ やや久しうひこじらひ開けて、入りたまふ。  宮の御方に、例の御物語聞こえたまふに、古事どものそこ はかとなきうちはじめ、聞こえ尽くしたまへど、御耳もおど ろかず、ねぶたきに、宮もあくびうちしたまひて、 「宵 まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず」と、のたまふ ほどもなく、いびきとか、聞き知らぬ音すれば、よろこびな がら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしき咳うち して、参りたる人あり。 「かしこけれど、聞こしめしたらむ と頼みきこえさするを、世にあるものとも数まへさせたまは ぬになむ。院の上は、祖母殿と笑はせたまひし」など、名の り出づるにぞ思し出づる。

 源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子に てなむ行ふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまは ざりつるを、あさましうなりぬ。 「その世のことは、みな 昔語になりゆくを、遙かに思ひ出づるも心細きに、うれし き御声かな。親なしに臥せる旅人とはぐくみたまへかし」と て、寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古 りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにた る口つき思ひやらるる声づかひの、さすがに、舌つきにてう ちざれむとはなほ思へり。 「言ひこしほどに」など聞こえ かかるまばゆさよ。今しも来たる老のやうになど、ほほ笑ま れたまふものから、 ひきかへ、これも あはれなり。 「この盛りにいど みたまひし女御

更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、 はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。入道の宮などの 御齢よ。あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少 なげさに、心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きと まりて、のどやかに行ひをもうちして過ぐしけるは、なほす べて定めなき世なり」
と思すに、ものあはれなる御気色を、 心ときめきに思ひて、若やぐ。 年ふれどこのちぎりこそ忘られね親の親とかいひし ひと言 と聞こゆれば、うとましくて、 「身をかへて後もまちみよこの世にて親を忘るるため しありやと 頼もしき契りぞや。いまのどかにぞ聞こえさすべき」とて立 ちたまひぬ。 源氏、姫君に求愛、姫君つれなく拒む

西面には御格子まゐりたれど、厭ひきこえ 顔ならむもいかがとて、一間二間はおろさ ず。月さし出でて、薄らかに積れる雪の光 りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。ありつる 老いらくの心げさうも、よからぬものの世のたとひとか聞き し、と思し出でられてをかしくなむ。  今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、 「一言、憎し なども、人づてならでのたまはせんを、思ひ絶ゆるふしにも せん」と、おり立ちて責めきこえたまへど、 「昔、我も人も 若やかに罪ゆるされたりし世にだに、故宮などの心寄せ思し たりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにし を、世の末に、さだ過ぎ、つきなきほどにて、一声もいとま ばゆからむ」と思して、さらに動きなき御心なれば、あさま しうつらしと思ひきこえたまふ。  さすがに、はしたなくさし放ちてなどはあらぬ、人づての

御返りなどぞ心やましきや。夜もいたう更けゆくに、風のけ はひ烈しくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよ きほどにおし拭ひたまひて、 「つれなさを昔にこりぬ心こそ人のつらきに添へてつ らけれ 心づからの」とのたまひすさぶるを、 「げに、かたはらいた し」と、人々、例の、聞こゆ。 「あらためて何かは見えむ人のうへにかかりと聞きし 心がはりを 昔に変ることはならはず」など聞こえたまへり。  言ふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふ も、いと若々しき心地したまへば、 「いとかく世のためし になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ、ゆめゆめ。いさ ら川なども馴れ馴れしや」とて、切にうちささめき語らひた まへど、何ごとにかあらむ。人々も、 「あなかたじけな。あな

がちに情おくれても、もてなしきこえたまふらん。かるらか におし立ちてなどは見えたまはぬ御気色を。心苦しう」
と いふ。  げに人のほどの、をかしきにも、あはれにも思し知らぬに はあらねど、 「もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、お しなべての世の人の、めできこゆらむ列にや思ひなされむ。 かつは軽々しき心のほども見知りたまひぬべく、恥づかしげ なめる御ありさまを」と思せば、 「なつかしからむ情もいと あいなし。よその御返りなどはうち絶えで、おぼつかなかる まじきほどに聞こえたまひ、人づての御いらへはしたなから で過ぐしてむ。年ごろ沈みつる罪うしなふばかり御行ひを」 とは思し立てど、 「にはかにかかる御事をしも、もて離れ顔 にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人の とりなさじやは」と、世の人の口さかなさを思し知りにしか ば、かつはさぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づ

かひしたまひつつ、やうやう御行ひをのみしたまふ。  御はらからの君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹なら ねば、いとうとうとしく、宮の内いとかすかになりゆくまま に、さばかりめでたき人のねむごろに御心を尽くしきこえた まへぱ、皆人心を寄せきこゆるもひとつ心と見ゆ。 朝顔の姫君との仲につき、紫の上に弁明 大臣は、あながちに思し焦らるるにしもあ らねど、つれなき御気色のうれたきに、負 けてやみなむも口惜しく、げに、はた、人 の御ありさま世のおぼえ、ことにあらまほしく、ものを深く 思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞きつめたまひ て、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの御あだ けも、かつは世のもどきをも思しながら、 「空しからむはい よいよ人笑へなるべし。いかにせむ」と御心動きて、二条院 に夜離れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。 忍びたまへど、いかがうちこぼるるをりもなからむ。

「あやしく例ならぬ御気色こそ、心得がたけれ」とて、 御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描か まほしき御あはひなり。 「宮亡せたまひて後、上のいとさ うざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、 太政大臣もものしたまはで、見ゆづる人なき事しげさになむ。 このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、こ とわりにあはれなれど、今はさりとも心のどかに思せ。おと なびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見- 知らぬさまにものしたまふこそらうたけれ」など、まろがれ たる御額髪ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞 こえたまはず。 「いといたく若びたまへるは、誰がならは しきこえたるぞ」とて、常なき世にかくまで心おかるるもあ ぢきなのわざや、とかつはうちながめたまふ。 「斎院には かなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それはい ともて離れたる事ぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこ

よなうけ遠き御心ばへなるを、さうざうしきをりをり、ただ ならで聞こえなやますに、かしこもつれづれにものしたまふ ところなれば、たまさかの答へなどしたまへど、まめまめし きさまにもあらぬを、かくなむあるとしも愁へきこゆべきこ とにやは。うしろめたうはあらじとを思ひなほしたまへ」
な ど、日一日慰めきこえたまふ。 雪の夜、紫の上と昔今の女の評をかわす 雪のいたう降り積りたる上に、今も散りつ つ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮 に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。 「時- 時につけても、人の心をうつすめる花紅葉の盛りよりも、冬 の夜の澄める月に雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なき ものの、身にしみて、この世の外のことまで思ひ流され、お もしろさもあはれさも残らぬをりなれ。すさまじき例に言ひ おきけむ人の心浅さよ」とて、御簾捲き上げさせたまふ。月 は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれ

たる前栽のかげ心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の 氷もえもいはずすごきに、童べおろして、雪まろばしせさせ たまふ。をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きや かに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿 なまめいたるに、こよなうあまれる髪の末、白きにはまして もてはやしたる、いとけざやかなり。ちひさきは童げてよろ こび走るに、扇なども落して、うちとけ顔をかしげなり。い と多う転ばさむとふくつけがれど、えも押し動かさでわぶ めり。かたへは東のつまなどに出でゐて、心もとなげに 笑ふ。 「ひと年、中宮の 御前に雪の山作られた りし、世に古りたる事 なれど、なほめづらし くもはかなきことをし

なしたまへりしかな。何のをりをりにつけても、口惜しう飽 かずもあるかな。いとけ遠くもてなしたまひて、くはしき御 ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御ま じらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。う ち頼みきこえて、とある事かかるをりにつけて、何ごとも聞 こえ通ひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざ りしかど、言ふかひあり、思ふさまに、はかなき事わざをも しなしたまひしはや。世にまたさばかりのたぐひありなむ や。やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるとこ ろの、並びなくものしたまひしを、君こそは、さいへど紫の ゆゑこよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき 気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや苦しからむ。前- 斎院の御心ばへは、またさまことにぞみゆる。さうざうしき に、何とはなくとも聞こえあばせ、我も心づかひせらるべき あたり、ただこの一ところや、世に残りたまへらむ」
とのた

まふ。 「尚侍こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は人にま さりたまへれ。浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人 の御心を、あやしくもありけることどもかな」とのたまへば、 「さかし。なまめかしう容貌よき女の例には、なほひき出 でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多 かるかな。まいて、うちあだけすきたる人の、年つもりゆく ままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはこよなき静け さと思ひしだに」など、のたまひ出でて、尚侍の君の御こと にも涙すこしは落したまひつ。 「この数にもあらずおとしめたまふ山里の人こそは、身 のほどにはややうち過ぎ、ものの心などえつべけれど、人よ りことなるべきものなれば、思ひあがれるさまをも見消ちて はべるかな。いふかひなき際の人はまだ見ず。人は、すぐれ たるは難き世なりや。東の院にながむる人の心ばへこそ、古

りがたくらうたけれ。さはたさらにえあらぬものを。さる方 につけての心ばせ人にとりつつ見そめしより、同じやうに世 をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今、はた、かたみに背く べくもあらず、深うあはれと思ひはべる」
など、昔今の御物- 語に夜更けゆく。  月いよいよ澄みて、靜かにおもしろし。女君、 こほりとぢ石間の水はゆきなやみそらすむ月のかげぞな がるる 外を見出だして、すこしかたぶきたまへるほど、似るものな くうつくしげなり。髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影 にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとり かさねつべし。鴛鴦のうち鳴きたるに、 かきつめてむかし恋しき雪もよにあはれを添ふる鴛- 鴦のうきねか 亡き藤壺、源氏の夢枕に立って恨む

入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大- 殿籠れるに、夢ともなくほのかに見たてま つるを、いみじく恨みたまへる御気色にて、 「漏らさじとのたまひしかど、うき名の隠れなかりければ、 恥づかしう。苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」との たまふ。御答へ聞こゆと思すに、おそはるる心地して、女君 の 「こは。などかくは」とのたまふに、おどろきて、いみじ く口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、おさへて、涙も流 れ出でにけり。今もいみじく濡らし添へたまふ。女君、いか なる事にかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。 とけて寝ぬねざめさびしき冬の夜に結ぼほれつる夢 のみじかさ  なかなか飽かず悲しと思すに、とく起きたまひて、さとは なくて、所どころに御誦経などせさせたまふ。 「苦しき目見 せたまふと、恨みたまへるも、さぞ思さるらんかし。行ひを

したまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一 つ事にてぞ、この世の濁りをすすいたまはざらむ」
と、もの の心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、 「何わざを して、知る人なき世界におはすらむを、とぶらひきこえに参 うでて、罪にもかはりきこえばや」など、つくづくと思す。 かの御ために、とり立てて何わざをもしたまはむは、人咎め きこえつべし。内裏にも、御心の鬼に思すところやあらむ、 と思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて、念じたてまつ りたまふ。おなじ蓮にとこそは、 なき人をしたふ心にまかせてもかげ見ぬみつの瀬に やまどはむ と思すぞうかりけるとや。 The Maiden 源氏、朝顔の姫君と贈答 姫君の態度

年かはりて、宮の御はても過ぎぬれば、世 の中色あらたまりて、更衣のほどなども今 めかしきを、まして祭のころは、おほかた の空のけしき心地よげなるに、前斎院はつれづれとながめた まふを、前なる桂の下風なつかしきにつけても、若き人々は 思ひ出づることどもあるに、大殿より、 「御禊の日はいかに のどやかに思さるらむ」と、とぶらひきこえさせたまへり。 「今日は、   かけきやは川瀬の浪もたちかへり君がみそぎのふぢのや   つれを」 紫の紙、立文すくよかにて藤の花につけたまへり。をりのあ はれなれば、御返りあり。

「ふぢごろも着しはきのふと思ふまにけふはみそぎの  瀬にかはる世を はかなく」とばかりあるを、例の御目とどめたまひて見おは す。御服なほしのほどなどにも、宣旨のもとに、ところせき まで思しやれることどもあるを、院は見苦しきことに思しの たまへど、をかしやかに、気色ばめる御文などのあらばこそ、 とかくも聞こえ返さめ、年ごろも、公ざまのをりをりの御と ぶらひなどは聞こえならはしたまひていとまめやかなれば、 いかがは聞こえも紛らはすべからむ、ともてわづらふべし。  女五の宮の御方にも、かやうに、をり過ぐさず聞こえたま へば、いとあはれに、 「この君の、昨日今日の児と思 ひしを、かく大人びてとぶらひたまふこと。容貌のいともき よらなるに添へて、心さへこそ人にはことに生ひ出でたまへ れ」とほめきこえたまふを、若き人々は笑ひきこゆ。こなた にも対面したまふをりは、 「この大臣の、かくいとねむ

ごろに聞こえたまふめるを、何か、いま始めたる御心ざしに もあらず。故宮も、筋異になりたまひて、え見たてまつりた まはぬ嘆きをしたまひては、思ひたちしことをあながちにも てはなれたまひしこと、などのたまひ出でつつ、くやしげに こそ思したりしをりをりありしか。されど、故大殿の姫君も のせられしかぎりは、三の宮の思ひたまはむことのいとほし さに、とかく言添へきこゆることもなかりしなり。今は、その やむごとなくえさらぬ筋にてものせられし人さへ亡くなられ にしかば、げになどてかは、さやうにておはせましもあしか るまじ、とうちおぼえはべるにも、さらがへりてかくねむご ろに聞こえたまふも、さるべきにもあらん、となむ思ひはべ る」
など、いと古代に聞こえたまふを、心づきなしと思して、 「故宮にも、しか心ごはきものに思はれたてまつりて過ぎ はべりにしを、いまさらにまた世になびきはべらんも、いと つきなきことになむ」と聞こえたまひて、恥づかしげなる御-

気色なれば、しひてもえ聞こえおもむけたまはず。宮人も、 上下みな心かけきこえたれば、世の中いとうしろめたくのみ 思さるれど、かの御みづからは、わが心を尽くし、あはれを 見えきこえて、人の御気色のうちもゆるばむほどをこそ待ち わたりたまへ、さやうにあながちなるさまに、御心やぶりき こえんなどは思さざるべし。 夕霧元服 源氏きびしい教育方針をとる 大殿腹の若君の御元服のこと思しいそぐを、 二条院にてと思せど、大宮のいとゆかしげ に思したるもことわりに心苦しければ、な ほやがてかの殿にてせさせたてまつりたまふ。右大将をはじ めきこえて、御伯父の殿ばら、みな上達部のやむごとなき御 おぼえことにてのみものしたまへば、主人方にも、我も我も と、さるべき事どもはとりどりに仕うまつりたまふ。おほか た世揺りて、ところせき御いそぎの勢なり。  四位になしてんと思し、世人もさぞあらんと思へるを、ま

だいときびはなるほどを、わが心にまかせたる世にて、しか ゆくりなからんもなかなか目馴れたることなり、と思しとど めつ。浅葱にて殿上に還りたまふを、大宮は飽かずあさまし きことと思したるぞ、ことわりにいとほしかりける。御対面 ありて、このこと聞こえたまふに、 「ただいま、かうあな がちにしも、まだきにおひつかすまじうはべれど、思ふやう はべりて、大学の道にしばし習はさむの本意はべるにより、 いま二三年をいたづらの年に思ひなして、おのづから朝廷に も仕うまつりぬべきほどにならば、いま人となりはべりなむ。 みづからは、九重の中に生ひ出ではべりて、世の中のありさ まも知りはべらず。夜昼御前にさぶらひて、わづかになむ、 はかなき書なども習ひはべりし。ただ、かしこき御手より伝 へはべりしだに、何ごとも広き心を知らぬほどは、文の才を まねぶにも、琴笛の調べにも、音たへず及ばぬところの多く なむはべりける。はかなき親に、かしこき子のまさるためし

は、いと難きことになむはべれば、まして次々伝はりつつ、 隔たりゆかむほどの行く先、いとうしろめたなきによりなむ、 思ひたまへおきてはべる。高き家の子として、官爵心にか なひ、世の中さかりにおごりならひぬれば、学問などに身を 苦しめむことは、いと遠くなむおぼゆべかめる。戯れ遊びを 好みて、心のままなる官爵にのぼりぬれば、時に従ふ世人の、 下には鼻まじろきをしつつ、追従し、気色とりつつ従ふほど は、おのづから人とおぼえてやむごとなきやうなれど、時移 り、さるべき人に立ちおくれて、世おとろふる末には、人に 軽め侮らるるに、かかりどころなきことになむはべる。なほ、 才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うは べらめ。さし当りては心もとなきやうにはべれども、つひ の世のおもしとなるべき心おきてをならひなば、はべらずな りなむ後もうしろやすかるべきによりなむ。ただ今ははかば かしからずながらも、かくてはぐくみはべらば、せまりたる

大学の衆とて、笑ひ侮る人もよもはべらじと思うたまふる」
など聞こえ知らせたまへば、うち嘆きたまひて、「げにか くも思し寄るべかりけることを。この大将なども、あまりひ き違へたる御ことなりと、かたぶけはべるめるを、この幼心- 地にもいと口惜しく、大将、左衛門督の子どもなどを、我よ りは下臈と思ひおとしたりしだに、みなおのおの加階しのぼ りつつ、およすけあへるに、浅葱をいとからしと思はれたる が、心苦しうはべるなり」と聞こえたまへば、うち笑ひたま ひて、 「いとおよすけても恨みはべるななりな。いとはか なしや。この人のほどよ」とて、いとうつくしと思したり。 「学問などして、すこしものの心得はべらば、その恨みは おのづからとけはべりなん」と聞こえたまふ。 二条東院で夕霧の字をつける儀式を行なう 字つくることは、東の院にてしたまふ。東 の対をしつらはれたり。上達部殿上人、め づらしくいぶかしきことにして、我も我も

と集ひ参りたまへり。博士どももなかなか臆しぬべし。 「憚るところなく、例あらむにまかせて、なだむることなく、 きびしう行へ」と仰せたまへば、しひてつれなく思ひなして、 家より外にもとめたる装束どもの、うちあはずかたくなしき 姿などをも恥なく、面もち、声づかひ、むべむべしくもてな しつつ、座につき並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさま どもなり。若き君達は、えたへずほほ笑まれぬ。さるはもの 笑ひなどすまじく、過ぐしつつ、しづまれるかぎりをと選り 出だして、瓶子なども取らせたまへるに、筋異なりけるまじ らひにて、右大将、民部卿などの、おほなおほな土器とりた まへるを、あさましく咎め出でつつおろす。 「おほし垣下 あるじ、はなはだ非常にはべりたうぶ。かくばかりの著とあ るなにがしを知らずしてや、朝廷には仕うまつりたうぶ。は なはだをこなり」など言ふに、人々みなほころびて笑ひぬれ ば、また、 「鳴高し。鳴やまむ。はなはだ非常なり。座を

退きて立ちたうびなん」
など、おどし言ふもいとをかし。見 ならひたまはぬ人々は、めづらしく興ありと思ひ、この道よ り出で立ちたまへる上達部などは、したり顔にうちほほ笑み などしつつ、かかる方ざまを思し好みて、心ざしたまふがめ でたきことと、いとど限りなく思ひきこえたまへり。いささ かもの言ふをも制す。なめげなりとても咎む。かしがましう ののしりをる顔どもも、夜に入りては、なかなか、いますこ し掲焉なる灯影に、猿楽がましくわびしげに人わるげなるな ど、さまざまに、げにいとなべてならず、さま異なるわざな りけり。 大臣は、 「い とあざれ、かたくななる身 にて、けうさうしまどはか されなん」とのたまひて、 御簾のうちに隠れてぞ御覧 じける。数定まれる座に着

きあまりて、帰りまかづる大学の衆どもあるを聞こしめして、 釣殿の方に召しとどめて、ことに物など賜はせけり。 字つける儀式の後の作文会 源氏の秀作 事果ててまかづる博士、才人ども召して、 またまた文作らせたまふ。上達部殿上人も、 さるべきかぎりをば、みなとどめさぶらは せさせたまふ。博士の人々は四韻、ただの人は、大臣をはじ めたてまつりて、絶句作りたまふ。興ある題の文字選りて、 文章博士奉る。短きころの夜なれば、明けはててぞ講ずる。 左中弁講師仕うまつる。容貌いときよげなる人の、声づかひ ものものしく神さびて読みあげたるほど、いとおもしろし。 おぼえ心ことなる博士なりけり。かかる高き家に生まれたま ひて、世界の栄華にのみ戯れたまふべき御身をもちて、窓の 螢を睦び、枝の雪を馴らしたまふ志のすぐれたるよしを、 よろづの事によそへなずらへて心々に作り集めたる、句ごと におもしろく、唐土にも持て渡り伝へまほしげなる世の文ど

もなりとなむ、そのころ世にめでゆすりける。大臣の御はさ らなり、親めきあはれなることさへすぐれたるを、涙落して 誦じ騒ぎしかど、女のえ知らぬことまねぶは、憎きことをと、 うたてあれば漏らしつ。 夕霧、二条東院でひたすら勉学に励む うちつづき、入学といふ事せさせたまひて、 やがてこの院の内に御曹司つくりて、まめ やかに、才深き師に預けきこえたまひてぞ、 学問せさせたてまつりたまひける。大宮の御もとにも、をさ をさ参うでたまはず。夜昼うつくしみて、なほ児のやうにの みもてなしきこえたまへれば、かしこにてはえもの習ひたま はじとて、静かなる所に籠めたてまつりたまへるなりけり。 一月に三たびばかりを、参りたまへとぞ、許しきこえたまひ ける。  つと籠りゐたまひて、いぶせきままに、殿を 「つらくもおは しますかな。かく苦しからでも、高き位に昇り、世に用ゐら

るる人はなくやはある」
と思ひきこえたまへど、おほかたの 人柄まめやかに、あだめきたるところなくおはすれば、いと よく念じて、いかでさるべき書どもとく読みはてて、まじら ひもし、世にも出でたらん、と思ひて、ただ四五月のうちに、 史記などいふ書は、読みはてたまひてけり。 夕霧、寮試の予行に卓抜な資質を発揮する 今は寮試受けさせむとて、まづわが御前に て試みさせたまふ。例の大将、左大弁、式- 部大輔、左中弁などばかりして、御師の大- 内記を召して、史記の難き巻々、寮試受けんに、博士のかへ さふべきふしぶしを引き出でて、ひとわたり読ませたてまつ りたまふに、至らぬ句もなくかたがたに通はし読みたまへる さま、爪じるし残らず、あさましきまであり難ければ、さ るべきにこそおはしけれと、誰も誰も涙落したまふ。大将は、 まして、 「故大臣おはせましかば」と聞こえ出でて、泣き たまふ。殿も、え心強うもてなしたまはず、 「人の上に

て、かたくななりと見聞きはべりしを、子の大人ぶるに、親 の立ちかはり痴れゆくことは、いくばくならぬ齢ながら、 かかる世にこそはべりけれ」
などのたまひて、おし拭ひたま ふを見る御師の心地、うれしく面目あり、と思へり。大将 盃さしたまへば、いたう酔ひしれてをる顔つき、いと痩せ 痩せなり。世のひがものにて、才のほどよりは用ゐられず、 すげなくて身貧しくなむありけるを、御覧じうるところあり て、かくとりわき召し寄せたるなりけり。身にあまるまで御 かへりみを賜はりて、この君の御徳にたちまちに身をかへた ると思へば、まして行く先は並ぶ人なきおぼえにぞあらん かし。 夕霧、寮試に及第して擬文章生となる 大学に参りたまふ日は、寮門に上達部の御- 車ども数知らず集ひたり。おほかた世に 残りたるあらじと見えたるに、またなく もてかしづかれて、つくろはれ入りたまへる冠者の君の御さ

ま、げにかかるまじらひにはたへずあてにうつくしげなり。 例の、あやしき者どもの立ちまじりつつ来ゐたる座の末をか らしと思すぞ、いとことわりなるや。ここにても、またおろ しののしる者どもありて、めざましけれど、すこしも臆せず 読み果てたまひつ。昔おぼえて大学の栄ゆるころなれば、上- 中下の人、我も我もとこの道に心ざし集まれば、いよいよ世 の中に、才ありはかばかしき人多くなんありける。文人擬生 などいふなることどもよりうちはじめ、すがすがしう果てた まへれば、ひとへに心に入れて、師も弟子もいとどはげみま したまふ。殿にも文作りしげく、博士才人どもところえたり。 すべて何ごとにつけても、道々の人の才のほど現はるる世に なむありける。 梅壺女御、御方々を超えて中宮となる かくて、后ゐたまふべきを、 「斎宮の女御を こそは、母宮も後見と譲りきこえたまひし かば」と、大臣もことつけたまふ。源氏

のうちしきり后にゐたまはんこと、世の人ゆるしきこえず。 弘徽殿の、まづ人より先に参りたまひにしもいかがなど、内- 内に、こなたかなたに心寄せきこゆる人々、おぼつかながり きこゆ。兵部卿宮と聞こえしは、今は式部卿にて、この御時 にはましてやむごとなき御おぼえにておはする、御むすめ本- 意ありて参りたまへり。同じごと王女御にてさぶらひたまふ を、同じくは、御母方にて親しくおはすべきにこそは、母后 のおはしまさぬ、御かはりの後見にことよせて、似つかはし かるべく、とりどりに思し争ひたれど、なほ梅壼ゐたまひぬ。 御幸ひの、かくひきかへすぐれたまへりけるを、世の人驚き きこゆ。 源氏など昇進 内大臣一族と雲居雁のこと 大臣、太政大臣にあがりたまひて、大将、 内大臣になりたまひぬ。世の中の事ども まつりごちたまふべく、ゆづりきこえたま ふ。人柄いとすくよかに、きらきらしくて、心もちゐなども

かしこくものしたまふ。学問をたててしたまひければ、韻塞 には負けたまひしかど、 公事にかしこくなむ。腹々に御子 ども十余人、大人びつつものしたまふも、次々になり出でつ つ、劣らず栄えたる御家の内なり。  女は女御といま一ところとなむおはしける。わかんどほり 腹にて、あてなる筋は劣るまじけれど、その母君、按察大納- 言の北の方になりて、さしむかへる子どもの数多くなりて、 それにまぜて後の親にゆづらむいとあいなしとて、とり放ち きこえたまひて、大宮にぞ預けきこえたまへりける。女御に は、こよなく思ひおとしきこえたまひつれど、人柄容貌など、 いとうつくしくぞおはしける。 夕霧と雲居雁、互いに幼い恋情を抱く 冠者の君、ひとつにて生ひ出でたまひしか ど、おのおの十にあまりたまひて後は、御- 方異にて、 「睦ましき人なれど、男子にはう ちとくまじきものなり」と父大臣聞こえたまひて、け遠くな

りにたるを、幼心地に思ふことなきにしもあらねば、はかな き花紅葉につけても、雛遊びの追従をも、ねむごろにまつ はれ歩きて、心ざしを見えきこえたまへば、いみじう思ひか はして、けざやかには今も恥ぢきこえたまはず。御後見ども も、 「何かは、若き御心どちなれば、年ごろ見ならひたまへ る御あはひを、にはかにも、いかがはもて離れはしたなめき こえん」と見るに、女君こそ何心なくおはすれど、男は、さ こそものげなきほどと見きこゆれ、おほけなくいかなる御仲 らひにかありけん、よそよそになりては、これをぞ静心なく 思ふべき。まだ片生ひなる手の、生ひ先うつくしきにて、書 きかはしたまへる文どもの、心をさなくて、おのづから落ち 散るをりあるを、御方の人々は、ほのぼの知れるもありけれ ど、何かは、かくこそと誰にも聞こえん、見隠しつつあるな るべし。

内大臣、大宮と琴を弾きながら語る 所どころの大饗どもも果てて、世の中の御 いそぎもなく、のどやかになりぬるころ、 時雨うちして荻の上風もただならぬ夕暮に、 大宮の御方に内大臣参りたまひて、姫君渡しきこえたまひて、 御琴など弾かせたてまつりたまふ。宮はよろづの物の上手に おはすれば、いづれも伝へたてまつりたまふ。 「琵琶こ そ、女のしたるに憎きやうなれど、らうらうじきものにはべ れ。今の世にまことしう伝へたる人、をさをさはべらずなり にたり。何の親王、くれの源氏」など数へたまひて、 「女の中には、太政大臣の山里に籠めおきたまへる人こそ、 いと上手と聞きはべれ。物の上手の後にははべれど、末にな りて、山がつにて年経たる人の、いかでさしも弾きすぐれけ ん。かの大臣、いと心ことにこそ思ひてのたまふをりをりは べれ。他事よりは、遊びの方の才はなほ広うあはせ、かれこ れに通はしはべるこそかしこけれ。独りごとにて、上手とな

りけんこそ、めづらしきことなれ」
などのたまひて、宮にそ そのかしきこえたまへば、 「柱さすことうひうひしくなり にけりや」とのたまへど、おもしろう弾きたまふ。 「幸ひ にうち添へて、なほあやしうめでたかりける人なりや。老の 世に、持たまへらぬ女子をまうけさせたてまつりて、身に添 へてもやつしゐたらず、やむごとなきにゆづれる心おきて、 事もなかるべき人なりとぞ聞きはべる」など、かつ御物語聞 こえたまふ。 「女はただ心ばせよりこそ、世に用ゐらる るものにはべりけれ」など、人の上のたまひ出でて、 「女御を、けしうはあらず、何ごとも人に劣りては生ひ出で ずかし、と思ひたまへしかど、思はぬ人におされぬる宿世に なん、世は思ひの外なるものと思ひはべりぬる。この君をだ に、いかで思ふさまに見なしはべらん。春宮の御元服ただ今 のことになりぬるを、と人知れず思うたまへ心ざしたるを、 かう言ふ幸ひ人の腹の后がねこそ、また追ひすがひぬれ。

立ち出でたまへらんに、ま して、きしろふ人あり難く や」
とうち嘆きたまへば、 「などかさしもあらむ。 この家にさる筋の人出でも のしたまはでやむやうあら じ、と故大臣の思ひたまひて、女御の御事をも、ゐたちいそ ぎたまひしものを、おはせましかば、かくもてひがむる事も なからまし」など、この御事にてぞ、太政大臣も恨めしげに 思ひきこえたまへる。姫君の御さまの、いときびはにうつく しうて、筝の御琴弾きたまふを、御髪のさがり、髪ざしなど の、あてになまめかしきをうちまもりたまへば、恥ぢらひて すこし側みたまへるかたはらめ、頬つきうつくしげにて、 取由の手つき、いみじうつくりたる物の心地するを、宮も限 りなくかなしと思したり。掻き合はせなど弾きすさびたまひ

て、押しやりたまひつ。  大臣和琴ひき寄せたまひて、律の調べのなかなか今めきた るを、さる上手の、乱れて掻い弾きたまへる、いとおもしろ し。御前の梢ほろほろと残らぬに、老御達など、ここかしこ の御几帳の背後に、かしらを集へたり。 「風の力蓋し寡 し」とうち誦じたまひて、 「琴の感ならねど、あやしくもの あはれなる夕かな。なほ遊ばさんや」とて、秋風楽に掻き合 はせて、唱歌したまへる声いとおもしろければ、みなさまざ ま、大臣をもいとうつくしと思ひきこえたまふに、いとど添 へむとにやあらむ、冠者の君参りたまへり。 夕霧来訪、内大臣の夕霧への態度 「こなたに」とて、御几帳隔てて入れたて まつりたまへり。 「をさをさ対面もえ たまはらぬかな。などかく、この御学問の あながちならん。才のほどよりあまりすぎぬるもあぢきなき わざと、大臣も思し知れることなるを、かくおきてきこえた

まふ、やうあらんとは思ひたまへながら、かう籠りおはする ことなむ心苦しうはべる」
と聞こえたまひて、 「時々は 異わざしたまへ。笛の音にも古ごとは伝はるものなり」とて、 御笛奉りたまふ。いと若うをかしげなる音に吹きたてて、い みじうおもしろければ、御琴どもをばしばしとどめて、大臣、 拍子おどろおどろしからずうち鳴らしたまひて、 「萩が花ず り」などうたひたまふ。 「大殿も、かやうの御遊びに心 とどめたまひて、いそがしき御政どもをばのがれたまふな りけり。げに、あぢきなき世に、心のゆくわざをしてこそ、 過ぐしはべりなまほしけれ」などのたまひて、御土器まゐり たまふに、暗うなれば、御殿油まゐり、御湯漬くだものなど、 誰も誰も聞こしめす。姫君はあなたに渡したてまつりたまひ つ。しひてけ遠くもてなしたまひ、御琴の音ばかりをも聞か せたてまつらじと、今はこよなく隔てきこえたまふを、 「い とほしきことありぬべき世なるこそ」と、近う仕うまつる大-

宮の御方のねび人どもささめきけり。 内大臣、夕霧と雲居雁との仲を知る 大臣出でたまひぬるやうにて、忍びて人に もののたまふとて立ちたまへりけるを、や をらかい細りて出でたまふ道に、かかるさ さめき言をするに、あやしうなりたまひて、御耳とどめたま へば、わが御上をぞ言ふ。 「かしこがりたまへど、人の親 よ。おのづからおれたる事こそ出で来べかめれ。子を知るは といふは、そらごとなめり」などぞつきしろふ。 「あさまし くもあるかな。さればよ。思ひ寄らぬことにはあらねど、い はけなきほどにうちたゆみて。世はうきものにもありけるか な」と、けしきをつぶつぶと心えたまへど、音もせで出でた まひぬ。御前駆追ふ声のいかめしきにぞ、 「殿は今こそ出 でさせたまひけれ。いづれの隈におはしましつらん。今さへ かかるあだけこそ」と言ひあへり。ささめき言の人々は、 「い とかうばしき香のうちそよめき出でつるは、冠者の君のおは

しつるとこそ思ひつれ。あなむくつけや。後言やほの聞こし めしつらん。わづらはしき御心を」
とわびあへり。  殿は道すがら思すに、 「いと口惜しくあしきことにはあら ねど、めづらしげなきあはひに、世人も思ひ言ふべきこと。 大臣の、しひて女御をおし沈めたまふもつらきに、わくらば に、人にまさることもやとこそ思ひつれ、ねたくもあるか な」と思す。殿の御仲の、おほかたには、昔も今もいとよく おはしながら、かやうの方にては、いどみきこえたまひしな ごりも思し出でて、心うければ、寝覚めがちにて明かしたま ふ。 「大宮をも、さやうのけしきは御覧ずらんものを、世に なくかなしくしたまふ御孫にて、まかせて見たまふならん」 と、人々の言ひしけしきを、めざましうねたしと思すに、御- 心動きて、すこし男々しくあざやぎたる御心には、しづめが たし。

内大臣、大宮の放任主義を恨み、非難する 二日ばかりありて参りたまへり。しきりに 参りたまふ時は、大宮もいと御心ゆき、う れしきものに思いたり。御尼額ひきつくろ ひ、うるはしき御小袿など奉り添へて、子ながら恥づかし げにおはする御人ざまなれば、まほならずぞ見えたてまつり たまふ。大臣御気色あしくて、 「ここにさぶらふもはした なく、人々いかに見はべらんと心おかれにたり。はかばかし き身にはべらねど、世にはべらん限り、御目離れず御覧ぜ られ、おぼつかなき隔てなくとこそ思ひたまふれ。よからぬ ものの上にて、恨めしと思ひきこえさせつべきことの出でま うで来たるを、かうも 思うたまへじと、かつ は思ひたまふれど、な ほしづめがたくおぼえ はべりてなん」と、涙

おし拭ひたまふに、宮、化粧じたまへる御顔の色違ひて、御- 目も大きになりぬ。 「いかやうなる事にてか、今さらの齢 の末に、心おきては思さるらん」と聞こえたまふも、さすが にいとほしけれど、 「頼もしき御蔭に、幼き者を奉りおき て、みづからはなかなか幼くより見たまへもつかず、まづ目 に近きがまじらひなどはかばかしからぬを見たまへ嘆き営み つつ、さりとも人となさせたまひてん、と頼みわたりはべり つるに、思はずなることのはべりければ、いと口惜しうなん。 まことに天の下並ぶ人なき有職にはものせらるめれど、親し きほどにかかるは、人の聞き思ふところもあはつけきやうに なむ、何ばかりのほどにもあらぬ仲らひにだにしはべるを、 かの人の御ためにも、いとかたはなることなり。さし離れ、 きらきらしうめづらしげあるあたりに、いまめかしうもてな さるるこそをかしけれ。ゆかりむつび、ねぢけがましきさま にて、大臣も聞き思すところはべりなん。さるにても、かか

ることなんと知らせたまひて、ことさらにもてなし、すこし ゆかしげあることをまぜてこそはべらめ。幼き人々の心にま かせて御覧じ放ちけるを、心うく思うたまふる」
など聞こえ たまふに、夢にも知りたまはぬことなれば、あさましう思し て、 「げに、かうのたまふもことわりなれど、かけてもこ の人々の下の心なん知りはべらざりける。げにいと口惜しき ことは、ここにこそまして嘆くべくはべれ。もろともに罪を 負せたまふは、恨めしきことになん。見たてまつりしより、 心ことに思ひはべりて、そこに思しいたらぬことをも、すぐ れたるさまにもてなさむとこそ、人知れず思ひはべれ。もの げなきほどを、心の闇にまどひて、急ぎものせんとは思ひ寄 らぬことになん。さても、誰かはかかることは聞こえけん。 よからぬ世の人の言につきて、きはだけく思しのたまふも、 あぢきなく空しきことにて、人の御名や穢れん」とのたまへ ば、 「何の浮きたることにかはべらむ。さぶらふめる人-

人も、かつはみなもどき笑ふべかめるものを、いと口惜しく、 やすからず思うたまへらるるや」
とて、立ちたまひぬ。心知 れるどちは、いみじういとほしく思ふ。一夜の後言の人々は、 まして心地も違ひて、何にかかる睦物語をしけんと、思ひ嘆 きあへり。 雲居雁を本邸に移さんとす大宮の胸中 姫君は、何心もなくておはするに、さしの ぞきたまへれば、いとらうたげなる御さま をあはれに見たてまつりたまふ。 「若 き人といひながら、心幼くものしたまひけるを知らで、いと かく人並々にと思ひける我こそ、まさりてはかなかりけれ」 とて、御乳母どもをさいなみたまふに、聞こえん方なし。 「かやうのことは、限りなき帝の御いつきむすめも、おのづか らあやまつ例、昔物語にもあめれど、けしきを知り伝ふる人、 さるべき隙にてこそあらめ。これは、明け暮れ立ちまじりた まひて年ごろおはしましつるを、何かは、いはけなき御ほど

を、宮の御もてなしよりさし過ぐしても、隔てきこえさせん、 とうちとけて過ぐしきこえつるを、 一昨年ばかりよりは、け ざやかなる御もてなしになりにてはべるめるに、若き人とて もうち紛ればみ、いかにぞや、世づきたる人もおはすべかめ るを、ゆめに乱れたるところおはしまさざめれば、さらに思 ひ寄らざりけること」
と、おのがどち嘆く。 「よし、し ばしかかること漏らさじ。隠れあるまじき事なれど、心をや りて、あらぬ事とだに言ひなされよ。いまかしこに渡したて まつりてん。宮の御心のいとつらきなり。そこたちは、さり とも、いとかかれとしも思はれざりけん」とのたまへば、い とほしき中にも、うれしくのたまふと思ひて、 「あないみ じや。大納言殿に聞きたまはんことをさへ思ひはべれば、め でたきにても、ただ人の筋は何のめづらしさにか思ひたまへ かけん」と聞こゆ。姫君は、いと幼げなる御さまにて、よろ づに申したまへども、かひあるべきにもあらねば、うち泣き

たまひて、いかにしてかいたづらになりたまふまじきわざは すべからんと、忍びてさるべきどちのたまひて、大宮をのみ 恨みきこえたまふ。  宮はいといとほしと思す中にも、男君の御かなしさはすぐ れたまふにやあらん、かかる心のありけるも、うつくしう思 さるるに、情なくこよなきことのやうに思しのたまへるを、 「などかさしもあるべき。もとよりいたう思ひつきたまふこ となくて、かくまでかしづかんとも思したたざりしを、わが かくもてなしそめたればこそ、春宮の御事をも思しかけため れ、とりはづして、ただ人の宿世あらば、この君より外にま さるべき人やはある。容貌ありさまよりはじめて、等しき人 のあるべきかは。これより及びなからん際にもとこそ思へ」 と、わが心ざしのまさればにや、大臣を恨めしう思ひきこえ たまふ。御心の中を見せたてまつりたらば、ましていかに恨 みきこえたまはん。 大宮、雲居雁との件につき夕霧をさとす

かく騒がるらんとも知らで、冠者の君参り たまへり。一夜も人目しげうて、思ふこと をもえ聞こえずなりにしかば、常よりもあ はれにおぼえたまひければ、夕つ方おはしたるなるべし。宮、 例は是非知らずうち笑みて待ちよろこびきこえたまふを、ま めだちて物語など聞こえたまふついでに、 「御事により、 内大臣の怨じてものしたまひにしかば、いとなんいとほしき。 ゆかしげなきことをしも思ひそめたまひて、人にもの思はせ たまひつべきが心苦しきこと。かうも聞こえじ、と思へど、 さる心も知りたまはでや、と思へばなん」と聞こえたまへば、 心にかかれることの筋なれば、ふと思ひよりぬ。面赤みて、 「何ごとにかはべらん。静かなる所に籠りはべりにし後、 ともかくも人にまじるをりなければ、恨みたまふべきことは べらじ、となん思ひたまふる」とて、いと恥づかしと思へる 気色を、あはれに心苦しうて、 「よし、今よりだに用意し

たまへ」
とばかりにて、他事に言ひなしたまうつ。 夕霧と雲居雁、仲をさかれ互いに嘆きあう いとど文なども通はんことのかたきなめり と思ふに、いとなげかし。物まゐりなどし たまへど、さらにまゐらで、寝たまひぬる やうなれど、心もそらにて、人しづまるほどに、中障子を引 けど、例はことに鎖し固めなどもせぬを、つと鎖して、人の 音もせず。いと心細くおぼえて、障子に寄りかかりてゐたま へるに、女君も目を覚まして、風の音の竹に待ちとられてう ちそよめくに、雁の鳴きわたる声のほのかに聞こゆるに、幼 き心地にも、とかく思し乱るるにや、 「雲居の雁もわが ごとや」と、独りごちたまふけはひ、若うらうたげなり。い みじう心もとなければ、 「これ開けさせたまへ。小侍従や さぶらふ」とのたまへど、音もせず。御乳母子なりけり。独 り言を聞きたまひけるも恥づかしうて、あいなく御顔も引き 入れたまへど、あはれは知らぬにしもあらぬぞ憎きや。乳母

たちなど近く臥してうちみじろくも苦しければ、かたみに音 もせず。 さ夜中に友呼びわたる雁がねにうたて吹き添ふ荻の   うは風 身にしみけるかなと思ひつづけて、宮の御前にかへりて嘆き がちなるも、御目覚めてや聞かせたまふらんとつつましく、 みじろき臥したまへり。  あいなくもの恥づかしうて、わが御方にとく出でて御文書 きたまへれど、小侍従もえ逢ひたまはず、かの御方ざまにも え行かず、胸つぶれておぼえたまふ。女、はた、騒がれたま ひしことのみ恥づかしうて、わが身やいかがあらむ、人やい かが思はんとも深く思し入れず、をかしうらうたげにて、う ち語らふさまなどを、うとましとも思ひ離れたまはざりけり。 またかう騒がるべきこととも思さざりけるを、御後見どもも いみじうあはめきこゆれば、え言も通はしたまはず。大人び

たる人や、さるべき隙をも作り出づらむ、男君も、いますこ しものはかなき年のほどにて、ただいと口惜しとのみ思ふ。 雲居雁を引き取るよしを大宮に通告する 大臣はそのままに参りたまはず、宮をいと つらしと思ひきこえたまふ。北の方には、 かかることなんと、けしきも見せたてまつ りたまはず。ただおほかたいとむつかしき御気色にて、 「中宮のよそほひことにて参りたまへるに、女御の世の中思 ひしめりてものしたまふを、心苦しう胸いたきに、まかでさ せたてまつりて、心やすくうち休ませたてまつらん。さすが に、上につとさぶらはせたまひて、夜昼おはしますめれば、 ある人々も心ゆるびせず、苦しうのみわぶめるに」とのたま ひて、にはかにまかでさせたてまつりたまふ。御暇もゆるさ れがたきを、うちむつかりたまて、上はしぶしぶに思しめし たるを、しひて御迎へしたまふ。 「つれづれに思されん を、姫君渡して、もろともに遊びなどしたまへ。宮に預けた

てまつりたる、うしろやすけれど、いとさくじりおよすけた る人立ちまじりて、おのづからけ近きも、あいなきほどにな りにたればなん」
と聞こえたまひて、にはかに渡しきこえた まふ。  宮いとあへなしと思して、 「一人ものせられし女亡くな りたまひて後、いとさうざうしく心細かりしに、うれしうこ の君を得て、生ける限りのかしづきものと思ひて、明け暮れ につけて、老のむつかしさも慰めんとこそ思ひつれ。思ひの 外に隔てありて思しなすも、つらく」など聞こえたまへば、 うちかしこまりて、 「心に飽かず思うたまへらるること は、しかなん思うたまへらるる、とばかり聞こえさせしにな む。深く隔て思ひたまふることはいかでかはべらむ。内裏に さぶらふが、世の中恨めしげにて、このごろまかでてはべる に、いとつれづれに思ひて屈しはべれば、心苦しう見たまふ るを、もろともに遊びわざをもして慰めよ、と思うたまへて

なむ、あからさまにものしはべる」
とて、 「はぐくみ、人と なさせたまへるを、おろかにはよも思ひきこえさせじ」と申 したまへば、かう思し立ちにたれば、とどめきこえさせたま ふとも思し返すべき御心ならぬに、いと飽かず口惜しう思さ れて、 「人の心こそうきものはあれ。とかく幼き心どもに も、我に隔ててうとましかりけることよ。また、さもこそあ らめ、大臣の、ものの心を深う知りたまひながら、我を怨じ て、かく率て渡したまふこと。かしこにて、これよりうしろ やすきこともあらじ」とうち泣きつつのたまふ。 夕霧、大宮邸にまいる 内大臣の真意 をりしも冠者の君参りたまへり。もしいさ さかの隙もやと、このごろはしげうほのめ きたまふなりけり。内大臣の御車のあれば、 心の鬼にはしたなくて、やをら隠れて、わが御方に入りゐた まへり。内の大殿の君たち、左少将、少納言、兵衛佐、侍従、 大夫などいふも、皆ここには参り集ひたれど、御簾の内は

ゆるしたまはず。左衛門督、権中納言なども、異御腹なれど、 故殿の御もてなしのままに、今も参り仕うまつりたまふこと ねむごろなれば、その御子どももさまざま参りたまへど、こ の君に似るにほひなく見ゆ。大宮の御心ざしも、なずらひ なく思したるを、ただこの姫君をぞ、け近うらうたきものと 思しかしづきて、御かたはら避けず、うつくしきものに思し たりつるを、かくて渡りたまひなんが、いとさうざうしきこ とを思す。  殿は、 「今のほどに内裏に参りはべりて、夕つ方迎へに参 りはべらん」とて出でたまひぬ。言ふかひなきことを、な だらかに言ひなして、さてもやあらまし、と思せど、なほい と心やましければ、 「人の御ほどのすこしものものしくなり なんに、かたはならず見なして、そのほど心ざしの深さ浅さ のおもむきをも見定めて、ゆるすとも、ことさらなるやうに もてなしてこそあらめ、制し諫むとも、一所にては、幼き心

のままに、見苦しうこそあらめ。宮もよもあながちに制しの たまふことあらじ」
と思せば、女御の御つれづれにことつけ て、ここにもかしこにもおいらかに言ひなして、渡したまふ なりけり。 大宮、雲居雁と惜別 夕霧の乳母の腹立ち 宮の御文にて、 「大臣こそ恨みもしたまは め、君は、さりとも心ざしのほども知りた まふらん。渡りて見えたまへ」と聞こえた まへれば、いとをかしげにひきつくろひて渡りたまへり。十- 四になんおはしける。片なりに見えたまへど、いと児めかし う、しめやかに、うつくしきさましたまへり。 「かたは ら避けたてまつらず、明け暮れのもてあそびものに思ひきこ えつるを、いとさうざうしくもあるべきかな。残り少なき齢 のほどにて、御ありさまを見はつまじきことと、命をこそ思 ひつれ。今さらに見棄ててうつろひたまふや、いづちならむ、 と思へば、いとこそあはれなれ」とて泣きたまふ。姫君は恥

づかしきことを思せば、顔ももたげたまはで、ただ泣きにの み泣きたまふ。男君の御乳母、宰相の君出で来て、 「同じ 君とこそ頼みきこえさせつれ。口惜しくかく渡らせたまふこ と。殿は他ざまに思しなることおはしますとも、さやうに思 しなびかせたまふな」など、ささめき聞こゆれば、いよいよ 恥づかしと思して、ものものたまはず。 「いで、むつかし きことな聞こえられそ。人の御宿世宿世のいと定めがたく」 とのたまふ。 「いでや、ものげなしと侮りきこえさせたま ふにはべるめりかし。さりとも、げに、わが君や人に劣りき こえさせたまふ、と聞こしめしあはせよ」と、なま心やまし きままに言ふ。 夕霧、大宮のはからいで雲居雁と逢う 冠者の君、物の背後に入りゐて見たまふに、 人の咎めむも、よろしき時こそ苦しかりけ れ、いと心細くて、涙おし拭ひつつおはす るけしきを、御乳母いと心苦しう見て、宮にとかく聞こえた

ばかりて、タまぐれ の人のまよひに、対- 面せさせたまへり。  かたみにもの恥づかしく胸つぶれて、ものも言はで泣きた まふ。 「大臣の御心のいとつらければ、さばれ、思ひやみ なんと思へど、恋しうおはせむこそ理なかるべけれ。などて、 すこし隙ありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつらむ」との たまふさまも、いと若うあはれげなれば、 「まろも、さこ そはあらめ」とのたまふ。 「恋しとは思しなんや」とのた まへば、すこしうなづきたまふさまも幼げなり。  御殿油まゐり、殿まかでたまふけはひ、こちたく追ひのの しる御前駆の声に、人々、 「そそや」など怖ぢ騒げば、いと 恐ろしと思してわななきたまふ。さも騒がればと、ひたぶる 心に、ゆるしきこえたまはず。御乳母参りてもとめたてまつ るに、けしきを見て、 「あな心づきなや。げに、宮知らせた

まはぬことにはあらざりけり」
と思ふにいとつらく、 「い でや、うかりける世かな。殿の思しのたまふことはさらにも 聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせたまはん。めでたくと も、もののはじめの六位宿世よ」とつぶやくもほの聞こゆ。 ただこの屏風の背後に尋ね来て、嘆くなりけり。男君、我をば 位なしとてはしたなむるなりけり、と思すに、世の中恨めし ければ、あはれもすこしさむる心地して、めざまし。 「かれ 聞きたまへ、 くれなゐの涙にふかき袖の色をあさみどりにやいひしを   るべき 恥づかし」とのたまへば、 いろいろに身のうきほどの知らるるはいかに染め   ける中の衣ぞ ともののたまひはてぬに、殿入りたまへば、わりなくて渡り たまひぬ。 雲居雁、内大臣邸に去る 夕霧の嘆き

男君は、立ちとまりたる心地も、いと人わ るく胸塞がりて、わが御方に臥したまひぬ。 御車三つばかりにて、忍びやかに急ぎ出で たまふけはひを聞くも、静心なければ、宮の御前より 「参り たまへ」とあれど、寝たるやうにて動きもしたまはず。涙の みとまらねば、嘆きあかして、霜のいと白きに急ぎ出でたま ふ。うち腫れたるまみも、人に見えんが恥づかしきに、宮、 はた、召しまつはすべかめれば、心やすき所にとて、急ぎ出 でたまふなりけり。道のほど、人やりならず心細く思ひつづ くるに、空のけしきもいたう曇りてまだ暗かりけり。 霜氷うたてむすべる明けぐれの空かきくらし降るな   みだかな 源氏、惟光の娘を五節の舞姫に奉る 大殿には今年五節奉りたまふ。何ばかりの 御いそぎならねど、童べの装束など、近う なりぬとて、急ぎせさせたまふ。東の院に

は、参りの夜の人々の装束せさせたまふ。殿には、おほかた のことども、中宮よりも、童下仕の料など、えならで奉れ たまへり。過ぎにし年、五節などとまれりしが、さうざうし かりし積りも取り添へ、上人の心地も常よりも華やかに思ふ べかめる年なれば、所どころいどみて、いといみじくよろづ を尽くしたまふ聞こえあり。按察大納言、左衛門督、上の五- 節には、良清、今は近江守にて左中弁なるなん奉りける。み なとどめさせたまひて、宮仕すべく、仰せ言ことなる年なれ ば、むすめをおのおの奉りたまふ。  殿の舞姫は、惟光朝臣 の、津の守にて左京大夫 かけたるがむすめ、容貌 などいとをかしげなる聞 こえあるを召す。からい ことに思ひたれど、 「大-

納言の、外腹のむすめを奉らるなるに、朝臣のいつきむすめ 出だしたてたらむ、何の恥かあるべき」
とさいなめば、わび て、同じくは宮仕やがてせさすべく思ひおきてたり。舞なら はしなどは、里にていとようしたてて、かしづきなど、親し う身に添ふべきは、いみじう選りととのへて、その日の夕つ けて参らせたり。殿にも、御方々の童下仕のすぐれたるを、 と御覧じくらべ、選り出でらるる心地どもは、ほどほどにつ けて、いと面だたしげなり。御前に召して御覧ぜむうちなら しに、御前を渡らせて、と定めたまふ。棄つべうもあらず、 とりどりなる童べの様体容貌を思しわづらひて、 「いま一 ところの料を、これより奉らばや」など笑ひたまふ。ただも てなし用意によりてぞ選びに入りける。 夕霧、惟光の娘を見て懸想する 大学の君、胸のみ塞がりて、ものなども見- 入れられず、屈じいたくて、書も読までな がめ臥したまへるを、心もや慰むと、立ち

出でて紛れ歩きたまふ。さま容貌はめでたくをかしげにて、 静やかになまめいたまへれば、若き女房などは、いとをかし と見たてまつる。上の御方には、御簾の前にだに、もの近う ももてなしたまはず、わが御心ならひ、いかに思すにかあり けむ、うとうとしければ、御達などもけ遠きを、今日はもの の紛れに入り立ちたまへるなめり。舞姫かしづきおろして、 妻戸の間に屏風など立てて、かりそめのしつらひなるに、や をら寄りてのぞきたまへば、悩ましげにて添ひ臥したり。た だかの人の御ほどと見えて、いますこしそびやかに、様体な どのことさらび、をかしきところはまさりてさへ見ゆ。暗け ればこまかには見えねど、ほどのいとよく思ひ出でらるるさ まに、心移るとはなけれど、ただにもあらで、衣の裾を引き ならいたまふに、何心もなく、あやしと思ふに、 「あめにますとよをかひめの宮人もわが心ざすしめを   忘るな

みづがきの」
とのたまふぞ、うちつけなりける。若うをかし き声なれど、誰ともえ思ひたどられず、なまむつかしきに、 化粧じ添ふとて、騒ぎつる後見ども、近う寄りて人騒がしう なれば、いと口惜しうて、立ち去りたまひぬ。 五節の日 五節の君を思い歌を贈答する 浅葱の心やましければ、内裏へ参ることも せず、ものうがりたまふを、五節にことつ けて、直衣などさま変れる色聴されて参り たまふ。きびはにきよらなるものから、まだきにおよすけて、 ざれ歩きたまふ。帝よりはじめたてまつりて、思したるさま なべてならず、世にめづらしき御おぼえなり。  五節の参る儀式は、いづれともなく心々に二なくしたまへ るを、舞姫の容貌、大殿と大納言殿とはすぐれたり、とめで ののしる。げにいとをかしげなれど、ここしううつくしげな ることは、なほ大殿のにはえ及ぶまじかりけり。ものきよげ に今めきて、そのものとも見ゆまじうしたてたる様体などの

あり難うをかしげなるを、かうほめらるるなめり。例の舞姫 どもよりはみなすこし大人びつつ、げに心ことなる年なり。 殿参りたまひて御覧ずるに、昔御目とまりたまひし少女の姿 思し出づ。辰の日の暮つ方つかはす。御文の中思ひやるべし。 をとめごも神さびぬらし天つ袖ふるき世の友よはひ   経ぬれば 年月のつもりを数へて、うち思しけるままのあはれを、え忍 びたまはぬばかりの、をかしうおぼゆるも、はかなしや。 かけていへば今日のこととぞ思ほゆる日かげの霜の   袖にとけしも 青摺の紙よくとりあへて、紛らはし書いたる濃墨、薄墨、 草がちにうちまぜ乱れたるも、人のほどにつけてはをかしと 御覧ず。  冠者の君も、人の目とまるにつけても、人知れず思ひ歩き たまへど、あたり近くだに寄せず、いとけけしうもてなした

れば、ものつつましきほどの心には、嘆かしうてやみぬ。容- 貌はしもいと心につきて、つらき人の慰めにも、見るわざし てんや、と思ふ。 夕霧、惟光の娘に消息する惟光よろこぶ やがて皆とめさせたまひて、宮仕すべき御- 気色ありけれど、このたびはまかでさせて、 近江のは辛倚の祓、津の守は難波といどみ てまかでぬ。大納言もことさらに参らすべきよし奏せさせた まふ。左衛門督その人ならぬを奉りて咎めありけれど、それ もとどめさせたまふ。津の守は、 「典侍あきたるに」と申さ せたれば、さもやいたはらまし、と大殿もおぼいたるを、か の人は聞きたまひて、いと口惜しと思ふ。わが年のほど、位 など、かくものげなからずは、請ひみてましものを、思ふ心 あり、とだに知られでやみなんことと、わざとのことにはあ らねど、うちそへて涙ぐまるるをりをりあり。  せうとの童殿上する、常にこの君に参り仕うまつるを、例

よりもなつかしう語らひたまひて、 「五節はいつか内裏へ 参る」と問ひたまふ。 「今年とこそは聞きはべれ」と聞こ ゆ。 「顔のいとよかりしかば、すずろにこそ恋しけれ。ま しが常に見るらむもうらやましきを、また見せてんや」との たまへば、 「いかでかさははべらん。心にまかせてもえ見 はべらず。男兄弟とて近くも寄せはべらねば、まして、いか でか君達には御覧ぜさせん」と聞こゆ。 「さらば、文をだ に」とてたまへり。さきざきかやうの事は言ふものを、と苦 しけれど、せめてたまへば、いとほしうて持て往ぬ。年のほ どよりは、ざれてやありけん、をかしと見けり。緑の薄様の、 好ましきかさねなるに、手はまだいと若けれど、生ひ先見え て、いとをかしげに、 日かげにもしるかりけめやをとめごがあまの羽袖に   かけし心は  二人見るほどに、父主ふと寄り来たり。恐ろしうあきれて、

え引き隠さず。 「なぞの文ぞ」とて取るに、面赤みてゐた り。 「よからぬわざしけり」と憎めば、せうと逃げていく を、呼び寄せて、 「誰がぞ」と問へば、 「殿の冠者の君の、 しかじかのたまうてたまへる」と言へば、なごりなくうち笑 みて、 「いかにうつくしき君の御ざれ心なり。きむぢらは、 同じ年なれど、言ふかひなくはかなかめりかし」などほめて、 母君にも見す。 「この君達の、すこし人数に思しぬべから ましかば、宮仕よりは、奉りてまし。殿の御心おきてを見る に、見そめたまひてん人を、御心とは忘れたまふまじきにこ そ、いと頼もしけれ。明石の入道の例にやならまし」など言 へど、みないそぎたちにけり。 夕霧、わが後見の花散里を批評する かの人は、文をだにえやりたまはず、たち まさる方のことし心にかかりて、ほど経る ままに、わりなく恋しき面影に、またあひ 見でや、と思ふよりほかのことなし。宮の御もとへも、あい

なく心うくて参りたまはず。おはせし方、年ごろ遊び馴れし 所のみ、思ひ出でらるることまされば、里さへうくおぼえた まひつつ、また籠りゐたまへり。殿はこの西の対にぞ、聞こ え預けたてまつりたまひける。 「大宮の御世の残り少なげ なるを、おはせずなりなん後も、かく幼きほどより見馴らし て、後見思せ」と聞こえたまへば、ただのたまふままの御心 にて、なつかしうあはれに思ひあつかひたてまつりたまふ。  ほのかになど見たてまつるにも、容貌のまほならずもおは しけるかな、かかる人をも人は思ひ棄てたまはざりけりなど、 わがあながちにつらき人の御容貌を心にかけて恋しと思ふも あぢきなしや、心ばへのかやうに柔かならむ人をこそあひ思 はめ、と思ふ。また、向ひて見るかひなからんもいとほしげ なり。かくて年経たまひにけれど、殿の、さやうなる御容貌、 御心と見たまうて、浜木綿ばかりの隔てさし隠しつつ、何く れともてなし紛らはしたまふめるも、むべなりけり、と思ふ

心の中ぞ恥づかしかりける。大宮の容貌ことにおはしませど、 まだいときよらにおはし、ここにもかしこにも、人は容貌よ きものとのみ目馴れたまへるを、もとよりすぐれざりける御 容貌の、ややさだ過ぎたる心地して、痩せ痩せに御髪少なな るなどが、かくそしらはしきなりけり。 年の暮れ、夕霧と大宮、互いに嘆きあう 年の暮には正月の御装束など、宮はただ、 この君一ところの御ことを、まじることな ういそいたまふ。あまたくだりいときよら にしたてたまへるを、見るもものうくのみおぼゆれば、 「朔日などには、かならずしも内裏へ参るまじう思ひたまふ るに、何にかくいそがせたまふらん」と聞こえたまへば、 「などてかさもあらん。老いくづほれたらむ人のやうにも、 のたまふかな」とのたまへば、 「老いねどくづほれたる心- 地ぞするや」と独りごちて、うち涙ぐみてゐたまへり。かの ことを思ふならん、といと心苦しうて、宮もうちひそみたま

ひぬ。 「男は、口惜しき際の人だに、心を高うこそつかふ なれ。あまりしめやかに、かくなものしたまひそ。何とか、 かうながめがちに思ひ入れたまふべき。ゆゆしう」とのたま ふ。 「何かは。六位など人の侮りはべるめれば、しばしの こととは思うたまふれど、内裏へ参るもものうくてなん。故 大臣おはしまさましかば、戯れにても、人には侮られはべら ざらまし。もの隔てぬ親におはすれど、いとけけしうさし放 ちておぼいたれば、おはしますあたりに、たやすくも参り馴 れはべらず。東の院にてのみなん、御前近くはべる。対の御- 方こそあはれにものしたまへ。親今一ところおはしまさまし かば、何ごとを思ひはべらまし」とて、涙の落つるを紛らは いたまへる気色、いみじうあはれなるに、宮はいとどほろほ ろと泣きたまひて、 「母に後るる人は、ほどほどにつけて、 さのみこそあはれなれど、おのづから宿世宿世に、人となり たちぬれば、おろかに思ふ人もなきわざなるを、思ひ入れぬ

さまにてものしたまへ。故大臣のいましばしだにものしたま へかし。限りなき蔭には、同じことと頼みきこゆれど、思ふ にかなはぬことの多かるかな。内大臣の心ばへも、なべての 人にはあらずと、世人もめで言ふなれど、昔に変ることのみ まさりゆくに、命長さも恨めしきに、生ひ先遠き人さへ、か くいささかにても、世を思ひしめりたまへれば、いとなむよ ろづ恨めしき世なる」
とて、泣きおはします。 朱雀院に行幸 放島の試み歌と音楽の遊宴 朔日にも、大殿は御歩きしなければ、のど やかにておはします。良房の大臣と聞こえ ける、いにしへの例になずらへて、白馬ひ き、節会の日、内裏の儀式をうつして、昔の例よりもこと添 へて、いつかしき御ありさまなり。  二月の二十日あまり、朱雀院に行幸あり。花盛りはまだし きほどなれど、三月は故宮の御忌月なり。とくひらけたる桜 の色もいとおもしろければ、院にも御用意ことに繕ひみがか

せたまひ、行幸に仕うまつりたまふ上達部親王たちよりはじ め、心づかひしたまへり。人々みな青色に、桜襲を着たまふ。 帝は赤色の御衣奉れり。召しありて太政大臣参りたまふ。同 じ赤色を着たまへれば、いよいよ一つものとかかやきて見え まがはせたまふ。人々の装束用意、常に異なり。院もいとき よらにねびまさらせたまひて、御さま用意、なまめきたる方 にすすませたまへり。今日はわざとの文人も召さず、ただそ の才かしこしと聞こえたる 学生十人を召す。式部の 司の試みの題をなずらへて、 御題賜ふ。大殿の太郎君の 試み賜はりたまふべきゆゑ なめり。臆だかき者どもは、 ものもおほえず、繋がぬ舟 に乗りて池に離れ出でて、

いと術なげなり。日やうやうくだりて、楽の船ども漕ぎまひ て、調子ども奏するほどの、山風の響きおもしろく吹きあは せたるに、冠者の君は、かう苦しき道ならでもまじらひ遊び ぬべきものを、と世の中恨めしうおぼえたまひけり。  春鶯囀舞ふほどに、昔の花の宴のほど思し出でて、院の 帝も、 「またさばかりのこと見てんや」とのたまはするにつ けて、その世のことあはれに思しつづけらる。舞ひはつるほ どに、大臣、院に御土器まゐりたまふ。 鶯のさへづる声はむかしにてむつれし花のかげぞか   はれる 院の上、 九重をかすみ隔つるすみかにも春とつげくるうぐひす   の声 帥宮と聞こえし、今は兵部卿にて、今の上に御土器まゐりた まふ。

いにしへを吹き伝へたる笛竹にさへづる鳥の音さへ   変らぬ あざやかに奏しなしたまへる、用意ことにめでたし。取らせ たまひて、 うぐひすの昔を恋ひてさへづるは木伝ふ花の色やあせ   たる とのたまはする御ありさま、こよなくゆゑゆゑしくおはしま す。これは御私ざまに、内々のことなれば、あまたにも流 れずやなりにけん、また書き落してけるにやあらん。  楽所遠くておぼつかなければ、御前に御琴ども召す。兵部- 卿宮琵琶、内大臣和琴、筝の御琴院の御前に参りて、琴は例 の太政大臣賜はりたまふ。さるいみじき上手のすぐれたる御- 手づかひどもの、尽くしたまへる音はたとへん方なし。唱歌 の殿上人あまたさぶらふ。安名尊遊びて、次に桜人。月朧に さし出でてをかしきほどに、中島のわたりに、ここかしこ篝-

火どもともして、大御遊びはやみぬ。 帝と源氏、弘徽殿大后のもとにまいる 夜更けぬれど、かかるついでに、皇太后宮 おはします方を、避きて訪ひきこえさせた まはざらんも情なければ、かへさに渡らせ たまふ。大臣もろともにさぶらひたまふ。后待ちよろこびた まひて御対面あり。いといたうさだ過ぎたまひにける御けは ひにも、故宮を思ひ出できこえたまひて、かく長くおはしま すたぐひもおはしけるものを、と口惜しう思ほす。 「今は かくふりぬる齢に、よろづのこと忘られはべりにけるを、い とかたじけなく渡りおはしまいたるになん、さらに昔の御代 のこと思ひ出でられはべる」と、うち泣きたまふ。 「さる べき御蔭どもに後れはべりて後、春のけぢめも思ひたまへ分 れぬを、今日なむ慰めはべりぬる。またまたも」と聞こえた まふ。大臣もさるべきさまに聞こえて、 「ことさらにさぶ らひてなん」と聞こえたまふ。のどやかならで還らせたまふ

響きにも、后は、なほ胸うち騒ぎて、いかに思し出づらむ、 世をたもちたまふべき御宿世は消たれぬものにこそ、といに しへを悔い思す。  尚侍の君も、のどやかに思し出づるに、あはれなること 多かり。今もさるべきをり、風の伝にもほのめき聞こえたま ふこと絶えざるべし。后は朝廷に奏せさせたまふことある時- 時ぞ、御賜ばりの年官年爵、何くれのことにふれつつ、御心 にかなはぬ時ぞ、命長くてかかる世の末を見ること、と取り かへさまほしう、よろづ思しむつかりける。老いもておはす るままに、さがなさもまさりて、院もくらべ苦しうたへがた くぞ、思ひきこえたまひける。 夕霧、進士に及第し、侍従に任ぜられる かくて大学の君、その日の文うつくしう作 りたまひて、進士になりたまひぬ。年積れ るかしこき者どもを選らせたまひしかど、 及第の人わづかに三人なんありける。秋の司召に、かうぶり

得て、侍従になりたまひぬ。かの人の御こと、忘るる世なけ れど、大臣の切にまもりきこえたまふもつらければ、わりな くてなども対面したまはず。御消息ばかり、さりぬべき便り に聞こえたまひて、かたみに心苦しき御仲なり。 六条院の造営 式部卿宮の五十の賀の準備 大殿、静かなる御住まひを、同じくは広く 見どころありて、ここかしこにておぼつか なき山里人などをも、集へ住ませんの御心 にて、六条京極のわたりに、中宮の御旧き宮のほとりを、四- 町を占めて造らせたまふ。式部卿宮、明けん年ぞ五十になり たまひけるを、御賀の事、対の上思し設くるに、大臣もげに 過ぐしがたき事どもなり、と思して、さやうの御いそぎも、 同じくはめづらしからん御家ゐにてと、急がせたまふ。年か へりては、ましてこの御いそぎの事、御としみのこと、楽人 舞人の定めなどを、御心に入れて営みたまふ。経仏法事の 日の装束禄などをなん、上はいそがせたまひける。東の院に

も、分けてしたまふ事どもあり。御仲らひ、ましていとみや びかに聞こえかはしてなん過ぐしたまひける。  世の中響きゆすれる御いそぎなるを、式部卿宮にも聞こし めして、 「年ごろ世の中にはあまねき御心なれど、このわた りをばあやにくに情なく、事にふれてはしたなめ、宮人をも 御用意なく、愁はしきことのみ多かるに、つらしと思ひおき たまふ事こそはありけめ」と、いとほしくもからくも思しけ るを、かくあまたかかづらひたまへる人々多かる中に、とり 分きたる御思ひすぐれて、世に心にくくめでたきことに、思 ひかしづかれたまへる御宿世をぞ、わが家まではにほひ来ね ど、面目に思すに、またかくこの世にあまるまで、響かし営 みたまふは、おぼえぬ齢の末の栄えにもあるべきかな、とよ ろこびたまふを、北の方は、心ゆかずものしとのみ思したり。 女御の御まじらひのほどなどにも、大臣の御用意なきやうな るを、いよいよ恨めしと思ひしみたまへるなるべし。 六条院完成する 四季の町の風情

八月にぞ、六条院造りはてて渡りたまふ。 未申の町は、中宮の御旧宮なれば、やがて おはしますべし。辰巳は、殿のおはすべき 町なり。丑寅は、東の院に住みたまふ対の御方、戍亥の町は、 明石の御方と思しおきてさせたまへり。もとありける池山を も、便なき所なるをば崩しかへて、水のおもむき、山のおき てをあらためて、さまざまに、御方々の御願ひの心ばへを造 らせたまへり。  南の東は山高く、春の花の木、数を尽くして植ゑ、池のさ まおもしろくすぐれて、御前近き前栽、五葉、紅梅、桜、藤、 山吹、岩躑躅などやうの、春のもてあそびをわざとは植ゑで、 秋の前栽をばむらむらほのかにまぜたり。中宮の御町をば、 もとの山に、紅葉の色濃かるべき植木どもをそへて、泉の水 遠くすまし、遣水の音まさるべき巌たて加へ、滝落して、秋 の野を遙かに作りたる、そのころにあひて、盛りに咲き乱れ

たり。嵯峨の大堰のわたりの野山、むとくにけおされたる秋 なり。北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭によれり。 前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる 木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯花の垣根ことさら にしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇、くたになどや うの花くさぐさを植ゑて、春秋の木草、その中にうちまぜた り。東面は、分けて馬場殿つくり、埒結ひて、五月の御 遊び所にて、水のほとり に菖蒲植ゑしげらせて、 むかひに御廏して、世に なき上馬どもをととのへ 立てさせたまへり。西の 町は、北面築きわけて、 御倉町なり。隔ての垣に 松の木しげく、雪をもて

あそばんたよりによせたり。冬のはじめの朝霜むすぶべき菊 の籬、我は顔なる柞原、をさをさ名も知らぬ深山木どもの、 木深きなどを移し植ゑたり。 御方々、六条院に移る 紫の上梅壺と応酬 彼岸のころほひ渡りたまふ。一たびに、と 定めさせたまひしかど、騒がしきやうなり とて、中宮はすこし延べさせたまふ。例の おいらかに気色ばまぬ花散里ぞ、その夜添ひて移ろひたまふ。 春の御しつらひは、このころにあはねどいと心ことなり。御 車十五、御前四位五位がちにて、六位殿上人などは、さるべ き限りを選らせたまへり。こちたきほどにはあらず。世の譏 りもやと省きたまへれば、何ごともおどろおどろしういかめ しきことはなし。いま一方の御けしきも、をさをさ落したま はで、侍従の君添ひて、そなたはもてかしづきたまへば、 げにかうもあるべきことなりけりと見えたり。女房の曹司町 ども、あてあてのこまけぞ、おほかたの事よりもめでたかり

ける。  五六日過ぎて、中宮まかでさせたまふ。この御けしきはた さはいへどいとところせし。御幸ひのすぐれたまへりけるを ばさるものにて、御ありさまの心にくく重りかにおはしませ ば、世に重く思はれたまへることすぐれてなんおはしましけ る。この町々の中の隔てには、塀ども廊などを、とかく行き 通はして、け近くをかしき間にしなしたまへり。  九月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えもいは ずおもしろし。風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、いろい ろの花紅葉をこきまぜて、こなたに奉らせたまへり。大きや かなる童の、濃き衵、紫苑の織物重ねて、赤朽葉の羅の汗衫、 いといたう馴れて、廊渡殿の反橋を渡りて参る。うるはしき 儀式なれど、童のをかしきをなん、え思し棄てざりける。さ る所にさぶらひ馴れたれば、もてなしありさま外のには似ず、 好ましうをかし。御消息には、

こころから春まつ苑はわがやどの紅葉を風のつてに   だに見よ 若き人々、御使もてはやすさまどもをかし。御返りは、この 御箱の蓋に苔敷き、巌などの心ばへして、五葉の枝に、 風に散る紅葉はかろし春のいろを岩ねの松にかけ   てこそ見め この岩根の松も、こまかに見れば、えならぬつくりごとども なりけり。かくとりあへず思ひよりたまへるゆゑゆゑしさな どを、をかしく御覧ず。御前なる人々もめであへり。大臣、 「この紅葉の御消息、いとねたげなめり。春の花盛りに、この 御答へは聞こえたまへ。このころ紅葉を言ひくたさむは、龍- 田姫の思はんこともあるを、さし退きて、花の蔭に立ち隠れ てこそ、強き言は出で来め」と聞こえたまふも、いと若やか に尽きせぬ御ありさまの見どころ多かるに、いとど思ふやう なる御住まひにて、聞こえ通はしたまふ。

大堰の御方は、かう方々の御うつろひ定まりて、数ならぬ 人は、いつとなく紛らはさむと思して、神無月になん渡りた まひける。御しつらひ、事のありさま劣らずして、渡したて まつりたまふ。姫君の御ためを思せば、おほかたの作法も、 けぢめこよなからず、いとものものしくもてなさせたまへり。 The Jeweled Chaplet 源氏と右近亡き夕顔を追慕する

年月隔たりぬれど、飽かざりし夕顔を、つ ゆ忘れたまはず、心々なる人のありさまど もを、見たまひ重ぬるにつけても、あらま しかばと、あはれに口惜しくのみ思し出づ。右近は、何の人- 数ならねど、なほその形見と見たまひて、らうたきものに思 したれば、古人の数に仕うまつり馴れたり。須磨の御移ろひ のほどに、対の上の御方に、みな人々聞こえわたしたまひし ほどより、そなたにさぶらふ。心よくかいひそめたるものに 女君も思したれど、心の中には、 「故君ものしたまはましか ば、明石の御方ばかりのおぼえには劣りたまはざらまし。さ しも深き御心ざしなかりけるをだに、落しあぶさず取りし たためたまふ御心長さなりければ、まいて、やむごとなき列

にこそあらざらめ、この御殿移りの数の中にはまじらひたま ひなまし」
と思ふに、飽かず悲しくなむ思ひける。 玉鬘、乳母に伴われて筑紫へ下向する かの西の京にとまりし若君をだに、行く方 も知らず、ひとへにものを思ひつつみ、ま た、 「今さらにかひなき事によりて、わ が名もらすな」と口がためたまひしを憚りきこえて、尋ねて も訪れきこえざりしほどに、その御乳母の夫、少弐になりて 行きければ、下りにけり。かの若君の四つになる年ぞ、筑紫 へは行きける。  母君の御行く方を知らむとよろづの神仏に申して、夜昼 泣き恋ひて、さるべき所どころを尋ねきこえけれど、つひに え聞き出でず。 「さらばいかがはせむ。若君をだにこそは、 御形見に見たてまつらめ。あやしき道に添へたてまつりて、 遙かなるほどにおはせむことの悲しきこと。なほ、父君にほ のめかさむ」と思ひけれど、さるべきたよりもなきうちに、

「母君のおはしけむ方も知らず、尋ね問ひたまはば、いかが 聞こえむ」 「まだよくも見馴れたまはぬに、幼き人をとどめ たてまつりたまはむも、うしろめたかるべし」 「知りながら、 はた、率て下りね、とゆるしたまふべきにもあらず」など、 おのがじし語らひあはせて、いとうつくしう、ただ今から気- 高くきよらなる御さまを、ことなるしつらひなき舟にのせて 漕ぎ出づるほどは、いとあはれになむおぼえける。幼き心地 に母君を忘れず、をりをりに、 「母 の御もとへ行くか」と問ひたまふにつ けて、涙絶ゆる時なく、むすめどもも 思ひこがるるを、舟路ゆゆしと、かつ は諫めけり。  おもしろき所どころを見つつ、 「心- 若うおはせしものを、かかる道をも見 せたてまつるものにもがな」 「おはせ

ましかば、我らは下らざらまし」
と、京の方を思ひやらるる に、返る波もうらやましく心細きに、舟子どもの荒々しき声 にて、 「うら悲しくも遠く来にけるかな」とうたふを聞くま まに、二人さし向ひて泣きけり。 舟人もたれを恋ふとか大島のうらかなしげに声の聞こゆ   る 来し方も行く方もしらぬ沖に出でてあはれいづくに君を   恋ふらん 鄙の別れに、おのがじし心をやりて言ひける。  金の岬過ぎて、「我は忘れず」など、世とともの言ぐさに なりて、かしこに到り着きては、まいて遙かなるほどを思ひ やりて恋ひ泣きて、この君をかしづきものにて明かし暮らす。 夢などに、いとたまさかに見えたまふ時などもあり。同じさ まなる女など、添ひたまうて見えたまへば、なごり心地あし く悩みなどしければ、なほ世に亡くなりたまひにけるなめり、

と思ひなるも、いみじくのみなむ。 玉鬘、美しく成人し、人々懸想する 少弐、任はてて上りなむとするに、遙けき ほどに、ことなる勢なき人はたゆたひつつ、 すがすがしくも出で立たぬほどに、重き病 して、死なむとする心地にも、この君の十ばかりにもなりた まへるさまの、ゆゆしきまでをかしげなるを見たてまつりて、 「我さへうち棄てたてまつりて、いかなるさまにはふれた まはむとすらん。あやしき所に生ひ出でたまふも、かたじけ なく思ひきこゆれど。何時しかも京に率てたてまつりて、さ るべき人にも知らせたてまつりて、御宿世にまかせて見たて まつらむにも、都は広き所なれば、いと心やすかるべしと、 思ひいそぎつるを、ここながら命たへずなりぬること」と、 うしろめたがる。男子三人あるに、 「ただこの姫君京に率 てたてまつるべきことを思へ。わが身の孝をば、な思ひそ」 となむ言ひおきける。

 その人の御子とは館の人にも知らせず、ただ孫のかしづく べきゆゑあるとぞ言ひなしければ、人に見せず、限りなく かしづききこゆるほどに、にはかに亡せぬれば、あはれに心- 細くて、ただ京の出立をすれど、この少弐の仲あしかりける 国の人多くなどして、とざまかうざまに怖ぢ憚りて、我にも あらで年を過ぐすに、この君ねびととのひたまふままに、母- 君よりもまさりてきよらに、父大臣の筋さへ加はればにや、 品高くうつくしげなり。心ばせおほどかにあらまほしうもの したまふ。聞きついつつ、好いたる田舎人ども、心かけ消息 がる、いと多かり。ゆゆしくめざましくおぼゆれば、誰も誰 も聞き入れず。 「容貌などはさてもありぬべけれど、いみ じきかたはのあれば、人にも見せで尼になして、わが世の限 りは持たらむ」と言ひ散らしたれば、 「故少弐の孫はかたは なむあんなる。あたらものを」と言ふなるを聞くもゆゆしく、 「いかさまにして、都に率てたてまつりて、父大臣に知ら

せたてまつらむ。いときなきほどを、いとらうたし、と思ひ きこえたまへりしかば、さりともおろかには思ひ棄てきこえ たまはじ」
など言ひ嘆くほど、仏神に願を立ててなむ念じ ける。 肥後の土豪大夫監、玉鬘に求婚する むすめどもも男子どもも、所につけたるよ すがども出で来て、住みつきにたり。心の 中にこそ急ぎ思へど、京のことはいや遠ざ かるやうに隔たり行く。もの思し知るままに、世をいとうき ものに思して、年三などしたまふ。二十ばかりになりたまふ ままに、生ひととのほりて、いとあたらしくめでたし。この 住む所は、肥前国とぞいひける。そのわたりにもいささかよ しある人は、まづこの少弐の孫のありさまを聞き伝へて、な ほ絶えず訪れ来るも、いといみじう、耳かしがましきまで なむ。  大夫監とて、肥後国に族ひろくて、かしこにつけてはおぼ

えあり、勢いかめしき兵ありけり。むくつけき心の中に、い ささか好きたる心まじりて、容貌ある女を集めて見むと思ひ ける。この姫君を聞きつけて、 「いみじきかたはありとも、 我は見隠して持たらむ」と、いとねむごろに言ひかかるを、 いとむくつけく思ひて、 「いかで。かかることを聞かで、尼 になりなむとす」と言はせたりければ、いよいよ危がりて、 おしてこの国に越え来ぬ。  この男子どもを呼びとりて語らふことは、 「思ふさまに なりなば、同じ心に勢をかはすべきこと」など語らふに、二- 人はおもむきにけり。 「しばしこそ似げなくあはれと思ひき こえけれ、おのおのわが身のよるべと頼まむに、いと頼もし き人なり。これにあしくせられては、この近き世界にはめぐ らひなむや。よき人の御筋といふとも、親に数まへられたて まつらず、世に知られでは何のかひかはあらむ。この人の かくねむごろに思ひきこえたまへるこそ、今は御幸ひなれ。

さるべきにてこそは、かかる世界にもおはしけめ。逃げ隠れ たまふとも、何のたけきことかはあらむ。負けじ魂に、怒り なば、せぬ事どももしてん」
と言ひおどせば、いといみじと 聞きて、中の兄なる豊後介なむ、「なほいとたいだいしくあ たらしきことなり。故少弐ののたまひしこともあり。とかく 構へて京に上げたてまつりてん」と言ふ。  むすめどもも泣きまどひて、 「母君のかひなくてさすらへ たまひて、行く方をだに知らぬかはりに、人並々にて見たて まつらむ、とこそ思ふに、さるものの中にまじりたまひなむ こと」と思ひ嘆くをも知らで、我はいとおぼえ高き身と思ひ て、文など書きておこす。手などきたなげなう書きて、唐の 色紙かうばしき香に入れしめつつ、をかしく書きたりと思ひ たる、言葉ぞいとたみたりける。  みづからも、この家の二郎を語らひとりて、うち連れて来 たり。三十ばかりなる男の、丈高くものものしくふとりて、

きたなげなけれど、思ひなしうとましく、荒らかなるふるま ひなど、見るもゆゆしくおぼゆ。色あひ心地よげに、声いた う枯れてさへづりゐたり。懸想人は夜に隠れたるをこそ、よ ばひとは言ひけれ、さま変へたる春の夕暮なり。秋ならねど も、あやしかりけりと見ゆ。心を破らじとて、祖母おとど出 であふ。 「故少弐のいと情び、きらきらしくものしたまひし を、いかでかあひ語らひ申さむ、と思ひたまへしかども、さ る心ざしをも見せきこえずはべりしほどに、いと悲しくて、 隠れたまひにしを。そのかはりに、一向に仕うまつるべくな む、心ざしを励まして、今日は、いとひたぶるに、強ひてさぶ らひつる。このおはしますらむ女君、筋ことに承れば、い とかたじけなし。ただなにがしらが、私の君と思ひ申して、 頂になむ捧げたてまつるべき。おとどもしぶしぶにおはし げなることは、よからぬ女どもあまたあひ知りてはべるを、 聞こしめしうとむななり。さりとも、すやつばらを、等し

なみにはしはべりなむや。わが君をば、后の位におとしたて まつらじものをや」
など、いとよげに言ひつづく。 「いか がは。かくのたまふを、いと幸ひありと思ひたまふるを、宿- 世つたなき人にやはべらむ、思ひ憚ることはべりて、いかで か人に御覧ぜられむと、人知れず嘆きはべるめれば、心苦し う見たまへわづらひぬる」と言ふ。 「さらにな思し憚りそ。 天下に目つぶれ、足折れたまへりとも、なにがしは仕うまつ りやめてむ。国の中の仏神は、おのれになむなびきたまへ る」など誇りゐたり。その日ばかりと言ふに、 「この月は季 のはてなり」など、田舎びたることを言ひのがる。  下りて行く際に、歌詠ままほしかりければ、やや久しう思 ひめぐらして、 「君にもしこころたがはば松浦なるかがみの神をかけ  て誓はむ この和歌は、仕うまつりたりとなむ思ひたまふる」と、うち

笑みたるも、世づかずうひうひしや。我にもあらねば、返し すべくも思はねど、むすめどもに詠ますれど、 「まろは、 ましてものもおぼえず」とてゐたれば、いと久しきに思ひわ づらひて、うち思ひけるままに、 年を経ていのる心のたがひなばかがみの神をつらし  とや見む とわななかし出でたるを、 「まてや、こはいかに仰せらる る」と、ゆくりかに寄り来たるけはひに、おびえて、おとど 色もなくなりぬ。むすめたち、さは言へど、心強く笑ひて、 「この人のさま異にものしたまふを。ひき違へはべらば、 思はれむを、なほほけほけしき人の、神かけて聞こえひがめ たまふなめりや」と解き聞かす。 「おい、然り、然り」と うなづきて、 「をかしき御口つきかな。なにかしら田舎び たりといふ名こそはべれ、口惜しき民にははべらず。都の 人とても何ばかりかあらむ。みな知りてはべり。な思し侮り

そ」
とて、また詠まむと思へれども、たへずやありけむ、往 ぬめり。  二郎が語らひとられたるも、いと恐ろしく心憂くて、この 豊後介をせむれば、 「いかがは仕うまつるべからむ。語 らひあはすべき人もなし。まれまれの兄弟は、この監に同じ 心ならずとて、仲違ひにたり。この監にあたまれては、いさ さかの身じろきせむも、ところせくなむあるべき。なかなか なる目をや見む」と思ひわづらひにたれど、姫君の人知れず 思いたるさまのいと心苦しくて、生きたらじ、と思ひ沈みた まへる、ことわりとおぼゆれば、いみじきことを思ひ構へて 出で立つ。妹たちも、年ごろ経ぬるよるべを棄てて、この御- 供に出で立つ。あてきといひしは、今は兵部の君といふぞ、 添ひて夜逃げ出でて舟に乗りける。大夫監は、肥後に帰り行 きて、四月二十日のほどに日取りて来むとするほどに、かく て逃ぐるなりけり。 玉鬘の一行筑紫を脱出して都に帰る

姉おもとは、類ひろくなりてえ出で立たず。 かたみに別れ惜しみて、あひ見むことの難 きを思ふに、年経つる古里とて、ことに見- 棄てがたきこともなし、ただ松浦の宮の前の渚と、かの姉お もとの別るるをなむ、かへりみせられて、悲しかりける。 浮島を漕ぎ離れても行く方やいづくとまりと知ら   ずもあるかな 行くさきも見えぬ波路に舟出して風にまかする身こ   そ浮きたれ いとあとはかなき心地して、うつぶし臥したまへり。  かく逃げぬるよし、おのづから言ひ出で伝へば、負けじ魂 にて追ひ来なむ、と思ふに、心もまどひて、早舟といひて、 さまことになむ構へたりければ、思ふ方の風さへ進みて、危 きまで走り上りぬ。ひびきの灘もなだらかに過ぎぬ。 「海賊 の舟にやあらん、小さき舟の、飛ぶやうにて来る」など言ふ

者あり。海賊のひたぶるならむよりも、かの恐ろしき人の追 ひ来るにや、と思ふにせむ方なし。 うきことに胸のみ騒ぐひびきにはひびきの灘もさは   らざりけり 川尻といふ所近づきぬ、と言ふにぞ、すこし生き出づる心地 する。例の、舟子ども、 「唐泊より川尻おすほどは」と、うた ふ声の情なきもあはれに聞こゆ。豊後介、あはれになつかし ううたひすさびて、 「いとかなしき妻子も忘れぬ」とて、 思へば、 「げにぞ、みなうち棄ててける。いかがなりぬらん。 はかばかしく身のたすけと思ふ郎等どもは、みな率て来にけ り。我をあしと思ひて追ひまどはして、いかがしなすらん」 と思ふに、心幼くもかへりみせで出でにけるかなと、すこし 心のどまりてぞ、あさましきことを思ひつづくるに、心弱く うち泣かれぬ。 「胡の地の妻児をば虚しく棄て損てつ」と誦 ずるを、兵部の君聞きて、 「げにあやしのわざや。年ごろ従

ひ来つる人の心にも、にはか に違ひて逃げ出でにしを、い かに思ふらん」
とさまざま思 ひつづけらるる。帰る方とて も、そこ所と行き着くべき古- 里もなし。知れる人と言ひ寄 るべき頼もしき人もおぼえず。 ただ一ところの御ためにより、ここらの年月住み馴れつる世- 界を離れて、浮かべる波風に漂ひて、思ひめぐらす方なし。 この人をも、いかにしたてまつらむとするぞ、とあきれてお ぼゆれど、いかがはせむとて、急ぎ入りぬ。 豊後介窮迫し、石清水八幡宮に参詣する 九条に、昔知れりける人の残りたりけるを とぶらひ出でて、その宿を占めおきて、都 の内といへど、はかばかしき人の住みたる わたりにもあらず、あやしき市女商人の中にて、いぶせく世

の中を思ひつつ、秋にもなりゆくままに、来し方行く先悲し きこと多かり。豊後介といふ頼もし人も、ただ水鳥の陸にま どへる心地して、つれづれに、ならはぬありさまのたづきな きを思ふに、帰らむにもはしたなく、心幼く出で立ちにける を思ふに、従ひ来たりし者どもも、類にふれて逃げ去り、本 の国に帰り散りぬ。  住みつくべきやうもなきを、母おとど明け暮れ嘆きいとほ しがれば、 「何か。この身はいとやすくはべり。人ひと りの御身にかへたてまつりて、いづちもいづちもまかり失せ なむに咎あるまじ。我らいみじき勢になりても、若君をさる 者の中にはふらしたてまつりては、何心地かせまし」と語ら ひ慰めて、 「神仏こそは、さるべき方にも導き知らせた てまつりたまはめ。近きほどに、八幡の宮と申すは、かしこ にても参り祈り申したまひし松浦、筥崎同じ社なり。かの国 を離れたまふとても、多くの願立て申したまひき。今都に帰

りて、かくなむ御験を得てまかり上りたると、早く申したま へ」
とて、八幡に詣でさせたてまつる。それのわたり知れる 人に言ひ尋ねて、五師とて、早く親の語らひし大徳残れるを 呼びとりて、詣でさせたてまつる。 玉鬘長谷寺に参詣し、右近に再会する 「うち次ぎては、仏の御中には、初瀬 なむ、日本の中には、あらたなる験あらは したまふと、唐土にだに聞こえあむなり。 ましてわが国の中にこそ、遠き国の境とても、年経たまへれ ば、若君をばまして恵みたまひてん」とて、出だし立てたて まつる。ことさらに徒歩よりと定めたり。ならはぬ心地にい とわびしく苦しけれど、人の言ふままにものもおぼえで歩み たまふ。 「いかなる罪深き身にて、かかる世にさすらふらむ。 わが親世に亡くなりたまへりとも、我をあはれと思さば、お はすらむ所にさそひたまへ。もし世におはせば、御顔見せた まへ」と仏を念じつつ、ありけむさまをだにおぼえねば、た

だ親おはせましかばとばかりの悲しさを、嘆きわたりたまへ るに、かくさし当りて、身のわりなきままに、とり返しい みじくおぼえつつ、からうじて、椿市といふ所に、四日とい ふ巳の刻ばかりに、生ける心地もせで行き着きたまへり。  歩むともなく、とかくつくろひたれど、足の裏動かれずわ びしければ、せん方なくて休みたまふ。この頼もし人なる介、 弓矢持ちたる人二人、さては下なる者、童など三四人、女ば らあるかぎり三人、壼装束して、樋洗めく者、ふるき下衆女 二人ばかりとぞある。いとかすかに忍びたり。大燈明のこと など、ここにてし加へなどするほどに日暮れぬ。家主の法師、 「人宿したてまつらむとする所に、なに人のものしたまふぞ。 あやしき女どもの、心にまかせて」とむつかるを、めざまし く聞くほどに、げに人々来ぬ。  これも徒歩よりなめり。よろしき女二人、下人どもぞ、男 女、数多かむめる。馬四つ五つ牽かせて、いみじく忍びやつ

したれど、きよげなる男どもなどあり。法師は、せめてここ に宿さまほしくして、頭掻き歩く。いとほしけれど、また宿 かへむもさまあしく、わづらはしければ、人々は奥に入り、 外に隠しなどして、かたへは片つ方に寄りぬ。軟障などひき 隔てておはします。この来る人も恥づかしげもなし。いたう かいひそめて、かたみに心づかひしたり。さるは、かの世と ともに恋ひ泣く右近なりけり。年月にそへて、はしたなきま じらひの、つきなくなりゆく身を思ひ悩みて、この御寺にな むたびたび詣でける。  例ならひにければ、かやすく構へたりけれど、徒歩より歩 みたへがたくて、寄り臥したるに、この豊後介、隣の軟障のも とに寄り来て、参り物なるべし、折敷手づから取りて、 「これは御前にまゐらせたまへ。御台などうちあはで、いとか たはらいたしや」と言ふを聞くに、わが列の人にはあらじと 思ひて、物のはさまよりのぞけば、この男の顔見し心地す。

誰とはえおぼえず。いと若かりしほどを見しに、ふとり黒み てやつれたれば、多くの年隔てたる目には、ふとしも見分か ぬなりけり。 「三条、ここに召す」と、呼び寄する女を 見れば、また見し人なり。故御方に、下人なれど、久しく仕 うまつり馴れて、かの隠れたまへりし御住み処までありし者 なりけり、と見なして、いみじく夢のやうなり。主とおぼし き人は、いとゆかしけれど、見ゆべくも構へず。思ひわびて、 「この女に問はむ。兵藤太といひし人も、これにこそあらめ。 姫君のおはするにや」と思ひ寄るに、いと心もとなくて、こ の中隔てなる三条を呼ばすれど、食物に心入れて、とみにも 来ぬ、いと憎し、とおぼゆるもうちつけなりや。  からうじて、 「おぼえずこそはべれ。筑紫国に二十年ば かり経にける下衆の身を知らせたまふべき京人よ。人違へに やはべらむ」とて寄り来たり。田舎びたる掻練に衣など着て、 いといたうふとりにけり。わが齢もいとどおぼえて恥づかし

けれど、 「なほさしのぞけ。我をば見知りたりや」とて、 顔さし出でたり。この女の、手を打ちて、 「あがおもとに こそおはしましけれ。あなうれしともうれし。いづくより参 りたまひたるぞ。上はおはしますや」と、いとおどろおどろ しく泣く。若き者にて見馴れし世を思ひ出づるに、隔て来に ける年月数へられて、いとあはれなり。 「まづおとどはお はすや。若君はいかがなりたまひにし。あてきと聞こえしは」 とて、君の御ことは言ひ出でず。 「みなおはします。姫君 も大人になりておはします。まづおとどに、かくなむ、と聞 こえむ」とて入りぬ。  みなおどろきて、 「夢の心地もするかな。いとつらく言は む方なく思ひきこゆる人に、対面しぬべきことよ」とて、こ の隔てに寄り来たり。け遠く隔てつる屏風だつもの、なごり なく押し開けて、まづ言ひやるべき方なく泣きかはす。老人 は、ただ、「わが君はいかがなりたまひにし。ここらの年ご

ろ、夢にてもおはしまさむ所を見むと、大願を立つれど、遙 かなる世界にて、風の音にてもえ聞き伝へたてまつらぬを、 いみじく悲しと思ふに、老の身の残りとどまりたるもいと心- 憂けれど、うち棄てたてまつりたまへる若君の、らうたくあ はれにておはしますを、冥途の絆にもてわづらひきこえてな む、瞬きはべる」
と言ひつづくれば、昔、そのをり、言ふか ひなかりしことよりも、答へむ方なくわづらはしと思へども、 「いでや、聞こえてもかひなし。御方は早う亡せたまひに き」と言ふままに、二三人ながら咽せかへり、いとむつかし く、せきかねたり。  日暮れぬと急ぎたちて、御燈明の事どもしたためはてて急 がせば、なかなかいと心あわたたしくて立ち別る。 「もろ ともにや」と言へど、かたみに供の人のあやしと思ふべけれ ば、この介にも事のさまだに言ひ知らせあへず、我も人もこ とに恥づかしくもあらで、みな下り立ちぬ。右近は、人知れ

ず目とどめて見るに、中にうつくしげなる後手の、いといた うやつれて、四月の単衣めくものに着こめたまへる髪のすき かげ、いとあたらしくめでたく見ゆ。心苦しうかなしと見た てまつる。 右近、三条御堂で玉鬘の将来を祈願する すこし足馴れたる人は、疾く御堂に着きに けり。この君をもてわづらひきこえつつ、 初夜行ふほどにぞ上りたまへる。いと騒が しく、人詣でこみてののしる。右近が局は、仏の右の方に近 き間にしたり。この御師は、まだ深からねばにや、西の間に 遠かりけるを、 「なほここにおはしませ」と、尋ねかはし 言ひたれば、男どもをばとどめて、介にかうかうと言ひあは せて、こなたに移したてまつる。 「かくあやしき身なれど、 ただ今の大殿になむさぶらひはべれば、かくかすかなる道に ても、らうがはしきことははべらじ、と頼みはべる。田舎び たる人をば、かやうの所には、よからぬ生者どもの、侮らは

しうするも、かたじけなきことなり」
とて、物語いとせまほ しけれど、おどろおどろしき行ひの紛れ、騒がしきにもよほ されて、仏拝みたてまつる。右近は心の中に、 「この人をい かで尋ねきこえむと申しわたりつるに、かつがつかくて見た てまつれば、今は思ひのごと。大臣の君の、尋ねたてまつら むの御心ざし深かめるに、知らせたてまつりて、幸ひあらせ たてまつりたまへ」など申しけり。  国々より、田舎人多く詣でたりけり。この国守の北の方も 詣でたりけり。いかめしく勢ひたるをうらやみて、この三条 が言ふやう、 「大悲者には、他事も申さじ。あが姫君、大弐 の北の方ならずは、当国の受領の北の方になしたてまつらむ。 三条らも、随分にさかえて返申は仕うまつらむ」と、額に手 を当てて念じ入りてをり。右近、いとゆゆしくも言ふかな、 と聞きて、 「いと、いたくこそ田舎びにけれな。中将殿は、 昔の御おぼえだにいかがおはしましし。まして、今は天の下

を御心にかけたまへる大臣にて、いかばかりいつかしき御仲 に、御方しも、受領の妻にて品定まりておはしまさむよ」
と 言へば、 「あなかま、たまへ。大臣たちもしばし待て。大- 弐の御館の上の、清水の御寺観世音寺に参りたまひし勢は、 帝の行幸にやは劣れる。あなむくつけ」とて、なほさらに手 をひき放たず拝み入りてをり。  筑紫人は、三日籠らむと心ざしたまへり。右近は、さしも思 はざりけれど、かかるついで、のどかに聞こえむとて、籠る べきよし、大徳呼びて言ふ。御あかし文など書きたる心ばへ など、さやうの人はくだくだしうわきまへければ、常のこと にて、 「例の藤原の瑠璃君といふが御ために奉る。よく祈 り申したまへ。その人、このごろなむ見たてまつり出でたる。 その願も果たしたてまつるべし」と言ふを、聞くもあはれな り。法師、 「いとかしこきことかな。たゆみなく祈り申しは べる験にこそはべれ」と言ふ。いと騒がしう夜一夜行ふなり。 翌日、右近と乳母、玉鬘の将来を相談する

明けぬれば、知れる大徳の坊に下りぬ。物- 語心やすく、となるべし。姫君の、いたく やつれたまへる恥づかしげに思したるさま、 いとめでたく見ゆ。 「おぼえぬ高きまじらひをして、多く の人をなむ見あつむれど、殿の上の御容貌に似る人おはせじ となむ、年ごろ見たてまつるを、また生ひ出でたまふ姫君の 御さま、いとことわりにめでたくおはします。かしづきたて まつりたまふさまも、並びなかめるに、かうやつれたまへる さまの、劣りたまふまじく見えたまふは、あり難うなむ。大臣 の君、父帝の御時より、そこらの女御后、それより下は残る なく見たてまつりあつめたまへる御目にも、当代の御母后 と聞こえしと、この姫君の御容貌とをなむ、『よき人とはこ れをいふにやあらむとおぼゆる』と聞こえたまふ。見たてま つり並ぶるに、かの后の宮をば知りきこえず、姫君はきよら におはしませど、まだ片なりにて、生ひ先ぞ推しはかられ

たまふ。上の御容貌は、なほ誰か、並びたまはむとなむ、見 たまふ。殿もすぐれたりと思しためるを、言に出でては、何 かは数への中には聞こえたまはむ。『我に並びたまへるこそ、 君はおほけなけれ』となむ、戯れきこえたまふ。見たてまつ るに、命延ぶる御ありさまどもを、またさるたぐひおはしま しなむや、となむ思ひはべるに、いづくか劣りたまはむ。も のは限りあるものなれば、すぐれたまへりとて、頂を放れた る光やはおはする。ただこれを、すぐれたりとは聞こゆべき なめりかし」
と、うち笑みて見たてまつれば、老人もうれし と思ふ。 「かかる御さまを、ほとほとあやしき所に沈めた てまつりぬべかりしに、あたらしく悲しうて、家竈をも棄て、 男女の頼むべき子どもにもひき別れてなむ、かへりて知ら ぬ世の心地する京に参うで来し。あがおもと、はやく、よき さまに導ききこえたまへ。高き宮仕したまふ人は、おのづか ら行きまじりたるたよりものしたまふらむ。父大臣に聞こし

めされ、数まへられたまふべきたばかり思し構へよ」
と言 ふ。恥づかしう思いて、背後向きたまへり。 「いでや、身 こそ数ならねど、殿も御前近く召し使ひたまへば、もののを りごとに、『いかにならせたまひにけん』と聞こえ出づるを、 聞こしめしおきて、『我いかで尋ねきこえむと思ふを、聞き 出でたてまつりたらば』となむのたまはする」と言へば、 「大臣の君は、めでたくおはしますとも、さるやむごとな き妻どもおはしますなり。まづ実の親とおはする大臣にを知 らせたてまつりたまへ」など言ふに、ありしさまなど語り出 でて、 「世に忘れがたく悲しきことになむ思して、『かの 御かはりに見たてまつらむ、子も少なきがさうざうしきに、 わが子を尋ね出でたると人には知らせて』と、その昔よりの たまふなり。心の幼かりけることは、よろづにものつつまし かりしほどにて、え尋ねてもきこえで過ごししほどに、少弐 になりたまへるよしは、御名にて知りにき。罷申に、殿に参

りたまへりし日、ほの見たてまつりしかども、え聞こえでや みにき。さりとも姫君をば、かのありし夕顔の五条にぞとど めたてまつりたまへらむとぞ思ひし。あないみじや。田舎人 にておはしまさましよ」
など、うち語らひつつ、日一日、昔- 物語、念誦などしつつ。 右近と玉鬘歌を詠み交し、帰京する 参り集ふ人のありさまども、見下さるる方 なり。前より行く水をば、初瀬川といふな りけり。右近、  「ふたもとの杉のたちどをたづねずはふる川のべに君を   みましや うれしき瀬にも」と聞こゆ。 「初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身   さへながれぬ とうち泣きておはするさま、いとめやすし。 「容貌はいと かくめでたくきよげながら、田舎びこちごちしうおはせまし

かば、いかに玉の瑕ならまし。いで、あはれ、いかでかく生 ひ出でたまひけむ」
と、おとどをうれしく思ふ。母君は、た だいと若やかにおほどかにて、やはやはとぞたをやぎたまへ りし、これは気高く、もてなしなど恥づかしげに、よしめき たまへり。筑紫を心にくく思ひなすに、みな見し人は里びに たるに、心得がたくなむ。暮るれば御堂に上りて、またの日 も行ひ暮らしたまふ。  秋風、谷より遙かに吹き上りて、いと肌寒きに、ものいと あはれなる心どもには、よろづ思ひつづけられて、人並々な らむこともあり難きこと、と思ひ沈みつるを、この人の物語 のついでに、父大臣の御ありさま、腹々の何ともあるまじき 御子ども、みなものめかしなしたてたまふを聞けば、かかる 下草頼もしくぞ思しなりぬる。  出づとても、かたみに宿る所も問ひかはして、もしまた追 ひまどはしたらむ時と、あやふく思ひけり。右近が家は、六-

条院近きわたりなりければ、ほど遠からで、言ひかはすもた づき出で来ぬる心地しけり。 右近、源氏に玉鬘との邂逅を報告する 右近は大殿に参りぬ。このことをかすめ聞 こゆるついでもやとて、急ぐなりけり。御- 門引き入るるより、けはひことに広々とし て、まかで参りする車多くまよふ。数ならで立ち出づるも、 まばゆき心地する玉の台なり。その夜は御前にも参らで、思 ひ臥したり。  またの日、昨夜里より参れる上臈若人どもの中に、とり分 きて右近を召し出づれば、面だたしくおぼゆ。大臣も御覧じ て、 「などか里居は久しくしつるぞ。例ならずや。まめ人 の、ひきたがへ、こまがへるやうもありかし。をかしきこと などありつらむかし」など、例のむつかしう戯れ言などのた まふ。 「まかでて、七日に過ぎはべりぬれど、をかしき事 ははべりがたくなむ。山踏しはべりて、あはれなる人をなむ

見たまへつけたりし」
「なに人ぞ」と問ひたまふ。「ふと 聞こえ出でんも、まだ上に聞かせたてまつらで、とり分き申 したらんを、後に聞きたまうてば、隔てきこえけりとや思さ む」など思ひ乱れて、 「いま聞こえさせはべらむ」とて、 人々参れば聞こえさしつ。  大殿油なとまゐりて、うちとけ並びおはします御ありさま ども、いと見るかひ多かり。女君は二十七八にはなりたまひ ぬらんかし、盛りにきよらにねびまさりたまへり。すこしほ ど経て見たてまつるは、またこのほどにこそにほひ加はりた まひにけれ、と見えたまふ。かの人をいとめでたし、劣らじ と見たてまつりしかど、思ひなしにや、なほこよなきに、幸 ひのなきとあるとは、隔てあるべきわざかなと、見あはせら る。大殿籠るとて、右近を御脚まゐりに召す。 「若き人は、 苦しとてむつかるめり。なほ年経ぬるどちこそ、心かはして 睦びよかりけれ」とのたまへば、人々忍びて笑ふ。 「さり

や、誰かその使ひならいたまはむをばむつからん。うるさき 戯れ言いひかかりたまふを、わづらはしきに」
など言ひあへ り。 「上も、年経ぬるどちうちとけ過ぎば、はたむつかり たまはんとや。さるまじき御心と見ねば、あやふし」など、 右近に語らひて笑ひたまふ。いと愛敬づき、をかしきけさへ 添ひたまへり。今は朝廷に仕へ、いそがしき御ありさまにも あらぬ御身にて、世の中のどやかに思さるるままに、ただは かなき御戯れ言をのたまひ、をかしく人の心を見たまふあま りに、かかる古人をさへぞ戯れたまふ。 「かの尋ね出でた りけむや、何ざまの人ぞ。尊き修行者語らひて、率て来たる か」と問ひたまへば、 「あな見苦しや。はかなく消えたま ひにし夕顔の露の御ゆかりをなむ、見たまへつけたりし」と 聞こゆ。 「げに、あはれなりけることかな。年ごろはいづ くにか」とのたまへば、ありのままには聞こえにくくて、 「あやしき山里になむ。昔人もかたへは変らではべりけれ

ば、その世の物語し出ではべりて、たへがたく思ひたまへり し」
など聞こえゐたり。 「よし、心知りたまはぬ御あたり に」と、隠しきこえたまへば、上、 「あなわづらはし。ねぶ たきに、聞き入るべくもあらぬものを」とて、御袖して御耳 塞ぎたまひつ。 「容貌などは、かの昔の夕顔と劣らじや」 などのたまへば、 「必ずさしもいかでかものしたまはんと 思ひたまへりしを、こよなうこそ生ひまさりて見えたまひし か」と聞こゆれば、 「をかしのことや。誰ばかりとおぼゆ。 この君と」とのたまへば、 「いかでか、さまで は」と聞こゆれば、 「したり顔にこそ思ふべ けれ。我に似たらばしも、 うしろやすしかし」と、 親めきてのたまふ。 源氏、玉鬘に消息を贈る 玉鬘、歌を返す

かく聞きそめて後は、召し放ちつつ、 「さらば、かの人、このわたりに渡いたて まつらん。年ごろもののついでごとに、口- 惜しうまどはしつる事を思ひ出でつるに、いとうれしく聞き 出でながら、今までおぼつかなきも、かひなきことになむ。 父大臣には何か知られん。いとあまたもて騒がるめるが、数 ならで、今はじめ立ちまじりたらんが、なかなかなることこ そあらめ。我はかうさうざうしきに、おぼえぬ所より尋ね出 だしたるとも言はんかし。すき者どもの心尽くさするくさは ひにて、いといたうもてなさむ」など語らひたまへば、かつ がついとうれしく思ひつつ、 「ただ御心になむ。大臣に知 らせたてまつらむとも、誰かは伝へほのめかしたまはむ。い たづらに過ぎものしたまひしかはりには、ともかくもひき助 けさせたまはむことこそは、罪軽ませたまはめ」と聞こゆ。 「いたうもかこちなすかな」とほほ笑みながら、涙ぐみた

まへり。 「あはれに、はかなかりける契りとなむ、年ごろ 思ひわたる。かくて集へる方々の中に、かのをりの心ざしば かり思ひとどむる人なかりしを、命長くて、わか心長さをも 見はべるたぐひ多かめる中に、言ふかひなくて、右近ばかり を形見に見るは、口惜しくなむ。思ひ忘るる時なきに、さて ものしたまはば、いとこそ本意かなふ心地すべけれ」とて、 御消息奉れたまふ。かの末摘花の言ふかひなかりしを思し出 づれば、さやうに沈みて生ひ出でたらむ人のありさま、うし ろめたくて、まづ文のけしきゆかしく思さるるなりけり。も のまめやかに、あるべかしく書きたまひて、端に、 「かく 聞こゆるを、   知らずとも尋ねてしらむ三島江に生ふる三稜のすぢは絶   えじを」 となむありける。御文、みづからまかでて、のたまふさまな ど聞こゆ。御装束、人々の料などさまざまあり。上にも語ら

ひ聞こえたまへるなるべし。御匣殿などにも、設けの物召し 集めて、色あひ、しざまなどことなるを、と選らせたまへれば、 田舎びたる目どもには、ましてめづらしきまでなむ思ひける。  正身は、 「ただかごとばかりにても、実の親の御けはひなら ばこそうれしからめ、いかでか知らぬ人の御あたりにはまじ らはむ」とおもむけて、苦しげに思したれど、あるべきさま を、右近聞こえ知らせ、人々も、 「おのづから、さて人だち たまひなば、大臣の君も尋ね知り聞こえたまひなむ。親子の 御契りは、絶えてやまぬものなり。右近が、数にもはべらず、 いかでか御覧じつけられむ、と思ひたまへしだに、仏神の御- 導きはべらざりけりや。まして、誰も誰もたひらかにだにお はしまさば」と、みな聞こえ慰む。まづ御返りをと、せめて 書かせたてまつる。いとこよなく田舎びたらむものを、と恥 づかしく思いたり。唐の紙のいとかうばしきを取り出でて、 書かせたてまつる。

数ならぬみくりやなにのすぢなればうきにしもかく   根をとどめけむ とのみほのかなり。手は、はかなだちて、よろぼはしけれど、 あてはかにて口惜しからねば、御心おちゐにけり。 玉鬘の居所を定め、紫の上に昔の事を語る 住みたまふべき御方御覧ずるに、 「南の町 には、いたづらなる対どもなどもなし。 勢ことに住みみちたまへれば、顕証に人 しげくもあるべし。中宮のおはします町は、かやうの人も住 みぬべく、のどやかなれど、さてさぶらふ人の列にや聞きな されむ」と思して、 「すこし埋れたれど、丑寅の町の西の対、 文殿にてあるを、他方へ移して」と思す。 「あひ住みにも、 忍びやかに心よくものしたまふ御方なれば、うち語らひても ありなむ」と思しおきつ。  上にも、今ぞ、かのありし昔の世の物語聞こえ出でたまひ ける。かく御心に籠めたまふことありけるを、怨みきこえた

まふ。 「わりなしや。世にある人の上とてや、問はず語りは 聞こえ出でむ。かかるついでに隔てぬこそは、人にはことに 思ひきこゆれ」とて、いとあはれげに思し出でたり。 「人 の上にてもあまた見しに、いと思はぬ仲も、女といふものの 心深きをあまた見聞きしかば、さらにすきずきしき心はつか はじ、となむ思ひしを、おのづからさるまじきをもあまた見 し中に、あはれとひたぶるにらうたき方は、またたぐひなく なむ思ひ出でらるる。世にあらましかば、北の町にものする 人の列には、などか見ざらまし。人のありさま、とりどりに なむありける。かどかどしう、をかしき筋などは後れたりし かども、あてはかにらうたくもありしかな」などのたまふ。 「さりとも明石の列には、立ち並べたまはざらまし」との たまふ。なほ北の殿をば、めざまし、と心おきたまへり。姫- 君の、いとうつくしげにて、何心もなく聞きたまふが、らう たければ、また、ことわりぞかしと思し返さる。 玉鬘六条院に移り、花散里後見を受け持つ

かくいふは、九月の事なりけり。渡りたま はむこと、すがすがしくもいかでかはあら む。よろしき童若人など求めさす。筑紫に ては、口惜しからぬ人々も、京より散りぼひ来たるなどを、 たよりにつけて呼び集めなどしてさぶらはせしも、にはかに まどひ出でたまひし騒ぎに、みな後らしてければ、また人も なし。京はおのづから広き所なれば、市女などやうのもの、 いとよく求めつつ率て来。その人の御子などは知らせざり けり。  右近が里の五条に、まづ忍びて渡したてまつりて、人々選 りととのへ、装束ととのへなどして、十月にぞ渡りたまふ。 大臣、東の御方に聞こえつけたてまつりたまふ。 「あはれ と思ひし人の、もの倦じしてはかなき山里に隠れゐにけるを、 幼き人のありしかば、年ごろも人知れず尋ねはべりしかども、 え聞き出ででなむ、女になるまで過ぎにけるを、おぼえぬ方

よりなむ聞きつけたる時にだにとて、移ろはしはべるなり」
とて、 「母も亡くなりにけり。中将を聞こえつけたるに、あ しくやはある。同じごとうしろみたまへ。山がつめきて生ひ 出でたれば、鄙びたること多からむ。さるべく事にふれて教 へたまへ」と、いとこまやかに聞こえたまふ。 「げに、 かかる人のおはしけるを、知りきこえざりけるよ。姫君の一 ところものしたまふがさうざうしきに、よきことかな」と、 おいらかにのたまふ。 「かの親なりし人は、心なむあり難 きまでよかりし。御心もうしろやすく思ひきこゆれば」など のたまふ。 「つきづきしくうしろむ人なども、事多から で、つれづれにはべるを、うれしかるべきことになむ」との たまふ。殿の内の人は、御むすめとも知らで、 「なに人、ま た尋ね出でたまへるならむ。むつかしき古物あつかひかな」 と言ひけり。御車三つばかりして、人の姿どもなど、右近あ れば、田舎びずしたてたり。殿よりぞ、綾何くれと奉れたま

へる。 源氏、玉鬘を訪れ、そのめやすさを喜ぶ その夜、やがて、大臣の君渡りたまへり。 昔、光る源氏などいふ御名は聞きわたりた てまつりしかど、年ごろのうひうひしさに、 さしも思ひきこえざりけるを、ほのかなる大殿油に、御几帳 の綻びより、はつかに見たてまつる、いとど恐ろしくさへぞ おぼゆるや。渡りたまふ方の戸を、右近かい放てば、 「こ の戸口に入るべき人は、心ことにこそ」と笑ひたまひて、廂 なる御座についゐた まひて、 「灯こそ いと懸想びたる心地 すれ。親の顔はゆか しきものとこそ聞け、 さも思さぬか」とて、 几帳すこし押しやり

たまふ。わりなく恥づかしければ、側みておはする様体など、 いとめやすく見ゆれば、うれしくて、 「いますこし光見せ むや。あまり心にくし」とのたまへば、右近かかげてすこ し寄す。 「面なの人や」とすこし笑ひたまふ。げにとお ぼゆる御まみの恥づかしげさなり。いささかも他人と隔てあ るさまにものたまひなさず、いみじく親めきて、 「年ご ろ御行く方を知らで、心にかけぬ隙なく嘆きはべるを、かう て見たてまつるにつけても、夢の心地して、過ぎにし方のこ とども取り添へ、忍びがたきに、えなむ、聞こえられざりけ る」とて、御目おし拭ひたまふ。まことに悲しう思し出でら る。御年のほど数へたまひて、 「親子の仲の、かく年経た るたぐひあらじものを、契りつらくもありけるかな。今は、 ものうひうひしく若びたまふべき御ほどにもあらじを、年ご ろの御物語なども、聞こえまほしきに、などかおぼつかなく は」と恨みたまふに、聞こえむこともなく恥づかしければ、

「脚立たず沈みそめはべりにける後、何ごともあるかなき かになむ」と、ほのかに聞こえたまふ声ぞ、昔人にいとよく おぼえて若びたりける。ほほ笑みて、 「沈みたまへりける を。あはれとも、今はまた誰かは」とて、心ばへ言ふかひな くはあらぬ御答へと思す。右近に、あるべきことのたまはせ て、渡りたまひぬ。  めやすくものしたまふを、うれしく思して、上にも語りき こえたまふ。 「さる山がつの中に年経たれば、いかにいと ほしげならんと侮りしを、かへりて心恥づかしきまでなむ見 ゆる。かかるものありと、いかで人に知らせて、兵部卿宮 などの、この籬の内好ましうしたまふ心乱りにしがな。すき 者どもの、いとうるはしだちてのみこのわたりに見ゆるも、 かかるもののくさはひのなきほどなり。いたうもてなしてし がな。なほうちあはぬ人の気色見あつめむ」とのたまへば、 「あやしの人の親や。まづ人の心励まさむことを先に思

すよ。けしからず」
とのたまふ。 「まことに君をこそ、今 の心ならましかば、さやうにもてなして見つべかりけれ。い と無心にしなしてしわざぞかし」とて、笑ひたまふに、面赤 みておはする、いと若くをかしげなり。硯ひき寄せたまうて、 手習に、 「恋ひわたる身はそれなれど玉かづらいかなるすぢを  尋ね来つらむ あはれ」とやがて独りごちたまへば、げに深く思しける人の なごりなめり、と見たまふ。 夕霧、玉鬘に挨拶 豊後介家司となる 中将の君にも、 「かかる人を尋ね出でた るを、用意して睦びとぶらへ」とのたまひ ければ、こなたに参うでたまひて、 「人 数ならずとも、かかる者さぶらふと、まづ召し寄すべくなむ はべりける。御渡りのほどにも、参り仕うまつらざりけるこ と」と、いとまめまめしう聞こえたまへば、かたはらいたき

まで、心知れる人は思ふ。心の限り尽くしたりし御住まひな りしかど、あさましう田舎びたりしも、たとしへなくぞ思ひ くらべらるるや。御しつらひよりはじめ、今めかしう気高く て、親兄弟と睦びきこえたまふ御さま容貌よりはじめ、目も あやにおぼゆるに、今ぞ三条も、大弐を侮らはしく思ひける。 まして、監が息ざしけはひ、思ひ出づるもゆゆしきこと限り なし。豊後介の心ばへを、あり難きものに君も思し知り、右- 近も思ひ言ふ。おほぞうなるは事も怠りぬべしとて、こなた の家司ども定め、あるべきことども、おきてさせたまふ。豊- 後介もなりぬ。年ごろ田舎び沈みたりし心地に、にはかにな ごりもなく、いかでか、仮にても立ち出で見るべきよすがな くおぼえし大殿の内を、朝夕に出で入りならし、人を従へ、 事行ふ身となれるは、いみじき面目と思ひけり。大臣の君の 御心おきてのこまかにあり難うおはしますこと、いとかたじ けなし。 源氏、正月の衣装を調えて方々に贈る

年の暮に御しつらひのこと、人々の御装- 束など、やむごとなき御列に思しおきてた る、かかりとも田舎びたることやと、山が つの方に侮り推しはかりきこえたまひて調じたるも、奉りた まふついでに、織物どもの、我も我もと、手を尽くして織りつ つ持て参れる、細長小袿の、いろいろさまざまなるを御覧ず るに、 「いと多かりける物どもかな。方々に、うらやみな くこそものすべかりけれ」と、上に聞こえたまへば、御匣殿 に仕うまつれるも、こなたにせさせたまへるも、みな取う出 させたまへり。かかる筋、はた、いとすぐれて、世になき色あ ひにほひを染めつけたまへば、あり難しと思ひきこえたまふ。 ここかしこの擣殿より参らせたる擣物ども御覧じくらべて、 濃き赤きなど、さまざまを選らせたまひつつ、御衣櫃衣箱ど もに入れさせたまうて、大人びたる上臈どもさぶらひて、こ れはかれはと取り具しつつ入る。上も見たまひて、 「い

づれも、劣りまさるけぢめも見えぬ物どもなめるを、着た まはん人の御容貌に、思ひよそへつつ奉れたまへかし。着た る物のさまに似ぬは、ひがひがしくもありかし」
とのたまへ ば、大臣うち笑ひて、 「つれなくて、人の御容貌推しはか らむの御心なめりな。さては、いづれをとか思す」と聞こえ たまへば、 「それも鏡にてはいかでか」と、さすがに恥 ぢらひておはす。紅梅のいと紋浮きたる葡萄染の御小袿、今- 様色のいとすぐれたるとはかの御料、桜の細長に、艶やかな る掻練とり添へては姫君の御料なり。浅縹の海賦の織物、織 りざまなまめきたれど、にほひやかならぬに、いと濃き掻練- 具して夏の御方に、雲りなく赤きに、山吹の花の細長は、か の西の対に奉れたまふを、上は見ぬやうにて思しあはす。内- 大臣の、華やかに、あなきよげとは見えながら、なまめかし う見えたる方のまじらぬに、似たるなめりと、げに推しはか らるるを、色には出だしたまはねど、殿見やりたまへるに、

ただならず。 「いで、この容貌のよそへは、人腹立ちぬべ きことなり。よきとても物の色は限りあり、人の容貌は、後 れたるも、また、なほ底ひあるものを」とて、かの末摘花の 御料に、柳の織物の、よしある唐草を乱れ織れるも、いとな まめきたれば、人知れずほほ笑まれたまふ。梅の折枝、蝶鳥、 飛びちがひ、唐めいたる白き小袿に、濃きが艶やかなる重ね て、明石の御方に、思ひやり気高きを、上はめざましと見た まふ。空蝉の尼君に、青鈍の織物、いと心ばせあるを見つけ たまひて、御料にある梔子の御衣、聴色なる添へたまひて、 同じ日着たまふべき御消息聞こえめぐらしたまふ。げに似つ いたる見むの御心なりけり。 末摘花の返歌を見て、源氏和歌を論ずる みな、御返りどもただならず、御使の禄心- 心なるに、末摘、東の院におはすれば、い ますこしさし離れ、艶なるべきを、うるは しくものしたまふ人にて、あるべきことは違へたまはず、

山吹の袿の、袖口いたくすすけたるを、うつほにてうちかけ たまへり。御文には、いとかうばしき陸奥国紙の、すこし年 経、厚きが黄ばみたるに、 「いでや、賜へるは、なかな かにこそ。  きてみればうらみられけり唐衣かへしやりてん袖をぬら   して」 御手の筋、ことに奥よりにたり。いといたくほほ笑みたまひ て、とみにもうち置きたまはねば、上、何ごとならむと見お こせたまへり。御使にかづけたるものを、いとわびしくかた はらいたしと思して、御気色あしければ、すべりまかでぬ。い みじく、おのおのはささめき笑ひけり。かやうにわりなう古 めかしう、かたはらいたきところのつきたまへる、さかしら に、もてわづらひぬべう思す。恥づかしきまみなり。 「古- 代の歌詠みは、唐衣、袂濡るるかごとこそ離れねな。まろも その列ぞかし。さらに一筋にまつはれて、今めきたる言の葉

にゆるぎたまはぬこそ、妬きことははたあれ。人の中なるこ とを、をりふし、御前などのわざとある歌詠みの中にては、 円居離れぬ三文字ぞかし。昔の懸想のをかしきいどみには、 あだ人、といふ五文字をやすめ所にうち置きて、言の葉のつ づき、たよりある心地すべかめり」
など笑ひたまふ。 「よ ろづの草子歌枕、よく案内知り見つくして、その中の言葉を 取り出づるに、詠みつきたる筋こそ、強うは変らざるべけれ。 常陸の親王の書きおきたまへりける紙屋紙の草子をこそ、見 よとておこせたりしか、和歌の髄脳いとところせう、病避る べきところ多かりしかば、もとより後れたる方の、いとどな かなか動きすべくも見えざりしかば、むつかしくて返してき。 よく案内知りたまへる人の口つきにては、目馴れてこそあ れ」とて、をかしく思いたるさまぞいとほしきや。上、いと まめやかにて、 「などて返したまひけむ。書きとどめて、 姫君にも見せたてまつりたまふべかりけるものを。ここにも、

物の中なりしも、虫みな損ひてければ。見ぬ人、はた、心こ とにこそは遠かりけれ」
とのたまふ。 「姫君の御学問に、 いと用なからん。すべて女は、たてて好めること設けてしみ ぬるは、さまよからぬことなり。何ごともいとつきなから むは口惜しからむ。ただ心の筋を、漂はしからずもてしづめ おきて、なだらかならむのみなむ、めやすかるべかりける」 などのたまひて、返り事は思しもかけねば、 「返しやり てむとあめるに、これより押し返したまはざらむも、ひがひ がしからむ」とそそのかしきこえたまふ。情棄てぬ御心にて 書きたまふ。いと心やすげなり。 「かへさむといふにつけてもかたしきの夜の衣を思ひ   こそやれ ことわりなりや」とぞあめる。 The First Warbler 新春の六条院に、平和の瑞気満ちわたる

年たちかへる朝の空のけしき、なごりなく 曇らぬうららかげさには、数ならぬ垣根の 内だに、雪間の草若やかに色づきはじめ、 いつしかとけしきだつ霞に、木の芽もうちけぶり、おのづか ら人の心ものびらかにぞ見ゆるかし。ましていとど玉を敷け る御前は、庭よりはじめ見どころ多く、磨きましたまへる御- 方々のありさま、まねびたてむも言の葉足るまじくなむ。 生ける仏の御国紫の上の御殿 源氏の年賀 春の殿の御前、とり分きて、梅の香も御簾 の内の匂ひに吹き紛ひて、生ける仏の御国 とおぼゆ。さすがにうちとけて、安らか に住みなしたまへり。さぶらふ人々も、若やかにすぐれたる を、姫君の御方にと選らせたまひて、すこし大人びたるかぎ

り、なかなかよしよししく、装束ありさまよりはじめて、め やすくもてつけて、ここかしこに群れゐつつ、歯固めの祝し て、餅鏡をさへ取り寄せて、千年の蔭にしるき、年の内の祝 ごとどもして、そぼれあへるに、大臣の君さしのぞきたまへ れば、懐手ひきなほしつつ、 「いとはしたなきわざかな」と わびあへり。 「いとしたたかなるみづからの祝言どもかな。 みなおのおの思ふことの道々あらんかし。すこし聞かせよや。 我寿詞せむ」とうち笑ひたまへる御ありさまを、年のはじめ の栄えに見たてまつる。我はと思ひあがれる中将の君ぞ、 「かねてぞ見ゆるなどこそ、鏡の影にも語らひはべれ。私の 祈りは、何ばかりの事をか」など聞こゆ。  朝のほどは人々参りこみて、もの騒がしかりけるを、夕つ 方、御方々の参座したまはむとて、心ことに引きつくろひ、 化粧じたまふ御影こそ、げに見るかひあめれ。 「今朝この 人々の戯れかはしつる、いとうらやましう見えつるを、上に

は我見せたてまつらむ」
とて、乱れたることどもすこしうち まぜつつ、祝ひきこえたまふ。 うす氷とけぬる池の鏡には世にたぐひなきかげぞな   らべる げにめでたき御あはひどもなり。 くもりなき池の鏡によろづ代をすむべきかげぞし   るく見えける 何ごとにつけても、末遠き御契りを、あらまほしく聞こえか はしたまふ。今日は子の日なりけり。げに千年の春をかけて 祝はむに、ことわりなる日なり。 源氏、玉鬘を訪い、明石の御方に泊まる 姫君の御方に渡りたまへれば、童下仕な ど、御前の山の小松ひき遊ぶ。若き人々の 心地ども、おき所なく見ゆ。北の殿よりわ ざとがましくし集めたる鬚籠ども、破子など奉れたまへり。 えならぬ五葉の枝にうつれる鶯も、思ふ心あらむかし。

「年月をまつにひかれて経る人にけふうぐひすの初音   きかせよ 音せぬ里の」と聞こえたまへるを、げにあはれと思し知る。 事忌もえしたまはぬ気色なり。 「この御返りは、みづから 聞こえたまへ。初音惜しみたまふべき方にもあらずかし」と て、御硯取りまかなひ、書かせたてまつらせたまふ。いと うつくしげにて、明け暮れ見たてまつる人だに、飽かず思ひ きこゆる御ありさまを、今までおぼつかなき年月の隔たりけ るも、罪得がましく心苦しと思す。 ひきわかれ年は経れども鶯の巣だちし松の根をわす   れめや 幼き御心にまかせて、くだくだしくぞある。  夏の御住まひを見たまへば、時ならぬけにや、いと静かに 見えて、わざと好ましきこともなく、あてやかに住みなした まへるけはひ見えわたる。年月にそへて、御心の隔てもなく、

あはれなる御仲らひなり。今はあながちに近やかなる御あり さまももてなしきこえたまはざりけり。いと睦ましく、あり 難からん妹背の契りばかり聞こえかはしたまふ。御几帳隔て たれど、すこし押しやりたまへば、またさておはす。縹はげ ににほひ多からぬあはひにて、御髪などもいたくさかり過ぎ にけり。 「やさしき方にあらねど、葡萄鬘してぞつくろひ たまふべき。我ならざらむ人は見ざめしぬべき御ありさまを、 かくて見るこそうれしく本意あれ。心軽き人の列にて、我に 背きたまひなましかば」など、御対面のをりをりには、まづ わが御心の長さも、人の御心 の重きをも、うれしく思ふや うなりと思しけり。こまやか に古年の御物語など、なつか しく聞こえたまひて、西の対 へ渡りたまふ。

 まだ、いたくも住み馴れたまはぬほどよりは、けはひをか しくしなして、をかしげなる童べの姿なまめかしく、人影あ またして、御しつらひあるべきかぎりなれども、こまやかな る御調度は、いとしもととのへたまはぬを、さる方にものき よげに住みなしたまへり。正身も、あなをかしげ、とふと見 えて、山吹にもてはやしたまへる御容貌など、いと華やかに、 ここぞ曇れると見ゆるところなく、隈なくにほひきらきらし く、見まほしきさまぞしたまへる。もの思ひに沈みたまへる ほどのしわざにや、髪の裾すこし細りて、さはらかにかかれ るしも、いとものきよげに、ここかしこいとけざやかなる さましたまへるを、かくて見ざらましかばと思ほすにつけて も、えしも見過ぐしたまふまじくや。かくいと隔てなく見た てまつり馴れたまへど、なほ思ふに、隔たり多くあやしきが、 現の心地もしたまはねば、まほならずもてなしたまへるもい とをかし。 「年ごろになりぬる心地して、見たてまつるも

心やすく、本意かなひぬるを。つつみなくもてなしたまひ て、あなたなどにも渡りたまへかし。いはけなき初琴なら ふ人もあめるを、もろともに聞きならしたまへ。うしろめた く、あはつけき心もたる人なき所なり」
と聞こえたまへば、 「のたまはむままにこそは」と聞こえたまふ。さもある事 ぞかし。  暮れ方になるほどに、明石の御方に渡りたまふ。近き渡殿 の戸押し開くるより、御簾の内の追風なまめかしく吹き匂は して、物よりことに気高く思さる。正身は見えず。いづら、 と見まはしたまふに、硯のあたりにぎははしく、草子どもと り散らしけるを取りつつ見たまふ。唐の東京錦のことごとし き縁さしたる褥に、をかしげなる琴うちおき、わざとめきよ しある火桶に、侍従をくゆらかして物ごとにしめたるに、え ひ香の香の紛へるいと艶なり。手習どもの乱れうちとけたる も、筋変り、ゆゑある書きざまなり。ことごとしく草がちな

どにもざれ書かず、めやすく書きすましたり。小松の御返り を、めづらしと見けるままに、あはれなる古言ども書きま ぜて、 「めづらしや花のねぐらに木づたひて谷のふる巣をと   へるうぐひす 声待ち出でたる」などもあり。 「咲ける岡辺に家しあれば」 など、ひき返し慰めたる筋など書きまぜつつあるを、取りて 見たまひつつほほ笑みたまへる、恥づかしげなり。  筆さし濡らして、書きすさみたまふほどに、ゐざり出でて、 さすがにみづからのもてなしはかしこまりおきて、めやすき 用意なるを、なほ人よりはことなりと思す。白きに、けざや かなる髪のかかりの、すこしさはらかなるほどに薄らぎにけ るも、いとどなまめかしさ添ひてなつかしければ、新しき年 の御騒がれもや、とつつましけれど、こなたにとまりたまひ ぬ。なほ、おぼえことなりかし、と、方々に心おきて思す。

南の殿には、ましてめざましがる人々あり。  まだ曙のほどに渡りたまひぬ。かくしもあるまじき夜深さ ぞかし、と思ふに、なごりもただならずあはれに思ふ。待ち とりたまへる、はた、なまけやけしと思すべかめる心の中は かられたまひて、 「あやしきうたた寝をして、若々しかり けるいぎたなさを、さしもおどろかしたまはで」と御気色と りたまふもをかしう見ゆ。ことなる御答へもなければ、わづ らはしくて、空寝をしつつ、日高く大殿籠り起きたり。 臨時客の盛宴 管絃のうちに春日暮れる 今日は臨時客の事に紛らはしてぞ、おもが くしたまふ。上達部親王たちなど、例の残 るなく参りたまへり。御遊びありて、引出- 物禄など二なし。そこら集ひたまへるが、我も劣らじともて なしたまへる中にも、すこしなずらひなるだに見えたまはぬ ものかな。とり放ちては、有職多くものしたまふころなれど、 御前にてはけ押されたまふ、わろしかし。何の数ならぬ下部

どもなどだに、この院に参るには、心づかひことなりけり。 まして若やかなる上達部などは、思ふ心などものしたまひて、 すずろに心げさうしたまひつつ、常の年よりもことなり。花 の香さそふ夕風、のどかにうち吹きたるに、御前の梅やうや うひもときて、あれは誰時なるに、物の調べどもおもしろく、 この殿うち出でたる拍子、いとはなやかなり。大臣も時々声 うち添へたまへる 「さき草」の末つ方、いとなつかしうめで たく聞こゆ。何ごとも、さしいらへしたまふ御光にはやされ て、色をも音をもますけぢめ、ことになむ分かれける。 源氏、二条東院に末摘花と空蝉とを訪れる かくののしる馬車の音をも、物隔てて聞き たまふ御方々は、蓮の中の世界にまだ開け ざらむ心地もかくや、と心やましげなり。 まして東の院に離れたまへる御方々は、年月にそへて、つれ づれの数のみまされど、世のうき目見えぬ山路に思ひなずら へて、つれなき人の御心をば、何とかは見たてまつりとがめ

む。そのほかの心もとなくさびしきこと、はた、なければ、 行ひの方の人は、その紛れなく勤め、仮名のよろづの草子の 学問心に入れたまはむ人は、またその願ひに従ひ、ものまめ やかにはかばかしきおきてにも、ただ心の願ひに従ひたる住 まひなり。さわがしき日ごろ過ぐして渡りたまへり。  常陸の宮の御方は、人のほどあれば心苦しく思して、人目 の飾ばかりは、いとよくもてなしきこえたまふ。いにしへ盛 りと見えし御若髪も、年ごろに衰へゆき、まして滝の淀み恥 づかしげなる御かたはら目などを、いとほしと思せば、まほ にも向ひたまはず。柳はげにこそすさまじかりけれと見ゆる も、着なしたまへる人からなるべし。光もなく黒き掻練の、 さゐさゐしく張りたる一襲、さる織物の袿を着たまへる、い と寒げに心苦し。襲の袿などは、いかにしなしたるにかあら む。御鼻の色ばかり、霞にも紛るまじく華やかなるに、御心 にもあらずうち嘆かれたまひて、ことさらに御几帳ひきつく

ろひ隔てたまふ。なかなか女はさしも思したらず、今はかく あはれに長き御心のほどを穏しきものに、うちとけ頼みきこ えたまへる御さまあはれなり。かかる方にも、おしなべての 人ならず、いとほしく悲しき人の御さまと思せば、あはれに、 我だにこそはと、御心とどめたまへるもあり難きぞかし。御- 声などもいと寒げに、うちわななきつつ語らひきこえたまふ。 見わづらひたまひて、 「御衣どものことなど、後見きこゆ る人ははべりや。かく心やすき御住まひは、ただいとうちと けたるさまに、ふくみ萎えたるこそよけれ。うはべばかりつ くろひたる御装ひはあいなくなむ」と聞こえたまへば、こち ごちしくさすがに笑ひたまひて、 「醍醐の阿闍梨の君の 御あつかひしはべりとて、衣どももえ縫ひはべらでなむ。 裘をさへとられにし後寒くはべる」と聞こえたまふは、い と鼻赤き御兄なりけり。心うつくしといひながら、あまりう ちとけ過ぎたりと思せど、ここにてはいとまめにきすくの人

にておはす。 「裘はいとよし。山伏の蓑代衣にゆづりた まひてあへなむ。さてこのいたはりなき白妙の衣は、七重に もなどか重ねたまはざらん。さるべきをりをりは、うち忘れ たらむこともおどろかしたまへかし。もとよりおれおれしく、 たゆき心の怠りに。まして方々の紛らはしき競ひにも、おの づからなむ」とのたまひて、向ひの院の御倉あけさせて、絹- 綾など奉らせたまふ。荒れたる所もなけれど、住みたまはぬ 所のけはひは静かにて、御前の木立ばかりぞいとおもしろく、 紅梅の咲き出でたるにほひなど、見はやす人もなきを見わた したまひて、 ふるさとの春の梢にたづね来て世のつねならぬはな   を見るかな 独りごちたまへど、聞き知りたまはざりけんかし。  空蝉の尼衣にも、さしのぞきたまへり。うけばりたるさま にはあらず、かごやかに局住みにしなして、仏ばかりに所え

させたてまつりて、行ひ勤めけるさまあはれに見えて、経、 仏の飾、はかなくしたる閼伽の具なども、をかしげになまめ かしく、なほ心ばせありと見ゆる人のけはひなり。青鈍の几- 帳、心ばへをかしきに、いたくゐ隠して、袖口ばかりぞ色こ となるしもなつかしければ、涙ぐみたまひて、 「松が浦島 を遙かに思ひてぞやみぬべかりける。昔より心憂かりける御- 契りかな。さすがにかばかりの睦びは、絶ゆまじかりけるよ」 などのたまふ。尼君も、ものあはれなるけはひにて、 「か かる方に頼みきこえさするしもなむ、浅くはあらず思ひたま へ知られはべりける」と聞こゆ。 「常に、をりをり重ねて 心まどはしたまひし世の報などを、仏にかしこまりきこゆる こそ苦しけれ。思し知るや。かくいと素直にしもあらぬもの を、と思ひあはせたまふことも、あらじやはとなむ思ふ」と のたまふ。かのあさましかりし世の古事を、聞きおきたまへ るなめりと恥づかしく、 「かかるありさまを御覧じはてら

るるより外の報は、いづこにかはべらむ」
とて、まことにう ち泣きぬ。いにしへよりも、もの深く恥づかしげさまさりて、 かくもて離れたること、と思すしも、見放ちがたく思さるれ ど、はかなき言をのたまひかくべくもあらず。おほかたの昔- 今の物語をしたまひて、かばかりの言ふかひだにあれかしと、 あなたを見やりたまふ。  かやうにても、御蔭に隠れたる人々多かり。みなさしのぞ きわたしたまひて、 「おぼつかなき日数つもるをりをりあ れど、心の中は怠らずなむ。ただ限りある道の別れのみこそ うしろめたけれ。命ぞ知らぬ」など、なつかしくのたまふ。 いづれをも、ほどほどにつけて、あはれと思したり。我はと 思しあがりぬべき御身のほどなれど、さしもことごとしくも てなしたまはず、所につけ人のほどにつけつつ、あまねくな つかしくおはしませば、ただかばかりの御心にかかりてなむ、 多くの人々年を経ける。 源氏、男踏歌をもてなし、御方々見物する

今年は男踏歌あり。内裏より朱雀院に参り て、次にこの院に参る。道のほど遠くて、 夜明け方になりにけり。月の曇りなく澄み まさりて、薄雪すこし降れる庭のえならぬに、殿上人なども、 物の上手多かるころほひにて、笛の音もいとおもしろく吹き 立てて、この御前はことに心づかひしたり。御方々、物見に 渡りたまふべくかねて御消息どもありければ、左右の対、渡- 殿などに、御局しつつおはす。西の対の姫君は、寝殿の南の 御方に渡りたまひて、こなたの姫君、御対面ありけり。上も 一所におはしませば、御几帳ばかり隔てて聞こえたまふ。  朱雀院の后の宮の御方などめぐりけるほどに、夜もやうや う明けゆけば、水駅にて事そがせたまふべきを、例ある事よ り外に、さまことに事加へていみじくもてはやさせたまふ。 影すさまじき暁月夜に、雪はやうやう降り積む。松風木高 く吹きおろし、ものすさまじくもありぬべきほどに、青色の

萎えばめるに、白襲の色あひ、何の飾かは見ゆる。かざしの 綿は、にほひもなき物なれど、所からにやおもしろく、心ゆ き、命延ぶるほどなり。殿の中将の君、内の大殿の君たち、 そこらにすぐれて、めやすく華やかなり。ほのぼのと明けゆ くに、雪やや散りてそぞろ寒きに、竹河うたひてかよれる姿、 なつかしき声々の、絵にも描きとどめがたからむこそ口惜し けれ。御方々、いづれもいづれも劣らぬ袖口ども、こぼれ出 でたるこちたさ、物の色あひなども、曙の空に春の錦たち 出でにける霞の中かと見わたさる。あやしく心ゆく見物にぞ ありける。さるは高巾子の世離れたるさま、寿詞の乱りがは しきをこめきたる言もことごとしくとりなしたる、なかなか 何ばかりのおもしろかるべき拍子も聞こえぬものを。例の綿 かづきわたりてまかでぬ。  夜明けはてぬれば、御方々帰り渡りたまひぬ。大臣の君、 すこし大殿籠りて、日高く起きたまへり。 「中将の声は、

弁少将にをさをさ劣らざめるは。あやしく有職ども生ひ出づ るころほひにこそあれ。いにしへの人は、まことに賢き方や すぐれたることも多かりけむ、情だちたる筋は、このごろの 人にえしもまさらざりけむかし。中将などをば、すくすくし き公人にしなしてむとなむ思ひおきてし。みづからのあざ ればみたるかたくなしさをもて離れよ、と思ひしかど、なほ 下にはほのすきたる心をこそとどむべかめれ。もてしづめ、 すくよかなるうはべばかりは、うるさかめり」
など、いとう つくしと思したり。万春楽、御口ずさびにのたまひて、 「人々のこなたに集ひたまへるついでに、いかで物の音試み てしがな。私の後宴あるべし」とのたまひて、御琴どもの、 うるはしき袋どもして秘めおかせたまへる、みな引き出でて、 おし拭ひて、ゆるべる緒ととのへさせたまひなどす。御方々、 心づかひいたくしつつ、心げさうを尽くしたまふらむかし。 Batterflies 春の町の船楽 人々玉鬘に心を寄せる

三月の二十日あまりのころほひ、春の御前 のありさま、常よりことに尽くしてにほふ 花の色、鳥の声、他の里には、まだ古りぬに や、とめづらしう見え聞こゆ。山の木立、中島のわたり、色 まさる苔のけしきなど、若き人々のはつかに心もとなく思ふ べかめるに、唐めいたる舟造らせたまひける、急ぎさうぞか せたまひて、おろし始めさせたまふ日は、雅楽寮の人召して、 船の楽せらる。親王たち上達部などあまた参りたまへり。  中宮、このころ里におはします。かの 「春まつ苑は」とは げましきこえたまへりし御返りもこのころやと思し、大臣の 君も、いかでこの花のをり御覧ぜさせむ、と思しのたまへど、 ついでなくて軽らかにはひ渡り花をももて遊びたまふべき

ならねば、若き女房たちの、 ものめでしぬべきを舟にのせ たまうて、南の池の、こなた にとほし通はしなさせたまへ るを、小さき山を隔ての関に 見せたれど、その山の崎より漕ぎまひて、東の釣殿に、こな たの若き人々集めさせたまふ。  龍頭鷁首を、唐の装ひにことごとしうしつらひて、楫とり の棹さす童べ、みな角髪結ひて、唐土だたせて、さる大きな る池の中にさし出でたれば、まことの知らぬ国に来たらむ心- 地して、あはれにおもしろく、見ならはぬ女房などは思ふ。 中島の入江の岩蔭にさし寄せて見れば、はかなき石のたたず まひも、ただ絵に描いたらむやうなり。こなたかなた霞みあ ひたる梢ども、錦を引きわたせるに、御前の方ははるばると 見やられて、色を増したる柳枝を垂れたる、花もえもいはぬ

匂ひを散らしたり。他所には盛り過ぎたる桜も、今盛りにほ ほ笑み、廊を繞れる藤の色も、こまやかにひらけゆきにけり。 まして池の水に影をうつしたる山吹、岸よりこぼれていみじ き盛りなり。水鳥どもの、つがひを離れず遊びつつ、細き枝 どもをくひて飛びちがふ、鴛鴦の波の綾に文をまじへたるな ど、物の絵様にも描き取らまほしき、まことに斧の柄も朽い つべう思ひつつ、日を暮らす。 風吹けば波の花さへいろ見えてこや名にたてる山ぶ   きの崎 春の池や井手のかはせにかよふらん岸の山吹そこもに   ほへり 亀の上の山もたづねじ舟のうちに老いせぬ名をばここ   に残さむ 春の日のうららにさして行く舟は棹のしづくも花ぞち   りける

などやうの、はかな事どもを、心々に言ひかはしつつ、行く 方も、帰らむ里も忘れぬべう、若き人々の心をうつすに、こ とわりなる水の面になむ。  暮れかかるほどに、皇瘴*といふ楽いとおもしろく聞こゆる に、心にもあらず、釣殿にさし寄せられておりぬ。ここのし つらひ、いと事そぎたるさまに、なまめかしきに、御方々の 若き人どもの、我劣らじ、と尽くしたる装束容貌、花をこき まぜたる錦に劣らず見えわたる。世に目馴れずめづらかなる 楽ども仕うまつる。舞人など、心ことに選ばせたまひて、人 の御心ゆくべき手の限りを尽くさせたまふ。  夜に入りぬれば、いと飽かぬ心地して、御前の庭に篝火と もして、御階のもとの苔の上に、楽人召して、上達部親王た ちも、みなおのおの弾物吹物とりどりにしたまふ。物の師ど も、ことにすぐれたるかぎり、双調吹きて、上に待ちとる御- 琴どもの調べ、いと華やかに掻きたてて、安名尊遊びたまふ

ほど、生けるかひありと、何のあやめも知らぬ賤の男も、御- 門のわたり隙なき馬車の立処にまじりて、笑みさかえ聞きけ り。空の色物の音も、春の調べ、響きはいとことにまさりけ るけぢめを、人々思しわくらむかし。夜もすがら遊び明かし たまふ。返り声に喜春楽立ちそひて、兵部卿宮、青柳折り 返しおもしろくうたひたまふ。主の大臣も言加へたまふ。  夜も明けぬ。朝ぼらけの鳥の囀を、中宮は、物隔ててねた う聞こしめしけり。いつも春の光を籠めたまへる大殿なれど、 心をつくるよすがのまたなきを、飽かぬことに思す人々もあ りけるに、西の対の姫君、事もなき御ありさま、大臣の君も、 わざと思しあがめきこえたまふ御気色など、みな世に聞こえ 出でて、思ししもしるく、心なびかしたまふ人多かるべし。 わが身さばかりと思ひあがりたまふ際の人こそ、たよりにつ けつつ気色ばみ、言出で聞こえたまふもありけれ、えしもう ち出でぬ中の思ひに燃えぬべき、若君達などもあるべし。そ

の中に、事の心を知らで、内の大殿の中将などはすきぬべか めり。  兵部卿宮、はた、年ごろおはしける北の方も亡せたまひて、 この三年ばかり独り住みにてわびたまへば、うけばりて今は 気色ばみたまふ。今朝もいといたうそら乱れして、藤の花を かざして、なよびさうどきたまへる御さま、いとをかし。大- 臣も、思ししさまかなふ、と下には思せど、せめて知らず顔 をつくりたまふ。御土器のついでに、いみじうもて悩みたま うて、 「思ふ心はべらずは、まかり逃げはべりなまし。い とたへがたしや」とすまひたまふ。 むらさきのゆゑに心をしめたればふちに身なげん名   やはをしけき とて、大臣の君に、同じかざしをまゐりたまふ。いといたうほ ほ笑みたまひて、 ふちに身を投げつべしやとこの春は花のあたりを立

  ちさらで見よ
と切にとどめたまへば、え立ちあかれたまはで、今朝の御遊 びましていとおもしろし。 中宮の季の御読経 紫の上春秋競べに勝つ 今日は、中宮の御読経のはじめなりけり。 やがてまかでたまはで、休み所とりつつ、 日の御装ひにかへたまふ人々も多かり。障 りあるはまかでなどもしたまふ。午の刻ばかりに、みなあな たに参りたまふ。大臣の君をはじめたてまつりて、みな着き わたりたまふ。殿上人なども残るなく参る。多くは大臣の御- 勢にもてなされたまひて、やむごとなくいつくしき御あり さまなり。  春の上の御心ざしに、仏に花奉らせたまふ。鳥蝶にさうぞ き分けたる童べ八人、容貌などことにととのへさせたまひ て、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、黄金の瓶に山吹を、 同じき花の房いかめしう、世になきにほひを尽くさせたまへ

り。南の御前の山際より漕 ぎ出でて、御前に出づるほ ど、風吹きて、瓶の桜すこ しうち散り紛ふ。いとうら らかに晴れて、霞の間より 立ち出でたるは、いとあは れになまめきて見ゆ。わざと平張なども移されず、御前に渡 れる廊を、楽屋のさまにして、仮に胡床どもを召したり。  童べども御階のもとに寄りて、花ども奉る。行香の人々取 りつぎて、閼伽に加へさせたまふ。御消息、殿の中将の君し て聞こえたまへり。 花ぞののこてふをさへや下草に秋まつむしはうと   く見るらむ 宮、かの紅葉の御返りなりけり、とほほ笑みて御覧ず。昨日 の女房たちも、 「げに春の色はえおとさせたまふまじかりけ

り」
と花におれつつ聞こえあへり。鶯のうららかなる音に、 鳥の楽華やかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなく 囀りわたるに、急になりはつるほど、飽かずおもしろし。蝶 はまして、はかなきさまに飛びたちて、山吹の籬のもとに、 咲きこぼれたる花の蔭に舞ひいづる。  宮の亮をはじめて、さるべき上人ども、禄とりつづきて、 童べに賜ぶ。鳥には桜の細長、蝶には山吹襲賜はる。かねて しもとりあへたるやうなり。物の師どもは、白き一襲、腰差 など、次々に賜ふ。中将の君には、藤の細長添へて、女の装- 束かづけたまふ。御返り、 「昨日は音に泣きぬべくこそは。   こてふにもさそはれなまし心ありて八重山吹をへだてざ   りせば」 とぞありける。すぐれたる御労どもに、かやうのことはたへ ぬにやありけむ、思ふやうにこそ見えぬ御口つきどもなめれ。  まことや、かの見物の女房たち、宮のには、みな気色ある

贈物どもせさせたまうけり。さやうのこと委しければむつか し。明け暮れにつけても、かやうのはかなき御遊びしげく、 心をやりて過ぐしたまへば、さぶらふ人もおのづから、も の思ひなき心地してなむ、こなたかなたにも聞こえかはした まふ。 玉鬘の風姿と源氏の胸中 柏木夕霧の態度 西の対の御方は、かの踏歌のをりの御対面 の後は、こなたにも聞こえかはしたまふ。 深き御心もちゐや、浅くもいかにもあらむ、 気色いと労あり、なつかしき心ばへと見えて、人の心隔つべ くもものしたまはぬ人ざまなれば、いづ方にもみな心寄せき こえたまへり。聞こえたまふ人、いとあまたものしたまふ。 されど、大臣、おぼろけに思し定むべくもあらず、わが御心 にも、すくよかに親がりはつまじき御心や添ふらむ、父大臣 にも知らせやしてましなど、思し寄るをりをりもあり。殿の 中将は、すこしけ近く、御簾のもとなどにも寄りて、御答へ

みづからなどするも、女はつつましう思せど、さるべきほど と人々も知りきこえたれば、中将はすくすくしくて思ひもよ らず。  内の大殿の君たちは、この君に引かれて、よろづに気色ば み、わび歩くを、その方のあはれにはあらで、下に心苦しう、 実の親にさも知られたてまつりにしがなと、人知れぬ心にか けたまへれど、さやうにも漏らしきこえたまはず、ひとへに、 うちとけ頼みきこえたまふ心むけなど、らうたげに若やかな り。似るとはなけれど、なほ母君のけはひに、いとよくおぼ えて、これは才めいたるところぞ添ひたる。 源氏、人々の懸想文を見て玉鬘に語る 更衣の今めかしう改まれるころほひ、空の けしきなどさへあやしうそこはかとなくを かしきを、のどやかにおはしませば、よろ づの御遊びにて過ぐしたまふに、対の御方に、人々の御文し げくなりゆくを、思ひしことと、をかしう思いて、ともすれ

ば渡りたまひつつ御覧じ、さるべきには御返りそそのかしき こえたまひなどするを、うちとけず苦しいことに思いたり。  兵部卿宮の、ほどなく焦られがましきわび言どもを書き集 めたまへる御文を御覧じつけて、こまやかに笑ひたまふ。 「はやうより隔つることなう、あまたの親王たちの御中に、 この君をなん、かたみにとり分きて思ひしに、ただかやうの 筋のことなむ、いみじう隔て思うたまひてやみにしを、世の 末に、かく、すきたまへる心ばへを見るが、をかしうもあは れにもおぼゆるかな。なほ御返りなど聞こえたまへ。すこし も故あらむ女の、かの親王より外に、また言の葉をかはすべ き人こそ世におぼえね。いと気色ある人の御さまぞや」と、 若き人はめでたまひぬべく聞こえ知らせたまへど、つつまし くのみ思いたり。  右大将の、いとまめやかにことごとしきさましたる人の、 恋の山には孔子の倒れまねびつべき気色に愁へたるも、さる

方にをかしと、みな見くらべたまふ中に、唐の縹の紙の、い となつかしうしみ深う匂へるを、いと細く小さく結びたるあ り。 「これはいかなれば、かく結ぼほれたるにか」とて、 ひきあけたまへり。手いとをかしうて、 思ふとも君は知らじなわきかへり岩漏る水に色し見   えねば 書きざま今めかしうそぼれたり。 「これはいかなるぞ」と 問ひきこえたまへど、はかばかしうも聞こえたまはず。  右近召し出でて、 「かやうに訪れきこえん人をば、人選 りして答へなどはせさせよ。すきずきしうあざれがましき今 やうの人の、便ないことし出でなどする、男の咎にしもあら ぬことなり。我にて思ひしにも、あな情な、恨めしうもと、 そのをりにこそ無心なるにや、もしはめざましかるべき際は、 けやけうなどもおぼえけれ、わざと深からで、花蝶につけた るたより言は、心妬うもてないたる、なかなか心だつやうに

もあり。またさて忘れぬるは、何の咎かはあらむ。もののた よりばかりのなほざり言に、口疾う心得たるも、さらであり ぬべかりける、後の難とありぬべきわざなり。すべて女のも のづつみせず、心のままに、もののあはれも知り顔つくり、 をかしき事をも見知らんなん、そのつもりあぢきなかるべき を、宮、大将は、おほなおほななほざりごとをうち出でたま ふべきにもあらず、またあまりもののほど知らぬやうならん も、御ありさまに違へり。その際より下は、心ざしのおもむ きに従ひて、あはれをも分きたまへ。労をも数へたまへ」
な ど聞こえたまへば、君はうち背きておはする、側目いとをか しげなり。撫子の細長に、このごろの花の色なる御小袿、あ はひけ近う今めきて、もてなしなども、さはいへど、田舎び たまへりしなごりこそ、ただありにおほどかなる方にのみは 見えたまひけれ、人のありさまをも見知りたまふままに、い とさまよう、なよびかに、化粧なども心してもてつけたまへ

れば、いとど飽かぬところなく、華やかにうつくしげなり。 他人と見なさむは、いと口惜しかべう思さる。右近もうち笑 みつつ見たてまつりて、 「親と聞こえんには、似げなう若く おはしますめり。さし並びたまへらんはしも、あはひめでた しかし」と思ひゐたり。 「さらに人の御消息などは聞こえ 伝ふることはべらず。さきざきも知ろしめし御覧じたる三つ 四つは、ひき返しはしたなめきこえむもいかがとて、御文ば かり取り入れなどしはべるめれど、御返りはさらに。聞こえ させたまふをりばかりなむ。それをだに、苦しいことに思い たる」と聞こゆ。 「さてこの若やかに結ぼほれたるは誰が ぞ。いといたう書いたる気色かな」と、ほほ笑みて御覧ずれ ば、 「かれは、執念うとどめてまかりにけるにこそ。内の 大殿の中将の、このさぶらふみるこをぞ、もとより見知りた まへりける伝へにてはべりける。また見入るる人もはべら ざりしにこそ」と聞こゆれば、 「いとらうたきことかな。

下臈なりとも、かの主たちをば、いかがいとさははしたなめ む。公卿といへど、この人のおぼえに、かならずしも並ぶま じきこそ多かれ。さる中にもいと静まりたる人なり。おのづ から思ひあはする世もこそあれ。掲焉にはあらでこそ言ひ紛 らはさめ。見どころある文書きかな」
など、とみにもうち置 きたまはず。   「かう何やかやと聞こゆるをも、思すところやあらむと ややましきを、かの大臣に知られたてまつりたまはむことも、 まだ若々しう何となきほどに、ここら年経たまへる御仲にさ し出でたまはむことはいかが、と思ひめぐらしはべる。なほ 世の人のあめる方に定まりてこそは、人々しう、さるべきつ いでもものしたまはめと思ふを。宮は、独りものしたまふや うなれど、人柄いといたうあだめいて、通ひたまふ所あまた 聞こえ、召人とか、憎げなる名のりする人どもなむ、数あま た聞こゆる。さやうならむことは、憎げなうて見直いたまは

む人は、いとようなだらかにもて消ちてむ。すこし心に癖あ りては、人に飽かれぬべき事なむ、おのづから出で来ぬべき を、その御心づかひなむあべき。大将は、年経たる人の、い たうねびすぎたるを厭ひがてに、と求むなれど、それも人々 わづらはしがるなり。さもあべいことなれば、さまざまにな む人知れず思ひ定めかねはべる。かうざまのことは、親など にも、さはやかに、わが思ふさまとて、語り出でがたきこと なれど、さばかりの御齢にもあらず、今はなどか何ごとをも、 御心に分いたまはざらむ。まろを、昔ざまになずらへて、母- 君と思ひないたまへ。御心に飽かざらむことは心苦しく」
な ど、いとまめやかにて聞こえたまへば、苦しうて御答へ聞こ えむともおぼえたまはず。いと若々しきもうたておぼえて、 「何ごとも思ひ知りはべらざりけるほどより、親などは見 ぬものにならひはべりて、ともかくも思うたまへられずな む」と、聞こえたまふさまのいとおいらかなれば、げにと思

いて、 「さらば世の譬の、後の親をそれと思いて、おろか ならぬ心ざしのほども、見あらはしはてたまひてむや」など、 うち語らひたまふ。思すさまのことはまばゆければ、えうち 出でたまはず。気色ある言葉は時々まぜたまへど、見知らぬ さまなれば、すずろにうち嘆かれて渡りたまふ。  御前近き呉竹の、いと若やかに生ひたちて、うちなびくさ まのなつかしきに、立ちとまりたまうて、   「ませのうちに根深くうゑし竹の子のおのが世々にや    生ひわかるべき 思へば恨めしかべいことぞかし」と、御簾をひき上げて聞こ えたまへば、ゐざり出でて、   「今さらにいかならむ世かわか竹のおひはじめけむ根    をばたづねん なかなかにこそはべらめ」と聞こえたまふを、いとあはれと 思しけり。さるは心の中にはさも思はずかし。いかならむを

り聞こえ出でむとすらむと、心もとなくあはれなれど、この 大臣の御心ばへのいとあり難きを、親と聞こゆとも、もとよ り見馴れたまはぬは、えかうしもこまやかならずやと、昔物- 語を見たまふにも、やうやう人のありさま、世の中のあるや うを見知りたまへば、いとつつましう、心と知られたてまつ らむことは難かるべう思す。 紫の上、玉鬘に対する源氏の内心を察する 殿は、いとどらうたしと思ひきこえたまふ。 上にも語り申したまふ。 「あやしうなつ かしき人のありさまにもあるかな。かのい にしへのは、あまりはるけどころなくぞありし。この君は、 もののありさまも見知りぬべく、け近き心ざま添ひて、うし ろめたからずこそ見ゆれ」などほめたまふ。ただにしも思す まじき御心ざまを見知りたまへれば、思し寄りて、 「も のの心えつべくはものしたまふめるを、うらなくしもうちと け頼みきこえたまふらんこそ心苦しけれ」とのたまへば、

「など頼もしげなくやはあるべき」と聞こえたまへば、 「いでや。我にても、また忍びがたう、もの思はしきを りをりありし御心ざまの、思ひ出でらるる節ぶしなくやは」 とほほ笑みて聞こえたまへば、あな心疾、と思いて、 「う たても思し寄るかな。いと見知らずしもあらじ」とて、わづ らはしければ、のたまひさして、心の中に、人のかう推しは かりたまふにも、いかがはあべからむ、と思し乱れ、かつは ひがひがしうけしからぬわが心のほども、思ひ知られたまう けり。 源氏、玉鬘に慕情を告白 玉鬘苦悩する 心にかかれるままに、しばしば渡りたまひ つつ見たてまつりたまふ。雨のうち降りた るなごりの、いとものしめやかなる夕つ方、 御前の若楓柏木などの、青やかに茂りあひたるが、何とな く心地よげなる空を見出だしたまひて、 「和して且清し」 とうち誦じたまうて、まづこの姫君の御さまのにほひやかげ

さを思し出でられて、例の忍びやかに渡りたまへり。手習な どして、うちとけたまへりけるを、起き上りたまひて、恥ぢ らひたまへる顔の色あひいとをかし。なごやかなるけはひの、 ふと昔思し出でらるるにも、忍びがたくて、 「見そめたて まつりしは、いとかうしもおぼえたまはずと思ひしを、あや しう、ただそれかと思ひまがへらるるをりをりこそあれ。あ はれなるわざなりけり。中将の、さらに、昔ざまのにほひに も見えぬならひに、さしも似ぬものと思ふに、かかる人もも のしたまうけるよ」とて、涙ぐみたまへり。箱の蓋なる御く だものの中に、橘のあるをまさぐりて、 「橘のかをりし袖によそふればかはれる身ともおもほ   えぬかな 世とともの心にかけて忘れがたきに、慰むことなくて過ぎつ る年ごろを、かくて見たてまつるは、夢にやとのみ思ひなす を、なほえこそ忍ぶまじけれ。思しうとむなよ」とて、御手

をとらへたまへれば、女かやうにもならひたまはざりつるを、 いとうたておぼゆれど、おほどかなるさまにてものしたまふ。 袖の香をよそふるからに橘のみさへはかなくなりも   こそすれ  むつかしと思ひてうつぶしたまへるさま、いみじうなつか しう、手つきのつぶつぶと肥えたまへる、身なり肌つきのこ まやかにうつくしげなるに、なかなかなるもの思ひ添ふ心地 したまて、今日はすこし思ふこと聞こえ知らせたまひける。 女は心憂く、いかにせむとおぼえて、わななかるる気色もし るけれど、 「何か、かくうとましとは思いたる。いとよく もて隠して、人に咎めらるべくもあらぬ心のほどぞよ。さり げなくてをもて隠したまへ。浅くも思ひきこえさせぬ心ざし に、また添ふべければ、世にたぐひあるまじき心地なんする を。このおとづれきこゆる人々には、思しおとすべくやはあ る。いとかう深き心ある人は世にあり難かるべきわざなれば、

うしろめたくのみこそ」
とのたまふ。いとさかしらなる御親 心なりかし。  雨はやみて、風の竹に鳴るほど、はなやかにさし出でたる 月影、をかしき夜のさまもしめやかなるに、人々は、こまや かなる御物語にかしこまりおきて、け近くもさぶらはず。 常に見たてまつりたまふ御仲なれど、かくよきをりしもあり 難ければ、言に出でたまへるついでの御ひたぶる心にや、な つかしいほどなる御衣どものけはひは、いとよう紛らはしす べしたまひて、近やかに臥したまへば、いと心憂く、人の思 はむこともめづらかに、いみじうおぼゆ。実の親の御あたり ならましかば、おろかには見放ちたまふとも、かくざまのう きことはあらましや、と悲しきに、つつむとすれどこぼれ出 でつつ、いと心苦しき御気色なれば、 「かう思すこそつら けれ。もて離れ知らぬ人だに、世のことわりにて、みなゆる すわざなめるを、かく年経ぬる睦ましさに、かばかり見えた

てまつるや、何のうとましかるべきぞ。これよりあながちな る心は、よも見せたてまつらじ。おぼろけに忍ぶるにあまる ほどを、慰むるぞや」
とて、あはれげになつかしう聞こえた まふこと多かり。まして、かやうなるけはひは、ただ昔の心- 地して、いみじうあはれなり。わが御心ながらも、ゆくりか にあはつけきことと思し知らるれば、いとよく思し返しつつ、 人もあやしと思ふべければ、いたう夜もふかさで出でたまひ ぬ。 「思ひうとみたまはば、いと心憂くこそあるべけれ。 よその人は、かうほれぼれしうはあらぬものぞよ。限りなく 底ひ知らぬ心ざしなれば、人の咎むべきさまにはよもあらじ。 ただ昔恋しき慰めに、はかなきことをも聞こえん。同じ心に 答へなどしたまへ」と、いとこまかに聞こえたまへど、我に もあらぬさまして、いといとうしと思いたれば、 「いとさ ばかりには見たてまつらぬ御心ばへを。いとこよなくも憎み たまふべかめるかな」と、嘆きたまひて、 「ゆめ気色なく

てを」
とて出でたまひぬ。  女君も、御年こそ過ぐしたまひにたるほどなれ、世の中を 知りたまはぬ中にも、すこしうち世馴れたる人のありさまを だに見知りたまはねば、これよりけ近きさまにも思し寄らず、 思ひのほかにもありける世かな、と嘆かしきに、いと気色も あしければ、人々、御心地悩ましげに見えたまふ、ともてな やみきこゆ。 「殿の御気色のこまやかに、かたじけな くもおはしますかな。実の御親と聞こゆとも、さらにかばか り思し寄らぬことなくは、もてなしきこえたまはじ」など、 兵部なども忍びて聞こゆるにつけて、いとど思はずに、心づ きなき御心のありさまを、うとましう思ひはてたまふにも、 身ぞ心憂かりける。  またの朝、御文とくあり。悩ましがりて臥したまへれど、 人々御硯などまゐりて、 「御返り疾く」と聞こゆれば、しぶし ぶに見たまふ。白き紙の、うはべはおいらかに、すくすくし

きに、いとめでたう書いたまへり。 「たぐひなかりし御気- 色こそ、つらきしも忘れがたう。いかに人見たてまつりけむ。   うちとけてねもみぬものを若草のことあり顔にむすぼほ   るらむ 幼くこそものしたまひけれ」と、さすがに親がりたる御言葉 も、いと憎しと見たまひて、御返り事聞こえざらむも、人目 あやしければ、ふくよかなる陸奥国紙に、ただ、 「承りぬ。 乱り心地のあしうはべれば、聞こえさせぬ」とのみあるに、 かやうの気色はさすがにすくよかなり、とほほ笑みて、恨み どころある心地したまふも、うたてある心かな。 玉鬘、源氏の求愛に困惑 他の求婚者たち 色に出でたまひて後は、「太田の松の」と 思はせたることなく、むつかしう聞こえた まふこと多かれば、いとどところせき心地 して、置き所なきもの思ひつきて、いと悩ましうさへした まふ。

 かくて、事の心知る人は少なうて、うときも親しきも、無- 下の親ざまに思ひきこえたるを、「 かうやうの気色の漏り出 でば、いみじう人笑はれに、うき名にもあるべきかな。父大- 臣などの尋ね知りたまふにても、まめまめしき御心ばへにも あらざらむものから、ましていとあはつけう、待ち聞き思さ んこと」と、よろづに安げなう思し乱る。  宮、大将などは、殿の御気色、もて離れぬさまに伝へ聞き たまうて、いとねむごろに聞こえたまふ。この岩漏る中将も、 大臣の御ゆるしを見てこそかたよりにほの聞きて、まことの 筋をば知らず、ただひとへにうれしくて、下り立ち恨みきこ えまどひ歩くめり。 Fireflies 源氏の懸想ゆえに、玉鬘大いに困惑する

今はかく重々しきほどに、よろづのどやか に思ししづめたる御ありさまなれば、頼み きこえさせたまへる人々、さまざまにつけ て、みな思ふさまに定まり、ただよはしからで、あらまほし くて過ぐしたまふ。  対の姫君こそ、いとほしく、思ひの外なる思ひ添ひて、い かにせむと思し乱るめれ。かの監がうかりしさまには、なず らふべきけはひならねど、かかる筋に、かけても人の思ひ寄 りきこゆべきことならねば、心ひとつに思しつつ、さま異に うとましと思ひきこえたまふ。何ごとをも思し知りにたる御- 齢なれば、とざまかうざまに思し集めつつ、母君のおはせず なりにける口惜しさも、またとり返し惜しく悲しくおぼゆ。

 大臣も、うち出でそめたまひては、なかなか苦しく思せど、 人目を憚りたまひつつ、はかなきことをもえ聞こえたまはず、 苦しくも思さるるままに、繁く渡りたまひつつ、御前の人遠 くのどやかなるをりは、ただならず気色ばみきこえたまふご とに、胸つぶれつつ、けざやかにはしたなく聞こゆべきには あらねば、ただ見知らぬさまにもてなしきこえたまふ。人ざ まのわららかに、け近くものしたまへば、いたくまめだち、 心したまへど、なほをかしく愛敬づきたるけはひのみ見えた まへり。 螢宮焦慮 源氏、女房に返事を書かせる 兵部卿宮などは、まめやかに責めきこえた まふ。御労のほどはいくばくならぬに、五- 月雨になりぬる愁へをしたまひて、 「す こしけ近きほどをだにゆるしたまはば。思ふことをも、片は しはるけてしがな」と聞こえたまへるを、殿御覧じて、 「何かは。この君たちのすきたまはむは、見どころありなむ

かし。もて離れてな聞こえたまひそ。御返り時々聞こえたま へ」
とて、教へて書かせたてまつりたまへど、いとどうたて おぼえたまへば、乱り心地あしとて聞こえたまはず。人々も、 ことにやむごとなく、寄せ重きなどもをさをさなし。ただ母- 君の御をぢなりける宰相ばかりの人のむすめにて、心ばせな ど口惜しからぬが、世に衰へ残りたるを、尋ねとりたまへる、 宰相の君とて、手などもよろしく書き、おほかたも大人びた る人なれば、さるべきをりをりの御返りなど書かせたまへば、 召し出でて、言葉などのたまひて書かせたまふ。ものなどの たまふさまを、ゆかしと思すなるべし。  正身は、かくうたてあるもの嘆かしさの後は、この宮など はあはれげに聞こえたまふ時は、すこし見入れたまふ時もあ りけり。何かと思ふにはあらず、かく心うき御気色見ぬわざ もがなと、さすがにされたるところつきて思しけり。 源氏、螢火により宮に玉鬘の姿を見せる

殿は、あいなく、おのれ心げさうして、宮 を待ちきこえたまふも、知りたまはで、よ ろしき御返りのあるをめづらしがりて、い と忍びやかにおはしましたり。妻戸の間に御褥まゐらせて、 御几帳ばかりを隔てにて、近きほどなり。いといたう心して、 そらだきもの心にくきほどに匂はして、つくろひおはするさ ま、親にはあらで、むつかしきさかしら人の、さすがにあは れに見えたまふ。宰相の君なども、人の御答へ聞こえむ事も おぼえず、恥づかしくてゐたるを、埋れたりとひきつみたま へば、いとわりなし。タ闇過ぎて、おぼつかなき空のけしき の曇らはしきに、うちしめりたる宮の御けはひも、いと艶な り。内よりほのめく追風も、いとどしき御匂ひのたち添ひた れば、いと深くかをり満ちて、かねて思ししよりもをかしき 御けはひを、心とどめたまひけり。うち出でて、思ふ心のほ どをのたまひつづけたる言の葉おとなおとなしく、ひたぶる

にすきずきしくはあらで、いとけはひことなり。大臣、いと をかしとほの聞きおはす。  姫君は、東面にひき入りて大殿籠りにけるを、宰相の君 の御消息つたへにゐざり入りたるにつけて、 「いとあまり 暑かはしき御もてなしなり。よろづの事さまに従ひてこそめ やすけれ。ひたぶるに若びたまふべきさまにもあらず。この 宮たちをさへ、さし放ちたる人づてに聞こえたまふまじきこ となりかし。御声こそ惜しみたまふとも、すこしけ近くだに こそ」など、諫めきこえたまへど、いとわりなくて、ことつ けても這ひ入りたまひぬべき 御心ばへなれば、とざまかう ざまにわびしければ、すべり 出でて、母屋の際なる御几帳 のもとに、かたはら臥したま へる。何くれと言長き御答へ

聞こえたまふこともなく、思しやすらふに、寄りたまひて、 御几帳の帷子を一重うちかけたまふにあはせて、さと光るも の、紙燭をさし出でたるか、とあきれたり。螢を薄きかたに、 この夕つ方いと多くつつみおきて、光をつつみ隠したまへり けるを、さりげなく、とかくひきつくろふやうにて。にはか にかく掲焉に光れるに、あさましくて、扇をさし隠したまへ るかたはら目いとをかしげなり。 「おどろかしき光見えば、 宮ものぞきたまひなむ。わがむすめと思すばかりのおぼえに、 かくまでのたまふなめり。人ざま容貌など、いとかくしも具 したらむとは、え推しはかりたまはじ。いとよくすきたまひ ぬべき心まどはさむ」と構へ歩きたまふなりけり。まことの わが姫君をば、かくしももて騒ぎたまはじ、うたてある御心 なりけり。他方より、やをらすべり出でて渡りたまひぬ。  宮は、人のおはするほど、さばかりと推しはかりたまふが、 すこしけ近きけはひするに、御心ときめきせられたまひて、

えならぬ羅の帷子の隙より見入れたまへるに、一間ばかり隔 てたる見わたしに、かくおぼえなき光のうちほのめくを、を かしと見たまふ。ほどもなく紛らはして隠しつ。されどほの かなる光、艶なる事のつまにもしつべく見ゆ。ほのかなれど、 そびやかに臥したまへりつる様体のをかしかりつるを、飽か ず思して、げにこの事御心にしみにけり。 「なく声もきこえぬ虫の思ひだに人の消つにはきゆる   ものかは 思ひ知りたまひぬや」と聞こえたまふ。かやうの御返しを、 思ひまはさむもねぢけたれば、疾きばかりをぞ、 こゑはせで身をのみこがす螢こそいふよりまさる思   ひなるらめ など、はかなく聞こえなして、御みづからはひき入りたまひ にければ、いと遙かにもてなしたまふ愁はしさを、いみじく 恨みきこえたまふ。すきずきしきやうなれば、ゐたまひも明

かさで、軒の雫も苦しさに、濡れ濡れ夜深く出でたまひぬ。 郭公など必ずうち鳴きけむかし。うるさければこそ聞きもと どめね。御けはひなどのなまめかしさは、いとよく大臣の君 に似たてまつりたまへりと人々もめできこえけり。昨夜いと 女親だちて、つくろひたまひし御けはひを、内々は知らで、 あはれにかたじけなしとみな言ふ。 源氏、玉鬘への愛執に苦しみつつも自制 姫君は、かくさすがなる御気色を、 「わが みづからのうさぞかし。親などに知られた てまつり、世の人めきたるさまにて、かや うなる御心ばへならましかば、などかはいと似げなくもあら まし。人に似ぬありさまこそ。つひに世語にやならむ」と、 起き臥し思しなやむ。さるは、まことにゆかしげなきさまに はもてなし果てじ、と大臣は思しけり。なほさる御心癖なれ ば、中宮なども、いとうるはしくやは思ひきこえたまへる。 事にふれつつ、ただならず聞こえ動かしなどしたまへど、や

むごとなき方のおよびなくわづらはしさに、下り立ちあらは しきこえ寄りたまはぬを、この君は、人の御さまも、け近く 今めきたるに、おのづから思ひ忍びがたきに、をりをり人見 たてまつりつけば、疑ひ負ひぬべき御もてなしなどはうちま じるわざなれど、あり難く思し返しつつ、さすがなる御仲な りけり。 五月五日源氏玉鬘を訪れる その美しい容姿 五日には、馬場殿に出でたまひけるついで に、渡りたまへり。 「いかにぞや。宮は 夜やふかしたまひし。いたくも馴らしきこ えじ。わづらはしき気添ひたまへる人ぞや。人の心やぶり、 ものの過ちすまじき人は、難くこそありけれ」など、活けみ 殺しみいましめおはする御さま、尽きせず若くきよげに見え たまふ。艶も色もこぼるばかりなる御衣に直衣はかなく重な れるあはひも、いづこに加はれるきよらにかあらむ、この世 の人の染め出だしたると見えず。常の色もかへぬあやめも、

今日はめづらかに、をかしくおぼゆるかをりなども、思ふこ となくは、をかしかりぬべき御ありさまかな、と姫君思す。 螢宮、玉鬘と「あやめ」の歌を贈答 宮より御文あり。白き薄様にて、御手はい とよしありて書きなしたまへり。見るほど こそをかしかりけれ、まねび出づれば、こ となることなしや。 今日さへやひく人もなき水隠れに生ふるあやめのね   のみなかれん 例にも引き出でつべき根に、結びつけたまへれば、 「今日 の御返り」などそそのかしおきて出でたまひぬ。これかれも、 「なほ」と聞こゆれば、御心にもいかが思しけむ、 「あらはれていとど浅くも見ゆるかなあやめもわかず   なかれけるねの 若々しく」とばかり、ほのかにぞあめる。手をいますこしゆ ゑづけたらばと、宮は好ましき御心に、いささか飽かぬこと

と見たまひけむかし。薬玉など、えならぬさまにて、所どこ ろより多かり。思し沈みつる年ごろのなごりなき御ありさま にて、心ゆるびたまふことも多かるに、同じくは人の傷つく ばかりの事なくてもやみにしがな、といかが思さざらむ。 六条院において、馬場の競射を催す 殿は、東の御方にもさしのぞきたまひて、 「中将の今日の衛府の手番ひのついでに、 男ども引き連れてものすべきさまに言ひし を、さる心したまへ。まだ明かきほどに来なむものぞ。あや しく、ここにはわざとならず忍ぶることをも、この親王たち の聞きつけて、とぶらひものしたまへば、おのづからことご としくなむあるを。用意したまへ」など聞こえたまふ。  馬場殿は、こなた の廊より見通す、ほ ど遠からず。 「若 き人々。渡殿の戸開

けて物見よや。左の衛- 府にいとよしある官人 多かるころなり。少々 の殿上人に劣るまじ」
とのたまへば、物見む 事をいとをかしと思へ り。対の御方よりも、童べなど物見に渡り来て、廊の戸口に 御簾青やかに懸けわたして、今めきたる裾濃の御几帳ども立 てわたし、童下仕などさまよふ。菖蒲襲の衵、二藍の羅の汗- 衫着たる童べぞ、西の対のなめる。好ましく馴れたるかぎり 四人、下仕は楝の裾濃の裳、撫子の若葉の色したる唐衣、今- 日の装ひどもなり。こなたのは濃き一襲に、撫子襲の汗衫な どおほどかにて、おのおのいどみ顔なるもてなし、見どこ ろあり。若やかなる、殿上人などは、目をたてて気色ばむ。 未の刻に、馬場殿に出でたまひて、げに親王たちおはし集ひ

たり。手番ひの、 公事にはさま変りて、次将たちかき連れ 参りて、さまことに今めかしく遊び暮らしたまふ。女は、何 のあやめも知らぬ事なれど、舎人どもさへ艶なる装束を尽く して、身を投げたる手まどはしなどを、見るぞをかしかりけ る。南の町も通して遙々とあれば、あなたにもかやうの若き 人どもは見けり。打毬楽、落蹲など遊びて、勝負の乱声ども ののしるも、夜に入りはてて、何ごとも見えずなりはてぬ。 舎人どもの禄品々賜はる。いたく更けて、人々みなあかれた まひぬ。 源氏花散里のもとに泊まる 二人の仲らい 大臣はこなたに大殿籠りぬ。物語など聞こ えたまひて、 「兵部卿宮の、人よりはこ よなくものしたまふかな。容貌などはすぐ れねど、用意気色などよしあり、愛敬づきたる君なり。忍び て見たまひつや。よしといへど、なほこそあれ」とのたまふ。 「御弟にこそものしたまへど、ねびまさりてぞ見えたま

ひける。年ごろかくをり過ぐさず渡り睦びきこえたまふと聞 きはべれど、昔の内裏わたりにてほの見たてまつりし後、お ぼつかなしかし。いとよくこそ容貌などねびまさりたまひに けれ。帥親王よくものしたまふめれど、けはひ劣りて、大君 けしきにぞものしたまひける」
とのたまへば、ふと見知りた まひにけり、と思せど、ほほ笑みて、なほあるを、よしとも あしともかけたまはず。人の上を難つけ、おとしめざまのこ と言ふ人をば、いとほしきものにしたまへば、右大将などを だに、心にくき人にすめるを、何ばかりかはある、近きよす がにて見むは、飽かぬことにやあらむ、と見たまへど、言に あらはしてものたまはず。  今はただおほかたの御睦びにて、御座なども別々にて大殿- 籠る。などてかく離れそめしぞと、殿は苦しがりたまふ。お ほかた、何やかやとも側みきこえたまはで、年ごろかくをり ふしにつけたる御遊びどもを、人づてに見聞きたまひけるに、

今日めづらしかりつる事ばかりをぞ、この町のおぼえきらき らしと思したる。 その駒もすさめぬ草と名にたてる汀のあやめ今日   やひきつる とおほどかに聞こえたまふ。何ばかりのことにもあらねど、 あはれと思したり。 にほどりに影をならぶる若駒はいつかあやめにひき   わかるべき あいだちなき御言どもなりや。 「朝夕の隔てあるやうなれ ど、かくて見たてまつるは心やすくこそあれ」と、戯れごと なれど、のどやかにおはする人ざまなれば、静まりて聞こえ なしたまふ。床をば譲りきこえたまひて、御几帳ひき隔てて 大殿籠る。け近くなどあらむ筋をば、いと似げなかるべき筋 に思ひ離れはてきこえたまへれば、あながちにも聞こえたま はず。

玉鬘、物語に熱中する 源氏の物語論 長雨例の年よりもいたくして、晴るる方な くつれづれなれば、御方々絵物語などのす さびにて、明かし暮らしたまふ。明石の御- 方は、さやうのことをもよしありてしなしたまひて、姫君の 御方に奉りたまふ。西の対には、ましてめづらしくおぼえた まふことの筋なれば、明け暮れ書き読み、営みおはす。つき なからぬ若人あまたあり。さまざまにめづらかなる人の上な どを、まことにやいつはりにや、言ひ集めたる中にも、わが ありさまのやうなるはなかりけりと見たまふ。住吉の姫君の、 さし当りけむをりは、さるものにて、今の世のおぼえもなほ 心ことなめるに、主計頭が、ほとほとしかりけむなどぞ、か の監がゆゆしさを思しなずらへたまふ。  殿も、こなたかなたにかかる物どもの散りつつ、御目に離 れねば、 「あなむつかし。女こそものうるさがらず、人に 欺かれむと生まれたるものなれ。ここらの中にまことはいと

少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、 はかられたまひて、暑かはしきさみだれの、髪の乱るるも知 らで書きたまふよ」
とて、笑ひたまふものから、また、 「かかる世の古事ならでは、げに何をか紛るることなきつれ づれを慰めまし。さてもこのいつはりどもの中に、げにさも あらむとあはれを見せ、つきづきしくつづけたる、はたはか なしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫- 君のもの思へる見るに、かた心つくかし。またいとあるまじ きことかなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目 驚きて、静かにまた聞くたびぞ憎けれど、ふとをかしきふし、 あらはなるなどもあるべし。このごろ幼き人の、女房などに 時々読まするを立ち聞けば、ものよく言ふ者の世にあるべき かな、そらごとをよくし馴れたる口つきよりぞ言ひ出だすら むとおぼゆれど、さしもあらじや」とのたまへば、 「げに いつはり馴れたる人や、さまざまにさも酌みはべらむ。ただ

いとまことの事とこそ思うたまへられけれ」
とて、硯を押し やりたまへば、 「骨なくも聞こえおとしてけるかな。神代 より世にある事を記しおきけるななり。日本紀などはただか たそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」 とて、笑ひたまふ。 「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそな けれ、よきもあしきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽 かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほ しき節ぶしを、心に籠めがたくて、言ひおきはじめたるなり。 よきさまに言ふとては、よき事のかぎり選り出でて、人に従 はむとては、またあしきさまのめづらしき事をとり集めたる、 みなかたがたにつけたるこの世の外の事ならずかし。他の朝- 廷のさへ作りやうかはる、同じやまとの国の事なれば、昔今 のに変るべし、深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひた ぶるにそらごとと言ひはてむも、事の心違ひてなむありける。

仏の、いとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便 といふことありて、悟りなき者は、ここかしこ違ふ疑ひをお きつべくなん、方等経の中に多かれど、言ひもてゆけば、一 つ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人のよき あしきばかりの事は変りける。よく言へば、すべて何ごとも 空しからずなりぬや」
と、物語をいとわざとの事にのたまひ なしつ。 「さてかかる古事の中に、まろがやうに実法なる痴者の 物語はありや。いみじくけ遠き、ものの姫君も、御心のやう につれなく、そらおぼめきしたるは世にあらじな。いざ、た ぐひなき物語にして、世に伝へさせん」と、さし寄りて聞こ えたまへば、顔をひき入れて、 「さらずとも、かくめづら かなる事は、世語にこそはなりはべりぬべかめれ」とのたま へば、 「めづらかにやおぼえたまふ。げにこそまたなき心- 地すれ」とて寄りゐたまへるさま、いとあざれたり。

「思ひあまり昔のあとをたづぬれど親にそむける子ぞ   たぐひなき 不孝なるは、仏の道にもいみじくこそ言ひたれ」とのたまへ ど、顔ももたげたまはねば、御髪をかきやりつつ、いみじく 恨みたまへば、からうじて、 ふるき跡をたづぬれどげになかりけりこの世にかか   る親の心は と聞こえたまふも、心恥づかしければ、いといたくも乱れた まはず。かくしていかなるべき御ありさまならむ。 源氏と紫の上、物語の功罪を論ずる 紫の上も、姫君の御あつらへにことつけて、 物語は捨てがたく思したり。くまのの物語 の絵にてあるを、 「いとよく描きたる 絵かな」とて御覧ず。小さき女君の、何心もなくて昼寝した まへる所を、昔のありさま思し出でて、女君は見たまふ。 「かかる童どちだに、いかにざれたりけり。まろこそなほ

例にしつべく、心のどけさは人に似ざりけれ」
と聞こえ出で たまへり。げにたぐひ多からぬ事どもは、好み集めたまへり けりかし。 「姫君の御前にて、この世馴れたる物語など、な読み聞 かせたまひそ。みそか心つきたるもののむすめなどは、をか しとにはあらねど、かかる事世にはありけり、と見馴れたま はむぞゆゆしきや」とのたまふも、こよなし、と対の御方聞 きたまはば、心おきたまひつべくなむ。上、 「心浅げなる人 まねどもは、見るにもかたはらいたくこそ。うつほの藤原の 君のむすめこそ、いと重りかにはかばかしき人にて、過ちな かめれど、すくよかに言ひ出でたる、しわざも女しきところ なかめるぞ、一やうなめる」とのたまへば、 「現の人もさ ぞあるべかめる。人々しく立てたるおもむき異にて、よきほ どに構へぬや。よしなからぬ親の心とどめて生ほしたてたる 人の、児めかしきを生けるしるしにて、後れたる事多かるは、

何わざしてかしづきしぞと、親のしわざさへ思ひやらるるこ そいとほしけれ。げにさ言へど、その人のけはひよと見えた るは、かひあり、面だたしかし。言葉の限りまばゆくほめお きたるに、し出でたるわざ、言ひ出でたることの中に、げに と見え聞こゆることなき、いと見劣りするわざなり。すべて、 よからぬ人に、いかで人ほめさせじ」
など、ただこの姫君の 点つかれたまふまじくと、よろづに思しのたまふ。継母の腹 きたなき昔物語も多かるを、心見えに心づきなしと思せば、 いみじく選りつつなむ、書きととのへさせ、絵などにも描か せたまひける。 源氏夕霧の扱いに配慮 夕霧恥辱を忘れず 中将の君を、こなたにはけ遠くもてなしき こえたまへれど、姫君の御方には、さしも さし放ちきこえたまはず馴らはしたまふ。 わが世のほどは、とてもかくても同じことなれど、なからむ 世を思ひやるに、なほ見つき、思ひしみぬることどもこそ、

とり分きてはおぼゆべけれとて、南面の御簾の内はゆるした まへり。台盤所の女房の中はゆるしたまはず。あまたおはせ ぬ御仲らひにて、いとやむごとなくかしづききこえたまへり。 おほかたの心もちゐなども、いとものものしく、まめやかに ものしたまふ君なれば、うしろやすく思しゆづれり。まだい はけたる御雛遊びなどのけはひの見ゆれば、かの人の、もろ ともに遊びて過ぐしし年月の、まづ思ひ出でらるれば、雛の 殿の宮仕、いとよくしたまひて、をりをりにうちしほたれた まひけり。さもありぬべきあたりには、はかなし言ものたま ひふるるはあまたあれど、頼みかくべくもしなさず。さる方 になどかは見ざらむと、心とまりぬべきをも、強ひてなほざ り事にしなして、なほかの緑の袖を見えなほしてしがなと思 ふ心のみぞ、やむごとなきふしにはとまりける。あながちに などかかづらひまどはば、たふるる方にゆるしたまひもしつ べかめれど、つらしと思ひしをりをり、いかで人にもことわ

らせたてまつらむ、と思ひおきし忘れがたくて、正身ばかり には、おろかならぬあはれを尽くし見せて、おほかたには焦 られ思へらず。せうとの君たちなども、なまねたしなどのみ 思ふこと多かり。対の姫君の御ありさまを、右中将はいと深 く思ひしみて、言ひ寄るたよりもいとはかなければ、この君 をぞかこち寄りけれど、 「人の上にては、もどかしきわざ なりけり」と、つれなく答へてぞものしたまひける。昔の父 大臣たちの、御仲らひに似たり。 内大臣わが娘の不運を嘆く 夢占いのこと 内大臣は、御子ども腹々いと多かるに、 その生ひ出でたるおぼえ人柄に従ひつつ、 心にまかせたるやうなるおぼえ勢にて、 みななし立てたまふ。女はあまたもおはせぬを、女御もかく 思ししことのとどこほりたまひ、姫君もかく事違ふさまにて ものしたまへば、いと口惜しと思す。かの撫子を忘れたまは ず、もののをりにも語り出でたまひしことなれば、 「いかに

なりにけむ。ものはかなかりける親の心にひかれて、らうた げなりし人を、行く方知らずなりにたること。すべて女子と いはむものなん、いかにもいかにも目放つまじかりける。さ かしらにわが子といひて、あやしきさまにてはふれやすらむ。 とてもかくても聞こえ出で来ば」
とあはれに思しわたる。君 たちにも、 「もしさやうなる名のりする人あらば、耳と どめよ。心のすさびにまかせて、さるまじき事も多かりし中 に、これは、いと、しかおしなべての際にも思はざりし人の、 はかなきもの倦じをして、かく少なかりけるもののくさはひ 一つを失ひたることの口惜しきこと」と、常にのたまひ出づ。 中ごろなどはさしもあらず、うち忘れたまひけるを、人のさ まざまにつけて、女子かしづきたまへるたぐひどもに、わが 思ほすにしもかなはぬが、いと心憂く本意なく思すなりけり。  夢見たまひて、いとよく合はする者召して合はせたまひけ るに、 「もし年ごろ御心に知られたまはぬ御子を、人のもの

になして、聞こしめし出づることや」
と聞こえたりければ、 「女子の人の子になる事はをさをさなしかし。いかなる 事にかあらむ」など、このごろぞ思しのたまふべかめる。 Wild Carnations

釣殿の納涼に、源氏、近江の君の噂を質す いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼み たまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親し き殿上人あまたさぶらひて、西川より奉れ る鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じてまゐら す。例の、大殿の君達、中将の御あたり尋ねて参りたまへり。 「さうざうしくねぶたかりつる。をりよくものしたまへる かな」とて、大御酒まゐり、氷水召して、水飯などとりどり にさうどきつつ食ふ。  風はいとよく吹けども、日のどかに曇りなき空の、西日に なるほど、蝉の声などもいと苦しげに聞こゆれば、 「水の 上無徳なる今日の暑かはしさかな。無礼の罪はゆるされなむ や」とて、寄り臥したまへり。 「いとかかるころは、遊び

などもすさまじく、さすがに暮らし難きこそ苦しけれ。宮仕 する若き人々たへ難からむな。帯も解かぬほどよ。ここにて だにうち乱れ、このごろ世にあらむ事の、すこしめづらしく、 ねぶたさ醒めぬべからむ、語りて聞かせたまへ。何となく翁 びたる心地して、世間の事もおぼつかなしや」
などのたまへ ど、めづらしき事とて、うち出できこえむ物語もおぼえねば、 かしこまりたるやうにて、みないと涼しき高欄に、背中押し つつさぶらひたまふ。 「いかで聞きしことぞや、大臣の外腹のむすめ尋ね出で てかしづきたまふなる、とまねぶ人ありしは、まことにや」 と、弁少将に問ひたまへば、 「ことごとしく、さまで言 ひなすべき事にもはべらざりけるを。この春のころほひ、夢- 語したまひけるを、ほの聞き伝へはべりける女の、我なむか こつべきことあると、名のり出ではべりけるを、中将の朝臣 なむ聞きつけて、まことにさやうに触ればひぬべき証やある

と、尋ねとぶらひはべりける。くはしきさまはえ知りはべら ず。げにこのごろめづらしき世語になむ人々もしはべるなる。 かやうのことこそ、人のため、おのづから家損なるわざには べりけれ」
と聞こゆ。まことなりけり、と思して、 「いと多 かめる列に離れたらむ後るる雁を、しひて尋ねたまふが、ふ くつけきぞ。いと乏しきに、さやうならむもののくさはひ、 見出でまほしけれど、名のりもものうき際とや思ふらん、さ らにこそ聞こえね。さても、もて離れたる事にはあらじ。ら うがはしく、とかく紛れたまふめりしほどに、底清くすまぬ 水にやどる月は、曇りなき やうのいかでかあらむ」と、 ほほ笑みてのたまふ。中将 の君も、くはしく聞きたま ふ事なれば、えしもまめだ たず。少将と藤侍従とは、

いとからしと思ひたり。 「朝臣や、さやうの落葉をだに拾 へ。人わろき名の後の世に残らむよりは、同じかざしにて慰 めむに、なでふことかあらむ」と、弄じたまふやうなり。か やうのことにてぞ、うはべはいとよき御仲の、昔よりさすが に隙ありける。まいて中将をいたくはしたなめて、わびさせ たまふつらさを思しあまりて、なまねたしとも漏り聞きたま へかしと、思すなりけり。  かく聞きたまふにつけても、 「対の姫君を見せたらむ時、 また侮らはしからぬ方にもてなされなむはや。いとものきら きらしく、かひあるところつきたまへる人にて、よしあしき けぢめも、けざやかにもてはやし、またもて消ち軽むること も、人にことなる大臣なれば、いかにものしと思ふらむ。お ぼえぬさまにて、この君をさし出でたらむに、え軽くは思さ じ。いときびしくもてなしてむ」など思す。  夕つけゆく風いと涼しくて、帰りうく若き人々は思ひたり。

「心やすくうち休み涼まむや。やうやうかやうの中に厭は れぬべき齢にもなりにけりや」とて、西の対に渡りたまへば、 君達みな御送りに参りたまふ。 源氏、西の対で和琴を弾き玉鬘と唱和する 黄昏時のおぼおぼしきに、同じ直衣どもな れば、何ともわきまへられぬに、大臣、姫- 君を、 「すこし、外出でたまへ」とて、忍 びて、 「少将、侍従などゐて参うで来たり。いと翔り来ま ほしげに思へるを、中将のいと実法の人にてゐて来ぬ、無心 なめりかし。この人々は、みな思ふ心なきならじ。なほなほ しき際をだに、窓の内なるほどは、ほどに従ひて、ゆかしく 思ふべかめるわざなれば、この家のおぼえ、内々のくだくだ しきほどよりは、いと世に過ぎて、ことごとしくなむ言ひ思 ひなすべかめる。方々ものすめれど、さすがに人のすき事言 ひ寄らむにつきなしかし。かくてものしたまふは、いかでさ やうならむ人の気色の、深さ浅さをも見むなど、さうざうし

きままに願ひ思ひしを、本意なむかなふ心地しける」
など、 ささめきつつ聞こえたまふ。  御前に、乱れがはしき前栽なども植ゑさせたまはず、撫子 の色をととのへたる、唐の、大和の、籬いとなつかしく結ひ なして、咲き乱れたる夕映えいみじく見ゆ。みな立ち寄りて 心のままにも折り取らぬを飽かず思ひつつやすらふ。 「有- 職どもなりな。心もちゐなども、とりどりにつけてこそめや すけれ。右の中将は、ましてすこししづまりて、心恥づかしき 気まさりたり。いかにぞや、おとづれきこゆや。はしたなく も、なさし放ちたまひそ」などのたまふ。中将の君は、かく よき中に、すぐれてをかしげになまめきたまへり。 「中将 を厭ひたまふこそ、大臣は本意なけれ。まじりものなく、き らきらしかめる中に、大君だつ筋にて、かたくななりとにや」 とのたまへば、 「来まさばといふ人もはべりけるを」と聞 こえたまふ。 「いで、その御肴もてはやされんさまは願は

しからず。ただ幼きどちの結びおきけん心も解けず、歳月隔 てたまふ心むけのつらきなり。まだ下臈なり、世の聞き耳軽 しと思はれば、知らず顔にてここに委せたまへらむに、うし ろめたくはありなましや」
など、呻きたまふ。さは、かかる 御心の隔てある御仲なりけり、と聞きたまふにも、親に知ら れたてまつらむ事のいつとなきは、あはれにいぶせく思す。  月もなきころなれば、燈籠に大殿油まゐれり。 「なほけ 近くて暑かはしや、篝火こそよけれ」とて、人召して、 「篝- 火の台一つ、こなたに」と召す。をかしげなる和琴のある、 ひき寄せたまひて、掻き鳴らしたまへば、律にいとよく調べ られたり。音もいとよく鳴れば、すこし弾きたまひて、 「かやうのことは御心に入らぬ筋にやと、月ごろ思ひおとし きこえけるかな。秋の夜の月影涼しきほど、いと奥深くはあ らで、虫の声に掻き鳴らし合はせたるほど、け近く今めかし き物の音なり。ことごとしき調べもてなし、しどけなしや。

この物よ、さながら多くの遊び物の音、拍子をととのへとり たるなむいとかしこき。大和琴とはかなく見せて、際もなく しおきたることなり。広く異国のことを知らぬ女のためとな むおぼゆる。同じくは、心とどめて物などに掻き合はせてな らひたまへ。深き心とて、何ばかりもあらずなから、またま ことに弾きうることは難きにやあらん。ただ今はこの内大臣 になずらふ人なしかし。ただはかなき同じすが掻きの音に、 よろづのものの音籠り通ひて、いふ方もなくこそ響きのぼ れ」
と語りたまへば、ほのぼの心えて、いかでと思すことな れば、いとどいぶかしくて、 「このわたりにてさりぬべき 御遊びのをりなどに、聞きはべりなんや。あやしき山がつな どの中にも、まねぶものあまたはべるなることなれば、おし なべて心やすくやとこそ思ひたまへつれ。さは、すぐれたる はさまことにやはべらむ」と、ゆかしげに、切に心に入れて 思ひたまへれば、 「さかし。あづまとぞ名も立ち下りたる

やうなれど、御前の御遊びにも、まづ書司を召すは、他の国 は知らず、ここにはこれを物の親としたるにこそあめれ。そ の中にも、親としつべき御手より弾きとりたまへらむは、心 ことなりなむかし。ここになども、さるべからむをりにはも のしたまひなむを、この琴に、手惜しまずなど、あきらかに掻 き鳴らしたまはむことや難からむ。物の上手は、いづれの道 も心やすからずのみぞあめる。さりともつひには聞きたまひ てむかし」
とて、調べすこし弾きたまふ。ことつひいと二な く、今めかしくをかし。 「これにもまされる音や出づらむ」 と、親の御ゆかしさたち添ひて、この事にてさへ、 「いかな らむ世に、さてうちとけ弾きたまはむを聞かむ」など思ひゐ たまへり。 「貫河の瀬々のやはらた」と、いとなつかしくうたひた まふ。 「親避くるつま」 は、すこしうち笑ひつつ、わざとも なく掻きなしたまひたるすが掻きのほど、いひ知らずおもし

ろく聞こゆ。 「いで弾きたまへ。才は人になむ恥ぢぬ。想- 夫恋ばかりこそ、心の中に思ひて、紛らはす人もありけめ、 面なくて、かれこれに合はせつるなむよき」と、切に聞こえ たまへど、さる田舎の隈にて、ほのかに京人と名のりける 古大君女の教へきこえければ、ひが事にもやとつつましくて 手触れたまはず。 「しばしも弾きたまはなむ。聞きとる事も や」と心もとなきに、この御ことによりぞ、近くゐざり寄り て、 「いかなる風の吹き添ひて、かくは響きはべるぞとよ」 とて、うち傾きたまへるさま、灯影にいとうつくしげなり。 笑ひたまひて、 「耳固からぬ人のためには、身にしむ風も 吹き添ふかし」とて、押しやりたまふ。いと心やまし。  人々近くさぶらへば、例の戯れ言もえ聞こえたまはで、 「撫子を飽かでもこの人々の立ち去りぬるかな。いかで、 大臣にも、この花園見せたてまつらむ。世もいと常なきを、 と思ふに。いにしへも、物のついでに語り出でたまへりしも、

ただ今のこととぞおぼゆる」
とて、すこしのたまひ出でたる にも、いとあはれなり。 「なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人  やたづねむ この事のわづらはしさにこそ、繭ごもりも心苦しう思ひきこ ゆれ」とのたまふ。君うち泣きて、 山がつの垣ほに生ひしなでしこのもとの根ざしをた   れかたづねん はかなげに聞こえないたまへるさま、げにいとなつかしく若 やかなり。 「来ざらましかば」とうち誦じたまひて、いと どしき御心は、苦しきまで、なほえ忍びはつまじく思さる。 源氏、玉鬘の取扱いに思い迷う 渡りたまふことも、あまりうちしきり、人 の見たてまつり咎むべきほどは、心の鬼に 思しとどめて、さるべきことをし出でて、 御文の通はぬをりなし。ただこの御事のみ、明け暮れ御心

にはかかりたり。なぞ、かくあいなきわざをして、やすから ぬもの思ひをすらむ、さ思はじとて、心のままにもあらば、 世の人の譏り言はむことの軽々しさ、わがためをばさるもの にて、この人の御ためいとほしかるべし、限りなき心ざしと いふとも、春の上の御おぼえに並ぶばかりは、わか心ながら えあるまじく思し知りたり。 「さてその劣りの列にては、何 ばかりかはあらむ。わが身ひとつこそ人よりはことなれ、見 む人のあまたが中にかかづらはむ末にては、何のおぼえかは たけからむ。ことなることなき納言の際の、二心なくて思は むには、劣りぬべきことぞ」と、みづから思し知るに、いと いとほしくて、 「宮、大将などにやゆるしてまし。さてもて 離れ、いざなひ取りてば、思ひも絶えなんや。言ふかひなき にても、さもしてむ」と思すをりもあり。されど渡りたまひ て、御容貌を見たまひ、今は御琴教へたてまつりたまふにさ へことつけて、近やかに馴れ寄りたまふ。姫君も、はじめこ

そむくつけく、うたてとも思ひたまひしか、かくてもなだら かに、うしろめたき御心はあらざりけりと、やうやう目馴れ て、いとしもうとみきこえたまはず、さるべき御答へも、馴 れ馴れしからぬほどに聞こえかはしなどして、見るままにい と愛敬づき、かをりまさりたまへれば、なほさてもえ過ぐし やるまじく思し返す。 「さば、また、さてここながらかしづき 据ゑて、さるべきをりをりにはかなくうち忍び、ものをも聞 こえて慰みなむや。かくまだ世馴れぬほどのわづらはしさこ そ心苦しくはありけれ、おのづから、関守強くとも、ものの 心知りそめ、いとほしき思ひなくて、わが心も思ひ入りなば、 繁くとも障らじかし」と思しよる。いとけしからぬことなり や。いよいよ心やすからず、思ひわたらむも苦しからむ。な のめに思ひ過ぐさむことの、とざまかくざまにも難きぞ、世 づかずむつかしき御語らひなりける。

内大臣、源氏に反発しつつ娘のことに苦慮 内の大殿は、この今の御むすめのことを、 殿の人もゆるさず軽み言ひ、世にもほきた ることと、譏りきこゆと聞きたまふに、少- 将の、事のついでに、太政大臣のさることやととぶらひたま ひしこと語りきこゆれば、 「さかし。そこにこそは、年ご ろ音にも聞こえぬ山がつの子迎へ取りて、ものめかしたつれ。 をさをさ人の上もどきたまはぬ大臣の、このわたりのことは、 耳とどめてぞおとしめたまふや。これぞおぼえある心地しけ る」とのたまふ。少将の 「かの西の対に据ゑたまへる人は、 いとこともなきけはひ見ゆるわたりになむはべるなる。兵部- 卿宮など、いたう心とどめてのたまひわづらふとか。おぼろ けにはあらじとなむ、人々推しはかりはべめる」と申したま へば、 「いで、それは、かの大臣の御むすめと思ふばか りのおぼえのいといみじきぞ。人の心みなさこそある世なめ れ。必ずさしもすぐれじ。人々しきほどならば、年ごろ聞こ

えなまし。あたら、大臣の、塵もつかずこの世には過ぎたま へる御身のおぼえありさまに、面だたしき腹に、むすめかし づきて、げに瑕なからむと、思ひやりめでたきがものしたま はぬは。おほかたの、子の少なくて、心もとなきなめりかし。 劣り腹なれど、明石のおもとの産み出でたるはしも、さる世 になき宿世にて、あるやうあらむと、おぼゆかし。その今姫- 君は、ようせずは、実の御子にもあらじかし。さすがにいと 気色あるところつきたまへる人にて、もてないたまふなら む」
と、言ひおとしたまふ。 「さていかか定めらるなる。 親王こそまつはし得たまはむ。もとよりとりわきて御仲よし、 人柄も警策なる御あはひどもならむかし」などのたまひては、 なほ姫君の御こと、飽かず口惜し。かやうに、心にくくもて なして、いかにしなさむなど、やすからずいぶかしがらせま しものをとねたければ、位さばかりと見ざらむかぎりは、ゆ るしがたく思すなりけり。大臣などもねむごろに口入れかへ

さひたまはむにこそは、負くるやうにてもなびかめと思すに、 男方は、さらに焦られきこえたまはず、心やましくなむ。 内大臣、雲居雁を訪れて、昼寝を戒める とかく思しめぐらすままに、ゆくりもなく 軽らかにはひ渡りたまへり。少将も御供に 参りたまふ。姫君は昼寝したまへるほどな り。羅の単衣を着たまひて臥したまへるさま、暑かはしくは 見えず、いとらうたげにささやかなり。透きたまへる肌つき など、いとうつくし。をかしげなる手つきして、扇を持たま へりけるながら、腕を枕にて、うちやられたる御髪のほど、 いと長くこちたくはあらねど、いとをかしき末つきなり。人- 人物の背後に寄り臥しつつうち休みたれば、ふともおどろい たまはず。扇を鳴らしたまへるに、何心もなく見上げたまへ るまみ、らうたげにて、頬つき赤めるも、親の御目にはうつ くしくのみ見ゆ。 「うたた寝はいさめきこゆるものを、 などか、いとものはかなきさまにては大殿籠りける。人々も

近くさぶらはで、あやしや。女は、身を常に心づかひして守 りたらむなんよかるべき。心やすくうち棄てざまにもてなし たる、品なきことなり。さりとて、いとさかしく身固めて、 不動の陀羅尼誦みて、印つくりてゐたらむも憎し。現の人に もあまりけ遠く、もの隔てがましきなど、気高きやうとても、 人憎く心うつくしくはあらぬわざなり。太政大臣の后がねの 姫君ならはしたまふなる教へは、よろづの事に通はしなだら めて、かどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくおぼめく事 もあらじと、ぬるらかにこそ掟てたまふなれ。げにさもある ことなれど、人として、心にも、 するわざにも、立ててなびく方 は方とあるものなれば、生ひ出 でたまふさまあらむかし。この 君の人となり、宮仕に出だし立 てたまはむ世の気色こそ、いと

ゆかしけれ」
などのたまひて、 「思ふやうに見たてまつ らむと思ひし筋は難うなりにたる御身なれど、いかで人笑は れならずしなしたてまつらむとなむ、人の上のさまざまなる を聞くごとに、思ひ乱れはべる。試み事にねむごろがらむ人 のねぎ言に、なしばしなびきたまひそ。思ふさまはべり」な ど、いとらうたしと思ひつつ聞こえたまふ。 「昔は何ごとも、 深くも思ひ知らで、なかなか、さし当りていとほしかりし事 の騒ぎにも、面なくて見えたてまつりけるよ」と、今ぞ、思 ひ出づるに、胸ふたがりていみじく恥づかしき。大宮よりも、 常に、おぼつかなきことを恨みきこえたまへど、かくのたま ふがつつましくて、え渡り見たてまつりたまはず。 内大臣、近江の君を弘徽殿女御に託す 大臣、この北の対の今君を、 「いかにせむ、 さかしらに迎へゐて来て、人かく譏るとて 返し送らむもいと軽々しく、もの狂ほしき やうなり。かくて籠めおきたれば、まことにかしづくべき心

あるかと、人の言ひなすなるもねたし。女御の御方などにま じらはせて、さるをこの者にしないてむ。人のいとかたはな るものに言ひおとすなる容貌、はた、いとさ言ふばかりにや はある」
など思して、女御の君に、 「かの人参らせむ。 見苦しからむことなどは、老いしらへる女房などして、つつ まず言ひ教へさせたまひて御覧ぜよ。若き人々の言ぐさには、 な笑はせさせたまひそ。うたてあはつけきやうなり」と、笑 ひつつ聞こえたまふ。 「などか、いとさことの外にははべ らむ。中将などのいと二なく思ひはべりけんかね言にたらず といふばかりにこそははべらめ。かくのたまひ騒ぐを、はし たなう思はるるにも、かたへはかかやかしきにや」と、いと 恥づかしげにて聞こえさせたまふ。この御ありさまはこまか にをかしげさはなくて、いとあてに澄みたるものの、なつか しきさま添ひて、おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけ おぼえて、残り多かりげにほほ笑みたまへるぞ、人にことな

りける、と見たてまつりたまふ。 「中将の、いとさ言へ ど、心若きたどり少なさに」など申したまふも、いとほしげ なる人の御おぼえかな。 内大臣、近江の君を訪れる滑稽な問答 やがて、この御方のたよりに、たたずみお はしてのぞきたまへば、簾高くおし張りて、 五節の君とて、ざれたる若人のあると、双- 六をぞ打ちたまふ。手をいと切におしもみて、 「小賽、 小賽」と祈ふ声ぞ、いと舌疾きや。あな、うたて、と思して、 御供の人の前駆追ふをも、手かき制したまうて、なほ妻戸の 細目なるより、障子の開きあひたるを見入れたまふ。このい とこも、はたけしきはやれる、 「御返しや、御返しや」と、 筒をひねりて、とみにも打ち出でず。中に思ひはありやすら む、いとあさへたるさまどもしたり。容貌はひぢぢかに、愛- 敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のい と近やかなると、声のあはつけさとに損はれたるなめり。と

りたててよしとはなけれど、他人とあらがふべくもあらず、 鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし。 「かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなど やある。こと繁くのみありて、とぶらひ参うでずや」とのた まへば、例のいと舌疾にて、 「かくてさぶらふは、何 のもの思ひかはべらむ。年ごろおぼつかなく、ゆかしく思ひ きこえさせし御顔、常にえ見たてまつらぬばかりこそ、手打 たぬ心地しはべれ」と聞こえたまふ。 「げに。身に近く 使ふ人もをさをさなきに、さやうにても見ならしたてまつら んと、かねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけ り。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかかるも、おのづ から立ちまじらひて、人の耳をも目をも、必ずしもとどめぬ ものなれば、心やすかべかめれ。それだにその人のむすめ、 かの人の子と知らるる際になれば、親兄弟の面伏せなるたぐ ひ多かめり。まして」とのたまひさしつる、御気色の恥づか

しきも知らず、 「何か、そは。ことごとしく思ひたまへ てまじらひはべらばこそ、ところせからめ。御大壼とりにも、 仕うまつりなむ」と聞こえたまへば、え念じたまはで、う ち笑ひたまひて、 「似つかはしからぬ役ななり。かくた まさかに逢へる親の孝せむの心あらば、このもののたまふ声 を、すこしのどめて聞かせたまへ。さらば命も延びなむか し」と、をこめいたまへる大臣にて、ほほ笑みてのたまふ。 「舌の本性にこそははべらめ。幼くはべりし時だに、 故母の常に苦しがり教へはべりし。妙法寺の別当大徳の産屋 にはべりける、あえものとなん嘆きはべりたうびし。いかで この舌疾さやめはべらむ」と思ひ騒ぎたるも、いと孝養の心- 深く、あはれなりと見たまふ。 「そのけ近く入り立ちた りけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。ただその罪の報な なり。音*言吃とぞ、大乗謗りたる罪にも、数へたるかし」 とのたまひて、 「子ながら、恥づかしくおはする御さまに、

見えたてまつらむこそ恥づかしけれ。いかに定めて、かくあ やしきけはひも尋ねず迎へ寄せけむ」
と思し、人々もあまた 見つぎ、言ひ散らさんこと、と思ひ返したまふものから、 「女御、里にものしたまふ。時々渡り参りて、人のありさま なども見ならひたまへかし。ことなることなき人も、おのづ から、人にまじらひ、さる方になれば、さてもありぬかし。 さる心して見えたてまつりたまひなんや」とのたまへば、 「いとうれしきことにこそはべるなれ。ただいかでもい かでも、御方々に数まへ知ろしめされんことをなん、寝ても 覚めても、年ごろ何ごとを思ひたまへつるにもあらず。御ゆ るしだにはべらば、水を汲み、戴きても仕うまつりなん」と、 いとよげにいますこしさへづれば、言ふかひなしと思して、 「いとしか下り立ちて薪拾ひたまはずとも、参りたまひな ん、ただかのあえものにしけん法の師だに遠くは」と、をこ 言にのたまひなすをも知らず、同じき大臣と聞こゆる中にも、

いときよげにものものしく、華やかなるさまして、おぼろけ の人見えにくき御気色をも見知らず。 「さて、いつか女- 御殿には参りはべらんずる」と聞こゆれば、 「よろしき 日などやいふべからむ。よし、ことごとしくは何かは。さ思 はれば、今日にても」と、のたまひ棄てて渡りたまひぬ。  よき四位五位たちの、いつききこえて、うち身じろきたま ふにもいと厳しき御勢なるを見送りきこえて、 「いで、 あなめでたのわが親や。かかりける種ながら、あやしき小家 に生ひ出でけること」とのたまふ。五節、 「あまりことごと しく恥づかしげにぞおはする。よろしき親の、思ひかしづか むにぞ、尋ね出でられたまはまし」と言ふもわりなし。 「例の、君の、人の言ふこと破りたまひて、めざまし。今は ひとつ口に言葉なまぜられそ。あるやうあるべき身にこそあ めれ」と、腹立ちたまふ顔やう、け近く愛敬づきて、うちそ ぼれたるは、さる方にをかしく罪ゆるされたり。ただいと鄙

び、あやしき下人の中に生ひ出でたまへれば、もの言ふさま も知らず。ことなるゆゑなき言葉をも、声のどやかにおし静 めて言ひ出だしたるは、うち聞く耳ことにおぼえ、をかしか らぬ歌語をするも、声づかひつきづきしくて、残り思はせ、 本末惜しみたるさまにてうち誦じたるは、深き筋思ひ得ぬほ どの、うち聞きにはをかしかなりと耳もとまるかし。いと心- 深くよしあることを言ひゐたりとも、よろしき心地あらむと 聞こゆべくもあらず。あはつけき声ざまにのたまひ出づる言- 葉こはごはしく、言葉たみて、わがままに誇りならひたる乳- 母の懐にならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつ るるなりけり。いと言ふかひなくはあらず、三十文字あまり、 本末あはぬ歌、口疾くうちつづけなどしたまふ。 近江の君と弘徽殿女御、珍妙な歌を贈答 「さて女御殿に参れとのたまひつるを、 渋々なるさまならば、ものしくもこそ思せ。 夜さり参うでむ。大臣の君、天下に思すと

も、この御方々の、すげなくしたまはむには、殿の内には立 てりなんはや」
とのたまふ。御おぼえのほど、いと軽らかな りや。まづ御文奉りたまふ。 葦垣のま近きほどにはさぶらひながら、今まで影   ふむばかりのしるしもはべらぬは、勿来の関をや据ゑさ   せたまへらむとなん。知らねども、武蔵野と言へばかし   こけれども。あなかしこや、あなかしこや。 と点がちにて、裏には、 「まことや、暮にも参りこむと思う たまへ立つは、厭ふにはゆるにや。いでや、いでや、あやし きはみなせ川にを」とて、また端にかくぞ、 「草わかみひたちの浦のいかが崎いかであひ見んたごの   浦浪 大川水の」と、青き色紙一重ねに、いと草がちに、怒れる手 の、その筋とも見えず漂ひたる書きざまも、下長に、わりなく ゆゑばめり。行のほど、端ざまに筋かひて、倒れぬべく見ゆ

るを、うち笑みつつ見て、さすがにいと細く小さく巻き結び て、撫子の花につけたり。樋洗童はしも、いと馴れてきよげ なる、今参りなりけり。  女御の御方の台盤所に寄りて、 「これまゐらせたまへ」と 言ふ。下仕見知りて、 「北の対にさぶらふ童なりけり」とて、 御文取り入る。大輔の君といふ、持て参りて、ひき解きて御- 覧ぜさす。女御ほほ笑みてうち置かせたまへるを、中納言の 君といふ、近くさぶらひて、 そばそば見けり。 「い と今めかしき御文の気色に もはべめるかな」と、ゆか しげに思ひたれば、 「草 の文字はえ見知らねばにや あらむ、本末なくも見ゆる かな」とて賜へり。 「返

り事、かくゆゑゆゑしく書かずは、わろしとや思ひおとされ ん。やがて書きたまへ」
と譲りたまふ。持て出でてこそあら ね、若き人は、ものをかしくて、みなうち笑ひぬ。御返りこ へば、 「をかしきことの筋にのみまつはれてはべめれば、 聞こえさせにくくこそ。宣旨書きめきては、いとほしから む」とて、ただ、御文めきて書く。 「近きしるしなきおほつ かなさはうらめしく、   ひたちなるするがの海のすまの浦に浪立ち出でよ箱崎の   松」 と書きて、読みきこゆれば、 「あなうたて。まことにみづ からのにもこそ言ひなせ」と、かたはらいたげに思したれど、 「それは聞かむ人わきまへはべりなむ」とて、おしつつ みて出だしつ。  御方見て、 「をかしの御口つきや。まつとのたまへる を」とて、いとあまえたる薫物の香を、かへすがへすたきし

めゐたまへり。紅といふもの、いと赤らかにかいつけて、髪- 梳りつくろひたまへる、さる方ににぎははしく、愛敬づきた り。御対面のほど、さし過ぐしたる事もあらむかし。 Flares 近江の君の噂を聞き、源氏これを批評する

このごろ、世の人の言ぐさに、内の大殿の 今姫君と、事にふれつつ言ひ散らすを、源- 氏の大臣聞こしめして、 「ともあれかく もあれ、人見るまじくて籠りゐたらむ女子を、なほざりのか ごとにても、さばかりにものめかし出でて、かく人に見せ言 ひ伝へらるるこそ、心得ぬことなれ。いと際々しうものした まふあまりに、深き心をも尋ねずもて出でて、心にもかなは ねば、かくはしたなきなるべし。よろづの事、もてなしがら にこそ、なだらかなるものなめれ」と、いとほしがりたまふ。  かかるにつけても、「げによくこそ」と、「親と聞こえなが らも、年ごろの御心を知りきこえず、馴れたてまつらましに、 恥ぢがましきことやあらまし」と、対の姫君思し知るを、右-

近もいとよく聞こえ知らせけり。憎き御心こそ添ひたれど、 さりとて、御心のままに押したちてなどもてなしたまはず、 いとど深き御心のみまさりたまへば、やうやうなつかしうう ちとけきこえたまふ。 初秋、源氏と玉鬘、篝火の歌を詠みかわす 秋になりぬ。初風涼しく吹き出でて、背子 が衣もうらさびしき心地したまふに、忍び かねつつ、いとしばしば渡りたまひて、お はしまし暮らし、御琴なども習はしきこえたまふ。五六日の 夕月夜はとく入りて、すこし雲隠るるけしき、荻の音もやう やうあはれなるほどになりにけり。御琴を枕にて、もろとも に添ひ臥したまへり。かかるたぐひあらむや、とうち嘆きが ちにて夜ふかしたまふも、人の咎めたてまつらむことを思せ ば、渡りたまひなむとて、御前の篝火のすこし消え方なるを、 御供なる右近大夫を召して、点しつけさせたまふ。  いと涼しげなる遣水のほとりに、けしきことに広ごり伏し

たる檀の木の下に、打松おどろおどろしからぬほどに置きて、 さし退きて点したれば、御前の方は、いと涼しくをかしきほ どなる光に、女の御さま見るにかひあり。御髪の手当りなど、 いと冷やかにあてはかなる心地して、うちとけぬさまにもの をつつましと思したる気色、いとらうたげなり。帰りうく思 しやすらふ。 「絶えず人さぶらひて点しつけよ。夏の、月 なきほどは、庭の光なき、いとものむつかしく、おぼつかな しや」とのたまふ。 「篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬほのほな   りけれ いつまでとかや。ふすぶるな らでも、苦しき下燃えなりけ り」と聞こえたまふ。女君、 あやしのありさまや、と思す に、

「行く方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙と   ならば 人のあやしと思ひはべらむこと」と、わびたまへば、 「く はや」とて出でたまふに、東の対の方に、おもしろき笛の音、 筝に吹きあはせたり。 「中将の、例の、あたり離れぬどち、 遊ぶにぞあなる。頭中将にこそあなれ。いとわざとも吹きな る音かな」とて、立ちとまりたまふ。 玉鬘、兄弟たちの奏楽をはからずも聞く 御消息、 「こなたになむ、いと影涼しき 篝火にとどめられてものする」とのた まへれば、うち連れて三人参りたまへり。 「風の音秋になりにけり、と聞こえつる笛の音に忍ばれで なむ」とて、御琴ひき出でて、なつかしきほどに弾きたまふ。 源中将は、盤渉調にいとおもしろく吹きたり。頭中将、心づ かひして出だしたて難うす。 「おそし」とあれば、弁少将 拍子うち出でて、忍びやかにうたふ声、鈴虫にまがひたり。

二返りばかりうたはせたまひて、御琴は中将に譲らせたまひ つ。げにかの父大臣の御爪音に、をさをさ劣らず、華やかに おもしろし。 「御簾の内に、物の音聞き分く人ものしたま ふらんかし。今宵は盃など心してを。盛り過ぎたる人は、酔- 泣きのついでに、忍ばぬこともこそ」とのたまへば、姫君 もげにあはれと聞きたまふ。絶えせぬ仲の御契り、おろかな るまじきものなればにや、この君たちを人知れず目にも耳に もとどめたまへど、かけてさだに思ひ寄らず、この中将は、 心の限り尽くして、思ふ筋にぞ、かかるついでにも、え忍び はつまじき心地すれど、さまよくもてなして、をさをさ心と けても掻きわたさず。 The Typhoon 六条院の中秋、野分にわかに襲来する

中宮の御前に、秋の花を植ゑさせたまへる こと、常の年よりも見どころ多く、色種を 尽くして、よしある黒木赤木の籬を結ひま ぜつつ、同じき花の枝ざし姿、朝夕露の光も世の常ならず、 玉かとかかやきて、造りわたせる野辺の色を見るに、はた春 の山も忘られて、涼しうおもしろく、心もあくがるるやうな り。春秋のあらそひに、昔より秋に心寄する人は数まさりけ るを、名だたる春の御前の花園に心寄せし人々、またひき返 し移ろふ気色、世のありさまに似たり。  これを御覧じつきて里居したまふほど、御遊びなどもあら まほしけれど、八月は故前坊の御忌月なれば、心もとなく思 しつつ明け暮るるに、この花の色まさるけしきどもを御覧ず

るに、野分例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹 き出づ。花どものしをるるを、いとさしも思ひしまぬ人だに、 あなわりなと思ひ騒がるるを、まして、草むらの露の玉の緒 乱るるままに、御心まどひもしぬべく思したり。「覆ふばかり の袖」は、秋の空にしもこそ欲しげなりけれ。暮れゆくまま に、物も見えず吹き迷はして、いとむくつけければ、御格子 など参りぬるに、うしろめたくいみじ、と花の上を思し嘆く。 夕霧六条院にまいり、紫の上をかいま見る 南の殿にも、前栽つくろはせたまひけるを りにしも、かく吹き出でて、もとあらの小- 萩はしたなく待ちえたる風のけしきなり。 折れ返り、露もとまるまじく吹き散らすを、すこし端近くて 見たまふ。大臣は、姫君の御方におはしますほどに、中将の 君参りたまひて、東の渡殿の小障子の上より、妻戸の開きた る隙を何心もなく見入れたまへるに、女房のあまた見ゆれば、 立ちとまりて音もせで見る。御屏風も、風のいたく吹きけれ

ば、押したたみ寄せたるに、見通しあらはなる廂の御座にゐ たまへる人、ものに紛るべくもあらず、気高くきよらに、さ とにほふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の 咲き乱れたるを見る心地す。あぢきなく、見たてまつるわが 顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづ らしき人の御さまなり。御簾の吹き上げらるるを、人々押へ て、いかにしたるにかあらむ、うち笑ひたまへる、いといみ じく見ゆ。花どもを心苦しがりて、え見棄てて入りたまはず。 御前なる人々も、さまざま にものきよげなる姿どもは 見わたさるれど、目移るべ くもあらず。大臣のいとけ 遠く遙かにもてなしたまへ るは、かく、見る人ただに はえ思ふまじき御ありさま

を、至り深き御心にて、もしかかることもやと思すなりけり、 と思ふに、けはひ恐ろしうて、立ち去るにぞ、西の御方より、 内の御障子ひき開けて渡りたまふ。 「いとうたて、あわたたしき風なめり。御格子おろして よ。男どもあるらむを、あらはにもこそあれ」と聞こえたま ふを、また寄りて見れば、もの聞こえて、大臣もほほ笑みて、 見たてまつりたまふ。親ともおぼえず、若くきよげになまめ きて、いみじき御容貌のさかりなり。女もねびととのひ、飽 かぬことなき御さまどもなるを身にしむばかりおぼゆれど、 この渡殿の格子も吹き放ちて、立てる所のあらはになれば、 恐ろしうて立ち退きぬ。今参れるやうにうち声づくりて、簀- 子の方に歩み出でたまへれば、 「さればよ。あらはなりつ らむ」とて、かの妻戸の開きたりけるよ、と今ぞ見とがめた まふ。 「年ごろかかる事のつゆなかりつるを。風こそげに巌 も吹き上げつべきものなりけれ。さばかりの御心どもを騒が

して、めづらしくうれしき目を見つるかな」
とおぼゆ。  人々参りて、 「いといかめしう吹きぬべき風にはべり。艮 の方より吹きはべれば、この御前はのどけきなり。馬場殿、 南の釣殿などは、あやふげになむ」とて、とかく事行ひのの しる。 「中将はいづこよりものしつるぞ」 「三条宮には べりつるを、風いたく吹きぬべし、と人々の申しつれば、お ぼつかなさに参りはべりつる。かしこにはまして心細く、風 の音をも、今はかへりて、稚き子のやうに怖ぢたまふめれば、 心苦しさにまかではべりなむ」と申したまへば、 「げに、 はや参うでたまひね。老いもていきて、また稚うなること、 世にあるまじきことなれど、げにさのみこそあれ」などあは れがりきこえたまひて、 「かく騒がしげにはべめるを、こ の朝臣さぶらへば、と思ひたまへ譲りてなむ」と御消息聞こ えたまふ。 夕霧三条宮に泊まり、紫の上を思い続ける

道すがらいりもみする風なれど、うるはし くものしたまふ君にて、三条宮と六条院と に参りて、御覧ぜられたまはぬ日なし。内- 裏の御物忌などにえ避らず籠りたまふべき日よりほかは、い そがしき公事節会などの、暇いるべく事繁きにあはせても、 まづこの院に参り、宮よりぞ出でたまひければ、まして今日、 かかる空のけしきにより、風のさきにあくがれ歩きたまふも あはれに見ゆ。  宮いとうれしう頼もしと待ちうけたまひて、 「ここらの 齢に、まだかく騒がしき野分にこそあはざりつれ」と、ただ わななきにわななきたまふ。大きなる木の枝などの折るる音 も、いとうたてあり。殿の瓦さへ残るまじく吹き散らすに、 「かくてものしたまへること」と、かつはのたまふ。そこ らところせかりし御勢のしづまりて、この君を頼もし人に 思したる、常なき世なり。今もおほかたのおぼえの薄らぎた

まふことはなけれど、内の大殿の御けはひは、なかなかすこ し疎くぞありける。  中将、夜もすがら荒き風の音にも、すずろにものあはれな り。心にかけて恋しと思ふ人の御事はさしおかれて、ありつ る御面影の忘られぬを、 「こはいかにおぼゆる心ぞ。あるま じき思ひもこそ添へ。いと恐ろしきこと」とみづから思ひ紛 らはし、他事に思ひ移れど、なほふとおぼえつつ、 「来し方 行く末あり難くもものしたまひけるかな。かかる御仲らひに、 いかで東の御方、さるものの数にて立ち並びたまひつらむ。 たとしへなかりけりや、あないとほし」とおぼゆ。大臣の御- 心ばへを、あり難しと思ひ知りたまふ。人柄のいとまめやか なれば、似げなさを思ひ寄らねど、 「さやうならむ人をこそ、 同じくは見て明かし暮らさめ。限りあらむ命のほども、いま すこしは必ず延びなむかし」と思ひつづけらる。 夕霧、源氏と紫の上の寝所近くにまいる

暁方に風すこししめりて、むら雨のやう に降り出づ。 「六条院には、離れたる屋ど も倒れたり」など人々申す。 「風の吹き舞 ふほど、広くそこら高き心地する院に、人々、おはします殿 のあたりにこそ繁けれ、東の町などは、人少なに思されつら む」と驚きたまひて、まだほのぼのとするに参りたまふ。道 のほど、横さま雨いと冷やかに吹き入る。空のけしきもすご きに、あやしくあくがれたる心地して、 「何ごとぞや。また わが心に思ひ加はれるよ」と思ひ出づれば、いと似げなきこ となりけり。あなもの狂ほしと、とざまかうざまに思ひつつ、 東の御方にまづ参うでたまへれば、怖ぢ困じておはしけるに、 とかく聞こえ慰めて、人召して所どころ繕はすべきよしなど 言ひおきて、南の殿に参りたまへれば、まだ御格子も参らず。 おはしますに当れる高欄に押しかかりて見わたせば、山の木 どもも吹きなびかして、枝ども多く折れ伏したり。草むらは

さらにも言はず、檜皮瓦、所どころの立蔀透垣などやうの もの乱りがはし。日のわづかにさし出でたるに、愁へ顔なる 庭の露きらきらとして、空はいとすごく霧りわたれるに、そ こはかとなく涙の落つるをおし拭ひ隠して、うちしはぶきた まへれば、 「中将の声づくるにぞあなる。夜はまだ深から むは」とて、起きたまふなり。何ごとにかあらん、聞こえた まふ声はせで、大臣うち笑ひたまひて、 「いにしへだに知 らせたてまつらずなりにし暁の別れよ。今ならひたまはむに、 心苦しからむ」と て、とばかり語ら ひきこえたまふけ はひども、いとを かし。女の御答へ は聞こえねど、ほ のぼの、かやうに

聞こえ戯れたまふ言の葉のおもむきに、ゆるびなき御仲らひ かな、と聞きゐたまへり。  御格子を御手づからひき上げたまへば、け近きかたはらい たさに、立ち退きてさぶらひたまふ。 「いかにぞ。昨夜、 宮は待ち喜びたまひきや」 「しか。はかなきことにつけて も、涙もろにものしたまへば、いと不便にこそはべれ」と申 したまへば、笑ひたまひて、 「いまいくばくもおはせじ。 まめやかに仕うまつり見えたてまつれ。内大臣はこまかにし もあるまじうこそ、愁へたまひしか。人柄あやしう華やかに、 男々しき方によりて、親などの御孝をも、巌しきさまをばた てて、人にも見おどろかさんの心あり、まことにしみて深き ところはなき人になむものせられける。さるは、心の隈多く、 いと賢き人の、末の世にあまるまで才たぐひなく、うるさな がら、人としてかく難なきことは、難かりける」などのた まふ。 夕霧、秋好中宮を見舞い、源氏に復命する

「いとおどろおどろしかりつる風に、中- 宮に、はかばかしき宮司などさぶらひつら むや」とて、この君して御消息聞こえたま ふ。 「夜の風の音は、いかが聞こしめしつらむ。吹き乱り はべりしに、おこりあひはべりて、いとたへがたき。ためら ひはべるほどになむ」と聞こえたまふ。  中将下りて、中の廊の戸より通りて、参りたまふ。朝ぼら けの容貌、いとめでたくをかしげなり。東の対の南のそばに 立ちて、御前の方を見やりたまへば、御格子二間ばかり上げ て、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾捲き上げて人々ゐた り。高欄に押しかかりつつ、若やかなるかぎりあまた見ゆ。 うちとけたるはいかがあらむ。さやかならぬ明けぐれのほど、 いろいろなる姿は、いづれともなくをかし。童べ下ろさせた まひて、虫の籠どもに露かはせたまふなりけり。紫苑撫子、 濃き薄き衵どもに、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたる

さまにて、四五人連れて、ここかしこの草むらによりて、いろ いろの籠もを持てさまよひ、撫子などのいとあはれげなる 枝ども取りもてまゐる、霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。 吹き来る追風は、紫苑ことごとに匂ふ空も香のかをりも、触 ればひたまへる御けはひにやと、いと思ひやりめでたく、心 げさうせられて、立ち出でにくけれど、忍びやかにうちおと なひて歩み出でたまへるに、人々けざやかにおどろき顔には あらねど、みなすべり入りぬ。御参りのほどなど、童なりし に入り立ち馴れたまへる、女房などもいとけうとくはあらず。 御消息啓せさせたまひて、宰相の君、内侍などけはひすれば、 私事も忍びやかに語らひたまふ。これはた、さ言へど気高 く住みたるけはひありさまを見るにも、さまざまにもの思ひ 出でらる。  南の殿には、御格子まゐりわたして、昨夜見棄て難かりし 花どもの、行く方も知らぬやうにてしをれ臥したるを見たま

ひけり。中将御階にゐたまひて、御返り聞こえたまふ。 「荒き風をもふせがせたまふべくやと、若々しく心細くおぼ えはべるを、今なむ慰みはべりぬる」と聞こえたまへれば、 「あやしくあえかにおはする宮なり。女どちは、もの恐ろ しく思しぬべかりつる夜のさまなれば、げにおろかなりとも 思いつらむ」とて、やがて参りたまふ。  御直衣など奉るとて、御簾ひき上げて入りたまふに、短き 御几帳ひき寄せて、はつかに見ゆる御袖口は、さにこそあら 、 めと思ふに、胸つぶつぶと鳴る心地するもうたてあれば、外 ざまに見やりつ。殿、御鏡など見たまひて、忍びて、 「中- 将の朝明の姿はきよげなりな。ただ今はきびはなるべきほど を、かたくなしからず見ゆるも、心の闇にや」とて、わが御- 顔は、旧り難くよしと見たまふべかめり。いといたう心げさ うしたまひて、 「宮に見えたてまつるは、恥づかしうこそ あれ。何ばかりあらはなるゆゑゆゑしさも見えたまはぬ人の、

奥ゆかしく心づかひせられたまふぞかし。いとおほどかに女 しきものから、気色づきてぞおはするや」
とて、出でたまふ に、中将ながめ入りて、とみにもおどろくまじき気色にてゐ たまへるを、心鋭き人の御目にはいかが見たまひけむ、たち 返り、女君に、 「昨日、風の紛れに、中将は見たてまつり やしてけん。かの戸の開きたりしによ」とのたまへば、面う ち赤みて、 「いかでかさはあらむ。渡殿の方には、人の 音もせざりしものを」と聞こえたまふ。 「なほあやし」と 独りごちて、渡りたまひぬ。  御簾の内に入りたまひぬれば、中将、渡殿の戸口に人々の けはひするに寄りて、ものなど言ひ戯るれど、思ふことの筋- 筋嘆かしくて、例よりもしめりてゐたまへり。 源氏、明石の君を訪れ、早早に帰る こなたより、やがて北に通りて、明石の御- 方を見やりたまへば、はかばかしき家司だ つ人なども見えず、馴れたる下仕どもぞ、

草の中にまじりて歩く。童べなど、をかしき衵姿うちとけて、 心とどめとりわき植ゑたまふ龍胆朝顔の這ひまじれる籬も、 みな散り乱れたるを、とかくひき出で尋ぬるなるべし。もの のあはれにおぼえけるままに、筝の琴をかきまさぐりつつ、 端近うゐたまへるに、御前駆追ふ声のしければ、うちとけな えばめる姿に、小袿ひきおとして、けぢめ見せたる、いとい たし。端の方に突いゐたまひて、風の騒ぎばかりをとぶらひ たまひて、つれなく立ち帰りたまふ。心やましげなり。 おほかたに荻の葉すぐる風の音もうき身ひとつにし   む心ちして と独りごちけり。 夕霧、源氏と玉鬘の寄り添う姿を見て驚く 西の対には、恐ろしと思ひ明かしたまひけ るなごりに寝過ぐして、今ぞ鏡なども見 たまひける。 「ことごとしく前駆な追ひ そ」とのたまへば、ことに音せで入りたまふ。屏風などもみ

なたたみ寄せ、物しどけなくしなしたるに、日の華やかにさ し出でたるほど、けざけざとものきよげなるさましてゐたま へり。近くゐたまひて、例の、風につけても同じ筋にむつか しう聞こえ戯れたまへば、たへずうたてと思ひて、 「かう 心憂ければこそ、今宵の風にもあくがれなまほしくはべり つれ」と、むつかりたまへば、いとよくうち笑ひたまひて、 「風につきてあくがれたまはむや、軽々しからむ。さりと もとまる方ありなむかし。やうやうかかる御心むけこそ添ひ にけれ。ことわりや」とのたまへば、げに、うち思ひのまま に聞こえてけるかな、と思して、みづからもうち笑みたまへ る、いとをかしき色あひ頬つきなり。酸漿などいふめるやう にふくらかにて、髪のかかれる隙々うつくしうおぼゆ。まみ のあまりわららかなるぞ、いとしも品高く見えざりける。そ の外はつゆ難つくべうもあらず。  中将、いとこまやかに聞こえたまふを、いかでこの御容貌

見てしがなと思ひわたる心にて、隅の間の御簾の、几帳は添 ひながらしどけなきを、やをらひき上げて見るに、紛るる物 どもも取りやりたれば、いとよく見ゆ。かく戯れたまふけし きのしるきを、あやしのわざや、親子と聞こえながら、かく 懐離れず、もの近かべきほどかは、と目とまりぬ。見やつ けたまはむ、と恐ろしけれど、あやしきに心もおどろきて、 なほ見れば、柱がくれにすこし側みたまへりつるを、引き 寄せたまへるに、御髪のなみ寄りて、はらはらとこぼれかか りたるほど、女もいとむつかしく苦しと思うたまへる気色な がら、さすがにいとなごやかなるさまして、寄りかかりたま へるは、ことと馴れ馴れしきにこそあめれ。 「いであなうた て。いかなることにかあらむ。思ひ寄らぬ隈なくおはしける 御心にて、もとより見馴れ生ほしたてたまはぬは、かかる御- 思ひ添ひたまへるなめり。むべなりけりや。あなうとまし」 と思ふ心も恥づかし。女の御さま、げにはらからといふとも、

すこし立ち退きて、異腹ぞかしなど思はむは、などか心あや まりもせざらむ、とおぼゆ。昨日見し御けはひには、け劣り たれど、見るに笑まるるさまは、立ちも並びぬべく見ゆる。 八重山吹の咲き乱れたる盛りに露のかかれる夕映えぞ、ふと 思ひ出でらるる。をりにあはぬよそへどもなれど、なほうち おぼゆるやうよ。花は限りこそあれ、そそけたる蘂などもま じるかし、人の御容貌のよきは、たとへん方なきものなりけ り。御前に人も出で来ず、いとこまやかにうちささめき語ら ひきこえたまふに、いかがあらむ、まめだちてぞ立ちたまふ。 女君、 吹きみだる風のけしきに女郎花しをれしぬべき心地  こそすれ くはしくも聞こえぬに、うち誦じたまふをほの聞くに、憎き もののをかしければ、なほ見はてまほしけれど、近かりけり と見えたてまつらじと思ひて、立ち去りぬ。御返り、

「した露になびかましかば女郎花あらき風にはしをれ   ざらまし なよ竹を見たまへかし」など、ひが耳にやありけむ。聞きよ くもあらずぞ。 源氏、夕霧を従え、花散里を見舞う 東の御方へ、これよりぞ渡りたまふ。今- 朝の朝寒なるうちとけわざにや、物裁ちな どするねび御達、御前にあまたして、細櫃 めくものに、綿ひきかけてまさぐる若人どもあり。いときよ らなる朽葉の羅、今様色の二なく擣ちたるなど、ひき散らし たまへり。 「中将の下襲か。 御前の壼前栽の宴もとまりぬら むかし。かく吹き散らしてむに は、何ごとかせられむ。すさま じかるべき秋なめり」などのた まひて、何にかあらむ、さまざ

まなるものの色どもの、いときよらなれば、かやうなる方は、 南の上にも劣らずかしと思す。御直衣の花文綾を、このごろ 摘み出だしたる花して、はかなく染め出でたまへる、いとあ らまほしき色したり。 「中将にこそ、かやうにては着せた まはめ。若き人のにてめやすかめり」などやうのことを聞こ えたまひて渡りたまひぬ。 夕霧、明石の姫君を訪れ、その容姿を見る むつかしき方々めぐりたまふ御供に歩きて、 中将はなま心やましう、書かまほしき文な ど、日たけぬるを思ひつつ、姫君の御方に 参りたまへり。「まだあなたになむおはします。風に怖ぢ させたまひて、今朝はえ起き上りたまはざりつる」と、御- 乳母ぞ聞こゆる。「もの騒がしげなりしかば、宿直も仕う まつらむと思ひたまへしを、宮のいとも心苦しう思いたりし かばなむ。雛の殿はいかがおはすらむ」と問ひたまへば、人- 人笑ひて、「扇の風だにまゐれば、いみじきことに思いたる

を、ほとほとしくこそ吹き乱りはべりしか。この御殿あつか ひにわびにてはべり」
など語る。 「ことごとしからぬ紙や はべる。御局の硯」と請ひたまへば、御廚子に寄りて、紙一- 巻、御硯の蓋に取りおろして奉れば、 「いな、これはかた はらいたし」とのたまへど、北の殿のおぼえを思ふに、すこ しなのめなる心地して文書きたまふ。紫の薄様なりけり。墨、 心とどめて押し磨り、筆のさきうち見つつ、こまやかに書き やすらひたまへる、いとよし。されど、あやしく定まりて、 憎き口つきこそものしたまへ。 風さわぎむら雲まがふ夕ベにもわするる間なく忘ら   れぬ君 吹き乱れたる刈萱につけたまへれば、人々、 「交野の少将は、 紙の色にこそととのへはべりけれ」と聞こゆ。 「さばかり の色も思ひわかざりけりや。いづこの野辺のほとりの花」な ど、かやうの人々にも、言少なに見えて、心解くべくももて

なさず、いとすくすくしう気高し。またも書いたまうて、馬- 助に賜へれば、をかしき童、またいと馴れたる御随身などに、 うちささめきて取らするを、若き人々ただならずゆかしがる。  渡らせたまふとて、人々うちそよめき、几帳ひきなほしな どす。見つる花の顔どもも、思ひくらべまほしうて、例はも のゆかしからぬ心地に、あながちに、妻戸の御簾をひき着て、 几帳の綻びより見れば、物のそばより、ただ這ひ渡りたまふ ほどぞ、ふとうち見えたる。人の繁くまがへば、何のあやめ も見えぬほどに、いと心もとなし。薄色の御衣に、髪のまだ 丈にははづれたる末のひき広げたるやうにて、いと細く小さ き様体らうたげに心苦し。 「一昨年ばかりは、たまさかにも ほの見たてまつりしに、またこよなく生ひまさりたまふなめ りかし。まして盛りいかならむ」と思ふ。 「かの見つるさき ざきの、桜、山吹といはば、これは藤の花とやいふべからむ。 木高き木より咲きかかりて、風になびきたるにほひは、かく

ぞあるかし」
と思ひよそへらる。 「かかる人々を、心にまか せて明け暮れ見たてまつらばや。さもありぬべきほどながら、 隔て隔てのけざやかなるこそつらけれ」など思ふに、まめ心 もなまあくがるる心地す。 夕霧、大宮に伺候 大宮、内大臣と語る 祖母宮の御もとにも参りたまへれば、のど やかにて御行ひしたまふ。よろしき若人な どは、ここにもさぶらへど、もてなしけは ひ装束どもも、盛りなるあたりには似るべくもあらず。容貌 よき尼君たちの墨染にやつれたるぞ、なかなかかかる所につ けては、さる方にてあはれなりける。内大臣も参りたまへる に、御殿油など参りて、のどやかに御物語など聞こえたまふ。 「姫君を久しく見たてまつらぬがあさましきこと」とて、 ただ泣きに泣きたまふ。 「いまこのごろのほどに参らせ む。心づからもの思はしげにて、口惜しうおとろへにてなむ はべめる。女子こそ、よく言はば、持ちはべるまじきものな

りけれ。とあるにつけても、心のみなむ尽くされはべりけ る」
など、なほ心解けず思ひおきたる気色してのたまへば、 心憂くて切にも聞こえたまはず。そのついでにも、 「い と不調なるむすめまうけはべりて、もてわづらひはべりぬ」 と、愁へきこえたまひて笑ひたまふ。 「いで、あやし。む すめといふ名はして、性なかるやうやある」とのたまへば、 「それなん。見苦しきことになむはべる。いかで御覧ぜ させむ」と、聞こえたまふとや。 The Royal Outing 源氏、玉鬘の処置について苦慮する

かく思しいたらぬことなく、いかでよから むことは、と思しあつかひたまへど、この 「音無の滝」こそうたていとほしく、南の 上の御推しはかり事にかなひて、軽々しかるべき御名なれ。 かの大臣、何ごとにつけても際々しう、すこしもかたはなる さまのことを思し忍ばずなどものしたまふ御心ざまを、さて 思ひ隈なく、けざやかなる御もてなしなどのあらむにつけて は、をこがましうもやなど、思しかへさふ。 大原野の行幸 帝の麗姿に玉鬘の心動く その十二月に、大原野の行幸とて、世に残 る人なく見騒ぐを、六条院よりも御方々引 き出でつつ見たまふ。卯の刻に出でたまう て、朱雀より五条の大路を西ざまに折れたまふ。桂川のもと

まで、物見車隙なし。行幸といへど、必ずかうしもあらぬを、 今日は親王たち上達部も、みな心ことに、御馬鞍をととのへ、 随身馬副の容貌丈だち、装束を飾りたまうつつ、めづらかに をかし。左右大臣内大臣納言より下、はた、まして残らず仕 うまつりたまへり。青色の袍衣、葡萄染の下襲を、殿上人、 五位六位まで着たり。雪ただいささかづつうち散りて、道の 空さへ艶なり。親王たち上達部なども、鷹にかかづらひたま へるは、めづらしき狩の御装ひどもを設けたまふ。近衛の鷹- 飼どもは、まして世に目馴れぬ摺衣を乱れ着つつ、気色こと なり。  めづらしうをかしきことに、競ひ出でつつ、その人ともな く、かすかなる脚弱き車など輪を押しひしがれ、あはれげな るもあり。浮橋のもとなどにも、好ましう立ちさまよふよき 車多かり。  西の対の姫君も立ち出でたまへり。そこばくいどみ尽くし

たまへる人の御容貌ありさまを見たまふに、帝の、赤色の御- 衣奉りてうるはしう動きなき御かたはら目に、なずらひきこ ゆべき人なし。わが父大臣を、人知れず目をつけたてまつり たまへど、きらきらしうものきよげに、さかりにはものした まへど、限りありかし。いと人にすぐれたるただ人と見えて、 御輿の中よりほかに、目移るべくもあらず。まして、容貌あ りや、をかしやなど、若き御達の消えかへり心移す中少将、 何くれの殿上人やうの人は、何にもあらず消えわたれるは、 さらにたぐひなうおはしますなりけり。源氏の大臣の御顔ざ まは、別物とも見えたまはぬを、思ひなしのいますこしいつ かしう、かたじけなくめでたきなり。さは、かかるたぐひは おはしがたかりけり。あてなる人は、みなものきよげにけは ひことなべいものとのみ、大臣中将などの御にほひに目馴れ たまへるを、出で消えどものかたはなるにやあらむ、同じ目- 鼻とも見えず、口惜しうぞ圧されたるや。兵部卿宮もおはす。

右大将の、さばかり重りかに よしめくも、今日の装ひいと なまめきて、胡録*など負ひて 仕うまつりたまへり。色黒く 鬚がちに見えて、いと心づき なし。いかでかは女のつくろひたてたる顔の色あひには似た らむ。いとわりなきことを、若き御心地には見おとしたまう てけり。大臣の君の思し寄りてのたまふことを、いかがはあ らむ、宮仕は心にもあらで見苦しきありさまにや、と思ひつ つみたまふを、馴れ馴れしき筋などをばもて離れて、おほか たに仕うまつり御覧ぜられんは、をかしうもありなむかし、 とぞ思ひ寄りたまうける。  かうて野におはしまし着きて、御輿とどめ、上達部の平張 に物まゐり、御装束ども、直衣、狩の装ひなどにあらためた まふほどに、六条院より、御酒、御くだものなど奉らせたま

へり。今日仕うまつりたまふべく、かねて御気色ありけれど、 御物忌のよしを奏せさせたまへりけるなりけり。蔵人の左衛- 門尉を御使にて、雉一枝奉らせたまふ。仰せ言には何とか や、さやうのをりの事まねぶにわづらはしくなむ。 雪ふかきをしほの山にたつ雉のふるき跡をも今日はた  づねよ 太政大臣の、かかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などや ありけむ。大臣、御使をかしこまり、もてなさせたまふ。 をしほ山みゆきつもれる松原に今日ばかりなる跡や  なからむ と、そのころほひ聞きしことの、そばそば思ひ出でらるるは、 ひがことにやあらむ。 源氏、玉鬘に入内を勧めて裳着を急ぐ またの日、大臣、西の対に、 「昨日、上 は見たてまつりたまひきや。かのことは 思しなびきぬらんや」と聞こえたまへり。

白き色紙に、いとうちとけたる文、こまかに気色ばみてもあ らぬが、をかしきを見たまうて、 「あいなのことや」と笑 ひたまふものから、よくも推しはからせたまふものかな、と 思す。御返りに、 「昨日は、  うちきらし朝ぐもりせしみゆきにはさやかに空の光やは  見し おぼつかなき御事どもになむ」とあるを、上も見たまふ。 「ささの事をそそのかししかど、中宮かくておはす、こ こながらのおぼえには、便なかるべし。かの大臣に知られて も、女御かくてまたさぶらひたまへばなど、思ひ乱るめりし 筋なり。若人の、さも馴れ仕うまつらむに憚る思ひなからむ は、上をほの見たてまつりて、えかけ離れて思ふはあらじ」 とのたまへば、 「あなうたて、めでたしと見たてまつる とも、心もて宮仕思ひたらむこそ、いとさし過ぎたる心なら め」とて笑ひたまふ。 「いで、そこにしもぞ、めできこえ

たまはむ」
などのたまうて、また御返り、 「あかねさす光は空にくもらぬをなどてみゆきに目を   きらしけむ なほ思したて」など、絶えず勧めたまふ。とてもかうても、 まづ御裳着のことをこそはと思して、その御設けの御調度の こまかなるきよらども加へさせたまひ、何くれの儀式を、御- 心にはいとも思ほさぬことをだに、おのづからよだけく厳し くなるを、まして、内大臣にも、やがてこのついでにや知ら せたてまつりてまし、と思し寄れば、いとめでたくところせ きまでなむ。 内大臣、玉鬘の腰結役を断わる 年かへりて二月にと思す。 「女は、聞こえ 高く名隠したまふべきほどならぬも、人の 御むすめとて、籠りおはするほどは、必ず しも氏神の御つとめなど、あらはならぬほどなればこそ、年 月は紛れ過ぐしたまへ、この、もし思し寄ることもあらむに

は、春日の神の御心違ひぬべきも、つひには隠れてやむまじ きものから、あぢきなくわざとがましき後の名までうたたあ るべし。なほなほしき人の際こそ、今様とては、氏改むるこ とのたはやすきもあれ」
など思しめぐらすに、 「親子の御契 り絶ゆべきやうなし。同じくは、わが心ゆるしてを知らせた てまつらむ」など思し定めて、この御腰結にはかの大臣をな む、御消息聞こえたまうければ、大宮去年の冬つ方より悩み たまふこと、さらにおこたりたまはねば、かかるにあはせて 便なかるべきよし聞こえたまへり。中将の君も、夜昼三条に ぞさぶらひたまひて、心のひまなくものしたまうて、をりあ しきを、いかにせましと思す。 「世もいと定めなし。宮も亡 せさせたまはば、御服あるべきを、知らず顔にてものしたま はむ、罪深きこと多からむ。おはする世に、このことあらは してむ」と思しとりて、三条宮に御とぶらひがてら渡りた まふ。 源氏、大宮を見舞い、ねんごろに語りあう

今は、まして、忍びやかにふるまひたまへ ど、行幸に劣らずよそほしく、いよいよ光 をのみ添へたまふ御容貌などの、この世に 見えぬ心地して、めづらしう見たてまつりたまふには、いと ど御心地の悩ましさも取り棄てらるる心地して起きゐたまへ り。御脇息にかかりて弱げなれど、ものなどいとよく聞こえ たまふ。 「異しうはおはしまさざりけるを、なにがしの朝- 臣の心まどはして、おどろおどろしう嘆ききこえさすめれば、 いかやうにものせさせたまふにかとなむ、おぼつかながりき こえさせつる。内裏などにも、ことなるついでなきかぎりは 参らず、朝廷に仕ふる人ともなくて籠りはべれば、よろづう ひうひしう、よだけくなりにてはべり。齢などこれよりまさ る人、腰たへぬまで屈まり歩く例、昔も今もはべめれど、あ やしくおれおれしき本性に添ふものうさになむはべるべき」 など聞こえたまふ。 「年のつもりの悩みと思うたまへつつ、

月ごろになりぬるを、今年となりては、頼み少なきやうにお ぼえはべれば、いま一たびかく見たてまつり聞こえさするこ ともなくてや、と心細く思ひたまへつるを、今日こそまたす こし延びぬる心地しはべれ。今は惜しみとむべきほどにもは べらず。さべき人々にもたち後れ、世の末に残りとまれるた ぐひを、人の上にて、いと心づきなしと見はべりしかば、出- 立いそぎをなむ、思ひもよほされはべるに、この中将の、い とあはれにあやしきまで思ひあつかひ、心を騒がいたまふ見 はべるになむ、さまざまにかけとめられて、今まで長びきは べる」
と、ただ泣きに泣きて、御声のわななくも、をこが ましけれど、さる事どもなればいとあはれなり。 玉鬘の件を語り、内大臣への仲立ちを依頼 御物語ども、昔今のとり集め聞こえたま ふついでに、 「内大臣は、日隔てず参り たまふこと繁からむを、かかるついでに対- 面のあらば、いかにうれしからむ。いかで聞こえ知らせんと

思ふ事のはべるを、さるべきついでなくては対面もあり難け れば、おぼつかなくてなむ」
と聞こえたまふ。 「公事の 繁きにや、私の心ざしの深からぬにや、さしもとぶらひもの しはべらず。のたまはすべからむ事は、何ざまの事にかは。 中将の恨めしげに思はれたる事もはべるを、『はじめのこと は知らねど、今はげに聞きにくくもてなすにつけて、立ちそ めにし名の取り返さるるものにもあらず、をこがましきやう に、かへりては世人も言ひ漏らすなるを』などものしはべれ ど、立てたるところ昔よりいと解けがたき人の本性にて、心- 得ずなん見たまふる」と、この中将の御ことと思してのたま へば、うち笑ひたまひて、 「言ふかひなきにゆるし棄てた まふこともやと聞きはべりて、ここにさへなむかすめ申すや うありしかど、いと厳しう諫めたまふよしを見はべりし後、 何にさまで言をもまぜはべりけむと、人わるう悔い思うたま へてなむ。よろづの事につけて、浄めといふことはべれば、

いかがはさもとり返し濯いたまはざらむ、とは思ひたまへな がら、かう口惜しき濁りの末に、待ちとり深う澄むべき水こ そ出で来難かべい世なれ。何ごとにつけても末になれば、 落ちゆくけぢめこそ安くはべめれ。いとほしう聞きたまふ る」
など申したまうて、 「さるは、かの知りたまふべき人 をなむ、思ひまがふることはべりて、不意に尋ねとりてはべ るを、そのをりは、さるひがわざとも明かしはべらずありし かば、あながちに事の心を尋ねかへさふこともはべらで、た ださるもののくさの少なきを、かごとにても何かは、と思う たまへゆるして、をさをさ睦びも見はべらずして、年月はべ りつるを、いかでか聞こしめしけむ、内裏に仰せらるるやう なむある。『尚侍宮仕する人なくては、かの所の政しど けなく、女官なども、公事を仕うまつるにたづきなく、事乱 るるやうになむありけるを、ただ今上にさぶらふ古老の典侍 二人、またさるべき人々、さまざまに申さするを、はかばか

しう選ばせたまはむ尋ねに、たぐふべき人なむなき。なほ 家高う、人のおぼえ軽からで、家の営みたてたらぬ人なむ、 いにしへよりなり来にける。したたかに賢き方の選びにて は、その人ならでも、年月の臈に成りのぼるたぐひあれど、 しかたぐふべきもなしとならば、おほかたのおぼえをだに選 らせたまはん』となむ、内々に仰せられたりしを、似げなき こととしも、何かは思ひたまはむ。宮仕はさるべき筋にて、 上も下も思ひおよび出で立つこそ、心高きことなれ。公ざま にて、さる所の事をつかさどり、政のおもぶきを認め知ら むことは、はかばかしからず、あはつけきやうにおぼえたれ ど、などかまたさしもあらむ。ただわが身のありさまからこ そ、よろづの事はべめれ、と思ひよわりはべりしついでにな む、齢のほどなど問ひ聞きはべれば、かの御尋ねあべいこと になむありけるを、いかなべいことぞとも申しあきらめまほ しうはべる。ついでなくては対面はべるべきにもはべらず。

やがてかかることなんとあらはし申すべきやうを思ひめぐら して消息申ししを、御悩みにことつけてものうげにすまひた まへりし、げにをりしも便なう思ひとまりはべるに、よろし うものせさせたまひければ、なほかう思ひおこせるついでに となむ思うたまふる。さやうに伝へものせさせたまへ」
と聞 こえたまふ。宮、 「いかに、いかにはべりけることにか。か しこには、さまざまにかかる名のりする人を厭ふことなく拾 ひ集めらるめるに、いかなる心にて、かくひき違へかこちき こえらるらむ。この年ごろ承りてなりぬるにや」と聞こえ たまへば、 「さるやうはべることなり。くはしきさまは、 かの大臣もおのづから尋ね聞きたまうてむ。くだくだしきな ほ人の仲らひに似たることにはべれば、明かさんにつけても、 らうがはしう人言ひ伝へはべらむを、中将の朝臣にだにまだ わきまへ知らせはべらず。人にも漏らさせたまふまじ」と、 御口がためきこえたまふ。 内大臣、大宮の招きに従い三条宮を訪う

内の大殿にも、かく三条宮に太政大臣渡り おはしまいたるよし聞きたまひて、 「いかにさびしげにていつかしき御さまを 待ちうけきこえたまふらむ。御前どももてはやし御座ひきつ くろふ人も、はかばかしうあらじかし。中将は御供にこそも のせられつらめ」など驚きたまうて、御子どもの君達、睦ま しうさるべき廷臣たち奉れたまふ。 「御くだもの、御酒 などさりぬべく参らせよ。みづからも参るべきを、かへりて もの騒がしきやうならむ」などのたまふほどに、大宮の御文 あり。 「六条の大臣のとぶらひに渡りたまへるを、ものさびし げにはべれば、人目のいとほしうも、かたじけなうもあるを、 ことごとしう、かう聞こえたるやうにはあらで、渡りたまひ なんや。対面に聞こえまほしげなることもあなり」と聞こえ たまへり。 「何ごとにかはあらむ。この姫君の御こと、中将

の愁へにや」
と思しまはすに、 「宮もかう御世の残りなげにて、 この事と切にのたまひ、大臣も憎からぬさまに一言うち出で 恨みたまはむに、とかく申し返さふことえあらじかし。つれ なくて思ひ入れぬを見るにはやすからず、さるべきついであ らば、人の御言になびき顔にてゆるしてむ」と思す。御心を さしあはせてのたまはむこと、と思ひ寄りたまふに、いとど 辞びどころなからむが、またなどかさしもあらむ、とやすら はるる、いとけしからぬ御あやにく心なりかし。 「されど宮 かくのたまひ、大臣も対面すべく待ちおはするにや。かたが たにかたじけなし。参りてこそは御気色に従はめ」など思ほ しなりて、御装束心ことにひきつくろひて、御前などもこと ごとしきさまにはあらで渡りたまふ。 内大臣の威儀、人々三条宮にまいり集う 君たちいとあまたひきつれて入りたまふさ ま、ものものしう頼もしげなり。丈だちそ ぞろかにものしたまふに、太さもあひて、

いと宿徳に、面もち、歩まひ、大臣といはむに足らひたまへ り。葡萄染の御指貫、桜の下襲、いと長う裾ひきて、ゆるゆ るとことさらびたる御もてなし、あなきらきらしと見えたま へるに、六条殿は、桜の唐の綺の御直衣、今様色の御衣ひき 重ねて、しどけなきおほぎみ姿、いよいよたとへんものなし。 光こそまさりたまへ、かうしたたかにひきつくろひたまへる 御ありさまに、なずらへても見えたまはざりけり。  君たち次々に、いとものきよげなる御仲らひにて、集ひた まへり。藤大納言、春宮大夫など今は聞こゆる御子どもも、 みな成り出でつつものしたまふ。おのづから、わざともなき に、おぼえ高くやむごとなき殿上人、蔵人頭、五位の蔵人、 近衛の中少将、弁官など、人柄華やかにあるべかしき十余人 集ひたまへれば、いかめしう、次々のただ人も多くて、土器 あまたたび流れ、みな酔ひになりて、おのおの、かう幸ひ人に すぐれたまへる御ありさまを物語にしけり。 源氏内大臣相和す 内大臣玉鬘の件を知る

大臣も、めづらしき御対面に昔の事思し出 でられて、よそよそにてこそ、はかなき事 につけて、いどましき御心も添ふべかめれ、 さし向ひきこえたまひては、かたみにいとあはれなる事の数- 数思し出でつつ、例の隔てなく、昔今の事ども、年ごろの 御物語に日暮れゆく。御土器などすすめまゐりたまふ。 「さぶらはではあしかりぬべかりけるを、召しなきに憚りて 承り過ぐしてましかば、御勘事や添はまし」と申したまふ に、 「勘当はこなたざまになむ。勘事と思ふこと多くはべ る」など、気色ばみたまふに、このことにや、と思せば、 わづらはしうて、かしこまりたるさまにてものしたまふ。 「昔より、公私の事につけて、心の隔てなく、大小の事 聞こえ承り、羽翼を並ぶるやうにて、朝廷の御後見をも仕う まつる、となむ思うたまへしを、末の世となりて、その上思 ひたまへし本意なきやうなる事うちまじりはべれど、内々の

私事にこそは。おほかたの心ざしは、さらに移ろふことな くなむ。何ともなくてつもりはべる年齢にそへて、いにしへ の事なん恋しかりけるを、対面賜はることもいとまれにのみ はべれば、事限りありて、よだけき御ふるまひとは思ひたま へながら、親しきほどには、その御勢をもひきしじめたま ひてこそは、とぶらひものしたまはめとなむ、恨めしきをり をりはべる」
と聞こえたまへば、 「いにしへはげに面馴 れて、あやしくたいだいしきまで馴れさぶらひ、心に隔つる ことなく御覧ぜられしを、朝廷に仕うまつりし際は、羽翼を 並べたる数にも思ひはべらで、うれしき御かへりみをこそ、 はかばかしからぬ身にてかかる位に及びはべりて、朝廷に仕 うまつりはべることにそへても、思うたまへ知らぬにははべ らぬを、齢のつもりには、げにおのづからうちゆるぶことの みなむ、多くはべりける」など、かしこまり申したまふ。  そのついでにほのめかし出でたまひてけり。大臣、 「いと

あはれに、めづらかなる事にもはべるかな」
と、まづうち泣 きたまひて、 「その上より、いかになりにけむ、と尋ね 思うたまへしさまは、何のついでにかはべりけむ、愁へにた へず、漏らし聞こしめさせし心地なむしはべる。今かくすこ し人数にもなりはべるにつけて、はかばかしからぬ者どもの、 かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく見苦しと 見はべるにつけても、またさるさまにて、数々につらねては、 あはれに思うたまへらるるをりにそへても、まづなむ思ひた まへ出でらるる」とのたまふついでに、かのいにしへの雨夜 の物語に、いろいろなりし御睦言の定めを思し出でて、泣き み笑ひみ、みなうち乱れたまひぬ。夜いたう更けて、おのお のあかれたまふ。 「かく参り来あひては、さらに、久しく なりぬる世の古事思うたまへ出でられ、恋しきことの忍びが たきに、立ち出でむ心地もしはべらず」とて、をさをさ心弱 くおはしまさぬ六条殿も、酔泣きにや、うちしほれたまふ。

宮はた、まいて、姫君の御ことを思し出づるに、ありしにま さる御ありさま勢を見たてまつりたまふに、飽かず悲しく てとどめ難く、しほしほと泣きたまふ。あま衣は、げに心こ となりけり。  かかるついでなれど、中将の御ことをば、うち出でたまは ずなりぬ。一ふし用意なしと思しおきてければ、口入れむこ とも人わるく思しとどめ、かの大臣はた、人の御気色なきに、 さし過ぐし難くて、さすがにむすぼほれたる心地したまうけ り。 「今宵も御供にさぶらふべきを、うちつけに騒がし くもやとてなむ。今日のかしこまりは、ことさらになむ参る べくはべる」と申したまへば、さらば、この御悩みもよろし う見えたまふを、必ず聞こえし日違へさせたまはず渡りたま ふべきよし、聞こえ契りたまふ。  御気色どもようて、おのおの出でたまふ響きいといかめし。 君たちの御供の人々、 「何ごとありつるならむ。めづらしき

御対面に、いと御気色よげなりつるは、またいかなる御譲り あるべきにか」
など、ひが心を得つつ、かかる筋とは思ひ寄 らざりけり。 内大臣、源氏と玉鬘との仲を忖度する 大臣、うちつけに、いといぶかしう、心も となうおぼえたまへど、 「ふと、しか受け 取り親がらむも、便なからむ。尋ね得たま へらむはじめを思ふに、定めて心きよう見放ちたまはじ。や むごとなき方々を憚りて、うけばりてその際にはもてなさず、 さすがにわづらはしう、ものの聞こえを思ひて、かく明かし たまふなめり」と思すは口惜しけれど、 「それを瑕とすべき ことかは。ことさらにも、かの御あたりに触ればはせむに、 などかおぼえの劣らむ。宮仕ざまにおもむきたまへらば、女- 御などの思さむこともあぢきなし」と思せど、ともかくも思 ひよりのたまはむおきてを違ふべきことかは、とよろづに思 しけり。かくのたまふは、二月朔日ごろなりけり。 玉鬘の裳着の急ぎ 夕霧の心懐

十六日、彼岸のはじめにて、いとよき日な りけり。近うまたよき日なし、と勘へ申し ける中に、宮よろしうおはしませば、いそ ぎ立ちたまうて、例の渡りたまうても、大臣に申しあらはし しさまなど、いとこまかに、あべきことども教へきこえたま へば、あはれなる御心は、親と聞こえながらもあり難からむ を、と思すものから、いとなむうれしかりける。  かくて後は、中将の君にも、忍びてかかる事の心のたまひ 知らせけり。 「あやしの事どもや。むべなりけり」と思ひあ はする事どもあるに、かのつれなき人の御ありさまよりも、 なおもあらず思ひ出でられて、思ひ寄らざりけることよ、と しれじれしき心地す。されど、あるまじう、ねじけたるべき ほどなりけり、と思ひ返すことこそは、あり難きまめまめし さなめれ。 玉鬘の裳着の日、大宮祝いの消息を贈る

かくてその日になりて、三条宮より忍びや かに御使あり。御櫛の箱など、にはかなれ ど、ことどもいときよらにしたまうて、御- 文には、 聞こえむにもいまいましきありさまを、今日は忍び   こめはべれど、さる方にても、長き例ばかりを思しゆる   すべうや、とてなむ。あはれに承り明らめたる筋を、か   けきこえむもいかが。御気色に従ひてなむ。   ふた方にいひもてゆけば玉くしげわが身はなれぬかけご   なりけり ど、いと古めかしうわななきたまへるを、殿もこなたにおは しまして、事ども御覧じ定むるほどなれば、見たまうて、 「古代なる御文書きなれど、いたしや、この御手よ。昔は 上手にものしたまけるを、年にそへてあやしく老いゆくもの にこそありけれ。いとからく御手震ひにけり」など、うち返

し見たまうて、 「よくも玉くしげにまつはれたるかな。三- 十一字の中に、他文字は少なく添へたることの難きなり」と、 忍びて笑ひたまふ。 方々より寄せられる祝儀 末摘花との贈答 中宮より白き御裳、唐衣、御装束、御髪上 の具など、いと二なくて、例の壼どもに、 唐の薫物、心ことに薫り深くて奉りたまへ り。御方々みな心々に、御装束、人々の料に、櫛、扇まで、 とりどりにし出でたまへるありさま、劣りまさらず、さまざ まにつけて、かばかりの御心ばせどもに、いどみ尽くしたま へれば、をかしう見ゆるを、 東の院の人々も、かかる 御いそぎは聞きたまうけれ ども、とぶらひきこえたま ふべき数ならねば、ただ聞 き過ぐしたるに、常陸の宮

の御方、あやしうものうるはしう、さるべきことのをり過ぐ さぬ古代の御心にて、いかでかこの御いそぎをよその事とは 聞き過ぐさむ、と思して、型のごとなむし出でたまうける。 あはれなる御心ざしなりかし。青鈍の細長一襲、落栗とかや、 何とかや、昔の人のめでたうしける袷の袴一具、紫のしらき り見ゆる、霰地の御小袿と、よき衣箱に入れて、つつみい とうるはしうて奉れたまへり。御文には、 「知らせたま ふべき数にもはべらねば、つつましけれど、かかるをりは思 たまへ忍び難くなむ。これ、いとあやしけれど、人にも賜 はせよ」とおいらかなり。殿御覧じつけて、いとあさましう、 例のと思すに、御顔赤みぬ。 「あやしき古人にこそあれ。 かくものづつみしたる人は、ひき入り沈み入りたるこそよけ れ。さすがに恥ぢがましや」とて、 「返り事は遣はせ。は したなく思ひなむ。父親王のいとかなしうしたまひける思ひ 出づれば、人におとさむはいと心苦しき人なり」と聞こえた

まふ。御小袿の袂に、例の同じ筋の歌ありけり。 わが身こそうらみられけれ唐ころも君がたもとに   なれずと思へば 御手は、昔だにありしを、いとわりなうしじかみ、彫り深う、 強う、固う書きたまへり。大臣、憎きものの、をかしさをば え念じたまはで、 「この歌よみつらむほどこそ。まして今 は力なくて、ところせかりけむ」と、いとほしがりたまふ。 「いで、この返り事、騒がしうとも我せん」とのたまひて、 「あやしう、人の思ひ寄るまじき御心ばへこそ、あらでも ありぬべけれ」と、憎さに書きたまうて、 唐ころもまたからころもからころもかへすがへすも   からころもなる とて、 「いとまめやかに、かの人の立てて好む筋なれば、 ものしてはべるなり」とて見せたてまつりたまへば、君いと にほひやかに笑ひたまひて、 「あないとほし。弄じたるや

うにもはべるかな」
と、苦しがりたまふ。ようなしごと、い と多かりや。 内大臣腰結役をつとめる 源氏と歌の贈答 内大臣は、さしも急がれたまふまじき御- 心なれど、めづらかに聞きたまうし後は、 いつしかと御心にかかりたれば、とく参り たまへり。儀式など、あべい限りにまた過ぎて、めづらしき さまにしなさせたまへり。げにわざと御心とどめたまうける こと、と見たまふも、かたじけなきものから、やう変りて思 さる。  亥の刻にて、入れたてまつりたまふ。例の御設けをばさる ものにて、内の御座いと二なくしつらはせたまうて、御肴 まゐらせたまふ。御殿油、例のかかる所よりは、すこし光見せ て、をかしきほどにもてなしきこえたまへり。いみじうゆか しう思ひきこえたまへど、今宵はいとゆくりかなべければ、 引き結びたまふほど、え忍びたまはぬ気色なり。主の大臣、

「今宵はいにしへざまの事はかけはべらねば、何のあやめも 分かせたまふまじくなむ。心知らぬ人目を飾りて、なほ世の 常の作法に」と聞こえたまふ。 「げに、さらに聞こえさせ やるべき方はべらずなむ」御土器まゐるほどに、 「限り なきかしこまりをば、世に例なき事と聞こえさせながら、今 までかく忍びこめさせたまひける恨みも、いかが添へはべら ざらむ」と聞こえたまふ。 うらめしやおきつ玉もをかづくまで磯がくれける   あまの心よ とて、なほつつみもあへずしほたれたまふ。姫君は、いと恥 づかしき御さまどものさし集ひ、つつましさに、え聞こえた まはねば、殿、 「よるべなみかかる渚にうち寄せて海人もたづねぬも   くづとぞ見し いとわりなき御うちつけごとになん」と聞こえたまへば、

「いと道理になん」と、聞こえやる方なくて出でたま ひぬ。 参上の人々の胸中 源氏の今後の方針 親王たち、次々の人々残るなく集ひたまへ り。御懸想人もあまたまじりたまへれば、 この大臣かく入りおはしてほど経るを、い かなることにか、と思ひ疑ひたまへり。かの殿の君達、中将、 弁の君ばかりぞほの知りたまへりける。人知れず思ひしこと を、からうも、うれしうも思ひなりたまふ。弁は、 「よくぞ うち出でざりける」とささめきて、 「さま異なる大臣の御- 好みどもなめり。中宮の御たぐひにしたてたまはむとや思す らむ」など、おのおの言ふよしを聞きたまへど、 「なほ、 しばしは御心づかひしたまうて、世に譏りなきさまにもてな させたまへ。何ごとも、心やすきほどの人こそ、乱りがはし う、ともかくもはベベかめれ。こなたをもそなたをも、さま ざま人の聞こえなやまさむ、ただならむよりはあぢきなきを、

なだらかに、やうやう人目をも馴らすなむ、よきことにはは べるべき」
と申したまへば、 「ただ御もてなしになん従 ひはべるべき。かうまで御覧ぜられ、あり難き御はぐくみに 隠ろへはべりけるも、前の世の契りおろかならじ」と申した まふ。御贈物などさらにもいはず、すべて引出物、禄ども、 品々につけて例あること限りあれど、また事加へ、二なくせ させたまへり。大宮の御悩みにことつけたまうしなごりもあ れば、ことごとしき御遊びなどはなし。  兵部卿宮、 「今はことつけやりたまふべき滞りもなきを」 と、おりたち聞こえたまへど、 「内裏より御気色あること かへさひ奏し、またまた仰せ言に従ひてなむ、他ざまのこと はともかくも思ひ定むべき」とぞ聞こえさせたまひける。  父大臣は、ほのかなりしさまを、いかでさやかにまた見む、 なまかたほなること見えたまはば、かうまでことごとしうも てなし思さじなど、なかなか心もとなう恋しう思ひきこえた

まふ。今ぞ、かの御夢も、まことに思しあはせける。女御ば かりには、さだかなる事のさまを聞こえたまうけり。 柏木ら、弘徽殿の前で近江の君を愚弄する 世の人聞きに、しばしこのこと出ださじ、 と切に籠めたまへど、口さがなきものは世 の人なりけり。自然に言ひ漏らしつつ、や うやう聞こえ出でくるを、かのさがな者の君聞きて、女御の 御前に、中将少将さぶらひたまふに出で来て、 「殿は 御むすめまうけたまふべかなり。あなめでたや。いかなる人、 二方にもてなさるらむ。聞けばかれも劣り腹なり」と、あう なげにのたまへば、女御かたはらいたしと思して、ものもの たまはず。中将、 「しかかしづかるべきゆゑこそものしたま ふらめ。さても誰が言ひしことを、かくゆくりなくうち出で たまふぞ。もの言ひただならぬ女房などもこそ、耳とどむ れ」とのたまへば、 「あなかま。みな聞きてはべり。 尚侍になるべかなり。宮仕にと急ぎ出で立ちはべりしこと

は、さやうの御かへりみもやとてこそ、なべての女房たちだ に仕うまつらぬ事まで、おりたち仕うまつれ。御前のつらく おはしますなり」
と恨みかくれば、みなほほ笑みて、「尚侍 あかば、なにがしこそ望まんと思ふを、非道にも思しかけけ るかな」などのたまふに、腹立ちて、 「めでたき御仲 に、数ならぬ人はまじるまじかりけり。中将の君ぞつらくお はする。さかしらに迎へたまひて、軽め嘲りたまふ。せうせ うの人は、え立てるまじき殿の内かな。あなかしこあなかし こ」と、後へざまにゐざり退きて、見おこせたまふ。憎げも なけれど、いと腹あしげに眼尻ひきあげたり。中将は、かく 言ふにつけても、げにし過ちたることと思へば、まめやかに てものしたまふ。少将は、 「かかる方にても、たぐひなき御 ありさまを、おろかにはよも思さじ。御心しづめたまうてこ そ。堅き巌も沫雪になしたまうつべき御気色なれば、いとよ う思ひかなひたまふ時もありなむ」と、ほほ笑みて言ひゐた

まへり。中将も、 「天の磐戸さし籠りたまひなんや、めやす く」とて立ちぬれば、ほろほろと泣きて、 「この君た ちさへ、みなすげなくしたまふに、ただ御前の御心のあはれ におはしませば、さぶらふなり」とて、いとかやすく、いそ しく、下臈童べなどの仕うまつりたらぬ雑役をも、立ち走 りやすくまどひ歩きつつ、心ざしを尽くして宮仕し歩きて、 「尚侍におのれを申しなしたまへ」と責めきこゆれ ば、あさましういかに思ひて言ふことならむ、と思すに、も のも言はれたまはず。 内大臣、近江の君をからかい戯れる 大臣、この望みを聞きたまひて、いと華や かにうち笑ひたまひて、女御の御方に参り たまへるついでに、 「いづら、この近- 江の君、こなたに」と召せば、 「を」と、いとけざやか に聞こえて、出で来たり。 「いと、仕へたる御けはひ、 公人にて、げにいかにあひたらむ。尚侍のことは、などか

おのれにとくはものせざりし」
と、いとまめやかにてのたま へば、いとうれしと思ひて、 「さも御気色賜はらまほ しうはべりしかど、この女御殿など、おのづから伝へきこえ させたまひてむ、と頼みふくれてなむさぶらひつるを、なる べき人ものしたまふやうに聞きたまふれば、夢に富したる心- 地しはべりてなむ、胸に手を置きたるやうにはべる」と申し たまふ。舌ぶりいとものさはやかなり。笑みたまひぬべきを 念じて、 「いとあやしうおぼつかなき御癖なりや。さも 思しのたまはましかば、まづ人のさきに奏してまし。太政大- 臣の御むすめやむごとなくとも、ここに切に申さむことは、 聞こしめさぬやうあらざらまし。今にても、申文を取りつく りて、美々しう書き出だされよ。長歌などの心ばへあらむを 御覧ぜむには、棄てさせたまはじ。上はその中に情棄てずお はしませば」など、いとようすかしたまふ。人の親げなくか たはなりや。 「やまと歌は、あしあしもつづけはべり

なむ。むねむねしき方のことはた、殿より申させたまはば、 つま声のやうにて、御徳をも蒙りはべらむ」
とて、手をおし 擦りて聞こえゐたり。御几帳の背後などにて聞く女房、死ぬ べくおぼゆ。もの笑ひにたへぬは、すべり出でてなむ慰めけ る。女御も御面赤みて、わりなう見苦しと思したり。殿も、 「ものむつかしきをりは、近江の君見るこそよろづ紛るれ」 とて、ただ笑ひぐさにつくりたまへど、世人は、 「恥ぢがて ら、はしたなめたまふ」など、さまざま言ひけり。 Purple Trousers 玉鬘、尚侍出仕を前に、身の上を思い悩む

尚侍の御宮仕のことを、誰も誰もそその かしたまふも、いかならむ、親と思ひきこ ゆる人の御心だに、うちとくまじき世なり ければ、ましてさやうのまじらひにつけて、心よりほかに便 なきこともあらば、中宮も女御も、方々につけて心おきたま はば、はしたなからむに、わが身はかくはかなきさまにて、 いづ方にも深く思ひとどめられたてまつるほどもなく、浅き おぼえにて、ただならず思ひ言ひ、いかで人わらへなるさま に見聞きなさむ、とうけひたまふ人々も多く、とかくにつけ て、安からぬ事のみありぬべきを、もの思し知るまじきほど にしあらねば、さまざまに思ほし乱れ、人知れずもの嘆かし。 「さりとて、かかるありさまもあしきことはなけれど、この

大臣の御心ばへのむつかしく心づきなきも、いかなるついで にかは、もて離れて、人の推しはかるべかめる筋を、心清く もありはつべき。実の父大臣も、この殿の思さむところを憚 りたまひて、うけばりてとり放ち、けざやぎたまふべき事に もあらねば、なほ、とてもかくても見苦しう、かけかけしき ありさまにて心を悩まし、人にもて騒がるべき身なめり」
と、 なかなかこの親尋ねきこえたまひて後は、ことに憚りたまふ 気色もなき大臣の君の御もてなしを取り加へつつ、人知れず なん嘆かしかりける。  思ふことを、まほならずとも、片はしにても、うちかすめ つべき女親もおはせず、いづ方もいづ方も、いと恥づかしげ にいとうるはしき御さまどもには、何ごとをかは、さなむか くなんとも聞こえわきたまはむ。世の人に似ぬ身のありさま をうちながめつつ、夕暮の空あはれげなるけしきを、端近う て見出だしたまへるさまいとをかし。 夕霧、玉鬘を訪れ、その胸中を訴える

薄き鈍色の御衣、なつかしきほどにやつれ て、例に変りたる色あひにしも、容貌はい と華やかにもてはやされておはするを、御- 前なる人々はうち笑みて見たてまつるに、宰相中将、同じ 色のいますこしこまやかなる直衣姿にて、纓巻きたまへる姿 しも、またいとなまめかしくきよらにておはしたり。  はじめより、ものまめやかに心寄せきこえたまへば、もて 離れてうとうとしきさまには、もてなしたまはざりしならひ に、今、あらざりけりとて、こよなく変らむもうたてあれば、 なほ御簾に几帳添へたる御- 対面は、人づてならであり けり。殿の御消息にて、内- 裏より仰せ言あるさま、や がてこの君の承りたまへ るなりけり。

 御返り、おほどかなるものから、いとめやすく聞こえなし たまふけはひの、らうらうじくなつかしきにつけても、かの 野分の朝の御朝顔は、心にかかりて恋しきを、うたてある筋 に思ひし、聞き明らめて後は、なほもあらぬ心地添ひて、 「こ の宮仕を、おほかたにしも思し放たじかし。さばかり見どこ ろある御あはひどもにて、をかしきさまなることのわづらは しき、はた、必ず出で来なんかし」と思ふに、ただならず胸塞 がる心地すれど、つれなくすくよかにて、 「人に聞かすま じとはべりつることを聞こえさせんに、いかがはべるべき」 と気色だてば、近くさぶらふ人も、すこし退きつつ、御几帳の 背後などにそばみあへり。  空消息をつきづきしくとりつづけて、こまやかに聞こえた まふ。上の御気色のただならぬ筋を、さる御心したまへ、な どやうの筋なり。答へたまはん言もなくて、ただうち嘆きた まへるほど、忍びやかにうつくしくいとなつかしきに、なほ

え忍ぶまじく、 「御服もこの月には脱がせたまふべきを、 日次なんよろしからざりける。十三日に、河原へ出でさせた まふべきよしのたまはせつる。なにがしも御供にさぶらふべ くなん思ひたまふる」と聞こえたまへば、 「たぐひたまは んもことごとしきやうにやはべらん。忍びやかにてこそよく はべらめ」とのたまふ。この御服なんどのくはしきさまを、 人にあまねく知らせじ、とおもむけたまへる気色いと労あり。 中将も、 「漏らさじとつつませたまふらむこそ心憂けれ。忍 びがたく思ひたまへらるる形見なれば、脱ぎ棄てはべらむこ とも、いとものうくはべるものを。さても、あやしうもて離 れぬことの、また心得がたきにこそはべれ。この御あらはし 衣の色なくは、えこそ思ひたまへ分くまじかりけれ」とのた まへば、 「何ごとも思ひ分かぬ心には、ましてともかくも 思ひたまへたどられはべらねど、かかる色こそ、あやしくも のあはれなるわざにはべりけれ」とて、例よりもしめりたる

御気色、いとらうたげにをかし。  かかるついでにとや思ひ寄りけむ、蘭の花のいとおもしろ きを持たまへりけるを、御簾のつまよりさし入れて、 「こ れも御覧ずべきゆゑはありけり」とて、とみにもゆるさで持 たまへれば、うつたへに、思ひもよらで取りたまふ御袖をひ き動かしたり。 おなじ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかごと   ばかりも 「道のはてなる」とかや、いと心づきなくうたてなりぬれど、 見知らぬさまに、やをらひき入りて、 「たづぬるにはるけき野辺の露ならばうす紫やかごと   ならまし かやうにて聞こゆるより、深きゆゑはいかが」とのたまへば、 すこしうち笑ひて、 「浅きも深きも、思し分く方ははべり なんと思ひたまふる。まめやかには、いとかたじけなき筋を

思ひ知りながら、えしづめはべらぬ心の中を、いかでか知ろ しめさるべき。なかなか思し疎まんがわびしさに、いみじく 籠めはべるを、今はた同じと思ひたまへわびてなむ。頭中将 の気色は御覧じ知りきや。人の上に、なんど思ひはべりけん。 身にてこそいとをこがましく、かつは思ひたまへ知られけれ。 なかなか、かの君は思ひさまして、つひに御あたり離るまじ き頼みに、思ひ慰めたる気色など見はべるも、いとうらやま しくねたきに、あはれとだに思しおけよ」
など、こまかに聞 こえ知らせたまふこと多かれど、かたはらいたければ書かぬ なり。  尚侍の君、やうやうひき入りつつ、むつかしと思したれば、 「心憂き御気色かな。過ちすまじき心のほどは、おのづか ら御覧じ知らるるやうもはべらむものを」とて、かかるつい でに、いますこしも漏らさまほしけれど、 「あやしく悩ま しくなむ」とて、入りはてたまひぬれば、いといたくうち嘆

きて立ちたまひぬ。 夕霧、玉鬘の件につき源氏に問いつめる なかなかにもうち出でてけるかな、と口惜 しきにつけても、かのいますこし身にしみ ておぼえし御けはひを、かばかりの物越し にても、ほのかに御声をだに、いかならむついでにか聞かむ、 と安からず思ひつつ、御前に参りたまへれば、出でたまひて、 御返りなど聞こえたまふ。 「この宮仕を、しぶげにこそ思ひたまへれ。宮などの練 じたまへる人にて、いと心深きあはれを尽くし、言ひ悩まし たまふに、心やしみたまふらんと思ふになん心苦しき。され ど、大原野の行幸に、上を見たてまつりたまひては、いとめ でたくおはしけり、と思ひたまへりき。若き人は、ほのかに も見たてまつりて、えしも宮仕の筋もて離れじ。さ思ひてな ん、このこともかくものせし」などのたまへば、 「さても 人ざまは、いづ方につけてかは、たぐひてものしたまふらむ。

中宮かく並びなき筋にておはしまし、また弘徽殿やむごとな くおぼえことにてものしたまへば、いみじき御思ひありとも、 立ち並びたまふこと難くこそはべらめ。宮はいとねむごろに 思したなるを、わざとさる筋の御宮仕にもあらぬものから、 ひき違へたらむさまに御心おきたまはむも、さる御仲らひに ては、いとほしくなん聞きたまふる」
と、大人大人しく申し たまふ。 「難しや。わが心ひとつなる人の上にもあらぬを、 大将さへ我をこそ恨むなれ。すべてかかることの心苦しさを 見過ぐさで、あやなき人の恨み負ふ、かへりては軽々しきわ ざなりけり。かの母君の、あ はれに言ひおきしことの忘れ ざりしかば、心細き山里にな むと聞きしを、かの大臣はた、 聞き入れたまふべくもあらず と愁へしに、いとほしくてか

く渡しはじめたるなり。ここにかくものめかすとて、かの大- 臣も人めかいたまふなめり」
と、つきづきしくのたまひなす。 「人柄は、宮の御人にていとよかるべし。今めかしく、い となまめきたるさまして、さすがに賢く、過ちすまじくなど して、あはひはめやすからむ。さてまた宮仕にも、いとよく 足らひたらんかし。容貌よくらうらうじきものの、公事な どにもおぼめかしからず、はかばかしくて、上の常に願はせ たまふ御心には違ふまじ」など、のたまふ気色の見まほしけ れば、 「年ごろかくてはぐくみきこえたまひける御心ざし を、ひがざまにこそ人は申すなれ。かの大臣もさやうになむ おもぶけて、大将のあなたざまのたよりに気色ばみたりける にも、答へたまひける」と聞こえたまへば、うち笑ひて、 「方々いと似げなきことかな。なほ、宮仕をも何ごとをも、 御心ゆるして、かくなんと思されんさまにぞ従ふべき。女は 三つに従ふものにこそあなれど、ついでを違へて、おのが心

に任せんことは、あるまじきことなり」
とのたまふ。 「内- 内にも、やむごとなきこれかれ年ごろを経てものしたまへば、 えその筋の人数にはものしたまはで、捨てがてらにかく譲り つけ、おほぞうの宮仕の筋に、領ぜんと思しおきつる、いと 賢くかどあることなりとなん、よろこび申されけると、たし かに人の語り申しはべりしなり」と、いとうるはしきさまに 語り申したまへば、げに、さは思ひたまふらむかしと思すに、 いとほしくて、 「いとまがまがしき筋にも思ひ寄りたまひ けるかな。いたり深き御心ならひならむかし。いまおのづか ら、いづ方につけても、あらはなることありなむ。思ひ隈な しや」と笑ひたまふ。  御気色はけざやかなれど、なほ疑ひはおかる。大臣も、 「然 りや。かく人の推しはかる、案におつることもあらましかば、 いと口惜しくねぢけたらまし。かの大臣に、いかでかく心清 きさまを、知らせたてまつらむ」と思すにぞ、げに宮仕の筋

にて、けざやかなるまじく紛れたるおぼえを、かしこくも思 ひ寄りたまひけるかな、とむくつけく思さる。 玉鬘の出仕決定に、懸想人たち焦慮する かくて御服など脱ぎたまひて、 「月立たば なほ参りたまはむこと忌あるべし。十月ば かりに」と思しのたまふを、内裏にも心も となく聞こしめし、聞こえたまふ人々は、誰も誰もいと口惜 しくて、この御参りのさきに、と心寄せのよすがよすがに責 めわびたまへど、吉野の滝を堰かむよりも難きことなれば、 「いとわりなし」とおのおの答ふ。  中将も、なかなかなることをうち出でて、いかに思すらむ、 と苦しきままに、駆り歩きて、いとねむごろに、おほかたの 御後見を思ひあつかひたるさまにて、追従し歩きたまふ。た はやすく軽らかにうち出でては聞こえかかりたまはず、めや すくもてしづめたまへり。  実の御兄弟の君たちはえ寄り来ず、宮仕のほどの御後見を、

とおのおの心もとなくぞ思ひける。頭中将、心を尽くしわび しことはかき絶えにたるを、うちつけなりける御心かな、と 人々はをかしがるに、殿の御使にておはしたり。なほもて出 でず、忍びやかに御消息なども聞こえかはしたまひければ、 月の明かき夜、桂の蔭に隠れてものしたまへり。見聞き入る べくもあらざりしを、なごりなく南の御簾の前に据ゑたてま つる。 柏木、玉鬘を訪問、恨み言を述べる みづから聞こえたまはんことはしも、なほ つつましければ、宰相の君して答へ聞こえ たまふ。 「なにがしらを選びて奉りたま へるは、人づてならぬ御消息にこそはべらめ。かくもの遠く ては、いかが聞こえさすべからむ。みづからこそ数にもはべ らねど、絶えぬたとひもはべなるは。いかにぞや、古代のこ となれど、頼もしくぞ思ひたまへける」とて、ものしと思ひ たまへり。 「げに、年ごろのつもりも取り添へて、聞こえ

まほしけれど、日ごろあやしく悩ましくはべれば、起き上り などもえしはべらでなむ。かくまで咎めたまふも、なかなか うとうとしき心地なむしはべりける」
と、いとまめだちて聞 こえ出だしたまへり。 「悩ましく思さるらむ御几帳のもと をば、ゆるさせたまふまじくや。よしよし。げに、聞こえさ するも心地なかりけり」とて、大臣の御消息ども忍びやかに 聞こえたまふ。用意など人には劣りたまはず、いとめやすし。 「参りたまはむほどの案内、くはしきさまもえ聞かぬを、内々 にのたまはむなんよからむ。何ごとも人目に憚りてえ参り来 ず、聞こえぬことをなむ、なかなかいぶせく思したる」など、 語りきこえたまふついでに、 「いでや、をこがましきこと も、えぞ聞こえさせぬや。いづ方につけても、あはれをば御- 覧じ過ぐすべくやはありけると、いよいよ恨めしさも添ひは べるかな。まづは今宵などの御もてなしよ。北面だつ方に召 し入れて、君達こそめざましくも思しめさめ、下仕などやう

の人々とだにうち語らはばや。またかかるやうはあらじかし。 さまざまにめづらしき世なりかし」
と、うち傾きつつ、恨み つづけたるもをかしければ、かくなむと聞こゆ。 「げに、 人聞きをうちつけなるやうにや、と憚りはべるほどに、年ご ろの埋れいたさをも、明らめはべらぬは、いとなかなかなる こと多くなむ」と、ただすくよかに聞こえなしたまふに、ま ばゆくて、よろづ押しこめたり。 「妹背山ふかき道をばたづねずてをだえの橋にふみま   どひける よ」と恨むるも人やりならず。 まどひける道をば知らで妹背山たどたどしくぞたれ   もふみみし 「いづ方のゆゑとなむ、え思し分かざめりし。何ごとも、 わりなきまで、おほかたの世を憚らせたまふめれば、え聞こ えさせたまはぬになむ。おのづからかくのみもはべらじ」

聞こゆるも、さることなれば、 「よし、長居しはべらむも すさまじきほどなり。やうやう臈つもりてこそは、かごとを も」とて立ちたまふ。  月隈なくさし上りて、空のけしきも艶なるに、いとあてや かにきよげなる容貌して、御直衣の姿、好ましく華やかにて いとをかし。宰相中将のけはひありさまには、え並びたま はねど、これもをかしかめるは、いかでかかる御仲らひなり けむと、若き人々は、例の、さるまじきことをもとりたてて めであへり。 鬚黒大将、玉鬘に対して熱心に言い寄る 大将は、この中将は同じ右の次将なれば、 常に呼びとりつつ、ねむごろに語らひ、大- 臣にも申させたまひけり。人柄もいとよく、 朝廷の御後見となるべかめる下形なるを、などかはあらむと 思しながら、かの大臣のかくしたまへることを、いかがは聞 こえ返すべからん、さるやうあることにこそ、と心得たまへ

る筋さへあれば、まかせきこえたまへり。  この大将は、春宮の女御の御兄弟にぞおはしける。大臣た ちを措きたてまつりて、さし次ぎの御おぼえいとやむごとな き君なり。年三十二三のほどにものしたまふ。北の方は紫の 上の御姉ぞかし。式部卿宮の御大君よ。年のほど三つ四つが 年上は、ことなるかたはにもあらぬを、人柄やいかがおはし けむ、嫗とつけて心にも入れず、いかで背きなんと思へり。 その筋により、六条の大臣は、大将の御事は、似げなくいと ほしからむと思したるなめり。色めかしくうち乱れたるとこ ろなきさまながら、いみじくぞ心を尽くし歩きたまひける。 「かの大臣も、もて離れても思したらざなり。女は宮仕をも のうげに思いたなり」と内々の気色も、さるくはしきたより しあれば、漏り聞きて、 「ただ大殿の御おもむけのこと なるにこそはあなれ。実の親の御心だに違はずは」と、この 弁のおもとにも責めたまふ。 九月、玉鬘に文集まる 兵部卿宮に返歌

九月にもなりぬ。初霜結ぼほれ、艶なる朝 に、例の、とりどりなる御後見どもの引き そばみつつ持て参る御文どもを、見たまふ こともなくて、読みきこゆるばかりを聞きたまふ。大将殿の には、 「なほ頼み来しも過ぎゆく空のけしきこそ、心づくし に、  数ならばいとひもせまし長月に命をかくるほどぞはかな き」 月たたば、とある定めを、いとよく聞きたまふなめり。 兵部卿宮は、 「言ふかひなき世は、聞こえむ方なきを、  朝日さすひかりを見ても玉笹の葉分の霜を消たずもあら  なむ 思しだに知らば、慰む方もありぬべくなん」とて、いとかし けたる下折れの霜も落さず持て参れる、御使さへぞうちあひ たるや。

 式部卿宮の左兵衛督は、殿の上の御兄弟ぞかし。親しく 参りなどしたまふ君なれば、おのづからいとよくものの案- 内も聞きて、いみじくぞ思ひわびける。いと多く恨みつづ けて、 忘れなむと思ふもものの悲しきをいかさまにして   いかさまにせむ 紙の色、墨つき、しめたる匂ひもさまざまなるを、人々もみ な、 「思し絶えぬべかめるこそ、さうざうしけれ」など言ふ。  宮の御返りをぞ、いかが思すらむ、ただいささかにて、 心もて光にむかふあふひだに朝おく霜をおのれやは   消つ とほのかなるを、いとめづらしと見たまふに、みづからはあ はれを知りぬべき御気色にかけたまへれば、露ばかりなれど、 いとうれしかりけり。かやうに、何となけれど、さまざまな る人々の、御わびごとも多かり。

 女の御心ばへは、この君をなんもとにすべきと、大臣たち 定めきこえたまひけりとや。 The Cypress Pillar 鬚黒大将、玉鬘を得て歓ぶ 源氏の心と態度

「内裏に聞こしめさむこともかしこし。 しばし人にあまねく漏らさじ」と諫めきこ えたまへど、さしもえつつみあへたまはず。 ほど経れど、いささかうちとけたる御気色もなく、思はずに うき宿世なりけりと、思ひ入りたまへるさまのたゆみなきを、 いみじうつらしと思へど、おぼろけならぬ契りのほど、あは れにうれしく思ふ。見るままにめでたく、思ふさまなる御容- 貌ありさまを、よそのものに見はててやみなましよ、と思ふ だに胸つぶれて、石山の仏をも、弁のおもとをも、並べて頂 かまほしう思へど、女君の深くものしと思しうとみにければ、 えまじらはで籠りゐにけり。げに、そこら心苦しげなること どもを、とりどりに見しかど、心浅き人のためにぞ、寺の験

もあらはれける。  大臣も心ゆかず口惜しと思せど、言ふかひなきことにて、 誰も誰もかくゆるしそめたまへることなれば、ひき返しゆる さぬ気色を見せむも、人のためいとほしうあいなしと思して、 儀式いと二なくもてかしづきたまふ。 源氏と内大臣との感想 帝なお出仕を望む いつしかと、わが殿に渡いたてまつらんこ とを思ひいそぎたまへど、軽々しくふとう ちとけ渡りたまはんに、かしこに待ちとり てよくしも思ふまじき人のものしたまふなるがいとほしさに ことつけたまひて、 「なほ心のどかに、なだらかなるさま にて、音なく、いづ方にも人の譏り恨みなかるべくをもてな したまへ」とぞ聞こえたまふ。  父大臣は、 「なかなかめやすかめり。ことにこまかなる後- 見なき人の、なまほのすいたる宮仕に出で立ちて、苦しげに やあらむとぞうしろめたかりし。心ざしはありながら、女御

かくてものしたまふを措きて、いかがもてなさまし」
など、 忍びてのたまひけり。げに、帝と聞こゆとも、人に思しおと し、はかなきほどに見えたてまつりたまひて、ものものしく ももてなしたまはずは、あはつけきやうにもあべかりけり。 三日の夜の御消息ども、聞こえかはしたまひける気色を伝へ 聞きたまひてなむ、この大臣の君の御心を、あはれにかたじ けなく、あり難しとは思 ひきこえたまひける。  かう忍びたまふ御仲ら ひの事なれど、おのづか ら、人のをかしきことに 語り伝へつつ、次々に聞 き漏らしつつ、あり難き 世語にぞささめきける。 内裏にも聞こしめしてけ

り。 「口惜しう、宿世異なりける人なれど、さ思しし本意も あるを。宮仕など、かけかけしき筋ならばこそは、思ひ絶え たまはめ」などのたまはせけり。 玉鬘、鬚黒を厭い過往を恋う 源氏の胸中 十一月になりぬ。神事など繁く、内侍所に も事多かるころにて、女官ども、内侍ども 参りつつ、今めかしう人騒がしきに、大将- 殿、昼もいと隠ろへたるさまにもてなして籠りおはするを、 いと心づきなく、尚侍の君は思したり。宮などは、まいてい みじう口惜しと思す。兵衛督は、いもうとの北の方の御こと をさへ人わらへに思ひ嘆きて、とり重ねもの思ほしけれど、 をこがましう、恨み寄りても今はかひなしと思ひ返す。大将 は、名に立てるまめ人の、年ごろいささか乱れたるふるまひ なくて過ぐしたまへるなごりなく心ゆきて、あらざりしさま に好ましう、宵暁のうち忍びたまへる出で入りも艶にしな したまへるを、をかしと人々見たてまつる。

 女は、わららかににぎははしくもてなしたまふ本性ももて 隠して、いといたう思ひ結ぼほれ、心もてあらぬさまはしる きことなれど、大臣の思すらむこと、宮の御心ざまの心深う 情々しうおはせしなどを思ひ出でたまふに、恥づかしう口- 惜しうのみ思ほすに、もの心づきなき御気色絶えず。  殿も、いとほしう人々も思ひ疑ひける筋を、心清くあらは したまひて、わが心ながら、うちつけにねぢけたることは好 まずかしと、昔よりのことも思し出でて、紫の上にも、 「思し疑ひたりしよ」など聞こえたまふ。今さらに人の心癖 もこそと思しながら、ものの苦しう思されし時、さてもや、 と思し寄りたまひしことなれば、なほ思しも絶えず。 源氏、玉鬘を訪い、歌を交し思いを訴える 大将のおはせぬ昼つ方渡りたまへり。女君、 あやしう悩ましげにのみもてないたまひて、 すくよかなるをりもなくしほれたまへるを、 かく渡りたまへれば、すこし起き上りたまひて、御几帳に、

はた、隠れておはす。殿も、用意ことに、すこしけけしきさ まにもてないたまひて、おほかたの事どもなど聞こえたまふ。 すくよかなる世の常の人にならひては、まして言う方なき御 けはひありさまを見知りたまふにも、思ひのほかなる身の置 き所なく恥づかしきにも、涙ぞこぼれける。やうやう、こまや かなる御物語になりて、近き御脇息に寄りかかりて、すこし のぞきつつ聞こえたまふ。いとをかしげに、面痩せたまへる さまの、見まほしう、らうたいことの添ひたまへるにつけて も、よそに見放つもあまりなる心のすさびぞかし、と口惜し。 「おりたちて汲みはみねども渡り川人のせとはた契ら   ざりしを 思ひのほかなりや」とて、鼻うちかみたまふけはひ、なつか しうあはれなり。女は顔を隠して、 みつせ川わたらぬさきにいかでなほ涙のみをのあわ   と消えなん

「心幼の御消え所や。さても、かの瀬は避き道なかなる を、御手の先ばかりは、引き助けきこえてんや」と、ほほ笑 みたまひて、 「まめやかには、思し知ることもあらむかし。 世になきしれじれしさも、またうしろやすさも、この世にた ぐひなきほどを、さりともとなん頼もしき」と聞こえたまふ を、いとわりなう聞き苦しと思いたれば、いとほしうて、の たまひ紛らはしつつ、 「内裏にのたまはすることなむいと ほしきを、なほあからさまに参らせたてまつらん。おのがも のと領じはてては、さやうの御まじらひも難げなめる世なめ り。思ひそめきこえし心は違ふ さまなめれど、二条の大臣は心 ゆきたまふなれば、心やすくな む」など、こまかに聞こえたま ふ。あはれにも恥づかしくも聞 きたまふこと多かれど、ただ涙

にまつはれておはす。いとかう思したるさまの心苦しければ、 思すさまにも乱れたまはず、ただあるべきやう、御心づかひ を教へきこえたまふ。かしこに渡りたまはんことを、とみに も許しきこえたまふまじき御気色なり。 鬚黒、北の方を無視して玉鬘に熱中する 内裏へ参りたまはむことを、安からぬこと に大将思せど、そのついでにやがてまかで させたてまつらんの御心つきたまひて、た だあからさまのほどを許しきこえたまふ。かく忍び隠ろへた まふ御ふるまひも、ならひたまはぬ心地に苦しければ、わが 殿の内修理ししつらひて、年ごろは荒らし埋もれ、うち棄て たまへりつる御しつらひ、よろづの儀式を改めいそぎたまふ。  北の方の思し嘆くらむ御心も知りたまはず、かなしうした まひし君たちをも、目にもとめたまはず、なよびかに、情々 しき心うちまじりたる人こそ、とざまかうざまにつけても、 人のため恥ぢがましからんことをば、推しはかり思ふところ

もありけれ、ひたおもむきにすくみたまへる御心にて、人の 御心動きぬべきこと多かり。女君、人に劣りたまふべきこと なし。人の御本性も、さるやむごとなき父親王のいみじうか しづきたてまつりたまへる、おぼえ世に軽からず、御容貌な どもいとようおはしけるを、あやしう執念き御物の怪にわづ らひたまひて、この年ごろ人にも似たまはず、うつし心なき をりをり多くものしたまひて、御仲もあくがれてほど経にけ れど、やむごとなきものとは、また並ぶ人なく思ひきこえた まへるを、めづらしう御心移る方の、なのめにだにあらず、 人にすぐれたまへる御ありさまよりも、かの疑ひおきて皆人 の推しはかりしことさへ、心清くて過ぐいたまひけるなどを、 あり難うあはれと思ひ増しきこえたまふもことわりになむ。 式部卿宮の態度 北の方思いわずらう 式部卿宮聞こしめして、 「今は、しか今め かしき人を渡してもてかしづかん片隅に、 人わろくて添ひものしたまはむも、人聞き

やさしかるべし。おのがあらむこなたは、いと人わらへなる さまに従ひなびかでも、ものしたまひなん」
とのたまひて、 宮の東の対を払ひしつらひて、渡したてまつらんと思しのた まふを、親の御あたりといひながら、今は限りの身にて、た ち返り見えたてまつらむこと、と思ひ乱れたまふに、いとど 御心地もあやまりて、うちはへ臥しわづらひたまふ。本性は いと静かに心よく、児めきたまへる人の、時々心あやまりし て、人にうとまれぬべきことなん、うちまじりたまひける。 鬚黒、病む北の方の心を慰め、説得する 住まひなどのあやしうしどけなく、ものの きよらもなくやつして、いと埋れいたくも てなしたまへるを、玉を磨ける目移しに心 もとまらねど、年ごろの心ざしひき変ふるものならねば、心 にはいとあはれと思ひきこえたまふ。 「昨日今日のい と浅はかなる人の御仲らひだに、よろしき際になれば、みな 思ひのどむる方ありてこそ見はつなれ。いと身も苦しげにも

てなしたまひつれば、聞こゆべきこともうち出できこえにく くなむ。年ごろ契りきこゆることにはあらずや。世の人にも 似ぬ御ありさまを、見たてまつりはてんとこそは、ここら思 ひしづめつつ過ぐし来るに、えさしもあり果つまじき御心お きてに、思しうとむな。幼き人々もはべれば、とざまかうざ まにつけておろかにはあらじと聞こえわたるを、女の御心の 乱りがはしきままに、かく恨みわたりたまふ。一わたり見は てたまはぬほど、さもありぬべきことなれど、任せてこそい ましばし御覧じはてめ。宮の聞こしめしうとみて、さはやか にふと渡したてまつりてむと思しのたまふなん、かへりてい と軽々しき。まことに思しおきつることにやあらむ、しばし 勘事したまふべきにやあらむ」
と、うち笑ひてのたまへる、 いとねたげに心やまし。  御召人だちて、仕うまつり馴れたる木工の君、中将のおも となどいふ人々だに、ほどにつけつつ、安からずつらしと思

ひきこえたるを、北の方はうつし心ものしたまふほどにて、 いとなつかしううち泣きてゐたまへり。 「みづからをほ けたり、ひがひがしとのたまひ恥ぢしむるは、ことわりなる ことになむ。宮の御ことをさへ取りまぜのたまふぞ、漏り聞 きたまはんはいとほしう、うき身のゆかり軽々しきやうなる。 耳馴れにてはべれば、今はじめていかにもものを思ひはべら ず」とて、うち背きたまへる、らうたげなり。いとささやか なる人の、常の御悩みに痩せおとろへ、ひはづにて、髪いと けうらにて長かりけるが、分けたるやうに落ち細りて、梳る こともをさをさしたまはず、涙にまろがれたるは、いとあは れなり。こまかににほへるところはなくて、父宮に似たてま つりて、なまめいたる容貌したまへるを、もてやつしたまへ れば、いづこの華やかなるけはひかはあらむ。 「宮の御 ことを軽くはいかが聞こゆる。恐ろしう、人聞きかたはにな のたまひなしそ」とこしらへて、 「かの通ひはべる所

のいとまばゆき玉の台に、うひうひしうきすくなるさまにて 出で入るほども、方々に人目立つらんとかたはらいたければ、 心やすくうつろはしてんと思ひはべるなり。太政大臣の、さ る世にたぐひなき御おぼえをばさらにも聞こえず、心恥づか しういたり深うおはすめる御あたりに、憎げなること漏り聞 こえば、いとなんいとほしうかたじけなかるべき。なだらか にて、御仲よくて語らひてものしたまへ。宮に渡りたまへり とも、忘るることははべらじ。とてもかうても、今さらに心 ざしの隔たることはあるまじけれど、世の聞こえ人わらへに、 まろがためにも軽々しうなむはべるべきを、年ごろの契り違 へず、かたみに後見むと思せ」
と、こしらへきこえたまへば、 「人の御つらさは、ともかくも知りきこえず。世の人に も似ぬ身のうきをなむ、宮にも思し嘆きて、今さらに人わら へなること、と御心を乱りたまふなれば、いとほしう、いか でか見えたてまつらんとなむ。大殿の北の方と聞こゆるも、

他人にやはものしたまふ。かれは、知らぬさまにて生ひ出で たまへる人の、末の世にかく人の親だちもてないたまふつら さをなん、思ほしのたまふなれど、ここにはともかくも思は ずや。もてないたまはんさまを見るばかり」
とのたまへば、 「いとようのたまふを、例の御心違ひにや、苦しきこ とも出で来む。大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず。 いつきむすめのやうにてものしたまへば、かく思ひおとされ たる人の上までは知りたまひなんや。人の御親げなくこそも のしたまふべかめれ。かかることの聞こえあらば、いと苦し かべきこと」など、日一日入りゐて語らひ申したまふ。 鬚黒外出の用意 北の方火取の灰をかける 暮れぬれば、心も空に浮きたちて、いかで 出でなんと思ほすに、雪かきたれて降る。 かかる空にふり出でむも、人目いとほしう、 この御気色も、憎げにふすべ恨みなどしたまはば、なかなか ことつけて、我もむかひ火つくりてあるべきを、いとおいら

かにつれなうもてなしたまへるさまの、いと心苦しければ、 いかにせむと思ひ乱れつつ、格子などもさながら、端近うう ちながめてゐたまへり。北の方気色を見て、 「あやにくなめ る雪を、いかで分けたまはんとすらむ。夜も更けぬめりや」 とそそのかしたまふ。今は限り、とどむとも、と思ひめぐら したまへる気色、いとあはれなり。 「かかるには、い かでか」とのたまふものから、 「なほこのころばかり。 心のほどを知らで、とかく人の言ひなし、大臣たちも左右に 聞き思さんことを憚りてなん。とだえあらむはいとほしき。 思ひしづめてなほ見はてたまへ。ここになど渡してば心やす くはべりなむ。かく世の常なる御気色見えたまふ時は、外ざ まに分くる心も失せてなん、あはれに思ひきこゆる」など語 らひたまへば、 「立ちとまりたまひても、御心の外なら んは、なかなか苦しうこそあるべけれ。よそにても、思ひだ におこせたまはば、袖の氷もとけなんかし」など、なごやか

に言ひゐたまへり。  御火取召して、いよいよたきしめさせたてまつりたまふ。 みづからは、萎えたる御衣どもに、うちとけたる御姿、いと ど細うか弱げなり。しめりておはする、いと心苦し。御目の いたう泣き腫れたるぞ、すこしものしけれど、いとあはれと 見る時は、罪なう思して、いかで過ぐしつる年月ぞと、なご りなう移ろふ心のいと軽きぞや、とは思ふ思ふ、なほ心げさ うは進みて、そら嘆きをうちしつつ、なほ装束したまひて、 小さき火取とり寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり。 なつかしきほどに萎えたる御装束に、容貌も、かの並びなき 御光にこそ圧さるれど、いとあざやかに男々しきさまして、 ただ人と見えず、心恥づかしげなり。  侍所に人々声して、 「雪すこし隙あり。夜は更けぬらんか し」など、さすがにまほにはあらで、そそのかしきこえて、 声づくりあへり。中将、木工など、 「あはれの世や」などう

ち嘆きつつ、語らひて臥したるに、正身はいみじう思ひしづ めて、らうたげに寄り臥したまへり、と見るほどに、にはかに 起き上りて、大きなる籠の下なりつる火取を取り寄せて、殿 の背後に寄りて、さと沃かけたまふほど、人のやや見あふる ほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ。さるこ まかなる灰の、目鼻にも入りて、おぼほれてものもおぼえず。 払ひ棄てたまへど、立ち満ちたれば、御衣ども脱ぎたまひつ。 うつし心にてかくしたまふぞ、と思はば、またかへり見すべ くもあらずあさましけれど、例の御物の怪の、人にうとませ むとする事、と御前なる人々もいとほしう見たてまつる。立 ち騒ぎて、御衣ども奉 り換へなどすれど、そ こらの灰の、鬢のわた りにも立ちのぼり、よ ろづの所に満ちたる心-

地すれば、きよらを尽くしたまふわたりに、さながら参うで たまふべきにもあらず。心違ひとはいひながら、なほめづら しう見知らぬ人の御ありさまなりや、と爪弾きせられ、うと ましうなりて、あはれと思ひつる心も残らねど、このころ荒 だててば、いみじき事出で来なむ、と思ししづめて、夜半に なりぬれど、僧など召して、加持まゐり騒ぐ。呼ばひののし りたまふ声など、思ひうとみたまはんにことわりなり。 鬚黒、玉鬘に消息 北の方の平癒を念ずる 夜一夜、打たれ引かれ泣きまどひ明かした まひて、すこしうち休みたまへるほどに、 かしこへ御文奉れたまふ。 「昨夜に はかに消え入る人のはべしにより、雪のけしきもふり出でが たく、やすらひはべしに、身さへ冷えてなむ。御心をばさる ものにて、人いかに取りなしはべりけん」と、きすくに書き たまへり。 「心さへ空にみだれし雪もよにひとり冴えつるか

  たしきの袖 たへがたくこそ」
と白き薄様に、づしやかに書いたまへれど、 ことにをかしきところもなし。手はいときよげなり。才賢く などぞものしたまひける。尚侍の君、夜離れを何とも思され ぬに、かく心ときめきしたまへるを見も入れたまはねば、御- 返りなし。男胸つぶれて、思ひ暮らしたまふ。  北の方はなほいと苦しげにしたまへば、御修法などはじめ させたまふ。心の中にも、このごろばかりだに、事なくうつ し心にあらせたまへ、と念じたまふ。まことの心ばへのあは れなるを見ず知らずは、かうまで思ひ過ぐすべくもなきけう とさかな、と思ひゐたまへり。 鬚黒、去って玉鬘方に籠る北の方を厭う 暮るれば例の急ぎ出でたまふ。御装束のこ となども、めやすくしなしたまはず、世に あやしう、うちあはぬさまにのみむつかり たまふを、あざやかなる御直衣などもえ取りあへたまはで、

いと見苦し。昨夜のは焼けとほりて、うとましげに焦れたる 臭ひなども異様なり。御衣どもに移り香もしみたり。ふすべ られけるほどあらはに、人も倦じたまひぬべければ、脱ぎ換 へて、御湯殿など、いたうつくろひたまふ。木工の君、御薫- 物しつつ、 「独りゐてこがるる胸の苦しきに思ひあまれる炎とぞ   見し なごりなき御もてなしは、見たてまつる人だに、ただにや は」と、口おほひてゐたる、まみいといたし。されど、いか なる心にてかやうの人にものを言ひけん、などのみぞおぼえ たまひける。情なきことよ。 「うきことを思ひさわげばさまざまにくゆる煙ぞ   いとど立ちそふ いと事のほかなる事どもの、もし聞こえあらば、中間になり ぬべき身なめり」と、うち嘆きて出でたまひぬ。

 一夜ばかりの隔てだに、まためづらしうをかしさまさりて おぼえたまふありさまに、いとど心を分くべくもあらずおぼ えて心憂ければ、久しう籠りゐたまへり。  修法などし騒げど、御物の怪こちたく起こりてののしるを 聞きたまへば、あるまじき疵もつき、恥ぢがましき事必ずあ りなんと、恐ろしうて寄りつきたまはず。殿に渡りたまふ時 も、他方に離れゐたまひて、君たちばかりをぞ、呼び放ちて 見たてまつりたまふ。女一ところ、十二三ばかりにて、また 次々男二人なんおはしける。近き年ごろとなりては、御仲も 隔りがちにてならはしたまへれど、やむごとなう立ち並ぶ方 なくてならひたまへれば、今は限りと見たまふに、さぶらふ 人々もいみじう悲しと思ふ。 式部卿宮、北の方を引き取ろうとする 父宮聞きたまひて、 「今は、しかかけ離れ てもて出でたまふらむに、さて心強くもの したまふ、いと面なう人笑へなることなり。

おのがあらむ世の限りは、ひたぶるにしも、などか従ひくづ ほれたまはむ」
と聞こえたまひて、にはかに御迎へあり。  北の方、御心地すこし例になりて、世の中をあさましう思 ひ嘆きたまふに、かくと聞こえたまへれば、 「強ひて立ちと まりて、人の絶えはてんさまを見はてて思ひとぢめむも、い ますこし人笑へにこそあらめ」など思し立つ。  御せうとの君たち、兵衛督は上達部におはすればことごと しとて、中将、侍従、民部大輔など、御車三つばかりしてお はしたり。さこそはあべかめれ、とかねて思ひつることなれ ど、さし当りて今日を限りと思へば、さぶらふ人々もほろほ ろと泣きあへり。 「年ごろならひたまはぬ旅住みに、狭くは したなくては、いかでかあまたはさぶらはん。かたへはおの おの里にまかでて、静まらせたまひなむに」などさだめて、 人々おのがじし、はかなき物どもなど里に払ひやりつつ、乱 れ散るべし。

 御調度どもは、さるべきはみなしたためおきなどするまま に、上下泣き騒ぎたるは、いとゆゆしく見ゆ。君たちは何心 もなくて歩きたまふを、母君みな呼びすゑたまひて、 「み づからは、かく心憂き宿世、今は見はてつれば、この世に跡 とむべきにもあらず、ともかくもさすらへなん。生ひ先遠う て、さすがに、散りぼひたまはんありさまどもの、悲しうも あべいかな。姫君は、となるともかうなるとも、おのれに添 ひたまへ。なかなか、男君たちは、え避らず参うで通ひ見え たてまつらんに、人の心とどめたまふべくもあらず、はした なうてこそ漂はめ。宮のお はせんほど、型のやうにま じらひをすとも、かの大臣 たちの御心にかかれる世に て、かく心おくべきわたり ぞ、とさすがに知られて、

人にもなり立たむこと難し。さりとて山林に引きつづきま じらむこと、後の世までいみじきこと」
と泣きたまふに、み な深き心は思ひわかねど、うち顰みて泣きおはさうず。 「昔- 物語などを見るにも、世の常の心ざし深き親だに、時に移ろ ひ人に従へば、おろかにのみこそなりけれ。まして、型のや うにて、見る前にだになごりなき心は、懸り所ありてももて ないたまはじ」と、御乳母どもさし集ひてのたまひ嘆く。 真木柱、嘆きの歌を残す 女房たちの悲別 日も暮れ、雪降りぬべき空のけしきも心細 う見ゆる夕なり。 「いたう荒れはべりなん。 早う」と御迎への君達そそのかしきこえて、 御目おし拭ひつつながめおはす。姫君は、殿いとかなしうし たてまつりたまふならひに、 「見たてまつらではいかでかあ らむ、いまなども聞こえで、また逢ひ見ぬやうもこそあれ」 と思ほすに、うつぶし臥して、え渡るまじと思ほしたるを、 「かく思したるなん、いと心憂き」などこしらへきこえ

たまふ。ただ今も渡りたまはなん、と待ちきこえたまへど、 かく暮れなむに、まさに動きたまひなんや。常に寄りゐたま ふ東面の柱を人にゆづる心地したまふもあはれにて、姫君、 檜皮色の紙の重ね、ただいささかに書きて、柱の乾割れたる はさまに、笄*の先して押し入れたまふ。 今はとて宿離れぬとも馴れきつる真木の柱はわれ   を忘るな えも書きやらで泣きたまふ。母君、 「いでや」とて、 馴れきとは思ひいづとも何により立ちとまるべき   真木の柱ぞ 御前なる人々もさまざまに悲しく、さしも思はぬ木草のもと さへ、恋しからんことと目とどめて、鼻すすりあへり。  木工の君は、殿の御方の人にてとどまるに、中将のおもと、 「浅けれど石間の水はすみはてて宿もる君やかけはなる   べき

思ひかけざりしことなり。かくて別れたてまつらんことよ」
と言ヘば、木工、 「ともかくも岩間の水の結ぼほれかけとむべくも思ほえ   ぬ世を いでや」とてうち泣く。御車引き出でてかへり見るも、また はいかでかは見むと、はかなき心地す。梢をも目とどめて、 隠るるまでぞかへり見たまひける。君が住むゆゑにはあらで、 ここら年経たまへる御住み処の、いかでか偲びどころなくは あらむ。 式部卿宮の北の方、源氏を憎みののしる 宮には待ちとり、いみじう思したり。母北 の方泣き騒ぎたまひて、 「太政大臣をめで たきよすがと思ひきこえたまへれど、いか ばかりの昔の仇敵にかおはしけむ、とこそ思ほゆれ。女御を も、事にふれ、はしたなくもてなしたまひしかど、それは、 御仲の恨みとけざりしほど、思ひ知れとにこそはありけめ、

と思しのたまひ、世の人も言ひなししだに、なほさやはある べき、人ひとりを思ひかしづきたまはんゆゑは、ほとりまで もにほふ例こそあれ、と心得ざりしを、ましてかく末に、すず ろなる継子かしづきをして、おのれ古したまへるいとほしみ に、実法なる人のゆるぎ所あるまじきをとて、取り寄せもて かしづきたまふは、いかがつらからぬ」
と、言ひつづけのの しりたまへば、宮は、 「あな聞きにくや。世に難つけられた まはぬ大臣を、口にまかせてなおとしめたまひそ。賢き人は、 思ひおき、かかる報もがなと、思ふことこそはものせられけ め。さ思はるるわが身の不幸なるにこそはあらめ。つれなう て、みなかの沈みたまひし世の報は、浮かべ沈め、いと賢く こそは思ひわたいたまふめれ。おのれ一人をば、さるべきゆ かりと思ひてこそは、一年も、さる世の響きに、家よりあま る事どももありしか。それをこの生の面目にてやみぬべきな めり」とのたまふに、いよいよ腹立ちて、まがまがしきこと

などを言ひ散らしたまふ。この大北の方ぞさがな者なりける。 鬚黒、式部卿宮家を訪れ、冷遇されて帰る 大将の君、かく渡りたまひにけるを聞きて、 「いとあやしう、若々しき仲らひのやうに、 ふすべ顔にてものしたまひけるかな。正身 は、しか引ききりに際々しき心もなきものを、宮のかく軽々 しうおはする」と思ひて、君達もあり、人目もいとほしきに 思ひ乱れて、尚侍の君に、 「かくあやしきことなんは べなる。なかなか心やすくは思ひたまへなせど、さて片隅に 隠ろへてもありぬべき人の心やすさを、おだしう思ひたまへ つるに、にはかにかの宮のしたまふならむ。人の聞き見るこ とも情なきを、うちほのめきて参り来なむ」とて出でたまふ。 よき表の御衣、柳の下襲、青鈍の綺の指貫着たまひてひきつ くろひたまへる、いとものものし。などかは似げなからむ、 と人々は見たてまつるを、尚侍の君は、かかることどもを聞 きたまふにつけても、身の心づきなう思し知らるれば、見も

やりたまはず。  宮に恨みきこえむとて、参うでたまふままに、まづ殿にお はしたれば、木工の君など出で来て、ありしさま語りきこゆ。 姫君の御ありさま聞きたまひて、男々しく念じたまへど、ほ ろほろとこぼるる御気色、いとあはれなり。 「さても、 世の人にも似ず、あやしきことどもを見過ぐすここらの年ご ろの心ざしを、見知りたまはずありけるかな。いと思ひのま まならむ人は、今までも立ちとまるべくやはある。よし、か の正身は、とてもかくても、いたづら人と見えたまへば、同 じことなり。幼き人々も、いかやうにもてなしたまはむとす らむ」と、うち嘆きつつ、かの真木柱を見たまふに、手も幼 けれど、心ばへのあはれに恋しきままに、道すがら涙おし拭 ひつつ参うでたまへれば、対面したまふべくもあらず。 「何か。ただ時に移る心の、今はじめて変りたまふ にもあらず。年ごろ思ひうかれたまふさま聞きわたりても久

しくなりぬるを、いづくをまた思ひ直るべきをりとか待たむ。 いとどひがひがしきさまにのみこそ見えはてたまはめ」
と、 諫め申したまふ、ことわりなり。 「いと若々しき心地も しはべるかな。思ほし棄つまじき人々もはべればと、のどか に思ひはべりける心のおこたりを、かへすがへす聞こえても やる方なし。今は、ただなだらかに御覧じゆるして、罪避り どころなう、世人にもことわらせてこそ、かやうにももてな いたまはめ」など、聞こえわづらひておはす。 「姫君をだに 見たてまつらむ」と聞こえたまへれど、出だしたてまつるべ くもあらず。男君たち、十なるは殿上したまふ。いとうつく し。人にほめられて、容貌などようはあらねど、いとらうら うじう、ものの心やうやう知りたまへり。次の君は、八つば かりにて、いとらうたげに、姫君にもおぼえたれば、かき撫 でつつ、 「吾子をこそは、恋しき御形見にも見るべか めれ」など、うち泣きて語らひたまふ。宮にも御気色賜はら

せたまへど、 「風邪おこりて、ためらひはべるほどに て」とあれば、はしたなくて出でたまひぬ。 鬚黒、男君たちを連れ帰る 紫の上の立場 小君達をば車に乗せて、語らひおはす。六- 条殿にはえ率ておはせねば、殿にとどめて、 「なほここにあれ。来て見んにも心 やすかるべく」とのたまふ。うちながめていと心細げに見送 りたるさまどもいとあはれなるに、もの思ひ加はりぬる心地 すれど、女君の御さまの見るかひありてめでたきに、ひがひ がしき御さまを思ひくらぶ るにもこよなくて、よろづ を慰めたまふ。  うち絶えて訪れもせず。 はしたなかりしにことつけ 顔なるを、宮にはいみじう めざましがり嘆きたまふ。

 春の上も聞きたまひて、 「ここにさへ恨みらるるゆゑ になるが苦しきこと」と嘆きたまふを、大臣の君、いとほし と思して、 「難きことなり。おのが心ひとつにもあらぬ人 のゆかりに、内裏にも心おきたるさまに思したなり。兵部卿- 宮なども、怨じたまふと聞きしを、さいへど、思ひやり深う おはする人にて、聞きあきらめ、恨みとけたまひにたなり。 おのづから、人の仲らひは忍ぶることと思へど、隠れなきも のなれば、しか思ふべき罪もなしとなん思ひはべる」とのた まふ。 鬚黒、思案の末、玉鬘を参内させる かかる事どもの騒ぎに、尚侍の君の御気色 いよいよ晴れ間なきを、大将はいとほしと 思ひあつかひきこえて、 「この参りたまは むとありしことも絶えきれて、妨げきこえつるを、内裏にも なめく心あるさまに聞こしめし、人々も思すところあらむ。 公人を頼みたる人はなくやはある」と思ひ返して、年返り

て参らせたてまつりたまふ。男踏歌ありければ、やがてその ほどに、儀式いといかめしう二なくて参りたまふ。方々の大- 臣たち、この大将の御勢さへさしあひ、宰相中将ねむごろ に心しらひきこえたまふ。せうとの君たちも、かかるをりに と集ひ、追従し寄りて、かしづきたまふさまいとめでたし。  承香殿の東面に御局したり。西に宮の女御はおはしけ れば、馬道ばかりの隔てなるに、御心の中は遙かに隔たりけ んかし。御方々いづれともなくいどみかはしたまひて、内裏 わたり心にくくをかしきころほひなり。ことに乱りがはしき 更衣たち、あまたもさぶらひたまはず。中宮、弘徽殿女御、 この宮の女御、左の大殿の女御などさぶらひたまふ。さては 中納言宰相の御むすめ二人ばかりぞさぶらひたまひける。 男踏歌、諸所を廻る 玉鬘の局での接待 踏歌は方々に里人参り、さまことにけにに ぎははしき見物なれば、誰も誰もきよらを 尽くし、袖口の重なりこちたくめでたくと

とのへたまふ。春宮の女御も、いと華やかにもてなしたまひ て、宮はまだ若くおはしませど、すべていと今めかし。  御前、中宮の御方、朱雀院とに参りて、夜いたう更けにけ れば、六条院には、このたびはところせしと省きたまふ。朱雀- 院より帰り参りて、春宮の御方々めぐるほどに夜明けぬ。  ほのぼのとをかしき朝ぼらけに、いたく酔ひ乱れたるさま して、竹河うたひけるほどを見れば、内の大殿の君達は四 五人ばかり、殿上人の中に声すぐれ、容貌きよげにてうちつ づきたまへる、いとめでたし。童なる八郎君はむかひ腹にて、 いみじうかしづきたまふが、いとうつくしうて、大将殿の太- 郎君と立ち並みたるを、尚侍の君も他人と見たまはねば、御- 目とまりけり。やむごとなくまじらひ馴れたまへる御方々よ りも、この御局の袖口、おほかたのけはひ今めかしう、同じ ものの色あひ重なりなれど、ものよりことに華やかなり。正- 身も女房たちも、かやうに御心やりてしばしは過ぐいたまは

ましと思ひあへり。みな同じごとかづけわたす綿のさまも、 にほひことにらうらうじうしないたまひて、こなたは水駅な りけれど、けはひにぎははしく、人々心げさうしそして、限 りある御饗応などの事どももしたるさま、ことに用意ありて なむ大将殿せさせたまへりける。 鬚黒、玉鬘の宮中退出を願い促す 宿直所にゐたまひて、日一日聞こえ暮らし たまふことは、 「夜さりまかでさせ たてまつりてん。かかるついでにと思し移 るらん御宮仕なむやすからぬ」とのみ、同じことを責めきこ えたまへど、御返りなし。さぶらふ人々ぞ、 「大臣の、心あ わたたしきほどならで、まれまれの御参りなれば、御心ゆか せたまふばかり、聴許ありてをまかでさせたまへ、と聞こえ させたまひしかば、今宵はあまりすがすがしうや」と聞こえ たるを、いとつらしと思ひて、 「さばかり聞こえしも のを、さも心にかなはぬ世かな」とうち嘆きてゐたまへり。 兵部卿宮の消息 帝の御渡りと玉鬘の困惑

兵部卿宮、御前の御遊びにさぶらひたまひ て、静心なく、この御局のあたり思ひやら れたまへば、念じあまりて聞こえたまへり。 大将は衛府の御曹司にぞおはしける。それよりとて取り入れ たれば、しぶしぶに見たまふ。 「深山木に羽翼うちかはしゐる鳥のまたなくねたき春   にもあるかな 囀る声も耳とどめられてなん」とあり。いとほしう面赤みて、 聞こえん方なく思ひゐたまへるに、上渡らせたまふ。  月の明きに、御容貌はいふよしなくきよらにて、ただかの 大臣の御けはひに違ふところなくおはします。かかる人はま たもおはしけり、と見たてまつりたまふ。かの御心ばへは浅 からぬも、うたてもの思ひ加はりしを、これはなどかはさし もおぼえさせたまはん。いとなつかしげに、思ひしことの違 ひにたる恨みをのたまはするに、面おかん方なくぞおぼえた

まふや。顔をもて隠して、御答へも聞こえたまはねば、 「あ やしうおぼつかなきわざかな。よろこびなども、思ひ知りた まはんと思ふことあるを、聞き入れたまはぬさまにのみある は、かかる御癖なりけり」とのたまはせて、 「などてかくはひあひがたき紫をこころに深く思ひそ   めけむ 濃くなりはつまじきにや」と仰せらるるさま、いと若くきよ らに恥づかしきを、違ひたまへるところやある、と思ひ慰め て聞こえたまふ。宮仕の臈もなくて、今年加階したまへる心 にや。 「いかならん色とも知らぬ紫をこころしてこそ人はそ   めけれ 今よりなむ思ひたまへ知るべき」と聞こえたまへば、うち笑 みて、 「その今よりそめたまはんこそ、かひなかべいこと なれ。愁ふべき人あらば、ことわり聞かまほしくなむ」と、

いたう恨みさせたまふ御気色のまめやかにわづらはしけれ ば、いとうたてもあるかなとおぼえて、をかしきさまをも見 えたてまつらじ、むつかしき世の癖なりけり、と思ふに、ま めだちてさぶらひたまへば、え思すさまなる乱れ言もうち出 でさせたまはで、やうやうこそは目馴れめと思しけり。 玉鬘、宮中を退出する 帝と歌を詠み交す 大将は、かく渡らせたまへるを聞きたまひ て、いとど静心なければ、急ぎまどはした まふ。みづからも、似げなきことも出で来 ぬべき身なりけりと心憂きに、えのどめたまはず、まかでさ せたまふべきさま、つきづきしきことつけども作り出でて、 父大臣など、賢くたばかりたまひてなん、御暇ゆるされたま ひける。 「さらば。もの懲りしてまた出だし立てぬ人もぞ ある。いとこそからけれ。人より先に進みにし心ざしの、人 に後れて、気色とり従ふよ。昔のなにがしが例もひき出でつ べき心地なむする」とて、まことにいと口惜しと思しめし

たり。  聞こしめししにもこよなき近まさりを、はじめよりさる御- 心なからんにてだにも、御覧じ過ぐすまじきを、まいていと ねたう、飽かず思さる。されど、ひたぶるに浅き方に思ひう とまれじとて、いみじう心深きさまにのたまひ契りてなつけ たまふも、かたじけなう、我は我と思ふものをと思す。  御輦車寄せて、こなたかなたの御かしづき人ども心もとな がり、大将もいとものむつかしうたち添ひ騒ぎたまふまで、 えおはしまし離れず。 「かういときびしき近き衛りこそむ つかしけれ」と憎ませたまふ。 九重にかすみへだてば梅の花ただかばかりも匂ひこじ  とや ことなることなき言なれども、御ありさまけはひを見たてま つるほどは、をかしくもやありけん。 「野をなつかしみ明 かいつべき夜を、惜しむべかめる人も、身をつみて心苦しう

なむ。いかでか聞こゆべき」
と思し悩むも、いとかたじけな しと見たてまつる。 かばかりは風にもつてよ花の枝に立ちならぶべきに   ほひなくとも さすがにかけ離れぬけはひを、あはれと思しつつ、かへり見 がちにて渡らせたまひぬ。 鬚黒、玉鬘を自邸に退出させる やがて、今宵、かの殿にと思しまうけたる を、かねてはゆるされあるまじきにより、 漏らしきこえたまはで、 「にはかに いと乱り風邪の悩ましきを、心やすき所にうち休みはべらむ ほど、よそよそにてはいとおぼつかなくはべらむを」と、お いらかに申しないたまひて、やがて渡したてまつりたまふ。 父大臣、にはかなるを、儀式なきやうにやと思せど、あなが ちにさばかりのことを言ひさまたげんも人の心おくべしと思 せば、 「ともかくも。もとより進退ならぬ人の御ことな

れば」
とぞ聞こえたまひける。  六条殿ぞ、いとゆくりなく本意なしと思せど、などかはあ らむ。女も、塩やく煙のなびきける方をあさましと思せど、 盗みもて行きたらましと思しなずらへて、いとうれしく心地 落ちゐぬ。かの入りゐさせたまへりしことを、いみじう怨じ きこえさせたまふも、心づきなく、なほなほしき心地して、 世には心とけぬ御もてなし、いよいよ気色あし。  かの宮にも、さこそ猛うのたまひしか、いみじう思しわぶ れど、絶えて訪れず。ただ思ふことかなひぬる御かしづきに、 明け暮れいとなみて過ぐしたまふ。 源氏、玉鬘互いに旧交を恋い偲ぶ 二月にもなりぬ。大殿は、さてもつれなき わざなりや、いとかう際々しうとしも思は でたゆめられたる妬さを、人わろく、すべ て御心にかからぬをりなく、恋しう思ひ出でられたまふ。宿- 世などいふものおろかならぬことなれど、わがあまりなる心

にて、かく人やりならぬものは思ふぞかし、と起き臥し面影 にぞ見えたまふ。大将の、をかしやかにわららかなる気もな き人にそひゐたらむに、はかなき戯れ言もつつましうあいな く思されて、念じたまふを、雨いたう降りていとのどやかな るころ、かやうのつれづれも紛らはし所に渡りたまひて、語 らひたまひしさまなどの、いみじう恋しければ、御文奉りた まふ。右近がもとに忍びてつかはすも、かつは思はむことを 思すに、何ごともえつづけたまはで、ただ思はせたることど もぞありける。 「かきたれてのどけきころの春雨にふるさと人をいか   に忍ぶや つれづれに添へても、恨めしう思ひ出でらるること多うはべ るを、いかでかは聞こゆべからむ」などあり。  隙に忍びて見せたてまつれば、うち泣きて、わが心にもほ ど経るままに思ひ出でられたまふ御さまを、まほに、 「恋し

や、いかで見たてまつらん」
などはえのたまはぬ親にて、げ に、いかでかは対面もあらむとあはれなり。時々むつかしか りし御気色を、心づきなう思ひきこえしなどは、この人にも 知らせたまはぬことなれば、心ひとつに思しつづくれど、右- 近はほの気色見けり。いかなりけることならむとは、今に心- 得がたく思ひける。御返り、 「聞こゆるも恥づかしけれど、 おぼつかなくやは」とて、書きたまふ。 「ながめする軒のしづくに袖ぬれてうたかた人をしの   ばざらめや ほどふるころは、げにことなるつれづれもまさりはべりけり。 あなかしこ」とゐやゐやしく書きなしたまへり。  ひきひろげて、玉水のこぼるるやうに思さるるを、人も見 ばうたてあるべしとつれなくもてなしたまへど、胸に満つ 心地して、かの昔の、尚侍の君を朱雀院の后の切にとり籠 めたまひしをりなど思し出づれど、さし当りたることなれば

にや、これは世づかずぞあはれなりける。 「すいたる人は、 心からやすかるまじきわざなりけり。今は何につけてか心を も乱らまし。似げなき恋のつまなりや」と、さましわびたま ひて、御琴掻き鳴らして、なつかしう弾きなしたまひし爪音 思ひ出でられたまふ。あづまの調べをすが掻きて、 「玉藻 はな刈りそ」と、うたひすさびたまふも、恋しき人に見せた らば、あはれ過ぐすまじき御さまなり。 帝、玉鬘の恋情に苦しむ 玉鬘の胸中 内裏にも、ほのかに御覧ぜし御容貌ありさ まを心にかけたまひて、 「赤裳垂れ引き いにし姿を」と、憎げなる古言なれど、 御言ぐさになりてなむ、ながめさせたまひける。御文は忍び 忍びにありけり。身をうきものに思ひしみたまひて、かやう のすさびごとをもあいなく思しければ、心とけたる御答へも 聞こえたまはず。なほ、かのあり難かりし御心おきてを、方- 方につけて思ひしみたまへる御ことぞ、忘られざりける。 源氏、玉鬘に文を贈る 鬚黒、返事を代筆

三月になりて、六条殿の御前の藤山吹の おもしろき夕映えを見たまふにつけても、 まづ見るかひありてゐたまへりし御さまの み思し出でらるれば、春の御前をうち棄てて、こなたに渡り て御覧ず。呉竹の籬に、わざとなう咲きかかりたるにほひ、 いとおもしろし。 「色に衣を」などのたまひて、 「思はずに井手のなか道へだつともいはでぞ恋ふる山-   吹の花 顔に見えつつ」などのたまふも、聞く人なし。かくさすがに もて離れたることは、 このたびぞ思しける。 げにあやしき御心の すさびなりや。鴨の 卵のいと多かるを御- 覧じて、柑子橘な

どやうに紛らはして、わざとならず奉れたまふ。御文は、あ まり人もぞ目立つるなど思して、すくよかに、 おぼつかなき月日も重なりぬるを、思はずなる御も   てなしなりと恨みきこゆるも、御心ひとつにのみはある   まじう聞きはべれば、ことなるついでならでは、対面の   難からんを、口惜しう思ひたまふる。 など、親めき書きたまひて、 「おなじ巣にかへりしかひの見えぬかないかなる人か手   ににぎるらん などかさしもなど、心やましうなん」などあるを、大将も見 たまひて、うち笑ひて、 「女は、実の親の御あたりに も、たはやすくうち渡り見えたてまつりたまはむこと、つい でなくてあるべきことにあらず。まして、なぞこの大臣の、 をりをり思ひ放たず恨み言はしたまふ」とつぶやくも、憎し と聞きたまふ。 「御返り、ここにはえ聞こえじ」と、書き

にくく思いたれば、 「まろ聞こえん」とかはるもかた はらいたしや。 「巣がくれて数にもあらぬかりのこをいづ方にか   はとりかくすべき よろしからぬ御気色におどろきて。すきずきしや」と聞こえ たまへり。 「この大将の、かかるはかなしごと言ひたるも、 まだこそ聞かざりつれ。めづらしう」 とて笑ひたまふ。心の 中には、かく領じたるを、いとからしと思す。 鬚黒の男君たち玉鬘に懐く 真木柱の悲しみ かのもとの北の方は、月日隔たるままに、 あさましとものを思ひ沈み、いよいよほけ 痴れてものしたまふ。大将殿の、おほかた のとぶらひ何ごとをもくはしう思しおきて、君達をば変らず 思ひかしづきたまへば、えしもかけ離れたまはず、まめやか なる方の頼みは同じことにてなむものしたまひける。姫君を ぞたへがたく恋ひきこえたまへど、絶えて見せたてまつりた

まはず。若き御心の中に、この父君を、誰も誰もゆるしなう恨 みきこえて、いよいよ隔てたまふことのみまされば、心細く 悲しきに、男君たちは常に参り馴れつつ、尚侍の君の御あり さまなどをも、おのづから事にふれてうち語りて、 「まろら をも、らうたくなつかしうなんしたまふ。明け暮れをかしき ことを好みてものしたまふ」など言ふに、うらやましう、か やうにてもやすらかにふるまふ身ならざりけんを嘆きたまふ。  あやしう、男女につけつつ、人にものを思はする尚侍の君 にぞおはしける。 玉鬘、鬚黒の男子を誕生する 柏木の感想 その年の十一月に、いとをかしき児をさへ 抱き出でたまへれば、大将も、思ふやうに めでたしと、もてかしづきたまふこと限 りなし。そのほどのありさま、言はずとも思ひやりつべきこ とぞかし。父大臣も、おのづから思ふやうなる御宿世と思し たり。わざとかしづきたまふ君達にも、御容貌などは劣りた

まはず。頭中将も、この尚侍の君をいとなつかしきはらから にて、睦びきこえたまふものから、さすかなる御気色うちま ぜつつ、宮仕にかひありてものしたまはましものをと、この 若君のうつくしきにつけても、 「今まで皇子たちのおはせ ぬ嘆きを見たてまつるに、いかに面目あらまし」と、あまり 事をぞ思ひてのたまふ。公事はあるべきさまに知りなどし つつ、参りたまふことぞ、やがてかくてやみぬべかめる。さ てもありぬべきことなりかし。 近江の君、弘徽殿の御前で夕霧に懸想する まことや、かの内の大殿の御むすめの、 尚侍のぞみし君も、さるものの癖なれば、 色めかしうさまよふ心さへ添ひて、もてわ づらひたまふ。女御も、つひにあはあはしき事この君ぞひき 出でんと、ともすれば御胸つぶしたまへど、大臣の、 「今は なまじらひそ」と、制しのたまふをだに聞き入れず、まじら ひ出でてものしたまふ。いかなるをりにかありけむ、殿上人

あまた、おぼえことなるかぎり、この女御の御方に参りて、 物の音など調べ、なつかしきほどの拍子うち加へて遊ぶ、秋 の夕のただならぬに、宰相中将も寄りおはして、例ならず 乱れてものなどのたまふを、人々めづらしがりて、 「なほ 人よりことにも」とめづるに、この近江の君、人々の中を押 し分けて出でゐたまふ。 「あなうたてや。こはなぞ」と引き 入るれど、いとさがなげに睨みて、張りゐたれば、わづらは しくて、 「奥なきことやのたまひ出でん」とつきかはすに、 この世に目馴れぬまめ人をしも、 「これぞな」などめ でて、さざめき騒ぐ声いとしるし。人々いと苦しと思ふに、 声いとさはやかにて、 「おきつ舟よるべなみ路にただよはば棹さしよら   むとまり教へよ 棚無し小舟漕ぎかへり、同じ人をや。あなわるや」と言ふを いとあやしう、この御方には、かう用意なきこと聞こえぬも

のを、と思ひまはすに、この聞く人なりけり、とをかしうて、 よるべなみ風のさわがす舟人もおもはぬかたに磯づ   たひせず とて、はしたなかめりとや。 A Branch of Plum 明石の姫君の裳着と六条院の薫物合せ

御裳着のこと思しいそぐ御心おきて、世の 常ならず。春宮も同じ二月に、御かうぶり のことあるべければ、やがて御参りもうち つづくべきにや。  正月のつごもりなれば、公私のどやかなるころほひに、 薫物合はせたまふ。大弐の奉れる香ども御覧ずるに、なほい にしへのには劣りてやあらむと思して、二 条院の御倉開けさ せたまひて、唐の物ども取り渡させたまひて、御覧じくらぶ るに、 「錦綾なども、なほ古き物こそなつかしうこまやか にはありけれ」とて、近き御しつらひのものの覆、敷物、褥な どの端どもに、故院の御世のはじめつ方、高麗人の奉れりけ る綾緋金錦どもなど、今の世の物に似ず、なほさまざま御覧

じ当てつつせさせた まひて、このたびの 綾羅などは人々に 賜はす。香どもは、 昔今の取り並べさせたまひて、御方々に配りたてまつらせた まふ。 「二種づつ合はせさせたまへ」と、聞こえさせたまへ り。贈物、上達部の禄など、世になきさまに、内にも外にも 事しげく営みたまふにそへて、方々に選りととのへて、鉄臼 の音耳かしがましきころなり。  大臣は、寝殿に離れおはしまして、承和の御いましめの二 つの方を、いかでか御耳には伝へたまひけん、心にしめて合 はせたまふ。上は、東の中の放出に、御しつらひことに深う しなさせたまひて、八条の式部卿の御方を伝へて、かたみに いどみ合はせたまふほど、いみじう秘したまへば、 「匂ひの 深さ浅さも、勝負の定めあるべし」と、大臣のたまふ。人の

御親げなき御争ひ心なり。いづ方にも、御前にさぶらふ人あ またならず。御調度どもも、そこらのきよらを尽くしたまへ る中にも、香壼の御箱どものやう、壼の姿、火取の心ばへも 目馴れぬさまに、今めかしう、やう変へさせたまへるに、所 どころの心を尽くしたまへらむ匂ひどもの、すぐれたらむど もを、嗅ぎ合はせて入れんと思すなりけり。 御方々の薫物を試み兵部卿宮その判をする 二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅- 梅盛りに、色も香も似るものなきほどに、 兵部卿宮渡りたまへり。御いそぎの今日明- 日になりにけること、ととぶらひ聞こえたまふ。昔よりとり わきたる御仲なれば、隔てなく、そのことかのことと聞こえ あはせたまひて、花をめでつつおはするほどに、前斎院より とて、散りすきたる梅の枝につけたる御文持て参れり。宮、 聞こし召すこともあれば、 「いかなる御消息のすすみ参れ るにか」とて、をかしと思したれば、ほほ笑みて、 「いと

馴れ馴れしきこと聞こえつけたりしを、まめやかに急ぎもの したまへるなめり」
とて、御文はひき隠したまひつ。  沈の箱に、瑠璃の坏二つ据ゑて、大きにまろがしつつ入れ たまへり。心葉、紺瑠璃には五葉の枝、白きには梅を彫りて、 同じくひき結びたる糸のさまも、なよびかになまめかしうぞ したまへる。 「艶なるもののさまかな」とて、御目とどめ たまへるに、 花の香は散りにし枝にとまらねどうつらむ袖にあさ   くしまめや ほのかなるを御覧じつけて、宮はことごとしう誦じたまふ。 宰相中将、御使尋ねとどめさせたまひて、いたう酔はした まふ。紅梅襲の唐の細長添へたる女の装束かづけたまふ。御- 返りもその色の紙にて、御前の花を折らせてつけさせたまふ。 宮、 「内のこと思ひやらるる御文かな。何ごとの隠ろへある にか。深く隠したまふ」と恨みて、いとゆかしと思したり。

「何ごとかははべらむ。隈々しく思したるこそ苦しけれ」 とて、御硯のついでに、 花の枝にいとど心をしむるかな人のとがめん香をば   つつめど とやありつらむ。 「まめやかにはすきずきしきやうなれど、またもなかめ る人の上にて、これこそは道理の営みなめれと、思ひたまへ なしてなん。いと見にくければ、疎き人はかたはらいたさに、 中宮まかでさせたてまつりてと思ひたまふる。親しきほどに 馴れきこえ通へど、恥づかしきところの深うおはする宮なれ ば、何ごとも世の常にて見せたてまつらん、かたじけなくて なむ」など、聞こえたまふ。 「あえものも、げにかならず 思しよるべきことなりけり」と、ことわり申したまふ。  このついでに、御方々の合はせたまふども、おのおの御使 して、 「この夕暮のしめりに試みん」と聞こえたまへれば、

さまざまをかしうしなして奉りたまへり。 「これ分かせた まへ。誰にか見せん」と聞こえたまひて、御火取ども召して 試みさせたまふ。 「知る人にもあらずや」と卑下したまへ ど、言ひ知らぬ匂ひどもの、進み、後れたる、香一種などが、 いささかの咎をわきて、あながちに劣りまさりのけぢめをお きたまふ。かのわが御二種のは、今ぞ取う出させたまふ。右- 近の陣の御溝水のほとりになずらへて、西の渡殿の下より出 づる、汀近う埋ませたまへるを、惟光の宰相の子の兵衛尉掘 りてまゐれり。宰相中将取りて伝へまゐらせたまふ。宮、 「いと苦しき判者にも当りてはべるかな。いとけぶたしや」 と悩みたまふ。同じうこそは、いづくにも散りつつひろごる べかめるを、人々の心々に合はせたまへる、深さ浅さを嗅ぎ 合はせたまへるに、いと興あること多かり。  さらにいづれともなき中に、斎院の御黒方、さ言へども、 心にくく静やかなる匂ひことなり。侍従は、大臣の御は、す

ぐれてなまめかしうなつかしき香なりと定めたまふ。対の上 の御は、三種ある中に、梅花はなやかに今めかしう、すこし はやき心しらひをそへて、めづらしき薫り加はれり。 「この ごろの風にたぐへんには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」 とめでたまふ。夏の御方には、人々の香心々にいどみたまふ なる中に、数々にも立ち出でずやと、けぶりをさへ思ひ消え たまへる御心にて、ただ荷葉を一種合はせたまへり。さま変 り、しめやかなる香して、あはれになつかし。冬の御方にも、 時々によれる匂ひの定まれるに、消たれんもあいなしと思し て、薫衣香の方のすぐれたるは、前の朱雀院のをうつさせた まひて、公忠朝臣の、ことに選び仕うまつれりし百歩の方な ど思ひえて、世に似ずなまめかしさをとり集めたる、心おき てすぐれたりと、いづれをも無徳ならず定めたまふを、 「心ぎたなき判者なめり」と聞こえたまふ。 薫物の試みを終えて、月前の酒宴を催す

月さし出でぬれば、大御酒などまゐりて、 昔の御物語などしたまふ。霞める月の影心 にくきを、雨のなごりの風すこし吹きて、 花の香なつかしきに、殿のあたりいひ知らず匂ひみちて、人 の御心地いと艶なり。  蔵人所の方にも、明日の御遊びのうち馴らしに、御琴ども の装束などして、殿上人などあまた参りて、をかしき笛の音 ども聞こゆ。内の大殿の頭中将、弁少将なども、見参ばかり にてまかづるを、とどめさせたまひて、御琴ども召す。宮の 御前に琵琶、大臣に筝の御琴まゐりて、頭中将和琴賜はりて、 華やかに掻きたてたるほど、いとおもしろく聞こゆ。宰相中- 将横笛吹きたまふ。をりにあひたる調子、雲ゐとほるばかり 吹きたてたり。弁少将拍子とりて、梅が枝出だしたるほど、 いとをかし。童にて、韻塞のをり、高砂うたひし君なり。宮 も大臣もさしいらへしたまひて、ことごとしからぬものから、

をかしき夜の御遊びなり。御土器まゐるに、宮、 「うぐひすのこゑにやいとどあくがれん心しめつる花   のあたりに 千代も経ぬべし」と聞こえたまへば、 色も香もうつるばかりにこの春は花さく宿をかれず   もあらなん 頭中将に賜へば、とりて宰相中将にさす。 うぐひすのねぐらの枝もなびくまでなほ吹きとほせ   夜はの笛竹 宰相中将、 「心ありて風の避くめる花の木にとりあへぬまで吹き   やよるべき 情なく」と、みなうち笑ひたまふ。弁少将、 かすみだに月と花とをへだてずはねぐらの鳥もほ   ころびなまし

 まことに明け方になりてぞ、宮帰りたまふ。御贈物に、み づからの御料の御直衣の御よそひ一領、手ふれたまはぬ薫物 二壼そへて、御車に奉らせたまふ。宮、 花の香をえならぬ袖にうつしもて事あやまりと妹や   とがめむ とあれば、 「いと屈じたりや」と笑ひたまふ。御車繋くる ほどに追ひて、 「めづらしと古里人も待ちぞみむ花のにしきを着てか   へる君 またなきことと思さるらむ」とあれば、いといたうからがり たまふ。次々の君たちにも、ことごとしからぬさまに、細長- 小袿などかづけたまふ。 姫君の裳着の儀 中宮腰結の役をつとめる かくて、西の殿に戍の刻に渡りたまふ。宮 のおはします西の放出をしつらひて、御髪- 上の内侍なども、やがてこなたに参れり。

上も、このついでに、中宮に御対面あり。御方々の女房おし あはせたる、数しらず見えたり。子の刻に御裳奉る。大殿油 ほのかなれど、御けはひいとめでたし、と宮は見たてまつれ たまふ。大臣、 「思し棄つまじきを頼みにて、なめげなる姿 を、すすみ御覧ぜられはべるなり。後の世の例にやと、心せ ばく忍び思ひたまふる」など聞こえたまふ。宮、 「いかなる べきこととも思ひたまへわきはべらざりつるを、かうことご としうとりなさせたまふになん、なかなか心おかれぬべく」 と、のたまひ消つほどの御けはひ、いと若く愛敬づきたるに、 大臣も、思すさまにをかしき御けはひどものさし集ひたまへ るを、あはひめでたく思さる。母君の、かかるをりだにえ見 たてまつらぬを、いみじと思へりしも心苦しうて、参う上ら せやせましと思せど、人のもの言をつつみて過ぐしたまひつ。 かかる所の儀式は、よろしきにだに、いと事多くうるさきを、 片はしばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、

こまかに書かず。 東宮の御元服、姫君の入内を延期する 春宮の御元服は、二十余日のほどになんあ りける。いと大人しくおはしませば、人の、 むすめども競ひ参らすべきことを心ざし思 すなれど、この殿の思しきざすさまのいとことなれば、なか なかにてやまじらはんと、左大臣なども思しとどまるなるを 聞こしめして、 「いとたいだいしきことなり。宮仕の筋は、 あまたある中に、すこしのけぢめをいどまむこそ本意ならめ。 そこらの警策の姫君たち引き籠められなば、世に栄あらじ」 とのたまひて、御参り延びぬ。次々にもとしづめたまひける を、かかるよし所どころに聞きたまひて、左大臣殿の三の君 参りたまひぬ。麗景殿と聞こゆ。  この御方は、昔の御宿直所、淑景舎を改めしつらひて、御- 参り延びぬるを、宮にも心もとながらせたまへば、四月にと 定めさせたまふ。御調度どもも、もとあるよりもととのへて、

御みづからも、物の下形絵様などをも御覧じ入れつつ、すぐ れたる道々の上手どもを召し集めて、こまかに磨きととのへ させたまふ。草子の箱に入るべき草子どもの、やがて本にも したまふべきを選らせたまふ。いにしへの上なき際の御手ど もの、世に名を残したまへるたぐひのも、いと多くさぶらふ。 源氏、当代の女性の仮名を論評する 「よろづの事、昔には劣りざまに、浅く なりゆく世の末なれど、仮名のみなん今の 世はいと際なくなりたる。古き跡は、定ま れるやうにはあれど、ひろき心ゆたかならず、一筋に通ひて なんありける。妙にをかしきことは、外よりてこそ書き出づ る人々ありけれど、女手を心に入れて習ひしさかりに、こと もなき手本多く集へたりし中に、中宮の母御息所の、心にも 入れず走り書いたまへりし一行ばかり、わざとならぬをえて、 際ことにおぼえしはや。さてあるまじき御名も立てきこえし ぞかし。悔しきことに思ひしみたまへりしかど、さしもあら

ざりけり。宮にかく後見仕 うまつることを、心深うお はせしかば、亡き御影にも 見なほしたまふらん。宮の 御手は、こまかにをかしげ なれど、かどや後れたら ん」
と、うちささめきて聞こえたまふ。 「故入道の宮の御- 手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きと ころありて、にほひぞ少なかりし。院の尚侍こそ今の世の上- 手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。さはあり とも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは書きたまはめ」 と、ゆるしきこえたまへば、 「この数にはまばゆくや」 と聞こえたまへば、 「いたうな過ぐしたまひそ。にこやか なる方のなつかしさは、ことなるものを。真字のすすみたる ほどに、仮名はしどけなき文字こそまじるめれ」とて、まだ

書かぬ草子ども作り加へて、表紙紐などいみじうせさせたま ふ。 「兵部卿宮、左衛門督などにものせん。みづから一具 は書くべし。気色ばみいますがりとも、え書きならべじや」 と、我ぼめをしたまふ。  墨筆ならびなく選り出でて、例の所どころに、ただならぬ 御消息あれば、人々難き事に思して、返さひ申したまふもあ れば、まめやかに聞こえたまふ。高麗の紙の薄様だちたるが、 せめてなまめかしきを、 「このもの好みする若き人々試み ん」とて、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中- 将などに、 「葦手歌絵を、思ひ思ひに書け」とのたまへば、 みな心々にいどむべかめり。 源氏草子を書く 兵部卿宮草子を持参する 例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。 花ざかり過ぎて、浅緑なる空うららかなる に、古き言どもなど思ひすましたまひて、 御心のゆくかぎり、草のもただのも、女手も、いみじう書き

つくしたまふ。御前に人繁からず。女房二三人ばかり、墨な どすらせたまひて、ゆゑある古き集の歌など、いかにぞやな ど選り出でたまふに、口惜しからぬかぎりさぶらふ。御簾あ げわたして、脇息の上に草子うちおき、端近くうち乱れて、 筆のしりくはへて、思ひめぐらしたまへるさま、飽く世なく めでたし。白き赤きなど、掲焉なる枚は、筆とり直し、用意 したまへるさまさへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御あり さまなり。  兵部卿宮渡りたまふ、と聞こゆれば、驚きて御直衣奉り、 御褥まゐり添へさせたまひて、やがて待ちとり入れたてまつ りたまふ。この宮もいときよげにて、御階さまよく歩みのぼ りたまふほど、内にも人々のぞきて見たてまつる。うちかし こまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらな り。 「つれづれに籠りはべるも、苦しきまで思うたまへら るるころののどけさに、をりよく渡らせたまへる」と、よろ

こびきこえたまふ。かの御草子持たせて渡りたまへるなり けり。 源氏をはじめ、人々の仮名を比較論評する やがて御覧ずれば、すぐれてしもあらぬ御- 手を、ただ片かどに、いといたう筆澄みた るけしきありて、書きなしたまへり。歌も ことさらめき、側みたる古言どもを選りて、ただ三行ばかり に、文字少なに好ましくぞ書きたまへる。大臣御覧じ驚きぬ。 「かうまでは思ひたまへずこそありつれ。さらに筆投げ棄 てつべしや」とねたがりたまふ。 「かかる御中に面なく下 す筆のほど、さりともとなん思ふたまふる」など、戯れた まふ。  書きたまへる草子どもも、隠したまふべきならねば、取う 出たまひて、かたみに御覧ず。唐の紙のいとすくみたるに、 草書きたまへる、すぐれてめでたしと見たまふに、高麗の紙 の、膚こまかに和うなつかしきが、色などは華やかならで、

なまめきたるに、おほどかなる女手の、うるはしう心とどめ て書きたまへる、たとふべき方なし。見たまふ人の涙さへ水- 茎に流れそふ心地して、飽く世あるまじきに、またここの紙 屋の色紙の、色あひ華やかなるに、乱れたる草の歌を、筆に まかせて乱れ書きたまへる、見どころ限りなし。しどろもど ろに愛敬づき、見まほしければ、さらに残りどもに目も見や りたまはず。  左衛門督は、ことごとしうかしこげなる筋をのみ好みて書 きたれど、筆のおきて澄まぬ心地して、いたはり加へたるけ しきなり。歌なども、ことさらめきて、選り書きたり。  女の御は、まほにも取り出でたまはず。斎院のなどは、ま して取う出たまはざりけり。  葦手の草子どもぞ、心々にはかなうをかしき。宰相中将 のは、水の勢ゆたかに書きなし、そそけたる葦の生ひざまな ど、難波の浦に通ひて、こなたかなたいきまじりて、いたう

澄みたるところあり。またいといかめしうひきかへて、文字- 様、石などのたたずまひ、好み書きたまへる枚もあめり。 「目も及ばず。これは暇いりぬべき物かな」と、興じめで たまふ。何ごとももの好みし、艶がりおはする親王にて、い といみじうめできこえたまふ。 兵部卿宮、昔の仮名の手本を源氏に贈る 今日は、また、手のことどものたまひ暮ら し、さまざまの継紙の本ども選り出でさせ たまへるついでに、御子の侍従して、宮に さぶらふ本ども取りに遣はす。嗟峨帝の、古万葉集を選び書 かせたまへる四巻、延喜帝の、古今和歌集を、唐の浅縹の紙 を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、淡*の 唐組の紐などなまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、 いみじう書き尽くさせたまへる、大殿油みじかくまゐりて御- 覧ずるに、 「尽きせぬものかな。このごろの人は、ただか たそばを気色ばむにこそありけれ」などめでたまふ。やがて

これはとどめたてまつりたまふ。 女子などを持てはべら ましにだに、をさをさ見はやすまじきには、伝ふまじきを、 まして朽ちぬべきを」など聞こえて奉れたまふ。侍従に、唐 の本などのいとわざとがましき、沈の箱に入れて、いみじき 高麗笛添へて奉れたまふ。 源氏、姫君の草子の箱に収むべき書を選ぶ またこのごろは、ただ仮名の定めをしたま ひて、世の中に手書くとおぼえたる、上中- 下の人々にも、さるべきものども思しはか らひて、尋ねつつ書かせたまふ。この御箱には、立ち下れる をばまぜたまはず、わざと人のほど、品分かせたまひつつ、 草子巻物みな書かせたてまつりたまふ。よろづにめづらかな る御宝物ども、他の朝廷まであり難げなる中に、この本ども なん、ゆかしと心動きたまふ若人世に多かりける。御絵ども ととのへさせたまふ中に、かの須磨の日記は、末にも伝へ知 らせむと思せど、いますこし世をも思し知りなんに、と思し

返して、まだ取り出でたまはず。 夕霧と雲居雁−内大臣の悩み 源氏の訓戒 内大臣は、この御いそぎを、人の上にて聞 きたまふも、いみじう心もとなくさうざう しと思す。姫君の御ありさま、盛りにとと のひて、あたらしううつくしげなり。つれづれとうちしめり たまへるほど、いみじき御嘆きぐさなるに、かの人の御気色、 はた、同じやうになだらかなれば、心弱く進み寄らむも人笑 はれに、人のねむごろなりしきざみに、なびきなましかばな ど、人知れず思し嘆きて、一方に罪をもえ負ほせたまはず。 かくすこしたわみたまへる御気色を、宰相の君は聞きたまへ ど、しばしつらかりし御心をうしと思へば、つれなくもてな ししづめて、さすがに外ざまの心はつくべくもおぼえず。心 づから戯れにくきをり多かれど、あさみどり聞こえごちし御- 乳母どもに、納言に昇りて見えんの御心深かるべし。  大臣は、あやしう浮きたるさまかなと思し悩みて、 「か

のわたりの事思ひ絶えにたらば、右大臣、中務宮などの、 気色ばみ言はせたまふめるを、いづくも思ひ定められよ」
と のたまへど、ものも聞こえたまはず、かしこまりたるさまに てさぶらひたまふ。 「かやうのことは、かしこき御教にだ に従ふべくもおぼえざりしかば、言まぜまうけれど、今思ひ あはするには、かの御教こそ長き例にはありけれ。つれづれ とものすれば、思ふところあるにやと、世人も推しはかるら んを、宿世の引く方にて、なほなほしきことに、ありありて なびく、いとしりびに人わろきことぞや。いみじう思ひのぼ れど、心にしもかなはず、限りあるものから、すきずきしき 心使はるな。いはけなくより宮の内に生ひ出でて、身を心に まかせずところせく、いささかの事のあやまりもあらば、軽- 軽しき譏りをや負はむとつつみしだに、なほすきずきしき咎 を負ひて、世にはしたなめられき。位浅く何となき身のほど、 うちとけ、心のままなるふるまひなどものせらるな。心おの

づからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女の ことにてなむ、賢き人、昔も乱るる例ありける。さるまじき ことに心をつけて、人の名をも立て、みづからも恨みを負ふ なむ、つひの絆となりける。とりあやまりつつ見ん人の、わ が心にかなはず、忍ばむこと難きふしありとも、なほ思ひ返 さん心をならひて、もしは親の心にゆづり、もしは親なくて 世の中かたほにありとも、人柄心苦しうなどあらむ人をば、 それを片かどに寄せても見たまへ。わがため、人のため、つ ひによかるべき心ぞ、深うあるべき」
など、のどやかにつれ づれなるをりは、かかる御心づかひをのみ教へたまふ。  かやうなる御諫につきて、戯れにても外ざまの心を思ひか かるは、あはれに人やりならずおぼえたまふ。女も、常より ことに大臣の思ひ嘆きたまへる御気色に、恥づかしう、うき 身と思し沈めど、上はつれなくおほどかにて、ながめ過ぐし たまふ。 世上の噂を聞き、内大臣、雲居雁を悲しむ

御文は、思ひあまりたまふをりをり、あは れに心深きさまに聞こえたまふ。 「誰がま ことをか」と思ひながら、世馴れたる人こ そ、あながちに人の心をも疑ふなれ、あはれと見たまふふし 多かり。 「中務宮なん、大殿にも御気色たまはりて、さもや と思しかはしたなる」と人の聞こえければ、大臣はひき返し 御胸ふたがるべし。忍びて、 「さることをこそ聞きしか。 情なき人の御心にもありけるかな。大臣の、口入れたまひし に執念かりきとて、ひき違へたまふなるべし。心弱くなびき ても人わらへならましこと」など、涙を浮けてのたまへば、 姫君、いと恥づかしきにも、そこはかとなく涙のこぼるれば、 はしたなくて背きたまへる、らうたげさ限りなし。 「いかに せまし。なほや進み出でて気色をとらまし」など、思し乱れ て立ちたまひぬるなごりも、やがて端近うながめたまふ。 「あやしく心おくれても進み出でつる涙かな。いかに思しつ

らん」
など、よろづに思ひゐたまへるほどに、御文あり。さ すがにぞ見たまふ。こまやかにて、 つれなさはうき世のつねになりゆくを忘れぬ人や人   にことなる とあり。けしきばかりもかすめぬつれなさよと、思ひつづけ たまふはうけれど、 かぎりとて忘れがたきを忘るるもこや世になびく   心なるらむ とあるを、あやし、とうち置かれず、かたぶきつつ見ゐたま へり。 Wisteria Leaves 夕霧、雲居雁、内大臣、それぞれに苦しむ

御いそぎのほどにも、宰相中将はながめ がちにて、ほれぼれしき心地するを、かつ はあやしく、 「わが心ながら執念きぞかし。 あながちにかう思ふことならば、関守のうちも寝ぬべき気色 に思ひ弱りたまふなるを聞きながら、同じくは人わろからぬ さまに見はてん」と念ずるも苦しう、思ひ乱れたまふ。女君 も、大臣のかすめたまひしことの筋を、もしさもあらば何の なごりかは、と嘆かしうて、あやしく背き背きに、さすがな る御諸恋なり。大臣も、さこそ心強がりたまひしかど、たけ からぬに思しわづらひて、 「かの宮にもさやうに思ひたちは てたまひなば、またとかくあらため思ひかかづらはむほど、 人のためも苦しう、わが御方ざまにも人笑はれに、おのづか

ら軽々しきことやまじらむ。忍ぶとすれど、内々の事あやま りも、世に漏りにたるべし。とかく紛らはして、なほ負けぬ べきなめり」
と思しなりぬ。 大宮の法事の日、内大臣、夕霧と語る 上はつれなくて、恨み解けぬ御仲なれば、 ゆくりなく言ひ寄らむもいかが、と思し憚 りて、 「ことごとしくもてなさむも人の思 はむところをこなり。いかなるついでしてかはほのめかすべ き」など思すに、三月二十日大殿の大宮の御忌日にて、極楽- 寺に詣でたまへり。君たちみなひきつれ、勢あらまほしく、 上達部などもあまた参り集ひたまへるに、宰相中将、をさを さけはひ劣らず、よそほしくて、容貌など、ただ今のいみじ き盛りにねびゆきて、とり集めめでたき人の御ありさまなり。 この大臣をばつらしと思ひきこえたまひしより、見えたてま つるも心づかひせられて、いといたう用意し、もてしづめて ものしたまふを、大臣も常よりは目とどめたまふ。御誦経な

ど、六条院よりもせさせたまへり。宰相の君は、まして、よ ろづをとりもちて、あはれに営み仕うまつりたまふ。  夕かけて、みな帰りたまふほど、花はみな散り乱れ、霞た どたどしきに、大臣、昔思し出でて、なまめかしううそぶき ながめたまふ。宰相もあはれなる夕のけしきに、いとどうち しめりて、 「雨気あり」と人々の騒ぐに、なほながめ入りて ゐたまへり。心ときめきに見たまふことやありけん、袖をひ き寄せて、 「などか、いとこよなくは勘じたまへる。今- 日の御法の縁をも尋ね思さば、罪ゆるしたまひてよや。残り 少なくなりゆく末の世に、思ひ棄てたまへるも、恨みきこゆ べくなん」とのたまへば、うちかしこまりて、 「過ぎにし 御おもむけも、頼みきこえさすべきさまに、承りおくこと はべりしかど、ゆるしなき御気色に憚りつつなん」と聞こえ たまふ。  心あわたたしき雨風に、みな散りぢりに競ひ帰りたまひぬ。

君、いかに思ひて例ならず気色ばみたまひつらんなど、世と ともに心をかけたる御あたりなれば、はかなき事なれど耳と まりて、とやかうやと思ひ明かしたまふ。 内大臣、藤の宴に事よせて、夕霧を招待する ここらの年ごろの思ひのしるしにや、かの 大臣も、なごりなく思し弱りて、はかなき ついでの、わざとはなく、さすがにつきづ きしからんを思すに、四月の朔日ごろ、御前の藤の花、いと おもしろう咲き乱れて、世の常の色ならず、ただに見過ぐさ むこと惜しき盛りなるに、遊びなどしたまひて、暮れゆくほ どのいとど色まされるに、頭中将して御消息あり。 「一日の 花の蔭の対面の、飽かずおぼえはべりしを、御暇あらば立ち 寄りたまひなんや」とあり。御文には、 わが宿の藤の色こきたそかれに尋ねやはこぬ春の   なごりを げにいとおもしろき枝につけたまへり。待ちつけたまへるも、

心ときめきせられて、かしこまりきこえたまふ。 なかなかに折りやまどはむ藤の花たそかれどきのた   どたどしくは と聞こえて、 「口惜しくこそ臆しにけれ。とり直したまへ よ」と聞こえたまふ。 「御供にこそ」とのたまへば、 「わづらはしき随身はいな」とて帰しつ。  大臣の御前に、かくなんとて御覧ぜさせたまふ。 「思ふ やうありてものしたまへるにやあらむ。さも進みものしたま はばこそは、過ぎにし方の孝なかりし恨みも解けめ」とのた まふ。御心おごり、こよなうねたげなり。 「さしもはべら じ。対の前の藤、常よりもおもしろう咲きてはべるなるを、 静かなるころほひなれば、遊びせんなどにやはべらん」と申 したまふ。 「わざと使さされたりけるを、早うものしたま へ」とゆるしたまふ。いかならむ、と下には苦しう、ただな らず。 「直衣こそあまり濃くて軽びためれ。非参議のほど、

何となき若人こそ、二藍はよけれ、ひきつくろはんや」
とて、 わが御料の心ことなるに、えならぬ御衣ども具して、御供に 持たせて奉れたまふ。 宴深更に及び、夕霧、酔を装い宿を求める わが御方にて、心づかひいみじう化粧じて、 黄昏も過ぎ、心やましきほどに参うでたま へり。主の君達、中将をはじめて、七八人 うちつれて迎へ入れたてまつる。いづれとなくをかしき容- 貌どもなれど、なほ人にすぐれて、あざやかにきよらなる ものから、なつかしうよしづき恥づかしげなり。大臣、御座 ひきつくろはせなどしたまふ御用意おろかならず。御冠な どしたまひて出でたまふとて、北の方、若き女房などに、 「のぞきて見たまへ。いと警策にねびまさる人なり。用- 意などいとしづかにものものしや。あざやかにぬけ出でおよ すけたる方は、父大臣にもまさりざまにこそあめれ。かれは ただいと切になまめかしう愛敬づきて、見るに笑ましく、世

の中忘るる心地ぞしたまふ。公ざまは、すこしたはれて、あ ざれたる方なりし、ことわりぞかし。これは才の際もまさり、 心用ゐ男々しく、すくよかに、足らひたりと世におぼえため り」
などのたまひてぞ対面したまふ。ものまめやかにむべむ べしき御物語はすこしばかりにて、花の興に移りたまひぬ。 「春の花いづれとなく、みな開け出づる色ごとに、目お どろかぬはなきを、心短くうち棄てて散りぬるが、恨めしう おぼゆるころほひ、この花の独りたち後れて、夏に咲きかか るほどなん、あやしう心にくくあはれにおぼえはべる。色も、 はた、なつかしきゆかりにしつべし」とて、うちほほ笑みた まへる、気色ありて、にほひきよげなり。  月はさし出でぬれど、花の色さだかにも見えぬほどなるを、 もてあそぶに心を寄せて、大御酒まゐり、御遊びなどしたま ふ。大臣、ほどなく空酔をしたまひて、乱りがはしく強ひ酔 はしたまふを、さる心していたうすまひ悩めり。 「君は、

末の世にはあまるまで天の下の有職にものしたまふめるを、 齢経りぬる人思ひ棄てたまふなんつらかりける。文籍にも 家礼といふことあるべくや。なにがしの教もよく思し知るら むと思ひたまふるを、いたう心悩ましたまふと、恨みきこゆ べくなん」
などのたまひて、酔泣きにや、をかしきほどに気- 色ばみたまふ。 「いかでか。昔を思うたまへ出づる御かは りどもには、身を棄つるさまにもとこそ思ひたまへ知りはべ るを、いかに御覧じなすことにかはべらん。もとより愚なる 心の怠りにこそ」と、かしこまりきこえたまふ。御時よくさ うどきて、 「藤の裏葉の」とうち誦じたまへる、御気色 を賜はりて、頭中将、花の色濃くことに房長きを折りて、客- 人の御盃に加ふ。収りてもて悩むに、大臣、 紫にかごとはかけむ藤のはなまつよりすぎてうれたけれ   ども  宰相盃を持ちながら、気色ばかり拝したてまつりたまへるさ

ま、いとよしあり。 いくかへり露けき春をすぐしきて花のひもとくをり   にあふらん 頭中将に賜へば、 たをやめの袖にまがへる藤の花見る人からや色もま   さらむ 次々順流るめれど、酔の紛れにはかばかしからで、これより まさらず。  七日の夕月夜、影ほのかなるに、池の鏡のどかに澄みわた れり。げに、まだほのかなる梢どものさうざうしきころなる に、いたうけしきばみ横たはれる松の、木高きほどにはあら ぬに、かかれる花のさま、世の常ならずおもしろし。例の弁少- 将、声いとなつかしくて、葦垣をうたふ。大臣、 「いとけや けうも仕うまつるかな」とうち乱れたまひて、 「年経にける この家の」とうち加へたまへる、御声いとおもしろし。をか

しきほどに乱りがはしき御遊びにて、もの思ひ残らずなりぬ めり。  やうやう夜更けゆくほどに、いたうそら悩みして、 「乱 り心地いとたへがたうて、まかでん空もほとほとしうこそは べりぬべけれ。宿直所ゆづりたまひてんや」と、中将に愁へた まふ。大臣、 「朝臣や、御休み所もとめよ。翁いたう酔ひすす みて無礼なれば、まかり入りぬ」と言ひ捨てて入りたまひぬ。 柏木に導かれ、夕霧、雲居雁と結ばれる 中将、 「花の蔭の旅寝よ。いかにぞや、苦 しき導にぞはべるや」と言へば、 「松に 契れるは、あだなる花かは。ゆゆしや」と 責めたまふ。中将は心の中に、ねたのわざやと思ふところあ れど、人ざまの思ふさまにめでたきに、かうもありはてなむ と心寄せわたることなれば、うしろやすく導きつ。  男君は、夢かとおぼえたまふにも、わが身いとどいつかし うぞおぼえたまひけんかし。女は、いと恥づかしと思ひしみ

てものしたまふも、ねびまされる御ありさま、いとど飽かぬ ところなくめやすし。 「世の例にもなりぬべかりつる身を、 心もてこそかうまでも思しゆるさるめれ。あはれを知りたま はぬも、さまことなるわざかな」と、恨みきこえたまふ。 「少将の進み出だしつる葦垣のおもむきは、耳とどめたま ひつや。いたき主かなな。『河口の』とこそ、さし答へまほ しかりつれ」とのたまへば、女いと聞きぐるしと思して、 「あさき名をいひ流しける河口はいかがもらしし関    のあらがき あさまし」とのたまふさま、いと児めきたり。すこしうち笑 ひて、 「もりにけるくきだの関を河口のあさきにのみはおほ   せざらなん 年月のつもりも、いとわりなくて悩ましきに、ものおぼえず」 と、酔にかこちて苦しげにもてなして、明くるも知らず顔

なり。人々聞こえわづらふを、大臣、 「したり顔なる朝寝か な」ととがめたまふ。されど明かしはてでぞ出でたまふ。ね くたれの御朝顔見るかひありかし。  御文は、なほ忍びたりつるさまの心づかひにてあるを、な かなか今日はえ聞こえたまはぬを、ものいひさがなき御達つ きしろふに、大臣渡りて見たまふぞ、いとわりなきや。 「尽きせざりつる御気色に、いとど思ひ知らるる身のほどを、 たへぬ心にまた消えぬべきも、   とがむなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖の  しづくを」 などいと馴れ顔なり。うち笑みて、 「手をいみじうも書 きなられにけるかな」とのたまふも、昔のなごりなし。御返 りいと出で来がたげなれば、 「見苦しや」とて、さも思し憚 りぬべきことなれば、渡りたまひぬ。御使の禄、なべてなら ぬさまにて賜へり。中将、をかしきさまにもてなしたまふ。

常にひき隠しつつ隠ろへ歩きし御使、今日は面もちなど人々 しくふるまふめり。右近将監なる人の、睦ましう思し使ひた まふなりけり。 源氏、夕霧に訓戒 内大臣婿君をもてなす 六条の大臣も、かくと聞こしめしてけり。 宰相、常よりも光添ひて参りたまへれば、 うちまもりたまひて、 「今朝はいかに。 文などものしつや。さかしき人も、女の筋には乱るる例ある を、人わろくかかづらひ、心いられせで過ぐされたるなん、 すこし人に抜けたりける御心とおぼえける。大臣の御おきて のあまりすくみて、なごりなくくづほれたまひぬるを、世人 も言ひ出づることあらんや。さりとても、わが方たけう思ひ 顔に、心おごりして、すきずきしき心ばへなど漏らしたまふ な。さこそおいらかに大きなる心おきてと見ゆれど、下の心 ばへ男々しからず癖ありて、人見えにくきところつきたまへ る人なり」など、例の教へきこえたまふ。事うちあひ、めや

すき御あはひと思さる。御子とも見えず、すこしが兄ばかり と見えたまふ。別々にては、同じ顔を移しとりたると見ゆる を、御前にては、さまざま、あなめでたと見えたまへり。大- 臣は、薄き御直衣、白き御衣の唐めきたるが、紋けざやかに 艶々と透きたるを奉りて、なほ尽きせずあてになまめかしう おはします。宰相殿は、すこし色深き御直衣に、丁子染の焦 がるるまで染める、白き綾のなつかしきを着たまへる、こと さらめきて艶に見ゆ。  灌仏率てたてまつりて、御導師おそく参りければ、日暮れ て御方々より童べ出だし、布施など、朝廷ざまに変らず、心- 心にしたまへり。御前の作法をうつして、君たちなども参り 集ひて、なかなかうるはしき御前よりも、あやしう心づかひ せられて臆しがちなり。  宰相は、静心なく、いよいよ化粧じ、ひきつくろひて出で たまふを、わざとならねど情だちたまふ若人は、恨めしと思

ふもありけり。年ごろのつもりとり添へて、思ふやうなる御- 仲らひなめれば、水も漏らむやは。主の大臣、いとどしき近 まさりを、うつくしきものに思して、いみじうもてかしづき きこえたまふ。負けぬる方の口惜しさはなほ思せど、罪も残 るまじうぞ、まめやかなる御心ざまなどの、年ごろ異心なく て過ぐしたまへるなどを、あり難く、思しゆるす。女御の御 ありさまなどよりも、華やかにめでたくあらまほしければ、 北の方、さぶらふ人々などは、心よからず思ひ言ふもあれ ど、何の苦しき ことかはあらむ。 按察の北の方な ども、かかる方 にてうれしと思 ひきこえたまひ けり。 紫の上、御阿礼詣での後、祭りを見物する

かくて六条院の御いそぎは、二十余日のほ どなりけり。 対の上、御阿礼に詣でたまふとて、例の 御方々いざなひきこえたまへど、なかなかさしもひきつづ きて、心やましきを思して、誰も誰もとまりたまひて、こと ごとしきほどにもあらず、御車二十ばかりして、御前なども くだくだしき人数多くもあらず、事そぎたるしもけはひこと なり。  祭の日の暁に詣でたまひて、帰さには、物御覧ずべき御桟- 敷におはします。御方々の女房、おのおの車ひきつづきて、 御前、所しめたるほどいかめしう、かれはそれと、遠目より おどろおどろしき御勢なり。大臣は、中宮の御母御息所の 車押しさげられたまへりしをりの事、思し出でて、 「時に よる心おごりして、さやうなる事なん情なきことなりける。 こよなく思ひ消ちたりし人も、嘆き負ふやうにて亡くなりに

き」
と、そのほどはのたまひ消ちて、 「残りとまれる人の、 中将はかくただ人にて、わづかになりのぼるめり。宮は並び なき筋にておはするも、思へばいとこそあはれなれ。すべて いと定めなき世なればこそ、何ごとも思ふままにて、生ける かぎりの世を過ぐさまほしけれど、残りたまはむ末の世など の、たとしへなきおとろへなどをさへ、思ひ憚らるれば」と うち語らひたまひて、上達部なども御桟敷に参り集ひたまへ れば、そなたに出でたまひぬ。 夕霧、祭りの使いの藤典侍をねぎらう 近衛府の使は、頭中将なりけり。かの大殿 にて、出で立つ所よりぞ人々は参りたまう ける。藤典侍も使なりけり。おぼえこと にて、内裏、春宮よりはじめたてまつりて、六条院などより も、御とぶらひどもところせきまで、御心寄せいとめでたし。 宰相中将、出立の所にさへとぶらひたまへり。うちとけずあ はれをかはしたまふ御仲なれば、かくやむごとなき方に定ま

りたまひぬるを、ただならずうち思ひけり。 「なにとかや今日のかざしよかつ見つつおぼめくまで   もなりにけるかな あさまし」とあるを、をり過ぐしたまはぬばかりを、いかが 思ひけん、いともの騒がしく、車に乗るほどなれど、 「かざしてもかつたどらるる草の名はかつらを折り   し人や知るらん 博士ならでは」と聞こえたり。はかなけれど、ねたき答へと 思す。なほこの内侍にぞ、思ひ離れず、はひ紛れたまふべき。 姫君入内の際、明石の君を後見役と定める かくて、御参りは北の方添ひたまふべきを、 「常にながながしうはえ添ひさぶらひたま はじ。かかるついでに、かの御後見をや添 へまし」と思す。上も、 「つひにあるべき事の、かく隔たり て過ぐしたまふを、かの人もものしと思ひ嘆かるらむ。この 御心にも、今はやうやうおぼつかなくあはれに思し知るらん。

方々心おかれたてまつらんもあいなし」
と思ひなりたまひて、 「このをりに添へたてまつりたまへ。まだいとあえかな るほどもうしろめたきに、さぶらふ人とても、若々しきのみ こそ多かれ。御乳母たちなども、見及ぶ事の心いたる限りあ るを、みづからはえつとしもさぶらはざらむほど、うしろや すかるべく」と聞こえたまへば、いとよく思し寄るかなと思 して、 「さなん」とあなたにも語らひのたまひければ、いみ じくうれしく、思ふことかな ひはつる心地して、人の装束 何かのことも、やむごとなき 御ありさまに劣るまじくいそ ぎたつ。尼君なん、なほこの 御生ひ先見たてまつらんの心 深かりける。今一たび見たて まつる世もやと、命をさへ執-

念くなして念じけるを、いかにしてかは、と思ふも悲し。その 夜は、上添ひて参りたまふに、御輦車にも、立ちくだりうち 歩みなど人わるかるべきを、わがためは思ひ憚らず、ただか く磨きたてまつりたまふ玉の瑕にて、わがかくながらふるを、 かつはいみじう心苦しう思ふ。 姫君入内、明石の君参内して姫君に侍する 御参りの儀式、人の目驚くばかりの事はせ じ、と思しつつめど、おのづから世の常の さまにぞあらぬや。限りもなくかしづきす ゑたてまつりたまひて、上はまことにあはれにうつくしと思 ひきこえたまふにつけても、人に譲るまじう、まことにかか る事もあらましかば、と思す。大臣も宰相の君も、ただこの こと一つをなん、飽かぬことかなと思しける。三日過ごして ぞ、上はまかでさせたまふ。  たちかはりて参りたまふ夜、御対面あり。 「かく大人 びたまふけぢめになん、年月のほども知られはべれば、うと

うとしき隔ては残るまじくや」
と、なつかしうのたまひて、 物語などしたまふ。これもうちとけぬるはじめなめり。もの などうち言ひたるけはひなど、むべこそはと、めざましう見 たまふ。またいと気高う盛りなる御けしきを、かたみにめで たしと見て、そこらの御中にもすぐれたる御心ざしにて、並 びなきさまに定まりたまひけるも、いと道理と思ひ知らるる に、かうまで立ち並びきこゆる契りおろかなりやは、と思ふ ものから、出でたまふ儀式のいとことによそほしく、御輦車 などゆるされたまひて、女御の御ありさまに異ならぬを、思 ひくらぶるに、さすがなる身のほどなり。  いとうつくしげに雛のやうなる御ありさまを、夢の心地し て見たてまつるにも、涙のみとどまらぬは、ひとつものとぞ 見えざりける。年ごろよろづに嘆き沈み、さまざまうき身と 思ひ屈しつる命も延べまほしう、はればれしきにつけて、ま ことに住吉の神もおろかならず思ひ知らる。思ふさまにかし

づききこえて、心及ばぬこと、はた、をさをさなき人のらう らうじさなれば、おほかたの寄せおぼえよりはじめ、なべて ならぬ御ありさま容貌なるに、宮も、若き御心地に、いと心 ことに思ひきこえたまへり。いどみたまへる御方々の人など は、この母君のかくてさぶらひたまふを、瑕に言ひなしなど すれど、それに消たるべくもあらず。いまめかしう、並びな きことをば、さらにもいはず、心にくくよしある御けはひを、 はかなき事につけても、あらまほしうもてなしきこえたまへ れば、殿上人なども、めづらしきいどみ所にて、とりどりに さぶらふ人々も心をかけたる、女房の用意ありさまさへ、い みじくととのへなしたまへり。  上もさるべきをりふしには参りたまふ。御仲らひあらまほ しううちとけゆくに、さりとてさし過ぎもの馴れず、侮らは しかるべきもてなし、はた、つゆなく、あやしくあらまほし き人のありさま心ばへなり。 諸事終わり源氏、出家の志を立てる

大臣も、長からずのみ思さるる御世のこな たにと思しつる御参り、かひあるさまに見 たてまつりなしたまひて、心からなれど、 世に浮きたるやうにて見苦しかりつる宰相の君も、思ひなく めやすきさまに静まりたまひぬれば、御心落ちゐはてたまひ て、今は本意も遂げなん、と思しなる。対の上の御ありさま の見棄てがたきにも、中宮おはしませば、おろかならぬ御心 寄せなり。この御方にも、世に知られたる親ざまには、まづ 思ひきこえたまふべければ、さりともと思しゆづりけり。夏 の御方の、時々に華やぎたまふまじきも、宰相のものしたま へばと、みなとりどりにうしろめたからず思しなりゆく。 源氏、准太上天皇となり年官・年爵加わる 明けむ年四十になりたまふ。御賀の事を、 朝廷よりはじめたてまつりて、大きなる世 のいそぎなり。  その秋、太上天皇に准ふ御位得たまうて、御封加はり、

年官年爵などみな添ひたまふ。かからでも、世の御心にかな はぬことなけれど、なほめづらしかりける昔の例を改めで、 院司どもなどなり、さまことにいつくしうなり添ひたまへば、 内裏に参りたまふべきこと難かるべきをぞ、かつは思しける。 かくても、なほ飽かず帝は思して、世の中を憚りて位をえ譲 りきこえぬことをなむ、朝夕の御嘆きぐさなりける。 内大臣、太政大臣に、夕霧中納言に昇進 内大臣あがりたまひて、宰相中将、中納言 になりたまひぬ。御よろこびに出でたまふ。 光いとどまさりたまへるさま容貌よりは じめて、飽かぬことなきを、主の大臣も、なかなか人におさ れまし宮仕よりはと思しなほる。  女君の大輔の乳母、 「六位宿世」とつぶやきし宵のこと、 もののをりをりに思し出でければ、菊のいとおもしろくうつ ろひたるを賜はせて、 「あさみどりわか葉の菊をつゆにてもこき紫の色とか

  けきや からかりしをりの一言葉こそ忘られね」
と、いとにほひやか にほほ笑みて賜へり。恥づかしういとほしきものから、うつ くしう見たてまつる。 「二葉より名だたる園の菊なればあさき色わく露もな   かりき いかに心おかせたまへりけるにか」と、いと馴れて苦しがる。 夕霧夫妻三条殿に移る 父大臣これを訪う 御勢まさりて、かかる御住まひもところ せければ、三条殿に渡りたまひぬ。すこし 荒れにたるを、いとめでたく修理しなして、 宮のおはしましし方を、改めしつらひて住みたまふ。昔おぼ えて、あはれに思ふさまなる御住まひなり。前栽どもなど小 さき木どもなりしも、いと繁き蔭となり、一叢薄も心にまか せて乱れたりける、つくろはせたまふ。遣水の水草も掻きあ らためて、いと心ゆきたるけしきなり。

 をかしき夕暮のほどを、二ところながめたまひて、あさま しかりし世の、御幼さの物語などしたまふに、恋しきことも 多く、人の思ひけむことも恥づかしう、女君は思し出づ。古- 人どもの、まかで散らず、曹司曹司にさぶらひけるなど、参 うのぼり集まりて、いとうれしと思ひあへり。男君、 なれこそは岩もるあるじ見し人のゆくへは知るや宿   の真清水 女君、 なき人のかげだに見えずつれなくて心をやれるい   さらゐの水 などのたまふほどに、大臣、内裏よりまかでたまひけるを、 紅葉の色におどろかされて渡りたまへり。  昔おはさいし御ありさまにも、をさをさ変ることなく、あ たりあたりおとなしく住まひたまへるさま、華やかなるを見 たまふにつけても、いとものあはれに思さる。中納言も、気-

色ことに顔すこし赤みて、いとど静まりてものしたまふ。あ らまほしくうつくしげなる御あはひなれど、女は、またかか る容貌のたぐひもなどかなからんと見えたまへり。男は、際 もなくきよらにおはす。古人ども御前に所えて、神さびたる 事ども聞こえ出づ。ありつる御手習どもの、散りたるを御覧 じつけて、うちしほたれたまふ。 「この水の心尋ねま ほしけれど、翁は言忌して」とのたまふ。 そのかみの老木はむべも朽ちぬらむ植ゑし小松も   苔生ひにけり 男君の御宰相の乳母、つらかりし御心も忘れねば、したり 顔に、 いづれをも蔭とぞたのむ二葉より根ざしかはせる松のす   ゑずゑ 老人どもも、かやうの筋に聞こえあつめたるを、中納言はを かしと思す。女君はあいなく面赤み、苦しと聞きゐたまふ。 当帝、朱雀院ともに、六条院に行幸

神無月の二十日あまりのほどに、六条院に 行幸あり。紅葉のさかりにて、興あるべき たびの行幸なるに、朱雀院にも御消息あり て、院さへ渡りおはしますべければ、世にめづらしくあり難 きことにて、世人も心をおどろかす。主の院方も、御心を尽 くし、目もあやなる御心まうけをせさせたまふ。  巳の刻に行幸ありて、まづ馬場殿に、左右の寮の御馬牽き 並べて、左右の近衛立ち添ひたる作法、五月の節にあやめわ かれず通ひたり。未下るほどに、南の寝殿に移りおはします。 道のほどの反橋、渡殿には錦を敷き、あらはなるべき所には 軟障をひき、いつくしうしなさせたまへり。東の池に舟ども 浮けて、御廚子所の鵜飼の長、院の鵜飼を召し並べて、鵜を おろさせたまへり。小さき鮒ども食ひたり。わざとの御覧と はなけれど、過ぎさせたまふ道の興ばかりになん。山の紅葉 いづ方も劣らねど、西の御前は心ことなるを、中の廊の壁を

くづし、中門を開きて、霧の隔てなくて御覧ぜさせたまふ。 御座二つよそひて、主の御座は下れるを、宣旨ありて直させ たまふほど、めでたく見えたれど、帝はなほ限りあるゐやゐ やしさを尽くして見せたてまつりたまはぬことをなん思し ける。  池の魚を、左少将とり、蔵人所の鷹飼の、北野に狩仕まつ れる鳥一番を、右の少将捧げて、寝殿の東より御前に出でて、 御階の左右に膝をつきて奏す。太政大臣仰せ言賜ひて、調じ て御膳にまゐる。親- 王たち、上達部など の御設けも、めづら しきさまに、常のこ とどもを変へて仕う まつらせたまへり。 みな御酔になりて、

暮れかかるほどに楽所の人召す。わざとの大楽にはあらず、 なまめかしきほどに、殿上の童べ舞仕うまつる。朱雀院の紅- 葉の賀、例の古事思し出でらる。賀皇恩といふものを奏する ほどに、太政大臣の御弟子の十ばかりなる、切におもしろう 舞ふ。内裏の帝、御衣脱ぎて賜ふ。太政大臣降りて舞踏した まふ。主の院、菊を折らせたまひて、青海波のをりを思し出 づ。 色まさるまがきの菊もをりをりに袖うちかけし秋を   恋ふらし 大臣、そのをりは同じ舞に立ち並びきこえたまひしを、我も 人にはすぐれたまへる身ながら、なほこの際はこよなかりけ るほど思し知らる。時雨、をり知り顔なり。 「むらさきの雲にまがへる菊の花にごりなき世の   星かとぞ見る 時こそありけれ」と聞こえたまふ。 日暮れ、宴酣にして帝・上皇、感慨多し

夕風の吹き敷く紅葉のいろいろ濃き薄き、 錦を敷きたる渡殿の上見えまがふ庭の面に、 容貌をかしき童べの、やむごとなき家の子 どもなどにて、青き赤き白橡、蘇芳、葡萄染など、常のごと、 例の角髪に、額ばかりのけしきを見せて、短きものどもをほ のかに舞ひつつ、紅葉の蔭にかへり入るほど、日の暮るるも いと惜しげなり。楽所などおどろおどろしくはせず。上の御- 遊びはじまりて、書司の御琴ども召す。物の興切なるほどに、 御前にみな御琴どもまゐれり。宇陀の法師の変らぬ声も、朱- 雀院は、いとめづらしくあはれに聞こしめす。 秋をへて時雨ふりぬる里人もかかるもみぢのをりをこ   そ見ね 恨めしげにぞ思したるや。帝、 世のつねの紅葉とや見るいにしへのためしにひける庭   の錦を

と聞こえ知らせたまふ。御容貌いよいよねびととのほりたま ひて、ただ一つものと見えさせたまふを、中納言さぶらひた まふが、ことごとならぬこそめざましかめれ。あてにめでた きけはひや、思ひなしに劣りまさらん、あざやかににほはし きところは、添ひてさへ見ゆ。笛仕うまつりたまふ、いとお もしろし。唱歌の殿上人、御階にさぶらふ中に、弁少将の声 すぐれたり。なほさるべきにこそと見えたる御仲らひなめり。 朱雀院出家を志し、女三の宮の前途を憂う

     朱雀院の帝、ありし御幸の後、そのころほ ひより、例ならず悩みわたらせたまふ。も とよりあつしくおはします中に、このたび はもの心細く思しめされて、 「年ごろ行ひの本意深きを、 后の宮のおはしましつるほどは、よろづ憚りきこえさせたま ひて、今まで思しとどこほりつるを、なほその方にもよほす にやあらむ、世に久しかるまじき心地なんする」などのたま はせて、さるべき御心まうけどもせさせたまふ。  御子たちは、春宮をおきたてまつりて、女宮たちなん四と ころおはしましける。その中に、藤壼と聞こえしは先帝の源- 氏にぞおはしましける、まだ坊と聞こえさせし時参りたまひ て、高き位にも定まりたまふべかりし人の、とり立てたる御-

  後見もおはせず、母方もその筋となくものはかなき更衣腹に てものしたまひければ、御まじらひのほども心細げにて、大- 后の尚侍を参らせたてまつりたまひて、かたはらに並ぶ人 なくもてなしきこえたまひなどせしほどに、気おされて、帝 も御心の中にいとほしきものには思ひきこえさせたまひなが ら、おりさせたまひにしかば、かひなく口惜しくて、世の中 を恨みたるやうにて亡せたまひにし、その御腹の女三の宮を、 あまたの御中にすぐれてかなしきものに思ひかしづききこえ たまふ。そのほど御年十三四ばかりおはす。 「今は、と背き 棄て、山籠りしなん後の世にたちとまりて、誰を頼む蔭にて ものしたまはんとすらむ」と、ただこの御ことをうしろめた く思し嘆く。  西山なる御寺造りはてて、移ろはせたまはんほどの御いそ ぎをせさせたまふにそへて、またこの宮の御裳着のことを思 しいそがせたまふ。院の内にやむごとなく思す御宝物御調

度どもをばさらにもいはず、はかなき御遊び物まで、すこし ゆゑあるかぎりをば、ただこの御方にと渡したてまつらせた まひて、その次々をなむ、他御子たちには、御処分どもあり ける。 朱雀院、女三の宮の将来を東宮に依頼する 春宮は、かかる御悩みにそへて、世を背か せたまふべき御心づかひになん、と聞かせ たまひて渡らせたまへり。母女御も添ひき こえさせたまひて参りたまへり。すぐれたる御おぼえにしも あらざりしかど、宮のかくておはします御宿世の限りなくめ でたければ、年ごろの御物語こまやかに聞こえかはさせたま ひけり。宮にもよろづのこと、世をたもちたまはん御心づか ひなど、聞こえ知らせさせたまふ。御年のほどよりは、いと よくおとなびさせたまひて、御後見どもも、こなたかなた軽- 軽しからぬ仲らひにものしたまへば、いとうしろやすく思ひ きこえさせたまふ。

    「この世に恨み遺ることもはべらず。女宮たちのあま た残りとどまる行く先を思ひやるなん、さらぬ別れにも絆な りぬべかりける。さきざき人の上に見聞きしにも、女は心よ り外に、あはあはしく、人におとしめらるる宿世あるなん、 いと口惜しく悲しき。いづれをも、思ふやうならん御世には、 さまざまにつけて、御心とどめて思し尋ねよ。その中に、後- 見などあるは、さる方にも思ひゆづりはべり、三の宮なむ、 いはけなき齢にて、ただ一人を頼もしきものとならひて、う ち棄ててむ後の世に漂ひさすらへむこと、いといとうしろめ たく悲しくはべる」と、御目おし拭ひつつ聞こえ知らせさせ たまふ。  女御にも、心うつくしきさまに聞こえつけさせたまふ。さ れど、母女御の人よりはまさりて時めきたまひしに、みない どみかはしたまひしほど、御仲らひどもえうるはしからざり しかば、そのなごりにて、げに、今は、わざと憎しなどはな

  くとも、まことに心とどめて思ひ後見むとまでは思さずもや とぞ推しはからるるかし。 朱雀院、夕霧に意中をほのめかす 朝夕にこの御ことを思し嘆く。年暮れゆく ままに、御悩みまことに重くなりまさらせ たまひて、御簾の外にも出でさせたまはず。 御物の怪にて、時々悩ませたまふこともありつれど、いとか くうちはへをやみなきさまにはおはしまさざりつるを、この 度はなほ限りなり、と思しめしたり。御位を去らせたまひつ れど、なほその世に頼みそめたてまつりたまへる人々は、今 もなつかしくめでたき御ありさまを、心やり所に参り仕うま つりたまふ限りは、心を尽くして惜しみきこえたまふ。六条- 院よりも御とぶらひしばしばあり。みづからも参りたまふべ きよし聞こしめして、院はいといたく喜びきこえさせたまふ。  中納言の君参りたまへるを、御簾の内に召し入れて、御物- 語こまやかなり。 「故院の上の、いまはのきざみに、あ

  またの御遺言ありし中に、この院の御こと、今の内裏の御こ となん、とり分きてのたまひおきしを、おほやけとなりて、 事限りありければ、内々の心寄せは変らずながら、はかなき 事のあやまりに、心おかれたてまつることもありけんと思ふ を、年ごろ事にふれて、その恨み遺したまへる気色をなん漏 らしたまはぬ。さかしき人といへど、身の上になりぬれば、 こと違ひて心動き、必ずその報見え、ゆがめることなん、い にしへだに多かりける。いかならんをりにか、その御心ばへ ほころぶべからむと、世人もおもむけ疑ひけるを、つひに忍 び過ぐしたまひて、春宮などにも心を寄せきこえたまふ。今、 はた、またなく親しかるべき仲となり、睦びかはしたまへる も、限りなく心には思ひながら、本性の愚かなるに添へて、 子の道の闇にたちまじり、かたくななるさまにやとて、なか なか他の事に聞こえ放ちたるさまにてはべる。内裏の御こと は、かの御遺言違へず仕うまつりおきてしかば、かく末の世

  の明らけき君として、来し方の御面をも起こしたまふ、本意 のごと、いとうれしくなん。この秋の行幸の後、いにしへの こととり添へて、ゆかしくおぼつかなくなんおぼえたまふ。 対面に聞こゆべきことどもはべり。必ずみづからとぶらひも のしたまふべきよし、もよほし申したまへ」
など、うちしほ たれつつのたまはす。  中納言の君、 「過ぎはべりにけん方は、ともかくも思う たまへ分きがたくはべり。年まかり入りはべりて、朝廷にも 仕うまつりはべる間、世の中のことを見たまへまかり歩くほ どには、大小の事につけても、内々のさるべき物語などのつ いでにも、いにしへの愁はしき事ありてなんなど、うちかす め申さるるをりははべらずなん。『かく朝廷の御後見を仕う まつりさして、静かなる思ひをかなへむと、ひとへに籠りゐ し後は、何ごとをも知らぬやうにて、故院の御遺言のごとも え仕うまつらず、御位におはしましし世には、齢のほども、

  身の器物も及ばず、賢き上の人々多くて、その心ざしを遂げ て御覧ぜらるることもなかりき。今、かく政を避りて、静 かにおはしますころほひ、心の中をも隔てなく、参り承ら まほしきを、さすがに何となくところせき身のよそほひにて、 おのづから月日を過ぐすこと』となん、をりをり嘆き申した まふ」
など奏したまふ。  二十にもまだわづかなるほどなれど、いとよくととのひす ぐして、容貌もさかりににほひて、いみじくきよらなるを、 御目にとどめてうちまもらせたまひつつ、このもてわづらは せたまふ姫宮の御後見にこれをやなど、人知れず思し寄りけ り。 「太政大臣のわたりに、今は、住みつかれにたりと な。年ごろ心得ぬさまに聞きしがいとほしかりしを、耳やす きものから、さすがに妬く思ふことこそあれ」と、のたまは する御気色を、いかにのたまはするにか、とあやしく思ひめ ぐらすに、 「この姫君をかく思しあつかひて、さるべき人あ

  らば預けて、心やすく世をも思ひ離ればやとなん思しのたま はする」
と、おのづから漏り聞きたまふたよりありければ、 さやうの筋にやとは思ひぬれど、ふと心得顔にも何かは答へ きこえさせん。ただ、 「はかばかしくもはべらぬ身には、 寄るべもさぶらひ難くのみなん」とばかり奏してやみぬ。  女房などは、のぞきて見きこえて、 「いとあり難くも見え たまふ容貌用意かな。あなめでた」など集まりて聞こゆるを、 老いしらへるは、 「いで、さりとも、かの院のかばかりにお はせし御ありさまには、えなずらひきこえたまはざめり。い と目もあやにこそきよらにものしたまひしか」など、言ひし ろふを聞こしめして、 「まことに、かれはいとさまこと なりし人ぞかし。今は、また、その世にもねびまさりて、光 るとはこれを言ふべきにやと見ゆるにほひなん、いとど加は りにたる。うるはしだちて、はかばかしき方に見れば、いつく しくあざやかに目も及ばぬ心地するを、またうちとけて、戯

  れ言をも言ひ乱れ遊べば、その方につけては、似るものなく 愛敬づき、なつかしくうつくしきことの並びなきこそ、世に あり難けれ。何ごとにも、前の世推しはかられて、めづらか なる人のありさまなり。宮の内に生ひ出でて、帝王の限りな くかなしきものにしたまひ、さばかり撫でかしづき、身にか へて思したりしかど、心のままにも驕らず、卑下して、二十 がうちには、納言にもならずなりにきかし。一つあまりてや、 宰相にて大将かけたまへりけん。それに、これはいとこよな く進みにためるは。次々の子のおぼえのまさるなめりかし。 まことにかしこき方の才心用ゐなどは、これもをさをさ劣る まじく、あやまりても、およすけまさりたるおぼえ、いとこ となめり」
など、めでさせたまふ。 女三の宮の乳母、源氏を後見にと進言する 姫宮のいとうつくしげにて、若く何心なき 御ありさまなるを見たてまつりたまふにも、 「見はやしたてまつり、かつはまた片-

  生ひならむことをば見隠し教へきこえつべからむ人のうしろ やすからむに、預けきこえばや」
など聞こえたまふ。大人し き御乳母ども召し出でて、御裳着のほどのことなどのたまは するついでに、 「六条の大殿の、式部卿の親王のむすめ 生ほしたてけんやうに、この宮を預かりてはぐくまん人もが な。ただ人の中にはあり難し、内裏には中宮さぶらひたまふ。 次々の女御たちとても、いとやんごとなきかぎりものせらる るに、はかばかしき後見なくて、さやうのまじらひいとなか なかならむ。この権中納言の朝臣の独りありつるほどに、う ちかすめてこそ心みるべかりけれ。若けれど、いと警策に、 生ひ先頼もしげなる人にこそあめるを」とのたまはす。   「中納言は、もとよりいとまめ人にて、年ごろもかの わたりに心をかけて、外ざまに思ひ移ろふべくもはべらざ りけるに、その思ひかなひては、いとどゆるぐ方はべらじ。 かの院こそ、なかなか、なほいかなるにつけても、人をゆか

  しく思したる心は絶えずものせさせたまふなれ。その中にも、 やむごとなき御願ひ深くて、前斎院などをも、今に忘れがた くこそ聞こえたまふなれ」
と申す。 「いで、その旧りせ ぬあだけこそは、いとうしろめたけれ」とはのたまはすれど、 げに、あまたの中にかかづらひて、めざましかるべき思ひは ありとも、なほやがて親ざまに定めたるにて、さもや譲りお ききこえましなども思しめすべし。 「まことにすこしも 世づきてあらせむと思はん女子持たらば、同じくはかの人の あたりにこそは、触ればはせまほしけれ。いくばくならぬこ の世の間は、さばかり心ゆくありさまにてこそ、過ぐさまほ しけれ。我、女ならば、同じはらからなりとも、必ず睦び寄 りなまし。若かりし時など、さなんおぼえし。まして女のあ ざむかれんはいとことわりぞや」とのたまはせて、御心の中 に、尚侍の君の御事も思し出でらるべし。 乳母、兄左中弁に源氏への仲介を打診する

この御後見どもの中に、重々しき御乳母の せうと、左中弁なる、かの院の親しき人に て年ごろ仕うまつるありけり。この宮にも、 心寄せことにてさぶらへば、参りたるに会ひて物語するつい でに、 「上なむ、しかじか御気色ありて聞こえたまひしを、 かの院に、をりあらば、漏らしきこえさせたまへ。皇女たち は、独りおはしますこそは例のことなれど、さまざまにつけ て心寄せたてまつり、何ごとにつけても御後見したまふ人あ るは頼もしげなり。上をおきたてまつりて、また真心に思ひ きこえたまふべき人もなければ、おのらは仕うまつるとても、 何ばかりの宮仕にかあらむ。わが心ひとつにしもあらで、お のづから思ひの外の事もおはしまし、軽々しき聞こえもあら む時には、いかさまにかはわづらはしからむ。御覧ずる世に、 ともかくもこの御こと定まりたらば、仕うまつりよくなんあ るべき。かしこき筋と聞こゆれど、女はいと宿世定めがたく

  おはしますものなれば、よろづに嘆かしく、かくあまたの御 中に、とり分ききこえさせたまふにつけても、人のそねみあ べかめるを、いかで塵も据ゑたてまつらじ」
と語らふに、 弁、 「いかなるべき御ことにかあらむ。院は、あやしきまで 御心ながく、仮にても見そめたまへる人は、御心とまりたる をも、またさしも深からざりけるをも、方々につけて尋ねと りたまひつつ、あまた集へきこえたまへれど、やむごとなく 思したるは、限りありて、一方なめれば、それに事よりて、 かひなげなる住まひしたまふ方々こそは多かめるを、御宿世 ありて、もしさやうにおはしますやうもあらば、いみじき人 と聞こゆとも、立ち並びておし立ちたまふことはえあらじ、 とこそは推しはからるれど、なほいかがと憚らるることあり てなんおぼゆる。さるは、この世の栄え、末の世に過ぎて、 身に心もとなきことはなきを、女の筋にてなん、人のもど きをも負ひ、わが心にも飽かぬこともある、となん、常に

  内々のすさび言にも思しのたまはすなる。げにおのれらが見 たてまつるにもさなんおはします。方々につけて御蔭に隠し たまへる人、みなその人ならず立ち下れる際にはものしたま はねど、限りあるただ人どもにて、院の御ありさまに並ぶべ きおぼえ具したるやはおはすめる。それに、同じくは、げに さもおはしまさば、いかにたぐひたる御あはひならむ」
と 語らふを、乳母、また事のついでに、 「しかじかなん、なに がしの朝臣にほのめかしはべりしかば、かの院には必ず承け 引き申させたまひてむ、年ごろの御本意かなひて思しぬべき ことなるを、こなたの御ゆるしまことにありぬべくは、伝へ きこえん、となん申しはべりしを、いかなるべきことにかは はべらむ。ほどほどにつけて、人の際々思しわきまへつつ、 あり難き御心ざまにものしたまふなれど、ただ人だに、また かかづらひ思ふ人立ち並びたることは、人の飽かぬことにし はべめるを、めざましきこともやはべらむ。御後見望みたま

  ふ人々はあまたものしたまふめり。よく思しめし定めてこそ よくはべらめ。限りなき人と聞こゆれど、今の世のやうとて は、みなほがらかに、あるべかしくて、世の中を御心と過ぐ したまひつべきもおはしますべかめるを、姫宮は、あさまし くおぼつかなく心もとなくのみ見えさせたまふに、さぶらふ 人々は、仕うまつる限りこそはべらめ。おほかたの御心おき てに従ひきこえて、さかしき下人もなびきさぶらふこそ、た よりあることにはべらめ。とり立てたる御後見ものしたまは ざらむは、なほ心細きわざになんはべるべき」
と聞こゆ。 朱雀院、女三の宮の婿選びに苦慮を重ねる 「しか思ひたどるによりなん。皇女た ちの世づきたるありさまは、うたてあはあ はしきやうにもあり、また高き際といへど も、女は男に見ゆるにつけてこそ、悔しげなる事も、めざま しき思ひもおのづからうちまじるわざなめれと、かつは心苦 しく思ひ乱るるを、またさるべき人に立ち後れて、頼む蔭ど

  もに別れぬる後、心を立てて世の中に過ぐさむことも、昔は 人の心たひらかにて、世にゆるさるまじきほどの事をば、思 ひ及ばぬものとならひたりけん、今の世には、すきずきしく 乱りがはしき事も、類にふれて聞こゆめりかし。昨日まで高 き親の家にあがめられかしづかれし人のむすめの、今日はな ほなほしく下れる際のすき者どもに名を立ち、あざむかれて、 亡き親の面を伏せ、影を辱づかしむるたぐひ多く聞こゆる、 言ひもてゆけば、みな同じことなり。ほどほどにつけて、宿- 世などいふなることは知りがたきわざなれば、よろづにうし ろめたくなん。すべてあしくもよくも、さるべき人の心にゆ るしおきたるままにて世の中を過ぐすは、宿世宿世にて、後 の世に衰へある時も、みづからの過ちにはならず。あり経て こよなき幸ひあり、めやすきことになるをりは、かくてもあ しからざりけりと見ゆれど、なほたちまちにふとうち聞き つけたるほどは、親に知られず、さるべき人もゆるさぬに、

  心づからの忍びわざし出でたるなん、女の身にはますことな き疵とおぼゆるわざなる。なほなほしきただ人の仲らひにて だに、あはつけく心づきなきことなり。みづからの心より離 れてあるべきにもあらぬを、思ふ心より外に人にも見え、宿- 世のほど定められんなむ、いと軽々しく、身のもてなしあり さま推しはからるることなるを。あやしくものはかなき心ざ まにやと見ゆめる御さまなるを、これかれの心にまかせても てなしきこゆる、さやうなることの世に漏り出でんこと、い とうきことなり」
など、見棄てたてまつりたまはん後の世を うしろめたげに思ひきこえさせたまへれば、いよいよわづら はしく思ひあへり。 「いますこしものをも思ひ知りたまふほどまで見過ぐ さんとこそは、年ごろ念じつるを、深き本意も遂げずなりぬ べき心地のするに思ひもよほされてなん。かの六条の大殿は、 げに、さりともものの心えて、うしろやすき方はこよなかり

  なんを、方々にあまたものせらるべき人々を、知るべきにも あらずかし。とてもかくても人の心からなり。のどかに落ち ゐて、おほかたの世の例とも、うしろやすき方は並びなくも のせらるる人なり。さらで、よろしかるべき人、誰ばかりか はあらむ。兵部卿宮、人柄はめやすしかし。同じき筋にて、 他人とわきまへおとしむべきにはあらねど、あまりいたくな よびよしめくほどに、重き方おくれて、すこし軽びたるおぼ えや進みにたらむ。なほさる人はいと頼もしげなくなんある。 また大納言の朝臣の、家司望むなる、さる方にものまめや かなるべきことにはあなれど、さすがにいかにぞや。さやう におしなべたる際は、なほめざましくなんあるべき。昔も、 かうやうなる選びには、何ごとも人に異なるおぼえあるに、 事よりてこそありけれ。ただひとへにまたなく用ゐん方ばか りを、かしこきことに思ひ定めんは、いと飽かず口惜しかる べきわざになん。右衛門督の下にわぶなるよし、尚侍のもの

  せられし、その人ばかりなん、位などいますこしものめかし きほどになりなば、などかはとも思ひよりぬべきを、まだ年 いと若くて、むげに軽びたるほどなり。高き心ざし深くて、 やもめにて過ぐしつつ、いたくしづまり思ひあがれる気色人 には抜けて、才などもこともなく、つひには世のかためとな るべき人なれば、行く末も頼もしけれど、なほまたこのため にと思ひはてむには限りぞあるや」
と、よろづに思しわづら ひたり。  かうやうにも思し寄らぬ姉宮たちをば、かけても聞こえ悩 ましたまふ人もなし。あやしく、内々にのたまはする御ささ めき言どもの、おのづから広ごりて、心を尽くす人々多かり けり。 求婚者多し東宮、源氏への降嫁に賛成する 太政大臣も、 「この衛門督の、今まで独り のみありて、皇女たちならずは得じ、と思 へるを、かかる御定めども出で来たなるを

  りに、さやうにもおもむけたてまつりて、召し寄せられたら む時、いかばかりわがためにも面目ありてうれしからむ」
と 思しのたまひて、尚侍の君には、かの姉北の方して、伝へ申 したまふなりけり。よろづ限りなき言の葉を尽くして奏せさ せ、御気色賜はらせたまふ。  兵部卿宮は、左大将の北の方を聞こえはづしたまひて、聞 きたまふらんところもあり、かたほならむことは、と選り過 ぐしたまふに、いかがは御心の動かざらむ、限りなく思し焦 られたり。  藤大納言は、年ごろ院の別当にて、親しく仕うまつりてさ ぶらひ馴れにたるを、御山籠りしたまひなん後、拠りどころ なく心細かるべきに、この宮の御後見に事寄せて、かへりみ させたまふべく、御気色切に賜はりたまふなるべし。  権中納言も、かかることどもを聞きたまふに、人づてにも あらず、さばかりおもむけさせたまへりし御気色を見たてま

  つりてしかば、おのづから便りにつけて、漏らし聞こしめさ することもあらば、よももて離れてはあらじかしと心ときめ きもしつべけれど、女君の、今はとうちとけて頼みたまへる を、 「年ごろつらきにもことつけつべかりしほどだに、外ざ まの心もなくて過ぐしてしを、あやにくに、今さらに、たち 返り、にはかにものをや思はせきこえん。なのめならず、や むごとなき方にかかづらひなば、何ごとも思ふままならで、 左右に安からずは、わが身も苦しくこそはあらめ」など、も とよりすきずきしからぬ心なれば、思ひしづめつつうち出で ねど、さすがに外ざまに定まりはてたまはんも、いかにぞや おぼえて、耳はとまりけり。  春宮にも、かかる事ども聞こしめして、 「さし当りたるた だ今のことよりも、後の世の例ともなるべき事なるを、よく 思しめしめぐらすべきことなり。人柄よろしとても、ただ人 は限りあるを、なほ、しか思し立つことならば、かの六条院

  にこそ、親ざまに譲りきこえさせたまはめ」
となん、わざと の御消息とはあらねど、御気色ありけるを、待ち聞かせたま ひても、 「げにさることなり。いとよく思しのたまはせ たり」と、いよいよ御心だたせたまひて、まづかの弁してぞ かつがつ案内伝へきこえさせたまひける。 源氏、院の内意を伝えられこれを辞退する この宮の御こと、かく思しわづらふさまは、 さきざきもみな聞きおきたまへれば、 「心苦しき御ことにもあなるかな。さはあ りとも、院の御代の残り少なしとて、ここにはまたいくばく 立ちおくれたてまつるべしとてか、その御後見のことをば承 けとりきこえん。げに次第をあやまたぬにて、いましばしの ほども残りとまる限りあらば、おほかたにつけては、いづれ の皇女たちをも、よそに聞き放ちたてまつるべきにもあらね ど、またかくとり分きて聞きおきたてまつりてんをば、こと にこそは後見きこえめと思ふを、それだにいと不定なる世の

  定めなさなりや」
とのたまひて、 「ましてひとへに頼まれ たてまつるべき筋に、睦び馴れきこえんことは、いとなかな かに、うちつづき世を去らむきざみ心苦しく、みづからのた めにも浅からぬ絆になんあるべき。中納言などは、年若く軽- 軽しきやうなれど、行く先遠くて、人柄も、つひに朝廷の御後- 見ともなりぬべき生ひ先なんめれば、さも思し寄らむに、な どかこよなからむ。されど、いといたくまめだちて、思ふ人 定まりにてぞあめれば、それに憚らせたまふにやあらむ」な どのたまひて、みづからは思し離れたるさまなるを、弁は、 おぼろけの御定めにもあらぬを、かくのたまへば、いとほし くも口惜しくも思ひて、内々に思し立ちにたるさまなどくは しく聞こゆれば、さすがにうち笑みつつ、 「いとかなしく したてまつりたまふ皇女なめれば、あながちにかく来し方行 く先のたどりも深きなめりかしな。ただ内裏にこそ奉りたま はめ。やむごとなきまづの人々おはすといふことは、よしな

  きことなり。それにさはるべき事にもあらず。必ず、さりと て、末の人おろかなるやうもなし。故院の御時に、大后の、 坊のはじめの女御にていきまきたまひしかど、むげの末に参 りたまへりし入道の宮に、しばしは圧されたまひにきかし。 この皇女の御母女御こそは、かの宮の御はらからにものした まひけめ。容貌も、さしつぎには、いとよしと言はれたまひ し人なりしかば、いづ方につけても、この姫宮おしなべての 際には、よもおはせじを」
など、いぶかしくは思ひきこえた まふべし。 女三の宮の裳着の儀終わり朱雀院出家する 年も暮れぬ。朱雀院には、御心地なほおこ たるさまにもおはしまさねば、よろづあわ たたしく思し立ちて、御裳着の事思しいそ ぐさま、来し方行く先あり難げなるまで、いつくしくののし る。御しつらひは、柏殿の西面に、御帳御几帳よりはじめて、 ここの綾錦はまぜさせたまはず、唐土の后の飾を思しやりて、

  うるはしくことごとしく、輝くばかり調へさせたまへり。御- 腰結には、太政大臣を、かねてより聞こえさせたまへりけれ ば、ことごとしくおはする人にて、参りにくく思しけれど、 院の御言を昔より背き申したまはねば、参りたまふ。いま二 ところの大臣たち、その残りの上達部などは、わりなきさは りあるも、あながちにためらひ助けつつ参りたまふ。親王た ち八人、殿上人、はた、さらにもいはず、内裏春宮の残らず 参り集ひて、いかめしき御いそぎの響きなり。院の御事、こ のたびこそとぢめなれと、帝春宮をはじめたてまつりて、心- 苦しく聞こしめしつつ、蔵人所納殿の唐物ども、多く奉ら せたまへり。六条院よりも、御とぶらひいとこちたし。贈物 ども、人々の禄、尊者の大臣の御引出物など、かの院よりぞ 奉らせたまひける。  中宮よりも、御装束櫛の箱心ことに調ぜさせたまひて、 かの昔の御髪上の具、ゆゑあるさまに改め加へて、さすがに

  もとの心ばへも失はず、それと見せて、その日の夕つ方奉れ させたまふ。宮の権亮、院の殿上にもさぶらふを御使にて、 姫宮の御方に参らすべくのたまはせつれど、かかる言ぞ中に ありける。   さしながらむかしを今につたふれば玉の小櫛ぞ神   さびにける 院御覧じつけて、あはれに思し出でらるることもありけり。 あえものけしうはあらじと譲りきこえたまへるほど、げに面 だたしき釵なれば、御返りも、昔のあはれをばさしおきて、    さしつぎに見るものにもが万代をつげの小櫛の神   さぶるまで とぞ祝ひきこえたまへる。  御心地いと苦しきを念じつつ、思し起こして、この御いそ ぎはてぬれば、三日過ぐして、つひに御髪おろしたまふ。よ ろしきほどの人の上にてだに、今はとてさま変るは悲しげな

  るわざなれば、ましていとあはれげに御方々も思しまどふ。 尚侍の君は、つとさぶらひたまひて、いみじく思し入りた るを、こしらへかねたまひて、 「子を思ふ道は限りありけ り。かく思ひしみたまへる別れのたへがたくもあるかな」と て、御心乱れぬべけれど、あながちに御脇息にかかりたまひ て、山の座主よりはじめて、御戒の阿闍梨三人さぶらひて、 法服など奉るほど、この世を別れたまふ御作法、いみじく悲 し。今日は、世を思ひ澄ましたる僧たちなどだに、涙もえと どめねば、まして女宮たち、女御、更衣、ここらの男女、上 下ゆすり満ちて泣きとよむにいと心あわたたしう、かからで 静やかなる所にやがて籠るべく思しまうけける本意違ひて思 しめさるるも、ただこの幼き宮にひかされて、と思しのたま はす。内裏よりはじめたてまつりて、御とぶらひの繁さいと さらなり。 源氏朱雀院を見舞い女三の宮の後見を承引

六条院も、すこし御心地よろしくと聞きた てまつらせたまひて、参りたまふ。御賜ば りの御封などこそ、みな同じごと遜位の帝 と等しく定まりたまへれど、まことの太上天皇の儀式にはう けばりたまはず、世のもてなし思ひきこえたるさまなどは、 心ことなれど、ことさらにそぎたまひて、例の、ことごとし からぬ御車に奉りて、上達部などさるべきかぎり、車にてぞ 仕うまつりたまへる。  院にはいみじく待ちよろこびきこえさせたまひて、苦しき 御心地を思し強りて御対面あり。うるはしきさまならず、た だおはします方に、御座よそひ加へて入れたてまつりたまふ。 変りたまへる御ありさま見たてまつりたまふに、来し方行く 先くれて、悲しくとめがたく思さるれば、とみにもえためら ひたまはず。 「故院に後れたてまつりしころほひより、世 の常なく思うたまへられしかば、この方の本意深くすすみは

  べりにしを、心弱く思うたまへたゆたふことのみはべりつつ、 つひにかく見たてまつりなしはべるまで、後れたてまつりは べりぬる心のぬるさを、恥づかしく思ひたまへらるるかな。 身にとりては、事にもあるまじく思うたまへ立ちはべるをり をりあるを、さらにいと忍びがたきこと多かりぬべきわざに こそはべりけれ」
と、慰めがたく思したり。  院ももの心細く思さるるに、え心強からず、うちしほたれ たまひつつ、昔今の御物語、いと弱げに聞こえさせたまひ て、 「今日か明日かとおぼえはべりつつ、さすがにほど 経ぬるを、うちたゆみて深き本意のはしにても遂げずなりな んこと、と思ひ起こしてなん。かくても残りの齢なくは行ひ の心ざしもかなふまじけれど、まづ仮にてものどめおきて、 念仏をだにと思ひはべる。はかばかしからぬ身にても、世に ながらふること、ただこの心ざしにひきとどめられたると、 思うたまへ知られぬにしもあらぬを、今まで勤めなき怠りを

  だに、やすからずなん」
とて、思しおきてたるさまなど、く はしくのたまはするついでに、 「皇女たちを、あまたう ち棄てはべるなん心苦しき。中にも、また思ひゆづる人なき をば、とり分きてうしろめたく見わづらひはべる」とて、ま ほにはあらぬ御気色を、心苦しく見たてまつりたまふ。御心 の中にも、さすがにゆかしき御ありさまなれば、思し過ぐし がたくて、 「げにただ人よりも、かかる筋は、私ざまの御- 後見なきは、口惜しげなるわざになんはべりける。春宮かく ておはしませば、いとかしこき末の世のまうけの君と、天の 下の頼み所に仰ぎきこえさするを、ましてこの事と聞こえお かせたまはん事は、一事としておろそかに軽め申したまふべ きにはべらねば、さらに行く先のこと思し悩むべきにもはべ らねど、げに事限りあれば、おほやけとなりたまひ、世の 政御心にかなふべしとはいひながら、女の御ために、何 ばかりのけざやかなる御心寄せあるべきにもはべらざりけり。

  すべて女の御ためには、さまざままことの御後見とすべきも のは、なほさるべき筋に契りをかはし、え避らぬことにはぐ くみきこゆる御まもりめはべるなん、うしろやすかるべきこ とにはべるを、なほ、強ひて後の世の御疑ひ残るべくは、よ ろしきに思し選びて、忍びてさるべき御あづかりを定めおか せたまふべきになむはべなる」
と奏したまふ。 「さやう に思ひ寄ることはべれど、それも難きことになんありける。 いにしへの例を聞きはべるにも、世をたもつさかりの皇女に だに、人を選びて、さるさまの事をしたまへるたぐひ多かり けり。まして、かく、今は、とこの世を離るる際にて、こと ごとしく思ふべきにもあらねど、また、しか棄つる中にも、 棄てがたきことありて、さまざまに思ひわづらひはべるほど に、病は重りゆく、またとり返すべきにもあらぬ月日の過ぎ ゆけば、心あわたたしくなむ。かたはらいたき譲りなれど、 このいはけなき内親王ひとり、とり分きてはぐくみ思して、

  さるべきよすがをも、御心に思し定めて預けたまへと聞こえ まほしきを。権中納言などの独りものしつるほどに、進み寄 るべくこそありけれ、大臣に先ぜられて、ねたくおぼえは べる」
と聞こえたまふ。 「中納言の朝臣、まめやかなる方 は、いとよく仕うまつりぬべくはべるを、何ごともまだ浅く て、たどり少なくこそはべらめ。かたじけなくとも、深き心 にて後見きこえさせはべらむに、おはします御蔭にかはりて は思されじを、ただ行く先短くて、仕うまつりさすことやは べらむと、疑はしき方のみなん、心苦しくはべるべき」と、 承け引き申したまひつ。  夜に入りぬれば、主の 院方も、客人の上達部た ちも、みな御前にて御饗- 応のこと、精進物にて、 うるはしからずなまめか

  しくせさせたまへり。院の御前に、浅香の懸盤に御鉢など、 昔にかはりてまゐるを、人々涙おし拭ひたまふ。あはれなる 筋のことどもあれど、うるさければ書かず。夜更けて帰りた まふ。禄ども次々に賜ふ。別当大納言も御送りに参りたまふ。 主の院は、今日の雪にいとど御風邪加はりて、かき乱り悩ま しく思さるれど、この宮の御こと聞こえ定めつるを、心やす く思しけり。 源氏、紫の上に女三の宮のことを伝える 六条院は、なま心苦しう、さまざま思し乱 る。紫の上も、かかる御定めなど、かねて もほの聞きたまひけれど、 「さしもあらじ。 前斎院をもねむごろに聞こえたまふやうなりしかど、わざと しも思し遂げずなりにしを」など思して、さることやある、と も問ひきこえたまはず、何心もなくておはするに、いとほし く、 「このことをいかに思さん。わが心はつゆも変るまじく、 さることあらむにつけては、なかなかいとど深さこそまさら

  め、見定めたまはざらむほど、いかに思ひ疑ひたまはん」
な ど、やすからず思さる。今の年ごろとなりては、ましてかた みに隔てきこえたまふことなく、あはれなる御仲なれば、し ばし心に隔て残したることあらむもいぶせきを、その夜はう ちやすみて明かしたまひつ。  またの日、雪うち降り、空のけしきもものあはれに、過ぎ にし方行く先の御物語聞こえかはしたまふ。 「院の頼もし げなくなりたまひにたる、御とぶらひに参りて、あはれなる 事どものありつるかな。女三の宮の御ことを、いと棄てがた げに思して、しかじかなむのたまはせつけしかば、心苦しく て、え聞こえ辞びずなりにしを、ことごとしくぞ人は言ひな さんかし。今はさやうのこともうひうひしく、すさまじく思 ひなりにたれば、人づてに気色ばませたまひしには、とかく のがれきこえしを、対面のついでに、心深きさまなることど もをのたまひつづけしには、えすくすくしくも返さひ申さで

  なん。深き御山住みにうつろひたまはんほどにこそは、渡し たてまつらめ。あぢきなくや思さるべき。いみじきことあり とも、御ため、あるより変ることはさらにあるまじきを、心 なおきたまひそよ。かの御ためこそ心苦しからめ。それもか たはならずもてなしてむ。誰も誰ものどかにて過ぐしたまは ば」
など聞こえたまふ。はかなき御すさびごとをだに、めざ ましきものに思して、心やすからぬ御心ざまなれば、いかが 思さんと思すに、いとつれなくて、 「あはれなる御譲り にこそはあなれ。ここには、いかなる心をおきたてまつるべ きにか。めざましく、かくてはなど咎めらるまじくは、心や すくてもはべなんを、かの母女御の御方ざまにても、疎から ず思し数まへてむや」と、卑下したまふを、 「あまり、か う、うちとけたまふ御ゆるしも、いかなれば、とうしろめた くこそあれ。まことは、さだに思しゆるいて、我も人も心得 て、なだらかにもてなし過ぐしたまはば、いよいよあはれに

  なむ。ひが言聞こえなどせん人の言、聞き入れたまふな。す べて世の人の口といふものなん、誰が言ひ出づることともな く、おのづから人の仲らひなど、うちほほゆがみ、思はずな ること出で来るものなめるを、心ひとつにしづめて、ありさ まに従ふなんよき。まだきに騒ぎて、あいなきもの恨みした まふな」
と、いとよく教へきこえたまふ。  心の中にも、 「かく空より出で来にたるやうなることにて、 のがれたまひ難きを、憎げにも聞こえなさじ。わが心に憚り たまひ、諌むることに従ひたまふべき、おのがどちの心より 起これる懸想にもあらず。堰かるべき方なきものから、をこ がましく思ひむすぼほるるさま、世人に漏りきこえじ。式部- 卿宮の大北の方、常にうけはしげなることどもをのたまひ出 でつつ、あぢきなき大将の御事にてさへ、あやしく恨みそね みたまふなるを、かやうに聞きて、いかにいちじるく思ひあ はせたまはん」など、おいらかなる人の御心といへど、いか

  でかはかばかりの隈はなからむ。今はさりとも、とのみわが 身を思ひあがり、うらなくて過ぐしける世の、人わらへなら んことを下には思ひつづけたまへど、いとおいらかにのみも てなしたまへり。 玉鬘若菜を進上、源氏の四十の賀宴を催す 年も返りぬ。朱雀院には、姫宮、六条院に 移ろひたまはん御いそぎをしたまふ。聞こ えたまへる人々、いと口惜しく思し嘆く。 内裏にも御心ばへありて聞こえたまひけるほどに、かかる御- 定めを聞こしめして、思しとまりにけり。  さるは、今年ぞ四十になりたまひければ、御賀のこと、お ほやけにも聞こしめし過ぐさず、世の中の営みにて、かねて より響くを、事のわづらひ多くいかめしき事は、昔より好み たまはぬ御心にて、みな返さひ申したまふ。  正月二十三日、子の日なるに、左大将殿の北の方、若菜ま ゐりたまふ。かねて気色も漏らしたまはで、いといたく忍び

  て思しまうけたりければ、にはかにて、え諌め返しきこえた まはず。忍びたれど、さばかりの御勢なれば、渡りたまふ 儀式など、いと響きことなり。  南の殿の西の放出に御座よそふ。屏風壁代よりはじめ、新 しく払ひしつらはれたり。うるはしく倚子などは立てず、御- 地敷四十枚、御褥、脇息など、すべてその御具ども、いとき よらにせさせたまへり。螺鈿の御廚子二具に、御衣箱四つ 据ゑて、夏冬の御装束、香壼、薬の箱、御硯、柑*坏、掻上の 箱などやうのもの、内々きよらを尽くしたまへり。御插頭の 台には、沈紫檀を作り、めづらしき文目を尽くし、同じき金 をも、色使ひなしたる、心ばへありいまめかしく、尚侍の君、 もののみやび深くかどめきたまへる人にて、目馴れぬさまに しなしたまへり。おほかたの事をば、ことさらにことごとし からぬほどなり。  人々参りなどしたまひて、御座に出でたまふとて、尚侍の

  君に御対面あり。御心の中には、いにしへ思し出づることど も、さまざまなりけんかし。いと若くきよらにて、かく御賀 などいふことは、ひが数へにやとおぼゆるさまの、なまめか しく人の親げなくおはしますを、めづらしくて、年月隔てて 見たてまつりたまふは、いと恥づかしけれど、なほけざやか なる隔てもなくて、御物語聞こえかはしたまふ。幼き君もい とうつくしくてものしたまふ。尚侍の君は、うちつづきても 御覧ぜられじとのたまひけるを、大将の、かかるついでにだ に御覧ぜさせんとて、二人同じやうに、振分髪の何心なき直- 衣姿どもにておはす。 「過ぐる齢も、みづからの心にはこ とに思ひとがめられず、ただ昔ながらの若々しきありさまに て、改むることもなきを、かかる末々のもよほしになん、な まはしたなきまで思ひ知らるるをりもはべりける。中納言の いつしかと儲けたなるを、ことごとしく思ひ隔てて、まだ見 せずかし。人よりことに数へとりたまひける今日の子の日こ

  そ、なほうれたけれ。しばしは老を忘れてもはべるべきを」
と聞こえたまふ。尚侍の君も、いとよくねびまさり、ものも のしき気さへ添ひて、見るかひあるさましたまへり。   若葉さす野べの小松をひきつれてもとの岩根をいの   るけふかな  と、せめておとなび聞こえたまふ。沈の折敷四つして、御若- 菜さまばかりまゐれり。御土器とりたまひて、    小松原末のよはひに引かれてや野べの若菜も年をつ   むべき  など聞こえかはしたまひて、上達部あまた南の廂に着きたま ふ。  式部卿宮は参りにくく思しけれど、御消息ありけるに、か く親しき御仲らひにて、心あるやうならむも便なくて、日た けてぞ渡りたまへる。大将の、したり顔にて、かかる御仲ら ひに、うけばりてものしたまふも、げに心やましげなるわざ

  なめれど、御孫の君たちは、いづ方につけても、おり立ちて 雑役したまふ。籠物四十枝、折櫃物四十、中納言をはじめた てまつりて、さるべきかぎり、とりつづきたまへり。御土器 くだり、若菜の御羹まゐる。御前には、沈の懸盤四つ、御- 坏どもなつかしくいまめきたるほどにせられたり。  朱雀院の御薬のこと、なほ平ぎはてたまはぬにより、楽人 などは召さず。御笛など、太政大臣の、その方はととのへた まひて、 「世の中に、この御賀より、まためづらしく きよら尽くすべき事あらじ」とのたまひて、すぐれたる音の かぎりを、かねてより思しまうけたりければ、忍びやかに御- 遊びあり。とりどりに奉る中に、和琴は、かの大臣の第一に 秘したまひける御琴なり。さる物の上手の、心をとどめて弾 き馴らしたまへる音いと並びなきを、他人は掻きたてにくく したまへば、衛門督のかたく辞ぶるを責めたまへば、げにい とおもしろく、をさをさ劣るまじく弾く。何ごとも、上手の

  嗣といひながら、かくしもえ継がぬわざぞかし、と心にくく あはれに人々思す。調べに従ひて跡ある手ども、定まれる唐- 土の伝へどもは、なかなか尋ね知るべき方あらはなるを、心 にまかせて、ただ掻き合はせたるすが掻きに、よろづの物の 音調へられたるは、妙におもしろく、あやしきまで響く。父 大臣は、琴の緒もいと緩に張りて、いたう下して調べ、響き 多く合はせてぞ掻き鳴らしたまふ。これは、いとわららかに 上る音の、なつかしく愛敬づきたるを、いとかうしもは聞こ えざりしを、と親王たちも驚きたまふ。琴は、兵部卿宮弾き たまふ。この御琴は、宜陽殿の御物にて、代々に第一の名あ りし御琴を、故院の末つ方、一品の宮の好みたまふことにて、 賜はりたまへりけるを、このをりのきよらを尽くしたまはん とするため、大臣の申し賜はりたまへる御伝へ伝へを思すに、 いとあはれに、昔の事も恋しく思し出でらる。親王も、酔泣 きえとどめたまはず。御気色とりたまひて、琴は御前に譲り

  きこえさせたまふ。もののあはれにえ過ぐしたまはで、めづ らしき物一つばかり弾きたまふに、ことごとしからねど、限 りなくおもしろき夜の御遊びなり。唱歌の人々御階に召して、 すぐれたる声の限り出だして、返り声になる。夜の更けゆく ままに、物の調べどもなつかしく変りて、青柳遊びたまふほ ど、げにねぐらの鶯驚きぬべく、いみじくおもしろし。私- 事のさまにしなしたまひて、禄など、いと警策にまうけられ たりけり。  暁に、尚侍の君帰りたまふ。御贈物などありけり。 「か う世を棄つるやうにて明かし暮らすほどに、年月の行く方も 知らず顔なるを、かう数へ知らせたまへるにつけては、心細 くなん。時々は、老やまさると見たまひくらべよかし。かく 古めかしき身のところせさに、思ふに従ひて対面なきもいと 口惜しくなん」など聞こえたまひて、あはれにもをかしくも、 思ひ出できこえたまふことなきにしもあらねば、なかなかほ

  のかにて、かく急ぎ渡りたまふを、いと飽かず口惜しくぞ思 されける。尚侍の君も、実の親をばさるべき契りばかりに思 ひきこえたまひて、あり難くこまかなりし御心ばえを、年月 にそへて、かく世に住みはてたまふにつけても、おろかなら ず思ひきこえたまひけり。 二月中旬、女三の宮を六条院に迎え入れる かくて二月の十余日に、朱雀院の姫宮、六- 条院へ渡りたまふ。この院にも、御心まう け世の常ならず。若菜まゐりし西の放出に、 御帳立てて、そなたの一二の対渡殿かけて、女房の局々ま で、こまかにしつらひ磨かせたまへり。内裏に参りたまふ人 の作法をまねびて、かの院よりも御調度など運ばる。渡りた まふ儀式いへばさらなり。御送りに、上達部などあまた参り たまふ。かの家司望みたまひし大納言も、やすからず思ひな がらさぶらひたまふ。御車寄せたる所に、院渡りたまひて、 おろしたてまつりたまふなども、例には違ひたる事どもなり。

  ただ人におはすれば、よろづの事限りありて、内裏参りにも 似ず、婿の大君といはんにも事違ひて、めづらしき御仲のあ はひどもになん。  三日がほど、かの院よりも、主の院方よりも、いかめしく めづらしきみやびを尽くしたまふ。対の上も事にふれて、た だにも思されぬ世のありさまなり。げに、かかるにつけて、 こよなく人に劣り消たるることもあるまじけれど、また並ぶ 人なくならひたまひて、華やかに生ひ先遠くあなづりにくき けはひにて移ろひたまへるに、なまはしたなく思さるれど、 つれなくのみもてなして、御渡りのほども、もろ心にはかな きこともし出でたまひて、いとらうたげなる御ありさまを、 いとどあり難しと思ひきこえたまふ。姫宮は、げにまだいと 小さく片なりにおはする中にも、いといはけなき気色して、 ひたみちに若びたまへり。かの紫のゆかり尋ねとりたまへり しをり思し出づるに、かれはざれて言ふかひありしを、これ

  は、いといはけなくのみ見えたまへば、よかめり、憎げにお し立ちたることなどはあるまじかめりと思すものから、いと あまりもののはえなき御さまかなと見たてまつりたまふ。 新婚三日の夜、源氏の反省と紫の上の苦悩 三日がほどは、夜離れなく渡りたまふを、 年ごろさもならひたまはぬ心地に、忍ぶれ どなほものあはれなり。御衣どもなど、い よいよたきしめさせたまふものから、うちながめてものした まふ気色、いみじくらうたげにをかし。 「などて、よろづの 事ありとも、また人を並べて見るべきぞ。あだあだしく心弱 くなりおきにけるわが怠りに、かかる事も出で来るぞかし。 若けれど中納言をばえ思しかけずなりぬめりしを」と、我な がらつらく思しつづけらるるに、涙ぐまれて、 「今宵ばか りはことわりとゆるしたまひてんな。これより後のとだえあ らむこそ、身ながらも心づきなかるべけれ。またさりとて、 かの院に聞こしめさんことよ」と思ひ乱れたまへる御心の中

  苦しげなり。すこしほほ笑みて、 「みづからの御心なが らだに、え定めたまふまじかなるを、ましてことわりも何も。 いづこにとまるべきにか」と、言ふかひなげにとりなしたま へば、恥づかしうさへおぼえたまひて、頬杖をつきたまひて 寄り臥したまへれば、硯を引き寄せて、   目に近く移ればかはる世の中を行くすゑとほくた   のみけるかな 古言など書きまぜたまふを、取りて見たまひて、はかなき言 なれど、げに、とことわりにて、   命こそ絶ゆとも絶えめさだめなき世のつねならぬな   かのちぎりを とみにもえ渡りたまはぬを、 「いとかたはらいたきわざかな」 とそそのかしきこえたまへば、なよよかにをかしきほどにえ ならず匂ひて渡りたまふを、見出だしたまふもいとただには あらずかし。

   年ごろ、さもやあらむと思ひし事どもも、今は、とのみも て離れたまひつつ、さらばかくにこそはと、うちとけゆく末 に、ありありて、かく世の聞き耳もなのめならぬ事の出で来 ぬるよ。思ひ定むべき世のありさまにもあらざりければ、今 より後もうしろめたくぞ思しなりぬる。さこそつれなく紛ら はしたまへど、さぶらふ人々も、 「思はずなる世なりや。あ またものしたまふやうなれど、いづ方も、みなこなたの御け はひには方避り憚るさまにて過ぐしたまへばこそ、事なくな だらかにもあれ、おし立ちてかばかりなるありさまに、消た れてもえ過ぐしたまはじ。またさりとて、はかなき事につけ てもやすからぬ事のあらむをりをり、必ずわづらはしき事ど も出で来なむかし」など、おのがじしうち語らひ嘆かしげな るを、つゆも見知らぬやうに、いとけはひをかしく物語など したまひつつ、夜更くるまでおはす。  かう人のただならず言ひ思ひたるも、聞きにくしと思して、

  「かくこれかれあまたものしたまふめれど、御心にかな ひていまめかしくすぐれたる際にもあらずと、目馴れてさう ざうしく思したりつるに、この宮のかく渡りたまへるこそめ やすけれ。なほ童心の失せぬにやあらむ、我も睦びきこえて あらまほしきを、あいなく隔てあるさまに人々やとりなさむ とすらん。等しきほど、劣りざまなど思ふ人にこそ、ただな らず耳たつこともおのづから出で来るわざなれ、かたじけな く心苦しき御ことなめれば、いかで心おかれたてまつらじと なむ思ふ」などのたまへば、中務中将の君などやうの人々 目をくはせつつ、 「あまりなる御思ひやりかな」など言ふべ し。昔は、ただならぬさまに、使ひ馴らしたまひし人どもな れど、年ごろはこの御方にさぶらひて、みな心寄せきこえた るなめり。他御方々よりも、 「いかに思すらむ。もとより思 ひ離れたる人々は、なかなか心やすきを」など、おもむけつ つとぶらひきこえたまふもあるを、 「かく推しはかる人こそ

  なかなか苦しけれ。世の中もいと常なきものを、などてかさ のみは思ひ悩まむ」
など思す。  あまり久しき宵居も例ならず、人やとがめん、と心の鬼に 思して入りたまひぬれば、御衾まゐりぬれど、げにかたはら さびしき夜な夜な経にけるも、なほただならぬ心地すれど、 かの須磨の御別れのをりなどを思し出づれば、 「今は、とか け離れたまひても、ただ同じ世の中に聞きたてまつらましか ば、とわが身までのことはうちおき、あたらしく悲しかりし ありさまぞかし。さてその紛れに、我も人も命たへずなりな ましかば、言ふかひあらまし世かは」と思しなほす。風うち 吹きたる夜のけはひ冷やかにて、ふとも寝入られたまはぬを、 近くさぶらふ人々あやしとや聞かむと、うちも身じろきたま はぬも、なほいと苦しげなり。夜深き鶏の声の聞こえたるも、 ものあはれなり。 源氏、夢に紫の上を見て、暁に急ぎ帰る

わざとつらしとにはあらねど、かやうに思 ひ乱れたまふけにや、かの御夢に見えたま ひければ、うちおどろきたまひて、いかに と心騒がしたまふに、鶏の音待ち出でたまへれば、夜深きも 知らず顔に急ぎ出でたまふ。いといはけなき御ありさまなれ ば、乳母たち近くさぶらひけり。妻戸押し開けて出でたまふ を、見たてまつり送る。明けぐれの空に、雪の光見えておぼ つかなし。なごりまでとまれる御匂ひ、 「闇はあやなし」と 独りごたる。  雪は所どころ消え残りたるが、いと白き庭の、ふとけぢめ 見えわかれぬほどなるに、 「猶残れる雪」と忍びやかに口 ずさみたまひつつ、御格子うち叩きたまふも、久しくかかる ことなかりつるならひに、人々も空寝をしつつ、やや待たせ たてまつりてひき上げたり。 「こよなく久しかりつるに、 身も冷えにけるは。怖ぢきこゆる心のおろかならぬにこそあ

  めれ。さるは、罪もなしや」
とて、御衣ひきやりなどしたま ふに、すこし濡れたる御単衣の袖をひき隠して、うらもなく なつかしきものから、うちとけてはたあらぬ御用意など、い と恥づかしげにをかし。限りなき人と聞こゆれど、難かめる 世を、と思しくらべらる。 源氏、女三の宮に歌を贈る 幼き返歌来る よろづいにしへの事を思し出でつつ、とけ 難き御気色を恨みきこえたまひて、その日 は暮らしたまへれば、え渡りたまはで、寝- 殿には御消息を聞こえたまふ。 「今朝の雪に心地あやまり て、いと悩ましくはべれば、心やすき方にためらひはべり」 とあり。御乳母、 「さ聞こえさせはべりぬ」とばかり、言葉 に聞こえたり。ことなることなの御返りや、と思す。 「院に 聞こしめさんこともいとほし。このころばかりつくろはん」 と思せど、えさもあらぬを、 「さは思ひしことぞかし。あな 苦し」とみづから思ひつづけたまふ。女君も、思ひやりなき

  御心かな、と苦しがりたまふ。  今朝は、例のやうに大殿籠り起きさせたまひて、宮の御方 に御文奉れたまふ。ことに恥づかしげもなき御さまなれど、 御筆などひきつくろひて、白き紙に、   中道をへだつるほどはなけれども心みだるるけさの   あは雪  梅につけたまへり。人召して、 「西の渡殿より奉らせよ」 とのたまふ。やがて見出だして、端近くおはします。白き御- 衣どもを着たまひて、花をまさぐりたまひつつ、友待つ雪の ほのかに残れる上に、うち散りそふ空をながめたまへり。 鶯の若やかに、近き紅梅の末にうち鳴きたるを、 「袖こ そ匂へ」と花をひき隠して、御簾おし上げてながめたまへる さま、ゆめにもかかる人の親にて重き位と見えたまはず、若 うなまめかしき御さまなり。  御返り、すこしほど経る心地すれば、入りたまひて、女君

  に花見せたてまつりたまふ。 「花といはば、かくこそ匂は まほしけれな。桜に移してば、また塵ばかりも心わくる方な くやあらまし」などのたまふ。 「これも、あまたうつろは ぬほど、目とまるにやあらむ。花の盛りに並べて見ばや」な どのたまふに、御返りあり。  紅の薄様に、あざやかにおし包まれたるを、胸つぶれて、 「御手のいと若きを、しばし見せたてまつらであらばや。隔 つとはなけれど、あはあはしきやうならんは、人のほどかた じけなし」と思すに、ひき隠したまはんも心おきたまふべけ れば、かたそば広げたまへるを、後目に見おこせて添ひ臥し たまへり。   はかなくてうはの空にぞ消えぬべき風にただよふ   春のあは雪  御手、げにいと若く幼げなり。さばかりのほどになりぬる人 はいとかくはおはせぬものを、と目とまれど、見ぬやうに紛

  らはしてやみたまひぬ。他人の上ならば、さこそあれなどは、 忍びて聞こえたまふべけれど、いとほしくて、ただ、 「心 やすくを思ひなしたまへ」とのみ聞こえたまふ。 源氏、幼い宮に比べ紫の上の立派さを思う 今日は、宮の御方に昼渡りたまふ。心こと にうち化粧じたまへる御ありさま、今見た てまつる女房などは、まして見るかひあり、 と思ひきこゆらむかし。御乳母などやうの老いしらへる人々 ぞ、<人々> 「いでや。この御ありさま一ところこそめでたけれ、め ざましき事はありなむかし」とうちまぜて思ふもありけり。  女宮は、いとらうたげに幼きさまにて、御しつらひなどの ことごとしく、よだけく、うるはしきに、みづからは何心も なくものはかなき御ほどにて、いと御衣がちに、身もなくあ えかなり。ことに恥ぢなどもしたまはず、ただ児の面嫌ひせ ぬ心地して、心やすくうつくしきさましたまへり。 「院の帝 は、男々しくすくよかなる方の御才などこそ、心もとなくお

  はしますと世人思ひためれ、をかしき筋になまめき、ゆゑゆ ゑしき方は人にまさりたまへるを、などてかくおいらかに生 ほしたてたまひけん。さるは、いと御心とどめたまへる皇女 と聞きしを」
と思ふもなま口惜しけれど、憎からず見たてま つりたまふ。ただ聞こえたまふままに、なよなよとなびきた まひて、御答へなどをも、おぼえたまひけることは、いはけ なくうちのたまひ出でて、え見放たず見えたまふ。昔の心な らましかば、うたて心おとりせましを、今は、世の中を、み なさまざまに思ひなだらめて、 「とあるもかかるも、際離る ることは難きものなりけり。とりどりにこそ多うはありけれ。 よその思ひはいとあらまほしきほどなりかし」と思すに、さ し並び目離れず見たてまつりたまへる年ごろよりも、対の上 の御ありさまぞなほあり難く、我ながらも生ほしたてけり、 と思す。一夜のほど、朝の間も恋しくおぼつかなく、いとど しき御心ざしのまさるを、などかくおぼゆらん、とゆゆしき

  までなむ。 朱雀院山寺に移り、源氏、紫の上に消息 院の帝は、月の中に御寺に移ろひたまひぬ。 この院に、あはれなる御消息ども聞こえた まふ。姫宮の御ことはさらなり、わづらは しく、いかにと聞くところやなど、憚りたまふことなくて、 ともかくも、ただ御心にかけてもてなしたまふべくぞ、たび たび聞こえたまひける。されど、あはれにうしろめたく、幼 くおはするを思ひきこえたまひけり。  紫の上にも、御消息ことにあり。 「幼き人の、心地な きさまにて移ろひものすらむを、罪なく思しゆるして、後見 たまへ。尋ねたまふべきゆゑもやあらむとぞ。   背きにしこの世にのこる心こそ入るやまみちのほだしな   りけれ 闇をえはるけで聞こゆるも、をこがましくや」とあり。大殿 も見たまひて、 「あはれなる御消息を。かしこまり聞こえた

  まへ」
とて、御使にも、女房して、土器さし出でさせたまひ て、強ひさせたまふ。御返りはいかがなど、聞こえにくく思 したれど、ことごとしくおもしろかるべきをりの事ならねば、 ただ心を述べて、   背く世のうしろめたくはさりがたきほだしをしひ   てかけな離れそ  などやうにぞあめりし。女の御装束に細長添へてかづけたま ふ。御手などのいとめでたきを、院御覧じて、何ごともいと 恥づかしげなめるあたりに、いはけなくて見えたまふらむこ と、いと心苦しう思したり。 源氏ひそかに二条宮を訪れ朧月夜に逢う 今はとて、女御更衣たちなど、おのがじし 別れたまふも、あはれなることなむ多かり ける。尚侍の君は、故后の宮のおはしまし し二条宮にぞ住みたまふ。姫宮の御ことをおきては、この御 ことをなむ、かへりみがちに帝も思したりける。尼になりな

  んと思したれど、かかる競ひには、慕ふやうに心あわたたし、 と諌めたまひて、やうやう仏の御事などいそがせたまふ。  六条の大殿は、あはれに飽かずのみ思してやみにし御あた りなれば、年ごろも忘れがたく、いかならむをりに対面あら む、いま一たびあひ見て、その世のことも聞こえまほしくの み思しわたるを、かたみに世の聞き耳も憚りたまふべき身の ほどに、いとほしげなりし世の騒ぎなども思し出でらるれば、 よろづにつつみ過ぐしたまひけるを、かうのどやかになりた まひて、世の中を思ひしづまりたまふらむころほひの御あり さまいよいよゆかしく心もとなければ、あるまじきこととは 思しながら、おほかたの御とぶらひにことつけて、あはれな るさまに常に聞こえたまふ。若々しかるべき御あはひならね ば、御返りも時々につけて聞こえかはしたまふ。昔よりもこ よなくうち具し、ととのひはてにたる御けはひを見たまふに も、なほ忍びがたくて、昔の中納言の君のもとにも、心深き

ことどもを常にのたまふ。  かの人のせうとなる和泉前司を召し寄せて、若々しくい にしへに返りて語らひたまふ。 「人づてならで、物越しに 聞こえ知らすべきことなんある。さりぬべく聞こえなびかし て、いみじく忍びて参らむ。今はさやうの歩きもところせき 身のほどに、おぼろけならず忍ぶべきことなれば、そこにも また人には漏らしたまはじと思ふに、かたみにうしろやすく なん」などのたまふ。 尚侍の君、 「いでや。世の中を思ひ知るにつけても、昔よ りつらき御心をここら思ひつめつる年ごろのはてに、あはれ に悲しき御事をさしおきて、いかなる昔語をか聞こえむ。げ に人は漏り聞かぬやうありとも、心の問はんこそいと恥づか しかるべけれ」と、うち嘆きたまひつつ、なほさらにあるま じきよしをのみ聞こゆ。 「いにしへ、わりなかりし世にだに、心かはしたまはぬこと

にもあらざりしを。げに背きたまひぬる御ためうしろめたき やうにはあれど、あらざりし事にもあらねば、今しもけざや かに浄まはりて、立ちにしわが名、今さらに取り返したまふ べきにや」
と思し起こして、この信太の森を道のしるべにて 参うでたまふ。  女君には、 「東の院にものする常陸の君の、日ごろわ づらひて久しくなりにけるを、ものさわがしき紛れにとぶら はねば、いとほしくてなん。昼などけざやかに渡らむも便な きを、夜の間に忍びてとなん思ひはべる。人にもかくとも知 らせじ」と聞こえたまひて、いといたく心化粧したまふを、 例はさしも見えたまはぬあたりを、あやし、と見たまひて、 思ひあはせたまふこともあれど、姫宮の御事の後は、何ごと も、いと過ぎぬる方のやうにはあらず、すこし隔つる心添ひ て、見知らぬやうにておはす。  その日は、寝殿へも渡りたまはで、御文書きかはしたまふ。

薫物などに心を入れて暮らしたまふ。宵過ぐして、睦ましき 人のかぎり、四五人ばかり、網代車の昔おぼえてやつれたる にて出でたまふ。和泉守して御消息聞こえたまふ。かく渡り おはしましたるよし、ささめき聞こゆれば、驚きたまひて、 「あやしく。いかやうに聞こえたるにか」とむつかりたま へど、 「をかしやかにて帰したてまつらむに、いと便なう はべらむ」とて、あながちに思ひめぐらして入れたてまつる。 御とぶらひなど聞こえたまひて、 「ただここもとに。物越 しにても。さらに昔のあるまじき心などは、残らずなりにけ るを」と、わりなく聞こえたまへば、いたく嘆く嘆くゐざり 出でたまへり。さればよ、なほけ近さは、とかつ思さる。か たみにおぼろけならぬ御みじろきなれば、あはれも少なから ず。東の対なりけり。辰巳の方の廂に据ゑたてまつりて、御- 障子のしりは固めたれば、 「いと若やかなる心地もするか な。年月のつもりをも、まぎれなく数へらるる心ならひに、

かくおぼめかしきは、いみじうつらくこそ」
と恨みきこえた まふ。 夜いたく更けゆく。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々など、あはれに 聞こえて、しめじめと人目少なき宮の内のありさまも、さも 移りゆく世かな、と思しつづくるに、平中がまねならねど、 まことに涙もろになん。昔に変りておとなおとなしくは聞こ えたまふものから、これをかくてやと引き動かしたまふ。    年月をなかにへだてて逢坂のさもせきがたくおつる   なみだか  女、    なみだのみせきとめがたき清水にて行き逢ふ道はは   やく絶えにき  などかけ離れ聞こえたまへど、いにしへを思し出づるも、誰 により多うはさるいみじき事もありし世の騒ぎぞは、と思ひ 出でたまふに、げにいま一たびの対面はありもすべかりけり、

と思し弱るも、もとよりづしやかなるところはおはせざりし 人の、年ごろはさまざまに世の中を思ひ知り、来し方くやし く、公私のことにふれつつ、数もなく思しあつめて、いと いたく過ぐしたまひにたれど、昔おぼえたる御対面に、その 世の事も遠からぬ心地して、え心強くももてなしたまはず。 なほらうらうじく、若う、なつかしくて、ひとかたならぬ世 のつつましさをもあはれをも、思ひ乱れて、嘆きがちにても のしたまふ気色など、今はじめたらむよりもめづらしくあは れにて、明けゆくもいと口惜しくて、出でたまはん空もなし。  朝ぼらけのただならぬ空に、百千鳥の声もいとうららかな り。花はみな散りすぎて、なごりかすめる梢の浅緑なる木立、 昔、藤の宴したまひし、このころのことなりけんかし、と思 し出づる。年月のつもりにけるほども、そのをりのこと、か きつづけあはれに思さる。中納言の君、見たてまつり送ると て、妻戸押し開けたるに、たち返りたまひて、 「この藤よ、

いかに染めけむ色にか。なほえならぬ心添ふにほひにこそ。 いかでかこの蔭をば立ち離るべき」
と、わりなく出でがてに 思しやすらひたり。山際よりさし出づる日のはなやかなるに さしあひ、目も輝く心地する御さまの、こよなくねび加はり たまへる御けはひなどを、めづらしくほど経ても見たてまつ るは、まして世の常ならずおぼゆれば、 「さる方にてもなど か見たてまつり過ぐしたまはざらむ。御宮仕にも限りありて、 際ことに離れたまふこともなかりしを、故宮のよろづに心を 尽くしたまひ、よからぬ世の騒ぎに、軽々しき御名さへ響き てやみにしよ」など、思ひ出でらる。なごり多く残りぬらん 御物語のとぢめは、げに残りあらせまほしきわざなめるを、 御身を心にえまかせたまふまじく、ここらの人目もいと恐ろ しくつつましければ、やうやうさし上りゆくに、心あわたた しくて。廊の戸に御車さし寄せたる人々も、忍びて声づくり きこゆ。

 人召して、かの咲きかかりたる花、一枝折らせたまへり。 沈みしも忘れぬものをこりずまに身もなげつべきや どのふぢ波  いといたく思しわづらひて、寄りゐたまへるを、心苦しう見 たてまつる。女君も、今さらにいとつつましく、さまざまに 思ひ乱れたまへるに、花の蔭はなほなつかしくて、 身をなげんふちもまことのふちならでかけじやさら にこりずまの波 いと若やかなる御ふるまひを、心ながらもゆるさぬことに思 しながら、関守の固からぬたゆみにや、いとよく語らひおき て出でたまふ。その昔も、人よりこよなく心とどめて思うた まへりし御心ざしながら、はつかにてやみにし御仲らひには、 いかでかはあはれも少なからむ。  いみじく忍び入りたまへる御寝くたれのさまを待ちうけて、 女君、さばかりならむと心得たまへれど、おぼめかしくもて

なしておはす。なかなかうちふすべなどしたまへらむよりも 心苦しく、などかくしも見放ちたまひつらむと思さるれば、 ありしよりけに深き契りをのみ、長き世をかけて聞こえたま ふ。尚侍の君の御ことも、また漏らすべきならねど、いにし への事も知りたまへれば、まほにはあらねど、 「物越しに、 はつかなりつる対面なん、残りある心地する。いかで、人目と がめあるまじくもて隠して、いま一たびも」と語らひきこえ たまふ。うち笑ひて、 「いまめかしくもなり返る御あり さまかな。昔を今に改め加へたまふほど、中空なる身のため 苦しく」とて、さすがに涙ぐみたまへるまみのいとらうたげ に見ゆるに、 「かう心やすからぬ御気色こそ苦しけれ。た だおいらかにひきつみなどして教へたまへ。隔てあるべくも ならはしきこえぬを、思はずにこそなりにける御心なれ」と て、よろづに御心とりたまふほどに、何ごともえ残したまは ずなりぬめり。宮の御方にも、とみにえ渡りたまはず、こし

らへきこえつつおはします。  姫宮は何とも思したらぬを、御後見どもぞやすからず聞こ えける。わづらはしうなど見えたまふ気色ならば、そなたも まして心苦しかるべきを、おいらかにうつくしきもてあそび ぐさに思ひきこえたまへり。 紫の上、はじめて女三の宮に対面する 桐壼の御方は、うちはへえまかでたまはず。 御暇のあり難ければ、心やすくならひたま へる若き御心地に、いと苦しくのみ思した り。夏ごろ悩ましくしたまふを、とみにもゆるしきこえたま はねば、いとわりなしと思す。めづらしきさまの御心地にぞ ありける。まだいとあえかなる御ほどに、いとゆゆしくぞ、 誰も誰も思すらむかし。からうじてまかでたまへり。姫宮の おはします殿の東面に御方はしつらひたり。明石の御方、 今は御身に添ひて出で入りたまふも、あらまほしき御宿世な りかし。

 対の上、こなたに渡りて、対面したまふついでに、 「姫- 宮にも、中の戸開けて聞こえん。かねてよりもさやうに思ひ しかど、ついでなきにはつつましきを、かかるをりに聞こえ 馴れなば、心やすくなんあるべき」と、大殿に聞こえたまへ ば、うち笑みて、 「思ふやうなるべき御語らひにこそはあ なれ。いと幼げにものしたまふめるを、うしろやすく教へな したまへかし」と、ゆるしきこえたまふ。宮よりも、明石の 君の恥づかしげにてまじらむを思せば、御髪すまし、ひきつ くろひておはする、たぐひあらじと見えたまへり。  大殿は、宮の御方に渡りたまひて、 「夕方、かの対には べる人の、淑景舎に対面せんとて出で立つ、そのついでに、 近づききこえさせまほしげにものすめるを、ゆるして語らひ たまへ。心などはいとよき人なり。まだ若々しくて、御遊び がたきにもつきなからずなん」など聞こえたまふ。 「恥 づかしうこそはあらめ。何ごとをか聞こえん」と、おいらか

にのたまふ。 「人の答へは、事に従ひてこそは思し出でめ。 隔ておきてなもてなしたまひそ」と、こまかに教へきこえた まふ。御仲うるはしくて過ぐしたまへと思す。あまりに何心 もなき御ありさまを、見あらはされんも恥づかしくあぢきな けれど、さのたまはんを、心隔てんもあいなし、と思すなり けり。  対には、かく出で立ちなどしたまふものから、我より上の 人やはあるべき、身のほどなるものはかなきさまを、見えお きたてまつりたるばかりこそあらめ、など思ひつづけられて、 うちながめたまふ。手習などするにも、おのづから、古言も、 もの思はしき筋のみ書かるるを、さらばわが身には思ふこと ありけり、とみづからぞ思し知らるる。  院、渡りたまひて、宮女御の君などの御さまどもを、うつ くしうもおはするかなとさまざま見たてまつりたまへる御目 うつしには、年ごろ目馴れたまへる人の、おぼろけならむが

いとかく驚かるべきにもあらぬを、なほたぐひなくこそはと 見たまふ。あり難きことなりかし。あるべき限り気高う恥づ かしげにととのひたるにそひて、華やかにいまめかしくにほ ひ、なまめきたるさまざまのかをりもとりあつめ、めでたき さかりに見えたまふ。去年より今年はまさり、昨日より今日 はめづらしく、常に目馴れぬさまのしたまへるを、いかでか くしもありけんと思す。  うちとけたりつる御手習を、硯の下にさし入れたまへれど、 見つけたまひてひき返し見たまふ。手などの、いとわざとも 上手と見えで、らうらうじくうつくしげに書きたまへり。   身にちかく秋や来ぬらん見るままに青葉の山もう   つろひにけり  とある所に、目とどめたまひて、   水鳥の青羽はいろもかはらぬをはぎのしたこそけし きことなれ 

など書き添へつつすさびたまふ。ことに触れて、心苦しき御- 気色の下にはおのづから漏りつつ見ゆるを、事なく消ちたま へるもあり難くあはれに思さる。  今宵は、いづ方にも御暇ありぬべければ、かの忍び所に、 いとわりなくて出でたまひにけり。いとあるまじきことと、 いみじく思し返すにもかなはざりけり。  春宮の御方は、実の母君よりも、この御方をば睦ましきも のに頼みきこえたまへり。いとうつくしげにおとなびまさり たまへるを、思ひ隔てずかなしと見たてまつりたまふ。御物- 語などいとなつかしく聞こえかはしたまひて、中の戸開けて、 宮にも対面したまへり。  いと幼げにのみ見えたまへば心やすくて、おとなおとなし く親めきたるさまに、昔の御筋をも尋ねきこえたまふ。中納- 言の乳母といふ召し出でて、 「おなじかざしを尋ねきこ ゆれば、かたじけなけれど、分かぬさまに聞こえさすれど、

ついでなくてはべりつるを。今よりはうとからず、あなたな どにもものしたまひて、怠らむことはおどろかしなどももの したまはんなんうれしかるべき」
などのたまへば、 「頼 もしき御蔭どもにさまざまに後れきこえたまひて、心細げに おはしますめるを、かかる御ゆるしのはべめれば、ますこと なくなん思うたまへられける。背きたまひにし上の御心向け も、ただかくなん御心隔てきこえたまはず、まだいはけなき 御ありさまをも、はぐくみたてまつらせたまふべくぞはべめ りし。内々にもさなん頼みきこえさせたまひし」など聞こゆ。 「いとかたじけなかりし御消息の後は、いかでとのみ思 ひはべれど、何ごとにつけても、数ならぬ身なむ口惜しかり ける」と、やすらかにおとなびたるけはひにて、宮にも、御- 心につきたまふべく、絵などのこと、雛の棄てがたきさま、 若やかに聞こえたまへば、げにいと若く心よげなる人かなと、 幼き御心地にはうちとけたまへり。

 さて後は、常に御文通ひなどして、をかしき遊びわざなど につけてもうとからず聞こえかはしたまふ。世の中の人も、 あいなう、かばかりになりぬるあたりのことは、言ひあつか ふものなれば、はじめつ方は、 「対の上いかに思すらむ。御 おぼえ、いとこの年ごろのやうにはおはせじ。すこしは劣り なん」など言ひけるを、いますこし深き御心ざし、かくてし もまさるさまなるを、それにつけても、またやすからず言ふ 人々あるに、かく憎げなくさへ聞こえかはしたまへば、事な ほりてめやすくなむありける。 紫の上の薬師仏供養と精進落しの祝宴 神無月に、対の上、院の御賀に、嗟峨野の 御堂にて薬師仏供養じたてまつりたまふ。 いかめしき事は、切に諌め申したまへば、 忍びやかにと思しおきてたり。仏、経箱、帙簀のととのへ、 まことの極楽思ひやらる。最勝王経金剛般若寿命経など、 いとゆたけき御祈りなり。上達部いと多く参りたまへり。御-

堂のさまおもしろく言はむ 方なく、紅葉の蔭分けゆく 野辺のほどよりはじめて見- 物なるに、かたへはきほひ 集まりたまふなるべし。霜- 枯れわたれる野原のままに、 馬車の行きちがふ音繁く響きたり。御誦経、我も我もと御- 方々いかめしくせさせたまふ。  二十三日を御としみの日にて、この院は、かく隙間なく集 ひたまへる中に、わが御わたくしの殿と思す二条院にて、そ の御設けはせさせたまふ。御装束をはじめおほかたの事ども もみなこなたにのみしたまふを、御方々も、さるべき事ども 分けつつ望み仕うまつりたまふ。対どもは、人の局々にした るを払ひて、殿上人、諸大夫、院司、下人までの設け、いか めしくせさせたまへり。寝殿の放出を、例のしつらひて、

螺鈿の倚子立てたり。殿の西の間に、御衣の机十二立てて、 夏冬の御装ひ御衾など例のごとく、紫の綾の覆ひどもうる はしく見えわたりて、内の心はあらはならず。御前に置物の 机二つ、唐の地の裾濃の覆ひしたり。插頭の台は沈の華足、 黄金の鳥銀の枝にゐたる心ばへなど、淑景舎の御あづかり にて、明石の御方のせさせたまへる、ゆゑ深く心ことなり。 背後の御屏風四帖は、式部卿宮なむせさせたまひける。いみ じく尽くして、例の四季の絵なれど、めづらしき山水潭など、 目馴れずおもしろし。北の壁にそへて、置物の御廚子二具 立てて、御調度ども例のことなり。南の廂に上達部、左右の 大臣、式部卿宮をはじめたてまつりて、次々はまして参りた まはぬ人なし。舞台の左右に、楽人の平張うちて、西東に 屯食八十具、禄の唐櫃四十づつつづけて立てたり。  未の刻ばかりに楽人参る。万歳楽、皇瘴*など舞ひて、日暮 れかかるほどに、高麗の乱声して、落蹲の舞ひ出でたるほど、

なほ常の目馴れぬ舞のさまなれば、舞ひはつるほどに、権中- 納言衛門督おりて、入り綾をほのかに舞ひて、紅葉の蔭に入 りぬるなごり、飽かず興ありと人々思したり。いにしへの朱- 雀院の行幸に、青海波のいみじかりし夕、思ひ出でたまふ人- 人は、権中納言衛門督のまた劣らずたちつづきたまひにける、 世々のおぼえありさま、容貌用意などもをさをさ劣らず、 官位はやや進みてさへこそなど、齢のほどをも数へて、なほ さるべきにて昔よりかくたちつづきたる御仲らひなりけり、 とめでたく思ふ。主の院も、あはれに涙ぐましく、思し出で らるる事ども多かり。  夜に入りて、楽人どもまかり出づ。北の政所の別当ども、 人々ひきゐて、禄の唐櫃によりて、一つづつ取りて、次々賜 ふ。白きものどもを品々かづきて、山際より池の堤過ぐるほ どのよそ目は、千歳をかねてあそぶ鶴の毛衣に思ひまがへら る。御遊びはじまりて、またいとおもしろし。御琴どもは、

春宮よりぞととのへさせたまひける。朱雀院より渡り参れる 琵琶琴、内裏より賜はりたまへる箏の御琴など、みな昔おぼ えたる物の音どもにて、めづらしく掻き合はせたまへるに、 何のをりにも過ぎにし方の御ありさま、内裏わたりなど思し 出でらる。 「故入道の宮おはせましかば、かかる御賀など、 我こそ進み仕うまつらましか、何ごとにつけてかは心ざしを も見えたてまつりけん」と、飽かず口惜しくのみ思ひ出でき こえたまふ。  内裏にも、故宮のおはしまさぬことを、何ごとにもはえな くさうざうしく思さるるに、この院の御ことをだに、例の、 跡あるさまのかしこまりを尽くしてもえ見せたてまつらぬを、 世とともに飽かぬ心地したまふも、今年はこの御賀にことつ けて行幸などもあるべく思しおきてけれど、 「世の中のわづ らひならむこと、さらにせさせたまふまじくなん」と辞び申 したまふことたびたびになりぬれば、口惜しく思しとまりぬ。 秋好中宮源氏のため諸寺に布施し、饗宴す

十二月の二十日あまりのほどに、中宮まか でさせたまひて、今年の残りの御祈りに、 奈良の京の七大寺に、御誦経、布四千反、 この近き京の四十寺に、絹四百疋を分かちてせさせたまふ。 あり難き御はぐくみを思し知りながら、何ごとにつけてかは 深き御心ざしをもあらはし御覧ぜさせたまはんとて、父宮母 御息所のおはせまし御ための心ざしをもとり添へ思すに、か くあながちにおほやけにも聞こえ返させたまへば、事ども多 くとどめさせたまひつ。 「四十の賀といふことは、さきざ きを聞きはべるにも、残りの齢久しき例なん少なかりけるを、 このたびは、なほ世の響きとどめさせたまひて、まことに後 に足らんことを数へさせたまへ」とありけれど、公ざまにて、 なほいといかめしくなんありける。  宮のおはします町の寝殿に御しつらひなどして、さきざき にことに変らず、上達部の禄など、大饗になずらへて、親王

たちにはことに女の装束、非参議の四位、廷臣たちなどただ の殿上人には、白き細長一襲、腰差などまで次々に賜ふ。装- 束限りなくきよらを尽くして、名高き帯、御佩刀など、故前- 坊の御方ざまにて伝はりまゐりたるも、またあはれになん。 古き世の一の物と名あるかぎりは、みな集ひまゐる御賀にな んあめる。昔物語にも、物得させたるをかしこきことには数 へつづけためれど、いとうるさくて、こちたき御仲らひのこ とどもはえぞ数へあへはべらぬや。 勅命により夕霧、源氏のため賀宴を行なう 内裏には、思しそめてしことどもをむげに やはとて、中納言にぞつけさせたまひてけ る。そのころの右大将病して辞したまひけ るを、この中納言に御賀のほどよろこび加へんと思しめして、 にはかになさせたまひつ。院もよろこび聞こえさせたまふも のから、 「いと、かく、にはかにあまるよろこびをなむ、 いちはやき心地しはべる」と卑下し申したまふ。

 丑寅の町に、御しつらひ設けたまひて、隠ろへたるやうに しなしたまへれど、今日は、なほかたことに儀式まさりて、 所どころの饗なども、内蔵寮穀倉院より、仕うまつらせたま へり。屯食など、おほやけざまにて、頭中将宣旨承りて。 親王たち五人、左右の大臣、大納言二人、中納言三人、宰相 五人、殿上人は、例の内裏、春宮、院残る少なし。御座御調- 度どもなどは、太政大臣くはしく承りて、仕うまつらせた まへり。今日は、仰せ言ありて、渡り参りたまへり。院も、 いとかしこく驚き申したまひて、御座に着きたまひぬ。母屋 の御座に対へて、大臣の御座あり。いときよらにものものし くふとりて、この大臣ぞ、今さかりの宿徳とは見えたまへる。 主の院は、なほいと若き源氏の君に見えたまふ。御屏風四帖 に、内裏の御手書かせたまへる、唐の綾の薄淡*に、下絵のさ まなどおろかならむやは。おもしろき春秋の作り絵などより も、この御屏風の墨つきの輝くさまは目も及ばず、思ひなし

さへめでたくなむありける。置物の御廚子、弾物、吹物など、 蔵人所より賜はりたまへり。大将の御勢もいといかめしく なりたまひにたれば、うち添へて、今日の作法いとことなり。 御馬四十疋、左右の馬寮、六衛府の官人、上より次々に牽き ととのふるほど、日暮れはてぬ。  例の万歳楽賀皇恩などいふ舞、けしきばかり舞ひて、大臣 の渡りたまへるに、めづらしくもてはやしたまへる御遊びに 皆人心を入れたまへり。琵琶は、例の兵部卿宮、何ごとにも 世に難き物の上手におはして、いと二なし。御前に琴の御琴、 大臣和琴弾きたまふ。年ごろ添ひたまひにける御耳の聞きな しにや、いと優にあはれに思さるれば、琴も御手をさをさ隠 したまはず、いみじき音ども出づ。昔の御物語どもなど出で 来て、今、はた、かかる御仲らひに、いづ方につけても聞こ え通ひたまふべき御睦びなど心よく聞こえたまひて、御酒あ また度まゐりて、物のおもしろさもとどこほりなく、御酔泣

きどもえとどめたまはず。  御贈物に、すぐれたる和琴一つ、好みたまふ高麗笛そへて、 紫檀の箱一具に、唐の本ども、ここの草の本など入れて御車 に追ひて奉れたまふ。御馬ども迎へとりて、右馬寮ども高麗 の楽してののしる。六衛府の官人の禄ども、大将賜ふ。御心 とそぎたまひて、いかめしき事どもは、このたびとどめたま へれど、内裏、春宮、一院、后の宮、次々の御ゆかりいつく しきほど、いひ知らず見えにたることなれば、なほかかるを りにはめでたくなんおぼえける。  大将のただ一ところおはするを、さうざうしくはえなき心- 地せしかど、あまたの人にすぐれおぼえことに、人柄もかた はらなきやうにものしたまふにも、かの母北の方の、伊勢の 御息所との恨み深く、いどみかはしたまひけんほどの御宿世 どもの行く末見えたるなむさまざまなりける。  その日の御装束どもなど、こなたの上なむしたまひける。

禄どもおほかたのことをぞ、三条の北の方はいそぎたまふめ りし。をりふしにつけたる御営み、内々の物のきよらをも、 こなたにはただよその事にのみ聞きわたりたまふを、何ごと につけてかは、かかるものものしき数にもまじらひたまはま しとおぼえたるを、大将の君の御ゆかりに、いとよく数まへ られたまへり。 新年、明石の女御出産迫り加持祈祷する 年返りぬ。桐壼の御方近づきたまひぬるに より、正月朔日より御修法不断にせさせた まふ。寺々社々の御祈祷、はた、数も知 らず。大殿の君、ゆゆしき事を見たまひてしかば、かかるほ どの事はいと恐ろしきものに思ししみたるを、対の上などの さることしたまはぬは、口惜しくさうざうしきものからうれ しく思さるるに、まだいとあえかなる御ほどにいかにおは せんとかねて思し騒ぐに、二月ばかりより、あやしく御気- 色かはりて悩みたまふに御心ども騒ぐべし。陰陽師どもも、

所をかへてつつしみたまふべく申しければ、外のさし離れた らむはおぼつかなしとて、かの明石の御町の中の対に渡した てまつりたまふ。こなたはただ大きなる対二つ、廊どもなむ 廻りてありけるに、御修法の壇ひまなく塗りて、いみじき験- 者ども集ひてののしる。母君、この時にわが御宿世も見ゆべ きわざなめれば、いみじき心を尽くしたまふ。 尼君、女御に昔語りをする 明石の君の狼狽 かの大尼君も、今はこよなきほけ人にてぞ ありけむかし。この御ありさまを見たてま つるは夢の心地して、いつしかと参り近づ き馴れたてまつる。年ごろ、この母君は、かう添ひさぶらひ たまへど、昔の事などまほにしも聞こえ知らせたまはざりけ るを、この尼君、よろこびにえたへで参りては、いと涙がち に、古めかしき事どもをわななき出でつつ語りきこゆ。はじ めつ方は、あやしくむつかしき人かなとうちまぼりたまひし かど、かかる人ありとばかりは、ほの聞きおきたまへれば、

なつかしくもてなしたまへり。生まれたまひしほどのこと、 大殿の君のかの浦におはしましたりしありさま、 「今は、 とて京へ上りたまひしに、誰も誰も心をまどはして、今は限 り、かばかりの契りにこそはありけれと嘆きしを、若君のか くひき助けたまへる御宿世のいみじくかなしきこと」と、ほ ろほろと泣けば、げにあはれなりける昔のことを、かく聞か せざらましかばおぼつかなくても過ぎぬべかりけり、と思し てうち泣きたまふ。  心の中には、 「わが身は、げにうけばりていみじかるべき 際にはあらざりけるを、対の上の御もてなしに磨かれて、人 の思へるさまなどもかたほにはあらぬなりけり。身をばまた なきものに思ひてこそ、宮仕のほどにも、かたへの人々をば 思ひ消ち、こよなき心おごりをばしつれ。世人は、下に言ひ 出づるやうもありつらむかし」など思し知りはてぬ。母君を ば、もとより、かく、すこしおぼえ下れる筋と知りながら、

生まれたまひけんほどなどをば、さる世離れたる境にてなど も知りたまはざりけり。いとあまりおほどきたまへるけにこ そは。あやしく、おぼおぼしかりけることなりや。かの入道 の、今は、仙人の世にも住まぬやうにてゐたなるを聞きたま ふも心苦しくなど、かたがたに思ひ乱れたまひぬ。  いとものあはれにながめておはするに、御方参りたまひて、 日中の御加持に、こなたかなたより参り集ひ、もの騒がしく ののしるに、御前にことに人もさぶらはず、尼君ところ得て いと近くさぶらひたまふ、 「あな見苦しや。短き御几帳 ひき寄せてこそさぶらひたまはめ。風など騒がしくて、おの づから綻びの隙もあらむに。医師などやうのさまして。いと さかり過ぎたまへりや」など、なまかたはらいたく思ひたま へり。よしめきそしてふるまふとはおぼゆめれども、もうも うに耳もおぼおぼしかりければ、 「ああ」と傾きてゐたり。 さるはいとさ言ふばかりにもあらずかし。六十五六のほどな

り。尼姿いとかはらかに、あてなるさまして、目つややかに 泣き腫れたるけしきの、あやしく昔思ひ出でたるさまなれば、 胸うちつぶれて、 「古代のひが言どもやはべりつらむ。 よくこの世の外なるやうなるひがおぼえどもにとりまぜつつ、 あやしき昔の事どもも出でまうで来つらんはや。夢の心地こ そしはべれ」と、うちほほ笑みて見たてまつりたまへば、い となまめかしくきよらにて、例よりもいたくしづまり、もの 思したるさまに見えたまふ。わが子ともおぼえたまはずかた じけなきに、「いとほしきことどもを聞こえたまひて、思し 乱るるにや。今はかばかりと御位を極めたまはん世に、聞こ えも知らせんとこそ思へ、口惜しく思し棄つべきにはあらね ど、いといとほしく心おとりしたまふらん」とおぼゆ。  御加持はててまかでぬるに、御くだものなど近くまかなひ なし、 「こればかりをだに」と、いと心苦しげに思ひ て聞こえたまふ。尼君は、いとめでたううつくしう見たてま

つるままにも、涙はえとどめず。顔は笑みて、口つきなどは 見苦しくひろごりたれど、まみのわたりうちしぐれてひそみ ゐたり。あなかたはらいた、と目くはすれど、聞きも入れず。   「老の波かひある浦に立ちいでてしほたるるあまを誰   かとがめむ 昔の世にも、かやうなる古人は、罪ゆるされてなんはべりけ る」と聞こゆ。御硯なる紙に、 しほたるるあまを波路のしるべにてたづねも見  ばや浜のとまやを  御方も、え忍びたまはで、うち泣きたまひぬ。   世をすててあかしの浦にすむ人も心のやみははる  けしもせじ など聞こえ紛らはしたまふ。別れけん暁のことも夢の中に思 し出でられぬを、口惜しくもありけるかなと思す。 明石の女御男御子を安産 人々のよろこび

三月の十余日のほどに、たひらかに生まれ たまひぬ。かねてはおどろおどろしく思し 騒ぎしかど、いたく悩みたまふこともなく て、男御子にさへおはすれば、限りなく思すさまにて、大殿 も御心落ちゐたまひぬ。  こなたは隠れの方にて、ただけ近きほどなるに、いかめし き御産養などのうちしきり、響きよそほしきありさま、げ に 「かひある浦」と尼君のためには見えたれど、儀式なきや うなれば、渡りたまひなむとす。対の上も渡りたまへり。白 き御装束したまひて、人の親めきて若宮をつと抱きゐたまへ るさまいとをかし。みづからかかる事知りたまはず、人の上 にても見ならひたまはねば、いとめづらかにうつくし、と思 ひきこえたまへり。むつかしげにおはするほどを、絶えず抱 きとりたまへば、まことの祖母君は、ただまかせたてまつり て、御湯殿のあつかひなどを仕うまつりたまふ。春宮の宣旨

なる典侍ぞ仕うまつる。御迎湯におりたちたまへるもいとあ はれに、内々のこともほの知りたるに、すこしかたほならば いとほしからましを、あさましく気高く、げにかかる契りこ とにものしたまひける人かなと見きこゆ。このほどの儀式な どもまねびたてんに、いとさらなりや。  六日といふに、例の殿に渡りたまひぬ。七日の夜、内裏よ りも御産養のことあり。朱雀院の、かく世を棄ておはしま す御かはりにや、蔵人所より、頭弁宣旨承りて、めづらか なるさまに仕うまつれり。禄の衣など、また中宮の御方より も、公事にはたちまさり、いかめしくせさせたまふ。次々の 親王たち、大臣の家々、そのころの営みにて、我も我もとき よらを尽くして仕うまつりたまふ。  大殿の君も、このほどの事どもは、例のやうにもことそが せたまはで、世になく響きこちたきほどに、内々のなまめか しくこまかなるみやびの、まねび伝ふべきふしは目もとまら

ずなりにけり。大殿の君も、若宮をほどなく抱きたてまつり たまひて、 「大将のあまた儲けたなるを、今まで見せぬが うらめしきに、かくらうたき人をぞ得たてまつりたる」と、 うつくしみきこえたまふはことわりなりや。 若宮成長し紫の上と明石の君との仲睦まじ 日々に、物をひきのぶるやうにおよすけた まふ。御乳母など、心知らぬはとみに召さ で、さぶらふ中に品心すぐれたるかぎりを 選りて、仕うまつらせたまふ。  御方の御心おきての、らうらうじく気高くおほどかなるも のの、さるべき方には卑下して、憎らかにもうけばらぬなど をほめぬ人なし。対の上は、まほならねど、見えかはしたま ひて、さばかりゆるしなく思したりしかど、今は宮の御徳に いと睦ましくやむごとなく思しなりにたり。児うつくしみし たまふ御心にて、天児など、御手づから作りそそくりおはす るもいと若々し。明け暮れ、この御かしづきにて過ぐしたま

ふ。かの古代の尼君は、若宮をえ心のどかに見たてまつらぬ なん飽かずおぼえける。なかなか、見たてまつりそめて恋ひ きこゆるにぞ、命もえたふまじかめる。 明石の入道入山、最後の消息を都に送る かの明石にも、かかる御事伝へ聞きて、さ る聖心地にもいとうれしくおぼえければ、 「今なんこの世の境を心やすく行き離る べき」と弟子どもに言ひて、この家をば寺になし、あたりの 田などやうのものはみなその寺のことにしおきて、この国の 奥の郡に人も通ひがたく深き山あるを年ごろも占めおきなが ら、あしこに籠りなむ後また人には見え知らるべきにもあら ず、と思ひて、ただすこしのおぼつかなきこと残りければ、 今まで長らへけるを、今は、さりともと、仏神を頼み申して なむ移ろひける。  この近き年ごろとなりては、京に、ことなる事ならで、人 も通はしたてまつらざりつ。これより下したまふ人ばかりに

つけてなむ、一行にても、尼君にさるべきをりふしのことも 通ひける。思ひ離るる世のとぢめに、文書きて、御方に奉れ たまへり。   この年ごろは、同じ世の中のうちにめぐらひはべり   つれど、何かは、かくながら身をかへたるやうに思ひた   まへなしつつ、させる事なきかぎりは聞こえ承らず。 仮字文見たまふるは目の暇いりて、念仏も懈怠するやう   に益なうてなん、御消息も奉らぬを。つてに承れば、若-   君は、春宮に参りたまひて、男宮生まれたまへるよしを   なむ、深くよろこび申しはべる。そのゆゑは、みづから   かくつたなき山伏の身に、今さらにこの世の栄えを思ふ   にもはべらず、過ぎにし方の年ごろ、心ぎたなく、六時   の勤めにも、ただ御ことを心にかけて、蓮の上の露の願   ひをばさしおきてなむ、念じたてまつりし。わがおもと   生まれたまはんとせしその年の二月のその夜の夢に見し

やう、みづから須弥の山を右の手に捧げたり、山の左右 より、月日の光さやかにさし出でて世を照らす、みづか らは、山の下の蔭に隠れて、その光にあたらず、山をば 広き海に浮かべおきて、小さき舟に乗りて、西の方をさ して漕ぎゆく、となん見はべりし。夢さめて、朝より、 数ならぬ身に頼むところ出で来ながら、何ごとにつけて か、さるいかめしきことをば待ち出でむ、と心の中に思 ひはべしを、そのころより孕まれたまひにしこなた、俗 の方の書を見はべりしにも、また内教の心を尋ぬる中に も、夢を信ずべきこと多くはべりしかば、賎しき懐の中 にも、かたじけなく思ひいたづきたてまつりしかど、力- 及ばぬ身に思うたまへかねてなむ、かかる道におもむき はべりにし。またこの国のことに沈みはべりて、老の波 にさらにたち返らじと思ひとぢめて、この浦に年ごろは べりしほども、わが君を頼むことに思ひきこえはべりし

  かばなむ、心ひとつに多くの願を立てはべりし。その返-   申、たひらかに、思ひのごと時に逢ひたまふ。若君、国   の母となりたまひて、願ひ満ちたまはん世に、住吉の御-   社をはじめ、はたし申したまへ。さらに何ごとをかは疑   ひはべらむ。このひとつの思ひ、近き世にかなひはべり   ぬれば、遥かに西の方、十万億の国隔てたる九品の上の   望み疑ひなくなりはべりぬれば、今は、ただ、迎ふる蓮   を待ちはべるほど、その夕まで、水草清き山の末にて勤   めはべらむとてなむまかり入りぬる。   ひかり出でん暁ちかくなりにけり今ぞ見し世のゆめがた   りする
  とて、月日書きたり。 命終らむ月日もさらにな知ろしめしそ。いにしへよ り人の染めおきける藤衣にも何かやつれたまふ。ただわ   が身は変化のものと思しなして、老法師のためには功徳

をつくりたまへ。この世のたのしみに添へても、後の世 を忘れたまふな。願ひはべる所にだに至りはべりなば、 必ずまた対面ははべりなむ。娑婆の外の岸に至りて、と くあひ見んとを思せ。
さて、かの社に立て集めたる願文どもを、大きなる沈の文箱 に封じ籠めて奉りたまへり。  尼君には、ことごとにも書かず、ただ、 「この月の十四- 日になむ、草の庵まかり離れて深き山に入りはべりぬる。か ひなき身をば、熊狼にも施しはべりなん。そこにはなほ思 ひしやうなる御世を待ち出でたまへ。明らかなる所にて、ま た対面はありなむ」とのみあり。  尼君、この文を見て、かの使の大徳に問へば、 「この御- 文書きたまひて、三日といふになむ、かの絶えたる峰に移ろ ひたまひにし。なにがしらも、かの御送りに、麓まではさぶ らひしかど、みな帰したまひて、僧一人童二人なん御供に

さぶらはせたまふ。今は、と世を背きたまひしをりを、悲し きとぢめと思ひたまへしかど、残りはべりけり。年ごろ、行ひ の隙々に寄り臥しながら掻き鳴らしたまひし琴の御琴琵琶 とり寄せたまひて、かい調べたまひつつ、仏に罷申したまひ てなん、御堂に施入したまひし。さらぬ物どもも、多くは奉 りたまひて、その残りをなん、御弟子ども六十余人なん、親 しきかぎりさぶらひける、ほどにつけてみな処分したまひて、 なほし残りをなん、京の御料とて送りたてまつりたまへる。 今はとてかき籠り、さる遥けき山の雲霞にまじりたまひにし、 むなしき御跡にとまりて 悲しび思ふ人々なん多く はべる」
など、この大徳 も、童にて京より下りけ る人の、老法師になりて とまれる、いとあはれに

心細しと思へり。仏の御弟子のさかしき聖だに、鷲の峰をば たどたどしからず頼みきこえながら、なほ薪尽きける夜のま どひは深かりけるを、まして尼君の悲しと思ひたまへること 限りなし。 明石の君と尼君、悲喜交々の運命に泣く 御方は、南の殿におはするを、 「かかる御- 消息なんある」とありければ、忍びて渡り たまへり。重々しく身をもてなして、おぼ ろけならでは、通ひ、あひ見たまふことも難きを、あはれな ることなんと聞きて、おぼつかなければ、うち忍びてものし たまへるに、いといみじく悲しげなる気色にてゐたまへり。 灯近くとり寄せて、この文を見たまふに、げにせきとめん方 ぞなかりける。よその人は何とも目とどむまじきことの、ま づ、昔、来し方の事思ひ出で、恋しと思ひわたりたまふ心に は、あひ見で過ぎはてぬるにこそは、と見たまふに、いみじ く言ふかひなし。涙をえせきとめず。この夢語を、かつは行

く先頼もしく、 「さらば、ひが心にてわが身をさしもあるま じきさまにあくがらしたまふ、と中ごろ思ひただよはれしこ とは、かくはかなき夢に頼みをかけて、心高くものしたまふ なりけり」と、かつがつ思ひあはせたまふ。  尼君、久しくためらひて、 「君の御徳には、うれしく面だ たしきことをも、身にあまりて並びなく思ひはべり。あはれ にいぶせき思ひもすぐれてこそはべりけれ。数ならぬ方にて も、ながらへし都を棄ててかしこに沈みゐしをだに、世人に 違ひたる宿世にもあるかな、と思ひはべしかど、生ける世 に行き離れ、隔たるべき中の契りとは思ひかけず、同じ蓮に 住むべき後の世の頼みをさへかけて年月を過ぐし来て、には かにかくおぼえぬ御こと出できて、背きにし世にたち帰りて はべる、かひある御事を見たてまつりよろこぶものから、片 つ方には、おぼつかなく悲しきことのうち添ひて絶えぬを、 つひにかくあひ見ず隔てながらこの世を別れぬるなん、口惜

しくおぼえはべる。世に経し時だに、人に似ぬ心ばへにより 世をもてひがむるやうなりしを、若きどち頼みならひて、お のおのはまたなく契りおきてければ、かたみにいと深くこそ 頼みはべりしか。いかなれば、かく耳に近きほどながら、か くて別れぬらん」
と言ひつづけて、いとあはれにうちひそみ たまふ。御方もいみじく泣きて、 「人にすぐれん行く 先のこともおぼえずや。数ならぬ身には、何ごともけざやか にかひあるべきにもあらぬものから、あはれなるありさまに、 おぼつかなくてやみなむのみこそ口惜しけれ。よろづのこと、 さるべき人の御ためとこそおぼえはべれ、さて絶え籠りたま ひなば、世の中も定めなきに、やがて消えたまひなば、かひ なくなん」とて、夜もすがらあはれなることどもを言ひつつ 明かしたまふ。 「昨日も、大殿の君の、あなたにありと見おきたまひ てしを、にはかにはひ隠れたらむも軽々しきやうなるべし。

身ひとつは、何ばかりも思ひ憚りはべらず、かく添ひたまふ 御ためなどのいとほしきになむ、心にまかせて身をももてな しにくかるべき」
とて、暁に帰り渡りたまひぬ。 「若宮は いかがおはします。いかでか見たてまつるべき」とても泣き ぬ。 「いま、見たてまつりたまひてん。女御の君も、 いとあはれになむ、思し出でつつ聞こえさせたまふめる。院 も、事のついでに、もし世の中思ふやうならば、ゆゆしきか ね言なれど、尼君そのほどまでながらへたまはなん、とのた まふめりき。いかに思すことにかあらむ」とのたまへば、ま たうち笑みて、 「いでや。さればこそ、さまざま例なき宿 世にこそはべれ」とて、よろこぶ。この文箱は持たせて参う 上りたまひぬ。 東宮、明石の女御と若宮の参入を促す 宮よりとく参りたまふべきよしのみあれば、 「かく思したる、ことわりなり。めづ らしき事さへ添ひて、いかに心もとなく思

さるらむ」
と、紫の上ものたまひて、若宮忍びて参らせたて まつらむ御心づかひしたまふ。御息所は、御暇の心やすから ぬに懲りたまひて、かかるついでにしばしあらまほしく思し たり。ほどなき御身に、さる恐ろしきことをしたまへれば、 すこし面痩せ細りて、いみじくなまめかしき御さましたまへ り。 「かく、ためらひ難くおはするほどつくろひたまひてこ そは」など、御方などは心苦しがりきこえたまふを、大殿は、 「かやうに面痩せて見えたてまつりたまはむも、なかなかあ はれなるべきわざなり」などのたまふ。 明石の君、入道の願文を女御に託する 対の上などの渡りたまひぬる夕つ方、しめ やかなるに、御方、御前に参りたまひて、 この文箱聞こえ知らせたまふ。 「思ふ さまにかなひはてさせたまふまではとり隠しておきてはべる べけれど、世の中定めがたければ、うしろめたさになん。何ご とをも御心と思し数まへざらむこなた、ともかくもはかなく

なりはべりなば、必ずしも、いまはのとぢめを御覧ぜらるべ き身にもはべらねば、なほうつし心失せずはべる世になむ、 はかなきことをも聞こえさせおくべくはべりける、と思ひは べりて。むつかしくあやしき跡なれど、これも御覧ぜよ。この 願文は、近き御廚子などに置かせたまひて、必ずさるべから むをりに御覧じて、この中の事どもはせさせたまへ。疎き人 にはな漏らさせたまひそ。かばかり、と見たてまつりおきつ れば、みづからも世を背きはべりなんと思うたまへなりゆけ ば、よろづ心のどかにもおぼえはべらず。対の上の御心、お ろかに思ひきこえさせたまふな。いとあり難くものしたまふ 深き御気色を見はべれば、身にはこよなくまさりて、長き御- 世にもあらなん、とぞ思ひはべる。もとより、御身に添ひき こえさせんにつけても、つつましき身のほどにはべれば、譲 りきこえそめはべりにしを、いとかうしもものしたまはじと なん、年ごろは、なほ世の常に思うたまへわたりはべりつる。

今は、来し方行く先、うしろやすく思ひなりにてはべり」
などいと多く聞こえたまふ。涙ぐみて聞きおはす。かく睦ま しかるべき御前にも、常にうちとけぬさましたまひて、わり なくものづつみしたるさまなり。この文の言葉、いとうたて 強く憎げなるさまを、陸奥国紙にて、年経にければ黄ばみ厚- 肥えたる五六枚、さすがに香にいと深くしみたるに書きたま へり。いとあはれと思して、御額髪のやうやう濡れゆく御そ ばめあてになまめかし。 源氏、入山を知り、奇しき宿世を思う 院は、姫宮の御方におはしけるを、中の御- 障子よりふと渡りたまへれば、えしも引き 隠さで、御几帳をすこし引き寄せて、みづ からははた隠れたまへり。 「若宮はおどろきたまへりや。 時の間も恋しきわざなりけり」と聞こえたまへば、御息所は 答へも聞こえたまはねば、御方、 「対に渡しきこえたまひつ」 と聞こえたまふ。 「いとあやしや。あなたにこの宮を領じ

たてまつりて、懐をさらに放たずもてあつかひつつ、人やり ならず衣もみな濡らして脱ぎ換へがちなめる。軽々しく、な どかく渡したてまつりたまふ。こなたに渡りてこそ見たてま つりたまはめ」
とのたまへば、 「いとうたて。思ひ隈 なき御言かな。女におはしまさむにだに、あなたにて見たて まつりたまはんこそよくはべらめ。まして、男は限りなしと 聞こえさすれど、心やすくおぼえたまふを。戯れにても、か やうに隔てがましきこと、なさかしがり聞こえさせたまひ そ」と聞こえたまふ。うち笑ひて、 「御仲どもにまかせて、 見放ちきこゆべきななりな。隔てて、今は、誰も誰もさし放 ち、さかしらなどのたまふこそ幼けれ。まづは、かやうには ひ隠れて、つれなく言ひおとしたまふめりかし」とて、御几- 帳をひきやりたまへれば、母屋の柱に寄りかかりて、いとき よげに、心恥づかしげなるさましてものしたまふ。  ありつる箱も、まどひ隠さんもさまあしければ、さておは

するを、 「なぞの箱ぞ。深き心あらむ。懸想人の長歌詠み て封じこめたる心地こそすれ」とのたまへば、 「あなう たてや。いまめかしくなり返らせたまふめる御心ならひに、 聞き知らぬやうなる御すさび言どもこそ時々出で来れ」とて、 ほほ笑みたまへれど、ものあはれなりける御気色どもしるけ れば、あやしとうち傾きたまへるさまなれば、わづらはしく て、 「かの明石の岩屋より、忍びてはべし御祈祷の巻数、 また、まだしき願などのはべりけるを、御心にも知らせたて まつるべきをりあらば、御覧じおくべくやとてはべるを、た だ今はついでなくて、何かは開けさせたまはん」と聞こえ たまふに、げにあはれなるべきありさまぞかし、と思して、 「いかに行ひまして住みたまひにたらむ。命長くて、ここ らの年ごろ勤むる積みもこよなからむかし。世の中によしあ りさかしき方々の人とて、見るにも、この世に染みたるほど の濁り深きにやあらむ、賢き方こそあれ、いと限りありつつ

及ばざりけりや。さもいたり深く、さすがに気色ありし人の ありさまかな。聖だちこの世離れ顔にもあらぬものから、下 の心はみなあらぬ世に通ひ住みにたる、とこそ見えしか、ま して、今は、心苦しき絆もなく思ひ離れにたらむをや。かや すき身ならば、忍びていと逢はまほしくこそ」
とのたまふ。 「今は、かのはべりし所をも棄てて、鳥の音聞こえぬ山 にとなん、聞きはべる」と聞こゆれば、 「さらばその遺言 ななりな。消息は通はしたまふや。尼君いかに思ひたまふら む。親子の仲よりも、またさるさまの契りはことにこそ添ふ べけれ」とて、うち涙ぐみたまへり。 「年のつもりに、世の中のありさまを、とかく思ひ知り ゆくままに、あやしく恋しく思ひ出でらるる人の御ありさま なれば、深き契りの御仲らひはいかにあはれならむ」などの たまふついでに、この夢語も思しあはすることもや、と思ひ て、 「いとあやしき梵字とかいふやうなる跡にはべめれ

ど、御覧じとどむべきふしもやまじりはべるとてなん。今は とて、別れはべりにしかど、なほこそあはれは残りはべるも のなりけれ」
とて、さまよくうち泣きたまふ。とりたまひて、 「いとかしこく、なほほれぼれしからずこそあるべけれ。 手なども、すべて何ごとも、わざと有職にしつべかりける人 の、ただこの世経る方の心おきてこそ少なかりけれ。かの先- 祖の大臣は、いと賢くあり難き心ざしを尽くして朝廷に仕う まつりたまひけるほどに、ものの違ひ目ありて、その報にか く末はなきなりなど、人言ふめりしを、女子の方につけたれ ど、かくていと嗣なしといふべきにはあらぬも、そこらの行 ひの験にこそはあらめ」など、涙おし拭ひたまひつつ、この 夢のわたりに目とどめたまふ。「あやしく、ひがしがしく、 すずろに高き心ざしありと人も咎め、また我ながらも、さる まじきふるまひを仮にてもするかな、と思いしことは、この 君の生まれたまひし時に、契り深く思い知りにしかど、目の

前に見えぬあなたのことは、おぼつかなくこそ思ひわたりつ れ、さらば、かかる頼みありて、あながちには望みしなりけ り。横さまにいみじき目を見、漂ひしも、この人ひとりのた めにこそありけれ。いかなる願をか心に起こしけむ」
とゆか しければ、心の中に拝みてとりたまひつ。 源氏紫の上を称揚 明石の君わが身を思う 「これは、また具して奉るべきものはべ り。今、また、聞こえ知らせはべらん」と、 女御には聞こえたまふ。そのついでに、 「今は、かくいにしへの事をもたどり知りたまひぬれど、あ なたの御心ばへをおろかに思しなすな。もとよりさるべき仲、 え避らぬ睦びよりも、横さまの人のなげのあはれをもかけ、 一言の心寄せあるは、おぼろけのことにもあらず。まして、 ここになどさぶらひ馴れたまふを見る見るも、はじめの心ざ し変らず、深くねむごろに思ひきこえたるを。いにしへの世 のたとへにも、さこそはうはべにははぐくみげなれと、らう

らうじきたどりあらんも賢きやうなれど、なほあやまりても、 わがため下の心ゆがみたらむ人を、さも思ひ寄らずうらなか らむためは、ひき返しあはれに、いかでかかるには、と罪得 がましきにも、思ひなほることもあるべし。おぼろけの昔の 世のあたならぬ人は、違ふふしぶしあれど、一人ひとり罪な き時には、おのづからもてなす例どもあるべかめり。さしも あるまじきことに、かどかどしく癖をつけ、愛敬なく、人を もて離るる心あるは、いとうちとけがたく、思ひ隈なきわざ になむあるべき。多くはあらねど、人の心の、とあるさまか かるおもむきを見るに、ゆゑよしといひ、さまざまに口惜し からぬ際の、心ばせあるべかめり。みなおのおの得たる方あ りて、取るところなくもあらねど、またとりたてて、わが後- 見に思ひ、まめまめしく選び思はんには、あり難きわざにな む。ただまことに心の癖なくよきことは、この対をのみなむ、 これをぞおいらかなる人と言ふべかりける、となむ思ひはべ

る。よしとて、また、あまりひたたけて頼もしげなきも、い と口惜しや」
とばかりのたまふに、かたへの人は思ひやられ ぬかし。 「そこにこそ、すこしものの心得てものしたまふめるを、 いとよし。睦びかはして、この御後見をも同じ心にてものし たまへ」など、忍びやかにのたまふ。 「のたまはせねど、 いとあり難き御気色を見たてまつるままに、明け暮れの言ぐ さに聞こえはべる。めざましきものになど思しゆるさざらん に、かうまで御覧じ知るべきにもあらぬを、かたはらいたき まで数まへのたまはすれば、かへりてはまばゆくさへなむ。 数ならぬ身のさすがに消えぬは、世の聞き耳もいと苦しくつ つましく思ひたまへらるるを、罪なきさまに、もて隠された てまつりつつのみこそ」と聞こえたまへば、 「その御ため には何の心ざしかはあらむ。ただ、この御ありさまを、うち 添ひてもえ見たてまつらぬおぼつかなさに、譲りきこえらる

るなめり。それも、また、とりもちて掲焉になどあらぬ御も てなしどもに、よろづのことなのめに目やすくなれば、いと なむ思ひなくうれしき。はかなきことにても、もの心得ずひ がひがしき人は、たちまじらふにつけて、人のためさへから きことありかし。さなほしどころなく誰もものしたまふめれ ば、心やすくなむ」
とのたまふにつけても、さりや、よくこ そ卑下しにけれなど思ひつづけたまふ。対へ渡りたまひぬ。 「さも、いとやむごとなき御心ざしのみまさるめるか な。げに、はた、人よりことにかくしも具したまへるありさ まの、ことわりと見えたまへるこそめでたけれ。宮の御方、 うはべの御かしづきのみめでたくて、渡りたまふこともえな のめならざめるは、かたじけなきわざなめりかし。同じ筋に はおはすれど、いま一際は心苦しく」としりうごちきこえた まふにつけても、わが宿世はいとたけくぞおぼえたまひける。 やむごとなきだに思すさまにもあらざめる世に、まして、立

ちまじるべきおぼえにしあらねば、すべて、今は、恨めしき ふしもなし。ただ、かの絶え籠りにたる山住みを思ひやるの みぞあはれにおぼつかなき。尼君も、ただ福地の園に種まき て、とやうなりし一言をうち頼みて、後の世を思ひやりつつ ながめゐたまへり。 夕霧、女三の宮と紫の上とを比較する 大将の君は、この姫宮の御ことを思ひ及ば ぬにしもあらざりしかば、目に近くおはし ますをいとただにもおぼえず、おほかたの 御かしづきにつけて、こなたにはさりぬべきをりをりに参り 馴れ、おのづから御けはひありさまも見聞きたまふに、いと 若くおほどきたまへる一筋にて、上の儀式はいかめしく、世 の例にしつばかりもてかしづきたてまつりたまへれど、をさ をさけざやかにもの深くは見えず、女房なども、おとなおと なしきは少なく、若やかなる容貌人のひたぶるにうち華やぎ ざればめるはいと多く、数知らぬまで集ひさぶらひつつ、も

の思ひなげなる御あたりとはいひながら、何ごとものどやか に心しづめたるは、心の中のあらはにしも見えぬわざなれば、 身に人知れぬ思ひ添ひたらんも、また、まことに心地ゆきげ にとどこほりなかるべきにしうちまじれば、かたへの人にひ かれつつ、同じけはひもてなしになだらかなるを、ただ明け 暮れは、いはけたる遊び戯れに心入れたる童べのありさまな ど、院はいと目につかず見たまふ事どもあれど、ひとつさま に世の中を思しのたまはぬ御本性なれば、かかる方をもまか せて、さこそはあらまほしからめ、と御覧じゆるしつつ、い ましめととのへさせたまはず。正身の御ありさまばかりをば、 いとよく教へきこえたまふにすこしもてつけたまへり。  かやうのことを、大将の君も、 「げにこそあり難き世なり けれ、紫の御用意気色の、ここらの年経ぬれど、ともかくも 漏り出で、見え聞こえたるところなく、しづやかなるを本 として、さすがに心うつくしう、人をも消たず身をもやむご

となく、心にくくもてなしそへたまへること」
と、見し面影 も忘れがたくのみなむ思ひ出でられける。わが御北の方も、 あはれと思す方こそ深けれ、言ふかひあり、すぐれたるらう らうじさなどものしたまはぬ人なり。穏しきものに、今はと 目馴るるに心ゆるびて、なほかくさまざまに集ひたまへるあ りさまどものとりどりにをかしきを、心ひとつに思ひ離れが たきを、ましてこの宮は、人の御ほどを思ふにも、限りなく 心ことなる御ほどに、とりわきたる御けしきにしもあらず、 人目の飾ばかりにこそ、と見たてまつり知る。わざとおほけ なき心にしもあらねど、見たてまつるをりありなむや、とゆ かしく思ひきこえたまひけり。 柏木女三の宮を諦めず、源氏の出家を待つ 衛門督の君も、院に常に参り、親しくさぶ らひ馴れたまひし人なれば、この宮を父帝 のかしづきあがめたてまつりたまひし御心 おきてなどくはしく見たてまつりおきて、さまざまの御定め

ありしころほひより聞こえ寄り、院にもめざましとは思しの たまはせずと聞きしを、かく異ざまになりたまへるは、いと 口惜しく胸いたき心地すれば、なほえ思ひ離れず。そのをり より語らひつきにける女房のたよりに、御ありさまなども聞 き伝ふるを慰めに思ふぞはかなかりける。 「対の上の御けは ひには、なほ圧されたまひてなん」と、世人もまねび伝ふる を聞きては、 「かたじけなくとも、さるものは思はせたてま つらざらまし。げにたぐひなき御身にこそあたらざらめ」と、 常にこの小侍従といふ御乳主をも、言ひはげまして、世の中 定めなきを、大殿の君もとより本意ありて思しおきてたる方 におもむきたまはば、とたゆみなく思ひ歩きけり。 六条院の蹴鞠の遊び 夕霧柏木加わる 三月ばかりの空うららかなる日、六条院に、 兵部卿宮衛門督など参りたまへり。大殿 出でたまひて、御物語などしたまふ。 「しづかなる住まひは、このごろこそいとつれづれに紛るる

ことなかりけれ。 公私に事なしや。何わざしてかは暮ら すべき」
などのたまひて、 「今朝、大将のものしつるはい づ方にぞ。いとさうざうしきを、例の小弓射させて見るべか りけり。好むめる若人どもも見えつるを、ねたう、出でやし ぬる」 と問はせたまふ。大将の君は丑寅の町に、人々あまた して鞠もてあそばして見たまふ、と聞こしめして、 「乱れ がはしきことの、さすがに目さめてかどかどしきぞかし。い づら、こなたに」 とて御消息あれば、参りたまへり。若君達 めく人々多かりけり。「鞠持たせたまへりや。誰々かもの しつる」 とのたまふ。 「これかれはべりつ」 「こなたへ まかでんや」 とのた まひて、寝殿の東- 面、桐壼は若宮具し たてまつりて、参り たまひにしころなれ

ば、こなた隠ろへたりけり、遣水などの行きあひはれて、よ しあるかかりのほどを尋ねて立ち出づ。太政大臣殿の君たち、 頭弁、兵衛佐、大夫の君など、過ぐしたるもまだ片なりなる も、さまざまに、人よりまさりてのみものしたまふ。やうや う暮れかかるに、風吹かずかしこき日なり、と興じて、弁の 君もえしづめず立ちまじれば、大殿、 「弁官もえをさめあへ ざめるを、上達部なりとも、若き衛府司たちはなどか乱れた まはざらむ。かばかりの齢にては、あやしく見過ぐす、口惜 しくおぼえしわざなり。さるは、いと軽々なりや、このこと のさまよ」などのたまふに、大将も督の君も、みな下りたま ひて、えならぬ花の蔭にさまよひたまふ。夕映えいときよげ なり。をさをさ、さまよく静かならぬ乱れ事なめれど、所が ら人柄なりけり。ゆゑある庭の木立のいたく霞みこめたるに、 色々紐ときわたる花の木ども、わづかなる萌木の蔭に、かく はかなき事なれど、よきあしきけぢめあるをいどみつつ、我

も劣らじと思ひ顔なる中に、衛門督のかりそめに立ちまじり たまへる足もとに並ぶ人なかりけり。容貌いときよげになま めきたるさましたる人の、用意いたくして、さすがに乱りが はしき、をかしく見ゆ。御階の間に当れる桜の蔭によりて、 人々、花の上も忘れて心に入れたるを、大殿も宮も隅の高欄 に出でて御覧ず。  いと労ある心ばへども見えて、数多くなりゆくに、上臈も 乱れて、冠の額すこしくつろぎたり。大将の君も、御位のほ ど思ふこそ例ならぬ乱りがはしさかなとおぼゆれ、見る目は 人よりけに若くをかしげにて、桜の直衣のやや萎えたるに、 指貫の裾つ方すこしふくみて、けしきばかり引き上げたまへ り。軽々しうも見えず。ものきよげなるうちとけ姿に、花の 雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝すこ し押し折りて、御階の中の階のほどにゐたまひぬ。督の君つ づきて、 「花乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ」

などのたまひつつ、宮の御前の方を後目に見れば、例のこと にをさまらぬけはひどもして、色々こぼれ出でたる御簾のつ まづま透影など、春の手向の幣袋にやとおぼゆ。 猫、御簾を引き開け、柏木女三の宮を見る 御几帳どもしどけなくひきやりつつ、人げ 近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さ くをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ つづきて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おび え騒ぎてそよそよと身じろきさまよふけはひども、衣の音な ひ、耳かしがましき心地す。猫は、まだよく人にもなつかぬ にや、綱いと長くつきたりけるを、物にひきかけまつはれに けるを、逃げんとひこじろふほどに、御簾のそばいとあらは にひき開けられたるをとみにひきなほす人もなし。この柱の もとにありつる人々も心あわたたしげにて、もの怖ぢしたる けはひどもなり。  几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人

あり。階より西の二の間の東のそばなれば、紛れどころもな くあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、濃き薄きすぎすぎ にあまた重なりたるけぢめ華やかに、草子のつまのやうに見 えて、桜の織物の細長なるべし。御髪の裾までけざやかに見 ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかに そがれたる、いとうつくしげにて、七八寸ばかりぞあまりた まへる。御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、 髪のかかりたまへるそばめ、いひ知らずあてにらうたげなり。 夕影なれば、さやかならず奥暗き心地するも、いと飽かず口- 惜し。鞠に身をなぐる若君達の、花の散るを惜しみもあへぬ けしきどもを見るとて、人々、あらはをふともえ見つけぬな るべし。猫のいたくなけば、見返りたまへる面もちもてなし など、いとおいらかにて、若くうつくしの人や、とふと見え たり。  大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らむもなかなかい

と軽々しければ、た だ心を得させてうち しはぶきたまへるに ぞ、やをらひき入り たまふ。さるは、わ が心地にも、いと飽 かぬ心地したまへど、猫の綱ゆるしつれば心にもあらずうち 嘆かる。ましてさばかり心をしめたる衛門督は、胸ふとふた がりて、誰ばかりにかはあらん、ここらの中にしるき袿姿よ りも人に紛るべくもあらざりつる御けはひなど、心にかかり ておぼゆ。さらぬ顔にもてなしたれど、まさに目とどめじや、 と大将はいとほしく思さる。わりなき心地の慰めに、猫を招 き寄せてかき抱きたれば、いとかうばしくてらうたげにうち なくもなつかしく思ひよそへらるるぞ、すきずきしや。  大殿御覧じおこせて、 「上達部の座、いと軽々しや。こ

なたにこそ」
とて、対の南面に入りたまへれば、みなそなた に参りたまひぬ。宮も、ゐなほりたまひて御物語したまふ。 次々の殿上人は、簀子に円座召して、わざとなく、椿餅、梨、 柑子やうの物ども、さまざまに、箱の蓋どもにとりまぜつつ あるを、若き人々そぼれとり食ふ。さるべき干物ばかりして、 御土器まゐる。 柏木、女三の宮への恋慕の情に思い悩む 衛門督は、いといたく思ひしめりて、やや もすれば、花の木に目をつけてながめやる。 大将は、心知りに、あやしかりつる御簾の 透影思ひ出づることやあらむ、と思ひたまふ。いと端近なり つるありさまを、かつは軽々しと思ふらんかし。いでや、こ なたの御ありさまのさはあるまじかめるものを、と思ふに、 かかればこそ世のおぼえのほどよりは、内々の御心ざしぬる きやうにはありけれ、と思ひあはせて、なほ内外の用意多か らずいはけなきは、らうたきやうなれどうしろめたきやうな

りや、と思ひおとさる。  宰相の君は、よろづの罪をもをさをさたどられず、おぼえ ぬ物の隙より、ほのかにも、それと見たてまつりつるにも、 わが昔よりの心ざしのしるしあるべきにやと契りうれしき心- 地して、飽かずのみおぼゆ。  院は、昔物語し出でたまひて、 「太政大臣の、よろづの ことにたち並びて勝負の定めしたまひし中に、鞠なんえ及ば ずなりにし。はかなきことは伝へあるまじけれど、ものの筋 はなほこよなかりけり。いと目も及ばずかしこうこそ見えつ れ」とのたまへば、うちほほ笑みて、 「はかばかしき方に はぬるくはべる家の風の、さしも吹き伝へはべらんに、後の 世のためことなることなくこそはべりぬべけれ」と申したま へば、 「いかでか。何ごとも人に異なるけぢめをば記し伝 ふべきなり。家の伝へなどに書きとどめ入れたらんこそ、興 はあらめ」など戯れたまふ御さまの、にほひやかにきよらな

るを見たてまつるにも、 「かかる人に並びて、いかばかりの ことにか心を移す人はものしたまはん。何ごとにつけてか、 あはれと見ゆるしたまふばかりはなびかしきこゆべき」と思 ひめぐらすに、いとどこよなく御あたりはるかなるべき身の ほども思ひ知らるれば、胸のみふたがりてまかでたまひぬ。 柏木、夕霧と同車して、宮への同情を語る 大将の君一つ車にて、道のほど物語したま ふ。 「なほこのごろのつれづれには、こ の院に参りて紛らはすべきなりけり」 「今日のやうならん暇の隙待ちつけて、花のをり過ぐさず参 れ、とのたまひつるを、春惜しみがてら、月の中に、小弓持 たせて参りたまへ」と語らひ契る。  おのおの別るる道のほど物語したまうて、宮の御ことのな ほ言はまほしければ、 「院には、なほこの対にのみものせ させたまふなめりな。かの御おぼえのことなるなめりかし。 この宮いかに思すらん。帝の並びなくならはしたてまつりた

まへるに、さしもあらで屈したまひにたらんこそ心苦しけ れ」
と、あいなく言へば、 「たいだいしきこと。いかでかさ はあらむ。こなたは、さま変りて生ほしたてたまへる睦びの けぢめばかりにこそあべかめれ。宮をば、かたがたにつけて、 いとやむごとなく思ひきこえたまへるものを」と語りたまへ ば、 「いで、あなかま、たまへ。みな聞きてはべり。いとい とほしげなるをりをりあなるをや。さるは、世におしなべた らぬ人の御おぼえを。あり難きわざなりや」といとほしがる。 「いかなれば花に木づたふ鶯のさくらをわきてねぐら   とはせぬ 春の鳥の、桜ひとつにとまらぬ心よ。あやしとおぼゆること ぞかし」と、口ずさびに言へば、 「いで、あなあぢきなのも のあつかひや。さればよ」と思ふ。   みやま木にねぐらさだむるはこ鳥もいかでか花の色   にあくべき

わりなきこと。ひたおもむきにのみやは」
と答へて、わづら はしければ、ことに言はせずなりぬ。異事に言ひ紛らはして、 おのおの別れぬ。 柏木、慕情つのって小侍従に文を送る 督の君は、なほ大殿の東の対に、独り住み にてぞものしたまひける。思ふ心ありて、 年ごろかかる住まひをするに、人やりなら ずさうざうしく心細きをりをりあれど、わが身かばかりにて などか思ふことかなはざらむ、とのみ心おごりをするに、こ の夕より屈しいたく、もの思はしくて、 「いかならむをりに、 またさばかりにてもほのかなる御ありさまをだに見む。とも かくもかき紛れたる際の人こそ、かりそめにも、たはやすき 物忌方違への移ろひも軽々しきに、おのづから、ともかく もものの隙をうかがひつくるやうもあれ」など思ひやる方な く、深き窓の内に、何ばかりの事につけてか、かく深き心あ りけりとだに知らせたてまつるべき、と胸いたくいぶせけれ

ば、小侍従がり例の文やりたまふ。 「一日、風にさそはれ て御垣の原を分け入りてはべりしに、いとどいかに見おとし たまひけん。その夕より乱り心地かきくらし、あやなく今日 はながめ暮らしはべる」など書きて、   よそに見て折らぬなげきはしげれどもなごり恋しき   花の夕かげ とあれど、一日の心も知らねば、ただ世の常のながめにこそ は、と思ふ。  御前に人繁からぬほどなれば、この文を持て参りて、 「この人の、かくのみ忘れぬものに言問ひものしたまふこそ わづらはしくはべれ。心苦しげなるありさまも、見たまへあ まる心もや添ひはべらんと、みづからの心ながら知りがたく なむ」と、うち笑ひて聞こゆれば、 「いとうたてあるこ とをも言ふかな」と何心もなげにのたまひて、文ひろげたる を御覧ず。 「見もせぬ」と言ひたるところを、あさましかり

し御簾のつまを思しあはせらるるに、御面赤みて、大殿の、 さばかり言のついでごとに、 「大将に見えたまふな。いはけ なき御ありさまなめれば、おのづからとりはづして、見たて まつるやうもありなむ」と、いましめきこえたまふを思し出 づるに、大将の、さる事のありし、と語りきこえたらん時、 いかにあはめたまはんと、人の見たてまつりけんことをば思 さで、まづ憚りきこえたまふ心の中ぞ幼かりける。  常よりも御さしらへなければ、すさまじく、強ひて聞こゆ べきことにもあらねば、ひき忍びて例の書く。 「一日は つれなし顔をなむ。めざましう、とゆるしきこえざりしを、 見ずもあらぬやいかに。あなかけかけし」と、はやりかに走 り書きて、    「いまさらに色にな出でそ山ざくらおよばぬ枝に心   かけきと かひなきことを」とあり。 New Herbs: Part Two 柏木、小侍従の返事を見て惑乱する

ことわりとは思へども、 「うれたくも言へ るかな。いでや、なぞ。かくことなること なきあへしらひばかりを慰めにてはいかが 過ぐさむ。かかる人づてならで、一言をものたまひ、聞こゆ る世ありなむや」と思ふにつけても、おほかたにては惜しく めでたしと思ひきこゆる院の御ため、なまゆがむ心や添ひに たらん。 六条院の競射 柏木、物思いに沈む 晦日の日は、人々あまた参りたまへり。な まものうくすずろはしけれど、そのあたり の花の色をも見てや慰む、と思ひて参りた まふ。殿上の賭弓、二月とありしを過ぎて、三月、はた、御- 忌月なれば口惜しく、と人々思ふに、この院にかかるまどゐ

あるべし、と聞き伝へて、例の集ひたまふ。左右の大将、さ る御仲らひにて参りたまへば、次将たちなどいどみかはして、 小弓とのたまひしかど、歩弓のすぐれたる上手どもありけれ ば、召し出でて射させたまふ。  殿上人どもも、つきづきしきかぎりは、みな、前後の心、 こまどりに方分きて、暮れゆくままに、今日にとぢむる霞の けしきもあわたたしく、乱るる夕風に、花の蔭、いとど立つ ことやすからで、人々いたく酔ひ過ぎたまひて、 「艶なる賭- 物ども、こなたかなた、人々の御心見えぬべきを、柳の葉を 百たび当てつべき舎人どものうけばりて射取る。無心なりや。 すこしここしき手つきどもをこそ、いどませめ」とて、大将 たちよりはじめておりたまふに、衛門督、人よりけにながめ をしつつものしたまへば、かの片はし心知れる御目には、見 つけつつ、 「なほいと気色異なり。わづらはしき事出で来べ き世にやあらむ」と、我さへ思ひ尽きぬる心地す。この君た

ち、御仲いとよし。さる仲らひといふ中にも、心かはしてね むごろなれば、はかなきことにても、もの思はしくうち紛る ることあらむを、いとほしくおぼえたまふ。  みづからも、大殿を見たてまつるに気恐ろしくまばゆく、 「かかる心はあるべきものか。なのめならむにてだに、けし からず人に点つかるべきふるまひはせじ、と思ふものを、ま しておほけなきこと」と思ひわびては、 「かのありし猫をだ に得てしがな。思ふこと語らふべくはあらねど、かたはらさ びしき慰めにもなつけむ」と思ふに、もの狂ほしく、いかで かは盗み出でむと、それさへぞ難きことなりける。 柏木、弘徽殿女御を訪ね、女三の宮を想う 女御の御方に参りて、物語など聞こえ紛ら はしこころみる。いと奥深く、心恥づかし き御もてなしにて、まほに見えたまふこと もなし。かかる御仲らひにだに、け遠くならひたるを、ゆく りかにあやしくはありしわざぞかしとは、さすがにうちおぼ

ゆれど、おぼろけにしめたるわが心から、浅くも思ひなさ れず。 柏木、東宮を促し、女三の宮の猫を預かる 春宮に参りたまひて、論なう通ひたまへる ところあらむかし、と目とどめて見たてま つるに、にほひやかになどはあらぬ御容貌 なれど、さばかりの御ありさま、はた、いとことにて、あて になまめかしくおはします。  内裏の御猫の、あまたひき連れたりけるはらからどもの 所どころに散れて、この宮にも参れるが、いとをかしげにて 歩くを見るに、まづ思ひ出でらるれば、 「六条院の姫宮の 御方にはべる猫こそ、いと見えぬやうなる顔してをかしうは べしか。はつかになむ見たまへし」と啓したまへば、猫わざ とらうたくせさせたまふ御心にて、くはしく問はせたまふ。 「唐猫の、ここのに違へるさましてなんはべりし。同じや うなるものなれど、心をかしく人馴れたるはあやしくなつか

しきものになむはべる」
など、ゆかしく思さるばかり聞こえ なしたまふ。  聞こしめしおきて、桐壼の御方より伝へて聞こえさせたま ひければ、まゐらせたまへり。 「げに、いとうつくしげなる猫 なりけり」と人々興ずるを、衛門督は、尋ねんと思したりき と御気色を見おきて、日ごろ経て参りたまへり。童なりしよ り、朱雀院のとり分きて思し使はせたまひしかば、御山住み に後れきこえては、またこの宮にも親しう参り、心寄せきこ えたり。御琴など教へきこえたまふとて、 「御猫どもあま た集ひはべりにけり。いづら、この見し人は」と尋ねて見つ けたまへり。いとらうたくおぼえてかき撫でてゐたり。宮も、 「げにをかしきさましたりけり。心なんまだなつき難きは、 見馴れぬ人を知るにやあらむ。ここなる猫どもことに劣ら ずかし」とのたまへば、 「これは、さるわきまへ心もをさ をさはべらぬものなれど、その中にも心賢きは、おのづから

魂はべらむかし」
など聞こえて、 「まさるどもさぶらふ めるを、これはしばし賜はりあづからむ」と申したまふ。心 の中に、あながちにをこがましく、かつはおぼゆ。  つひにこれを尋ねとりて、夜もあたり近く臥せたまふ。明 けたてば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。人げ遠か りし心もいとよく馴れて、ともすれば衣の裾にまつはれ、寄 り臥し、睦るるを、まめやかにうつくしと思ふ。いといたく ながめて、端近く寄り臥したまへるに、来て、ねうねう、と いとらうたげになけば、かき撫でて、うたてもすすむかな、 とほほ笑まる。   「恋ひわぶる人のかたみと手ならせばなれよ何とてな   く音なるらむ これも昔の契りにや」と、顔を見つつのたまへば、いよいよ らうたげになくを、懐に入れてながめゐたまへり。御達など は、 「あやしくにはかなる猫のときめくかな。かやうなるも

の見入れたまはぬ御心に」
と、とがめけり。宮より召すにも まゐらせず、とり籠めてこれを語らひたまふ。 玉鬘・鬚黒と式部卿宮一家のその後の動静 左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、 右大将の君をば、なほ昔のままに、うとか らず思ひきこえたまへり。心ばへのかどか どしくけ近くおはする君にて、対面したまふ時々も、こまや かに隔てたる気色なくもてなしたまへれば、大将も、淑景舎 などのうとうとしく及びがたげなる御心ざまのあまりなるに、 さま異なる御睦びにて、思ひかはしたまへり。  男君、今は、まして、かのはじめの北の方をももて離れは てて、並びなくもてかしづききこえたまふ。この御腹には、 男君達のかぎりなれば、さうざうしとて、かの真木柱の姫君 を得てかしづかまほしくしたまへど、祖父宮など、さらにゆ るしたまはず。 「この君をだに、人わらへならぬさま にて見む」と思しのたまふ。

 親王の御おぼえいとやむごとなく、内裏にも、この宮の御- 心寄せいとこよなくて、この事、と奏したまふことをばえ背 きたまはず、心苦しきものに思ひきこえたまへり。おほかた も、いまめかしくおはする宮にて、この院、大殿にさしつぎ たてまつりては、人も参り仕うまつり、世人も重く思ひきこ えけり。大将も、さる世のおもしとなりたまふべき下形なれ ば、姫君の御おぼえ、などてかは軽くはあらん。聞こえ出づ る人々事にふれて多かれど、思しも定めず。衛門督を、さも 気色ばまば、と思すべかめれど、猫には思ひおとしたてまつ るにや、かけても思ひ寄らぬぞ口惜しかりける。母君の、あ やしくなほひがめる人にて、世の常のありさまにもあらずも て消ちたまへるを口惜しきものに思して、継母の御あたりを ば、心つけてゆかしく思ひて、いまめきたる御心ざまにぞも のしたまひける。 螢宮、真木柱と結婚 夫婦仲よからず

兵部卿宮、なほ一ところのみおはして、御- 心につきて思しける事どもはみな違ひて、 世の中もすさまじく、人わらへに思さるる に、さてのみやはあまえて過ぐすべき、と思して、このわた りに気色ばみ寄りたまへれば、大宮、 「何かは。かしづかんと 思はむ女子をば、宮仕につぎては、親王たちにこそは見せた てまつらめ。ただ人の、すくよかになほなほしきをのみ、今 の世の人のかしこくする、品なきわざなり」とのたまひて、 いたくも悩ましたてまつりたまはず承け引き申したまひつ。 親王、あまり恨みどころなきをさうざうしと思せど、おほか たの侮りにくきあたりなれば、えしも言ひすべしたまはでお はしましそめぬ。いと二なくかしづききこえたまふ。  大宮は、女子あまたものしたまひて、 「さまざまもの嘆か しきをりをり多かるに、もの懲りしぬべけれど、なほこの君 のことの思ひ放ちがたくおぼえてなん。母君は、あやしきひ

がものに、年ごろにそへてなりまさりたまふ。大将、はた、 わが言に従はずとて、おろかに見棄てられためれば、いとな む心苦しき」
とて、御しつらひをも、起居御手づから御覧じ 入れ、よろづにかたじけなく御心に入れたまへり。  宮は、亡せたまひにける北の方を、世とともに恋ひきこえ たまひて、ただ、昔の御ありさまに似たてまつりたらむ人を 見む、と思しけるに、あしくはあらねど、さま変りてぞもの したまひける、と思すに、口惜しくやありけむ、通ひたまふ さまいとものうげなり。大宮、いと心づきなきわざかな、と 思し嘆きたり。母君も、さこそひがみたまへれど、うつし心 出でくる時は、口惜しくうき世と思ひはてたまふ。大将の君 も、 「さればよ。いたく色めきたまへる親王を」と、はじめ よりわが御心にゆるしたまはざりし事なればにや、ものしと 思ひたまへり。  尚侍の君も、かく頼もしげなき御さまを、近く聞きたまふ

には、さやうなる世の中を見ましかば、こなたかなたいかに 思し見たまはましなど、なまをかしくもあはれにも思し出で けり。 「その昔も、け近く見きこえむとは、思ひ寄らざりき かし。ただ、情々しう、心深きさまにのたまひわたりしを、 あへなくあはつけきやうにや、聞きおとしたまひけむ」とい と恥づかしく、年ごろも思しわたることなれば、かかるあた りにて聞きたまはむことも、心づかひせらるべくなど思す。  これよりも、さるべきことは扱ひきこえたまふ。せうとの 君たちなどして、かかる御気色も知らず顔に、憎からず聞こ えまつはしなどするに、心苦しくて、もて離れたる御心はな きに、大北の方といふさがなものぞ、常にゆるしなく怨じき こえたまふ。 「親王たちは、のどかに二心なくて見た まはむをだにこそ、華やかならぬ慰めには思ふべけれ」とむ つかりたまふを、宮も漏り聞きたまひては、 「いと聞きなら はぬことかな。昔いとあはれと思ひし人をおきても、なほは

かなき心のすさびは絶えざりしかど、かうきびしきもの怨じ はことになかりしものを」
、心づきなく、いとど昔を恋ひき こえたまひつつ、古里にうちながめがちにのみおはします。 さ言ひつつも、二年ばかりになりぬれば、かかる方に目馴れ て、たださる方の御仲にて過ぐしたまふ。 四か年経過 冷泉帝譲位 政界人事の異動 はかなくて、年月も重なりて、内裏の帝御- 位に即かせたまひて十八年にならせたまひ ぬ。 「次の君とならせたまふべき皇子 おはしまさず、もののはえなきに、世の中はかなくおぼゆる を、心やすく思ふ人々にも対面し、私ざまに心をやりて、の どかに過ぐさまほしくなむ」と、年ごろ思しのたまはせつる を、日ごろいと重く悩ませたまふことありて、にはかにおり ゐさせたまひぬ。世の人、飽かずさかりの御世を、かくのが れたまふこと、と惜しみ嘆けど、春宮もおとなびさせたまひ にたれば、うち継ぎて、世の中の政などことに変るけぢめ

もなかりけり。  太政大臣、致仕の表奉りて、籠りゐたまひぬ。 「世 の中の常なきにより、かしこき帝の君も位を去りたまひぬる に、年ふかき身の冠を挂けむ、何か惜しからむ」と思しのた まひて、左大将、右大臣になりたまひてぞ、世の中の政仕 うまつりたまひける。女御の君は、かかる御世をも待ちつけ たまはで亡せたまひにければ、限りある御位を得たまへれど、 物の背後の心地してかひなかりけり。六条の女御の御腹の一- の宮、坊にゐたまひぬ。さるべきこととかねて思ひしかど、 さしあたりてはなほめでたく、目おどろかるるわざなりけり。 右大将の君、大納言になりたまひぬ。いよいよあらまほしき 御仲らひなり。  六条院は、おりゐたまひぬる冷泉院の御嗣おはしまさぬを 飽かず御心の中に思す。同じ筋なれど、思ひなやましき御こ となくて過ぐしたまへるばかりに、罪は隠れて、末の世まで

はえ伝ふまじかりける御宿世、口惜しくさうざうしく思せど、 人にのたまひあはせぬ事なれば、いぶせくなむ。  春宮の女御は、御子たちあまた数そひたまひて、いとど御 おぼえ並びなし。源氏の、うちつづき后にゐたまふべきこと を、世人飽かず思へるにつけても、冷泉院の后は、ゆゑなく て、あながちにかくしおきたまへる御心を思すに、いよいよ 六条院の御ことを、年月にそへて、限りなく思ひきこえたま へり。  院の帝、思しめししやうに、御幸もところせからで渡りた まひなどしつつ、かくてしも、げにめでたくあらまほしき御 ありさまなり。 紫の上の出家かなわず 明石一族の態度 姫宮の御ことは、帝、御心とどめて思ひき こえたまふ。おほかたの世にも、あまねく もてかしづかれたまふを、対の上の御勢 にはえまさりたまはず。年月経るままに、御仲いとうるはし

く睦びきこえかはしたまひて、いささか飽かぬことなく、隔 ても見えたまはぬものから、 「今は、かうおほぞうの住 まひならで、のどやかに行ひをも、となむ思ふ。この世はか ばかりと、見はてつる心地する齢にもなりにけり。さりぬべ きさまに思しゆるしてよ」と、まめやかに聞こえたまふをり をりあるを、 「あるまじくつらき御事なり。みづから深き 本意ある事なれど、とまりてさうざうしくおぼえたまひ、あ る世に変らむ御ありさまのうしろめたさによりこそ、ながら ふれ。つひにその事遂げなむ後に、ともかくも思しなれ」な どのみさまたげきこえたまふ。  女御の君、ただ、こなたを、まことの御親にもてなしきこ えたまひて、御方は隠れ処の御後見にて、卑下しものしたま へるしもぞ、なかなか行く先頼もしげにめでたかりける。尼- 君も、ややもすれば、たへぬよろこびの涙、ともすれば落ち つつ、目をさへ拭ひただらして、命長き、うれしげなる例に

なりてものしたまふ。 源氏、願ほどきに住吉参詣を計画する 住吉の御願かつがつはたしたまはむとて、 春宮の女御の御祈りに詣でたまはんとて、 かの箱あけて御覧ずれば、さまざまのいか めしき事ども多かり。年ごとの春秋の神楽に、必ず長き世の 祈りを加へたる願ども、げにかかる御勢ならでは、はたし たまふべき事とも思ひおきてざりけり。ただ走り書きたるお もむきの、才々しくはかばかしく、仏神も聞き入れたまふべ き言の葉明らかなり。いかでさる山伏の聖心に、かかる事ど もを思ひ寄りけむと、あはれにおほけなくも御覧ず。さるべ きにて、しばしかりそめに身をやつしける昔の世の行ひ人に やありけむなど思しめぐらすに、いとど軽々しくも思されざ りけり。  このたびは、この心をばあらはしたまはず、ただ、院の御物- 詣にて出で立ちたまふ。浦伝ひのもの騒がしかりしほど、そ

こらの御願ども、みなはたし尽くしたまへれども、なほ世の 中にかくおはしまして、かかるいろいろの栄えを見たまふに つけても、神の御助けは忘れがたくて、対の上も具しきこえ させたまひて、詣でさせたまふ。響き世の常ならず。いみじ く事どもそぎ棄てて、世のわづらひあるまじくとはぶかせた まへど、限りありければ、めづらかによそほしくなむ。  上達部も、大臣二ところをおきたてまつりては、みな仕う まつりたまふ。舞人は、衛府の次将どもの、容貌きよげに丈 だち等しきかぎりを選らせたまふ。この選びに入らぬをば恥 に愁へ嘆きたるすき者どもありけり。陪従も、石清水賀茂の 臨時の祭などに召す人々の、道々のことにすぐれたるかぎり をととのへさせたまへり。加はりたる二人なむ、近衛府の名- 高きかぎりを召したりける。御神楽の方には、いと多く仕う まつれり。内裏、春宮、院の殿上人、方々に分かれて、心寄 せ仕うまつる。数も知らず、いろいろに尽くしたる上達部の

御馬、鞍、馬副、随身、小舎人童、次々の舎人などまで、と とのへ飾りたる見物またなきさまなり。  女御殿対の上は、一つに奉りたり。次の御車には、明石- の御方、尼君忍びて乗りたまへり。女御の御乳母、心知りに て乗りたり。方々の副車、上の御方の五つ、女御殿の五つ、 明石の御あかれの三つ、目もあやに飾りたる装束ありさま言 へばさらなり。さるは、「尼君をば、同じくは、老の波の 皺のぶばかりに人めかしくて詣でさせむ」と、院はのたまひ けれど、 「このたびは、かくおほかたの響きに、立ちま じらむもかたはらいたし。もし思ふやうならむ世の中を待ち 出でたらば」と、御方はしづめたまひけるを、残りの命うし ろめたくて、かつがつ物ゆかしがりて、慕ひ参りたまふなり けり。さるべきにて、もとよりかくにほひたまふ御身どもよ りも、いみじかりける契りあらはに思ひ知らるる人の御あり さまなり。 源氏の住吉参詣 社頭に威儀をきわめる

十月中の十日なれば、神の斎垣にはふ葛も 色変りて、松の下紅葉など、音にのみ秋を 聞かぬ顔なり。ことごとしき高麗唐土の楽 よりも、東遊の耳馴れたるは、なつかしくおもしろく、波風 の声に響きあひて、さる木高き松風に吹きたてたる笛の音 も、外にて聞く調べには変りて身にしみ、琴にうち合はせた る拍子も、鼓を離れてととのへとりたる方、おどろおどろし からぬも、なまめかしくすごうおもしろく、所がらはまして 聞こえけり。山藍に摺れる竹の節は 松の緑に見えまがひ、かざしの花の いろいろは秋の草に異なるけぢめ分 かれで何ごとにも目のみ紛ひいろふ。 求子はつる末に、若やかなる上達部 は肩ぬぎておりたまふ。にほひもな く黒き袍衣に、蘇芳襲の、葡萄染の

袖をにはかにひき綻ばしたるに、紅深き衵の袂のうちしぐ れたるにけしきばかり濡れたる、松原をば忘れて、紅葉の散 るに思ひわたさる。見るかひ多かる姿どもに、いと白く枯れ たる荻を高やかにかざして、ただ一かへり舞ひて入りぬるは、 いとおもしろく飽かずぞありける。  大殿、昔のこと思し出でられ、中ごろ沈みたまひし世のあ りさまも、目の前のやうに思さるるに、その世のこと、うち 乱れ語りたまふべき人もなければ、致仕の大臣をぞ恋しく思 ひきこえたまひける。入りたまひて、二の車に忍びて、 たれかまた心を知りてすみよしの神世を経たる松に   こと問ふ 御畳紙に書きたまへり。尼君うちしほたる。かかる世を見る につけても、かの浦にて、今は、と別れたまひしほど、女御- の君のおはせしありさまなど思ひ出づるも、いとかたじけな  かりける身の宿世のほどを思ふ。世を背きたまひし人も恋し

く、さまざまにもの悲しきを、かつはゆゆしと言忌して、 住の江をいけるかひある渚とは年経るあまも今日や    知るらん おそくは便なからむと、ただうち思ひけるままなりけり。 昔こそまづ忘られねすみよしの神のしるしを見るに    つけても と独りごちけり。  夜一夜遊び明かしたまふ。二十日の月遥かに澄みて、海の 面おもしろく見えわたるに、霜のいとこちたくおきて、松原 も色紛ひて、よろづのことそぞろ寒く、おもしろさもあはれ さもたち添ひたり。対の上、常の垣根の内ながら、時々につ けてこそ、興ある朝夕の遊びに耳ふり目馴れたまひけれ、御- 門より外の物見をさをさしたまはず、ましてかく都の外の歩 きはまだならひたまはねば、めづらしくをかしく思さる。 住の江の松に夜ぶかくおく霜は神のかけたるゆふ

      かづらかも
篁朝臣の、 「比良の山さへ」と言ひける雪の朝を思しやれ ば、祭の心うけたまふしるしにやと、いよいよ頼もしくなむ。 女御の君、 神人の手にとりもたる榊葉にゆふかけ添ふるふかき夜        の霜 中務の君、 祝子がゆふうちまがひおく霜はげにいちじるき神のしる        しか 次々、数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。か かるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちもなかなか 出で消えして、松の千歳より離れていまめかしきことなけれ ば、うるさくてなむ。  ほのぼのと明けゆくに、霜はいよいよ深くて、本末もたど たどしきまで、酔ひ過ぎにたる神楽おもてどもの、おのが顔

をば知らで、おもしろきことに心はしみて、庭燎も影しめり たるに、なほ「万歳、万歳」と榊葉をとり返しつつ、祝ひき こゆる御世の末、思ひやるぞいとどしきや。よろづのこと飽 かずおもしろきままに、千夜を一夜になさまほしき夜の、何 にもあらで明けぬれば、返る波に競ふも口惜しく若き人々 思ふ。  松原に、はるばると立てつづけたる御車どもの、風にうち なびく下簾の隙々も、常磐の蔭に花の錦をひき加へたると見 ゆるに、袍衣のいろいろけぢめおきて、をかしき懸盤とりつ づきて物まゐりわたすをぞ、下人などは、目につきてめでた しとは思へる。尼君の御前にも、浅香の折敷に、青鈍の表を りて、精進物をまゐるとて、「目ざましき女の宿世かな」と、 おのがじしはしりうごちけり。  詣でたまひし道はことごとしくて、わづらはしき神宝さま ざまにところせげなりしを、帰さはよろづの逍遥を尽くした

まふ。言ひつづくるも、うるさくむつかしきことどもなれば。 かかる御ありさまをも、かの入道の、聞かず見ぬ世にかけ離 れたまへるのみなん飽かざりける。難きことなりかし、まじ らはましも見苦しくや。世の中の人、これを例にて、心高く なりぬべきころなめり。よろづの事につけてめであさみ、世 の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸ひ人に言ひける。かの 致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、「明石の 尼君、明石の尼君」とぞ賽はこひける。 紫の上の寂寥 六条院の女性たちのその後 入道の帝は、御行ひをいみじくしたまひて、 内裏の御事をも聞き入れたまはず。春秋の 行幸になむ、昔思ひ出でられたまふことも まじりける。姫宮の御ことをのみぞ、なほえ思し放たで、こ の院をば、なほおほかたの御後見に思ひきこえたまひて、内- 内の御心寄せあるべく奏せさせたまふ。二品になりたまひて、 御封などまさる。いよいよ華やかに御勢添ふ。

 対の上、かく年月にそへて方々にまさりたまふ御おぼえに、 わが身はただ一ところの御もてなしに人には劣らねど、あま り年つもりなば、その御心ばへもつひにおとろへなむ、さら む世を見はてぬさきに心と背きにしがな、とたゆみなく思し わたれど、さかしきやうにや思さむとつつまれて、はかばか しくもえ聞こえたまはず。内裏の帝さへ、御心寄せことに聞 こえたまへば、おろかに聞かれたてまつらむもいとほしくて、 渡りたまふこと、やうやう等しきやうになりゆく、さるべき こと、ことわりとは思ひながら、さればよ、とのみやすから ず思されけれど、なほつれなく同じさまにて過ぐしたまふ。 春宮の御さしつぎの女一の宮をこなたにとり分きてかしづき たてまつりたまふ。その御あつかひになむ、つれづれなる御- 夜離れのほども慰めたまひける。いづれも分かず、うつくし くかなしと思ひきこえたまへり。  夏の御方は、かくとりどりなる御孫あつかひをうらやみて、

大将の君の典侍腹の君を切に迎へてぞかしづきたまふ。い とをかしげにて、心ばへも、ほどよりはざれおよすけたれば、 大殿の君もらうたがりたまふ。少なき御嗣と思ししかど、末 にひろごりて、こなたかなたいと多くなり添ひたまふを、今 は、ただ、これをうつくしみあつかひたまひてぞ、つれづれ も慰めたまひける。  右の大殿の参り仕うまつりたまふこと、いにしへよりもま さりて親しく、今は、北の方もおとなびはてて、かの昔のか けかけしき筋思ひ離れたまふにや、さるべきをりも渡りまう でたまひつつ、対の上にも御対面ありて、あらまほしく聞こ えかはしたまひけり。姫宮のみぞ、同じさまに若くおほどき ておはします。女御の君は、今は、公ざまに思ひ放ちきこえ たまひて、この宮をばいと心苦しく、幼からむ御むすめのや うに、思ひはぐくみたてまつりたまふ。 源氏、院と宮との対面のため御賀を計画

朱雀院の、今は、むげに世近くなりぬる心- 地してもの心細きを、さらにこの世のこと かへりみじと思ひ棄つれど、対面なんいま 一たびあらまほしきを、もし怨み残りもこそすれ、ことごと しきさまならで渡りたまふべく聞こえたまひければ、大殿も、 「げにさるべきことなり。かかる御気色なからむにてだに、 進み参りたまふべきを。ましてかう待ちきこえたまひけるが 心苦しきこと」と、参りたまふべきこと思しまうく。 「ついでなくすさまじきさまにてやは、はひ渡りたまふべき。 何わざをしてか、御覧ぜさせたまふべき」と思しめぐらす。 このたび足りたまはむ年、若菜など調じてや、と思して、さ まざまの御法服のこと、斎の御まうけのしつらひ、何くれと、 さまことに変れることどもなれば、人の御心しらひども入り つつ思しめぐらす。  いにしへも、遊びの方に御心とどめさせたまへりしかば、

舞人楽人などを、心ことに定め、すぐれたるかぎりをととの へさせたまふ。右の大殿の御子ども二人、大将の御子、典侍- 腹の加へて三人、まだ小さき七つより上のは、みな殿上せさ せたまふ。兵部卿宮の童孫王、すべてさるべき宮たちの御子 ども、家の子の君たち、みな選び出でたまふ。殿上の君たち も、容貌よく、同じき舞の姿も心ことなるべきを定めて、あ またの舞のまうけをせさせたまふ。いみじかるべきたびのこ ととて、皆人心を尽くしたまひてなむ。道々の物の師、上- 手暇なきころなり。 源氏、御賀の時のため宮に琴を教える 宮は、もとより琴の御琴をなむ習ひたまひ けるを、いと若くて院にもひきわかれたて まつりたまひしかば、おぼつかなく思して、 「参りたまはむついでに、かの御琴の音なむ聞かまほし き。さりとも琴ばかりは弾きとりたまへらむ」と、後言に聞 こえたまひけるを、内裏にも聞こしめして、 「げに、さりと

も、けはひことならむかし。院の御前にて、手尽くしたまは むついでに、参り来て聞かばや」
などのたまはせけるを、大- 殿の君は伝へ聞きたまひて、 「年ごろさりぬべきついでご とには、教へきこゆることもあるを、そのけはひはげにまさ りたまひにたれど、まだ聞こしめしどころあるもの深き手に は及ばぬを、何心もなくて参りたまへらむついでに、聞こし めさむとゆるしなくゆかしがらせたまはむは、いとはしたな かるべきことにも」と、いとほしく思して、このごろぞ御心 とどめて教へきこえたまふ。  調べことなる手二つ三つ、おもしろき大曲どもの、四季に つけて変るべき響き、空の寒さ温さを調へ出でて、やむごと なかるべき手のかぎりを、とりたてて教へきこえたまふに、 心もとなくおはするやうなれど、やうやう心得たまふままに、  いとよくなりたまふ。 「昼はいと人繁く、なほ一たびも揺  し按ずるいとまも心あわたたしければ、夜々なむ静かに事の

心も染めたてまつるべき」
とて、対にも、そのころは、御暇- 聞こえたまひて明け暮れ教へきこえたまふ。 明石の女御紫の上、琴を聞くことを望む 女御の君にも、対の上にも、琴は習はした てまつりたまはざりければ、このをり、を さをさ耳馴れぬ手ども弾きたまふらんをゆ かしと思して、女御も、わざとあり難き御暇を、ただしばし、 と聞こえたまひてまかでたまへり。御子二ところおはするを、 またもけしきばみたまひて、五月ばかりにぞなりたまへれば、 神事などにことつけておはしますなりけり。十一月過ぐして は、参りたまふべき御消息うちしきりあれど、かかるついで にかくおもしろき夜々の御遊びをうらやましく、などて我に 伝へたまはざりけむ、とつらく思ひきこえたまふ。  冬の夜の月は、人に違ひてめでたまふ御心なれば、おもし ろき夜の雪の光に、をりにあひたる手ども弾きたまひつつ、 さぶらふ人々も、すこしこの方にほのめきたるに、御琴ども

とりどりに弾かせて、遊びなどしたまふ。年の暮つ方は、対 などにはいそがしく、こなたかなたの御営みに、おのづから 御覧じ入るる事どもあれば、 「春のうららかならむ夕な どに、いかでこの御琴の音聞かむ」とのたまひわたるに、年- 返りぬ。 源氏、女三の宮を相手に琴について語る 院の御賀、まづおほやけよりせさせたまふ 事どもこちたきに、さしあひては便なく思 されて、すこしほど過ごしたまふ。二月十- 余日と定めたまひて、楽人舞人など参りつつ、御遊び絶えず。 「この対に常にゆかしくする御琴の音、いかでかの人々の 箏琵琶の音も合はせて、女楽試みさせむ。ただ今の物の上手 どもこそ、さらにこのわたりの人々の御心しらひどもにまさ らね。はかばかしく伝へとりたることはをさをさなけれど、 何ごともいかで心に知らぬことあらじとなむ幼きほどに 思ひしかば、世にある物の師といふかぎり、また高き家-

家のさるべき人の伝へどもをも、残さず試みし中に、いと深 く恥づかしきかなとおぼゆる際の人なむなかりし。その昔よ りも、また、このごろの若き人々のざれよしめき過ぐすに、 はた、浅くなりにたるべし。琴、はた、まして、さらにまね ぶ人なくなりにたりとか。この御琴の音ばかりだに伝へたる 人をさをさあらじ」
とのたまへば、何心なくうち笑みて、う れしく、かくゆるしたまふほどになりにける、と思す。二十- 一二ばかりになりたまへど、なほいといみじく片なりにきび はなる心地して、細くあえかにうつくしくのみ見えたまふ。 「院にも見えたてまつりたまはで年経ぬるを、ねびまさり たまひにけり、と御覧ずばかり、用意加へて見えたてまつり たまへ」と、事にふれて教へきこえたまふ。げに、かかる御- 後見なくては、ましていはけなくおはします御ありさま隠れ なからまし、と人々も見たてまつる。 正月、女楽を催し、夕霧その席に招かれる

正月二十日ばかりになれば、空もをかしき ほどに、風ぬるく吹きて、御前の梅も盛り になりゆき、おほかたの花の木どももみな けしきばみ、霞みわたりにけり。 「月たたば、御いそぎ近 く、もの騒がしからむに、掻き合はせたまはむ御琴の音も、 試楽めきて人言ひなさむを、このごろ静かなるほどに試みた まへ」とて、寝殿に渡したてまつりたまふ。御供に、我も我 もと、ものゆかしがりて、参う上らまほしがれど、こなたに 遠きをば選りとどめさせたまひて、すこしねびたれど、よし あるかぎり選りてさぶらはせたまふ。  童べは、容貌すぐれたる四人、赤色に桜の汗衫、薄色の織- 物の衵、浮紋の表袴、紅の擣ちたる、さまもてなしすぐれ たるかぎりを召したり。女御の御方にも、御しつらひなどい とど改まれるころの曇りなきに、おのおのいどましく尽くし たる装ひどもあざやかに、二なし。童は、青色に蘇芳の汗衫、

唐綾の表袴、衵は山吹なる唐の綺を、同じさまにととのへた り。明石の御方のは、ことごとしからで、紅梅二人、桜二人、 青磁のかぎりにて、衵濃く薄く、擣目などえならで着せたま へり。宮の御方にも、かく集ひたまふべく聞きたまひて、童 べの姿ばかりは、ことにつくろはせたまへり。青丹に、柳の 汗衫、葡萄染の衵など、ことに好ましくめづらしきさまには あらねど、おほかたのけはひの、いかめしく気高きことさへ いと並びなし。  廂の中の御障子を放ちて、こなたかなた御几帳ばかりをけ ぢめにて、中の間は院のおはしますべき御座よそひたり。今- 日の拍子合はせには童べを召さむとて、右の大殿の三郎、尚- 侍の君の御腹の兄君笙の笛、左大将の御太郎横笛と吹かせて、 簀子にさぶらはせたまふ。内には、御褥ども並べて、御琴ど もまゐりわたす。秘したまふ御琴ども、うるはしき紺地の袋 どもに入れたる取り出でて、明石の御方に琵琶、紫の上に和-

琴、女御の君に箏の御琴、宮には、かくことごとしき琴はま だえ弾きたまはずや、と危くて、例の手馴らしたまへるをぞ 調べて奉りたまふ。 「箏の御琴は、ゆるぶとなけれど、なほかく物に合はす るをりの調べにつけて、琴柱の立処乱るるものなり。よくそ の心しらひととのふべきを、女はえ張りしづめじ。なほ、大- 将をこそ召し寄せつべかめれ。この笛吹ども、まだいと幼げ にて拍子ととのへむ頼み強からず」と笑ひたまひて、 「大- 将、こなたに」と召せば、御方々恥づかしく、心づかひして おはす。明石の君をはなちては、いづれもみな棄てがたき御- 弟子どもなれば、御心加へて、大将の聞きたまはむに、難な かるべく、と思す。女御は、常に上の聞こしめすにも、物に 合はせつつ弾き馴らしたまへればうしろやすきを、和琴こそ、 いくばくならぬ調べなれど、跡定まりたることなくて、なか なか女のたどりぬべけれ、春の琴の音は、みな掻き合はする

ものなるを、乱るるところもやとなまいとほしく思す。  大将、いといたく心げさうして、御前のことごとしくうる はしき御試みあらむよりも、今日の心づかひはことにまさ りておぼえたまへば、あざやかなる御直衣、香にしみたる 御衣ども、袖いたくたきしめて、ひきつくろひて参りたまふ ほど、暮れはてにけり。ゆゑある黄昏時の空に、花は、去年 の古雪思ひ出でられて、枝もたわむばかり咲き乱れたり。ゆ るるかにうち吹く風に、えならず匂ひたる御簾の内の薫りも 吹きあはせて、鶯さそふつまにしつべく、いみじき殿のあ たりのにほひなり。御簾の下より、箏の御琴の裾すこしさし 出でて、 「軽々しきやうなれど、これが緒ととのへて調べ こころみたまへ。ここにまたうとき人の入るべきやうもなき を」とのたまへば、うちかしこまりて賜はりたまふほど、用- 意多くめやすくて、壱越調の声に発の緒を立てて、ふとも調 べやらでさぶらひたまへば、 「なほ掻き合はせばかりは、

手一つ、すさまじからでこそ」
とのたまへば、 「さらに、 今日の御遊びのさしいらへにまじらふばかりの手づかひなん、 おぼえずはべりける」と、気色ばみたまふ。 「さもあるこ となれど、女楽にえ言まぜでなむ逃げにける、と伝はらむ名 こそ惜しけれ」とて笑ひたまふ。調べはてて、をかしきほど に掻き合はせばかり弾きてまゐらせたまひつ。この御孫の君 たちの、いとうつくしき宿直姿どもにて、吹き合はせたる物 の音ども、まだ若けれど、生ひ先ありていみじくをかしげ なり。 女性四人の演奏それぞれに華麗をきわめる 御琴どもの調べどもととのひはてて、掻き 合はせたまへるほど、いづれとなき中に、 琵琶はすぐれて上手めき、神さびたる手づ かひ、澄みはてておもしろく聞こゆ。和琴に、大将も耳とど めたまへるに、なつかしく愛敬づきたる御爪音に、掻き返し たる音の、めづらしくいまめきて、さらに、このわざとある

上手どもの、おどろおどろしく掻き立てたる調べ調子に劣ら ずにぎははしく、大和琴にもかかる手ありけり、と聞き驚か る。深き御労のほど、あらはに聞こえておもしろきに、大殿 御心落ちゐて、いとあり難く思ひきこえたまふ。箏の御琴は、 物の隙々に、心もとなく漏り出づる物の音がらにて、うつく しげになまめかしくのみ聞こゆ。琴は、なほ若き方なれど、 習ひたまふさかりなれば、たどたどしからず、いとよく物に 響きあひて、優になりにける御琴の音かな、と大将聞きたま ふ。拍子とりて唱歌したまふ。院も、時々扇うち鳴らして加 へたまふ御声、昔よりもいみじくおもしろく、すこしふつつ かにものものしき気添ひて聞こゆ。大将も、声いとすぐれた まへる人にて、夜の静かになりゆくままに、言ふ限りなくな つかしき夜の御遊びなり。 源氏、四人の女性をそれぞれ花にたとえる

月、心もとなきころなれば、燈籠こなたか なたにかけて、灯よきほどにともさせたま へり。宮の御方をのぞきたまへれば、人よ りけに小さくうつくしげにて、ただ御衣のみある心地す。に ほひやかなる方は後れて、ただいとあてやかにをかしく、二- 月の中の十日ばかりの青柳の、わづかにしだりはじめたらむ 心地して、鶯の羽風にも乱れぬべくあえかに見えたまふ。桜 の細長に、御髪は左右よりこぼれかかりて、柳の糸のさまし たり。  これこそは、限りなき人の御ありさまなめれ、と見ゆるに、 女御の君は、同じやうなる御なまめき姿の、いますこしにほ ひ加はりて、もてなしけはひ心にくく、よしあるさましたま ひて、よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりてかたはら に並ぶ花なき朝ぼらけの心地ぞしたまへる。さるは、いとふ くらかなるほどになりたまひて、悩ましくおぼえたまひけれ

ば、御琴も押しやりて、脇息におしかかりたまへり。ささや かになよびかかりたまへるに、御脇息は例のほどなれば、お よびたる心地して、ことさらに小さく作らばやと見ゆるぞ、 いとあはれげにおはしける。紅梅の御衣に、御髪のかかりは らはらときよらにて、灯影の御姿世になくうつくしげなるに、 紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿、薄蘇芳の細長に 御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに、おほきさなどよ きほどに様体あらまほしく、あたりににほひ満ちたる心地し て、花といはば桜にたとへても、なほ物よりすぐれたるけは ひことにものしたまふ。  かかる御あたりに、明石は気おさるべきを、いとさしもあ らず。もてなしなど気色ばみ恥づかしく、心の底ゆかしきさ まして、そこはかとなくあてになまめかしく見ゆ。柳の織物 の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる ひきかけて、ことさら卑下したれど、けはひ、思ひなしも心

にくく侮らはしからず。高麗の青地の錦の端さしたる褥に、 まほにもゐで、琵琶をうち置きて、ただけしきばかり弾きか けて、たをやかにつかひなしたる撥のもてなし、音を聞くよ りも、またあり難くなつかしくて、五月まつ花橘、花も実も 具して押し折れるかをりおぼゆ。  これもかれも、うちとけぬ御けはひどもを聞き見たまふに、 大将も、いと内ゆかしくおぼえたまふ。対の上の、見しをり よりも、ねびまさりたまへらむありさまゆかしきに、静心も なし。宮をば、いますこしの宿世及ばましかば、わがものに ても見たてまつりてまし、心のいとぬるきぞ悔しきや。院は たびたびさやうにおもむけて、後言にものたまはせけるを、 とねたく思へど、すこし心やすき方に見えたまふ御けはひに、 侮りきこゆとはなけれど、いとしも心は動かざりけり。この 御方をば、何ごとも思ひ及ぶべき方なく、け遠くて年ごろ過 ぎぬれば、いかでか、ただ、おほかたに、心寄せあるさまを

も見えたてまつらむとばかりの、口惜しく嘆かしきなりけり。 あながちに、あるまじくおほけなき心などはさらにものした まはず、いとよくもてをさめたまへり。 源氏、夕霧とともに音楽について論評する 夜更けゆくけはひ冷やかなり。臥待の月は つかにさし出でたる、 「心もとなしや、 春の朧月夜よ。秋のあはれ、はた、かうや うなる物の音に、虫の声よりあはせたる、ただならず、こよ なく響きそふ心地すかし」とのたまへば、大将の君、 「秋の 夜の隈なき月には、よろづのもののとどこほりなきに、琴笛 の音も明らかに、澄める心地はしはべれど、なほことさらに つくりあはせたるやうなる空のけしき、花の露もいろいろ目 移ろひ心散りて、限りこそはべれ。春の空のたどたどしき霞 の間より、朧なる月影に、静かに吹き合はせたるやうには、 いかでか。笛の音なども、艶に澄みのぼりはてずなむ。女は 春をあはれぶ、と古き人の言ひおきはべりける、げにさなむ

はべりける。なつかしくもののととのほることは、春の夕暮 こそことにはべりけれ」
と申したまへば、 「いな、この定 めよ。いにしへより人の分きかねたることを、末の世に下れ る人のえ明らめはつまじくこそ。物の調べ、曲のものどもは しも、げに律をば次のものにしたるは、さもありかし」など のたまひて、 「いかに。ただ今、有職のおぼえ高きその人 かの人、御前などにて、たびたびこころみさせたまふに、す ぐれたるは数少なくなりためるを、その兄と思へる上手ども いくばくえまねびとらぬにやあらむ。このかくほのかなる女 たちの御中に弾きまぜたらむに、際離るべくこそおぼえね。 年ごろかく埋れて過ぐすに、耳などもすこしひがひがしくな りにたるにやあらむ。口惜しうなむ。あやしく、人の才、は かなくとりすることどもも、もののはえありてまさるところ なる。その御前の御遊びなどに、ひときざみに選ばるる人々、 それかれといかにぞ」とのたまへば、大将、 「それをなむと

り申さむと思ひはべりつれど、明らかならぬ心のままにおよ すけてやは、と思ひたまふる。上りての世を聞きあはせはべ らねばにや、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などをこそ、 このごろめづらかなる例にひき出ではべめれ。げにかたはら なきを、今宵うけたまはる物の音どもの、みな等しく耳驚き はべるは。なほかくわざともあらぬ御遊びと、かねて思ひた まへたゆみける心の騒ぐにやはべらむ、唱歌などいと仕うま つりにくくなむ。和琴は、かの大臣ばかりこそ、かく、をり につけてこしらへなびかしたる音など、心にまかせて掻きた てたまへるは、いとことにものしたまへ。をさをさ際離れぬ ものにはべめるを、いとかしこくととのひてこそはべりつ れ」
と、めできこえたまふ。 「いと、さ、ことごとしき際 にはあらぬを、わざとうるはしくもとりなさるるかな」とて、 したり顔にほほ笑みたまふ。 「げに、けしうはあらぬ弟子どもなりかし。琵琶はしも、

ここに口入るべきことまじらぬを、さ言へど、物のけはひ異 なるべし。おぼえぬ所にて聞きはじめたりしに、めづらしき 物の声かな、となむおぼえしかど、そのをりよりはまたこよ なくまさりにたるをや」
と、せめてわれ賢にかこちなしたま へば、女房などはすこしつきしろふ。 「よろづのこと、道々につけて習ひまねばば、才といふ もの、いづれも際なくおぼえつつ、わが心地に飽くべき限り なく習ひとらむことはいと難けれど、何かは、そのたどり深 き人の、今の世にをさをさなければ、片はしをなだらかにま ねび得たらむ人、さる片かどに心をやりてもありぬべきを、 琴なむなほわづらはしく、手触れにくきものはありける。こ の琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地を なびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従 ひて、悲しび深き者も、よろこびに変り、賤しく貧しき者も、 高き世にあらたまり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ

多かりけり。この国に弾き伝ふるはじめつ方まで、深くこの ことを心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ごし、身をな きになして、この琴をまねびとらむとまどひてだに、し得る は難くなむありける。げに、はた、明らかに空の月星を動か し、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りた る世にはありけり。かく限りなきものにて、そのままに習ひ とる人のあり難く、世の末なればにや、いづこのそのかみの 片はしにかはあらむ。されど、なほ、かの鬼神の耳とどめ、 かたぶきそめにけるものなればにや、なまなまにまねびて、 思ひかなはぬたぐひありける後、これを弾く人よからず、と かいふ難をつけて、うるさきままに、今は、をさをさ伝ふる 人なしとか。いと口惜しきことにこそあれ。琴の音を離れて は、何ごとをか物をととのへ知るしるべとはせむ。げに、よ ろづのこと、衰ふるさまはやすくなりゆく世の中に、独り出 で離れて、心を立てて、唐土高麗と、この世にまどひ歩き、

親子を離れむことは、世の中にひがめる者になりぬべし。な どか、なのめにて、なほこの道を通はし知るばかりの端をば、 知りおかざらむ。調べひとつに手を弾き尽くさんことだに、 量りもなき物ななり。いはむや、多くの調べ、わづらはしき 曲多かるを、心に入りしさかりには、世にありとあり、ここ に伝はりたる譜といふものの限りをあまねく見あはせて、後- 後は師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、なほ上り ての人には、当るべくもあらじをや。まして、この後といひ ては、伝はるべき末もなき、いとあはれになむ」
などのたま へば、大将、げにいと口惜しく恥づかし、と思す。 「この皇子たちの御中に、思ふやうに生ひ出でたまふも のしたまはば、その世になむ、そもさまでながらへとまるや うあらば、いくばくならぬ手の限りもとどめたてまつるべき。 二の宮、今より気色ありて見えたまふを」などのたまへば、 明石の君は、いと面だたしく、涙ぐみて聞きゐたまへり。 源氏も加わり、うちとけた演奏になる

女御の君は、箏の御琴をば、上に譲りきこ えて、寄り臥したまひぬれば、あづまを大- 殿の御前にまゐりて、け近き御遊びになり ぬ。葛城遊びたまふ。華やかにおもしろし。大殿、折り返し うたひたまふ御声たとへん方なく愛敬づきめでたし。月やう やうさし上るままに、花の色香ももてはやされて、げにいと 心にくきほどなり。  箏の琴は、女御の御爪音は、いとらうたげになつかしく、 母君の御けはひ加はりて、揺の音深く、いみじく澄みて聞こ えつるを、この御手づかひは、また、さま変りて、ゆるるか におもしろく、聞く人ただならず、すずろはしきまで愛敬づ きて、輪の手など、すべて、さらに、いとかどある御琴の音 なり。返り声に、みな調べ変りて、律の掻き合はせども、な つかしくいまめきたるに、琴は、五個の調べ、あまたの手の 中に、心とどめて必ず弾きたまふべき五六の撥を、いとおも

しろくすまして弾きたまふ。さらにかたほならず、いとよく 澄みて聞こゆ。春秋よろづの物に通へる調べにて、通はしわ たしつつ弾きたまふ。心しらひ、教へきこえたまふさま違へ ず、いとよくわきまへたまへるを、いとうつくしく面だたし く思ひきこえたまふ。 女楽終わり夕霧ら禄を賜わり帰途につく この君たちのいとうつくしく吹きたてて、 切に心入れたるを、らうたがりたまひて、 「ねぶたくなりにたらむに。今宵の遊び は長くはあらで、はつかなるほどにと思ひつるを、とどめが たき物の音どもの、いづれともなきを、聞きわくほどの耳と からぬたどたどしさに、いたく更けにけり。心なきわざなり や」とて、笙の笛吹く君に、土器さしたまひて、御衣脱ぎて かづけたまふ。横笛の君には、こなたより、織物の細長に、 袴などことごとしからぬさまに、けしきばかりにて、大将の 君には、宮の御方より盃さし出でて、宮の御装束一領かづけ

たてまつりたまふを、大殿、 「あやしや。物の師をこそまづ はものめかしたまはめ。愁はしきことなり」とのたまふに、 宮のおはします御几帳のそばより御笛を奉る。うち笑ひたま ひてとりたまふ。いみじき高麗笛なり。すこし吹き鳴らした まへば、みな立ち出でたまふほどに、大将立ちとまりたまひ て、御子の持ちたまへる笛をとりて、いみじくおもしろく吹 きたてたまへるが、いとめでたく聞こゆれば、いづれもいづ れも、みな、御手を離れぬものの伝へ伝へ、いと二なくのみ あるにてぞ、わが御才のほどあり難く思し知られける。  大将殿は、君たちを御車に乗せて、月の澄めるにまかでた まふ。道すがら、箏の琴の変りていみじかりつる音も耳につ きて、恋しくおぼえたまふ。わが北の方は、故大宮の教へき こえたまひしかど、心にもしめたまはざりしほどに別れたて まつりたまひにしかば、ゆるるかにも弾きとりたまはで、男- 君の御前にては、恥ぢてさらに弾きたまはず。何ごともただ

おいらかにうちおほどきたるさまして、子どものあつかひを 暇なく次々したまへば、をかしきところもなくおぼゆ。さす がに、腹あしくてもの妬みうちしたる、愛敬づきてうつくし き人ざまにぞものしたまふめる。 源氏、紫の上と語り、わが半生を述懐する 院は、対へ渡りたまひぬ。上は、とまりた まひて、宮に御物語など聞こえたまひて、 暁にぞ渡りたまへる。日高うなるまで大- 殿籠れり。 「宮の御琴の音は、いとうるさくなりにけりな。 いかが聞きたまひし」と聞こえたまへば、 「はじめつ方、 あなたにてほの聞きしはいかにぞやありしを、いとこよなく なりにけり。いかでかは、かく他事なく教へきこえたまはむ には」と答へきこえたまふ。 「さかし。手を取る取る、お ぼつかなからぬ物の師なりかし。これかれにも、うるさくわ づらはしくて暇いるわざなれば、教へたてまつらぬを、院に も内裏にも、琴はさりとも習はしきこゆらむ、とのたまふ、

と聞くがいとほしく、さりともさばかりの事をだに、かくと り分きて御後見にと預けたまへるしるしには、と思ひ起こし てなむ」
など聞こえたまふついでにも、 「昔、世づかぬほ どをあつかひ思ひしさま、その世には暇もあり難くて、心の どかにとり分き教へきこゆることなどもなく、近き世にも、 何となく次々紛れつつ過ぐして、聞きあつかはぬ御琴の音の、 出でばえしたりしも面目ありて、大将のいたくかたぶき驚き たりし気色も、思ふやうにうれしくこそありしか」など聞こ えたまふ。  かやうの筋も、今は、また、おとなおとなしく、宮たちの 御あつかひなどとりもちてしたまふさまも、至らぬことなく、 すべて何ごとにつけても、もどかしくたどたどしきことまじ らず、あり難き人の御ありさまなれば、いとかく具しぬる人 は世に久しからぬ例もあなるをと、ゆゆしきまで思ひきこえ たまふ。さまざまなる人のありさまを見集めたまふままに、

とりあつめ足らひたることは、まことにたぐひあらじ、との み思ひきこえたまへり。今年は三十七にぞなりたまふ。  見たてまつりたまひし年月のことなども、あはれに思し出 でたるついでに、 「さるべき御祈祷など、常よりもとり分 きて、今年はつつしみたまへ。もの騒がしくのみありて、思 ひいたらぬ事もあらむを、なほ思しめぐらして、大きなる事 どもしたまはば、おのづからせさせてむ。故僧都のものした まはずなりにたるこそ、いと口惜しけれ。おほかたにてうち 頼まむにも、いとかしこかりし人を」などのたまひ出づ。 「みづからは、幼くより、人に異なるさまにて、ことごと しく生ひ出でて、今の世のおぼえありさま、来し方にたぐひ 少なくなむありける。されど、また、世にすぐれて悲しき目 を見る方も、人にはまさりけりかし。まづは、思ふ人にさま ざま後れ、残りとまれる齢の末にも、飽かず悲しと思ふこと 多く、あぢきなくさるまじきことにつけても、あやしくもの

思はしく、心に飽かずおぼゆること添ひたる身にて過ぎぬれ ば、それにかへてや、思ひしほどよりは、今までも、ながらふ るならむとなん、思ひ知らるる。君の御身には、かの一ふしの 別れより、あなたこなた、もの思ひとて心乱りたまふばかり のことあらじとなん思ふ。后といひ、ましてそれより次々は、 やむごとなき人といへど、みな必ずやすからぬもの思ひ添ふ わざなり。高きまじらひにつけても心乱れ、人に争ふ思ひの 絶えぬもやすげなきを、親の窓の内ながら過ぐしたまへるや うなる心やすきことはなし。その方、人にすぐれたりける宿- 世とは思し知るや。思ひの外に、この宮のかく渡りものした まへるこそは、なま苦しかるべけれど、それにつけては、い とど加ふる心ざしのほどを、御みづからの上なれば、思し知 らずやあらむ。ものの心も深く知りたまふめれば、さりとも となむ思ふ」
と聞こえたまへば、 「のたまふやうに、も のはかなき身には過ぎにたるよそのおぼえはあらめど、心に

たへぬもの嘆かしさのみうち添ふや、さはみづからの祈りな りける」
とて、残り多げなるけはひ恥づかしげなり。 「まめやかには、いと行く先少なき心地するを、今年 もかく知らず顔にて過ぐすは、いとうしろめたくこそ。さき ざきも聞こゆること、いかで御ゆるしあらば」と聞こえたま ふ。 「それはしも、あるまじきことになん。さてかけ離れ たまひなむ世に残りては、何のかひかあらむ。ただかく何と なくて過ぐる年月なれど、明け暮れの隔てなきうれしさのみ こそ、ますことなくおぼゆれ。なほ思ふさまことなる心のほ どを見はてたまへ」とのみ聞こえたまふを、例の、ことと心 やましくて、涙ぐみたまへる気色を、いとあはれと見たてま つりたまひて、よろづに聞こえ紛らはしたまふ。 源氏、過往の女性関係を回想して論評する 「多くはあらねど、人のありさまの、と りどりに口惜しくはあらぬを見知りゆくま まに、まことの心ばせおいらかに落ちゐた

るこそ、いと難きわざなりけれとなむ思ひはてにたる。  大将の母君を、幼かりしほどに見そめて、やむごとなくえ 避らぬ筋には思ひしを、常に仲よからず、隔てある心地して やみにしこそ、今思へばいとほしく悔しくもあれ。また、わ が過ちにのみもあらざりけりなど、心ひとつになむ思ひ出づ る。うるはしく重りかにて、そのことの飽かぬかな、とおぼ ゆることもなかりき。ただ、いとあまり乱れたるところなく、 すくすくしく、すこしさかしとやいふべかりけむと、思ふに は頼もしく、見るにはわづらはしかりし人ざまになん。  中宮の御母御息所なん、さまことに心深くなまめかしき例 にはまづ思ひ出でらるれど、人見えにくく、苦しかりしさま になんありし。恨むべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふ しを、やがて長く思ひつめて深く怨ぜられしこそ、いと苦し かりしか。心ゆるびなく恥づかしくて、我も人もうちたゆみ、 朝夕の睦びをかはさむには、いとつつましきところのありし

かば、うちとけては見おとさるることやなど、あまりつくろ ひしほどに、やがて隔たりし仲ぞかし。いとあるまじき名を 立ちて、身のあはあはしくなりぬる嘆きを、いみじく思ひし めたまへりしがいとほしく、げに、人柄を思ひしも、我罪あ る心地してやみにし慰めに、中宮を、かく、さるべき御契り とはいひながら、とりたてて、世の譏り、人の恨みをも知ら ず心寄せたてまつるを、かの世ながらも見なほされぬらむ。 今も昔も、なほざりなる心のすさびに、いとほしく悔しきこ とも多くなん」
と、来し方の人の御上、すこしづつのたまひ 出でて、 「内裏の御方の御後見は、何ばかりのほどならず と侮りそめて、心やすきものに思ひしを、なほ心の底見えず、 際なく深きところある人になむ。うはべは人になびき、おい らかに見えながら、うちとけぬ気色下に籠りて、そこはかと なく恥づかしきところこそあれ」とのたまへば、 「他人 は見ねば知らぬを、これは、まほならねど、おのづから気色

見るをりをりもあるに、いとうちとけにくく、心恥づかしき ありさましるきを、いとたとしへなき裏なさを、いかに見た まふらん、とつつましけれど、女御はおのづから思しゆるす らん、とのみ思ひてなむ」
とのたまふ。  さばかり、めざまし、と心おきたまへりし人を、今は、か くゆるして見えかはしなどしたまふも、女御の御ための真心 なるあまりぞかし、と思すに、いとあり難ければ、 「君こ そは、さすがに隈なきにはあらぬものから、人により事にし たがひ、いとよく二筋に心づかひはしたまひけれ。さらに、 ここら見れど、御ありさまに似たる人はなかりけり。いと気- 色こそものしたまへ」と、ほほ笑みて聞こえたまふ。 「宮に、いとよく弾きとりたまへりしことのよろこび聞 こえむ」とて、夕つ方渡りたまひぬ。我に心おく人やあらむ、 とも思したらず、いといたく若びて、ひとへに御琴に心入れ ておはす。 「今は、暇ゆるしてうち休ませたまへかし。物

の師は心ゆかせてこそ。いと苦しかりつる日ごろのしるしあ りて、うしろやすくなりたまひにけり」
とて、御琴ども押し やりて大殿籠りぬ。 紫の上発病する 三月、二条院に移す 対には、例のおはしまさぬ夜は、宵居した まひて、人々に物語など読ませて聞きたま ふ。 「かく、世のたとひに言ひ集めたる昔- 語どもにも、あだなる男、色好み、二心ある人にかかづらひ たる女、かやうなる事を言ひ集めたるにも、つひによる方あ りてこそあめれ、あやしく浮きても過ぐしつるありさまかな。 げに、のたまひつるやうに、人よりことなる宿世もありける 身ながら、人の忍びがたく飽かぬことにするもの思ひ離れぬ 身にてややみなむとすらん。あぢきなくもあるかな」など、 思ひつづけて、夜更けて大殿籠りぬる暁方より御胸を悩みた まふ。人々見たてまつりあつかひて、 「御消息聞こえさせむ」 と聞こゆるを、 「いと便ないこと」と制したまひて、た

へがたきをおさへて明かしたまうつ。御身もぬるみて、御心- 地もいとあしけれど、院もとみに渡りたまはぬほど、かくな む、とも聞こえず。  女御の御方より御消息あるに、 「かく悩ましくてなむ」と 聞こえたまへるに、驚きてそなたより聞こえたまへるに、胸 つぶれて急ぎ渡りたまへるに、いと苦しげにておはす。 「いかなる御心地ぞ」とて探りたてまつりたまへば、いと熱 くおはすれば、昨日聞こえたまひし御つつしみの筋など思し あはせたまひて、いと恐ろしく思さる。御粥などこなたにま ゐらせたれど御覧じも入れず、日一日添ひおはして、よろづ に見たてまつり嘆きたまふ。はかなき御くだものをだに、い とものうくしたまひて、起き上りたまふこと絶えて、日ごろ 経ぬ。いかならむと思し騒ぎて、御祈祷ども数知らずはじめ させたまふ。僧召して、御加持などせさせたまふ。そこ所と もなくいみじく苦しくしたまひて、胸は時々おこりつつわづ

らひたまふさま、たへがたく苦しげなり。さまざまの御つつ しみ限りなけれど、験も見えず。重しと見れど、おのづから おこたるけぢめあるは頼もしきを、いみじく心細く悲し、と 見たてまつりたまふに、他事思されねば、御賀の響きもしづ まりぬ。かの院よりも、かくわづらひたまふよし聞こしめし て、御とぶらひいとねむごろに、たびたび聞こえたまふ。  同じさまにて、二月も過ぎぬ。言ふ限りなく思し嘆きて、 試みに所を変へたまはむとて、二条院に渡したてまつりたま ひつ。院の内ゆすり満ちて、思ひ嘆く人多かり。冷泉院も聞 こしめし嘆く。この人亡せたまはば、院も必ず世を背く御本- 意遂げたまひてむと、大将の君なども、心を尽くして見たて まつりあつかひたまふ。御修法などは、おほかたのをばさる ものにて、とり分きて仕うまつらせたまふ。いささかもの思 し分く隙には、 「聞こゆることを、さも心うく」とのみ 恨みきこえたまへど、限りありて別れはてたまはむよりも、

目の前にわが心とやつし棄てたまはむ御ありさまを見ては、 さらに片時たふまじくのみ、惜しく悲しかるべければ、 「昔より、みづからぞかかる本意深きを、とまりてさうざう しく思されん心苦しさにひかれつつ過ぐすを、さかさまにう ち棄てたまはむとや思す」とのみ、惜しみきこえたまふに、 げにいと頼みがたげに弱りつつ、限りのさまに見えたまふを りをり多かるを、いかさまにせむ、と思しまどひつつ、宮の 御方にも、あからさまに渡りたまはず。御琴どもすさまじく て、みなひき籠められ、院の内の人々は、みなある限り二条- 院に集ひ参りて、この院には、火を消ちたるやうにて、ただ、 女どちおはして、人ひとりの御けはひなりけり、と見ゆ。  女御の君も渡りたまひて、もろともに見たてまつりあつか ひたまふ。 「ただにもおはしまさで、物の怪などいと恐 ろしきを、早く参りたまひね」と、苦しき御心地にも聞こえ たまふ。若宮のいとうつくしうておはしますを見たてまつり

たまひても、いみじく泣きたまひて、 「大人びたまはむを、 え見たてまつらずなりなむこと。忘れたまひなんかし」との たまへば、女御、せきあへず悲しと思したり。 「ゆゆしく。 かくな思しそ。さりとも、けしうはものしたまはじ。心によ りなん、人はともかくもある。おきて広き器ものには、幸ひ もそれに従ひ、狭き心ある人は、さるべきにて、高き身とな りても、ゆたかにゆるべる方は後れ、急なる人は久しく常な らず、心ぬるくなだらかなる人は、長きためしなむ多かりけ る」など、仏神にもこの御心ばせのあり難く罪軽きさまを申 しあきらめさせたまふ。  御修法の阿闍梨たち、夜居などにても、近くさぶらふ限り のやむごとなき僧などは、いとかく思しまどへる御けはひを 聞くに、いといみじく心苦しければ、心を起こして祈りきこ ゆ。すこしよろしきさまに見えたまふ時、五六日うちまぜつ つ、また重りわづらひたまふこと、いつとなくて月日を経た

まふは、なほ、いかにおはすべきにか、よかるまじき御心地 にや、と思し嘆く。御物の怪など言ひて出で来るもなし。悩 みたまふさま、そこはかと見えず、ただ日にそへて弱りたま ふさまにのみ見ゆれば、いともいとも悲しくいみじく思すに、 御心の暇もなげなり。 柏木、女三の宮を諦めず小侍従を語らう まことや、衛門督は中納言になりにきかし。 今の御世には、いと親しく思されて、いと 時の人なり。身のおぼえまさるにつけても、 思ふことのかなはぬ愁はしさを思ひわびて、この宮の御姉の 二の宮をなむ得たてまつりてける。下臈の更衣腹におはしま しければ、心やすき方まじりて思ひきこえたまへり。人柄も、 なべての人に思ひなずらふれば、けはひこよなくおはすれど、 もとよりしみにし方こそなほ深かりけれ、慰めがたき姨捨に て、人目にとがめらるまじきばかりに、もてなしきこえたま へり。

 なほ、かの下の心忘られず。小侍従といふかたらひ人は、 宮の御侍従の乳母のむすめなりけり。その乳母の姉ぞ、かの 督の君の御乳母なりければ、早くよりけ近く聞きたてまつり て、まだ宮幼くおはしましし時より、いときよらになむおは します、帝のかしづきたてまつりたまふさまなど、聞きおき たてまつりて、かかる思ひもつきそめたるなりけり。  かくて、院も離れおはしますほど、人目少なくしめやかな らむを推しはかりて、小侍従を迎へとりつつ、いみじう語ら ふ。 「昔より、かく命もたふまじく思ふことを、かかる親 しきよすがありて、御ありさまを聞き伝へ、たへぬ心のほど をも聞こしめさせて頼もしきに、さらにそのしるしのなけれ ば、いみじくなんつらき。院の上だに、かくあまたにかけか けしくて、人に圧されたまふやうにて、独り大殿籠る夜な夜 な多く、つれづれにて過ぐしたまふなりなど人の奏しけるつ いでにも、すこし悔い思したる御気色にて、同じくは、ただ

人の心やすき後見を定めむには、まめやかに仕うまつるべき 人をこそ定むべかりけれ、とのたまはせて、女二の宮のなか なかうしろやすく、行く末ながきさまにてものしたまふなる こと、とのたまはせけるを伝へ聞きしに、いとほしくも口惜 しくも、いかが思ひ乱るる。げに、同じ御筋とは尋ねきこえ しかど、それはそれとこそおぼゆるわざなりけれ」
と、うちう めきたまへば、小侍従、 「いで、あなおほけな。それをそれ とさしおきたてまつりたまひて、また、いかやうに限りなき 御心ならむ」と言へば、うちほほ笑みて、 「さこそはあり けれ。宮にかたじけなく聞こえさせ及びけるさまは、院にも 内裏にも聞こしめしけり。などてかは、さてもさぶらはざら まし、となむ事のついでにはのたまはせける。いでや、ただ、 いますこしの御いたはりあらましかば」など言へば、 「いと難き御ことなりや。御宿世とかいふことはべなるを本 にて、かの院の言に出でてねむごろに聞こえたまふに、立ち

並びさまたげきこえさせたまふべき御身のおぼえとや思され し。このごろこそ、すこしものものしく、御衣の色も深くな りたまへれ」
と言へば、言ふかひなくはやりかなる口ごはさ に、え言ひはてたまはで、 「今はよし。過ぎにし方をば聞 こえじや。ただ、かくあり難きものの隙に、け近きほどにて、 この心の中に思ふことのはしすこし聞こえさせつべくたばか りたまへ。おほけなき心は、すべて、よし見たまへ、いと 恐ろしければ、思ひ離れてはべり」とのたまへば、 「こ れよりおほけなき心は、いかがはあらむ。いとむくつけきこ とをも思し寄りけるかな。なにしに参りつらむ」と、はち ぶく。   「いで、あな聞きにく。あまりこちたくものをこそ言ひ なしたまふべけれ。世はいと定めなきものを、女御后もあ るやうありて、ものしたまふたぐひなくやは。まして、その 御ありさまよ、思へばいとたぐひなくめでたけれど、内々は

心やましきことも多かるらむ。院の、あまたの御中に、また 並びなきやうにならはしきこえたまひしに、さしも等しから ぬ際の御方々にたちまじり、めざましげなる事もありぬべく こそ。いとよく聞きはべりや。世の中はいと常なきものを、 一際に思ひ定めて、はしたなくつききりなることなのたまひ そよ」
とのたまへば、 「人におとされたまへる御ありさ まとて、めでたき方に改めたまふべきにやははべらむ。これ は世の常の御ありさまにもはべらざめり。ただ、御後見なく てただよはしくおはしまさむよりは、親ざまに、と譲りきこ えたまひしかば、かたみに、さこそ思ひかはしきこえさせた まひためれ。あいなき御おとしめ言になむ」と、はてはては 腹立つを、よろづに言ひこしらへて、 「まことは、さばか り世になき御ありさまを、見たてまつり馴れたまへる御心に、 数にもあらずあやしきなれ姿を、うちとけて御覧ぜられんと は、さらに思ひかけぬことなり。ただ、一言、物越しにて聞

こえ知らすばかりは、何ばかりの御身のやつれにかはあらむ。 仏神にも思ふこと申すは、罪あるわざかは」
と、いみじき誓- 言をしつつのたまへば、しばしこそ、いとあるまじきことに 言ひ返しけれ、もの深からぬ若人は、人のかく身にかへてい みじく思ひのたまふを、えいなびはてで、 「もし、さり ぬべき隙あらばたばかりはべらむ。院のおはしまさぬ夜は、 御帳のめぐりに人多くさぶらうて、御座のほとりに、さるべ き人必ずさぶらひたまへば、いかなるをりをかは、隙を見つ けはべるべからむ」と、わびつつ参りぬ。 柏木、小侍従の手引きで女三の宮に近づく いかにいかにと日々に責められ困じて、さ るべきをりうかがひつけて、消息しおこせ たり。よろこびながら、いみじくやつれ忍 びておはしぬ。まことに、わが心にもいとけしからぬ事なれ ば、け近く、なかなか思ひ乱るることもまさるべきことまで は思ひも寄らず、ただ、いとほのかに、御衣のつまばかりを

見たてまつりし春の夕の飽かず世とともに思ひ出でられたま ふ御ありさまをすこしけ近くて見たてまつり、思ふことをも 聞こえ知らせてば、一行の御返りなどもや見せたまふ、あは れとや思し知る、とぞ思ひける。  四月十余日ばかりのことなり。御禊、明日とて、斎院に奉 りたまふ女房十二人、ことに上臈にはあらぬ若き人わらべな ど、おのがじし物縫ひ化粧などしつつ、物見むと思ひまうく るも、とりどりに暇なげにて、御前の方しめやかにて、人し げからぬをりなりけり。近くさぶらふ按察の君も、時々通ふ 源中将せめて呼び出ださせければ、下りたる間に、ただ、こ の侍従ばかり近くはさぶらふなりけり。よきをりと思ひて、 やをら御帳の東面の御座の端に据ゑつ。さまでもあるべき 事なりやは。  宮は、何心もなく大殿籠りにけるを、近く男のけはひのす れば、院のおはすると思したるに、うちかしこまりたる気色

見せて、床の下に抱きおろしたてまつるに、物におそはるる かと、せめて見あけたまへれば、あらぬ人なりけり。あやし く聞きも知らぬことどもをぞ聞こゆるや。あさましくむくつ けくなりて、人召せど、近くもさぶらはねば、聞きつけて参 るもなし。わななきたまふさま、水のやうに汗も流れて、も のもおぼえたまはぬ気色、いとあはれにらうたげなり。 「数ならねど、いとかうしも思しめさるべき身とは、思ひた まへられずなむ。昔よりおほけなき心のはべりしを、ひたぶ るに籠めてやみはべなましかば、心の中に朽して過ぎぬべか りけるを、なかなか漏らし聞こえさせて、院にも聞こしめさ れにしを、こよなくもて離れてものたまはせざりけるに、頼 みをかけそめはべりて、身の数ならぬ一際に、人より深き心 ざしをむなしくなしはべりぬることと動かしはべりにし心な む、よろづ今はかひなきことと思ひたまへ返せど、いかばか りしみはべりにけるにか、年月にそへて、口惜しくも、つら

くも、むくつけくも、あはれにも、いろいろに深く思ひたま へまさるにせきかねて、かくおほけなきさまを御覧ぜられぬ るも、かつはいと思ひやりなく恥づかしければ、罪重き心も さらにはべるまじ」
と言ひもてゆくに、この人なりけり、と 思すに、いとめざましく恐ろしくて、つゆ答へもしたまはず。 「いとことわりなれど、世に例なきことにもはべらぬを、 めづらかに情なき御心ばへならば、いと心うくて、なかなか ひたぶるなる心もこそつきはべれ。あはれ、とだにのたまは せば、それを承りてまかでなむ」と、よろづに聞こえた まふ。  よその思ひやりはいつくしく、もの馴れて見えたてまつら むも恥づかしく推しはかられたまふに、ただかばかり思ひつ めたる片はし聞こえ知らせて、なかなかかけかけしき事はな くてやみなん、と思ひしかど、いとさばかり気高う恥づかし げにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見え

たまふ御けはひの、あてにいみじく思ゆることぞ、人に似さ せたまはざりける。さかしく思ひしづむる心もうせて、いづ ちもいづちも率て隠したてまつりて、わが身も世に経るさま ならず、跡絶えてやみなばや、とまで思ひ乱れぬ。  ただいささかまどろむともなき夢に、この手馴らしし猫の いとらうたげにうちなきて来たるを、この宮に奉らむとてわ が率て来たると思しきを、何しに奉りつらむ、と思ふほどに、 おどろきて、いかに見えつるならむ、と思ふ。  宮は、いとあさましく、現ともおぼえたまはぬに、胸ふた がりて思しおぼほるるを、 「なほ、かく、のがれぬ御宿世 の浅からざりける、と思ほしなせ。みづからの心ながらも、 うつし心にはあらずなむおぼえはべる」。かのおぼえなかり し、御簾のつまを猫の綱ひきたりし夕のことも、聞こえ出で たり。げに、さはたありけむよ、と口惜しく、契り心うき御- 身なりけり。院にも、今は、いかでかは見えたてまつらむ、

と悲しく心細くていと幼げ に泣きたまふを、いとかた じけなく、あはれ、と見た てまつりて、人の御涙をさ へのごふ袖は、いとど露け さのみまさる。  明けゆくけしきなるに、出でむ方なく、なかなかなり。 「いかがはしはべるべき。いみじく憎ませたまへば、また 聞こえさせむこともあり難きを、ただ一言御声を聞かせたま へ」と、よろづに聞こえ悩ますも、うるさくわびしくて、も ののさらに言はれたまはねば、 「はてはては、むくつけく こそなりはべりぬれ。またかかるやうはあらじ」と、いとう しと思ひきこえて、 「さらば不用なめり。身をいたづらに やはなしはてぬ。いと棄てがたきによりてこそ、かくまでも はべれ、今宵に限りはべりなむもいみじくなむ。つゆにても

御心ゆるしたまふさまならば、それにかへつるにても棄ては べりなまし」
とて、かき抱きて出づるに、はてはいかにしつ るぞ、とあきれて思さる。隅の間の屏風をひきひろげて、戸 を押し開けたれば、渡殿の南の戸の、昨夜入りしがまだ開き ながらあるに、まだ明けぐれのほどなるべし、ほのかに見た てまつらむの心あれば、格子をやをら引き上げて、 「かう、 いとつらき御心にうつし心もうせはべりぬ。すこし思ひのど めよと思されば、あはれ、とだにのたまはせよ」と、おどし きこゆるを、いとめづらかなり、と思して、ものも言はむと したまへど、わななかれて、いと若々しき御さまなり。  ただ明けに明けゆくに、いと心あわたたしくて、 「あは れなる夢語も聞こえさすべきを、かく憎ませたまへばこそ。 さりとも、いま、思しあはする事もはべりなむ」とて、のど かならず立ち出づる明けぐれ、秋の空よりも心づくしなり。   起きてゆく空も知られぬあけぐれにいづくの露のか

  かる袖なり
と、ひき出でて愁へきこゆれば、出でなむとするにすこし慰 めたまひて、   あけぐれの空にうき身は消えななん夢なりけりと   見てもやむべく とはかなげにのたまふ声の、若くをかしげなるを、聞きさす やうにて出でぬる魂は、まことに身を離れてとまりぬる心- 地す。 柏木と女三の宮それぞれ罪におののく 女宮の御もとにも参うでたまはで、大殿へ ぞ忍びておはしぬる。うち臥したれど目も あはず、見つる夢のさだかにあはむことも 難きをさへ思ふに、かの猫のありしさま、いと恋しく思ひ出 でらる。さてもいみじき過ちしつる身かな、世にあらむこと こそまばゆくなりぬれ、と恐ろしくそら恥づかしき心地して、 歩きなどもしたまはず。女の御ためはさらにもいはず、わが

心地にもいとあるまじきことといふ中にも、むくつけくおぼ ゆれば、思ひのままにもえ紛れ歩かず。帝の御妻をもとり過 ちて、事の聞こえあらむにかばかりおぼえむことゆゑは、身 のいたづらにならむ苦しくおぼゆまじ。しかいちじるき罪に は当らずとも、この院に目をそばめられたてまつらむことは、 いと恐ろしく恥づかしくおぼゆ。  限りなき女と聞こゆれど、すこし世づきたる心ばへまじり、 上はゆゑあり、児めかしきにも従はぬ下の心添ひたるこそ、 とあることかかることにうちなびき、心かはしたまふたぐひ もありけれ、これは深き心もおはせねど、ひたおもむきにも の怖ぢしたまへる御心に、ただ今しも人の見聞きつけたらむ やうにまばゆく恥づかしく思さるれば、明かき所にだにえゐ ざり出でたまはず。いと口惜しき身なりけり、とみづから思 し知るべし。  悩ましげになむとありければ、大殿聞きたまひて、いみじ

く御心を尽くしたまふ御事にうち添へて、またいかにと驚か せたまひて渡りたまへり。そこはかと苦しげなることも見え たまはず、いといたく恥ぢらひしめりて、さやかにも見あは せたてまつりたまはぬを、久しくなりぬる絶え間を恨めしく 思すにやといとほしくて、かの御心地のさまなど聞こえたま ひて、 「いまはのとぢめにもこそあれ。今さらにおろかな るさまを見えおかれじとてなん。いはけなかりしほどよりあ つかひそめて見放ちがたければ、かう、月ごろよろづを知ら ぬさまに過ぐしはべるにこそ。おのづから、このほど過ぎば、 見なほしたまひてむ」など聞こえたまふ。かく、けしきも知 りたまはぬもいとほしく心苦しく思されて、宮は、人知れず 涙ぐましく思さる。  督の君は、まして、なかなかなる心地のみまさりて、起き 臥し明かし暮らしわびたまふ。祭の日などは、物見にあらそ ひ行く君達かき連れ来て言ひそそのかせど、悩ましげにもて

なして、ながめ臥したまへり。女宮をば、かしこまりおきた るさまにもてなしきこえて、をさをさうちとけても見えたて まつりたまはず、わが方に離れゐて、いとつれづれに心細く ながめゐたまへるに、童べの持たる葵を見たまひて、   くやしくぞつみをかしけるあふひ草神のゆるせるか   ざしならぬに と思ふもいとなかなかなり。世の中静かならぬ車の音などを よそのことに聞きて、人やりならぬつれづれに、暮らしがた くおぼゆ。  女宮も、かかる気色のすさまじげさも見知られたまへば、 何ごととは知りたまはねど、恥づかしくめざましきに、もの 思はしくぞ思されける。女房なども物見にみな出でて人少 なにのどやかなれば、うちながめて、箏の琴なつかしく弾き まさぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけ れど、同じくは、いま一際及ばざりける宿世よ、となほお

ぼゆ。   もろかづら落葉をなににひろひけむ名は睦ましきか   ざしなれども と書きすさびゐたる、いとなめげなる後言なりかし。 紫の上危篤 六条御息所の死霊出現する 大殿の君は、まれまれ渡りたまひて、えふ ともたち帰りたまはず、静心なく思さるる に、 「絶え入りたまひぬ」とて人参りたれば、 さらに何ごとも思し分かれず、御心もくれて渡りたまふ。道 のほどの心もとなきに、げにかの院は、ほとりの大路まで人 たち騒ぎたり。殿の内泣きののしるけはひいとまがまがし。 我にもあらで入りたまへれば、 「日ごろはいささか隙見えた まへるを、にはかになんかくおはします」とて、さぶらふか ぎりは、我も後れたてまつらじとまどふさまども限りなし。 御修法どもの壇こぼち、僧なども、さるべきかぎりこそまか でね、ほろほろと騒ぐを見たまふに、さらば限りにこそはと

思しはつるあさましさに、何ごとかはたぐひあらむ。 「さりとも物の怪のするにこそあらめ。いと、かく、ひ たぶるにな騒ぎそ」としづめたまひて、いよいよいみじき願 どもを立て添へさせたまふ。すぐれたる験者どものかぎり召 し集めて、 「限りある御命にてこの世尽きたまひぬとも、た だ、いましばしのどめたまへ。不動尊の御本の誓ひあり。そ の日数をだにかけとどめたてまつりたまへ」と、頭よりまこ とに黒煙をたてて、いみじき心を起こして加持したてまつる。 院も、 「ただ、いま一たび目を見あはせたまへ。いとあへな く限りなりつらむほどをだにえ見ずなりにけることの悔しく 悲しきを」と思しまどへるさま、とまりたまふべきにもあら ぬを見たてまつる心地ども、ただ推しはかるべし。いみじき 御心の中を仏も見たてまつりたまふにや、月ごろさらにあら はれ出で来ぬ物の怪、小さき童に移りて呼ばひののしるほど に、やうやう生き出でたまふに、うれしくもゆゆしくも思し

騒がる。  いみじく調ぜられて、 「人はみな去りね。院一ところ の御耳に聞こえむ。おのれを、月ごろ、調じわびさせたまふ が情なくつらければ、同じくは思し知らせむと思ひつれど、 さすがに命もたふまじく身をくだきて思しまどふを見たてま つれば、今こそ、かくいみじき身を受けたれ、いにしへの心 の残りてこそかくまでも参り来たるなれば、ものの心苦しさ をえ見過ぐさでつひに現はれぬること。さらに知られじ、と 思ひつるものを」とて、髪を振りかけて泣くけはひ、ただ、昔 見たまひし物の怪のさまと見えたり。あさましくむくつけし と思ししみにしことの変らぬもゆゆしければ、この童の手を とらへてひき据ゑて、さまあしくもせさせたまはず。 「ま ことにその人か。よからぬ狐などいふなるもののたぶれたる が、亡き人の面伏せなること言ひ出づるもあなるを、たしか なる名のりせよ。また、人の知らざらむことの、心にしるく

思ひ出でられぬべからむを言へ。さてなむ、いささかにても 信ずべき」
とのたまへば、ほろほろといたく泣きて、   「わが身こそあらぬさまなれそれながらそらおぼれ   する君はきみなり いとつらし、つらし」と泣き叫ぶものから、さすがにもの恥 ぢしたるけはひ変らず、なかなかいとうとましく心うければ、 もの言はせじ、と思す。 「中宮の御ことにても、いとうれしくかたじけなしと なん、天翔りても見たてまつれど、道異になりぬれば、子の 上までも深くおぼえぬにやあらむ、なほみづからつらしと思 ひきこえし心の執なむとまるものなりける。その中にも、 生きての世に、人よりおとして思し棄てしよりも、思ふどち の御物語のついでに、心よからず憎かりしありさまをのたま ひ出でたりしなむ、いとうらめしく。今はただ亡きに思しゆ るして、他人の言ひおとしめむをだに省き隠したまへ、と

こそ思へ、とうち思ひしばかりに、かくいみじき身のけはひ なれば、かくところせきなり。この人を、深く憎しと思ひき こゆることはなけれど、まもり強く、いと御あたり遠き心地 してえ近づき参らず、御声をだにほのかになむ聞きはべる。 よし、今は、この罪軽むばかりのわざをせさせたまへ。修法 読経とののしることも、身には苦しくわびしき炎とのみまつ はれて、さらに尊きことも聞こえねば、いと悲しくなむ。中- 宮にも、このよしを伝へきこえたまへ。ゆめ御宮仕のほどに、 人ときしろひそねむ心つかひたまふな。斎宮におはしまし しころほひの御罪軽むべからむ功徳のことを、必ずせさせた まへ。いと悔しきことになむありける」
など、言ひつづくれ ど、物の怪に対ひて物語したまはむもかたはらいたければ、 封じこめて、上をば、また他方に忍びて渡したてまつりた まふ。 紫の上死去と聞き、柏木らこれを見舞う

かく、亡せたまひにけりといふこと世の中 に満ちて、御とぶらひに聞こえたまふ人々 あるを、いとゆゆしく思す。今日のかへさ 見に出でたまひける上達部など、帰りたまふ道に、かく人の 申せば、 「いといみじき事にもあるかな。生けるかひありつ る幸ひ人の光うしなふ日にて、雨はそぼ降るなりけり」と、 うちつけ言したまふ人もあり。また、 「かく足らひぬる人は 必ずえ長からぬことなり。『何を桜に』といふ古言もあるは。 かかる人のいとど世にながらへて、世の楽しびを尽くさば、 かたはらの人苦しからむ。今こそ、二品の宮は、もとの御お ぼえあらはれたまはめ。いとほしげにおされたりつる御おぼ えを」など、うちささめきけり。  衛門督、昨日、暮らしがたかりしを思ひて、今日は、御- 弟ども、左大弁、藤宰相など奥の方に乗せて見たまひけり。 かく言ひあへるを聞くにも胸うちつぶれて、 「何かうき世

に久しかるべき」
と、うち誦じ独りごちて、かの院へみな参 りたまふ。たしかならぬことなればゆゆしくやとて、ただ、 おほかたの御とぶらひに参りたまへるに、かく人の泣き騒げ ば、まことなりけり、とたち騒ぎたまへり。  式部卿宮も渡りたまひて、いといたく思しほれたるさまに てぞ入りたまふ。人の御消息もえ申し伝へたまはず。大将の 君、涙を拭ひて立ち出でたまへるに、 「いかに、いかに。 ゆゆしきさまに人の申しつれば、信じがたきことにてなむ。 ただ、久しき御悩みを承り嘆きて参りつる」などのたまふ。 「いと重くなりて、月日経たまへるを、この暁より絶え入 りたまへりつるを。物の怪のしたるになむありける。やうや う生き出でたまふやうに聞きなしはべりて、今なむ皆人心し づむめれど、まだいと頼もしげなしや。心苦しきことにこ そ」とて、まことにいたく泣きたまへるけしきなり。目もす こし腫れたり。衛門督、わがあやしき心ならひにや、この君

の、いとさしも親しからぬ継母の御事にいたく心しめたまへ るかな、と目をとどむ。  かく、これかれ参りたまへるよし聞こしめして、 「重き 病者のにはかにとぢめつるさまなりつるを、女房などは心も えをさめず、乱りがはしく騒ぎはべりけるに、みづからも、 えのどめず心あわたたしきほどにてなむ。ことさらになむ、 かくものしたまへるよろこびは聞こゆべき」とのたまへり。 督の君は胸つぶれて、かかるをりのらうろうならずはえ参る まじく、けはひ恥づかしく思ふも、心の中ぞ腹ぎたなかり ける。  かく、生き出でたまひての後しも、恐ろしく思して、また またいみじき法どもを尽くして加へ行はせたまふ。うつし人 にてだに、むくつけかりし人の御けはひの、まして世かはり、 あやしきもののさまになりたまへらむを思しやるに、いと心 うければ、中宮をあつかひきこえたまふさへぞ、このをりは

ものうく、言ひもてゆけば、女の身はみな同じ罪深きもとゐ ぞかしと、なべての世の中いとはしく、かの、また、人も聞 かざりし御仲の睦物語にすこし語り出でたまへりしことを言 ひ出でたりしに、まことと思し出づるに、いとわづらはしく 思さる。  御髪おろしてむ、と切に思したれば、忌むことの力もやと て、御頂しるしばかりはさみて、五戒ばかり受けさせたて まつりたまふ。御戒の師、忌むことのすぐれたるよし仏に申 すにも、あはれに尊き言まじりて、人わるく御かたはらに添 ひゐたまひて、涙おし拭ひたまひつつ、仏を諸心に念じきこ えたまふさま、世にかしこくおはする人も、いとかく御心ま どふことに当りてはえしづめたまはぬわざなりけり。いかな るわざをして、これを救ひ、かけとどめたてまつらむとのみ 夜昼思し嘆くに、ほれぼれしきまで、御顔もすこし面痩せた まひにたり。 紫の上小康を得、源氏、女三の宮を見舞う

五月などは、まして、晴々しからぬ空のけ しきにえさはやぎたまはねど、ありしより はすこしよろしきさまなり。されど、なほ 絶えず悩みわたりたまふ。物の怪の罪救ふべきわざ、日ごと に法華経一部づつ供養ぜさせたまふ。日ごとに、何くれと尊 きわざせさせたまふ。御枕上近くても、不断の御読経、声 尊きかぎりして読ませたまふ。現はれそめては、をりをり悲 しげなることどもを言へど、さらにこの物の怪去りはてず。 いとど暑きほどは息も絶えつついよいよのみ弱りたまへば、 言はむ方なく思し嘆きたり。亡きやうなる御心地にも、かか る御気色を心苦しく見たてまつりたまひて、世の中に亡くな りなんも、わが身にはさらに口惜しきこと残るまじけれど、 かく思しまどふめるに、むなしく見なされたてまつらむがい と思ひ隈なかるべければ、思ひ起こして御湯などいささかま ゐるけにや、六月になりてぞ時々御ぐしもたげたまひける。

めづらしく見たてまつりたまふにも、なほいとゆゆしくて、 六条院にはあからさまにもえ渡りたまはず。  姫宮は、あやしかりし事を思し嘆きしより、やがて例のさ まにもおはせず悩ましくしたまへど、おどろおどろしくはあ らず。立ちぬる月より物聞こしめさで、いたく青みそこなは れたまふ。かの人は、わりなく思ひあまる時々は夢のやうに 見たてまつりけれど、宮は、尽きせずわりなきことに思した り。院をいみじく怖ぢきこえたまへる御心に、ありさまも人 のほども等しくだにやはある。いたくよしめき、なまめきた れば、おほかたの人目にこそ、なべての人にはまさりてめで らるれ、幼くよりさるたぐひなき御ありさまにならひたまへ る御心には、めざましくのみ見たまふほどに、かく悩みわた りたまふはあはれなる御宿世にぞありける。御乳母たち見た てまつりとがめて、院の渡らせたまふこともいとたまさかな るをつぶやき恨みたてまつる。

 かく悩みたまふ、と聞こしめしてぞ渡りたまふ。女君は、 暑くむつかしとて、御髪すまして、すこしさはやかにもてな したまへり。臥しながらうちやりたまへりしかば、とみにも 乾かねど、つゆばかりうちふくみまよふ筋もなくて、いとき よらにゆらゆらとして、青み衰へたまへるしも、色は真青に 白くうつくしげに、透きたるやうに見ゆる御膚つきなど、世 になくらうたげなり。もぬけたる虫の殻などのやうに、まだ いとただよはしげにおはす。年ごろ住みたまはで、すこし荒 れたりつる院の内、たとしへなく狭げにさへ見ゆ。昨日今日 かくものおぼえたまふ隙にて、心ことに繕はれたる遣水前栽 の、うちつけに心地よげなるを見出だしたまひても、あはれ に今まで経にけるを思ほす。  池はいと涼しげにて、蓮の花の咲きわたれるに、葉はいと 青やかにて、露きらきらと玉のやうに見えわたるを、 「か れ見たまへ。おのれ独りも涼しげなるかな」とのたまふに、

起き上りて見出だしたまへるもいとめづらしければ、 「か くて見たてまつるこそ夢の心地すれ。いみじく、わが身さへ 限りとおぼゆるをりをりのありしはや」と、涙を浮けてのた まへば、みづからもあはれに思して、   消えとまるほどやは経べきたまさかに蓮のつゆの   かかるばかりを とのたまふ。   契りおかむこの世ならでも蓮葉に玉ゐる露のこころ   へだつな  出でたまふ方ざまはものうけれど、内裏にも院にも聞こし めさむところあり、悩みたまふと聞きてもほど経ぬるを、目 に近きに心をまどはしつるほど、見たてまつることもをさを さなかりつるに、かかる雲間にさへやは絶え籠らむ、と思し たちて渡りたまひぬ。  宮は、御心の鬼に、見えたてまつらむも恥づかしうつつま

しく思すに、ものなど聞こえたまふ御答へも聞こえたまはね ば、日ごろのつもりを、さすがにさりげなくてつらしと思し ける、と心苦しければ、とかくこしらへきこえたまふ。大人 びたる人召して、御心地のさまなど問ひたまふ。 「例のさま ならぬ御心地になむ」とわづらひたまふ御ありさまを聞こゆ。 「あやしく。ほど経てめづらしき御事にも」とばかりのた まひて、御心の中には、年ごろ経ぬる人々だにもさることな きを、不定なる御事にもや、と思せば、ことにともかくもの たまひあへしらひたまはで、ただうち悩みたまへるさまのい とらうたげなるを、あはれ、と見たてまつりたまふ。  からうじて思したちて渡りたまひしかば、ふともえ帰りた まはで、二三日おはするほど、いかに、いかに、とうしろめ たく思さるれば、御文をのみ書き尽くしたまふ。 「いつの間 につもる御言の葉にかあらむ。いでや、安からぬ世をも見る かな」と、若君の御過ちを知らぬ人は言ふ。侍従ぞ、かかる

につけても胸うち騒ぎける。  かの人も、かく渡りたまへりと聞くに、おほけなく心あや まりして、いみじきことどもを書きつづけておこせたまへり。 対に、あからさまに渡りたまへるほどに、人間なりければ、 忍びて見せたてまつる。 「むつかしき物見するこそい と心うけれ。心地のいとどあしきに」とて臥したまへれば、 「なほ、ただ。このはしがきのいとほしげにはべるぞや」 とてひろげたれば、人の参るにいと苦しくて、御几帳ひき寄 せて去りぬ。いとど胸つぶるるに、院入りたまへば、えよく も隠したまはで、御褥の下にさしはさみたまひつ。  夜さりつ方、二条院へ渡りたまはむとて、御暇聞こえた まふ。 「ここには、けしうはあらず見えたまふを、まだい とただよはしげなりしを見棄てたるやうに思はるるも、今さ らにいとほしくてなむ。ひがひがしく聞こえなす人ありとも、 ゆめ心おきたまふな。いま見なほしたまひてむ」と語らひた

まふ。例は、なまいはけなき戯れ言などもうちとけ聞こえた まふを、いたくしめりて、さやかにも見あはせたてまつりた まはぬを、ただ世の恨めしき御気色と心得たまふ。昼の御座 にうち臥したまひて、御物語など聞こえたまふほどに暮れに けり。すこし大殿籠り入りにけるに、蜩のはなやかに鳴くに おどろきたまひて、 「さらば、道たどたどしからぬほど に」とて、御衣など奉りなほす。 「月待ちて、とも言 ふなるものを」と、いと若やかなるさましてのたまふは憎か らずかし。 「その間にも」とや思すと、心苦しげに思して立 ちとまりたまふ。    夕露に袖ぬらせとやひぐらしの鳴くを聞く聞く起   きて行くらむ 片なりなる御心にまかせて言ひ出でたまへるもらうたければ、 ついゐて、 「あな苦しや」とうち嘆きたまふ。    待つ里もいかが聞くらんかたがたに心さわがすひぐ

  らしのこゑ
など思しやすらひて、なほ情なからむも心苦しければとまり たまひぬ。静心なくさすがにながめられたまひて、御くだも のばかりまゐりなどして大殿籠りぬ。 源氏に柏木の文を発見され女三の宮泣く まだ朝涼みのほどに渡りたまはむとて、と く起きたまふ。 「昨夜のかはほりを落し て。これは風ぬるくこそありけれ」とて、 御扇置きたまひて、昨日うたたねしたまへりし御座のあた りを立ちとまりて見たまふに、御褥のすこしまよひたるつま より、浅緑の薄様なる文の押しまきたる端見ゆるを、何心も なく引き出でて御覧ずるに、男の手なり。紙の香などいと艶 に、ことさらめきたる書きざまなり。二重ねにこまごまと書 きたるを見たまふに、紛るべき方なくその人の手なりけり、 と見たまひつ。御鏡などあけてまゐらする人は、見たまふ文 にこそはと心も知らぬに、小侍従見つけて、昨日の文の色と

見るに、いといみじく胸つぶつぶと鳴る心地す。御粥などま ゐる方に目も見やらず、 「いで、さりとも、それにはあらじ。 いといみじく。さることはありなんや。隠いたまひてけむ」 と思ひなす。宮は、何心もなく、まだ大殿籠れり。 「あない はけな。かかる物を散らしたまひて。我ならぬ人も見つけた らましかば」と思すも、心劣りして、 「さればよ。いとむげ に心にくきところなき御ありさまをうしろめたしとは見るか し」と思す。  出でたまひぬれば人々すこし散れぬるに、侍従寄りて、 「昨日の物はいかがせさせたまひてし。今朝、院の御覧 じつる文の色こそ似てはべりつれ」と聞こゆれば、あさまし と思して、涙のただ出で来に出で来れば、いとほしきものか ら、言ふかひなの御さまや、と見たてまつる。 「いづく にかは置かせたまひてし。人々の参りしに、事あり顔に近く さぶらはじと、さばかりの忌をだに、心の鬼に避りはべしを、

入らせたまひしほどは、すこしほど経はべりにしを、隠させ たまひつらむとなむ思ひたまへし」
と聞こゆれば、 「いさとよ。見しほどに入りたまひしかば、ふともえ置きあ へでさしはさみしを、忘れにけり」とのたまふに、いと聞こ えむ方なし。寄りて見ればいづくのかはあらむ。 「あな いみじ。かの君もいといたく怖ぢ憚りて、けしきにても漏り 聞かせたまふことあらば、とかしこまりきこえたまひしもの を。ほどだに経ず、かかる事の出でまうで来るよ。すべてい はけなき御ありさまにて、人にも見えさせたまひければ、年 ごろさばかり忘れがたく、恨み言ひわたりたまひしかど、か くまで思ひたまへし御ことかは。誰が御ためにもいとほしく はべるべきこと」と、憚りもなく聞こゆ。心やすく若くおは すれば、馴れきこえたるなめり。答へもしたまはで、ただ泣 きにのみぞ泣きたまふ。いと悩ましげにて、つゆばかりの物 も聞こしめさねば、 「かく悩ましくせさせたまふを、見おき

たてまつりたまひて、今は、おこたりはてたまひにたる御あ つかひに、心を入れたまへること」
と、つらく思ひ言ふ。 源氏、密通の事情を知り、思案憂悶する 大殿は、この文のなほあやしく思さるれば、 人見ぬ方にて、うち返しつつ見たまふ。さ ぶらふ人々の中に、かの中納言の手に似た る手して書きたるか、とまで思し寄れど、言葉づかひきらき らと紛ふべくもあらぬことどもあり。年を経て思ひわたりけ ることの、たまさかに本意かなひて、心やすからぬ筋を書き 尽くしたる言葉、いと見どころありてあはれなれど、 「いと かくさやかに書くべしや。あたら、人の、文をこそ思ひやり なく書きけれ。落ち散ることもこそと思ひしかば、昔、かや うにこまかなるべきをりふしにも、言そぎつつこそ書き紛ら はししか。人の深き用意は難きわざなりけり」と、かの人の 心をさへ見おとしたまひつ。 「さても、この人をばいかがもてなしきこゆべき。めづらし

きさまの御心地もかかる事の紛れにてなりけり。いで、あな、 心うや。かく人づてならずうきことを知る知る、ありしなが ら見たてまつらむよ」
と、わが御心ながらも、え思ひなほす まじくおぼゆるを、 「なほざりのすさびと、はじめより心を  とどめぬ人だに、また異ざまの心分くらむと思ふは心づきな く思ひ隔てらるるを、まして、これは、さま異に、おほけな き人の心にもありけるかな。帝の御妻をもあやまつたぐひ、 昔もありけれど、それは、また、いふ方異なり。宮仕といひ て、我も人も同じ君に馴れ仕うまつるほどに、おのづからさ るべき方につけても心をかはしそめ、ものの紛れ多かりぬべ きわざなり。女御更衣といへど、とある筋かかる方につけて かたほなる人もあり。心ばせ必ず重からぬうちまじりて、思 はずなる事もあれど、おぼろけの定かなる過ち見えぬほどは、 さてもまじらふやうもあらむに、ふとしもあらはならぬ紛れ ありぬべし。かくばかりまたなきさまにもてなしきこえて、

内々の心ざし引く方よりも、いつくしくかたじけなきものに 思ひはぐくまむ人をおきて、かかる事はさらにたぐひあら じ」
と爪弾きせられたまふ。 「帝と聞こゆれど、ただ素直に、公ざまの心ばへばかりにて、 宮仕のほどもものすさまじきに、心ざし深き私のねぎ言にな びき、おのがじしあはれを尽くし、見過ぐしがたきをりの答 へをも言ひそめ、自然に心通ひそむらん仲らひは、同じけし からぬ筋なれど、寄る方ありや。わが身ながらも、さばかり の人に心分けたまふべくはおぼえぬものを」と、いと心づき なけれど、また気色に出だすべきことにもあらずなど思し乱 るるにつけて、 「故院の上も、かく、御心には知ろしめして や、知らず顔をつくらせたまひけむ。思へば、その世の事こ そは、いと恐ろしくあるまじき過ちなりけれ」と、近き例を 思すにぞ、恋の山路はえもどくまじき御心まじりける。 源氏・女三の宮・柏木それぞれ苦悶する

つれなしづくりたまへど、もの思し乱るる さまのしるければ、女君、消え残りたるい とほしみに渡りたまひて、人やりならず心 苦しう思ひやりきこえたまふにや、と思して、 「心地は よろしくなりにてはべるを、かの宮の悩ましげにおはすらむ に、とく渡りたまひにしこそいとほしけれ」と聞こえたまへ ば、 「さかし。例ならず見えたまひしかど、異なる心地に もおはせねば、おのづから心のどかに思ひてなむ。内裏より は、たびたび御使ありけり。今日も御文ありつとか。院のい とやむごとなく聞こえつけたまへれば、上もかく思したるな るべし。すこしおろかになどもあらむは、こなたかなた思さ むことのいとほしきぞや」とて、うめきたまへば、 「内- 裏の聞こしめさむよりも、みづから恨めしと思ひきこえたま はむこそ、心苦しからめ。我は思しとがめずとも、よからぬ さまに聞こえなす人々必ずあらむと思へば、いと苦しくな

む」
などのたまへば、 「げに、あながちに思ふ人のために は、わづらはしきよすがなけれど、よろづにたどり深きこと。 とやかくやと、おほよそ人の思はむ心さへ思ひめぐらさるる を、これは、ただ、国王の御心やおきたまはむ、とばかりを 憚らむは、浅き心地ぞしける」と、ほほ笑みてのたまひ紛ら はす。渡りたまはむことは、 「もろともに帰りてを、心の どかにあらむ」とのみ聞こえたまふを、 「ここには、し ばし、心やすくてはべらん。まづ、渡りたまひて、人の御心 も慰みなむほどにを」と聞こえかはしたまふほどに、日ごろ 経ぬ。  姫宮は、かく渡りたまはぬ日ごろの経るも、人の御つらさ にのみ思すを、今は、わが御怠りうちまぜてかくなりぬると 思すに、院も聞こしめしつけていかに思しめさむと、世の中 つつましくなむ。  かの人も、いみじげにのみ言ひわたれども、小侍従も、わ

づらはしく思ひ嘆きて、 「かかる事なむありし」と告げてけ れば、いとあさましく、いつのほどにさる事出で来けむ、か かることは、あり経れば、おのづからけしきにても漏り出づ るやうもや、と思ひしだにいとつつましく、空に目つきたる やうにおぼえしを、まして、さばかり違ふべくもあらざりし ことどもを見たまひてけむ、恥づかしく、かたじけなく、か たはらいたきに、朝夕涼みもなきころなれど、身も凍むる心- 地して、言はむ方なくおぼゆ。 「年ごろ、まめ事にもあだ事 にも召しまつはし、参り馴れつるものを。人よりはこまやか に思しとどめたる御気色のあはれになつかしきを、あさまし くおほけなきものに心おかれたてまつりては、いかでかは目 をも見あはせたてまつらむ。さりとて、かき絶えほのめき参 らざらむも人目あやしく、かの御心にも思しあはせむことの いみじさ」などやすからず思ふに、心地もいと悩ましくて、 内裏へも参らず。さして重き罪には当るべきならねど、身の

いたづらになりぬる心地すれば、さればよと、かつはわが心 もいとつらくおぼゆ。 「いでや、静やかに心にくきけはひ見えたまはぬわたりぞや。 まづは、かの御簾のはさまも、さるべき事かは。軽々しと大- 将の思ひたまへる気色見えきかし」など、今ぞ思ひあはする、 しひて、この事を思ひさまさむと思ふ方にて、あながちに難 つけたてまつらまほしきにやあらむ。 「よきやうとても、あ まりひたおもむきにおほどかにあてなる人は、世のありさま も知らず、かつさぶらふ人に心おきたまふこともなくて、か くいとほしき御身のためも、人のためも、いみじきことにも あるかな」と、かの御ことの心苦しさも、え思ひ放たれたま はず。 源氏、女三の宮と玉鬘との人柄を比べる 宮は、いとらうたげにて悩みわたりたまふ さまのなほいと心苦しく、かく思ひ放ちた まふにつけては、あやにくに、うきに紛れ

ぬ恋しさの苦しく思さるれば、渡りたまひて見たてまつり たまふにつけても、胸いたくいとほしく思さる。御祈祷など さまざまにせさせたまふ。おほかたの事はありしに変らず、 なかなかいたはしくやむごとなくもてなしきこゆるさまを増 したまふ。け近くうち語らひきこえたまふさまは、いとこよ なく御心隔たりてかたはらいたければ、人目ばかりをめやす くもてなして、思しのみ乱るるに、この御心の中しもぞ苦し かりける。さること見き、ともあらはしきこえたまはぬに、 みづからいとわりなく思したるさまも心幼し。 「いとかくお はするけぞかし。よきやう、といひながら、あまり心もとな く後れたる、頼もしげなきわざなり」と思すに、世の中なべ てうしろめたく、 「女御の、あまりやはらかにおびれたまへ るこそ、かやうに心かけきこえむ人は、まして心乱れなむか し。女はかうはるけどころなくなよびたるを、人もあなづら はしきにや、さるまじきにふと目とまり、心強からぬ過ちは

し出づるなりけり」
と思す。 「右大臣の北の方の、とり立てたる後見もなく、幼くよりも のはかなき世にさすらふるやうにて生ひ出でたまひけれど、 かどかどしく労ありて、我もおほかたには親めきしかど、憎 き心の添はぬにしもあらざりしを、なだらかにつれなくもて なして過ぐし、この大臣の、さる無心の女房に心あはせて入 り来たりけんにも、けざやかにもて離れたるさまを人にも見 え知られ、ことさらにゆるされたるありさまにしなして、わ が心と罪あるにはなさずなりにしなど、今思へば、いかにか どある事なりけり。契り深き仲なりければ、長くかくてたも たむことは、とてもかくても同じごとあらましものから、心 もてありしこととも、世人も思ひ出でば、すこし軽々しき思 ひ加はりなまし、いといたくもてなしてしわざなり」と思し 出づ。 尚侍の出家につけ源氏、紫の上に昔を語る

二条の尚侍の君をば、なほ絶えず思ひ出で きこえたまへど、かくうしろめたき筋のこ とうきものに思し知りて、かの御心弱さも すこし軽く思ひなされたまひけり。つひに御本意の事したま ひてけり、と聞きたまひては、いとあはれに口惜しく御心動 きて、まづとぶらひきこえたまふ。今なむ、とだににほはし たまはざりけるつらさを浅からず聞こえたまふ。   「あまの世をよそに聞かめや須磨の浦にもしほたれし   も誰ならなくに さまざまなる世の定めなさを心に思ひつめて、今まで後れき こえぬる口惜しさを、思し棄てつとも、避りがたき御回向の 中にはまづこそは、とあはれになむ」など、多く聞こえたま へり。とく思し立ちにしことなれど、この御妨げにかかづら ひて、人にはしかあらはしたまはぬことなれど、心の中あは れに、昔よりつらき御契りをさすがに浅くしも思し知られぬ

など、方々に思し出でらる。御返り、今はかくしも通ふまじ き御文のとぢめ、と思せば、あはれにて、心とどめて書きた まふ。墨つきなどいとをかし。 「常なき世とは身ひとつに のみ知りはべりにしを、後れぬ、とのたまはせたるになむ、 げに、 あま舟にいかがはおもひおくれけんあかしの浦にいさり  せし君 回向には、あまねきかどにても、いかがは」とあり。濃き青- 鈍の紙にて、樒にさしたまへる、例の事なれど、いたく過ぐ したる筆づかひ、なほ旧りがたくをかしげなり。  二条院におはしますほどにて、女君にも、今はむげに絶え ぬることにて、見せたてまつりたまふ。 「いといたくこそ 辱づかしめられたれ。げに心づきなしや。さまざま心細き世 の中のありさまを、よく見過ぐしつるやうなるよ。なべての 世のことにても、はかなくものを言ひかはし、時々によせて

あはれをも知り、ゆゑをも過ぐさず、よそながらの睦びかは しつべき人は、斎院とこの君とこそは残りありつるを、かく みな背きはてて、斎院、はた、いみじう勤めて、紛れなく行 ひにしみたまひにたなり。なほ、ここらの人のありさまを聞 き見る中に、深く思ふさまに、さすがになつかしきことの、 かの人の御なずらひにだにもあらざりけるかな。女子を生ほ したてむことよ、いと難かるべきわざなりけり。宿世などい ふらむものは目に見えぬわざにて、親の心にまかせ難し。 生ひたたむほどの心づかひは、なほ力入るべかめり。よくこ そあまた方々に、心を乱るまじき契りなりけれ。年深くいら ざりしほどは、さうざうしのわざや、さまざまに見ましかば となむ、嘆かしきをりをりありし。若宮を心して生ほしたて たてまつりたまへ。女御は、ものの心を深く知りたまふほど ならで、かく暇なきまじらひをしたまへば、何ごとも心もと なき方にぞものしたまふらん。皇女たちなむ、なほ飽くかぎ

り人に点つかるまじくて、世をのどかに過ぐしたまはむに、 うしろめたかるまじき心ばせ、つけまほしきわざなりける。 限りありて、とざまかうざまの後見まうくるただ人は、おの づからそれにも助けられぬるを」
など聞こえたまへば、 「はかばかしきさまの御後見ならずとも、世にながらへんか ぎりは、見たてまつらぬやうあらじ、と思ふを、いかなら む」とて、なほものを心細げにて、かく心にまかせて、行ひ をもとどこほりなくしたまふ人々を、うらやましく思ひきこ えたまへり。   「尚侍の君に、さま変りたまへらむ装束など、まだ裁ち 馴れぬほどはとぶらふべきを、袈裟などはいかに縫ふものぞ。 それせさせたまへ。一領は、六条の東の君にものしつけむ。 うるはしき法服だちては、うたて見目もけうとかるべし。さ すがに、その心ばへ見せてを」など聞こえたまふ。青鈍の 一領をここにはせさせたまふ。作物所の人召して、忍びて、

尼の御具どものさるべき はじめのたまはす。御褥、 上席*、屏風、几帳などの ことも、いと忍びて、わ ざとがましくいそがせた まひけり。 御賀また延期 院、女三の宮に消息する かくて、山の帝の御賀も延びて、秋とあり しを、八月は、大将の御忌月にて、楽所の こと行ひたまはむに便なかるべし、九月は、 院の大后の崩れたまひにし月なれば、十月に、と思しまうく るを、姫宮いたく悩みたまへば、また延びぬ。衛門督の御あ づかりの宮なむ、その月には参りたまひける。太政大臣ゐた ちて、いかめしく、こまかに、もののきよら、儀式を尽くし たまへりけり。督の君も、そのついでにぞ、思ひ起こして出 でたまひける。なほ悩ましく、例ならず病づきてのみ過ぐし

たまふ。  宮もうちはへて、ものをつつましく、いとほしとのみ思し 嘆くけにやあらむ、月多く重なりたまふままに、いと苦しげ におはしませば、院は、心憂しと思ひきこえたまふ方こそあ れ、いとらうたげにあえかなるさまして、かく悩みわたりた まふを、いかにおはせむと嘆かしくて、さまざまに思し嘆く。 御祈祷など、今年は、紛れ多くて過ぐしたまふ。  御山にも聞こしめして、らうたく恋しと思ひきこえたまふ。 月ごろかくほかほかにて、渡りたまふこともをさをさなきや うに人の奏しければ、いかなるにかと御胸つぶれて、世の中 も今さらに恨めしく思して、対の方のわづらひけるころは、 なほ、そのあつかひに、と聞こしめしてだに、なま安からざ りしを、 「その後なほり難くものしたまふらむは、そのころ ほひ便なき事や出で来たりけむ。みづから知りたまふことな らねど、よからぬ御後見どもの心にて、いかなる事かありけ

む。内裏わたりなどのみやびをかはすべき仲らひなどにも、 けしからずうきこと言ひ出づるたぐひも聞こゆかし」
とさへ 思し寄るも、こまやかなること思し棄ててし世なれど、なほ、 この道は離れがたくて、宮に御文こまやかにてありけるを、 大殿おはしますほどにて見たまふ。    そのこととなくて、しばしばも聞こえぬほどに、   おぼつかなくてのみ年月の過ぐるなむあはれなりける。   悩みたまふなるさまは、くはしく聞きし後、念誦のつい   でにも思ひやらるるは。いかが、世の中さびしく、思は   ずなる事ありとも、忍び過ぐしたまへ。恨めしげなる気-   色など、おぼろけにて見知り顔にほのめかす、いと品お   くれたるわざになむ。 など、教へきこえたまへり。  いといとほしく心苦しく、かかる内々のあさましきをば聞 こしめすべきにはあらで、わが怠りに本意なくのみ聞き思す

らんことをとばかり思しつづけて、 「この御返りをばいか が聞こえたまふ。心苦しき御消息に、まろこそいと苦しけ れ。思はずに思ひきこゆる事ありとも、おろかに人の見とが むばかりはあらじとこそ思ひはべれ。誰が聞こえたるにかあ らむ」とのたまふに、恥ぢらひて背きたまへる御姿もいとら うたげなり。いたく面痩せて、もの思ひ屈したまへる、いと どあてにをかし。 源氏女三の宮を訓戒 柏木源氏に近づかず 「いと幼き御心ばへを見おきたまひて、 いたくはうしろめたがりきこえたまふなり けりと、思ひあはせたてまつれば、今より 後もよろづになむ。かうまでもいかで聞こえじ、と思へど、 上の御心に背くと聞こしめすらんことの安からずいぶせきを、 ここにだに聞こえ知らせでやは、とてなむ。至り少なく、た だ人の聞こえなす方にのみ寄るべかめる御心には、ただお ろかに浅きとのみ思し、また、今は、こよなくさだすぎにた

るありさまも、あなづらはしく目馴れてのみ見なしたまふら むも、方々に口惜しくも、うれたくもおぼゆるを、院のおは しまさむほどは、なほ心をさめて、かの思しおきてたるやう ありけむ、さだすぎ人をも、同じくなずらへきこえて、いた くな軽めたまひそ。いにしへより本意深き道にも、たどり薄 かるべき女方にだにみな思ひ後れつつ、いとぬるきこと多か るを、みづからの心には、何ばかり思ひ迷ふべきにはあらね ど、今はと棄てたまひけむ世の後見におきたまへる御心ばへ のあはれにうれしかりしを、ひきつづき、争ひきこゆるやう にて、同じさまに見棄てたてまつらむことのあへなく思され んにつつみてなむ。心苦し、と思ひし人々も、今は、かけと どめらるる絆ばかりなるもはべらず。女御も、かくて行く末 は知りがたけれど、御子たち数そひたまふめれば、みづから の世だにのどけくはと見おきつべし。その外は、誰も誰も、 あらむに従ひて、もろともに身を棄てむも惜しかるまじき齢

どもになりにたるを、やうやう涼しく思ひはべる。院の御世 の残り久しくもおはせじ。いとあつしくいとどなりまさりた まひて、もの心細げにのみ思したるに、今さらに思はずなる 御名漏り聞こえて、御心乱りたまふな。この世はいと安し。 事にもあらず。後の世の御道の妨げならむも、罪いと恐ろし からむ」
など、まほにその事とは明かしたまはねど、つくづ くと聞こえつづけたまふに、涙のみ落ちつつ、我にもあらず 思ひしみておはすれば、我もうち泣きたまひて、 「人の上 にてももどかしく聞き思ひし古人のさかしらよ、身にかは ることにこそ。いかに、うたての翁やと、むつかしくうるさ き御心添ふらん」と、恥ぢたまひつつ、御硯ひき寄せたまひ て、手づからおし磨り、紙とりまかなひ、書かせたてまつり たまへど、御手もわななきて、え書きたまはず。かのこまか なりし返り事は、いとかくしもつつまず、通はしたまふらむ かしと思しやるに、いと憎ければ、よろづのあはれもさめぬ

べけれど、言葉など教へて書かせたてまつりたまふ。 参りたまはむことは、この月かくて過ぎぬ。二の宮の御- 勢ことにて参りたまひけるを、古めかしき御身ざまにて、 立ち並び顔ならむも憚りある心地しけり。 「十一月はみづ からの忌月なり。年の終り、はた、いともの騒がし。また、 いとどこの御姿も見苦しく、待ち見たまはんをと思ひはべれ ど、さりとてさのみ延ぶべき事にやは。むつかしくもの思し 乱れず、あきらかにもてなしたまひて、このいたく面痩せた まへるつくろひたまへ」など、いとらうたしと、さすがに見 たてまつりたまふ。 衛門督をば、何ざまの事にも、ゆゑあるべきをりふしには、 必ずことさらにまつはしたまひつつのたまはせあはせしを、 絶えてさる御消息もなし。人、あやしと思ふらんと思せど、 見むにつけても、いとどほれぼれしき方恥づかしく、見むに は、また、わが心もただならずや、と思し返されつつ、やが

て、月ごろ参りたまはぬをも咎めなし。おほかたの人は、な ほ例ならず悩みわたりて、院に、はた、御遊びなどなき年な れば、とのみ思ひわたるを、大将の君ぞ、 「あるやうあるこ となるべし。すき者はさだめて、わが気色とりしことには忍 ばぬにやありけむ」と思ひ寄れど、いとかく定かに残りなき さまならむとは思ひ寄りたまはざりけり。 御賀の試楽柏木ようやく源氏のもとに参上 十二月になりにけり。十余日と定めて、舞 ども馴らし、殿の内ゆすりてののしる。二- 条院の上は、まだ渡りたまはざりけるを、 この試楽によりぞ、えしづめはてで渡りたまへる。女御の君 も里におはします。このたびの御子は、また男にてなむおは しましける。すぎすぎいとをかしげにておはするを、明け暮 れもてあそびたてまつりたまふになむ、過ぐる齢のしるし、 うれしく思されける。試楽に、右大臣殿の北の方も渡りたま へり。大将の君、丑寅の町にて、まづ内々に、調楽のやうに

明け暮れ遊び馴らしたまひければ、かの御方は御前のものは 見たまはず。  衛門督を、かかる事のをりもまじらはせざらむは、いとは えなくさうざうしかるべき中に、人、あやし、とかたぶきぬ べきことなれば、参りたまふべきよしありけるを、重くわづ らふよし申して参らず。さるは、そこはかと苦しげなる病に もあらざなるを、思ふ心のあるにや、と心苦しく思して、と り分きて御消息遣はす。父大臣も、 「などか、返さひ申され ける。ひがひがしきやうに、院にも聞こしめさむを、おどろ おどろしき病にもあらず、助けて参りたまへ」とそそのかし たまふに、かく重ねてのたまへれば、苦し、と思ふ思ふ参 りぬ。  まだ、上達部なども集ひたまはぬほどなりけり。例の、け 近き御簾の内に入れたまひて、母屋の御簾おろしておはしま す。げに、いといたく痩せ痩せに青みて、例も、誇りかに華

やぎたる方は、弟の君たちにはもて消たれて、いと用意あり 顔にしづめたるさまぞことなるを、いとどしづめてさぶらひ たまふさま、などかは皇女たちの御傍にさし並べたらむに さらに咎あるまじきを、ただ事のさまの、誰も誰も、いと思 ひやりなきこそいと罪ゆるしがたけれなど御目とまれど、さ りげなく、いとなつかしく、 「その事となくて、対面もい と久しくなりにけり。月ごろは、いろいろの病者を見あつか ひ、心の暇なきほどに、院の御賀のため、ここにものしたま ふ皇女の、法事仕うまつりたまふべくありしを、次々とどこ ほること繁くて、かく年もせめつれば、え思ひのごとくしあ へで、型のごとくなん斎の御鉢まゐるべきを、御賀などいへ ば、ことごとしきやうなれど、家に生ひ出づる童べの数多く なりにけるを御覧ぜさせむとて、舞など習はしはじめし、そ の事をだにはたさんとて、拍子ととのへむこと、また誰にか はと思ひめぐらしかねてなむ、月ごろとぶらひものしたまは

ぬ恨みも棄ててける」
とのたまふ御気色の、うらなきやうな るものからいといと恥づかしきに、顔の色違ふらむとおぼえ て、御答へもとみにえ聞こえず。 「月ごろ、方々に思し悩む御こと承り嘆きはべりながら、 春のころほひより、例もわづらひはべる乱り脚病といふもの ところせく起こりわづらひはべりて、はかばかしく踏み立つ ることもはべらず、月ごろに添へて沈みはべりてなむ、内裏 などにも参らず、世の中跡絶えたるやうにて籠りはべる。院 の御齢足りたまふ年なり、人よりさだかに数へたてまつり 仕うまつるべきよし、致仕の大臣思ひおよび申されしを、 冠を挂け、車を惜しまず棄ててし身にて、進み仕うまつら むにつく所なし、げに下臈なりとも、同じごと深きところ はべらむ、その心御覧ぜられよ、ともよほし申さるることの はべりしかば、重き病をあひ助けてなん、参りてはべりし。 今は、いよいよいとかすかなるさまに思し澄まして、いかめ

しき御よそひを待ちうけたてまつりたまはむこと、願はしく も思すまじく見たてまつりはべりしを、事どもをばそがせた まひて、静かなる御物語の深き御願ひかなはせたまはむなん、 まさりてはべるべき」
と申したまへば、いかめしく聞きし御- 賀の事を、女二の宮の御方ざまには言ひなさぬも、労ありと 思す。   「ただかくなん。事そぎたるさまに世人は浅く見るべき を、さはいへど、心得てものせらるるに、さればよとなむ、 いとど思ひなられはべる。大将は、公方は、やうやう大人ぶ めれど、かうやうに情びたる方は、もとよりしまぬにやあら む。かの院、何ごとも心及びたまはぬことはをさをさなき 中にも、楽の方の事は御心とどめて、いとかしこく知りとと のへたまへるを、さこそ思し棄てたるやうなれ、静かに聞こ しめし澄まさむこと、今しもなむ心づかひせらるべき。かの 大将ともろともに見入れて、舞の童べの用意心ばへよく加へ

たまへ。物の師などいふものは、ただわが立てたることこそ あれ、いと口惜しきものなり」
など、いとなつかしくのたま ひつくるを、うれしきものから苦しくつつましくて、言少な にて、この御前をとく立ちなむと思へば、例のやうにこまや かにもあらでやうやうすべり出でぬ。 東の御殿にて、大将のつくろひ出だしたまふ楽人舞人の 装束のことなど、またまた行ひ加へたまふ。あるべき限りい みじく尽くしたまへるに、いとどくはしき心しらひ添ふも、 げにこの道はいと深き人にぞものしたまふめる。 今日は、かかる試みの日なれど、御方々もの見たまはむに、 見どころなくはあらせじとて、かの御賀の日は、赤き白橡に、 葡萄染の下襲を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲、楽人三十 人、今日は白襲を着たる、辰巳の方の釣殿につづきたる廊を 楽所にして、山の南の側より御前に出づるほど、仙遊霞とい ふもの遊びて、雪のただいささか散るに、春のとなり近く、

梅のけしき見るかひありてほほ笑みたり。廂の御簾の内にお はしませば、式部卿宮、右大臣ばかりさぶらひたまひて、そ れより下の上達部は、簀子に、わざとならぬ日のことにて、 御饗応などけ近きほどに仕うまつりなしたり。  右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿宮の孫王の君 たち二人は万歳楽、まだいと小さきほどにて、いとらうたげ なり。四人ながらいづれとなく、高き家の子にて、容貌をか しげにかしづき出でたる、思ひなしもやむごとなし。また、 大将の御子の典侍腹の二郎君、式部卿宮の兵衛督といひし、 今は源中納言の御子皇瘴*、 右の大殿の三郎君陵王、 大将殿の太郎落蹲、さて は、太平楽喜春楽などい ふ舞どもをなん、同じ御- 仲らひの君たち、大人た

ちなど舞ひける。暮れゆけば、御簾上げさせたまひて、もの の興まさるに、いとうつくしき御孫の君たちの容貌姿にて、 舞のさまも世に見えぬ手を尽くして、御師どもも、おのおの 手の限りを教へきこえけるに、深きかどかどしさを加へてめ づらかに舞ひたまふを、いづれをもいとらうたしと思す。老 いたまへる上達部たちは、みな涙落したまふ。式部卿宮も、 御孫を思して、御鼻の色づくまでしほたれたまふ。  主の院、 「過ぐる齢にそへては、酔泣きこそとどめがたき わざなりけれ。衛門督心とどめてほほ笑まるる、いと心恥づ かしや。さりとも、いましばしならん。さかさまに行かぬ年- 月よ。老は、えのがれぬわざなり」とてうち見やりたまふ に、人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいと悩まし ければ、いみじき事も目もとまらぬ心地する人をしも、さし 分きて空酔をしつつかくのたまふ、戯れのやうなれど、いと ど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、けし

きばかりにて紛らはすを御覧じとがめて、持たせながらたび たび強ひたまへば、はしたなくてもてわづらふさま、なべて の人に似ずをかし。 柏木悩乱し病の身を親もとに養う 心地かき乱りてたへがたければ、まだ事も はてぬにまかでたまひぬるままに、いとい たくまどひて、 「例の、いとおどろおどろ しき酔にもあらぬを、いかなればかかるならむ。つつまし とものを思ひつるに、気ののぼりぬるにや。いとさいふば かり、臆すべき心弱さとはおぼえぬを、言ふかひなくもあり けるかな」とみづから思ひ知らる。しばしの酔のまどひにも あらざりけり。やがて、いといたくわづらひたまふ。大臣、 母北の方思し騒ぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、 殿に渡したてまつりたまふを、女宮の思したるさま、またい と心苦し。  事なくて過ぐすべき日ごろは心のどかにあいな頼みして、

いとしもあらぬ御心ざしなれど、今は、と別れたてまつるべ き門出にやと思ふは、あはれに悲しく、後れて思し嘆かん ことのかたじけなきをいみじと思ふ。母御息所も、いといみ じく嘆きたまひて、 「世の事として、親をばなほさるも のにおきたてまつりて、かかる御仲らひは、とあるをりもか かるをりも、離れたまはぬこそ例のことなれ、かくひき別れ て、たひらかにものしたまふまでも過ぐしたまはむが心づく しなるべきことを。しばしここにてかくて試みたまへ」と、 御かたはらに御几帳ばかりを隔てて見たてまつりたまふ。 「ことわりや。数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひにな まじひにゆるされたてまつりてさぶらふしるしには、長く世 にはべりて、かひなき身のほども、すこし人と等しくなるけ ぢめをもや御覧ぜらるる、とこそ思うたまへつれ、いといみ じくかくさへなりはべれば、深き心ざしをだに御覧じはてら れずやなりはべりなむ、と思うたまふるになん、とまりがた

き心地にも、え行きやるまじく思ひたまへらるる」
など、か たみに泣きたまひて、とみにもえ渡りたまはねば、また、母 北の方うしろめたく思して、 「などか、まづ見えむと は思ひたまふまじき。我は、心地もすこし例ならず心細き時 は、あまたの中にまづとり分きて、ゆかしくも頼もしくもこ そおぼえたまへ。かく、いとおぼつかなきこと」と恨みきこ えたまふも、また、いとことわりなり。 「人より先なりけ るけぢめにや、とり分きて思ひ馴らひたるを、今になほかな しくしたまひて、しばしも見えぬをば苦しきものにしたまへ ば、心地のかく限りにおぼゆるをりしも見えたてまつらざら む、罪深くいぶせかるべし。今は、と頼みなく聞かせたまは ば、いと忍びて渡りたまひて御覧ぜよ。必ずまた対面たまは らむ。あやしくたゆく愚かなる本性にて、事にふれておろか に思さるることもありつらむこそ、悔しくはべれ。かかる命 のほどを知らで、行く末長くのみ思ひはべりけること」と、

泣く泣く渡りたまひぬ。宮は、とまりたまひて、言ふ方なく 思しこがれたり。 大殿に待ちうけきこえたまひて、よろづに騒ぎたまふ。さ るは、たちまちにおどろおどろしき御心地のさまにもあらず、 月ごろ物などをさらにまゐらざりけるに、いとどはかなき柑- 子などをだに触れたまはず、ただ、やうやう物にひき入るる やうにぞ見えたまふ。さる時の有職のかくものしたまへば、 世の中惜しみあたらしがりて、御とぶらひに参りたまはぬ人 なし。内裏よりも、院よりも、御とぶらひしばしば聞こえつ つ、いみじく惜しみ思しめしたるにも、いとどしき親たちの 御心のみまどふ。六条院にも、いと口惜しきわざなりと思し おどろきて、御とぶらひに、たびたび、ねむごろに父大臣に も聞こえたまふ。大将は、ましていとよき御仲なれば、け近 くものしたまひつつ、いみじく嘆き歩きたまふ。 朱雀院の五十の賀、歳末に催される

御賀は、二十五日になりにけり。かかる時 のやむごとなき上達部の重くわづらひた まふに、親はらから、あまたの人々、さる 高き御仲らひの嘆きしをれたまへるころほひにて、ものすさ まじきやうなれど、次々にとどこほりつることだにあるを、 さてやむまじき事なれば、いかでかは思しとどまらむ。女宮 の御心の中をぞ、いとほしく思ひきこえさせたまふ。例の五- 十寺の御誦経、また、かのおはします御寺にも摩訶毘廬遮那 の。 The Oak Tree 柏木、衰弱のなかで感懐し近づく死を思う

衛門督の君、かくのみ悩みわたりたまふこ となほおこたらで、年も返りぬ。大臣北の 方、思し嘆くさまを見たてまつるに、 「強 ひてかけ離れなん命かひなく、罪重かるべきことを思ふ心は 心として、また、あながちに、この世に離れがたく惜しみと どめまほしき身かは。いはけなかりしほどより、思ふ心こと にて、何ごとをも人にいま一際まさらむと、公私の事にふ れて、なのめならず思ひのぼりしかど、その心かなひがたか りけりと、一つ二つのふしごとに、身を思ひおとしてしこな た、なべての世の中すさまじう思ひなりて、後の世の行ひに 本意深くすすみにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にも あくがれむ道の重き絆なるべくおぼえしかば、とざまかうざ

まに紛らはしつつ過ぐしつるを、つひに、なほ世に立ちまふ べくもおぼえぬもの思ひの一方ならず身に添ひにたるは、我 より外に誰かはつらき、心づからもてそこなひつるにこそあ めれ」
と思ふに、恨むべき人もなし。 「神仏をもかこたん方 なきは、これみなさるべきにこそはあらめ。誰も千歳の松な らぬ世は、つひにとまるべきにもあらぬを、かく人にもすこ しうち偲ばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ 人あらむをこそは、一つ思ひに燃えぬるしるしにはせめ。せ めてながらへば、おのづから、あるまじき名をも立ち、我も 人も安からぬ乱れ出で来るやうもあらむよりは、なめしと心 おいたまふらんあたりにも、さりとも思しゆるいてんかし。 よろづのこと、いまはのとぢめには、みな消えぬべきわざな り。また異ざまの過ちしなければ、年ごろもののをりふしご とには、まつはしならひたまひにし方のあはれも出で来な ん」など、つれづれに思ひつづくるも、うち返しいとあぢき

なし。 柏木、小侍従を介してひそかに宮と贈答 など、かく、ほどもなくしなしつる身なら むとかきくらし思ひ乱れて、枕も浮きぬば かり人やりならず流し添へつつ、いささか 隙ありとて人々立ち去りたまへるほどに、かしこに御文奉れ たまふ。 「今は限りになりにてはべるありさまは、おのづから聞 こしめすやうもはべらんを、いかがなりぬるとだに御耳と どめさせたまはぬも、ことわりなれど、いとうくもはべるか な」など聞こゆるに、いみじうわななけば、思ふこともみな 書きさして、   「いまはとて燃えむけぶりもむすぼほれ絶えぬ思ひの   なほや残らむ あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、人やりならぬ闇に まどはむ道の光にもしはべらん」と聞こえたまふ。

 侍従にも、懲りずまに、あはれなることども言ひおこせた まへり。 「みづからも、いま一たび言ふべきことなん」と のたまへれば、この人も、童より、さるたよりに参り通ひつ つ見たてまつり馴れたる人なれば、おほけなき心こそうたて おぼえたまひつれ、いまはと聞くはいと悲しうて、泣く泣く、 「なほ、この御返り。まことにこれをとぢめにもこそはべ れ」と聞こゆれば、 「我も、今日か明日かの心地しても の心細ければ、おほかたのあはればかりは思ひ知らるれど、 いと心憂きことと思ひ懲りにしかば、いみじうなんつつまし き」とて、さらに書いたまはず。  御心本性の、強くづしやかなるにはあらねど、恥づかしげ なる人の御気色のをりをりにまほならぬがいと恐ろしうわび しきなるべし。されど御硯などまかなひて責めきこゆれば、 しぶしぶに書いたまふ。とりて、忍びて、宵の紛れにかしこ に参りぬ。

 大臣は、かしこき行者、葛城山より請じ出でたる、待ちう けたまひて、加持まゐらせんとしたまふ。御修法読経なども いとおどろおどろしう騒ぎたり。人の申すままに、さまざま 聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず深き山に籠りた るなどをも、弟の君たちをつかはしつつ、尋ね、召すに、け にくく心づきなき山伏どもなどもいと多く参る。わづらひた まふさまの、そこはかとなくものを心細く思ひて、音をのみ 時々泣きたまふ。陰陽師なども、多くは、女の霊とのみ占ひ 申しければ、さることもやと思せど、さらに物の怪のあらは れ出で来るもなきに思ほしわづらひて、かかる隈々をも尋ね たまふなりけり。  この聖も、丈高やかに、まぶしつべたましくて、荒らかに おどろおどろしく陀羅尼読むを、 「いであな憎や。罪の深 き身にやあらむ、陀羅尼の声高きはいとけ恐ろしくて、いよ いよ死ぬべくこそおぼゆれ」とて、やをらすべり出でて、こ

の侍従と語らひたまふ。  大臣は、さも知りたまはず、うちやすみたると人々して申 させたまへば、さ思して、忍びやかにこの聖と物語したまふ。 おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきてもの笑 ひしたまふ大臣の、かかる者どもと対ひゐて、このわづらひ そめたまひしありさま、何ともなくうちたゆみつつ重りたま へること、 「まことにこの物の怪あらはるべう念じた まへ」など、こまやかに語らひたまふもいとあはれなり。 「あれ聞きたまへ。何の罪とも思しよらぬに、占ひより けん女の霊こそ。まことにさる御執の身にそひたるならば、                     厭はしき身もひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。さ てもおほけなき心ありて、さるまじき過ちを引き出でて、人 の御名をも立て、身をもかへり見ぬたぐひ、昔の世にもなく やはありける、と思ひなほすに、なほけはひわづらはしう、 かの御心にかかる咎を知られたてまつりて、世になからへん

こともいとまばゆくおぼゆるは、げにことなる御光なるべし。 深き過ちもなきに、見あはせたてまつりし夕のほどより、や がてかき乱り、まどひそめにし魂の、身にも還らずなりにし を、かの院の内にあくがれ歩かば、結びとどめたまへよ」
な ど、いと弱げに、殻のやうなるさまして泣きみ笑ひみ語らひ たまふ。  宮も、ものをのみ恥づかしうつつまし、と思したるさまを 語る。さてうちしめり、面痩せたまへらん御さまの、面影に 見たてまつる心地して思ひやられたまへば、げにあくがるら む魂や行き通ふらんなど、いとどしき心地も乱るれば、 「今さらに、この御ことよ、かけても聞こえじ。この世は、 かう、はかなくて過ぎぬるを、長き世の絆にもこそと思ふな む、いといとほしき。心苦しき御ことを、たひらかにとだに いかで聞きおいたてまつらむ。見し夢を、心ひとつに思ひ あはせて、また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるか

な」
など、とり集め思ひしみたまへるさまの深きを、かつは いとうたて恐ろしう思へど、あはれ、はた、え忍ばず、この 人もいみじう泣く。  紙燭召して御返り見たまへば、御手もなほいとはかなげに、 をかしきほどに書いたまひて、 「心苦しう聞きながら、 いかでかは。ただ推しはかり。残らん、とあるは、 立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙く   らべに 後るべうやは」とばかりあるを、あはれにかたじけなしと 思ふ。   「いでや、この煙ばかりこそはこの世の思ひ出ならめ。 はかなくもありけるかな」と、いとど泣きまさりたまひて、 御返り、臥しながらうち休みつつ書いたまふ。言の葉のつづ きもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、   「行く方なき空のけぶりとなりぬとも思ふあたりを立

ちははなれじ 夕はわきてながめさせたまへ。咎めきこえさせたまはん人目 をも、今は心やすく思しなりて、かひなきあはれをだにも絶 えずかけさせたまへ」
など書き乱りて、心地の苦しさまさり ければ、 「よし。いたう更けぬさきに、帰り参りたまひて、 かく限りのさまになんとも聞こえたまへ。今さらに、人あや しと思ひあはせむを、わが世の後さへ思ふこそ苦しけれ。い かなる昔の契りにて、いとかかることしも心にしみけむ」と、 泣く泣くゐざり入りたまひぬれば、例は、無期に対へ据ゑて、 すずろ言をさへ言はせまほしうしたまふを、言少なにても、 と思ふがあはれなるに、えも出でやらず。  御ありさまを乳母も語りていみじう泣きまどふ。大臣など の思したる気色ぞいみじきや。 「昨日今日すこしよろ しかりつるを、などかいと弱げには見えたまふ」と騒ぎたま ふ。 「何か。なほとまりはべるまじきなめり」と聞こえた

まひて、みづからも泣いたまふ。 女三の宮、男子を出産 産養の盛儀 宮はこの暮つ方より、悩ましうしたまひけ るを、その御けしきと見たてまつり知りた る人々騒ぎ満ちて、大殿にも聞こえたりけ れば、驚きて渡りたまへり。御心の中は、 「あな口惜しや。 思ひまずる方なくて見たてまつらましかば、めづらしくうれ しからまし」と思せど、人にはけしき漏らさじと思せば、験- 者など召し、御修法はいつとなく不断にせらるれば、僧ども の中に験あるかぎりみな参りて、加持まゐり騒ぐ。  夜一夜悩み明かさせたまひて、日さし上るほどに生まれた まひぬ。男君、と聞きたまふに、 「かく忍びたる事の、あや にくにいちじるき顔つきにて、さし出でたまへらんこそ苦し かるべけれ。女こそ、何となく紛れ、あまたの人の見るもの ならねば安けれ」と思すに、また、 「かく心苦しき疑ひまじ りたるにては、心やすき方にものしたまふもいとよしかし。

さてもあやしや。わが世とともに恐ろしと思ひし事の報なめ り。この世にて、かく思ひかけぬ事にむかはりぬれば、後の 世の罪もすこし軽みなんや」
と思す。  人、はた、知らぬ事なれば、かく心ことなる御腹にて、末 に出でおはしたる御おほえいみじかりなんと、思ひ営み仕う まつる。  御産屋の儀式いかめしうおどろおどろし。御方々、さまざ まにし出でたまふ御産養、世の常の折敷、衝重、高坏など の心ばへも、ことさらに心々にいどましさ見えつつなむ。五- 日の夜、中宮の御方より、子持の御前の物、女房の中にも、 品々に思ひ当てたる際-  際、公事にいかめし うせさせたまへり。御- 粥屯食五十具、所どこ ろの饗、院の下部、庁

の召次所、何かの隈までいかめしくせさせたまへり。宮司、 大夫よりはじめて院の殿上人みな参れり。  七夜は、内裏より、それもおほやけざまなり。致仕の大臣 など、心ことに仕うまつりたまふべきに、このごろは、何ご とも思されで、おほぞうの御とぶらひのみぞありける。宮た ち上達部などあまた参りたまふ。おほかたのけしきも、世 になきまでかしづききこえたまへど、大殿の、御心の中に心- 苦しと思すことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、 御遊びなどはなかりけり。 女三の宮出家を望み、源氏これを苦慮する 宮は、さばかりひはづなる御さまにて、い とむくつけう、ならはぬ事の恐ろしう思さ れけるに、御湯なども聞こしめさず、身の 心憂きことをかかるにつけても思し入れば、さはれ、このつ いでにも死なばや、と思す。大殿は、いとよう人目を飾り思 せど、まだむつかしげにおはするなどを、とりわきても見た

てまつりたまはずなどあれば、老いしらへる人などは、 「い でや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさし出でた まへる御ありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはします を」と、うつくしみきこゆれば、片耳に聞きたまひて、さの みこそは思し隔つることもまさらめ、と恨めしう、わが身つ らくて、尼にもなりなばやの御心つきぬ。  夜なども、こなたには大殿籠らず、昼つ方などぞさしのぞ きたまふ。 「世の中のはかなきを見るままに、行く末短う もの心細くて、行ひがちになりにてはべれば、かかるほどの らうがはしき心地するによりえ参り来ぬを、いかが、御心地 はさはやかに思しなりにたりや。心苦しうこそ」とて、御几- 帳のそばよりさしのぞきたまへり。御ぐしもたげたまひて、 「なほ、え生きたるまじき心地なむしはべるを、かか  る人は罪も重かなり。尼になりて、もしそれにや生きとまる と試み、また亡くなるとも、罪を失ふことにもやとなん思ひ

はべる」
と、常の御けはひよりはいと大人びて聞こえたまふ を、 「いとうたて、ゆゆしき御ことなり。などてかさまで は思す。かかる事は、さのみこそ恐ろしかむなれど、さてな がらへぬわざならばこそあらめ」と聞こえたまふ。  御心の中には、 「まことに、さも思しよりてのたまはば、 さやうにて見たてまつらむはあはれなりなんかし。かつ見つ つも、事にふれて心おかれたまはんが心苦しう、我ながらも え思ひなほすまじう、うき事のうちまじりぬべきを、おのづ からおろかに人の見とがむることもあらんが、いといとほし う、院などの聞こしめさんことも、わがおこたりにのみこそ はならめ。御悩みにことつけて、さもやなしたてまつりてま し」など思しよれど、また、いとあたらしう、あはれに、か ばかり遠き御髪の生ひ先を、しかやつさんことも心苦しけれ ば、 「なほ、強く思しなれ。けしうはおはせじ。限りと見 ゆる人も、たひらかなる例近ければ、さすがに頼みある世に

なん」
など聞こえたまひて、御湯まゐりたまふ。いといたう 青み痩せて、あさましうはかなげにてうち臥したまへる御さ ま、おほどきうつくしげなれば、いみじき過ちありとも、心- 弱くゆるしつべき御ありさまかなと見たてまつりたまふ。 朱雀院、憂慮して下山 女三の宮出家する 山の帝は、めづらしき御事たひらかなりと 聞こしめして、あはれにゆかしう思ほすに、 かく悩みたまふよしのみあれば、いかにも のしたまふべきにかと、御行ひも乱れて思しけり。  さばかり弱りたまへる人の物を聞こしめさで日ごろ経たま へば、いと頼もしげなくなりたまひて、年ごろ見たてまつら ざりしほどよりも、院のいと恋しくおぼえたまふを、 「またも見たてまつらずなりぬるにや」といたう泣いたまふ。 かく聞こえたまふさま、さるべき人して伝へ奏せさせたまひ ければ、いとたへがたう悲しと思して、あるまじき事とは思 しめしながら、夜に隠れて出でさせたまへり。

 かねてさる御消息もなくて、にはかに、かく、渡りおはし まいたれば、主の院驚きかしこまりきこえたまふ。 「世 の中を、かへり見すまじう思ひはべりしかど、なほ、まどひ さめがたきものはこの道の闇になんはべりければ、行ひも懈- 怠して、もし後れ先だつ道の道理のままならで別れなば、や がてこの恨みもやかたみに残らむとあぢきなさに、この世の 譏りをば知らで、かくものしはべる」と聞こえたまふ。御容- 貌異にても、なまめかしうなつかしきさまにうち忍びやつれ たまひて、うるはしき御法服ならず、墨染の御姿あらまほし うきよらなるも、うらやましく見たてまつりたまふ。例の、 まづ涙落したまふ。 「わづらひたまふ御さま、ことなる御- 悩みにもはべらず、ただ月ごろ弱りたまへる御ありさまに、 はかばかしう物などもまゐらぬつもりにや、かくものしたま ふにこそ」など聞こえたまふ。 「かたはらいたき御座なれども」とて、御帳の前に、御-

褥まゐりて入れたてまつりたまふ。宮をも、とかう人々つく ろひきこえて、床の下におろしたてまつる。御几帳すこし押 しやらせたまひて、 「夜居の加持の僧などの心地すれど、 まだ験つくばかりの行ひにもあらねばかたはらいたけれど、 ただ、おぼつかなくおぼえたまふらんさまを、さながら見た まふべきなり」とて、御目おし拭はせたまふ。宮も、いと弱 げに泣いたまひて、 「生くべうもおぼえはべらぬを、 かくおはしまいたるついでに、尼になさせたまひてよ」と聞 こえたまふ。 「さる御本意あらば、いと尊きことなるを、 さすがに限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かへりて事 の乱れあり、世の人に譏らるるやうありぬべきことになん、 なほ憚りぬべき」などのたまはせて、大殿の君に、 「かく なん進みのたまふを、今は限りのさまならば、片時のほどに ても、その助けあるべきさまにて、となん思ひたまふる」と のたまへば、 「日ごろもかくなんのたまへど、邪気なんど

の人の心たぶろかして、かかる方にてすすむるやうもはべ なるをとて、聞きも入れはべらぬなり」
と聞こえたまふ。 「物の怪の教にても、それに負けぬとて、あしかるべき ことならばこそ憚らめ、弱りにたる人の、限りとてものした まはんことを聞き過ぐさむは、後の悔心苦しうや」とのた まふ。  御心の中、 「限りなううしろやすく譲りおきし御事を承け とりたまひて、さしも心ざし深からず、わが思ふやうにはあ らぬ御気色を、事にふれつつ、年ごろ聞こしめし思しつめけ ること、色に出でて恨みきこえたまふべきにもあらねば、世 の人の思ひ言ふらんところも口惜しう思しわたるに、かかる をりにもて離れなんも、何かは、人わらへに世を恨みたるけ しきならで、さもあらざらん。おほかたの後見には、なほ頼ま れぬべき御おきてなるを、ただ預けおきたてまつりししるし には思ひなして、憎げに背くさまにはあらずとも、御処分に、

広くおもしろき宮賜はりたまへるを繕ひて住ませたてまつら ん。わがおはします世に、さる方にても、うしろめたからず 聞きおき、また、かの大殿も、さ言ふとも、いとおろかには よも思ひ放ちたまはじ。その心ばへをも見はてん」
と思ほし とりて、 「さらば、かくものしたるついでに、忌むこと 受けたまはんをだに結縁にせんかし」とのたまはす。  大殿の君、うしと思す方も忘れて、こはいかなるべきこと ぞと悲しく口惜しければ、えたへたまはず、内に入りて、 「などか、いくばくもはべるまじき身をふり棄てて、かう は思しなりにける。なほ、しばし心を静めたまひて、御湯ま ゐり、物などをも聞こしめせ。尊きことなりとも、御身弱う ては行ひもしたまひてんや。かつはつくろひたまひてこそ」 と聞こえたまへど、頭ふりて、いとつらうのたまふ、と思し たり。つれなくて、恨めしと思すこともありけるにや、と見 たてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。

 とかく聞こえ返さひ思しやすらふほどに、夜明け方になり ぬ。帰り入らんに、道も昼ははしたなかるべしと急がせたま ひて、御祈祷にさぶらふ中に、やむごとなう尊きかぎり召し 入れて、御髪おろさせたまふ。いとさかりにきよらなる御髪 をそぎ棄てて、忌むこと受けたまふ作法悲しう口惜しけれ ば、大殿はえ忍びあへたまはず、いみじう泣いたまふ。院、 はた、もとより、とり分きてやむごとなく、人よりもすぐれ て見たてまつらんと思ししを、この世にはかひなきやうにな いたてまつるも飽かず悲しければ、うちしほたれたまふ。 「かくても、たひらかにて、同じうは念誦をも勤めたま へ」と聞こえおきたまひて、明けはてぬるに急ぎて出でさせ たまひぬ。  宮は、なほ弱う消え入るやうにしたまひて、はかばかしう もえ見たてまつらず、ものなども聞こえたまはず。大殿も、 「夢のやうに思ひたまへ乱るる心まどひに、かう昔おぼえた

る御幸のかしこまりをも、え御覧ぜられぬらうがはしさは、 ことさらに参りはんべりてなん」
と聞こえたまふ。御送りに 人々参らせたまふ。 「世の中の、今日か明日かにおぼえ はべりしほどに、また知る人もなくてただよはんことのあは れに避りがたうおぼえはべしかば、御本意にはあらざりけめ ど、かく聞こえつけて、年ごろは心やすく思ひたまへつるを、 もしも生きとまりはべらば、さま異に変りて、人繁き住まひ はつきなかるべきを、さるべき山里などにかけ離れたらむあ りさまも、また、さすがに心細かるべくや。さまに従ひて、 なほ、思し放つまじく」など聞こえたまへば、 「さらに、 かくまで仰せらるるなん、かへりて恥づかしう思ひたまへら るる。乱り心地とかく乱れはべりて、何ごともえわきまへは べらず」とて、げにいとたへがたげに思したり。 六条御息所の物の怪、またも現われる

後夜の御加持に、御物の怪出で来て、 「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつ と、一人をば思したりしが、いと妬かりし かば、このわたりにさりげなくてなん日ごろさぶらひつる。 今は帰りなん」とてうち笑ふ。いとあさましう、さは、この 物の怪のここにも離れざりけるにやあらんと思すに、いとほ しう悔しう思さる。宮、すこし生き出でたまふやうなれど、 なほ頼みがたげにのみ見えたまふ。さぶらふ人々も、いと言 ふかひなうおぼゆれど、かうてもたひらかにだにおはしまさ ば、と念じつつ、御修法、また延べて、たゆみなく行はせな ど、よろづにせさせたまふ。 柏木、夕霧に告白、後事を託して死去する かの衛門督は、かかる御事を聞きたまふに、 いとど消え入るやうにしたまひて、むげに 頼む方少なうなりたまひにたり。女宮のあ はれにおぼえたまへば、ここに渡りたまはんことは、今さら

に、軽々しきやうにあらんを、上も大臣も、かく、つとそひ おはすれば、おのづからとりはづして、見たてまつりたまふ やうもあらむにあぢきなしと思して、 「かの宮に、とかく していま一たび参うでん」とのたまふを、さらにゆるしきこ えたまはず。  誰にも、この宮の御ことを聞こえつけたまふ。はじめより、 母御息所はをさをさ心ゆきたまはざりしを、この大臣のゐた ちねむごろに聞こえたまひて、心ざし深かりしに負けたまひ て、院にも、いかがはせんと思しゆるしけるを、二品の宮の 御こと思ほし乱れけるついでに、 「なかなか、この宮は、 行く先うしろやすく、まめやかなる後見まうけたまへり」と のたまはすと聞きたまひしを、かたじけなう思ひ出づ。 「かくて見棄てたてまつりぬるなめり、と思ふにつけては、 さまざまにいとほしけれど、心より外なる命なれば、たへぬ 契り恨めしうて、思し嘆かれんが心苦しきこと。御心ざしあ

りてとぶらひものせさせたまへ」
と、母上にも聞こえたまふ。 「いで、あなゆゆし。後れたてまつりては、いくばく 世に経べき身とて、かうまで行く先のことをばのたまふ」と て、泣きにのみ泣きたまへば、え聞こえやりたまはず。右大 弁の君にぞ、おほかたの事どもはくはしう聞こえたまふ。  心ばへのどかによくおはしつる君なれば、弟の君たちも、 まだ、末々の若きは、親とのみ頼みきこえたまへるに、かう 心細うのたまふを悲しと思はぬ人なく、殿の内の人も嘆く。 おほやけも惜しみ口惜しがらせたまふ。かく、限りと聞こし めして、にはかに権大納言になさせたまへり。よろこびに思 ひおこして、いま一たびも参りたまふやうもやあると思しの たまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、苦しき中 にもかしこまり申したまふ。大臣も、かく重き御おぼえを見 たまふにつけても、いよいよ悲しうあたらしと思しまどふ。  大将の君、常にいと深う思ひ嘆きとぶらひきこえたまふ。

御よろこびにも、まづ参うでたまへり。このおはする対のほ とり、こなたの御門は、馬車たちこみ、人騒がしう騒ぎみち たり。今年となりては、起き上ることもをさをさしたまはね ば、重々しき御さまに、乱れながらはえ対面したまはで、思 ひつつ弱りぬることと思ふに口惜しければ、 「なほこなた に入らせたまへ。いとらうがはしきさまにはべる罪は、おの づから思しゆるされなん」とて、臥したまへる枕上の方に、 僧などしばし出だしたまひて、入れたてまつりたまふ。  早うより、いささか隔てたまふことなう睦びかはしたまふ 御仲なれば、別れんことの悲しう恋しかるべき嘆き、親はら からの御思ひにも劣らず。今日はよろこびとて、心地よげな らましを、と思ふに、いと口惜しうかひなし。 「などかく 頼もしげなくはなりたまひにける。今日は、かかる御よろこ びに、いささかすくよかにもや、とこそ思ひはべりつれ」と て、几帳のつまをひき上げたまへれば、 「いと口惜しう、

その人にもあらずなりにてはべりや」
とて、烏帽子ばかり押 し入れて、すこし起き上らむとしたまへど、いと苦しげなり。 白き衣どもの、なつかしうなよよかなるをあまた重ねて、衾 ひきかけて臥したまへり。御座のあたりもの清げに、けはひ 香ばしう、心にくくぞ住みなしたまへる。うちとけながら用- 意あり、と見ゆ。重くわづらひたる人は、おのづから髪髭も 乱れ、ものむつかしきけはひも添ふわざなるを、痩せさらぼ ひたるしも、いよいよ白うあてはかなるさまして、枕をそば だてて、ものなど聞こえたまふけはひいと弱げに、息も絶え つつあはれげなり。 「久しうわづらひたまへるほどよりは、ことにいたうも そこなはれたまはざりけり。常の御容貌よりも、なかなかま さりてなん見えたまふ」とのたまふものから、涙おし拭ひて、 「後れ先だつ隔てなくとこそ契りきこえしか。いみじうも あるかな。この御心地のさまを、何ごとにて重りたまふとだ

に、え聞きわきはべらず。かく親しきほどながら、おぼつか なくのみ」
などのたまふに、 「心には、重くなるけぢめも おぼえはべらず。そこ所と苦しきこともなければ、たちまち にかうも思ひたまへざりしほどに、月日も経で弱りはべりに ければ、今はうつし心も失せたるやうになん。惜しげなき身 をさまざまにひきとどめらるる祈祷願などの力にや、さすが にかかづらふも、なかなか苦しうはべれば、心もてなん、急 ぎたつ心地しはべる。さるは、この世の別れ、避りがたきこ とはいと多うなん。親にも仕うまつりさして、今さらに御心 どもを悩まし、君に仕うまつることもなかばのほどにて、 身をかへりみる方、はた、まして、はかばかしからぬ恨みを とどめつる、おほかたの嘆きをばさるものにて、また心の中 に思ひたまへ乱るることのはべるを、かかるいまはのきざみ にて、何かは漏らすべきと思ひはべれど、なほ忍びがたきこ とを誰にかは愁へはべらん。これかれあまたものすれど、

さまざまなることにて、さらに、かすめはべらむもあいなし かし。六条院にいささかなる事の違ひ目ありて、月ごろ、心 の中に、かしこまり申すことなんはべりしを、いと本意なう、 世の中心細う思ひなりて、病づきぬとおぼえはべしに、召し ありて、院の御賀の楽所の試みの日参りて、御気色を賜はり しに、なほゆるされぬ御心ばへあるさまに御眼尻を見たてま つりはべりて、いとど世にながらへんことも憚り多うおぼえ なりはべりて、あぢきなう思ひたまへしに心の騒ぎそめて、 かく静まらずなりぬるになん。人数には思し入れざりけめど、 いはけなうはべし時より、深う頼み申す心のはべりしを、い かなる讒言などのありけるにかと、これなんこの世の愁へに て残りはべるべければ、論なう、かの後の世のさまたげにも やと思ひたまふるを、事のついではべらば、御耳とどめて、 よろしう明らめ申させたまへ。亡からん後にも、この勘事ゆ るされたらんなむ、御徳にはべるべき」
などのたまふままに、

いと苦しげにのみ見えまされば、いみじうて、心の中に思ひ あはする事どもあれど、さしてたしかにはえしも推しはか らず。   「いかなる御心の鬼にかは。さらにさやうなる御気色も なく、かく重りたまへるよしをも聞きおどろき嘆きたまふこ と、限りなうこそ口惜しがり申したまふめりしか。など、か く思すことあるにては、今まで残いたまひつらん。こなたか なた明らめ申すべかりけるものを。今は、言ふかひなしや」 とて、とり返さまほしう悲しく思さる。 「げにいささかも 隙ありつるをり、聞こえ承るべうこそはべりけれ。されど、 いとかう今日明日としもやはと、みづからながら知らぬ命の ほどを思ひのどめはべりけるもはかなくなん。この事はさら に御心より漏らしたまふまじ。さるべきついではべらむをり には、御用意加へたまへとて、聞こえおくになん。一条にも のしたまふ宮、事にふれてとぶらひきこえたまへ。心苦しき

さまにて、院などにも聞こしめされたまはんを、つくろひた まへ」
などのたまふ。言はまほしきことは多かるべけれど、 心地せん方なくなりにければ、 「出でさせたまひね」と、 手かききこえたまふ。加持まゐる僧ども近う参り、上大臣 などおはし集まりて、人々もたち騒げば、泣く泣く出でたま ひぬ。  女御をばさらにも聞こえず、この大将の御方なども、いみ じう嘆きたまふ。心おきての、あまねく人の兄心にもの したまひければ、右の大殿の北の方も、この君をのみぞ、睦 ましきものに思ひきこえたまひければ、よろづに思ひ嘆き たまひて、御祈祷などとりわきてせさせたまひけれど、やむ 薬ならねば、かひなきわざになんありける。女宮にも、つひ にえ対面しきこえたまはで、泡の消え入るやうにて亡せたま ひぬ。  年ごろ、下の心こそねむごろに深くもなかりしか、おほか

たには、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、気な つかしう、心ばへをかしう、うちとけぬさまにて過ぐいたま ひければ、つらきふしもことになし。ただかく短かりける御- 身にて、あやしくなべての世すさまじく思ひたまひけるなり けり、と思ひ出でたまふにいみじうて、思し入りたるさまい と心苦し。御息所も、いみじう人わらへに口惜しと、見たて まつり嘆きたまふこと限りなし。  大臣北の方などは、まして言はむ方なく、我こそ先立ため、 世のことわりなくつらいことと焦れたまへど何のかひなし。  尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて、世にながか れとしも思さざりしを、かくなむと聞きたまふはさすがにい とあはれなりかし。若君の御ことを、さぞと思ひたりしも、 げにかかるべき契りにてや思ひの外に心憂き事もありけむ、 と思しよるに、さまざまもの心細うてうち泣かれたまひぬ。 若君の五十日の祝儀 源氏感慨に沈む

三月になれば、空のけしきもものうららか にて、この君五十日のほどになりたまひて、 いと白ううつくしう、ほどよりはおよすけ て、物語などしたまふ。大殿渡りたまひて、 「御心地はさ はやかになりたまひにたりや。いでや、いとかひなくもはべ るかな。例の御ありさまにてかく見なしたてまつらましかば、 いかにうれしうはべらまし。心憂く思し棄てけること」と、 涙ぐみて恨みきこえたまふ。日々に渡りたまひて、今しも、 やむごとなく限りなきさまにもてなしきこえたまふ。  御五十日に餅まゐらせたまはんとて、かたちことなる御さ まを、人々、いかになど聞こえやすらへば、院渡らせたまひて、 「何か。女にものしたまはばこそ、同じ筋にていまいまし くもあらめ」とて、南面に小さき御座などよそひてまゐらせ たまふ。御乳母いと華やかに装束きて、御前の物、色々を尽 くしたる、籠物檜破子の心ばへどもを、内にも外にも、本の

心を知らぬことなれば、とり散らし、何心もなきを、いと心- 苦しうまばゆきわざなりやと思す。  宮も起きゐたまひて、御髪の末のところせう広ごりたるを、 いと苦しと思して、額など撫でつけておはするに、几帳を引 きやりてゐさせたまへば、いと恥づかしうて背きたまへる、 いとど小さう細りたまひて、御髪は惜しみきこえて長うそぎ たりければ、背後はことにけぢめも見えたまはぬほどなり。 すぎすぎ見ゆる鈍色ども、黄がちなる今様色など着たまひて、 まだありつかぬ御かたはら目、かくてしもうつくしき子ども の心地して、なまめかしうをかしげなり。 「いで、あな心- 憂。墨染こそ、なほ、いとうたて目もくるる色なりけれ。かや うにても見たてまつることは絶ゆまじきぞかし、と思ひ慰め はべれど、旧りがたうわりなき心地する涙の人わろさを、い と、かう、思ひ棄てられたてまつる身の咎に思ひなすも、さ まざまに胸いたう口惜しうなん。取り返すものにもがなや」

と、うち嘆きたまひて、 「今はとて思し離れば、まことに 御心と厭ひ棄てたまひけると、恥づかしう心憂くなんおぼゆ べき。なほあはれと思せ」と聞こえたまへば、 「かか るさまの人は、もののあはれも知らぬものと聞きしを、まし てもとより知らぬことにて、いかがは聞こゆべからむ」との たまへば、 「かひなのことや。思し知る方もあらむもの を」とばかりのたまひさして、若君を見たてまつりたまふ。  御乳母たちは、やむごとなくめやすきかぎりあまたさぶら ふ。召し出でて、仕うまつるべき心おきてなどのたまふ。 「あはれ。残り少なき世に生ひ出づべき人にこそ」とて、抱 きとりたまへば、いと心やすくうち笑みて、つぶつぶと肥え て白ううつくし。大将などの児生ひほのかに思し出づるには 似たまはず。女御の御宮たち、はた、父帝の御方ざまに、王- 気づきて気高うこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうし もおはせず。この君、いとあてなるに添へて愛敬づき、まみ

のかをりて、笑がちなるなどをいとあはれと見たまふ。思ひ なしにや、なほいとようおぼえたりかし。ただ今ながら、ま なこゐののどかに、恥づかしきさまもやう離れて、かをりを かしき顔ざまなり。宮は、さしも思しわかず、人、はた、さ らに知らぬことなれば、ただ一ところの御心の中にのみぞ、 あはれ、はかなかりける人の契りかな、と見たまふに、おほ かたの世の定めなさも思しつづけられて、涙のほろほろとこ ぼれぬるを、今日は事忌すべき日をとおし拭ひ隠したまふ。 「静かに思ひて嗟くに堪へたり」と、うち誦じたまふ。五- 十八を十とり棄てたる御齢なれど、末になりたる心地したま ひて、いとものあはれに思さる。 「汝が爺に」とも、諫めま ほしう思しけむかし。 「この事の心知れる人、女房の中にもあらんかし。知らぬこ そ妬けれ。をこなりと見るらん」と安からず思せど、 「わが 御咎あることはあへなん。二つ言はんには、女の御ためこそ

いとほしけれ」
など思して、色にも出だしたまはず。いと何- 心なう物語して笑ひたまへる、まみ口つきのうつくしきも、 「心知らざらむ人はいかがあらん。なほ、いとよく似通ひた りけり」と見たまふに、 「親たちの、子だにあれかしと泣い たまふらんにもえ見せず、人知れずはかなき形見ばかりをと どめおきて、さばかり思ひあがりおよすけたりし身を、心も て失ひつるよ」とあはれに惜しければ、めざまし、と思ふ心 もひき返し、うち泣かれたまひぬ。  人々すべり隠れたるほどに、宮の御もとに寄りたまひて、 「この人をばいかが見たまふや。かかる人を棄てて、背き はてたまひぬべき世にやありける。あな心憂」とおどろかし きこえたまへば、顔うち赤めておはす。    「誰が世にかたねはまきしと人問はばいかが岩根の松   はこたへん あはれなり」など忍びて聞こえたまふに、御答へもなうて、

ひれ臥したまへり。ことわりと思せば、強ひても聞こえたま はず。 「いかに思すらん。もの深うなどはおはせねど、いか でかただには」と推しはかりきこえたまふも、いと心苦しう なん。 夕霧、柏木を回想、致仕の大臣の悲傷 大将の君は、かの心に余りてほのめかし出 でたりしを、 「いかなる事にかありけん。 すこしものおぼえたるさまならましかば、 さばかりうち出でそめたりしに、いとよう気色を見てましを。 言ふかひなきとぢめにて、をりあしう、いぶせくて、あはれ にもありしかな」と、面影忘れがたうて、はらからの君たち よりも、強ひて悲しとおぼえたまひけり。 「女宮のかく世を 背きたまへるありさま、おどろおどろしき御悩みにもあらで、 すがやかに思したちけるほどよ。また、さりともゆるしきこ えたまふべきことかは。二条の上の、さばかり限りにて、泣 く泣く申したまふと聞きしをば、いみじきことに思して、つ

ひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを」
など、とり 集めて思ひくだくに、 「なほ昔より絶えず見ゆる心ばへ、え 忍ばぬをりをりありきかし。いとようもて静めたるうはべは、 人よりけに用意あり、のどかに、何ごとをこの人の心の中に 思ふらんと、見る人も苦しきまでありしかど、すこし弱きと ころつきて、なよび過ぎたりしけぞかし、いみじうとも、さ るまじき事に心を乱りて、かくしも身にかふべき事にやはあ りける。人のためにもいとほしう、わが身、はた、いたづら にやなすべき。さるべき昔の契りといひながら、いと軽々し うあぢきなきことなりかし」など心ひとつに思へど、女君に だに聞こえ出でたまはず。さるべきついでなくて、院にも、 また、え申したまはざりけり。さるは、かかることをなんか すめしと申し出でて、御気色も見まほしかりけり。  父大臣母北の方は、涙のいとまなく思し沈みて、はかなく 過ぐる日数をも知りたまはず。御わざの法服、御装束、何く

れのいそぎをも、君たち御方々とりどりになんせさせたまひ ける。経仏のおきてなども、右大弁の君せさせたまふ。七日- 七日の御誦経などを、人の聞こえおどろかすにも、 「我にな聞かせそ。かくいみじと思ひまどふに、なかなか道 さまたげにもこそ」とて、亡きやうに思しほれたり。 夕霧、一条宮を訪問、御息所と故人を語る 一条宮には、まして、おぼつかなくて別れ たまひにし恨みさへ添ひて、日ごろ経るま まに、広き宮の内人げ少なう心細げにて、 親しく使ひ馴らしたまひし人は、なほ参りとぶらひきこゆ。 好みたまひし鷹馬など、その方の預りどもも、みな属く所な う思ひ倦じて、かすかに出で入るを見たまふも、事にふれて あはれは尽きぬものになんありける。もて使ひたまひし御調- 度ども、常に弾きたまひし琵琶和琴などの緒もとり放ちやつ されて音をたてぬも、いと埋れいたきわざなりや。  御前の木立いたうけぶりて、花は時を忘れぬけしきなるを

ながめつつ、もの悲しく、さぶらふ人々も鈍色にやつれつつ、 さびしうつれづれなる昼つ方、前駆はなやかに追ふ音してこ こにとまりぬる人あり。 「あはれ、故殿の御けはひとこそ、 うち忘れては思ひつれ」とて泣くもあり。大将殿のおはした るなりけり。御消息聞こえ入れたまへり。例の、弁の君宰- 相などのおはしたる、と思しつるを、いと恥づかしげにきよ らなるもてなしにて入りたまへり。  母屋の廂に御座よそひて入れたてまつる。おしなべたるや うに人々のあへしらひきこえむは、かたじけなきさまのした まへれば、御息所ぞ対面したまへる。 「いみじきことを思 ひたまへ嘆く心は、さるべき人々にも越えてはべれど、限り あれば聞こえさせやる方なうて、世の常になりはべりにけ り。いまはのほどにも、のたまひおくことはべりしかば、お ろかならずなむ。誰ものどめ難き世なれど、後れ先だつほど のけぢめには、思ひたまへ及ばむに従ひて深き心のほどをも

御覧ぜられにしがなとなん。神事などの繁きころほひ、私 の心ざしにまかせて、つくづくと籠りゐはべらむも例ならぬ ことなりければ、立ちながら、はた、なかなかに飽かず思ひ たまへらるべうてなん、日ごろを過ぐしはべりにける。大臣 などの心を乱りたまふさま見聞きはべるにつけても、親子の 道の闇をばさるものにて、かかる御仲らひの、深く思ひとど めたまひけんほどを推しはかりきこえさするに、いと尽きせ ずなん」
とて、しばしばおし拭ひ鼻うちかみたまふ。あざや かに気高きものから、なつかしうなまめいたり。  御息所も鼻声になりたまひて、 「あはれなることは、その 常なき世のさがにこそは。いみじとても、また、たぐひなき ことにやはと、年つもりぬる人はしひて心強うさましはべる を、さらに思し入りたるさまのいとゆゆしきまで、しばし もたち後れたまふまじきやうに見えはべれば、すべていと心- 憂かりける身の、今までながらへはべりて、かくかたがたに

はかなき世の末のありさまを見たまへ過ぐすべきにや、とい と静心なくなん。おのづから近き御仲らひにて、聞き及ばせ たまふやうもはべりけん。はじめつ方より、をさをさ承け引 ききこえざりし御事を、大臣の御心むけも心苦しう、院にも よろしきやうに思しゆるいたる御気色などのはべりしかば、 さらばみづからの心おきての及ばぬなりけりと思ひたまへな してなん見たてまつりつるを、かく夢のやうなることを見た まふるに思ひたまへあはすれば、はかなきみづからの心のほ どなん、同じうは強うもあらがひきこえましを、と思ひはべ るに、なほいと悔しう。それはかやうにしも思ひよりはべら ざりきかし。皇女たちは、おぼろけのことならで、あしくも よくも、かやうに世づきたまふことは、心にくからぬことな りと、古めき心には思ひはべりしを。いづ方にもよらず、中- 空にうき御宿世なりければ、何かは、かかるついでに煙にも 紛れたまひなんは、この御身のための人聞きなどはことに

口惜しかるまじけれど、さりとても、しかすくよかにえ思ひ 静むまじう、悲しう見たてまつりはべるに、いとうれしう浅 からぬ御とぶらひのたびたびになりはべるめるを、あり難う も、と聞こえはべるも、さらばかの御契りありけるにこそは と、思ふやうにしも見えざりし御心ばへなれど、いまはとて これかれにつけおきたまひける御遺言のあはれなるになん、 うきにもうれしき瀬はまじりはべりける」
とて、いといたう 泣いたまふけはひなり。  大将も、とみにえためらひたまはず。 「あやしく、いとこ よなくおよすけたまへりし人の、かかるべうてや、この二三- 年のこなたなん、いたうしめりてもの心細げに見えたまひし かば、あまり世のことわりを思ひ知り、もの深うなりぬる人 の、すみ過ぎて、かかる例、心うつくしからず、かへりては あざやかなる方のおぼえ薄らぐものなりとなん、常にはかば かしからぬ心に諫めきこえしかば、心浅しと思ひたまへりし。

よろづよりも、人にまさりて、げにかの思し嘆くらん御心の 中の、かたじけなけれど、いと心苦しうもはべるかな」
など、 なつかしうこまやかに聞こえたまひて、ややほど経てぞ出で たまふ。  かの君は、五六年のほどの年上なりしかど、なほいと若や かになまめき、あいだれてものしたまひし。これは、いとす くよかに重々しく、男々しきけはひして、顔のみぞいと若う きよらなること、人にすぐれたまへる。若き人々は、もの悲 しさも少し紛れて見出だしたてまつる。御前近き桜のいとお もしろきを、 「今年ばかりは」とうちおぼゆるも、いまいま しき筋なりければ、 「あひ見むことは」と口ずさびて、   時しあればかはらぬ色ににほひけり片枝枯れにし宿   の桜も わざとならず誦じなして立ちたまふに、いととう、   この春は柳のめにぞ玉はぬく咲き散る花のゆくへ

  知らねば
と聞こえたまふ。いと深きよしにはあらねど、いまめかしう かどありとは言はれたまひし更衣なりけり。げにめやすきほ どの用意なめりと見たまふ。 夕霧、致仕の大臣を訪ね、故人を哀悼する やがて致仕の大殿に参りたまへれば、君た ちあまたものしたまひけり。 「こなたに入 らせたまへ」とあれば、大臣の御出居の方 に入りたまへり。ためらひて対面したまへり。旧りがたう清 げなる御容貌いと痩せおとろへて、御髭などもとりつくろひ たまはねばしげりて、親の孝よりもけにやつれたまへり。見 たてまつりたまふよりいと忍びがたければ、あまりをさまら ず乱れ落つる涙こそはしたなけれ、と思へば、せめてもて隠 したまふ。大臣も、とりわき御仲よくものしたまひしをと見 たまふに、ただ降りに降り落ちてえとどめたまはず、尽きせ ぬ御ことどもを聞こえかはしたまふ。

 一条宮に参うでたりつるありさまなど聞こえたまふ。いと どしく春雨かと見ゆるまで、軒の雫に異ならず濡らしそへた まふ。畳紙に、かの「柳のめにぞ」とありつるを書いたまへる を奉りたまへば、 「目も見えずや」と、おししぼりつつ 見たまふ。うちひそみつつ見たまふ御さま、例は心強うあざ やかに誇りかなる御気色なごりなく、人わろし。さるはこと なることなかめれど、この「玉はぬく」とあるふしのげにと 思さるるに心乱れて、久しうえためらひたまはず。 「君の御母君の隠れたまへりし秋なん、世に悲しきことの際 にはおぼえはべりしを、女は限りありて、見る人少なう、と ある事もかかる事もあらはならねば、悲しびも隠ろへてなむ ありける。はかばかしからねど、朝廷も棄てたまはず、やう やう人となり、官位につけてあひ頼む人々、おのづから次々 に多うなりなどして、驚き口惜しがるも類にふれてあるべし。 かう深き思ひは、そのおほかたの世のおぼえも、官位も思ほ

えず、ただことなることなかりしみづからのありさまのみこ そ、たへがたく恋しかりけれ。何ばかりの事にてかは思ひさ ますべからむ」
と、空を仰ぎてながめたまふ。  夕暮の雲のけしき、鈍色に霞みて、花の散りたる梢どもを も、今日ぞ目とどめたまふ。この御畳紙に、   木の下のしづくにぬれてさかさまにかすみの衣- 着たる春かな 大将の君、    亡き人もおもはざりけんうちすてて夕のかすみ君着たれ   とは 弁の君、    うらめしやかすみの衣たれ着よと春よりさきに花の散り   けん 御わざなど、世の常ならずいかめしうなんありける。大将殿 の北の方をばさるものにて、殿は心ことに、誦経なども、あ

はれに深き心ばへを加へたまふ。 夕霧、一条宮を訪れ、落葉の宮と贈答する かの一条宮にも、常にとぶらひきこえたま ふ。四月ばかりの空は、そこはかとなう心- 地よげに、一つ色なる四方の梢もをかしう 見えわたるを、もの思ふ宿は、よろづの事につけて静かに心 細く暮らしかねたまふに、例の、渡りたまへり。庭もやうや う青み出づる若草見えわたり、ここかしこの砂子薄き物の隠 れの方に、蓬も所えがほなり。前栽に心入れてつくろひたま ひしも、心にまかせて茂りあひ、一叢薄も頼もしげにひろご りて、虫の音添はん秋思ひやらるるより、いとものあはれに 露けくて、分け入りたまふ。伊予簾かけわたして、鈍色の几- 帳の更衣したる透影涼しげに見えて、よき童のこまやかに鈍 ばめる汗衫のつま、頭つきなどほの見えたる、をかしけれど、 なほ目おどろかるる色なりかし。 今日は、簀子にゐたまへば、褥さし出でたり。いと軽らか

なる御座なりとて、例の、御息所おどろかしきこゆれど、こ のごろ悩ましとて寄り臥したまへり。とかく聞こえ紛らはす ほど、御前の木立ども、思ふことなげなるけしきを見たまふ も、いとものあはれなり。柏木と楓との、ものよりけに若や かなる色して枝さしかはしたるを、 「いかなる契りにか、 末あへる頼もしさよ」などのたまひて、忍びやかにさし寄 りて、   「ことならばならしの枝にならさなむ葉守の神のゆる   しありきと 御簾の外の隔てあるほどこそ、恨めしけれ」とて、長押に寄 りゐたまへり。 「なよび姿、はた、いといたうたをやぎける をや」と、これかれつきしろふ。この御あへしらひ聞こゆる 少将の君といふ人して、 「かしは木に葉守の神はまさずとも人ならすべき 宿のこずゑか

うちつけなる御言の葉になん、浅う思ひたまへなりぬる」
と 聞こゆれば、げにと思すにすこしほほ笑みたまひぬ。  御息所ゐざり出でたまふけはひすれば、やをらゐなほりた まひぬ。 「うき世の中を思ひたまへ沈む月日のつもるけ ぢめにや、乱り心地もあやしう、ほれぼれしうて過ぐしはべ るを、かくたびたび重ねさせたまふ御とぶらひのいとかたじ けなきに思ひたまへ起こしてなん」とて、げに悩ましげなる 御けはひなり。 「思ほし嘆くは世のことわりなれど、また、 いとさのみはいかが。よろづのことさるべきにこそはべるめ れ。さすがに限りある世になん」と慰めきこえたまふ。この 宮こそ、聞きしよりは、心の奥見えたまへ、あはれ、げにい かに人笑はれなることをとり添へて思すらん、と思ふもただ ならねば、いたう心とどめて、御ありさまも問ひきこえたま ひけり。 「容貌ぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、 いと見苦しうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて見

る目により人をも思ひ飽き、また、さるまじきに心をもまど はすべきぞ。さまあしや。ただ心ばせのみこそ、言ひもてゆ かんには、やむごとなかるべけれ」
と思ほす。 「今は、なほ、昔に思しなずらへて、うとからずもてな させたまへ」など、わざと懸想びてはあらねど、ねむごろに 気色ばみて聞こえたまふ。直衣姿いとあざやかにて、丈だち ものものしうそぞろかにぞ見えたまひける。 「かの大殿は、 よろづの事なつかしうなまめき、あてに愛敬づきたまへるこ との並びなきなり。これは男々しうはなやかに、あなきよら、 とふと見えたまふにほひぞ、人に似ぬや」とうちささめきて、 「同じうは、かやうにても出で入りたまはましかば」など、 人々言ふめり。 諸人すべて柏木を哀惜し、頌賛する 「右将軍が塚に草初めて青し」と、うち 口ずさびて、それもいと近き世のことなれ ば、さまざまに近う遠う、心乱るやうなり

し世の中に、高きも下れるも、惜しみあたらしがらぬはなき も、むべむべしき方をばさるものにて、あやしう情をたてた る人にぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人、女- 房などの年古めきたるどもさへ、恋ひ悲しびきこゆる。まし て、上には、御遊びなどのをりごとにも、まづ思し出でてな ん偲ばせたまひける。 「あはれ、衛門督」といふ言ぐさ、何 ごとにつけても言はぬ人なし。六条院には、まして、あはれ、 と思し出づること、月日にそへて多かり。この若君を、御心 ひとつには形見と見なしたまへど、人の思ひよらぬことなれ ば、いとかひなし。秋つ方になれば、この君這ひゐざりなど。 The Flute 柏木の一周忌 源氏・夕霧の志厚し

故権大納言のはかなく亡せたまひにし悲し さを、飽かず口惜しきものに恋ひ偲びたま ふ人多かり。六条院にも、おほかたにつけ てだに、世にめやすき人のなくなるをを惜しみたまふ御心に、 まして、これは、朝夕に親しく参り馴れつつ人よりも御心と どめ思したりしかば、いかにぞや思し出づることはありなが ら、あはれは多く、をりをりにつけて偲びたまふ。御はてに も、誦経などとりわきせさせたまふ。よろづも知らず顔にい はけなき御ありさまを見たまふにも、さすがにいみじくあは れなれば、御心の中にまた心ざしたまうて、黄金百両をな む別にせさせたまひける。大臣は心も知らでぞかしこまりよ ろこび聞こえさせたまふ。

 大将の君も、事ども多くしたまひ、とりもちてねむごろに 営みたまふ。かの一条宮をも、このほどの御心ざし深くとぶ らひきこえたまふ。兄弟の君たちよりもまさりたる御心のほ どを、いとかくは思ひきこえざりきと、大臣上もよろこびき こえたまふ。亡き後にも、世のおぼえ重くものしたまひける ほどの見ゆるに、いみじうあたらしうのみ思し焦るること尽 きせず。 朱雀院、女三の宮へ山菜に添えて歌を贈る 山の帝は、二の宮も、かく人笑はれなるや うにてながめたまふなり、入道の宮も、こ の世の人めかしき方はかけ離れたまひぬれ ば、さまざまに飽かず思さるれど、すべてこの世を思し悩ま じと忍びたまふ。御行ひのほどにも、同じ道をこそは勤めた まふらめなど思しやりて、かかるさまになりたまて後は、は かなき事につけても絶えず聞こえたまふ。  御寺のかたはら近き林にぬき出でたる筍、そのわたりの山

に掘れる野老などの、山里につけてはあはれなれば奉れたま ふとて、御文こまやかなる端に、 「春の野山、霞もたど たどしけれど、心ざし深く掘り出でさせてはべる、しるしば かりになむ。   世をわかれ入りなむ道はおくるともおなじところを君も   たづねよ いと難きわざになむある」と聞こえたまへるを、涙ぐみて見 たまふほどに、大殿の君渡りたまへり。例ならず御前近き櫑- 子どもを、 「なぞ、あやし」と御覧ずるに、院の御文なり けり。見たまへば、いとあはれなり。 「今日か明日かの心地 するを、対面の心にかなはぬこと」など、こまやかに書かせ たまへり。この同じところの御伴ひを、ことにをかしきふし もなき聖言葉なれど、 「げにさぞ思すらむかし。我さへおろ かなるさまに見えたてまつりて、いとどうしろめたき御思ひ の添ふべかめるをいといとほし」と思す。

 御返りつつましげに書き たまひて、御使には青鈍の 綾一襲賜ふ。書きかへた まへりける紙の御几帳の側 よりほの見ゆるをとりて見 たまへば、御手はいとはかなげにて、    うき世にはあらぬところのゆかしくてそむく山路   に思ひこそ入れ  「うしろめたげなる御気色なるに、このあらぬ所もとめた まへる、いとうたて心憂し」と聞こえたまふ。  今はまほにも見えたてまつりたまはず。いとうつくしうら うたげなる御額髪頬つきのをかしさ、ただ児のやうに見え たまひて、いみじうらうたきを見たてまつりたまふにつけて は、などかうはなりにしことぞと罪得ぬべく思さるれば、御- 几帳ばかり隔てて、またいとこよなうけ遠くうとうとしうは

あらぬほどに、もてなしきこえてぞおはしける。 無心の薫の姿に、源氏はわが老いを嘆ずる 若君は、乳母のもとに寝たまへりける、起 きて這ひ出でたまひて、御袖を引きまつは れたてまつりたまふさまいとうつくし。白 き羅に唐の小紋の紅梅の御衣の裾、いと長くしどけなげに引 きやられて、御身はいとあらはにて背後のかぎりに着なした まへるさまは、例のことなれど、いとらうたげに、白くそび やかに柳を削りて作りたらむやうなり。頭は露草してことさ らに色どりたらむ心地して、口つきうつくしうにほひ、まみ のびらかに恥づかしうかをりたるなどは、なほいとよく思ひ 出でらるれど、かれはいとかやうに際離れたるきよらはなか りしものを、いかでかからん、宮にも似たてまつらず、今よ り気高くものものしうさまことに見えたまへる気色などは、 わが御鏡の影にも似げなからず見なされたまふ。  わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍の櫑子に何と

も知らず立ち寄りて、いとあわたたしう取り散らして食ひか なぐりなどしたまへば、 「あならうがはしや。いと不便な り。かれとり隠せ。食物に目とどめたまふと、ものいひさが なき女房もこそ言ひなせ」とて笑ひたまふ。かき抱きたまひ て、 「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの 児をあまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどはただいはけ なきものとのみ見しを、今よりいとけはひことなるこそわづ らはしけれ。女宮ものしたまふめるあたりにかかる人生ひ出 でて、心苦しきこと誰がためにもありなむかし。あはれ、そ のおのおのの老いゆく末までは、見はてんとすらむやは。花 の盛りはありなめど」と、うちまもり聞こえたまふ。 「うた て。ゆゆしき御ことにも」と人々は聞こゆ。  御歯の生ひ出づるに食ひ当てむとて、筍をつと握り持ちて、 雫もよよと食ひ濡らしたまへば、 「いとねぢけたる色ごの みかな」とて、

  うきふしも忘れずながらくれ竹のこは棄てがたきも   のにぞありける と、ゐて放ちてのたまひかくれど、うち笑ひて、何とも思ひ たらずいとそそかしう這ひ下り騒ぎたまふ。 源氏・夕霧各感懐を秘めつつ、季節移る 月日にそへて、この君のうつくしう、ゆゆ しきまで生ひまさりたまふに、まことに、 このうきふしみな思し忘れぬべし。 「この 人の出でものしたまふべき契りにて、さる思ひの外の事もあ るにこそはありけめ。のがれ難かなるわざぞかし」とすこし は思しなほさる。みづからの御宿世も、なほ飽かぬこと多か り。あまた集へたまへる中にも、この宮こそは、かたほなる 思ひまじらず、人の御ありさまも思ふに飽かぬところなくて ものしたまふべきを、かく思はざりしさまにて見たてまつる こと、と思すにつけてなむ、過ぎにし罪ゆるしがたく、なほ 口惜しかりける。

 大将の君は、かのいまはのとぢめにとどめし一言を心ひと つに思ひ出でつつ、いかなりし事ぞとは、いと聞こえまほし う、御気色もゆかしきを、ほの心えて思ひ寄らるる事もあれ ば、なかなかうち出でて聞こえんもかたはらいたくて、いか ならむついでに、この事のくはしきありさまも明らめ、また、 かの人の思ひ入りたりしさまをも聞こしめさせむ、と思ひわ たりたまふ。 夕霧、一条宮を訪れ、柏木遺愛の笛を受く 秋の夕のものあはれなるに、一条宮を思ひ やりきこえたまひて渡りたまへり。うちと けしめやかに御琴どもなど弾きたまふほど なるべし。深くもえとりやらで、やがてその南の廂に入れた てまつりたまへり。端つ方なりける人のゐざり入りつるけは ひどもしるく、衣の音なひも、おほかたの匂ひ香ばしく、心 にくきほどなり。例の、御息所対面したまひて、昔の物語ど も聞こえかはしたまふ。わが御殿の、明け暮れ人繁くてもの

騒がしく、幼き君たちなどすだきあわてたまふにならひたま ひて、いと静かにものあはれなり。うち荒れたる心地すれど、 あてに気高く住みなしたまひて、前栽の花ども、虫の音しげ き野辺と乱れたる夕映えを見わたしたまふ。  和琴をひき寄せたまへれば、律に調べられて、いとよく弾 きならしたる、人香にしみてなつかしうおぼゆ。 「かやうな るあたりに、思ひのままなるすき心ある人は、静むること なくて、さまあしきけはひをもあらはし、さるまじき名をも 立つるぞかし」など、思ひつづけつつ掻き鳴らしたまふ。故- 君の常に弾きたまひし琴なりけり。をかしき手ひとつなど、 すこし弾きたまひて、 「あはれ、いとめづらかなる音に掻 き鳴らしたまひしはや。この御琴にも籠りてはべらんかし。 うけたまはりあらはしてしがな」とのたまへば、 「琴の 緒絶えにし後より、昔の御童遊びのなごりをだに思ひ出で たまはずなんなりにてはべめる。院の御前にて、女宮たちの

とりどりの御琴ども試みきこえたまひしにも、かやうの方は おぼめかしからずものしたまふとなむ定めきこえたまふめり しを、あらぬさまにほれぼれしうなりて、ながめ過ぐしたま ふめれば、世のうきつまに、といふやうになむ見たまふる」
と聞こえたまへば、 「いとことわりの御思ひなりや。限り だにある」とうちながめて、琴は押しやりたまへれば、 「かれ、なほ、さらば、声に伝はることもやと、聞きわくば かり鳴らさせたまへ。ものむつかしう思うたまへ沈める耳を だに明らめはべらん」と聞こえたまふを、 「しか伝はる中 の緒はことにこそははべらめ。それをこそうけたまはらむと は聞こえつれ」とて、御簾のもと近く押しよせたまへど、と みにしも承け引きたまふまじきことなれば、強ひても聞こえ たまはず。  月さし出でて曇りなき空に、羽翼うちかはす雁がねも列を 離れぬ、うらやましく聞きたまふらんかし。風肌寒く、もの

あはれなるにさそはれて、箏の琴をいとほのかに掻き鳴らし たまへるも奥深き声なるに、いとど心とまりはてて、なかな かに思ほゆれば、琵琶をとり寄せて、いとなつかしき音に想- 夫恋を弾きたまふ。 「思ひおよび顔なるはかたはらいたけ れど、これは言問はせたまふべくや」とて、切に簾の内をそ そのかしきこえたまへど、ましてつつましきさし答へなれば、 宮はただものをのみあはれと思しつづけたるに、   言に出でていはぬもいふにまさるとは人に恥ぢたる   けしきをぞ見る と聞こえたまふに、ただ末つ方をいささか弾きたまふ。   ふかき夜のあはればかりは聞きわけどことよりほ   かにえやは言ひける  飽かずをかしきほどに、さるおほどかなる物の音がらに、 古き人の心しめて弾き伝へける、同じ調べのものといへど、 あはれに心すごきものの、かたはしを掻き鳴らしてやみたま

ひぬれば、恨めしきまで おぼゆれど、 「すきず きしさを、さまざまに弾 き出でても御覧ぜられぬ るかな。秋の夜ふかしは べらんも昔の咎めや、と憚りてなむ、まかではべりぬべかめ る。また、ことさらに心してなむさぶらふべきを、この御琴 どもの調べ変へず待たせたまはんや。ひき違ふることもはべ りぬべき世なれば、うしろめたくこそ」など、まほにはあら ねど、うちにほはしおきて出でたまふ。 「今宵の御すきには、人ゆるしきこえつべくなむあり ける。そこはかとなきいにしへ語りにのみ紛らはさせたまひ て、玉の緒にせむ心地もしはべらぬ、残り多くなん」とて、 御贈物に笛を添へて奉りたまふ。 「これになむ、まこと に古きことも伝はるべく聞きおきはべりしを、かかる蓬生に

埋もるるもあはれに見たまふるを、御先駆に競はん声なむ、 よそながらもいぶかしうはべる」
と聞こえたまへば、 「似 つかはしからぬ随身にこそははべるべけれ」とて、見たまふ に、これも、げに、世とともに身に添へてもて遊びつつ、 「みづからもさらにこれが音の限りはえ吹き通さず。思はん 人にいかで伝へてしがな」と、をりをり聞こえごちたまひし を思ひ出でたまふに、いますこしあはれ多く添ひて、試みに 吹き鳴らす。盤渉調のなからばかり吹きさして、 「昔を忍 ぶ独りごとは、さても罪ゆるされはべりけり。これはまばゆ くなむ」とて出でたまふに、    露しげきむぐらの宿にいにしへの秋にかはらぬ虫   の声かな と聞こえ出だしたまへり。    横笛のしらべはことにかはらぬをむなしくなりし音   こそつきせね

出でがてにやすらひたまふに、夜もいたく更けにけり。 夕霧帰邸する 柏木夢に現われ笛を求む 殿に帰りたまへれば、格子など下ろさせて、 みな寝たまひにけり。この宮に心かけきこ えたまひて、かくねむごろがりきこえたま ふぞなど人の聞こえ知らせたれば、かやうに夜更かしたまふ もなま憎くて、入りたまふをも聞く聞く寝たるやうにてもの したまふなるべし。 「妹と我といるさの山の」と、声はい とをかしうて、独りごちうたひて、 「こは、など。かく鎖 し固めたる。あな埋れや。今宵の月を見ぬ里もありけり」と うめきたまふ。格子上げさせたまひて、御簾捲き上げなどし たまひて、端近く臥したまへり。 「かかる夜の月に、心や すく夢みる人はあるものか。すこし出でたまへ。あな心憂」 など聞こえたまへど、心やましううち思ひて、聞き忍びた まふ。  君たちの、いはけなく寝おびれたるけはひなどここかしこ

にうちして、女房もさしこみて臥したる、人げにぎははしき に、ありつる所のありさま思ひあはするに、多く変りたり。 この笛をうち吹きたまひつつ、 「いかになごりもながめたま ふらん。御琴どもは、調べ変らず遊びたまふらむかし。御息- 所も、和琴の上手ぞかし」など、思ひやりて臥したまへり。 「いかなれば、故君、ただおほかたの心ばへはやむごとなく もてなしきこえながら、いと深き気色なかりけむ」と、それ につけてもいといぶかしうおぼゆ。 「見劣りせむことこそ、 いといとほしかるべけれ、おほかたの世につけても、限りな く聞くことは必ずさぞあるかし」など思ふに、わが御仲の、 うち気色ばみたる思ひやりもなくて、睦びそめたる年月のほ どを数ふるに、あはれに、いとかう押し立ちておごりならひ たまへるもことわりにおぼえたまひけり。  すこし寝入りたまへる夢に、かの衛門督、ただありしさま の袿姿にて、かたはらにゐて、この笛をとりて見る。夢の中

にも、亡き人のわづらはしうこの声をたづねて来たる、と思 ふに、   「笛竹に吹きよる風のことならば末の世ながき音に伝   へなむ 思ふ方異にはべりき」と言ふを、問はんと思ふほどに、若君 の寝おびれて泣きたまふ御声にさめたまひぬ。  この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母 も起き騒ぎ、上も御殿油近く取り寄せさせたまて、耳はさみ してそそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。いとよく肥え て、つぶつぶとをかしげなる胸をあけて乳などくくめたまふ。 児も、いとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなる に、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。男- 君も寄りおはして、 「いかなるぞ」などのたまふ。撒米し 散らしなどして乱りがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。 「悩ましげにこそ見ゆれ。いまめかしき御ありさまのほ

どにあくがれたまうて、夜深き御月めでに、格子も上げられ たれば、例の物の怪の入り来たるなめり」
など、いと若くを かしき顔してかこちたまへば、うち笑ひて、 「あやしの物 の怪のしるべや。まろ格子上げずは、道なくて、げにえ入り 来ざらまし。あまたの人の親になりたまふままに、思ひいた り深く、ものをこそのたまひなりにたれ」とて、うち見やり たまへるまみのいと恥づかしげなれば、さすがにものものた まはで、 「いで、たまひね。見苦し」とて、明らかなる 灯影をさすがに恥ぢたまへるさまも憎からず。まことにこの 君なづみて、泣きむつかり明かしたまひつ。  大将の君も、夢思し出づるに、 「この笛のわづらはしくも あるかな。人の心とどめて思へりし物の行くべき方にもあら ず。女の御伝へはかひなきをや。いかが思ひつらん。この世 にて数に思ひ入れぬことも、かのいまはのとぢめに、一念の 恨めしきにも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、

長き夜の闇にもまどふわざななれ。かかればこそは、何ごと にも執はとどめじと思ふ世なれ」
など思しつづけて、愛宕に 誦経せさせたまふ。また、かの心寄せの寺にもせさせたまひ て、この笛をば、 「わざと人のさるゆゑ深き物にて、引き出 でたまへりしを、たちまちに仏の道におもむけんも、尊きこ ととはいひながらあへなかるべし」と思ひて、六条院に参り たまひぬ。 夕霧、六条院を訪れ、皇子たちや薫を見る 女御の御方におはしますほどなりけり。三- の宮三つばかりにて中にうつくしくおはす るを、こなたにぞ、またとりわきておはし まさせたまひける、走り出でたまひて、 「大将こそ、宮抱 きたてまつりて、あなたへ率ておはせ」と、みづからかしこ まりて、いとしどけなげにのたまへば、うち笑ひて、 「お はしませ。いかでか御簾の前をば渡りはべらん。いと軽々な らむ」とて、抱きたてまつりてゐたまへれば、 「人も見ず。

まろ顔は隠さむ。なほなほ」
とて、御袖してさし隠したまへ ば、いとうつくしうて率てたてまつりたまふ。こなたにも、 二の宮の、若君とひとつにまじりて遊びたまふをうつくしみ ておはしますなりけり。隅の間のほどに下ろしたてまつりた まふを二の宮見つけたまひて、 「まろも大将に抱かれん」 とのたまふを、三の宮、 「あが大将をや」とて控へたまへり。 院も御覧じて、 「いと乱りがはしき御ありさまどもかな。 おほやけの御近き衛りを、私の随身に領ぜむと争ひたまふよ。 三の宮こそいとさがなくおはすれ。常に兄に競ひ申したま ふ」と、諫めきこえあつかひたまふ。大将も笑ひて、 「二- の宮は、こよなく兄心にところ避りきこえたまふ御心深く なむおはしますめる。御年のほどよりは、恐ろしきまで見え させたまふ」など聞こえたまふ。うち笑みて、いづれをもい とうつくしと思ひきこえさせたまへり。 「見苦しく軽々し き公卿の御座なり。あなたにこそ」とて渡りたまはむとする

に、宮たちまつはれて、さらに離れたまはず。宮の若君は、 宮たちの御列にはあるまじきぞかし、と御心の中に思せど、 なかなかその御心ばへを、母宮の、御心の鬼にや思ひ寄せた まふらんと、これも心の癖にいとほしう思さるれば、いとら うたきものに思ひかしづききこえたまふ。  大将は、この君をまだえよくも見ぬかなと思して、御簾の 隙よりさし出でたまへるに、花の枝の枯れて落ちたるをとり て、見せたてまつりて招きたまへば、走りおはしたり。二藍 の直衣のかぎりを着て、いみじう白う光りうつくしきこと、 皇子たちよりもこまかにをかしげにて、つぶつぶときよらな り。なま目とまる心も添ひて見ればにや、まなこゐなど、これ はいますこし強う才あるさままさりたれど、眼尻のとぢめを かしうかをれるけしきなどいとよくおぼえたまへり。口つき の、ことさらにはなやかなるさましてうち笑みたるなど、わ が目のうちつけなるにやあらむ、大殿は必ず思し寄すらんと、

いよいよ御気色ゆかし。宮たちは、思ひなしこそ気高けれ、 世の常のうつくしき児どもと見えたまふに、この君は、いと あてなるものから、さまことにをかしげなるを、見くらべた てまつりつつ、 「いであはれ。もし疑ふゆゑもまことならば、 父大臣のさばかり世にいみじく思ひほれたまて、子と名のり 出でくる人だになきこと、形見に見るばかりのなごりをだに とどめよかし、と泣き焦れたまふに聞かせたてまつらざらむ 罪得がましさ」など思ふも、いで、いかでさはあるべき事ぞ と、なほ心得ず思ひ寄る方なし。心ばへさへなつかしうあは れにて、むつれ遊びたまへば、いとらうたくおぼゆ。 源氏、柏木遺愛の笛を夕霧から預かる 対へ渡りたまひぬれば、のどやかに御物語 など聞こえておはするほどに、日も暮れか かりぬ。昨夜かの一条宮に参うでたりしに、 おはせしありさまなど聞こえ出でたまへるを、ほほ笑みて聞 きおはす。あはれなる昔の事、かかりたるふしぶしは、あへ

しらひなどしたまふに、 「かの想夫恋の心ばへは、げに、 いにしへの例にもひき出でつべかりけるをりながら、女は、 なほ人の心移るばかりのゆゑよしをも、おぼろけにては漏ら すまじうこそありけれ、と思ひ知らるる事どもこそ多かれ。 過ぎにし方の心ざしを忘れず、かく長き用意を人に知られぬ、 とならば、同じうは心清くて、とかくかかづらひゆかしげな き乱れなからむや、誰がためも心にくくめやすかるべきこと ならむ、となん思ふ」とのたまへば、 「さかし。人の上の御- 教ばかりは心強げにて、かかるすきはいでや」と見たてまつ りたまふ。   「何の乱れかはべらむ。なほ常ならぬ世のあはれをかけ そめはべりにしあたりに、心短くはべらんこそ、なかなか世 の常の嫌疑あり顔にはべらめ、とてこそ。想夫恋は、心とさ しすぎて言出でたまはんや、憎きことにはべらまし、ものの ついでにほのかなりしは、をりからのよしづきて、をかしう

なむはべりし。何ごとも、人により、事に従ふわざにこそは べるべかめれ。齢なども、やうやういたう若びたまふべきほ どにもものしたまはず、また、あざれがましうすきずきしき 気色などにもの馴れなどもしはべらぬに、うちとけたまふに や。おほかたなつかしうめやすき人の御ありさまになむもの したまひける」
など聞こえたまふに、いとよきついで作り出 でて、すこし近く参り寄りたまひて、かの夢語を聞こえたま へば、とみにものものたまはで聞こしめして、思しあはする こともあり。 「その笛はここに見るべきゆゑある物なり。かれは陽成- 院の御笛なり。それを、故式部卿宮のいみじきものにしたま ひけるを、かの衛門督は、童よりいとことなる音を吹き出で しに感じて、かの宮の萩の宴せられける日、贈物にとらせた まへるなり。女の心は深くもたどり知らず、しかものしたる ななり」などのたまひて、 「末の世の伝へは、またいづ方に

とかは思ひまがへん。さやうに思ふなりけんかし」
など思し て、この君もいといたり深き人なれば、思ひ寄ることあらむ かし、と思す。  その御気色を見るに、いとど憚りて、とみにもうち出でき こえたまはねど、せめて聞かせたてまつらんの心あれば、今 しも事のついでに思ひ出でたるやうに、おぼめかしうもてな して、 「いまは、とせしほどにも、とぶらひにまかりては べりしに、亡からむ後のことども言ひおきはべりし中に、し かじかなん深くかしこまり申すよしを、返す返すものしはべ りしかば、いかなる事にかはべりけむ、今にそのゆゑをなん え思ひたまへ寄りはべらねば、おぼつかなくはべる」と、い とたどたどしげに聞こえたまふに、さればよ、と思せど、何 かはそのほどのことあらはしのたまふべきならねば、しばし おぼめかしくて、 「しか人の恨みとまるばかりの気色は、 何のついでにかは漏り出でけんと、みづからもえ思ひ出でず

なむ。さて、今、静かに、かの夢は思ひあはせてなむ聞こゆ べき。夜語らずとか女ばらの伝へに言ふなり」
とのたまひて、 をさをさ御答へもなければ、うち出で聞こえてけるをいかに 思すにか、とつつましく思しけりとぞ。 The Bell Cricket 夏、女三の宮の持仏開眼供養を盛大に催す

夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御- 持仏どもあらはしたまへる供養せさせたま ふ。このたびは、大殿の君の御心ざしにて、 御念誦堂の具ども、こまかにととのへさせたまへるを、やが てしつらはせたまふ。幡のさまなど、なつかしう心ことなる 唐の錦を選び縫はせたまへり。紫の上ぞ、いそぎせさせたま ひける。花机の覆ひなどのをかしき目染もなつかしう、きよ らなるにほひ、染めつけられたる心ばへ、目馴れぬさまなり。 夜の御帳の帷子を四面ながらあげて、背後の方に法華の曼荼- 羅懸けたてまつりて、銀の花瓶に高くことごとしき花の色を ととのへて奉れり。名香には唐の百歩の衣香を焚きたまへり。 阿弥陀仏、脇士の菩薩、おのおの白檀して造りたてまつりた

る、こまかにうつくしげなり。 閼伽の具は、例のきはやかに 小さくて、青き、白き、紫の 蓮をととのへて、荷葉の方を 合はせたる名香、蜜をかくし ほほろげて焚き匂はしたる、 ひとつかをりに匂ひあひていとなつかし。経は、六道の衆生 のために六部書かせたまひて、みづからの御持経は、院ぞ御- 手づから書かせたまひける。これをだにこの世の結縁にて、 かたみに導きかはしたまふべき心を願文に作らせたまへり。 さては阿弥陀経、唐の紙はもろくて、朝夕の御手ならしにも いかがとて、紙屋の人を召して、ことに仰せ言賜ひて心こと にきよらに漉かせたまへるに、この春のころほひより、御心 とどめて急ぎ書かせたまへるかひありて、端を見たまふ人々、 目も輝きまどひたまふ。罫かけたる金の筋よりも、墨つきの

上に輝くさまなども、いとなむめづらかなりける。軸表紙- 箱のさまなどいへばさらなりかし。これはことに沈の華足の 机に据ゑて、仏の御同じ帳台の上に飾られたまへり。 源氏、女三の宮方で歌を詠み交す 堂飾りはてて、講師参うのぼり、行道の人- 人参り集ひたまへば、院もあなたに出でた まふとて、宮のおはします西の廂にのぞき たまへれば、狭き心地する仮の御しつらひに、ところせく暑 げなるまで、ことごとしく装束きたる女房五六十人ばかり集 ひたり。北の廂の簀子まで童べなどはさまよふ。火取どもあ またして、けぶたきまであふぎ散らせば、さし寄りたまひて、 「空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひわかれぬこそよけれ。 富士の嶺よりもけにくゆり満ち出でたるは、本意なきわざな り。講説のをりは、おほかたの鳴りをしづめて、のどかにも のの心も聞きわくべきことなれば、憚りなき衣の音なひ人 のけはひしづめてなんよかるべき」など、例のもの深からぬ

若人どもの用意教へたまふ。宮は、人気に圧されたまひて、 いと小さくをかしげにてひれ臥したまへり。 「若君、らう がはしからむ、抱き隠したてまつれ」などのたまふ。  北の御障子もとり放ちて御簾かけたり。そなたに人々は入 れたまふ。しづめて、宮にも、ものの心知りたまふべき下形 を聞こえ知らせたまふ、いとあはれに見ゆ。御座を譲りたま へる仏の御しつらひ見やりたまふも、さまざまに、 「かか る方の御営みをも、もろともにいそがんものとは思ひ寄らざ りしことなり。よし、後の世にだに、かの花の中の宿に隔て なくとを思ほせ」とて、うち泣きたまひぬ。   はちす葉をおなじ台と契りおきて露のわかるるけふ   ぞ悲しき と御硯にさし濡らして、香染なる御扇に書きつけたまへり。 宮、   へだてなくはちすの宿を契りても君がこころやす

  まじとすらむ
と書きたまへれば、 「言ふかひなくも思ほし朽すかな」と、 うち笑ひながら、なほあはれとものを思ほしたる御気色なり。 貴顕参列、帝以下の布施豪勢をきわめる 例の、親王たちなどもいとあまた参りたま へり。御方々より、我も我もといどみ出で たまへる捧物のありさま、心ことにところ せきまで見ゆ。七僧の法服など、すべておほかたのことども は、みな紫の上せさせたまへり。綾の装ひにて、袈裟の縫目 まで、見知る人は世になべてならずとめでけりとや。むつか しうこまかなる事どもかな。講師のいと尊く事の心を申して、 この世にすぐれたまへるさかりを厭ひ離れたまひて、長き世- 世に絶ゆまじき御契りを法華経に結びたまふ尊く深きさまを あらはして、ただ今の世に才もすぐれ、ゆたけきさきらを、 いとど心して言ひつづけたる、いと尊ければ、皆人しほたれ たまふ。

 これは、ただ忍びて御念誦堂のはじめと思したる事なれど、 内裏にも、山の帝も聞こしめして、みな御使どもあり。御誦- 経の布施など、いとところせきまでにはかになむ事広ごりけ る。院に設けさせたまへりける事どもも、殺ぐと思ししかど 世の常ならざりけるを、まいていまめかしき事どもの加はり たれば、夕の寺におき所なげなるまで、ところせき勢になり てなん僧どもは帰りける。 源氏、女三の宮のため細心に配慮する 今しも心苦しき御心添ひて、はかりもなく かしづききこえたまふ。院の帝は、この御- 処分の宮に住み離れたまひなんも、つひの ことにてめやすかりぬべく聞こえたまへど、 「よそよそに てはおぼつかなかるべし。明け暮れ見たてまつり聞こえ承 らむ事怠らむに、本意違ひぬべし。げに、ありはてぬ世いく ばくあるまじけれど、なほ生けるかぎりの心ざしをだに失ひ はてじ」と聞こえたまひつつ、かの宮をもいとこまかにきよ

らに造らせたまひ、御封のものども、国々の御庄御牧などよ り奉る物ども、はかばかしきさまのは、みなかの三条宮の御- 倉に収めさせたまふ。またも建て添へさせたまひて、さまざ まの御宝物ども、院の御処分に数もなく賜はりたまへるなど、 あなたざまの物はみなかの宮に運びわたし、こまかにいかめ しうしおかせたまふ。明け暮れの御かしづき、そこらの女房 の事ども、上下のはぐくみは、おしなべてわが御あつかひに てなむ急ぎ仕うまつらせたまひける。 女三の宮の出家生活 源氏の未練を厭う 秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、 おしなべて野に造らせたまへり。閼伽の棚 などして、その方にしなさせたまへる御し つらひなど、いとなまめきたり。御弟子に慕ひきこえたる尼 ども、御乳母古人どもはさるものにて、若きさかりのも、心 定まり、さる方にて世を尽くしつべきかぎりは、選りてなん なさせたまひける。さる競ひには、我も我もときしろひけれ

ど、大殿の君聞こしめして、 「あるまじきことなり。心な らぬ人すこしもまじりぬれば、かたへの人苦しう、あはあは しき聞こえ出で来るわざなり」と、諫めたまひて、十余人ば かりのほどぞかたち異にてはさぶらふ。  この野に虫ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく 夕暮に渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ 思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたまへば、例の御心はあるま じきことにこそはあなれと、ひとへにむつかしきことに思ひ きこえたまへり。人目にこそ変ることなくもてなしたまひし か、内にはうきを知りたまふ気色しるく、こよなう変りにし 御心を、いかで見えたてまつらじの御心にて、多うは思ひな りたまひにし御世の背きなれば、今はもて離れて心やすきに、 なほかやうになど聞こえたまふぞ苦しうて、人離れたらむ御- 住まひにもがなと思しなれど、およすけてえさも強ひ申した まはず。 中秋十五夜の遊宴 冷泉院より御使あり

十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、 端近うながめたまひつつ念誦したまふ。若 き尼君たち二三人花奉るとて、鳴らす閼伽- 坏の音、水のけはひなど聞こゆる、さま変りたる営みにそ そきあへる、いとあはれなるに、例の渡りたまひて、 「虫 の音いとしげう乱るる夕かな」とて、我も忍びてうち誦じた まふ阿弥陀の大呪いと尊くほのぼの聞こゆ。げに声々聞こえ たる中に、鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかし。 「秋の虫の声いづれとなき中に、松虫なんすぐれたるとて、 中宮の、遥けき野辺を分けていとわざと尋ねとりつつ放たせ たまへる、しるく鳴き伝ふるこそ少なかなれ。名には違ひて、 命のほどはかなき虫にぞあるべき。心にまかせて、人聞かぬ 奥山、遥けき野の松原に声惜しまぬも、いと隔て心ある虫に なんありける。鈴虫は心やすく、いまめいたるこそらうたけ れ」などのたまへば、宮、

  おほかたの秋をばうしと知りにしをふり棄てがた  きすず虫のこゑ と忍びやかにのたまふ、いとなまめいて、あてにおほどかな り。 「いかにとかや。いで思ひのほかなる御言にこそ」 とて、   こころもて草のやどりをいとへどもなほすず虫の声   ぞふりせぬ など聞こえたまひて、琴の御琴召して、めづらしく弾きたま ふ。宮の御数珠引き怠りたまひて、御琴になほ心入れたまへ り。月さし出でていとはなやかなるほどもあはれなるに、空 をうちながめて、世の中さまざまにつけてはかなく移り変る ありさまも思しつづけられて、例よりもあはれなる音に掻き 鳴らしたまふ。  今宵は例の御遊びにやあらむ、と推しはかりて、兵部卿宮 渡りたまへり。大将の君、殿上人のさるべきなど具して参り

たまへれば、こなたにおはしますと、御琴の音を尋ねてやが て参りたまふ。 「いとつれづれにて、わざと遊びとはなく とも、久しく絶えにたるめづらしき物の音など聞かまほしか りつる独り琴を、いとよう尋ねたまひける」とて、宮も、こ なたに御座よそひて入れたてまつりたまふ。内裏の御前に、 今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつ るに、この院に人々参りたまふと聞き伝へて、これかれ上達- 部なども参りたまへり。虫の音の定めをしたまふ。  御琴どもの声々掻き合はせて、おもしろきほどに、 「月 見る宵の、いつとてもものあはれならぬをりはなき中に、今- 宵の新なる月の色には、げになほわが世の外までこそよろづ 思ひ流さるれ。故権大納言、何のをりをりにも、亡きにつけ ていとど偲ばるること多く、公私、もののをりふしのにほ ひ失せたる心地こそすれ。花鳥の色にも音にも思ひわきまへ、 言ふかひある方のいとうるさかりしものを」などのたまひ出

でて、みづからも、掻き合はせたまふ御琴の音にも、袖濡ら したまひつ。御簾の内にも耳とどめてや聞きたまふらんと、 片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びのほどには、ま づ恋しう、内裏などにも思し出でける。 「今宵は鈴虫の宴 にて明かしてん」と思しのたまふ。  御土器二わたりばかりまゐるほどに、冷泉院より御消息あ り。御前の御遊びにはかにとまりぬるを口惜しがりて、左大- 弁、式部大輔、また人々率ゐてさるべきかぎり参りたれば、 大将などは六条院にさぶらひたまふ、と聞こしめしてなり けり。   「雲の上をかけはなれたる住みかにももの忘れせぬ   秋の夜の月 同じくは」と聞こえたまへれば、 「何ばかりところせき身 のほどにもあらずながら、今はのどやかにおはしますに参り 馴るることもをさをさなきを、本意なきことに思しあまりて

おどろかさせたまへる、かたじけなし」
とて、にはかなるや うなれど参りたまはんとす。   月かげはおなじ雲ゐに見えながらわが宿からの秋ぞ   かはれる 異なることなかめれど、ただ昔今の御ありさまの思しつづけ られけるままなめり。御使に盃賜ひて、禄いと二なし。 源氏、冷泉院へ参上 詩歌の御遊びあり 人々の御車次第のままにひきなほし、御前 の人々立ちこみて、静かなりつる御遊び紛 れて、出でたまひぬ。院の御車に、親王奉 り、大将、左衛門督、藤宰相など、おはしけるかぎりみな参 りたまふ。直衣にて軽らかなる御装ひどもなれば、下襲ばか り奉り加へて、月ややさしあがり、更けぬる空おもしろきに、 若き人々、笛などわざとなく吹かせたまひなどして、忍びた る御参りのさまなり。うるはしかるべきをりふしは、ところ せくよだけき儀式を尽くしてかたみに御覧ぜられたまひ、ま

た、いにしへのただ人ざまに思しかへりて、今宵は軽々しき やうに、ふとかく参りたまへれば、いたう驚き待ちよろこび きこえたまふ。ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異も のならず。いみじき御さかりの世を御心と思し棄てて、静か なる御ありさまにあはれ少なからず。その夜の歌ども、唐の も倭のも、心ばへ深うおもしろくのみなん。例の言足らぬ片 はしは、まねぶもかたはらいたくてなむ。明け方に文など講 じて、とく人々まかでたまふ。 源氏秋好中宮を訪れ、出家の志を諫める 六条院は、中宮の御方に渡りたまひて、御- 物語など聞こえたまふ。 「今はかう静か なる御住まひにしばしばも参りぬべく、何 とはなけれど、過ぐる齢にそへて忘れぬ昔の御物語など承 り聞こえまほしう思ひたまふるに、何にもつかぬ身のありさ まにて、さすがにうひうひしくところせくもはべりてなん。 我より後の人々に、かたがたにつけて後れゆく心地しはべる

も、いと常なき世の心細さののどめ難うおぼえはべれば、世- 離れたる住まひにもやとやうやう思ひ立ちぬるを、残りの人- 人のものはかなからん、ただよはしたまふなと、さきざきも 聞こえつけし心違へず思しとどめて、ものせさせたまへ」
な ど、まめやかなるさまに聞こえさせたまふ。  例の、いと若うおほどかなる御けはひにて、 「九重の 隔て深うはべりし年ごろよりも、おぼつかなさのまさるやう に思ひたまへらるるありさまを、いと思ひの外にむつかしう て、皆人の背きゆく世を厭はしう思ひなることもはべりなが ら、その心の中を聞こえさせ承らねば、何ごともまづ頼もし き蔭には聞こえさせならひて、いぶせくはべる」と聞こえた まふ。 「げに、おほやけざまにては、限りあるをりふしの 御里居もいとよう待ちつけきこえさせしを、今は何ごとにつ けてかは、御心にまかせさせたまふ御うつろひもはべらむ。 定めなき世といひながらも、さして厭はしき事なき人の、さ

はやかに背き離るるもあり難う、心やすかるべきほどにつけ てだに、おのづから思ひかかづらふ絆のみはべるを。などか。 その人まねに競ふ御道心は、かへりてひがひがしう推しはか りきこえさする人もこそはべれ。かけてもいとあるまじき御- 事になむ」
聞こえたまふを、深うも汲みはかりたまはぬな めりかしと、つらう思ひきこえたまふ。  御息所の、御身の苦しうなりたまふらむありさま、いかな る煙の中にまどひたまふらん、亡き影にても、人にうとまれ たてまつりたまふ御名のりなどの出で来けること、かの院に はいみじう隠したまひけるを、おのづから人の口さがなくて 伝へ聞こしめしける後、いと悲しういみじくて、なべての世 の厭はしく思しなりて、仮にても、かののたまひけんありさ まのくはしう聞かまほしきを、まほにはえうち出できこえた まはで、ただ、 「亡き人の御ありさまの罪軽からぬさま にほの聞くことのはべりしを、さるしるしあらはならでも、

推しはかりつべきことにはべりけれど、後れしほどのあはれ ばかりを忘れぬことにて、物のあなた思うたまへやらざりけ るがものはかなさを。いかで、よう言ひ聞かせん人の勧めを も聞きはべりて、みづからだにかの炎をも冷ましはべりにし がなと、やうやうつもるになむ、思ひ知らるる事もありけ る」
など、かすめつつぞのたまふ。  げにさも思しぬべきこと、とあはれに見たてまつりたまう て、 「その炎なむ、誰ものがるまじきことと知りながら、 朝露のかかれるほどは思ひ棄てはべらぬになむ。目蓮が、仏 に近き聖の身にてたちまちに救ひけむ例にも、え継がせた まはざらむものから、玉の簪棄てさせたまはんも、この世 には恨み残るやうなるわざなり。やうやうさる御心ざしをし めたまひて、かの御煙はるくべき事をせさせたまへ。しか思 ひたまふることはべりながら、もの騒がしきやうに、静かな る本意もなきやうなるありさまに、明け暮らしはべりつつ、

みづからの勤めにそへて、いま静かにと思ひたまふるも、げ にこそ心幼きことなれ」
など、世の中なべてはかなく厭ひ棄 てまほしきことを聞こえかはしたまへど、なほやつしにくき 御身のありさまどもなり。 源氏六条院へ帰る 秋好中宮の道心すすむ 昨夜はうち忍びてかやすかりし御歩き、今- 朝はあらはれたまひて、上達部なども、参 りたまへるかぎりはみな御送り仕うまつり たまふ。春宮の女御の御ありさまのならびなく、斎きたてた まへるかひがひしさも、大将のまたいと人にことなる御さま をも、いづれとなくめやすしと思すに、なほこの冷泉院を思 ひきこえたまふ御心ざしはすぐれて深く、あはれにぞおぼえ たまふ。院も常にいぶかしう思ひきこえたまひしに、御対面 の稀にいぶせうのみ思されけるに急がされたまひて、かく心 やすきさまにと思しなりけるになん。  中宮ぞ、なかなかまかでたまふこともいと難うなりて、た

だ人の仲のやうに並びおはしますに、いまめかしう、なかな か昔よりもはなやかに、御遊びをもしたまふ。何ごとも御心 やれるありさまながら、ただかの御息所の御ことを思しやり つつ、行ひの御心すすみにたるを、人のゆるしきこえたまふ まじきことなれば、功徳の事をたてて思し営み、いとど心深 う世の中を思し取れるさまになりまさりたまふ。 Evening Mist 夕霧、小野の山荘の落葉の宮を思慕する

まめ人の名をとりてさかしがりたまふ大将、 この一条宮の御ありさまをなほあらまほし と心にとどめて、おほかたの人目には昔を 忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたま ふ。下の心には、かくてはやむまじくなむ月日にそへて思ひ まさりたまひける。御息所も、あはれにあり難き御心ばへに もあるかなと、今はいよいよものさびしき御つれづれを、絶 えず訪れたまふに慰めたまふことども多かり。  はじめより懸想びても聞こえたまはざりしに、 「ひき返し 懸想ばみなまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見えたて まつりて、うちとけたまふをりもあらじやは」と思ひつつ、 さるべき事につけても、宮の御けはひありさまを見たまふ。

みづからなど聞こえたまふ ことはさらになし。いかな らむついでに、思ふことを もまほに聞こえ知らせて、 人の御けはひを見む、と思 しわたるに、御息所、物の怪にいたうわづらひたまひて、小- 野といふわたりに山里持たまへるに渡りたまへり。早うより 御祈祷の師にて、物の怪など払ひ棄てける律師、山籠りして 里に出でじと誓ひたるを、麓近くて、請じおろしたまふゆゑ なりけり。御車よりはじめて、御前など、大将殿よりぞ奉れ たまへるを、なかなかまことの昔の近きゆかりの君たちは、 事わざしげきおのがじしの世の営みに紛れつつ、えしも思ひ 出できこえたまはず。弁の君、はた、思ふ心なきにしもあら で気色ばみけるに、事の外なる御もてなしなりけるには、強 ひてえまでとぶらひたまはずなりにたり。

 この君は、いとかしこう、さりげなくて聞こえ馴れたまひ にためり。修法などせさせたまふと聞きて、僧の布施浄衣な どやうのこまかなるものをさへ奉れたまふ。悩みたまふ人は え聞こえたまはず。 「なべての宣旨書きはものしと思しぬべ く。ことごとしき御さまなり」と人々聞こゆれば、宮ぞ御返 り聞こえたまふ。いとをかしげにてただ一行など、おほどか なる書きざま言葉もなつかしきところ書き添へたまへるを、 いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞こえ通ひたまふ。 なほつひにあるやうあるべき御仲らひなめり、と北の方けし きとりたまへれば、わづらはしくて、参うでまほしう思せど とみにえ出で立ちたまはず。 夕霧、小野を訪れ、御息所の病を見舞う 八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしき もをかしきころなるに、山里のありさまの いとゆかしければ、 「なにがし律師のめ づらしう下りたなるに、切に語らふべきことあり。御息所の

わづらひたまふなるもとぶらひがてら、参うでん」
と、おほ かたにぞ聞こえごちて出でたまふ。御前ことごとしからで、 親しきかぎり五六人ばかり狩衣にてさぶらふ。ことに深き道 ならねど、松が崎の小山の色なども、さる巌ならねど秋のけ しきづきて、都に二なくと尽くしたる家ゐには、なほあはれ も興もまさりてぞ見ゆるや。  はかなき小柴垣もゆゑあるさまにしなして、かりそめなれ どあてはかに住まひなしたまへり。寝殿とおぼしき東の放- 出に修法の壇塗りて、北の廂におはすれば、西面に宮はおは します。御物の怪むつかしとて、とどめたてまつりたまひけ れど、いかでか離れたてまつらんと慕ひわたりたまへるを、 人に移り散るを怖ぢて、すこしの隔てばかりに、あなたには 渡したてまつりたまはず。客人のゐたまふべき所のなければ、 宮の御方の簾の前に入れたてまつりて、上臈だつ人々御消息 聞こえ伝ふ。 「いとかたじけなく、かうまでのたまはせ

渡らせたまへるをなむ。もし、かひなくなりはてはべりなば、 このかしこまりをだに聞こえさせでや、と思ひたまふるをな む、いましばしかけとどめまほしき心つきはべりぬる」
と聞 こえ出だしたまへり。 「渡らせたまひし御送りにもと思う たまへしを、六条院に承りさしたる事はべりしほどにてな ん。日ごろも、そこはかとなく紛るる事はべりて、思ひたま ふる心のほどよりは、こよなくおろかに御覧ぜらるることの 苦しうはべる」など聞こえたまふ。 夕霧、落葉の宮と贈答、胸中を訴える 宮は、奥の方にいと忍びておはしませど、 ことごとしからぬ旅の御しつらひ、浅きや うなる御座のほどにて、人の御けはひおの づからしるし。いとやはらかにうち身じろきなどしたまふ御- 衣の音なひ、さばかりななりと聞きゐたまへり。心もそらに おぼえて、あなたの御消息通ふほど、すこし遠う隔たる隙 に、例の少将の君など、さぶらふ人々に物語などしたまひて、

「かう参り来馴れうけたまはることの、年ごろといふばか りになりにけるを、こよなうもの遠うもてなさせたまへる恨 めしさなむ。かかる御簾の前にて、人づての御消息などの、 ほのかに聞こえ伝ふることよ。まだこそならはね。いかに古 めかしきさまに、人々ほほ笑みたまふらんとはしたなくなん。 齢つもらず軽らかなりしほどに、ほの好きたる方に面馴れな ましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。さらに、か ばかりすくすくしうおれて年経る人は、たぐひあらじかし」 とのたまふ。  げにいと侮りにくげなるさましたまへれば、さればよと、 「なかなかなる御答へ聞こえ出でむは恥づかしう」などつ きしろひて、 「かかる御愁へ聞こしめし知らぬやうなり」 と宮に聞こゆれば、 「みづから聞こえたまはざめるか たはらいたさに代はりはべるべきを、いと恐ろしきまでもの したまふめりしを見あつかひはべりしほどに、いとどあるか

なきかの心地になりてなん、え聞こえぬ」
とあれば、 「こ は宮の御消息か」とゐなほりて、 「心苦しき御悩みを、身 に代ふばかり嘆ききこえさせはべるも、何のゆゑにか。かた じけなけれど、ものを思し知る御ありさまなど、はればれし き方にも見たてまつりなほしたまふまでは、たひらかに過ぐ したまはむこそ、誰が御ためにも頼もしきことにははべらめ と、推しはかりきこえさするによりなむ。ただあなたざまに 思し譲りて、つもりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬ は、本意なき心地なむ」と聞こえたまふ。 「げに」と人々も 聞こゆ。  日入り方になりゆくに、空のけしきもあはれに霧りわたり て、山の蔭は小暗き心地するに、蜩鳴きしきりて、垣ほに 生ふる撫子のうちなびける色もをかしう見ゆ。前の前栽の花 どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげに て、山おろし心凄く、松の響き木深く聞こえわたされなどし

て、不断の経読む時かはりて、鐘うち鳴らすに、立つ声もゐ 代はるもひとつにあひて、いと尊く聞こゆ。所がらよろづの 事心細う見なさるるも、あはれにもの思ひつづけらる。出で たまはん心地もなし。律師も、加持する音して、陀羅尼いと 尊く読むなり。  いと苦しげにしたまふなりとて人々もそなたに集ひて、お ほかたもかかる旅所にあまた参らざりけるに、いとど人少な にて、宮はながめたまへり。しめやかにて、思ふこともうち 出でつべきをりかなと思ひゐたまへるに、霧のただこの軒の もとまで立ちわたれば、 「まかでん方も見えずなりゆくは。 いかがすべき」とて、   山里のあはれをそふる夕霧にたち出でん空もなき心-   地して と聞こえたまへば、   山がつのまがきをこめて立つ霧もこころそらなる

  人はとどめず
ほのかに聞こゆる御けはひに慰めつつ、まことに帰るさ忘れ はてぬ。 「中空なるわざかな。家路は見えず、霧の籬は、立ちと まるべうもあらずやらはせたまふ。つきなき人はかかること こそ」などやすらひて、忍びあまりぬる筋もほのめかし聞こ えたまふに、年ごろもむげに見知りたまはぬにはあらねど、 知らぬ顔にのみもてなしたまへるを、かく言に出でて恨みき こえたまふを、わづらはしうて、いとど御答へもなければ、 いたう嘆きつつ、心の中に、またかかるをりありなんや、と 思ひめぐらしたまふ。 「情なうあはつけき者には思はれたて まつるともいかがはせむ。思ひわたるさまをだに知らせたて まつらん」と思ひて、人を召せば、御衛府の将監よりかうぶ り得たる、睦ましき人ぞ参れる。忍びやかに召し寄せて、 「この律師に必ず言ふべきことのあるを。護身などに暇な

げなめる、ただ今はうち休むらむ。今宵このわたりにとまり て、初夜の時はてんほどに、かのゐたる方にものせむ。これ かれさぶらはせよ。随身などの男どもは、栗栖野の庄近から む、秣などとり飼はせて、ここに人あまた声なせそ。かうや うの旅寝は、軽々しきやうに人もとりなすべし」
とのたまふ。 あるやうあるべしと心得て、承りて立ちぬ。 夕霧の訴えに、落葉の宮かたく心を閉ざす さて、 「道いとたどたどしければ、この わたりに宿借りはべる。同じうは、この御- 簾のもとにゆるされあらなむ。阿闍梨の下 るるほどまでなむ」と、つれなくのたまふ。例は、かやうに 長居して、あざればみたる気色も見えたまはぬを、うたても あるかな、と宮思せど、ことさらめきて、軽らかにあなたに はひ渡りたまはんもさまあしき心地して、ただ音せでおはし ますに、とかく聞こえ寄りて、御消息聞こえ伝へにゐざり入 る人の影につきて入りたまひぬ。

 まだ夕暮の、霧にとぢられて内は暗くなりにたるほどなり。 あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまひ て、北の御障子の外にゐざり出でさせたまふを、いとようた どりて、ひきとどめたてまつりつ。御身は入りはてたまへれ ど、御衣の裾の残りて、障子はあなたより鎖すべき方なかり ければ、ひき閉てさして、水のやうにわななきおはす。人々 もあきれて、いかにすべき事ともえ思ひえず、こなたよりこ そ鎖す掛金などもあれ、いとわりなくて、荒々しくはえ引き かなぐるべく、はた、ものしたまはねば、 「いとあさまし う。思たまへよらざりける御心のほどになむ」と、泣きぬば かりに聞こゆれど、 「かばかりにてさぶらはむが、人より けにうとましう、めざましう思さるべきにやは。数ならずと も、御耳馴れぬる年月も重なりぬらむ」とて、いとのどやか にさまよくもてしづめて、思ふことを聞こえ知らせたまふ。  聞き入れたまふべくもあらず、悔しう、かくまでと思す

ことのみやる方なければ、のたまはむこと、はた、ましてお ぼえたまはず。 「いと心憂く若々しき御さまかな。人知れ ぬ心にあまりぬるすきずきしき罪ばかりこそはべらめ、これ より馴れ過ぎたることは、さらに御心ゆるされでは御覧ぜら れじ。いかばかり千々に砕けはべる思ひにたへぬぞや。さり ともおのづから御覧じ知るふしもはべらんものを、強ひてお ぼめかしう、けうとうもてなさせたまふめれば、聞こえさせ ん方なさに、いかがはせむ、心地なく憎しと思さるとも、か うながら朽ちぬべき愁へを、さだかに聞こえ知らせはべらん とばかりなり。いひ知らぬ御気色のつらきものから、いとか たじけなければ」とて、あながちに情深う用意したまへり。 障子をおさへたまへるは、いとものはかなき固めなれど、引 きも開けず、 「かばかりのけぢめをと、強ひて思さるらむ こそあはれなれ」とうち笑ひて、うたて心のままなるさまに もあらず。人の御ありさまの、なつかしうあてになまめいた

まへること、さはいへどことに見ゆ。世とともにものを思ひ たまふけにや、痩せ痩せにあえかなる心地して、うちとけた まへるままの御袖のあたりもなよびかに、け近うしみたる匂 ひなど、とり集めてらうたげに、やはらかなる心地したまへ り。  風いと心細う更けゆく夜のけしき、虫の音も、鹿のなく 音も、滝の音も、ひとつに乱れて艶なるほどなれば、ただあ りのあはつけ人だに寝ざめしぬべき空のけしきを、格子もさ ながら、入り方の月の山の端近きほど、とどめ難うものあは れなり。 「なほかう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりて は浅う御心のほど知らるれ。かう世づかぬまでしれじれしき うしろやすさなども、たぐひあらじとおぼえはべるを、何ご とにもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者などうち笑ひ て、つれなき心も使ふなれ。あまりこよなく思しおとしたる に、えなむしづめはつまじき心地しはべる。世の中をむげに

思し知らぬにしもあらじを」
と、よろづに聞こえ責められた まひて、いかが言ふべき、とわびしう思しめぐらす。  世を知りたる方の心やすきやうにをりをりほのめかすも、 めざましう、げにたぐひなき身のうさなりやと思しつづけた まふに、死ぬべくおぼえたまうて、 「うきみづからの 罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思 ひなすべきにかはあらむ」と、いとほのかに、あはれげに泣 いたまうて、   われのみやうき世を知れるためしにて濡れそふ袖   の名をくたすべき とのたまふともなきを、わが心につづけて忍びやかにうち誦 じたまへるも、かたはらいたく、いかに言ひつることぞと思 さるるに、 「げに。あしう聞こえつかし」など、ほほ笑み たまへる気色にて、   「おほかたはわれ濡れ衣をきせずともくちにし袖の名

  やはかくるる ひたぶるに思しなりねかし」
とて、月明かき方にいざなひき こゆるも、あさましと思す。心強うもてなしたまへど、はか なう引き寄せたてまつりて、 「かばかりたぐひなき心ざし を御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御ゆるしあらで は、さらにさらに」と、いとけざやかに聞こえたまふほど、 明け方近うなりにけり。  月隈なく澄みわたりて、霧にも紛れずさし入りたり。浅は かなる廂の軒はほどもなき心地すれば、月の顔に向ひたるや うなる、あやしうはしたなくて、紛らはしたまへるもてなし など、いはむ方なくなまめきたまへり。故君の御こともすこ し聞こえ出でて、さまようのどやかなる物語をぞ聞こえたま ふ。さすがに、なほ、かの過ぎにし方に思しおとすをば、恨 めしげに恨みきこえたまふ。御心の中にも、 「かれは、位な どもまだ及ばざりけるほどながら、誰も誰も御ゆるしありけ

るに、おのづからもてなされて見馴れたまひにしを、それだ にいとめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじき ことに、よそに聞くあたりにだにあらず、大殿などの聞き思 ひたまはむことよ。なべての世の譏りをばさらにもいはず、 院にもいかに聞こしめし思ほされん」
など、離れぬここかし この御心を思しめぐらすに、いと口惜しう、わが心ひとつに かう強う思ふとも、人のもの言ひいかならん、御息所の知り たまはざらむも罪得がましう、かく聞きたまひて、心幼くと 思しのたまはむもわびしければ、 「明かさでだに出で たまへ」と、やらひきこえたまふより外のことなし。 「あさましや、事あり顔に分けはべらん朝露の思はむと ころよ。なほさらば思し知れよ。かうをこがましきさまを見 えたてまつりて、かしこうすかしやりつと思し離れむこそ、 その際は、心もえをさめあふまじう、知らぬ事々けしからぬ 心づかひもならひはじむべう思ひたまへらるれ」とて、いと

うしろめたくなかなかなれど、ゆくりかにあざれたる事のま ことにならはぬ御心地なれば、いとほしう、わが御みづから も心おとりやせむなど思いて、誰が御ためにもあらはなるま じきほどの霧にたち隠れて出でたまふ、心地そらなり。   「荻原や軒ばのつゆにそぼちつつ八重たつ霧を分けぞ   ゆくべき 濡れ衣はなほえ干させたまはじ。かうわりなうやらはせたま ふ御心づからこそは」と聞こえたまふ。げにこの御名のたけ からず漏りぬべきを、心の問はむにだに、口ぎよう答へんと 思せば、いみじうもて離れたまふ。   「分けゆかむ草葉の露をかごとにてなほ濡れ衣を   かけんとや思ふ めづらかなることかな」とあはめたまへるさま、いとをかし う恥づかしげなり。年ごろ人に違へる心ばせ人になりて、さ まざまに情を見えたてまつるなごりなく、うちたゆめ、すき

ずきしきやうなるがいとほしう心恥づかしげなれば、おろか ならず思ひ返しつつ、かうあながちに従ひきこえても、後を こがましくやと、さまざまに思ひ乱れつつ出でたまふ。道の 露けさもいとところせし。 夕霧、落葉の宮に文を送る 宮、これを拒む かやうの歩きならひたまはぬ心地に、をか しうも心づくしにもおぼえつつ、殿におは せば、女君のかかる濡れをあやしと咎めた まひぬべければ、六条院の東の殿に参うでたまひぬ。まだ朝- 霧もはれず、ましてかしこにはいかにと思しやる。 「例なら ぬ御歩きありけり」と人々はささめく。しばしうち休みたま ひて、御衣脱ぎかへたまふ。常に夏冬といときよらにしおき たまへれば、香の御唐櫃より取う出て奉りたまふ。御粥など まゐりて、御前に参りたまふ。  かしこに御文奉りたまへれど、御覧じも入れず。にはかに あさましかりしありさま、めざましうも恥づかしうも思すに

心づきなくて、御息所の漏り聞きたまはむこともいと恥づ かしう、またかかることや、とかけて知りたまはざらむに、 ただならぬふしにても見つけたまひ、人のもの言ひ隠れなき 世なれば、おのづから聞きあはせて、隔てけると思さむがい と苦しければ、人々ありしままに聞こえ漏らさなむ、うしと 思すともいかがはせむ、と思す。親子の御仲と聞こゆる中に も、つゆ隔てずぞ思ひかはしたまへる。よその人は漏り聞け ども親に隠すたぐひこそは昔物語にもあめれど、さはた思さ れず。人々は、 「何かは、ほのかに聞きたまひて、事しもあ り顔に、とかく思し乱れむ。まだきに心苦し」など言ひあは せて、いかならむと思ふどち、この御消息のゆかしきを、ひ きも開けさせたまはねば心もとなくて、 「なほ、むげに聞 こえさせたまはざらむも、おぼつかなく若々しきやうにぞは べらむ」など聞こえてひろげたれば、 「あやしう何心 もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、

みづからの過ちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさ も慰めがたくなむ。え見ずとを言へ」
と、事の外にて寄り臥 させたまひぬ。さるは、憎げもなく、いと心深う書いたま うて、   「たましひをつれなき袖にとどめおきてわが心からま   どはるるかな 外なるものはとか、昔もたぐひありけりと思たまへなすにも、 さらに行く方知らずのみなむ」などいと多かめれど、人はえ まほにも見ず。例の気色なる今朝の御文にもあらざめれど、 なほえ思ひはるけず。人々は御気色もいとほしきを、嘆かし う見たてまつりつつ、 「いかなる御事にかはあらむ。何ごと につけてもあり難うあはれなる御心ざまはほど経ぬれど、か かる方に頼みきこえては見劣りやしたまはむ、と思ふもあや ふく」など、睦ましうさぶらふかぎりは、おのがどち思ひ乱 る。御息所もかけて知りたまはず。 律師、昨夜夕霧滞在と御息所に語る

物の怪にわづらひたまふ人は、重しと見れ ど、さはやぎたまふ隙もありてなむものお ぼえたまふ。昼、日中の御加持はてて、阿- 闍梨一人とどまりてなほ陀羅尼読みたまふ。よろしうおはし ますよろこびて、 「大日如来虚言したまはずは。などてか、 かくなにがしが心をいたして仕うまつる御修法に験なきやう はあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障にまとはれたるは かなものなり」と、声は嗄れて怒りたまふ。いと聖だちすく すくしき律師にて、ゆくりもなく、 「そよや。この大将は、 いつよりここには参り通ひたまふぞ」と問ひ申したまふ。御- 息所、 「さる事もはべらず。故大納言のいとよき仲にて、語 らひつけたまへる心違へじと、この年ごろ、さるべき事につ けて、いとあやしくなむ語らひものしたまふも、かくふりは へ、わづらふをとぶらひにとて立ち寄りたまへりければ、か たじけなく聞きはべりし」と聞こえたまふ。 「いで、あな

かたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝、後夜に参 う上りつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出で たまへるを、霧深くて、なにがしはえ見分いたてまつらざり つるを、この法師ばらなむ、大将殿の出でたまふなりけりと、 昨夜も御車も帰してとまりたまひにけると口々申しつる。げ にいとかうばしき香の満ちて頭痛きまでありつれば、げにさ なりけりと思ひあはせはべりぬる。常にいとかうばしうもの したまふ君なり。この事いと切にもあらぬことなり。人はい と有職にものしたまふ。なにがしらも、童にものしたまうし 時より、かの君の御ためのことは、修法をなん、故大宮のの たまひつけたりしかば、一向にさるべきこと、今に承ると ころなれど、いと益なし。本妻強くものしたまふ。さる時に あへる族類にて、いとやむごとなし。若君たちは七八人にな りたまひぬ。え皇女の君おしたまはじ。また女人のあしき身 を受け、長夜の闇にまどふは、ただかやうの罪によりなむ、

さるいみじき報をも受くるものなる。人の御怒り出できなば、 長き絆となりなむ。もはら承け引かず」
と、頭ふりて、ただ 言ひに言ひ放てば、 「いとあやしきことなり。さらにさ る気色にも見えたまはぬ人なり。よろづ心地のまどひにしか ば、うち休みて対面せむとてなむしばし立ちとまりたまへる と、ここなる御達言ひしを、さやうにてとまりたまへるにや あらむ。おほかたいとまめやかに、すくよかにものしたまふ 人を」と、おぼめいたまひながら、心の中に、 「さる事もや ありけむ。ただならぬ御気色はをりをり見ゆれど、人の御さ まのいとかどかどしう、あながちに人の譏りあらむことはは ぶき棄てうるはしだちたまへるに、たはやすく心ゆるされぬ 事はあらじとうちとけたるぞかし。人少なにておはする気色 を見て、はひ入りもやしたまひけむ」と思す。 御息所、小少将に事情を聞き宮に対面する

律師立ちぬる後に、小少将の君を召して、 「かかることなむ聞きつる。いかなり し事ぞ。などかおのれには、さなん、かく なむとは聞かせたまはざりける。さしもあらじと思ひなが ら」とのたまへば、いとほしけれど、はじめよりありしやう を、くはしう聞こゆ。今朝の御文のけしき、宮もほのかにの たまはせつるやうなど聞こえ、 「年ごろ忍びわたりたま ひける心の中を聞こえ知らせむとばかりにやはべりけむ。あ り難う用意ありてなむ、明かしもはてで出でたまひぬるを、 人はいかに聞こえはべるにか」、律師とは思ひもよらで、忍 びて人の聞こえけると思ふ。ものものたまはで、いとうく口- 惜しと思すに、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。見たてまつる もいといとほしう、 「何に、ありのままに聞こえつらむ。苦 しき御心地を、いとど思し乱るらむ」と悔しう思ひゐたり。 「障子は鎖してなむ」と、よろづによろしきやうに聞こ

えなせど、 「とてもかくても、さばかりに、何の用意も なく、軽らかに人に見えたまひけむこそいといみじけれ。内- 内の御心清うおはすとも、かくまで言ひつる法師ばら、よか らぬ童べなどはまさに言ひ残してむや。人は、いかに言ひあ らがひ、さもあらぬことと言ふべきにかあらむ。すべて心幼 きかぎりしもここにさぶらひて」とも、えのたまひやらず。 いと苦しげなる御心地に、ものを思し驚きたれば、いといと ほしげなり。気高うもてなしきこえむと思いたるに、世づか はしう軽々しき名の立ちたまふべきを、おろかならず思し嘆 かる。 「かうすこしものおぼゆる隙に渡らせたまふべう 聞こえよ。そなたへ参り来べけれど、動きすべうもあらでな む。見たてまつらで久しうなりぬる心地すや」と、涙を浮け てのたまふ。参りて、 「しかなん聞こえさせたまふ」とばか り聞こゆ。  渡りたまはむとて、御額髪の濡れまろがれたるひきつくろ

ひ、単衣の御衣ほころびたる着かへなどしたまても、とみに もえ動いたまはず。この人々もいかに思ふらん、まだえ知り たまはで、後にいささかも聞きたまふことあらんに、つれな くてありしよ、と思しあはせむも、いみじう恥づかしければ、 また臥したまひぬ。 「心地のいみじう悩ましきかな。 やがてなほらぬさまにもありなむ、いとめやすかりぬべくこ そ。脚の気の上りたる心地す」と圧し下させたまふ。ものを いと苦しうさまざまに思すには、気ぞあがりける。  少将、 「上にこの御事ほのめかしきこえける人こそはべけ れ。いかなりし事ぞ、と問はせたまひつれば、ありのままに 聞こえさせて、御障子の固めばかりをなむ、すこし事添へて、 けざやかに聞こえさせつる。もしさやうにかすめ聞こえさせ たまはば、同じさまに聞こえさせたまへ」と申す。嘆いたま へる気色は聞こえ出でず。さればよ、といとわびしくて、も のものたまはぬ御枕より雫ぞ落つる。この事にのみもあらず。

身の思はずになりそめしより、いみじうものをのみ思はせた てまつること、と生けるかひなく思ひつづけたまひて、この 人は、かうてもやまでとかく言ひかかづらひ出でむも、わづ らはしう聞き苦しかるべうよろづに思す。まいて、言ふかひ なく、人の言によりていかなる名をくたさましなど、すこし 思し慰むる方はあれど、かばかりになりぬる高き人の、かく までもすずろに人に見ゆるやうはあらじかしと宿世うく思し 屈して、夕つ方ぞ、 「なほ渡らせたまへ」とあれば、中 の塗籠の戸開けあはせて渡りたまへる。  苦しき御心地にも、なのめならずかしこまりかしづききこ えたまふ。常の御作法あやまたず、起き上りたまうて、 「いと乱りがはしげにはべれば、渡らせたまふも心苦しうて なん。この二三日ばかり見たてまつらざりけるほどの、年月 の心地するも、かつはいとはかなくなむ。後、必ずしも対面 のはべるべきにもはべらざめり。また、めぐり参るとも、か

ひやははべるべき。思へば、ただ時の間に隔たりぬべき世の 中を、あながちにならひはべりにけるも悔しきまでなん」
な ど泣きたまふ。宮も、もののみ悲しうとり集め思さるれば、 聞こえたまふこともなくて見たてまつりたまふ。ものづつみ をいたうしたまふ本性に、際々しうのたまひさはやぐべきに もあらねば、恥づかしとのみ思すに、いといとほしうて、い かなりしなども問ひきこえたまはず。大殿油など急ぎまゐら せて、御台などこなたにてまゐらせたまふ。物聞こしめさず と聞きたまひて、とかう手づからまかなひなほしなどしたま へど、触れたまふべくもあらず。ただ御心地のよろしう見え たまふぞ、胸すこしあけたまふ。 夕霧より文来たり、御息所返事を書く かしこよりまた御文あり。心知らぬ人しも 取り入れて、 「大将殿より、少将の君にと て御文あり」と言ふぞ、またわびしきや。 少将御文はとりつ。御息所、 「いかなる御文にか」と、さす

がに問ひたまふ。人知れず思し弱る心も添ひて、下に待ちき こえたまひけるに、さもあらぬなめりと思ほすも、心騒ぎし て、 「いでその御文、なほ聞こえたまへ。あいなし。人 の御名をよざまに言ひなほす人は難きものなり。底に心清う 思すとも、しか用ゐる人は少なくこそあらめ。心うつくしき やうに聞こえ通ひたまひて、なほありしままならむこそよか らめ。あいなきあまえたるさまなるべし」とて召し寄す。苦 しけれど奉りつ。 「あさましき御心のほどを、見たてまつりあらはいてこ そ、なかなか心やすくひたぶる心もつきはべりぬべけれ。   せくからにあささぞ見えん山川のながれての名をつつみ   はてずは」 と言葉も多かれど、見もはてたまはず。この御文もけざやか なる気色にもあらで、めざましげに心地よ顔に、今宵つれな きを、いといみじと思す。 「故督の君の御心ざまの思はずな

りし時、いとうしと思ひしかど、おほかたのもてなしは、ま た並ぶ人なかりしかば、こなたに力ある心地して慰めしだに 世には心もゆかざりしを。あないみじや。大殿のわたりに思 ひのたまはむこと」
と思ひしみたまふ。  なほ、いかがのたまふ、と気色をだに見むと、心地のかき 乱りくるるやうにしたまふ目押ししぼりて、あやしき鳥の跡 のやうに書きたまふ。 「頼もしげなくなりにてはべる、 とぶらひに渡りたまへるをりにて、そそのかしきこゆれど、 いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、見たまへ わづらひてなむ、   女郎花しをるる野辺をいづことてひと夜ばかりの宿をか   りけむ」 とただ書きさして、おしひねりて出だしたまひて、臥したま ひぬるままに、いといたく苦しがりたまふ。御物の怪のたゆ めけるにや、と人々言ひ騒ぐ。例の験あるかぎりいと騒がし

うののしる。宮をば、 「なほ渡らせたまひね」と、人々聞こ ゆれど、御身のうきままに、後れきこえじと思せば、つと添 ひたまへり。 夕霧、御息所の文を雲居雁に奪われる 大将殿は、この昼つ方、三条殿におはしに ける。今宵たち返りまでたまはむに、事し もあり顔に、まだきに聞き苦しかるべしな ど念じたまひて、いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、 千重にもの思ひ重ねて嘆きたまふ。北の方は、かかる御歩き のけしきほの聞きて、心やましと聞きゐたまへるに、知らぬ やうにて君達もてあそび紛らはしつつ、わが昼の御座に臥し たまへり。  宵過ぐるほどにぞこの御返り持て参れるを、かく例にもあ らぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、御殿油 近う取り寄せて見たまふ。女君、もの隔てたるやうなれど、 いととく見つけたまうて、這ひよりて、御背後より取りたま

うつ。 「あさましう。こはいかにしたまふぞ。あな、けし からず。六条の東の上の御文なり。今朝風邪おこりて悩まし げにしたまへるを、院の御前にはべりて出でつるほど、また も参うでずなりぬれば、いとほしさに、今の間いかにと聞こ えたりつるなり。見たまへよ、懸想びたる文のさまか。さて もなほなほしの御さまや。年月にそへていたう侮りたまふこ そうれたけれ。思はむところをむげに恥ぢたまはぬよ」とう ちうめきて、惜しみ顔にもひこじろひたまはねば、さすがに ふとも見で、持たまへり。 「年月にそふる侮らはしさは、 御心ならひなべかめり」とばかり、かくうるはしだちたまへ るに憚りて、若やかにをかしきさましてのたまへば、うち笑 ひて、 「そはともかくもあらむ。世の常のことなり。また あらじかし、よろしうなりぬる男の、かくまがふ方なくひと つ所を守らへてもの怖ぢしたる鳥のせうやうの物のやうな るは。いかに人笑ふらん。さるかたくなしき者に守られたま

ふは、御ためにもたけからずや。あまたが中に、なほ際まさ りことなるけぢめ見えたるこそ、よそのおぼえも心にくく、 わが心地もなほ旧りがたく、をかしき事もあはれなる筋も絶 えざらめ。かく翁のなにがし守りけんやうに、おれまどひた れば、いとぞ口惜しき。いづこのはえかあらむ」
と、さすが に、この文の気色なくをこつり取らむの心にて、あざむき申 したまへば、いとにほひやかにうち笑ひて、 「もののは えばえしさ作り出でたまふほど、旧りぬる人苦しや。いとい まめかしくなり変れる御気色のすさまじさも、見ならはずな りにける事なれば、いとなむ苦しき。かねてよりならはした まはで」とかこちたまふも憎くもあらず。 「にはかにと思 すばかりには何ごとか見ゆらむ。いとうたてある御心の隈か な。よからずもの聞こえ知らする人ぞあるべき。あやしう、 もとよりまろをばゆるさぬぞかし。なほかの緑の袖のなごり、 侮らはしきにことつけて、もてなしたてまつらむと思ふやう

あるにや、いろいろ聞きにくき事どもほのめくめり。あいな き人の御ためにも、いとほしう」
などのたまへど、つひにあ るべき事と思せば、ことにあらがはず。  大輔の乳母いと苦しと聞きて、ものも聞こえず。とかく言 ひしろひて、この御文はひき隠したまひつれば、せめてもあ さり取らで、つれなく大殿籠りぬれば、胸はしりて、いかで 取りてしがなと、御息所の御文なめり、何ごとありつらむと、 目もあはず思ひ臥したまへり。女君の寝たまへるに、昨夜の 御座の下など、さりげなくて探りたまへどなし。隠したまへ らむほどもなければ、いと心やましくて、明けぬれどとみに も起きたまはず。女君は、君達におどろかされて、ゐざり出 でたまふにぞ、我も今起きたまふやうにてよろづにうかがひ たまへど、え見つけたまはず。女は、かく求めむとも思ひた まへらぬをぞ、げに懸想なき御文なりけりと心にも入れねば、 君達のあわて遊びあひて、雛つくり拾ひ据ゑて遊びたまふ、

文読み手習など、さまざまにいとあわたたし、小さき児這ひ かかり引きしろへば、取りし文のことも思ひ出でたまはず。 男は他事もおぼえたまはず、かしこにとく聞こえんと思すに、 昨夜の御文のさまもえ確かに見ずなりにしかば、見ぬさまな らむも、散らしてけると推しはかりたまふべしなど思ひ乱れ たまふ。 終日、御息所の文を捜すが見いだしえず 誰も誰も御台まゐりなどして、のどかにな りぬる昼つ方、思ひわづらひて、 「昨夜 の御文は何ごとかありし。あやしう見せた まはで。今日もとぶらひきこゆべし。悩ましうて、六条にもえ 参るまじければ、文をこそは奉らめ。何ごとかありけむ」と のたまふが、いとさりげなければ、文はをこがましう取りて けりと、すさまじうて、その事をばかけたまはず、 「一- 夜の深山風に、あやまりたまへる悩ましさななりと、をかし きやうにかこちきこえたまへかし」と聞こえたまふ。 「い

で、このひが言な常にのたまひそ。何のをかしきやうかある。 世人になずらへたまふこそなかなか恥づかしけれ。この女房 たちも、かつは、あやしきまめざまをかくのたまふとほほ 笑むらむものを」
と、戯れ言に言ひなして、 「その文よ、 いづら」とのたまへど、とみにも引き出でたまはぬほどに、 なほ物語など聞こえて、しばし臥したまへるほどに、暮れに けり。 夕方文を発見、狼狽して返事をしたためる 蜩の声におどろきて、 「山の蔭いかに霧り ふたがりぬらむ。あさましや。今日この御- 返り事をだに」といとほしうて、ただ知ら ず顔に硯おしすりて、いかになしてしにかとりなさむ、とな がめおはする。  御座の奥のすこし上りたる所を、試みにひき上げたまへれ ば、これにさし挾みたまへるなりけりと、うれしうもをこが ましうもおぼゆるに、うち笑みて見たまふに、かう心苦しき

ことなむありける。胸つぶれて、一夜のことを、心ありて聞 きたまうけると思すにいとほしう心苦し。 「昨夜だに、いか に思ひ明かしたまうけむ。今日も今まで文をだに」と言はむ 方なくおぼゆ。いと苦しげに、言ふかひなく、書き紛らはし たまへるさまにて、 「おぼろけに思ひあまりてやは、かく書 きたまうつらむ。つれなくて今宵の明けつらむ」と、言ふべ き方のなければ、女君ぞいとつらう心憂き。 「すずろにかく あだへ隠して。いでや、わがならはしぞや」と、さまざまに 身もつらくて、すべて泣きぬべき心地したまふ。  やがて出で立ちたまはむとするを、 「心やすく対面もあら ざらむものから、人もかくのたまふ、いかならむ。坎日にも ありけるを、もしたまさかに思ひゆるしたまはば、あしから む。なほよからむ事をこそ」と、うるはしき心に思して、ま づこの御返りを聞こえたまふ。 「いとめづらしき御文を、 かたがたうれしう見たまふるに、この御咎めをなん。いかに

聞こしめしたることにか。   秋の野の草のしげみは分けしかどかりねの枕むすびやは   せし 明らめきこえさするもあやなけれど、昨夜の罪はひたや籠り にや」
とあり。宮には、いと多く聞こえたまて、御廏に足疾 き御馬に移鞍置きて、一夜の大夫をぞ奉れたまふ。 「昨夜 より六条院にさぶらひて、ただ今なむまかでつると言へ」と て、言ふべきやうささめき教へたまふ。 悲嘆のあまり、御息所の病勢急変する かしこには、昨夜もつれなく見えたまひし 御気色を忍びあへで、後の聞こえをもつつ みあへず恨みきこえたまうしを、その御返 りだに見えず今日の暮れはてぬるを、いかばかりの御心にか はと、もて離れて、あさましう心もくだけて、よろしかりつ る御心地、またいといたう悩みたまふ。なかなか正身の御心 の中は、このふしをことにうしとも思し驚くべき事しなけれ

ば、ただおぼえぬ人にうちとけたりしありさまを見えしこと ばかりこそ口惜しけれ、いとしも思ししまぬを、かくいみじ う思いたるを、あさましう恥づかしう、明らめきこえたまふ 方なくて、例よりももの恥ぢしたまへる気色見えたまふを、 いと心苦しう、ものをのみ思ほし添ふべかりける、と見たて まつるも、胸つとふたがりて悲しければ、 「今さらにむつ かしきことをば聞こえじと思へど、なほ、御宿世とはいひな がら、思はずに心幼くて、人のもどきを負ひたまふべきこと を。とり返すべき事にはあらねど、今よりはなほさる心した まへ。数ならぬ身ながらも、よろづにはぐくみきこえつるを、 今は、何ごとをも思し知り、世の中のとざまかうざまのあり さまをも思したどりぬべきほどに、見たてまつりおきつるこ とと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、な ほいといはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ 乱れはべるに、いましばしの命もとどめまほしうなむ。ただ

人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人二人と見る例は心- 憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、さばか りおぼろけにて、人の近づききこゆべきにもあらぬを。思ひ の外に、心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見たてまつり 悩みしかど、さるべき御宿世にこそは。院よりはじめたてま つりて思しなびき、この父大臣にもゆるいたまふべき御気色 ありしに、おのれ一人しも心をたててもいかがはと思ひ弱 りはべりし事なれば、末の世までものしき御ありさまを、わ が御過ちならぬに、大空をかこちて見たてまつり過ぐすを、 いとかう人のためわがための、よろづに聞きにくかりぬべき ことの出で来添ひぬべきが。さても、よその御名をば知らぬ 顔にて、世の常の御ありさまにだにあらば、おのづからあり 経んにつけても、慰むこともやと思ひなしはべるを、こよな う情なき人の御心にもはべりけるかな」
と、つぶつぶと泣き たまふ。

 いとわりなく押しこめてのたまふを、あらがひはるけむ言 の葉もなくて、ただうち泣きたまへるさま、おほどかにらう たげなり。うちまもりつつ、 「あはれ何ごとかは人に劣 りたまへる。いかなる御宿世にて、やすからずものを深く思 すべき契り深かりけむ」などのたまふままに、いみじう苦し うしたまふ。物の怪なども、かかる弱目にところ得るものな りければ、にはかに消え入りて、ただ冷えに冷え入りたまふ。 律師も騒ぎたちたまうて、願など立てののしりたまふ。深き 誓ひにて、今は命を限りける山籠りを、かくまでおぼろけな らず出で立ちて、壇こぼちて帰り入らむことの面目なく、仏 もつらくおぼえたまふべきことを、心を起こして祈り申した まふ。宮の泣きまどひたまふこと、いとことわりなりかし。 御息所死去 落葉の宮これを嘆いて死を願う かく騒ぐほどに、大将殿より御文取り入れ たるほのかに聞きたまひて、今宵もおはす まじきなめり、とうち聞きたまふ。 「心憂

く。世の例にも引かれたまふべきなめり。何に我さへさる言 の葉を残しけむ」
とさまざま思し出づるに、やがて絶え入り たまひぬ。あへなくいみじ、と言へばおろかなり。昔より物 の怪には、時々わづらひたまふ。限りと見ゆるをりをりもあ れば、例のごと取り入れたるなめり、とて加持まゐり騒げど、 いまはのさましるかりけり。  宮は後れじと思し入りて、つと添ひ臥したまへり。人々参 りて、 「今は言ふかひなし。いとかう思すとも、限りある 道は帰りおはすべきことにもあらず。慕ひきこえたまふとも、 いかでか御心にはかなふべき」と、さらなることわりを聞こ えて、 「いとゆゆしう。亡き御ためにも罪深きわざなり。 今は避らせたまへ」と、引き動かいたてまつれど、すくみた るやうにて、ものもおぼえたまはず。修法の壇こぼちてほろ ほろと出づるに、さるべきかぎりかたへこそ立ちとまれ、今 は限りのさまいと悲しう心細し。 諸方より弔問、朱雀院より御消息あり

所どころの御とぶらひ、いつの間にかと見 ゆ。大将殿も限りなく聞き驚きたまうて、 まづ聞こえたまへり。六条院よりも、致仕 の大殿よりも、すべていと繁う聞こえたまふ。  山の帝も聞こしめして、いとあはれに御文書いたまへり。 宮はこの御消息にぞ、御ぐしもたげたまふ。   日ごろ重く悩みたまふと聞きわたりつれど、例も   あつしうのみ聞きはべりつるならひにうちたゆみてなむ。   かひなき事をばさるものにて、思ひ嘆いたまふらむあり   さま推しはかるなむあはれに心苦しき。なべての世のこ   とわりに思し慰めたまへ。 とあり。目も見えたまはねど、御返り聞こえたまふ。 御息所の葬儀 夕霧弔問し何かと助力する 常にさこそあらめとのたまひける事とて、 今日やがてをさめたてまつるとて、御甥の 大和守にてありけるぞ、よろづに扱ひきこ

えける。骸をだにしばし見たてまつらむとて、宮は惜しみき こえたまひけれど、さてもかひあるべきならねば、みな急ぎ たちて、ゆゆしげなるほどにぞ大将おはしたる。 「今日よ り後、日次あしかりけり」など、人聞きにはのたまひて、い とも悲しうあはれに宮の思し嘆くらむことを、推しはかりき こえたまうて、 「かくしも急ぎ渡りたまふべき事ならず」と、 人々諌めきこゆれど、強ひておはしましぬ。  ほどさへ遠くて、入りたまふほどいと心すごし。ゆゆしげ にひき隔てめぐらしたる儀式の方は隠して、この西面に入れ たてまつる。大和守出で来て、泣く泣くかしこまり聞こゆ。 妻戸の簀子に押しかかりたまうて、女房呼び出でさせたまふ に、あるかぎり心もをさまらず、ものおぼえぬほどなり。か く渡りたまへるにぞ、いささか慰めて、少将の君は参る。も のもえのたまひやらず。涙もろにおはせぬ心強さなれど、所 のさま、人のけはひなどを思しやるもいみじうて、常なき世

のありさまの人の上ならぬもいと悲しきなりけり。  ややためらひて、 「よろしうおこたりたまふさまに承 りしかば、思たまへたゆみたりしほどに、夢も醒むるほどは べなるを、いとあさましうなむ」と聞こえたまへり。思した りしさま、これに多くは御心も乱れにしぞかし、と思すに、 さるべきとはいひながらも、いとつらき人の御契りなれば、 答へをだにしたまはず。 「いかに聞こえさせたまふとか、 聞こえはべるべき」 「いと軽らかならぬ御さまにて、かくふ りはへ急ぎ渡らせたまへる御心ばへを、思しわかぬやうなら むも、あまりにはべりぬべし」と口々聞こゆれば、 「ただ推しはかりて。我は言ふべきこともおぼえず」とて、 臥したまへるもことわりにて、 「ただ今は、亡き人と異 ならぬ御ありさまにてなむ。渡らせたまへるよしは、聞こえ させはべりぬ」と聞こゆ。この人々もむせかへるさまなれば、 「聞こえやるべき方もなきを。いますこしみづからも思ひ

のどめ、またしづまりたまひなむに参り来む。いかにしてか くにはかにと、その御ありさまなむゆかしき」
とのたまへば、 まほにはあらねど、かの思ほし嘆きしありさまを、片はしづ つ聞こえて、 「かこち聞こえさするさまになむなりはべ りぬべき。今日はいとど乱りがはしき心地どものまどひに、 聞こえさせ違ふることどももはべりなむ。さらば、かく思し まどへる御心地も、限りあることにて、すこししづまらせた まひなむほどに、聞こえさせ承らん」とて、我にもあらぬさま なれば、のたまひ出づることも口塞がりて、 「げにこそ闇 にまどへる心地すれ。なほ聞こえ慰めたまひて、いささかの 御返りもあらばなむ」などのたまひおきて、立ちわづらひた まふも軽々しう、さすがに人騒がしければ、帰りたまひぬ。  今宵しもあらじと思ひつる事どものしたため、いとほどな く際々しきを、いとあへなしと思いて、近き御庄の人々召し 仰せて、さるべき事ども仕うまつるべく、掟て定めて出でた

まひぬ。事のにはかなればそぐやうなりつる事ども、いかめ しう人数なども添ひてなむ。大和守も、 「あり難き殿の御心 おきて」などよろこびかしこまりきこゆ。なごりだになくあ さましきことと、宮は臥しまろびたまへどかひなし。親と聞 こゆとも、いとかくはならはすまじきものなりけり。見たて まつる人々も、この御事を、また、ゆゆしう嘆ききこゆ。大- 和守、残りの事どもしたためて、 「かく心細くてはえおは しまさじ。いと御心の隙あらじ」など聞こゆれど、なほ峰の 煙をだにけ近くて思ひ出できこえむと、この山里に住みはて なむと思いたり。御忌に籠れる僧は、東面、そなたの渡殿- 下屋などに、はかなき隔てしつつ、かすかにゐたり。西の廂 をやつして、宮はおはします。明け暮るるも思しわかねど、 月ごろ経ければ、九月になりぬ。 夕霧慰問を重ね、宮の態度に焦慮する

山おろしいとはげしう、木の葉の隠ろへな くなりて、よろづのこといといみじきほど なれば、おほかたの空にもよほされて、干 る間もなく思し嘆き、命さへ心にかなはずと、厭はしういみ じう思す。さぶらふ人々も、よろづにもの悲しう思ひまどへ り。大将殿は、日々にとぶらひきこえたまふ。さびしげなる 念仏の僧など慰むばかり、よろづの物を遣はしとぶらはせた まひ、宮の御前には、あはれに心深き言の葉を尽くして恨み きこえ、かつは尽きもせぬ御とぶらひを聞こえたまへど、取 りてだに御覧ぜず、すずろにあさましきことを、弱れる御心- 地に疑ひなく思ししみて、消えうせたまひにし事を思し出づ るに、後の世の御罪にさへやなるらむと胸に満つ心地して、 この人の御事をだにかけて聞きたまふは、いとどつらく心憂 き涙のもよほしに思さる。人々も聞こえわづらひぬ。一行の 御返りをだにもなきを、しばしは心まどひしたまへるなど思

しけるに、あまりにほど経ぬれば、 「悲しきことも限りある を。などか、かくあまり見知りたまはずはあるべき。言ふか ひなく若々しきやうに」と恨めしう、 「異事の筋に、花や蝶 やとかけばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ、もの嘆かし き方ざまのことをいかにと問ふ人は、睦ましうあはれにこそ おぼゆれ。大宮の亡せたまへりしをいと悲しと思ひしに、致- 仕の大臣のさしも思ひたまへらず、ことわりの世の別れに、 おほやけおほやけしき作法ばかりの事を孝じたまひしに、つ らく心づきなかりしに、六条院のなかなかねむごろに後の御- 事をも営みたまうしが、わが方ざまといふ中にも、うれしう 見たてまつりし。そのをりに、故衛門督をばとりわきて思ひ つきにしぞかし。人柄のいたうしづまりて、ものをいたう思 ひとどめたりし心に、あはれもまさりて人より深かりしがな つかしうおぼえし」など、つれづれとものをのみ思しつづけ て明かし暮らしたまふ。 雲居雁の不安 夕霧と和歌を詠み交す

女君、なほこの御仲のけしきを、 「いかな るにかありけむ。御息所とこそ文通はしも こまやかにしたまふめりしか」など思ひえ 難くて、夕暮の空をながめ入りて臥したまへるところに、若- 君して奉れたまへる、はかなき紙の端に、   「あはれをもいかに知りてかなぐさめむあるや恋し   き亡きやかなしき おぼつかなきこそ心憂けれ」とあれば、ほほ笑みて、 「さま ざまにかく思ひよりてのたまふ。似げなの亡きがよそへや」 と思す。いととく、ことなしびに、   「いづれとか分きてながめん消えかへる露も草葉の上   と見ぬ世を おほかたにこそ悲しけれ」と書いたまへり。なほかく隔てた まへることと、露のあはれをばさしおきて、ただならず嘆き つつおはす。 夕霧、小野に宮を訪れ、むなしく帰る

なほかくおぼつかなく思しわびて、また渡 りたまへり。御忌など過ぐしてのどやかに、 と思ししづめけれど、さまでもえ忍びたま はず。 「今はこの御なき名の、何かはあながちにもつつまむ。 ただ世づきて、つひの思ひかなふべきにこそは」と思したち にければ、北の方の御思ひやりをあながちにもあらがひきこ えたまはず。正身は強う思し離るとも、かの一夜ばかりの御- 恨み文をとらへどころにかこちて、えしもすすぎはてたまは じ、と頼もしかりけり。  九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だにただに やはおぼゆる。山風にたへぬ木々の梢も、峰の葛葉も心あわ たたしうあらそひ散る紛れに、尊き読経の声かすかに、念仏 などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、木枯の吹き払 ひたるに、鹿はただ籬のもとにたたずみつつ、山田の引板に も驚かず、色濃き稲どもの中にまじりてうちなくも愁へ顔な

り。滝の声は、いとどもの思ふ人を驚かし顔に耳かしがまし うとどろき響く。草むらの虫のみぞよりどころなげに鳴き弱 りて、枯れたる草の下より龍胆のわれ独りのみ心長うはひ出 でて露けく見ゆるなど、みな例のころの事なれど、をりから 所がらにや、いとたへがたきほどのもの悲しさなり。  例の妻戸のもとに立ち寄りたまて、やがてながめ出だして 立ちたまへり。なつかしきほどの直衣に、色濃かなる御衣の 擣目いとけうらに透きて、影弱りたる夕日の、さすがに何心 もなうさし来たるに、まばゆげにわざとなく扇をさし隠した まへる手つき、 「女こそかうはあらまほしけれ。それだにえ あらぬを」と見たてまつる。もの思ひの慰めにしつべく、笑 ましき顔のにほひにて、少将の君をとり分きて召し寄す。簀- 子のほどもなけれど、奥に人や添ひゐたらんとうしろめたく て、えこまやかにも語らひたまはず。 「なほ近くてを。な 放ちたまひそ。かく山深く分け入る心ざしは、隔て残るべく

やは。霧もいと深しや」
とて、わざとも見入れぬさまに山の 方をながめて、 「なほ、なほ」と切にのたまへば、鈍色の 几帳を簾のつまよりすこし押し出でて、裾をひきそばめつつ ゐたり。大和守の妹なれば、離れたてまつらぬうちに、幼く より生ほしたてたまうければ、衣の色いと濃くて、橡の喪衣 一襲、小袿着たり。 「かく尽きせぬ御事はさるものにて、 聞こえむ方なき御心のつらさを思ひ添ふるに、心魂もあく がれはてて、見る人ごとに咎められはべれば、今は、さらに、 忍ぶべき方なし」と、いと多く恨みつづけたまふ。かのいま はの御文のさまものたま ひ出でて、いみじう泣き たまふ。この人も、まし ていみじう泣き入りつつ、 「その夜の御返りさ へ見えはべらずなりにし

を、今は限りの御心に、やがて思し入りて、暗うなりにしほ どの空のけしきに御心地まどひにけるを、さる弱目に例の御- 物の怪のひき入れたてまつるとなむ見たまへし。過ぎにし御 ことにも、ほとほと御心まどひぬべかりしをりをり多くはべ りしを、宮の同じさまに沈みたまうしをこしらへきこえんの 御心強さになむ、やうやうものおぼえたまうし。この御嘆き をば、御前には、ただ我かの御気色にて、あきれて暮らさせ たまうし」
など、とめがたげにうち嘆きつつ、はかばかしう もあらず聞こゆ。 「そよや。そもあまりにおぼめかしう、 言ふかひなき御心なり。今は、かたじけなくとも、誰をかは 寄るべに思ひきこえたまはん。御山住みも、いと深き峰に 世の中を思し絶えたる雲の中なめれば、聞こえ通ひたまはむ こと難し。いとかく心憂き御気色聞こえ知らせたまへ。よろ づの事さるべきにこそ。世にあり経じと思すとも、従はぬ世 なり。まづはかかる御別れの御心にかなはば、あるべき事か

は」
など、よろづに多くのたまへど、聞こゆべきこともなく て、うち嘆きつつゐたり。鹿のいといたくなくを、 「我お とらめや」とて、   里とほみ小野の篠原わけて来てわれもしかこそ声も   をしまね とのたまへば、   藤ごろも露けき秋の山びとは鹿のなく音に音をぞ   そへつる よからねど、をりからに、忍びやかなる声づかひなどを、よ ろしう聞きなしたまへり。  御消息とかう聞こえたまへど、 「今は、かくあさまし き夢の世を、すこしも思ひさますをりあらばなん、絶えぬ御 とぶらひも、聞こえやるべき」とのみ、すくよかに言はせた まふ。いみじう言ふかひなき御心なりけりと、嘆きつつ帰り たまふ。 夕霧、一条宮を過ぎて帰邸 雲居雁の嘆き

道すがらも、あはれなる空をながめて、十- 三日の月のいとはなやかにさし出でぬれば、 小倉の山もたどるまじうおはするに、一条- 宮は道なりけり。いとどうちあばれて、未申の方の崩れたる を見入るれば、はるばるとおろしこめて、人影も見えず、月 のみ遣水の面をあらはにすみましたるに、大納言ここにて遊 びなどしたまうしをりをりを、思ひ出でたまふ。   見し人のかげすみはてぬ池水にひとり宿もる秋の夜   の月 と独りごちつつ、殿におはしても、月を見つつ、心は空にあ くがれたまへり。 「さも見苦しう。あらざりし御癖かな」 と、御達も憎みあへり。  上はまめやかに心憂く、 「あくがれたちぬる御心なめり。 もとよりさる方にならひたまへる六条院の人々を、ともすれ ばめでたき例にひき出でつつ、心よからずあいだちなきもの

に思ひたまへる、わりなしや、我も、昔よりしかならひなま しかば、人目も馴れてなかなか過ぐしてまし。世の例にもし つべき御心ばへと、親はらからよりはじめたてまつり、めや すきあえものにしたまへるを、ありありては末に恥ぢがまし き事やあらむ」
など、いといたう嘆いたまへり。 夕霧の文への返事に小少将宮の歌を入れる 夜明け方近く、かたみにうち出でたまふこ となくて、背き背きに嘆き明かして、朝霧 の晴れ間も待たず、例の、文をぞ急ぎ書き たまふ。いと心づきなしと思せど、ありしやうにも奪ひたま はず。いとこまやかに書きて、うち置きてうそぶきたまふ。 忍びたまへど、漏りて聞きつけらる。   「いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の夢さめてとか   言ひしひとこと 上より落つる」とや書いたまへらむ、おし包みて、なごりも、 「いかでよからむ」など口ずさびたまへり。人召して賜ひ

つ。 「御返り事をだに見つけてしがな。なほいかなることぞ」 と気色見まほしう思す。  日たけてぞ持て参れる。紫の濃かなる紙すくよかにて、小- 少将ぞ、例の、聞こえたる。ただ同じさまに、かひなきよし を書きて、 「いとほしさに、かのありつる御文に、手習 すさびたまへるを盗みたる」とて、中にひき破りて入れたり。 目には見たまうてけり、と思すばかりのうれしさぞ、いと人 わろかりける。そこはかとなく書きたまへるを、見つづけた まへれば、    朝夕になく音をたつる小野山は絶えぬなみだや音   なしの滝 とや、とりなすべからむ。古言など、もの思はしげに書き乱 りたまへる、御手なども見どころあり。 「人の上などにて、 かやうのすき心思ひ焦らるるは、もどかしう、うつし心なら ぬことに見聞きしかど、身の事にては、げにいとたへがたか

るべきわざなりけり。あやしや。などかうしも思ふべき心焦 られぞ」
と思ひ返したまへど、えしもかなはず。 源氏、夕霧と宮との噂を聞き、心痛する 六条院にも聞こしめして、いとおとなしう よろづを思ひしづめ、人の譏りどころなく、 めやすくて過ぐしたまふを、面だたしう、 わがいにしへ、すこしあざればみ、あだなる名をとりたまう し面起こしに、うれしう思しわたるを、 「いとほしう、いづ 方にも心苦しきことのあるべきこと。さし離れたる仲らひに てだにあらで、大臣などもいかに思ひたまはむ。さばかりの 事たどらぬにはあらじ。宿世といふもののがれわびぬること なり。ともかくも口入るべきことならず」と思す。女のため のみにこそいづ方にもいとほしけれ、とあいなく聞こしめし 嘆く。紫の上にも、来し方行く先のこと思し出でつつ、かう やうの例を聞くにつけても、亡からむ後、うしろめたう思ひ きこゆるさまをのたまへば、御顔うち赤めて、 「心憂く。さ

まで後らかしたまふべきにや」
と思したり。 「女ばかり、身 をもてなすさまもところせう、あはれなるべきものはなし。 もののあはれ、をりをかしきことをも見知らぬさまに引き入 り沈みなどすれば、何につけてか、世に経るはえばえしさも、 常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。おほかたものの心を 知らず、言ふかひなき者にならひたらむも、生ほしたてけむ 親も、いと口惜しかるべきものにはあらずや。心にのみ籠め て、無言太子とか、小法師ばらの悲しきことにする昔のたと ひのやうに、あしき事よき事を思ひ知りながら埋もれなむ も、言ふかひなし。わが心ながらも、よきほどにはいかでた もつべきぞ」と思しめぐらすも、今は、ただ女一の宮の御た めなり。 源氏、夕霧と対面の際、宮のことを探る 大将の君参りたまへるついでありて、思た まへらむ気色もゆかしければ、 「御息所 の忌はてぬらんな。昨日今日と思ふほど

に、三年よりあなたの事になる世にこそあれ。あはれにあぢ きなしや。夕の露かかるほどのむさぼりよ。いかでこの髪剃 りて、よろづ背き棄てんと思ふを、さものどやかなるやうに ても過ぐすかな。いと悪きわざなりや」
とのたまふ。 「ま ことに、惜しげなき人だにおのがじしは離れがたく思ふ世に こそはべめれ」など聞こえて、 「御息所の四十九日のわざ など、大和守なにがしの朝臣独り扱ひはべる、いとあはれな るわざなりや。はかばかしきよすがなき人は、生ける世の限 りにて、かかる世のはてこそ悲しうはべりけれ」と聞こえた まふ。 「院よりもとぶらはせたまふらん。かの皇女いかに 思ひ嘆きたまふらん。はやう聞きしよりは、この近き年ご ろ、事にふれて聞き見るに、この更衣こそ、口惜しからずめ やすき人の中なりけれ。おほかたの世につけて、惜しきわざ なりや。さてもありぬべき人のかう亡せゆくよ。院もいみじ う驚き思したりけり。かの皇女こそは、ここにものしたまふ

入道の宮よりさしつぎには、らうたうしたまひけれ。人ざま もよくおはすべし」
とのたまふ。 「御心はいかがものした まふらん。御息所はこともなかりし人のけはひ心ばせにな む。親しううちとけたまはざりしかど、はかなき事のついで に、おのづから人の用意はあらはなるものになむはべる」と 聞こえたまひて、宮の御事もかけず、いとつれなし。 「かば かりのすくよけ心に思ひそめてんこと、諫めむにかなはじ。 用ゐざらむものから、我さかしに言出でむもあいなし」と思 してやみぬ。 夕霧、法事を主宰する 大臣不快に思う かくて、御法事に、よろづとりもちてせさ せたまふ。事の聞こえ、おのづから隠れな ければ、大殿などにも聞きたまひて、さや はあるべきなど、女方の心浅きやうに思しなすぞわりなきや。 かの昔の御心あれば、君達もまでとぶらひたまふ。誦経など、 殿よりもいかめしうせさせたまふ。これかれも、さまざま劣

らずしたまへれば、時の人のかやうのわざに劣らずなむあり ける。 朱雀院、落葉の宮の出家の望みを諫める 宮は、かくて住みはてなんと思したつこと ありけれど、院に人の漏らし奏しければ、 「いとあるまじきことなり。げに、あ またとざまかうざまに身をもてなしたまふべきことにもあら ねど、後見なき人なむ、なかなかさるさまにてあるまじき名 を立ち、罪得がましき時、この世後の世、中空にもどかしき 咎負ふわざなる。ここにかく世を棄てたるに、三の宮の同じ ごと身をやつしたまへる、末なきやうに人の思ひ言ふも、棄 てたる身には思ひ悩むべきにはあらねど、必ず、さしも、や うのこととあらそひたまはむもうたてあるべし。世のうきに つけて厭ふはなかなか人わろきわざなり。心と思ひとる方あ りて、いますこし思ひしづめ心澄ましてこそともかうも」と たびたび聞こえたまうけり。この浮きたる御名をぞ聞こしめ

したるべき。さやうの事の思はずなるにつけて倦じたまへる、 と言はれたまはんことを思すなりけり。さりとて、また、あ らはれてものしたまはむもあはあはしう心づきなきことと思 しながら、恥づかしと思さむもいとほしきを、何かは我さへ 聞きあつかはむ、と思してなむ、この筋はかけても聞こえた まはざりける。 夕霧、宮を一条宮に移すための用意をする 大将も、 「とかく言ひなしつるも今はあい なし。かの御心にゆるしたまはむことは難 げなめり。御息所の心知りなりけり、と人 には知らせん。いかがはせむ。亡き人にすこし浅き咎は思は せて、いつありそめし事ぞともなく紛らはしてん。さらがへ りて懸想だち涙を尽くしかかづらはむも、いとうひうひしか るべし」と思ひえたまうて、一条に渡りたまふべき日、その 日ばかりと定めて、大和守召して、あるべき作法のたまひ、 宮の内払ひしつらひ、さこそいへども女どちは草しげう住み

なしたまへりしを、磨きたるやうにしつらひなして、御心づ かひなど、あるべき作法めでたう、壁代、御屏風、御几帳、 御座などまで思しよりつつ、大和守にのたまひて、かの家に ぞ急ぎ仕うまつらせたまふ。 大和守に説得され、宮泣き泣き帰京する その日、我おはしゐて、御車御前など奉れ たまふ。宮は、さらに渡らじと思しのたま ふを、人々いみじう聞こえ、大和守も、 「さらにうけたまはらじ。心細く悲しき御ありさまを見たて まつり嘆き、このほどの宮仕はたふるに従ひて仕うまつり ぬ。今は、国のこともはべり、まかり下りぬべし。宮の内の ことも見たまへ 譲るべき人もは べらず、いとた いだいしう、い かにと見たまふ

るを、かくよろづに思し営むを、げに、この方にとりて思た まふるには、必ずしもおはしますまじき御ありさまなれど、 さこそはいにしへも御心にかなはぬ例多くはべれ、一ところ やは世のもどきをも負はせたまふべき。いと幼くおはしま すことなり。たけう思すとも、女の御心ひとつにわが御身を とりしたためかへりみたまふべきやうかあらむ。なほ人のあ がめかしづきたまへらんに助けられてこそ。深き御心のかし こき御おきても、それにかかるべきものなり。君たちの聞こ え知らせたてまつりたまはぬなり。かつは、さるまじき事を も、御心どもに仕うまつりそめたまうて」
と言ひつづけて、 左近少将を責む。  集まりて聞こえこしらふるに、いとわりなく、あざやかな る御衣ども人々の奉りかへさするも、我にもあらず、なほい とひたぶるにそぎ棄てまほしう思さるる御髪をかき出でて見 たまへば、六尺ばかりにて、すこし細りたれど、人はかたは

にも見たてまつらず。みづからの御心には、 「いみじの衰へ や。人に見ゆべきありさまにもあらず。さまざまに心憂き身 を」と思しつづけて、また臥したまひぬ。 「時たがひぬ。 夜も更けぬべし」と、みな騒ぐ。時雨いと心あわたたしう吹 きまがひ、よろづにもの悲しければ、 のぼりにし峰の煙にたちまじり思はぬかたになび   かずもがな 心ひとつには強く思せど、そのころは、御鋏などやうのもの はみなとり隠して、人々のまもりきこえければ、 「かくもて 騒がざらむにてだに、何の惜しげ ある身にてかをこがましう若々し きやうにはひき忍ばむ。人聞きも うたて思すまじかべきわざを」と 思せば、その本意のごともしたま はず。

 人々はみないそぎたちて、おのおの櫛、手箱、唐櫃、よろ づの物を、はかばかしからぬ袋やうの物なれど、みな先だて て運びたれば、独りとまりたまふべうもあらで、泣く泣く御- 車に乗りたまふも、かたはらのみまもられたまて、こち渡り たまうし時、御心地の苦しきにも御髪かき撫でつくろひ、下 ろしたてまつりたまひしを思し出づるに目も霧りていみじ。 御佩刀にそへて、経箱を添へたるが御かたはらも離れねば、   恋しさのなぐさめがたき形見にて涙にくもる玉の   はこかな 黒きもまだしあへさせたまはず、かの手馴らしたまへりし螺- 鈿の箱なりけり。誦経にせさせたまひしを、形見にとどめた まへるなりけり。浦島の子が心地なん。 宮、夕霧の待ち構えている一条宮に帰る おはしまし着きたれば、殿の内悲しげもな く、人気多くてあらぬさまなり。御車寄せ ておりたまふを、さらに古里とおぼえずう

とましううたて思さるれば、とみにもおりたまはず。いとあ やしう若々しき御さまかなと、人々も見たてまつりわづらふ。 殿は東の対の南面をわが御方に仮にしつらひて、住みつき顔 におはす。三条殿には、人々、 「にはかにあさましうもなり たまひぬるかな。いつのほどにありし事ぞ」と驚きけり。な よらかにをかしばめることを好ましからず思す人は、かくゆ くりかなる事ぞうちまじりたまうける。されど、年経にける ことを、音なく気色も漏らさで過ぐしたまうけるなり、との み思ひなして、かく女の御心ゆるいたまはぬと思ひよる人も なし。とてもかうても宮の御ためにぞいとほしげなる。  御設けなどさま変りて、もののはじめゆゆしげなれど、物 まゐらせなどみなしづまりぬるに渡りたまて、少将の君をい みじう責めたまふ。 「御心ざしまことに長う思されば、 今日明日を過ぐして聞こえさせたまへ。なかなかたち返りて、 もの思し沈みて、亡き人のやうにてなむ臥させたまひぬる。

こしらへきこゆるをもつらしとのみ思されたれば、何ごとも 身のためこそはべれ、いとわづらはしう聞こえさせにくくな む」
と言ふ。 「いとあやしう。推しはかりきこえさせしに は違ひて、いはけなく心えがたき御心にこそありけれ」とて、 思ひよれるさま、人の御ためも、わがためも、世のもどきあ るまじうのたまひつづくれば、 「いでや、ただ今は、ま たいたづら人に見なしたてまつるべきにやと、あわたたしき 乱り心地に、よろづ思たまへわかれず。あが君、とかく押し 立ちて、ひたぶるなる御心な使はせたまひそ」と手を摺る。 「いとまた知らぬ世かな。憎くめざましと、人よりけに思 しおとすらん身こそいみじけれ。いかで人にもことわらせ む」と、言はむ方もなしと思してのたまへば、さすがにいと ほしうもあり。 「また知らぬは、げに世づかぬ御心構へ のけにこそはと。ことわりは、げに、いづ方にかは寄る人は べらんとすらむ」と、すこしうち笑ひぬ。 夕霧、落葉の宮に迫る 宮塗籠にこもる

かく心強けれど、今はせかれたまふべきな らねば、やがてこの人をひき立てて、推し はかりに入りたまふ。宮はいと心憂く、情 なくあはつけき人の心なりけり、とねたくつらければ、若々 しきやうには言ひ騒ぐとも、と思して、塗籠に御座一つ敷か せたまて、内より鎖して大殿籠りにけり。これもいつまでに かは。かばかりに乱れたちにたる人の心どもは、いと悲しう 口惜しう思す。男君は、めざましうつらし、と思ひきこえた まへど、かばかりにては何のもて離るることかはとのどかに 思して、よろづに思ひ明かしたまふ。山鳥の心地ぞしたまう ける。からうじて明け方になりぬ。かくてのみ、事といへば、 直面なべければ出でたまふとて、 「ただいささかの隙をだ に」と、いみじう聞こえたまへど、いとつれなし。   「うらみわび胸あきがたき冬の夜にまた鎖しまさる関   の岩門

聞こえん方なき御心なりけり」
と、泣く泣く出でたまふ。 夕霧六条院にいたり、花散里・源氏と対面 六条院にぞおはして、やすらひたまふ。 東の上、 「一条宮渡したてまつりたま へることと、かの大殿わたりなどに聞こゆ る、いかなる御事にかは」と、いとおほどかにのたまふ。御- 几帳そへたれど、そばよりほのかにはなほ見えたてまつりた まふ。 「さやうにも、なほ人の言ひなしつべき事にはべり。 故御息所は、いと心強うあるまじきさまに言ひ放ちたまうし かど、限りのさまに御心地の弱りけるに、また見譲るべき人 のなきや悲しかりけむ、亡からむ後の後見にとやうなること のはべりしかば、もとよりの心ざしもはべりし事にて、かく 思たまへなりぬるを、さまざまに、いかに人あつかひはべら むかし。さしもあるまじきをも、あやしう人こそもの言ひさ がなきものにあれ」と、うち笑ひつつ、 「かの正身なむ、 なほ世に経じと深う思ひたちて、尼になりなむと思ひむすぼ

ほれたまふめれば、何かは。こなたかなたに聞きにくくもは ベベきを、さやうに嫌疑離れても、またかの遺言は違へじと 思ひたまへて、ただかく言ひあつかひはべるなり。院の渡ら せたまへらんにも、事のついではべらば、かうやうにまねび きこえさせたまへ。ありありて心づきなき心つかふと、思し のたまはむを憚りはべりつれど、げにかやうの筋にてこそ、 人の諫めをも、みづからの心にも従はぬやうにはべりけれ」
と、忍びやかに聞こえたまふ。   「人の偽りにや、と思ひはべりつるを、まことにさる やうある御気色にこそは。みな世の常の事なれど、三条の姫- 君の思さむことこそいとほしけれ。のどやかにならひたまう て」聞こえたまへば、 「らうたげにものたまはせなす姫- 君かな。いと鬼しうはべるさがなものを」とて、 「などて か、それをもおろかにはもてなしはべらん。かしこけれど、 御ありさまどもにても、推しはからせたまへ。なだらかなら

むのみこそ、人はつひのことにははべめれ。さがなく、事が ましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうに憚 らるることあれど、それにしも従ひはつまじきわざなれば、 事の乱れ出で来ぬる後、我も人も憎げにあきたしや。なほ南 の殿の御心用ゐこそ、さまざまにあり難う、さてはこの御方 の御心などこそは、めでたきものには見たてまつりはてはべ りぬれ」
など、ほめきこえたまへば、笑ひたまひて、 「も のの例に引き出でたまふほどに、身の人わろきおぼえこそあ らはれぬべう。さてをかしきことは、院の、みづからの御癖 をば人知らぬやうに、いささかあだあだしき御心づかひをば 大事と思いて、いましめ申したまふ、後言にも聞こえたまふ めるこそ、さかしだつ人の己が上知らぬやうにおぼえはべ れ」とのたまへば、 「さなむ。常にこの道をしもいましめ 仰せらるる。さるはかしこき御教ならでも、いとよくをさめ てはべる心を」とて、げにをかしと思ひたまへり。

 御前に参りたまへれば、かの事は聞こしめしたれど、何か は聞き顔にも、と思いて、ただうちまもりたまへるに、 「い とめでたくきよらに、このごろこそねびまさりたまへる御さ かりなめれ。さるさまのすき事をしたまふとも、人のもどく べきさまもしたまはず、鬼神も罪ゆるしつべく、あざやかに もの清げに若うさかりににほひを散らしたまへり。もの思ひ 知らぬ若人のほどに、はた、おはせず、かたほなるところな うねびととのほりたまへる、ことわりぞかし。女にて、など かめでざらむ。鏡を見ても、などかおごらざらむ」とわが御- 子ながらも思す。 夕霧、雲居雁の嫉妬をなだめすかす 日たけて、殿には渡りたまへり。入りたま ふより、若君たちすぎすぎうつくしげにて、 まつはれ遊びたまふ。女君は、帳の内に臥 したまへり。入りたまへれど目も見あはせたまはず。つらき にこそはあめれ、と見たまふもことわりなれど、憚り顔にも

もてなしたまはず、御- 衣を引きやりたまへれ ば、 「いづことて おはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同 じくはなりはてなむとて」とのたまふ。 「御心こそ鬼より けにもおはすれ、さまは憎げもなければ、えうとみはつま じ」と、何心もなう言ひなしたまふも心やましうて、 「めでたきさまになまめいたまへらむあたりにあり経べき身 にもあらねば、いづちもいづちも失せなむとす。なほかくだ にな思し出でそ。あいなく年ごろを経けるだに、悔しきもの を」とて、起き上りたまへるさまは、いみじう愛敬づきて、 にほひやかにうち赤みたまへる顔いとをかしげなり。 「か く心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こ そ、今は、恐ろしくもあらずなりにたれ。神々しき気を添へ ばや」と、戯れに言ひなしたまへど、 「何ごと言ふぞ。

おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し、聞け ば愛敬なし、見棄てて死なむはうしろめたし」
とのたまふに、 いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、 「近 くてこそ見たまはざらめ、よそにはなどか聞きたまはざらむ。 さても契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにう ちつづくべかなる冥途の急ぎは、さこそは契りきこえしか」 と、いとつれなく言ひて、何くれとこしらへきこえ慰めたま へば、いと若やかに心うつくしうらうたき心、はた、おはす る人なれば、なほざり言とは見たまひながら、おのづから和 みつつものしたまふを、いとあはれと思すものから、心は空 にて、 「かれも、いとわが心をたてて強うものものしき人の けはひには見えたまはねど、もしなほ本意ならぬことにて尼 になども思ひなりたまひなば、をこがましうもあべいかな」 と思ふに、しばしはと絶えおくまじうあわたたしき心地して、 暮れゆくままに、今日も御返りだになきよと思して、心にか

かりていみじうながめをしたまふ。  昨日今日つゆもまゐらざりけるもの、いささかまゐりなど しておはす。 「昔より、御ために心ざしのおろかならざり しさま、大臣のつらくもてなしたまうしに、世の中の痴れが ましき名をとりしかど、たへがたきを念じて、ここかしこす すみ気色ばみしあたりをあまた聞き過ぐししありさまは、女 だにさしもあらじとなむ人ももどきし。今思ふにも、いかで かはさありけむと、わが心ながら、いにしへだに重かりけり、 と思ひ知らるるを、今は、かく憎みたまふとも、思し棄つま じき人々いとところせきまで数添ふめれば、御心ひとつにも て離れたまふべくもあらず。また、よし見たまへや、命こそ 定めなき世なれ」とて、うち泣きたまふこともあり。女も、 昔のことを思ひ出でたまふに、あはれにもあり難かりし御仲 のさすがに契り深かりけるかな、と思ひ出でたまふ。なよび たる御衣ども脱いたまうて、心ことなるをとり重ねてたきし

めたまひ、めでたうつくろひ化粧じて出でたまふを灯影に見- 出だして、忍びがたく涙の出で来れば、脱ぎとめたまへる単- 衣の袖を引き寄せたまひて、   「なるる身をうらむるよりは松島のあまの衣にたち   やかへまし なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり」と、独り言に のたまふを立ちとまりて、 「さも心憂き御心かな。  松島のあまの濡れぎぬなれぬとてぬぎかへつてふ名をた   ためやは」 うち急ぎて、いとなほなほしや。 夕霧、塗籠の宮をくどくが宮頑なに拒む かしこには、なほさし籠りたまへるを、人- 人、 「かくてのみやは。若々しうけしから ぬ聞こえもはべりぬべきを、例の御ありさ まにて、あるべきことをこそ聞こえたまはめ」などよろづに 聞こえければ、さもあることとは思しながら、今より後のよ

その聞こえをもわが御心の過ぎにし方をも、心づきなく恨め しかりける人のゆかりと思し知りて、その夜も対面したまは ず。 「戯れにくく、めづらかなり」と聞こえ尽くしたまふ。 人もいとほしと見たてまつる。 「いささかも人心地する をりあらむに、忘れたまはずは、ともかうも聞こえん。この 御服のほどは、一筋に思ひ乱るることなくてだに過ぐさむと なん深く思しのたまはするを、かくいとあやにくに知らぬ人 なくなりぬめるを、なほいみじうつらきものに聞こえたま ふ」と聞こゆ。 「思ふ心はまた異ざまにうしろやすきもの を。思はずなりける世かな」とうち嘆きて、 「例のやうに ておはしまさば、物越しなどにても、思ふことばかり聞こえ て、御心破るべきにもあらず。あまたの年月をも過ぐしつべ くなむ」など、尽きもせず聞こえたまへど、 「なほか かる乱れに添へて、わりなき御心なむいみじうつらき。人の 聞き思はむこともよろづになのめならざりける身のうさをば

さるものにて、ことさらに心憂き御心構へなれ」
と、また言 ひ返し恨みたまひつつ、はるかにのみもてなしたまへり。 小少将、夕霧を塗籠の中に導き入れる 「さりとてかくのみやは。人の聞き漏らさ むこともことわり」とはしたなう、ここの 人目もおぼえたまへば、 「内々の御心づ かひは、こののたまふさまにかなひても、しばしは情ばまむ。 世づかぬありさまのいとうたてあり。またかかりとてひき絶 え参らずは、人の御名いかがはいとほしかるべき。ひとへに ものを思して、幼げなるこそいとほしけれ」など、この人を 責めたまへば、げにとも思ひ、見たてまつるも今は心苦しう、 かたじけなうおぼゆるさまなれば、人通はしたまふ塗籠の北 の口より入れたてまつりてけり。いみじうあさましうつらし と、さぶらふ人をも、げにかかる世の人の心なれば、これよ りまさる目をも見せつべかりけりと、頼もしき人もなくなり はてたまひぬる御身をかへすがへす悲しう思す。

 男は、よろづに思し知るべきことわりを聞こえ知らせ、言 の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、つ  らく心づきなしとのみ思いたり。 「いと、かう、言はむ方 なき者に思ほされける身のほどは、たぐひなう恥づかしけれ ば、あるまじき心のつきそめけむも、心地なく悔しうおぼえ はべれど、とり返すものならぬ中に、何のたけき御名にかは あらむ。言ふかひなく思し弱れ。思ふにかなはぬ時、身を投 ぐる例もはべなるを、ただかかる心ざしを深き淵になずらへ たまて、棄てつる身と思しなせ」と聞こえたまふ。単衣の御- 衣を御髪籠めひきくくみて、たけきこととは音を泣きたまふ さまの、心深くいとほしければ、 「いとうたて。いかなれば 、 いとかう思すらむ。いみじう思ふ人も、かばかりになりぬれ ば、おのづからゆるぶ気色もあるを、岩木よりけになびきが  たきは、契り遠うて、憎しなど思ふやうあなるを、さや思  すらむ」と思ひよるに、あまりなれば心憂く、三条の君の思

ひたまふらんこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひかはし たりし世の事、年ごろ、今はとうらなきさまにうち頼みとけ たまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう 思ひつづけらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、 嘆き明かしたまうつ。 夜明け方、夕霧ついに宮と契りを交す かうのみ痴れがましうて、出で入らむもあ やしければ、今日はとまりて、心のどかに おはす。かくさへひたぶるなるを、あさま し、と宮は思いて、いよいようとき御気色のまさるを、をこ がましき御心かな、とかつはつらきもののあはれなり。塗籠 も、ことにこまかなる物多うもあらで、香の御唐櫃、御廚子 などばかりあるは、こなたかなたにかき寄せて、け近うしつ らひてぞおはしける。内は暗き心地すれど、朝日さし出でた るけはひ漏り来たるに、埋もれたる御衣ひきやり、いとうた て乱れたる御髪かきやりなどして、ほの見たてまつりたまふ。

いとあてに女しう、なま めいたるけはひしたまへ り。男の御さまは、うる はしだちたまへる時より も、うちとけてものした まふは、限りもなう清げ なり。故君のことなるこ となかりしだに、心の限り思ひ上り、御容貌まほにおはせず と、事のをりに思へりし気色を思し出づれば、まして、かう いみじう衰へにたるありさまを、しばしにても見忍びなんや と思ふもいみじう恥づかし。とざまかうざまに思ひめぐらし つつ、わが御心をこしらへたまふ。ただかたはらいたう、こ こもかしこも、人の聞き思さむことの罪避らむ方なきに、を りさへいと心憂ければ、慰めがたきなりけり。  御手水御粥など、例の御座の方にまゐれり。色異なる御し

つらひも、いまいましきやうなれば、東面は屏風を立てて、 母屋の際に香染の御几帳など、ことごとしきやうに見えぬも の、沈の二階なんどやうのを立てて、心ばへありてしつらひ たり。大和守のしわざなりけり。人々も、あざやかならぬ色 の、山吹、掻練、濃き衣、青鈍などを着かへさせ、薄色の裳、 青朽葉などをとかく紛らはして、御台はまゐる。女所にて、 しどけなくよろづのことならひたる宮の内に、ありさま心と どめて、わづかなる下人をも言ひととのへ、この人ひとりの みあつかひ行ふ。かくおぼえぬやむごとなき客人のおはする と聞きて、もと勤めざりける家司などうちつけに参りて、政- 所などいふ方にさぶらひて営みけり。 雲居雁、父の邸に帰る 夕霧迎えに訪れる かくせめて住み馴れ顔つくりたまふほど、 三条殿、限りなめりと、 「さしもやはとこ そかつは頼みつれ、まめ人の心変るはなご りなくなむ、と聞きしはまことなりけり」と世を試みつる心-

地して、いかさまにしてこのなめげさを見じ、と思しければ、 大殿へ方違へむとて渡りたまひにけるを、女御の里におはす るほどなどに対面したまうて、すこしもの思ひはるけ所に思 されて、例のやうにも急ぎ渡りたまはず。大将殿も聞きたま ひて、 「さればよ。いと急にものしたまふ本性なり。この大- 殿も、はた、おとなおとなしうのどめたるところさすがにな く、いとひききりに、はなやいたまへる人々にて、めざまし、 見じ、聞かじなど、ひがひがしき事どもし出でたまうつべ き」とおどろかれたまうて、三条殿に渡りたまへれば、君た ちもかたへはとまりたまへれば、姫君たち、さてはいと幼き とをぞゐておはしにける、見つけてよろこび睦れ、あるは上 を恋ひたてまつりて愁へ泣きたまふを、心苦しと思す。  消息たびたび聞こえて、迎へに奉れたまへど御返りだにな し。かくかたくなしう軽々しの世やと、ものしうおぼえたま へど、大殿の見聞きたまはむところもあれば、暮らしてみづ

から参りたまへり。寝殿になむおはするとて、例の渡りたま ふ方は、御達のみさぶらう。若者たちぞ乳母に添ひておは  しける。 「今さらに若々しの御まじらいや。かかる人を、 ここかしこに落としおきたまいて、など寝殿の御まじらいは。 ふさわしからぬ御心の筋とは年ごろ見知りたれど、さるべき にや、昔より心に離れがたう思いきこえて、今はかくくだく だしき人の数々あわれなるを、かたみに見棄つべきにやは、 と頼みきこえける。はかなき一ふしに、かうはもてなしたま ふべくや」と、いみじうあはめ恨み申したまへば、 「何 ごとも、今はと見飽きたまひにける身なれば、今、はた、な ほるべきにもあらぬを、何かはとて。あやしき人々は、思し 棄てずはうれしうこそはあらめ」と聞こえたまへえり。 「な だらかの御答へや。言ひもていけば、誰が名か惜しき」とて、 強ひて渡りたまへともなくて、その夜は独り臥したまへり。 あやしう中空なるころかなと思ひつつ、君たちを前に臥せた

まひて、かしこに、また、いかに思し乱るらんさま思ひやり きこえ、やすからぬ心づくしなれば、いかなる人、かうやう なることをかしうおぼゆらんなど、もの懲りしぬべうおぼえ たまふ。  明けぬれば、 「人の見聞かむも若々しきを、限りとのた まひはてば、さて試みむ。かしこなる人々も、らうたげに恋 ひきこゆめりしを、選り残したまへる、やうあらむとは見な がら、思ひ棄てがたきを、ともかくももてなしはべりなむ」 と、おどしきこえたまへば、すがすがしき御心にて、この君 たちをさへや、知らぬ所にゐて渡したまはん、とあやふし。 姫君を、 「いざ、たまへかし。見たてまつりに、かく参り 来ることもはしたなければ、常にも参り来じ。かしこにも人- 人のらうたきを、同じ所にてだに見たてまつらん」と聞こえ たまふ。まだいといはけなくをかしげにておはす、いとあは れと見たてまつりたまひて、 「母君の御教になかなひたま

うそ。いと心憂く思ひとる方なき心あるは、いとあしきわざ なり」
と、言ひ知らせたてまつりたまふ。 蔵人少将、父の使者として一条宮を訪問 大殿、かかる事を聞きたまひて、人笑はれ なるやうに思し嘆く。「しばしはさ ても見たまはで。おのづから思ふところも のせらるらんものを。女のかくひききりなるも、かへりては 軽くおぼゆるわざなり。よし、かく言ひそめつとならば、何 かはおれてふとしも帰りたまふ。おのづから人の気色心ばへ は見えなん」とのたまはせて、この宮に、蔵人少将の君を御- 使にて奉りたまふ。 「契りあれや君を心にとどめおきてあはれと思ふ   うらめしと聞く なほえ思し放たじ」とある御文を、少将持ておはして、ただ 入りに入りたまふ。  南面の簀子に円座さし出でて、人々もの聞こえにくし。

宮はましてわびしと 思す。この君は、中 にいと容貌よくめや すきさまにて、のど やかに見まはして、 いにしへを思ひ出でたる気色なり。 「参り馴れにたる心地 して、うひうひしからぬに、さも御覧じゆるさずやあらむ」 などばかりぞかすめたまふ。御返りいと聞こえにくくて、 「我はさらにえ書くまじ」とのたまへば、 「御心ざし も隔て若々しきやうに。宣旨書、はた、聞こえさすべきにや は」と集まりて聞こえさすれば、まづうち泣きて、故上おは せましかば、いかに心づきなしと思しながらも罪を隠いたま はまし、と思ひ出でたまふに、涙のみつらきに先だつ心地し て、書きやりたまはず。 何ゆゑか世に数ならぬ身ひとつをうしとも思ひか

  なしとも聞く
とのみ、思しけるままに、書きもとぢめたまはぬやうにて、 おし包みて出だしたまうつ。少将は、人々物語して、 「時- 時さぶらふに、かかる御廉の前は、たづきなき心地しはべる を、今よりはよすがある心地して、常に参るべし。内外など もゆるされぬべき。年ごろのしるしあらはれはべる心地なむ しはべる」など、気色ばみおきて出でたまひぬ。 藤典侍、雲居雁と贈答 夕霧の子息、子女 いとどしく心よからぬ御気色、あくがれま どひたまふほど、大殿の君は、日ごろ経る ままに思し嘆くことしげし。典侍かかる事 を聞くに、我を世とともにゆるさぬものにのたまふなるに、 かく侮りにくきことも出で来にけるを、と思ひて、文などは 時々奉れば、聞こえたり。 数ならば身に知られまし世のうさを人のためにも  濡らす袖かな

なまけやけしとは見たまへど、もののあはれなるほどのつれ づれに、かれもいとただにはおぼえじ、と思す片心ぞつきに ける。 人の世のうきをあはれと見しかども身にかへんと   は思はざりしを とのみあるを、思しけるままとあはれに見る。  この、昔、御中絶えのほどには、この内侍のみこそ、人知 れぬものに思ひとめたまへりしか。事あらためて後は、いと たまさかに、つれなくなりまさりたまうつつ、さすがに君達 はあまたになりにけり。この御腹には、太郎君、三郎君、五- 郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君とおはす。内侍は、 大君、三の君、六の君、二郎君、四郎君とぞおはしける。す べて十二人が中に、かたほなるなく、いとをかしげに、とり どりに生ひ出でたまける。内侍腹の君達しもなん、容貌をか しう、心ばせかどありて、みなすぐれたりける。三の君、二-

郎君は、東の殿にぞとり分きてかしづきたてまつりたまふ。 院も見馴れたまうて、いとらうたくしたまふ。この御仲らひ のこと言ひやる方なくとぞ。 The Rites 紫の上病重く、出家の志も遂げえず

紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の 後、いとあつしくなりたまひて、そこはか となく悩みわたりたまふこと久しくなりぬ。 いとおどろおどろしうはあらねど、年月重なれば、頼もしげ なく、いとどあえかになりまさりたまへるを、院の思ほし嘆 くこと限りなし。しばしにても後れきこえたまはむことをば いみじかるべく思し、みづからの御心地には、この世に飽か ぬことなく、うしろめたき絆だにまじらぬ御身なれば、あな がちにかけとどめまほしき御命とも思されぬを、年ごろの御- 契りかけ離れ、思ひ嘆かせたてまつらむことのみぞ、人知れ ぬ御心の中にもものあはれに思されける。後の世のためにと、 尊き事どもを多くせさせたまひつつ、いかでなほ本意あるさ

まになりて、しばしもかかづらはむ命のほどは行ひを紛れな くと、たゆみなく思しのたまへど、さらにゆるしきこえたま はず。さるは、わが御心にも、しか思しそめたる筋なれば、 かくねむごろに思ひたまへるついでにもよほされて同じ道に も入りなんと思せど、一たび家を出でたまひなば、仮にもこ の世をかへりみんとは思しおきてず。後の世には、同じ蓮の 座をも分けんと契りかはしきこえたまひて、頼みをかけたま ふ御仲なれど、ここながら勤めたまはんほどは、同じ山なり とも、峰を隔ててあひ見たてまつらぬ住み処にかけ離れなん ことをのみ思しまうけたるに、かくいと頼もしげなきさまに 悩みあついたまへば、いと心苦しき御ありさまを、今はと行 き離れんきざみには棄てがたく、なかなか山水の住み処濁り ぬべく、思しとどこほるほどに、ただうちあさへたる思ひの ままの道心起こす人々には、こよなう後れたまひぬべかめり。 御ゆるしなくて、心ひとつに思し立たむも、さまあしく本意

なきやうなれば、この事によりてぞ、女君は恨めしく思ひき こえたまひける。わが御身をも、罪軽かるまじきにやと、う しろめたく思されけり。 紫の上、法華経千部供養を二条院で行なう 年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりた まひける法華経千部、急ぎて供養じたまふ。 わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける。 七僧の法服など品々賜はす。物の色、縫目よりはじめて、き よらなること限りなし。おほかた、何ごとも、いといかめし きわざどもをせられたり。ことごとしきさまにも聞こえたま はざりければ、くはしき事どもも知らせたまはざりけるに、 女の御おきてにてはいたり深く、仏の道にさへ通ひたまひけ る御心のほどなどを、院はいと限りなしと見たてまつりたま ひて、ただおほかたの御しつらひ、何かの事ばかりをなん営 ませたまひける。楽人舞人などのことは、大将の君、とりわ きて仕うまつりたまふ。

 内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、 ここかしこに御誦経捧物などばかりのことをうちしたまふ だにところせきに、まして、そのころ、この御いそぎを仕う まつらぬ所なければ、いとこちたき事どもあり。「いつのほ どに、いとかくいろいろ思しまうけけん。げに、石上の世々 経たる御願にや」とぞ見えたる。花散里と聞こえし御方、明- 石なども渡りたまへり。 南東の戸を開けておはします。寝- 殿の西の塗籠なりけり。北の廂に、方々の御局どもは、障子 ばかりを隔てつつしたり。  三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなどもうらら かにものおもしろく、仏のおはすなる所のありさま遠からず 思ひやられて、ことなる深き心もなき人さへ罪を失ひつべし。 薪こる讚嘆の声も、そこら集ひたる響き、おどろおどろしき を、うち休みて静まりたるほどだにあはれに思さるるを、ま して、このころとなりては、何ごとにつけても心細くのみ思

し知る。明石の御方に、三の宮して聞こえたまへる。   惜しからぬこの身ながらもかぎりとて薪尽きなん   ことの悲しさ 御返り、心細き筋は後の聞こえも心おくれたるわざにや、そ こはかとなくぞあめる。   薪こるおもひはけふをはじめにてこの世にねがふ   法ぞはるけき  夜もすがら、尊きことにうちあはせたる鼓の声絶えずおも しろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる 花のいろいろ、なほ春に心 とまりぬべくにほひわたり て、百千鳥の囀も笛の音に 劣らぬ心地して、もののあ はれもおもしろさも残らぬ ほどに、陵王の舞ひて急に

なるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、 皆人の脱ぎかけたる物のいろいろなども、もののをりからに をかしうのみ見ゆ。親王たち上達部の中にも、物の上手ども、 手残さず遊びたまふ。上下心地よげに、興ある気色どもなる を見たまふにも、残り少なしと身を思したる御心の中には、 よろづの事あはれにおぼえたまふ。 紫の上死期の近きを感じ、名残りを惜しむ 昨日、例ならず起きゐたまへりしなごりに や、いと苦しうて臥したまへり。年ごろか かる物のをりごとに、参り集ひ遊びたまふ 人々の御容貌ありさまの、おのがじし才ども、琴笛の音を も、今日や見聞きたまふべきとぢめなるらむ、とのみ思さる れば、さしも目とまるまじき人の顔どもも、あはれに見えわ たされたまふ。まして、夏冬の時につけたる遊び戯れにも、 なまいどましき下の心はおのづから立ちまじりもすらめど、 さすがに情をかはしたまふ方々は、誰も久しくとまるべき世

にはあらざなれど、まづ我独り行く方知らずなりなむを思し つづくる、いみじうあはれなり。  事はてて、おのがじし帰りたまひなんとするも、遠き別れ めきて惜しまる。花散里の御方に、   絶えぬべきみのりながらぞ頼まるる世々にと結ぶ   中の契りを 御返り、   結びおくちぎりは絶えじおほかたの残りすくなき   みのりなりとも やがて、このついでに、不断の読経懺法など、たゆみなく尊 き事どもをせさせたまふ。御修法は、ことなる験も見えでほ ど経ぬれば、例の事になりて、うちはへさるべき所どころ寺- 寺にてぞせさせたまひける。 紫の上、見舞いのため退出の中宮と対面

夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消 え入りたまひぬべきをりをり多かり。その 事と、おどろおどろしからぬ御心地なれど、 ただいと弱きさまになりたまへば、むつかしげにところせく 悩みたまふこともなし。さぶらふ人々も、いかにおはしまさ むとするにかと思ひよるにも、まづかきくらし、あたらしう 悲しき御ありさまと見たてまつる。  かくのみおはすれば、中宮この院にまかでさせたまふ。 東の対におはしますべければ、こなたに、はた、待ちきこ えたまふ。儀式など例に変らねど、この世のありさまを見は てずなりぬるなどのみ思せば、よろづにつけてものあはれな り。名対面を聞きたまふにも、その人かの人など、耳とどめ て聞かれたまふ。上達部などいと多く仕うまつりたまへり。  久しき御対面のとだえをめづらしく思して、御物語こまや かに聞こえたまふ。院入りたまひて、 「今宵は巣離れたる

心地して、無徳なりや。まかりてやすみはべらん」
とて渡り たまひぬ。起きゐたまへるをいとうれしと思したるも、いと はかなきほどの御慰めなり。 「方々におはしましては、 あなたに渡らせたまはんもかたじけなし。参らむこと、はた、 わりなくなりにてはべれば」とて、しばしはこなたにおはす れば、明石の御方も渡りたまひて、心深げに静まりたる御物- 語ども聞こえかはしたまふ。  上は、御心の中に思しめぐらすこと多かれど、さかしげに、 亡からむ後などのたまひ出づることもなし。ただなべての世 の常なきありさまを、おほどかに言少ななるものから、あさ はかにはあらずのたまひなしたるけはひなどぞ、言に出でた らんよりもあはれに、もの心細き御けしきはしるう見えける。 宮たちを見たてまつりたまうても、 「おのおのの御行く 末をゆかしく思ひきこえけるこそ、かくはかなかりける身を 惜しむ心のまじりけるにや」とて涙ぐみたまへる、御顔のに

ほひ、いみじうをかしげなり。などかうのみ思したらん、と 思すに、中宮うち泣きたまひぬ。ゆゆしげになどは聞こえな したまはず、もののついでなどにぞ、年ごろ仕うまつり馴れ たる人々の、ことなる寄るべなういとほしげなるこの人かの 人、 「はべらずなりなん後に、御心とどめて尋ね思ほせ」 などばかり聞こえたまひける。御読経などによりてぞ、例の わが御方に渡りたまふ。 紫の上、二条院を匂宮に譲り、遺言する 三の宮は、あまたの御中に、いとをかしげ にて歩きたまふを、御心地の隙には前に据 ゑたてまつりたまひて、人の聞かぬ間に、 「まろがはべらざらむに、思し出でなんや」と聞こえた まへば、 「いと恋しかりなむ。まろは、内裏の上よりも宮 よりも、母をこそまさりて思ひきこゆれば、おはせずは心地 むつかしかりなむ」とて、目おしすりて紛らはしたまへるさ まをかしければ、ほほ笑みながら涙は落ちぬ。

「大人になりたまひなば、ここに住みたまひて、この 対の前なる紅梅と桜とは、花のをりをりに心とどめてもて遊 びたまへ。さるべからむをりは、仏にも奉りたまへ」と聞こ えたまへば、うちうなづきて、御顔をまもりて、涙の落つべ かめれば立ちておはしぬ。とり分きて生ほしたてたてまつり たまへれば、この宮と姫宮とをぞ、見さしきこえたまはんこ と、口惜しくあはれに思されける。 紫の上、源氏・中宮と決別ののち死去する 秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりて は御心地もいささかさはやぐやうなれど、 なほともすればかごとがまし。さるは身に しむばかり思さるべき秋風ならねど、露けきをりがちにて過 ぐしたまふ。  中宮は参りたまひなんとするを、 「いましばしは御覧ぜ よ」とも聞こえまほしう思せども、さかしきやうにもあり、 内裏の御使の隙なきもわづらはしければ、さも聞こえたまは

ぬに、あなたにもえ渡りたまはねば、宮ぞ渡りたまひける。 かたはらいたけれど、げに見たてまつらぬもかひなしとて、 こなたに御しつらひをことにせさせたまふ。  こよなう痩せ細りたまへれど、かくてこそ、あてになまめ かしきことの限りなさもまさりてめでたかりけれと、来し方 あまりにほひ多くあざあざとおはせしさかりは、なかなかこ の世の花のかをりにもよそへられたまひしを、限りもなくら うたげにをかしげなる御さまにて、いとかりそめに世を思ひ たまへる気色、似るものなく心苦しく、すずろにもの悲し。  風すごく吹き出でたる夕暮に、前栽見たまふとて、脇息に よりゐたまへるを、院渡りて見たてまつりたまひて、 「今- 日は、いとよく起きゐたまふめるは。この御前にては、こよ なく御心もはればれしげなめりかし」と聞こえたまふ。かば かりの隙あるをもいとうれしと思ひきこえたまへる御気色を 見たまふも心苦しく、つひにいかに思し騒がんと思ふに、あ

はれなれば、   おくと見るほどぞはかなきともすれば風にみだる   る萩のうは露 げにぞ、折れかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたる。 をりさへ忍びがたきを、見出だしたまひても、   ややもせば消えをあらそふ露の世におくれ先だつほ   ど経ずもがな とて、御涙を払ひあへたまはず。宮、    秋風にしばしとまらぬつゆの世をたれか草葉の   うへとのみ見ん と聞こえかはしたまふ御容貌どもあらまほしく、見るかひあ るにつけても、かくて千年を過ぐすわざもがな、と思さるれ ど、心にかなはぬことなれば、かけとめん方なきぞ悲しかり ける。   「今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべ

りぬ。言ふかひなくなりにけるほどといひながら、いとなめ げにはべりや」
とて、御几帳ひき寄せて臥したまへるさまの、 常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、 「いかに思さるる にか」とて、宮は御手をとらへたてまつりて泣く泣く見たて まつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して限りに見え たまへば、御誦経の使ども数も知らずたち騒ぎたり。さきざ きもかくて生き出でたまふをりにならひたまひて、御物の怪 と疑ひたまひて、夜一夜さまざまの事をし尽くさせたまへど、 かひもなく、明けはつるほどに消えはてたまひぬ。 源氏、夕霧に、紫の上落飾の事をはかる 宮も、帰りたまはで、かくて見たてまつり たまへるを、限りなく思す。誰も誰も、こ とわりの別れにてたぐひあることとも思さ れず、めづらかにいみじく、明けぐれの夢にまどひたまふほ ど、さらなりや。さかしき人おはせざりけり。さぶらふ女房 なども、あるかぎり、さらにもの覚えたるなし。院は、まし

て、思ししづめん方なければ、大将の君近く参りたまへるを 御几帳のもとに呼び寄せたてまつりたまひて、 「かく今は 限りのさまなめるを。年ごろの本意ありて思ひつること、か かるきざみにその思ひ違へてやみなんがいといとほしきを。 御加持にさぶらふ大徳たち読経の僧なども、みな声やめて出 でぬなるを、さりとも、立ちとまりてものすべきもあらむ。 この世にはむなしき心地するを、仏の御しるし、今はかの冥 き途のとぶらひにだに頼み申すべきを、かしらおろすべきよ しものしたまへ。さるべき僧、誰かとまりたる」などのたま ふ御気色、心強く思しなすべかめれど、御顔の色もあらぬさ まに、いみじくたへかね御涙のとまらぬを、ことわりに悲し く見たてまつりたまふ。 「御物の怪などの、これも、人の御心乱らんとて、かく のみものははべめるを、さもやおはしますらん。さらば、と てもかくても、御本意のことはよろしき事にはべなり。一日

一夜忌むことの験こそは、むなしからずははべるなれ、まこ とに言ふかひなくなりはてさせたまひて後の御髪ばかりをや つさせたまひても、ことなるかの世の御光ともならせたまは ざらんものから、目の前の悲しびのみまさるやうにて、いか がはべるべからむ」
と申したまひて、御忌に籠りさぶらふべ き心ざしありてまかでぬ僧、その人かの人など召して、さる べき事ども、この君ぞ行ひたまふ。 夕霧・源氏ともに紫の上の死顔に見入る 年ごろ何やかやと、おほけなき心はなかり しかど、 「いかならん世にありしばかりも 見たてまつらん。ほのかにも御声をだに聞 かぬこと」など、心にも離れず思ひわたりつるものを、 「声 はつひに聞かせたまはずなりぬるにこそはあめれ、むなしき 御骸にても、いま一たび見たてまつらんの心ざしかなふべき をりは、ただ今より外にいかでかあらむ」と思ふに、つつみ もあへず泣かれて、女房のあるかぎり騒ぎまどふを、 「あ

なかま、しばし」
としづめ顔にて、御几帳の帷子をもののた まふ紛れにひき上げて見たまへば、ほのぼのと明けゆく光も おぼつかなければ、大殿油を近くかかげて見たてまつりたま ふに、飽かずうつくしげにめでたうきよらに見ゆる御顔のあ たらしさに、この君のかくのぞきたまふを見る見るも、あな がちに隠さんの御心も思されぬなめり。 「かく何ごともまだ変らぬけしきながら、限りのさまは しるかりけるこそ」とて、御袖を顔におし当てたまへるほど、 大将の君も、涙にくれて目も見えたまはぬを強ひてしぼりあ けて見たてまつるに、なかなか飽かず悲しきことたぐひなき に、まことに心まどひもしぬべし。御髪のただうちやられた まへるほど、こちたくけうらにて、つゆばかり乱れたるけし きもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞ限りなき。灯の いと明かきに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうち紛 らはすことありし現の御もてなしよりも、言ふかひなきさま

に何心なくて臥したまへる御ありさまの、飽かぬところなし、 と言はんもさらなりや。なのめにだにあらず、たぐひなきを 見たてまつるに、死に入る魂のやがてこの御骸にとまらなむ、 と思ほゆるも、わりなきことなりや。  仕うまつり馴れたる女房などのものおぼゆるもなければ、 院ぞ、何ごとも思し分かれず思さるる御心地をあながちに静 めたまひて、限りの御事どもしたまふ。いにしへも、悲しと 思す事もあまた見たまひし御身なれど、いとかうおり立ちて はまだ知りたまはざりけることを、すべて来し方行く先たぐ ひなき心地したまふ。 即日葬儀を行なう 源氏出家を決意する やがて、その日、とかくをさめたてまつる。 限りありける事なれば、骸を見つつもえ過 ぐしたまふまじかりけるぞ、心憂き世の中 なりける。はるばると広き野の所もなく立ちこみて、限りな くいかめしき作法なれど、いとはかなき煙にてはかなくのぼ

りたまひぬるも、例のことなれどあへなくいみじ。空を歩む 心地して、人にかかりてぞおはしましけるを、見たてまつる 人も、さばかりいつかしき御身をと、ものの心知らぬ下衆さ へ泣かぬなかりけり。御送りの女房は、まして夢路にまどふ 心地して、車よりもまろび落ちぬべきをぞ、もてあつかひ ける。  昔、大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づる にも、かれはなほものの覚えけるにや、月の顔の明らかにお ぼえしを、今宵はただくれまどひたまへり。十四日に亡せた まひて、これは十五日の暁なりけり。日はいとはなやかにさ し上りて、野辺の露も隠れたる隈なくて、世の中思しつづく るにいとど厭はしくいみじければ、後るとても幾世かは経べ き、かかる悲しさの紛れに、昔よりの御本意も遂げてまほし く思ほせど、心弱き後の譏りを思せば、このほどを過ぐさん としたまふに、胸のせきあぐるぞたへがたかりける。 夕霧野分の日を回想し、秘めた慕情に泣く

大将の君も、御忌に籠りたまひて、あから さまにもまかでたまはず、明け暮れ近くさ ぶらひて、心苦しくいみじき御気色を、こ とわりに悲しく見たてまつりたまひて、よろづに慰めきこえ たまふ。  風野分だちて吹く夕暮に、昔のこと思し出でて、ほのかに 見たてまつりしものを、と恋しくおぼえたまふに、また限り のほどの夢の心地せしなど、人知れず思ひつづけたまふに、 たへがたく悲しければ、人目にはさしも見えじとつつみて、 「阿弥陀仏、阿弥陀仏」とひきたまふ数珠の数に紛らはし てぞ、涙の玉をばもて消ちたまひける。   いにしへの秋の夕の恋しきにいまはと見えしあけぐ   れの夢 ぞなごりさへうかりける。やむごとなき僧どもさぶらはせた まひて、定まりたる念仏をばさるものにて、法華経など誦ぜ

させたまふ。かたがたいとあはれなり。 源氏、出家もままならぬほど悲嘆にくれる 臥しても起きても、涙の干る世なく、霧り ふたがりて明かし暮らしたまふ。いにしへ より御身のありさま思しつづくるに、 「鏡 に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけ なきほどより、悲しく常なき世を思ひ知るべく仏などのすす めたまひける身を、心強く過ぐして、つひに来し方行く先も 例あらじとおぼゆる悲しさを見つるかな。今は、この世にう しろめたきこと残らずなりぬ。ひたみちに行ひにおもむきな んに障りどころあるまじきを、いとかくをさめん方なき心ま どひにては、願はん道にも入りがたくや」とややましきを、 「この思ひすこしなのめに、忘れさせたまへ」と、阿弥陀仏 を念じたてまつりたまふ。 帝以下の弔問 源氏一途に出家を志す

所どころの御とぶらひ、内裏をはじめたて まつりて、例の作法ばかりにはあらず、い としげく聞こえたまふ。思しめしたる心の ほどには、さらに何ごとも目にも耳にもとどまらず、心にか かりたまふことあるまじけれど、人にほけほけしきさまに見 えじ。今さらにわが世の末にかたくなしく心弱きまどひにて、 世の中をなん背きにけると、流れとどまらん名を思しつつむ になん、身を心にまかせぬ嘆きをさへうち添へたまひける。 致仕の大臣葵の上をしのび源氏を弔問する 致仕の大臣、あはれをもをり過ぐしたまは ぬ御心にて、かく世にたぐひなくものした まふ人のはかなく亡せたまひぬることを、 口惜しくあはれに思して、いとしばしば問ひきこえたまふ。 昔、大将の御母上亡せたまへりしもこのころの事ぞかし、と 思し出づるに、いともの悲しく、 「そのをり、かの御身を惜 しみきこえたまひし人の多くも亡せたまひにけるかな。後れ

先だつほどなき世なりけりや」
など、しめやかなる夕暮にな がめたまふ。空のけしきもただならねば、御子の蔵人少将し て奉りたまふ。あはれなることなどこまやかに聞こえたまひ て、端に、   いにしへの秋さへ今の心地してぬれにし袖に露   ぞおきそふ 御返し、   露けさはむかし今ともおもほえずおほかた秋の夜こ   そつらけれ もののみ悲しき御心のままならば、待ちとりたまひては、心- 弱くもと、目とどめたまひつべき大臣の御心ざまなれば、め やすきほどにと、 「たびたびのなほざりならぬ御とぶらひ の重なりぬること」とよろこび聞こえたまふ。 世の人ことごとく紫の上を追慕する

「薄墨」とのたまひしよりは、いますこし こまやかにて奉れり。世の中に幸ひありめ でたき人も、あいなうおほかたの世にそね まれ、よきにつけても心の限りおごりて人のため苦しき人も あるを、あやしきまですずろなる人にもうけられ、はかなく し出でたまふ事も、何ごとにつけても世にほめられ、心にく く、をりふしにつけつつらうらうじく、あり難かりし人の御- 心ばへなりかし。さしもあるまじきおほよその人さへ、その ころは、風の音、虫の声につけつつ涙落さぬはなし。まして ほのかにも見たてまつりし人の、思ひ慰むべき世なし。年ご ろ睦ましく仕うまつり馴れつる人々、しばしも残れる命恨め しきことを嘆きつつ、尼になり、この世の外の山住みなどに 思ひ立つもありけり。 秋好中宮の弔問に、源氏の心はじめて動く

冷泉院の后の宮よりも、あはれなる御消息 絶えず、尽きせぬことども聞こえたまひて、 「枯れはつる野辺をうしとや亡   き人の秋に心をとどめざりけん 今なんことわり知られはべりぬる」とありけるを、ものおぼ えぬ御心にも、うち返し、置きがたく見たまふ。言ふかひあ りをかしからむ方の慰めには、この宮ばかりこそおはしけれ と、いささかのもの紛るるやうに思しつづくるにも涙のこぼ るるを、袖のいとまなく、え書きやりたまはず。   のぼりにし雲ゐながらもかへり見よわれあきはてぬ   常ならぬ世に おし包みたまひても、とばかりうちながめておはす。 源氏出家を思いつつ仏道修行に専念する すくよかにも思されず、我ながら、ことの ほかにほれぼれしく思し知らるること多か る紛らはしに、女方にぞおはします。仏の

御前に人しげからずもてなして、のどやかに行ひたまふ。千- 年をももろともにと思ししかど、限りある別れぞいと口惜し きわざなりける。今は蓮の露も他事に紛るまじく、後の世を と、ひたみちに思し立つことたゆみなし。されど人聞きを憚 りたまふなん、あぢきなかりける。  御わざの事ども、はかばかしくのたまひおきつる事なかり ければ、大将の君なむとりもちて仕うまつりたまひける。今- 日や、とのみ、わが身も心づかひせられたまふをり多かるを、 はかなくてつもりにけるも、夢の心地のみす。中宮なども、 思し忘るる時の間なく、恋ひきこえたまふ。 The Wizard 年改まり、源氏、螢兵部卿宮と唱和する

春の光を見たまふにつけても、いとどくれ まどひたるやうにのみ、御心ひとつは悲し さの改まるべくもあらぬに、外には例のや うに人々参りたまひなどすれど、御心地悩ましきさまにもて なしたまひて、御簾の内にのみおはします。兵部卿宮渡り たまへるにぞ、ただうちとけたる方にて対面したまはんとて、 御消息聞こえたまふ。   わがやどは花もてはやす人もなしなににか春のたづ   ね来つらん 宮、うち涙ぐみたまひて、   香をとめて来つるかひなくおほかたの花のたよりと   言ひやなすべき

紅梅の下に歩み出でたまへる御さまのいとなつかしきにぞ、 これより外に見はやすべき人なくや、と見たまへる。花はほ のかにひらけさしつつ、をかしきほどのにほひなり。御遊び もなく、例に変りたること多かり。 春寒のころ紫の上を嘆かせた過往を思う 女房なども、年ごろ経にけるは、墨染の色 こまやかにて着つつ、悲しさも改めがたく 思ひさますべき世なく恋ひきこゆるに、絶 えて御方々にも渡りたまはず、紛れなく見たてまつるを慰め にて、馴れ仕うまつる。年ごろ、まめやかに御心とどめてな どはあらざりしかど、時々は見放たぬやうに思したりつる人- 人も、なかなか、かかるさびしき御独り寝になりては、いと おほぞうにもてなしたまひて、夜の御宿直などにも、これか れとあまたを、御座のあたりひき避けつつ、さぶらはせたま ふ。  つれづれなるままに、いにしへの物語などしたまふをりを

りもあり。なごりなき御聖心の深くなりゆくにつけても、 さしもありはつまじかりける事につけつつ、中ごろもの恨め しう思したる気色の時々見えたまひしなどを思し出づるに、 などて、たはぶれにても、またまめやかに心苦しきことにつ けても、さやうなる心を見えたてまつりけん、何ごとにもら うらうじくおはせし御心ばへなりしかば、人の深き心もいと よう見知りたまひながら、怨じはてたまふことはなかりしか ど、一わたりづつは、いかならむとすらん、と思したりしに、 すこしにても心を乱りたまひけむことのいとほしう悔しうお ぼえたまふさま、胸よりもあまる心地したまふ。そのをりの 事の心をも知り、今も近う仕うまつる人々は、ほのぼの聞こ え出づるもあり。  入道の宮の渡りはじめたまへりしほど、そのをりはしも、 色にはさらに出だしたまはざりしかど、事にふれつつ、あぢ きなのわざや、と思ひたまへりし気色のあはれなりし中にも、

雪降りたりし暁に立ちやすらひて、わが身も冷え入るやうに おぼえて、空のけしきはげしかりしに、いとなつかしうおい らかなるものから、袖のいたう泣き濡らしたまへりけるをひ き隠し、せめて紛らはしたまへりしほどの用意などを、夜も すがら、夢にても、またはいかならむ世にか、と思しつづけ らる。曙にしも、曹司に下るる女房なるべし、 「いみじう も積りにける雪かな」と言ふ声を聞きつけたまへる、ただそ のをりの心地するに、御かたはらのさびしきも、いふ方なく 悲し。   うき世にはゆき消えなんと思ひつつおもひの外にな   ほぞほどふる 寒夜、中将の君を相手に、わが生涯を思う 例の、紛らはしには、御手水召して行ひし たまふ。埋みたる火おこし出でて御火桶ま ゐらす。中納言の君、中将の君など、御前 近くて御物語聞こゆ。 「独り寝常よりもさびしかりつる夜

のさまかな。かくてもいとよく思ひ澄ましつべかりける世を、 はかなくもかかづらひけるかな」
と、うちながめたまふ。我 さへうち棄ててば、この人々の、いとど嘆きわびんことのあ はれにいとほしかるべきなど見わたしたまふ。忍びやかにう ち行ひつつ、経など読みたまへる御声を、よろしう思はん事 にてだに涙とまるまじきを、まして、袖のしがらみせきあへ ぬまであはれに、明け暮れ見たてまつる人々の心地、尽きせ ず思ひきこゆ。 「この世につけては、飽かず思ふべきことをさをさある まじう、高き身には生まれながら、また人よりことに口惜し き契りにもありけるかな、と思ふこと絶えず。世のはかなく うきを知らすべく、仏などのおきてたまへる身なるべし。そ れを強ひて知らぬ顔にながらふれば、かくいまはの夕近き末 にいみじき事のとぢめを見つるに、宿世のほども、みづから の心の際も残りなく見はてて心やすきに、今なんつゆの絆な

くなりにたるを、これかれ、かくて、ありしよりけに目馴ら す人々の今はとて行き別れんほどこそ、いま一際の心乱れぬ べけれ。いとはかなしかし。わろかりける心のほどかな」
と て、御目おし拭ひ隠したまふに紛れずやがてこぼるる御涙を 見たてまつる人々、ましてせきとめむ方なし。さて、うち棄 てられたてまつりなんが愁はしさをおのおのうち出でまほし けれど、さもえ聞こえず、むせ返りてやみぬ。  かくのみ嘆き明かしたまへる曙、ながめ暮らしたまへる夕- 暮などのしめやかなるをりをりは、かのおしなべてには思し たらざりし人々を御前近くて、かやうの御物語などをしたま ふ。中将の君とてさぶらふは、まだ小さくより見たまひ馴れ にしを、いと忍びつつ見たまひ過ぐさずやありけむ。いとか たはらいたきことに思ひて馴れもきこえざりけるを、かく亡 せたまひて後は、その方にはあらず、人よりことにらうたき ものに心とどめ思したりしものを、と思し出づるにつけて、

かの御形見の筋をぞあはれと思したる。心ばせ容貌などもめ やすくて、うなゐ松におぼえたるけはひ、ただならましより は、らうらうじと思ほす。 源氏、涙もろさを恥じて、人と対面せず 疎き人にはさらに見えたまはず。上達部な ども睦ましき、また御はらからの宮たちな ど常に参りたまへれど、対面したまふこと をさをさなし。 「人に対はむほどばかりは、さかしく思ひし づめ心をさめむと思ふとも、月ごろにほけにたらむ身のあり さまかたくなしきひが事まじりて、末の世の人にもてなやま れむ後の名さへうたてあるべし。思ひほれてなん人にも見え ざむなると言はれんも同じことなれど、なほ音に聞きて思ひ やることのかたはなるよりも、見苦しきことの目に見るは、 こよなく際まさりてをこなり」と思せば、大将の君などにだ に、御簾隔ててぞ対面したまひける。かく、心変りしたまへ るやうに、人の言ひ伝ふべきころほひをだに思ひのどめてこ

そは、と念じ過ぐしたまひつつ、うき世をもえ背きやりたま はず。御方々にまれにもうちほのめきたまふにつけては、ま づいとせきがたき涙の雨のみ降りまされば、いとわりなくて、 いづ方にもおぼつかなきさまにて過ぐしたまふ。 遺愛の桜をいたわる匂宮を見て悲しむ 后の宮は、内裏に参らせたまひて、三の宮 をぞ、さうざうしき御慰めにはおはしまさ せたまひける。 「母ののたまひしかば」 とて、対の御前の紅梅とりわきて後見ありきたまふを、いと あはれと見たてまつりたまふ。二月になれば、花の木どもの 盛りになるも、まだしきも、梢をかしう霞みわたれるに、か の御形見の紅梅に鶯のはなやかに鳴き出でたれば、立ち出で て御覧ず。   植ゑて見し花のあるじもなき宿に知らず顔にて来ゐ   るうぐひす と、うそぶき歩かせたまふ。

 春深くなりゆくままに、御前のありさまいにしへに変らぬ を、めでたまふ方にはあらねど、静心なく何ごとにつけても 胸痛う思さるれば、おほかた、この世の外のやうに鳥の音も 聞こえざらむ山の末ゆかしうのみいとどなりまさりたまふ。 山吹などの心地よげに咲き乱れたるも、うちつけに露けくの み見なされたまふ。  外の花は、一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は 開け、藤はおくれて色づきなどこそはすめるを、そのおそく とき花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひ しかば、時を忘れずにほひ満ちたるに、若宮、 「まろが桜は 咲きにけり。いかで久しく散らさじ。木のめぐりに帳を立て て、帷子を上げずは、風もえ吹き寄らじ」と、かしこう思ひ えたり、と思ひてのたまふ顔のいとうつくしきにも、うち笑 まれたまひぬ。 「おほふばかりの袖求めけん人よりは、い とかしこう思し寄りたまへりかし」など、この宮ばかりをぞ

もて遊びに見たてまつりたまふ。 「君に馴れきこえんこと も残り少なしや。命といふもの、いましばしかかづらふべく とも、対面はえあらじかし」とて、例の、涙ぐみたまへれば、 いとものしと思して、 「母ののたまひしことを、まがまが しうのたまふ」とて、伏目になりて、御衣の袖を引きまさぐ りなどしつつ、紛らはしおはす。  隅の間の高欄におしかかりて、御前の庭をも、御簾の内を も見わたしてながめたまふ。女房なども、かの御形見の色変 へぬもあり、例の色あひなるも、綾などはなやかにはあらず。 みづからの御直衣も、色は世の常なれど、ことさらにやつし て、無紋を奉れり。御しつらひなども、いとおろそかに事そ ぎて、さびしくもの心細げにしめやかなれば、    今はとてあらしやはてん亡き人の心とどめし春のか   きねを 人やりならず悲しう思さる。 女三の宮を訪れ、かえって紫の上を思う

いとつれづれなれば、入道の宮の御方に渡 りたまふに、若宮も人に抱かれておはしま して、こなたの若君と走り遊び、花惜しみ たまふ心ばへども深からず、いといはけなし。  宮は、仏の御前にて経をぞ読みたまひける。何ばかり深う 思しとれる御道心にもあらざりしかど、この世に恨めしく御- 心乱るることもおはせず、のどやかなるままに紛れなく行ひ たまひて、一つ方に思ひ離れたまへるもいとうらやましく、 かくあさへたまへる女の御心ざしにだにおくれぬることと口- 惜しう思さる。閼伽の花の夕映えしていとおもしろく見ゆれ ば、 「春に心寄せたりし人なくて、花の色もすさまじくの み見なさるるを、仏の御飾にてこそ見るべかりけれ」とのた まひて、 「対の前の山吹こそなほ世に見えぬ花のさまなれ。 房の大きさなどよ。品高くなどはおきてざりける花にやあら ん、はなやかににぎははしき方はいとおもしろきものになん

ありける。植ゑし人なき春とも知らず顔にて常よりもにほ ひ重ねたるこそあはれにはべれ」
とのたまふ。御答へに、 「谷には春も」と何心もなく聞こえたまふを、言しもこ そあれ、心憂くも、と思さるるにつけても、まづ、かやうの はかなきことにつけては、そのことのさらでもありなむかし、 と思ふに違ふふしなくてもやみにしかなと、いはけなかりし ほどよりの御ありさまを、いで何ごとぞやありしと思し出づ るに、まづそのをりかのをり、かどかどしうらうらうじうに ほひ多かりし心ざまもてなし言の葉のみ思ひつづけられた まふに、例の涙のもろさは、ふとこぼれ出でぬるもいと苦し。 明石の君と語るも心慰まずさびしく帰る 夕暮の霞たどたどしくをかしきほどなれば、 やがて明石の御方に渡りたまへり。久しう さしものぞきたまはぬに、おぼえなきをり なればうち驚かるれど、さまようけはひ心にくくもてつけて、 なほこそ人にはまさりたれ、と見たまふにつけては、またか

うざまにはあらでこそ、ゆゑよしをももてなしたまへりしか、 と思しくらべらるるに、面影に恋しう、悲しさのみまされば、 いかにして慰むべき心ぞ、といとくらべ苦し。  こなたにては、のどやかに昔物語などしたまふ。 「人を あはれと心とどめむは、いとわろかべきことと、いにしへよ り思ひえて、すべていかなる方にも、この世に執とまるべき 事なくと心づかひをせしに、おほかたの世につけて、身のい たづらにはふれぬべかりしころほひなど、とざまかうざまに 思ひめぐらししに、命をもみづから棄てつべく、野山の末に はふらかさんにことなる障りあるまじくなむ思ひなりしを、 末の世に、今は限りのほど近き身にてしも、あるまじき絆多 うかかづらひて今まで過ぐしてけるが、心弱う、もどかしき こと」など、さして一つ筋の悲しさにのみはのたまはねど、 思したるさまのことわりに心苦しきを、いとほしう見たてま つりて、 「おほかたの人目に何ばかり惜しげなき人だ

に、心の中の絆おのづから多うはべなるを、ましていかでか は心やすくも思し棄てん。さやうにあさへたることは、かへ りて軽々しきもどかしさなどもたち出でて、なかなかなるこ となどはべるを、思したつほど鈍きやうにはべらんや、つひ に澄みはてさせたまふ方深うはべらむと、思ひやられはべり てこそ。いにしへの例などを聞きはべるにつけても、心にお どろかれ、思ふより違ふふしありて、世を厭ふついでになる とか、それはなほわるき事とこそ。なほしばし思しのどめさ せたまひて、宮たちなどもおとなびさせたまひ、まことに動 きなかるべき御ありさまに、見たてまつりなさせたまはむま では、乱れなくはべらんこそ、心やすくもうれしくもはべ るべけれ」
など、いとおとなびて聞こえたる気色いとめや すし。 「さまで思ひのどめむ心深さこそ、浅きにおとりぬべけ れ」などのたまひて、昔よりものを思ふことなど語り出でた

まふ中に、 「故后の宮の崩れたまへりし春なむ、花の色を 見ても、まことに『心あらば』とおぼえし。それは、おほか たの世につけて、をかしかりし御ありさまを幼くより見たて まつりしみて、さるとぢめの悲しさも人よりことにおぼえし なり。みづからとり分く心ざしにも、もののあはれはよらぬ わざなり。年経ぬる人に後れて、心をさめむ方なく忘れがた きも、ただかかる仲の悲しさのみにはあらず。幼きほどより 生ほしたてしありさま、もろともに老いぬる末の世にうち棄 てられて、わが身も人の身も思ひつづけらるる悲しさのたへ がたきになん。すべてもののあはれも、ゆゑあることも、を かしき筋も、広う思ひめぐらす方々添ふことの浅からずなる になむありける」など、夜更くるまで、昔今の御物語に、か くても明かしつべき夜をと思しながら、帰りたまふを、女も ものあはれにおぼゆべし。わが御心にも、あやしうもなりに ける心のほどかな、と思し知らる。

 さてもまた例の御行ひに、夜半になりてぞ、昼の御座にい とかりそめにより臥したまふ。つとめて、御文奉りたまふに、   なくなくも帰りにしかな仮の世はいづこもつひの常   世ならぬに                               昨夜の御ありさまは恨めしげなりしかど、いとかくあらぬさ まに思しほれたる御気色の心苦しさに、身の上はさしおかれ て、涙ぐまれたまふ。   かりがゐし苗代水の絶えしよりうつりし花のかげ   をだに見ず 旧りがたくよしある書きざまにも、 「なまめざましきものに 思したりしを、末の世には、かたみに心ばせを見知るどちに て、うしろやすき方にはうち頼むべく、思ひかはしたまひな がら、またさりとてひたぶるにはたうちとけず、ゆゑありて もてなしたまへりし心おきてを、人はさしも見知らざりきか し」など思し出づ。せめてさうざうしき時は、かやうにただ

おほかたに、うちほのめきたまふをりをりもあり。昔の御あ りさまには、なごりなくなりにたるべし。 花散里よりの夏衣を見、はかなき世を思う 夏の御方より、御更衣の御装束奉りたまふ とて、   夏衣たちかへてける今日ばかり   古き思ひもすすみやはせぬ 御返し、   羽衣のうすきにかはる今日よりはうつせみの世ぞい   とど悲しき 祭の日、中将の君にほのかな愛情を覚える 祭の日、いとつれづれにて、 「今日は物- 見るとて、人々心地よげならむかし」とて、 御社のありさまなど思しやる。 「女房な どいかにさうざうしからむ。里に忍びて出でて見よかし」な どのたまふ。 中将の君の東面にうたた寝したるを、歩みおはして見た

まへば、いとささやかにをかしきさまして起き上りたり。頬 つきはなやかに、にほひたる顔をもて隠して、すこしふくだ みたる髪のかかりなど、いとをかしげなり。紅の黄ばみたる 気添ひたる袴、萱草色の単衣、いと濃き鈍色に黒きなど、う るはしからず重なりて、裳唐衣も脱ぎすべしたりけるを、と かくひき懸けなどするに、葵をかたはらに置きたりけるをと りたまひて、 「いかにとかや、この名こそ忘れにけれ」と のたまへば、   さもこそはよるべの水に水草ゐめけふのかざしよ   名さへ忘るる と恥ぢらひて聞こゆ。げに、といとほしくて、   おほかたは思ひすててし世なれどもあふひはなほや   つみをかすべき など、一人ばかりは思し放たぬ気色なり。 五月雨のころ、故人を偲び夕霧と語る

五月雨はいとどながめ暮らしたまふより外 の事なくさうざうしきに、十余日の月はな やかにさし出でたる雲間のめづらしきに、 大将の君御前にさぶらひたまふ。花橘の月影にいときはやか に見ゆるかをりも、追風なつかしければ、「千代をならせる 声」もせなん、と待たるるほどに、にはかに立ち出づるむら 雲のけしきいとあやにくにて、おどろおどろしう降り来る雨 に添ひて、さと吹く風に燈籠も吹きまどはして、空暗き心地 するに、 「窓をうつ声」など、めづらしからぬ古言を、う ち誦じたまへるも、をりからにや、妹が垣根におとなはせま ほしき御声なり。 「独り住みは、ことに変る事なけれど、 あやしうさうざうしくこそありけれ。深き山住みせんにも、 かくて身を馴らはしたらむは、こよなう心澄みぬべきわざ なりけり」などのたまひて、 「女房、ここにくだものなど まゐらせよ。男ども召さんもことごとしきほどなり」などの

たまふ。  心には、ただ空をながめたまふ御気色の、尽きせず心苦し ければ、かくのみ思し紛れずは、御行ひにも心澄ましたまは んこと難くや、と見たてまつりたまふ。ほのかに見し御面影 だに忘れがたし、ましてことわりぞかし、と思ひゐたまへり。 「昨日今日と思ひたまふるほどに、御はてもやうやう近 うなりはべりにけり。いかやうにかおきて思しめすらむ」と 申したまへば、 「何ばかり、世の常ならぬ事をかはものせ ん。かの、心ざしおかれたる極楽の曼荼羅など、このたびな          ん供養ずべき。経などもあまたありけるを、なにがし僧都み なその心くはしく聞きおきたなれば、また加へてすべき事ど もも、かの僧都の言はむに従ひてなむものすべき」などのた まふ。 「かやうの事、もとよりとりたてて思しおきてける は、うしろやすきわざなれど、この世にはかりそめの御契り なりけりと見たまふには、形見といふばかりとどめきこえた

まへる人だにものしたまはぬこそ、口惜しうはべりけれ」
と 申したまへば、 「それは、かりそめならず命長き人々にも、 さやうなることのおほかた少なかりける。みづからの口惜し さにこそ。そこにこそは、門はひろげたまはめ」などのた まふ。  何ごとにつけても、忍びがたき御心弱さのつつましくて、 過ぎにしこといたうものたまひ出でぬに、待たれつる郭公の ほのかにうち鳴きたるも、 「いかに知りてか」と、聞く人た だならず。 なき人をしのぶる宵のむら雨に濡れてや来つる山ほ   ととぎす とて、いとど空をながめたまふ。大将、    ほととぎす君につてなんふるさとの花橘は今ぞさか   りと  女房など多く言ひ集めたれどとどめつ。大将の君は、やが

て御宿直にさぶらひたまふ。さびしき御独り寝の心苦しけれ ば、時々かやうにさぶらひたまふに、おはせし世はいとけ遠 かりし御座のあたりの、いたうもたち離れぬなどにつけても、 思ひ出でらるる事ども多かり。 夏、蜩・螢につけ尽きぬ悲しみを歌に詠む いと暑きころ、涼しき方にてながめたまふ に、池の蓮の盛りなるを見たまふに、 「い かに多かる」などまづ思し出でらるるに、 ほれぼれしくて、つくづくとおはするほどに、日も暮れにけ り。蜩の声はなやかなるに、御前の撫子の夕映えを独りのみ 見たまふは、げにぞかひなかりける。   つれづれとわが泣きくらす夏の日をかごとがましき   虫の声かな 螢のいと多う飛びかふも、 「夕殿に螢飛んで」と、例の、 古言もかかる筋にのみ口馴れたまへり。   夜を知るほたるを見てもかなしきは時ぞともなき思

  ひなりけり
七夕の深夜独り逢瀬の後の別れの涙を歌う 七月七日も、例に変りたること多く、御遊 びなどもしたまはで、つれづれにながめ暮 らしたまひて、星合見る人もなし。まだ夜 深う、一ところ起きたまひて、妻戸押し開けたまへるに、前- 栽の露いとしげく、渡殿の戸よりとほりて見わたさるれば、 出でたまひて、   たなばたの逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれのにはに   露ぞおきそふ 八月正日、斎して曼荼羅の供養をする 風の音さへただならずなりゆくころしも、 御法事の営みにて、朔日ごろは紛らはしげ なり。今まで経にける月日よ、と思すにも あきれて明かし暮らしたまふ。御正日には、上下の人々みな 斎して、かの曼荼羅など今日ぞ供養ぜさせたまふ。例の宵の 御行ひに、御手水まゐらす中将の君の扇に、

君恋ふる涙は際もなきものを今日をば何のはてと   いふらん と、書きつけたるを取りて見たまひて、   人恋ふるわが身も末になりゆけどのこり多かる涙な   りけり と、書き添へたまふ。 九月九日、延命長寿を祈る被綿に涙する 九月になりて、九日、綿おほひたる菊を御- 覧じて、   もろともにおきゐし菊の朝露もひ とり袂にかかる秋かな 秋、雁によせて亡き魂の行く方を思う 神無月は、おほかたも時雨がちなるころ、 いとどながめたまひて、夕暮の空のけしき にも、えも言はぬ心細さに、 「降りしか ど」と独りごちおはす。雲ゐをわたる雁の翼も、うらやまし くまもられたまふ。

  大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行く方   たづねよ 何ごとにつけても、紛れずのみ月日にそへて思さる。 五節にはなやぐ人を見、何の感興も覚えず 五節などいひて、世の中そこはかとなくい まめかしげなるころ、大将殿の君たち、童 殿上したまひて参りたまへり。同じほどに て、二人いとうつくしきさまなり。御叔父の頭中将、蔵人少- 将など小忌にて、青摺の姿ども、清げにめやすくて、みなう ちつづきもてかしづきつつ、もろともに参りたまふ。思ふこ となげなるさまどもを見たまふに、いにしへあやしかりし日- 蔭のをり、さすがに思し出でらるべし。   みや人は豊の明にいそぐ今日ひかげもしらで暮らし   つるかな 一年を終え涙ながらに紫の上の文殻を焼く

今年をばかくて忍び過ぐしつれば、今はと 世を去りたまふべきほど近く思しまうくる に、あはれなること尽きせず。やうやうさ るべき事ども、御心の中に思しつづけて、さぶらふ人々にも、 ほどほどにつけて物賜ひなど、おどろおどろしく、今なん限 りとしなしたまはねど、近くさぶらふ人々は、御本意遂げた まふべき気色と見たてまつるままに、年の暮れゆくも心細く 悲しきこと限りなし。  落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、 「破れば惜し」 と思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、ものの ついでに御覧じつけて、破らせたまひなどするに、かの須磨 のころほひ、所どころより奉りたまひけるもある中に、かの 御手なるは、ことに結ひあはせてぞありける。みづからしお きたまひける事なれど、久しうなりにける世の事と思すに、 ただ今のやうなる墨つきなど、げに千年の形見にしつべかり

けるを、見ずなりぬべきよ、と思せば、かひなくて、疎から ぬ人々二三人ばかり、御前にて破らせたまふ。  いと、かからぬほどの事にてだに、過ぎにし人の跡と見る はあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分か れぬまで降りおつる御涙の水茎に流れそふを、人もあまり心- 弱しと見たてまつるべきがかたはらいたうはしたなければ、 おしやりたまひて、   死出の山越えにし人をしたふとて跡を見つつもなほ   まどふかな さぶらふ人々も、まほにはえひきひろげねど、それとほのぼ の見ゆるに、心まどひどもおろかならず。この世ながら遠か らぬ御別れのほどを、いみじと思しけるままに書いたまへる 言の葉、げにそのをりよりもせきあへぬ悲しさやらん方なし。 いとうたて、いま一際の御心まどひも、女々しく人わるくな りぬべければ、よくも見たまはで、こまやかに書きたまへる

かたはらに、   かきつめて見るもかひなしもしほ草おなじ雲ゐの煙   とをなれ と書きつけて、みな焼かせたまひつ。 仏名の日、はじめて人前に姿を現わす 御仏名も今年ばかりにこそは、と思せばに や、常よりもことに錫杖の声々などあはれ に思さる。行く末ながきことを請ひ願ふも、 仏の聞きたまはんことかたはらいたし。雪いたう降りて、ま めやかに積りにけり。導師のまかづるを御前に召して、盃な ど常の作法よりも、さし分かせたまひて、ことに禄など賜は す。年ごろ久しく参り、朝廷にも仕うまつりて、御覧じ馴れ たる御導師の、頭はやうやう色変りてさぶらふも、あはれに 思さる。例の、宮たち上達部など、あまた参りたまへり。梅 の花のわづかに気色ばみはじめてをかしきを、御遊びなども ありぬべけれど、なほ今年までは物の音もむせびぬべき心地

したまへば、時によりたるもの、うち誦じなどばかりぞせさ せたまふ。  まことや、導師の盃のついでに、   春までのいのちも知らず雪のうちに色づく梅をけふ   かざしてん 御返し、   千代の春見るべき花といのりおきてわが身ぞ雪とと   もにふりぬる 人々多く詠みおきたれど漏らしつ。  その日ぞ出でゐたまへる。御容貌、昔の御光にもまた多く 添ひて、あり難くめでたく見えたまふを、この旧りぬる齢の 僧は、あ いなう涙 もとどめ ざりけり。 歳暮、年もわが世も果てることを思う

年暮れぬ、と思すも心細きに、若宮の、 「儺やらはんに、音高かるべきこと、何わ ざをせさせん」と、走り歩きたまふも、を かしき御ありさまを見ざらんこと、とよろづに忍びがたし。   もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世もけ   ふや尽きぬる  朔日のほどの事、常よりことなるべく、とおきてさせたま ふ。親王たち大臣の御引出物、品々の禄どもなど二なう思し まうけて、とぞ。 His Perfumed Highness 源氏の死後匂宮と薫並んで世評高し

光隠れたまひにし後、かの御影にたちつぎ たまふべき人、そこらの御末々にあり難か りけり。遜位の帝をかけたてまつらんはか たじけなし。当代の三の宮、その同じ殿にて生ひ出でたまひ し宮の若君と、この二ところなんとりどりにきよらなる御名 とりたまひて、げにいとなべてならぬ御ありさまどもなれど、 いとまばゆき際にはおはせざるべし。ただ世の常の人ざまに めでたくあてになまめかしくおはするをもととして、さる御- 仲らひに、人の思ひきこえたるもてなしありさまも、いにし への御ひびきけはひよりもややたちまさりたまへるおぼえ からなむ、かたへはこよなういつくしかりける。紫の上の御- 心寄せことにはぐくみきこえたまひしゆゑ、三の宮は二条院

におはします。春宮をば、さる やむごとなきものにおきたてま つりたまて、帝后いみじうかな しうしたてまつり、かしづきき こえさせたまふ宮なれば、内裏 住みをせさせたてまつりたまへ ど、なほ心やすき古里に住みよくしたまふなりけり。御元服 したまひては兵部卿と聞こゆ。 今上の皇子たちと夕霧の子女のこと 女一の宮は、六条院南の町の東の対を、そ の世の御しつらひあらためずおはしまして、 朝夕に恋ひ偲びきこえたまふ。二の宮も、 同じ殿の寝殿を時々の御休み所にしたまひて、梅壼を御曹司 にしたまうて、右の大殿の中姫君をえたてまつりたまへり。 次の坊がねにて、いとおぼえことに重々しう、人柄もすくよ かになんものしたまひける。

 大殿の御むすめは、いとあまたものしたまふ。大姫君は春- 宮に参りたまひて、またきしろふ人なきさまにてさぶらひた まふ。その次々、なほみなついでのままにこそはと世の人も 思ひきこえ、后の宮ものたまはすれど、この兵部卿宮はさし も思したらず。わが御心より起こらざらむことなどは、すさ まじく思しぬべき御気色なめり。大臣も、何かは、やうのも のと、さのみうるはしうはと、しづめたまへど、またさる御- 気色あらむをばもて離れてもあるまじうおもむけて、いとい たうかしづききこえたまふ。六の君なん、そのころの、すこ し我はと思ひのぼりたまへる親王たち上達部の御心尽くす くさはひにものしたまひける。 源氏の御方方のその後の動静と夕霧の配慮 さまざま集ひたまへりし御方々、泣く泣く つひにおはすべき住み処どもに、みなおの おの移ろひたまひしに、花散里と聞こえし は、東の院をぞ、御処分所にて渡りたまひにける。入道の宮

は、三条宮におはします。今后は内裏にのみさぶらひたまへ ば、院の内さびしく人少なになりにけるを、右大臣、 「人の 上にて、いにしへの例を見聞くにも、生ける限りの世に、心 をとどめて造り占めたる人の家ゐのなごりなくうち棄てられ て、世のならひも常なく見ゆるは、いとあはれに、はかなさ 知らるるを、わが世にあらん限りだに、この院あらさず、ほ とりの大路など人影離れはつまじう」と思しのたまはせて、 丑寅の町に、かの一条宮を渡したてまつりたまひてなむ、三- 条殿と、夜ごとに十五日づつ、うるはしう通ひ住みたまひ ける。  二条院とて造り磨き、六条院の春の殿とて世にののしりし 玉の台も、ただ一人の末のためなりけりと見えて、明石の御- 方は、あまたの宮たちの御後見をしつつ、あつかひきこえた まへり。大殿は、いづ方の御ことをも、昔の御心おきてのま まに改めかはることなく、あまねき親心に仕うまつりたまふ

にも、対の上のかやうにてとまりたまへらましかば、いかば かり心を尽くして仕うまつり見えたてまつらまし、つひに、 いささかも、とり分きてわが心寄せと見知りたまふべきふし もなくて過ぎたまひにしことを、口惜しう飽かず悲しう思ひ 出できこえたまふ。  天の下の人、院を恋ひきこえぬなく、とにかくにつけても、 世はただ火を消ちたるやうに、何ごともはえなき嘆きをせぬ をりなかりけり。まして殿の内の人々、御方々、宮たちなど はさらにも聞こえず、限りなき御ことをばさるものにて、ま たかの紫の御ありさまを心にしめつつ、よろづの事につけて、 思ひ出できこえたまはぬ時の間なし。春の花の盛りは、げに 長からぬにしも、おぼえまさるものとなん。 薫、冷泉院と中宮の寵を得て栄進する 二品の宮の若君は、院の聞こえつけたまへ りしままに、冷泉院の帝とり分きて思しか しづき、后の宮も、皇子たちなどおはせず

心細う思さるるままに、うれしき御後見にまめやかに頼みき こえたまへり。御元服なども、院にてせさせたまふ。十四に て、二月に侍従になりたまふ。秋、右近中将になりて、御賜 ばりの加階などをさへ、いづこの心もとなきにか、急ぎ加へ て大人びさせたまふ。おはします殿近き対を曹司にしつらひ など、みづから御覧じ入れて、若き人も、童下仕まで、すぐ れたるを選りととのへ、女の御儀式よりもまばゆくととのへ させたまへり。上にも宮にも、さぶらふ女房の中にも容貌よ くあてやかにめやすきは、みな移し渡させたまひつつ、院の 内を心につけて、住みよくありよく思ふべくとのみ、わざと がましき御あつかひぐさに思されたまへり。故致仕の大殿の 女御ときこえし御腹に、女宮ただ一ところおはしけるをなむ 限りなくかしづきたまふ御ありさまに劣らず。后の宮の御お ぼえの年月にまさりたまふけはひにこそは。などかさしも、 と見るまでなむ。 薫、わが出生の秘密を感知して苦悩する

母宮は、今はただ御行ひを静かにしたまひ て、月ごとの御念仏、年に二たびの御八講、 をりをりの尊き御営みばかりをしたまひて、 つれづれにおはしませば、この君の出で入りたまふを、かへ りては親のやうに頼もしき蔭に思したれば、いとあはれにて、 院にも内裏にも召しまとはし、春宮も、次々の宮たちも、な つかしき御遊びがたきにてともなひたまへば、暇なく苦しく、 いかで身を分けてしがなとおぼえたまひける。  幼心地にほの聞きたまひしことの、をりをりいぶかしうお ぼつかなう思ひわたれど、問ふべき人もなし。宮には、事の けしきにても知りけりと思されん、かたはらいたき筋なれば、 世とともの心にかけて、 「いかなりける事にかは。何の契 りにて、かう安からぬ思ひそひたる身にしもなり出でけん。 善巧太子のわが身に問ひけん悟りをも得てしがな」とぞ独り ごたれたまひける。

  おぼつかな誰に問はましいかにしてはじめもはても知  らぬわが身ぞ 答ふべき人もなし。事にふれて、わが身につつがある心地す るも、ただならずもの嘆かしくのみ思ひめぐらしつつ、 「宮 もかくさかりの御容貌をやつしたまひて、何ばかりの御道心 にてか、にはかにおもむきたまひけん。かく、思はずなりけ る事の乱れに、必ずうしと思しなるふしありけん。人もまさ に漏り出で知らじやは。なほつつむべき事の聞こえにより、 我には気色を知らする人のなきなめり」と思ふ。 「明け暮れ 勤めたまふやうなめれど、はかもなくおほどきたまへる女の 御悟りのほどに、蓮の露も明らかに、玉と磨きたまはんこと も難し。五つの何がしもなほうしろめたきを、我、この御心 地を、同じうは後の世をだに」と思ふ。かの過ぎたまひにけ んも安からぬ思ひにむすぼほれてやなど推しはかるに、世を かへても対面せまほしき心つきて、元服はものうがりたまひ

けれど、すまひはてず、おのづから世の中にもてなされて、 まばゆきまで華やかなる御身の飾も心につかずのみ、思ひし づまりたまへり。  内裏にも、母宮の御方ざまの御心寄せ深くて、いとあはれ なるものに思され、后の宮、はた、もとよりひとつ殿にて、 宮たちももろともに生ひ出で遊びたまひし御もてなしをさを さ改めたまはず。 「末に生まれたまひて、心苦しう、おと なしうもえ見おかぬこと」と、院の思しのたまひしを思ひ出 できこえたまひつつ、おろかならず思ひきこえたまへり。右- 大臣も、わが御子どもの君たちよりも、この君をば、こまや かにやむごとなくもてなしかしづきたてまつりたまふ。 薫の気位、源氏を凌ぐ 身に芳香あること 昔、光る君と聞こえしは、さるまたなき御 おぼえながら、そねみたまふ人うちそひ、 母方の御後見なくなどありしに、御心ざま ももの深く、世の中を思しなだらめしほどに、並びなき御光

をまばゆからずもてしづめたまひ、つひにさるいみじき世の 乱れも出で来ぬべかりし事をも事なく過ぐしたまひて、後の 世の御勤めもおくらかしたまはず、よろづさりげなくて、久 しくのどけき御心おきてにこそありしか。この君は、まだし きに世のおぼえいと過ぎて、思ひあがりたることこよなくな どぞものしたまふ。げに、さるべくて、いとこの世の人とは つくり出でざりける、仮に宿れるかとも見ゆることそひたま へり。顔容貌も、そこはかと、いづこなむすぐれたる、あな きよらと見ゆるところもなきが、ただいとなまめかしう恥づ かしげに、心の奥多かりげなるけはひの人に似ぬなりけり。  香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず、あやしきまで、 うちふるまひたまへるあたり、遠く隔たるほどの追風も、ま ことに百歩の外もかをりぬべき心地しける。誰も、さばかり になりぬる御ありさまの、いとやつればみただありなるやは あるべき、さまざまに、我、人にまさらんとつくろひ用意す

べかめるを、かくかたはなるまでうち忍び立ち寄らむ物の隈 もしるきほのめきの隠れあるまじきにうるさがりて、をさを さ取りもつけたまはねど、あまたの御唐櫃に埋もれたる香の 香どもも、この君のはいふよしもなき匂ひを加へ、御前の花 の木も、はかなく袖かけたまふ梅の香は、春雨の雫にも濡れ、 身にしむる人多く、秋の野に主なき藤袴も、もとのかをりは 隠れて、なつかしき追風ことにをりなしがらなむまさりける。 匂宮、薫と競う 冷泉院の女一の宮を慕う かく、あやしきまで人のとがむる香にしみ たまへるを、兵部卿宮なん、他事よりもい どましく思して、それはわざとよろづのす ぐれたるうつしをしめたまひ、朝夕のことわざに合はせいと なみ、御前の前栽にも、春は梅の花園をながめたまひ、秋は 世の人のめづる女郎花、小牡鹿の妻にすめる萩の露にもをさ をさ御心移したまはず、老を忘るる菊に、おとろへゆく藤袴、 ものげなきわれもかうなどは、いとすさまじき霜枯れのころ

ほひまで思し棄てずなどわざとめきて、香にめづる思ひをな ん立てて好ましうおはしける。かかるほどに、すこしなよび やはらぎて、すいたる方にひかれたまへり、と世の人は思ひ きこえたり。昔の源氏は、すべて、かく立ててその事とやう 変りしみたまへる方ぞなかりしかし。  源中将、この宮には常に参りつつ、御遊びなどにもきしろ ふ物の音を吹きたて、げにいどましくも、若きどち思ひかは したまうつべき人ざまになん。例の、世人は、匂ふ兵部卿、 薫る中将と聞きにくく言ひつづけて、そのころよきむすめお はするやうごとなき所どころは、心ときめきに聞こえごちな どしたまふもあれば、宮は、さまざまに、をかしうもありぬ べきわたりをばのたまひ寄りて、人の御けはひありさまをも 気色とりたまふ。わざと御心につけて思す方はことになかり けり。冷泉院の一の宮をぞ、 「さやうにても見たてまつらば や。かひありなんかし」と思したるは、母女御もいと重く、

心にくくものしたまふあたりにて、姫宮の御けはひ、げにと あり難くすぐれて、よその聞こえもおはしますに、まして、 すこし近くもさぶらひ馴れたる女房などの、くはしき御あり さまの事にふれて聞こえ伝ふるなどもあるに、いとど忍びが たく思すべかめり。 薫、厭世の心深く、女性関係に消極的 中将は、世の中を深くあぢきなきものに思 ひすましたる心なれば、なかなか心とどめ て、行き離れがたき思ひや残らむなど思ふ に、わづらはしき思ひあらむあたりにかかづらはんはつつま しくなど思ひ棄てたまふ。さしあたりて、心にしむべき事の なきほど、さかしだつにやありけむ。人のゆるしなからん事 などは、まして思ひ寄るべくもあらず。十九になりたまふ年、 三位宰相にて、なほ中将も離れず。帝后の御もてなしに、た だ人にては憚りなきめでたき人のおぼえにてものしたまへど、 心の中には、身を思ひ知る方ありて、ものあはれになどもあ

りければ、心にまかせてはやりかなるすき事をさをさ好まず、 よろづの事もてしづめつつ、おのづからおよすけたる心ざま を人にも知られたまへり。  三の宮の年にそへて心をくだきたまふめる院の姫宮の御あ たりを見るにも、ひとつ院の内に明け暮れたち馴れたまへば、 事にふれても、人のありさまを聞き見たてまつるに、 「げに いとなべてならず、心にくくゆゑゆゑしき御もてなし限りな きを。同じくは、げにかやうならむ人を見んにこそ生ける限 りの心ゆくべきつまなれ」と思ひながら、おほかたこそ隔つ ることなく思したれ、姫宮の御方ざまの隔ては、こよなくけ 遠くならはさせたまふも、ことわりに、わづらはしければ、 あながちにもまじらひ寄らず。もし心より外の心もつかば、 我も人もいとあしかるべきことと思ひ知りて、もの馴れ寄る こともなかりけり。  わが、かく、人にめでられんとなりたまへるありさまなれ

ば、はかなくなげの言葉を散らしたまふあたりも、こよなく もて離るる心なくなびきやすなるほどに、おのづからなほざ りの通ひ所もあまたになるを、人のためにことごとしくなど もてなさず、いとよく紛らはし、そこはかとなく情なからぬ ほどのなかなか心やましきを、思ひよれる人は、いざなはれ つつ、三条宮に参り集まるはあまたあり。つれなきを見るも、 苦しげなるわざなめれど、絶えなんよりはと、心細きに思ひ わびて、さもあるまじき際の人々の、はかなき契りに頼みを かけたる多かり。さすがにいとなつかしう、見どころある人 の御ありさまなれば、見る人みな心にはからるるやうにて見- 過ぐさる。 夕霧、六の君を落葉の宮の養女とする 「宮のおはしまさむ世のかぎりは、朝夕 に御目離れず御覧ぜられ、見えたてまつら んをだに」と思ひのたまへば、右大臣も、 あまたものしたまふ御むすめたちを、一人一人は、と心ざし

たまひながら、え言出で たまはず。さすがにゆか しげなき仲らひなるを、 とは思ひなせど、この君 たちをおきて、ほかには なずらひなるべき人を求 め出づべき世かは、と思しわづらふ。やむごとなきよりも、 典侍腹の六の君とか、いとすぐれてをかしげに、心ばへな ども足らひて生ひ出でたまふを、世のおぼえのおとしめざま なるべきしもかくあたらしきを心苦しう思して、一条宮の、 さるあつかひぐさ持たまへらでさうざうしきに、迎へとりて 奉りたまへり。 「わざとはなくて、この人々に見せそめてば、 必ず心とどめたまひてん。人のありさまをも知る人は、こと にこそあるべけれ」など思して、いといつくしくはもてなし たまはず、いまめかしくをかしきやうにもの好みせさせて、

人の心つけんたより多くつくりなしたまふ。 薫、六条院の賭弓の還饗に招かれる 賭弓の還饗の設け、六条院にて、いと心こ とにしたまひて、親王をもおはしまさせん の心づかひしたまへり。  その日、親王たち、大人におはするは、みなさぶらひたま ふ。后腹のは、いづれともなく気高くきよげにおはします中 にも、この兵部卿宮は、げにいとすぐれてこよなう見えたま ふ。四の皇子、常陸の宮と聞こゆる更衣腹のは、思ひなしに や、けはひこよなう劣りたまへり。  例の、左あながちに勝ちぬ。例よりはとく事はてて、大将 まかでたまふ。兵部卿宮、常陸の宮、后腹の五の宮と、ひと つ車にまねき乗せたてまつりて、まかでたまふ。宰相中将 は負方にて、音なくまかでたまひにけるを、 「親王たちお はします御送りには参りたまふまじや」と、押しとどめさせ て、御子の衛門督、権中納言、右大弁など、さらぬ上達部あ

またこれかれに乗りまじり、いざなひたてて、六条院へおは す。道のややほどふるに、雪いささか散りて、艶なる黄昏時 なり。物の音をかしきほどに吹きたて遊びて入りたまふを、 げにここをおきて、いかならむ仏の国にかは、かやうのをり ふしの心やり所を求めむ、と見えたり。  寝殿の南の廂に、常のごと南向きに中少将着きわたり、北 向きに対へて垣下の親王たち上達部の御座あり。御土器など はじまりて、ものおもしろくなりゆくに、求子舞ひてかよる 袖どものうち返す羽風に、御前近き梅のいといたくほころび こぼれたる匂ひのさとうち散りわたれるに、例の、中将の御 かをりのいとどしくもてはやされて、いひ知らずなまめかし。 はつかにのぞく女房なども、 「闇はあやなく心もとなきほど なれど、香にこそげに似たるものなかりけれ」と、めであへ り。大臣もいとめでたしと見たまふ。容貌用意も常よりまさ りて、乱れぬさまにをさめたるを見て、 「右の中将も声加

へたまへや。いたう客人だたしや」
とのたまへば、憎からぬ ほどに、 「神のます」など。 The Rose Plum 按察大納言と真木柱、その子たちのこと

そのころ、按察大納言と聞こゆるは、故致- 仕の大臣の二郎なり。亡せたまひにし衛門- 督のさしつぎよ。童よりらうらうじう、は なやかなる心ばへものしたまひし人にて、なりのぼりたまふ 年月にそへて、まいていと世にあるかひあり、あらまほしう もてなし、御おぼえいとやむごとなかりけり。北の方二人も のしたまひしを、もとよりのは亡くなりたまひて、今ものし たまふは、後太政大臣の御むすめ、真木柱離れがたくしたま ひし君を、式部卿宮にて、故兵部卿の親王にあはせたてまつ りたまへりしを、親王亡せたまひて後忍びつつ通ひたまひし かど、年月経れば、えさしも憚りたまはぬなめり。御子は、 故北の方の御腹に、二人のみぞおはしければ、さうざうしと

て、神仏に祈りて、今の御腹にぞ男君一人まうけたまへる。 故宮の御方に、女君一ところおはす。隔てわかず、いづれを も同じごと思ひきこえかはしたまへるを、おのおの御方の人 などはうるはしうもあらぬ心ばへうちまじり、なまくねくね しき事も出で来る時々あれど、北の方、いとはればれしくい まめきたる人にて、罪なくとりなし、わが御方ざまに苦しか るべきことをもなだらかに聞きなし、思ひなほしたまへば、 聞きにくからでめやすかりけり。 大君東宮に参る 匂宮を中の君の夫に望む 君たち、同じほどに、すぎすぎ大人びたま ひぬれば、御裳など着せたてまつりたまふ。 七間の寝殿広くおほきに造りて、南面に、 大納言殿、大君、西に中の君、東に宮の御方と住ませたてま つりたまへり。おほかたにうち思ふほどは、父宮のおはせぬ 心苦しきやうなれど、こなたかなたの御宝物多くなどして、 内々の儀式ありさまなど心にくく気高くなどもてなして、け

はひあらまほしくおはす。  例の、かくかしづきたまふ聞こえありて、次々に従ひつつ 聞こえたまふ人多く、内裏春宮より御気色あれど、 「内裏に は中宮おはします、いかばかりの人かはかの御けはひに並び きこえむ。さりとて、思ひ劣り卑- 下せんもかひなかるべし。春宮に は、右の大臣殿の並ぶ人なげにて さぶらひたまへばきしろひにくけ れど、さのみ言ひてやは。人にま さらむと思ふ女子を宮仕に思ひ絶 えては、何の本意かはあらむ」と 思したちて、参らせたてまつりた まふ。十七八のほどにて、うつく しうにほひ多かる容貌したまへり。  中の君も、うちすがひて、あて

になまめかしう、澄みたるさまはまさりて、をかしうおはす めれば、ただ人にてはあたらしく見せまうき御さまを、兵部- 卿宮のさも思したらばなど思したる。この若君を内裏にてな ど見つけたまふ時は、召しまとはし、戯れがたきにしたまふ。 心ばへありて、奥推しはからるるまみ額つきなり。 「せう とを見てのみはえやまじと、大納言に申せよ」などのたまひ かくるを、 「さなむ」と聞こゆれば、うち笑みて、いとかひ ありと思したり。 「人におとらむ宮仕よりは、この宮に こそはよろしからむ女子は見せたてまつらまほしけれ。心ゆ くにまかせて、かしづきて見たてまつらんに命延びぬべき宮 の御さまなり」とのたまひながら、まづ春宮の御事を急ぎた まうて、春日の神の御ことわりも、わが世にやもし出で来て、 故大臣の、院の女御の御事を胸いたく思してやみにし慰めの 事もあらなむ、と心の中に祈りて、参らせたてまつりたまひ つ。いと時めきたまふよし人々聞こゆ。かかる御まじらひの

馴れたまはぬほどに、はかばかしき御後見なくてはいかがと て、北の方そひてさぶらひたまへば、まことに限りもなく思 ひかしづき後見きこえたまふ。 大納言、継娘の宮の御方に関心を寄せる 殿は、つれづれなる心地して、西の御方は、 ひとつにならひたまひて、いとさうざうし くながめたまふ。東の姫君も、うとうとし くかたみにもてなしたまはで、夜々は一所に御殿篭り、よろ づの御事習ひ、はかなき御遊びわざをも、こなたを師のや うに思ひきこえてぞ誰も習ひ遊びたまひける。もの恥ぢを、 世の常ならずしたまひて、母北の方にだに、さやかには、を さをささし向ひたてまつりたまはず、かたはなるまで、もて なしたまふものから、心ばへけはひの埋れたるさまならず、 愛敬づきたまへること、はた、人よりすぐれたまへり。かく 内裏参りや何やとわが方ざまをのみ思ひいそぐやうなるも心- 苦しなど思して、 「さるべからむさまに思し定めてのた

まへ。同じこととこそは仕うまつらめ」
と、母君にも聞こえ たまひけれど、 「さらにさやうの世づきたるさま思ひた つべきにもあらぬ気色なれば、なかなかならむ事は心苦しか るべし。御宿世にまかせて、世にあらむかぎりは見たてまつ らむ。後ぞあはれにうしろめたけれど、世を背く方にても、 おのづから人わらへにあはつけき事なくて過ぐしたまはな ん」などうち泣きて、御心ばせの思ふやうなることをぞ聞こ えたまふ。  いづれも分かず親がりたまへど、御容貌を見ばやとゆかし う思して「隠れたまふこそ心憂けれ」と恨みて、人知 れず、見えたまひぬべしやとのぞき歩きたまへど、絶えてか たそばをだにえ見たてまつりたまはず。、 「上おはせぬほ どは、立ちかはりて参り来べきを、うとうとしく思し分くる 御気色なれば心憂くこそ」など聞こえて、御廉の前にゐたま へば、御答へなどほのかに聞こえたまふ。御声けはひなどあ

てにをかしう、さま容貌思ひやられて、あはれにおぼゆる人 の御ありさまなり。わが御姫君たちを人に劣らじと思ひおご れど、 「この君にえしもまさらずやあらむ。かかればこそ、 世の中の広き内裏はわづらはしけれ。たぐひあらじと思ふに まさる方もおのづからありぬべかめり」など、いとどいぶか しう思ひきこえたまふ。 「月ごろ何となくもの騒がしきほどに、御琴の音をだ にうけたまはらで久しうなりはべりにけり。西の方にはべる 人は、琵琶を心に入れてはべる。さも、まねび取りつべくや おぼえはべらん。なまかたほにしたるに、聞きにくき物の音 がらなり。同じくは御心とどめて教へさせたまへ。翁は、と りたてて習ふ物はべらざりしかど、その昔さかりなりし世に 遊びはべりし力にや、聞き知るばかりのわきまへは、何ごと にもいとつきなうははべらざりしを、うちとけても遊ばさね ど、時々うけたまはる御琵琶の音なむ昔おぼえはべる。故六-

条院の御伝へにて、右大臣なん、このごろ世に残りたまへる。 源中納言、兵部卿宮、何ごとにも昔の人に劣るまじういと契 りことにものしたまふ人々にて、遊びの方はとり分きて心と どめたまへるを、手づかひすこしなよびたる撥音などなん、 大臣には及びたまはずと思ひたまふるを、この御琴の音こそ、 いとよくおぼえたまへれ。琵琶は、押手しづやかなるをよき にするものなるに、柱さすほど、撥音のさま変りて、なまめ かしう聞こえたるなん、女の御ことにて、なかなかをかしか りける。いで遊ばさんや。御琴まゐれ」
とのたまふ。女房な どは、隠れたてまつるもをさをさなし。いと若き上臈だつが、 見えたてまつらじと思ふはしも、心にまかせてゐたれば、 「さぶらふ人さへかくもてなすが、安からぬ」と腹立ち たまふ。 大納言、紅梅に託して匂宮に意中を伝える

若君、内裏へ参らむと宿直姿にて参りたま へる、わざとうるはしき角髪よりもいとを かしく見えて、いみじううつくしと思した り。麗景殿に御ことつけ聞こえたまふ。 「譲りきこえて、 今宵もえ参るまじく。悩ましくなど聞こえよ」とのたまひて、 「笛すこし仕うまつれ。ともすれば御前の御遊びに召し 出でらるる、かたはらいたしや。まだいと若き笛を」とうち 笑みて、双調吹かせたまふ。いとをかしう吹いたまへば、 「けしうはあらずなりゆくは、このわたりにておのづか ら物に合はするけなり。なほ掻き合はせさせたまへ」と責め きこえたまへば、苦しと思したる気色ながら、爪弾きにいと よく合はせて、ただすこし掻き鳴らいたまふ。皮笛ふつつか に馴れたる声して。  この東のつまに、軒近き紅梅のいとおもしろく匂ひたるを 見たまひて、 「御前の花、心ばへありて見ゆめり。兵部-

卿宮内裏におはすなり。 一枝折りてまゐれ。知る 人ぞ知る」
とて、 「あ はれ、光る源氏といはゆ る御さかりの大将などに おはせしころ、童にてかやうにてまじらひ馴れきこえしこそ、 世とともに恋しうはべれ。この宮たちを世人もいとことに思 ひきこえ、げに人にめでられんとなりたまへる御ありさまな れど、端が端にもおぼえたまはぬはなほたぐひあらじと、思 ひきこえし心のなしにやありけん。おほかたにて思ひ出でた てまつるに、胸あく世なく悲しきを、け近き人の後れたてま つりて生きめぐらふは、おぼろけの命長さなりかし、とこそ おぼえはべれ」など、聞こえ出でたまひて、ものあはれにす ごく思ひめぐらし、しをれたまふ。  ついでの忍びがたきにや、花折らせて、急ぎ参らせたまふ。

「いかがはせん。昔の恋しき御形見にはこの宮ばかりこ そは。仏の隠れたまひけむ御なごりには、阿難が光放ちけん を、二たび出でたまへるかと疑ふさかしき聖のありけるを。 闇にまどふはるけ所に、聞こえをかさむかし」とて、   心ありて風のにほはす園の梅にまづうぐひすのと  はずやあるべき と、紅の紙に若やぎ書きて、この君の懐紙にとりまぜ、押し たたみて出だしたてたまふを、幼き心に、いと馴れきこえま ほしと思へば、急ぎ参りたまひぬ。 匂宮、大夫の君と語らう 大納言に返歌 中宮の上の御局より御宿直所に出でたまふ ほどなり。殿上人あまた御送りに参る中に 見つけたまひて、 「昨日は、などいとと くはまかでにし。いつ参りつるぞ」などのたまふ。 「と くまかではべりにし悔しさに、まだ内裏におはしますと人の 申しつれば、急ぎ参りつるや」と、幼げなるものから馴れ聞

こゆ。 「内裏ならで、心やすき所にも時々は遊べかし。若 き人どものそこはかとなく集まる所ぞ」とのたまふ。この君 召し放ちて語らひたまへば、人々は近うも参らず、まかで散 りなどして、しめやかになりぬれば、 「春宮には、暇すこ しゆるされにためりな。いと繁う思ほしまとはすめりしを、 時とられて人わろかめり」とのたまへば、 「まつはさせ たまひしこそ苦しかりしか。御前にはしも」と聞こえさして ゐたれば、 「我をば人げなしと思ひ離れたるとな。ことわ りなり。されど安からずこそ。古めかしき同じ筋にて、東と 聞こゆなるは、あひ思ひたまひてんやと、忍びて語らひきこ えよ」などのたまふついでに、この花を奉れば、うち笑みて、 「恨みて後ならましかば」とて、うちも置かず御覧ず。枝の さま、花ぶさ、色も香も世の常ならず。 「園に匂へる紅の、 色にとられて香なん白き梅には劣れると言ふめるを、いとか しこくとり並べても咲きけるかな」とて、御心とどめたまふ

花なれば、かひありてもてはやしたまふ。 「今宵は宿直なめり。やがてこなたにを」と召し籠めつ れば、春宮にもえ参らず、花も恥づかしく思ひぬべくかうば しくて、け近く臥せたまへるを、若き心地には、たぐひなく うれしくなつかしう思ひきこゆ。 「この花の主は、など春- 宮にはうつろひたまはざりし」 「知らず。心知らむ人 になどこそ、聞きはべりしか」など語りきこゆ。大納言の御- 心ばへは、わが方ざまに思ふべかめれと聞きあはせたまへど、 思ふ心は異にしみぬれば、この返り事、けざやかにものたま ひやらず。つとめてこの君のまかづるに、なほざりなるやう にて、   花の香にさそはれぬべき身なりせば風のたよりを過  ぐさましやは さて、 「なほ、今は、翁どもにさかしらせさせで、忍びや かに」とかへすがへすのたまひて。

 この君も東のをばやむごとなく睦ましう思ひましたり。な かなか異方の姫君は、見えたまひなどして、例のはらからの さまなれど、童心地に、いと重りかにあらまほしうおはする 心ばへをかひあるさまにて見たてまつらばや、と思ひ歩くに、 春宮の御方のいとはなやかにもてなしたまふにつけて、同じ 事とは思ひながらいと飽かず口惜しければ、この宮をだにけ 近くて見たてまつらばや、と思ひ歩くに、うれしき花のつい でなり。 大納言、匂宮に再び消息 匂宮なお応ぜず これは昨日の御返りなれば見せたてまつる。 「ねたげにものたまへるかな。あまり すきたる方にすすみたまへるを、ゆるしき こえずと聞きたまひて、右大臣、我らが見たてまつるには、 いとものまめやかに御心をさめたまふこそをかしけれ。あだ 人とせんに、足らひたまへる御さまを、強ひてまめだちたま はんも、見どころ少なくやならまし」など、しりうごちて、

今日も参らせたまふに、また、   「本つ香のにほへる君が袖ふれば花もえならぬ名を  や散らさむ とすきずきしや。あなかしこ」と、まめやかに聞こえたまへ り。まことに言ひなさむと思ふところあるにやと、さすがに 御心ときめきしたまひて、   花の香をにほはす宿にとめゆかばいろにめづとや人   のとがめん など、なほ心解けず答へたまへるを、心やましと思ひゐたま へり。 大納言と真木柱、匂宮のことを語りあう 北の方まかでたまひて、内裏わたりの事の たまふついでに、 「若君の、一夜宿直 して、まかり出でたりし匂ひの、いとをか しかりしを、人はなほと思ひしを、宮のいと思ほし寄りて、 兵部卿宮に近づききこえにけり、むべ我をばすさめたりと、

気色とり、怨じたまへりしこそをかしかりしか。ここに、御- 消息やありし。さも見えざりしを」
とのたまへば、 「さ かし。梅の花めでたまふ君なれば、あなたのつまの紅梅いと 盛りに見えしを、ただならで、折りて奉れたりしなり。移り 香はげにこそ心ことなれ。晴れまじらひしたまはん女などは、 さはえしめぬかな。源中納言は、かうざまに好ましうはたき 匂はさで、人柄こそ世になけれ。あやしう、前の世の契りい かなりける報にかと、ゆかしきことにこそあれ。同じ花の名 なれど、梅は生ひ出でけむ根こそあはれなれ。この宮などの めでたまふ、さることぞかし」など、花によそへてもまづか けきこえたまふ。 匂宮、宮の御方に執心 真木柱応諾せず 宮の御方は、もの思し知るほどにねびまさ りたまへれば、何ごとも見知り、聞きとど めたまはぬにはあらねど、人に見え、世づ きたらむありさまは、さらに、と思し離れたり。世の人も、

時による心ありてにや、さし向ひたる御方々には、心を尽く しきこえわび、いまめかしきこと多かれど、こなたはよろづ につけ、ものしめやかに引き入りたまへるを、宮は御ふさひ の方に聞き伝へたまひて、深う、いかで、と思ほしなりにけ り。若君を常にまつはし寄せたまひつつ、忍びやかに御文あ れど、大納言の君深く心かけきこえたまひて、さも思ひたち てのたまふことあらば、と気色とり、心まうけしたまふを見 るに、いとほしう、 「ひき違へて、かう思ひ寄るべうも あらぬ方にしも、なげの言の葉を尽くしたまふ、かひなげな ること」と、北の方も思しのたまふ。  はかなき御返りなどもなければ、負けじの御心そひて、思 ほしやむべくもあらず。何かは、人の御ありさま、などかは、 さても見たてまつらまほしう、生ひ先遠くなどは見えさせた まふになど、北の方思ほし寄る時々あれど、いといたう色め きたまうて、通ひたまふ忍び所多く、八の宮の姫君にも、御-

心ざし浅からで、いと繁う参うで歩きたまふ。頼もしげなき 御心の、あだあだしさなども、いとどつつましければ、まめ やかには思ほし絶えたるを、かたじけなきばかりに、忍びて、 母君ぞ、たまさかにさかしらがり聞こえたまふ。 Bamboo River 前口上−−鬚黒邸の悪御達の話であること

これは、源氏の御族にも離れたまへりし後 大殿わたりにありける悪御達の、落ちとま り残れるが問はず語りしおきたるは、紫の ゆかりにも似ざめれど、かの女どもの言ひけるは、 「源氏の 御末々にひが事どものまじりて聞こゆるは、我よりも年の数 つもりほけたりける人のひが言にや」などあやしがりける、 いづれかはまことならむ。 鬚黒死後、訪客もなく、近親も疎遠になる 尚侍の御腹に、故殿の御子は男三人、女 二人なむおはしけるを、さまざまにかしづ きたてむことを思しおきてて、年月の過ぐ るも心もとながりたまひしほどに、あへなく亡せたまひにし かば、夢のやうにて、いつしかと急ぎ思しし御宮仕もおこた

りぬ。人の心、時にのみよるわざなりければ、さばかり勢い かめしくおはせし大臣の御なごり、内々の御宝物、領じたま ふ所どころなど、その方の衰へはなけれど、おほかたのあり さまひきかへたるやうに殿の内しめやかになりゆく。尚侍の 君の御近きゆかり、そこらこそは世にひろごりたまへど、な かなかやむごとなき御仲らひのもとよりも親しからざりしに、 故殿情すこしおくれ、むらむらしさ過ぎたまへりける御本- 性にて、心おかれたまふこともありけるゆかりにや、誰にも えなつかしく聞こえ通ひたまはず。六条院には、すべて、な ほ、昔に変らず数まへきこえたまひて、亡せたまひなむ後の 事ども書きおきたまへる御処分の文どもにも、中宮の御次に 加へたてまつりたまへれば、右の大殿などは、なかなかその 心ありて、さるべきをりをり訪れきこえたまふ。 大君、帝・冷泉院・蔵人少将らに求婚さる

男君たちは御元服などして、おのおの大人 びたまひにしかば、殿おはせで後、心もと なくあはれなることもあれど、おのづから なり出でたまひぬべかめり。姫君たちをいかにもてなしたて まつらむと思し乱る。内裏にも、必ず宮仕の本意深きよしを 大臣の奏しおきたまひければ、大人びたまひぬらむ年月を推 しはからせたまひて仰せ言絶えずあれど、中宮のいよいよ並 びなくのみなりまさりたまふ御けはひにおされて、皆人無徳 にものしたまふめる末に参りて、遙かに目をそばめられたて まつらむもわづらはしく、また人に劣り数ならぬさまにて見 む、はた、心づくしなるべきを思ほしたゆたふ。  冷泉院より、いとねむごろに思しのたまはせて、尚侍の君 の、昔、本意なくて過ぐしたまうしつらさをさへとり返し恨 みきこえたまうて、 「今は、まいて、さだ過ぎすさまじ きありさまに思ひ棄てたまふとも、うしろやすき親になずら

へて譲りたまへ」
と、いとまめやかに聞こえたまひければ、 「いかがはあるべきことならむ。みづからのいと口惜しき 宿世にて、思ひの外に心づきなしと思されにしが恥づかしう かたじけなきを、この世の末にや御覧じなほされまし」など 定めかねたまふ。  容貌いとようおはする聞こえありて、心かけ申したまふ人 多かり。右の大殿の蔵人少将とかいひしは、三条殿の御腹に て、兄君たちよりもひき越しいみじうかしづきたまひ、人柄 もいとをかしかりし君、いとねむごろに申したまふ。いづ方 につけてももて離れたまはぬ御仲らひなれば、この君たちの 睦び参りたまひなどするはけ遠くもてなしたまはず。女房に もけ近く馴れ寄りつつ、思ふことを語らふにもたよりありて、 夜昼、あたり去らぬ耳かしがましさを、うるさきものの心苦 しきに、尚侍の殿も思したり。母北の方の御文もしばしば奉 りたまひて、 「いと軽びたるほどにはべるめれど、思しゆ

るす方もや」
となむ大臣も聞こえたまひける。姫君をば、さ らにただのさまにも思しおきてたまはず、中の君をなむ、い ますこし世の聞こえ軽々しからぬほどになずらひならば、さ もや、と思しける。ゆるしたまはずは盗みも取りつべく、む くつけきまで思へり。こよなきこととは思さねど、女方の心 ゆるしたまはぬ事の紛れあるは、音聞きもあはつけきわざな れば、聞こえつぐ人をも、 「あなかしこ、過ちひき出づ な」などのたまふに朽されてなむ、わづらはしがりける。 薫、玉鬘より源氏の形見として親しまれる 六条院の御末に、朱雀院の宮の御腹に生ま れたまへりし君、冷泉院に御子のやうに思 しかしづく四位侍従、そのころ十四五ばか りにて、いときびはに幼かるべきほどよりは、心おきておと なおとなしく、めやすく、人にまさりたる生ひ先しるくもの したまふを、尚侍の君は、婿にても見まほしく思したり。こ の殿は、かの三条宮といと近きほどなれば、さるべきをりを

りの遊び所には、君達にひかれて見えたまふ時々あり。心に くき女のおはする所なれば、若き男の心づかひせぬなう、見 えしらがひさまよふ中に、容貌のよさは、この立ち去らぬ蔵- 人少将、なつかしく心恥づかしげになまめいたる方は、この 四位侍従の御ありさまに似る人ぞなかりける。六条院の御け はひ近うと思ひなすが心ことなるにやあらむ、世の中におの づからもてかしづかれたまへる人なり。若き人々心ことにめ であへり。尚侍の殿も、 「げにこそめやすけれ」などのたま ひて、なつかしうもの聞こえたまひなどす。 「院の御心ば へを思ひ出できこえて、慰む世なういみじうのみ思ほゆるを、 その御形見にも誰をかは見たてまつらむ。右大臣はことごと しき御ほどにて、ついでなき対面も難きを」などのたまひて、 はらからのつらに思ひきこえたまへれば、かの君もさるべき 所に思ひて参りたまふ。世の常のすきずきしさも見えず、い といたうしづまりたるをぞ、ここかしこの若き人ども、口惜

しうさうざうしきことに思ひて、言ひなやましける。 夕霧、年賀に玉鬘訪問 大君について懇談 正月の朔日ごろ、尚侍の君の御はらからの 大納言、高砂うたひしよ、藤中納言、故大- 殿の太郎、真木柱のひとつ腹など参りたま へり。右大臣も、御子ども六人ながらひき連れておはしたり。 御容貌よりはじめて、飽かぬことなく見ゆる人の御ありさま おぼえなり。君たちも、さまざまいときよげにて、年のほど よりは官位過ぎつつ、何ごとを思ふらんと見えたるべし。 世とともに、蔵人の君は、かしづかれたるさまことなれど、 うちしめりて思ふことあり顔なり。  大臣は御几帳隔てて、昔に変らず御物語聞こえたまふ。 「そのこととなくて、しばしばもえ承らず。年の数そふ ままに、内裏に参るより外の歩きなどうひうひしうなりにて はべれば、いにしへの御物語も聞こえまほしきをりをり多く 過ぐしはべるをなむ。若き男どもは、さるべき事には召し使

はせたまへ。必ずその心ざし御覧ぜられよと戒めはべり」
な ど聞こえたまふ。 「今は、かく、世に経る数にもあらぬや うになりゆくありさまを思し数まふるになむ、過ぎにし御こ とも、いとど忘れがたく思ひたまへられける」と申したまひ けるついでに、院よりのたまはすることほのめかしきこえた まふ。 「はかばかしう後見なき人のまじらひはなかなか見- 苦しきをと、かたがた思ひたまへなむわづらふ」と申したま へば、 「内裏に仰せらるることあるやうに承りしを、いづ 方に思ほし定むべきことにか。院は、げに、御位を去らせた まへるにこそ、さかり過ぎたる心地すれど、世にあり難き御 ありさまは旧りがたくのみおはしますめるを、よろしう生ひ 出づる女子はべらましかばと思ひたまへよりながら、恥づか しげなる御仲にまじらふべきもののはべらでなん、口惜しう 思ひたまへらるる。そもそも、女一の宮の女御はゆるしきこ えたまふや。さきざきの人、さやうの憚りによりとどこほる

こともはべりかし」
と申したまへば、 「女御なん、つれづ れにのどかになりにたるありさまも、同じ心に後見て慰めま ほしきをなど、かのすすめたまふにつけて、いかがなどだに 思ひたまへよるになん」と聞こえたまふ。  これかれ、ここに集まりたまひて、三条宮に参りたまふ。 朱雀院の古き心ものしたまふ人々、六条院の方ざまのも、方- 方につけて、なほかの入道の宮をばえ避きず参りたまふなめ り。この殿の左近中将、右中弁、侍従の君なども、やがて大- 臣の御供に出でたまひぬ。ひき連れたまへる勢ことなり。 薫、夕刻に玉鬘邸を訪問し優雅にふるまう 夕つけて四位侍従参りたまへり。そこらお となしき若君達も、あまたさまざまに、い づれかはわろびたりつる、みなめやすかり つる中に、立ちおくれてこの君の立ち出でたまへる、いとこ よなく目とまる心地して、例のものめでする若き人たちは、 「なほことなりけり」など言ふ。 「この殿の姫君の御かたはら

には、これをこそさし並べて見め」
と、聞きにくく言ふ。げ にいと若うなまめかしきさまして、うちふるまひたまへる匂 ひ香など世の常ならず。姫君と聞こゆれど、心おはせむ人は、 げに人よりはまさるなめりと見知りたまふらむかし、とぞお ぼゆる。  尚侍の殿、御念誦堂におはして、 「こなたに」とのたま へれば、東の階より上りて、戸口の御簾の前にゐたまへり。 御前近き若木の梅心もとなくつぼみて、鶯の初声もいとおほ どかなるに、いとすかせたてまほしきさまのしたまへれば、 人々はかなきことを言ふに、言少なに心にくきほどなるをね たがりて、宰相の君と聞こゆる上臈の詠みかけたまふ。   折りて見ばいとどにほひもまさるやとすこし色めけ梅の  はつ花 口はやし、と聞きて、   「よそにてはもぎ木なりとやさだむらんしたに匂へる

 梅のはつ花 さらば袖ふれて見たまへ」
など言ひすさぶに、 「まことは 色よりも」と、口々、ひきも動かしつべくさまよふ。  尚侍の君、奥の方よりゐざり出でたまひて、 「うたての御- 達や。恥づかしげなるまめ人をさへ。よくこそ面なけれ」と、 忍びてのたまふなり。 「まめ人、とこそつけられたりけれ。 いと屈じたる名かな」と思ひゐたまへり。主の侍従、殿上な どもまだせねば、所どころも歩かでおはしあひたり。浅香の 折敷二つばかりして、くだもの、盃ばかりさし出でたまへり。 「大臣は、ねびまさりたまふままに、故院にいとようこそ おぼえたてまつりたまへれ。この君は、似たまへるところも 見えたまはぬを、けはひのいとしめやかになまめいたるもて なしぞ、かの御若ざかり思ひやらるる。かうざまにぞおはし けんかし」など、思ひ出できこえたまひて、うちしほたれた まふ。なごりさへとまりたるかうばしさを、人々はめでくつ

がへる。 正月下旬、薫玉鬘邸を訪う 少将らと小宴 侍従の君、まめ人の名をうれたしと思ひけ れば、二十余日のころ、梅の花盛りなるに、 にほひ少なげにとりなされじ、すき者なら はむかし、と思して、藤侍従の御もとにおはしたり。中門入 りたまふほどに、同じ直衣姿なる人立てりけり。隠れなむと 思ひけるをひきとどめたれば、この常に立ちわづらふ少将な りけり。寝殿の西面に琵琶箏の琴の声するに、心をまどはし て立てるなめり。 「苦しげや。人のゆるさぬこと思ひはじめ むは罪深かるべきわざかな」と思ふ。琴の声もやみぬれば、 「いざ、しるべしたまへ。まろはいとたどたどし」とて、 ひき連れて、西の渡殿の前なる紅梅の木のもとに、梅が枝を うそぶきて立ち寄るけはひの花よりもしるくさとうち匂へれ ば、妻戸おし開けて、人々あづまをいとよく掻き合はせたり。 女の琴にて、呂の歌はかうしも合はせぬを、いたし、と思ひ

て、いま一返りをり返しうたふを、琵琶も二なくいまめかし。 ゆゑありてもてないたまへるあたりぞかし、と心とまりぬれ ば、今宵はすこしうちとけて、はかなしごとなども言ふ。  内より和琴さし出でたり。かたみに譲りて手触れぬに、侍- 従の君して、尚侍の殿、「故致仕の大臣の御爪音になむ通ひ たまへると聞きわたるを、まめやかにゆかしくなん。今宵 は、なほ鶯にも誘はれたまへ」と、のたまひ出だしたれば、 あまえて爪食ふべきことにもあらぬをと思ひて、をさをさ心 にも入らず掻きわたしたまへるけしきいと響き多く聞こゆ。 「常に見たてまつり睦びざりし親なれど、世におはせずな りにきと思ふにいと心細きに、はかなき事のついでにも思ひ 出でたてまつるに、いとなんあはれなる。おほかた、この君 は、あやしう故大納言の御ありさまにいとようおぼえ、琴の 音など、ただそれとこそおぼえつれ」とて泣きたまふも、古 めいたまふしるしの涙もろさにや。

 少将も、声いとおもしろうて、「さき草」うたふ。さかし ら心つきてうち過ぐしたる人もまじらねば、おのづからかた みにもよほされて遊びたまふに、主の侍従は、故大臣に似た てまつりたまへるにや、かやうの方は後れて、盃をのみすす むれば、 「寿詞をだにせんや」と、辱づかしめられて、竹河 を同じ声に出だして、まだ若けれどをかしううたふ。簾の内 より土器さし出づ。 「酔のすすみては、忍ぶることもつつ まれず、ひが事するわざとこそ聞きはべれ。いかにもてない たまふぞ」と、とみに承け引かず。小袿重なりたる細長の人- 香なつかしう染みたるを、とりあへたるままにかづけたまふ。 「何ぞもぞ」などさうどきて、侍従は主の君にうちかづけ て去ぬ。ひきとどめてかづくれど、 「水駅にて夜更けにけ り」とて逃げにけり。 蔵人少将薫を羨む 玉鬘薫の筆跡を賞める

少将は、この源侍従の君のかうほのめき寄 るめれば、皆人これにこそ心寄せたまふら め、わが身はいとど屈じいたく思ひ弱りて、 あぢきなうぞ恨むる。   人はみな花に心をうつすらむひとりぞまどふ春の夜   の闇 うち嘆きて立てば、内の人の返し、   をりからやあはれも知らむ梅の花ただ香ばかりに移   りしもせじ 朝に、四位侍従のもとより、主の侍従のもとに、 「昨夜 は、いとみだりがはしかりしを、人々いかに見たまひけん」 と、見たまへ、と思しう仮名がちに書きて、端に、   竹河のはしうち出でしひとふしに深きこころのそこは   知りきや と書きたり。寝殿に持て参りて、これかれ見たまふ。 「手

なども、いとをかしうもあるかな。いかなる人、今よりかく ととのひたらむ。幼くて院にも後れたてまつり、母宮のしど けなう生ほしたてたまへれど、なほ人にはまさるべきにこそ はあめれ」
とて、尚侍の君は、この君たちの手などあしきこ とを辱づかしめたまふ。返り事、げに、いと若く、 「昨- 夜は、水駅をなん咎めきこゆめりし。  竹河に夜をふかさじといそぎしもいかなるふしを思ひお   かまし」 げにこのふしをはじめにて、この君の御曹司におはして気色 ばみよる。少将の推しはかりしもしるく、皆人心寄せたり。 侍従の君も、若き心地に、近きゆかりにて明け暮れ睦びまほ しう思ひけり。 桜花の下少将、姫君たちの囲碁を隙見する 三月になりて、咲く桜あれば散りかひ曇り、 おほかたの盛りなるころ、のどやかにおは する所は、紛るることなく、端近なる罪も

あるまじかめり。そのころ十八九のほどやおはしけむ、御容- 貌も心ばへもとりどりにぞをかしき。姫君はいとあざやかに 気高ういまめかしきさましたまひて、げにただ人にて見たて まつらむは似げなうぞ見えたまふ。桜の細長、山吹などのを りにあひたる色あひのなつかしきほどに重なりたる裾まで、 愛敬のこぼれ落ちたるやうに見ゆる、御もてなしなどもらう らうじく心恥づかしき気さへそひたまへり。いま一ところは、 薄紅梅に、御髪いろにて、柳の糸のやうにたをたをと見ゆ。 いとそびやかになまめかしう澄み たるさまして、重りかに心深きけ はひはまさりたまへれど、にほひ やかなるけはひはこよなしとぞ人- 思へる。  碁打ちたまふとて、さし向ひた まへる髪ざし御髪のかかりたる

さまども、いと見どころあり。侍従の君、見証したまふとて 近うさぶらひたまふに、兄君たちさしのぞきたまひて、「侍- 従のおぼえこよなうなりにけり。御碁の見証ゆるされにける をや」とて、おとなおとなしきさまして突いゐたまへば、御- 前なる人々とかうゐなほる。中将、「宮仕のいそがしうなり はべるほどに、人に劣りにたるは。いと本意なきわざかな」 と愁へたまへば、 「弁官は、まいて、私の宮仕怠りぬべ きままに、さのみやは思し棄てん」など申したまふ。碁打ち さして恥ぢらひておはさうずる、いとをかしげなり。 「内- 裏わたりなどまかり歩きても、故殿おはしまさましかば、と 思ひたまへらるること多くこそ」など、涙ぐみて見たてまつ りたまふ。二十七八のほどにものしたまへば、いとよくとと のひて、この御ありさまどもを、いかでいにしへ思しおきて しに違へずもがなと思ひゐたまへり。  御前の花の木どもの中にも、にほひまさりてをかしき桜を

折らせて、 「外のには似ずこそ」などもてあそびたまふを、 「幼くおはしましし時、この花はわがぞわがぞと争ひたま ひしを、故殿は、姫君の御花ぞ、と定めたまふ。上は、若君 の御木、と定めたまひしを、いとさは泣きののしらねど、安 からず思ひたまへられしはや」とて、 「この桜の老木にな りにけるにつけても、過ぎにける齢を思ひたまへ出づれば、 あまたの人に後れはべりにける身の愁へもとめがたうこそ」 など、泣きみ笑ひみ聞こえたまひて、例よりはのどやかにお はす。人の婿になりて、心静かにも今は見えたまはぬを、花 に心とどめてものしたまふ。  尚侍の君、かくおとなしき人の親になりたまふ御年のほど 思ふよりはいと若うきよげに、なほさかりの御容貌と見えた まへり。冷泉院の帝は、多くは、この御ありさまのなほゆか しう昔恋しう思し出でられければ、何につけてかはと思しめ ぐらして、姫君の御事を、あながちに聞こえたまふにぞあり

ける。院へ参りたまはんことは、この君たちぞ、 「なほもの のはえなき心地こそすべけれ。よろづのこと、時につけたる をこそ、世人もゆるすめれ。げにいと見たてまつらまほしき 御ありさまは、この世にたぐひなくおはしますめれど、さか りならぬ心地ぞするや。琴笛の調べ、花鳥の色をも音をも、 時に従ひてこそ、人の耳もとまるものなれ。春宮はいかが」 など申したまへば、 「いさや、はじめよりやむごとなき人 の、かたはらもなきやうにてのみものしたまふめればこそ。 なかなかにてまじらはむは、胸いたく人笑はれなる事もやあ らむとつつましければ。殿おはせましかば、行く末の御宿世 宿世は知らず、ただ今はかひあるさまにもてなしたまひてま しを」などのたまひ出でて、みなものあはれなり。  中将など立ちたまひて後、君たちは打ちさしたまへる碁打 ちたまふ。昔より争ひたまふ桜を賭け物にて、 「三番に数一 つ勝ちたまはむ方に花を寄せてん」と戯れかはしきこえたま

ふ。暗うなれば、端近うて打ちはてたまふ。御簾捲き上げて、 人々みないどみ念じきこゆ。をりしも、例の少将、侍従の君 の御曹司に来たりけるを、うち連れて出でたまひにければ、 おほかた人少ななるに、廊の戸の開きたるに、やをら寄りて のぞきけり。かううれしきをりを見つけたるは、仏などのあ らはれたまへらんに参りあひたらむ心地するも、はかなき心 になん。夕暮の霞の紛れはさやかならねど、つくづくと見れ ば、桜色の文目もそれと見分きつ。げに散りなむ後の形見に も見まほしく、にほひ多く見えたまふを、いとど異ざまにな りたまひなんことわびしく思ひまさらる。若き人々のうちと けたる姿ども夕映えをかしう見ゆ。右勝たせたまひぬ。 「高麗の乱声おそしや」などはやりかに言ふもあり。 「右 に心を寄せたてまつりて西の御前に寄りてはべる木を、左に なして。年ごろの御争ひのかかればありつるぞかし」と、右- 方は心地よげにはげましきこゆ。何ごとと知らねどをかしと

聞きて、さしいらへもせまほしけれど、うちとけたまへるを り心地なくやは、と思ひて出でて去ぬ。またかかる紛れもや と、蔭にそひてぞうかがひ歩きける。  君たちは、花の争ひをしつつ明かし暮らしたまふに、風荒 らかに吹きたる夕つ方、乱れ落つるがいと口惜しうあたらし ければ、負方の姫君、   さくらゆゑ風にこころのさわぐかなおもひぐまなき 花と見る見る 御方の宰相の君、  咲くと見てかつは散りぬる花なればまくるを深きうらみ  ともせず と聞こえたすくれば、右の姫君、   風に散ることは世のつね枝ながらうつろふ花をた  だにしも見じ この御方の大輔の君、

 心ありて池のみぎはに落つる花あわとなりてもわが方に  寄れ 勝方の童べ下りて、花の下に歩きて、散りたるをいと多く拾 ひて持て参れり。   大空の風に散れどもさくら花おのがものとぞかきつめ   て見る 左のなれき、 「桜花にほひあまたに散らさじとおほふばかりの袖はあ  りやは 心せばげにこそ見ゆめれ」など言ひおとす。 大君の参院決定、蔵人少将なおあきらめず かくいふに、月日はかなく過ぐすも行く末 のうしろめたきを、尚侍の殿はよろづに思 す。院よりは、御消息日々にあり。女御、 「うとうとしう思し隔つるにや。上は、ここに聞こえうとむ るなめりと、いと僧げに思しのたまへば、戯れにも苦しうな

ん。同じくは、このごろのほどに思したちね」
など、いとま めやかに聞こえたまふ。さるべきにこそはおはすらめ、いと かうあやにくにのたまふもかたじけなしなど思したり。御調- 度などは、そこらしおかせたまへれば、人々の装束、何くれ のはかなきことをぞいそぎたまふ。  これを聞くに、蔵人少将は死ぬばかり思ひて、母北の方を 責めたてまつれば、聞きわづらひたまひて、 「いとかた はらいたきことにつけて、ほのめかし聞こゆるも、世にかた くなしき闇のまどひになむ。思し知る方もあらば、推しはか りて、なほ慰めさせたまへ」など、いとほしげに聞こえたま ふを、 「苦しうもあるかな」と、うち嘆きたまひて、 「いかなることと思ひたまへ定むべきやうもなきを、院より わりなくのたまはするに思うたまへ乱れてなん。まめやかな る御心ならば、このほどを思ししづめて、慰めきこえんさま をも見たまひてなん、世の聞こえもなだらかならむ」など申

したまふも、この御参り過ぐして中の君をと思すなるべし。 「さしあはせてはうたてしたり顔ならむ。まだ位なども浅へ たるほどを」など思すに、男は、さらにしか思ひ移るべくも あらず。ほのかに見たてまつりて後は、面影に恋しう、いか ならむをりにとのみおぼゆるに、かう頼みかからずなりぬる を思ひ嘆きたまふこと限りなし。 少将、薫の文を見、中将のおもとに訴える かひなきことも言はむとて、例の、侍従の 曹司に来たれば、源侍従の文をぞ見ゐたま へりける。ひき隠すを、さなめり、と見て 奪ひとりつ。事あり顔にや、と思ひていたうも隠さず。そこ はかとなくて、ただ世を恨めしげにかすめたり。   つれなくて過ぐる月日をかぞへつつもの恨めしき暮の  春かな 「人はかうこそのどやかにさまよくねたげなめれ、わがいと 人笑はれなる心いられを。かたへは目馴れて、侮りそめられ

にたる」
など思ふも胸いたければ、ことにものも言はれで、 例語らふ中将のおもとの曹司の方に行くも、例の、かひあら じかしと嘆きがちなり。侍従の君は、 「この返り事せむ」と て、上に参りたまふを見るに、いと腹立たしう安からず、若 き心地にはひとへにものぞおぼえける。  あさましきまで恨み嘆けば、この前申もあまり戯れにくく いとほしと思ひて、答へもをさをさせず。かの御碁の見証せ し夕暮の事も言ひ出でて、 「さばかりの夢をだにまた見て しがな。あはれ、何を頼みにて生きたらむ。かう聞こゆるこ とも残り少なうおぼゆれば。つらきもあはれ、といふことこ そまことなりけれ」と、いとまめだちて言ふ。あはれ、とて 言ひやるべき方なきことなり。かの慰めたまはむ御さま、つ ゆばかりうれしと思ふべき気色もなければ、げにかの夕暮の 顕証なりけんに、いとどかうあやにくなる心はそひたるなら んと、ことわりに思ひて、 「聞こしめさせたらば、

いとどいかにけしからぬ御心なりけりと、うとみきこえたま はむ。心苦しと思ひきこえつる心も失せぬ。いとうしろめた き御心なりけり」
と、むかひ火つくれば、 「いでや、さば れや。今は限りの身なれば、もの恐ろしくもあらずなりにた り。さても負けたまひしこそ、いといとほしかりしか。おい らかに召し入れてやは。目くはせたてまつらましかば、こよ なからましものを」など言ひて。   いでやなぞ数ならぬ身にかなはぬは人に負けじの心  なりけり 中将うち笑ひて、   わりなしやつよきによらむ勝負を心ひとつにいかがまか  する と答ふるさへぞつらかりける。   あはれとて手をゆるせかし生死を君にまかするわが  身とならば

泣きみ笑ひみ語らひ明かす。 四月一日少将惜春の歌を贈る 女房の返し またの日は四月になりにければ、はらから の君たちの内裏に参りさまよふに、いたう 屈じ入りてながめゐたまへれば、母北の方 は涙ぐみておはす。大臣も、 「院の聞こしめすところもあ るべし、何にかはおほなおほな聞き入れむ、と思ひて、悔し う、対面のついでにもうち出できこえずなりにし。みづから あながちに申さましかば、さりともえ違へたまはざらまし」 などのたまふ。さて、例の、   花を見て春は暮らしつ今日よりやしげきなげきのし   たにまどはむ と聞こえたまへり。  御前にて、これかれ上臈だつ人々、この御懸想人のさまざ まにいとほしげなるを聞こえ知らする中に、中将のおもと、 「生死を、と言ひしさまの、言にのみはあらず心苦しげなり

し」
など聞こゆれば、尚侍の君もいとほしと聞きたまふ。 大臣北の方の思すところにより、せめて人の御恨み深くはと、 とりかへありて思すこの御参りを、妨げやうに思ふらんはし もめざましきこと、限りなきにても、ただ人にはかけてある まじきものに故殿の思しおきてたりしものを、院に参りたま はむだに、行く末のはえばえしからぬを思したるをりしも、 この御文とり入れてあはれがる。御返し、 今日ぞ知る空をながむる気色にて花に心をうつしけり とも 「あないとほし。戯れにのみもとりなすかな」など言へど、 うるさがりて書きかへず。 大君参院 蔵人少将と歌を贈答する 九日にぞ参りたまふ。右の大殿、御車御前 の人々あまた奉りたまへり。北の方も、恨 めしと思ひきこえたまへど、年ごろさもあ らざりしに、この御事ゆゑ繁う聞こえ通ひたまへるを、また

かき絶えんもうたてあれ ば、かづけ物ども、よき 女の装束どもあまた奉れ たまへり。 「あやし ううつし心もなきやうな る人のありさまを見たまへあつかふほどに、承りとどむる 事もなかりけるを、おどろかさせたまはぬもうとうとしくな ん」とぞありける。おいらかなるやうにてほのめかしたまへ るを、いとほしと見たまふ。大臣も御文あり。 「みづから も参るべきに思ひたまへつるに、つつしむ事のはべりてなん。 男ども、雑役にとて参らす。うとからず召し使はせたまへ」 とて、源少将、兵衛佐など奉れたまへり。 「情はおはすか し」と、よろこびきこえたまふ。大納言殿よりも、人々の御- 車奉れたまふ。北の方は故大臣の御むすめ、真木柱の姫君な れば、いづ方につけても睦ましう聞こえ通ひたまふべけれど、

さしもあらず。藤中納言はしもみづからおはして、中将、弁 の君たちもろともに事行ひたまふ。殿のおはせましかばと、 よろづにつけてあはれなり。  蔵人の君、例の人にいみじき言葉を尽くして、 「今は限 りと思ひはつる命のさすがに悲しきを。あはれと思ふ、とば かりだに一言のたまはせば、それにかけとどめられて、しば しもながらへやせん」などあるを持て参りて、見れば、姫君 二ところうち語らひて、いといたう屈じたまへり。夜昼もろ ともにならひたまひて、中の戸ばかり隔てたる西東をだに いといぶせきものにしたまひて、かたみに渡り通ひおはする を、よそよそにならむことを思すなりけり。心ことにしたて、 ひきつくろひたてまつりたまへる御さまいとをかし。殿の思 しのたまひしさまなどを思し出でてものあはれなるをりから にや、取りて見たまふ。大臣北の方の、さばかり立ち並びて 頼もしげなる御中に、などかうすずろごとを思ひ言ふらん、

とあやしきにも、限りとあるを、まことにやと思して、やが てこの御文の端に、 「あはれてふ常ならぬ世のひと言もいかなる人にかく   るものぞは ゆゆしき方にてなん、ほのかに思ひ知りたる」と書きたまひ て、 「かう言ひやれかし」とのたまふを、やがて奉れたる を、限りなうめづらしきにも、をりを思しとむるさへ、いと ど涙もとどまらず。  たち返り、 「誰が名はたたじ」など、かごとがましくで、   「生ける世の死は心にまかせねば聞かでややまむ君が   ひとこと 塚の上にもかけたまふべき御心のほどと思ひたまへましかば、 ひたみちにも急がれはべらましを」などあるに、 「うたても 答へをしてけるかな。書きかへでやりつらむよ」と苦しげに 思して、ものものたまはずなりぬ。

 大人童、めやすきかぎりをととのへられたり。おほかたの 儀式などは、内裏に参りたまはましに変ることなし。まづ女- 御の御方に渡りたまひて、尚侍の君は御物語など聞こえたま ふ。夜更けてなん上に参う上りたまひける。后女御など、み な年ごろ経てねびたまへるに、いとうつくしげにて、さかり に見どころあるさまを見たてまつりたまふは、などてかはお ろかならむ。華やかに時めきたまふ。ただ人だちて心安くも てなしたまへるさましもぞ、げにあらまほしうめでたかりけ る。尚侍の君を、しばしさぶらひたまひなむと御心とどめて 思しけるに、いととくやをら出でたまひにければ、口惜しう 心憂しと思したり。 薫の未練と蔵人少将の落胆のさま 源侍従の君をば、明け暮れ御前に召しまつ はしつつ、げに、ただ昔の光る源氏の生ひ 出でたまひしに劣らぬ人の御おぼえなり。 院の内には、いづれの御方にもうとからず馴れまじらひあり

きたまふ。この御方にも、心寄せあり顔にもてなして、下に は、いかに見たまふらむの心さへそひたまへり。  夕暮のしめやかなるに、藤侍従と連れて歩くに、かの御方 の御前近く見やらるる五葉に藤のいとおもしろく咲きかかり たるを、水のほとりの石に苔を蓆にてながめゐたまへり。ま ほにはあらねど、世の中恨めしげにかすめつつ語らふ。   手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見  ましや とて花を見上げたる気色など、あやしくあはれに心苦しく思 ほゆれば、わが心にあらぬ世のありさまにほのめかす。   むらさきの色はかよへど藤の花心にえこそかから  ざりけれ まめなる君にて、いとほしと思へり。いと心まどふばかりは 思ひいられざりしかど、口惜しうはおぼえけり。  かの少将の君はしも、まめやかに、いかにせましと、過ち

もしつべくしづめがたくなんおぼえける。聞こえたまひし人- 人、中の君をと移ろふもあり。少将の君をば、母北の方の御- 恨みにより、さもや、と思ほして、ほのめかしきこえたまひ しを、絶えて訪れずなりにたり。院には、かの君たちも、親 しくもとよりさぶらひたまへど、この参りたまひて後、をさ をさ参らず、まれまれ殿上の方にさしのぞきても、あぢきな う、逃げてなんまかでける。 帝の不満に中将母を責める 大君懐妊する 内裏には、故大臣の心ざしおきたまへるさ まことなりしを、かくひき違へたる御宮仕 を、いかなるにかと思して、中将を召して なんのたまはせける。 「御気色よろしからず。さればこそ、 世人の心の中もかたぶきぬべきことなりと、かねて申ししこ とを、思しとる方異にて、かう思したちにしかば、ともかく も聞こえがたくてはべるに、かかる仰せ言のはべれば、なに がしらが身のためもあぢきなくなんはべる」と、いとものし

と思ひて、尚侍の君を申したまふ。 「いさや。ただ今、か うにはかにしも思ひたたざりしを、あながちに、いとほしう のたまはせしかば、後見なきまじらひの、内裏わたりは、は したなげなめるを、今は心やすき御ありさまなめるにまかせ きこえてと思ひよりしなり。誰も誰も、便なからむ事は、あ りのままにも諫めたまはで、今ひき返し、右大臣も、ひがひ がしきやうにおもむけてのたまふなれば、苦しうなん。これ もさるべきにこそは」と、なだらかにのたまひて、心も騒が いたまはず。 「その昔の御宿世は目に見えぬものなれば、 かう思しのたまはするを、これは契り異なるともいかがは奏 しなほすべき事ならむ。中宮を憚りきこえたまふとて、院の 女御をばいかがしたてまつりたまはむとする。後見や何やと かねて思しかはすとも、さしもえはべらじ。よし、見聞きは べらん。よう思へば、内裏は、中宮おはしますとて、こと人 はまじらひたまはずや。君に仕うまつることは、それが心や

すきこそ、昔より興あることにはしけれ。女御は、いささか なる事の違ひ目ありてよろしからず思ひきこえたまはむに、 ひがみたるやうになん、世の聞き耳もはべらん」
など、二と ころして申したまへば、尚侍の君、いと苦しと思して、さる は、限りなき御思ひのみ月日にそへてまさる。  七月より孕みたまひにけり。うち悩みたまへるさま、げに、 人のさまざまに聞こえわづらはすもことわりぞかし、いかで かはかからむ人をなのめに見聞き過ぐしてはやまん、とぞお ぼゆる。明け暮れ御遊びをせさせたまひつつ、侍従もけ近う 召し入るれば、御琴の音などは聞きたまふ。かの梅が枝に合 はせたりし中将のおもとの和琴も、常に召し出でて弾かせた まへば、聞きあはするにもただにはおぼえざりけり。 薫・蔵人少将男踏歌に加わり、院に参上 その年返りて、男踏歌せられけり。殿上の 若人どもの中に、物の上手多かるころほひ なり。その中にも、すぐれたるを選らせた

まひて、この四位侍従、右の歌頭なり。かの蔵人少将、楽人 の数の中にありけり。十四日の月のはなやかに曇りなきに、 御前より出でて冷泉院に参る。女御も、この御息所も、上に 御局して見たまふ。上達部親王たちひき連れて参りたまふ。 右の大殿、致仕の大殿の族を離れて、きらきらしうきよげな る人はなき世なりと見ゆ。内裏の御前よりも、この院をばい と恥づかしうことに思ひきこえて、皆人用意を加ふる中にも、 蔵人少将は、見たまふらんかしと思ひやりて、静心なし。に ほひもなく見苦しき綿花もかざす人からに見分かれて、さま も声もいとをかしくぞありける。竹河うたひて、御階のもと に踏み寄るほど、過ぎにし夜のはかなかりし遊びも思ひ出で られければ、ひが事もしつべくて涙ぐみけり。后の宮の御方 に参れば、上もそなたに渡らせたまひて御覧ず。月は、夜深 うなるままに昼よりもはしたなう澄みのぼりて、いかに見た まふらんとのみおぼゆれば、踏むそらもなうただよひ歩き

て、盃も、さして一人をのみ咎めらるるは面目なくなん。  夜一夜、所どころかき歩きて、いと悩ましう苦しくて臥し たるに、源侍従を院より召したれば、 「あな苦し、しばし 休むべきに」とむつかりながら参りたまへり。御前の事ども など問はせたまふ。 「歌頭はうち過ぐしたる人のさきざ きするわざを、選ばれたるほど心にくかりけり」とて、うつ くしと思しためり。万春楽を御口ずさみにしたまひつつ、御- 息所の御方に渡らせたまへば、御供に参りたまふ。物見に参 りたる里人多くて、例よりは華やかに、けはひいまめかし。 渡殿の戸口にしばしゐて、声聞き知りたる人にものなどのた まふ。 「一夜の月影ははしたなかりしわざかな。蔵人少将 の月の光にかかやきたりしけしきも、桂のかげに恥づるには あらずやありけん。雲の上近くては、さしも見えざりき」な ど語りたまへば、人々あはれと聞くもあり。 「闇はあやな きを、月映えはいますこし心ことなり、とさだめきこえし」

などすかして、内より   竹河のその夜のことは思ひ出づやしのぶばかりのふ  しはなけれど と言ふ。はかなきことなれど、涙ぐまるるも、げにいと浅く はおぼえぬことなりけりと、みづから思ひ知らる。   流れてのたのめむなしき竹河に世はうきものと思ひ知  りにき ものあはれなる気色を人々をかしがる。さるは、おり立ちて 人のやうにもわびたまはざりしかど、人ざまのさすがに心苦 しう見ゆるなり。 「うち出で過ぐすこともこそはべれ。あ なかしこ」とて立つほどに、 「こなたに」と召し出づれば、 はしたなき心地すれど、参りたまふ。 「故六条院の踏歌の朝に、女方にて遊びせられける、 いとおもしろかりきと、右大臣の語られし。何ごともかのわ たりのさしつぎなるべき人難くなりにける世なりや。いと物

の上手なる女さへ多く集まりて、いかにはかなきこともをか しかりけん」
など思しやりて、御琴ども調べさせたまひて、 箏は御息所、琵琶は侍従に賜ふ。和琴を弾かせたまひて、こ の殿など遊びたまふ。御息所の御琴の音、まだ片なりなると ころありしを、いとよう教へないたてまつりたまひてけり。 いまめかしう爪音よくて、歌曲の物など上手にいとよく弾き たまふ。何ごとも、心もとなく後れたることはものしたまは ぬ人なめり。容貌、はた、いとをかしかべしとなほ心とまる。 かやうなるをり多かれど、おのづからけ遠からず、乱れたま ふ方なく、馴れ馴れしうなどは恨みかけねど、をりをりにつ けて思ふ心の違へる嘆かしさをかすむるも、いかが思しけん、 知らずかし。 大君、女宮を出産 中の君尚侍となる 四月に女宮生まれたまひぬ。ことにけざや かなるもののはえもなきやうなれど、院の 御気色に従ひて、右の大殿よりはじめて、

御産養したまふ所どころ多かり。尚侍の君つと抱きもちて うつくしみたまふに、とう参りたまふべきよしのみあれば、 五十日のほどに参りたまひぬ。女一の宮一ところおはします に、いとめづらしくうつくしうておはすれば、いといみじう 思したり。いとど、ただこなたにのみおはします。女御方の 人々、いとかからでありぬべき世かな、とただならず言ひ思 へり。  正身の御心どもは、ことに軽々しく背きたまふにはあらね ど、さぶらふ人々の中にくせぐせしき事も出で来などしつつ、 かの中将の君の、さいへど人の兄にてのたまひしことかなひ て、尚侍の君も、「むげにかく言ひ言ひのはていかならむ。 人わらへに、はしたなうもやもてなされむ。上の御心ばへは 浅からねど、年経てさぶらひたまふ御方々よろしからず思ひ はなちたまはば、苦しくもあるべきかな」と思ほすに、内裏 には、まことにものしと思しつつ、たびたび御気色あり、と

人の告げきこゆれば、わづらはしくて、中の姫君を、公ざま にてまじらはせたてまつらむことを思して、尚侍を譲りたま ふ。朝廷いと難うしたまふことなりければ、年ごろかう思し おきてしかど、え辞したまはざりしを、故大臣の御心を思し て、久しうなりにける昔の例などひき出でて、その事かなひ たまひぬ。この君の御宿世にて、年ごろ申したまひしは難き なりけり、と見えたり。  かくて、心やすくて内裏住みもしたまへかし、と思すにも、 「いとほしう、少将のことを、母北の方のわざとのたまひし ものを。頼めきこえしやうにほのめかしきこえしも、いかに 思ひたまふらん」と思しあつかふ。弁の君して、心うつくし きやうに、大臣に聞こえたまふ。 「内裏よりかかる仰せ言 のあれば、さまざまにあながちなるまじらひの好みと、世の 聞き耳もいかがと思ひたまへてなんわづらひぬる」と聞こえ たまへば、 「内裏の御気色は、思し咎むるも、ことわりに

なん承る。公事につけても、宮仕したまはぬは、さるまじ きわざになん。はや思したつべきになん」
と申したまへり。 また、このたびは、中宮の御気色とりてぞ参りたまふ。大臣 おはせましかばおし消ちたまはざらましなど、あはれなるこ とどもをなん。姉君は、容貌など名高うをかしげなり、と聞 こしめしおきたりけるを、ひきかへたまへるを、なま心ゆか ぬやうなれど、これもいとらうらうじく、心にくくもてなし てさぶらひたまふ。  前尚侍の君、かたちを変へてんと思したつを、 「方々にあ つかひきこえたまふほどに、行ひも心あわたたしうこそ思さ れめ。いますこしいづ方も心のどかに見たてまつりなしたま ひて、もどかしきところなくひたみちに勤めたまへ」と、君 たちの申したまへば、思しとどこほりて、内裏には、時々、 忍びて参りたまふをりもあり。院には、わづらはしき御心ば へのなほ絶えねば、さるべきをりもさらに参りたまはず。い

にしへを思ひ出でしが、さすがに、かたじけなうおぼえしか しこまりに、人のみなゆるさぬことに思へりしをも知らず顔 に思ひて参らせたてまつりて、みづからさへ、戯れにても、 若々しき事の世に聞こえたらむこそ、いとまばゆく見苦しか るべけれと思せど、さる忌によりと、はた、御息所にも明か しきこえたまはねば、我を、昔より、故大臣はとり分きて思 しかしづき、尚侍の君は、若君を、桜のあらそひ、はかなき をりにも、心寄せたまひしなごりに、思しおとしけるよと、 恨めしう思ひきこえたまひけり。院の上、はた、ましていみ じうつらしとぞ思しのたまはせける。 「古めかしきあた りにさし放ちて。思ひおとさるるもことわりなり」とうち語 らひたまひて、あはれにのみ思しまさる。 大君、男御子を生む 人々に憎まれる 年ごろありて、また男御子産みたまひつ。 そこらさぶらひたまふ御方々にかかる事な くて年ごろになりにけるを、おろかならざ

りける御宿世など世人おどろく。帝は、まして限りなくめづ らしと、この今宮をば思ひきこえたまへり。おりゐたまはぬ 世ならましかば、いかにかひあらまし、今は何ごともはえな き世を、いと口惜しとなん思しける。女一の宮を限りなきも のに思ひきこえたまひしを、かくさまざまにうつくしくて数 そひたまへれば、めづらかなる方にて、いとことに思いたる をなん、女御も、あまりかうてはものしからむと、御心動き ける。事にふれて安からずくねくねしき事出で来などして、 おのづから御仲も隔たるべかめり。世の事として、数ならぬ 人の仲らひにも、もとよりことわりえたる方にこそ、あいな きおほよその人も心を寄するわざなめれば、院の内の上下の 人々、いとやむごとなくて久しくなりたまへる御方にのみこ とわりて、はかない事にも、この御方ざまをよからずとりな しなどするを、御せうとの君たちも、 「さればよ。あしうや は聞こえおきける」と、いとど申したまふ。心やすからず、

聞き苦しきままに、 「かからで、のどやかにめやすくて世 を過ぐす人も多かめりかし。限りなき幸ひなくて、宮仕の筋 は思ひよるまじきわざなりけり」と、大上は嘆きたまふ。 薫の成人ぶり 蔵人少将なお大君を慕う 聞こえし人々の、めやすくなり上りつつ、 さてもおはせましにかたはならぬぞあまた あるや。その中に、源侍従とて、いと若う ひはづなりと見しは宰相中将にて、 「匂ふや薫るや」と聞 きにくくめで騒がるなる、げにいと人柄重りかに心にくきを、 やむごとなき親王たち大臣の、御むすめを心ざしありてのた まふなるなども聞き入れずなどあるにつけて、 「その昔は 若う心もとなきやうなりしかど、めやすくねびまさりぬべか めり」など言ひおはさうず。  少将なりしも、三位中将とかいひておぼえあり。 「容貌さ へあらまほしかりきや」など、なま心わろき仕うまつり人は、 うち忍びつつ、 「うるさげなる御ありさまよりは」など言ふ

もありて、いとほしうぞ見えし。この中将は、なほ思ひそめ し心絶えず、うくもつらくも思ひつつ、左大臣の御むすめを 得たれどをさをさ心もとめず、 「道のはてなる常陸帯の」と、 手習にも、言ぐさにもするは、いかに思ふやうのあるにかあ りけん。  御息所、安げなき世のむつかしさに、里がちになりたまひ にけり。尚侍の君、思ひしやうにはあらぬ御ありさまを口惜 しと思す。内裏の君は、なかなかいまめかしう心やすげにも てなして、世にもゆゑあり、心にくきおぼえにてさぶらひた まふ。 夕霧ら昇進 薫、玉鬘邸へ挨拶に訪れ、対面 左大臣亡せたまひて、右は左に、藤大納言、 左大将かけたまへる、右大臣になりたまふ。 次々の人々なり上りて、この薫中将は中納- 言に、三位の君は宰相になりて、よろこびしたまへる人々、 この御族より外に人なきころほひになんありける。中納言の

御よろこびに、前尚侍の君に参りたまへり。御前の庭にて 拝したてまつりたまふ。尚侍の君対面したまひて、 「かく いと草深くなりゆく葎の門を、避きたまはぬ御心ばへにも、 まづ昔の御こと思ひ出でられてなん」など聞こえたまふ。御- 声あてに愛敬づき、聞かまほしういまめきたり。 「旧りがた くもおはするかな。かかれば、院の上は、恨みたまふ御心絶 えぬぞかし。いまつひに、事ひき出でたまひてん」と思ふ。 「よろこびなどは、心にはいとしも思ひたまへねども、 まづ御覧ぜられにこそ参りはべれ。避きぬなどのたまはする は、おろかなる罪にうち返させたまふにや」と申したまふ。 「今日は、さだ過ぎにたる身の愁へなど聞こゆべきついで にもあらず、とつつみはべれど、わざと立ち寄りたまはんこ とは難きを、対面なくて、はた。さすがにくだくだしきこと になん。院にさぶらはるるが、いといたう世の中を思ひ乱れ、 中空なるやうにただよふを、女御を頼みきこえ、また后の宮

の御方にもさりとも思しゆるされなんと思ひたまへ過ぐすに、 いづ方にも、なめげにゆるさぬものに思されたなれば、いと かたはらいたくて。宮たちはさてさぶらひたまふ、この、い とまじらひにくげなるみづからは、かくて心やすくだになが め過ぐいたまへとてまかでさせたるを、それにつけても、聞 きにくくなん。上にもよろしからず思しのたまはすなる。つ いであらば、ほのめかし奏したまへ。とざまかうざまに頼も しく思ひたまへて、出だしたてはべりしほどは、いづ方をも 心安くうちとけ頼みきこえしかど、今は、かかる事あやまり に、幼うおほけなかりけるみづからの心を、もどかしくな ん」
と、うち泣いたまふ気色なり。   「さらにかうまで思すまじきことになん。かかる御まじ らひの安からぬことは、昔よりさることとなりはべりにける を。位を去りて静かにおはしまし、何ごともけざやかならぬ 御ありさまとなりにたるに、誰もうちとけたまへるやうなれ

ど、おのおの内々は、いかがいどましくも思すこともなから む。人は何の咎と見ぬことも、わが御身にとりては恨めしく なん、あいなき事に心動かいたまふこと、女御后の常の御- 癖なるべし。さばかりの紛れもあらじものとてやは思したち けん。ただなだらかにもてなして、御覧じ過ぐすべきことに はべるなり。男の方にて奏すべきことにもはべらぬことにな ん」
と、いとすくすくしう申したまへば、 「対面のついで に愁へきこえむと、待ちつけたてまつりたるかひなく、あは の御ことわりや」と、うち笑ひておはする、人の親にてはか ばかしがりたまへるほどよりは、いと若やかにおほどいたる 心地す。「御息所もかやうにぞおはすべかめる。宇治の姫君 の心とまりておぼゆるも、かうざまなるけはひのをかしきぞ かし」と思ひゐたまへり。  尚侍も、このころまかでたまへり。こなたかなた住みた まへるけはひをかしう、おほかたのどやかに紛るることなき

御ありさまどもの、簾の内心恥づかしうおぼゆれば、心づか ひせられて、いとどもてしづめめやすきを、大上は、近うも 見ましかばと、うち思しけり。 紅梅邸大饗 大臣、匂宮・薫を婿にと志す 大臣殿は、ただこの殿の東なりけり。大- 饗の垣下の君達などあまた集ひたまふ。 兵部卿宮、左の大臣殿の賭弓の還立、相撲 の饗などにはおはしまししを思ひて、今日の光と請じたてま つりたまひけれどおはしまさず。心にくくもてかしづきたま ふ姫君たちを、さるは、心ざしことに、いかで、と思ひきこ えたまふべかめれど、宮ぞ、いかなるにかあらん、御心もと めたまはざりける。源中納言の、いとどあらまほしうねびと とのひ、何ごとも後れたる方なくものしたまふを、大臣も北 の方も目とどめたまひけり。  隣のかくののしりて、行きちがふ車の音、前駆追ふ声々も、 昔の事思ひ出でられて、この殿にはものあはれにながめたま

ふ。 「故宮亡せたまひて、ほどもなくこの大臣の通ひたま ひしことを、いとあはつけいやうに世人はもどくなりしかど、 思ひも消えず、かくてものしたまふも、さすがさる方にめや すかりけり。定めなの世や。いづれにかよるべき」などのた まふ。 玉鬘宰相中将の姿を見、子の不如意を嘆く 左の大殿の宰相中将、大饗のまたの日、夕 つけてここに参りたまへり。御息所里にお はすと思ふにいとど心げさうそひて、 「おほやけの数まへたまふ よろこびなどは、何ともお ぼえはべらず。私の思ふこ とかなはぬ嘆きのみ、年月 にそへて思ひたまへはるけ ん方なきこと」と、涙おし 拭ふもことさらめいたり。

二十七八のほどの、いとさかりににほひ、はなやかなる容貌 したまへり。 「見苦しの君たちの、世の中を心のままにお ごりて。官位をば何とも思はず過ぐしいますがらふや。故殿 おはせましかば、ここなる人々も、かかるすさびごとにぞ、 心は乱らまし」とうち泣きたまふ。右兵衛督、右大弁にて、 みな非参議なるを、愁はしと思へり。侍従と聞こゆめりしぞ、 このころ頭中将と聞こゆめる。年齢のほどはかたはならねど、 人に後ると嘆きたまへり。宰相は、とかくつきづきしく。 The Lady at the Bridge 不遇の八の宮、北の方とともに世を過ごす

そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮お はしけり。母方などもやむごとなくものし たまひて、筋ことなるべきおぼえなどおは しけるを、時移りて、世の中にはしたなめられたまひける紛 れに、なかなかいとなごりなく、御後見などももの恨めしき 心々にて、かたがたにつけて世を背き去りつつ、公私に 拠りどころなくさし放たれたまへるやうなり。  北の方も、昔の大臣の御むすめなりける。あはれに心細く、 親たちの思しおきてたりしさまなど思ひ出でたまふにたとし へなきこと多かれど、古き御契りの二つなきばかりをうき世 の慰めにて、かたみにまたなく頼みかはしたまへり。 北の方逝去 八の宮、姫君二人を養育する

年ごろ経るに、御子ものしたまはで心もと なかりければ、さうざうしくつれづれなる 慰めに、いかでをかしからむ児もがな、と 宮ぞ時々思しのたまひけるに、めづらしく女君のいとうつく しげなる生まれたまへり。これを限りなくあはれと思ひかし づききこえたまふに、さしつづきけしきばみたまひて、この たびは男にてもなど思したるに、同じさまにてたひらかには したまひながら、いといたくわづらひて亡せたまひぬ。宮、 あさましう思しまどふ。 「あり経るにつけても、いとはしたなくたへがたきこと多か る世なれど、見棄てがたくあはれなる人の御ありさま心ざま にかけとどめらるる絆にてこそ、過ぐし来つれ。独りとまり て、いとどすさまじくもあるべきかな。いはけなき人々をも、 独りはぐくみたてむほど、限りある身にて、いとをこがまし う人わろかるべきこと」と思したちて、本意も遂げまほしう

したまひけれど、見ゆづる人なくて残しとどめむをいみじう 思したゆたひつつ、年月も経れば、おのおのおよすけまさり たまふさま容貌のうつくしうあらまほしきを、明け暮れの 御慰めにて、おのづからぞ過ぐしたまふ。  後に生まれたまひし君をば、さぶらふ人々も、 「いでや、 をりふし心憂く」などうちつぶやきて、心に入れてもあつか ひきこえざりけれど、限りのさまにて、何ごとも思しわかざ りしほどながら、これをいと心苦しと思ひて、 「ただ、 この君をば形見に見たまひて、あはれと思せ」とばかり、た だ一言なむ宮に聞こえおきたまひければ、前の世の契りもつ らきをりふしなれど、さるべきにこそはありけめと、今はと 見えしまでいとあはれと思ひてうしろめたげにのたまひしを、 と思し出でつつ、この君をしもいとかなしうしたてまつりた まふ。容貌なむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでもの したまひける。姫君は、心ばせ静かによしある方にて、見る

目もてなしも、気高く心にくきさまぞしたまへる。いたはし くやむごとなき筋はまさりて、いづれをも、さまざまに思ひ かしづききこえたまへど、かなはぬこと多く、年月にそへて 宮の内ものさびしくのみなりまさる。さぶらひし人も、たづ きなき心地するにえ忍びあへず、次々に、従ひてまかで散り つつ、若君の御乳母も、さる騒ぎにはかばかしき人をしも 選りあへたまはざりければ、ほどにつけたる心浅さにて、幼 きほどを見棄てたてまつりにければ、ただ、宮ぞはぐくみた まふ。  さすがに広くおもしろき宮の、池山などのけしきばかり昔 に変らでいといたう荒れまさるを、つれづれとながめたまふ。 家司などもむねむねしき人もなかりければ、とり繕ふ人もな きままに、草青やかに茂り、軒のしのぶぞ所え顔に青みわた れる。をりをりにつけたる花紅葉の色をも香をも、同じ心に 見はやしたまひしにこそ慰むことも多かりけれ、いとどしく

さびしく、よりつかむ方なきままに、持仏の御飾ばかりをわ ざとせさせたまひて、明け暮れ行ひたまふ。  かかる絆どもにかかづらふだに思ひの外に口惜しう、わが 心ながらもかなはざりける契りと思ゆるを、まいて、何にか 世の人めいて今さらにとのみ、年月にそへて世の中を思し離 れつつ、心ばかりは聖になりはてたまひて、故君の亡せたま ひにしこなたは、例の人のさまなる心ばへなど戯れにても思 し出でたまはざりけり。 「などかさしも。別るるほどの悲し びは、また世にたぐひなきやうにのみこそは思ゆべかめれど、 あり経ればさのみやは。なほ世人になずらふ御心づかひをし たまひて。いとかく見苦しくたづきなき宮の内も、おのづか らもてなさるるわざもや」と、人はもどききこえて、何くれ とつきづきしく聞こえごつことも類にふれて多かれど、聞こ しめし入れざりけり。  御念誦の隙々には、この君たちをもてあそび、やうやうお

よすけたまへば、琴ならはし、碁打ち、偏つぎなどはかなき 御遊びわざにつけても、心ばへどもを見たてまつりたまふに、 姫君は、らうらうじく、深く重りかに見えたまふ。若君は、 おほどかにらうたげなるさまして、ものづつみしたるけはひ にいとうつくしう、さまざまにおはす。 春日、宮と姫君たち、水鳥によせて唱和す 春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの 翼うちかはしつつおのがじし囀る声などを、 常ははかなきことと見たまひしかども、つ がひ離れぬをうらやましくながめたまひて、君たちに御琴ど も教へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、と りどり掻き鳴らしたまふ物の音どもあはれにをかしく聞こゆ れば、涙を浮けたまひて、   「うち棄ててつがひさりにし水鳥のかりのこの世に   たちおくれけん 心づくしなりや」と、目おし拭ひたまふ。容貌いときよげに

おはします宮なり。年ごろの御行ひに痩せ細りたまひにたれ ど、さてしもあてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御- 心ばへに、直衣の萎えばめるを着たまひて、しどけなき御さ まいと恥づかしげなり。  姫君、御硯をやをらひき寄せて、手習のやうに書きまぜた まふを、 「これに書きたまへ。硯には書きつけざなり」 とて紙奉りたまへば、恥ぢらひて書きたまふ。   いかでかく巣立ちけるぞと思ふにもうき水鳥のちぎ   りをぞ知る よからねど、そのをりはいとあはれなりけり。手は、生ひ先 見えて、まだよくもつづけたまはぬほどなり。 「若君と 書きたまへ」とあれば、いますこし幼げに、久しく書き出で たまへり。   泣く泣くもはねうち着する君なくはわれぞ巣守り  になるべかりける

御衣どもなど萎えばみて、御前にまた人もなく、いとさび しくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものした まふをあはれに心苦しう、いかが思さざらん。経を片手に持 たまひて、かつ読みつつ唱歌をしたまふ。姫君に琵琶、若君 に箏の御琴を。まだ幼けれど、常に合はせつつ習ひたまへば、 聞きにくくもあらで、いとをかしく聞こゆ。 八の宮の、政争に操られた悲運の半生 父帝にも女御にも、とく後れきこえたまひ て、はかばかしき御後見のとりたてたるお はせざりければ、才など深くもえ習ひたま はず。まいて、世の中に住みつく御心おきてはいかでかは知 りたまはむ。高き人と聞こゆる中にも、あさましうあてにお ほどかなる、女のやうにおはすれば、古き世の御宝物、祖父 大臣の御処分、何やかやと尽きすまじかりけれど、行く方も なくはかなく失せはてて、御調度などばかりなん、わざとう るはしくて多かりける。参りとぶらひきこえ、心寄せたてま

つる人もなし。つれづれなるままに、雅楽寮の物の師どもな どやうのすぐれたるを召し寄せつつ、はかなき遊びに心を入 れて、生ひ出でたまへれば、その方はいとをかしうすぐれた まへり。  源氏の大殿の御弟におはせしを、冷泉院の春宮におはし ましし時、朱雀院の大后の、横さまに思しかまへて、この宮 を世の中に立ち継ぎたまふべく、わが御時、もてかしづきた てまつりたまひける騒ぎに、あいなく、あなたざまの御仲ら ひにはさし放たれたまひにければ、いよいよかの御次々にな りはてぬる世にて、えまじらひたまはず。また、この年ごろ、 かかる聖になりはてて、今は限りとよろづを思し棄てたり。 宮邸炎上し宇治に移住 阿闍梨に師事する かかるほどに、住みたまふ宮焼けにけり。 いとどしき世に、あさましうあへなくて、 移ろひ住みたまふべき所の、よろしきもな かりければ、宇治といふ所によしある山里持たまへりけるに

渡りたまふ。思ひ棄てたまへる世な れども、今はと住み離れなんをあは れに思さる。  網代のけはひ近く、耳かしがまし き川のわたりにて、静かなる思ひに かなはぬ方もあれど、いかがはせむ。 花、紅葉、水の流れにも、心をやる たよりに寄せて、いとどしくながめ たまふより外のことなし。かく絶え籠りぬる野山の末にも、 昔の人ものしたまはましかば、と思ひきこえたまはぬをりな かりけり。    見し人も宿もけぶりになりにしをなにとてわが身  消え残りけん 生けるかひなくぞ思しこがるるや。  いとど、山重なれる御住み処に尋ね参る人なし。あやしき

下衆など、田舎びたる山がつどものみ、まれに馴れ参り仕う まつる。峰の朝霧晴るるをりなくて明かし暮らしたまふに、 この宇治山に、聖だちたる阿闍梨住みけり。才いとかしこく て、世のおぼえも軽からねど、をさをさ公事にも出で仕へず 籠りゐたるに、この宮のかく近きほどに住みたまひて、さび しき御さまに、尊きわざをせさせたまひつつ、法文を読みな らひたまへば、尊がりきこえて常に参る。年ごろ学び知りた まへることどもの、深き心を説き聞かせたてまつり、いよい よ、この世のいとかりそめにあぢきなきことを申し知らすれ ば、「心ばかりは蓮の上に思ひのぼり、濁りなき池にも 住みぬべきを、いとかく幼き人々を見棄てむうしろめたさば かりになむ、えひたみちにかたちをも変へぬ」など、隔てな く物語したまふ。 阿闍梨、八の宮の生活を院 薫らに報ず

この阿闍梨は、冷泉院にも親しくさぶらひ て、御経など教へきこゆる人なりけり。京 に出でたるついでに参りて、例の、さるべ き文など御覧じて問はせたまふこともあるついでに、 「八の宮の、いとかしこく、内教の御才悟深くものしたまひ けるかな。さるべきにて生まれたまへる人にやものしたまふ らむ。心深く思ひすましたまへるほど、まことの聖の掟にな む見えたまふ」と聞こゆ。 「いまだかたちは変へたまは ずや。俗聖とか、この若き人々のつけたなる、あはれなるこ となり」などのたまはす。  宰相中将も、御前にさぶらひたまひて、我こそ、世の中 をばいとすさまじう思ひ知りながら、行ひなど人に目とどめ らるばかりは勤めず、口惜しくて過ぐし来れと人知れず思ひ つつ、俗ながら聖になりたまふ心の掟やいかにと、耳とどめ て聞きたまふ。 「出家の心ざしはもとよりものしたまへ

るを、はかなきことに思ひとどこほり、今となりては、心苦 しき女子どもの御上をえ思ひ棄てぬとなん、嘆きはべりたま ふ」
と奏す。  さすがに物の音めづる阿闍梨にて、 「げに、はた、この姫- 君たちの琴弾き合はせて遊びたまへる、川波に競ひて聞こえ はべるは、いとおもしろく、極楽思ひやられはべるや」と、 古代にめづれば、帝ほほ笑みたまひて、 「さる聖のあたりに 生ひ出でて、この世の方ざまはたどたどしからむと推しはか らるるを、をかしのことや。うしろめたく思ひ棄てがたく、 もてわづらひたまふらんを、もししばしも後れむほどは、譲 りやはしたまはぬ」などぞのたまはする。この院の帝は、十 の皇子にぞおはしましける。朱雀院の、故六条院にあづけき こえたまひし入道の宮の御例を思ほし出でて、 「かの君たち をがな。つれづれなる遊びがたきに」などうち思しけり。  中将の君、なかなか親王の思ひすましたまへらむ御心ばへ

を対面して見たてまつらばやと思ふ心ぞ深くなりぬる。さて 阿闍梨の帰り入るにも、 「必ず参りてもの習ひきこゆべく、 まづ内々にも気色たまはりたまへ」など語らひたまふ。 阿闍梨、院の使者を案内し八の宮に面会す 帝は、御言伝てにて、 「あはれなる御住ま ひを人づてに聞くこと」など聞こえたまう て、 世をいとふ心は山にかよへども八重たつ雲を君や   へだつる 阿闍梨、この御使を先に立てて、かの宮に参りぬ。なのめな る際のさるべき人の使だにまれなる山蔭に、いとめづらしく 待ちよろこびたまひて、所につけたる肴などして、さる方に もてはやしたまふ。御返し、   あとたえて心すむとはなけれども世をうぢ山に宿   をこそかれ 聖の方をば卑下して聞こえなしたまへれば、なほ世に恨み残

りける、といとほしく御覧ず。  阿闍梨、中将の君の道心深げにものしたまふなど語りきこ えて、「法文などの心得まほしき心ざしなん、いはけなかり し齢より深く思ひながら、え避らず世にあり経るほど、公- 私に暇なく明け暮らし、わざと閉ぢ籠りて習ひ読み、おほ かたはかばかしくもあらぬ身にしも、世の中を背き顔ならむ も憚るべきにあらねど、おのづからうちたゆみ紛らはしくて なむ過ぐしくるを、いとあり難き御ありさまを承り伝へしよ り、かく心にかけてなん頼みきこえさするなど、ねむごろに 申したまひし」など語りきこゆ。  宮、 「世の中をかりそめのことと思ひとり、厭はしき心の つきそむることも、わが身に愁へある時、なべての世も恨め しう思ひ知るはじめありてなん道心も起こるわざなめるを、 年若く、世の中思ふにかなひ、何ごとも飽かぬことはあらじ とおぼゆる身のほどに、さ、はた、後の世をさへたどり知り

たまふらんがあり難さ。ここには、さべきにや、ただ、厭ひ 離れよと、ことさらに仏などの勧めおもむけたまふやうなる ありさまにて、おのづからこそ、静かなる思ひかなひゆけど、 残り少なき心地するに、はかばかしくもあらで過ぎぬべかめ るを、来し方行く末、さらにえたどるところなく思ひ知らる るを、かへりては心恥づかしげなる法の友にこそはものした まふなれ」
などのたまひて、かたみに御消息通ひ、みづから も参うでたまふ。 薫、八の宮を訪れる 二人の親交はじまる げに、聞きしよりもあはれに、住まひたま へるさまよりはじめて、いと仮なる草の庵 に、思ひなし、ことそぎたり。同じき山里 といへど、さる方にて心とまりぬべくのどやかなるもあるを、 いと荒ましき水の音波の響きに、もの忘れうちし、夜など心 とけて夢をだに見るべきほどもなげに、すごく吹きはらひた り。 「聖だちたる御ためには、かかるしもこそ心とまらぬも

よほしならめ、女君たち、何心地して過ぐしたまふらむ。世 の常の女しくなよびたる方は遠くや」
と推しはからるる御あ りさまなり。  仏の御隔てに、障子ばかりを隔ててぞおはすべかめる。す き心あらむ人は、気色ばみ寄りて、人の御心ばへをも見まほ しう、さすがにいかがとゆかしうもある御けはひなり。され ど、さる方を思ひ離るる願ひに山- 深く尋ねきこえたる本意なく、す きずきしきなほざり言をうち出で あざればまむも事に違ひてやなど 思ひ返して、宮の御ありさまのい とあはれなるをねむごろにとぶら ひきこえたまひ、たびたび参りた まひつつ、思ひしやうに、優婆塞 ながら行ふ山の深き心、法文など、

わざとさかしげにはあらで、いとよくのたまひ知らす。  聖だつ人才ある法師などは世に多かれど、あまりこはごは しうけ遠げなる宿徳の僧都僧正の際は、世に暇なくきすくに て、ものの心を問ひあらはさむもことごとしくおぼえたまふ、 また、その人ならぬ仏の御弟子の、忌むことを保つばかりの 尊さはあれど、けはひ卑しく言葉たみて、こちなげにもの馴 れたる、いとものしくて、昼は公事に暇なくなどしつつ、し めやかなる宵のほど、け近き御枕上などに召し入れ語らひた まふにも、いとさすがにものむつかしうなどのみあるを、い とあてに心苦しきさまして、のたまひ出づる言の葉も、同じ 仏の御教をも、耳近きたとひにひきまぜ、いとこよなく深き 御悟りにはあらねど、よき人はものの心を得たまふ方のいと ことにものしたまひければ、やうやう見馴れたてまつりたま ふたびごとに、常に見たてまつらまほしうて、暇なくなどし てほど経る時は恋しくおぼえたまふ。

 この君のかく尊がりきこえたまへれば、冷泉院よりも常に 御消息などありて、年ごろ音にもをさをさ聞こえたまはず、 いみじくさびしげなりし御住み処に、やうやう人目見る時々 あり。をりふしにとぶらひきこえたまふこといかめしう、こ の君も、まづさるべき事につけつつ、をかしきやうにもまめ やかなるさまにも心寄せつかうまつりたまふこと、三年ばか りになりぬ。 晩秋、薫、八の宮不在の山荘を訪れる 秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏 を、この川面は網代の波もこのごろはいと ど耳かしがましく静かならぬをとて、かの 阿闍梨の住む寺の堂に移ろひたまひて、七日のほど行ひた まふ。  姫君たちは、いと心細くつれづれまさりてながめたまひけ るころ、中将の君、久しく参らぬかな、と思ひ出できこえた まひけるままに、有明の月のまだ夜深くさし出づるほどに出

で立ちて、いと忍びて、御供に人などもなく、やつれておは しけり。  川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけ り。入りもてゆくままに霧りふたがりて、道も見えぬしげ木 の中を分けたまふに、いと荒ましき風の競ひに、ほろほろと 落ち乱るる木の葉の露の散りかかるもいと冷やかに、人やり ならずいたく濡れたまひぬ。かかる歩きなども、をさをさな らひたまはぬ心地に、心細くをかしく思されけり。    山おろしにたへぬ木の葉の露よりもあやなくもろきわ  が涙かな 山がつのおどろくもうるさしとて、随身の音もせさせたまは ず。柴の籬を分けつつ、そこはかとなき水の流れどもを踏み しだく駒の足音も、なほ、忍びてと用意したまへるに、隠れ なき御匂ひぞ、風に従ひて、主知らぬ香とおどろく寝覚めの 家々ありける。

 近くなるほどに、その琴とも聞きわかれぬ物の音ども、い とすごげに聞こゆ。 「常にかく遊びたまふと聞くを、ついで なくて、親王の御琴の音の名高きもえ聞かぬぞかし。よきを りなるべし」と思ひつつ入りたまへば、琵琶の声の響きなり けり。黄鐘調に調べて、世の常の掻き合はせなれど、所から にや耳馴れぬ心地して、掻きかへす撥の音も、ものきよげに おもしろし。箏の琴、あはれになまめいたる声して、絶え絶 え聞こゆ。  しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく聞 きつけて、宿直人めく男なまかたくなしき出で来たり。 「しかじかなん籠りおはします。御消息をこそ聞こえさせめ」 と申す。 「なにか。しか限りある御行ひのほどを、紛らは しきこえさせむにあいなし。かく濡れ濡れ参りて、いたづら に帰らむ愁へを、姫君の御方に聞こえて、あはれとのたまは せばなむ慰むべき」とのたまへば、醜き顔うち笑みて、

「申させはべらむ」
とて立つを、 「しばしや」と召し寄せて、 「年ごろ、人づてにのみ聞きて、ゆかしく思ふ御琴の音ども を、うれしきをりかな、しばし、すこしたち隠れて聞くべき 物の隈ありや。つきなくさし過ぎて参りよらむほど、みなこ とやめたまひては、いと本意なからん」とのたまふ。御けは ひ、顔容貌の、さるなほなほしき心地にも、いとめでたくか たじけなくおぼゆれば、 「人聞かぬ時は、明け暮れかく なん遊ばせど、下人にても、都の方より参り立ちまじる人は べる時は、音もせさせたまはず。おほかた、かくて女たちお はしますことをば隠させたまひ、なべての人に知らせたて まつらじと思しのたまはするなり」と申せば、うち笑ひて、 「あぢきなき御もの隠しなり。しか忍びたまふなれど、皆- 人あり難き世の例に、聞き出づべかめるを」とのたまひて、 「なほしるべせよ。我はすきずきしき心などなき人ぞ。か くておはしますらむ御ありさまの、あやしく、げになべてに

おぼえたまはぬなり」
とこまやかにのたまへば、 「あな かしこ。心なきやうに後の聞こえやはべらむ」とて、あなた の御前は竹の透垣しこめて、みな隔てことなるを、教へ寄せ たてまつれり。御供の人は、西の廊に呼びすゑて、この宿直- 人あひしらふ。 薫、月下に姫君たちの姿をかいま見る あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし 押し開けて見たまへば、月をかしきほどに 霧りわたれるをながめて、簾を短く捲き上 げて、人々ゐたり。簀子に、いと寒げに、身細く萎えばめる 童一人、同じさまなる大人などゐたり。内なる人、一人柱に すこしゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつ つゐたるに、雲隠れたりつる月のにはかにいと明かくさし出 でたれば、 「扇ならで、これしても月はまねきつべかり けり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげににほひ やかなるべし。添ひ臥したる人は、琴の上にかたぶきかかり

て、 「入る日をかへす撥こそありけれ、さま異にも思ひお よびたまふ御心かな」とて、うち笑ひたるけはひ、いますこ し重りかによしづきたり。 「およばずとも、これも月に 離るるものかは」など、はかなきことをうちとけのたまひか はしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、い とあはれになつかしうをかし。昔物語などに語り伝へて、若 き女房などの読むをも聞くに、必ずかやうのことを言ひたる、 さしもあらざりけむ、と憎く推しはからるるを、げにあはれ なるものの隈ありぬべき世なりけりと、心移りぬべし。  霧の深ければ、さやかに見ゆべくもあらず。また、月さし 出でなんと思すほどに、奥の方より、「人おはす」と告げき こゆる人やあらむ、簾おろしてみな入りぬ。驚き顔にはあら ず、なごやかにもてなしてやをら隠れぬるけはひども、衣の 音もせずいとなよらかに心苦しくて、いみじうあてにみやび かなるをあはれと思ひたまふ。

 やをら立ち出でて、京に、御車率て参るべく、人走らせつ。 ありつる侍に、 「をりあしく参りはべりにけれど、なかな かうれしく、思ふことすこし慰めてなむ。かくさぶらふよし 聞こえよ。いたう濡れにたるかごとも聞こえさせむかし」と のたまへば、参りて聞こゆ。 薫、大君と対面、交誼を請う 大君応ぜず かく見えやしぬらんとは思しも寄らで、う ちとけたりつる事どもを聞きやしたまひつ らむ、といといみじく恥づかし。あやしく、 かうばしく匂ふ風の吹きつるを、思ひがけぬほどなれば、お どろかざりける心おそさよ、と心もまどひて恥ぢおはさうず。 御消息など伝ふる人も、いとうひうひしき人なめるを、をり からにこそよろづのこともと思いて、まだ霧の紛れなれば、 ありつる御簾の前に歩み出でて、ついゐたまふ。山里びたる 若人どもは、さし答へむ言の葉もおぼえで、御褥さし出づる さまもたどたどしげなり。 「この御簾の前にははしたなく

はべりけり。うちつけに浅き心ばかりにては、かくも尋ね参 るまじき山のかけ路に思うたまふるを、さま異にてこそ。か く露けき旅を重ねては、さりとも、御覧じ知るらむとなん頼 もしうはべる」
と、いとまめやかにのたまふ。  若き人々の、なだらかにもの聞こゆべきもなく、消えかへ りかかやかしげなるもかたはらいたければ、女ばらの奥深き を起こしいづるほど久しくなりて、わざとめいたるも苦しう て、 「何ごとも思ひ知らぬありさまにて、知り顔にもいか がは聞こゆべく」と、いとよしあり、あてなる声して、ひき 入りながらほのかにのたまふ。 「かつ知りながら、うきを 知らず顔なるも世のさがと思うたまへ知るを、一ところしも あまりおぼめかせたまふらんこそ、口惜しかるべけれ。あり 難う、よろづを思ひすましたる御住まひなどに、たぐひきこ えさせたまふ御心の中は、何ごとも涼しく推しはかられはべ れば、なほかく忍びあまりはべる深さ浅さのほども分かせた

まはんこそかひははべらめ。世の常のすきずきしき筋には思 しめし放つべくや。さやうの方は、わざとすすむる人はべり とも、なびくべうもあらぬ心強さになん。おのづから聞こし めしあはするやうもはべりなん。つれづれとのみ過ぐしはべ る世の物語も、聞こえさせどころに頼みきこえさせ、また、 かく世離れてながめさせたまふらん御心の紛らはしには、さ しもおどろかさせたまふばかり聞こえ馴れはべらば、いかに 思ふさまにはべらむ」
など多くのたまへば、つつましく答へ にくくて、起こしつる老人の出で来たるにぞゆづりたまふ。 老女房弁、薫に応対し、昔語りをする たとしへなくさし過ぐして、 「あなかた じけなや。かたはらいたき御座のさまにも はべるかな。御簾の内にこそ。若き人々は、 もののほど知らぬやうにはべるこそ」など、したたかに言ふ 声のさだ過ぎたるも、かたはらいたく君たちは思す。 「いと もあやしく世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御ありさ

まにて、さもありぬべき人々だに、とぶらひ数まへきこえた まふも見え聞こえずのみなりまさりはべるめるに、あり難き 御心ざしのほどは、数にもはべらぬ心にも、あさましきまで 思ひたまへはべるを、若き御心地にも思し知りながら、聞こ えさせたまひにくきにやはべらむ」
と、いとつつみなくもの 馴れたるもなま憎きものから、けはひいたう人めきて、よし ある声なれば、 「いとたづきも知らぬ心地しつるに、うれし き御けはひにこそ。何ごとも、げに思ひ知りたまひける頼み、 こよなかりけり」とて、よりゐたまへるを、几帳のそばより 見れば、曙のやうやうものの色分かるるに、げにやつしたま へると見ゆる狩衣姿のいと濡れしめりたるほど、うたてこの 世のほかの匂ひにやと、あやしきまで薫り満ちたり。  この老人はうち泣きぬ。 「さし過ぎたる罪もや、と思う たまへ忍ぶれど、あはれなる昔の御物語の、いかならむつい でにうち出できこえさせ、片はしをもほのめかし知ろしめさ

せむと、年ごろ念誦のついでにもうちまぜ思うたまへわたる 験にや、うれしきをりにはべるを、まだきにおぼほれはべる 涙にくれて、えこそ聞こえさせずはべりけれ」
と、うちわな なく気色、まことにいみじくもの悲しと思へり。おほかた、 さだ過ぎたる人は涙もろなるものとは見聞きたまへど、いと かうしも思へるもあやしうなりたまひて、 「ここにかく参 ることはたび重なりぬるを、かくあはれ知りたまへる人もな くてこそ、露けき道のほどに独りのみそぼちつれ。うれしき ついでなめるを、言な残いたまひそかし」とのたまへば、 「かかるついでしもはべらじかし。また、はべりとも、夜の 間のほど知らぬ命の頼むべきにもはべらぬを。さらば、ただ、 かかる古者世にはべりけりとばかり知ろしめされはべらなむ。 三条宮にはべりし小侍従はかなくなりはべりにけるとほの聞 きはべりし。その昔睦ましう思うたまへし同じほどの人多く 亡せはべりにける世の末に、遙るなる世界より伝はり参うで

来て、この五六年のほどなむ、これにかくさぶらひはべる。 知ろしめさじかし、このごろ藤大納言と申すなる御兄の右- 衛門督にて隠れたまひにしは。もののついでなどにや、かの 御上とて聞こしめし伝ふることもはべらむ。過ぎたまひてい くばくも隔たらぬ心地のみしはべる。そのをりの悲しさも、 まだ袖のかわくをりはべらず思うたまへらるるを、手を折り て数へはべれば、かく大人しくならせたまひにける御齢のほ ども夢のやうになん。かの権大納言の御乳母にはべりしは、 弁が母になむはべりし。朝夕に仕うまつり馴れはべりしに、 人数にもはべらぬ身なれど、人に知らせず、御心よりはた余 りけることををりをりうちかすめのたまひしを、今は限りに なりたまひにし御病の末つ方に召し寄せて、いささかのたま ひおくことなむはべりしを、聞こしめすべきゆゑなん一事は べれど、かばかり聞こえ出ではべるに、残りを、と思しめす 御心はべらば、のどかになん聞こしめしはてはべるべき。若

き人々もかたはらいたく、さし過ぎたりとつきしろひはべめ るもことわりになむ」
とて、さすがにうち出でずなりぬ。 薫、弁の昔語りに不審を抱き再会を約束す あやしく、夢語、巫女やうのものの問はず 語りすらむやうにめづらかに思さるれど、 あはれにおぼつかなく思しわたる事の筋を 聞こゆれば、いと奥ゆかしけれど、げに人目もしげし、さし ぐみに、古物語にかかづらひて夜を明かしはてむも、こちご ちしかるべければ、 「そこはかと思ひわくことはなきもの から、いにしへの事と聞きはべるも、ものあはれになん。さ らば必ずこの残り聞かせたまへ。霧晴れゆかばはしたなかる べきやつれを、面なく御覧じとがめられぬべきさまなれば。 思うたまふる心のほどよりは、口惜しうなむ」とて立ちたま ふに、かのおはします寺の鐘の声、かすかに聞こえて、霧い と深くたちわたれり。 薫と大君、心々をこめて歌を贈答する

峰の八重雲思ひやる隔て多くあはれなるに、 なほこの姫君たちの御心の中ども心苦しう、 何ごとを思し残すらむ、かくいと奥まりた まへるもことわりぞかしなどおぼゆ。   「あさぼらけ家路も見えずたづねこし槇の尾山は霧こ   めてけり 心細くもはべるかな」と、たち返りやすらひたまへるさまを、 都の人の目馴れたるだになほいとことに思ひきこえたるを、 まいていかがはめづらしう見ざらん。御返り聞こえ伝へにく げに思ひたれば、例のいとつつましげにて、   雲のゐる峰のかけ路を秋霧のいとど隔つるころにも  あるかな すこしうち嘆いたまへる気色浅からずあはれなり。  何ばかりをかしきふしは見えぬあたりなれど、げに心苦し きこと多かるにも、明かうなりゆけば、さすがに直面なる心-

地して、 「なかなかなるほどに承りさしつること多かる残 りは、いますこし面馴れてこそは、恨みきこえさすべかめれ。 さるは、かく世の人めいてもてなしたまふべくは、思はずに もの思しわかざりけり、と恨めしうなん」とて、宿直人がし つらひたる西面におはしてながめたまふ。 「網代は人騒がしげなり。されど氷魚も寄らぬにやあらむ、 すさまじげなるけしきなり」と、御供の人々見知りて言ふ。 あやしき舟どもに柴刈り積み、おのおの何となき世の営みど もに行きかふさまどもの、はかなき水の上に浮かびたる、誰 も思へば同じごとなる世の常なさなり。我は浮かばず、玉の 台に静けき身と思ふべき世かは、と思ひつづけらる。  硯召して、あなたに聞こえたまふ。   「橋姫のこころを汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡  れぬる ながめたまふらむかし」とて、宿直人に持たせたまへり。い

と寒げに、いららぎたる顔して持てまゐる。御返り、紙の香 などおぼろけならむは恥づかしげなるを、ときをこそかかる をりは、とて、   「さしかへる宇治の川長朝夕のしづくや袖をくたしは  つらむ 身さへ浮きて」と、いとをかしげに書きたまへり。まほにめ やすくものしたまひけり、と心とまりぬれど、 「御車率て参 りぬ」と、人々騒がしきこゆれば、宿直人ばかりを召し寄せ て、 「帰りわたらせたまはむほどに、必ず参るべし」など のたまふ。濡れたる御衣どもは、みなこの人に脱ぎかけたま ひて、取りに遣はしつる御直衣に奉りかへつ。 薫帰京の後宇治と文通 匂宮に告げ語る 老人の物語、心にかかりて思し出でらる。 思ひしよりはこよなくまさりて、をかしか りつる御けはひども面影にそひて、なほ思 ひ離れがたき世なりけり、と心弱く思ひ知らる。御文奉りた

まふ。懸想だちてもあらず、白き色紙の厚肥えたるに、筆は ひきつくろひ選りて、墨つき見どころありて書きたまふ。   うちつけなるさまにや、とあいなくとどめはべりて、  残り多かるも苦しきわざになむ。かたはし聞こえおきつ  るやうに、今よりは御簾の前も心やすく思しゆるすべく  なむ。御山籠りはてはべらむ日数も承りおきて、いぶせ  かりし霧のまよひもはるけはべらむ。 などぞ、いとすくよかに書きたまへる。左近将監なる人、御- 使にて、 「かの老人たづねて、文もとらせよ」とのたまふ。 宿直人が寒げにてさまよひしなどあはれに思しやりて、大き なる檜破子やうのものあまたせさせたまふ。  またの日、かの御寺にも奉りたまふ。山籠りの僧ども、こ のごろの嵐にはいと心細く苦しからむを、さておはしますほ どの布施賜ふべからん、と思しやりて、絹綿など多かりけり。 御行ひはてて出でたまふ朝なりければ、行ひ人どもに、綿、

絹、袈裟、衣など、すべて一領のほどづつ、あるかぎりの大- 徳たちに賜ふ。  宿直人、かの御脱ぎ棄ての艶にいみじき狩の御衣ども、え ならぬ白き綾の御衣のなよなよといひ知らず匂へるをうつし 着て、身を、はた、えかへぬものなれば、似つかはしからぬ 袖の香を人ごとに咎められ、めでらるるなむ、なかなかとこ ろせかりける。心にまかせて身をやすくもふるまはれず、い とむくつけきまで人のおどろく匂ひを、失ひてばやと思へど、 ところせき人の御移り香にて、えも濯ぎ棄てぬぞ、あまりな るや。  君は、姫君の御返り事、いとめやすく児めかしきををかし く見たまふ。宮にも、かく御消息ありきなど人々聞こえさせ 御覧ぜさすれば、 「何かは。懸想だちて、もてないたま はむも、なかなかうたてあらむ。例の若人に似ぬ御心ばへな めるを、亡からむ後もなど、一言うちほのめかしてしかば、

さやうにて心ぞとめたらむ」
などのたまひけり。御みづから も、さまざまの御とぶらひの、山の岩屋にあまりしことなど のたまへるに、参うでんと思して、三の宮の、かやうに奥ま りたらむあたりの見まさりせむこそをかしかるべけれと、あ らましごとにだにのたまふものを、聞こえはげまして、御心 騒がしたてまつらむ、と思して、のどやかなる夕暮に参りた まへり。  例の、さまざまなる御物語聞こえかはしたまふついでに、 宇治の宮の事語り出でて、見し暁のありさまなどくはしく聞 こえたまふに、宮いと切にをかしと思いたり。さればよ、と 御気色を見て、いとど御心動きぬべく言ひつづけたまふ。 「さて、そのありけん返り事は、などか見せたまはざりし。 まろならましかば」と恨みたまふ。 「さかし。いとさまざ ま御覧ずべかめる端をだに、見せさせたまはぬ。かのわたり は、かく、いとも埋もれたる身に、ひき籠めてやむべきけは

ひにもはべらねば、必ず御覧ぜさせばやと思ひたまふれど、 いかでか尋ねよらせたまふべき。かやすきほどこそ、すかま ほしくは、いとよくすきぬべき世にはべりけれ。うち隠ろへ つつ多かめるかな。さる方に見どころありぬべき女の、もの 思はしき、うち忍びたる住み処ども、山里めいたる隈などに、 おのづからはべるべかめり。この聞こえさするわたりは、い と世づかぬ聖ざまにて、こちごちしうぞあらむと、年ごろ思 ひ侮りはべりて、耳をだにこそとどめはべらざりけれ。ほの かなりし月影の見劣りせずは、まほならんはや。けはひあり さま、はた、さばかりならむをぞ、あらまほしきほどとおぼ えはべるべき」
など聞こえたまふ。  はてはては、まめだちていとねたく、おぼろけの人に心移 るまじき人のかく深く思へるを、おろかならじとゆかしう思 すこと限りなくなりたまひぬ。 「なほ、またまた、よくけ しき見たまへ」と、人をすすめたまひて、限りある御身のほ

どのよだけさを、厭はしきまで心もとなしと思したれば、を かしくて、 「いでや、よしなくぞはべる。しばし世の中に心 とどめじと思うたまふるやうある身にて、なほざりごともつ つましうはべるを、心ながらかなはぬ心つきそめなば、おほ きに思ひに違ふべき事なむはべるべき」と聞こえたまへば、 「いで、あなことごとし。例のおどろおどろしき聖詞見 はててしがな」とて笑ひたまふ。心の中には、かの古人のほ のめかしし筋などの、いとどうちおどろかされてものあはれ なるに、をかしと見ることも、めやすしと聞くあたりも、何 ばかり心にもとまらざりけり。 薫、八の宮に対面 姫君の後見を託される 十月になりて、五六日のほどに宇治へ参う でたまふ。 「網代をこそ、このごろは御覧 ぜめ」と聞こゆる人々あれど、 「何か、 その蜉蝣にあらそふ心にて、網代にも寄らむ」と、そぎ棄て たまひて、例の、いと忍びやかにて出で立ちたまふ。かろら

かに網代車にて、謙*の直衣指貫縫はせて、ことさらび着たま へり。  宮待ちよろこびたまひて、所につけたる御饗など、をかし うしなしたまふ。暮れぬれば、大殿油近くて、さきざき見さ したまへる文どもの深きなど、阿闍梨も請じおろして、義な ど言はせたまふ。うちもまどろまず、川風のいと荒ましきに、 木の葉の散りかふ音、水の響きなど、あはれも過ぎて、もの 恐ろしく心細き所のさまなり。  明け方近くなりぬらんと思ふほどに、ありししののめ思ひ 出でられて、琴の音のあはれなることのついでつくり出でて、 「前のたび霧にまどはされはべりし曙に、いとめづらしき物 の音、一声うけたまはりし残りなむ、なかなかにいといぶか しう、飽かず思うたまへらるる」など聞こえたまふ。 「色をも香をも思ひ棄ててし後、昔聞きしこともみな忘れて なむ」とのたまへど、人召して琴とりよせて、 「いとつ

きなくなりにたりや。しるべする物の音につけてなん、思ひ 出でらるべかりける」
とて、琵琶召して、客人にそそのかし たまふ。取りて調べたまふ。 「さらに、ほのかに聞きはべ りし同じものとも、思うたまへられざりけり。御琴の響きか らにやとこそ思うたまへしか」とて、心とけても掻きたてた まはず。 「いで、あなさがなや。しか御耳とまるばかり の手などは、いづくよりかここまでは伝はり来む。あるまじ き御ことなり」とて、琴掻き鳴らしたまへる、いとあはれに 心すごし。かたへは、峰の松風のもてはやすなるべし。いと たどたどしげにおぼめきたまひて、心ばへある手ひとつばか りにてやめたまひつ。   「このわたりに、おぼえなくて、をりをりほのめく箏 の琴の音こそ、心得たるにや、と聞くをりはべれど、心とど めてなどもあらで、久しうなりにけりや。心にまかせて、お のおの掻き鳴らすべかめるは。川波ばかりやうち合はすらむ。

論なう、物の用にすばかりの拍子などもとまらじとなむおぼ えはべる」
とて、 「掻き鳴らしたまへ」と、あなたに聞 こえたまへど、思ひ寄らざりし独り琴を、聞きたまひけんだ にあるものを、いとかたはならむ、とひき入りつつ、みな聞 きたまはず。たびたびそそのかしきこえたまへど、とかく聞 こえすさびてやみたまひぬめれば、いと口惜しうおぼゆ。  そのついでにも、かくあやしう世づかぬ思ひやりにて過ぐ すありさまどもの、思ひの外なることなど、恥づかしう思い たり。 「人にだにいかで知らせじ、とはぐくみ過ぐせど、 今日明日とも知らぬ身の、残り少なさに、さすがに、行く末- 遠き人は、落ちあぶれてさすらへんこと、これのみこそ、げ に世を離れん際の絆なりけれ」と、うち語らひたまへば、心- 苦しう見たてまつりたまふ。「わざとの御後見だち、はか ばかしき筋にはべらずとも、うとうとしからず思しめされん となむ思うたまふる。しばしもながらへはべらむ命のほどは、

一言も、かくうち出できこえさせてむさまを、違へはべるま じくなむ」
など申したまへば、 「いとうれしきこと」と 思しのたまふ。 薫、弁に対面、柏木の遺書を手渡される さて、暁方の宮の御行ひしたまふほどに、 かの老人召し出でてあひたまへり。姫君の 御後見にてさぶらはせたまふ、弁の君とぞ いひける。年は六十にすこし足らぬほどなれど、みやびかに ゆゑあるけはひして、ものなど聞こゆ。故権大納言の君の、 世とともにものを思ひつつ、病づきはかなくなりたまひにし ありさまを聞こえ出でて、泣くこと限りなし。 「げに、よそ の人の上と聞かむだにあはれなるべき古事どもを、まして年 ごろおぼつかなくゆかしう、いかなりけんことのはじめにか と、仏にもこのことをさだかに知らせたまへ、と念じつる験 にや、かく夢のやうにあはれなる昔語をおぼえぬついでに聞 きつけつらむ」と思すに、涙とどめがたかりけり。

「さても、かく、その世の心知りたる人も、残りたまへり けるを。めづらかにも恥づかしうも、おぼゆることの筋に、 なほ、かく言ひ伝ふるたぐひやまたもあらむ。年ごろ、かけ ても聞きおよばざりける」とのたまへば、 「小侍従と弁と 放ちて、また知る人はべらじ。一言にても、また、他人にう ちまねびはべらず。かくものはかなく、数ならぬ身のほどに はべれど、夜昼かの御かげにつきたてまつりてはべりしかば、 おのづからもののけしきをも見たてまつりそめしに、御心よ りあまりて思しける時々、ただ二人の中になん、たまさかの 御消息の通ひもはべりし。かたはらいたければ、くはしく聞 こえさせず。今はのとぢめになりたまひて、いささか、のた まひおくことのはべりしを、かかる身には置き所なく、いぶ せく思うたまへわたりつつ、いかにしてかは聞こしめし伝ふ べきと、はかばかしからぬ念誦のついでにも思うたまへつる を、仏は世におはしましけりとなん思うたまへ知りぬる。御-

覧ぜさすべき物もはべり。今は、何かは、焼きも棄てはべり なむ、かく朝夕の消えを知らぬ身の、うち棄てはべりなば、 落ち散るやうもこそと、いとうしろめたく思うたまふれど、 この宮わたりにも、時々ほのめかせたまふを、待ち出でたて まつりてしかば、すこし頼もしく、かかるをりもやと念じは べりつる力出で参うできてなむ。さらに、これは、この世の 事にもはべらじ」
と、泣く泣くこまかに、生まれたまひける ほどのことも、よくおぼえつつ聞こゆ。 「むなしうなりたまひし騒ぎに、母にはべりし人は、や がて病づきてほども経ず隠れはべりにしかば、いとど思うた まへ沈み、藤衣裁ち重ね、悲しきことを思ひたまへしほどに、 年ごろよからぬ人の心をつけたりけるが、人をはかりごちて、 西の海のはてまでとりもてまかりにしかば、京のことさへ跡 絶えて、その人もかしこにて亡せはべりにし後、十年あまり にてなん、あらぬ世の心地してまかり上りたりしを、この宮

は、父方につけて、童より参り通ふゆゑはべりしかば、今は、 かう、世にまじらふべきさまにもはべらぬを、冷泉院の女御- 殿の御方などこそは、昔聞き馴れたてまつりしわたりにて、 参り寄るべくはべりしかど、はしたなくおぼえはべりて、え さし出ではべらで、深山隠れの朽木になりにてはべるなり。 小侍従はいつか亡せはべりにけん。その昔の若ざかりと見は べりし人は、数少なくなりはべりにける末の世に、多くの人 に後るる命を、悲しく思ひたまへてこそ、さすがにめぐらひ はべれ」
など聞こゆるほどに、例の、明けはてぬ。 「よし、 さらば、この昔物語は尽きすべくなんあらぬ、また、人聞か ぬ心やすき所にて聞こえん。侍従といひし人は、ほのかにお ぼゆるは、五つ六つばかりなりしほどにや、にはかに胸を病 みて亡せにきとなむ聞く。かかる対面なくは、罪重き身にて 過ぎぬべかりけること」などのたまふ。  ささやかにおし巻き合はせたる反故どもの、黴くさきを袋

に縫ひ入れたるとり出でて奉る。 「御前にて失はせたまへ。 我なほ生くべくもあらずなりにたり、とのたまはせて、この 御文をとり集めて賜はせたりしかば、小侍従に、またあひ見 はべらむついでに、さだかに伝へ参らせむと思ひたまへしを、 やがて別れはべりにしも、私事には飽かず悲しうなん思うた まふる」と聞こゆ。つれなくて、これは隠いたまひつ。かや うの古人は、問はず語りにや、あやしきことの例に言ひ出づ らむ、と苦しく思せど、かへすがへすも散らさぬよしを誓ひ つる、さもや、とまた思ひ乱れたまふ。  御粥強飯などまゐりたまふ。昨日は暇日なりしを、今日は 内裏の御物忌もあきぬらん、院の女一の宮、悩みたまふ御と ぶらひに必ず参るべければ、かたがた暇なくはべるを、また このごろ過ぐして、山の紅葉散らぬ前に参るべきよし聞こえ たまふ。 「かく、しばしば立ち寄らせたまふ光に、山の 蔭も、すこしもの明きらむる心地してなん」など、よろこび

きこえたまふ。 薫、柏木の遺言を読み、母宮を訪れる 帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、 唐の浮線綾を縫ひて、「上」といふ文字を 上に書きたり。細き組して口の方を結ひた るに、かの御名の封つきたり。開くるも恐ろしうおぼえたま ふ。いろいろの紙にて、たまさかに通ひける御文の返り事、 五つ六つぞある。さては、かの御手にて、病は重く限りにな りにたるに、またほのかにも聞こえむこと難くなりぬるを、 ゆかしう思ふことはそひにたり、御かたちも変りておはしま すらむが、さまざま悲しきことを、陸奥国紙五六枚に、つぶ つぶとあやしき鳥の跡のやうに書きて、   目の前にこの世をそむく君よりもよそにわかるる魂   ぞかなしき また、端に、 「めづらしく聞きはべる二葉のほども、うし ろめたう思うたまふる方はなけれど、

 命あらばそれとも見まし人しれぬ岩根にとめし松の生ひ  すゑ」
書きさしたるやうにいと乱りがはしうて、「侍従の君に」と 上には書きつけたり。紙魚といふ虫の住み処になりて、古め きたる黴くささながら、跡は消えず、ただ今書きたらんにも 違はぬ言の葉どもの、こまごまとさだかなるを見たまふに、 げに落ち散りたらましよと、うしろめたういとほしき事ども なり。  かかる事、世にまたあらむやと、心ひとつにいとどもの思 はしさそひて、内裏へ参らむと思しつるも出で立たれず。宮 の御前に参りたまへれば、いと何心もなく、若やかなるさま したまひて、経読みたまふを、恥ぢらひてもて隠したまへり。 何かは、知りにけりとも知られたてまつらむなど、心に籠め てよろづに思ひゐたまへり。 Beneath the Oak 匂宮、初瀬詣での帰途、宇治に中宿りする

二月の二十日のほどに、兵部卿宮初瀬に詣 でたまふ。古き御願なりけれど、思しも立 たで年ごろになりにけるを、宇治のわたり の御中宿のゆかしさに、多くはもよほされたまへるなるべし。 恨めしと言ふ人もありける里の名の、なべて睦ましう思さる る、ゆゑもはかなしや。上達部いとあまた仕うまつりたまふ。 殿上人などはさらにもいはず、世に残る人少なう仕うまつ れり。  六条院より伝はりて、右大殿しりたまふ所は、川よりをち にいと広くおもしろくてあるに、御設けせさせたまへり。大- 臣も、帰さの御迎へに参りたまふべく思したるを、にはかな る御物忌の重くつつしみたまふべく申したなれば、え参らぬ

よしのかしこまり申したまへり。宮、なますさまじと思した るに、宰相中将今日の御迎へに参りあひたまへるに、なか なか心やすくて、かのわたりのけしきも伝へ寄らむと御心ゆ きぬ。大臣をば、うちとけて見えにくく、ことごとしきもの に思ひきこえたまへり。御子の君たち、右大弁、侍従宰相、 権中将、頭少将、蔵人兵衛佐などみなさぶらひたまふ。帝- 后も心ことに思ひきこえたまへる宮なれば、おほかたの御お ぼえもいと限りなく、まいて六条院の御方ざまは、次々の人 も、みな私の君に心寄せ仕うまつりたまふ。 八の宮、薫たちを歓待 匂宮歌を贈答する 所につけて、御しつらひなどをかしうしな して、碁、双六、弾棊の盤ともなどとり出 でて、心々にすさび暮らしたまひつ。宮は、 ならひたまはぬ御歩きに悩ましく思されて、ここにやすらは むの御心も深ければ、うち休みたまひて、夕つ方ぞ御琴など 召して遊びたまふ。

 例の、かう世離れたる所は、水の音ももてはやして物の音 澄みまさる心地して、かの聖の宮にも、たださし渡るほどな れば、追風に吹き来る響きを聞きたまふに昔の事思し出でら れて、 「笛をいとをかしうも吹きとほしたなるかな。誰 ならん。昔の六条院の御笛の音聞きしは、いとをかしげに愛- 敬づきたる音にこそ吹きたまひしか。これは澄みのぼりて、 ことごとしき気のそひたるは、致仕の大臣の御族の笛の音に こそ似たなれ」など独りごちおはす。 「あはれに久しう なりにけりや。かやうの遊びなどもせで、あるにもあらで過 ぐし来にける年月の、さすがに多く数へらるるこそかひなけ れ」などのたまふついでにも、姫君たちの御ありさまあたら しく、かかる山ふところにひきこめてはやまずもがなと思し つづけらる。宰相の君の、同じうは近きゆかりにて見まほし げなるを、さしも思ひ寄るまじかめり、まいて今様の心浅か らむ人をばいかでかは、など思し乱れ、つれづれとながめた

まふ所は、春の夜もいと明かしがたきを、心やりたまへる旅- 寝の宿は、酔の紛れにいととう明けぬる心地して、飽かず帰 らむことを、宮は思す。  はるばると霞みわたれる空に、散る桜あれば今開けそむる などいろいろ見わたさるるに、川ぞひ柳の起き臥しなびく水- 影などおろかならずをかしきを、見ならひたまはぬ人は、い とめづらしく見棄てがたし、と思さる。宰相は、かかるたよ りを過ぐさずかの宮に参うでばや、と思せど、あまたの人目 を避きて独り漕ぎ出でたまはん舟渡りのほども軽らかにや、 と思ひやすらひたまふほどに、かれより御文あり。    山風にかすみ吹きとく声はあれどへだてて見ゆる   をちの白波 草にいとをかしう書きたまへり。宮、思すあたりと見たまへ ば、いとをかしう思いて、 「この御返りは我せん」とて、    をちこちの汀に波はへだつともなほ吹きかよへ宇治

  の川風
 中将は参うでたまふ。遊びに心入れたる君たち誘ひて、さ しやりたまふほど酣酔楽遊びて、水にのぞきたる廊に造りお ろしたる橋の心ばへなど、さる方にいとをかしうゆゑある宮 なれば、人々心して舟より下りたまふ。ここは、また、さま 異に、山里びたる網代屏風などの、ことさらにことそぎて、 見どころある御しつらひを、さる心してかき払ひ、いといた うしなしたまへり。いにしへの、音などいと二なき弾物ども を、わざと設けたるやうにはあらで、次々弾き出でたまひて、 壱越調の心に、桜人遊びたまふ。主の宮の御琴をかかるつい でにと人々思ひたまへれど、箏の琴をぞ心にも入れずをりを り掻き合はせたまふ。耳馴れぬけにやあらむ、いともの深く おもしろし、と若き人々思ひしみたり。所につけたる饗いと をかしうしたまひて、よそに思ひやりしほどよりは、なま孫- 王めく賎しからぬ人あまた、王四位の古めきたるなど、か

く人目見るべきをりと、 かねていとほしがりきこ えけるにや、さるべきか ぎり参りあひて、瓶子と る人もきたなげならず、 さる方に、古めきて、よしよししうもてなしたまへり。客人 たちは、御むすめたちの住まひたまふらん御ありさま思ひや りつつ、心つく人もあるべし。  かの宮は、まいて、かやすきほどならぬ御身をさへ、とこ ろせく思さるるを、かかるをりにだにと忍びかねたまひて、 おもしろき花の枝を折らせたまひて、御供にさぶらふ上童の をかしきして奉りたまふ。   「山桜にほふあたりにたづねきておなじかざしを折り   てけるかな 野をむつましみ」とやありけん。御返りは、いかでかはなど、

聞こえにくく思しわづらふ。 「かかるをりのこと、わざとが ましくもてなし、ほどの経るも、なかなか憎き事になむしは べりし」など、古人ども聞こゆれば、中の君にぞ書かせたて まつりたまふ。   「かざしをる花のたよりに山がつの垣根を過ぎぬ春   のたび人 野をわきてしも」と、いとをかしげにらうらうじく書きたま へり。  げに川風も心わかぬさまに吹き通ふ物の音どもおもしろく 遊びたまふ。御迎へに、藤大納言仰せ言にて参りたまへり。 人々あまた参り集ひ、もの騒がしくて競ひ帰りたまふ。若き 人々、飽かず、かへりみのみせられける。宮は、またさるべ きついでして、と思す。花盛りにて、四方の霞もながめやる ほどの見どころあるに、漢のも倭のも歌ども多かれど、うる さくて尋ねも聞かぬなり。 匂宮の執心 八の宮、姫君の行く末を案ずる

もの騒がしくて、思ふままにもえ言ひやら ずなりにしを、飽かず宮は思して、しるべ なくても御文は常にありけり。宮も、 「な ほ聞こえたまへ。わざと懸想だちてももてなさじ。なかなか 心ときめきにもなりぬべし。いとすきたまへる親王なれば、 かかる人なむと聞きたまふが、なほもあらぬすさびなめり」 と、そそのかしたまふ時々、中の君ぞ聞こえたまふ。姫君は、 かやうのこと戯れにももて離れたまへる御心深さなり。  いつとなく心細き御ありさまに、春のつれづれは、いとど 暮らしがたくながめたまふ。ねびまさりたまふ御さま容貌ど もいよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦 しう、かたほにもおはせましかばあたらしう惜しき方の思ひ はうすくやあらまし、など明け暮れ思し乱る。姉君二十五、 中の君二十三にぞなりたまひける。  宮は重くつつしみたまふべき年なりけり。もの心細く思し

て、御行ひ常よりもたゆみなくしたまふ。世に心とどめたま はねば、出立いそぎをのみ思せば、涼しき道にもおもむきた まひぬべきを、ただこの御事どもに、いといとほしく、限り なき御心強さなれど、必ず、今はと見棄てたまはむ御心は乱 れなむ、と見たてまつる人も推しはかりきこゆるを。思すさ まにはあらずとも、なのめに、さても人聞き口惜しかるまじ う、見ゆるされぬべき際の人の、真心に後見きこえんなど思 ひよりきこゆるあらば、知らず顔にてゆるしてむ、一ところ 一ところ世に住みつきたまふよすがあらば、それを見ゆづる 方に慰めおくべきを、さまで深き心にたづねきこゆる人もな し。まれまれはかなきたよりに、すき事聞こえなどする人は、 まだ若々しき人の心のすさびに、物詣の中宿、往き来のほど のなほざり事に気色ばみかけて、さすがに、かくながめたま ふありさまなど推しはかり、侮らはしげにもてなすは、めざ ましうて、なげの答へをだにせさせたまはず。三の宮ぞ、な

ほ見ではやまじ、と思す御心深かりける。さるべきにやおは しけむ。 薫、八の宮から姫君たちの後見を託される 宰相中将、その秋中納言になりたまひぬ。 いとどにほひまさりたまふ。世の営みにそ へても、思すこと多かり。いかなる事、と いぶせく思ひわたりし年ごろよりも、心苦しうて過ぎたまひ にけむいにしへざまの思ひやらるるに、罪軽くなりたまふば かり、行ひもせまほしくなむ。かの老人をばあはれなるもの に思ひおきて、いちじるきさまならず、とかく紛らはしつつ、 心寄せとぶらひたまふ。  宇治に参うでで久しうなりにけるを、思ひ出でて参りたま へり。七月ばかりになりにけり。都にはまだ入りたたぬ秋の けしきを、音羽の山近く、風の音もいと冷やかに、槇の山辺 もわづかに色づきて、なほ、たづね来たるに、をかしうめづ らしうおぼゆるを、宮はまいて、例よりも待ちよろこびきこ

えたまひて、このたびは心細げなる物語いと多く申したまふ。 「亡からむ後、この君たちをさるべきもののたよりにも とぶらひ、思ひ棄てぬものに数まへたまへ」などおもむけつ つ聞こえたまへば、 「一言にても承りおきてしかば、さら に思ひたまへ怠るまじくなん。世の中に心をとどめじとはぶ きはべる身にて、何ごとも頼もしげなき生ひ先の少なさにな むはべれど、さる方にてもめぐらひはべらむ限りは、変らぬ 心ざしを御覧じ知らせんとなむ、思ひたまふる」など聞こえ たまへば、うれしと思いたり。  夜深き月のあ きらかにさし出 でて、山の端近 き心地するに、 念誦いとあはれ にしたまひて、

昔物語したまふ。 「このごろの世はいかがなりにたらむ。 宮中などにて、かやうなる秋の月に、御前の御遊びのをりに さぶらひあひたる中に、物の上手とおぼしきかぎり、とりど りにうち合はせたる拍子など、ことごとしきよりも、よしあ りとおぼえある女御更衣の御局々の、おのがじしはいどまし く思ひ、うはべの情をかはすべかめるに、夜深きほどの人の 気しめりぬるに、心やましく掻い調べほのかにほころび出で たる物の音など聞きどころあるが多かりしかな。何ごとにも、 女はもてあそびのつまにしつべくものはかなきものから、人 の心を動かすくさはひになむあるべき。されば罪の深きにや あらん。子の道の闇を思ひやるにも、男はいとしも親の心を 乱さずやあらむ。女は限りありて、言ふかひなき方に思ひ棄 つべきにも、なほいと心苦しかるべき」など、おほかたの事 につけてのたまへる、いかがさ思さざらむ、と心苦しく思ひ やらるる御心の中なり。

「すべて、まことに、しか思ひたまへ棄てたるけにやは べらむ、みづからの事にては、いかにもいかにも深う思ひ知 る方のはべらぬを、げにはかなきことなれど、声にめづる心 こそ背きがたきことにはべりけれ。さかしう聖だつ迦葉も、 さればや、起ちて舞ひはべりけむ」など聞こえて、飽かず一- 声聞きし御琴の音を切にゆかしがりたまへば、うとうとしか らぬはじめにもとや思すらむ、御みづからあなたに入りたま ひて、切にそそのかしきこえたまふ。箏の琴をぞいとほのか に掻き鳴らしてやみたまひぬる。いとど、人のけはひも絶え てあはれなる空のけしき、所のさまに、わざとなき御遊びの 心に入りてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかは弾 き合はせたまはむ。 「おのづから、かば かりならしそめつる残りは、 世籠れるどちに譲りきこえ

てん」
とて、宮は仏の御前に入りたまひぬ。   「われ亡くて草の庵は荒れぬともこのひとことはか  れじとぞ思ふ かかる対面もこのたびや限りならむともの心細きに、忍びか ねて、かたくなしきひが言多くもなりぬるかな」とて、うち 泣きたまふ。客人、   「いかならむ世にかかれせむ長きよのちぎり結べる草   の庵は 相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎてさぶらはむ」など 聞こえたまふ。 薫、姫君たちと語り内省す 匂宮の懸想 こなたにて、かの問はず語りの古人召し出 でて、残り多かる物語などせさせたまふ。 入り方の月隈なくさし入りて、透影なまめ かしきに、君たちも奥まりておはす。世の常の懸想びてはあ らず、心深う物語のどやかに聞こえつつものしたまへば、さ

るべき御答へなど聞こえたまふ。三の宮いとゆかしう思いた るものを、と心の中には思ひ出でつつ、わが心ながら、なほ 人には異なりかし、さばかり、御心もて、ゆるいたまふこと の、さしも急がれぬよ、もて離れて、はた、あるまじきこと とはさすがにおぼえず、かやうにてものをも聞こえかはし、 をりふしの花紅葉につけて、あはれをも情をも通はすに、憎 からずものしたまふあたりなれば、宿世ことにて、外ざまに もなりたまはむは、さすがに口惜しかるべう、領じたる心地 しけり。  まだ夜深きほどに帰りたまひぬ。心細く残りなげに思いた りし御気色を、思ひ出できこえたまひつつ、さわがしきほど 過ぐして参うでむ、と思す。兵部卿宮も、この秋のほどに紅- 葉見におはしまさむと、さるべきついでを思しめぐらす。御- 文は絶えず奉りたまふ。女は、まめやかに思すらんとも思ひ たまはねば、わづらはしくもあらで、はかなきさまにもてな

しつつ、をりをりに聞こえかはしたまふ。 八の宮、訓戒を遺して山寺に参籠する 秋深くなりゆくままに、宮は、いみじうも の心細くおぼえたまひければ、例の、静か なる所にて念仏をも紛れなうせむと思して、 君たちにもさるべきこと聞こえたまふ。 「世の事として、 つひの別れをのがれぬわざなめれど、思ひ慰まん方ありてこ そ、悲しさをもさますものなめれ、また見ゆづる人もなく、 心細げなる御ありさまどもをうち棄ててむがいみじきこと。 されども、さばかりの事に妨げられて、長き夜の闇にさへま どはむが益なさを。かつ見たてまつるほどだに思ひ棄つる世 を、去りなん後の事知るべきことにはあらねど、わが身ひと つにあらず、過ぎたまひにし御面伏に、軽々しき心ども使ひ たまふな。おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、 この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り ことなる身と思しなして、ここに世を尽くしてんと思ひとり

たまへ。ひたぶるに思ひしなせば、事にもあらず過ぎぬる年- 月なりけり。まして、女は、さる方に絶え籠りて、いちじる くいとほしげなるよそのもどきを負はざらむなんよかるべ き」
などのたまふ。ともかくも身のならんやうまでは、思し も流されず、ただ、いかにしてか、後れたてまつりては、世 に片時もながらふべきと思すに、かく心細きさまの御あらま しごとに、言ふ方なき御心まどひどもになむ。心の中にこそ 思ひ棄てたまひつらめど、明け暮れ御かたはらにならはいた まうて、にはかに別れたまはむは、つらき心ならねど、げに 恨めしかるべき御ありさまになむありける。  明日入りたまはむとての日は、例ならずこなたかなたたた ずみ歩きたまひて見たまふ。いとものはかなく、かりそめの 宿にて過ぐいたまひける御住まひのありさまを、亡からむ後、 いかにしてかは若き人の絶え籠りては過ぐいたまはむ、と涙 ぐみつつ、念誦したまふさま、いときよげなり。おとなびた

る人々召し出でて、「うしろやすく仕うまつれ。何ごと も、もとよりかやすく世に聞こえあるまじき際の人は、末の 衰へも常のことにて、紛れぬべかめり。かかる際になりぬれ ば、人は何と思はざらめど、口惜しうてさすらへむ、契りか たじけなく、いとほしきことなむ多かるべき。ものさびしく 心細き世を経るは、例のことなり。生まれたる家のほど、お きてのままにもてなしたらむなむ、聞き耳にも、わが心地に も、過ちなくはおぼゆべき。にぎははしく人数めかむと思ふ とも、その心にもかなふまじき世とならば、ゆめゆめ軽々し くよからぬ方にもてなしきこゆな」などのたまふ。  まだ暁に出でたまふとても、こなたに渡りたまひて、 「なからむほど、心細くな思しわびそ。心ばかりはやりて遊 びなどはしたまへ。何ごとも思ふにえかなふまじき世を。な 思し入れそ」など、かへりみがちにて出でたまひぬ。二とこ ろ、いとど心細くもの思ひつづけられて、起き臥しうち語ら

ひつつ、 「一人一人なからましかば、いかで明かし暮らさま し。今、行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあら ば」 泣きみ笑ひみ、戯れ事もまめ事も、同じ心に慰め かはして過ぐしたまふ。 八の宮、山寺にて病み、薨去する かの行ひたまふ三昧、今日はてぬらんと、 いつしかと待ちきこえたまふ夕暮に、人参 りて、 「今朝より悩ましくてなむ、え 参らぬ。風邪かとて、とかくつくろふとものするほどになむ。 さるは、例よりも対面心もとなきを」と聞こえたまへり。胸 つぶれて、いかなるにかと思し嘆き、御衣ども綿厚くて急ぎ せさせたまひて、奉れなどしたまふ。二三日はおこたりたま はず。いかにいかにと人奉りたまへど、 「ことにおどろ おどろしくはあらず。そこはかとなく苦しうなむ。すこしも よろしくならば、いま、念じて」など、言葉にて聞こえたま ふ。阿闍梨つとさぶらひて、仕うまつりけり。 「はかな

き御悩みと見ゆれど、限りのたびにもおはしますらん。君た ちの御こと、何か思し嘆くべき。人はみな御宿世といふもの 異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」
と、いよ いよ思し離るべきことを聞こえ知らせつつ、「いまさら にな出でたまひそ」と、諫め申すなりけり。  八月二十日のほどなりけり。おほかたの空のけしきもいと どしきころ、君たちは、朝夕霧のはるる間もなく、思し嘆き つつながめたまふ。有明の月のいとはなやかにさし出でて、 水の面もさやかに澄みたるを、そなたの蔀上げさせて、見出 だしたまへるに、鐘の声かすかに響きて、明けぬなり、と聞 こゆるほどに、人々来て、 「この夜半ばかりになむ亡せたま ひぬる」と泣く泣く申す。心にかけて、いかにとは絶えず思 ひきこえたまへれど、うち聞きたまふには、あさましくもの おぼえぬ心地して、いとど、かかる事には、涙もいづちか去 にけん、ただうつぶし臥したまへり。いみじきめも、見る目

の前にて、おぼつかなからぬこそ常のことなれ、おぼつかな さそひて、思し嘆くことことわりなり。しばしにても、後れ たてまつりて、世にあるべきものと思しならはぬ御心地ども にて、いかでかは後れじ、と泣き沈みたまへど、限りある道 なりければ、何のかひなし。  阿闍梨、年ごろ契りおきたまひけるままに、後の御事もよ ろづに仕うまつる。 「亡き人になりたまへらむ御さま容貌 をだに、いま一たび見たてまつらん」と思しのたまへど、 「いまさらに、なでふさることかはべるべき。日ごろも、 またあひたまふまじきことを聞こえ知らせつれば、今はまし て、かたみに御心とどめたまふまじき御心づかひをならひた まふべきなり」とのみ聞こゆ。おはしましける御ありさまを 聞きたまふにも、阿闍梨のあまりさかしき聖心を憎くつらし となむ思しける。入道の御本意は、昔より深くおはせしかど、 かう見ゆづる人なき御事どもの見棄てがたきを、生ける限り

は明け暮れえ避らず見たてまつるを、よに心細き世の慰めに も思し離れがたくて過ぐいたまへるを、限りある道には、先- 立ちたまふも慕ひたまふ御心も、かなはぬわざなりけり。 薫、哀傷し弔問する 姫君たちの深い悲嘆 中納言殿には聞きたまひて、いとあへなく 口惜しく、いま一たび心のどかにて聞こゆ べかりけること多う残りたる心地して、お ほかた世のありさま思ひつづけられて、いみじう泣いたまふ。 「またあひ見ること難くや」などのたまひしを、なほ常 の御心にも、朝夕の隔て知らぬ世のはかなさを人よりけに思 ひたまへりしかば、耳馴れて、昨日今日と思はざりけるを、 かへすがへす飽かず悲しく思さる。阿闍梨のもとにも、君た ちの御とぶらひも、こまやかに聞こえたまふ。かかる御とぶ らひなど、また訪れきこゆる人だになき御ありさまなるは、 ものおぼえぬ御心地どもにも、年ごろの御心ばへのあはれな めりしなどをも、思ひ知りたまふ。世の常のほどの別れだに、

さし当りては、またたぐひなきやうにのみ皆人の思ひまどふ ものなめるを、慰む方なげなる御身どもにて、いかやうなる 心地どもしたまふらむと思しやりつつ、後の御わざなど、あ るべき事ども推しはかりて、阿闍梨にもとぶらひたまふ。こ こにも、老人どもにことよせて、御誦経などのことも、思ひ やりきこえたまふ。  明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ。野山のけしき、 まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つ る木の葉の音も、水の響きも、涙の滝もひとつもののやうに くれまどひて、かうては、いかでか限りあらむ御命もしばし めぐらひたまはむ、とさぶらふ人々は心細く、いみじく慰め きこえつつ思ひまどふ。ここにも念仏の僧さぶらひて、おは しましし方は、仏を形見に見たてまつりつつ、時々参り仕う まつりし人々の、御忌に籠りたるかぎりは、あはれに行ひて 過ぐす。 匂宮の心寄せ 姫君たち心を閉ざす

兵部卿宮よりも、たびたびとぶらひきこえ たまふ。さやうの御返りなど、聞こえん心- 地もしたまはず。おぼつかなければ、中納- 言にはかうもあらざなるを、我をばなほ思ひ放ちたまへるな めり、と恨めしく思す。紅葉の盛りに、文など作らせたまは むとて、出で立ちたまひしを、かくこのわたりの御逍遙、便 なきころなれば、思しとまりて口惜しくなん。  御忌もはてぬ。限りあれば涙も隙もや、と思しやりて、い と多く書きつづけたまへり。時雨がちなる夕つ方、   「をじか鳴く秋の山里いかならむ小萩がつゆのかかる   夕ぐれ ただ今の空のけしきを、思し知らぬ顔ならむも、あまり心づ きなくこそあるべけれ。枯れゆく野辺もわきてながめらるる ころになむ」などあり。 「げに、いとあまり思ひ知らぬや うにて、たびたびになりぬるを、なほ聞こえたまへ」など、

中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてまつりたまふ。 今日までながらへて、硯など近くひき寄せて見るべき物とや は思ひし、心憂くも過ぎにける日数かな、と思すに、またか き曇り、もの見えぬ心地したまへば、押しやりて、 「な ほえこそ書きはべるまじけれ。やうやうかう起きゐられなど しはべるが、げに限りありけるにこそ、とおぼゆるも、うと ましう心憂くて」と、らうたげなるさまに泣きしをれておは するもいと心苦し。  夕暮のほどより来ける御使宵すこし過ぎてぞ来たる。 「い かでか、帰りまゐらん、今宵は旅寝して」と言はせたまへど、 「たち返りこそ参りなめ」と急げば、いとほしうて、我さ かしう思ひしづめたまふにはあらねど、見わづらひたまひて、    なみだのみ霧りふたがれる山里はまがきにしかぞも   ろ声になく 黒き紙に、夜の墨つぎもたどたどしければ、ひきつくろふと

ころもなく、筆にまかせて、押し包みて出だしたまひつ。  御使は、木幡の山のほども、雨もよにいと恐ろしげなれど、 さやうのもの怖ぢすまじきをや選り出でたまひけむ、むつか しげなる笹の隈を、駒ひきとどむるほどもなくうち早めて、 片時に参り着きぬ。御前にても、いたく濡れて参りたれば、 禄賜ふ。さきざき御覧ぜしにはあらぬ手の、いますこしおと なびまさりて、よしづきたる書きざまなどを、いづれかいづ れならむ、とうちも置かず御覧じつつ、とみにも大殿籠らね ば、 「待つとて起きおはしまし、また御覧ずるほどの久し きは、いかばかり御心にしむことならん」と、御前なる人々 ささめききこえて、憎みきこゆ。ねぶたければなめり。  まだ朝霧深きあしたに、急ぎ起きて奉りたまふ。   「朝霧に友まどはせる鹿の音をおほかたにやはあはれ   とも聞く もろ声は劣るまじくこそ」とあれど、 「あまり情だたんもう

るさし。一ところの御蔭に隠ろへたるを頼みどころにてこそ、 何ごとも心やすくて過ぐしつれ、心より外にながらへて、思 はずなる事の紛れつゆにてもあらば、うしろめたげにのみ思 しおくめりし亡き御魂にさへ瑕やつけたてまつらん」
と、な べていとつつましう恐ろしうて聞こえたまはず。この宮など をば、軽らかに、おしなべてのさまにも思ひきこえたまはず。 なげの走り書いたまへる御筆づかひ言の葉も、をかしきさま になまめきたまへる御けはひを、あまたは見知りたまはねど、 これこそはめでたきなめれ、と見たまひながら、そのゆゑゆ ゑしく情ある方に言をまぜきこえむもつきなき身のありさま どもなれば、何か、ただかかる山伏だちて過ぐしてむ、と思す。 薫、宇治を訪問し、大君と歌を詠み交す 中納言殿の御返りばかりは、かれよりもま めやかなるさまに聞こえたまへば、これよ りもいとけうとげにはあらず聞こえ通ひた まふ。御忌はてても、みづから参うでたまへり。東の廂の下

りたる方にやつれておはするに、近う立ち寄りたまひて、古- 人召し出でたり。闇にまどひたまへる御あたりに、いとまば ゆくにほひ満ちて入りおはしたれば、かたはらいたうて、御- 答へなどをだにえしたまはねば、 「かやうにはもてないた まはで、昔の御心むけに従ひきこえたまはんさまならむこそ、 聞こえ承るかひあるべけれ。なよび気色ばみたるふるまひを ならひはべらねば、人づてに聞こえはべるは、言の葉もつづ きはべらず」とあれば、 「あさましう、今までながらへは べるやうなれど、思ひさまさん方なき夢にたどられはべりて なむ、心より外に空の光見はべらむもつつましうて、端近う もえ身じろきはべらぬ」と聞こえたまへれば、 「事といへ ば、限りなき御心の深さになむ。月日の影は、御心もてはれ ばれしくもて出でさせたまはばこそ、罪もはべらめ。行く方 もなく、いぶせうおぼえはべり。また思さるらむはしばしを も、明らめきこえまほしくなむ」と申したまへば、「げにこ

そ、いとたぐひなげなめる御ありさまを慰めきこえたまふ御- 心ばへの浅からぬほど」
など人々聞こえ知らす。  御心地にも、さこそいへ、やうやう心静まりて、よろづ思 ひ知られたまへば、昔ざまにても、かうまで遙けき野辺をわ け入りたまへる心ざしなども思ひ知りたまふべし、すこしゐ ざり寄りたまへり。思すらんさま、またのたまひ契りしこと など、いとこまやかになつかしう言ひて、うたて男々しきけ はひなどは見えたまはぬ人なれば、けうとくすずろはしくな どはあらねど、知らぬ人にかく声を聞かせたてまつり、すず ろに頼み顔なることなどもありつる日ごろを思ひつづくるも さすがに苦しうて、つつましけれど、ほのかに一言など答へ きこえたまふさまの、げによろづ思ひほれたまへるけはひな れば、いとあはれと聞きたてまつりたまふ。黒き几帳の透影 のいと心苦しげなるに、ましておはすらんさま、ほの見し明 けぐれなど思ひ出でられて、

  色かはる浅茅を見ても墨染にやつるる袖を思ひこそ  やれ と、独り言のやうにのたまへば、   「色かはる袖をばつゆのやどりにてわが身ぞさらにお   きどころなき はつるる糸は」と末は言ひ消ちて、いといみじく忍びがたき けはひにて入りたまひぬなり。 薫、弁と対面して、尽きぬ感慨に沈む ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、 飽かずあはれにおぼゆ。老人ぞ、こよなき 御かはりに出で来て、昔今をかき集め、悲 しき御物語ども聞こゆる。あり難くあさましき事どもをも見 たる人なりければ、かうあやしく衰へたる人とも思し棄てら れず、いとなつかしう語らひたまふ。 「いはけなかりしほ どに、故院に後れたてまつりて、いみじう悲しきものは世な りけり、と思ひ知りにしかば、人となりゆく齢にそへて、官-

位、世の中のにほひも何ともおぼえずなん。ただかう静やか なる御住まひなどの心にかなひたまへりしを、かくはかなく 見なしたてまつりなしつるに、いよいよいみじく、かりそめ の世の思ひ知らるる心ももよほされにたれど、心苦しうてと まりたまへる御事どもの、絆など聞こえむはかけかけしきや うなれど、ながらへても、かの御言あやまたず、聞こえ承ら まほしさになん。さるは、おぼえなき御古物語聞きしより、 いとど世の中に跡とめむともおぼえずなりにたりや」
と、う ち泣きつつのたまへば、この人はましていみじく泣きて、え も聞こえやらず。御けはひなどのただそれかとおぼえたまふ に、年ごろうち忘れたりつるいにしへの御事をさへとり重ね て、聞こえやらむ方もなくおぼほれゐたり。  この人は、かの大納言の御乳母子にて、父はこの姫君たち の母北の方の母方の叔父、左中弁にて亡せにけるが子なりけ り。年ごろ遠き国にあくがれ、母君も亡せたまひて後、かの

殿にはうとくなり、この宮には尋ね取りてあらせたまふなり けり。人もいとやむごとなからず、宮仕馴れにたれど、心地 なからぬものに宮も思して、姫君たちの御後見だつ人になし たまへるなりけり。昔の御事は、年ごろかく朝夕に見たてま つり馴れ、心隔つる隈なく思ひきこゆる君たちにも、一言う ち出できこゆるついでなく、忍びこめたりけれど、中納言の 君は、古人の問はず語り、みな、例のことなれば、おしなべ てあはあはしうなどは言ひひろげずとも、いと恥づかしげな める御心どもには聞きおきたまへらむかし、と推しはからる るが、ねたくもいとほしくもおぼゆるにぞ、またもて離れて はやまじ、と思ひ寄らるるつまにもなりぬべき。  今は旅寝もすずろなる心地して、帰りたまふにも、 「これ や限りの」などのたまひしを、などか、さしもやはとうち頼 みて、また見たてまつらずなりにけむ、秋やはかはれる、あ またの日数も隔てぬほどに、おはしにけむ方も知らず、あへ

なきわざなりや。ことに例の人めいたる御しつらひなく、い と事そぎたまふめりしかど、いとものきよげにかき払ひ、あ たりをかしくもてないたまへりし御住まひも、大徳たち出で 入り、こなたかなたひき隔てつつ、御念誦の具どもなどぞ変 らぬさまなれど、仏は、みなかの寺に移したてまつりてむと す、と聞こゆるを、聞きたまふにも、かかるさまの人影など さへ絶えはてんほど、とまりて思ひたまはむ心地どもを酌み きこえたまふも、いと胸いたう思しつづけらる。 「いたく 暮れはべりぬ」と申せば、ながめさして立ちたまふに、雁鳴 きて渡る。   秋霧のはれぬ雲ゐにいとどしくこの世をかりと言ひ知  らすらむ  兵部卿宮に対面したまふ時は、まづこの君たちの御ことを あつかひぐさにしたまふ。今はさりとも心やすきを、と思し て、宮はねむごろに聞こえたまひけり。はかなき御返りも聞

こえにくくつつましき方に、女方は思いたり。 「世にいとい たうすきたまへる御名のひろごりて、好ましく艶に思さるべ かめるも、かういと埋もれたる葎の下よりさし出でたらむ手 つきも、いかにうひうひしく、古めきたらむ」など思ひ屈し たまへり。 姫君たち、山籠りの寂寥の日々を過ごす 「さても、あさましうて明け暮らさるるは 月日なりけり。かく頼みがたかりける御世 を、昨日今日とは思はで、ただおほかた定 めなきはかなさばかりを明け暮れのことに聞き見しかど、我 も人も後れ先だつほどしもやは経むなどうち思ひけるよ。来 し方を思ひつづくるも、何の頼もしげなる世にもあらざりけ れど、ただいつとなくのどかにながめ過ぐし、もの恐ろしく つつましきこともなくて経つるものを、風の音も荒らかに、 例見ぬ人影も、うち連れ、声づくれば、まづ胸つぶれて、も の恐ろしくわびしうおぼゆることさへそひにたるが、いみじ

うたへがたきこと」
と、二ところうち語らひつつ、干す世も なくて過ぐしたまふに、年も暮れにけり。  雪霰降りしくころは、いづくもかくこそはある風の音な れど、今はじめて思ひ入りたらむ山住みの心地したまふ。女 ばらなど、 「あはれ、年はかはりなんとす。心細く悲しきこ とを。あらたまるべき春待ち出でてしがな」と、心を消たず 言ふもあり。難きことかな、と聞きたまふ。向ひの山にも、 時々の御念仏に籠りたまひしゆゑこそ、人も参り通ひしか。 阿闍梨も、いかがと、おほかたにまれに訪れきこゆれど、今 は何しにかはほのめき参らむ。いとど人目の絶えはつるも、 さるべきことと思ひながら、いと悲しくなん。何とも見ざり し山がつも、おはしまさで後、たまさかにさしのぞき参るは、 めづらしく思ほえたまふ。このごろの事とて、薪木の実拾ひ て参る山人どもあり。  阿闍梨の室より、炭などのやうの物奉るとて、 「年ご

ろにならひはべりにける宮仕の、今とて絶えはべらんが、心- 細さになむ」
と聞こえたり。必ず冬籠る山風防ぎつべき綿衣 など遣はししを思し出でてやりたまふ。法師ばら、童べなど の登り行くも、見えみ見えずみ、いと雪深きを、泣く泣く立 ち出でて見送りたまふ。 「御髪などおろいたまうてける、 さる方にておはしまさましかば、かやうに通ひ参る人も、お のづからしげからまし。いかにあはれに心細くとも、あひ見 たてまつること絶えてやまましやは」など、語らひたまふ。    君なくて岩のかけ道絶えしより松の雪をもなにとか   は見る 中の宮、   おくやまの松葉につもる雪とだに消えにし人を思はまし   かば うらやましくぞまたも降りそふや。 薫、匂宮の意を伝え、かつわが恋情を訴う

中納言の君、新しき年はふとしもえとぶら ひきこえざらん、と思しておはしたり。雪 もいとところせきに、よろしき人だに見え ずなりにたるを、なのめならぬけはひして軽らかにものした まへる心ばへの、浅うはあらず思ひ知られたまへば、例より は見入れて、御座などひきつくろはせたまふ。墨染ならぬ御- 火桶、物の奥なる取り出でて、塵かき払ひなどするにつけて も、宮の待ちよろこびたまひし御気色などを人々も聞こえ出 づ。対面したまふことをば、つつましくのみ思いたれど、思 ひ隈なきやうに人の思ひたま へれば、いかがはせむとて、 聞こえたまふ。うちとくとは なけれど、さきざきよりはす こし言の葉つづけてものなど のたまへるさま、いとめやす

く、心恥づかしげなり。かやうにてのみは、え過ぐしはつま じ、と思ひなりたまふも、いとうちつけなる心かな、なほ移 りぬべき世なりけり、と思ひゐたまへり。   「宮のいとあやしく恨みたまふことのはべるかな。あは れなりし御一言を承りおきしさまなど、事のついでにもや漏 らしきこえたりけん、また、いと隈なき御心の性にて、推し はかりたまふにやはべらん、ここになむ、ともかくも聞こえ させなすべきと頼むを、つれなき御気色なるは、もて損ひ きこゆるぞ、とたびたび怨じたまへば、心より外なることと 思ひたまふれど、里のしるべ、いとこよなうもえあらがひき こえぬを。何かは、いとさしももてなしきこえたまはむ。す いたまへるやうに人は聞こえなすべかめれど、心の底あやし く深うおはする宮なり。なほざり言などのたまふわたりの、 心軽うてなびきやすなるなどを、めづらしからぬものに思ひ おとしたまふにやとなむ、聞くこともはべる。何ごとにもあ

るに従ひて、心をたつる方もなく、おどけたる人こそ、ただ 世のもてなしに従ひて、とあるもかかるもなのめに見なし、 すこし心に違ふふしあるにも、いかがはせむ、さるべきぞな ども、思ひなすべかめれば、なかなか心長き例になるやうも あり。崩れそめては、龍田の川の濁る名をもけがし、言ふか ひなくなごりなきやうなる事などもみなうちまじるめれ。心 の深うしみたまふべかめる御心ざまにかなひ、ことに背くこ と多くなどものしたまはざらむをば、さらに、軽々しく、は じめをはり違ふやうなる事など、見せたまふまじき気色にな む。人の見たてまつり知らぬことを、いとよう見きこえたる を、もし似つかはしく、さもやと思し寄らば、そのもてなし などは、心の限り尽くして仕うまつりなむかし。御中道のほ ど、乱り脚こそ痛からめ」
と、いとまめやかにて言ひつづけ たまへば、わが御みづからの事とは思しもかけず、人の親め きて答へんかし、と思しめぐらしたまへど、なほ言ふべき言

の葉もなき心地して、 「いかにとかは。かけかけしげにの たまひつづくるに、なかなか聞こえんこともおぼえはべら で」とうち笑ひたまへるも、おいらかなるものからけはひを かしう聞こゆ。   「必ず御みづから聞こしめし負ふべき事とも思ひたまへ ず。それは、雪を踏みわけて参り来たる心ざしばかりを御覧 じわかむ御このかみ心にても過ぐさせたまひてよかし。かの 御心寄せは、またことにぞはベベかめる。ほのかにのたまふ さまもはべめりしを。いさや、それも人の分ききこえがたき ことなり。御返りなどは、いづ方にかは聞こえたまふ」と問 ひ申したまふに、 「ようぞ戯れにも聞こえざりける。何とな けれど、かうのたまふにも、いかに恥づかしう胸つぶれま し」と思ふに、え答へやりたまはず。   雪ふかき山のかけ橋君ならでまたふみかよふあとを  見ぬかな

と書きて、さし出でたまへれば、 「御ものあらがひこそ、 なかなか心おかれはべりぬべけれ」とて、    「つららとぢ駒ふみしだく山川をしるべしがてらまづ   やわたらむ さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」と聞 こえたまへば、思はずに、ものしうなりて、ことに答へたま はず。けざやかにいともの遠くすくみたるさまには見えたま はねど、今様の若人たちのやうに、艶げにももてなさで、い とめやすくのどやかなる心ばへならむとぞ、推しはかられた まふ人の御けはひなる。かうこそはあらまほしけれ、と思ふ に違はぬ心地したまふ。事にふれて気色ばみ寄るも、知らず 顔なるさまにのみもてなしたまへば、心恥づかしうて、昔物- 語などをぞものまめやかに聞こえたまふ。 薫、大君の迎え入れを申し出る 薫の威徳

「暮れはてなば、雪いとど空も閉ぢぬべ うはべり」と、御供の人々声づくれば、帰 りたまひなむとて、 「心苦しう見めぐら さるる御住まひのさまなりや。ただ山里のやうにいと静かな る所の、人も行きまじらぬはべるを、さも思しかけば、いか にうれしくはべらむ」などのたまふも、 「いとめでたかるべ きことかな」と片耳に聞きてうち笑む女ばらのあるを、中の 宮は、いと見苦しう、いかにさやうにはあるべきぞ、と見聞 きゐたまへり。  御くだものよしあるさまにてまゐり、御供の人々にも、肴 などめやすきほどにて土器さし出でさせたまひけり。かの御- 移り香もて騒がれし宿直人ぞ、鬘鬚とかいふ頬つき心づきな くてある、はかなの御頼もし人や、と見たまひて、召し出で たり。 「いかにぞ。おはしまさで後心細からむな」など問 ひたまふ。うちひそみつつ、心弱げに泣く。 「世の中に

頼むよるべもはべらぬ身にて、一ところの御蔭に隠れて、三- 十余年を過ぐしはべりにければ、今はまして、野山にまじり はべらむも、いかなる木の本をかは頼むべくはべらむ」
と申 して、いとど人わろげなり。  おはしましし方開けさせたまへれば、塵いたう積りて、仏 のみぞ花の飾衰へず、行ひたまひけりと見ゆる御床など取り やりてかき払ひたり。本意をも遂げば、と契りきこえしこと 思ひ出でて、   立ちよらむかげとたのみし椎が本むなしき床になりに  けるかな とて、柱に寄りゐたまへるをも、若き人々はのぞきてめでた てまつる。  日暮れぬれば、近き所どころに御庄など仕うまつる人々に、 御秣とりにやりける、君も知りたまはぬに、田舎びたる人々、 おどろおどろしくひき連れ参りたるを、あやしうはしたなき

わざかな、と御覧ずれど、 老人に紛らはしたまひつ。 おほかたかやうに仕うまつ るべく、仰せおきて出でた まひぬ。 新年、阿闍梨、姫君たちに芹・蕨を贈る 年かはりぬれば、空のけしきうららかなる に、汀の氷とけたるを、あり難くも、とな がめたまふ。聖の坊より、 「雪消えに摘み てはべるなり」とて、沢の芹、蕨など奉りたり。斎の御台に まゐれる、 「所につけては、かかる草木のけしきに従ひて、 行きかふ月日のしるしも見ゆるこそをかしけれ」など、人々 の言ふを、何のをかしきならむ、と聞きたまふ。   君がをる峰のわらびと見ましかば知られやせまし春   のしるしも   雪深きみぎはの小芹誰がために摘みかはやさん親

 なしにして
など、はかなきことどもをうち語らひつつ、明け暮らした まふ。  中納言殿よりも宮よりも、をり過ぐさずとぶらひきこえた まふ。うるさく何となきこと多かるやうなれば、例の、書き 漏らしたるなめり。 匂宮、中の君と贈答する、匂宮、薫を恨む 花盛りのころ、宮、かざしを思し出でて、 そのをり見聞きたまひし君たちなども、 「いとゆゑありし親王の御住まひを、また も見ずなりにしこと」など、おほかたのあはれを口々聞こゆ るに、いとゆかしう思されけり。   つてに見しやどの桜をこの春はかすみへだてず折り   てかざさむ と、心をやりてのたまへりけり。あるまじきことかな、と見 たまひながら、いとつれづれなるほどに、見どころある御文

の、うはべばかりをもて消たじとて、   いづくとかたづねて折らむ墨ぞめにかすみこめた   る宿のさくらを なほかくさし放ち、つれなき御気色のみ見ゆれば、まことに 心憂しと思しわたる。  御心にあまりたまひては、ただ中納言を、とざまかうざま に責め恨みきこえたまへば、をかしと思ひながら、いとうけ ばりたる後見顔にうち答へきこえて、あだめいたる御心ざま をも見あらはす時々は、 「いかでか。かからんには」など、 申したまへば、宮も御心づかひしたまふべし、 「心にかな ふあたりを、まだ見つけぬほどぞや」とのたまふ。  大殿の六の君を思し入れぬこと、なま恨めしげに大臣も思 したりけり。されど、 「ゆかしげなき仲らひなる中にも、 大臣のことごとしくわづらはしくて、何ごとの紛れをも見と がめられんがむつかしき」と、下にはのたまひて、すまひた

まふ。 薫、宇治を訪れ姫君たちの姿をかいま見る その年、三条宮焼けて、入道の宮も六条院 に移ろひたまひ、何くれともの騒がしきに 紛れて、宇治のわたりを久しう訪れきこえ たまはず。まめやかなる人の御心は、またいとことなりけれ ば、いとのどかに、おのがものとはうち頼みながら、女の心 ゆるびたまはざらむ限りは、あざればみ情なきさまに見えじ、 と思ひつつ、昔の御心忘れぬ方を深く見知りたまへ、と思す。  その年、常よりも暑さを人わぶるに、川面涼しからむはや と思ひ出でて、にはかに参うでたまへり。朝涼みのほどに出 でたまひければ、あやにくにさしくる日影もまばゆくて、宮 のおはせし西の廂に宿直人召し出でておはす。そなたの母屋 の仏の御前に君たちものしたまひけるを、け近からじとて、 わが御方に渡りたまふ御けはひ、忍びたれど、おのづからう ちみじろきたまふほど近う聞こえければ、なほあらじに、こ

なたに通ふ障子の端の方に、掛け金したる所に、穴のすこし あきたるを見おきたまへりければ、外に立てたる屏風をひき やりて見たまふ。ここもとに几帳をそへ立てたる、あな口惜 し、と思ひてひき帰るをりしも、風の簾をいたう吹き上ぐべ かめれば、 「あらはにもこそあれ。その御几帳押し出でて こそ」と言ふ人あなり。をこがましきもののうれしうて、見 たまへば、高きも短きも、几帳を二間の簾に押し寄せて、こ の障子に対ひて開きたる障子より、あなたに通らんとなり けり。  まづ一人たち出でて、几帳よりさしのぞきて、この御供の 人々のとかう行きちがひ、涼みあへるを見たまふなりけり。 濃き鈍色の単衣に萱草の袴のもてはやしたる、なかなかさま かはりてはなやかなりと見ゆるは、着なしたまへる人からな めり。帯はかなげにしなして、数珠ひき隠して持たまへり。 いとそびやかに様体をかしげなる人の、髪、袿にすこし足ら

ぬほどならむと見えて、末まで塵のまよひなく、艶々とこち たううつくしげなり。かたはらめなど、あならうたげと見え て、にほひやかにやはらかにおほどきたるけはひ、女一の宮 もかうざまにぞおはすべきと、ほの見たてまつりしも思ひく らべられて、うち嘆かる。  また、ゐざり出でて、 「かの障子はあらはにもこそあれ」 と見おこせたまへる用意、うちとけたらぬさまして、よしあ らんとおぼゆ。頭つき、髪ざしのほど、いますこしあてにな まめかしきさまなり。 「あなたに屏風もそへて立ててはべ りつ。急ぎてしものぞきたまはじ」と、若き人々何心なく言 ふあり。 「いみじうもあるべきわざかな」とて、うしろめ たげにゐざり入りたまふほど、気高う心にくきけはひそひて 見ゆ。黒き袷一襲、同じやうなる色あひを着たまへれど、こ れはなつかしうなまめきて、あはれげに心苦しうおぼゆ。髪 さはらかなるほどに、落ちたるなるべし、末すこし細りて、

色なりとかいふめる、翡翠だちていとをかしげに、糸をより かけたるやうなり。紫の紙に書きたる経を片手に持ちたまへ る手つき、かれよりも細さまさりて、痩せ痩せなるべし。立 ちたりつる君も、障子口にゐて、何ごとにかあらむ、こなた を見おこせて笑ひたる、いと愛敬づきたり。 Trefoil Knots 八の宮の一周忌近し 薫、大君に訴える

あまた年耳馴れたまひにし川風も、この秋 はいとはしたなくもの悲しくて、御はての 事いそがせたまふ。おほかたのあるべかし き事どもは、中納言殿、阿闍梨などぞ仕うまつりたまひける。 ここには法服のこと、経の飾、こまかなる御あつかひを、人 の聞こゆるに従ひて営みたまふもいとものはかなくあはれに、 かかるよその御後見なからましかば、と見えたり。みづから も参うでたまひて、今はと脱ぎ棄てたまふほどの御とぶらひ 浅からず聞こえたまふ。阿闍梨もここに参れり。名香の糸ひ き乱りて、「かくても経ぬる」など、うち語らひたまふほど なりけり。結びあげたるたたりの、簾のつまより几帳の綻び に透きて見えければ、その事と心得て、 「わか涙をば玉に

ぬかなん」
とうち誦じたまへる、伊勢の御もかくこそありけ め、とをかしく聞こゆるも、内の人は、聞き知り顔にさし答 へたまはむもつつましくて、 「ものとはなしに」とか、貫之 がこの世ながらの別れをだに、心細き筋にひきかけけむをな ど、げに古言ぞ人の心をのぶるたよりなりけるを思ひ出でた まふ。  御願文つくり、経仏供養せらるべき心ばへなど書き出で たまへる硯のついでに、客人、   あげまきに長き契りをむすびこめおなじ所によりもあ   はなむ と書きて、見せたてまつりたまへれば、例の、とうるさけ れど、   ぬきもあへずもろき涙のたまのをに長き契りをいか  がむすばん とあれば、 「あはずは何を」と、恨めしげにながめたまふ。

 みづからの御上は、かくそこはかとなくもて消ちて恥づか しげなるに、すがすがともえのたまひよらで、宮の御ことを ぞまめやかに聞こえたまふ。 「さしも御心に入るまじきこ とを、かやうの方にすこし進みたまへる御本性に、聞こえそ めたまひけむ負けじ魂にやと、とざまかうざまにいとよくな ん御気色見たてまつる。まことにうしろめたくはあるまじげ なるを、などかくあながちにしももて離れたまふらむ。世の ありさまなど思しわくまじくは見たてまつらぬを、うたて、 遠々しくのみもてなさせたまへば、かばかりうらなく頼みき こゆる心に違ひて恨めしくなむ。ともかくも思しわくらむさ まなどを、さはや かに承りにしが な」と、いとまめ だちて聞こえたま へば、 「違へき

こえじの心にてこそは、かうまであやしき世の例なるありさ まにて、隔てなくもてなしはべれ。それを思しわかざりける こそは、浅きこともまじりたる心地すれ。げにかかる住まひ などに、心あらむ人は、思ひ残すことはあるまじきを、何ご とにも後れそめにける中に、こののたまふめる筋は、いにし へも、さらにかけて、とあらばかからばなど、行く末のあら ましごとにとりまぜて、のたまひおくこともなかりしかば、 なほかかるさまにて、世づきたる方を思ひ絶ゆべく思しおき てける、となむ思ひあはせはべれば、ともかくも聞こえん方 なくて。さるは、すこし世籠りたるほどにて、深山隠れには 心苦しく見えたまふ人の御上を、いとかく朽木にはなしはて ずもがなと、人知れずあつかはしくおぼえはべれど、いかな るべき世にかあらむ」
と、うち嘆きてもの思ひ乱れたまひけ るほどのけはひ、いとあはれげなり。 薫、弁を呼び、姫君たちのことを話しあう

けざやかにおとなびてもいかでかはさかし がりたまはむ、とことわりにて、例の、古- 人召し出でてぞ語らひたまふ。 「年ごろ は、ただ後の世ざまの心ばへにて進み参りそめしを、もの心- 細げに思しなるめりし御末のころほひ、この御ことどもを心 にまかせてもてなしきこゆべくなんのたまひ契りてしを、思 しおきてたてまつりたまひし御ありさまどもには違ひて、御- 心ばへどもの、いといとあやにくにもの強げなるは、いかに。 思しおきつる方の異なるにやと、疑はしきことさへなむ。お のづから聞き伝へたまふやうもあらむ。いとあやしき本性に て、世の中に心をしむる方なかりつるを、さるべきにてや、 かうまでも聞こえ馴れにけん。世人もやうやう言ひなすやう あべかめるに、同じくは昔の御ことも違へきこえず、我も人 も、世の常に心とけて聞こえ通はばや、と思ひ寄るは、つき なかるべきことにても、さやうなる例なくやはある」などの

たまひつづけて、 「宮の御ことをも、かく聞こゆるに、う しろめたくはあらじとうちとけたまふさまならぬは、内々に、 さりとも思ほしむけたる事のさまあらむ。なほ、いかに、い かに」と、うちながめつつのたまへば、例の、わろびたる女 ばらなどは、かかることには、憎きさかしらも言ひまぜて言 よがりなどもすめるを、いとさはあらず、心の中には、あら まほしかるべき御ことどもを、と思へど、 「もとより、か く人に違ひたまへる御癖どもにはべればにや、いかにもいか にも、世の常に、何やかやなど思ひ寄りたまへる御気色にな むはべらぬ。かくてさぶらふこれかれも、年ごろだに、何の 頼もしげある木の本の隠ろへもはべらざりき。身を棄てがた く思ふかぎりはほどほどにつけてまかで散り、昔の古き筋な る人も、多く見たてまつり棄てたるあたりに、まして、今は、 しばしも立ちとまりがたげにわびはべりつつ、おはしましし 世にこそ、限りありて、かたほならむ御ありさまはいとほし

くもなど、古代なる御うるはしさに、思しもとどこほりつれ、 今は、かう、また頼みなき御身どもにて、いかにもいかにも 世になびきたまへらんを、あながちに譏りきこえむ人は、か へりてものの心をも知らず、言ふかひなきことにてこそはあ らめ、いかなる人か、いとかくて世をば過ぐしはてたまふべ き、松の葉をすきて勤むる山伏だに、生ける身の棄てがたさ によりてこそ、仏の御教をも、道々別れては行ひなすなれ、 などやうの、よからぬことを聞こえ知らせ、若き御心ども乱 れたまひぬべきこと多くはべるめれど、たわむべくもものし たまはず、中の宮をなむ、いかで人めかしくもあつかひなし たてまつらむ、と思ひきこえたまふべかめる。かく山深くた づねきこえさせたまふめる御心ざしの、年経て見たてまつり 馴れたまへるけはひも、うとからず思ひきこえさせたまひ、 今は、とざまかうざまに、こまかなる筋聞こえ通ひたまふめ るに、かの御方をさやうにおもむけて聞こえたまはば、とな

む思すべかめる。宮の御文などはべるめるは、さらにまめま めしき御ことならじ、とはべるめる」
と聞こゆれば、 「あ はれなる御一言を聞きおき、露の世にかかづらはむ限りは聞 こえ通はむの心あれば、いづ方にも見えたてまつらむ、同じ ことなるべきを、さまで、はた、思し寄るなる、いとうれし きことなれど、心の引く方なむ、かばかり思ひ棄つる世に、 なほとまりぬべきものなりければ、あらためてさはえ思ひな すまじくなむ。世の常になよびかなる筋にもあらずや。ただ かやうに物隔てて、言残いたるさまならず、さしむかひて、 とにかくに定めなき世の物語を隔てなく聞こえて、つつみた まふ御心の隈残らずもてなしたまはむなん。はらからなどの さやうに睦ましきほどなるもなくて、いとさうざうしくなん。 世の中の思ふことの、あはれにも、をかしくも、愁はしくも、 時につけたるありさまを、心にこめてのみ過ぐる身なれば、 さすがにたづきなくおぼゆるに。うとかるまじく頼みきこゆ

る后の宮、はた、馴れ馴れしく、さやうに、そこはかとなき 思ひのままなるくだくだしさを聞こえふるべきにもあらず。 三条宮は、親と思ひきこゆべきにもあらぬ御若々しさなれど、 限りあれば、たやすく馴れきこえさせずかし。そのほかの女 は、すべていとうとく、つつましく恐ろしくおぼえて、心か らよるべなく心細きなり。なほざりのすさびにても、懸想だ ちたることはいとまばゆく、ありつかず、はしたなきこちご ちしさにて、まいて心にしめたる方のことは、うち出づるこ とも難くて、恨めしくもいぶせくも、思ひきこゆる気色をだ に見えたてまつらぬこそ、我ながら限りなくかたくなしきわ ざなれ。宮の御ことをも、さりともあしざまには聞こえじと、 まかせてやは見たまはぬ」
など言ひゐたまへり。老人、はた、 かばかり心細きに、あらまほしげなる御ありさまを、いと切 に、さもあらせたてまつらばや、と思へど、いづ方も恥づか しげなる御ありさまどもなれば、思ひのままにはえ聞こえず。 薫、大君のもとに押し入り事なく朝を迎う

今宵はとまりたまひて、物語などのどやか に聞こえまほしくて、やすらひ暮らしたま ひつ。あざやかならず、もの恨みがちなる 御気色やうやうわりなくなりゆけば、わづらはしくて、うち とけて聞こえたまはむこともいよいよ苦しけれど、おほかた にてはあり難くあはれなる人の御心なれば、こよなくももて なしがたくて対面したまふ。仏のおはする中の戸を開けて、 御燈明の灯けざやかにかかげさせて、簾に屏風をそへてぞお はする。外にも大殿油まゐらすれど、 「悩ましうて無礼な るを。あらはに」など諫めて、かたはら臥したまへり。御く だものなど、わざとはなくしなしてまゐらせたまへり。御供 の人々にも、ゆゑゆゑしき肴などして、出ださせたまへり。 廊めいたる方に集まりて、この御前は人げ遠くもてなして、 しめじめと物語聞こえたまふ。うちとくべくもあらぬものか ら、なつかしげに愛敬づきてもののたまへるさまの、なのめ

ならず心に入りて、思ひ焦らるるもはかなし。  かくほどもなき物の隔てばかりを障りどころにて、おぼつ かなく思ひつつ過ぐす心おそさの、あまりをこがましくもあ るかな、と思ひつづけらるれど、つれなくて、おほかたの世 の中の事ども、あはれにもをかしくも、さまざま聞きどころ 多く語らひきこえたまふ。内には、人々近くなどのたまひお きつれど、さしももて離れたまはざらなむと思ふべかめれば、 いとしもまもりきこえず、さし退きつつ、みな寄り臥して、 仏の御燈火もかかぐる人もなし。ものむつかしくて、忍びて 人召せどおどろか ず。 「心地のか き乱り、悩ましく はべるを、ためら ひて、暁方にもま た聞こえん」とて、

入りたまひなむとする気色なり。 「山路分けはべりつる人 は、ましていと苦しけれど、かく聞こえ承るに慰めてこそは べれ。うち棄てて入らせたまひなば、いと心細からむ」とて、 屏風をやをら押し開けて入りたまひぬ。いとむくつけくて、 なからばかり入りたまへるにひきとどめられて、いみじくね たく心憂ければ、 「隔てなきとはかかるをや言ふらむ。め づらかなるわざかな」と、あはめたまへるさまのいよいよを かしければ、 「隔てぬ心をさらに思しわかねば、聞こえ知 らせむとぞかし。めづらかなりとも、いかなる方に思し寄る にかはあらむ。仏の御前にて誓言も立てはべらむ。うたて、 な怖ぢたまひそ。御心破らじ、と思ひそめてはべれば。人は かくしも推しはかり思ふまじかめれど、世に違へる痴者にて 過ぐしはべるぞや」とて、心にくきほどなる灯影に、御髪の こぼれかかりたるを掻きやりつつ見たまへば、人の御けはひ、 思ふやうに、かをりをかしげなり。

 かく心細くあさましき御住み処に、すいたらむ人は障りど ころあるまじげなるを、我ならで尋ね来る人もあらましかば、 さてややみなまし、いかに口惜しきわざならましと、来し方 の心のやすらひさへ、あやふくおぼえたまへど、言ふかひな くうし、と思ひて泣きたまふ御気色のいといとほしければ、 かくはあらで、おのづから心ゆるびしたまふをりもありなむ、 と思ひわたる。わりなきやうなるも心苦しくて、さまよくこ しらへきこえたまふ。 「かかる御心のほどを思ひ寄らで、 あやしきまで聞こえ馴れにたるを、ゆゆしき袖の色など見あ らはしたまふ心浅さに、みづからの言ふかひなさも思ひ知ら るるに、さまざま慰む方なく」と恨みて、何心もなくやつれ たまへる墨染の灯影を、いとはしたなくわびしと思ひまどひ たまへり。 「いとかくしも思さるるやうこそは、と恥づかし きに聞こえむ方なし。袖の色をひきかけさせたまふはしもこ とわりなれど、ここら御覧じ馴れぬる心ざしのしるしには、

さばかりの忌おくべく、今はじめたる事めきてやは思さるべ き。なかなかなる御わきまへ心になむ」
とて、かの物の音聞 きし有明の月影よりはじめて、をりをりの思ふ心の忍びがた くなりゆくさまを、いと多く聞こえたまふに、恥づかしくも ありけるかな、とうとましく、かかる心ばへながらつれなく まめだちたまひけるかな、と聞きたまふこと多かり。  御かたはらなる短き几帳を、仏の御方にさし隔てて、かり そめに添ひ臥したまへり。名香のいとかうばしく匂ひて、樒 のいとはなやかに薫れるけはひも、人よりはけに仏をも思ひ きこえたまへる御心にてわづらはしく、墨染のいまさらに、 をりふし心焦られしたるやうにあはあはしく、思ひそめしに 違ふべければ、かかる忌なからむほどに、この御心にも、さ りともすこしたわみたまひなむなど、せめてのどかに思ひな したまふ。秋の夜のけはひは、かからぬ所だに、おのづから あはれ多かるを、まして峰の嵐も籬の虫も、心細げにのみ聞

きわたさる。常なき世の御物語に時々さし答へたまへるさま、 いと見どころ多くめやすし。いぎたなかりつる人々は、かう なりけりとけしきとりてみな入りぬ。宮ののたまひしさまな ど思し出づるに、げに、ながらへば心の外にかくあるまじき ことも見るべきわざにこそはと、もののみ悲しくて、水の音 に流れそふ心地したまふ。 宇治の邸の夜明け 薫、大君と歌を交す はかなく明け方になりにけり。御供の人々 起きて声づくり、馬どものいばゆる音も、 旅の宿のあるやうなど人の語る思しやられ て、をかしく思さる。光見えつる方の障子を押し開けたまひ て、空のあはれなるをもろともに見たまふ。女もすこしゐざ り出でたまへるに、ほどもなき軒の近さなれば、しのぶの露 もやうやう光見えもてゆく。かたみに、いと艶なるさま容貌 どもを、 「何とはなくて、ただかやうに月をも花をも、同 じ心にもて遊び、はかなき世のありさまを聞こえあはせてな

む過ぐさまほしき」
と、いとなつかしきさまして語らひきこ えたまへば、やうやう恐ろしさも慰みて、 「かういとはし たなからで、物隔ててなど聞こえば、まことに心の隔てはさ らにあるまじくなむ」と答へたまふ。  明かくなりゆき、むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ。 夜深き朝の鐘の音かすかに響く。 「今だに。いと見苦しき を」と、いとわりなく恥づかしげに思したり。 「事あり顔 に朝露もえ分けはべるまじ。また、人はいかが推しはかりき こゆべき。例のやうになだらかにもてなさせたまひて、ただ 世に違ひたることにて、今より後も、ただ、かやうにしなさ せたまひてよ。よにうしろめたき心はあらじと思せ。かばか りあながちなる心のほども、あはれと思し知らぬこそかひな けれ」とて、出でたまはむの気色もなし。あさましく、かた はならむとて、 「今より後は、さればこそ、もてなしたま はむままにあらむ。今朝は、また、聞こゆるに従ひたまへか

し」
とて、いと術なしと思したれば、 「あな苦しや。暁の 別れや、まだ知らぬことにて、げにまどひぬべきを」と嘆き がちなり。鶏も、いづ方にかあらむ、ほのかに音なふに、京 思ひ出でらる。   山里のあはれ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけ   かな 女君、   鳥の音もきこえぬ山と思ひしを世のうきことは尋ね  来にけり 障子口まで送りたてまつりたまひて、昨夜入りし戸口より出 でて、臥したまへれどまどろまれず。なごり恋しくて、いと かく思はましかば、月ごろも今まで心のどかならましやなど、 帰らむこともものうくおぼえたまふ。 大君妹を薫にと決意 中の君移り香を疑う

姫宮は、人の思ふらむことのつつましきに、 とみにもうち臥されたまはで、頼もしき人 なくて世を過ぐす身の心憂きを、ある人ど もも、よからぬこと何やかやと次々に従ひつつ言ひ出づめる に、心より外の事ありぬべき世なめり、と思しめぐらすには、 「この人の御けはひありさまのうとましくはあるまじく、故 宮も、さやうなる御心ばへあらばと、をりをりのたまひ思す めりしかど、みづからはなほかくて過ぐしてむ。我よりはさ ま容貌もさかりにあたらしげなる中の宮を、人並々に見なし たらむこそうれしからめ。人の上になしてば、心のいたらむ 限り思ひ後見てむ。みづからの上のもてなしは、また誰かは 見あつかはむ。この人の御さまの、なのめにうち紛れたるほ どならば、かく見馴れぬる年ごろのしるしに、うちゆるぶ心 もありぬべきを、恥づかしげに見えにくき気色も、なかなか いみじくつつましきに、わが世はかくて過ぐしはててむ」

思ひつづけて、音泣きがちに明かしたまへるに、なごりい と悩ましければ、中の宮の臥したまへる奥の方に添ひ臥した まふ。  例ならず人のささめきしけしきもあやし、とこの宮は思し つつ寝たまへるに、かくておはしたればうれしくて、御衣ひ き着せたてまつりたまふに、ところせき御移り香の紛るべく もあらずくゆりかをる心地すれば、宿直人がもてあつかひけ む思ひあはせられて、まことなるべし、といとほしくて、 寝ぬるやうにてものものたまはず。客人は、弁のおもと呼び 出でたまひて、こまかに語らひおき、御消息すくすくしく聞 こえおきて出でたまひぬ。総角を戯れにとりなししも、心も て「尋ばかり」の隔てにても対面しつるとや、この君も思す らむ、といみじく恥づかしければ、心地あし、とて悩み暮ら したまひつ。人々、 「日は残りなくなりはべりぬ。はかば かしく、はかなきことをだに、また仕うまつる人もなきに、

をりあしき御悩みか な」
と聞こゆ。中の宮、 組などしはてたまひて、 「心葉など、えこそ思 ひよりはべらね」と、 せめて聞こえたまへば、 暗くなりぬる紛れに起きたまひてもろともに結びなどしたま ふ。中納言殿より御文あれど、 「今朝よりいと悩ましくな む」とて、人づてにぞ聞こえたまふ。「さも見苦しく。若々 しくおはす」と人々つぶやききこゆ。 喪明け、薫宇治を訪問 女房手引きの用意 御服などはてて、脱ぎ棄てたまへるにつけ ても、片時も後れたてまつらむものと思は ざりしを、はかなく過ぎにける月日のほど を思すに、いみじく思ひの外なる身のうさと、泣き沈みたま へる御さまども、いと心苦しげなり。月ごろ黒くならはした

まへる御姿、薄鈍にて、いとなまめかしくて、中の宮はげに いとさかりにて、うつくしげなるにほひまさりたまへり。御- 髪などすましつくろはせて見たてまつりたまふに、世のもの 思ひ忘るる心地して、めでたければ、人知れず、近おとりし ては思はずやあらむと、頼もしくうれしくて、今はまた見譲 る人もなくて、親心にかしづきたてて見きこえたまふ。  かの人は、つつみきこえたまひし藤の衣もあらためたまへ らむ九月も静心なくて、またおはしたり。「例のやうに聞こ えむ」と、また御消息あるに、心あやまりして、わづらはし くおぼゆれば、とかく聞こえすまひて対面したまはず。 「思 ひのほかに心憂き御心かな。人もいかに思ひはべらむ」と、 御文にて聞こえたまへり。 「今はとて脱ぎ棄てはべりしほ どの心まどひに、なかなか沈みはべりてなむ、え聞こえぬ」 とあり。  恨みわびて、例の人召してよろづにのたまふ。世に知らぬ

心細さの慰めには、この君をのみ頼みきこえたる人々なれば、 思ひにかなひたまひて、世の常の住み処に移ろひなどしたま はむを、いとめでたかるべきことに言ひあはせて、 「ただ入 れたてまつらむ」と、みな語らひあはせけり。  姫宮、そのけしきをば深く見知りたまはねど、 「かく、と り分きて人めかしなつけたまふめるに、うちとけて、うしろ めたき心もやあらむ。昔物語にも、心もてやはとある事もか かる事もあめる。うちとくまじき人の心にこそあめれ」と思 ひよりたまひて、 「せめて恨み深くは、この君をおし出でむ。 劣りざまならむにてだに、さても見そめてば、あさはかには もてなすまじき心なめるを、まして、ほのかにも見そめてば 慰みなむ。言に出でては、いかでかは、ふとさる事を待ちと る人のあらむ、本意になむあらぬ、と承け引く気色のなかな るは、かたへは、人の思はむことを、あいなう浅き方にやな ど、つつみたまふならむ」と思し構ふるを、気色だに知らせ

たまはずは罪もや得むと、身をつみていとほしければ、よろ づにうち語らひて、 「昔の御おもむけも、世の中をかく心- 細くて過ぐしはつとも、なかなか人わらへに軽々しき心つか ふななどのたまひおきしを、おはせし世の御絆にて、行ひの 御心を乱りし罪だにいみじかりけむを、今はとて、さばかり のたまひし一言をだに違へじと思ひはべれば、心細くなども ことに思はぬを、この人々の、あやしく心ごはきものに憎む めるこそ、いとわりなけれ。げにさのみ、やうのものと過ぐ したまはむも、明け暮るる月日にそへても、御ことをのみこ そ、あたらしく心苦しくかなしきものに思ひきこゆるを、君 だに世の常にもてなしたまひて、かかる身のありさまも面だ たしく、慰むばかり見たてまつりなさばや」と聞こえたまへ ば、いかに思すにか、と心憂くて、 「一ところをのみや は、さて世にはてたまへとは聞こえたまひけむ。はかばかし くもあらぬ身のうしろめたさは、数そひたるやうにこそ思さ

れためりしか。心細き御慰めには、かく朝夕に見たてまつる より、いかなる方にか」
なま恨めしく思ひたまへれば、 げにといとほしくて、 「なほ、これかれ、うたてひがひが しきものに言ひ思ふべかめるにつけて、思ひ乱れはべるぞ や」と、言ひさしたまひつ。  暮れゆくに、客人は帰りたまはず。姫宮いとむつかしと思 す。弁参りて、御消息ども聞こえ伝へて、恨みたまふをこと わりなるよしをつぶつぶと聞こゆれば、答へもしたまはず、 うち嘆きて、「いかにもてなすべき身にかは。一ところおは せましかば、ともかくもさるべき人にあつかはれたてまつり て、宿世といふなる方につけて、身を心ともせぬ世なれば、 みな例の事にてこそは、人わらへなる咎をも隠すなれ。ある かぎりの人は年つもり、さかしげにおのがじしは思ひつつ、 心をやりて似つかはしげなることを聞こえ知らすれど、こは はかばかしき事かは。人めかしからぬ心どもにて、ただ一方

に言ふにこそは」
と見たまへば、ひき動かしつばかり聞こえ あへるもいと心憂くうとましくて、動ぜられたまはず。同じ 心に何ごとも語らひきこえたまふ中の宮は、かかる筋にはい ますこし心も得ずおほどかにて、何とも聞き入れたまはね ば、あやしくもありける身かなと、ただ奥ざまに向きておは すれば、 「例の色の御衣ども、奉りかへよ」など、そその かしきこえつつ、みなさる心すべかめる気色を、あさましく。 げに何の障りどころかはあらむ、ほどもなくて、かかる御住 まひのかひなき、山なしの花ぞのがれむ方なかりける。  客人は、かく顕証にこれかれにも口入れさせず、忍びやか に、いつありけむ事ともなくもてなしてこそ、と思ひそめた まひけることなれば、 「御心ゆるしたまはずは、いつもい つもかくて過ぐさむ」と思しのたまふを、この老人の、おの がじし語らひて、顕証にささめき、さは言へど、深からぬけ に、老いひがめるにや、いとほしくぞ見ゆる。

 姫宮思しわづらひて、弁が参れるにのたまふ。 「年ごろ も、人に似ぬ御心寄せとのみのたまひわたりしを聞きおき、 今となりては、よろづに残りなく頼みきこえて、あやしきま でうちとけにたるを、思ひしに違ふさまなる御心ばへのまじ りて、恨みたまふめるこそわりなけれ。世に人めきてあらま ほしき身ならば、かかる御ことをも、何かはもて離れても思 はまし。されど、昔より思ひ離れそめたる心にて、いと苦し きを。この君のさかり過ぎたまはむも口惜し。げに、かかる 住まひもただこの御ゆかりにところせくのみおぼゆるを、ま ことに昔を思ひきこえたまふ心ざしならば、同じことに思ひ なしたまへかし。身を分けたる、心の中はみな譲りて、見た てまつらむ心地なむすべき。なほかうやうによろしげに聞こ えなされよ」と恥ぢらひたるものから、あるべきさまをのた まひつづくれば、いとあはれと見たてまつる。   「さのみこそは、さきざきも御気色を見たまふれば、い

とよく聞こえさすれど、さはえ思ひあらたむまじき、兵部卿- 宮の御恨み深さまさるめれば、またそなたざまに、いとよく 後見きこえむ、となむ聞こえたまふ。それも思ふやうなる御 ことどもなり。二ところながらおはしまして、ことさらにい みじき御心尽くしてかしづききこえたまはむに、えしもかく 世にあり難き御ことども、さし集ひたまはざらまし。かしこ けれど、かくいとたづきなげなる御ありさまを見たてまつる に、いかになりはてさせたまはむと、うしろめたく悲しくの み見たてまつるを、後の御心は知りがたけれど、うつくしく めでたき御宿世どもにこそおはしましけれとなむ、かつがつ 思ひきこゆる。故宮の御遺言違へじと思しめす方はことわり なれど、それは、さるべき人のおはせず、品ほどならぬこと やおはしまさむと思して、いましめきこえさせたまふめりし にこそ。この殿のさやうなる心ばへものしたまはましかば、 一ところをうしろやすく見おきたてまつりて、いかにうれし

からましと、をりをりのたまはせしものを。ほどほどにつけ て、思ふ人に後れたまひぬる人は、高きも下れるも、心の外 に、あるまじきさまにさすらふたぐひだにこそ多くはべるめ れ。それみな例のことなめれば、もどき言ふ人もはべらず。 まして、かくばかり、ことさらにも作り出でまほしげなる人 の御ありさまに、心ざし深くあり難げに聞こえたまふを、あ ながちにもて離れさせたまうて、思しおきつるやうに行ひの 本意を遂げたまふとも、さりとて雲霞をやは」
など、すべて 言多く申しつづくれば、いと憎き心づきなしと思して、ひれ 臥したまへり。  中の宮も、あいなくいとほしき御気色かなと見たてまつり たまひて、もろともに例のやうに御殿籠りぬ。うしろめたく、 いかにもてなさむ、とおぼえたまへど、ことさらめきてさし 籠り、隠ろへたまふべき物の隈だになき御住まひなれば、な よよかにをかしき御衣、上にひき着せたてまつりたまひて、

まだけはひ暑きほどなれば、すこしまろび退きて臥したま へり。  弁は、のたまひつるさまを客人に聞こゆ。いかなれば、い とかくしも世を思ひ離れたまふらむ、聖だちたまへりしあた りにて、常なきものに思ひ知りたまへるにや、と思すに、い とどわが心通ひておぼゆれば、さかしだち憎くもおぼえず。 「さらば、物越しなどにも、今はあるまじきことに思しなる にこそはあなれ。今宵ばかり、大殿籠るらむあたりにも。忍 びてたばかれ」とのたまへば、心して人とくしづめなど、心- 知れるどちは思ひかまふ。 薫、姫君たちの部屋に忍び入る、大君脱出 宵すこし過ぐるほどに、風の音荒らかにう ち吹くに、はかなきさまなる蔀などはひし ひしと紛るる音に、人の忍びたまへるふる まひはえ聞きつけたまはじ、と思ひて、やをら導き入る。同 じ所に大殿籠れるをうしろめたし、と思へど、常のことなれ

ば、外々にともいかが聞こ えむ。御けはひをも、たど たどしからず見たてまつり 知りたまへらむ、と思ひけ るに、うちもまどろみたま はねば、ふと聞きつけたま ひてやをら起き出でたまひ ぬ。いととく這ひ隠れたまひぬ。何心もなく寝入りたまへる を、いといとほしく、いかにするわざぞと胸つぶれて、もろ ともに隠れなばやと思へど、さもえたち返らで、わななくわ ななく見たまへば、灯のほのかなるに、袿姿にて、いと馴れ 顔に几帳の帷子をひき上げて入りぬるを、いみじくいとほし く、いかにおぼえたまはむ、と思ひながら、あやしき壁の面 に屏風を立てたる背後のむつかしげなるにゐたまひぬ。あら ましごとにてだにつらしと思ひたまへりつるを、まいて、い

かにめづらかに思しうとまむといと心苦しきにも、すべては かばかしき後見なくて落ちとまる身どもの悲しきを思ひつづ けたまふに、今はとて山に登りたまひし夕の御さまなどただ 今の心地して、いみじく恋しく悲しくおぼえたまふ。  中納言は、独り臥したまへるを、心しけるにや、とうれし くて、心ときめきしたまふに、やうやう、あらざりけりと見 る。いますこしうつくしくらうたげなるけしきはまさりてや、 とおぼゆ。あさましげにあきれまどひたまへるを、げに心も 知らざりける、と見ゆれば、いといとほしくもあり、また、 おし返して、隠れたまへらむつらさの、まめやかに心憂くね たければ、これをもよそのものとはえ思ひはなつまじけれど、 なほ本意の違はむ口惜しくて、「うちつけに浅かりけりとも おぼえたてまつらじ。この一ふしはなほ過ぐして、つひに宿- 世のがれずは、こなたざまにならむも、何かは他人のやうに やは」と思ひさまして、例の、をかしくなつかしきさまに語

らひて明かしたまひつ。  老人どもは、しそしつ、と思ひて、 「中の宮、いづこにか おはしますらむ。あやしきわざかな」とたどりあへり。 「さ りとも、あるやうあらむ」など言ふ。おほかた、例の、見た てまつるに皺のぶる心地して、めでたくあはれに見まほしき 御容貌ありさまを、 「などていともて離れては聞こえたま ふらむ。何か、これは世の人の言ふめる恐ろしき神ぞつきた てまつりたらむ」と、歯はうちすきて愛敬なげに言ひなす女 あり。また、 「あな、まがまがし。なぞの物かつかせたまは む。ただ、人に遠くて生ひ出でさせたまふめれば、かかる事 にも、つきづきしげにもてなしきこえたまふ人もなくおはし ますに、はしたなく思さるるにこそ。いま、おのづから見た てまつり馴れたまひなば、思ひきこえたまひてん」など語ら ひて、 「とくうちとけて、思ふやうにておはしまさなむ」と 言ふ言ふ寝入りて、いびきなどかたはらいたくするもあり。

 逢ふ人からにもあらぬ秋の夜なれど、ほどもなく明けぬる 心地して、いづれと分くべくもあらずなまめかしき御けはひ を、人やりならず飽かぬ心地して、 「あひ思せよ。いと心- 憂くつらき人の御さま、見ならひたまふなよ」など、後瀬を 契りて出でたまふ。我ながら、あやしく夢のやうにおぼゆれ ど、なほつれなき人の御気色、いま一たび見はてむの心に思 ひのどめつつ、例の、出でて臥したまへり。  弁参りて、 「いとあやしく、中の宮はいづくにかおはしま すらむ」と言ふを、いと恥づかしく思ひかけぬ御心地に、い かなりけん事にか、と思ひ臥したまへり。昨日のたまひしこ とを思し出でて、姫宮をつらしと思ひきこえたまふ。明けに ける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。 思すらむことのいといとほしければ、かたみにものも言はれ たまはず。「ゆかしげなく、心憂くもあるかな。今より後も 心ゆるいすべくもあらぬ世にこそ」と思ひ乱れたまへり。

 弁はあなたに参りて、あさましかりける御心強さを聞きあ らはして、いとあまり深く、人憎かりけることと、いとほし く思ひほれゐたり。 「来し方のつらさはなほ残りある心地し て、よろづに思ひ慰めつるを、今宵なむまことに恥づかしく、 身も投げつべき心地する。棄てがたく落しおきたてまつりた まへりけん心苦しさを思ひきこゆる方こそ、また、ひたぶる に、身をもえ思ひ棄つまじけれ。かけかけしき筋は、いづ方 にも思ひきこえじ。うきもつらきも、かたがたに忘られたま ふまじくなん。宮などの恥づかしげなく聞こえたまふめるを、 同じくは心高くと思ふ方ぞことにものしたまふらんと心えは てつれば、いとことわりに恥づかしくて、また、参りて人々 に見えたてまつらむこともねたくなむ。よし、かくをこがま しき身の上、また、人にだに漏らしたまふな」と怨じおきて、 例よりも急ぎ出でたまひぬ。 「誰が御ためもいとほしく」 と、ささめきあへり。 薫、大君と片枝の紅葉につけて歌を交す

姫宮も、 「いかにしつることぞ。もしおろ かなる心ものしたまはば」と胸つぶれて心- 苦しければ、すべて、うちあはぬ人々のさ かしら、憎しと思す。さまざま思ひたまふに、御文あり。例 よりはうれしとおぼえたまふも、かつはあやし。秋のけしき も知らず顔に、青き枝の、片枝いと濃くもみぢたるを、   おなじ枝をわきてそめける山姫にいづれか深き色とと  はばや さばかり恨みつる気色も、言少なにことそぎて、おしつつみ たまへるを、そこはかとなくもてなしてやみなむとなめり、 と見たまふも、心騒ぎて見る。かしがましく、 「御返り」と 言へば、 「聞こえたまへ」と譲らむもうたておぼえて、さす がに書きにくく思ひ乱れたまふ。   山姫の染むるこころは分かねどもうつろふ方や深き   なるらん

ことなしびに書きたまへるが、をかしく見えければ、なほえ 怨じはつまじくおぼゆ。 「身を分けてなど譲りたまふ気色は たびたび見えしかど、承け引かぬにわびて構へたまへるなめ り。そのかひなく、かくつれなからむもいとほしく、情なき ものに思ひおかれて、いよいよはじめの思ひかなひがたくや あらん。とかく言ひ伝へなどすめる老人の思はむところも軽- 軽しく、とにかくに心を染めけむだに悔しく、かばかりの世 の中を思ひ棄てむの心に、みづからもかなはざりけり」と、 人わろく思ひ知らるるを、ましておしなべたるすき者のまね に、同じあたりかへすがへす漕ぎめぐらむ、いと人わらへな る棚無し小舟めきたるべしなど、夜もすがら思ひ明かしたま ひて、まだ有明の空もをかしきほどに、兵部卿宮の御方に参 りたまふ。 薫、匂宮に中の君を譲るべく相談する

三条宮焼けにし後は、六条院にぞ移ろひた まへれば、近くては常に参りたまふ。宮も、 思すやうなる御心地したまひけり。紛るる ことなくあらまほしき御住まひに、御前の前栽ほかのには似 ず、同じき花の姿も、木草のなびきざまもことに見なされて、 遣水にすめる月の影さへ絵に描きたるやうなるに、思ひつる もしるく起きおはしましけり。風につきて吹きくる匂ひのい としるくうちかをるに、ふとそれとうちおどろかれて、御直- 衣奉り、乱れぬさまにひきつくろひて出でたまふ。階を上り もはてず、ついゐたまへれば、 「なほ上に」などものたまは で、高欄によりゐたまひて、世の中の御物語聞こえかはした まふ。かのわたりのことをも、もののついでには思し出でて、 よろづに恨みたまふもわりなしや。みづからの心にだにかな ひがたきをと思ふ思ふ、さもおはせなむ、と思ひなるやうの あれば、例よりはまめやかに、あるべきさまなど申したまふ。

 明けぐれのほど、あやにくに霧りわたりて、空のけはひ冷 やかなるに、月は霧に隔てられて、木の下も暗くなまめきた り。山里のあはれなるありさま思ひ出でたまふにや、 「こ のごろのほどに、必ず。後らかしたまふな」と語らひたまふ を、なほわづらはしがれば、   女郎花さけるおほ野をふせぎつつ心せばくやしめを   結ふらむ と戯れたまふ。   「霧深きあしたの原の女郎花こころをよせて見る人ぞ   みる なべてやは」など、ねたましきこゆれば、 「あなかしがま し」と、はてはては腹立ちたまひぬ。  年ごろかくのたまへど、人の御ありさまをうしろめたく思 ひしに、容貌なども見おとしたまふまじく推しはからるる。 心ばせの近おとりするやうもや、などぞあやふく思ひわたり

しを、何ごとも口惜しくはものしたまふまじかめり、と思へ ば、かの、いとほしく、内々に思ひたばかりたまふありさま も違ふやうならむも情なきやうなるを、さりとて、さ、はた、 え思ひあらたむまじくおぼゆれば、譲りきこえて、いづ方の 恨みをも負はじなど下に思ひかまふる心をも知りたまはで、 心せばくとりなしたまふもをかしけれど、 「例の、軽らか なる御心ざまに、もの思はせむこそ心苦しかるべけれ」など、 親方になりて聞こえたまふ。 「よし、見たまへ。かばかり 心にとまることなむまだなかりつる」など、いとまめやかに のたまへば、 「かの心どもには、さもやとうちなびきぬべ き気色は見えずなむはべる。仕うまつりにくき宮仕にぞはべ るや」とて、おはしますべきやうなどこまかに聞こえ知らせ たまふ。 匂宮、中の君と契る 薫、大君に拒まれる

二十八日の彼岸のはてにて、よき日なりけ れば、人知れず心づかひして、いみじく忍 びて率てたてまつる。后の宮など聞こしめ し出でては、かかる御歩きいみじく制しきこえたまへばいと わづらはしきを、切に思したることなれば、さりげなく、と もてあつかふもわりなくなむ。舟渡りなどもところせければ、 ことごとしき御宿なども借りたまはず、そのわたりいと近き 御庄の人の家に、いと忍びて宮をば下ろしたてまつりたまひ て、おはしぬ。見とがめたてまつるべき人もなけれど、宿直- 人はわづかに出でて歩くにも、けしき知らせじとなるべし。 例の、中納言殿おはします、とて経営しあへり。君たち、な まわづらはしく聞きたまへど、移ろふ方異ににほはしおきて しかば、と姫宮思す。中の宮は、思ふ方異なめりしかば、さ りともと思ひながら、心憂かりし後は、ありしやうに姉宮を も思ひきこえたまはず、心おかれてものしたまふ。何やかや

と御消息のみ聞こえ通ひて、いかなるべきことにか、と人々 も心苦しがる。  宮をば、御馬にて、暗き紛れにおはしまさせたまひて、弁 召し出でて、 「ここもとにただ一言聞こえさすべきことな むはべるを、思し放つさま見たてまつりてしに、いと恥づか しけれど、ひたや籠りにてはえやむまじきを、いましばし更 かしてを、ありしさまには導きたまひてむや」など、うらも なく語らひたまへば、いづ方にも同じことにこそはなど思ひ て参りぬ。  さなむ、と聞こゆれば、 「さればよ。思ひ移りにけり」と うれしくて心落ちゐて、かの入りたまふべき道にはあらぬ廂 の障子をいとよく鎖して、対面したまへり。 「一言聞こえ さすべきが、また人聞くばかりののしらむはあやなきを、い ささか開けさせたまへ。いといぶせし」と聞こえたまへど、 「いとよく聞こえぬべし」とて開けたまはず。 「今はと移

ろひなむを、ただならじとて言ふべきにや。何かは。例なら ぬ対面にもあらず。人憎く答へで、夜も更かさじ」
など思 ひて、かばかりも出でたまへるに、障子の中より御袖をとら へて、ひき寄せていみじく恨むれば、 「いとうたてもあるわ ざかな。何に聞き入れつらむ」と悔しくむつかしけれど、こ しらへて出だしてむと思して、他人と思ひわきたまふまじき さまにかすめつつ語らひたまへる心ばへなど、いとあはれ なり。  宮は、教へきこえつるままに、一夜の戸口に寄りて、扇を 鳴らしたまへば、弁参りて導ききこゆ。さきざきも馴れにけ る道のしるべ、をかしと思しつつ入りたまひぬるをも姫宮は 知りたまはで、こしらへ入れてむ、と思したり。をかしくも いとほしくもおぼえて、内々に心も知らざりける、恨みおか れんも、罪避りどころなき心地すべければ、 「宮の慕ひた まひつれば、え聞こえいなびで、ここにおはしつる、音もせ

でこそ紛れたまひぬれ。このさかしだつめる人や、語らはれ たてまつりぬらむ。中空に人わらへにもなりはべりぬべきか な」
とのたまふに、いますこし思ひ寄らぬ事の、目もあやに 心づきなくなりて、 「かく、よろづにめづらかなりける御- 心のほども知らで、言ふかひなき心幼さも見えたてまつりに ける怠りに、思し侮るにこそは」と、言はむ方なく思ひたま へり。 「今は言ふかひなし。ことわりは、かへすがへす聞こえ させてもあまりあらば、抓みも捻らせたまへ。やむごとなき 方に思し寄るめるを、宿世などいふめるもの、さらに心にか なはぬものにはべるめれば、かの御心ざしはことにはべりけ るを、いとほしく思ひたまふるに、かなはぬ身こそ置き所な く心憂くはべりけれ。なほ、いかがはせむに思し弱りね。こ の障子の固めばかりいと強きも、まことにもの清く推しはか りきこゆる人もはべらじ。しるべと誘ひたまへる人の御心に

も、まさにかく胸ふたがりて明かすらむとは思しなむや」
と て、障子をもひき破りつべき気色なれば、いはむ方なく心づ きなけれど、こしらへむと思ひしづめて、 「こののたまふ 宿世といふらむ方は、目にも見えぬことにて、いかにもいか にも思ひたどられず、知らぬ涙のみ霧りふたがる心地してな む。こはいかにもてなしたまふぞと、夢のやうにあさましき に、後の世の例に言ひ出づる人もあらば、昔物語などに、こ とさらにをこめきて作り出でたる物の譬にこそはなりぬべか めれ。かく思しかまふる心のほどをも、いかなりけるとかは 推しはかりたまはむ。なほ、いとかく、おどろおどろしく心- 憂く、なとり集めまどはしたまひそ。心より外にながらへば、 すこし思ひのどまりて聞こえむ。心地もさらにかきくらすや うにて、いと悩ましきを、ここにうち休まむ、ゆるしたまへ」 といみじくわびたまへば、さすがにことわりをいとよくのた まふが心恥づかしくらうたくおぼえて、 「あが君、御心に

従ふことのたぐひなければこそ、かくまでかたくなしくなり はべれ。いひ知らず憎くうとましきものに思しなすめれば、 聞こえむ方なし。いとど世に跡とむべくなむおぼえぬ」
とて、 「さらば、隔てながらも聞こえさせむ。ひたぶるになうち 棄てさせたまひそ」とて、ゆるしたてまつりたまへれば、這 ひ入りて、さすがに入りもはてたまはぬを、いとあはれと思 ひて、 「かばかりの御けはひを慰めにて明かしはべらむ。 ゆめゆめ」と聞こえて、うちもまどろまず、いとどしき水の 音に目も覚めて、夜半の嵐に、山鳥の心地して明かしかねた まふ。  例の、明けゆくけはひに、鐘の声など聞こゆ。いぎたなく て出でたまふべき気色もなきよ、と心やましく、声づくりた まふも、げにあやしきわざなり。    「しるべせしわれやかへりてまどふべき心もゆかぬあ   けぐれの道

かかる例、世にありけむや」
とのたまへば、   かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にま  どはば とほのかにのたまふを、いと飽かぬ心地すれば、 「いかに。 こよなく隔たりてはべるめれば、いとわりなうこそ」など、 よろづに恨みつつ、ほのぼのと明けゆくほどに、昨夜の方よ り出でたまふなり。いとやはらかにふるまひなしたまへる、 匂ひなど、艶なる御心げさうには、いひ知らずしめたまへり。 ねび人どもは、いとあやしく心得がたく思ひまどはれけれど、 さりともあしざまなる御心あらむやは、と慰めたり。  暗きほどにと、急ぎ帰りたまふ。道のほども、帰るさはい と遙けく思されて、心やすくもえ行き通はざらむことのかね ていと苦しきを、 「夜をや隔てん」と思ひなやみたまふなめ り。まだ人騒がしからぬ朝のほどにおはし着きぬ。廊に御車 寄せて下りたまふ。異様なる女車のさまして隠ろへ入りたま

ふに、みな笑ひたまひて、 「おろかならぬ宮仕の御心ざし、 となむ思ひたまふる」と申したまふ。しるべのをこがましさ を、いとねたくて愁へも聞こえたまはず。 匂宮の後朝の文 大君中の君に返事させる 宮は、いつしかと御文奉りたまふ。山里に は、誰も誰も現の心地したまはず思ひ乱れ たまへり。さまざまに思しかまへけるを色 にも出だしたまはざりけるよと、うとましくつらく姉宮をば 思ひきこえたまひて、目も見あはせたてまつりたまはず。知 らざりしさまをも、さはさはと はえ明らめたまはで、ことわり に心苦しく思ひきこえたまふ。 人々も、 「いかにはべりし事に か」など、御気色見たてまつれ ど、思しほれたるやうにて頼も し人のおはすれば、あやしきわ

ざかなと思ひあへり。御文もひきときて見せたてまつりたま へど、さらに起き上りたまはねば、 「いと久しくなりぬ」と、 御使わびけり。   世のつねに思ひやすらむ露ふかき道のささ原分けて  来つるも 書き馴れたまへる墨つきなどのことさらに艶なるも、おほか たにつけて見たまひしはをかしくおぼえしを、うしろめたく もの思はしくて、我さかし人にて聞こえむもいとつつましけ れば、まめやかにあるべきやうをいみじくせめて書かせたて まつりたまふ。紫苑色の細長一襲に三重襲の袴具して賜ふ。 御使苦しげに思ひたれば、包ませて供なる人になむ贈らせた まふ。ことごとしき御使にもあらず、例奉れたまふ上童なり。 ことさらに、人にけしき漏らさじと思しければ、昨夜のさか しがりし老人のしわざなりけりと、ものしくなむ聞こしめし ける。

 その夜も、かのしるべ誘ひたまへど、 「冷泉院に必ずさ ぶらふべきことはべれば」とて、とまりたまひぬ。例の、事 にふれてすさまじげに世をもてなすと、憎く思す。 大君、中の君をなだめて匂宮を迎えさせる いかがはせむ、本意ならざりし事とて、お ろかにやは、と思ひ弱りたまひて、御しつ らひなどうちあはぬ住み処のさまなれど、 さる方にをかしくしなして待ちきこえたまひけり。遙かなる 御中道を、急ぎおはしましたりけるも、うれしきわざなるぞ、 かつはあやしき。  正身は、我にもあらぬさまにてつくろはれたてまつりたま ふままに、濃き御衣の袖のいといたく濡るれば、さかし人も うち泣きたまひつつ、 「世の中に久しくもとおぼえはべら ねば、明け暮れのながめにもただ御ことをのみなん心苦しく 思ひきこゆるに、この人々も、よかるべきさまの事と聞きに くきまで言ひ知らすめれば、年経たる心どもには、さりとも

世のことわりをも知 りたらむ、はかばか しくもあらぬ心ひと つを立ててかくての みやは見たてまつら む、と思ひなるやう もありしかど、ただ 今、かく、思ひあへず、恥づかしき事どもに乱れ思ふべくは、 さらに思ひかけはべらざりしに、これや、げに、人の言ふめ るのがれがたき御契りなりけん。いとこそ苦しけれ。すこし 思し慰みなむに、知らざりしさまをも聞こえん。憎しとな思 し入りそ。罪もぞ得たまふ」
と御髪を撫でつくろひつつ聞こ えたまへば、答へもしたまはねど、さすがに、かく思しのた まふが、げにうしろめたくあしかれとも思しおきてじを、人 わらへに見苦しきことそひて、見あつかはれたてまつらむが

いみじさをよろづに思ひゐたまへり。  さる心もなく、あきれたまへりしけはひだになべてならず をかしかりしを、まいてすこし世の常になよびたまへるは、 御心ざしもまさるに、たはやすく通ひたまはざらむ山道の遙 けさも胸痛きまで思して、心深げに語らひ頼めたまへど、あ はれともいかにとも思ひわきたまはず。言ひ知らずかしづく ものの姫君も、すこし世の常の人げ近く、親せうとなどいひ つつ、人のたたずまひをも見馴れたまへるは、ものの恥づか しさも恐ろしさもなのめにやあらむ、家にあがめきこゆる人 こそなけれ、かく山深き御あたりなれば、人に遠くもの深く てならひたまへる心地に、思ひかけぬありさまのつつましく 恥づかしく、何ごとも世の人に似ずあやしく田舎びたらむか し、とはかなき御答へにても言ひ出でん方なくつつみたまへ り。さるは、この君しもぞ、らうらうじくかどある方のにほ ひはまさりたまへる。 三日夜婚儀の用意 薫来たらず贈物あり

「三日に当る夜、餅なむまゐる」と人々の 聞こゆれば、ことさらにさるべき祝の事に こそはと思して、御前にてせさせたまふも たどたどしく、かつは大人になりておきてたまふも、人の見 るらむこと憚られて、面うち赤めておはするさま、いとをか しげなり。このかみ心にや、のどかに気高きものから、人の ためあはれに情々しくぞおはしける。  中納言殿より、 「昨夜、参らむと思たまへしかど、宮仕の 労もしるしなげなる世に、思たまへ恨みてなむ。今宵は雑役 もやと思うたまへれど、宿直所のはしたなげにはべりし乱り 心地いとどやすからで、やすらはれはべる」と、陸奥国紙に 追ひつぎ書きたまひて、設けの物どもこまやかに、縫ひなど もせざりける、いろいろおし巻きなどしつつ、御衣櫃あまた 懸籠入れて、老人のもとに、 「人々の料に」とて賜へり。宮 の御方にさぶらひけるに従ひて、いと多くもえとり集めたま

はざりけるにやあらむ、ただなる絹綾など下には入れ隠しつ つ、御料と思しき二領いときよらにしたるを。単衣の御衣の 袖に、古代のことなれど、   さよ衣きてなれきとはいはずともかごとばかりはかけ  ずしもあらじ と、おどしきこえたまへり。  こなたかなたゆかしげなき御ことを、恥づかしくいとど見 たまひて、御返りもいかがは聞こえん、と思しわづらふほど、 御使、かたへは、逃げ隠れにけり。あやしき下人をひかへて ぞ御返り賜ふ。    へだてなき心ばかりは通ふともなれし袖とはかけじ   とぞ思ふ 心あわたたしく思ひ乱れたまへるなごりにいとどなほなほし きを、思しけるままと待ち見たまふ人は、ただあはれにぞ思 ひなされたまふ。 匂宮参内 母宮の諫めに背き宇治に行く

宮は、その夜、内裏に参りたまひて、えま かでたまふまじげなるを、人知れず御心も そらにて思し嘆きたるに、中宮、 「なほか く独りおはしまして、世の中にすいたまへる御名のやうやう 聞こゆる、なほいとあしきことなり。何ごとももの好ましく 立てたる心なつかひたまひそ。上もうしろめたげに思しのた まふ」と、里住みがちにおはしますを諫めきこえたまへば、 いと苦しと思して、御宿直所に出でたまひて、御文書きて奉 れたまへる、なごりもいたくうちながめておはしますに、中- 納言の君参りたまへり。  そなたの心寄せと思せば、例よりもうれしくて、 「いか がすべき。いとかく暗くなりぬめるを、心も乱れてなむ」と、 嘆かしげに思したり。よく御気色を見たてまつらむと思して、 「日ごろ経てかく参りたまへるを、今宵さぶらはせたまは で急ぎまかでたまひなむ、いとどよろしからぬことにや思し

きこえさせたまはん。台盤所の方にて承りつれば、人知れず、 わづらはしき宮仕のしるしに、あいなき勘当やはべらむと、 顔の色違ひはべりつる」
と申したまへば、 「いと聞きにく くぞ思しのたまふや。多くは人のとりなすことなるべし。世 に咎めあるばかりの心は何ごとにかはつかふらむ。ところせ き身のほどこそ、なかなかなるわざなりけれ」とて、まこと にいとはしくさへ思したり。いとほしく見たてまつりたまひ て、 「同じ御騒がれにこそはおはすなれ。今宵の罪にはか はりきこえさせて、身をもいたづらになしはべりなむかし。 木幡の山に馬はいかがはべるべき。いとどものの聞こえや、 障りどころなからむ」と聞こえたまへば、ただ暮れに暮れて 更けにける夜なれば、思しわびて、御馬にて出でたまひぬ。 「御供にはなかなか仕うまつらじ。御後見を」とて、この 君は内裏にさぶらひたまふ。 薫、中宮に対面 女一の宮を思うも慎む

中宮の御方に参りたまへれば、 「宮は出 でたまひぬなり。あさましくいとほしき御 さまかな。いかに人見たてまつるらむ。上- 聞こしめしては、諫めきこえぬが言ふかひなき、と思しのた まふこそわりなけれ」とのたまはす。あまた宮たちのかくお となびととのひたまへど、大宮は、いよいよ若くをかしきけ はひなんまさりたまひける。  女一の宮も、かくぞおはしますべかめる、いかならむをり に、かばかりにてももの近く御声をだに聞きたてまつらむ、 とあはれにおぼゆ。 「すいたる人の、思ふまじき心つかふら むも、かやうなる御仲らひの、さすがにけ遠からず入り立ち て心にかなはぬをりの事ならむかし。わが心のやうに、ひが ひがしき心のたぐひやは、また世にあむべかめる。それに、 なほ動きそめぬるあたりは、えこそ思ひ絶えね」など思ひゐ たまへり。さぶらふかぎりの女房の容貌心ざま、いづれとな

くわろびたるなく、めやすくとりどりにをかしき中に、あて にすぐれて目にとまるあれど、さらにさらに乱れそめじの心 にて、いときすくにもてなしたまへり。ことさらに見えしら がふ人もあり。おほかた恥づかしげにもてしづめたまへるあ たりなれば、うはべこそ心ばかりもてしづめたれ、心々なる 世の中なりければ、色めかしげにすすみたる下の心漏りて見 ゆるもあるを、さまざまにをかしくもあはれにもあるかなと、 立ちてもゐても、ただ常なきありさまを思ひありきたまふ。 匂宮の来訪を女房ども喜ぶ 大君の心境 かしこには、中納言殿のことごとしげに言 ひなしたまへりつるを、夜更くるまでおは しまさで、御文のあるを、さればよ、と胸 つぶれておはするに、夜半近くなりて、荒ましき風のきほひ に、いともなまめかしくきよらにて、匂ひおはしたるも、い かがおろかにおぼえたまはむ。正身もいささかうちなびきて、 思ひ知りたまふことあるべし。いみじくをかしげにさかりと

見えて、ひきつくろひたまへるさまは、ましてたぐひあらじ はや、とおぼゆ。さばかりよき人を多く見たまふ御目にだに、 けしうはあらず、容貌よりはじめて、多く近まさりしたりと 思さるれば、山里の老人どもは、まして口つき憎げにうち笑 みつつ、 「かくあたらしき御ありさまを、なのめなる際の 人の見たてまつりたまはましかば、いかに口惜しからまし。 思ふやうなる御宿世」と聞こえつつ、姫宮の御心を、あやし くひがひがしくもてなしたまふを、もどき口ひそみきこゆ。  さかり過ぎたるさまどもに、あざやかなる花のいろいろ、 似つかはしからぬをさし縫ひつつ、ありつかずとりつくろひ たる姿どもの、罪ゆるされたるもなきを見わたされたまひて、 姫宮、 「我もやうやうさかり過ぎぬる身ぞかし。鏡を見れば、 痩せ痩せになりもてゆく。おのがじしは、この人どもも、我 あしとやは思へる。後手は知らず顔に、額髪をひきかけつつ 色どりたる顔づくりをよくしてうちふるまふめり。わが身に

ては、まだいとあれがほどにはあらず、目も鼻もなほしとお ぼゆるは心のなしにやあらむ」
とうしろめたく、見出だして 臥したまへり。 「恥づかしげならむ人に見えむことは、いよ いよかたはらいたく、いま一二年あらば衰へまさりなむ。は かなげなる身のありさまを」と、御手つきの細やかにか弱く あはれなるをさし出でても、世の中を思ひつづけたまふ。 中の君、匂宮の情をうけてわが前途を悩む 宮は、あり難かりつる御暇のほどを思しめ ぐらすに、なほ心やすかるまじき事にこそ は、といと胸ふたがりておぼえたまひけり。 大宮の聞こえたまひしさまなど語りきこえたまひて、 「思 ひながらとだえあらむを、いかなるにか、と思すな。夢にて もおろかならむに、かくまでも参り来まじきを、心のほどや いかがと疑ひて思ひ乱れたまはむが心苦しさに、身を棄てて なむ。常にかくはえまどひ歩かじ。さるべきさまにて、近く 渡したてまつらむ」と、いと深く聞こえたまへど、絶え間あ

るべく思さるらむは、音に聞きし御心のほどしるきにや、と 心おかれて、わが御ありさまから、さまざまもの嘆かしくて なむありける。  明けゆくほどの空に、妻戸おし開けたまひて、もろともに 誘ひ出でて見たまへば、霧りわたれるさま、所がらのあはれ 多くそひて、例の、柴積む舟のかすかに行きかふ跡の白波、 目馴れずもある住まひのさまかなと、色なる御心にはをかし く思しなさる。山の端の光やうやう見ゆるに、女君の御容貌 のまほにうつくしげにて、限りなくいつきすゑたらむ姫宮も かばかりこそはおはすべかめれ、思ひなしの、わが方ざまの いといつくしきぞかし、こまやかなるにほひなど、うちとけ て見まほしく、なかなかなる心地す。水の音なひなつかしか らず、宇治橋のいともの古りて見えわたさるるなど、霧晴れ ゆけば、いとど荒ましき岸のわたりを、 「かかる所にいか で年を経たまふらむ」など、うち涙ぐまれたまへるを、いと

恥づかしと聞きたまふ。  男の御さまの、限りなくなまめかしくきよらにて、この世 のみならず契り頼めきこえたまへば、思ひ寄らざりしことと は思ひながら、なかなか、かの目馴れたりし中納言の恥づか しさよりは、とおぼえたまふ。かれは思ふ方異にて、いとい たく澄みたる気色の、見え にくく恥づかしげなりしに、 よそに思ひきこえしは、ま してこよなく遙かに、一行 書き出でたまふ御返り事だ につつましくおぼえしを、 久しくとだえたまはむは、 心細からむ、と思ひならる るも、我ながらうたて、と 思ひ知りたまふ。

 人々いたく声づくりもよほしきこゆれば、京におはしまさ むほど、はしたなからぬほどに、といと心あわたたしげにて、 心より外ならむ夜離れをかへすがへすのたまふ。   中絶えむものならなくにはし姫のかたしく袖や夜半   にぬらさん 出でがてに、たち返りつつやすらひたまふ。   絶えせじのわがたのみにや宇治橋のはるけき中を  待ちわたるべき 言には出でねど、もの嘆かしき御けはひ限りなく思されけり。  若き人の御心にしみぬべく、たぐひ少なげなる朝明の姿を 見送りて、なごりとまれる御移り香なども、人知れずものあ はれなるは、ざれたる御心かな。今朝ぞ、もののあやめも見 ゆるほどにて、人々のぞきて見たてまつる。 「中納言殿は、 なつかしく恥づかしげなるさまぞそひたまへりける。思ひな しのいま一際にや、この御さまは、いとことに」などめでき

こゆ。 匂宮の訪れ途絶える 大君薫心を痛める 道すがら、心苦しかりつる御気色を思し出 でつつ、たちも返りなまほしく、さまあし きまで思せど、世の聞こえを忍びて帰らせ たまふほどに、えたはやすくも紛れさせたまはず。御文は、 明くる日ごとに、あまた返りづつ奉らせたまふ。おろかには あらぬにや、と思ひながら、おぼつかなき日数のつもるを、 いと心づくしに、見じと思ひしものを、身にまさりて心苦し くもあるかなと、姫宮は思し嘆かるれど、いとどこの君の思 ひ沈みたまはむにより、つれなくもてなして、みづからだに、 なほ、かかること思ひ加へじ、といよいよ深く思す。  中納言の君も、待遠にぞ思すらむかし、と思ひやりて、わ が過ちにいとほしくて、宮を聞こえおどろかしつつ、絶えず 御気色を見たまふに、いといたく思ほし入れたるさまなれば、 さりとも、とうしろやすかりけり。 薫、匂宮と宇治を訪れ、大君と対面する

九月十日のほどなれば、野山のけしきも思 ひやらるるに、時雨めきてかきくらし、空 のむら雲おそろしげなる夕暮、宮いとど静- 心なくながめたまひて、いかにせむと、御心ひとつを出でた ちかねたまふ。をり推しはかりて参りたまへり。 「ふるの 山里いかならむ」と、おどろかしきこえたまふ。いとうれし、 と思して、もろともに誘ひたまへば、例の、ひとつ御車にて おはす。  分け入りたまふままにぞ、まいてながめたまふらむ心の中 いとど推しはかられたまふ。道のほども、ただこのことの心- 苦しきを語らひきこえたまふ。黄昏時のいみじく心細げなる に、雨冷やかにうちそそきて、秋はつるけしきのすごきに、 うちしめり濡れたまへる匂ひどもは、世のものに似ず艶にて、 うち連れたまへるを、山がつどもは、いかが心まどひもせざ らむ。

 女ばら、日ごろうちつぶやきつるなごりなく笑みさかえつ つ、御座ひきつくろひなどす。京に、さるべき所どころに行 き散りたるむすめども、姪だつ人二三人尋ね寄せて参らせた り。年ごろ侮りきこえける心あさき人々、めづらかなる客人 と思ひおどろきたり。姫宮も、をりうれしく思ひきこえたま ふに、さかしら人のそひたまへるぞ、恥づかしくもありぬべ く、なまわづらはしく思へど、心ばへののどかにもの深くも のしたまふを、げに、人はかくはおはせざりけり、と見あは せたまふに、あり難し、と思ひ知らる。  宮を、所につけてはいとことにかしづき入れたてまつりて、 この君は、主方に心やすくもてなしたまふものから、まだ客- 人居のかりそめなる方に出だし放ちたまへれば、いとからし、 と思ひたまへり。恨みたまふもさすがにいとほしくて、物越 しに対面したまふ。 「戯れにくくもあるかな。かくてのみ や」と、いみじく恨みきこえたまふ。やうやうことわり知り

たまひにたれど、人の御上にてもものをいみじく思ひ沈みた まひて、いとどかかる方をうきものに思ひはてて、 「なほひ たぶるに、いかでかくうちとけじ。あはれと思ふ人の御心も、 必ずつらしと思ひぬべきわざにこそあめれ。我も人も見おと さず、心違はでやみにしがな」と思ふ心づかひ深くしたまへ り。宮の御ありさまなども問ひきこえたまへば、かすめつつ、 さればよ、と思しくのたまへば、いとほしくて、思したる御 さま、気色を見ありくやうなど語りきこえたまふ。  例よりは心うつくしく語らひて、 「なほかくもの思ひ加 ふるほど過ごし、心地もしづまりて聞こえむ」とのたまふ。 人憎く、け遠くはもて離れぬものから、障子の固めもいと 強し。しひて破らむをば、つらくいみじからむ、と思したれ ば、思さるるやうこそはあらめ、軽々しく異ざまになびきた まふこと、はた、世にあらじと、心のどかなる人は、さいへ ど、いとよく思ひしづめたまふ。 「ただいとおぼつかなく、

物隔てたるなむ、胸あかぬ心地するを。ありしやうにて聞こ えむ」
と責めたまへど、 「常よりもわが面影に恥づるころ なれば、うとましと見たまひてむも、さすがに苦しきは、い かなるにか」と、ほのかにうち笑ひたまへるけはひなど、あ やしくなつかしくおぼゆ。 「かかる御心にたゆめられたて まつりて、つひにいかになるべき身にか」と嘆きがちにて、 例の、遠山鳥にて明けぬ。宮は、まだ旅寝なるらむとも思さ で、 「中納言の、主方に心のどかなる気色こそうらやまし けれ」とのたまへば、女君、あやしと聞きたまふ。 匂宮、中の君を迎えとる方途に苦慮する わりなくておはしましては、ほどなく帰り たまふが飽かず苦しきに、宮ものをいみじ く思したり。御心の中を知りたまはねば、 女方には、またいかならむ、人わらへにや、と思ひ嘆きたま へば、げに心づくしに苦しげなるわざかな、と見ゆ。京にも、 隠ろへて渡りたまふべき所もさすがになし。六条院には、左

の大殿片つ方に住みたまひて、さばかりいかでと思したる 六の君の御ことを思し寄らぬに、なま恨めしと思ひきこえた まふべかめり。すきずきしき御さま、とゆるしなく譏りきこ えたまひて、内裏わたりにも愁へきこえたまふべかめれば、 いよいよおぼえなくて出だし据ゑたまはむも憚ることいと多 かり。なべてに思す人の際は、宮仕の筋にて、なかなか心や すげなり。さやうの並々には思されず、もし世の中移りて、 帝后の思しおきつるままにもおはしまさば、人より高きさ まにこそなさめなど、ただ今は、いとはなやかに心にかかり たまへるままに、もてなさむ方なく、苦しかりけり。 薫大君を迎える用意 中の君のために尽力 中納言は、三条宮造りはてて、さるべきさ まにて渡したてまつらむ、と思す。げに、 ただ人は心やすかりけり。かくいと心苦し き御気色ながら、やすからず忍びたまふからに、かたみに思 ひ悩みたまふべかめるも、心苦しくて、 「忍びてかく通ひた

まふよしを、中宮などにも漏らし聞こしめさせて、しばしの 御騒がれはいとほしくとも、女方の御ためは咎もあらじ。い と、かく、夜をだに明かしたまはぬ苦しげさよ。いみじくも てなしてあらせたてまつらばや」
など思ひて、あながちにも 隠ろへず。  更衣など、はかばかしく誰かはあつかふらむなど思して、 御帳の帷子、壁代など、三条宮造りはてて、渡りたまはむ心 まうけにしおかせたまへ るを、 「まづさるべき 用なむ」など、いと忍び て聞こえたまひて、奉れ たまふ。さまざまなる女- 房の装束、御乳母などに ものたまひつつ、わざと もせさせたまひけり。 匂宮、紅葉狩を口実に宇治訪問を計る

十月朔日ごろ、網代もをかしきほどならむ、 とそそのかしきこえたまひて、紅葉御覧ず べく申しさだめたまふ。親しき宮人ども、 殿上人の睦ましく思すかぎり、いと忍びて、と思せど、とこ ろせき御勢なれば、おのづから事ひろごりて、左の大殿の 宰相中将参りたまふ。さてはこの中納言ばかりぞ、上達部は 仕うまつりたまふ。ただ人は多かり。  かしこには、 「論なく中宿したまはむを、さるべきさま に思せ。さきの春も、花見に尋ね参り来しこれかれ、かかる たよりに事寄せて、時雨の紛れに見たてまつりあらはすやう もぞはべる」など、こまやかに聞こえたまへり。御簾かけか へ、ここかしこかき払ひ、岩隠れに積れる紅葉の朽葉すこし はるけ、遣水の水草払はせなどぞしたまふ。よしあるくだも の、肴など、さるべき人なども奉れたまへり。かつはゆかし げなけれど、いかがはせむ、これもさるべきにこそは、と思

ひゆるして、心まうけしたまへり。  舟にて上り下り、おもしろく遊びたまふも聞こゆ。ほのぼ のありさま見ゆるを、そなたに立ち出でて、若き人々見たて まつる。正身の御ありさまはそれと見わかねども、紅葉を葺 きたる舟の飾の錦と見ゆるに、声々吹き出づる物の音ども、 風につきておどろおどろしきまでおぼゆ。世の人のなびきか しづきたてまつるさま、かく忍びたまへる道にも、いとこと にいつくしきを見たまふにも、げに七夕ばかりにても、かか る彦星の光をこそ待ち出でめ、とおぼえたり。  文作らせたまふべき心まうけに、博士などもさぶらひけり。 黄昏時に、御舟さし寄せて遊びつつ文作りたまふ。紅葉を薄 く濃くかざして、海仙楽といふものを吹きて、おのおの心ゆ きたる気色なるに、宮は、あふみの海の心地して、をちかた 人の恨みいかにとのみ御心そらなり。時につけたる題出だし て、うそぶき誦じあへり。 行楽の従者多く、八の宮邸をよそに帰京

人のまよひすこししづめておはせむ、と中- 納言も思して、さるべきやうに聞こえたま ふほどに、内裏より、中宮の仰せ言にて、 宰相の御兄の衛門督、ことごとしき随身ひき連れてうるはし きさまして参りたまへり。かうやうの御歩きは、忍びたまふ とすれどおのづから事ひろごりて、後の例にもなるわざなる を、重々しき人数あまたもなくて、にはかにおはしましにけ るを聞こしめしおどろきて、殿上人あまた具して参りたるに はしたなくなりぬ。宮も中納言も、苦し、と思して、物の興 もなくなりぬ。御心の中をば知らず、酔ひ乱れて遊び明か しつ。  今日は、かくて、と思すに、また、宮の大夫、さらぬ殿上- 人などあまた奉りたまへり。心あわたたしく口惜しくて、帰 りたまはむそらなし。かしこには御文をぞ奉れたまふ。をか しやかなることもなく、いとまめだちて、思しけることども

をこまごまと書きつづけたまへれど、人目しげく騒がしから むにとて、御返りなし。数ならぬありさまにては、めでたき 御あたりにまじらはむ、かひなきわざかな、といとど思し知 りたまふ。よそにて隔たる月日は、おぼつかなさもことわり に、さりともなど慰めたまふを、近きほどにののしりおはし て、つれなく過ぎたまふなむ、つらくも口惜しくも思ひ乱れ たまふ。  宮は、まして、いぶせくわりなし、と思すこと限りなし。 網代の氷魚も心寄せたてまつりて、いろいろの木の葉にかき まぜもてあそぶを、 下人などはいとをか しき事に思へれば、 人に従ひつつ、心ゆ く御歩きに、みづか らの御心地は、胸の

みつとふたがりて、空をのみながめたまふに、この古宮の梢 は、いとことにおもしろく、常磐木に這ひかかれる蔦の色な ども、もの深げに見えて、遠目さへすごげなるを、中納言の 君も、なかなか頼めきこえけるを、愁はしきわざかな、とお ぼゆ。  去年の春、御供なりし君たちは、花の色を思ひ出でて、後 れてここにながめたまふらむ心細さを言ふ。かく忍び忍びに 通ひたまふ、とほの聞きたるもあるべし。心知らぬもまじり て、おほかたに、とやかくやと、人の御上は、かかる山隠れ なれど、おのづから聞こゆるものなれば、 「いとをかしげに こそものしたまふなれ」「箏の琴上手にて、故宮の明け暮れ 遊びならはしたまひければ」など、口々言ふ。宰相中将、    いつぞやも花のさかりにひとめ見し木の本さへや秋はさ   びしき 主方と思ひて言へば、中納言、

  桜こそおもひ知らすれ咲きにほふ花ももみぢもつねな  らぬ世を 衛門督、    いづこより秋はゆきけむ山里の紅葉のかげは過ぎうきも   のを 宮の大夫、    見し人もなき山里のいはがきにこころながくも這へるく  ずかな 中に老いしらひて、うち泣きたまふ。親王の若くおはしける 世のことなど思ひ出づるなめり。宮、   秋はててさびしさまさる木のもとを吹きなすぐしそ  峰の松風 とて、いといたく涙ぐみたまへるを、ほのかに知る人は、 「げに深く思すなりけり。今日のたよりを過ぐしたまふ心苦 しさ」と見たてまつる人あれど、ことごとしくひきつづきて、

えおはしまし寄らず。作りける文どもの、おもしろき所どこ ろうち誦じ、やまと歌もことにつけて多かれど、かうやうの 酔の紛れに、ましてはかばかしきことあらむやは。片はし書 きとどめてだに見苦しくなむ。 大君、匂宮を恨み、結婚拒否の念つのる かしこには、過ぎたまひぬるけはひを、遠 くなるまで聞こゆる先駆の声々、ただなら ずおぼえたまふ。心まうけしつる人々も、 いと口惜しと思へり。姫宮は、まして、 「なほ音に聞く月草 の色なる御心なりけり。ほのかに人の言ふを聞けば、男とい ふものは、そら言をこそいとよくすなれ。思はぬ人を思ふ顔 にとりなす言の葉多かるものと、この人数ならぬ女ばらの、 昔物語に言ふを、さるなほなほしき中にこそは、けしからぬ 心あるもまじるらめ、何ごとも筋ことなる際になりぬれば、 人の聞き思ふことつつましく、ところせかるべきものと思ひ しは、さしもあるまじきわざなりけり。あだめきたまへるや

うに、故宮も聞き伝へたまひて、かやうにけ近きほどまでは 思し寄らざりしものを、あやしきまで心深げにのたまひわた り、思ひの外に見たてまつるにつけてさへ、身のうさを思ひ そふるが、あぢきなくもあるかな。かく見劣りする御心を、 かつはかの中納言もいかに思ひたまふらむ。ここにもことに 恥づかしげなる人はうちまじらねど、おのおの思ふらむが人 わらへにをこがましきこと」
と思ひ乱れたまふに、心地も違 ひて、いと悩ましくおぼえたまふ。  正身は、たまさかに対面したまふ時、限りなく深きことを 頼め契りたまへれば、さりともこよなうは思し変らじと、お ぼつかなきも、わりなき障りこそはものしたまふらめと、心 の中に思ひ慰めたまふ方あり。ほど経にけるが思ひいれられ たまはぬにしもあらぬに、なかなかにてうち過ぎたまひぬる を、つらくも口惜しくも思ほゆるに、いとどものあはれなり。 忍びがたき御気色なるを、人並々にもてなして、例の、人め

きたる住まひならば、かうやうにもてなしたまふまじきをな ど、姉宮はいとどしくあはれと見たてまつりたまふ。 「我も、世にながらへば、かうやうなること見つべきにこそ はあめれ。中納言の、とざまかうざまに言ひ歩きたまふも、 人の心を見むとなりけり。心ひとつにもて離れて思ふとも、 こしらへやる限りこそあれ。ある人のこりずまに、かかる筋 のことをのみ、いかで、と思ひためれば、心より外に、つひ にもてなされぬべかめり。これこそは、かへすがへす、さる 心して世を過ぐせ、とのたまひおきしは、かかる事もやあら むの諫めなりけり。さもこそはうき身どもにて、さるべき人 にも後れたてまつらめ。やうのものと、人わらへなる事をそ ふるありさまにて、亡き御影をさへ悩ましたてまつらむがい みじさ。なほ我だに、さるもの思ひに沈まず、罪などいと深 からぬさきに、いかで亡くなりなむ」と思し沈むに、心地もま ことに苦しければ、物もつゆばかりまゐらず、ただ亡からむ

後のあらましごとを、明け暮れ思ひつづけたまふに、もの心- 細くて、この君を見たてまつりたまふもいと心苦しく、 「我 にさへ後れたまひて、いかにいみじく慰む方なからむ。あた らしくをかしきさまを、明け暮れの見物にて、いかで人々し くも見なしたてまつらむ、と思ひあつかふをこそ、人知れぬ 行く先の頼みにも思ひつれ、限りなき人にものしたまふとも、 かばかり人わらへなる目を見てむ人の、世の中にたちまじり、 例の人ざまにて経たまはんは、たぐひ少なく心憂からむ」な ど思しつづくるに、言ふかひもなく、この世にはいささか思 ひ慰む方なくて過ぎぬべき身どもなめり、と心細く思す。 匂宮の禁足厳重となる 薫わが措置を後悔 宮は、たち返り、例のやうに忍びてと出で 立ちたまひけるを、内裏に、 「かかる御忍 び事により、山里の御歩きもゆくりかに思 したつなりけり。軽々しき御ありさまと、世人も下に譏り申 すなり」と、衛門督の漏らし申したまひければ、中宮も聞こ

しめし嘆き、上もいとどゆるさぬ御気色にて、 「おほかた心 にまかせたまへる御里住みのあしきなり」と、きびしきこと ども出で来て、内裏につとさぶらはせたてまつりたまふ。左 の大殿の六の君を承け引かず思したることなれど、おしたち て参らせたまふべくみな定めらる。  中納言殿聞きたまひて、あいなくものを思ひありきたまふ。 「わがあまり異様なるぞや。さるべき契りやありけむ、親王 のうしろめたしと思したりしさまもあはれに忘れがたく、こ の君たちの御ありさまけはひも、ことなる事なくて世に衰へ たまはむことの惜しくもおぼゆるあまりに、人々しくもてな さばや、とあやしきまでもてあつかはるるに、宮もあやにく にとりもちて責めたまひしかば、わが思ふ方は異なるに譲ら るるありさまもあいなくて、かくもてなしてしを。思へば、 悔しくもありけるかな。いづれもわがものにて見たてまつら むに、咎むべき人もなしかし」と、とり返すものならねど、

をこがましく心ひとつに思ひ乱れたまふ。  宮は、まして、御心にかからぬをりなく、恋しくうしろめ たしと思す。 「御心につきて思す人あらば、ここに参らせて、 例ざまにのどやかにもてなしたまへ。筋ことに思ひきこえた まへるに、軽びたるやうに人の聞こゆべかめるも、いとなむ 口惜しき」と、大宮は明け暮れ聞こえたまふ。 匂宮、女一の宮に戯れ、女房とも浮気する 時雨いたくしてのどやかなる日、女一の宮 の御方に参りたまへれば、御前に人多くも さぶらはず、しめやかに、御絵など御覧ず るほどなり。御几帳ばかり隔てて、御物語聞こえたまふ。限 りもなくあてに気高きものから、なよびかにをかしき御けは ひを、年ごろ二つなきものに思ひきこえたまひて、またこの 御ありさまになずらふ人世にありなむや、冷泉院の姫宮ばか りこそ、御おぼえのほど、内々の御けはひも心にくく聞こゆ れど、うち出でむ方もなく思しわたるに、かの山里人は、ら

うたげにあてなる方の劣りきこゆまじきぞかしなど、まづ思 ひ出づるにいとど恋しくて、慰めに、御絵どものあまた散り たるを見たまへば、をかしげなる女絵どもの、恋する男の住 まひなど書きまぜ、山里のをかしき家ゐなど、心々に世のあ りさま描きたるを、よそへらるること多くて、御目とまりた まへば、すこし聞こえたまひてかしこへ奉らむ、と思す。在- 五が物語描きて、妹に琴教へたるところの、「人の結ばん」 と言ひたるを見て、いかが思すらん、すこし近く参り寄りた まひて、 「いにしへの人も、さるべきほどは、隔てなくこ そならはしてはべりけれ。いとうとうとしくのみもてなさせ たまふこそ」と、忍びて聞こえたまへば、いかなる絵にかと 思すに、おし巻き寄せて、御前にさし入れたまへるを、うつ ぶして御覧ずるに、御髪のうちなびきてこぼれ出でたるかた そばばかり、ほのかに見たてまつりたまふが飽かずめでたく、 すこしももの隔てたる人と思ひきこえましかば、と思すに、

忍びがたくて、   若草のねみむものとは思はねどむすぼほれたる心地  こそすれ  御前なりつる人々は、この宮をばことに恥ぢきこえて、物 の背後に隠れたり。ことしもこそあれ、うたてあやしと思せ ば、ものものたまはず。ことわりにて、「うらなくものを」 と言ひたる姫君も、ざれて憎く思さる。紫の上の、とりわき てこの二ところをばならはしきこえたまひしかば、あまたの 御中に、隔てなく思ひかはしきこえたまへり。世になくかし づききこえたまひて、さぶらふ人々も、かたほにすこし飽か ぬところあるははしたなげなり。やむごとなき人の御むすめ などもいと多かり。御心の移ろひやすきは、めづらしき人々 にはかなく語らひつきなどしたまひつつ、かのわたりを思し 忘るるをりなきものから、訪れたまはで日ごろ経ぬ。 薫、大君の病を聞き、訪れて看護する

待ちきこえたまふ所は、絶え間遠き心地し て、なほかくなめり、と心細くながめたま ふに、中納言おはしたり。悩ましげにした まふ、と聞きて、御とぶらひなりけり。いと心地まどふばか りの御悩みにもあらねど、ことつけて、対面したまはず。 「おどろきながら、遙けきほどを参り来つるを。なほかの 悩みたまふらむ御あたり近く」と、切におぼつかながりきこ えたまへば、うちとけて住まひたまへる方の御簾の前に入れ たてまつる。いとかたはらいたきわざ、と苦しがりたまへど、 けにくくはあらで、御ぐしもたげ、御答へなど聞こえたまふ。  宮の、御心もゆかでおはし過ぎにしありさまなど語りきこ えたまひて、 「のどかに思せ。心焦られして、な恨みきこ えたまひそ」など教へきこえたまへば、 「ここには、とも かくも聞こえたまはざめり。亡き人の御諫はかかる事にこそ、 と見はべるばかりなむ、いとほしかりける」とて、泣きたま

ふ気色なり。いと心苦しく、我さへ恥づかしき心地して、 「世の中はとてもかくても、ひとつさまにて過ぐすこと難 くなむはべるを、いかなる事をも御覧じ知らぬ御心どもには、 ひとへに恨めしなど思すこともあらむを、強ひて思しのどめ よ。うしろめたくは、よにあらじ、となん思ひはべる」など、 人の御上をさへあつかふも、かつはあやしくおぼゆ。  夜々は、まして、いと苦しげにしたまひければ、うとき人 の御けはひの近きも、中の宮の苦しげに思したれば、 「な ほ、例の、あなたに」と人々聞こゆれど、 「まして、かく、 わづらひたまふほどのおぼつかなさを。思ひのままに参り来 て、出だし放ちたまへれば、いとわりなくなむ。かかるをり の御あつかひも、誰かははかばかしく仕うまつる」など、弁 のおもとに語らひたまひて、御修法どもはじむべきことのた まふ。いと見苦しく、ことさらにもいとはしき身を、と聞き たまへど、思ひ隈なくのたまはむもうたてあれば。さすがに、

ながらへよと思ひたまへる心ばへも、あはれなり。 翌朝、大君自ら薫を枕頭に招く またの朝に、 「すこしもよろしく思さる や。昨日ばかりにてだに聞こえさせむ」と あれば、 「日ごろ経ればにや、今日はい と苦しくなむ。さらば、こなたに」と言ひ出だしたまへり。 いとあはれに、いかにものしたまふべきにかあらむ、ありし よりはなつかしき御気色なるも、胸つぶれておぼゆれば、近 く寄りて、よろづのことを聞こえたまふ。 「苦しくてえ聞 こえず。すこしためらはむほどに」とて、いとかすかにあは れなるけはひを、限りなく心苦しくて、嘆きゐたまへり。さ すがに、つれづれとかくておはしがたければ、いとうしろめ たけれど、帰りたまふ。 「かかる御住まひはなほ苦しかり けり。所避りたまふに事よせて、さるべき所に移ろはしたて まつらむ」など聞こえおきて、阿闍梨にも、御祈祷心に入る べくのたまひ知らせて出でたまひぬ。 匂宮の縁談の噂を聞く 大君の嘆きまさる

この君の御供なる人の、いつしかと、ここ なる若き人を語らひ寄りたるありけり。お のがじしの物語に、 「かの宮の、御忍び歩 き制せられたまひて、内裏にのみ籠りおはしますこと。左の 大殿の姫君を、あはせたてまつりたまふべかなる、女方は年 ごろの御本意なれば、思しとどこほることなくて、年の内に ありぬべかなり。宮はしぶしぶに思して、内裏わたりにも、 ただすきがましき事に御心を入れて、帝后の御いましめに しづまりたまふべくもあらざめり。わが殿こそ、なほあやし く人に似たまはず、あまりまめにおはしまして、人にはもて 悩まれたまへ。ここにかく渡りたまふのみなむ、目もあやに、 おぼろけならぬこと、と人申す」など語りけるを、 「さこ そ言ひつれ」など、人々の中にて語るを聞きたまふに、いと ど胸ふたがりて、今は限りにこそあなれ、やむごとなき方に 定まりたまはぬほどの、なほざりの御すさびにかくまで思し

けむを、さすがに中納言 などの思はんところを思 して、言の葉のかぎり深 きなりけり、と思ひなし たまふに、ともかくも人 の御つらさは思ひ知られ ず、いとど身の置き所な き心地して、しをれ臥したまへり。  弱き御心地は、いとど世に立ちとまるべくもおぼえず、恥 づかしげなる人々にはあらねど、思ふらむところの苦しけれ ば、聞かぬやうにて寝たまへるを、姫宮、もの思ふ時のわざ と聞きし、うたた寝の御さまのいとらうたげにて、腕を枕に て寝たまへるに、御髪のたまりたるほどなど、あり難くうつ くしげなるを見やりつつ、親の諫めし言の葉も、かへすがへ す思ひ出でられたまひて悲しければ、 「罪深かなる底にはよ

も沈みたまはじ。いづくにもいづくにも、おはすらむ方に迎 へたまひてよ。かくいみじくもの思ふ身どもをうち棄てたま ひて、夢にだに見えたまはぬよ」
と思ひつづけたまふ。  夕暮の空のけしきいとすごくしぐれて、木の下吹き払ふ風 の音などに、たとへん方なく、来し方行く先思ひつづけられ て、添ひ臥したまへるさまあてに限りなく見えたまふ。白き 御衣に、髪は梳ることもしたまはでほど経ぬれど、迷ふ筋な くうちやられて、日ごろにすこし青みたまへるしも、なまめ かしさまさりて、ながめ出だしたまへるまみ額つきのほども、 見知らん人に見せまほし。  昼寝の君、風のいと荒きにおどろかされて起き上りたまへ り。山吹薄色などはなやかなる色あひに、御顔はことさらに 染めにほはしたらむやうに、いとをかしくはなばなとして、 いささかもの思ふべきさまもしたまへらず。 「故宮の夢 に見えたまへる、いともの思したる気色にて、このわたりに

こそほのめきたまひつれ」
と語りたまへば、いとどしく悲し さそひて、 「亡せたまひて後、いかで夢にも見たてまつら むと思ふを、さらにこそ見たてまつらね」とて、二ところな がらいみじく泣きたまふ。 「このごろ明け暮れ思ひ出でたて まつれば、ほのめきもやおはすらむ。いかで、おはすらむ所 に尋ね参らむ。罪深げなる身どもにて」と、後の世をさへ思 ひやりたまふ。外国にありけむ香の煙ぞ、いと得まほしく思 さるる。 匂宮の文来たる 姫君たち心々に読む いと暗くなるほどに、宮より御使あり。を りはすこしもの思ひ慰みぬべし。御方はと みにも見たまはず。 「なほ心うつくしく おいらかなるさまに聞こえたまへ。かくてはかなくもなりは べりなば、これよりなごりなき方に、もてなしきこゆる人も や出で来む、とうしろめたきを。まれにもこの人の思ひ出で きこえたまはむに、さやうなるあるまじき心つかふ人はえあ

らじ、と思へば、つらきながらなむなほ頼まれはべる」
と聞 こえたまへば、 「後らさむ、と思しけるこそ、いみじく はべれ」と、いよいよ顔をひき入れたまふ。 「限りあれば、 片時もとまらじと思ひしかど、ながらふるわざなりけり、と 思ひはべるぞや。明日知らぬ世の、さすがに嘆かしきも、誰 がため惜しき命にかは」とて、大殿油まゐらせて見たまふ。  例の、こまやかに書きたまひて、   ながむるは同じ雲ゐをいかなればおぼつかなさをそ   ふる時雨ぞ 「かく袖ひつる」などいふこともやありけむ、耳馴れにたる、 なほあらじごとと見るにつけても、恨めしさまさりたまふ。 さばかり世にあり難き御ありさま容貌を、いとど、いかで人 にめでられむと、好ましく艶にもてなしたまへれば、若き人 の心寄せたてまつりたまはむことわりなり。ほど経るにつけ ても恋しく、さばかりところせきまで契りおきたまひしを、

さりとも、いとかくてはやまじ、と思ひなほす心ぞ常にそひ ける。御返り、 「今宵参りなん」と聞こゆれば、これかれ そそのかしきこゆれば、ただ一言なん、   あられふる深山の里は朝夕にながむる空もかきく   らしつつ 匂宮雑事に紛れて、気にかけつつも訪れず かくいふは、神無月の晦日なりけり。月も 隔たりぬるよと、宮は静心なく思されて、 今宵今宵と思しつつ、障り多みなるほどに、 五節などとく出で来たる年にて、内裏わたりいまめかしく紛 れがちにて、わざともなけれど過ぐいたまふほどに、あさま しく待ち遠なり。はかなく人を見たまふにつけても、さるは 御心に離るるをりなし。左の大殿のわたりのこと、大宮も、 「なほさるのどやかなる御後見をまうけたまひて、その外に 尋ねまほしく思さるる人あらば、参らせて、重々しくもてな したまへ」と聞こえたまへど、 「しばし。さ思うたまふる

やうなむ」
聞こえいなびたまひて、まことにつらき目はいか でか見せむなど思す御心を知りたまはねば、月日にそへても のをのみ思す。 薫、重態の大君を看護する 大君薫を拒まず 中納言も、見しほどよりは軽びたる御心か な、さりともと思ひきこえけるもいとほし く心からおぼえつつ、をさをさ参りたまは ず。山里には、いかにいかに、ととぶらひきこえたまふ。こ の月となりては、すこしよろしくおはす、と聞きたまひける に、公私もの騒がしきころにて、五六日人も奉れたまは ぬに、いかならむ、とうちおどろかれたまひて、わりなき事 のしげさをうち棄てて、参でたまふ。  修法は、おこたりはてたまふまで、とのたまひおきけるを、 よろしくなりにけりとて、阿闍梨をも帰したまひければ、い と人少なにて、例の、老人出で来て御ありさま聞こゆ。 「そ こはかと痛きところもなく、おどろおどろしからぬ御悩みに、

物をなむさらに聞こしめさぬ。もとより、人に似たまはずあ えかにおはします中に、この宮の御事出で来にし後、いとど もの思したるさまにて、はかなき御くだものをだに御覧じ入 れざりしつもりにや、あさましく弱くなりたまひて、さらに 頼むべくも見えたまはず。世に心憂くはべりける身の命の長 さにて、かかる事を見たてまつれば、まづいかで先立ちきこ えなむ、と思ひたまへ入りはべり」
と、言ひもやらず泣くさ ま、ことわりなり。 「心憂く。などか、かくとも告げたま はざりける。院にも内裏にも、あさましく事しげきころにて、 日ごろもえ聞こえざりつるおぼつかなさ」とて、ありし方に 入りたまふ。御枕上近くてもの聞こえたまへど、御声もな きやうにて、え答へたまはず。 「かく重くなりたまふまで、 誰も誰も告げたまはざりけるが、つらくも。思ふにかひなき こと」と恨みて、例の、阿闍梨、おほかた世に験ありと聞こ ゆる人のかぎり、あまた請じたまふ。御修法読経、明くる日

よりはじめさせたまはむとて、殿人あまた参り集ひ、上下の 人たち騒ぎたれば、心細さのなごりなく頼もしげなり。  暮れぬれば、 「例の、あなたに」と聞こえて、御湯漬など まゐらむとすれど、 「近くてだに見たてまつらむ」とて、 南の廂は僧の座なれば、東面のいますこしけ近き方に、屏- 風など立てさせて入りゐたまふ。中の宮苦しと思したれど、 この御仲をなほもて離れたまはぬなりけり、とみな思ひて、 うとくもえもてなし隔 てたてまつらず。初夜 よりはじめて、法華経 を不断に読ませたまふ。 声尊きかぎり十二人し て、いと尊し。  灯はこなたの南の間 にともして、内は暗き

に、几帳をひき上げて、すこしすべり入りて見たてまつりた まへば、老人ども二三人ぞさぶらふ。中の宮は、ふと隠れた まひぬれば、いと人少なに、心細くて臥したまへるを、 「などか御声をだに聞かせたまはぬ」とて、御手をとらへ ておどろかしきこえたまへば、 「心地にはおぼえながら、 もの言ふがいと苦しくてなん。日ごろ、訪れたまはざりつれ ば、おぼつかなくて過ぎはべりぬべきにや、と口惜しくこそ はべりつれ」と、息の下にのたまふ。 「かく、待たれたて まつるほどまで、参り来ざりけること」とて、さくりもよよ と泣きたまふ。御ぐしなど、すこし熱くぞおはしける。 「何の罪なる御心地にか。人の嘆き負ふこそかくはあむな れ」と、御耳にさし当てて、ものを多く聞こえたまへば、う るさうも恥づかしうもおぼえて、顔をふたぎたまへり。いと どなよなよとあえかにて臥したまへるを、むなしく見なして、 いかなる心地せむと、胸もひしげておぼゆ。 「日ごろ、見

たてまつりたまひつらむ御心地もやすからず思されつらむ。 今宵だに心やすくうち休ませたまへ。宿直人さぶらふべし」
と聞こえたまへば、うしろめたけれど、さるやうこそは、と 思して、すこし退きたまへり。  直面にはあらねど、這ひよりつつ見たてまつりたまへば、 いと苦しく恥づかしけれど、かかるべき契りこそはありけめ と思して、こよなうのどかにうしろやすき御心を、かの片つ 方の人に見くらべたてまつりたまへば、あはれとも思ひ知ら れにたり。むなしくなりなむ後の思ひ出にも、心ごはく、思 ひ隈なからじ、とつつみたまひて、はしたなくもえおし放ち たまはず。夜もすがら人をそそのかして、御湯などまゐらせ たてまつりたまへど、つゆばかりまゐる気色もなし。いみじ のわざや、いかにしてかはかけとどむべきと、言はむ方なく 思ひゐたまへり。 阿闍梨八の宮の夢を語り大君罪業を悲しむ

不断経の、暁方のゐかはりたる声のいと尊 きに、阿闍梨も夜居にさぶらひてねぶりた る、うちおどろきて陀羅尼読む。老いかれ にたれど、いと功づきて頼もしう聞こゆ。 「いかが今宵 はおはしましつらむ」など聞こゆるついでに、故宮の御こと など申し出でて、鼻しばしばうちかみて、 「いかなる所 におはしますらむ。さりとも涼しき方にぞ、と思ひやりたて まつるを、先つころ夢になむ見えおはしましし。俗の御かた ちにて、世の中を深う厭ひ離れしかば、心とまることなかり しを、いささかうち思ひしことに乱れてなん、ただしばし願 ひの所を隔たれるを思ふなん、いと悔しき、すすむるわざせ よ、といとさだかに仰せられしを、たちまちに仕うまつるべ きことのおぼえはべらねば、たへたるに従ひて行ひしはべる 法師ばら五六人して、なにがしの念仏なん仕うまつらせはべ る。さては思ひたまへ得たることはべりて、常不軽をなむつ

かせはべる」
など申すに、君もいみじう泣きたまふ。かの世 にさへ妨げきこゆらん罪のほどを、苦しき心地にも、いとど 消え入りぬばかりおぼえたまふ。いかで、かのまだ定まりた まはざらむさきに参でて、同じ所にも、と聞き臥したまへり。  阿闍梨は言少なにて立ちぬ。この常不軽、そのわたりの里- 里、京まで歩きけるを、暁の嵐にわびて、阿闍梨のさぶらふ あたりを尋ねて、中門のもとにゐて、いと尊くつく。回向の 末つ方の心ばへいとあはれなり。客人もこなたにすすみたる 御心にて、あはれ忍ば れたまはず。中の宮、 切におぼつかなくて、 奥の方なる几帳の背後 に寄りたまへるけはひ を聞きたまひて、あざ やかにゐなほりたまひ

て、 「不軽の声はいかが聞かせたまひつらむ。重々しき道 には行はぬことなれど、尊くこそはべりけれ」とて、   霜さゆる汀の千鳥うちわびてなく音かなしきあさぼら  けかな 言葉のやうに聞こえたまふ。つれなき人の御けはひにも通ひ て、思ひよそへらるれど、答へにくくて、弁してぞ聞こえた まふ。   あかつきの霜うちはらひなく千鳥もの思ふ人のこ  ころをや知る 似つかはしからぬ御かはりなれど、ゆゑなからず聞こえなす。 かやうのはかなしごとも、つつましげなるものから、なつか しうかひあるさまにとりなしたまふものを、今は、とて別れ なば、いかなる心地せむ、と思ひまどひたまふ。  宮の夢に見えたまひけむさま思しあはするに、かう心苦し き御ありさまどもを、天翔りてもいかに見たまふらむ、と推

しはかられて、おはしましし御寺にも御誦経せさせたまふ。 所どころに御祈祷の使出だしたてさせたまひ、公にも私にも、 御暇のよし申したまひて、祭祓、よろづにいたらぬ事なくし たまへど、物の罪めきたる御病にもあらざりければ、何の験 も見えず。 大君受戒を望むが、女房に妨げられる みづからも、たひらかにあらむとも仏をも 念じたまはばこそあらめ、 「なほかかるつ いでにいかで亡せなむ。この君のかくそひ ゐて、残りなくなりぬるを、今はもて離れむ方なし。さりと て、かうおろかならず見ゆめる心ばへの、見劣りして我も人 も見えむが、心やすからずうかるべきこと。もし命強ひてと まらば、病にことつけて、かたちをも変へてむ。さてのみこ そ、長き心をもかたみに見はつべきわざなれ」と思ひしみた まひて、とあるにてもかかるにても、いかでこの思ふことし てむと思すを、さまでさかしきことはえうち出でたまはで、

中の宮に、 「心地のいよいよ頼もしげなくおぼゆるを、忌 むことなん、いと験ありて命延ぶること、と聞きしを、さや うに阿闍梨にのたまへ」と聞こえたまへば、みな泣き騒ぎて、 「いとあるまじき御ことなり。かくばかり思しまどふめる 中納言殿も、いかがあへなきやうに思ひきこえたまはむ」と、 似げなきことに思ひて、頼もし人にも申しつがねば、口惜し う思す。 豊明の夜臨終の大君薫を中の君の事で恨む かく籠りゐたまへれば、聞きつぎつつ、御 とぶらひにふりはへものしたまふ人もあり。 おろかに思されぬこと、と見たてまつれば、 殿人、親しき家司などは、おのおのよろづの御祈祷をせさせ、 嘆ききこゆ。  豊明は今日ぞかしと、京思ひやりたまふ。風いたう吹き て、雪の降るさまあわたたしう荒れまどふ。都にはいとかう しもあらじかしと、人やりならず心細うて、うとくてやみぬ

べきにや、と思ふ契りはつらけれど、恨むべうもあらず、な つかしうらうたげなる御もてなしを、ただ、しばしにても例 になして、思ひつる事ども語らはばや、と思ひつづけてなが めたまふ。光もなくて暮れはてぬ。   かきくもり日かげも見えぬ奥山に心をくらすころにも   あるかな  ただ、かくておはするを頼みにみな思ひきこえたり。例の、 近き方にゐたまへるに、御几帳などを、風のあらはに吹きな せば、中の宮奥に入りたまふ。見苦しげなる人々も、かかや き隠れぬるほどに、いと近う寄りて、 「いかが思さるる。 心地に思ひ残すことなく、念じきこゆるかひなく、御声をだ に聞かずなりにたれば、いとこそわびしけれ。後らかしたま はば、いみじうつらからむ」と、泣く泣く聞こえたまふ。も のおぼえずなりにたるさまなれど、顔はいとよく隠したまへ り。 「よろしきひまあらば、聞こえまほしき事もはべれど、

ただ消え入るやうにのみなりゆくは、口惜しきわざにこそ」
と、いとあはれと思ひたまへる気色なるに、いよいよせきと どめがたくて、ゆゆしう、かく心細げに思ふとは見えじ、と つつみたまへど、声も惜しまれず。 「いかなる契りにて、限りなく思ひきこえながら、つらき事 多くて別れたてまつるべきにか。すこしうきさまをだに見せ たまはばなむ、思ひさますふしにもせむ」とまもれど、いよ いよあはれげにあたらしく、をかしき御ありさまのみ見ゆ。 腕などもいと細うなりて、影のやうに弱げなるものから、色 あひも変らず、白ううつくしげになよなよとして、白き御衣 どものなよびかなるに、衾を押しやりて、中に身もなき雛を 臥せたらむ心地して、御髪はいとこちたうもあらぬほどにう ちやられたる、枕より落ちたるきはの、つやつやとめでたう をかしげなるも、いかになりたまひなむとするぞと、あるべ きものにもあらざめりと見るが、惜しき事たぐひなし。ここ

ら久しく悩みて、ひきもつくろはぬけはひの、心とけず恥づ かしげに、限りなうもてなしさまよふ人にも多うまさりて、 こまかに見るままに、魂もしづまらむ方なし。   「つひにうち棄てたまひてば、世にしばしもとまるべき にもあらず。命もし限りありてとまるべうとも、深き山にさ すらへなむとす。ただ、いと心苦しうてとまりたまはむ御こ とをなん思ひきこゆる」と答へさせたてまつらむとて、かの 御ことをかけたまへば、顔隠したまへる御袖をすこしひきな ほして、 「かくはかなかりけるものを、思ひ隈なきやうに 思されたりつるもかひなければ、このとまりたまはむ人を、 同じことと思ひきこえたまへ、とほのめかしきこえしに、違 へたまはざらましかば、うしろやすからましと、これのみな む恨めしきふしにてとまりぬべうおぼえはべる」とのたまへ ば、 「かくいみじうもの思ふべき身にやありけん、いかに もいかにも、ことざまにこの世を思ひかかづらふ方のはべら

ざりつれば、御おもむけにしたがひきこえずなりにし。今な む、悔しく心苦しうもおぼゆる。されども、うしろめたくな 思ひきこえたまひそ」
などこしらへて、いと苦しげにしたま へば、修法の阿闍梨ども召し入れさせ、さまざまに験あるか ぎりして、加持まゐらせさせたまふ。我も仏を念ぜさせたま ふこと限りなし。 大君死す 薫、燈火の下にその死顔を見る 世の中をことさらに厭ひはなれねとすすめ たまふ仏などの、いとかく、いみじきもの は思はせたまふにやあらむ、見るままにも のの枯れゆくやうにて、消えはてたまひぬるはいみじきわざ かな。ひきとどむべき方なく、足摺もしつべく、人のかたく なしと見むこともおぼえず。限りと見たてまつりたまひて、 中の宮の、後れじと思ひまどひたまへるさまもことわりなり。 あるにもあらず見えたまふを、例の、さかしき女ばら、今は いとゆゆしきこと、とひきさけたてまつる。

 中納言の君は、さりとも、いとかかる事あらじ、夢か、と 思して、御殿油を近うかかげて見たてまつりたまふに、隠し たまふ顔も、ただ寝たまへるやうにて、変りたまへるところ もなく、うつくしげにてうち臥したまへるを、かくながら、 虫の殻のやうにても見るわざならましかば、と思ひまどはる。 今はの事どもするに、御髪をかきやるに、さとうち匂ひたる、 ただありしながらの匂ひになつかしうかうばしきも、あり難 う、何ごとにてこの人をすこしもなのめなりしと思ひさまさ む、まことに世の中を思ひ棄てはつるしるべならば、恐ろし げにうきことの、悲しさもさめぬべきふしをだに見つけさせ たまへ、と仏を念じたまへど、いとど思ひのどめむ方なくの みあれば、言ふかひなくて、ひたぶるに煙にだになしはてて むと思ほして、とかく例の作法どもするぞ、あさましかりけ る。空を歩むやうに漂ひつつ、限りのありさまさへはかなげ にて、煙も多くむすぼほれたまはずなりぬるもあへなしと、

あきれて帰りたまひぬ。 中の君悲嘆深し 薫も宇治に閉じこもる 御忌に籠れる人数多くて、心細さはすこし 紛れぬべけれど、中の宮は、人の見思はん ことも恥づかしき身の心憂さを思ひ沈みた まひて、また亡き人に見えたまふ。宮よりも御とぶらひいと しげく奉れたまふ。思はずにつらし、と思ひきこえたまへり し気色も思しなほらでやみぬるを思すに、いとうき人の御ゆ かりなり。  中納言、かく世のいと心憂くおぼゆるついでに、本意遂げ ん、と思さるれど、三条宮の思さむことに憚り、この君の御 ことの心苦しさとに思ひ乱れて、 「かののたまひしやうにて、 形見にも見るべかりけるものを。下の心は、身をわけたまへ りとも移ろふべくはおぼえざりしを、かうもの思はせたてま つるよりは、ただうち語らひて、尽きせぬ慰めにも見たてま つり通はましものを」など思す。かりそめに京にも出でたま

はず、かき絶え、慰む方なくて籠りおはするを、世人も、お ろかならず思ひたまへること、と見聞きて、内裏よりはじめ たてまつりて、御とぶらひ多かり。 薫、喪服を着られぬ身の上を悲しむ はかなくて日ごろは過ぎゆく。七日七日の 事ども、いと尊くせさせたまひつつ、おろ かならず孝じたまへど、限りあれば、御衣 の色の変らぬを、かの御方の心寄せわきたりし人々の、いと 黒く着かへたるをほの見たまふも、   くれなゐにおつる涙もかひなきはかたみのいろをそめ   ぬなりけり 聴色の氷とけぬかと見ゆるを、いとど濡らしそへつつながめ たまふさま、いとなまめかしくきよげなり。人々のぞきつつ 見たてまつりて、 「言ふかひなき御ことをばさるものにて、 この殿のかくならひたてまつりて、今は、とよそに思ひきこ えむこそ、あたらしく口惜しけれ。思ひの外なる御宿世にも

おはしけるかな。かく深き御心のほどを、かたがたに背かせ たまへるよ」
と泣きあへり。  この御方には、 「昔の御形見に、今は何ごとも聞こえ、 承らむとなん思ひたまふる。うとうとしく思し隔つな」と聞 こえたまへど、よろづの事うき身なりけりと、もののみつつ ましくて、まだ対面してものなど聞こえたまはず。この君は、 けざやかなる方に、いますこし児めき、気高くおはするもの から、なつかしくにほひある心ざまぞ、劣りたまへりけると、 事にふれておぼゆ。 薫、月夜の雪景色に大君を偲び歌を詠む 雪のかきくらし降る日、ひねもすにながめ 暮らして、世の人のすさまじき事に言ふな る十二月の月夜の、曇りなくさし出でたる を、簾捲き上げて見たまへば、向ひの寺の鐘の声、枕をそば だてて、今日も暮れぬ、とかすかなるを聞きて、   おくれじと空ゆく月をしたふかなつひにすむべきこの

 世ならねば
 風のいとはげしければ、蔀おろさせたまふに、四方の山の 鏡と見ゆる汀の氷、月影にいとおもしろし。京の家の限りな くと磨くも、えかうはあらぬはや、とおぼゆ。わづかに生き 出でてものしたまはましかば、もろともに聞こえまし、と思 ひつづくるぞ、胸よりあまる心地する。   恋ひわびて死ぬるくすりのゆかしきに雪の山にや跡を   消なまし 半なる偈教へむ鬼もがな、ことつけて身も投げむ、と思すぞ、 心きたなき聖心なりける。  人々近く呼び出でたまひて、物語などせさせたまふけはひ などの、いとあらまほしく、のどやかに心深きを見たてまつ る人々、若きは、心にしめてめでたしと思ひたてまつる。老 いたるは、口惜しくいみじきことを、いとど思ふ。「御- 心地の重くならせたまひしことも、ただこの宮の御ことを、

思はずに見たてまつりたまひて、人わらへにいみじ、と思す めりしを、さすがにかの御方には、かく思ふと知られたてま つらじと、ただ御心ひとつに世を恨みたまふめりしほどに、 はかなき御くだものをも聞こしめしふれず、ただ弱りになむ 弱らせたまふめりし。うはべには、何ばかりことごとしくも の深げにももてなさせたまはで、下の御心の限りなく、何ご とも思すめりしに、故宮の御誡にさへ違ひぬることと、あ いなう人の御上を思し悩みそめしなり」
と聞こえて、をりを りにのたまひしことなど語り出でつつ、誰も誰も泣きまどふ こと尽きせず。 深更、匂宮雪を冒して弔問 中の君逢わず わが心から、あぢきなきことを思はせたて まつりけむことと、とり返さまほしく、な べての世もつらきに、念誦をいとどあはれ にしたまひて、まどろむほどなく明かしたまふに、まだ夜深 きほどの雪のけはひいと寒げなるに、人々声あまたして、

馬の音聞こゆ。何人かはかかるさ夜半に雪を分くべきと、大- 徳たちも驚き思へるに、宮、狩の御衣にいたうやつれて、濡 れ濡れ入りたまへるなりけり。うち叩きたまふさま、さなな り、と聞きたまひて、中納言は、隠ろへたる方に入りたまひ て、忍びておはす。御忌は日数残りたりけれど、心もとなく 思しわびて、夜一夜雪にまどはされてぞおはしましける。  日ごろのつらさも紛れぬべきほどなれど、対面したまふべ き心地もせず、思し嘆きたるさまの恥づかしかりしを、やが て見なほされたまはず なりにしも、今より後 の御心あらたまらむは かひなかるべく思ひし みてものしたまへば、 誰も誰もいみじうこと わりを聞こえ知らせつ

つ、物越しにてぞ、日ごろの怠り尽きせずのたまふを、つく づくと聞きゐたまへる。これもいとあるかなきかにて、後れ たまふまじきにや、と聞こゆる御けはひの心苦しさを、うし ろめたういみじ、と宮も思したり。  今日は御身を棄ててとまりたまひぬ。 「物越しならで」 と、いたくわびたまへど、 「いますこしものおぼゆるほ どまではべらば」とのみ聞こえたまひて、つれなきを、中納- 言も気色聞きたまひて、さるべき人召し出でて、 「御あり さまに違ひて、心浅きやうなる御もてなしの、昔も、今も、 心憂かりける、月ごろの罪は、さも思ひきこえたまひぬべき ことなれど、憎からぬさまにこそ勘へたてまつりたまはめ。 かやうなる事まだ見知らぬ御心にて、苦しう思すらん」など、 忍びてさかしがりたまへば、いよいよ、この君の御心も恥づ かしくて、え聞こえたまはず。 「あさましく心憂くおはし けり。聞こえしさまをもむげに忘れたまひけること」と、お

ろかならず嘆き暮らしたまへり。  夜のけしき、いとどけはしき風の音に、人やりならず嘆き 臥したまへるもさすがにて、例の、物隔てて聞こえたまふ。 千々の社をひきかけて、行く先長きことを契りきこえたまふ も、いかでかく口馴れたまひけむ、と心憂けれど、よそにて つれなきほどのうとましさよりはあはれに、人の心もたをや ぎぬべき御さまを、一方にもえうとみはつまじかりけりと、 ただつくづくと聞きて、   来し方を思ひいづるもはかなきを行く末かけてな   にたのむらん と、ほのかにのたまふ。なかなかいぶせう心もとなし。   「行く末をみじかきものと思ひなば目のまへにだにそ   むかざらなん 何ごともいとかう見るほどなき世を、罪深くな思しないそ」 と、よろづにこしらへたまへど、 「心地も悩ましくなむ」

とて入りたまひにけり。人の見るらんもいと人わろくて、嘆 き明かしたまふ。恨みむもことわりなるほどなれど、あまり に人憎くもと、つらき涙の落つれば、ましていかに思ひつら むと、さまざまあはれに思し知らる。  中納言の、主方に住み馴れて、人々やすらかに呼び使ひ、 人もあまたして物まゐらせなどしたまふを、あはれにもをか しうも御覧ず。いといたう痩せ青みて、ほれぼれしきまでも のを思ひたれば、心苦しと見たまひて、まめやかにとぶらひ たまふ。ありしさまなど、かひなきことなれど、この宮にこ そは聞こえめ、と思へど、うち出でむにつけても、いと心弱 く、かたくなしく見えたてまつらむに憚りて、言少ななり。 音をのみ泣きて日数経にければ、顔変りのしたるも見苦しく はあらで、いよいよものきよげになまめいたるを、女ならば 必ず心移りなむと、おのがけしからぬ御心ならひに思し寄る も、なまうしろめたかりければ、いかで人の譏りも恨みをも

はぶきて、京に移ろはしてむ、と思す。  かくつれなきものから、内裏わたりにも聞こしめしていと あしかるべきに思しわびて、今日は帰らせたまひぬ。おろか ならず言の葉を尽くしたまへど、つれなきは苦しきものをと、 一ふしを思し知らせまほしくて、心とけずなりぬ。 歳暮、薫帰京 匂宮、中の君を迎える準備 年の暮がたには、かからぬ所だに、空のけ しき例には似ぬを、荒れぬ日なく降り積む 雪にうちながめつつ明かし暮らしたまふ心- 地、尽きせず夢のやうなり。宮よりも、御誦経などこちたき までとぶらひきこえたまふ。かくてのみやは、新しき年さ へ嘆き過ぐさむ、ここかしこにも、おぼつかなくて閉ぢ籠り たまへることを聞こえたまへば、今はとて帰りたまはむ心地 も、たとへむ方なし。かくおはしならひて、人しげかりつる なごりなくならむを、思ひわぶる人々、いみじかりしをりの さし当りて悲しかりし騒ぎよりも、うち静まりていみじくお

ぼゆ。 「時々、をりふし、をかしやかなるほどに聞こえか はしたまひし年ごろよりも、かくのどやかにて過ぐしたまへ る日ごろの御ありさまけはひのなつかしく情深う、はかなき ことにもまめなる方にも、思ひやり多かる御心ばへを、今は 限りに見たてまつりさしつること」と、おぼほれあへり。  かの宮よりは、 「なほかう参り来ることもいと難きを、思 ひわびて、近う渡いたてまつるべき事をなむ、たばかり出で たる」と聞こえたまへり。后の宮聞こしめしつけて、中納言 もかくおろかならず思ひほれてゐたなるは、げに、おしなべ て思ひがたうこそは誰も思さるらめ、と心苦しがりたまひて、 二条院の西の対に渡いたまひて、時々も通ひたまふべく、忍 びて聞こえたまひければ、女一の宮の御方にこと寄せて思し なるにや、と思しながら、おぼつかなかるまじきはうれしく て、のたまふなりけり。さななり、と中納言も聞きたまひて、 三条宮も造りはてて、渡いたてまつらむことを思ひしものを、

かの御代りになずらへても見るべかりけるをなど、ひきかへ し心細し。宮の思し寄るめりし筋は、いと似げなき事に思ひ 離れて、おほかたの御後見は、我ならではまた誰かは、と思 すとや。 Early Ferns 春の訪れにも中の君の傷心癒えず

薮しわかねば、春の光を見たまふにつけて も、いかでかくながらへにける月日ならむ と、夢のやうにのみおぼえたまふ。行きか ふ時々に従ひ、花鳥の色をも音をも、同じ心に起き臥し見つ つ、はかなきことをも本末をとりて言ひかはし、心細き世の うさもつらさもうち語らひあはせきこえしにこそ、慰む方も ありしか、をかしきこと、あはれなるふしをも、聞き知る人 もなきままに、よろづかきくらし、心ひとつをくだきて、宮 のおはしまさずなりにし悲しさよりもややうちまさりて恋し くわびしきに、いかにせむと、明け暮るるも知らずまどはれ たまへど、世にとまるべきほどは限りあるわざなりければ、 死なれぬもあさまし。

 阿闍梨のもとより、 「年あらたまりては、何ごとかおはし ますらん。御祈祷はたゆみなく仕うまつりはべり。今は、一 ところの御ことをなむ、やすからず念じきこえさする」など 聞こえて、蕨、つくづくし、をかしき籠に入れて、 「これは 童べの供養じてはべる初穂なり」とて奉れり。手はいとあし うて、歌は、わざとがましくひき放ちてぞ書きたる。      「君にとてあまたの春をつみしかば常を忘れぬ初わ   らびなり 御前に詠み申さしめたまへ」とあり。大事と思ひまはして詠 み出だしつらむ、と思せば、歌の心ばへもいとあはれにて、 なほざりに、さしも思さぬなめりと見ゆる言の葉をめでたく 好ましげに書きつくしたまへる人の御文よりは、こよなく目 とまりて、涙もこぼるれば、返り事書かせたまふ。   この春はたれにか見せむなき人のかたみにつめる   峰のさわらび

使に禄とらせさせたまふ。  いとさかりににほひ多くおはする人の、さまさまの御もの 思ひに、すこしうち面痩せたまへる、いとあてになまめかし き気色まさりて、昔人にもおぼえたまへり。並びたまへりし をりは、とりどりにて、さらに似たまへりとも見えざりしを、 うち忘れては、ふとそれかとおぼゆるまで通ひたまへるを、 「中納言殿の、骸をだにとどめて見たてまつるものならま しかばと、朝夕に恋ひきこえたまふめるに。同じくは、見え たてまつりたまふ御- 宿世ならざりけむ よ」と、見たてまつ る人々は口惜しがる。  かの御あたりの人 の通ひ来るたよりに、 御ありさまは絶えず

聞きかはしたまひけり。尽きせず思ひほれたまひて、新しき 年とも言はず、いやめになむなりたまへる、と聞きたまひて も、げに、うちつけの心浅さにはものしたまはざりけりと、 いとど、今ぞ、あはれも深く思ひ知らるる。  宮は、おはしますことのいとところせくあり難ければ、京 に渡しきこえむと思したちにたり。 薫、匂宮に嘆き訴える 中の君への心寄せ 内宴など、もの騒がしきころ過ぐして、中- 納言の君、心にあまることをも、また、誰 にかは語らはむ、と思しわびて、兵部卿宮 の御方に参りたまへり。しめやかなる夕暮なれば、宮、うち ながめたまひて、端近くぞおはしましける。箏の御琴掻き鳴 らしつつ、例の、御心寄せなる梅の香をめでおはする。下枝 を押し折りて参りたまへる、匂ひのいと艶にめでたきを、を りをかしう思して、   折る人のこころに通ふ花なれや色には出でずしたに

 匂へる
とのたまへば、   「見る人にかごとよせける花の枝を心してこそ折るべ  かりけれ わづらはしく」と、戯れかはしたまへる、いとよき御あはひ なり。  こまやかなる御物語どもになりては、かの山里の御ことを ぞ、まづは、 「いかに」と宮は聞こえたまふ。中納言も、過 ぎにし方の飽かず悲しきこと、そのかみより今日まで思ひの 絶えぬよし、をりをりにつけて、あはれにもをかしくも、泣 きみ笑ひみとかいふらむやうに聞こえ出でたまふに、まして、 さばかり色めかしく、涙もろなる御癖は、人の御上にてさへ、 袖もしぼるばかりになりて、かひがひしくぞあひしらひきこ えたまふめる。空のけしきも、また、げにぞあはれ知り顔に 霞みわたれる。

 夜になりてはげしう吹き出づる風のけしき、まだ冬めきて いと寒げに、大殿油も消えつつ、闇はあやなきたどたどしさ なれど、かたみに聞きさしたまふべくもあらず、尽きせぬ御- 物語をえはるけやりたまはで夜もいたう更けぬ。世に例あり 難かりける仲の睦びを、 「いで、さりとも、いとさのみは あらざりけむ」と、残りありげに問ひなしたまふぞ、わりな き御心ならひなめるかし。さりながらも、ものに心えたまひ て、嘆かしき心の中もあきらむばかり、かつは慰め、また、 あはれをもさまし、さまざまに語らひたまふ、御さまのをか しきにすかされたてまつりて、げに、心にあまるまで思ひむ すぼほるることども、すこしづつ語りきこえたまふぞ、こよ なく胸のひまあく心地したまふ。  宮も、かの人近く渡しきこえてんとするほどのことども、 語らひきこえたまふを、 「いとうれしきことにもはべるか な。あいなくみづからの過ちとなん思うたまへらるる。飽か

ぬ昔のなごりを、また尋ぬべき方もはべらねば、おほかたに は、何ごとにつけても、心寄せきこゆべき人となん思うたま ふるを、もし便なくや思しめさるべき」
とて、かの、他人と な思ひわきそ、と譲りたまひし心おきてをも、すこしは語 りきこえたまへど、いはせの森の呼子鳥めいたりし夜の事は 残したりけり。心の中には、かく慰めがたき形見にも、げに さてこそ、かやうにもあつかひきこゆべかりけれと、悔しき ことやうやうまさりゆけど、今はかひなきものゆゑ、常にか うのみ思はば、あるまじき心もこそ出でくれ、誰がためにも あぢきなくをこがましからむ、と思ひ離る。さても、おはし まさむにつけても、まことに思ひうしろみきこえん方は、ま た誰かは、と思せば、御渡りの事どもも心まうけせさせた まふ。 中の君、宇治を離れがたく思い嘆く

かしこにも、よき若人童など求めて、人々 は心ゆき顔にいそぎ思ひたれど、今はとて この伏見を荒らしはてむも、いみじく心細 ければ、嘆かれたまふこと尽きせぬを、さりとても、また、 せめて心ごはく、絶え籠りてもたけかるまじく、浅からぬ仲 の契りも絶えはてぬべき御住まひを、 「いかに思しえたる ぞ」とのみ、恨みきこえたまふも、すこしはことわりなれば、 いかがすべからむ、と思ひ乱れたまへり。  二月の朔日ごろとあれば、ほど近くなるままに、花の木ど ものけしきばむも残りゆかしく、峰の霞のたつを見棄てんこ とも、おのが常世にてだにあらぬ旅寝にて、いかにはしたな く人笑はれなる事もこそなど、よろづにつつましく、心ひと つに思ひ明かし暮らしたまふ。御服も限りあることなれば、 脱ぎ棄てたまふに、禊も浅き心地ぞする。親一ところは、見 たてまつらざりしかば、恋しきことは思ほえず。その御代り

にも、このたびの衣を深く染めむ、と心には思しのたまへど、 さすがに、さるべきゆゑもなきわざなれば、飽かず悲しきこ と限りなし。 薫の配慮 宇治を訪れ懐旧の情にひたる 中納言殿より、御車、御前の人々、博士な ど奉れたまへり。   はかなしやかすみの衣たちしまに花   のひもとくをりも来にけり げにいろいろいときよらにて奉れたまへり。御渡りのほどの かづけ物どもなど、ことごとしからぬものから、品々にこま やかに思しやりつついと多かり。 「をりにつけては、忘れ ぬさまなる御心寄せのあり難く、はらからなども、えいとか うまではおはせぬわざぞ」など、人々は聞こえ知らす。あざ やかならぬ古人どもの心には、かかる方を心にしめて聞こゆ。 若き人は、時々も見たてまつりならひて、今はと異ざまにな りたまはむを、さうざうしく、 「いかに恋しくおぼえさせた

まはむ」
と聞こえあへり。  みづからは、渡りたまはんこと明日とての、まだつとめて おはしたり。例の、客人居の方におはするにつけても、今は、 やうやうもの馴れて、我こそ人よりさきに、かうやうにも思 ひそめしかなど、ありしさま、のたまひし心ばへを思ひ出で つつ、さすがに、かけ離れ、ことのほかになどははしたなめ たまはざりしを、わが心もて、あやしうも隔たりにしかなと、 胸いたく思ひつづけられたまふ。かいばみせし障子の穴も思 ひ出でらるれば、寄りて見たまへど、この中をばおろし籠め たれば、いとかひなし。  内にも人々思ひ出できこえつつ、うちひそみあへり。中の 宮は、まして、もよほさるる御涙の川に、明日の渡りもおぼ えたまはず、ほれぼれしげにてながめ臥したまへるに、 「月 ごろのつもりも、そこはかとなけれど、いぶせく思ひたまへ らるるを、片はしもあきらめきこえさせて、慰めはべらばや。

例の、はしたなくなさし放たせたまひそ。いとどあらぬ世の 心地しはべり」
と聞こえたまへれば、 「はしたなしと思 はれたてまつらむとしも思はねど、いさや、心地も例のやう にもおぼえず、かき乱りつつ、いとどはかばかしからぬひが 言もや、とつつましうて」など、苦しげに思いたれど、 「い とほし」など、これかれ聞こえて、中の障子の口にて対面し たまへり。  いと心恥づかしげになまめきて、また、このたびはねびま さりたまひにけり、と目もおどろくまでにほひ多く、人にも 似ぬ用意など、あなめでたの人や、とのみ見えたまへるを、 姫宮は、面影さらぬ人の御ことをさへ思ひ出できこえたまふ に、いとあはれ、と見たてまつりたまふ。 「尽きせぬ御物- 語なども、今日は言忌すべくや」など言ひさしつつ、 「渡 らせたまふべき所近く、このごろ過ぐして移ろひはべるべけ れば、夜半暁とつきづきしき人の言ひはべるめる、何ごとの

をりにも、うとからず思しのたまはせば、世にはべらむ限り は、聞こえさせ承りて、過ぐさまほしくなんはべるを、い かがは思しめすらむ。人の心さまざまにはべる世なれば、あ いなくやなど、一方にもえこそ思ひはべらね」
と聞こえたま へば、 「宿をば離れじ、と思ふ心深くはべるを、近く、 などのたまはするにつけても、よろづに乱れはべりて、聞こ えさせやるべき方もなく」など、所どころ言ひ消ちて、いみ じくものあはれと思ひたまへるけはひなど、いとようおぼえ たまへるを、心からよそのものに見なしつると思ふに、いと 悔しく思ひゐたまへれど、かひなければ、その夜のこと、か けても言はず、忘れにけるにや、と見ゆるまで、けざやかに もてなしたまへり。  御前近き紅梅の色も香もなつかしきに、鶯だに見過ぐしが たげにうち鳴きて渡るめれば、まして、 「春や昔の」と、心 をまどはしたまふどちの御物語に、をりあはれなりかし。風

のさと吹き入るるに、花の香も客人の御匂ひも、橘ならねど 昔思ひ出でらるるつまなり。つれづれの紛らはしにも、世の うき慰めにも、心とどめてもてあそびたまひしものをなど、 心にあまりたまへば、   見る人もあらしにまよふ山里にむかしおぼゆる花   の香ぞする 言ふともなくほのかにて、絶え絶え聞こえたるを、なつかし げにうち誦じなして、   袖ふれし梅はかはらぬにほひにて根ごめうつろふ宿や   ことなる たへぬ涙をさまよく拭ひ隠して、言多くもあらず、 「またも なほ、かやうにてなむ。何ごとも聞こえさせよかるべき」な ど聞こえおきて立ちたまひぬ。  御渡りにあるべき事ども、人々にのたまひおく。この宿守 に、かの鬚がちの宿直人などはさぶらふべければ、このわた

りの近き御庄どもなどに、その事どもものたまひ預けなど、 まめやかなる事どもをさへ定めおきたまふ。 薫、弁を召して互いに世の無常を嘆きあう 弁ぞ、 「かやうの御供にも、思ひかけず長 き命いとつらくおぼえはべるを、人もゆゆ しく見思ふべければ、今は、世にあるもの とも人に知られはべらじ」とて、かたちも変へてけるを、強 ひて召し出でて、いとあはれ、と見たまふ。例の、昔物語な どせさせたまひて、 「ここには、なほ時々参り来べきを、 いとたづきなく心細かるべきに、かくてものしたまはむは、 いとあはれにうれしかるべきことになむ」など、えも言ひや らず泣きたまふ。 「厭ふにはえて延びはべる命のつらく、 またいかにせよとて、うち棄てさせたまひけん、と恨めしく、 なべての世を、思ひたまへ沈むに、罪もいかに深くはべら む」と、思ひける事どもを愁へかけきこゆるも、かたくなし げなれど、いとよく言ひ慰めたまふ。

 いたくねびにたれど、昔、きよげなりけるなごりをそぎ棄 てたれば、額のほどさま変れるにすこし若くなりて、さる方 にみやびかなり。 「思ひわびては、などかかるさまにもなし たてまつらざりけむ。それに延ぶるやうもやあらまし。さて も、いかに心深く語らひきこえてあらまし」など、一方なら ずおぼえたまふに、この人さへうらやましければ、隠ろへた る几帳をすこし引きやりて、こまやかにぞ語らひたまふ。げ に、むげに思ひほけたるさまながら、ものうち言ひたる気色 用意口惜しからず、ゆゑありける人のなごりと見えたり。   さきにたつ涙の川に身を投げば人におくれぬいのちな   らまし と、うちひそみ聞こゆ。 「それもいと罪深かなることにこ そ。彼岸に到ること、などか。さしもあるまじき事にてさへ、 深き底に沈み過ぐさむもあいなし。すべて、なべてむなしく 思ひとるべき世になむ」などのたまふ。

  「身を投げむ涙の川にしづみてもこひしき瀬々に忘れ   しもせじ いかならむ世に、すこしも思ひ慰むることありなむ」と、は てもなき心地したまふ。帰らん方もなくながめられて、日も 暮れにけれど、すずろに旅寝せんも人の咎むることや、とあ いなければ、帰りたまひぬ。 中の君、宇治にとどまる弁と別れを惜しむ 思ほしのたまへるさまを語りて、弁は、い とど慰めがたくくれまどひたり。皆人は、 心ゆきたる気色にて、物縫ひいとなみつつ、 老いゆがめる容貌も知らず、つくろひさまよふに、いよいよ やつして、   人はみないそぎたつめる袖のうらにひとり藻しほをた  るるあまかな と愁へきこゆれば、   「しほたるるあまの衣にことなれや浮きたる波にぬ

  るるわが袖 世に住みつかむことも、いとあり難かるべきわざとおぼゆれ ば、さまに従ひてここをば散れはてじ、となん思ふを、さら ば対面もありぬべけれど、しばしのほども、心細くて立ちと まりたまふを見おくに、いとど心もゆかずなん。かかるかた ちなる人も、必ずひたぶるにしも絶え籠らぬわざなめるを、 なほ世の常に思ひなして、時々も見えたまへ」
など、いとな つかしく語らひたまふ。昔の人のもて使ひたまひし、さるべ き御調度どもなどは、みなこの人にとどめおきたまひて、 「かく、人より深く思ひ沈みたまへるを見れば、前の世 もとりわきたる契りもやものしたまひけむ、と思ふさへ、睦 しくあはれになん」とのたまふに、いよいよ童べの恋ひて泣 くやうに、心をさめむ方なくおぼほれゐたり。 上京する中の君、憂えと悔いの心を抱く

みなかき払ひ、よろづとりしたためて、御- 車ども寄せて、御前の人々、四位五位いと 多かり。御みづからも、いみじうおはしま さまほしけれど、ことごとしくなりて、なかなかあしかるべ ければ、ただ忍びたるさまにもてなして、心もとなく思さる。 中納言殿よりも、御前の人数多く奉れたまへり。おほかたの ことをこそ、宮よりは思しおきつめれ、こまやかなる内々の 御あつかひは、ただこの殿より、思ひ寄らぬことなくとぶら ひきこえたまふ。  日暮れぬべしと、内にも外にももよほしきこゆるに、心あ わたたしく、いづちならむと思ふにも、いとはかなく悲し、 とのみ思ほえたまふに、御車に乗る大輔の君といふ人の言ふ、   あり経ればうれしき瀬にも逢ひけるを身をうぢ川に投げ   てましかば うち笑みたるを、弁の尼の心ばへに、こよなうもあるかなと、

心づきなうも見たまふ。いま一人、   過ぎにしが恋しきことも忘れねど今日はたまづもゆ  く心かな いづれも年経たる人々にて、みなかの御方をば、心寄せきこ えためりしを、今はかく思ひあらためて言忌するも、心憂の 世や、とおぼえたまへば、ものも言はれたまはず。  道のほどの、遙けくはげしき山道のありさまを見たまふに ぞ、つらきにのみ思ひなされし 人の御仲の通ひを、ことわりの 絶え間なりけりと、すこし思し 知られける。七日の月のさやか にさし出でたる影、をかしく霞 みたるを見たまひつつ、いと遠 きに、ならはず苦しければ、う ちながめられて、

  ながむれば山よりいでて行く月も世にすみわびて  山にこそ入れ さま変りて、つひにいかならむ、とのみ、あやふく行く末う しろめたきに、年ごろ何ごとをか思ひけんとぞ、とり返さま ほしきや。 中の君二条院に落ち着く 薫ひそかに後悔 宵うち過ぎてぞおはし着きたる。見も知ら ぬさまに、目もかかやくやうなる殿造りの、 三つ葉四つ葉なる中に引き入れて、宮、い つしかと待ちおはしましければ、御車のもとに、みづから寄 らせたまひて下ろしたてまつりたまふ。御しつらひなど、あ るべき限りして、女房の局々まで、御心とどめさせたまひけ るほどしるく見えて、いとあらまほしげなり。いかばかりの ことにか、と見えたまへる御ありさまの、にはかにかく定ま りたまへば、おぼろけならず思さるることなめりと、世人も 心にくく思ひおどろきけり。

 中納言は、三条宮に、この二十余日のほどに渡りたまはむ とて、このごろは日々におはしつつ見たまふに、この院近き ほどなれば、けはひも聞かむとて、夜更くるまでおはしける に、奉れたまへる御前の人々帰り参りて、ありさまなど語り きこゆ。いみじう御心に入りてもてなしたまふなるを聞きた まふにも、かつはうれしきものから、さすがに、わが心なが らをこがましく、胸うちつぶれて、 「ものにもがなや」と、 かへすがへす独りごたれて、   しなてるやにほの湖に漕ぐ舟のまほならねどもあひ見   しものを とぞ言ひくたさまほしき。 夕霧匂宮の態度に不満薫を婿に望み拒まる 右の大殿は、六の君を宮に奉りたまはんこ とこの月にと、思し定めたりけるに、かく 思ひの外の人を、このほどより前に、と思 し顔にかしづきすゑたまひて、離れおはすれば、いとものし

げに思したり、と聞きたまふも、 いとほしければ、御文は時々奉 りたまふ。御裳着のこと、世に 響きていそぎたまへるを、延べ たまはむも人わらへなるべけれ ば、二十日あまりに着せたてま つりたまふ。  同じゆかりにめづらしげなく とも、この中納言をよそ人に譲らむが口惜しきに、 「さもや なしてまし。年ごろ人知れぬものに思ひけむ人をも亡くなし て、もの心細くながめゐたまふなるを」など思し寄りて、さ るべき人して気色とらせたまひけれど、 「世のはかなさを 目に近く見しに、いと心憂く、身もゆゆしうおぼゆれば、い かにもいかにも、さやうのありさまはものうくなん」と、す さまじげなるよし聞きたまひて、 「いかでか、この君さへ、

おほなおほな言出づることを、ものうくはもてなすべきぞ」
と恨みたまひけれど、親しき御仲らひながらも、人ざまのい と心恥づかしげにものしたまへば、え強ひてしも聞こえ動か したまはざりけり。 薫二条院を訪問 薫・中の君・匂宮の心々 花盛りのほど、二条院の桜を見やりたまふ に、主なき宿のまづ思ひやられたまへば、 「心やすくや」など独りごちあまりて、 宮の御もとに参りたまへり。ここがちにおはしましつきて、 いとよう住み馴れたまひにたれば、めやすのわざや、と見た てまつるものから、例の、いかにぞやおぼゆる心のそひたる ぞ、あやしきや。されど、実の御心ばへは、いとあはれにう しろやすくぞ、思ひきこえたまひける。  何くれと御物語聞こえかはしたまひて、夕つ方、宮は内裏 へ参りたまはむとて、御車の装束して、人々多く参り集まり などすれば、立ち出でたまひて、対の御方へ参りたまへり。

山里のけはひひきかへて、御簾の内心にくく住みなして、を かしげなる童の透影ほの見ゆるして、御消息聞こえたまへれ ば、御褥さし出でて、昔の心知れる人なるべし、出で来て御- 返り聞こゆ。 「朝夕の隔てもあるまじう思うたまへらるる ほどながら、その事となくて聞こえさせむも、なかなか馴れ 馴れしき咎めや、とつつみはべるほどに、世の中変りにたる 心地のみぞしはべるや。御前の梢も霞隔てて見えはべるに、 あはれなること多くもはべるかな」と聞こえて、うちながめ てものしたまふ気色心苦しげなるを、げにおはせましかば、 おぼつかなからず往き返り、かたみに花の色、鳥の声をも、 をりにつけつつ、すこし心ゆきて過ぐしつべかりける世を、 など思し出づるにつけては、ひたぶるに絶え籠りたまへりし 住まひの心細さよりも、飽かず悲しう口惜しきことぞ、いと どまさりける。  人々も、 「世の常に、うとうとしくなもてなしきこえさ

せたまひそ。限りなき御心のほどをば、今しもこそ、見たて まつり知らせたまふさまをも、見えたてまつらせたまふべけ れ」
など聞こゆれど、人づてならず、ふとさし出できこえん ことのなほつつましきを、やすらひたまふほどに、宮出でた まはむとて、御罷申に渡りたまへり。いときよらにひきつ くろひけさうじたまひて、見るかひある御さまなり。中納言 はこなたになりけり、と見たまひて、 「などかむげにさし 放ちては出だしすゑたまへる。御あたりには、あまりあやし と思ふまで、うしろやすかりし心寄せを。わがためはをこが ましきこともや、とおぼゆれど、さすがにむげに隔て多から むは、罪もこそうれ。近やかにて、昔物語もうち語らひたま へかし」など聞こえたまふものから、 「さはありとも、あ まり心ゆるびせんも、またいかにぞや。疑はしき下の心にぞ あるや」と、うち返しのたまへば、一方ならずわづらはしけ れど、わが御心にも、あはれ深く思ひ知られにし人の御心を、

今しもおろかなるべきならねば、かの人も思ひのたまふめる やうに、いにしへの御代りとなずらへきこえて、かう思ひ知 りけり、と見えたてまつるふしもあらばや、とは思せど、さ すがに、とかくやと、かたがたにやすからず聞こえなしたま へば、苦しう思されけり。 The Ivy 藤壺女御、女二の宮の養育に尽瘁する

そのころ、藤壼と聞こゆるは、故左大臣殿 の女御になむおはしける、まだ、春宮と聞 こえさせし時、人よりさきに参りたまひに しかば、睦ましくあはれなる方の御思ひはことにものしたま ふめれど、そのしるしと見ゆるふしもなくて年経たまふに、 中宮には、宮たちさへあまたここら大人びたまふめるに、さ やうのことも少なくて、ただ女宮一ところをぞ持ちたてまつ りたまへりける。わがいと口惜しく人に圧されたてまつりぬ る宿世嘆かしくおぼゆるかはりに、この宮をだにいかで行 く末の心も慰むばかりにて見たてまつらむ、とかしづききこ えたまふことおろかならず。御容貌もいとをかしくおはすれ ば、帝もらうたきものに思ひきこえさせたまへり。女一の宮

を、世にたぐひなきものにかしづききこえさせたまふに、お ほかたの世のおぼえこそ及ぶべうもあらね、内々の御ありさ まはをさをさ劣らず、父大臣の御勢いかめしかりしなごり いたく衰へねば、ことに心もとなきことなどなくて、さぶら ふ人々のなり姿よりはじめ、たゆみなく、時々につけつつ、 ととのへ好み、いまめかしくゆゑゆゑしきさまにもてなした まへり。 藤壺女御の死去 女二の宮の不安な将来 十四になりたまふ年、御裳着せたてまつり たまはんとて、春よりうちはじめて、他事 なく思しいそぎて、何ごともなべてならぬ さまに、と思しまうく。いにしへより伝はりたりける宝物ど も、このをりにこそはと探し出でつつ、いみじく営みたまふ に、女御、夏ごろ、物の怪にわづらひたまひて、いとはかな く亡せたまひぬ。言ふかひなく口惜しきことを内裏にも思し 嘆く。心ばへ情々しく、なつかしきところおはしつる御方な

れば、殿上人どもも、 「こよなくさうざうしかるべきわざか な」と惜しみきこゆ。おほかたさるまじき際の女官などまで、 しのびきこえぬはなし。  宮は、まして、若き御心地に心細く悲しく思し入りたるを、 聞こしめして、心苦しくあはれに思しめさるれば、御四十九- 日過ぐるままに忍びて参らせたてまつらせたまへり。日々に 渡らせたまひつつ見たてまつらせたまふ。黒き御衣にやつれ ておはするさま、いとどらうたげにあてなる気色まさりたま へり。心ざまもいとよくおとなびたまひて、母女御よりもい ますこしづしやかに重りかなるところはまさりたまへるを、 うしろやすくは見たてまつらせたまへど、まことには、御母- 方とても、後見と頼ませたまふべき伯父などやうのはかばか しき人もなし。わづかに大蔵卿修理大夫などいふは、女御に も異腹なりける、ことに世のおぼえ重りかにもあらず。やむ ごとなからぬ人々を頼もし人にておはせんに、女は心苦しき

こと多かりぬべきこそいとほしけれなど、御心ひとつなるや うに思しあつかふも、安からざりけり。 帝、女二の宮と薫との縁組を画す 御前の菊うつろひはてて盛りなるころ、空 のけしきのあはれにうちしぐるるにも、ま づこの御方に渡らせたまひて、昔の事など 聞こえさせたまふに、御答へなども、おほどかなるものから いはけなからずうち聞こえさせたまふを、うつくしく思ひき こえさせたまふ。かやうなる御さまを見知りぬべからん人の、 もてはやしきこえんもなどかはあらん、朱雀院の姫宮を六条- 院に譲りきこえたまひしをりの定めどもなど思しめし出づる に、 「しばしは、いでや飽かずもあるかな、さらでもおはし なまし、と聞こゆる事どもありしかど、源中納言の人よりこ となるありさまにてかくよろづを後見たてまつるにこそ、そ の昔の御おぼえ衰へず、やむごとなきさまにてはながらへた まふめれ。さらずは、御心より外なる事どもも出で来て、お

のづから人に軽められたまふこともやあらまし」
など思しつ づけて、ともかくも御覧ずる世にや思ひ定めまし、と思し寄 るには、やがてそのついでのままに、この中納言より外に、 よろしかるべき人、また、なかりけり。 「宮たちの御かたは らにさし並べたらんに、何ごとも目ざましくはあらじを。も とより思ふ人持たりて、聞きにくきことうちまずまじく、は た、あめるを、つひにはさやうの事なくてしもえあらじ。さ らぬさきに、さもやほのめかしてまし」など、をりをり思し めしけり。  御碁など打たせたまふ。暮れゆくままに、時雨をかしきほ どにて、花の色も夕映えしたるを御覧じて、人召して、 「た だ今、殿上には誰々か」と問はせたまふに、 「中務の親王、 上野の親王、中納言源朝臣さぶらふ」と奏す。 「中納言 の朝臣こなたへ」と仰せ言ありて、参りたまへり。げに、か くとり分きて召し出づるもかひありて、遠くよりかをれる匂

ひよりはじめ人に異なるさましたまへり。 「今日の時雨、 常よりことにのどかなるを、遊びなどすさまじき方にて、い とつれづれなるを、いたづらに日を送る戯れにて、これなん よかるべき」とて、碁盤召し出でて、御碁の敵に召し寄す。 いつもかやうに、け近くならしまつはしたまふにならひにた れば、さにこそはと思ふに、 「よき賭物はありぬべけれど、 軽々しくはえ渡すまじきを、何をかは」などのたまはする御- 気色いかが見ゆらん、いとど心づかひしてさぶらひたまふ。  さて打たせたまふに、三番に数一つ負けさせたまひぬ。 「ねたきわざかな」とて、 「まづ、今日は、この花一枝ゆ るす」とのたまはすれば、御答へ聞こえさせで、下りておも しろき枝を折りて参りたまへり。   世のつねの垣根ににほふ花ならばこころのままに折り   て見ましを と奏したまへる、用意あさからず見ゆ。

  霜にあへず枯れにし園の菊なれどのこりの色はあせず  もあるかな とのたまはす。  かやうに、をりをりほのめかさせたまふ御気色を人づてな らず承りながら、例の心の癖なれば、急がしくしもおぼえ ず。 「いでや、本意にもあらず。さまざまにいとほしき人々 の御事どもをも、よく聞き過ぐしつつ年経ぬるを、今さらに 聖よのものの、世に還り出でん心地すべきこと」と思ふも、 かつはあやしや。ことさらに心を尽くす人だにこそあなれ、 とは思ひながら、后腹におはせばしもとおぼゆる心の中ぞ、 あまりおほけなかりける。 夕霧、六の君の婿に匂宮をと切望する かかることを、右大殿ほの聞きたまひて、 「六の君はさりともこの君にこそは。しぶ しぶなりとも、まめやかに恨み寄らば、つ ひには、え否びはてじ」と思しつるを、思ひの外の事出で来

ぬべかなり、とねたく思されければ、兵部卿宮、はた、わざ とにはあらねど、をりをりにつけつつをかしきさまに聞こえ たまふことなど絶えざりければ、 「さばれ、なほざりのすき にはありとも、さるべきにて御心とまるやうもなどかなから ん。水漏るまじく思ひ定めんとても、なほなほしき際に下ら ん、はた、いと人わろく飽かぬ心地すべし」など思しなりに たり。   「女子うしろめたげなる世の末にて、帝だに婿求めたま ふ世に、まして、ただ人のさかり過ぎんもあいなし」など、 そしらはしげにのたまひて、中宮をもまめやかに恨み申した まふことたび重なれば、聞こしめしわづらひて、 「いとほ しく、かくおほなおほな思ひ心ざして年経たまひぬるを、あ やにくにのがれきこえたまはんも情なきやうならん。親王た ちは、御後見からこそともかくもあれ。上の、御代も末にな りゆく、とのみ思しのたまふめるを、ただ人こそ、ひと事に

定まりぬれば、また心を分けんことも難げなめれ、それだに、 かの大臣の、まめだちながらこなたかなたうらやみなくもて なして、ものしたまはずやはある。まして、これは、思ひお きてきこゆることもかなはば、あまたもさぶらはむになどか あらん」
など、例ならず言つづけて、あるべかしく聞こえさ せたまふを、わが御心にも、もとよりもて離れて、はた、思 さぬことなれば、あながちにはなどてかはあるまじきさまに も聞こえさせたまはん。ただ、いと事うるはしげなるあたり にとり籠められて、心やすくならひたまへるありさまのとこ ろせからんことをなま苦しく思すにものうきなれど、げに、 この大臣にあまり怨ぜられはてんもあいなからんなど、やう やう思し弱りにたるなるべし。あだなる御心なれば、かの 按察大納言の紅梅の御方をもなほ思し絶えず、花紅葉につけ てものたまひわたりつつ、いづれをもゆかしくは思しけり。 されどその年はかはりぬ。 薫、女二の宮との縁組を承諾 大君を想う

女二の宮も御服はてぬれば、いとど何ごと にかは憚りたまはん。さも聞こえ出でば、 と思しめしたる御気色など告げきこゆる人- 人もあるを、あまり知らず顔ならんもひがひがしうなめげな り、と思しおこして、ほのめかしまゐらせたまふをりをりも あるに、はしたなきやうはなどてかはあらん。そのほどに思 し定めたなり、と伝にも聞く。みづから御気色をも見れど、 心の中には、なほ飽かず過ぎたまひにし人の悲しさのみ忘る べき世なくおぼゆれば、うたて、かく契り深くものしたまひ ける人の、などてかはさすがにうとくては過ぎにけん、と心- 得がたく思ひ出でらる。 「口惜しき品なりとも、かの御あり さまにすこしもおぼえたらむ人は、心もとまりなんかし。昔 ありけん香の煙につけてだに、いま一たび見たてまつるもの にもがな」とのみおぼえて、やむごとなき方ざまに、いつし かなど急ぐ心もなし。 匂宮、六の君と婚約 中の君の不安と後悔

右大殿には急ぎたちて、八月ばかりに、と 聞こえたまひけり。二条院の対の御方には、 聞きたまふに、 「さればよ。いかでかは。 数ならぬありさまなめれば、必ず人わらへにうき事出で来ん ものぞとは、思ふ思ふ過ぐしつる世ぞかし。あだなる御心と 聞きわたりしを、頼もしげなく思ひながら、目に近くては、 ことにつらげなることも見えず、あはれに深き契りをのみし たまへるを、にはかに変りたまはんほど、いかがは安き心地 はすべからむ。ただ人の仲らひなどのやうに、いとしもなご りなくなどはあらずとも、いかに安げなき事多からん。なほ いとうき身なめれば、つひには山住みに還るべきなめり」と 思すにも、やがて跡絶えなましよりは、山がつの待ち思はん も人わらへなりかし、かへすがへすも、宮ののたまひおきし ことに違ひて草のもとを離れにける心軽さを、恥づかしくも つらくも思ひ知りたまふ。

「故姫君の、いとしどけなげにものはかなきさまにのみ何ご とも思しのたまひしかど、心の底のづしやかなるところはこ よなくもおはしけるかな。中納言の君の、今に忘るべき世な く嘆きわたりたまふめれど、もし世におはせましかば、また かやうに思すことはありもやせまし。それを、いと深くいか でさはあらじと思ひ入りたまひて、とざまかうざまにもて離 れんことを思して、かたちをも変へてんとしたまひしぞかし。 必ずさるさまにてぞおはせまし。今思ふに、いかに重りかな る御心おきてならまし。亡き御影どもも、我をば、いかにこ よなきあはつけさと見たまふらん」と、恥づかしく悲しく思 せど、何かは、かひなきものから、かかる気色をも見えたて まつらん、と忍びかへして、聞きも入れぬさまにて過ぐした まふ。  宮は、常よりも、あはれになつかしく、起き臥し語らひ契 りつつ、この世のみならず、長きことをのみぞ頼めきこえた

まふ。さるは、この五月ばかりより、例ならぬさまに悩まし くしたまふこともありけり。こちたく苦しがりなどはしたま はねど、常よりも物まゐることいとどなく、臥してのみおは するを、まださやうなる人のありさまよくも見知りたまはね ば、ただ暑きころなればかくおはするなめり、とぞ思したる。 さすがにあやし、と思しとがむることもありて、 「もし。 いかなるぞ。さる人こそ、かやうには悩むなれ」などのたま ふをりもあれど、いと恥づかしくしたまひて、さりげなくの みもてなしたまへるを、さし過ぎ聞こえ出づる人もなければ、 たしかにもえ知りたまはず。  八月になりぬれば、その日など、外よりぞ伝へ聞きたまふ。 宮は、隔てんとにはあらねど、言ひ出でんほど心苦しくいと ほしく思されて、さものたまはぬを、女君は、それさへ心憂 くおぼえたまふ。忍びたる事にもあらず、世の中なべて知り たることを、そのほどなどだにのたまはぬことと、いかが恨

めしからざらん。かく渡りたまひにし後は、ことなる事なけ れば、内裏に参りたまひても、夜とまることはことにしたま はず、ここかしこの御夜離れなどもなかりつるを、にはかに いかに思ひたまはんと、心苦しき紛らはしに、このごろは、 時々御宿直とて参りなどしたまひつつ、かねてよりならはし きこえたまふをも、ただつらき方にのみぞ思ひおかれたまふ べき。 薫大君を追懐しつつ中の君に同情し恋慕す 中納言殿も、いといとほしきわざかな、と 聞きたまふ。 「花心におはする宮なれば、 あはれとは思すとも、いまめかしき方に必 ず御心移ろひなんかし。女方も、いとしたたかなるわたりに て、ゆるびなくきこえまつはしたまはば、月ごろも、さもな らひたまはで、待つ夜多く過ぐしたまはんこそ、あはれなる べけれ」など思ひよるにつけても、 「あいなしや、わが心よ。 何しに譲りきこえけん。昔の人に心をしめてし後、おほかた

の世をも思ひ離れてすみはてたりし方の心も濁りそめにしか ば、ただかの御事をのみとざまかうざまには思ひながら、さ すがに人の心ゆるされであらむことは、はじめより思ひし本- 意なかるべし、と憚りつつ、ただいかにして、すこしもあは れと思はれて、うちとけたまへらん気色をも見んと、行く先 のあらましごとのみ思ひつづけしに、人は同じ心にもあらず もてなして、さすがに一方にもえさし放つまじく思ひたまへ る慰めに、同じ身ぞと言ひなして、本意ならぬ方におもむけ たまひしがねたく恨めしかりしかば、まづその心おきてを違 へんとて、急ぎせしわざぞかし」
など、あながちに女々しく もの狂ほしく率て歩きたばかりきこえしほど、思ひ出づるも、 いとけしからざりける心かなと、かへすがへすぞ悔しき。宮 も、さりとも、そのほどのありさま思ひ出でたまはば、わが 聞かんところをもすこしは憚りたまはじや、と思ふに、 「い でや、今は、そのをりのことなど、かけてものたまひ出でざ

めりかし。なほあだなる方に進み、移りやすなる人は、女の ためのみにもあらず、頼もしげなく軽々しき事もありぬべき なめりかし」
など、憎く思ひきこえたまふ。わがまことにあ まり一方にしみたる心ならひに、人はいとこよなくもどかし く見ゆるなるべし。 「かの人をむなしく見なしきこえたまう てし後思ふには、帝の御むすめを賜はんと思ほしおきつるも うれしくもあらず。この君を見ましかばとおぼゆる心の月日 にそへてまさるも、ただ、かの御ゆかりと思ふに、思ひ離れ がたきぞかし。はらからといふ中にも、限りなく思ひかはし たまへりしものを、今はとなりたまひにしはてにも、とまら ん人を同じことと思へとて、よろづは思はずなることもなし、 ただ、かの思ひおきてしさまを違へたまへるのみなん、口惜 しう恨めしきふしにて、この世には残るべき、とのたまひし ものを。天翔りても、かやうなるにつけては、いとどつらし とや見たまふらむ」など、つくづくと、人やりならぬ独り寝

したまふ夜な夜なは、はかなき風の音にも目のみ覚めつつ、 来し方行く先、人の上さへあぢきなき世を思ひめぐらした まふ。  なげのすさびにものをも言ひふれ、け近く使ひ馴らしたま ふ人々の中には、おのづから憎からず思さるるもありぬべけ れど、まことには心とまるもなきこそさはやかなれ。さるは、 かの君たちのほどに劣るまじき際の人々も、時世に従ひつつ 衰へて心細げなる住まひするなどを、尋ねとりつつあらせた まひなどいと多かれど、今はと世を遁れ背き離れん時、この 人こそと、とりたてて心とまる絆になるばかりなる事はなく て過ぐしてん、と思ふ心深かりしを、いでさもわろく、わが 心ながらねぢけてもあるかななど、常よりも、やがてまどろ まず明かしたまへる朝に、霧の籬より、花の色々おもしろく 見えわたる中に、朝顔のはかなげにてまじりたるを、なほこ とに目とまる心地したまふ。 「明くる間咲きて」とか、常な

き世にもなずらふるが、心苦しきなめりかし。格子も上げな がら、いとかりそめにうち臥しつつのみ明かしたまへば、こ の花の開くるほどをも、ただ独りのみぞ見たまひける。  人召して、 「北の院に参らむに、ことごとしからぬ車さ し出でさせよ」とのたまへば、 「宮は、昨日より内裏にな んおはしますなる。昨夜、御車率て帰りはべりにき」と申す。 「さばれ、かの対の御方の悩みたまふなるとぶらひきこえ む。今日は、内裏に参るべき日なれば、日たけぬさきに」と のたまひて、御装束したまふ。出でたまふままに、下りて花 の中にまじりたまへるさま、ことさらに艶だち色めきてもも てなしたまはねど、あやしく、ただうち見るになまめかしく 恥づかしげにて、いみじく気色だつ色好みどもになずらふべ くもあらず、おのづからをかしくぞ見えたまひける。朝顔を ひき寄せたまへる、露いたくこぼる。    「けさのまの色にやめでんおく露の消えぬにかかる花

  と見る見る はかな」
と独りごちて、折りて持たまへり。女郎花をば見過 ぎてぞ出でたまひぬる。 薫、中の君を訪れ、互いに胸中を訴えあう 明けはなるるままに、霧たちみちたる空を かしきに、 「女どちはしどけなく朝寝した まへらむかし。格子、妻戸などうち叩き声 づくらんこそ、うひうひしかるべけれ。朝まだき、まだき来 にけり」と思ひながら、人召して、中門の開きたるより見せ たまへば、 「御格子ど もまゐりてはべるべし。 女房の御けはひもしはべ りつ」と申せば、下りて、 霧の紛れにさまよく歩み 入りたまへるを、宮の忍 びたる所より帰りたまへ

るにやと見るに、露にうちしめりたまへるかをり、例の、い とさまことに匂ひ来れば、 「なほめざましくおはすかし。 心をあまりをさめたまへるぞ憎き」など、あいなく若き人々 は聞こえあへり。おどろき顔にはあらず、よきほどにうちそ よめきて御褥さし出でなどするさまも、いとめやすし。 「こ れにさぶらへ、とゆるさせたまふほどは、人々しき心地すれ ど、なほかかる御簾の前にさし放たせたまへる愁はしさにな ん、しばしばもえさぶらはぬ」とのたまへば、 「さらば、 いかがははべるべからむ」など聞こゆ。 「北面などやうの隠 れぞかし、かかる古人などのさぶらはんにことわりなる休み 所は。それも、また、ただ御心なれば、愁へきこゆべきにも あらず」とて、長押に寄りかかりておはすれば、例の、人々、 「なほ、あしこもとに」などそそのかしきこゆ。  もとよりもけはひはやりかに男々しくなどはものしたまは ぬ人柄なるを、いよいよしめやかにもてなしをさめたまへれ

ば、今はみづから聞こえたまふことも、やうやううたてつつ ましかりし方すこしづつ薄らぎて面馴れたまひにたり。 「悩 ましく思さるらむさまも、いかなれば」など問ひきこえたま へど、はかばかしくも答へきこえたまはず、常よりもしめり たまへる気色の心苦しきもあはれに思ほえたまひて、こまや かに、世の中のあるべきやうなどを、はらからやうの者のあ らましやうに、教へ慰めきこえたまふ。  声なども、わざと似たまへりともおぼえざりしかど、あや しきまでただそれとのみおぼゆるに、人目見苦しかるまじく は、簾もひき上げてさし対ひきこえまほしく、うち悩みた まへらん容貌ゆかしくおぼえたまふも、なほ世の中にもの思 はぬ人は、えあるまじきわざにやあらむ、とぞ思ひ知られた まふ。 「人々しくきらきらしき方にははべらずとも、心に 思ふことあり、嘆かしく身をもて悩むさまになどはなくて過 ぐしつべきこの世と、みづから思ひたまへし。心から、悲し

きことも、をこがましく悔しきもの思ひをも、かたがたに安 からず思ひはべるこそいとあいなけれ。官位などいひて、大 事にすめる、ことわりの愁へにつけて嘆き思ふ人よりも、こ れや、いますこし罪の深さはまさるらむ」
など言ひつつ、折 りたまへる花を、扇にうち置きて見ゐたまへるに、やうやう 赤みもて行くもなかなか色のあはひをかしく見ゆれば、やを らさし入れて、   よそへてぞ見るべかりけるしら露のちぎりかおきしあ   さがほの花 ことさらびてしももてなさぬに、露を落さで持たまへりける よ、とをかしく見ゆるに、置きながら枯るるけしきなれば、    「消えぬまにかれぬる花のはかなさにおくるる露は   なほぞまされる 何にかかれる」と、いと忍びて、言もつづかず。つつましげ に言ひ消ちたまへるほど、なほいとよく似たまへるものかな、

と思ふにも、まづぞ悲しき。 「秋の空は、いますこしながめのみまさりはべる。つれ づれの紛らはしにも、と思ひて、先つころ、宇治にものして はべりき。庭も籬もまことにいとど荒れはててはべりしに、 たへがたきこと多くなん。故院の亡せたまひて後、二三年ば かりの末に、世を背きたまひし嵯峨院にも、六条院にも、さ しのぞく人の心をさめん方なくなんはべりける。木草の色に つけても、涙にくれてのみなん帰りはべりける。かの御あた りの人は、上下心浅き人なくこそはべりけれ、方々集ひもの せられける人々も、みな所どころあかれ散りつつ、おのおの 思ひ離るる住まひをしたまふめりしに、はかなきほどの女房 などは、まして心をさめん方なくおぼえけるままに、ものお ぼえぬ心にまかせつつ山林に入りまじり、すずろなる田舎人 になりなど、あはれにまどひ散るこそ多くはべりけれ。さて、 なかなかみな荒しはて、忘れ草生ほして後なん、この右大臣

も渡り住み、宮たちなども方々ものしたまへば、昔に返りた るやうにはべめる。さる世にたぐひなき悲しさと見たまへし ことも、年月経れば、思ひさますをりの出で来るにこそは、 と見はべるに、げに限りあるわざなりけり、となん見えはべ る。かくは聞こえさせながらも、かのいにしへの悲しさは、 まだいはけなくもはべりけるほどにて、いとさしもしまぬに やはべりけん。なほ、この近き夢こそ、さますべき方なく思 ひたまへらるるは、同じこと、世の常なき悲しびなれど、罪- 深き方はまさりてはべるにやと、それさへなん心憂くはべ る」
とて、泣きたまへるほど、いと心深げなり。  昔の人をいとしも思ひきこえざらん人だに、この人の思ひ たまへる気色を見んには、すずろにただにもあるまじきを、 まして、我もものを心細く思ひ乱れたまふにつけては、いと ど常よりも、面影に恋しく悲しく思ひきこえたまふ心なれば、 いますこしもよほされて、ものもえ聞こえたまはず、ためら

ひかねたまへるけはひを、かたみにいとあはれと思ひかはし たまふ。 「世のうきよりはなど、人は言ひしをも、さやうに思 ひくらぶる心もことになくて年ごろは過ぐしはべりしを、今 なん、なほいかで静かなるさまにても過ぐさまほしく思うた まふるを、さすがに心にもかなはざめれば、弁の尼こそうら やましくはべれ。この二十日あまりのほどは、かの近き寺の 鐘の声も聞きわたさまほしくおぼえはべるを、忍びて渡させ たまひてんや、と聞こえさせばや、となん思ひはべりつる」 とのたまへば、 「荒さじと思すとも、いかでかは。心やす き男だに、往き来のほど、荒ましき山道にはべれば、思ひつ つなん月日も隔たりはべる。故宮の御忌日は、かの阿闍梨に さるべき事どもみな言ひおきはべりにき。かしこは、なほ、 尊き方に思し譲りてよ。時々見たまふるにつけては、心まど ひの絶えせぬもあいなきに、罪失ふさまになしてばや、とな

ん思ひたまふるを、またいかが思しおきつらん。ともかくも 定めさせたまはんに従ひてこそは、とてなん。あるべからむ やうにのたまはせよかし。何ごともうとからず承らんのみこ そ、本意のかなふにてははべらめ」
など、まめだちたる事ど もを聞こえたまふ。経仏など、この上も供養じたまふべきな めり。かやうなるついでにことつけて、やをら籠りゐなばや などおもむけたまへる気色なれば、 「いとあるまじき事なり。 なほ何ごとも心のどかに思しなせ」と教へきこえたまふ。  日さしあがりて、人々参り集まりなどすれば、あまり長居 も事あり顔ならむによりて、出でたまひなんとて、 「いづこ にても御簾の外にはならひはべらねば、はしたなき心地しは べりてなん。いま、また、かやうにもさぶらはん」とて立ち たまひぬ。宮の、などか、なきをりには来つらん、と思ひた まひぬべき御心なるもわづらはしくて、侍所の別当なる右京- 大夫召して、 「昨夜まかでさせたまひぬ、と承りて参りつる

を、まだしかりければ口惜しきを。内裏にや参るべき」
との たまへば、 「今日は、まかでさせたまひなん」と申せば、 「さらば、夕つ方も」とて出でたまひぬ。 薫、憂愁に堪え仏道に精進 女三の宮の不安 なほ、この御けはひありさまを聞きたまふ たびごとに、などて昔の人の御心おきてを もて違へて思ひ隈なかりけんと、悔ゆる心 のみまさりて、心にかかりたるもむつかしく、なぞや、人や りならぬ心ならん、と思ひ返したまふ。そのままに、まだ精- 進にて、いとど、ただ、行ひをのみしたまひつつ、明かし暮 らしたまふ。母宮の、なほいとも若くおほどきてしどけなき 御心にも、かかる御気色をいと危くゆゆし、と思して、 「幾世しもあらじを、見たてまつらむほどは、なほかひある さまにて見えたまへ。世の中を思ひ棄てたまはんをも、かか るかたちにては、妨げきこゆべきにもあらぬを、この世の言 ふかひなき心地すべき心まどひに、いとど罪や得ん、と思ゆ

る」
とのたまふが、かたじけなくいとほしくて、よろづを思 ひ消ちつつ、御前にてはもの思ひなきさまをつくりたまふ。 匂宮夕霧邸に迎え取られる 中の君の嘆き 右大殿には、六条院の東の殿磨きしつら ひて、限りなくよろづをととのへて待ちき こえたまふに、十六日の月やうやうさしあ がるまで心もとなければ、いとしも御心に入らぬことにて、 いかならん、と安からず思ほして、案内したまへば、 「この 夕つ方内裏より出でたまひて、二条院になむおはしますな る」と人申す。思す人持たまへれば、と心やましけれど、今- 宵過ぎんも人わらへなるべければ、御子の頭中将して聞こえ たまへり。  大ぞらの月だにやどるわが宿に待つ宵すぎて見えぬ   君かな 宮は、なかなか今なんとも見えじ、心苦し、と思して、内 裏におはしけるを、御文聞こえたまへりける、御返りやいか

がありけん、なほいとあはれに思されければ、忍びて渡りた まへりけるなりけり。らうたげなるありさまを見棄てて出づ べき心地もせず、いとほしければ、よろづに契り慰めて、も ろともに月をながめておはするほどなりけり。女君は、日ご ろもよろづに思ふこと多かれど、いかで気色に出ださじと念 じ返しつつ、つれなくさましたまふことなれば、ことに聞き もとどめぬさまに、おほどかにもてなしておはする気色、い とあはれなり。  中将の参りたまへるを聞きたまひて、さすがにかれもいと ほしければ、出でたまはんとて、 「いま、いととく参り来 ん。独り月な見たまひそ。心そらなればいと苦し」と聞こえ おきたまひて、なほかたはらいたければ、隠れの方より寝殿 へ渡りたまふ。御後手を見送るに、ともかくも思はねど、た だ枕の浮きぬべき心地すれば、心憂きものは人の心なりけり、 と我ながら思ひ知らる。 中の君身の上を省み嘆く 女房ら同情する

「幼きほどより、心細くあはれなる身ども にて、世の中を思ひとどめたるさまにもお はせざりし人一ところを頼みきこえさせて、 さる山里に年経しかど、いつとなくつれづれにすごくありな がら、いとかく心にしみて世をうきものとも思はざりしに、 うちつづきあさましき御事どもを思ひしほどは、世にまたと まりて片時経べくもおぼえず、恋しく悲しきことのたぐひあ らじと思ひしを、命長くて今までもながらふれば、人の思ひ たりしほどよりは、人にもなるやうなるありさまを、長かる べきこととは思はねど、見るかぎりは憎げなき御心ばえもて なしなるにやうやう思ふこと薄らぎてありつるを、このふし の身のうさ、はた、言はん方なく、限りとおぼゆるわざなり けり。ひたすら世に亡くなりたまひにし人よりは、さりとも、 これは、時々もなどかはとも思ふべきを、今宵かく見棄てて 出でたまふつらさ、来し方行く先みなかき乱り、心細くいみ

じきが、わが心ながら思ひやる方なく心憂くもあるかな。 おのづからながらへば」
など、慰めんことを思ふに、さらに 姨捨山の月澄みのぼりて、夜更くるままによろづ思ひ乱れた まふ。松風の吹き来る音も、荒ましかりし山おろしに思ひく らぶれば、いとのどかになつかしくめやすき御住まひなれど、 今宵はさもおぼえず、椎の葉の音には劣りて思ほゆ。    山里の松のかげにもかくばかり身にしむ秋の風は   なかりき 来し方忘れにけるにやあらむ。  老人どもなど、 「今は入らせたまひね。月見るは忌みはべ るものを。あさましく、はかなき御くだものをだに御覧じ入 れねば、いかにならせたまはん。あな見苦しや。ゆゆしう思 ひ出でらるることもはべるを、いとこそわりなく」とうち嘆 きて、 「いで、この御事よ。さりとも、かうて、おろかに はよもなりはてさせたまはじ。さ言ヘど、もとの心ざし深く

思ひそめつる仲は、なごりなからぬものぞ」
など言ひあへる も、さまざまに聞きにくく、今は、いかにもいかにもかけて 言はざらなむ、ただにこそ見め、と思さるるは、人には言は せじ、我独り恨みきこえん、とにやあらむ。 「いでや、中- 納言殿のさばかりあはれなる御心深さを」など、その昔の人- 人は言ひあはせて、 「人の御宿世のあやしかりけることよ」 と言ひあへり。 匂宮六の君と一夜を過ごし後朝の文を書く 宮は、いと心苦しく思しながら、いまめか しき御心は、いかでめでたきさまに待ち思 はれん、と心げさうして、えならずたきし めたまへる御けはひ言はん方なし。待ちつけきこえたまへる 所のありさまも、いとをかしかりけり。人のほど、ささやか にあえかになどはあらで、よきほどになりあひたる心地した まへるを、いかならむ、ものものしくあざやぎて、心ばへも たをやかなる方はなく、もの誇りかになどやあらむ、さらば

こそ、うたてあるべけれ、などは思せど、さやなる御けはひ にはあらぬにや、御心ざしおろかなるべくも思されざりけり。 秋の夜なれど、更けにしかばにや、ほどなく明けぬ。  帰りたまひても、対へはふともえ渡りたまはず、しばし大- 殿籠りて、起きてぞ御文書きたまふ。 「御気色けしうはあら ぬなめり」と、御前なる人々つきしろふ。「対の御方こそ 心苦しけれ。天の下にあまねき御心なりとも、おのづからけ おさるることもありなんかし」など、ただにしもあらず、み な馴れ仕うまつりたる人々なれば、安からずうち言ふども もありて、すべて、なほ、ねたげなるわざにぞありける。 御返りも、こなたにてこそはと思せど、夜のほどのおぼつか なさも、常の隔てよりはいかが、と心苦しければ、急ぎ渡り たまふ。 匂宮、中の君をいたわり慰める

寝くたれの御容貌いとめでたく見どころあ りて、入りたまへるに、臥したるもうたて あれば、すこし起き上りておはするに、う ち赤みたまへる顔のにほひなど、今朝しも常よりことにをか しげさまさりて見えたまふに、あいなく涙ぐまれて、しばし うちまもりきこえたまふを、恥づかしく思してうつ臥したま へる、髪のかかり髪ざしなど、なほいとあり難げなり。宮も、 なまはしたなきに、こまやかなることなどは、ふともえ言ひ 出でたまはぬ面隠しにや、 「などかくのみ悩ましげなる 御気色ならむ。暑きほどのこととかのたまひしかば、いつし かと涼しきほど待ち出でたるも、なほはればれしからぬは、 見苦しきわざかな。さまざまにせさする事も、あやしく験な き心地こそすれ。さはありとも、修法はまた延べてこそはよ からめ。験あらむ僧をがな。なにがし僧都をぞ、夜居にさぶ らはすべかりける」などやうなるまめごとをのたまへば、

かかる方にも言よきは心づきなくおぼえたまへど、むげに答 へきこえざらむも例ならねば、 「昔も、人に似ぬありさ まにて、かやうなるをりはありしかど、おのづからいとよく おこたるものを」とのたまへば、 「いとよくこそさはやか なれ」とうち笑ひて、なつかしく愛敬づきたる方はこれに並 ぶ人はあらじかし、とは思ひながら、なほ、また、とくゆか しき方の心焦られも立ちそひたまへるは、御心ざしおろかに もあらぬなめりかし。  されど見たまふほどは、変るけぢめもなきにや、後の世ま で誓ひ頼めたまふ事どもの尽きせぬを聞くにつけても、げに、 この世は、短かめる命待つ間も、つらき御心は見えぬべけれ ば、後の契りや違はぬこともあらむ、と思ふにこそ、なほこ りずまにまたも頼まれぬべけれとて、いみじく念ずべかめれ ど、え忍びあへぬにや、今日は泣きたまひぬ。日ごろも、い かでかう思ひけりと見えたてまつらじと、よろづに紛らはし

つるを、さまざまに思ひ集むることし多かれば、さのみもえ もて隠されぬにや、こぼれそめてはとみにもえためらはぬを、 いと恥づかしくわびしと思ひて、いたく背きたまへば、強ひ てひき向けたまひつつ、 「聞こゆるままに、あはれなる御 ありさまと見つるを、なほ隔てたる御心こそありけれな。さ らずは夜のほどに思し変りにたるか」とて、わが御袖して涙 を拭ひたまへば、 「夜の間の心変りこそ、のたまふにつ けて、推しはかられはべりぬれ」とて、すこしほほ笑みぬ。 「げに、あが君や、幼の御もの言ひやな。さりとまことに は心に隈のなければ、いと心やすし。いみじくことわりして 聞こゆとも、いとしるかるべきわざぞ。むげに世のことわり を知りたまはぬこそ、らうたきものからわりなけれ。よし、 わが身になしても思ひめぐらしたまへ。身を心ともせぬあり さまなり。もし思ふやうなる世もあらば、人にまさりける心 ざしのほど、知らせたてまつるべき一ふしなんある。たはや

すく言出づべきことにもあらねば、命のみこそ」
などのたま ふほどに、かしこに奉れたまへる御使、いたく酔ひすぎにけ れば、すこし憚るべきことども忘れて、けざやかにこの南- 面に参れり。 匂宮、中の君のもとで六の君の返歌を見る 海人の刈るめづらしき玉藻にかづき埋もれ たるを、さなめり、と人々見る。いつのほ どに急ぎ書きたまひつらん、と見るも、安 からずはありけんかし。宮も、あながちに隠すべきにはあら ねど、さしぐみはなほいとほしきを、すこしの用意はあれか しと、かたはらいたけれど、今はかひなければ、女房して御- 文とり入れさせたまふ。同じくは、隔てなきさまにもてなし はててむ、と思ほして、ひき開けたまへるに、継母の宮の御- 手なめりと見ゆれば、いますこし心やすくて、うち置きたま へり。宣旨書きにても、うしろめたのわざや。 「さか しらはかたはらいたさに、そそのかしはべれど、いと悩まし

げにてなむ。   女郎花しをれぞまさるあさ露のいかにおきけるなごりな   るらん」
あてやかにをかしく書きたまへり。 中の君、わが身の悲運を諦観する 「かごとがましげなるもわづらはしや。 まことは、心やすくてしばしはあらむと思 ふ世を、思ひの外にもあるかな」などはの たまへど、また二つとなくて、さるべきものに思ひならひた るただ人の仲こそ、かやうなる事の恨めしさなども、見る人- 苦しくはあれ、思へばこれはいと難し。つひにかかるべき御 事なり。宮たちと聞こゆる中にも、筋ことに世人思ひきこえ たれば、幾人も幾人もえたまはんことも、もどきあるまじけ れば、人も、この御方いとほしなども思ひたらぬなるべし。 かばかりものものしくかしづき据ゑたまひて、心苦しき方お ろかならず思したるをぞ、幸ひおはしける、と聞こゆめる。

みづからの心にも、 「あまりに馴らはしたまうて、にはかには したなかるべきが嘆かしきなめり。かかる道を、いかなれば 浅からず人の思ふらんと、昔物語などを見るにも、人の上に ても、あやしく聞き思ひしはげにおろかなるまじきわざなり けり」と、わが身になりてぞ、何ごとも思ひ知られたまひける。  宮は、常よりもあはれに、うちとけたるさまにもてなした まひて、 「むげに物まゐらざなるこそ、いとあしけれ」と て、よしある御くだもの召し寄せ、また、さるべき人召して、 ことさらに調ぜさせなどしつつ、そそのかしきこえたまへど、 いと遙かにのみ思したれば、 「見苦しきわざかな」と嘆き きこえたまふに、暮れぬれば、夕つ方寝殿へ渡りたまひぬ。 風涼しく、おほかたの空をかしきころなるに、いまめかしき にすすみたまへる御心なれば、いとどしく艶なるに、もの思 はしき人の御心の中は、よろづに忍びがたきことのみぞ多か りける。蜩の鳴く声に、山の蔭のみ恋しくて、

  おほかたに聞かましものをひぐらしの声うらめし  き秋の暮かな  今宵は、まだ更けぬに出でたまふなり。御前駆の声の遠く なるままに、海人も釣すばかりになるも、我ながら憎き心か なと、思ふ思ふ聞き臥したまへり。はじめよりもの思はせた まひしありさまなどを思ひ出づるも、うとましきまでおぼゆ。 「この悩ましき事もいかならんとすらむ。いみじく命短き族 なれば、かやうならんついでにもや、はかなくなりなむとす らん」と思ふには、 「惜しからねど、悲しくもあり。また、 いと罪深くもあなるものを」など、まどろまれぬままに思ひ 明かしたまふ。 夕霧、薫を宮中から同伴 薫、婚儀に協力 その日は、后の宮悩ましげにおはしますと て、誰も誰も参りたまへれど、御風邪にお はしましければ、ことなる事もおはしまさ ずとて、大臣は昼まかでたまひにけり。中納言の君さそひき

こえたまひて、ひとつ御車にてぞ出でたまひにける。今宵の 儀式いかならん、きよらを尽くさんと思すべかめれど、限り あらんかし。この君も、心恥づかしけれど、親しき方のおぼ えは、わが方ざまに、また、さるべき人もおはせず、ものの はえにせんに、心ことに、はた、おはする人なればなめりか し。例ならず急がしく参でたまひて、人の上に見なしたるを、 口惜しとも思ひたらず、何やかやともろ心にあつかひたまへ るを、大臣は、人知れず、なまねたしと思しけり。 匂宮と六の君の三日夜の儀盛大に催される 宵すこし過ぐるほどにおはしましたり。寝- 殿の南の廂、東によりて御座まゐれり。御- 台八つ、例の御皿などうるはしげにきよら にて、また小さき台二つに、華足の皿どもいまめかしくせさ せたまひて、餅まゐらせたまへり。めづらしからぬこと書き おくこそ憎けれ。大臣、渡りたまひて、 「夜いたう更けぬ」 と、女房してそそのかし申したまへど、いとあざれて、とみ

にも出でたまはず。北の方の御はらからの左衛門督、藤宰相 などばかりものしたまふ。  からうじて出でたまへる御さま、いと見るかひある心地す。 主の頭中将、盃ささげて御台まゐる。次々の御土器、二たび、 三たびまゐりたまふ。中納言のいたくすすめたまへるに、宮 すこしほほ笑みたまへり。 「わづらはしきわたりを」と、ふ さはしからず思ひて言ひしを思し出づるなめり。されど、見- 知らぬやうにていとまめなり。東の対に出でたまひて、御供 の人々もてはやしたまふ。おぼえある殿上人どもいと多かり。 四位六人は、女の装束に細長そへて、五位十人は、三重襲の 唐衣、裳の腰もみなけぢめあるべし。六位四人は、綾の細長、 袴など、かつは限りある事を飽かず思しければ、物の色、し ざまなどをぞきよらを尽くしたまへりける。召次、舎人など の中には、乱りがはしきまで、いかめしくなんありける。げ に、かく、にぎははしく華やかなることは見るかひあれば、

物語などにも、まづ言ひたてたるにやあらむ。されど、くは しくは、えぞ数へたてざりけるとや。 薫、匂宮の婚儀につけて、わが心を省みる 中納言殿の御前の中に、なまおぼえあざや かならぬや、暗き紛れに立ちまじりたりけ ん、帰りてうち嘆きて、 「わが殿の、 などか、おいらかに、この殿の御婿にうちならせたまふまじ き。あぢきなき御独り住みなりや」と、中門のもとにてつぶや きけるを聞きつけたまひて、をかし、となん思しける。夜の更 けてねぶたきに、かのもてかしづかれつる人々は心地よげに 酔ひ乱れて寄り臥しぬらんかしと、うらやましきなめりかし。  君は、入りて臥したまひて、 「はしたなげなるわざかな。 ことごとしげなるさましたる親の出でゐて、離れぬ仲らひな れど、これかれ、灯明かくかかげて、すすめきこゆる盃など を、いとめやすくもてなしたまふめりつるかな」と、宮の御 ありさまをめやすく思ひ出でたてまつりたまふ。げに、我に

ても、よしと思ふ女子持たらましかば、この宮をおきたてま つりて、内裏にだにえ参らせざらましと思ふに、 「誰も誰も、 宮に奉らんと心ざしたまへるむすめは、なほ源中納言にこそ と、とりどりに言ひならふなるこそ、わがおぼえの口惜しく はあらぬなめりな。さるは、いとあまり世づかず、古めきた るものを」など、心おごりせらる。 「内裏の御気色あること、 まことに思したたむに、かくのみものうくおぼえば、いかが すべからん。面だたしきことにはありとも、いかがはあらむ。 いかにぞ、故君にいとよく似たまへらん時に、うれしからむ かし」と思ひ寄らるるは、さすがにもて離るまじき心なめり かし。 薫按察の君に情けをかける 女たち薫を慕う 例の、寝ざめがちなるつれづれなれば、按- 察の君とて、人よりはすこし思ひましたま へるが局におはして、その夜は明かしたま ひつ。明け過ぎたらむを、人の咎むべきにもあらぬに、苦し

げに急ぎ起きたまふを、ただならず思ふべかめり。 うちわたし世にゆるしなき関川をみなれそめけん  名こそ惜しけれ いとほしければ、 深からずうへは見ゆれど関川のしたのかよひはたゆる   ものかは 深しとのたまはんにてだに頼もしげなきを、この上の浅さは、 いとど心やましくおぼゆらむかし。妻戸押し開けて、 「まこ とは、この空見たまへ。いかでかこれを知らず顔にては明か さんとよ。艶なる人まねにてはあらで、いとど明かしがたく なりゆく、夜な夜なの寝ざめには、この世かの世までなむ思 ひやられてあはれなる」など、言ひ紛らはしてぞ出でたまふ。 ことにをかしき言の数を尽くさねど、さまのなまめかしき見 なしにやあらむ、情なくなどは人に思はれたまはず。かりそ めの戯れ言をも言ひそめたまへる人の、け近くて見たてまつ

らばやとのみ思ひきこゆるにや、あながちに、世を背きたま へる宮の御方に、縁を尋ねつつ参り集まりてさぶらふも、あ はれなることほどほどにつけつつ多かるべし。 匂宮、六の君の容姿に魅せられる 宮は、女君の御ありさま昼見きこえたまふ に、いとど御心ざしまさりけり。大きさよ きほどなる人の、様体いときよげにて、髪 の下り端頭つきなどぞ、ものよりことにあなめでたと見えた まひける。色あひあまりなるまでにほひて、ものものしく気- 高き顔の、まみいと恥づかしげにらうらうじく、すべて何ご とも足らひて、容貌よき人と言はむに飽かぬところなし。二- 十に一つ二つぞあまりたまへりける。いはけなきほどならね ば、片なりに飽かぬところなく、あざやかに盛りの花と見え たまへり。限りなくもてかしづきたまへるに、かたほならず。 げに、親にては、心もまどはしたまひつべかりけり。ただ、 やはらかに愛敬づきらうたきことぞ、かの対の御方はまづ思

ほし出でられける。もののたまふ答へなども、恥ぢらひたれ ど、また、あまりおぼつかなくはあらず、すべていと見どこ ろ多く、かどかどしげなり。よき若人ども三十人ばかり、童 六人かたほなるなく、装束なども、例のうるはしきことは目- 馴れて思さるべかめれば、ひき違へ、心得ぬまでぞ好みそし たまへる。三条殿腹の大君を、春宮に参らせたまへるよりも、 この御事をば、ことに思ひおきてきこえたまへるも、宮の御 おぼえありさまからなめり。 中の君、匂宮の夜離れを嘆き薫に消息する かくて後、二条院に、え心やすく渡りたま はず。軽らかなる御身ならねば、思すまま に、昼のほどなどもえ出でたまはねば、や がて、同じ南の町に、年ごろありしやうにおはしまして、暮 るれば、また、えひき避きても渡りたまはずなどして、待遠 なるをりをりあるを、 「かからんとすることとは思ひしかど、 さしあたりては、いとかくやはなごりなかるべき。げに、心

あらむ人は、数ならぬ身を知らでまじらふべき世にもあらざ りけり」
と、かへすがへすも、山路分け出でけんほど、現と もおぼえず悔しく悲しければ、 「なほ、いかで忍びて渡りな む。むげに背くさまにはあらずとも、しばし心をも慰めばや。 憎げにもてなしなどせばこそ、うたてもあらめ」など、心ひ とつに思ひあまりて、恥づかしけれど、中納言殿に文奉れた まふ。 一日の御事は、阿闍梨の伝へたりしに、くはしく  聞きはべりにき。かかる御心のなごりなからましかば、  いかにいとほしく、と思ひたまへらるるにも、おろかな  らずのみなん。さりぬべくは、みづからも。 と聞こえたまへり。  陸奥国紙に、ひきつくろはずまめだち書きたまへるしも、 いとをかしげなり。宮の御忌日に、例の事どもいと尊くせさ せたまへりけるを、よろこびたまへるさまの、おどろおどろ

しくはあらねど、げに思ひ知りたまへるなめりかし。例は、 これより奉る御返りをだにつつましげに思ほして、はかばか しくもつづけたまはぬを、 「みづから」とさへのたまへるが めづらしくうれしきに、心ときめきもしぬべし。宮の、いま めかしく好みたちたまへるほどにて、思しおこたりけるも、 げに心苦しく推しはからるれば、いとあはれにて、をかしや かなることもなき御文を、うちも置かずひき返しひき返し見 ゐたまへり。御返りは、 承りぬ。一日は、聖だちたるさまにて、ことさらに  忍びはべしも、さ思ひたまふるやうはべるころほひにて  なん。なごりとのたまはせたるこそ、すこし浅くなりに  たるやうにと、恨めしく思うたまへらるれ。よろづはさ  ぶらひてなん。あなかしこ。 と、すくよかに、白き色紙のこはごはしきにてあり。 薫、中の君を訪ね、ねんごろに語り慰める

さて、またの日の夕つ方ぞ渡りたまへる。 人知れず思ふ心しそひたれば、あいなく心 づかひいたくせられて、なよよかなる御衣 どもを、いとど匂はしそへたまへるは、あまりおどろおどろ しきまであるに、丁子染の扇のもてならしたまへる移り香な どさへ、たとへん方なくめでたし。  女君も、あやしかりし夜のことなど思ひ出でたまふをりを りなきにしもあらねば、まめやかにあはれなる御心ばへの人 に似ずものしたまふを見るにつけても、さてあらましをとば かりは思ひやしたまふらん。いはけなきほどにしおはせねば、 恨めしき人の御ありさまを思ひくらぶるには、何ごともいと どこよなく思ひ知られたまふにや、常に隔て多かるもいとほ しく、もの思ひ知らぬさまに思ひたまふらむなど思ひたまひ て、今日は、御簾の内に入れたてまつりたまひて、母屋の簾 に几帳そへて、我はすこしひき入りて対面したまへり。 「わ

ざと召しとはべらざりしかど、例ならずゆるさせたまへりし よろこびに、すなはちも参らまほしくはべりしを、宮渡らせ たまふ、と承りしかば、をりあしくやはとて、今日になしは べりにける。さるは、年ごろの心のしるしもやうやうあらは れはべるにや、隔てすこし薄らぎはべりにける御簾の内よ。 めづらしくはべるわざかな」
とのたまふに、なほいと恥づか しく、言ひ出でん言葉もなき心地すれど、 「一日、うれし く聞きはべりし心の中を、例の、ただむすぼほれながら過ぐ しはべりなば、思ひ知る片はしをだにいかでかはと口惜しさ に」と、いとつつましげにのたまふが、いたく退きて、絶え 絶えほのかに聞こゆれば、心もとなくて、 「いと遠くもは べるかな。まめやかに聞こえさせ承らまほしき世の御物語も はべるものを」とのたまへば、げに、と思して、すこし身じ ろき寄りたまふけはひを聞きたまふにも、ふと胸うちつぶる れど、さりげなく、いとどしづめたるさまして、宮の御心ば

へ思はずに浅うおはしけると思しく、かつは言ひもうとめ、 また慰めも、かたがたにしづしづと聞こえたまひつつおはす。 中の君宇治への同行を願う 薫中の君に迫る 女君は、人の御恨めしさなどは、うち出で 語らひきこえたまふべきことにもあらねば、 ただ、世やはうきなどやうに思はせて、言- 少なに紛らはしつつ、山里にあからさまに渡したまへと思し く、いとねむごろに思ひてのたまふ。 「それはしも、心ひ とつにまかせては、え仕うまつるまじきことにはべなり。な ほ、宮に、ただ心うつくしく聞こえさせたまひて、かの御気- 色に従ひてなんよくはべるべき。さらずは、すこしも違ひ目 ありて、心軽くもなど思しものせんに、いとあしくはべりな ん。さだにあるまじくは、道のほども御送り迎へも、おりた ちて仕うまつらんに、何の憚りかははべらむ。うしろやすく 人に似ぬ心のほどは、宮もみな知らせたまへり」などは言ひ ながら、をりをりは、過ぎにし方の悔しさを忘るるをりなく、

ものにもがなやと、とり返さまほしきとほのめかしつつ、や うやう暗くなりゆくまでおはするに、いとうるさくおぼえて、 「さらば、心地も悩ましくのみはべるを、また、よろし く思ひたまへられんほどに、何ごとも」とて、入りたまひぬ るけしきなるが、いと口惜しければ、 「さても、いつばか り思したつべきにか。いと茂くはべし道の草も、すこしうち 払はせはべらんかし」と、心とりに聞こえたまへば、しばし 入りさして、 「この月は過ぎぬめれば、朔日のほどにも、 とこそは思ひはべれ。ただ、いと忍びてこそよからめ。何か、 世のゆるしなどことごとしく」とのたまふ声の、いみじくら うたげなるかなと、常よりも昔思ひ出でらるるに、えつつみ あへで、寄りゐたまへる柱のもとの簾の下より、やをらおよ びて御袖をとらへつ。  女、さりや、あな心憂、と思ふに、何ごとかは言はれん、 ものも言はで、いとどひき入りたまへば、それにつきていと

馴れ顔に、半らは内に入りて添ひ臥したまへり。 「あらず や。忍びてはよかるべく思すこともありけるがうれしきは、 ひが耳か、聞こえさせんとぞ。うとうとしく思すべきにもあ らぬを、心憂の御気色や」と恨みたまへば、答へすべき心地 もせず、思はずに憎く思ひなりぬるを、せめて思ひしづめて、 「思ひの外なりける御心のほどかな。人の思ふらんこと よ。あさまし」とあばめて、泣きぬべき気色なる、すこしは ことわりなれば、いとほしけれど、 「これは咎あるばかり のことかは。かばかりの対面は、いにしへをも思し出でよか し。過ぎにし人の御ゆるしもありしものを。いとこよなく思 しけるこそ、なかなかうたてあれ。すきずきしくめざましき 心はあらじと、心やすく思ほせ」とて、いとのどやかにはも てなしたまへれど、月ごろ、悔しと思ひわたる心の中の苦し きまでなりゆくさまをつくづくと言ひつづけたまひて、ゆる すべき気色にもあらぬに、せん方なく、いみじとも世の常な

り。なかなか、むげに心知らざらん人よりも恥づかしく心づ きなくて、泣きたまひぬるを、 「こはなぞ。あな若々し」 とは言ひながら、言ひ知らずらうたげに心苦しきものから、 用意深く恥づかしげなるけはひなどの、見しほどよりもこよ なくねびまさりたまひにけるなどを見るに、心からよそ人に しなして、かくやすからずものを思ふことと、悔しきにも、 また、げに音は泣かれけり。  近くさぶらふ女房二人ばかりあれど、すずろなる男のうち 入り来たるならばこそは、こはいかなることぞとも参り寄ら め、うとからず聞こえかはしたまふ御仲らひなめれば、さる やうこそはあらめ、と思ふに、かたはらいたければ、知らず 顔にてやをら退きぬるぞ、いとほしきや。男君は、いにしへ を悔ゆる心の忍びがたさなどもいとしづめがたかりぬべかめ れど、昔だにあり難かりし御心の用意なれば、なほいと思ひ のままにももてなしきこえたまはざりけり。かやうの筋は、

こまかにも、えなんまねびつづけざりける。かひなきものか ら、人目のあいなきを思へば、よろづに思ひ返して出でたま ひぬ。 薫、中の君への恋情に苦悩する まだ宵、と思ひつれど、暁近うなりにけ るを、見とがむる人もやあらんとわづらは しきも、女の御ためのいとほしきぞかし。 「悩ましげに聞きわたる御心地はことわりなりけり。いと恥 づかしと思したりつる腰のしるしに、多くは心苦しくおぼえ てやみぬるかな。例のをこがましの心や」と思へど、 「情な からむことはなほいと本意なかるべし。また、たちまちのわ が心の乱れにまかせて、あながちなる心をつかひて後、心や すくしもあらざらむものから、わりなく忍び歩かんほども心 づくしに、女のかたがた思し乱れんことよ」など、さかしく 思ふにせかれず、今の間も恋しきぞわりなかりける。さらに 見ではえあるまじくおぼえたまふも、かへすがへすあやにく

なる心なりや。昔よりはすこし細やぎて、あてにらうたかり つるけはひなどは、たち離れたりともおぼえず、身にそひた る心地して、さらに他事もおぼえずなりにたり。宇治にいと 渡らまほしげに思いためるを、さもや渡しきこえてましなど 思へど、 「まさに、宮は、ゆるしたまひてんや。さりとて、 忍びて、はた、いと便なからむ。いかさまにしてかは、人目 見苦しからで、思ふ心のゆくべき」と、心もあくがれてなが め臥したまへり。  まだいと深き朝に御文あり。例の、うはべはけざやかなる 立文にて、   「いたづらに分けつる道の露しげみむかしおぼゆる秋   の空かな 御気色の心憂さは、ことわり知らぬつらさのみなん。聞こえ させむ方なく」とあり。御返しなからむも、人の、例ならず、 と見とがむべきを、いと苦しければ、 「承りぬ。いと悩

ましくて、え聞こえさ せず」
とばかり書きつ けたまへるを、あまり 言少ななるかなと、さ うざうしくて、をかしかりつる御けはひのみ恋しく思ひ出で らる。  すこし世の中をも知りたまへるけにや、さばかりあさまし くわりなしとは思ひたまへりつるものから、ひたぶるにいぶ せくなどはあらで、いとらうらうじく恥づかしげなる気色も そひて、さすがになつかしく言ひこしらへなどして、出だし たまへるほどの心ばへなどを思ひ出づるも、ねたく悲しく、 さまざまに心にかかりて、わびしくおぼゆ。何ごとも、いに しへにはいと多くまさりて思ひ出でらる。 「何かは、この宮 離れはてたまひなば、我を頼もし人にしたまふべきにこそは あめれ。さても、あらはれて心やすきさまにはえあらじを、

忍びつつまた思ひます人なき心のとまりにてこそはあらめ」
など、ただ、このことのみつとおぼゆるぞ、けしからぬ心な るや。さばかり心深げにさかしがりたまへど、男といふもの の心憂かりけることよ。亡き人の御悲しさは言ふかひなきこ とにて、いとかく苦しきまではなかりけり。これは、よろづ にぞ思ひめぐらされたまひける。 「今日は宮渡らせたまひぬ」 など、人の言ふを聞くにも、後見の心は失せて、胸うちつぶ れていとうらやましくおぼゆ。 匂宮、中の君を訪れ、薫との仲を疑う 宮は、日ごろになりにけるは、わが心さへ 恨めしく思されて、にはかに渡りたまへる なりけり。 「何かは。心隔てたるさまにも 見えたてまつらじ。山里にと思ひ立つにも、頼もし人に思ふ 人もうとましき心そひたまへりけり」と見たまふに、世の中 いとところせく思ひなられて、なほいとうき身なりけりと、 ただ、消えせぬほどはあるにまかせておいらかならんと思ひ

はてて、いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしてゐた まへれば、いとどあはれに、うれしく思されて、日ごろの怠 りなど、限りなくのたまふ。御腹もすこしふくらかになりに たるに、かの恥ぢたまふしるしの帯のひき結はれたるほどな どいとあはれに、まだかかる人を近くても見たまはざりけれ ば、めづらしくさへ思したり。うちとけぬ所にならひたまひ て、よろづのこと心やすくなつかしく思さるるままに、おろ かならぬ事どもを尽きせず契りのたまふを聞くにつけても、 かくのみ言よきわざにやあらむと、あながちなりつる人の御- 気色も思ひ出でられて、年ごろあはれなる心ばへとは思ひわ たりつれど、かかる方ざまにては、あれをもあるまじき事と 思ふにぞ、この御行く先の頼めは、いでや、と思ひながらも すこし耳とまりける。 「さても、あさましくたゆめたゆめて、入り来たりしほどよ。 昔の人にうとくて過ぎにしことなど語りたまひし心ばへは、

げにあり難かりけりと、なほ、うちとくべく、はた、あらざ りけりかし」
など、いよいよ心づかひせらるるにも、久しく とだえたまはんことはいともの恐ろしかるべくおぼえたまへ ば、言に出でて言はねど、過ぎぬる方よりはすこしまつはし ざまにもてなしたまへるを、宮は、いとど限りなくあはれと 思ほしたるに、かの人の御移り香のいと深くしみたまへるが、 世の常の香の香に入れたきしめたるにも似ずしるき匂ひなる を、その道の人にしおはすれば、あやし、と咎め出でたまひ て、いかなりし事ぞ、と気色とりたまふに、事の外にもて離 れぬ事にしあれば、言はん方なくわりなくていと苦しと思し たるを、 「さればよ。必ずさる事はありなん、よもただには 思はじ、と思ひわたることぞかし」と、御心騒ぎけり。さる は、単衣の御衣なども脱ぎかへたまひてけれど、あやしく心 より外にぞ身にしみにける。 「かばかりにては、残りありてしもあらじ」と、よろづ

に聞きにくくのたまひつづくるに、心憂くて身ぞ置き所なき。 「思ひきこゆるさまことなるものを、我こそさきになど、 かやうにうち背く際はことにこそあれ。また御心おきたまふ ばかりのほどやは経ぬる。思ひの外にうかりける御心かな」 と、すべてまねぶべくもあらずいとほしげに聞こえたまへど、 ともかくも答へたまはぬさへ、いとねたくて、    また人に馴れける袖のうつり香をわが身にしめてう   らみつるかな 女は、あさましくのたまひつづくるに、言ふべき方もなきを、 いかがはとて、    みなれぬる中の衣とたのみしをかばかりにてやか   けはなれなん とてうち泣きたまへる気色の、限りなくあはれなるを見るに も、かかればぞかしといと心やましくて、我もほろほろとこ ぼしたまふぞ、色めかしき御心なるや。まことに、いみじき

過ちありとも、ひたぶるには、えぞうとみはつまじく、らう たげに心苦しきさまのしたまへれば、えも恨みはてたまはず、 のたまひさしつつ、かつはこしらへきこえたまふ。  またの日も、心のどかに大殿籠り起きて、御手水御粥など もこなたにまゐらす。御しつらひなども、さばかり輝くばか り高麗唐土の錦綾をたち重ねたる目うつしには、世の常に うち馴れたる心地して、人々の姿も、萎えばみたるうちまじ りなどして、いと静かに見まはさる。君はなよよかなる薄色 どもに、撫子の細長重ねて、うち乱れたまへる御さまの、何 ごともいとうるはしくことごとしきまでさかりなる人の御装 ひ、何くれに思ひくらぶれど、け劣りてもおぼえず、なつか しくをかしきも、心ざしのおろかならぬに恥なきなめりかし。 まろにうつくしく肥えたりし人の、すこし細やぎたるに、色 はいよいよ白くなりて、あてにをかしげなり。かかる御移り 香などのいちじるからぬをりだに、愛敬づきらうたきところ

などの、なほ人には多くまさりて思さるるままには、 「これ を兄弟などにはあらぬ人のけ近く言ひ通ひて、事にふれつつ、 おのづから声けはひをも聞き見馴れんは、いかでかただにも 思はん。必ずしかおぼえぬべきことなるを」と、わがいと隈 なき御心ならひに思し知らるれば、常に心をかけて、しるき さまなる文などやあると、近き御廚子小唐櫃などやうの物を も、さりげなくて探したまへど、さる物もなし。ただ、いと すくよかに言少なにてなほなほしきなどぞ、わざともなけれ ど、物にとりまぜなどしてもあるを、 「あやし。なほ、いと かうのみはあらじかし」と疑はるるに、いとど今日は安から ず思さるる、ことわりなりかし。 「かの人の気色も、心あら む女のあはれと思ひぬべきを、などてかは、事の外にはさし 放たん。いとよきあはひなれば、かたみにぞ思ひかはすらむ かし」と思ひやるぞ、わびしく腹立たしくねたかりける。な ほいと安からざりければ、その日もえ出でたまはず。六条院

には、御文をぞ二たび三たび奉れたまふを、 「いつのほどに 積る御言の葉ならん」とつぶやく老人どもあり。 薫、執心を抑えて、中の君をよく後見する 中納言の君は、かく、宮の籠りおはするを 聞くにも、心やましくおぼゆれど、 「わり なしや。これはわが心のをこがましくあし きぞかし。うしろやすく、と思ひそめてしあたりのことを、 かくは思ふべしや」と、強ひてぞ思ひ返して、さは言へどえ 思し棄てざめりかし、とうれしくもあり。人々のけはひなど の、なつかしきほどに、萎えばみためりしをと、思ひやりた まひて、母宮の御方に参りたまひて、 「よろしき設けの物ど もやさぶらふ。使ふべきこと」など申したまへば、 「例 の、たたむ月の法事の料に、白きものどもやあらむ。染めた るなどは、今はわざともしおかぬを、急ぎてこそせさせめ」 とのたまへば、 「なにか。ことごとしき用にもはべらず。 さぶらはんに従ひて」とて、御匣殿などに問はせたまひて、

女の装束どもあまた領に、細長どもも、ただあるに従ひて、 ただなる絹綾などとり具したまふ。みづからの御料と思し きには、わが御料にありける、紅の擣目なべてならぬに、白 き綾どもなど、あまた重ねたまへるに、袴の具はなかりける に、いかにしたるにか、腰のひとつあるを、ひき結び加へて、   むすびける契りことなる下紐をただひとすぢにうらみ  やはする 大輔の君とて、おとなおとなしき人の、睦ましげなるに遣は す。 「とりあへぬさまの見苦しきを、つきづきしくもて隠し て」などのたまひて、御料のは、忍びやかなれど、箱にて、 つつみもことなり。御覧ぜさせねど、さきざきも、かやうな る御心しらひは常の事にて目馴れにたれば、気色ばみ返しな どひこじろふべきにもあらねば、いかがとも思ひわづらはで、 人々にとり散らしなどしたれば、おのおのさし縫ひなどす。 若き人々の、御前近く仕うまつるなどをぞ、とり分きてはつ

くろひたつべき。下仕どもの、いたく萎えばみたりつる姿ど もなどに、白き袷などにて、掲焉ならぬぞなかなかめやすか りける。  誰かは、何ごとをも後見かしづききこゆる人のあらむ。宮 は、おろかならぬ御心ざしのほどにて、よろづをいかでと思 しおきてたれど、こまかなる内々のことまではいかがは思し 寄らむ。限りもなく人にのみかしづかれてならはせたまへれ ば、世の中うちあはずさびしきこと、いかなるものとも知り たまはぬ、ことわりなり。艶に、そぞろ寒く花の露をもてあ そびて世は過ぐすべきものと思したるほどよりは、思す人の ためなれば、おのづから、をりふしにつけつつ、まめやかな る事までもあつかひ知らせたまふこそ、あり難くめづらかな る事なめれば、「いでや」など、譏らはしげに聞こゆる御乳母 などもありけり。童べなどの、なりあざやかならぬ、をりを りうちまじりなどしたるをも、女君はいと恥づかしく、なか

なかなる住まひにもあるかななど、人知れず思すことなきに しもあらぬに、ましてこのごろは、世に響きたる御ありさま の華やかさに、かつは宮の内の人の見思はんことも、人げな きことと、思し乱るることもそひて嘆かしきを、中納言の君 はいとよく推しはかりきこえたまへば、うとからむあたりに は、見苦しくくだくだしかりぬべき心しらひのさまも、侮る とはなけれど、何かは、ことごとしくしたて顔ならむも、な かなかおぼえなく見とがむる人やあらん、と思すなりけり。 今ぞ、また、例の、めやすきさまなるものどもなどせさせた まひて、御小袿織らせ、綾の料賜はせなどしたまひける。こ の君しもぞ、宮に劣りきこえたまはず、さまことにかしづき たてられて、かたはなるまで心おごりもし、世を思ひ澄まし て、あてなる心ばへはこよなけれど、故親王の御山住みを見 そめたまひしよりぞ、さびしき所のあはれさはさまことなり けり、と心苦しく思されて、なべての世をも思ひめぐらし、

深き情をもならひたまひにける。いとほしの人ならはしや とぞ。 中の君、薫の態度に悩みわずらう かくて、なほ、いかでうしろやすくおとな しき人にてやみなん、と思ふにも従はず、 心にかかりて苦しければ、御文などを、あ りしよりはこまやかにて、ともすれば、忍びあまりたる気色 見せつつ聞こえたまふを、女君、いとわびしきことそひたる 身、と思し嘆かる。 「ひとへに知らぬ人ならば、あなものぐ るほしとはしたなめさし放たんにもやすかるべきを、昔より さまことなる頼もし人にならひ来て、今さらに仲あしくなら むも、なかなか人目あやしかるべし。さすがに、あさはかに もあらぬ御心ばへありさまのあはれを知らぬにはあらず。 さりとて、心かはし顔にあひしらはんも、いとつつましく、 いかがはすべからむ」と、よろづに思ひ乱れたまふ。さぶら ふ人々も、すこしものの言ふかひありぬべく若やかなるはみ

なあたらし。見馴れたるとては、かの山里の古女ばらなり。 思ふ心をも、同じ心になつかしく言ひあはすべき人のなきま まには、故姫君を思ひ出できこえたまはぬをりなし。おはせ ましかば、この人もかかる心をそへたまはましや、といと悲 しく、宮のつらくなりたまはん嘆きよりも、このこといと苦 しくおぼゆ。 薫、中の君と対面、思いを抑えて語りあう 男君も、強ひて、思ひわびて、例の、しめ やかなる夕つ方おはしたり。やがて端に 御褥さし出でさせたまひて、 「いと悩 ましきほどにてなん、え聞こえさせぬ」と、人して聞こえ出 だしたまへるを聞くに、いみじくつらくて涙の落ちぬべきを、 人目につつめば、強ひて紛らはして、 「悩ませたまふをり は、知らぬ僧なども近く参り寄るを、医師などの列にても、 御簾の内にはさぶらふまじくやは。かく人づてなる御消息な む、かひなき心地する」とのたまひて、いとものしげなる御-

気色なるを、一夜ももののけしき見し人々、げにいと見苦し くはべるめりとて、母屋の御簾うちおろして、夜居の僧の座 に入れたてまつるを、女君、まことに心地もいと苦しけれど、 人のかく言ふに、掲焉ならむも、また、いかが、とつつまし ければ、ものうながらすこしゐざり出でて、対面したまへり。  いとほのかに、時々もののたまふ御けはひの、昔の人の悩 みそめたまへりしころまづ思ひ出でらるるも、ゆゆしく悲し くて、かきくらす心地したまへば、とみにものも言はれず、 ためらひてぞ聞こえたまふ。こよなく奥まりたまへるもいと つらくて、簾の下より几帳をすこし押し入れて、例の、馴れ 馴れしげに近づき寄りたまふがいと苦しければ、わりなしと 思して、少将といひし人を近く呼び寄せて、 「胸なん痛 き。しばしおさへて」とのたまふを聞きて、 「胸はおさへ たるはいと苦しくはべるものを」とうち嘆きてゐなほりたま ふほども、げにぞ下やすからぬ。 「いかなれば、かくしも

常に悩ましくは思さるらむ。人に問ひはべりしかば、しばし こそ心地はあしかなれ、さて、また、よろしきをりありなど こそ教へはべしか。あまり若々しくもてなさせたまふなめ り」
とのたまふに、いと恥づかしくて、 「胸はいつとも なくかくこそははべれ。昔の人もさこそはものしたまひしか。 長かるまじき人のするわざとか、人も言ひはべるめる」とぞ のたまふ。げに、誰も千年の松ならぬ世を、と思ふには、い と心苦しくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かんもつ つまれず、かたはらいたき筋のことをこそ選りとどむれ、昔 より思ひきこえしさまなどを、かの御耳ひとつには心得させ ながら、人はかたはにも聞くまじきさまに、さまよくめやす くぞ言ひなしたまふを、げにあり難き御心ばへにも、と聞き ゐたりけり。  何ごとにつけても、故君の御事をぞ尽きせず思ひたまへる。 「いはけなかりしほどより、世の中を思ひ離れてやみぬべ

き心づかひをのみならひはべしに、さるべきにやはべりけん、 うときものからおろかならず思ひそめきこえはべりし一ふし に、かの本意の聖心はさすがに違ひやしにけん。慰めばかり に、ここにもかしこにも行きかかづらひて、人のありさまを 見んにつけて、紛るることもやあらんなど思ひ寄るをりをり はべれど、さらに外ざまにはなびくべくもはべらざりけり。 よろづに思ひたまへわびては、心のひく方の強からぬわざな りければ、すきがましきやうに思さるらむと恥づかしけれど、 あるまじき心のかけてもあるべくはこそめざましからめ、た だかばかりのほどにて、時々思ふ事をも聞こえさせ承りなど して、隔てなくのたまひ通はむを、誰かは咎め出づべき。世 の人に似ぬ心のほどは、皆人にもどかるまじくはべるを。な ほうしろやすく思したれ」
など、恨みみ泣きみ聞こえたまふ。 「うしろめたく思ひきこえば、かくあやしと人も見思ひ ぬべきまでは聞こえはべるべくや。年ごろ、こなたかなたに

つけつつ、見知る事どものはべりしかばこそ、さまことなる 頼もし人にて、今はこれよりなどおどろかしきこゆれ」
との たまへば、 「さやうなるをりもおぼえはべらぬものを、い とかしこきことに思しおきてのたまはするや。この御山里出- 立いそぎに、からうじて召し使はせたまふべき。それも、 げに、御覧じ知る方ありてこそはと、おろかにやは思ひはべ る」などのたまひて、なほいともの恨めしげなれど、聞く人 あれば、思ふままにもいかでかはつづけたまはん。 薫、中の君から異母妹浮舟のことを聞く 外の方をながめ出だしたれば、やうやう暗 くなりにたるに、虫の声ばかり紛れなくて、 山の方小暗く、何のあやめも見えぬに、い としめやかなるさまして寄りゐたまへるも、わづらはし、と のみ内には思さる。 「限りだにある」など、忍びやかにう ち誦じて、 「思うたまへわびにてはべり。音なしの里求め まほしきを、かの山里のわたりに、わざと寺などはなくとも、

昔おぼゆる人形をも作り、絵にも描きとりて、行ひはべらむ となん思うたまへなりにたる」
とのたまへば、 「あはれ なる御願ひに、また、うたて御手洗川近き心地する人形こそ、 思ひやりいとほしくはべれ。黄金求むる絵師もこそなど、う しろめたくぞはべるや」とのたまへば、 「そよ。その工匠 も絵師も、いかでか心にはかなふべきわざならん。近き世に 花降らせたる工匠もはべりけるを、さやうならむ変化の人も がな」と、とざまかうざまに忘れん方なきよしを、嘆きたま ふ気色の心深げなるもいとほしくて、いますこし近くすべり 寄りて、 「人形のついでに、いとあやしく、思ひ寄るま じき事をこそ思ひ出ではべれ」とのたまふけはひのすこしな つかしきもいとうれしくあはれにて、 「何ごとにか」と言 ふままに、几帳の下より手をとらふれば、いとうるさく思ひ ならるれど、いかさまにして、かかる心をやめて、なだらか にあらんと思へば、この近き人の思はんことのあいなくて、

さりげなくもてなしたまへり。   「年ごろは世にやあらむとも知らざりつる人の、この 夏ごろ、遠き所よりものして尋ね出でたりしを、うとくは思 ふまじけれど、また、うちつけに、さしも何かは睦び思はん、 と思ひはべりしを、先つころ来たりしこそ、あやしきまで昔- 人の御けはひに通ひたりしかば、あはれにおぼえなりにしか。 形見など、かう思しのたまふめるは、なかなか何ごともあさ ましくもて離れたりとなん、見る人々も言ひはべりしを、い とさしもあるまじき人のいかでかはさはありけん」とのたま ふを、夢語かとまで聞く。 「さるべきゆゑあればこそは、 さやうにも睦びきこえらるらめ。などか、今まで、かくもか すめさせたまはざらん」とのたまへば、 「いさや、その ゆゑも、いかなりけん事とも思ひわかれはべらず。ものはか なきありさまどもにて世に落ちとまりさすらへんとすらむこ ととのみ、うしろめたげに思したりしことどもを、ただ一人

かき集めて思ひ知られはべるに、また、あいなきことをさへ うちそへて、人も聞きつたへんこそ、いといとほしかるべけ れ」
とのたまふ気色見るに、宮の忍びてものなどのたまひけ ん人の忍ぶ草摘みおきたりけるなるべし、と見知りぬ。  似たりとのたまふゆかりに耳とまりて、 「かばかりにて は。同じくは言ひはてさせたまうてよ」と、いぶかしがりた まへど、さすがにかたはらいたくて、えこまかにも聞こえた まはず。 「尋ねんと思す心あらば、そのわたりとは聞こ えつべけれど、くはしくしもえ知らずや。また、あまり言は ば、心おとりもしぬべき事になん」とのたまへば、世を海中 にも、魂のあり処尋ねには、心の限り進みぬべきを、いとさ まで思ふべきにはあらざなれど、 「いとかく慰めん方なき よりは、と思ひ寄りはべる人形の願ひばかりには、などかは 山里の本尊にも思ひはべらざらん。なほ、たしかにのたまは せよ」と、うちつけに責めきこえたまふ。 「いさや、い

にしへの御ゆるしもなかりしことを、かくまで漏らしきこゆ るも、いと口軽けれど、変化の工匠求めたまふいとほしさに こそ、かくも」
とて、 「いと遠き所に年ごろ経にけるを、 母なる人の愁はしきことに思ひて、あながちに尋ねよりしを、 はしたなくもえ答へではべりしにものしたりしなり。ほのか なりしかばにや、何ごとも思ひしほどよりは見苦しからずな ん見えし。これをいかさまにもてなさむ、と嘆くめりしに、 仏にならんは、いとこよなきことにこそはあらめ、さまでは いかでかは」など聞こえたまふ。  さりげなくて、かくうるさき心をいかで言ひ放つわざもが な、と思ひたまへる、と見るはつらけれど、さすがにあはれ なり。あるまじき事とは深く思ひたまへるものから、顕証に、 はしたなきさまにはえもてなしたまはぬも、見知りたまへる にこそは、と思ふ心ときめきに、夜もいたく更けゆくを、内 には人目いとかたはらいたくおぼえたまひて、うちたゆめて

入りたまひぬれば、男君、ことわりとはかへすがへす思へど、 なほいと恨めしく口惜しきに、思ひしづめん方もなき心地し て涙のこぼるるも人わろければ、よろづに思ひ乱るれど、ひ たぶるに浅はかならむもてなし、はた、なほいとうたて、わ がためもあいなかるべければ、念じかへして、常よりも嘆き がちにて出でたまひぬ。 「かくのみ思ひては、いかがすべからむ。苦しくもあるべき かな。いかにしてかは、おほかたの世にはもどきあるまじき さまにて、さすがに思ふ心のかなふわざをすべからむ」など、 おりたちて練じたる心ならねばにや、わがため、人のためも 心やすかるまじきことを、わりなく思ほし明かす。 「似たり とのたまひつる人も、いかでかはまことかとは見るべき。さ ばかりの際なれば、思ひ寄らんに難くはあらずとも、人の、 本意にもあらずは、うるさくこそあるべけれ」など、なほそ なたざまには心もたたず。 薫、宇治を訪れて弁の尼に対面する

宇治の宮を久しく見たまはぬ時は、いとど 昔遠くなる心地して、すずろに心細ければ、 九月二十余日ばかりにおはしたり。いとど しく風のみ吹き払ひて、心すごく荒ましげなる水の音のみ宿- 守にて、人影もことに見えず。見るにはまづかきくらし、悲 しきことぞ限りなき。弁の尼召し出でたれば、障子口に、青- 鈍の几帳さし出でて参れり。 「いとかしこけれど、まし ていと恐ろしげにはべれば、つつましくてなむ」と、まほに は出で来ず。 「いかにながめたまふらん、と思ひやるに、 同じ心なる人もなき物語も聞こえんとてなん。はかなくもつ もる年月かな」とて、涙をひと目浮けておはするに、老人は いとどさらにせきあへず。 「人の上にて、あいなくもの を思すめりしころの空ぞかし、と思ひたまへ出づるに、いつ とはべらぬ中にも、秋の風は身にしみてつらくおぼえはべり て、げにかの嘆かせたまふめりしもしるき世の中の御ありさ

まを、ほのかに承るも、さまざまになん」
と聞こゆれば、 「とある事もかかる事も、ながらふればなほるやうもある を、あぢきなく思ししみけんこそ、わが過ちのやうになほ悲 しけれ。このごろの御ありさまは、何か、それこそ世の常な れ。されど、うしろめたげには見えきこえざめり。言ひても 言ひても、むなしき空にのぼりぬる煙のみこそ、誰ものがれ ぬことながら、後れ先だつほどは、なほいと言ふかひなかり けり」とても、また泣きたまひぬ。 薫、阿闍梨と寝殿の改築のことを相談する 阿闍梨召して、例の、かの御忌日の経仏な どのことのたまふ。 「さて、ここに時々 ものするにつけても、かひなきことの安か らずおぼゆるがいと益なきを、この寝殿こぼちて、かの山寺 のかたはらに堂建てむ、となん思ふを、同じくはとくはじめ てん」とのたまひて、堂いくつ、廊ども、僧房などあるべき 事ども書き出でのたまひなどせさせたまふを、 「いと尊

きこと」
と聞こえ知らす。 「昔の人の、ゆゑある御住まひに 占め造りたまひけん所をひきこぼたん、情なきやうなれど、 その御心ざしも功徳の方には進みぬべく思しけんを、とまり たまはん人々を思しやりて、えさはおきてたまはざりけるに や、今は、兵部卿宮の北の方こそはしりたまふべければ、か の宮の御料とも言ひつべくなりにたり。されば、ここながら 寺になさんことは便なかるべし。心にまかせてさもえせじ。 所のさまもあまり川面近く、顕証にもあれば、なほ寝殿を失 ひて、異ざまにも造りかへんの心にてなん」とのたまへば、 「とざまかうざまに、いともかしこく尊き御心なり。昔、 別れを悲しびて、骨をつつみてあまたの年頸にかけてはべり ける人も、仏の御方便にてなん、かの骨の嚢を棄てて、つひ に聖の道にも入りはべりにける。この寝殿を御覧ずるにつけ て、御心動きおはしますらん、ひとつにはたいだいしきこと なり。また、後の世のすすめともなるべき事にはべりけり。

急ぎ仕うまつるべし。暦の博士はからひ申してはべらむ日を 承りて、もののゆゑ知りたらん工匠二三人を賜はりて、こま かなることどもは、仏の御教のままに仕うまつらせはべら む」
と申す。とかくのたまひ定めて、御庄の人ども召して、 このほどの事ども、阿闍梨の言はんままにすべきよしなど仰 せたまふ。はかなく暮れぬれば、その夜はとどまりたまひぬ。 薫、弁の尼を召して昔話を語らせる このたびばかりこそ見め、と思して、立ち めぐりつつ見たまへば、仏もみなかの寺に 移してければ、尼君の行ひの具のみあり。 いとはかなげに住まひたるを、あはれに、いかにして過ぐす らん、と見たまふ。 「この寝殿は、変へて造るべきやうあ り。造り出でんほどは、かの廊にものしたまへ。京の宮にと り渡さるべき物などあらば、庄の人召して、あるべからむや うにものしたまへ」など、まめやかなる事どもを語らひたま ふ。ほかにては、かばかりにさだ過ぎなん人を、何かと見入

れたまふべきにもあらねど、夜も近く臥せて、昔物語などせ させたまふ。故権大納言の君の御ありさまも、聞く人なきに 心やすくて、いとこまやかに聞こゆ。 「今は、となりた まひしほどに、めづらしくおはしますらん御ありさまをいぶ かしきものに思ひきこえさせたまふめりし御気色などの思ひ たまへ出でらるるに、かく思ひかけはべらぬ世の末に、かく て見たてまつりはべるなん、かの御世に睦ましく仕うまつり おきししるしのおのづからはべりけると、うれしくも悲しく も思ひたまへられはべる。心憂き命のほどにて、さまざまの 事を見たまへ過ぐし、思ひたまへ知りはべるなん、いと恥づ かしく心憂くはべる。宮よりも、時々は参りて見たてまつれ、 おぼつかなく絶え籠りはてぬるは、こよなく思ひ隔てけるな めりなど、のたまはするをりをりはべれど、ゆゆしき身にて なん、阿弥陀仏より外には、見たてまつらまほしき人もなく なりてはべる」など聞こゆ。故姫君の御事ども、はた、尽き

せず、年ごろの御ありさまなど語りて、何のをり何とのたま ひし、花紅葉の色を見ても、はかなく詠みたまひける歌語な どを、つきなからず、うちわななきたれど、児めかしく言少 ななるものからをかしかりける人の御心ばへかなとのみ、い とど聞きそへたまふ。 「宮の御方は、いますこしいまめかし きものから、心ゆるさざらん人のためには、はしたなくもて なしたまひつべくこそものしたまふめるを、我にはいと心深 く情々しとは見えて、いかで過ごしてん、とこそ思ひたまへ れ」など、心の中に思ひくらべたまふ。 薫、浮舟について聞き知り弁に仲介を頼む さて、もののついでに、かの形代のことを 言ひ出でたまへり。 「京に、このごろ、 はべらんとはえ知りはべらず。人づてに承 りし事の筋ななり。故宮の、まだかかる山里住みもしたまは ず、故北の方の亡せたまへりけるほど近かりけるころ、中将 の君とてさぶらひける上臈の、心ばせなどもけしうはあらざ

りけるを、いと忍びてはかなきほどにもののたまはせけるを、 知る人もはべらざりけるに、女子をなん産みてはべりけるを、 さもやあらんと思す事のありけるからに、あいなくわづらは しくものしきやうに思しなりて、またとも御覧じ入るること もなかりけり。あいなくその事に思し懲りて、やがておほか た聖にならせたまひにけるを、はしたなく思ひてえさぶらは ずなりにけるが、陸奥国の守の妻になりたりけるを、一年、 上りて、その君たひらかにものしたまふよし、このわたりに もほのめかし申したりけるを、聞こしめしつけて、さらにか かる消息あるべき事にもあらず、とのたまはせ放ちければ、 かひなくてなん嘆きはべりける。さて、また、常陸になりて 下りはべりにけるが、この年ごろ音にも聞こえたまはざりつ るが、この春、上りて、かの宮には尋ね参りたりけるとなん、 ほのかに聞きはべりし。かの君の年は、二十ばかりにはなり たまひぬらんかし。いとうつくしく生ひ出でたまふがかなし

きなどこそ、中ごろは、文にさへ書きつづけてはべめりし か」
と聞こゆ。  くはしく聞きあきらめたまひて、さらば、まことにてもあ らんかし、見ばや、と思ふ心出で来ぬ。 「昔の御けはひに、 かけてもふれたらん人は、知らぬ国までも尋ね知らまほしき 心あるを、数まへたまはざりけれど、け近き人にこそはあな れ。わざとはなくとも、このわたりにおとなふをりあらむつ いでに、かくなん言ひし、と伝へたまへ」などばかりのたま ひおく。 「母君は、故北の方の御姪なり。弁も離れぬ仲 らひにはべるべきを、その昔はほかほかにはべりて、くはし くも見たまへ馴れざりき。先つころ、京より、大輔がもとよ り申したりしは、かの君なん、いかでかの御墓にだに参らん、 とのたまふなる、さる心せよなどはべりしかど、まだ、ここ にさしはへてはおとなはずはべめり。今、さらば、さやのつ いでに、かかる仰せなど伝へはべらむ」と聞こゆ。 薫、宇治の人々をいたわる 弁の尼との唱和

明けぬれば帰りたまはんとて、昨夜後れて 持てまゐれる絹綿などやうのもの、阿闍梨 に贈らせたまふ。尼君にも賜ふ。法師ばら、 尼君の下衆どもの料にとて、布などいふ物をさへ召して賜ぶ。 心細き住まひなれど、かかる御とぶらひたゆまざりければ、 身のほどにはいとめやすく、しめやかにてなん行ひける。木- 枯のたへがたきまで吹きとほしたるに、残る梢もなく散り敷 きたる紅葉を踏み分けける跡も見えぬを見わたして、とみに もえ出でたまはず。いとけしきある深山木にやどりたる蔦の 色ぞまだ残りたる。 「こだに」などすこし引きとらせたま ひて、宮へと思しくて、持たせたまふ。    やどり木と思ひいでずは木のもとの旅寝もいかにさび  しからまし と独りごちたまふを聞きて、尼君、  荒れはつる朽木のもとをやどり木と思ひおきけるほどの

 悲しさ
あくまで古めきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞいささかの慰 めには思しける。 薫、宇治の邸の件で中の君と消息を交す 宮に紅葉奉れたまへれば、男宮おはしまし けるほどなりけり。 「南の宮より」とて、 何心なく持てまゐりたるを、女君、例のむ つかしきこともこそ、と苦しく思せど、とり隠さんやは。宮、 「をかしき蔦かな」と、ただならずのたまひて、召し寄せて 見たまふ。御文には、   日ごろ、何ごとかおはしますらむ。山里にものしはべ  りて、いとど峰の朝霧にまどひはべりつる、御物語もみ  づからなん。かしこの寝殿、堂になすべきこと、阿闍梨  に言ひつけはべりにき。御ゆるしはべりてこそは、外に  移すこともものしはべらめ。弁の尼に、さるべき仰せ言  はつかはせ。

などぞある。 「よくもつれなく書きたまへる文かな。まろ ありとぞ聞きつらむ」とのたまふも、すこしは、げに、さや ありつらん。女君は、事なきをうれしと思ひたまふに、あな がちにかくのたまふをわりなしと思して、うち怨じてゐたま へる御さま、よろづの罪もゆるしつべくをかし。 「返り事 書きたまへ。見じや」とて、外ざまにむきたまへり。あまえ て書かざらむもあやしければ、   山里の御歩きのうらやましくもはべるかな。かし   こは、げに、さやにてこそよく、と思ひたまへしを。こ   とさらに、また、巌の中もとめんよりは、荒しはつまじ   く思ひはべるを、いかにもさるべきさまになさせたまは   ば、おろかならずなん。 と聞こえたまふ。かく憎き気色もなき御睦びなめり、と見た まひながら、わが御心ならひに、ただならじ、と思すが安か らぬなるべし。 匂宮、中の君と薫の仲を疑い、情愛深まる

枯れ枯れなる前栽の中に、尾花の物よりこ とにて手をさし出でて招くがをかしく見ゆ るに、まだ穂に出でさしたるも、露をつら ぬきとむる玉の緒、はかなげにうちなびきたるなど、例のこ となれど、夕風なほあはれなるころなりかし。   穂にいでぬもの思ふらししのすすき招くたもとの露  しげくして なつかしきほどの御衣どもに、直衣ばかり着たまひて、琵琶 を弾きゐたまへり。黄鐘調の掻き合はせを、いとあはれに弾 きなしたまへば、女君も心に入りたまへることにて、もの怨 じもえしはてたまはず、小さき御几帳のつまより、脇息に寄 りかかりてほのかにさし出でたまへる、いと見まほしくらう たげなり。    「秋はつる野べのけしきもしのすすきほのめく風に   つけてこそ知れ

わが身ひとつの」
とて涙ぐまるるが、さすがに恥づかしけれ ば、扇を紛らはしておはする心の中も、らうたく推しはから るれど、かかるにこそ人もえ思ひ放たざらめ、と疑はしき方 ただならで恨めしきなめり。  菊の、まだよくもうつろひはてで、わざとつくろひたてさ せたまへるは、なかなかおそきに、いかなる一本にかあらむ、 いと見どころありてうつろひたるを、とりわきて折らせたま ひて、 「花の中に偏に」と誦じたまひて、 「なにがしの 皇子の、この花めでたる夕ぞかし、いにしへ天人の翔りて、 琵琶の手教へけるは。何ごとも浅くなりにたる世はものうし や」とて、御琴さし置きたまふを、口惜しと思して、 「心こそ浅くもあらめ、昔を伝へたらむことさへは、などて かさしも」とて、おぼつかなき手などをゆかしげに思したれ ば、 「さらば、ひとりごとはさうざうしきに、さし答へし たまへかし」とて、人召して、箏の御琴とり寄せさせて、弾

かせたてまつりたまへど、 「昔こそまねぶ人もものした まひしか、はかばかしく弾きもとめずなりにしものを」とつ つましげにて手もふれたまはねば、 「かばかりのことも、 隔てたまへるこそ心憂けれ。このごろ見るわたりは、まだい と心とくべきほどにもならねど、片なりなる初ごとをも隠 さずこそあれ。すべて、女は、やはらかに心うつくしきなん よきこととこそ、その中納言も定むめりしか。かの君に、は た、かくもつつみたまはじ。こよなき御仲なめれば」など、 まめやかに恨みられてぞ、うち嘆きてすこし調べたまふ。ゆ るびたりければ、盤渉調に合はせたまふ。掻き合はせなど、 爪音をかしげに聞こゆ。伊勢の海うたひたまふ御声のあてに をかしきを、女ばら物の背後に近づき参りて、笑みひろごり てゐたり。 「二心おはしますはつらけれど、それもことわ りなれば、なほわが御前をば幸ひ人とこそ申さめ。かかる御 ありさまにまじらひたまふべくもあらざりし所の御住まひを、

また帰りなまほしげに思して、のたまはするこそいと心憂け れ」
など、ただ言ひに言へば、若き人々は、 「あなかまや」 などと制す。 夕霧、匂宮を連れ去る 中の君悲観する 御琴ども教へたてまつりなどして、三四日 籠りおはして、御物忌などことつけたまふ を、かの殿には恨めしく思して、大臣、内- 裏より出でたまひけるままにここに参りたまへれば、宮、 「こ とごとしげなるさまして、何しにいましつるぞとよ」とむつ かりたまへど、あなたに渡りたまひて対面したまふ。 「こ となることなきほどは、この院を見で久しくなりはべるもあ はれにこそ」など、昔の御物語どもすこし聞こえたまひて、 やがてひき連れきこえたまひて出でたまひぬ。御子どもの殿 ばら、さらぬ上達部殿上人などもいと多くひきつづきたまへ る、勢こちたきを見るに、並ぶべくもあらぬぞ屈しいたかり ける。人々のぞきて見たてまつりて、 「さも、きよらにお

はしける大臣かな。さばかり、いづれとなく若くさかりにて、 きよげにおはさうずる御子どもの、似たまふべきもなかりけ り。あなめでたや」
と言ふもあり。また、 「さばかりやむ ごとなげなる御さまにて、わざと迎へに参りたまへるこそ憎 けれ。やすげなの世の中や」など、うち嘆くもあるべし。御 みづからも、来し方を思ひ出づるよりはじめ、かの華やかな る御仲らひに立ちまじるべくもあらず、かすかなる身のおぼ えを、といよいよ心細ければ、なほ心やすく籠りゐなんのみ こそ目やすからめなど、いとどおぼえたまふ。はかなくて年 も暮れぬ。 中の君の出産近づく 諸方より見舞い多し 正月晦日方より、例ならぬさまに悩みたま ふを、宮、まだ御覧じ知らぬことにて、い かならむと思し嘆きて、御修法など、所ど ころにてあまたせさせたまふに、またまたはじめそへさせた まふ。いといたくわづらひたまへば、后の宮よりも御とぶら

ひあり。かくて三年になりぬれど、一ところの御心ざしこそ おろかならね、おほかたの世にはものものしくももてなしき こえたまはざりつるを、このをりぞ、いづこにもいづこにも 聞こしめしおどろきて、御とぶらひども聞こえたまひける。 女二の宮の裳着の用意 薫中の君を憂慮す 中納言の君は、宮の思しさわぐに劣らず、 いかにおはせんと嘆きて、心苦しくうしろ めたく思さるれど、限りある御とぶらひば かりこそあれ、あまりもえ参でたまはで、忍びてぞ御祈祷な どもせさせたまひける。さるは、女二の宮の御裳着、ただこ のころになりて、世の中響き営みののしる。よろづのこと、 帝の御心ひとつなるやうに思しいそげば、御後見なきしもぞ、 なかなかめでたげに見えける。女御のしおきたまへる事をば さるものにて、作物所、さるべき受領どもなど、とりどりに 仕うまつることどもいと限りなし。やがて、そのほどに、参 りそめたまふべきやうにありければ、男方も心づかひしたま

ふころなれど、例のことなれば、そなたざまには心も入らで、 この御事のみいとほしく嘆かる。 薫、権大納言に昇進、右大将を兼ねる 二月の朔日ごろに、直物とかいふことに、 権大納言になりたまひて、右大将かけたま ひつ。右の大殿左にておはしけるが、辞し たまへるところなりけり。よろこびに所どころ歩きたまひて、 この宮にも参りたまへり。いと苦しくしたまへば、こなたに おはしますほどなりければ、やがて参りたまへり。僧などさ ぶらひて便なき方に、とおどろきたまひて、あざやかなる御- 直衣、御下襲など奉り、ひきつくろひたまひて、下りて答の 拝したまふ、御さまどもとりどりにいとめでたく、 「やが て、今宵、衛府の人に禄賜ふ饗の所に」と、請じたてまつり たまふを、悩みたまふ人によりてぞ思したゆたひたまふめる。 右大臣殿のしたまひけるままにとて、六条院にてなんありけ る。垣下の親王たち上達部、大饗に劣らず、あまり騒がしき

までなん集ひたまひける。この宮も渡りたまひて、静心なけ れば、まだ事はてぬに急ぎ帰りたまひぬるを、大殿の御方に は、 「いとあかずめざまし」とのたまふ。劣るべくもあらぬ 御ほどなるを、ただ今のおぼえの華やかさに思しおごりて、 おしたちもてなしたまへるなめりかし。 中の君男子を出産 産養盛大に催される からうじて、その暁に、男にて生まれたま へるを、宮もいとかひありてうれしく思し たり。大将殿も、よろこびにそへてうれし く思す。昨夜おはしましたりしかしこまりに、やがて、この 御よろこびもうちそへて、立ちながら参りたまへり。かく籠 りおはしませば、参りたまはぬ人なし。御産養、三日は、例 の、ただ宮の御私事にて、五日の夜は、大将殿より屯食五- 十具、碁手の銭、椀飯などは世の常のやうにて、子持の御前 の衝重三十、児の御衣五重襲にて、御襁褓などぞ、ことごと しからず忍びやかにしなしたまへれど、こまかに見れば、わ

ざと目馴れぬ心ばへなど見えける。宮の御前にも浅香の折敷、 高坏どもにて、粉熟まゐらせたまへり。女房の御前には、衝- 重をばさるものにて、檜破子三十、さまざまし尽くしたる事 どもあり。人目にことごとしくは、ことさらにしなしたまは ず。七日の夜は、后の宮の御産養なれば、参りたまふ人々 いと多かり。宮の大夫をはじめて、殿上人上達部数知らず参 りたまへり。内裏にも聞こしめして、 「宮のはじめて大人 びたまふなるには、いかでか」とのたまはせて、御佩刀奉ら せたまへり。九日も、大殿より仕うまつらせたまへり。よろ しからず思すあたりなれど、宮の思さんところあれば、御子 の君達など参りたまひて。すべていと思ふことなげにめでた ければ、御みづからも、月ごろ、もの思はしく心地の悩まし きにつけても、心細く思しわたりつるに、かく面だたしくい まめかしき事どもの多かれば、すこし慰みもやしたまふらむ。 大将殿は、 「かくさへ大人びはてたまふめれば、いとどわが

方ざまはけ遠くやならむ。また、宮の御心ざしもいとおろか ならじ」
と思ふは口惜しけれど、また、はじめよりの心おき てを思ふには、いとうれしくもあり。 女二の宮の裳着 薫、婿として迎えられる かくて、その月の二十日あまりにぞ、藤壼 の宮の御裳着の事ありて、またの日なん大- 将参りたまひける。夜の事は忍びたるさま なり。天の下響きていつくしう見えつる御かしづきに、ただ 人の具したてまつりたまふぞ、なほあかず心苦しく見ゆる。 「さる御ゆるしはありながらも、ただ今、かく、急がせたま ふまじきことぞかし」と、譏らはしげに思ひのたまふ人もあ りけれど、思したちぬること、すがすがしくおはします御心 にて、来し方の例なきまで同じくはもてなさん、と思しおき つるなめり。帝の御婿になる人は、昔も今も多かれど、かく、 さかりの御世に、ただ人のやうに婿とり急がせたまへるたぐ ひは少なくやありけん。右大臣も、 「めづらしかりける人の

御おぼえ宿世なり。故院だに、朱雀院の御末にならせたまひ て、今はとやつしたまひし際にこそ、かの母宮をえたてまつ りたまひしか。我は、まして、人もゆるさぬものを、拾ひた りしや」
とのたまひ出づれば、宮は、げにと思すに、恥づか しくて御答へもえしたまはず。  三日の夜は、大蔵卿よりはじめて、かの御方の心寄せにな させたまへる人々、家司に仰せ言賜ひて、忍びやかなれど、 かの御前、随身、車副、舎人まで禄賜はす。そのほどの事ど もは、私事のやうにぞありける。 薫、女二の宮を三条宮に迎えようとする かくて後は、忍び忍びに参りたまふ。心の 中には、なほ忘れがたきいにしへざまのみ おぼえて、昼は里に起き臥しながめ暮らし て、暮るれば心より外に急ぎ参りたまふをも、ならはぬ心地 にいとものうく苦しくて、まかでさせたてまつらむとぞ思し おきてける。母宮は、いとうれしき事に思したり。おはしま

す寝殿譲りきこゆべくのたまへど、 「いとかたじけなから む」とて、御念誦堂の間に廊をつづけて造らせたまふ。西面 に移ろひたまふべきなめり。東の対どもなども、焼けて後、 うるはしく新しくあらまほしきを、いよいよ磨きそへつつ、 こまかにしつらはせたまふ。  かかる御心づかひを、内裏にも聞かせたまひて、ほどなく うちとけ移ろひたまはんをいかがと思したり。帝と聞こゆれ ど、心の闇は同じことなんおはしましける。母宮の御もとに、 御使ありける。御文にも、ただこのことをなむ聞こえさせた まひける。故朱雀院の、とり分きて、この尼宮の御事をば聞 こえおかせたまひしかば、かく世を背きたまへれど、衰へず、 何ごとももとのままにて、奏せさせたまふことなどは、必ず 聞こしめし入れ、御用意深かりけり。かく、やむごとなき御- 心どもに、かたみに限りもなくもてかしづき騒がれたまふ面 だたしさも、いかなるにかあらむ、心の中にはことにうれし

くもおぼえず、なほ、ともすればうちながめつつ、宇治の寺 造ることを急がせたまふ。 薫、若君の五十日の祝いに心を尽くす 宮の若君の五十日になりたまふ日数へとり て、その餅のいそぎを心に入れて、籠物檜- 破子などまで見入れたまひつつ、世の常の なべてにはあらずと思し心ざして、沈、紫檀、銀、黄金など、 道々の細工どもいと多く召しさぶらはせたまへば、我劣らじ とさまざまの事どもをし出づめり。 薫、中の君を訪ね、若君に対面する みづからも、例の、宮のおはしまさぬ隙に おはしたり。心のなしにやあらむ、います こし重々しくやむごとなげなる気色さへそ ひにけりと見ゆ。今は、さりともむつかしかりしすずろごと などは、紛れたまひにたらんと思ふに、心やすくて対面した まへり。されど、ありしながらの気色に、まづ涙ぐみて、 「心にもあらぬまじらひ、いと思ひの外なるものにこそと、

世を思ひたまへ乱るることなんまさりにたる」
と、あいだち なくぞ愁へたまふ。 「いとあさましき御ことかな。人も こそおのづからほのかにも漏り聞きはべれ」などはのたまへ ど、かばかりめでたげなる事どもにも慰まず、忘れがたく、 思ひたまふらむ心深さよ、とあはれに思ひきこえたまふに、 おろかにもあらず思ひ知られたまふ。おはせましかばと、口 惜しく思ひ出できこえたまへど、 「それも、わがありさまの やうにぞ、うらやみなく身を恨むべかりけるかし。何ごとも、 数ならでは、世の人めかしきこともあるまじかりけり」とお ぼゆるにぞ、いとど、かのうちとけはてでやみなんと、思ひ たまへりし心おきては、なほ、いと重々しく思ひ出でられた まふ。  若君を切にゆかしがりきこえたまへば、恥づかしけれど、 何かは、隔て顔にもあらむ、わりなきことひとつにつけて、 恨みらるるより外には、いかでこの人の御心に違はじと思へ

ば、みづからはともかくも答へきこえたまはで、乳母してさ し出でさせたまへり。さらなることなれば、憎げならんやは。 ゆゆしきまで白くうつくしくて、たかやかに物語し、うち笑 ひなどしたまふ顔を見るに、わがものにて見まほしくうらや ましきも、世の思ひ離れがたくなりぬるにやあらむ。されど、 言ふかひなくなりたまひにし人の、世の常のありさまにて、 かやうならむ人をもとどめおきたまへらましかばとのみおぼ えて、このごろ面だたしげなる御あたりに、いつしかなどは 思ひ寄られぬこそ、あまりすべなき君の御心なめれ。かく女- 女しくねぢけて、まねびなすこそいとほしけれ、しかわろび かたほならん人を、帝のとりわき切に近づけて、睦びたまふ べきにもあらじものを、まことしき方ざまの御心おきてなど こそは、めやすくものしたまひけめ、とぞ推しはかるべき。  げに、いとかく幼きほどを見せたまへるもあはれなれば、 例よりは物語などこまやかに聞こえたまふほどに、暮れぬれ

ば、心やすく夜をだにふかすまじきを苦しうおほゆれば、嘆 く嘆く出でたまひぬ。 「をかしの人の御匂ひや。折りつれ ば、とかや言ふやうに、鶯も尋ね来ぬべかめり」など、わづ らはしがる若き人もあり。 藤壺の藤花の宴 薫の晴れ姿羨望される 夏にならば、三条宮ふたがる方になりぬべ しと定めて、四月の朔日ごろ、節分とかい ふことまだしき前に渡したてまつりたまふ。 明日とての日、藤壼に上渡らせたまひて、藤の花の宴せさせ たまふ。南の廂の御簾あげて、倚子立てたり。公事にて、主 の宮の仕うまつりたまふにはあらず。上達部殿上人の饗な ど、内蔵寮より仕うまつれり。右大臣、按察大納言、藤中納- 言、左兵衛督、親王たちは三の宮、常陸の宮などさぶらひた まふ。南の庭の藤の花のもとに、殿上人の座はしたり。後涼- 殿の東に、楽所の人々召して、暮れゆくほどに、双調に吹き て。上の御遊びに、宮の御方より御琴ども、笛など出ださせ

たまへば、大臣をはじめたてまつりて、御前にとりつつまゐ りたまふ。故六条院の御手づから書きたまひて、入道の宮に 奉らせたまひし琴の譜二巻、五葉の枝につけたるを、大臣取 りたまひて奏したまふ。次々に、箏の御琴、琵琶、和琴など、 朱雀院の物どもなりけり。笛は、かの夢に伝へし、いにしへ の形見のを、またなきものの音なりとめでさせたまひければ、 このをりのきよらより、または、いつかははえばえしきつい でのあらむと思して、取う出たまへるなめり。大臣和琴、三 の宮琵琶など、とりどりに賜ふ。大将の御笛は、今日ぞ世に なき音の限りは吹きたてたまひける。殿上人の中にも、唱歌 につきなからぬどもは召し出でて、おもしろく遊ぶ。  宮の御方より、粉熟まゐらせたまへり。沈の折敷四つ、紫- 檀の高坏、藤の村濃の打敷に折枝縫ひたり。銀の様器、瑠璃 の御盃、瓶子は紺瑠璃なり。兵衛督、御まかなひ仕うまつ りたまふ。御盃まゐりたまふに、大臣しきりては便なかるべ

し、宮たちの御中に、はた、さるべきもおはせねば、大将に 譲りきこえたまふを、憚り申したまへど、御気色もいかがあ りけん、御盃ささげて 「をし」とのたまへる声づかひもてな しさへ、例の公事なれど、人に似ず見ゆるも、今日はいとど 見なしさへそふにやあらむ。さし返し賜はりて、下りて舞踏 したまへるほどいとたぐひなし。上臈の親王たち大臣など の賜はりたまふだにめでたきことなるを、これは、まして、 御婿にてもてはやされたてまつりたまへる、御おぼえおろか ならずめづらしきに、限りあれば下りたる座に帰り着きたま へるほど、心苦しきまでぞ見えける。  按察大納言は、我こそかかる目も見んと思ひしか、ねたの わざや、と思ひゐたまへり。この宮の御母女御をぞ、昔、心 かけきこえたまへりけるを、参りたまひて後も、なほ思ひ離 れぬさまに聞こえ通ひたまひて、はては宮をえたてまつらむ の心つきたりければ、御後見のぞむ気色も漏らし申しけれど、

聞こしめしだに伝へずなりにければ、いと心やましと思ひて、 「人柄は、げに契りことなめれど、なぞ時の帝のことご としきまで婿かしづきたまふべき。またあらじかし。九重の 内に、おはします殿近きほどにて、ただ人のうちとけさぶら ひて、はては宴や何やともて騒がるることは」など、いみじ く譏りつぶやき申したまひけれど、さすがゆかしかりければ 参りて、心の中にぞ腹立ちゐたまへりける。  紙燭さして歌ども奉る。文台のもとに寄りつつ置くほどの 気色は、おのおのしたり顔なりけれど、例の、いかにあやし げに古めきたりけんと思ひやれば、あながちにみなも尋ね書 かず。上の町も、上臈とて、御口つきどもは、ことなること 見えざめれど、しるしばかりとて、一つ二つぞ問ひ聞きたり し。これは、大将の君の、下りて御かざし折りてまゐりたま へりけるとか。    すべらぎのかざしに折ると藤の花およばぬ枝に袖かけ

  てけり
うけばりたるぞ、憎きや。   よろづ世をかけてにほはん花なれば今日をもあかぬ色   とこそみれ   君がため折れるかざしはむらさきの雲におとらぬ花のけ   しきか    世のつねのいろとも見えず雲ゐまでたちのぼりた   るふぢなみの花 これやこの腹立つ大納言のなりけんと見ゆれ。かたへはひが 言にもやありけん。かやうに、ことなるをかしきふしもなく のみぞあなりし。  夜更くるままに、御遊びいとおもしろし。大将の君の、安- 名尊うたひたまへる声ぞ、限りなくめでたかりける。按察も、 昔すぐれたまへりし御声のなごりなれば、今もいとものもの しくて、うち合はせたまへり。右の大殿の御七郎、童にて笙

の笛吹く。いとうつくしかりければ御衣賜はす。大臣下りて 舞踏したまふ。暁近うなりてぞ帰らせたまひける。禄ども、 上達部親王たちには、上より賜はす。殿上人楽所の人々に は、宮の御方より品々に賜ひけり。 薫、女二の宮を自邸に迎えなお大君を追慕 その夜さりなん、宮まかでさせたてまつり たまひける。儀式いと心ことなり。上の女- 房、さながら御送り仕うまつらせたまひけ る。廂の御車にて、廂なき糸毛三 つ、黄金造り六つ、ただの檳榔毛 二十、網代二つ、童下仕八人づ つさぶらふに、また、御迎への出- 車どもに、本所の人々乗せてなん ありける。御送りの上達部、殿上- 人、六位など、言ふ限りなききよ らを尽くさせたまへり。

 かくて心やすくうちとけて見たてまつりたまふに、いとを かしげにおはす。ささやかにあてにしめやかにて、ここはと 見ゆるところなくおはすれば、宿世のほど口惜しからざりけ りと、心おごりせらるるものから、過ぎにし方の忘らればこ そはあらめ、なほ、紛るるをりなく、もののみ恋しくおぼゆ れば、この世にては慰めかねつべきわざなめり、仏になりて こそは、あやしくつらかりける契りのほどを、何の報とあき らめて思ひはなれめ、と思ひつつ、寺のいそぎにのみ心をば 入れたまへり。 薫宇治に行き来合わせた浮舟をのぞき見る 賀茂の祭など騒がしきほど過ぐして、二十- 日あまりのほどに、例の、宇治へおはした り。造らせたまふ御堂見たまひて、すべき 事どもおきてのたまひ、さて、例の、朽木のもとを見たまへ 過ぎんがなほあはれなれば、そなたざまにおはするに、女- 車のことごとしきさまにはあらぬ一つ、荒ましき東男の腰に

物負へるあまた具して、下人も数多く頼もしげなるけしきに て、橋より今渡り来る見ゆ。田舎びたるものかな、と見たま ひつつ、殿はまづ入りたまひて、御前どもはまだたち騒ぎた るほどに、この車も、この宮をさして来るなりけり、と見ゆ。 御随身どもかやかやと言ふを制したまひて、 「何人ぞ」と問 はせたまへば、声うちゆがみたる者、 「常陸前司殿の姫君の 初瀬の御寺に詣でてもどりたまへるなり。はじめもここにな ん宿りたまへりし」と申すに、おいや、聞きし人ななり、と 思し出でて、人々をば他方に隠したまひて、 「はや御車入れ よ、ここに、また、人宿りたまへど、北面になん」と言はせ たまふ。  御供の人もみな狩衣姿にて、ことごとしからぬ姿どもなれ ど、なほけはひやしるからん、わづらはしげに思ひて、馬ど もひき避けなどしつつ、かしこまりつつぞをる。車は入れて、 廊の西のつまにぞ寄する。この寝殿はまだあらはにて、簾も

かけず。下ろし籠めたる中の二間に立て隔てたる障子の穴よ りのぞきたまふ。御衣の鳴れば、脱ぎおきて、直衣指貫の かぎりを着てぞおはする。とみにも下りで、尼君に消息して、 かくやむごとなげなる人のおはするを、誰ぞなど案内するな るべし。君は、車をそれと聞きたまひつるより、 「ゆめ、 その人にまろありとのたまふな」と、まづ口固めさせたまひ てければ、みなさ心得て、 「はやう下りさせたまへ。客人は ものしたまへど、他方になん」と言ひ出だしたり。  若き人のある、まづ下りて、簾うちあぐめり。御前のさま よりは、このおもと馴れてめやすし。また、おとなびたる人 いま一人下りて、 「はやう」と言ふに、 「あやしくあらは なる心地こそすれ」と言ふ声、ほのかなれどあてやかに聞こ ゆ。 「例の御こと。こなたは、さきざきもおろしこめての みこそははべれ。さては、また、いづこのあらはなるべき ぞ」と、心をやりて言ふ。つつましげに下るるを見れば、ま

づ、頭つき様体細やかにあてなるほどは、いとよくもの思ひ 出でられぬべし。扇をつとさし隠したれば、顔は見えぬほど 心もとなくて、胸うちつぶれつつ見たまふ。車は高く、下る る所はくだりたるを、この人々はやすらかに下りなしつれど、 いと苦しげにややみて、ひさしく下りてゐざり入る。濃き袿 に、撫子と思しき細長、若苗色の小袿着たり。四尺の屏風を、 この障子にそへて立てたるが上より見ゆる穴なれば残るとこ ろなし。こなたをばうしろめたげに思ひて、あなたざまに向 きてぞ添ひ臥しぬる。 「さも苦しげに思したりつるかな。 泉川の舟渡りも、まことに、今日は、いと恐ろしくこそあ りつれ。この二月には、水の少なかりしかばよかりしなりけ り。いでや、歩くは、東国路を思へば、いづこか恐ろしから ん」など、二人して、苦しとも思ひたらず言ひゐたるに、主 は音もせでひれ臥したり。腕をさし出でたるが、まろらかに をかしげなるほども、常陸殿などいふべくは見えず、まこと

にあてなり。  やうやう腰いたきまで立ちすくみたまへど、人のけはひせ じとて、なほ動かで見たまふに、若き人、 「あなかうばしや。 いみじき香の香こそすれ。尼君のたきたまふにやあらむ」 老人、 「まことにあなめでたの物の香や。京人はなほいとこ そみやびかにいまめかしけれ。天下にいみじきことと思した りしかど、東国にてかかる薫物の香は、え合はせ出でたまは ざりきかし。この尼君は、住まひかくかすかにおはすれど、 装束のあらまほしく、鈍色青鈍といへど、いときよらにぞ あるや」などほめゐたり。あなたの簀子より童来て、 「御湯 などまゐらせたまへ」とて、折敷どももとりつづきてさし 入る。くだものとり寄せなどして、 「ものけたまはる。こ れ」など起こせど、起きねば、二人して、栗などやうのもの にや、ほろほろと食ふも、聞き知らぬ心地には、かたはらい たくて退きたまへど、また、ゆかしくなりつつ、なほ立ち寄

り立ち寄り見たまふ。これよりまさる際の人々を、后の宮を はじめてここかしこに、容貌よきも心あてなるも、ここらあ くまで見あつめたまへど、おぼろけならでは目も心もとまら ず、あまり人にもどかるるまでものしたまふ心地に、ただ今 は、何ばかりすぐれて見ゆることもなき人なれど、かく立ち 去りがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしき心なり。 薫、弁の尼と対面 浮舟の容姿に感動する 尼君は、この殿の御方にも、御消息聞こえ 出だしたりけれど、 「御心地悩ましとて、 今のほどうち休ませたまへるなり」と、御- 供の人々心しらひて言ひたりければ、この君を尋ねまほしげ にのたまひしかば、かかるついでにもの言ひふれんと思ほす によりて、日暮らしたまふにや、と思ひて、かくのぞきたま ふらんとは知らず、例の、御庄の預りどものまゐれる、破子や 何やと、こなたにも入れたるを、東国人どもにも食はせなど、 事ども行ひおきて、うち化粧じて、客人の方に来たり。ほめ

つる装束、げにいとかはらかにて、みめもなほよしよししく きよげにぞある。 「昨日おはしつきなんと待ちきこえさ せしを、などか今日も日たけては」と言ふめれば、この老人、 「いとあやしく苦しげにのみせさせたまへば、昨日はこの泉- 川のわたりにて、今朝も無期に御心地ためらひてなん」と答 へて、起こせば、今ぞ起きゐたる。尼君を恥ぢらひて、そば みたるかたはらめ、これよりはいとよく見ゆ。まことにいと よしあるまみのほど、髪ざしのわたり、かれをも、くはしく つくづくとしも見たまはざりし御顔なれど、これを見るにつ けて、ただそれと思ひ出でらるるに、例の、涙落ちぬ。尼君 の答へうちする声けはひ、宮の御方にもいとよく似たりと聞 こゆ。  あはれなりける人かな、かかりけるものを、今まで尋ねも 知らで過ぐしけることよ、これより口惜しからん際の品なら んゆかりなどにてだに、かばかり通ひきこえたらん人をえて

はおろかに思ふまじき心地するに、まして、これは、知られ たてまつらざりけれど、まことに故宮の御子にこそはありけ れ、と見なしたまひては、限りなくあはれにうれしくおぼえ たまふ。ただ今も、はひ寄りて、世の中におはしけるものを、 と言ひ慰めまほし。蓬莱まで尋ねて、釵のかぎりを伝へて見 たまひけん帝はなほいぶせかりけん。これは別人なれど、慰 めどころありぬべきさまなり、とおぼゆるは、この人に契り のおはしけるにやあらむ。尼君は、物語すこししてとく入り ぬ。人の咎めつるかをりを、近くのぞきたまふなめり、と心- 得てければ、うちとけごとも語らはずなりぬるなるべし。 薫、弁の尼に浮舟との仲立ちを依頼する 日暮れもていけば、君もやをら出でて、御- 衣など着たまひてぞ、例召し出づる障子口 に尼君呼びて、ありさまなど問ひたまふ。 「をりしもうれしく参で来あひたるを。いかにぞ、かの聞 こえしことは」とのたまへば、 「しか仰せ言はべりし後

は、さるべきついではべらば、と待ちはべりしに、去年は過 ぎて、この二月になん、初瀬詣のたよりに対面してはべりし。 かの母君に、思しめしたるさまはほのめかしはべりしかば、 いとかたはらいたく、かたじけなき御よそへにこそははべる なれ、などなんはべりしかど、そのころほひは、のどやかに おはしまさず、と承りし、をり便なく思ひたまへつつみて、 かくなんとも聞こえさせはべらざりしを、また、この月にも 詣でて、今日帰りたまふなめり。行き帰りの中宿には、かく 睦びらるるも、ただ過ぎにし御けはひを尋ねきこゆるゆゑに なんはべめる。かの母君は、さはることありて、このたびは、 独りものしたまふめれば、かくおはしますとも、何かはもの しはべらんとて」
と聞こゆ。 「田舎びたる人どもに、忍び やつれたる歩きも見えじとて口固めつれど、いかがあらむ、 下衆どもは隠れあらじかし。さて、いかがすべき。独りもの すらんこそなかなか心やすかなれ。かく契り深くてなん参り

来あひたる、と伝へたまへかし」
とのたまへば、 「うち つけに、いつのほどなる御契りにかは」と、うち笑ひて、 「さらば、しか伝へはべらん」とて入るに、    かほ鳥の声もききしにかよふやとしげみを分けてけふ  ぞ尋ぬる ただ口ずさみのやうにのたまふを、入りて語りけり。 The Eastern Cottage 薫浮舟を求めつつ躊躇 中将の君も遠慮す

筑波山を分け見まほしき御心はありながら、 端山の繁りまであながちに思ひ入らむも、 いと人聞き軽々しうかたはらいたかるべき ほどなれば、思し憚りて、御消息をだにえ伝へさせたまはず。 かの尼君のもとよりぞ、母北の方に、のたまひしさまなどた びたびほのめかしおこせけれど、まめやかに御心とまるべき 事とも思はねば、たださまでも尋ね知りたまふらんこととば かりをかしう思ひて、人の御ほどのただ今世にあり難げなる をも、数ならましかばなどぞ、よろづに思ひける。 中将の君、とくに浮舟の良縁を切願する 守の子どもは、母亡くなりにけるなどあま た、この腹にも姫君とつけてかしづくあり、 まだ幼きなど、すぎすぎに五六人ありけれ

ば、さまざまにこのあつかひをしつつ、他人と思ひ隔てたる 心のありければ、常にいとつらきものに守をも恨みつつ、い かでひきすぐれて面だたしきほどにしなしても見えにしがな と、明け暮れ、この母君は思ひあつかひける。さま容貌のな のめにとりまぜてもありぬべくは、いとかうしも、何かは苦 しきまでももて悩ままし、同じごと思はせてもありぬべきを、 ものにもまじらず、あはれにかたじけなく生ひ出でたまへば、 あたらしく心苦しきものに思へり。  むすめ多かりと聞きて、なま君達めく人々もおとなひ言ふ、 いとあまたありけり。はじめの腹の二三人は、みなさまざま にくばりて、おとなびさせたり。今は、わが姫君を、思ふや うにて見たてまつらばやと、明け暮れまもりて、撫でかしづ くこと限りなし。 常陸介の人柄と生活 左近少将の求婚

守も賎しき人にはあらざりけり。上達部の 筋にて、仲らひもものきたなき人ならず、 徳いかめしうなどあれば、ほどほどにつけ ては思ひあがりて、家の内もきらきらしくものきよげに住み なし、事好みしたるほどよりはあやしう荒らかに田舎びたる 心ぞつきたりける。若うより、さる東国の方の遥かなる世界 に埋もれて年経ければにや、声などほとほとうちゆがみぬべ く、ものうち言ふすこしたみたるやうにて、豪家のあたり恐 ろしくわづらはしきものに憚り怖ぢ、すべていとまたく隙間 なき心もあり。をかしきさまに、琴笛の道は遠う、弓をなん いとよくひきける。なほなほしきあたりとも言はず、勢にひ かされて、よき若人ども集ひ、装束ありさまはえならずとと のへつつ、腰折れたる歌合はせ、物語庚申をし、まばゆく見- 苦しく遊びがちに好めるを、この懸想の君達、「らうらうじ くこそあるべけれ。容貌なんいみじかなる」などをかしき方

に言ひなして心を尽くしあへる中に、左近少将とて、年二十- 二三ばかりのほどにて、心ばせしめやかに、才ありといふ方 は人にゆるされたれど、きらきらしういまめいてなどはえあ らぬにや、通ひし所なども絶えて、いとねむごろに言ひわた りけり。 少将、浮舟と婚約 介、実の娘に尽くす この母君、あまたかかること言ふ人々の中 に、 「この君は人柄もめやすかなり。心定 まりてもの思ひ知りぬべかなるを、人もあ てなり、これよりまさりてことごとしき際の人、はた、かか るあたりを、さいへど、尋ね寄らじ」と思ひて、この御方に 取りつぎて、さるべきをりをりは、をかしきさまに返り事な どせさせたてまつる。心ひとつに思ひまうけて、守こそおろ かに思ひなすとも、我は命を譲りてかしづきて、さま容貌の めでたきを見つきなば、さりとも、おろかになどはよも思ふ 人あらじと思ひたちて、八月ばかりと契りて、調度をまうけ、

はかなき遊び物をせさせても、さまことにやうをかしう、蒔- 絵螺鈿のこまやかなる心ばへまさりて見ゆる物をば、この御- 方にととり隠して、劣りのを、 「これなむよき」とて見すれ ば、守はよくしも見知らず、そこはかとなき物どもの人の調- 度といふかぎりはただとり集めて並べ据ゑつつ、目をはつか にさし出づばかりにて。琴琵琶の師とて、内教坊のわたりよ り迎へとりつつ習はす。手ひとつ弾きとれば、師を起居拝み てよろこび、禄を取らすること埋むばかりにてもて騒ぐ。は やりかなる曲物など教へて、師と、をかしき夕暮などに、弾 き合はせて遊ぶ時は、涙もつつまず、をこがましきまでさす がにものめでしたり。かかる事どもを、母君は、すこしもの のゆゑ知りて、いと見苦しと思へば、ことにあへしらはぬを、 「あこをば思ひおとしたまへり」と、常に恨みけり。 少将、浮舟が介の実子ならぬを知り腹立つ

かくて、かの少将、契りしほどを待ちつけ で、 「同じくはとく」と責めければ、わが 心ひとつにかう思ひいそぐもいとつつまし う、人の心の知りがたさを思ひて、はじめより伝へそめける 人の来たるに、近う呼び寄せて語らふ。 「よろづ多く思 ひ憚ることの多かるを。月ごろかうのたまひてほど経ぬるを、 並々の人にもものしたまはねば、かたじけなう心苦しうて。 かう思ひたちにたるを、親などものしたまはぬ人なれば、心 ひとつなるやうにて、かたはらいたう、うちあはぬさまに見 えたてまつることもやと、かねてなん思ふ。若き人々あまた はべれど、思ふ人具したるは、おのづからと思ひ譲られて、 この君の御ことをのみなむ、はかなき世の中を見るにも、う しろめたくいみじきを、もの思ひ知りぬべき御心ざまと聞き て、かうよろづのつつましさを忘れぬべかめるも、もし思は ずなる御心ばへも見えば、人わらへに悲しうなんあるべき」

と言ひけるを、少将の君に参うでて、 「しかじかなん」と申 しけるに、気色あしくなりぬ。 「はじめより、さらに、守の御むすめにあらずといふこ とをなむ聞かざりつる。同じことなれど、人聞きもけ劣りた る心地して、出で入りせむにもよからずなんあるべき。よう も案内せで、浮かびたることを伝へける」とのたまふに、い とほしくなりて、「くはしくも知りたまへず。女どもの知 るたよりにて、仰せ言を伝へはじめはべりしに、中にかしづ くむすめとのみ聞きはべれば、守のにこそは、とこそ思ひた まへつれ。他人の子持たまへらむとも、問ひ聞きはべらざり つるなり。容貌心もすぐれてものしたまふこと、母上のかな しうしたまひて、面だたしう気高きことをせん、とあがめか しづかると聞きはべりしかば、いかでかの辺のこと伝へつべ からん人もがなとのたまはせしかば、さるたより知りたまへ り、ととり申ししなり。さらに、浮かびたる罪はべるまじき

ことなり」
と、腹あしく言葉多かるものにて、申すに、君、 いとあてやかならぬさまにて、 「かやうのあたりに行き通 はむ、人のをさをさゆるさぬことなれど、今様のことにて咎 あるまじう、もてあがめて後見だつに罪隠してなむあるたぐ ひもあめるを、同じことと内々には思ふとも、よそのおぼえ なむ、へつらひて人言ひなすべき。源少納言、讚岐守などの うけばりたる気色にて出で入らむに、守にもをさをさ承けら れぬさまにてまじらはんなむ、いと人げなかるべき」とのた まふ。 少将、介との縁組を欲して実の娘を所望す この人追従あり、うたてある人の心にて、 これをいと口惜しうこなたかなたに思ひけ れば、 「まことに守のむすめと思さば、 まだ若うなどおはすとも、しか伝へはべらんかし。中に当る なん、姫君とて、守はいとかなしうしたまふなる」と聞こゆ。 「いさや。はじめよりしか言ひ寄れることをおきて、また

言はんこそうたてあれ。されど、わが本意は、かの守の主の 人柄もものものしく大人しき人なれば、後見にもせまほしう、 見るところありて思ひはじめしことなり。もはら顔容貌のす ぐれたらん女の願ひもなし。品あてに艶ならん女を願はば、 やすくえつべし。されど、さびしう事うちあはぬみやび好め る人のはてはては、ものきよくもなく、人にも人ともおぼえ たらぬを見れば、すこし人に譏らるとも、なだらかにて世の 中を過ぐさむことを願ふなり。守に、かくなんと語らひて、 さもとゆるす気色あらば、何かはさも」
とのたまふ。 常陸介、少将の意向を知って満足する この人は、妹のこの西の御方にあるたより に、かかる御文などもとり伝へはじめけれ ど、守にはくはしくも見え知られぬ者なり けり。ただ行きに守のゐたりける前に行きて、 「とり申す べきことありてなむ」と言はす。守、 「このわたりに時々出 で入りはすと聞けど、前には呼び出でぬ人の、何ごと言ひに

かあらん」
と、なま荒々しき気色なれど、 「左近少将殿の 御消息にてなむさぶらふ」と言はせたれば、会ひたり。語ら ひがたげなる顔して、近うゐ寄りて、 「月ごろ内の御方に 消息聞こえさせたまふを、御ゆるしありて、この月のほどに、 と契りきこえさせたまふことはべるを、日をはからひて、い つしか、と思ほすほどに、ある人の申しけるやう、まことに 北の方の御腹にものしたまへど、守の殿の御むすめにはおは せず、君達のおはし通はむに、世の聞こえなんへつらひたる やうならむ、受領の御婿になりたまふかやうの君たちは、た だ私の君のごとく思ひかしづきたてまつり、手に捧げたるご と思ひあつかひ後見たてまつるにかかりてなむ、さるふるま ひしたまふ人々ものしたまふめるを、さすがにその御願ひは あながちなるやうにて、をさをさ承けられたまはで、け劣り ておはし通はんこと便なかるべきよしをなむ、切に譏り申す 人々あまたはべるなれば、ただ今思しわづらひてなむ、はじ

めよりただきらきらしう、人の後見と頼みきこえんに、たへ たまへる御おぼえを選び申して、聞こえはじめ申ししなり。 さらに、他人ものしたまふらんといふこと知らざりければ、 本の心ざしのままに、まだ幼きもあまたおはすなるをゆるい たまはば、いとうれしくなむ、御気色見て参うで来、と仰せ られつれば」
と言ふに、守、 「さらに、かかる御消息はべる よし、くはしく承らず。まことに同じことに思うたまふべき 人なれど、よからぬ童べあまたはべりて、はかばかしからぬ 身に、さまざま思ひたまへあつかふほどに 母なるものも、 これを他人と思ひわけたること、とくねり言ふことはべりて、 ともかくも口入れさせぬ人のことにはべれば、ほのかに、し かなむ仰せらるることはべりとは聞きはべりしかど、なにが しを取りどころに思しける御心は知りはべらざりけり。さる は、いとうれしく思ひたまへらるる御ことにこそはべるなれ。 いとらうたしと思ふ女の童は、あまたの中に、これをなん命

にもかへむと思ひはべる。のたまふ人々あれど、今の世の人 の御心さだめなく聞こえはべるに、なかなか胸いたき目をや 見むの憚りに、思ひさだむることもなくてなん。いかでうし ろやすくも見たまへおかんと、明け暮れかなしく思うたまふ るを、少将殿におきたてまつりては、故大将殿にも、若くよ り参り仕うまつりき。家の子にて見たてまつりしに、いと警- 策に、仕うまつらまほしと、心つきて思ひきこえしかど、遥 かなる所にうちつづきて過ぐしはべる年ごろのほどに、うひ うひしくおぼえはべりてなん、参りも仕まつらぬを、かかる 御心ざしのはべりけるを。かへすがへす、仰せのごと奉らむ はやすきことなれど、月ごろの御心違へたるやうに、この人 の思ひたまへんことをなん、思うたまへ憚りはべる」
と、い とこまやかに言ふ。 仲人、少将の人物を大げさに称賛する

よろしげなめり、とうれしく思ふ。 「何 かと思し憚るべきことにもはべらず。かの 御心ざしは、ただ一ところの御ゆるしはべ らむを願ひ思して、いはけなく年足らぬほどにおはすとも、 真実のやむごとなく思ひおきてたまへらんをこそ、本意かな ふにはせめ。もはら、さやうのほとりばみたらむふるまひす べきにもあらず、となむのたまひつる。人柄はいとやむごと なく、おぼえ心にくくおはする君なりけり。若き君たちとて、 すきずきしくあてびてもおはしまさず、世のありさまもいと よく知りたまへり。領じたまふ所どころもいと多くはべり。 まだころの御徳なきやうなれど、おのづからやむごとなき人 の御けはひのありけるやう、直人の限りなき富、といふめる 勢にはまさりたまへり。来年四位になりたまひなむ。こた みの頭は疑ひなく、帝の御口づからごてたまへるなり。よろ づのこと足らひてめやすき朝臣の妻をなん定めざなる。は

や、さるべき人選りて後見をまうけよ。上達部には、我しあ れば、今日明日といふばかりになし上げてん、とこそ仰せら るなれ。何ごとも、ただこの君ぞ、帝にも親しく仕うまつり たまふなる。御心、はた、いみじう警策に、重々しくなんお はしますめる。あたら人の御婿を。かう聞きたまふほどに思 ほしたちなむこそよからめ。かの殿には、我も我も婿にとり たてまつらんと、所どころにはべるなれば、ここにしぶしぶ なる御けはひあらば、外ざまにも思しなりなん。これ、ただ、 うしろやすきことをとり申すなり」
と、いと多く、よげに言 ひつづくるに、いとあさましく鄙びたる守にて、うち笑みつ つ聞きゐたり。 介、少将を婿に望む 少将妹にのりかえる 「このごろの御徳などの心もとなから むことは、なのたまひそ。なにがし命はべ らむほどは、頂にも捧げたてまつりてん。 心もとなく何を飽かぬとか思すべき。たとひ、あへずして、

仕うまつりさしつとも、残りの宝物、領じはべる所どころ、 ひとつにてもまたとり争ふべき人なし。子ども多くはべれど、 これはさまことに思ひそめたる者にはべり。ただ真心に思し かへりみさせたまはば、大臣の位を求めむと思し願ひて、世 になき宝物をも尽くさむとしたまはんに、なき物はべるまじ。 当時の帝、しか恵み申したまふなれば、御後見は心もとなか るまじ。これ、かの御ためも、なにがしが女の童のためにも、 幸ひとあるべきことにや、とも知らず」
と、よろしげに言ふ 時に、いとうれしくなりて、妹にもかかることありとも語ら ず、あなたにも寄りつかで、守の言ひつることを、いともい ともよげにめでたし、と思ひて聞こゆれば、君、すこし鄙び てぞある、とは聞きたまへど、憎からず、うち笑みて聞きゐ たまへり。大臣にならむ贖労を取らんなどぞ、あまりおどろ おどろしきことと耳とどまりける。 「さて、かの北の方 にはかくとものしつや。心ざしことに思ひはじめたまふらん

に、ひき違へたらむ、ひがひがしくねぢけたるやうにとりな す人もあらん。いさや」
と思したゆたひたるを、 「何か。 北の方も、かの姫君をばいとやむごとなきものに思ひかしづ きたてまつりたまふなり。ただ、中のこのかみにて、年もお となびたまふを心苦しきことに思ひて、そなたにとおもむけ て申されけるなりけり」と聞こゆ。月ごろは、またなく、世 の常ならずかしづく、と言ひつるものの、うちつけにかく言 ふもいかならむ、と思へども、なほ一わたりはつらしと思は れ、人にはすこし譏らるとも、ながらへて頼もしきことをこ そと、いとまたく賢き君にて、思ひとりてければ、日をだに とりかへで、契りし暮にぞおはしはじめける。 浮舟の結婚の準備 常陸介破談を告げる 北の方は人知れずいそぎたちて、人々の装- 束せさせ、しつらひなどよしよししうした まふ。御方をも、頭洗はせ、とりつくろひ て見るに、少将などいふほどの人に見せんも惜しくあたらし

きさまを、 「あはれや、親に知られたてまつりて生ひ立ちた まはましかば、おはせずなりにたれども、大将殿ののたまふ らんさまに、おほけなくともなどかは思ひたたざらまし。さ れど、内々にこそかく思へ、外の音聞きは、守の子とも思ひ わかず、また、実を尋ね知らむ人もなかなかおとしめ思ひぬ べきこそ悲しけれ」など思ひつづく。 「いかがはせむ。さか り過ぎたまはんもあいなし。賎しからずめやすきほどの人の かくねむごろにのたまふめるを」など、心ひとつに思ひ定む るも、仲人のかく言よくいみじきに、女は、まして、すかさ れたるにやあらん。明日明後日と思へば、心あわたたしく急 がしきに、こなたにも心のどかにゐられたらず、そそめき歩 くに、守、外より入り来て、長々と、とどこほるところもな く言ひつづけて、 「我を思ひ隔てて、あこの御懸想人を 奪はむとしたまひけるが、おほけなく心幼きこと。めでたか らむ御むすめをば、要ぜさせたまふ君達あらじ。賤しく異や

うならむなにがしらが女子をぞ、いやしうも尋ねのたまふめ れ。かしこく思ひくはだてられけれど、もはら本意なしとて、 外ざまへ思ひなりたまひぬべかむなれば、同じくは、と思ひ てなん、さらば御心、とゆるし申しつる」
など、あやしく奥 なく、人の思はむところも知らぬ人にて、言ひ散らしゐたり。 北の方あきれて、ものも言はれで、とばかり思ふに、心憂さ をかきつらね、涙も落ちぬばかり思ひつづけられてやをら立 ちぬ。 中将の君、乳母とともに浮舟の不運を嘆く こなたに渡りて見るに、いとらうたげにを かしげにてゐたまへるに、さりとも人には 劣りたまはじ、とは思ひ慰さむ。乳母と二- 人、 「心憂きものは人の心なりけり。おのれは、同じご と思ひあつかふとも、この君のゆかりと思はむ人のためには、 命をも譲りつべくこそ思へ。親なしと聞き侮りて、まだ幼く なりあはぬ人を、さし越えて、かくは言ひなるべしや。かく

心憂く、近きあたりに見じ聞かじ、と思ひぬれど、守のかく 面だたしきことに思ひて、承けとり騒ぐめれば、あひあひに たる世の人のありさまを、すべてかかることに口入れじ、と 思ふ。いかで、ここならぬ所にしばしありにしがな」
とうち 泣きつつ言ふ。乳母もいと腹立たしく、わが君をかくおとし むること、と思ふに、 「何か。これも御幸ひにて違ふこと とも知らず。かく心口惜しくいましける君なれば、あたら御 さまをも見知らざらまし。わが君をば、心ばせあり、もの思 ひ知りたらん人にこそ見せたてまつらまほしけれ。大将殿の 御さま容貌の、ほのかに見たてまつりしに、さも命延ぶる心- 地のしはべりしかな。あはれに、はた、聞こえたまふなり。 御宿世にまかせて、思し寄りねかし」と言へば、 「あな 恐ろしや。人の言ふを聞けば、年ごろ、おぼろけならん人を ば見じ、とのたまひて、右の大殿、按察大納言、式部卿宮な どのいとねむごろにほのめかしたまひけれど聞き過ぐして、

帝の御かしづきむすめをえたまへる君は、いかばかりの人か まめやかには思さん。かの母宮などの御方にあらせて、時々 も見む、とは思しもしなん。それ、はた、げにめでたき御あ たりなれども、いと胸いたかるべきことなり。宮の上の、か く幸ひ人と申すなれど、もの思はしげに思したるを見れば、 いかにもいかにも、二心なからん人のみこそ、めやすく頼も しきことにはあらめ。わが身にても知りにき。故宮の御あり さまは、いと情々しくめでたくをかしくおはせしかど、人数 にも思さざりしかば、いかばかりかは心憂くつらかりし。こ の、いと言ふかひなく、情なく、さまあしき人なれど、ひた おもむきに二心なきを見れば、心やすくて年ごろをも過ぐし つるなり。をりふしの心ばへの、かやうに愛敬なく用意なき ことこそ憎けれ、嘆かしく恨めしきこともなく、かたみにう ちいさかひても、心にあはぬことをばあきらめつ。上達部親- 王たちにて、みやびかに心恥づかしき人の御あたりといふと

も、わが数ならではかひあらじ、よろづのことわが身からな りけり、と思へば、よろづに悲しうこそ見たてまつれど、い かにして、人わらへならずしたてたてまつらむ」
と語らふ。 常陸介、実の娘の婚儀の用意に奔走する 守は急ぎたちて、 「女房など、こなたに めやすきあまたあなるを、このほどはあら せたまへ。やがて、帳なども新しく仕立て られためる方を。事にはかになりにためれば、取り渡し、と かくあらたむまじ」とて、西の方に来て、起居とかくしつら ひ騒ぐ。めやすきさまにさ はらかに、あたりあたりあ るべき限りしたる所を、さ かしらに屏風ども持て来て、 いぶせきまで立てあつめて、 廚子二階などあやしきま でし加へて、心をやりてい

そげば、北の方見苦しく見れど、口入れじ、と言ひてしかば、 ただに見聞く。御方は、北面にゐたり。 「人の御心は見- 知りはてぬ。ただ同じ子なれば、さりともいとかくは思ひ放 ちたまはじ、とこそ思ひつれ。されば、世に母なき子はなく やはある」とて、むすめを、昼より乳母と二人、撫でつくろ ひ立てたれば、にくげにもあらず、十五六のほどにて、いと 小さやかにふくらかなる人の、髪うつくしげにて小袿のほど なり。裾いとふさやかなり。これをいとめでたしと思ひて撫 でつくろふ。 「何か、人の異ざまに思ひ構へられける人 をしも、と思へど、人柄のあたらしく、警策にものしたまふ 君なれば、我も我もと婿に取らまほしくする人の多かなるに、 取られなんも口惜しくてなん」と、かの仲人にはかられて言 ふもいとをこなり。  男君も、このほどのいかめしく思ふやうなることと、よろ づの罪あるまじう思ひて、その夜も変へず来そめぬ。 中将の君、中の君に浮舟の庇護を依頼する

母君、御方の乳母、いとあさましく思ふ。 ひがひがしきやうなれば、とかく見あつか ふも心づきなければ、宮の北の方の御もと に御文奉る。   その事とはべらでは、なれなれしくや、とかしこ  まりて、え思ひたまふるままにも聞こえさせぬを、つつ  しむべきことはべりて、しばし所かへさせんと思うたま  ふるに、いと忍びてさぶらひぬべき隠れの方さぶらはば、  いともいともうれしくなむ。数ならぬ身ひとつの蔭に隠  れもあへず、あはれなることのみ多くはべる世なれば、  頼もしき方にはまづなん。 と、うち泣きつつ書きたる文を、あはれとは見たまひけれど、 故宮のさばかりゆるしたまはでやみにし人を、我ひとり残り て、知り語らはんもいとつつましく、また、見苦しきさまに て世にあぶれんも知らず顔にて聞かんこそ、心苦しかるべけ

れ、ことなることなくてかたみに散りぼはんも、亡き人の御 ために見苦しかるべきわざを、思しわづらふ。  大輔がもとにも、いと心苦しげに言ひやりたりければ、 「さるやうこそははべらめ。人にくくはしたなくも、なの たまはせそ。かかる劣りの者の、人の御中にまじりたまふも、 世の常のことなり。あまりいと情なくのたまはせしことな り」など聞こえて、 「さらば、かの西の方に、隠ろへたる 所し出でて、いとむつかしげなめれど、さても過ぐいたまひ つべくは、しばしのほど」と言ひつかはしつ。いとうれし、 と思ほして、人知れず出で立つ。御方も、かの御あたりをば 睦びきこえまほし、と思ふ心なれば、なかなかかかる事ども の出で来たるをうれしと思ふ。 常陸介、左近少将を大いに歓待する 守、少将のあつかひを、いかばかりめでた きことをせんと思ふに、そのきらきらしか るべきことも知らぬ心には、ただ、あらら

かなる東絹どもを、押しまろがして投げ出でつ。食物もとこ ろせきまでなん運び出でて、ののしりける。下衆などは、そ れをいとかしこき情に思ひければ、君も、いとあらまほしく、 心賢くとり寄りにけり、と思ひけり。北の方、このほどを見- 棄てて知らざらんもひがみたらむ、と思ひ念じて、ただする ままにまかせて見ゐたり。客人の御出居、侍所としつらひ騒 げば、家は広けれど、源少納言、東の対には住む、男子など の多かるに、所もなし。この御方に客人住みつきぬれば、廊 などほとりばみたらむに住ませたてまつらむも飽かずいとほ しくおぼえて、とかく思ひめぐらすほど、宮に、とは思ふな りけり。 中将の君、浮舟を連れて中の君の邸に赴く この御方ざまに、数まへたまふ人のなきを、 侮るなめり、と思へば、ことにゆるいたま はざりしあたりを、あながちに参らす。乳- 母、若き人々二三人ばかりして、西の廂の、北に寄りて人げ

遠き方に局したり。年ごろかくはるかなりつれど、うとく思 すまじき人なれば、参る時は恥ぢたまはず。いとあらまほし く、けはひことにて、若君の御あつかひをしておはする御あ りさま、うらやましくおぼゆるもあはれなり。我も、故北の 方には離れたてまつるべき人かは、仕うまつると言ひしばか りに数まへられたてまつらず、口惜しくてかく人には侮らる る、と思ふには、かく、しひて睦びきこゆるもあぢきなし。 ここには、御物忌と言ひてければ、人も通はず。二三日ばか り母君もゐたり。こたみは、心のどかに、この御ありさまを 見る。 中将の君匂宮夫妻の姿を見て思案に乱れる 宮渡りたまふ。ゆかしくて物のはさまより 見れば、いときよらに、桜を折りたるさま したまひて、わが頼もし人に思ひて、恨め しけれど心には違はじと思ふ常陸守より、さま容貌も人のほ どもこよなく見ゆる五位四位ども、あひひざまづきさぶら

ひて、この事かの事と、あたりあたりの事ども、家司どもな ど申す。また若やかなる五位ども、顔も知らぬどもも多かり。 わが継子の式部丞にて蔵人なる、内裏の御使にて参れり。御 あたりにもえ近く参らず。こよなき人の御けはひを、 「あは れ、こは何人ぞ。かかる御あたりにおはするめでたさよ。よ そに思ふ時は、めでたき人々と聞こゆとも、つらき目見せた まはばと、ものうく推しはかりきこえさせつらんあさましさ よ。この御ありさま容貌を見れば、七夕ばかりにても、かや うに見たてまつり通はむは、いといみじかるべきわざかな」 と思ふに、若君抱きてうつくしみおはす。女君、短き几帳を 隔てておはするを、押しやりて、ものなど聞こえたまふ。御- 容貌どもいときよらに似あひたり。故宮のさびしくおはせし 御ありさまを思ひくらぶるに、宮たちと聞こゆれど、いとこ よなきわざにこそありけれ、とおぼゆ。  帳の内に入りたまひぬれば、若君は、若き人、乳母なども

てあそびきこゆ。人々参り集まれど、悩ましとて、大殿籠り 暮らしつ。御台こなたにまゐる。よろづのこと気高く、心こ とに見ゆれば、わがいみじきことを尽くすと見思へど、なほ なほしき人のあたりは口惜しかりけり、と思ひなりぬれば、 わがむすめも、かやうにてさし並べたらむにはかたはならじ かし、勢を頼みて、父ぬしの、后にもなしてんと思ひたる人- 人、同じわが子ながら、けはひこよなきを思ふも、なほ今よ り後も心は高くつかふべかりけりと、夜一夜あらまし語思ひ つづけらる。 中将の君、匂宮の比ならぬ少将を侮蔑する 宮、日たけて起きたまひて、 「后の宮、 例の、悩ましくしたまへば、参るべし」と て、御装束などしたまひておはす。ゆかし うおぼえてのぞけば、うるはしくひきつくろひたまへる、は た、似るものなく気高く愛敬づききよらにて、若君をえ見棄 てたまはで遊びおはす。御粥強飯などまゐりてぞ、こなたよ

り出でたまふ。今朝より参りて、侍所の方にやすらひける人- 人、今ぞ参りてものなど聞こゆる中に、きよげだちて、なで ふことなき人のすさまじき顔したる、直衣着て太刀佩きたる あり。御前にて何とも見えぬを、 「かれぞこの常陸守の婿 の少将な。はじめはこの御方にと定めけるを、守のむすめを えてこそいたはられめなど言ひて、かじけたる女の童をえた るななり」「いさ、この御あたりの人はかけても言はず」「か の君の方より、よく聞くたよりのあるぞ」など、おのがどち 言ふ。聞くらむとも知らで人のかく言ふにつけても胸つぶれ て、少将をめやすきほどと思ひける心も口惜しく、げにこと なることなかるべかりけり、と思ひて、いとどしく侮らはし く思ひなりぬ。  若君の這ひ出でて、御廉のつまよりのぞきたまへるをうち 見たまひて、たち返り寄りおはしたり。 「御心地よろしく 見えたまはば、やがてまかでなん。なほ苦しくしたまはば、

今宵は宿直にぞ。今は一夜を隔つるもおぼつかなきこそ、苦 しけれ」
とて、しばし慰め遊ばして、出でたまひぬるさまの、 かへすがへす見るとも見るとも飽くまじくにほひやかにをか しければ、出でたまひぬるなごりさうざうしくぞながめら るる。 中将の君、中の君に浮舟の身柄を委ねる 女君の御前に出で来て、いみじくめでたて まつれば、田舎びたる、と思して笑ひたま ふ。 「故上の亡せたまひしほどは、言 ふかひなく幼き御ほどにて、いかにならせたまはんと、見た てまつる人も故宮も思し嘆きしを、こよなき御宿世のほどな りければ、さる山ふところの中にも、生ひ出でさせたまひし にこそありけれ。口惜しく、故姫君のおはしまさずなりにた るこそ飽かぬことなれ」など、うち泣きつつ聞こゆ。君も、 うち泣きたまひて、 「世の中の恨めしく心細きをりをり も、また、かくながらふれば、すこしも思ひ慰めつべきをり

もあるを、いにしへ頼みきこえける蔭どもに後れたてまつり けるは、なかなかに世の常に思ひなされて、見たてまつり知 らずなりにければ、あるを、なほこの御ことは尽きせずいみ じくこそ。大将の、よろづのことに心の移らぬよしを愁へつ つ、浅からぬ御心のさまを見るにつけても、いとこそ口惜し けれ」
とのたまへば、 「大将殿は、さばかり世に例なき まで帝のかしづき思したなるに、心おごりしたまふらむかし。 おはしまさましかば、なほこのことせかれしもしたまはざら ましや」など聞こゆ。 「いさや。やうのものと、人笑は れなる心地せましも、なかなかにやあらまし。見はてぬにつ けて、心にくくもある世にこそは、と思へど、かの君は、い かなるにかあらむ、あやしきまでもの忘れせず、故宮の御後 の世をさへ思ひやり深く後見歩きたまふめる」など、心うつ くしう語りたまふ。 「かの過ぎにし御代りに尋ねて見ん と、この数ならぬ人をさへなん、かの弁の尼君にはのたまひ

ける、さもや、と思うたまへ寄るべきことにははべらねど、 一本ゆゑにこそは、とかたじけなけれどあはれになむ思うた まへらるる御心深さなる」
など言ふついでに、この君をもて わづらふこと、泣く泣く語る。  こまかにはあらねど、人も聞きけりと思ふに、少将の思ひ 侮りけるさまなどほのめかして、 「命はべらむ限りは、 何か、朝夕の慰めぐさにて見過ぐしつべし。うち棄てはべり なん後は、思はずなるさまに散りぼひはべらむが悲しさに、 尼になして深き山にやし据ゑて、さる方に世の中を思ひ絶え てはべらましなどなん、思うたまへわびては、思ひよりはべ る」など言ふ。 「げに心苦しき御ありさまにこそはあな れど、何か。人に侮らるる御ありさまは、かやうになりぬる 人のさがにこそ。さりとてもたへぬわざなりければ、むげに、 その方に思ひおきてたまへりし身だに、かく心より外になが らふれば、まいていとあるまじき御ことなり。やついたまは

んも、いとほしげなる御さまにこそ」
など、いとおとなびて のたまへば、母君、いとうれし、と思ひたり。ねびにたるさ まなれど、よしなからぬさましてきよげなり。いたく肥え過 ぎにたるなむ常陸殿とは見えける。   「故宮の、つらう情なく思し放ちたりしに、いとど人 げなく人にも侮られたまふ、と見たまふれど、かう聞こえ させ御覧ぜらるるにつけてなん、いにしへのうさも慰みはべ る」など、年ごろの物語、浮島のあはれなりしことも聞こえ 出づ。 「わが身ひとつ、とのみ言ひあはする人もなき筑- 波山のありさまもかく明らめきこえさせて、いつもいつも、 いとかくてさぶらはまほしく思ひたまへなりはべりぬれど、 かしこにはよからぬあやしの者ども、いかにたち騒ぎ求めは べらん。さすがに心あわたたしく思ひたまへらるる。かかる ほどのありさまに身をやつすは口惜しきものになんはべりけ ると、身にも思ひ知らるるを、この君はただまかせきこえさ

せて、知りはべらじ」
など、かこちきこえかくれば、げに見- 苦しからでもあらなん、と見たまふ。 薫、来訪 中将の君かいま見て感嘆する 容貌も心ざまも、え憎むまじうらうたげな り。もの恥ぢもおどろおどろしからず、さ まよう児めいたるものからかどなからず、 近くさぶらふ人々にも、いとよく隠れてゐたまへり。ものな ど言ひたるも、昔の人の御さまにあやしきまでおぼえたてま つりてぞあるや。かの人形求めたまふ人に見せたてまつらば やと、うち思ひ出でたまふをりしも、 「大将殿参りたまふ」 と人聞こゆれば、例の、御几帳ひきつくろひて、心づかひす。 この客人の母君、 「いで見たてまつらん。ほのかに見た てまつりける人のいみじきものに聞こゆめれど、宮の御あり さまには、え並びたまはじ」と言へば、御前にさぶらふ人々、 「いさや、えこそ聞こえ定めね」と聞こえあへり。 「い かばかりならん人か、宮をば消ちたてまつらむ」など言ふほ

どに、今ぞ車より下りたまふなる、と聞くほど、かしがまし きまで追ひののしりて、とみにも見えたまはず。待たれたる ほどに、歩み入りたまふさまを見れば、げに、あなめでた、 をかしげとも見えずながらぞ、なまめかしうあてにきよげな るや。すずろに、見え苦しう恥づかしくて、額髪などもひき つくろはれて、心恥づかしげに用意多く際もなきさまぞした まへる。内裏より参りたまへるなるべし、御前どものけはひ あまたして、 「昨夜、后の宮の悩みたまふよし承りて参り たりしかば、宮たちのさぶらひたまはざりしかば、いとほし く見たてまつりて、宮の御代りに今までさぶらひはべりつる。 今朝もいと懈怠して参らせたまへるを、あいなう御過ちに推 しはかりきこえさせてなむ」と聞こえたまへば、 「げに おろかならず、思ひやり深き御用意になん」とばかり答へき こえたまふ。宮は内裏にとまりたまひぬるを見おきて、ただ ならずおはしたるなめり。 中の君、憂愁の薫に浮舟をすすめる

例の、物語いとなつかしげに聞こえたまふ。 事に触れて、ただいにしへの忘れがたく、 世の中のものうくなりまさるよしを、あら はには言ひなさで、かすめ愁へたまふ。 「さしも、いかでか、 世を経て心に離れずのみはあらむ。なほ浅からず言ひそめて し事の筋なれば、なごりなからじとにや」など見なしたまへ ど、人の御気色はしるきものなれば、見もてゆくままに、あ はれなる御心ざまを、岩木ならねば、思ほし知る。恨みきこ えたまふことも多かれば、いとわりなくうち嘆きて、かかる 御心をやむる禊をせさせたてまつらまほしく思ほすにやあら ん、かの人形のたまひ出でて、 「いと忍びてこのわたり になん」と、ほのめかしきこえたまふを、かれもなべての心- 地はせずゆかしくなりにたれど、うちつけにふと移らむ心地、 はた、せず。 「いでや、その本尊、願ひ満てたまふべくはこそ 尊からめ、時々心やましくは、なかなか山水も濁りぬべく」

とのたまへば、はてはては、 「うたての御聖心や」と、 ほのかに笑ひたまふもをかしう聞こゆ。 「いでさらば、伝へ はてさせたまへかし。この御のがれ言葉こそ、思ひ出づれば ゆゆしく」とのたまひても、また涙ぐみぬ。   見し人のかたしろならば身にそへて恋しき瀬々のなで   ものにせむ と、例の、戯れに言ひなして、紛らはしたまふ。   「みそぎ河瀬々にいださんなでものを身に添ふかげ   とたれか頼まん 引く手あまたに、とかや。いとほしくぞはべるや」とのたま へば、 「つひに寄る瀬は、さらなりや。いとうれたきやうな る、水の泡にも争ひはべるかな。かき流さるるなでものは、 いでまことぞかし、いかで慰むべきことぞ」など言ひつつ、 暗うなるもうるさければ、かりそめにものしたる人も、あや しく、と思ふらむもつつましきを、 「今宵はなほとく帰

りたまひね」
と、こしらへやりたまふ。 中将の君浮舟を薫へと願う 人々薫を称賛す 「さらば、その客人に、かかる心の願ひ年 経ぬるを、うちつけになど浅う思ひなすま じうのたまはせ知らせたまひて、はしたな げなるまじうはこそ。いとうひうひしうならひにてはべる身 は、何ごともをこがましきまでなん」と、語らひきこえおき て出でたまひぬるに、この母君、「いとめでたく、思ふやう なる御さまかな」とめでて、乳母ゆくりかに思ひよりて、た びたび言ひしことを、あるまじきことに言ひしかど、この御 ありさまを見るには、天の川を渡りても、かかる彦星の光を こそ待ちつけさせめ、わがむすめは、なのめならん人に見せ んは惜しげなるさまを、夷めきたる人をのみ見ならひて、少- 将をかしこきものに思ひけるを、悔しきまで思ひなりにけり。 寄りゐたまへりつる真木柱も褥も、なごり匂へる移り香、言 へばいとことさらめきたるまであり難し。時々見たてまつる

人だに、たびごとにめできこゆ。 「経などを読みて、功徳 のすぐれたることあめるにも、香のかうばしきをやむごとな きことに、仏のたまひおきけるもことわりなりや。薬王品な どにとりわきてのたまへる牛頭栴檀とかや、おどろおどろし きものの名なれど、まづかの殿の近くふるまひたまへば、仏 はまことしたまひけり、とこそおぼゆれ。幼くおはしけるよ り、行ひもいみじくしたまひければよ」など言ふもあり。ま た、 「前の世こそゆかしき御ありさまなれ」など、口々め づることどもを、すずろに笑みて聞きゐたり。 中将の君、浮舟を中の君に託して辞去する 君は、忍びてのたまひつることを、ほのめ かしのたまふ。 「思ひそめつること、 執念きまで軽々しからずものしたまふめる を、げにただ今のありさまなどを思へば、わづらはしき心地 すべけれど、かの世を背きてもなど思ひ寄りたまふらんも、 同じことに思ひなして、試みたまへかし」とのたまへば、

「つらき目見せず、人に侮られじの心にてこそ、鳥の音 聞こえざらん住まひまで思ひたまへおきつれ。げに、人の御 ありさまけはひを見たてまつり思ひたまふるは、下仕のほど などにても、かかる人の御あたりに馴れきこえんは、かひあ りぬべし。まいて若き人は、心つけたてまつりぬべくはべる めれど、数ならぬ身に、もの思ひの種をやいとど蒔かせて見 はべらん。高きも短きも、女といふものはかかる筋にてこそ、 この世、後の世まで苦しき身になりはべるなれ、と思ひたま へはべればなむ、いとほしく思ひたまへはべる。それもただ 御心になん。ともかくも、思し棄てずものせさせたまへ」と 聞こゆれば、いとわづらはしくなりて、 「いさや。来し 方の心深さにうちとけて。行く先のありさまは知りがたき を」と、うち嘆きて、ことにものものたまはずなりぬ。  明けぬれば、車など率て来て、守の消息など、いと腹立た しげにおびやかしたれば、 「かたじけなくよろづに頼み

きこえさせてなん。なほ、しばし隠させたまひて、巌の中に ともいかにとも、思ひたまへめぐらしはべるほど、数にはべ らずとも、思ほし放たず、何ごとをも教へさせたまへ」
など 聞こえおきて。この御方も、いと心細くならはぬ心地にたち 離れんを思へど、いまめかしくをかしく見ゆるあたりに、し ばしも見馴れたてまつらむと思へば、さすがにうれしくもお ぼえけり。 匂宮帰邸、中将の君の車を見とがめる 車引き出づるほどの、すこし明かうなりぬ るに、宮、内裏よりまかでたまふ。若君お ぼつかなくおぼえたまひければ、忍びたる さまにて、車なども例ならでおはしますに、さしあひて、押 しとどめて立てたれば、廊に御車寄せて下りたまふ。 「何 ぞの車ぞ。暗きほどに急ぎ出づるは」と目とどめさせたまふ。 かやうにてぞ、忍びたる所には出づるかしと、御心ならひに 思し寄るも、むくつけし。 「常陸殿のまかでさせたまふ」

と申す。若やかなる御前ども、 「殿こそあざやかなれ」と 笑ひあへるを聞くも、げにこよなの身のほどや、と悲しく思 ふ。ただ、この御方のことを思ふゆゑにぞ、おのれも人々し くならまほしくおぼえける。まして、正身をなほなほしくや つして見むことは、いみじくあたらしう思ひなりぬ。  宮入りたまひて、 「常陸殿といふ人や、ここに通はした まふ。心ある朝ぼらけに急ぎ出でつる車副などこそ、ことさ らめきて見えつれ」など、なほ思し疑ひてのたまふ。聞きに くくかたはらいたし、と思して、 「大輔などが若くての ころ、友だちにてありける人は。ことにいまめかしうも見え ざめるを、ゆゑゆゑしげにものたまひなすかな。人の聞きと がめつべきことをのみ、常にとりないたまふこそ。なき名は 立てで」と、うち背きたまふも、らうたげにをかし。 匂宮、偶然に浮舟を見つけて言い寄る

明くるも知らず大殿籠りたるに、人々あま た参りたまへば、寝殿に渡りたまひぬ。后 の宮は、ことごとしき御悩みにもあらで、 おこたりたまひにければ、心地よげにて、右の大殿の君たち など、碁うち韻塞などしつつ遊びたまふ。  夕つ方、宮こなたに渡らせたまへれば、女君は御柑*のほど なりけり。人々もおのおのうち休みなどして、御前には人も なし。小さき童のあるして、 「をりあしき御柑*のほどこそ、 見苦しかめれ。さうざうしくてやながめん」と聞こえたまへ ば、 「げに。おはしまさぬ隙々にこそ例はすませ、あやし う、日ごろ、ものうがらせたまひて。今日過ぎば、この月は 日もなし。九十月はいかでかはとて、仕まつらせつるを」と、 大輔いとほしがる。  若君も寝たまへりければ、そなたにこれかれあるほどに、 宮はたたずみ歩きたまひて、西の方に例ならぬ童の見えける

を、今参りたるかなど思してさしのぞきたまふ。中のほどな る障子の細目に開きたるより見たまへば、障子のあなたに、 一尺ばかりひき離けて屏風立てたり。そのつまに、几帳、簾 に添へて立てたり。帷子一重をうち懸けて、紫苑色のはなや かなるに、女郎花の織物と見ゆる重なりて、袖口さし出でた り。屏風の一枚畳まれたるより、心にもあらで見ゆるなめり。 今参りの口惜しからぬなめり、と思して、この廂に通ふ障子 を、いとみそかに押し開けたまひて、やをら歩み寄りたまふ も、人知らず。こなたの廊の中の壼前栽のいとをかしう色々 に咲き乱れたるに、遣水のわたりの石高きほどいとをかしけ れば、端近く添ひ臥してながむるなりけり。開きたる障子を、 いますこし押し開けて、屏風のつまよりのぞきたまふに、宮 とは思ひもかけず、例、こなたに来馴れたる人にやあらんと 思ひて起き上りたる様体、いとをかしう見ゆるに、例の御心 は過ぐしたまはで、衣の裾をとらへたまひて、こなたの障子

はひきたてたまひて、屏風のはさまにゐたまひぬ。あやし、 と思ひて、扇をさし隠して、見かへりたるさまいとをかし。 扇を持たせながらとらへたまひて、 「誰ぞ。名のりこそゆ かしけれ」とのたまふに、むくつけくなりぬ。さるもののつ らに、顔を外ざまにもて隠して、いといたう忍びたまへれば、 この、ただならずほのめかしたまふらん大将にや、かうばし きけはひなども思ひわたさるるに、いと恥づかしくせん方 なし。 乳母の困惑 右近、事態を中の君に報告する 乳母、人げの例ならぬをあやしと思ひて、 あなたなる屏風を押し開けて来たり。 「これはいかなることにかはべらん。あや しきわざにもはべるかな」と聞こゆれど、憚りたまふべきこ とにもあらず、かくうちつけなる御しわざなれど、言の葉多 かる御本性なれば、何やかやとのたまふに、暮れはてぬれど、 「誰と聞かざらむほどはゆるさじ」とてなれなれしく臥し

たまふに、宮なりけり、と思ひはつるに、乳母、言はん方な くあきれてゐたり。  大殿油は燈籠にて、 「いま渡らせたまひなん」と人々言 ふなり。御前ならぬ方の御格子どもぞ下ろすなる。こなたは 離れたる方にしなして、高き棚廚子一具ばかり立て、屏風の 袋に入れこめたる所どころに寄せかけ、何かのあららかな るさまにし放ちたり。かく人のものしたまへばとて、通ふ道 の障子一間ばかりぞ開けたるを、右近とて、大輔がむすめの さぶらふ来て、格子下ろしてここに寄り来なり。 「あな暗 や。まだ大殿油もまゐらざりけり。御格子を、苦しきに、急 ぎまゐりて、闇にまどふよ」とて引き上ぐるに、宮も、なま 苦しと聞きたまふ。乳母、はた、いと苦しと思ひて、ものづ つみせずはやりかにおぞき人にて、 「もの聞こえはべらん。 ここに、いとあやしき事のはべるに、見たまへ困じてなんえ 動きはべらでなむ」 「何ごとぞ」とて探り寄るに、袿姿

なる男の、いとかうばしくて添ひ臥したまへるを、例のけし からぬ御さまと思ひ寄りにけり。女の心あはせたまふまじき こと、と推しはからるれば、 「げにいと見苦しきことにも はべるかな。右近はいかにか聞こえさせん。いま参りて、御- 前にこそは忍びて聞こえさせめ」とて立つを、あさましくか たはに誰も誰も思へど、宮は怖ぢたまはず、あさましきまで あてにをかしき人かな、なほ、何人ならん、右近が言ひつる 気色も、いとおしなべての今参りにはあらざめり、と心得が たく思されて、と言ひかく言ひ恨みたまふ。心づきなげに気- 色ばみてももてなさねど、ただいみじう死ぬばかり思へるが いとほしければ、情ありてこしらへたまふ。  右近、上に、 「しかじかこそおはしませ。いとほしく、い かに思ほすらん」と聞こゆれば、 「例の、心憂き御さま かな。かの母も、いかにあはあはしくけしからぬさまに思ひ たまはんとすらむ。うしろやすくと、かへすがへす言ひおき

つるものを」
と、いとほしく思せど、いかが聞こえむ、さぶ らふ人々もすこし若やかによろしきは見棄てたまふなく、あ やしき人の御癖なれば。いかでかは思ひ寄りたまひけんと、 あさましきにものも言はれたまはず。 匂宮、中宮の病を知らされ浮舟から離れる 「上達部あまた参りたまへる日にて、遊 び戯れたまひては、例も、かかる時はおそ くも渡りたまへば、みなうちとけてやすみ たまふぞかし。さても、いかにすべきことぞ。かの乳母こそ おずましかりけれ。つと添ひゐてまもりたてまつり、引きも かなぐりたてまつりつべくこそ思ひたりつれ」と、少将と二- 人していとほしがるほどに、内裏より人参りて、大宮この夕- 暮より御胸悩ませたまふを、ただ今いみじく重く悩ませたま ふよし申さす。右近、 「心なきをりの御悩みかな。聞こえさ せん」とて立つ。少将、 「いでや、今はかひなくもあべいこ とを。をこがましく、あまりなおびやかしきこえたまひそ」

と言へば、 「いな、まだしかるべし」と、忍びてささめき かはすを、上は、 「いと聞きにくき人の御本性にこそあめれ。 すこし心あらん人は、わがあたりをさへうとみぬべかめり」 と思す。  参りて、御使の申すよりも、いますこしあわたたしげに申 しなせば、動きたまふべきさまにもあらぬ御気色に、 「誰 か参りたる。例の、おどろおどろしくおびやかす」とのたま はすれば、 「宮の侍に、平重経となん名のりはべりつる」 と聞こゆ。出でたまはんことのいとわりなく口惜しきに、人- 目も思されぬに、右近立ち出でて、この御使を西面にて問へ ば、申しつぎつる人も寄り来て、 「中務宮参らせたまひぬ。 大夫はただ今なん、参りつる道に、御車引き出づる、見はべ りつ」と申せば、げににはかに時々悩みたまふをりをりもあ るを、と思すに、人の思すらんこともはしたなくなりて、い みじう恨み契りおきて出でたまひぬ。 乳母、嘆きかつ浮舟を慰め励ます

恐ろしき夢のさめたる心地して、汗におし 漬して臥したまへり。乳母うちあふぎなど して、 「かかる御住まひは、よろづにつ けて、つつましう便なかりけり。かくおはしましそめて、さ らによきことはべらじ。あな恐ろしや。限りなき人と聞こゆ とも、やすからぬ御ありさまはいとあぢきなかるべし。よそ のさし離れたらん人にこそ、よしともあしともおぼえられた まはめ。人聞きもかたはらいたきことと思ひたまへて、降魔 の相を出だして、つと見たてまつりつれば、いとむくつけく 下衆下衆しき女と思して、手をいたく抓ませたまひつるこそ、 直人の懸想だちて、いとをかしくもおぼえはべりつれ。かの 殿には、今日もいみじくいさかひたまひけり。ただ一ところ の御上を見あつかひたまふとて、わが子どもをば思し棄てた り、客人のおはするほどの御旅居見苦し、と荒々しきまでぞ 聞こえたまひける。下人さへ聞きいとほしがりけり。すべて、

この少将の君ぞ、いと愛敬なくおぼえたまふ。この御ことは べらざらましかば、内々やすからずむつかしき事はをりをり はべりとも、なだらかに、年ごろのままにておはしますべき ものを」
など、うち泣きつつ言ふ。  君は、ただ今はともかくも思ひめぐらされず、ただいみじ くはしたなく、見知らぬ目を見つるに添へても、いかに思す らんと思ふに、わびしければ、うつぶし臥して泣きたまふ。 いと苦し、と見あつかひて、 「何かかく思す。母おはせぬ 人こそ、たづきなう悲しかるべけれ。よそのおぼえは、父な き人はいと口惜しけれど、さがなき継母に憎まれんよりは、 これはいとやすし。ともかくもしたてまつりたまひてん。な 思し屈ぜそ。さりとも、初瀬の観音おはしませば、あはれと 思ひきこえたまふらん。ならはぬ御身に、たびたびしきりて 詣でたまふことは。人のかく侮りざまにのみ思ひきこえたる を、かくもありけり、と思ふばかりの御幸ひおはしませ、と

こそ念じはべれ。あが君は人笑はれにてはやみたまひなむ や」
と、世をやすげに言ひゐたり。 匂宮参内 中の君、浮舟を居間に招く 宮は急ぎて出でたまふなり。内裏近き方に やあらん、こなたの御門より出でたまへば、 もののたまふ御声も聞こゆ。いとあてに限 りもなく聞こえて、心ばへある古言などうち誦じたまひて過 ぎたまふほど、すずろにわづらはしくおぼゆ。移し馬ども牽 き出だして、宿直にさぶらふ人、十人ばかりして参りたまふ。  上、いとほしく、うたて思ふらんとて、知らず顔にて、 「大宮悩みたまふとて参りたまひぬれば、今宵は出でた まはじ。柑*のなごりにや、心地も悩ましくて起きゐはべるを、 渡りたまへ。つれづれにも思さるらん」と聞こえたまへり。 「乱り心地のいと苦しうはべるを、ためらひて」と、乳母 して聞こえたまふ。 「いかなる御心地ぞ」と、たち返り とぶらひきこえたまへば、 「何心地ともおほえはべらず。

ただいと苦しくはべり」
と聞こえたまへば、少将右近、目ま じろきをして、 「かたはらぞいたく思すらむ」と言ふも、た だなるよりはいとほし。 「いと口惜しう心苦しきわざかな。 大将の心とどめたるさまにのたまふめりしを、いかにあはあ はしく思ひおとさむ。かくのみ乱りがはしくおはする人は、 聞きにくく、実ならぬことをもくねり言ひ、また、まことに すこし思はずならむことをも、さすがに見ゆるしつべうこそ おはすめれ、この君は、言はでうしと思はんこと、いと恥づ かしげに心深きを、あいなく思 ふこと添ひぬる人の上なめり。 年ごろ見ず知らざりつる人の上 なれど、心ばへ容貌を見れば、 え思ひはなつまじう、らうたく 心苦しきに、世の中はあり難く、 むつかしげなるものかな。わが

身のありさまは、飽かぬこと多かる心地すれど、かくものは かなき目も見つべかりける身の、さははふれずなりにけるに こそ、げにめやすきなりけれ。今は、ただ、この憎き心添ひ たまへる人のなだらかにて思ひ離れなば、さらに何ごとも思 ひ入れずなりなん」
と思ほす。いと多かる御髪なれば、とみ にもえほしやらず、起きゐたまへるも苦し。白き御衣一襲ば かりにておはする、細やかにをかしげなり。 浮舟、中の君に対面して慰められる この君は、まことに、心地もあしくなりに たれど、乳母、 「いとかたはらいたし。事 しもあり顔に思すらむを。ただおほどかに て見えたてまつりたまへ。右近の君などには、事のありさま はじめより語りはべらん」と、せめてそそのかしたてて、こ なたの障子のもとにて、 「右近の君にもの聞こえさせん」 と言へば、立ちて出でたれば、 「いとあやしくはべりつる 事のなごりに、身も熱うなりたまひて、まめやかに苦しげに

見えさせたまふを、いとほしく見はべる。御前にて慰めきこ えさせたまへ、とてなん。過ちもおはせぬ身を、いとつつま しげに思ほしわびためるも、いささかにても世を知りたまへ る人こそあれ、いかでかはと、ことわりにいとほしく見たて まつる」
とて、ひき起こして参らせたてまつる。  我にもあらず、人の思ふらむことも恥づかしけれど、いと やはらかにおほどき過ぎたまへる君にて、押し出でられてゐ たまへり。額髪などのいたう濡れたるをもて隠して、灯の方 に背きたまへるさま、上をたぐひなく見たてまつるに、け劣 るとも見えず、あてにをかし。これに思しつきなば、めざま しげなることはありなんかし、いとかからぬをだに、めづら しき人をかしうしたまふ御心を、と二人ばかりぞ、御前にて え恥ぢあへたまはねば、見ゐたりける。物語いとなつかしく したまひて、 「例ならずつつましき所など、な思ひなし たまひそ。故姫君のおはせずなりにし後、忘るる世なくいみ

じく、身も恨めしく、たぐひなき心地して過ぐすに、いとよ く思ひよそへられたまふ御さまを見れば、慰む心地してあは れになむ。思ふ人もなき身に、昔の御心ざしのやうに思ほさ ば、いとうれしくなん」
など語らひたまへど、いとものつつ ましくて、また鄙びたる心に、答へきこえんこともなくて、 「年ごろ、いと遙かにのみ思ひきこえさせしに、かう見た てまつりはべるは、何ごとも慰む心地しはべりてなん」とば かり、いと若びたる声にて言ふ。 中の君、浮舟をいとおしむ 女房たちの推測 絵など取り出でさせて、右近に詞読ませて 見たまふに、向ひてもの恥ぢもえしあへた まはず、心に入れて見たまへる灯影、さら にここと見ゆるところなく、こまかにをかしげなり。額つき まみのかをりたる心地して、いとおほどかなるあてさは、た だそれとのみ思ひ出でらるれば、絵はことに目もとどめたま はで、 「いとあはれなる人の容貌かな、いかでかうしもあり

けるにかあらん。故宮にいとよく似たてまつりたるなめりか し。故姫君は宮の御方ざまに、我は母上に似たてまつりたる とこそは、古人ども言ふなりしか。げに似たる人はいみじき ものなりけり」
と思しくらぶるに、涙ぐみて見たまふ。 「か れは、限りなくあてに気高きものから、なつかしうなよよか に、かたはなるまで、なよなよとたわみたるさまのしたまへ りしにこそ。これは、まだ、もてなしのうひうひしげに、よ ろづの事をつつましうのみ思ひたるけにや、見どころ多かる なまめかしさぞ劣りたる。ゆゑゆゑしきけはひだにもてつけ たらば、大将の見たまはんにも、さらにかたはなるまじ」な ど、このかみ心に思ひあつかはれたまふ。  物語などしたまひて、暁方になりてぞ寝たまふ。かたは らに臥せたまひて、故宮の御ことども、年ごろおはせし御あ りさまなど、まほならねど語りたまふ。いとゆかしう、見た てまつらずなりにけるをいと口惜しう悲し、と思ひたり。昨-

夜の心知りの人々は、 「いかなりつらんな、いとらうたげ なる御さまを。いみじう思すとも、かひあるべきことかは。 いとほし」と言へば、右近ぞ、 「さもあらじ。かの御乳母の、 ひき据ゑて、すずろに語り愁へし気色、もて離れてぞ言ひし。 宮も、逢ひても逢はぬやうなる心ばへにこそうちうそぶき口 ずさびたまひしか」 「いさや、ことさらにもやあらん、そは 知らずかし」 「昨夜の灯影のいとおほどかなりしも、事あり 顔には見えたまはざりしを」などうちささめきて、いとほし がる。 中将の君、事情を知って浮舟を引き取る 乳母、車請ひて、常陸殿へ去ぬ。北の方にか うかうと言へば、胸つぶれ騒ぎて、 「人も けしからぬさまに言ひ思ふらむ。正身もい かが思すべき。かかる筋のもの憎みは、あて人もなきものな り」と、おのが心ならひに、あわたたしく思ひなりて、夕つ方 参りぬ。宮おはしまさねば心やすくて、 「あやしく心幼

げなる人を参らせおきて、うしろやすくは頼みきこえさせな がら、鼬のはべらむやうなる心地のしはべれば、よからぬも のどもに、憎み恨みられはべる」
と聞こゆ。 「いとさ言 ふばかりの幼げさにはあらざめるを。うしろめたげに気色ば みたる御まかげこそわづらはしけれ」とて笑ひたまへるが、 心恥づかしげなる御まみを見るも、心の鬼に恥づかしくぞお ぼゆる。いかに思すらん、と思へば、えもうち出できこえず。 「かくてさぶらひたまはば、年ごろの願ひの満つ心地し て、人の漏り聞きはべらむもめやすく、面だたしきことにな ん思ひたまふるを、さすがにつつましきことになんはべりけ る。深き山の本意は、みさをになんはべるべきを」とてうち 泣くもいといとほしくて、 「ここは、何ごとかうしろめ たくおぼえたまふべき。とてもかくても、うとうとしく思ひ 放ちきこえばこそあらめ、けしからずだちてよからぬ人の時- 時ものしたまふめれど、その心をみな人見知りためれば、心

づかひして、便なうはもてなしきこえじ、と思ふを、いかに 推しはかりたまふにか」
とのたまふ。 「さらに御心をば 隔てありても思ひきこえさせはべらず。かたはらいたうゆる しなかりし筋は、何にかかけても聞こえさせはべらん。その 方ならで、思しはなつまじき綱もはべるをなん、とらへどこ ろに頼みきこえさする」など、おろかならず聞こえて、 「明日明後日、固き物忌にはべるを、おほぞうならぬ所にて 過ぐして、またも参らせはべらむ」と聞こえていざなふ。い とほしく本意なきわざかなと思せど、えとどめたまはず。 中将の君、浮舟を三条の小家に移す あさましうかたはなることにおどろき騒ぎ たれば、をさをさものも聞こえで出でぬ。 かやうの方違へ所と思ひて、小さき家設け たりけり。三条わたりに、ざればみたるが、まだ造りさした る所なれば、はかばかしきしつらひもせでなんありける。 「あはれ、この御身ひとつをよろづにもて悩みきこゆる

かな。心にかなはぬ世には、あり経まじきものにこそありけ れ。みづからばかりは、ただひたぶるに品々しからず人げな う、たださる方にはひ籠りて過ぐしつべし、この御ゆかりは、 心憂しと思ひきこえしあたりを、睦びきこゆるに、便なきこ とも出で来なば、いと人わらへなるべし。あぢきなし。異や うなりとも、ここを人にも知らせず、忍びておはせよ。おの づからともかくも仕うまつりてん」
と言ひおきて、みづから は帰りなんとす。君は、うち泣きて、世にあらんことところ せげなる身と思ひ屈したまへるさまいとあはれなり。親、は た、まして、あたらしく惜しければ、つつがなくて思ふごと 見なさむと思ひ、さるかたはらいたきことにつけて、人にも あはあはしく思はれ言はれんがやすからぬなりけり。心地な くなどはあらぬ人の、なま腹立ちやすく、思ひのままにぞす こしありける。かの家にも隠ろへては据ゑたりぬべけれど、 しか隠ろへたらむをいとほしと思ひて、かくあつかふに、年

ごろかたはら避らず、明け暮れ見ならひて、かたみに心細く わりなし、と思へり。 「ここは、まだかくあばれて、危 げなる所なめり。さる心したまへ。曹司曹司にある者ども召 し出でて使ひたまへ。宿直人のことなど言ひおきてはべるも、 いとうしろめたけれど、かしこに腹立ち恨みらるるがいと苦 しければ」と、うち泣きて帰る。 中将の君左近少将をのぞき見る 歌の贈答 少将のあつかひを、守は、またなきものに 思ひいそぎて、もろ心に、さまあしく、営 まずと怨ずるなりけり。いと心憂く、この 人によりかかる紛れどももあるぞかしと、またなく思ふ方の ことのかかれば、つらく心憂くて、をさをさ見入れず。かの 宮の御前にていと人げなく見えしに、多く思ひおとしてけれ ば、私ものに思ひかしづかましを、など思ひしことはやみに たり。ここにてはいかが見ゆらむ、まだうちとけたるさま見 ぬに、と思ひて、のどかにゐたまへる昼つ方、こなたに渡り

て物よりのぞく。白き綾のなつかしげなるに、今様色の擣目 などもきよらなるを着て、端の方に前栽見るとてゐたるは、 いづこかは劣る、いときよげなめるは、と見ゆ。むすめ、いと まだ片なりに、何心もなきさまにて添ひ臥したり。宮の上の 並びておはせし御さまどもの思ひ出づれば、口惜しのさまど もや、と見ゆ。前なる御達にものなど言ひ戯れて、うちとけ たるは、いと、見しやうににほひなく人わろげにも見えぬを、 かの宮なりしは、異少将なりけり、と思ふ、をりしも言ふこ とよ。 「兵部卿宮の萩のなほことにおもしろくもあるかな。 いかでさる種ありけん。同じ枝ざしなどのいと艶なるこそ。 一日参りて、出でたまふほどなりしかば、え折らずなりにき。 ことだに惜しき、と宮のうち誦じたまへりしを、若き人たち に見せたらましかば」とて、我も歌詠みゐたり。 「いで や、心ばせのほどを思へば、人ともおぼえず、出で消えはい とこよなかりけるに。何ごと言ひゐたるぞ」と呟かるれど、

いと心地なげなるさまは、さすがにしたらねば、いかが言ふ とて、試みに、    しめ結ひし小萩がうへもまよはぬにいかなる露に   うつる下葉ぞ とあるに、いとほしくおぼえて、    「宮城野の小萩がもとと知らませばつゆもこころをわ   かずぞあらまし いかでみづから聞こえさせあきらめむ」と言ひたり。 中将の君、浮舟の将来を思って薫に及ぶ 故宮の御こと聞きたるなめり、と思ふに、 いとど、いかで人とひとしく、とのみ思ひ あつかはる。あいなう、大将殿の御さま容- 貌ぞ、恋しう面影に見ゆる。同じうめでたしと見たてまつり しかど、宮は思ひ離れたまひて、心もとまらず。侮りて押し 入りたまへりけるを思ふもねたし。この君は、さすがに、尋 ね思す心ばへのありながら、うちつけにも言ひかけたまはず、

つれなし顔なるしもこそいたけれ、よろづにつけて思ひ出で らるれば、 「若き人はまして、かくや思ひ出できこえたまふ らん。わがものにせんと、かく憎き人を思ひけむこそ、見苦 しきことなべかりけれ」など、ただ心にかかりて、ながめの みせられて、とてやかくてやと、よろづによからむあらまし ごとを思ひつづくるに、いと難し。 「やむごとなき御身のほ ど、御もてなし、見たてまつりたまへらむ人は、いますこし なのめならず、いかばかりにてかは心をとどめたまはん。世 の人のありさまを見聞くに、劣りまさり、賤しうあてなる品 に従ひて、容貌も心もあるべきものなりけり。わが子どもを 見るに、この君に似るべきやはある。少将をこの家の内にま たなきものに思へども、宮に見くらべたてまつりしは、いと も口惜しかりしに、推しはからる。当代の御かしづきむすめ を得たてまつりたまへらむ人の御目移しには、いともいとも 恥づかしく、つつましかるべきものかな」と思ふに、すずろ

に心地もあくがれにけり。 浮舟、隠れ家で思いわびる 中将の君と贈答 旅の宿はつれづれにて、庭の草もいぶせき 心地するに、賤しき東国声したる者どもば かりのみ出で入り、慰めに見るべき前栽の 花もなし。うちあばれて、はればれしからで明かし暮らすに、 宮の上の御ありさま思ひ出づるに、若い心地に恋しかりけり。 あやにくだちたまへりし人の御けはひも、さすがに思ひ出で られて、何ごとにかありけむ、いと多くあはれげにのたまひ しかな、なごりをかしかりし御移り香も、まだ残りたる心地 して、恐ろしかりしも思ひ出でらる。  母君、たつやと、いとあはれなる文を書きておこせたまふ。 おろかならず心苦しう思ひあつかひたまふめるに、かひなう もてあつかはれたてまつること、とうち泣かれて、 「いかに つれづれに見ならはぬ心地したまふらん。しばし忍び過ぐし たまへ」とある返り事に、 「つれづれは何か。心やすくて

なむ。   ひたぶるにうれしからまし世の中にあらぬところと思は   ましかば」
と、幼げに言ひたるを見るままに、ほろほろとうち泣きて、 かうまどはしはふるるやうにもてなすことと、いみじければ、   うき世にはあらぬところをもとめても君がさかり   を見るよしもがな と、なほなほしきことどもを言ひかはしてなん、心のべける。 薫、宇治を訪れ、新造の御堂を見る かの大将殿は、例の、秋深くなりゆくころ、 ならひにしことなれば、寝ざめ寝ざめにも の忘れせず、あはれにのみおぼえたまひけ れば、宇治の御堂造りはてつと聞きたまふに、みづからおは しましたり。久しう見たまはざりつるに、山の紅葉もめづら しうおぼゆ。こぼちし寝殿、こたみはいとはればれしう造り なしたり。昔、いと事そぎて聖だちたまへりし住まひを思ひ

出づるに、故宮も恋しうおぼえたまひて、さまかへてけるも 口惜しきまで、常よりもながめたまふ。もとありし御しつら ひは、いと尊げにて、いま片つ方を女しくこまやかになど、 一方ならざりしを、網代屏風、何かのあらあらしきなどは、 かの御堂の僧坊の具にことさらになさせたまへり。山里めき たる具どもを、ことさらにせさせたまひて、いたうも事そが ず、いときよげにゆゑゆゑしくしつらはれたり。 薫、弁の尼に浮舟への仲介を頼んで帰京 遣水のほとりなる岩にゐたまひて、とみに も立たれず、 絶えはてぬ清水になどかなき人のお   もかげをだにとどめざりけん 涙を拭ひつつ、弁の尼君の方に立ち寄りたまへれば、いと悲 しと、見たてまつるにただひそみにひそむ。長押にかりそ めにゐたまひて、簾のつま引き上げて物語したまふ。几帳に 隠ろへてゐたり。言のついでに、 「かの人は、先つころ宮に

と聞きしを、さすがにうひうひしくおぼえてこそ、訪れ寄ら ね。なほこれより伝へはてたまへ」
とのたまへば、「一- 日、かの母君の文はべりき。忌違ふとて、ここかしこになん あくがれたまふめる、このごろもあやしき小家に隠ろへもの したまふめるも心苦しく、すこし近きほどならましかば、そ こにも渡して心やすかるべきを、荒ましき山道に、たはやす くもえ思ひたたでなん、とはべりし」と聞こゆ。 「人々の かく恐ろしくすめる道に、まろこそ旧りがたく分け来れ。何 ばかりの契りにか、と思ふは、あはれになん」とて、例の、 涙ぐみたまへり。 「さらば、その心やすからん所に、消息し たまへ。みづからやは、かしこに出でたまはぬ」とのたまへ ば、 「仰せ言を伝へはべらんことはやすし。今さらに京 を見はべらんことはものうくて。宮にだにえ参らぬを」と聞 こゆ。 「などてか。ともかくも人の聞き伝へばこそあらめ、 愛宕の聖だに、時に従ひては出でずやはありける。深き契り

を破りて、人の願ひを満てたまはむこそ尊からめ」
とのたま へば、 「人済すこともはべらぬに。聞きにくきこともこ そ出でまうで来れ」と、苦しげに思ひたれど、 「なほよきを りななるを」と、例ならず強ひて、 「明後日ばかり車奉らん。 その旅の所、尋ねおきたまへ。ゆめ、をこがましうひがわざ すまじくを」と、ほほ笑みてのたまへば、わづらはしく、い かに思すことならん、と思へど、奥なくあはあはしからぬ御- 心ざまなれば、おのづからわが御ためにも、人聞きなどはつ つみたまふらむ、と思ひて、 「さらば承りぬ。近きほど にこそ。御文などを見せさせたまへかし。ふりはへ、さかし らめきて、心しらひのやうに思はれはべらんも、今さらに伊- 賀たうめにやとつつましくてなん」と聞こゆ。 「文はやすか るべきを、人のもの言ひいとうたてあるものなれば。右大将 は、常陸守のむすめをなんよばふなるなども、とりなしてん をや。その守の主、いと荒々しげなめり」とのたまへば、う

ち笑ひて、いとほし、と思ふ。  暗うなれば出でたまふ。下草のをかしき花ども、紅葉など 折らせたまひて、宮に御覧ぜさせたまふ。かひなからずおは しぬべけれど、かしこまりおきたるさまにて、いたうも馴れ きこえたまはずぞあめる。内裏より、ただの親めきて、入道 の宮にも聞こえたまへば、いとやむごとなき方は限りなく思 ひきこえたまへり。こなたかなたとかしづききこえたまふ宮- 仕に添へて、むつかしき私心の添ひたるも、苦しかりけり。 弁の尼、京に出て浮舟の隠れ家を訪れる のたまひしまだつとめて、睦ましく思す下- 臈侍一人、顔知らぬ牛飼つくり出でて遣 はす。 「庄の者どもの田舎びたる召し出で つつ、つけよ」とのたまふ。必ず出づべくのたまへりければ、 いとつつましく苦しけれど、うちけさうじつくろひて乗りぬ。 野山のけしきを見るにつけても、いにしへよりの古事ども思 ひ出でられて、ながめ暮らしてなん来着きける。いとつれづ

れに人目も見えぬ所なれば、引き入れて、 「かくなん参り来 つる」と、しるべの男して言はせたれば、初瀬の供にありし 若人出で来て下ろす。あやしき所をながめ暮らし明かすに、 昔語もしつべき人の来たれば、うれしくて呼び入れたまひ て。親と聞こえける人の御あたりの人と思ふに、睦ましきな るべし。 「あはれに、人知れず、見たてまつりし後より は、思ひ出できこえぬをりなけれど、世の中かばかり思ひた まへ棄てたる身にて、かの宮にだに参りはべらぬを、この大- 将殿の、あやしきまでのたまはせしかば、思うたまへおこし てなん」と聞こゆ。君も乳母も、めでたしと見おききこえて し人の御さまなれば、忘れぬさまにのたまふらむもあはれな れど、にはかにかく思したばかるらんとは思ひも寄らず。 薫、隠れ家を来訪、浮舟と一夜を語らう 宵うち過ぐるほどに、宇治より人参れりと て、門忍びやかにうちたたく。さにやあら ん、と思へど、弁開けさせたれば、車をぞ

引き入るなる。あやし、と思ふに、 「尼君に対面たまはら む」とて、この近き御庄の預りの名のりをせさせたまへれば、 戸口にゐざり出でたり。雨すこしうちそそくに、風はいと冷 やかに吹き入りて、言ひ知らずかをり来れば、かうなりけり と、誰も誰も心ときめきしぬべき御けはひをかしければ、用- 意もなくあやしきに、まだ思ひあへぬほどなれば、心騒ぎて、 「いかなることにかあらん」と言ひあへり。 「心やすき所 にて、月ごろの思ひあまることも聞こえさせんとてなむ」と 言はせたまへり。いかに聞こゆべきことにかと、君は苦しげ に思ひてゐたまへれば、乳母見苦しがりて、 「しかおはしま したらむを、立ちながらやは帰したてまつりたまはん。かの 殿にこそ、かくなむ、と忍びて聞こえめ。近きほどなれば」 と言ふ。 「うひうひしく。などてかさはあらん。若き御 どちもの聞こえたまはんは、ふとしもしみつくべくもあらぬ を。あやしきまで、心のどかにもの深うおはする君なれば、

よも人のゆるしなくて、うちとけたまはじ」
など言ふほど、 雨やや降り来れば、空はいと暗し。宿直人のあやしき声した る、夜行うちして、 「家の辰巳の隅のくづれいと危し。 この、人の御車入るべくは、引き入れて御門鎖してよ。かか る、人の供人こそ、心はうたてあれ」など言ひあへるも、む くむくしく聞きならはぬ心地したまふ。 「佐野のわたりに家 もあらなくに」など口ずさびて、里びたる簀子の端つ方にゐ たまへり。    さしとむるむぐらやしげき東屋のあまりほどふる雨そ   そきかな とうち払ひたまへる追風、いとかたはなるまで東国の里人も 驚きぬべし。  とざまかうざまに聞こえのがれん方なければ、南の廂に御- 座ひきつくろひて、入れたてまつる。心やすくしも対面した まはぬを、これかれ押し出でたり。遣戸といふもの鎖して、

いささか開けたれば、 「飛騨の工匠も恨めしき隔てかな。か かる物の外には、まだゐならはず」と愁へたまひて、いかが したまひけん、入りたまひぬ。かの人形の願ひものたまはで、 ただ、 「おぼえなきもののはさまより見しより、すずろに恋 しきこと。さるべきにやあらむ、あやしきまでぞ思ひきこゆ る」とぞ語らひたまふべき。人のさまいとらうたげにおほど きたれば、見劣りもせず、いとあはれと思しけり。 翌朝、薫、浮舟を伴って隠れ家を出る ほどもなう明けぬる心地するに、鶏などは 鳴かで、大路近き所に、おぼとれたる声し て、いかにとか聞きも知らぬ名のりをして、 うち群れて行くなどぞ聞こゆる。かやうの朝ぼらけに見れば、 物戴きたる者の鬼のやうなるぞかし、と聞きたまふも、かか る蓬のまろ寝にならひたまはぬ心地もをかしくもありけり。 宿直人も門開けて出づる音す。おのおの入りて臥しなどする を聞きたまひて、人召して、車、妻戸に寄せさせたまふ。か

き抱きて乗せたまひつ。誰も誰も、あやしう、あへなきこと を思ひ騒ぎて、 「九月にもありけるを。心憂のわざや。いか にしつることぞ」と嘆けば、尼君もいといとほしく、思ひの 外なる事どもなれど、 「おのづから思すやうあらん。う しろめたうな思ひたまひそ。九月は明日こそ節分と聞きし か」と言ひ慰む。今日は十三日なりけり。尼君、 「こたみは え参らじ。宮の上聞こしめさむこともあるに。忍びて行き帰 りはべらんも、いとうたてなん」と聞こゆれど、まだきこの ことを聞かせたてまつらんも心恥づかしくおぼえたまひて、 「それは後にも罪さり申したまひてん。かしこもしるべなく ては、たづきなき所を」と責めてのたまふ。 「人一人やはべ るべき」とのたまへば、この君に添ひたる侍従と乗りぬ。乳- 母、尼君の供なりし童などもおくれて、いとあやしき心地し てゐたり。 宇治への道中、薫、弁の尼 共に大君を思う

近きほどにや、と思へば、宇治へおはする なりけり。牛などひきかふべき心まうけし たまへりけり。河原過ぎ、法性寺のわたり おはしますに、夜は明けはてぬ。若き人はいとほのかに見た てまつりて、めできこえて、すずろに恋ひたてまつるに、世 の中のつつましさもおぼえず。君ぞ、いとあさましきにもの もおぼえで、うつぶし臥したるを、 「石高きわたりは苦しき ものを」とて、抱きたまへり。薄物の細長を、車の中にひき 隔てたれば、はなやかにさし出でたる朝日影に、尼君はいと はしたなくおぼゆるにつけて、故姫君の御供にこそ、かやう にても見たてまつりつべかりしか、ありふれば思ひかけぬこ とをも見るかな、と悲しうおぼえて、つつむとすれどうちひ そみつつ泣くを、侍従はいと憎く、もののはじめに、かたち 異にて乗り添ひたるをだに思ふに、なぞかくいやめなると、 憎くをこにも思ふ。老いたる者は、すずろに涙もろにあるも

のぞと、おろそかにうち思ふなりけり。  君も、見る人は憎からねど、空のけしきにつけても、来し 方の恋しさまさりて、山深く入るままにも、霧たちわたる心- 地したまふ。うちながめて寄りゐたまへる袖の、重なりなが ら長やかに出でたりけるが、川霧に濡れて、御衣の紅なるに、 御直衣の花のおどろおどろしう移りたるを、おとしがけの高 き所に見つけて、ひき入れたまふ。    かたみぞと見るにつけては朝露のところせきまでぬる   る袖かな と、心にもあらず独りごちたまふを聞きて、いとどしぼるば かり尼君の袖も泣き濡らすを、若き人、あやしう見苦しき世 かな、心ゆく道にいとむつかしきこと添ひたる心地す。忍び がたげなる鼻すすりを聞きたまひて、我も忍びやかにうちか みて、いかが思ふらんといとほしければ、 「あまたの年ごろ、 この道を行きかふたび重なるを思ふに、そこはかとなくもの

あはれなるかな。すこし起き上りて、この山の色も見たまへ。 いと埋れたりや」
と、強ひてかき起こしたまへば、をかしき ほどにさし隠して、つつましげに見出だしたるまみなどは、 いとよく思ひ出でらるれど、おいらかに、あまりおほどき過 ぎたるぞ、心もとなかめる。いといたう児めいたるものから、 用意の浅からずものしたまひしはやと、なほ、行く方なき悲 しさは、むなしき空にも満ちぬべかめり。 宇治に到着する 浮舟不安な身の上を思う おはし着きて、あはれ亡き魂や宿りて見た まふらん、誰によりてかくすずろにまどひ 歩くものにもあらなくに、と思ひつづけた まひて、下りてはすこし心しらひて立ち去りたまへり。女は、 母君の思ひたまはむことなど、いと嘆かしけれど、艶なるさ まに、心深くあはれに語らひたまふに、思ひ慰めて下りぬ。 尼君はことさらに下りで廊にぞ寄するを、わざと思ふべき住 まひにもあらぬを、用意こそあまりなれ、と見たまふ。御庄

より、例の、人々騒がしきまで参り集まる。女の御台は、尼- 君の方よりまゐる。道はしげかりつれど、このありさまはい とはればれし。川のけしきも山の色も、もてはやしたるつく りざまを見出だして、日ごろのいぶせさ慰みぬる心地すれど、 いかにもてないたまはんとするにかと、浮きてあやしうお ぼゆ。  殿は京に御文書きたまふ。    まだなりあはぬ仏の御飾など見たまへおきて、今日よ   ろしき日なりければ、急ぎものしはべりて、乱り心地の   悩ましきに、物忌なりけるを思ひたまへ出でてなん。今-   日明日ここにてつつしみはべるべき。 など、母宮にも姫宮にも聞こえたまふ。 薫、今後の浮舟のあつかいを思案する うちとけたる御ありさま、いますこしをか しくて入りおはしたるも恥づかしけれど、 もて隠すべくもあらでゐたまへり。女の御-

装束など、色々によくと思ひてし重ねたれど、すこし田舎び たることもうちまじりてぞ。昔のいと萎えばみたりし御姿の、 あてになまめかしかりしのみ思ひ出でられて。髪の裾のをか しげさなどは、こまごまとあてなり、宮の御髪のいみじくめ でたきにも劣るまじかりけり、と見たまふ。かつは、 「この 人をいかにもてなしてあらせむとすらん。ただ今、ものもの しげにてかの宮に迎へ据ゑんも音聞き便なかるべし。さりと て、これかれある列にて、おほぞうにまじらはせんは本意な からむ。しばし、ここに隠してあらん」と思ふも、見ずはさ うざうしかるべくあはれにおぼえたまへば、おろかならず語 らひ暮らしたまふ。故宮の御ことものたまひ出でて、昔物語 をかしうこまやかに言ひ戯れたまへど、ただいとつつましげ にて、ひたみちに恥ぢたるを、さうざうしう思す。 「あやま りてかうも心もとなきはいとよし。教へつつも見てん。田舎 びたるざれ心もてつけて、品々しからず、はやりかならまし

かばしも形代不用ならまし」
と思ひなほしたまふ。 薫、琴を調べ、浮舟に教え語らう ここにありける琴箏の琴召し出でて、かか ること、はた、ましてえせじかし、と口惜 しければ、独り調べて、宮亡せたまひて後、 ここにてかかるものにいと久しう手触れざりつかしと、めづ らしく我ながらおぼえて、いとなつかしくまさぐりつつなが めたまふに、月さし出でぬ。宮の御琴の音のおどろおどろし くはあらで、いとをかしくあはれに弾きたまひしはや、と思 し出でて、 「昔、誰も誰もおはせし世に、ここに生ひ出でた まへらましかば、いますこしあはれはまさりなまし。親王の 御ありさまは、よその人だにあはれに恋しくこそ思ひ出でら れたまへ。などて、さる所には年ごろ経たまひしぞ」とのた まへば、いと恥づかしくて、白き扇をまさぐりつつ添ひ臥し たるかたはらめ、いと隈なう白うて、なまめいたる額髪の隙 など、いとよく思ひ出でられてあはれなり。まいて、かやう

のこともつきなからず教へなさばや、と思して、 「これはす こしほのめかいたまひたりや。あはれ、わがつまといふ琴は、 さりとも手ならしたまひけん」など問ひたまふ。 「その大- 和言葉だに、つきなくならひにければ、ましてこれは」と言 ふ、いとかたはに心おくれたりとは見えず。ここに置きて、 え思ふままにも来ざらむことを思すが、今より苦しきは、な のめには思さぬなるべし。琴は押しやりて、 「楚王の台の上 の夜の琴の声」と誦じたまへるも、かの弓をのみ引くあたり にならひて、いとめでたく思ふやうなりと、侍従も聞きゐた りけり。さるは、扇の色も心おきつべき閨のいにしへをば知 らねば、ひとへにめできこゆるぞ、おくれたるなめるかし。 事こそあれ、あやしくも言ひつるかな、と思す。 弁の尼の贈歌、薫、和して感慨を託す 尼君の方よりくだものまゐれり。箱の蓋に、 紅葉蔦など折り敷きて、ゆゑなからず取り まぜて、敷きたる紙に、ふつつかに書きた

るもの、隈なき月にふと見ゆれば、目とどめたまふほどに、 くだもの急ぎにぞ見えける。    やどり木は色かはりぬる秋なれどむかしおぼえて   澄める月かな と古めかしく書きたるを、恥づかしくもあはれにも思されて、 里の名もむかしながらに見し人のおもがはりせるねや   の月かげ わざと返り事とはなくてのたまふ、侍従なむ伝へけるとぞ。 A Boat Upon the Waters 匂宮、浮舟の素姓を問い、中の君を恨む

宮、なほかのほのかなりし夕を思し忘るる 世なし。ことごとしきほどにはあるまじげ なりしを、人柄のまめやかにをかしうもあ りしかなと、いとあだなる御心は、口惜しくてやみにしこと とねたう思さるるままに、女君をも、 「かうはかなきことゆ ゑ、あながちにかかる筋のもの憎みしたまひけり。思はずに 心憂し」と辱づかしめ恨みきこえたまふをりをりは、いと苦 しうて、ありのままにや聞こえてまし、と思せど、 「やむご となきさまにはもてなしたまはざなれど、浅はかならぬ方 に心とどめて人の隠しおきたまへる人を、もの言ひさがな く聞こえ出でたらんにも、さて聞きすぐしたまふべき御心ざ まにもあらざめり。さぶらふ人の中にも、はかなうものをも

のたまひ触れんと思したちぬるかぎりは、あるまじき里まで 尋ねさせたまふ御さまよからぬ御本性なるに、さばかり月日 を経て思ししむめるあたりは、まして必ず見苦しきこと取り 出でたまひてむ。外より伝へ聞きたまはんはいかがはせん。 いづ方ざまにもいとほしくこそはありとも、防ぐべき人の御- 心ありさまならねば、よその人よりは聞きにくくなどばかり ぞおぼゆべき。とてもかくても、わが怠りにてはもてそこな はじ」
と思ひ返したまひつつ、いとほしながらえ聞こえ出で たまはず。ことざまにつきづきしくは、え言ひなしたまはね ば、おしこめてもの怨じしたる世の常の人になりてぞおはし ける。 薫、悠長に構えて、浮舟を放置する かの人は、たとしへなくのどかに思しおき てて、待ち遠なりと思ふらむ、と心苦しう のみ思ひやりたまひながら、ところせき身 のほどを、さるべきついでなくて、かやすく通ひたまふべき

道ならねば、神のいさむるよりもわりなし。されど、 「いま いとよくもてなさんとす。山里の慰めと思ひおきてし心ある を、すこし日数も経ぬべき事どもつくり出でて、のどやかに 行きても見む。さて、しばしは人の知るまじき住み所して、 やうやうさるかたにかの心をものどめおき、わがためにも、 人のもどきあるまじく、なのめにてこそよからめ。にはかに、 何人ぞ、いつよりなど聞きとがめられんももの騒がしく、は じめの心に違ふべし、また、宮の御方の聞き思さむことも、 もとの所を際々しうゐて離れ、昔を忘れ顔ならん、いと本意 なし」 など思ししづむるも、例の、のどけさ過ぎたる心から なるべし。渡すべき所思しまうけて、忍びてぞ造らせたまひ ける。 薫なお中の君に心を寄せる 中の君の境涯 すこし暇なきやうにもなりたまひにたれど、 宮の御方には、なほたゆみなく心寄せ仕う まつりたまふこと同じやうなり。見たてま

つる人もあやしきまで思へれど、世の中をやうやう思し知り、 人のありさまを見聞きたまふままに、これこそはまことに、 昔を忘れぬ心長さの、なごりさへ浅からぬためしなめれ、と あはれも少なからず。ねびまさりたまふままに、人柄もおぼ えもさま異にものしたまへば、宮の御心のあまり頼もしげな き時々は、思はずなりける宿世かな、故姫君の思しおきてし ままにもあらで、かくもの思はしかるべき方にしもかかりそ めけんよ、と思すをりをり多くなん。されど、対面したまふ ことは難し。年月もあまり昔を隔てゆき、内々の御心を深う 知らぬ人は、なほなほしきただ人こそ、さばかりのゆかり尋 ねたる睦びをも忘れぬにつきづきしけれ、なかなかかう限り あるほどに、例に違ひたるありさまもつつましければ、宮の 絶えず思し疑ひたるもいよいよ苦しう、思し憚りたまひつつ、 おのづからうときさまになりゆくを、さりとても絶えず同じ 心の変りたまはぬなりけり。宮も、あだなる御本性こそ見ま

うきふしもまじれ、若君のいとうつくしうおよすけたまふま まに、外にはかかる人も出で来まじきにや、とやむごとなき ものに思して、うちとけなつかしき方には人にまさりてもて なしたまへば、ありしよりはすこしもの思ひしづまりて過ぐ したまふ。 宇治の便りから匂宮、浮舟の行く方を知る 正月の朔日過ぎたるころ渡りたまひて、若- 君の年まさりたまへるをもてあそびうつ くしみたまふ、昼つ方、小さき童、緑の薄- 様なる包文のおほきやかなるに、小さき鬚籠を小松につけた る、また、すくすくしき立文 とりそへて、奥なく走り参る。 女君に奉れば、宮、 「それは いづくよりぞ」とのたまふ。 「宇治より大輔のおとどに とて、もてわづらひはべりつ

るを、例の、御前にてぞ御覧ぜんとて取りはべりぬる」
と言 ふもいとあわたたしきけしきにて、 「この籠は、金をつくり て、色どりたる籠なりけり。松もいとよう似て作りたる枝ぞ とよ」と笑みて言ひつづくれば、宮も笑ひたまひて、 「い で、我ももてはやしてむ」と召すを、女君、いとかたはらい たく思して、 「文は大輔がりやれ」とのたまふ、御顔の 赤みたれば、宮、大将のさりげなくしなしたる文にや、宇治 の名のりもつきづきしと思し寄りて、この文を取りたまひつ。  さすがに、それならん時に、と思すに、いとまばゆければ、 「開けて見むよ。怨じやしたまはんとする」とのたまへば、 「見苦しう。何かは、その女どちの中に書き通はしたら むうちとけ文をば御覧ぜむ」とのたまふが騒がぬ気色なれば、 「さば、見むよ。女の文書きはいかがある」とて開けたま へれば、いと若やかなる手にて、 「おぼつかなくて年も暮 れはべりにける。山里のいぶせさこそ、峰の霞も絶え間なく

て」
とて、端に、 「これも若宮の御前に。あやしうはべるめ れど」と書きたり。ことにらうらうじきふしも見えねど、お ぼえなきを、御目たててこの立文を見たまへば、げに、女の 手にて、    年あらたまりて何ごとかさぶらふ。御私にも、い   かにたのしき御よろこび多くはべらん。ここには、いと   めでたき御住まひの心深さを、なほふさはしからず見た   てまつる。かくてのみ、つくづくとながめさせたまふよ   りは、時々は渡り参らせたまひて、御心も慰めさせたま   へ、と思ひはべるに、つつましくおそろしきものに思し   とりてなん、ものうきことに嘆かせたまふめる。若宮の   御前にとて、卯槌まゐらせたまふ。大き御前の御覧ぜざ   らんほどに、御覧ぜさせたまへ、とてなん。 と、こまごまと言忌もえしあへず、もの嘆かしげなるさまの かたくなしげなるも、うち返しうち返し、あやしと御覧じて、

「今はのたまへかし。誰がぞ」とのたまへば、 「昔、 かの山里にありける人のむすめの、さるやうありて、このご ろかしこにあるとなむ聞きはべりし」と聞こえたまへば、お しなべて仕うまつるとは見えぬ文書きを、心えたまふに、か のわづらはしき事あるに思しあはせつ。卯槌をかしう、つれ づれなりける人のしわざと見えたり。またぶりに、山橘作 りて貫きそへたる枝に、    まだ旧りぬものにはあれど君がためふかき心にまつ   と知らなん と、ことなることなきを、かの思ひわたる人のにや、と思し 寄りぬるに、御目とまりて、 「返り事したまへ。情なし。 隠いたまふべき文にもあらざめるを。など御気色のあしき。 まかりなんよ」とて立ちたまひぬ。女君、少将などして、 「いとほしくもありつるかな。幼き人の取りつらむを、 人はいかで見ざりつるぞ」など、忍びてのたまふ。

「見たまへましかば、いかでかは参らせまし。すべて、この 子は、心地なうさし過ぐしてはべり。生ひ先見えて、人はお ほどかなるこそをかしけれ」
など憎めば、 「あなかま。 幼き人な腹立てそ」とのたまふ。去年の冬、人の参らせたる 童の、顔はいとうつくしかりければ、宮もいとらうたくした まふなりけり。 匂宮、大内記から薫の隠し女のことを聞く わが御方におはしまして、あやしうもある かな、宇治に大将の通ひたまふことは年ご ろ絶えず、と聞く中にも、忍びて夜とまり たまふ時もあり、と人の言ひしを、いとあまりなる、人の形- 見とてさるまじき所に旅寝したまふらむこと、と思ひつるは、 かやうの人隠しおきたまへるなるべし、と思しうることもあ りて、御書のことにつけて使ひたまふ大内記なる人の、かの 殿に親しきたよりあるを思し出でて、御前に召す。参れり。 韻塞すべきに、集ども選り出でて、こなたなる廚子に積むべ

きことなどのたまはせて、 「右大将の宇治へいまするこ と、なほ絶えはてずや。寺をこそ、いとかしこく造りたなれ。 いかでか見るべき」とのたまへば、 「いといかめしく造 られて、不断の三昧堂などいと尊く掟てられたり、となむ聞 きたまふる。通ひたまふことは、去年の秋ごろよりは、あり しよりもしばしばものしたまふなり。下の人々の忍びて申し しは、女をなむ隠し据ゑさせたまへる、けしうはあらず思す 人なるべし、あのわたりに領じたまふ所どころの人、みな仰 せにて参り仕うまつる、宿直にさし当てなどしつつ、京より もいと忍びて、さるべきことなど問はせたまふ、いかなる幸 ひ人の、さすがに心細くてゐたまへるならむ、となむ、ただ この十二月のころほひ申す、と聞きたまへし」と聞こゆ。い とうれしくも聞きつるかな、と思ほして、 「たしかにその 人とは言はずや。かしこにもとよりある尼ぞとぶらひたまふ と聞きし」 「尼は廊になむ住みはべるなる。この人は、

今建てられたるになむ、きたなげなき女房などもあまたして、 口惜しからぬけはひにてゐてはべる」
と聞こゆ。 「をかし きことかな。何心ありて、いかなる人をかは、さて据ゑたま ひつらん。なほいと気色ありて、なべての人に似ぬ御心なり や。右大臣など、この人のあまりに道心にすすみて、山寺に 夜さへともすればとまりたまふなる、軽々し、ともどきたま ふと聞きしを、げに、などか、さしも仏の道には忍び歩くら む、なほ、かの古里に心をとどめたる、と聞きし、かかるこ とこそはありけれ。いづら。人よりはまめなるとさかしがる 人しも、ことに人の思ひいたるまじき隈ある構へよ」とのた まひて、いとをかし、と思いたり。この人は、かの殿にいと 睦ましく仕うまつる家司の婿になむありければ、隠したまふ ことも聞くなるべし。御心の中には、いかにしてこの人を見 し人かとも見定めむ、かの君の、さばかりにて据ゑたるは、 なべてのよろし人にはあらじ、このわたりには、いかでうと

からぬにかはあらむ、心をかはして隠したまへりけるも、い とねたうおぼゆ。 匂宮、宇治行きの計画を大内記に相談する ただ、そのことを、このごろは思ししみた り。賭弓内宴など過ぐして心のどかなる に、司召などいひて人の心尽くすめる方は 何とも思さねば、宇治へ忍びておはしまさんことをのみ思し めぐらす。この内記は、望むことありて、夜昼、いかで御心 に入らむと思ふころ、例よりはなつかしう召し使ひて、 「いと難きことなりとも、わが言はんことはたばかりてむや」 などのたまふ。かしこまりてさぶらふ。 「いと便なきこと なれど、かの宇治に住むらむ人は、はやうほのかに見し人の 行く方も知らずなりにしが、大将に尋ねとられにける、と聞 きあはすることこそあれ。たしかには知るべきやうもなきを、 ただ、ものよりのぞきなどして、それか、あらぬか、と見定め むとなむ思ふ。いささか人に知らるまじき構へは、いかがす

べき」
とのたまへば、あなわづらはし、と思へど、 「おは しまさんことは、いと荒き山越えになむはべれど、ことにほ ど遠くはさぶらはずなむ。夕つ方出でさせおはしまして、亥- 子の刻にはおはしまし着きなむ。さて暁にこそは帰らせたま はめ。人の知りはべらむことは、ただ御供にさぶらひはべら むこそは。それも、深き心は いかでか知りはべらむ」と申 す。 「さかし。昔も一たび 二たび通ひし道なり。軽々し きもどき負ひぬべきが、もの の聞こえのつつましきなり」 とて、かへすがへすあるまじ きことにわが御心にも思せど、 かうまでうち出でたまへれば、 え思ひとどめたまはず。 匂宮、大内記の案内により宇治に赴く

御供に、昔もかしこの案内知れりし者二三- 人、この内記、さては御乳母子の蔵人より かうぶりえたる若き人、睦ましきかぎりを 選りたまひて、大将、今日明日はよもおはせじなど、内記に よく案内聞きたまひて、出で立ちたまふにつけても、いにし へを思し出づ。あやしきまで心をあはせつつゐて歩きし人の ために、うしろめたきわざにもあるかな、と思し出づること もさまざまなるに、京の中だにむげに人知らぬ御歩きは、さ は言へど、えしたまはぬ御身にしも、あやしきさまのやつれ 姿して、御馬にておはする、心地ももの恐ろしくややましけ れど、もののゆかしき方は進みたる御心なれば、山深うなる ままに、いつしか、いかならん、見あはすることもなくて帰 らむこそさうざうしくあやしかるべけれ、と思すに、心も騒 ぎたまふ。法性寺のほどまでは御車にて、それよりぞ御馬に は奉りける。

 急ぎて、宵過ぐるほどにおはしましぬ。内記、案内よく知 れるかの殿の人に問ひ聞きたりければ、宿直人ある方には寄 らで、葦垣しこめたる西面をやをらすこしこぼちて入りぬ。 我も、さすがに、まだ見ぬ御住まひなれば、たどたどしけれ ど、人しげうなどしあらねば、寝殿の南面にぞ灯ほの暗う見 えて、そよそよとする音する。参りて、 「まだ人は起き てはべるべし。ただこれよりおはしまさむ」としるべして、 入れたてまつる。 匂宮、浮舟と女房たちをのぞき見る やをら上りて、格子の隙あるを見つけて寄 りたまふに、伊予簾はさらさらと鳴るもつ つまし。新しうきよげに造りたれど、さす がに荒々しくて隙ありけるを、誰かは来て見むともうちとけ て、穴も塞がず、几帳の帷子うち懸けて押しやりたり。灯明 かうともして物縫ふ人三四人ゐたり。童のをかしげなる、糸 をぞよる。これが顔、まづかの灯影に見たまひしそれなり。

うちつけ目か、となほ疑はしきに、右近と名のりし若き人も あり。君は腕を枕にて、灯をながめたるまみ、髪のこぼれか かりたる額つきいとあてやかになまめきて、対の御方にいと ようおぼえたり。  この右近、物折るとて、 「かくて渡らせたまひなば、とみ にしもえ帰り渡らせたまはじを。殿は、この司召のほど過ぎ て、朔日ごろには必ずおはしましなむ、と昨日の御使も申し けり。御文にはいかが聞こえさせたまへりけむ」と言へど、 答へもせず、いともの思ひたる気色なり。 「をりしも這ひ 隠れさせたまへるやうならむが、見苦しさ」と言へば、向ひ たる人、 「それは、かくなむ渡りぬる、と御消息聞こえさせ たまへらむこそよからめ。軽々しう、いかでかは、音なくて ははひ隠れさせたまはむ。御物詣の後は、やがて渡りおはし ましねかし。かくて心細きやうなれど、心にまかせてやすら かなる御住まひにならひて、なかなか旅心地すべしや」など

言ふ。また、あるは、 「なほ、しばし、かくて待ちきこえ させたまはむぞ、のどやかにさまよかるべき。京へなど迎へ たてまつらせたまへらむ後、おだしくて親にも見えたてまつ らせたまへかし。このおとどのいと急にものしたまひて、に はかにかう聞こえなしたまふなめりかし。昔も今も、もの念 じしてのどかなる人こそ、幸ひは見はてたまふなれ」など言 ふなり。右近、 「などて、このままをとどめたてまつらずな りにけむ。老いぬる人は、むつかしき心のあるにこそ」と憎 むは、乳母やうの人を譏るなめり。げに憎き者ありきかし、 と思し出づるも、夢の心地ぞする。  かたはらいたきまでうちとけたることどもを言ひて、 「宮の上こそ、いとめでたき御幸ひなれ。右の大殿の、さば かりめでたき御勢にて、いかめしうののしりたまふなれど、 若君生まれたまひて後は、こよなくぞおはしますなる。かか るさかしら人どものおはせで、御心のどかにかしこうもてな

しておはしますにこそはあめれ」
と言ふ。 「殿だに、まめ やかに思ひきこえたまふこと変らずは、劣りきこえたまふべ きことかは」と言ふを、君すこし起き上りて、 「いと聞き にくきこと。よその人にこそ、劣らじともいかにとも思はめ、 かの御ことなかけても言ひそ。漏り聞こゆるやうもあらば、 かたはらいたからむ」など言ふ。 「何ばかりの親族にかはあらむ。いとよくも似通ひたるけは ひかな」と思ひくらぶるに、心恥づかしげにてあてなるとこ ろは、かれはいとこよなし、これは、ただ、らうたげにこま かなるところぞいとをかしき。よろしう、なりあはぬところ を見つけたらむにてだに、さばかりゆかしと思ししめたる人 を、それと見てさてやみたまふべき御心ならねば、まして隈 もなく見たまふに、いかでかこれをわがものにはなすべき、 と心もそらになりたまひて、なほまもりたまへば、右近、 「いとねぶたし。昨夜もすずろに起き明かしてき。つとめて

のほどにも、これは縫ひてむ。急がせたまふとも、御車は日 たけてぞあらむ」
と言ひて、しさしたるものどもとり具して、 几帳にうち懸けなどしつつ、うたた寝のさまに寄り臥しぬ。 君もすこし奥に入りて臥す。右近は北面に行きて、しばしあ りてぞ来たる。君の後近く臥しぬ。 匂宮、薫を装い浮舟の寝所にはいって契る ねぶたしと思ひければいととう寝入りぬる けしきを見たまひて、またせむやうもなけ れば、忍びやかにこの格子を叩きたまふ。 右近聞きつけて、 「誰そ」と言ふ。声づくりたまへば、あて なる咳と聞き知りて、殿のおはしたるにや、と思ひて起きて 出でたり。 「まづ、これ開けよ」とのたまへば、 「あや しう。おぼえなきほどにもはべるかな。夜はいたう更けはべ りぬらんものを」と言ふ。 「ものへ渡りたまふべかなり、 と仲信が言ひつれば、おどろかれつるままに出で立ちて。い とこそわりなかりつれ。まづ開けよ」とのたまふ声、いとよう

まねび似せたまひて忍びたれ ば、思ひも寄らずかい放つ。 「道にて、いとわりなく恐 ろしき事のありつれば、あや しき姿になりてなむ。灯暗う なせ」とのたまへば、 「あ ないみじ」とあわてまどひて、 灯は取りやりつ。 「我人に 見すなよ。来たりとて、人お どろかすな」と、いとらうらうじき御心にて、もとよりもほ のかに似たる御声を、ただかの御けはひにまねびて入りたま ふ。ゆゆしきことのさまとのたまひつる、いかなる御姿なら ん、といとほしくて、我も隠ろへて見たてまつる。いと細や かになよなよと装束きて、香のかうばしきことも劣らず。近 う寄りて、御衣ども脱ぎ、馴れ顔にうち臥したまへれば、

「例の御座にこそ」など言へど、ものものたまはず。御衾 まゐりて、寝つる人々起こして、すこし退きてみな寝ぬ。御供 の人など、例の、ここには知らぬならひにて、 「あはれなる 夜のおはしましざまかな。かかる御ありさまを御覧じ知らぬ よ」など、さかしらがる人もあれど、 「あなかま、たまへ。 夜声は、ささめくしもぞかしがましき」など言ひつつ寝ぬ。  女君は、あらぬ人なりけり、と思ふに、あさましういみじ けれど、声をだにせさせたまはず、いとつつましかりし所に てだに、わりなかりし御心なれば、ひたぶるにあさまし。は じめよりあらぬ人と知りたらば、いかが言ふかひもあるべき を、夢の心地するに、やうやう、そのをりのつらかりし、年- 月ごろ思ひわたるさまのたまふに、この宮と知りぬ。いよい よ恥づかしく、かの上の御ことなど思ふに、またたけきこと なければ、限りなう泣く。宮も、なかなかにて、たはやすく 逢ひ見ざらむことなどを思すに、泣きたまふ。 翌朝、匂宮逗留を決意 右近終日苦慮する

夜はただ明けに明く。御供の人来て声づく る。右近聞きて参れり。出でたまはん心地 もなく、飽かずあはれなるに、またおはし まさむことも難ければ、京には求め騒がるとも、今日ばかり はかくてあらん、何ごとも生ける限りのためこそあれ、ただ 今出でおはしまさむはまことに死ぬべく思さるれば、この右- 近を召し寄せて、 「いと心地なしと思はれぬべけれど、今- 日はえ出づまじうなむある。男どもは、このわたり近からむ 所に、よく隠ろへてさぶらへ。時方は、京へものして、山寺 に忍びてなむと、つきづきしからむさまに、答へなどせよ」 とのたまふに、いとあさましくあきれて、心もなかりける夜 の過ちを思ふに、心地もまどひぬべきを思ひしづめて、 「今 はよろづにおぼほれ騒ぐともかひあらじものから、なめげな り。あやしかりしをりにいと深う思し入れたりしも、かうの がれざりける御宿世にこそありけれ。人のしたるわざかは」

と思ひ慰めて、 「今日、御迎へにとはべりしを、いかにせ させたまはむとする御ことにか。かうのがれきこえさせたま ふまじかりける御宿世は、いと聞こえさせはべらむ方なし。 をりこそいとわりなくはべれ。なほ、今日は出でおはしまし て、御心ざしはべらばのどかにも」と聞こゆ。およすけても 言ふかな、と思して、 「我は月ごろもの思ひつるにほれは てにければ、人のもどかむも言はむも知られず、ひたぶるに 思ひなりにたり。すこしも身のことを思ひ憚らむ人の、かか る歩きは思ひたちなむや。御返りには、今日は物忌など言へ かし。人に知らるまじきことを、誰がためにも思へかし。他- 事はかひなし」とのたまひて、この人の、世に知らずあはれ に思さるるままに、よろづの譏りも忘れたまひぬべし。  右近出でて、このおとなふ人に、 「かくなむのたまはす るを、なほ、いとかたはならむ、とを申させたまへ。あさま しうめづらかなる御ありさまは、さ思しめすとも、かかる御-

供人どもの御心にこそあらめ。いかで、かう心幼うはゐてた てまつりたまひしぞ。なめげなることを聞こえさする山がつ などもはべらましかば、いかならまし」
と言ふ。内記は、げ にいとわづらはしくもあるかな、と思ひ立てり。 「時方と 仰せらるるは、誰にか。さなむ」と伝ふ。笑ひて、 「勘へ たまふことどもの恐ろしければ、さらずとも逃げてまかでぬ べし。まめやかには、おろかならぬ御気色を見たてまつれば、 誰も誰も身を棄ててなむ。よしよし、宿直人もみな起きぬな り」とて急ぎ出でぬ。  右近、人に知らすまじうはいかがはたばかるべき、とわり なうおぼゆ。人々起きぬるに、 「殿は、さるやうありて、 いみじう忍びさせたまふ。気色見たてまつれば、道にていみ じき事のありけるなめり。御衣どもなど、夜さり忍びて持て 参るべくなむ仰せられつる」など言ふ。御達、 「あなむくつ けや。木幡山はいと恐ろしかなる山ぞかし。例の、御前駆も

追はせたまはず、やつれておはしましけむに。あないみじ や」
と言へば、 「あなかま、あなかま。下衆などの塵ばか りも聞きたらむに、いといみじからむ」と言ひゐたる、心- 地恐ろし。あやにくに殿の御使のあらむ時いかに言はむと、 「初瀬の観音、今日事なくて暮らしたまへ」と、大願をぞ立 てける。石山に今日詣でさせむとて、母君の迎ふるなりけり。 この人々もみな精進し、浄まはりてあるに、 「さらば、今- 日はえ渡らせたまふまじきなめり。いと口惜しきこと」と 言ふ。  日高くなれば、格子など上げて、右近ぞ近くて仕うまつり ける。母屋の簾はみな下ろしわたして、「物忌」など書かせ てつけたり。母君もやみづからおはするとて、夢見騒がしか りつ、と言ひなすなりけり。御手水などまゐりたるさまは、 例のやうなれど、まかなひめざましう思されて、 「そこに 洗はせたまはば」とのたまふ。女、いとさまよう心にくき人

を見ならひたるに、時の間も見ざらむに死ぬべし、と思し焦 がるる人を、心ざし深しとはかかるを言ふにやあらむ、と思 ひ知らるるにも、あやしかりける身かな、誰も、ものの聞こ えあらば、いかに思さむと、まづかの上の御心を思ひ出でき こゆれど、知らぬを、 「かへすがへすいと心憂し。なほあ らむままにのたまへ。いみじき下衆といふとも、いよいよな むあはれなるべき」と、わりなう問ひたまへど、その御答へ は絶えてせず、他事は、いとをかしくけ近きさまに答へきこ えなどしてなびきたるを、いと限りなうらうたし、とのみ見 たまふ。  日高くなるほどに、迎への人来たり。車二つ、馬なる人々 の、例の、荒らかなる七八人、男ども多く、例の、品々しか らぬけはひ、さへづりつつ入り来たれば、人々かたはらいた がりつつ、 「あなたに隠れよ」と言はせなどす。右近、いか にせむ、殿なむおはする、と言ひたらむに、京にさばかりの

人のおはしおはせずおのづから聞き通ひて、隠れなきことも こそあれ、と思ひて、この人々にも、ことに言ひあはせず、 返り事書く。    昨夜より穢れさせたまひて、いと口惜しきことを思   し嘆くめりしに、今宵夢見騒がしく見えさせたまひつれ   ば、今日ばかりつつしませたまへとてなむ、物忌にては   べる。かへすがへす口惜しく、もののさまたげのやうに   見たてまつりはべる。 と書きて、人々に物など食はせてやりつ。尼君にも、 「今日 は物忌にて、渡りたまはぬ」と言はせたり。 匂宮、浮舟と春の日を恋に酔い痴れる 例は暮らしがたくのみ、霞める山際をなが めわびたまふに、暮れゆくはわびしくのみ 思し焦らるる人にひかれたてまつりて、い とはかなう暮れぬ。紛るることなくのどけき春の日に、見れ ども見れども飽かず、そのことぞとおぼゆる隈なく、愛敬づ

き、なつかしくをかしげなり。さるは、かの対の御方には劣 りなり。大殿の君のさかりににほひたまへるあたりにては、 こよなかるべきほどの人を、たぐひなう思さるるほどなれば、 また知らずをかしとのみ見たまふ。女は、また、大将殿を、 いときよげに、またかかる人あらむやと見しかど、こまやか ににほひ、きよらなることはこよなくおはしけり、と見る。  硯ひき寄せて、手習などしたまふ。いとをかしげに書きす さび、絵などを見どころ多く描きたまへれば、若き心地には、 思ひも移りぬべし。 「心よりほかに、え見ざらむほどは、 これを見たまへよ」とて、いとをかしげなる男女もろともに 添ひ臥したる絵を描きたまひて、 「常にかくてあらばや」 などのたまふも、涙落ちぬ。    「長き世を頼めてもなほかなしきはただ明日知らぬ命   なりけり いとかう思ふこそゆゆしけれ。心に身をもさらにえまかせず、

よろづにたばからむほど、まことに死ぬべくなむおぼゆる。 つらかりし御ありさまを、なかなか何に尋ね出でけむ」
など のたまふ。女、濡らしたまへる筆をとりて、    心をばなげかざらまし命のみさだめなき世とおもは   ましかば とあるを、変らむをば恨めしう思ふべかりけり、と見たまふ にも、いとらうたし。 「いかなる人の心変りを見ならひ て」などほほ笑みて、大将のここに渡しはじめたまひけむほ どを、かへすがへすゆかしがりたまひて問ひたまふを、苦し がりて、 「え言はぬことを、かうのたまふこそ」と、うち 怨じたるさまも若びたり。おのづからそれは聞き出でてむ、 と思すものから、言はせまほしきぞわりなきや。 翌朝、匂宮名残りを惜しみつつ京へ帰る 夜さり、京へ遣はしつる大夫参りて、右近 にあひたり。 「后の宮よりも御使参りて、 右の大殿もむつかりきこえさせたまひて、

人に知られさせたまはぬ御歩きはいと軽々しく、なめげなる こともあるを。すべて、内裏などに聞こしめさむことも、身 のためなむいとからき、といみじく申させたまひけり。東- 山に聖御覧じにとなむ、人にはものしはべりつる」
など語り て、 「女こそ罪深うおはするものはあれ。すずろなる眷属 の人をさへまどはしたまひて、そらごとをさへせさせたまふ よ」と言ヘば、 「聖の名をさへつけきこえさせたまひてけ れば、いとよし。私の罪も、それにて滅ぼしたまふらむ。ま ことに、いとあやしき御心の、げにいかでならはせたまひけ む。かねて、かう、おはしますべしと承らましにも、いとか たじけなければ、たばかりきこえさせてましものを、奥なき 御歩きにこそは」と、あつかひきこゆ。  参りて、さなむ、とまねびきこゆれば、げに、いかならむ、 と思しやるに、 「ところせき身こそわびしけれ。軽らかな るほどの殿上人などにてしばしあらばや。いかがすべき。か

うつつむべき人目も、え憚りあふまじくなむ。大将もいかに 思はんとすらん。さるべきほどとはいひながら、あやしきま で昔より睦ましき中に、かかる心の隔ての知られたらむ時、 恥づかしう、また、いかにぞや、世のたとひにいふこともあ れば、待ち遠なるわが怠りをも知らず、恨みられたまはむを さへなむ思ふ。夢にも人に知られたまふまじきさまにて、こ こならぬ所にゐて離れたてまつらむ」
とぞのたまふ。今日さ へかくて籠りゐたまふべきならねば、出でたまひなむとする にも、袖の中にぞとどめたまひつらむかし。  明けはてぬさきにと、人々しはぶきおどろかしきこゆ。妻- 戸にもろともにゐておはして、え出でやりたまはず。    世に知らずまどふべきかなさきに立つ涙も道をかき   くらしつつ 女も、限りなくあはれと思ひけり。    涙をもほどなき袖にせきかねていかにわかれをとど

  むべき身ぞ
風の音もいと荒ましく霜深き暁に、おのがきぬぎぬも冷やか になりたる心地して、御馬に乗りたまふほど、ひき返すやう にあさましけれど、御供の人々、いと戯れにくしと思ひて、 ただ急がしに急がし出づれば、我にもあらで出でたまひぬ。 この五位二人なむ、御馬の口にはさぶらひける。さかしき山- 越えはててぞ、おのおの馬には乗る。水際の氷を踏みならす 馬の足音さへ、心細くもの悲し。昔も、この道にのみこそは、 かかる山踏はしたまひしかば、あやしかりける里の契りかな、 と思す。 匂宮二条院に戻り、中の君に恨み言を言う 二条院におはしまし着きて、女君のいと心- 憂かりし御もの隠しもつらければ、心やす き方に大殿籠りぬるに、ねられたまはず、 いとさびしきにもの思ひまされば、心弱く対に渡りたまひぬ。 何心もなく、いときよげにておはす。めづらしくをかし、

と見たまひし人よりも、また、これはなほあり難きさまはし たまへりかし、と見たまふものから、いとよく似たるを思ひ 出でたまふも胸ふたがれば、いたくもの思したるさまにて、 御帳に入りて大殿籠る。女君をもゐて入りきこえたまひて、 「心地こそいとあしけれ。いかならむとするにか、と心細 くなむある。まろは、いみじくあはれと見おいたてまつると も、御ありさまはいととく変りなむかし。人の本意は必ずか なふなれば」とのたまふ。けしからぬことをも、まめやかに さへのたまふかな、と思ひて、 「かう聞きにくきことの 漏りて聞こえたらば、いかやうに聞こえなしたるにかと、人 も思ひ寄りたまはんこそ、あさましけれ。心憂き身には、す ずろなることもいと苦しく」とて、背きたまへり。宮もま めだちたまひて、 「まことにつらしと思ひきこゆることも あらむは、いかが思さるべき。まろは、御ためにおろかなる 人かは。人も、あり難しなど、とがむるまでこそあれ。人に

はこよなう思ひおとしたまふべかめり。それもさべきにこそ は、とことわらるるを、隔てたまふ御心の深きなむ、いと心- 憂き」
とのたまふにも、宿世のおろかならで尋ね寄りたるぞ かし、と思し出づるに涙ぐまれぬ。まめやかなるをいとほし う、いかやうなることを聞きたまへるならむ、とおどろかる るに、答へきこえたまはむこともなし。ものはかなきさまに て見そめたまひしに、何ごとをも軽らかに推しはかりたまふ にこそはあらめ、すずろなる人をしるべにて、その心寄せを 思ひ知りはじめなどしたる過ちばかりに、おぼえ劣る身にこ そ、と思しつづくるもよろづ悲しくて、いとどらうたげなる 御けはひなり。かの人見つけたることは、しばし知らせたて まつらじ、と思せば、異ざまに思はせて恨みたまふを、ただ、 この大将の御ことをまめまめしくのたまふと思すに、人やそ らごとをたしかなるやうに聞こえたらむ、など思す。ありや なしやを聞かぬ間は、見えたてまつらむも恥づかし。

 内裏より大宮の御文あるに、驚きたまひて、なほ心とけぬ 御気色にて、あなたに渡りたまひぬ。 「昨日のおぼつかなさ を。悩ましく思されたなる、よろしくは参りたまへ。久しう もなりにけるを」などやうに聞こえたまへれば、騒がれたて まつらむも苦しけれど、まことに御心地もたがひたるやうに て、その日は参りたまはず。上達部などあまた参りたまへど、 御簾の内にて暮らしたまふ。 匂宮、病気見舞いに来訪の薫と対面する 夕つ方、右大将参りたまへり。 「こなた にを」とて、うちとけながら対面したまへ り。 「悩ましげにおはします、とはべり つれば、宮にもいとおぼつかなく思しめしてなむ。いかやう なる御悩みにか」と聞こえたまふ。見るからに、御心騒ぎの いとどまされば、言少なにて、 「聖だつといひながら、こよ なかりける山伏心かな。さばかりあはれなる人をさておきて、 心のどかに月日を待ちわびさすらむよ」と思す。例は、さし

もあらぬことのついでにだに、我はまめ人ともてなし名のり たまふをねたがりたまひて、よろづにのたまひ破るを、かか ること見あらはいたるをいかにのたまはまし。されど、さ やうの戯れ言もかけたまはず、いと苦しげに見えたまへば、 「不便なるわざかな。おどろおどろしからぬ御心地のさす がに日数経るはいとあしきわざにはべる。御風邪よくつくろ はせたまへ」など、まめやかに聞こえおきて出でたまひぬ。 恥づかしげなる人なりかし、わがありさまをいかに思ひくら べけむなど、さまざまなることにつけつつも、ただ、この人 を時の間忘れず思し出づ。  かしこには、石山もとまりて、いとつれづれなり。御文に は、いといみじきことを書き集めたまひて遣はす。それだに 心やすからず、時方と召しし大夫の従者の、心も知らぬし てなむやりける。 「右近が古く知れりける人の、殿の御供 にてたづね出でたる、さらがへりてねむごろがる」と、友だ

ちには言ひ聞かせたり。よろづ右近ぞ、そらごとしならひ ける。 薫、浮舟を訪れ、その大人びたことを喜ぶ 月もたちぬ。かう思し焦らるれど、おはし ますことはいとわりなし。かうのみものを 思はば、さらにえながらふまじき身なめり、 と心細さを添へて嘆きたまふ。  大将殿、すこしのどかになりぬるころ、例の、忍びておは したり。寺に仏など拝みたまふ。御誦経せさせたまふ僧に物- 賜ひなどして、夕つ方、ここには、忍びたれど、これはわり なくもやつしたまはず、烏帽子直衣の姿いとあらまほしくき よげにて、 歩み入り たまふよ り、恥づ かしげに、

用意ことなり。  女、いかで見えたてまつらむとすらんと、そらさへ恥づか しく恐ろしきに、あながちなりし人の御ありさまうち思ひ出 でらるるに、またこの人に見えたてまつらむを思ひやるなん、 いみじう心憂き。我は、年ごろ見る人をもみな思ひかはりぬ べき心地なむする、とのたまひしを、げに、その後、御心地 苦しとて、いづくにもいづくにも、例の御ありさまならで、 御修法など騒ぐなるを聞くに、また、いかに聞きて思さん、 と思ふもいと苦し。この人、はた、いとけはひことに、心深 く、なまめかしきさまして、久しかりつるほどの怠りなどの たまふも言多からず、恋し悲しとおりたたねど、常にあひ見 ぬ恋の苦しさを、さまよきほどにうちのたまへる、いみじく 言ふにはまさりて、いとあはれ、と人の思ひぬべきさまをし めたまへる人柄なり。艶なる方はさるものにて、行く末長く 人の頼みぬべき心ばへなど、こよなくまさりたまへり。思は

ずなるさまの心ばへなど漏り聞かせたらむ時も、なのめなら ずいみじくこそあべけれ。あやしう、うつし心もなう思し焦 らるる人をあはれと思ふも、それはいとあるまじく軽きこと ぞかし。この人にうしと思はれて、忘れたまひなむ心細さは、 いと深うしみにければ、思ひ乱れたる気色を、月ごろに、こ よなうものの心知りねびまさりにけり、つれづれなる住み処 のほどに、思ひ残すことはあらじかし、と見たまふも、心苦 しければ、常よりも心とどめて語らひたまふ。   「造らする所、やうやうよろしうしなしてけり。一日な む見しかば、ここよりはけ近き水に、花も見たまひつべし。 三条宮も近きほどなり。明け暮れおぼつかなき隔ても、おの づからあるまじきを、この春のほどに、さりぬべくは渡して む」と思ひてのたまふも、 「かの人の、のどかなるべき所思 ひまうけたり、と昨日ものたまへりしを。かかることも知ら で、さ思すらむよ」と、あはれながらも、そなたになびくべ

きにはあらずかし、と思ふからに、ありし御さまの面影にお ぼゆれば、我ながらも、うたて心憂の身や、と思ひつづけて 泣きぬ。 「御心ばへの、かからでおいらかなりしこそのど かにうれしかりしか。人のいかに聞こえ知らせたることかあ る。すこしもおろかならむ心ざしにては、かうまで参り来べ き身のほど、道のありさまにもあらぬを」など、朔日ごろの 夕月夜に、すこし端近く臥してながめ出だしたまへり。男は、 過ぎにし方のあはれをも思し出で、女は、今より添ひたる身 のうさを嘆き加へて、かたみにもの思はし。  山の方は霞隔てて、寒き洲崎に立てる鵲の姿も、所がらは いとをかしう見ゆるに、宇治橋のはるばると見わたさるるに、 柴積み舟の所どころに行きちがひたるなど、ほかにて目馴れ ぬことどものみとり集めたる所なれば、見たまふたびごとに、 なほ、その昔のことのただ今の心地して、いとかからぬ人を 見かはしたらむだに、めづらしき中のあはれ多かるべきほど

なり。まいて、恋しき人によそへられたるも、こよなからず、 やうやうものの心知り、都馴れゆくありさまのをかしきも、 こよなく見まさりしたる心地したまふに、女は、かき集めた る心の中にもよほさるる涙ともすれば出で立つを、慰めかね たまひつつ、    「宇治橋の長きちぎりは朽ちせじをあやぶむかたに心   さわぐな いま見たまひてん」とのたまふ。    絶え間のみ世にはあやふき宇治橋を朽ちせぬものと   なほたのめとや さきざきよりもいと見棄てがたく、しばしも立ちとまらまほ しく思さるれど、人のもの言ひのやすからぬに、今さらなり、 心やすきさまにてこそ、など思しなして、暁に帰りたまひぬ。 いとようも大人びたりつるかなと、心苦しく思し出づること ありしにまさりけり。 薫の浮舟を偲ぶ吟誦に、匂宮焦慮する

二月の十日のほどに、内裏に文作らせたま ふとて、この宮も大将も参りあひたまへり。 をりにあひたる物の調べどもに、宮の御声 はいとめでたくて、梅が枝などうたひたまふ。何ごとも人よ りはこよなうまさりたまへる御さまにて、すずろなること思 し焦らるるのみなむ、罪深かりける。  雪にはかに降り乱れ、風などはげしければ、御遊びとくや みぬ。この宮の御宿直所に人々参りたまふ。物まゐりなどし てうちやすみたまへり。大将、人にもののたまはむとて、す こし端近く出でたまへるに、雪のやうやう積もるが星の光 におぼおぼしきを、「闇はあやなし」とおぼゆる匂ひありさ まにて、 「衣かたしき今宵もや」とうち誦じたまへるも、は かなきことを口ずさびにのたまへるもあやしくあはれなる気- 色そへる人ざまにて、いともの深げなり。言しもこそあれ、 宮はねたるやうにて御心騒ぐ。 「おろかには思はぬなめりか

し。かたしく袖を我のみ思ひやる心地しつるを、同じ心なる もあはれなり。わびしくもあるかな。かばかりなる本つ人を おきて、わが方にまさる思ひはいかでつくべきぞ」
とねたう 思さる。  つとめて、雪のいと高う積もりたるに、文奉りたまはむと て御前に参りたまへる、御容貌、このごろいみじくさかりに きよげなり。かの君も同じほどにて、いま二つ三つまさるけ ぢめにや、すこしねびまさる気色用意などぞ、ことさらにも 作り出でたらむあてなる男の本にしつべくものしたまふ。帝 の御婿にて飽かぬことなし とぞ世人もことわりける。 才なども、おほやけおほや けしき方も、おくれずぞお はすべき。文講じはてて、 皆人まかでたまふ。宮の御-

文を、すぐれたり、と誦じののしれど、何とも聞き入れたま はず、いかなる心地にてかかることをもし出づらむと、そら にのみ思ほしほれたり。 匂宮再び浮舟に忍び、対岸の家に籠る かの人の御気色にも、いとど驚かれたまひ ければ、あさましうたばかりておはしまし たり。京には、友待つばかり消え残りたる 雪、山深く入るままにやや降り埋みたり。常よりもわりなき 稀の細道を分けたまふほど、御供の人も泣きぬばかり恐ろし う、わづらはしきことをさへ思ふ。しるべの内記は、式部少- 輔なむかけたりける、いづ方もいづ方も、ことごとしかるべ き官ながら、いとつきづきしく、ひき上げなどしたる姿もを かしかりけり。  かしこには、おはせむとありつれど、かかる雪には、とう ちとけたるに、夜更けて右近に消息したり。あさましう、あ はれ、と君も思へり。右近は、いかになりはてたまふべき御

ありさまにか、とかつは苦しけれど、今宵はつつましさも忘 れぬべし、言ひかへさむ方もなければ、同じやうに睦ましく おぼいたる若き人の、心ざまも奥なからぬを語らひて、 「いみじくわりなきこと。同じ心に、もて隠したまへ」と言 ひてけり。もろともに入れたてまつる。道のほどに濡れたま へる香のところせう匂ふも、もてわづらひぬべけれど、かの 人の御けはひに似せてなむ、もて紛らはしける。  夜のほどにてたち帰りたまはんも、なかなかなべければ、 ここの人目もいとつつましさに、時方にたばからせたまひて、 川よりをちなる人の家にゐておはせむと構へたりければ、先- 立てて遣はしたりける、夜更くるほどに参れり。 「いとよ く用意してさぶらふ」と申さす。こは、いかにしたまふこと にかと、右近もいと心あわたたしければ、寝おびれて起きた る心地もわななかれて、あやし。童べの雪遊びしたるけはひ のやうにぞ、震ひあがりにける。 「いかでか」なども言ひあ

へさせたまはず、かき抱きて出でたまひぬ。右近はここの後- 見にとどまりて、侍従をぞ奉る。  いとはかなげなるものと、明け暮れ見出だす小さき舟に乗 りたまひて、さし渡りたまふほど、遥かならむ岸にしも漕ぎ 離れたらむやうに心細くおぼえて、つとつきて抱かれたるも いとらうたしと思す。有明の月澄みのぼりて、水の面も曇り なきに、 「これなむ橘の小島」と申して、御舟しばしさしと どめたるを見たまへば、大きやかなる岩のさまして、された る常磐木の影しげれり。 「かれ見たまへ。いとはかなけれ ど、千年も経べき緑の深さを」とのたまひて、    年経ともかはらむものかたちばなの小島のさきに契   るこころは 女も、めづらしからむ道のやうにおぼえて、    たちばなの小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆく   へ知られぬ

をりから、人のさまに、をかしくのみ、何ごとも思しなす。  かの岸にさし着きて下りたまふに、人に抱かせたまはむは いと心苦しければ、抱きたまひて、助けられつつ入りたまふ を、いと見苦しく、何人をかくもて騒ぎたまふらむ、と見た てまつる。時方が叔父の因播守なるが領ずる庄にはかなう造 りたる家なりけり。まだいと荒々しきに、網代屏風など、御- 覧じも知らぬしつらひにて、風もことにさはらず、垣のもと に雪むら消えつつ、今もかき曇りて降る。 匂宮、隠れ家で浮舟と耽溺の二日を過ごす 日さし出でて軒の垂氷の光りあひたるに、 人の御容貌もまさる心地す。宮も、ところ せき道のほどに、軽らかなるべきほどの御- 衣どもなり、女も、脱ぎすべさせたまひてしかば、細やかな る姿つきいとをかしげなり。ひきつくろふこともなくうちと けたるさまを、いと恥づかしく、まばゆきまできよらなる人 にさし向ひたるよ、と思へど、紛れむ方もなし。なつかしき

ほどなる白きかぎりを五 つばかり、袖口裾のほど までなまめかしく、色々 にあまた重ねたらんより もをかしう着なしたり。 常に見たまふ人とても、 かくまでうちとけたる姿 などは見ならひたまはぬを、かかるさへぞなほめづらかにを かしう思されける。  侍従も、いとめやすき若人なりけり。これさへかかるを残 りなう見るよ、と女君はいみじと思ふ。宮も、 「これはま た誰そ。わが名もらすなよ」と口固めたまふを、いとめでた し、と思ひきこえたり。ここの宿守にて住みける者、時方を 主と思ひてかしづき歩けば、このおはします遣戸を隔てて、 所えがほにゐたり。声ひきしじめ、かしこまりて物語しをる

を、答へもえせずをかしと思ひけり。 「いと恐ろしく占ひ たる物忌により、京の内をさへ避りてつつしむなり。外の人- 寄すな」と言ひたり。  人目も絶えて、心やすく語らひ暮らしたまふ。かの人のも のしたまへりけむに、かくて見えてむかし、と思しやりて、 いみじく恨みたまふ。二の宮を、いとやむごとなくて、持ち たてまつりたまへるありさまなども、語りたまふ。かの耳と どめたまひし一言はのたまひ出でぬぞ憎きや。時方、御手水 御くだものなど取りつぎてまゐるを御覧じて、 「いみじく かしづかるめる客人の主、さてな見えそや」と戒めたまふ。 侍従、色めかしき若人の心地に、いとをかし、と思ひて、こ の大夫とぞ物語して暮らしける。  雪の降り積もれるに、かのわが住む方を見やりたまへれば、 霞のたえだえに梢ばかり見ゆ。山は鏡をかけたるやうにきら きらと夕日に輝きたるに、昨夜分け来し道のわりなさなど、

あはれ多うそへて語りたまふ。    峰の雪みぎはのこほり踏みわけて君にぞまどふ道は   まどはず 「木幡の里に馬はあれど」など、あやしき硯召し出でて、手- 習ひたまふ。    降りみだれみぎはにこほる雪よりも中空にてぞわれ   は消ぬべき と書き消ちたり。この「中空」をとがめたまふ。げに、憎く も書きてけるかなと、恥づかしくてひき破りつ。さらでだに 見るかひある御ありさまを、いよいよあはれにいみじと人の 心にしめられんと、尽くしたまふ言の葉気色言はむ方なし。  御物忌二日とたばかりたまへれば、心のどかなるままに、 かたみにあはれとのみ深く思しまさる。右近は、よろづに 例の言ひ紛らはして、御衣など奉りたり。今日は乱れたる髪 すこし梳らせて、濃き衣に紅梅の織物など、あはひをかしく

着かへてゐたまへり。侍従も、あやしき褶着たりしを、あざ やぎたれば、その裳をとりたまひて、君に着せたまひて、御- 手水まゐらせたまふ。姫宮にこれを奉りたらば、いみじきも のにしたまひてむかし、いとやむごとなき際の人多かれど、 かばかりのさましたるは難くや、と見たまふ。かたはなるま で遊び戯れつつ暮らしたまふ。忍びてゐて隠してむことを、 かへすがへすのたまふ。そのほど、かの人に見えたらばと、 いみじきことどもを誓はせたまへば、いとわりなきことと思 ひて答へもやらず、涙さへ落つる気色、さらに目の前にだに 思ひ移らぬなめり、と胸いたう思さる。恨みても泣きても、 よろづのたまひ明かして、夜深くゐて帰りたまふ。例の、抱 きたまふ。 「いみじく思すめる人はかうはよもあらじよ。 見知りたまひたりや」とのたまへば、げに、と思ひて、うな づきてゐたる、いとらうたげなり。右近、妻戸放ちて入れた てまつる。やがて、これより別れて出でたまふも、飽かずい

みじ、と思さる。 匂宮帰京後病臥 宇治では上京の準備進む かやうの帰さは、なほ二条にぞおはします。 いと悩ましうしたまひて、物などたえてき こしめさず、日を経て青み痩せたまひ、御- 気色も変るを、内裏にもいづくにも思ほし嘆くに、いとども の騒がしくて、御文だにこまかには書きたまはず。  かしこにも、かのさかしき乳母、むすめの子産むところに 出でたりける、帰り来にければ、心やすくもえ見ず。かくあ やしき住まひを、ただかの殿のもてなしたまはむさまをゆか しく待つことにて、母君も思ひ慰めたるに、忍びたるさまな がらも、近く渡してんことを思しなりにければ、いとめやす くうれしかるべきことに思ひて、やうやう人もとめ、童のめ やすきなど迎へておこせたまふ。わが心にも、それこそはあ るべきことにはじめより待ちわたれ、とは思ひながら、あな がちなる人の御ことを思ひ出づるに、恨みたまひしさま、の

たまひしことども面影につとそひて、いささかまどろめば、 夢に見えたまひつつ、いとうたてあるまでおぼゆ。 匂宮・薫の双方より文あり 浮舟の悩み深し 雨降りやまで、日ごろ多くなるころ、いと ど山路思し絶えてわりなく思されければ、 親のかふこはところせきものにこそ、と思 すもかたじけなし。尽きせぬことども書きたまひて、    ながめやるそなたの雲も見えぬまで空さへくるるこ   ろのわびしさ 筆にまかせて書き乱りたまへるしも、見どころありをかし げなり。ことにいと重くなどはあらぬ若き心地に、いとかか る心を思ひもまさりぬべけれど、はじめより契りたまひしさ まも、さすがにかれはなほいともの深う人柄のめでたきなど も、世の中を知りにしはじめなればにや。「かかるうきこと 聞きつけて思ひうとみたまひなむ世には、いかでかあらむ。 いつしかと思ひまどふ親にも、思はずに心づきなし、とこそ

はもてわづらはれめ。かく心焦られしたまふ人、はた、いと あだなる御心本性とのみ聞きしかば、かかるほどこそあらめ。 また、かうながらも、京にも隠し据ゑたまひ、ながらへても 思し数まへむにつけては、かの上の思さむこと。よろづ隠れ なき世なりければ、あやしかりし夕暮のしるべばかりにだに、 かうたづね出でたまふめり、まして、わがありさまのともか くもあらむを、聞きたまはぬやうはありなんや」
と思ひたど るに、わが心も、瑕ありてかの人にうとまれたてまつらむ、 なほいみじかるべし、と思ひ乱るるをりしも、かの殿より御- 使あり。  これかれと見るもいとうたてあれば、なほ言多かりつるを 見つつ臥したまへれば、侍従右近見あはせて、 「なほ移りに けり」など、言はぬやうにて言ふ。 「ことわりぞかし。殿 の御容貌を、たぐひおはしまさじ、と見しかど、この御あり さまはいみじかりけり。うち乱れたまへる愛敬よ。まろなら

ば、かばかりの御思ひを見る見る、えかくてあらじ。后の宮 にも参りて、常に見たてまつりてむ」
と言ふ。右近、 「うし ろめたの御心のほどや。殿の御ありさまにまさりたまふ人は 誰かあらむ。容貌などは知らず、御心ばへけはひなどよ。な ほこの御ことはいと見苦しきわざかな。いかがならせたまは むとすらむ」と、二人して語らふ。心ひとつに思ひしよりは、 そらごともたより出で来にけり。  後の御文には、 「思ひながら日ごろになること。時々は、 それよりもおどろかいたまはんこそ、思ふさまならめ。おろ かなるにやは」など。はしがきに、    「水まさるをちの里人いかならむ晴れぬながめにかきく   らすころ 常よりも、思ひやりきこゆることまさりてなん」と、白き色- 紙にて立文なり。御手も、こまかにをかしげならねど、書き ざまゆゑゆゑしく見ゆ。宮は、いと多かるを小さく結びなし

たまへる、さまざまをかし。   「まづかれを。人見ぬほどに」と聞こゆ。 「今日は、 え聞こゆまじ」と恥ぢらひて、手習に、    里の名をわが身に知れば山城の宇治のわたりぞいと   ど住みうき  宮の描きたまへりし絵を、時々見て泣かれけり。ながらへ てあるまじきことぞ、ととざまかうざまに思ひなせど、ほか に絶えこもりてやみなむはいとあはれにおぼゆべし。    「かきくらし晴れせぬ峰の雨雲に浮きて世をふる身を   もなさばや まじりなば」と聞こえたるを、宮はよよと泣かれたまふ。さ りとも、恋しと思ふらむかし、と思しやるにも、もの思ひて ゐたらむさまのみ面影に見えたまふ。  まめ人はのどかに見たまひつつ、あはれ、いかにながむら む、と思ひやりて、いと恋し。

   つれづれと身を知る雨のをやまねば袖さへいとどみ   かさまさりて とあるを、うちも置かず見たまふ。 薫、女二の宮に浮舟引取りの了解を求める 女宮に物語など聞こえたまひてのついでに、 「なめしともや思さんと、つつましなが ら、さすがに年経ぬる人のはべるを、あや しき所に棄ておきて、いみじくもの思ふなるが心苦しさに、 近う呼び寄せて、と思ひはべる。昔より、異やうなる心ばへ はべりし身にて、世の中を、すべて例の人ならで過ぐしてん、 と思ひはべりしを、かく見たてまつるにつけて、ひたぶるに も棄てがたければ、ありと人にも知らせざりし人の上さへ、 心苦しう罪えぬべき心地してなむ」と、聞こえたまへば、 「いかなることに心おくものとも知らぬを」と答へた まふ。 「内裏になど、あしざまに聞こしめさする人やはべ らむ。世の人のもの言ひぞ、いとあぢきなくけしからずはべ

るや。されど、それは、さばかりの数にだにはべるまじ」
な ど聞こえたまふ。 薫の準備の様子、ことごとく匂宮に漏れる 造りたる所に渡してむ、と思したつに、 「かかる料なりけり」など、はなやかに言 ひなす人やあらむなど苦しければ、いと忍 びて、障子張らすべきことなど、人しもこそあれ、この内記 が知る人の親、大蔵大輔なる者に、睦ましく心やすきままに のたまひつけたりければ、聞きつぎて、宮には隠れなく聞こ えけり。 「絵師どもなども、御随身どもの中にある、睦まし き殿人などを選りて、さすがにわざとなむせさせたまふ」と 申すに、いとど思し騒ぎて、わが御乳母の、遠き受領の妻に て下る家、下つ方にあるを、 「いと忍びたる人、しばし隠 いたらむ」と語らひたまひければ、いかなる人にかは、と思 へど、大事と思したるにかたじけなければ、 「さらば」と 聞こえけり。これを設けたまひて、すこし御心のどめたまふ。

この月の晦日方に下るべければ、やがてその日渡さむ、と思 し構ふ。 「かくなむ思ふ。ゆめゆめ」と言ひやりたまひつ つ、おはしまさんことはいとわりなくある中にも、ここにも、 乳母のいとさかしければ、難かるべきよしを聞こゆ。 中将の君来訪、弁の尼と語る 浮舟の苦悩 大将殿は、四月の十日となん定めたまへり ける。さそふ水あらば、とは思はず、いと あやしく、いかにしなすべき身にかあらむ と、浮きたる心地のみすれば、母の御もとにしばし渡りて、 思ひめぐらすほどあらんと思せど、少将の妻、子産むべきほ ど近くなりぬとて、修法読経など隙なく騒げば、石山にもえ 出で立つまじ、母ぞこち渡りたまへる。乳母出で来て、 「殿 より、人々の装束などもこまかに思しやりてなん。いかでき よげに何ごとも、と思うたまふれど、ままが心ひとつには、 あやしくのみぞし出ではべらむかし」など言ひ騒ぐが、心地 よげなるを見たまふにも、君は、 「けしからぬ事どもの出で

来て、人笑へならば、誰も誰もいかに思はん。あやにくにの たまふ人、はた、八重たつ山に籠るとも必ずたづねて、我も 人もいたづらになりぬべし、なほ、心やすく隠れなむことを 思へと、今日ものたまへるを、いかにせむ」
と、心地あしく て臥したまへり。 「などか、かく、例ならず、いたく青み 痩せたまへる」と驚きたまふ。 「日ごろあやしくのみなむ。 はかなき物もきこしめさず、悩ましげにせさせたまふ」と言 へば、あやしきことかな、物の怪などにやあらむ、と、 「いかなる御心地ぞと思へど、石山とまりたまひにきかし」 と言ふも、かたはらいたければ伏し目なり。  暮れて月いとあかし。有明の空を思ひ出づる涙のいとどと めがたきは、いとけしからぬ心かな、と思ふ。母君、昔物語 などして、あなたの尼君呼び出でて、故姫君の御ありさま、 心深くおはして、さるべきことも思し入れたりしほどに、目 に見す見す消え入りたまひにしことなど語る。 「おはし

まさましかば、宮の上などのやうに、聞こえ通ひたまひて、 心細かりし御ありさまどもの、いとこよなき御幸ひにぞはべ らましかし」
と言ふにも、わがむすめは他人かは、思ふやう なる宿世のおはしはてば劣らじをなど思ひつづけて、 「世 とともに、この君につけては、ものをのみ思ひ乱れし気色の、 すこしうちゆるびて、かくて渡りたまひぬべかめれば、ここ に参り来ること、必ずしもことさらには、え思ひたちはべら じ。かかる対面のをりをりに、昔のことも心のどかに聞こえ 承らまほしけれ」など語らふ。 「ゆゆしき身とのみ思う たまへしみにしかば、こまやかに見えたてまつりきこえさせ むも、何かは、とつつましくて過ぐしはべりつるを、うち棄 てて渡らせたまひなば、いと心細くなむはべるべけれど、か かる御住まひは、心もとなくのみ見たてまつるを、うれしく もはべるべかなるかな。世に知らず重々しくおはしますべか める殿の御ありさまにて、かく尋ねきこえさせたまひしも、

おぼろけならじ、と聞こえおきはべりにし、浮きたることに やははべりける」
など言ふ。 「後は知らねど、ただ今は、 かく、思し離れぬさまにのたまふにつけても、ただ御しるべ をなむ思ひ出できこゆる。宮の上の、かたじけなくあはれに 思したりしも、つつましきことなどのおのづからはべりしか ば、中空に、ところせき御身なり、と思ひ嘆きはべりて」と 言ふ。尼君うち笑ひて、 「この宮の、いと騒がしきまで 色におはしますなれば、心ばせあらん若き人、さぶらひにく げになむ。おほかたは、いとめでたき御ありさまなれど、さ る筋のことにて、上のなめしと思さむなむわりなき、と大輔 がむすめの語りはべりし」と言ふにも、さりや、まして、と 君は聞き臥したまへり。   「あなむくつけや。帝の御むすめをもちたてまつりたま へる人なれど、よそよそにて、あしくもよくも、あらむは、 いかがはせむ、とおほけなく思ひなしはべる。よからぬ事を

引き出でたまへらましかば、すべて、身には悲しくいみじと 思ひきこゆとも、また見たてまつらざらまし」
など、言ひか はすことどもに、いとど心肝もつぶれぬ。なほ、わが身を失 ひてばや、つひに聞きにくきことは出で来なむ、と思ひつづ くるに、この水の音の恐ろしげに響きて行くを、 「かから ぬ流れもありかし。世に似ず荒ましき所に、年月を過ぐした まふを、あはれと思しぬべきわざになむ」など、母君したり 顔に言ひゐたり。昔よりこの川のはやく恐ろしきことを言ひ て、 「先つころ、渡守が孫の童、棹さしはづして落ち入り はべりにける。すべていたづらになる人多かる水にはべり」 と、人々も言ひあへり。君は、 「さてもわが身行く方も知ら ずなりなば、誰も誰も、あへなくいみじ、としばしこそ思う たまはめ、ながらへて人わらへにうきこともあらむは、いつ かそのもの思ひの絶えむとする」と思ひかくるには、障りど ころもあるまじく、さはやかによろづ思ひなさるれど、うち

返しいと悲し。親のよろづに思ひ言ふありさまを、ねたるや うにてつくづくと思ひ乱る。  悩ましげにて痩せたまへるを、乳母にも言ひて、さるべき 御祈祷などせさせたまへ、祭祓などもすべきやうなど言ふ。 御手洗川に禊せまほしげなるを、かくも知らでよろづに言ひ 騒ぐ。 「人少ななめり。よくさるべからむあたりを尋ねて。 今参りはとどめたまへ。やむごとなき御仲らひは、正身こそ 何ごともおいらかに思さめ、よからぬ仲となりぬるあたりは、 わづらはしき事もありぬべし。隠しひそめて、さる心したま へ」など、思ひいたらぬことなく言ひおきて、 「かしこに わづらひはべる人も、おぼつかなし」とて帰るを、いともの 思はしく、よろづ心細ければ、また逢ひ見でもこそともかく もなれ、と思へば、 「心地のあしくはべるにも、見たてま つらぬがいとおぼつかなくおぼえはべるを。しばしも参り来 まほしくこそ」と慕ふ。 「さなむ思ひはべれど、かしこも

いともの騒がしくはべり。この人々も、はかなきことなどえ しやるまじく、せばくなどはべればなむ。武生の国府に移ろ ひたまふとも、忍びては参り来なむを。なほなほしき身のほ どは、かかる御ためこそいとほしくはべれ」
など、うち泣き つつのたまふ。 薫、随身の探索により初めて秘密を知る 殿の御文は今日もあり。悩ましと聞こえた りしを、いかがと、とぶらひたまへり。 「みづからと思ひはべるを、わりなき障り 多くてなむ。このほどの暮らしがたさこそ、なかなか苦し く」などあり。宮は、昨日の御返りもなかりしを、 「いかに 思し漂ふぞ。風のなびかむ方もうしろめたくなむ、いとどほ れまさりてながめはべる」など、これは多く書きたまへり。  雨降りし日、来あひたりし御使どもぞ、今日も来たりける。 殿の御随身、かの少輔が家にて時々見る男なれば、 「まう とは、何しにここにはたびたびは参るぞ」と問ふ。 「私に

とぶらふべき人のもと に参うで来るなり」
と 言ふ。 「私の人にや 艶なる文はさし取らす る。けしきあるまうと かな。もの隠しはなぞ」と言ふ。 「まことは、この守の君 の、御文女房に奉りたまふ」と言ヘば、言違ひつつあやし、 と思へど、ここにて定めいはむも異やうなべければ、おのお の参りぬ。  かどかどしき者にて、供にある童を、 「この男にさりげ なくて目つけよ。左衛門大夫の家にや入る」と見せければ、 「宮に参りて、式部少輔になむ、御文はとらせはべりつる」 と言ふ。さまで尋ねむものとも劣りの下衆は思はず、事の 心をも深う知らざりければ、舎人の人に見あらはされにけん ぞ口惜しきや。殿に参りて、今出でたまはんとするほどに、

御文奉らす。直衣にて、六条院に、后の宮の出でさせたまへ るころなれば、参りたまふなりければ、ことごとしく御前な どあまたもなし。御文参らする人に、 「あやしきことのは べりつる、見たまへ定めむとて、今までさぶらひつる」と言 ふをほの聞きたまひて、歩み出でたまふままに、 「何ごと ぞ」と問ひたまふ。この人の聞かむもつつましと思ひて、か しこまりてをり。殿もしか見知りたまひて出でたまひぬ。  宮、例ならず悩ましげにおはすとて、宮たちもみな参りた まへり。上達部など多く参り集ひて騒がしけれど、ことなる こともおはしまさず。かの内記は政官なれば、おくれてぞ参 れる。この御文も奉るを、宮、台盤所におはしまして、戸口 に召し寄せて取りたまふを、大将、御前の方より立ち出でた まふ側目に見通したまひて、切にも思すべかめる文のけしき かなと、をかしさに立ちとまりたまへり。ひき開けて見たま ふ。紅の薄様にこまやかに書きたるべし、と見ゆ。文に心入

れて、とみにも向きたまはぬに、大臣も立ちて外ざまにおは すれば、この君は、障子より出でたまふとて、 「大臣出でた まふ」と、うちしはぶきて、おどろかいたてまつりたまふ。 ひき隠したまへるにぞ、大臣さしのぞきたまへる。おどろき て御紐さしたまふ。殿ついゐたまひて、 「まかではべりぬ べし。御邪気の久しくおこらせたまはざりつるを、恐ろしき わざなりや。山の座主ただ今請じに遣はさん」と、いそがし げにて立ちたまひぬ。  夜更けて、みな出でたまひぬ。大臣は、宮を先に立てたて まつりたまひて、あまたの御子どもの上達部君たちをひきつ づけてあなたに渡りたまひぬ。この殿はおくれて出でたまふ。 随身気色ばみつる、あやし、と思しければ、御前など下りて 灯ともすほどに、随身召し寄す。 「申しつるは何ごとぞ」と 問ひたまふ。 「今朝、かの宇治に、出雲権守時方朝臣の もとにはべる男の、紫の薄様にて桜につけたる文を、西の妻-

戸に寄りて、女房にとらせはべりつる見たまへつけて、し かじか問ひはべりつれば、言違へつつ、そらごとのやうに申 しはべりつるを、いかに申すぞとて、童べして見せはべりつ れば、兵部卿宮に参りはべりて、式部少輔道定朝臣になむ、 その返り事はとらせはべりける」
と申す。君、あやしと思し て、 「その返り事は、いかやうにしてか出だしつる」 「そ れは見たまへず。異方より出だしはべりにける。下人の申し はべりつるは、赤き色紙のいときよらなる、となむ申しはべ りつる」と聞こゆ。思しあはするに、違ふことなし。さまで 見せつらむを、かどかどしと思せど、人々近ければ、くはし くものたまはず。 薫、匂宮の裏切りを怒り、浮舟を詰問する 道すがら、 「なほいと恐ろしく隈なくおは する宮なりや。いかなりけむついでに、 さる人ありと聞きたまひけむ。いかで言ひ 寄りたまひけむ。田舎びたるあたりにて、かうやうの筋の紛

れはえしもあらじ、と思ひけるこそ幼けれ。さても、知らぬ あたりにこそ、さるすき事をものたまはめ、昔より隔てなく て、あやしきまでしるべしてゐて歩きたてまつりし身にしも、 うしろめたく思し寄るべしや」
と思ふに、いと心づきなし。 「対の御方の御ことを、いみじく思ひつつ年ごろ過ぐすは、 わが心の重さこよなかりけり。さるは、それは、今はじめて さまあしかるべきほどにもあらず、もとよりのたよりにもよ れるを、ただ心の中の隈あらんがわがためも苦しかるべきに よりこそ思ひ憚るも、をこなるわざなりけれ。このごろかく 悩ましくしたまひて、例よりも人しげき紛れに、いかではる ばると書きやりたまふらむ。おはしやそめにけむ。いとはる かなる懸想の道なりや。あやしくて、おはし所尋ねられたま ふ日もあり、と聞こえきかし。さやうのことに思し乱れてそ こはかとなく悩みたまふなるべし。昔を思し出づるにも、え おはせざりしほどの嘆き、いといとほしげなりきかし」と、

つくづくと思ふに、女のいたくもの思ひたるさまなりしも、 片はし心えそめたまひては、よろづ思しあはするに、いとう し。 「あり難きものは、人の心にもあるかな。らうたげにお ほどかなりとは見えながら、色めきたる方は添ひたる人ぞか し。この宮の御具にてはいとよきあはひなり」と、思ひも譲 りつべく、退く心地したまへど、 「やむごとなく思ひそめは じめし人ならばこそあらめ、なほ、さるものにておきたらむ。 今はとて見ざらむ、はた、恋しかるべし」と、人わろく、い ろいろ心の中に思す。 「我すさまじく思ひなりて棄ておきたらば、必ずかの宮の呼 び取りたまひてむ。人のため後のいとほしさをも、ことにた どりたまふまじ。さやうに思す人こそ、一品の宮の御方に人 二三人参らせたまひたなれ、さて出で立ちたらむを見聞かむ、 いとほしく」など、なほ棄てがたく、気色見まほしくて、御- 文遣はす。例の随身召して、御手づから人間に召し寄せたり。

「道定朝臣は、なほ仲信が家にや通ふ」 「さなむはべる」 と申す。 「宇治へは、常にやこのありけむ男はやるらむ。 かすかにてゐたる人なれば、道定も思ひかくらむかし」と、 うちうめきたまひて、 「人に見えでをまかれ。をこなり」 とのたまふ。かしこまりて、少輔が、常に、この殿の御こと 案内し、かしこのこと問ひしも思ひあはすれど、もの馴れて え申し出でず。君も、下衆にくはしくは知らせじ、と思せば、 問はせたまはず。  かしこには、御使の例よりしげきにつけても、もの思ふこ とさまざまなり。ただかくぞのたまへる。    「波こゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひ   けるかな 人に笑はせたまふな」とあるを、いとあやしと思ふに、胸ふ たがりぬ。御返り事を心えがほに聞こえむもいとつつまし、 ひが事にてあらんもあやしければ、御文はもとのやうにして、

「所違へのやうに見えはべればなむ。あやしく悩ましくて 何ごとも」と書き添へて奉れつ。見たまひて、さすがに、 「いたくもしたるかな、かけて見およばぬ心ばへよ」とほほ 笑まれたまふも、憎し、とはえ思しはてぬなめり。 右近、東国の悲話を語る 侍従匂宮を勧む まほならねどほのめかしたまへる気色を、 かしこにはいとど思ひそふ。つひに、わが 身はけしからずあやしくなりぬべきなめり と、いとど思ふところに、右近来て、 「殿の御文は、などて 返したてまつらせたまひつるぞ。ゆゆしく、忌みはべるなる ものを」 「ひが事のあるやうに見えつれば、所違へかと て」とのたまふ。あやしと見ければ、道にて開けて見けるな りけり。よからずの右近がさまやな。見つとは言はで、 「あないとほし。苦しき御ことどもにこそはべれ。殿はもの のけしき御覧じたるべし」と言ふに、おもてさと赤みて、も のものたまはず。文見つらむと思はねば、異ざまにて、かの

御気色見る人の語りたるにこそは、と思ふに、 「誰かさ言ふ ぞ」などもえ問ひたまはず。この人々の見思ふらむことも、 いみじく恥づかし。わが心もてありそめしことならねども、 心憂き宿世かな、と思ひ入りて寝たるに、侍従と二人して、 「右近が姉の、常陸にて人二人見はべりしを、ほどほどに つけては、ただかくぞかし。これもかれも劣らぬ心ざしにて、 思ひまどひてはべりしほどに、女は、今の方にいますこし心 寄せまさりてぞはべりける。それにねたみて、つひに今のを ば殺してしぞかし。さて我も住みはべらずなりにき。国にも いみじきあたら兵一人失ひつ。また、この過ちたるもよき 郎等なれど、かかる過ちしたるものを、いかでかは使はんと て、国の内をも追ひ払はれ、すべて女のたいだいしきぞとて、 館の内にも置いたまへらざりしかば、東国の人になりて、ま まも、今に、恋ひ泣きはべるは、罪深くこそ見たまふれ。ゆ ゆしきついでのやうにはべれど、上も下も、かかる筋のこと

は、思し乱るるはいとあしきわざなり。御命までにはあらず とも、人の御ほどほどにつけてはべることなり。死ぬるにま さる恥なることも、よき人の御身にはなかなかはべるなり。 一方に思し定めてよ。宮も御心ざしまさりて、まめやかにだ に聞こえさせたまはば、そなたざまにもなびかせたまひて、 ものないたく嘆かせたまひそ。痩せおとろへさせたまふもい と益なし。さばかり上の思ひいたづききこえさせたまふもの を、ままがこの御いそぎに心を入れて、まどひゐてはべるに つけても、それよりこなたに、と聞こえさせたまふ御ことこ そ、いと苦しくいとほしけれ」
と言ふに、いま一人、 「うた て恐ろしきまでな聞こえさせたまひそ。何ごとも御宿世にこ そあらめ。ただ、御心の中に、すこし思しなびかむ方を、さ るべきに思しならせたまへ。いでや、いとかたじけなく、い みじき御気色なりしかば、人のかく思しいそぐめりし方にも 御心も寄らず。しばしは隠ろへても、御思ひのまさらせたま

はむに寄らせたまひね、とぞ思ひはべる」
と、宮をいみじく めできこゆる心なれば、ひたみちに言ふ。 警固の厳重なるを聞き、浮舟の苦悩まさる 「いさや。右近は、とてもかくても、事 なく過ぐさせたまへと、初瀬石山などに願 をなむ立てはべる。この大将殿の御庄の人- 人といふ者は、いみじき不道の者どもにて、一類この里に満 ちてはべるなり。おほかた、この山城大和に、殿の領じたま ふ所どころの人なむ、みなこの内舎人といふ者のゆかりかけ つつはべるなる。それが婿の右近大夫といふ者を本として、 よろづの事を掟て仰せられたるななり。よき人の御仲どちは、 情なき事し出でよ、と思さずとも、ものの心えぬ田舎人ども の、宿直人にてかはりがはりさぶらへば、おのが番に当りて いささかなる事もあらせじなど、過ちもしはべりなむ。あり し夜の御歩きは、いとこそむくつけく思うたまへられしか。 宮は、わりなくつつませたまふとて、御供の人もゐておはし

まさず、やつれてのみおはしますを、さる者の見つけたてま つりたらむは、いといみじくなむ」
と、言ひつづくるを、君、 「なほ、我を宮に心寄せたてまつりたると思ひてこの人々の 言ふ、いと恥づかしく。心地にはいづれとも思はず、ただ夢 のやうにあきれて、いみじく焦られたまふをばなどかくしも とばかり思へど、頼みきこえて年ごろになりぬる人を、今は ともて離れむと思はぬによりこそ、かくいみじとものも思ひ 乱るれ、げによからぬ事も出で来たらむ時」と、つくづく と思ひゐたり。 「まろは、いかで死なばや。世づかず心憂か りける身かな。かくうきことあるためしは下衆などの中にだ に多くやはあなる」とて、うつぶし臥したまへば、 「かく な思しめしそ。やすらかに思しなせ、とてこそ聞こえさせは べれ。思しぬべきことをも、さらぬ顔にのみのどかに見えさ せたまへるを、この御ことの後、いみじく心焦られをせさせ たまへば、いとあやしくなむ見たてまつる」と、心知りたる

かぎりは、みなかく思ひ乱れ騒ぐに、乳母、おのが心をやり て、物染め営みゐたり。今参り童などのめやすきを呼びとり つつ、 「かかる人御覧ぜよ。あやしくてのみ臥させたまへ るは、物の怪などのさまたげきこえさせんとするにこそ」と 嘆く。 内舎人、薫の命により警備の強化を伝達す 殿よりは、かのありし返り事をだにのたま はで、日ごろ経ぬ。このおどしし内舎人と いふ者ぞ来たる。げに、いと荒々しくふつ つかなるさましたる翁の、声嗄れ、さすがにけしきある、 「女房にものとり申さん」と言はせたれば、右近しもあひた り。 「殿に召しはべりしかば、今朝参りはべりて、ただ 今なんまかり帰りはんべりつる。雑事ども仰せられつるつい でに、かくておはしますほどに、夜半暁のことも、なにが しらかくてさぶらふと思ほして、宿直人わざとさしたてまつ らせたまふこともなきを、このごろ聞こしめせば、女房の御

もとに、知らぬ所の人々通ふやうになん聞こしめすことある、 たいだいしきことなり、宿直にさぶらふ者どもは、その案内 聞きたらん、知らではいかがさぶらふべき、と問はせたまひ つるに、承らぬことなれば、なにがしは身の病重くはべりて、 宿直仕うまつることは、月ごろ怠りてはべれば、案内もえ知 りはんべらず、さるべき男どもは、懈怠なくもよほしさぶら はせはべるを、さのごとき非常の事のさぶらはむをば、いか でか承らぬやうははべらん、となん申させはべりつる。用意 してさぶらへ、便なきこともあらば、重く勘当せしめたまふ べきよしなん仰せ言はべりつれば、いかなる仰せ言にか、と 恐れ申しはんべる」
と言ふを聞くに、梟の鳴かんよりも、い ともの恐ろし。答へもやらで、 「さりや。聞こえさせしに 違はぬことどもを聞こしめせ。もののけしき御覧じたるなめ り。御消息もはべらぬよ」と嘆く。乳母は、ほのうち聞きて、 「いとうれしく仰せられたり。盗人多かんなるわたりに、宿-

直人もはじめのやうにもあらず、みな身の代りぞ、と言ひつ つ、あやしき下衆をのみ参らすれば、夜行をだにえせぬに」
とよろこぶ。 浮舟死を決意し、匂宮の文殻を処分する 君は、げに、ただ今、いとあしくなりぬべ き身なめり、と思すに、宮よりは、 「いか にいかに」と、苔の乱るるわりなさをのた まふ、いとわづらはしくてなん。 「とてもかくても、一方一- 方につけて、いとうたてある事は出で来なん。わが身ひとつ の亡くなりなんのみこそめやすからめ。昔は、懸想する人の ありさまのいづれとなきに思ひわづらひてだにこそ、身を投 ぐるためしもありけれ。ながらへば必ずうき事見えぬべき身 の、亡くならんは何か惜しかるべき。親もしばしこそ嘆きま どひたまはめ、あまたの子どもあつかひに、おのづから忘れ 草摘みてん。ありながらもてそこなひ、人わらへなるさまに てさすらへむは、まさるもの思ひなるべし」など思ひなる。

児めきおほどかに、たをたをと見ゆれど、気高う世のありさ まをも知る方少なくて生ほしたてたる人にしあれば、すこし おずかるべきことを思ひ寄るなりけむかし。  むつかしき反故など破りて、おどろおどろしく一たびにも したためず、燈台の火に焼き、水に投げ入れさせなどやうや う失ふ。心知らぬ御達は、ものへ渡りたまふべければ、つれ づれなる月日を経て、はかなくし集めたまへる手習などを破 りたまふなめり、と思ふ。侍従などぞ、見つくる時に、 「な どかくはせさせたまふ。あはれなる御仲に、心とどめて書き かはしたまへる文は、人にこそ見せさせたまはざらめ、もの の底に置かせたまひて御覧ずるなん、ほどほどにつけては、 いとあはれにはべる。さばかりめでたき御紙づかひ、かたじ けなき御言の葉を尽くさせたまへるを、かくのみ破らせたま ふ、情なきこと」と言ふ。 「何か。むつかしく。長かるま じき身にこそあめれ。落ちとどまりて、人の御ためもいとほ

しからむ。さかしらにこれを取りおきけるよなど漏り聞きた まはんこそ恥づかしけれ」
などのたまふ。心細きことを思ひ もてゆくには、またえ思ひたつまじきわざなりけり。親をお きて亡くなる人は、いと罪深かなるものをなど、さすがに、 ほの聞きたることをも思ふ。 上京の日迫る 浮舟、匂宮の文にも答えず 二十日あまりにもなりぬ。かの家主、二十- 八日に下るべし。宮は、 「その夜必ず迎へ む。下人などによくけしき見ゆまじき心づ かひしたまへ。こなたざまよりは、ゆめにも聞こえあるまじ。 疑ひたまふな」などのたまふ。さて、あるまじきさまにてお はしたらむに、いま一たびものをもえ聞こえず、おぼつかな くて帰したてまつらむことよ、また、時の間にても、いかで かここには寄せたてまつらむとする、かひなく恨みて帰りた まはんさまなどを思ひやるに、例の、面影離れず、たへず悲 しくて、この御文を顔に押し当てて、しばしはつつめども、

いといみじく泣きたまふ。右近、 「あが君、かかる御気色つ ひに人見たてまつりつべし。やうやうあやしなど思ふ人はべ るべかめり。かうかかづらひ思ほさで、さるべきさまに聞こ えさせたまひてよ。右近はべらば、おほけなきこともたばか り出だしはべらば、かばかり小さき御身ひとつは空よりゐて たてまつらせたまひなむ」と言ふ。とばかりためらひて、 「かくのみ言ふこそいと心憂けれ。さもありぬべきこと、 と思ひかけばこそあらめ、あるまじきこと、とみな思ひとる に、わりなく、かくのみ頼みたるやうにのたまへば、いかな る事をし出でたまはむとするにかなど思ふにつけて、身のい と心憂きなり」とて、返り事も聞こえたまはずなりぬ。 匂宮厳戒下の宇治に赴くが浮舟に逢えず 宮、かくのみなほ承け引くけしきもなくて、 返り事さへ絶え絶えになるは、かの人の、 あるべきさまに言ひしたためて、すこし心 やすかるべき方に思ひ定まりぬるなめり、ことわり、と思す

ものから、いと口惜しくねたく、さりとも我をばあはれと思 ひたりしものを、あひ見ぬとだえに、人々の言ひ知らする方 に寄るならむかし、などながめたまふに、行く方知らず、む なしき空に満ちぬる心地したまへば、例の、いみじく思した ちておはしましぬ。  葦垣の方を見るに、例ならず、 「あれは誰そ」といふ声々 いざとげなり。立ち退きて、心知りの男を入れたれば、それ をさへ問ふ。さきざきのけはひにも似ず。わづらはしくて、 「京よりとみの御文あるなり」と言ふ。右近が従者の名を 呼びてあひたり。いとわづらはしく、いとどおぼゆ。 「さ らに、今宵は不用なり。いみじくかたじけなきこと」と言は せたり。宮、などかくもて離るらむ、と思すに、わりなくて、 「まづ時方入りて、侍従にあひて、さるべきさまにたばか れ」とて遣はす。かどかどしき人にて、とかく言ひ構へて、 尋ねてあひたり。 「いかなるにかあらむ、かの殿ののたま

はすることありとて、宿直にある者どもの、さかしがりだち たるころにて、いとわりなきなり。御前にも、ものをのみい みじく思しためるは、かかる御事のかたじけなきを思し乱る るにこそと、心苦しくなむ見たてまつる。さらに、今宵は。 人けしき見はべりなば、なかなかにいとあしかりなん。やが て、さも御心づかひせさせたまひつべからむ夜、ここにも人- 知れず思ひ構へてなむ、聞こえさすべかめる」
。乳母のいざ ときことなども語る。大夫、 「おはします道のおぼろけなら ず、あながちなる御気色に、あへなく聞こえさせむなむたい だいしき。さらば、いざたまへ。ともにくはしく聞こえさせ たまへ」といざなふ。 「いとわりなからむ」と言ひしろふ ほどに、夜もいたく更けゆく。  宮は、御馬にてすこし遠く立ちたまへるに、里びたる声し たる犬どもの出で来てののしるもいと恐ろしく、人少なに、 いとあやしき御歩きなれば、すずろならむ物の走り出で来た

らむもいかさまにと、さぶ らふかぎり心をぞまどはし ける。 「なほとくとく参 りなむ」と言ひ騒がして、 この侍従をゐて参る。髪、 脇より掻い越して、様体い とをかしき人なり。馬に乗せむとすれど、さらに聞かねば、 衣の裾をとりて、立ち添ひて行く。わが沓をはかせて、みづ からは、供なる人のあやしきものをはきたり。参りて、かく なんと聞こゆれば、語らひたまふべきやうだになければ、山 がつの垣根のおどろ葎の蔭に、障泥といふものを敷きて下ろ したてまつる。わが御心地にも、 「あやしきありさまかな。か かる道に損はれて、はかばかしくはえあるまじき身なめり」 と思しつづくるに、泣きたまふこと限りなし。心弱き人は、 まして、いといみじく悲しと見たてまつる。いみじき仇を鬼

につくりたりとも、おろかに見棄つまじき人の御ありさまな り。ためらひたまひて、 「ただ一言もえ聞こえさすまじき か。いかなれば、今さらにかかるぞ。なほ人々の言ひなした るやうあるべし」とのたまふ。ありさまくはしく聞こえて、 「やがて、さ思しめさむ日を、かねては散るまじきさまに たばからせたまへ。かくかたじけなき事どもを見たてまつり はべれば、身を棄てても思うたまへたばかりはべらむ」と聞 こゆ。我も人目をいみじく思せば、一方に恨みたまはむやう もなし。  夜はいたく更けゆくに、このもの咎めする犬の声絶えず、 人々追ひ避けなどするに、弓ひき鳴らし、あやしき男どもの 声どもして、 「火危し」など言ふも、いと心あわたたしけれ ば、帰りたまふほど言へばさらなり。    「いづくにか身をば棄てむと白雲のかからぬ山もなく   なくぞ行く

さらばはや」
とて、この人を帰したまふ。御気色なまめかし くあはれに、夜深き露にしめりたる御香のかうばしさなど、 たとへむ方なし。泣く泣くぞ帰り来たる。 浮舟死を前に、匂宮と薫を思い肉親を恋う 右近は、言ひ切りつるよし言ひゐたるに、 君は、いよいよ思ひ乱るること多くて臥し たまへるに、入り来てありつるさま語るに、 答へもせねど、枕のやうやう浮きぬるを、かつはいかに見る らむ、とつつまし。つとめても、あやしからむまみを思へば、 無期に臥したり。ものはかなげに帯などして経読む。親に先- 立ちなむ罪失ひたまへ、とのみ思ふ。ありし絵を取り出でて 見て、描きたまひし手つき、顔のにほひなどの向ひきこえた らむやうにおぼゆれば、昨夜一言をだに聞こえずなりにしは、 なほいま一重まさりていみじと思ふ。かの、心のどかなるさ まにて見むと、行く末遠かるべきことをのたまひわたる人も いかが思さむ、といとほし。うきさまに言ひなす人もあらむ

こそ、思ひやり恥づかしけれど、心浅くけしからず人わらへ ならんを聞かれたてまつらむよりは、など思ひつづけて、    なげきわび身をば棄つとも亡き影にうき名流さむこ   とをこそ思へ  親もいと恋しく、例は、ことに思ひ出でぬはらからの醜や かなるも恋し。宮の上を思ひ出できこゆるにも、すべていま 一たびゆかしき人多かり。人は、みな、おのおの物染め急ぎ、 何やかやと言へど、耳にも入らず。夜となれば、人に見つけ られず出でて行くべき方を思ひまうけつつ、ねられぬままに、 心地もあしく、みな違ひにたり。明けたてば、川の方を見や りつつ、羊の歩みよりもほどなき心地す。 浮舟、匂宮と中将の君に告別の歌を詠む 宮は、いみじきことどもをのたまへり。今 さらに、人や見む、と思へば、この御返り 事をだに、思ふままにも書かず。    からをだにうき世の中にとどめずはいづこをはかと

  君もうらみむ
とのみ書きて出だしつ。かの殿にも、今はの気色見せたてま つらまほしけれど、所どころに書きおきて、離れぬ御仲なれ ば、つひに聞きあはせたまはんこといとうかるべし、すべて、 いかになりけむと、誰にもおぼつかなくてやみなん、と思ひ 返す。  京より、母の御文持て来たり。    ねぬる夜の夢に、いと騒がしくて見えたまひつれば、   誦経所どころせさせなどしはべるを、やがて、その夢の   後、ねられざりつるけにや、ただ今昼寝してはべる夢に、   人の忌むといふ事なん見えたまひつれば、おどろきなが   ら奉る。よくつつしませたまへ。人離れたる御住まひに   て、時々立ち寄らせたまふ人の御ゆかりもいと恐ろしく、   悩ましげにものせさせたまふをりしも、夢のかかるを、   よろづになむ思うたまふる。参り来まほしきを、少将の

  方の、なほいと心もとなげに、物の怪だちて悩みはべれ   ば、片時も立ち去ること、といみじく言はれはべりてな   む。その近き寺にも御誦経せさせたまへ。
とて、その料の物、文など書き添へて持て来たり。限りと思 ふ命のほどを知らでかく言ひつづけたまへるも、いと悲しと 思ふ。  寺へ人やりたるほど、返り事書く。言はまほしきこと多か れど、つつましくて、ただ、    のちにまたあひ見むことを思はなむこの世のゆめに   心まどはで 誦経の鐘の風につけて聞こえ来るを、つくづくと聞き臥した まふ。    鐘の音の絶ゆるひびきに音をそへてわが世つきぬと   君に伝へよ 持て来たるに書きつけて、 「今宵はえ帰るまじ」と言へば、

ものの枝に結ひつけておきつ。   「あやしく心ばしりのするかな。夢も騒がし、との たまはせたりつ。宿直人、よくさぶらへ」と言はするを、苦 しと聞き臥したまへり。 「物きこしめさぬ、いとあやし。 御湯漬」などよろづに言ふを、さかしがるめれど、いと醜く 老いなりて、我なくは、いづくにかあらむ、と思ひやりたま ふもいとあはれなり。世の中にえありはつまじきさまを、ほ のめかして言はむなど思すに、まづおどろかされて先立つ涙 をつつみたまひて、ものも言はれず。右近、ほど近く臥すと て、 「かくのみものを思ほせば、もの思ふ人の魂はあくが るなるものなれば、夢も騒がしきならむかし。いづ方と思し さだまりて、いかにもいかにもおはしまさなむ」とうち嘆く。 萎えたる衣を顔に押し当てて、臥したまへりとなむ。 The Drake Fly 浮舟失踪 右近ら、その入水を直感する

かしこには、人々、おはせぬを求め騒げど かひなし。物語の姫君の人に盗まれたらむ 朝のやうなれば、くはしくも言ひつづけず。  京より、ありし使の帰らずなりにしかば、おぼつかなしと て、また人おこせたり。 「まだ、鳥の鳴くになむ、出だし立 てさせたまへる」と使の言ふに、いかに聞こえんと、乳母よ りはじめて、あわてまどふこと限りなし。思ひやる方なくて ただ騒ぎあへるを、かの心知れるどちなん、いみじくものを 思ひたまへりしさまを思ひ出づるに、身を投げたまへるか、 とは思ひ寄りける。  泣く泣くこの文を開けたれば、 いとおぼつかなさにまどろまれはべらぬけにや、今-

  宵は夢にだにうちとけても見えず、ものにおそはれつつ、   心地も例ならずうたてはべるを、なほいと恐ろしく。も   のへ渡らせたまはんことは近かなれど、そのほど、ここ   に迎へたてまつりてむ。今日は雨降りはべりぬべければ。
などあり。昨夜の御返りをも開けて見て、右近いみじう泣く。 「さればよ。心細きことは聞こえたまひけり。我に、などか いささかのたまふことのなかりけむ。幼かりしほどより、つ ゆ心おかれたてまつることなく、塵ばかり隔てなくてならひ たるに、今は限りの道にしも我をおくらかし、気色をだに見 せたまはざりけるがつらきこと」と思ふに、足摺といふこと をして泣くさま、若き子どものやうなり。いみじく思したる 御気色は見たてまつりわたれど、かけても、かく、なべてな らずおどろおどろしきこと思し寄らむものとは見えざりつる 人の御心ざまを、なほ、いかにしつることにか、とおぼつか なくいみじ。乳母は、なかなかものもおぼえで、ただ、 「いか

さまにせむ、いかさまにせん」
とぞ言はれける。 匂宮、浮舟の死を知り、時方を宇治に派遣 宮にも、いと例ならぬ気色ありし御返り、 「いかに思ふならん。我を、さすがにあひ 思ひたるさまながら、あだなる心なりとの み深く疑ひたれば、ほかへ行き隠れんとにやあらむ」と思し 騒ぎて、御使あり。あるかぎり泣きまどふほどに来て、御文 もえ奉らず。 「いかなるぞ」と下衆女に問へば、 「上の、 今宵、にはかに亡せたまひにければ、ものもおぼえたまはず。 頼もしき人もおはしまさぬをりなれば、さぶらひたまふ人々 は、ただ物に当りてなむまどひたまふ」と言ふ。心も深く知 らぬ男にて、くはしくも問はで参りぬ。  かくなん、と申させたるに、夢とおぼえて、 「いとあやし。 いたくわづらふとも聞かず、日ごろ悩ましとのみありしかど、 昨日の返り事はさりげもなくて、常よりもをかしげなりしも のを」と、思しやる方なければ、 「時方、行きて気色見、た

しかなること問ひ聞け」
とのたまへば、 「かの大将殿、い かなることか、聞きたまふことはべりけん、宿直する者おろ かなりなど戒め仰せらるるとて、下人のまかり出づるをも見 とがめ問ひはべるなれば、言つくることなくて時方まかりた らんを、ものの聞こえはべらば、思しあはすることなどやは べらむ。さて、にはかに人の亡せたまへらん所は、論なう騒 がしう人繁くはべらむを」と聞こゆ。 「さりとては、いと おぼつかなくてやあらむ。なほ、とかくさるべきさまに構へ て、例の、心知れる侍従などにあひて、いかなる事をかく言 ふぞ、と案内せよ。下衆はひが言も言ふなり」とのたまへば、 いとほしき御気色もかたじけなくて、夕つ方行く。  かやすき人は、とく行きつきぬ。雨すこし降りやみたれど、 わりなき道に、やつれて下衆のさまにて来たれば、人多く立 ち騒ぎて、 「今宵、やがて、をさめたてまつるなり」など言ふ を聞く心地も、あさましくおぼゆ。右近に消息したれども、

えあはず、 「ただ今ものおぼえず、起き上らん心地もせで なむ。さるは、今宵ばかりこそは、かくも立ち寄りたまはめ、 え聞こえぬこと」と言はせたり。 「さりとて、かくおぼつ かなくてはいかが帰り参りはべらむ。いま一ところだに」と 切に言ひたれば、侍従ぞあひたりける。 「いとあさましく、 思しもあへぬさまにて亡せたまひにたれば、いみじと言ふに も飽かず、夢のやうにて、誰も誰もまどひはべるよしを申さ せたまへ。すこしも心地のどめはべりてなむ、日ごろももの 思したりつるさま、一夜いと心苦しと思ひきこえさせたまへ りしありさまなども、聞こえさせはべるべき。この穢らひな ど、人の忌みはべるほど過ぐして、いま一たび立ち寄りたま へ」と言ひて、泣くこといといみじ。  内にも、泣く声々のみして、乳母なるべし、 「あが君や、 いづ方にかおはしましぬる。帰りたまへ。むなしき骸をだに 見たてまつらぬが、かひなく悲しくもあるかな。明け暮れ見

たてまつりても飽かずおぼえたまひ、いつしかかひある御さ まを見たてまつらむと、朝夕に頼みきこえつるにこそ命も延 びはべりつれ、うち棄てたまひて、かく行く方も知らせたま はぬこと。鬼神も、あが君をばえ領じたてまつらじ。人のい みじく惜しむ人をば、帝釈も返したまふなり。あが君を取り たてまつりたらむ、人にまれ鬼にまれ、返したてまつれ。亡 き御骸をも見たてまつらん」
と言ひつづくるが、心えぬこと どもまじるをあやしと思ひて、 「なほ、のたまへ。もし人 の隠しきこえたまへるか。たしかに聞こしめさんと、御身の 代りに出だし立てさせたまへる御使なり。今は、とてもかく てもかひなきことなれど、後にも聞こしめしあはすることの はべらんに、違ふことまじらば、参りたらむ御使の罪なるべ し。また、さりともと頼ませたまひて、君たちに対面せよ、 と仰せられつる御心ばへもかたじけなしとは思されずや。女 の道にまどひたまふことは、他の朝廷にも古き例どもありけ

れど、まだ、かかることはこの世にあらじ、となん見たてま つる」
と言ふに、げにいとあはれなる御使にこそあれ、隠す とすとも、かくて例ならぬ事のさま、おのづから聞こえなむ、 と思ひて、 「などか、いささかにても、人や隠いたてまつ りたまふらん、と思ひ寄るべきことあらむには、かくしもあ るかぎりまどひはべらむ。日ごろ、いといみじくものを思し 入るめりしかば、かの殿の、わづらはしげに、ほのめかし聞 こえたまふことなどもありき。御母にものしたまふ人も、か くののしる乳母なども、はじめより知りそめたりし方に渡り たまはん、となん急ぎ立ちて、この御ことをば、人知れぬさ まにのみ、かたじけなくあはれと思ひきこえさせたまへりし に、御心乱れけるなるべし。あさましう、心と身を亡くなし たまへるやうなれば、かく、心のまどひにひがひがしく言ひ つづけらるるなめり」と、さすがにまほならずほのめかす。 心えがたく思ひて、 「さらば、のどかに参らむ。立ちなが

らはべるも、いとことそぎたるやうなり。いま、御みづから もおはしましなん」
と言へば、 「あなかたじけな。今さら に人の知りきこえさせむも、亡き御ためは、なかなかめでた き御宿世見ゆべきことなれど、忍びたまひしことなれば、ま た漏らさせたまはでやませたまはむなん、御心ざしにはべる べき」、ここには、かく世づかず亡せたまへるよしを人に聞 かせじと、よろづに紛らはすを、自然に事どものけしきもこ そ見ゆれ、と思へば、かくそそのかしやりつ。 中将の君到着 右近ら遺骸なき葬送を行う 雨のいみじかりつる紛れに、母君も渡りた まへり。さらに言はむ方もなく、 「目の 前に亡くなしたらむ悲しさは、いみじうと も、世の常にてたぐひあることなり。これはいかにしつる ことぞ」とまどふ。かかる事どもの紛れありて、いみじうも の思ひたまふらんとも知らねば、身を投げたまへらんとも 思ひも寄らず、鬼や食ひつらん、狐めくものやとりもて去ぬ

らん、いと昔物語のあやしきものの事のたとひにか、さやう なることも言ふなりし、と思ひ出づ。さては、かの恐ろしと 思ひきこゆるあたりに、心などあしき御乳母やうの者や、 かう迎へたまふべしと聞きて、めざましがりて、たばかり たる人もやあらむと、下衆などを疑ひ、 「今参りの心知ら ぬやある」と問へど、 「いと世離れたりとて、ありなら はぬ人は、ここにて、はかなきこともえせず、いまとく参 らむ、と言ひつつなむ、みな、そのいそぐべきものどもな ど取り具しつつ、かへり出ではべりにし」とて、もとよりあ る人だにかたへはなくて、いと人少ななるをりになんあり ける。  侍従などこそ、日ごろの御気色思ひ出で、 「身を失ひてば や」など泣き入りたまひしをりをりのありさま、書きおきた まへる文をも見るに、 「亡き影に」と書きすさびたまへるも のの、硯の下にありけるを見つけて、川の方を見やりつつ、

響きののしる水の音を聞くにもうとましく悲しと思ひつつ、 「さて亡せたまひけむ人を、とかく言ひ騒ぎて、いづくに もいづくにも、いかなる方になりたまひにけむ、と思し疑は んも、いとほしきこと」と言ひあはせて、 「忍びたる事とて も、御心より起こりてありしことならず。親にて、亡き後に 聞きたまへりとも、いとやさしきほどならぬを、ありのまま に聞こえて、かくいみじくおぼつかなきことどもをさへ、か たがた思ひまどひたまふさまは、すこしあきらめさせたてま つらん。亡くなりたまへる人とても、骸を置きてもてあつか ふこそ世の常なれ、世づかぬけしきにて日ごろも経ば、さら に隠れあらじ。なほ聞こえて、今は世の聞こえをだにつくろ はむ」と語らひて、忍びてありしさまを聞こゆるに、言ふ人 も消え入り、え言ひやらず、聞く心地もまどひつつ、さば、 このいと荒ましと思ふ川に流れ亡せたまひにけり、と思ふに、 いとど我も落ち入りぬべき心地して、 「おはしましにけむ

方を尋ねて、骸をだに、はかばかしくをさめむ」
とのたまへ ど、 「さらに何のかひはべらじ。行く方も知らぬ大海の原に こそおはしましにけめ。さるものから、人の言ひ伝へんこと はいと聞きにくし」と聞こゆれば、とざまかくざまに思ふに、 胸のせきのぼる心地して、いかにもいかにもすべき方もおぼ えたまはぬを、この人々二人して、車寄せさせて、御座ども、 け近う使ひたまひし御調度ども、みなながら脱ぎおきたまへ る御衾などやうのものをとり入れて、乳母子の大徳、それが 叔父の阿闍梨、その弟子の睦ましきなど、もとより知りたる 老法師など、御忌に籠るべきかぎりして、人の亡くなりたる けはひにまねびて、出だし立つるを、乳母、母君は、いとゆ ゆしくいみじ、と臥しまろぶ。  大夫内舎人など、おどしきこえし者どもも参りて、 「御葬- 送の事は、殿に事のよしも申させたまひて、日定められ、い かめしうこそ仕うまつらめ」など言ひけれど、 「ことさら

に、今宵過ぐすまじ。いと忍びて、と思ふやうあればなん」
とて、この車を、向ひの山の前なる原にやりて、人も近うも 寄せず、この案内知りたる法師のかぎりして焼かす。いとは かなくて、煙ははてぬ。田舎人どもは、なかなか、かかる事 をことごとしくしなし、言忌など深くするものなりければ、 「いとあやしう。例の作法などある事どももしたまはず、下- 衆下衆しく、あへなくてせられぬることかな」と譏りければ、 「かたへおはする人は、ことさらにかくなむ、京の人は、し たまふなる」など、さまざまになん安からず言ひける。 「かかる人どもの言ひ思ふことだにつつましきを、まして、 ものの聞こえ隠れなき世の中に、大将殿わたりに、骸もなく 亡せたまへりと聞こしめさば、必ず思ほし疑ふこともあらむ を、宮、はた、同じ御仲らひにて、さる人のおはしおはせず、 しばしこそ、忍ぶとも思さめ、つひには隠れあらじ。また、 さだめて宮をしも疑ひきこえたまはじ。いかなる人かゐて隠

しけんなどぞ、思し寄せむかし。生きたまひての御宿世はい と気高くおはせし人の、げに亡き影にいみじきことをや疑 はれたまはん」
と思へば、ここの内なる下人どもにも、今朝 のあわたたしかりつるまどひにけしきも見聞きつるには口固 め、案内知らぬには聞かせじなどぞたばかりける。 「ながら へては、誰にも、静やかに、ありしさまをも聞こえてん。た だ今は、悲しささめ ぬべきこと、ふと人 づてに聞こしめさむ は、なほいといとほ しかるべきことなる べし」と、この人二- 人ぞ、深く心の鬼添 ひたれば、もて隠し ける。 薫、浮舟の死を知りわが宿世の拙さを嘆く

大将殿は、入道の宮の悩みたまひければ、 石山に籠りたまひて、騒ぎたまふころなり けり。さて、いとど、かしこをおぼつかな う思しけれど、はかばかしう、さなむと言ふ人はなかりけれ ば、かかるいみじき事にも、まづ御使のなきを、人目も心憂 しと思ふに、御庄の人なん参りて、しかじかと申させければ、 あさましき心地したまひて、御使、そのまたの日、まだつとめ て参りたり。 「いみじきことは、聞くままにみづからもの すべきに、かく悩みたまふ御事によりつつしみて、かかる所 に日を限りて籠りたればなむ。昨夜の事は、などか、ここに 消息して、日を延べてもさる事はするものを、いと軽らかな るさまにて急ぎせられにける。とてもかくても、同じ言ふか ひなさなれど、とぢめの事をしも、山がつの譏りをさへ負ふ なむ、ここのためもからき」など、かの睦ましき大蔵大輔し てのたまへり。御使の来たるにつけても、いとどいみじきに、

聞こえん方なき事どもなれば、ただ涙におぼほれたるばかり をかごとにて、はかばかしうも答へやらずなりぬ。  殿は、なほ、いとあへなくいみじ、と聞きたまふにも、 「心憂かりける所かな。鬼などや住むらむ。などて、今まで さる所に据ゑたりつらむ。思はずなる筋の紛れあるやうなり しも、かく放ちおきたるに心やすくて、人も言ひ犯したまふ なりけむかし」と思ふにも、わがたゆく世づかぬ心のみ悔し く、御胸いたくおぼえたまふ。悩ませたまふあたりに、かか ること思し乱るるもうたてあれば、京におはしぬ。  宮の御方にも渡りたまはず、 「ことごとしきほどにもは べらねど、ゆゆしき事を近う聞きはべれば、心の乱れはべる ほどもいまいましうてなむ」と聞こえたまひて、尽きせずは かなくいみじき世を嘆きたまふ。ありしさま容貌、いと愛敬 づき、をかしかりしけはひなどのいみじく恋しく悲しければ、 現の世には、などかくしも思ひ入れずのどかにて過ぐしけむ、

ただ今は、さらに思ひしづめん方なきままに、悔しきことの 数知らず、 「かかることの筋につけて、いみじうもの思ふべ き宿世なりけり。さま異に心ざしたりし身の、思ひの外に、 かく、例の人にてながらふるを、仏などの憎しと見たまふに や。人の心を起こさせむとて、仏のしたまふ方便は、慈悲を も隠して、かやうにこそはあなれ」と思ひつづけたまひつつ、 行ひをのみしたまふ。 薫匂宮を見舞う 浮舟の密通を思い煩悶す かの宮、はた、まして、二三日はものもお ぼえたまはず、現し心もなきさまにて、い かなる御物の怪ならん、など騒ぐに、やう やう涙尽くしたまひて、思し静まるにしもぞ、ありしさまは 恋しういみじく思ひ出でられたまひける。人には、ただ、御- 病の重きさまをのみ見せて、かくすずろなるいやめのけしき 知らせじと、かしこくもて隠すと思しけれど、おのづからい としるかりければ、 「いかなる事にかく思しまどひ、御命も

危きまで沈みたまふらん」
と言ふ人もありければ、かの殿に も、いとよくこの御気色を聞きたまふに、 「さればよ。なほ よその文通はしのみにはあらぬなりけり。見たまひては必ず さ思しぬべかりし人ぞかし。ながらへましかば、ただなるよ りは、わがためにをこなる事も出で来なまし」と思すになむ、 焦がるる胸もすこしさむる心地したまひける。  宮の御とぶらひに、日々に、参りたまはぬ人なく、世の騒 ぎとなれるころ、ことごとしき際ならぬ思ひに籠りゐて、参 らざらんもひがみたるべしと思して、参りたまふ。そのころ、 式部卿宮と聞こゆるも亡せたまひにければ、御叔父の服にて 薄鈍なるも、心の中にあはれに思ひよそへられて、つきづき しく見ゆ。すこし面痩せて、いとどなまめかしきことまさり たまへり。  人々まかでてしめやかなる夕暮なり。宮、臥し沈みてのみ はあらぬ御心地なれば、うとき人にこそあひたまはね、御簾

の内にも例入りたまふ人には、対面したまはずもあらず。見 えたまはむもあいなくつつまし、見たまふにつけても、いと ど涙のまづせきがたさを思せど、思ひしづめて、 「おどろ おどろしき心地にもはべらぬを、皆人は、つつしむべき病の さまなりとのみものすれば、内裏にも宮にも思し騒ぐがいと 苦しく。げに世の中の常なきをも、心細く思ひはべる」との たまひて、おし拭ひ紛らはしたまふ、と思す涙の、やがてと どこほらずふり落つれば、いとはしたなけれど、必ずしもい かでか心えん、ただめめしく心弱きとや見ゆらんと思すも、 「さりや。ただこのことをのみ思すなりけり。いつよりなり けむ。我を、いかにをかしともの笑ひしたまふ心地に、月ご ろ思しわたりつらむ」と思ふに、この君は、悲しさは忘れた まへるを、 「こよなくもおろかなるかな。ものの切におぼゆ る時は、いとかからぬことにつけてだに、空飛ぶ鳥の鳴きわ たるにも、もよほされてこそ悲しけれ。わがかくすずろに心-

弱きにつけても、もし心をえたらむに、さ言ふばかり、もの のあはれも知らぬ人にもあらず。世の中の常なきことを、し みて思へる人しもつれなき」
と、うらやましくも心にくくも 思さるるものから、真木柱はあはれなり。これに向ひたらむ さまも思しやるに、形見ぞかし、とうちまもりたまふ。  やうやう世の物語聞こえたまふに、いと籠めてしもはあら じ、と思して、 「昔より、心にしばしも籠めて聞こえさせ ぬこと残しはべるかぎりは、いといぶせくのみ思ひたまへら れしを、今は、なかなかの上臈になりにてはべり、まして御- 暇なき御ありさまにて、心のどかにおはしますをりもはべら ねば、宿直などに、その事となくてはえさぶらはず、そこは かとなくて過ぐしはべるをなん。昔、御覧ぜし山里に、はか なくて亡せはべりにし人の、同じゆかりなる人、おぼえぬ所 にはべりと聞きつけはべりて、時々さて見つべくや、と思ひ たまへしに、あいなく人の譏りもはべりぬべかりしをりなり

しかば、このあやしき所に置きてはべりしを、をさをさまか りて見ることもなく、また、かれも、なにがし一人をあひ頼 む心もことになくてやありけむ、とは見たまひつれど、やむ ごとなく、ものものしき筋に思ひたまへばこそあらめ、見る に、はた、ことなる咎もはべらずなどして、心やすくらうた し、と思ひたまへつる人の、いとはかなくて亡くなりはべり にける。なべて世のありさまを思ひたまへつづけはべるに、 悲しくなん。聞こしめすやうもはべるらむかし」
とて、今ぞ 泣きたまふ。これも、 「いとかうは見えたてまつらじ。をこ なり」と思ひつれど、こぼれそめてはいととめがたし。  気色のいささか乱り顔なるを、あやしくいとほしと思せど、 つれなくて、 「いとあはれなることにこそ。昨日ほのかに 聞きはべりき。いかに、とも聞こゆべく思ひたまへながら、 わざと人に聞かせたまはぬこと、と聞きはべりしかばなむ」 と、つれなくのたまへど、いとたへがたければ、言少なにて

おはします。 「さる方にても御覧ぜさせばや、と思ひたま へし人になん。おのづからさもやはべりけむ、宮にも参り通 ふべきゆゑはべりしかば」など、すこしづつ気色ばみて、 「御心地例ならぬほどは、すずろなる世のこと聞こしめし 入れ御耳おどろくも、あいなきわざになむ。よくつつしませ おはしませ」など聞こえおきて、出でたまひぬ。 「いみじくも思したりつるかな。いとはかなかりけれど、さ すがに高き人の宿世なりけり。当時の帝后のさばかりかし づきたてまつりたまふ親王、顔容貌よりはじめて、ただ今の 世にはたぐひおはせざめり。見たまふ人とても、なのめなら ず、さまざまにつけて限りなき人をおきて、これに御心を尽 くし、世の人立ち騒ぎて、修法、読経、祭、祓と、道々に騒 ぐは、この人を思すゆかりの御心地のあやまりにこそはあり けれ。我も、かばかりの身にて、時の帝の御むすめをもちた てまつりながら、この人のらうたくおぼゆる方は劣りやはし

つる。まして、今は、とおぼゆるには、心をのどめん方なく もあるかな。さるは、をこなり、かからじ」
と思ひ忍ぶれど、 さまざまに思ひ乱れて、 「人木石にあらざればみな情あり」 と、うち誦じて臥したまへり。  後のしたためなども、いとはかなくしてけるを、宮にもい かが聞きたまふらむ、といとほしくあへなく、母のなほなほ しくて、はらからあるはなど、さやうの人は言ふことあんな るを思ひて、ことそぐなりけんかしなど、心づきなく思す。 おぼつかなさも限りなきを、ありけむさまもみづから聞かま ほし、と思せど、長籠りしたまはむも便なし、行きと行きて たち返らむも心苦しなど思しわづらふ。  月たちて、今日ぞ渡らまし、と思ひ出でたまふ日の夕暮、 いとものあはれなり。御前近き橘の香のなつかしきに、郭公 の二声ばかり鳴きてわたる。 「宿に通はば」と独りごちた まふも飽かねば、北の宮に、ここに渡りたまふ日なりければ、

橘を折らせて聞こえたまふ。    忍び音や君もなくらむかひもなき死出の田長に心かよ   はば 宮は、女君の御さまのいとよく似たるを、いとあはれに思し て、二ところながめたまふをりなりけり。気色ある文かな、 と見たまひて、    「橘のかをるあたりはほととぎすこころしてこそなく   べかりけれ わづらはし」と書きたまふ。 匂宮、時方をやり、侍従を呼び実情を聞く 女君、このことのけしきは、みな見知りた まひてけり。 「あはれにあさましきはかな さのさまざまにつけて心深き中に、我一人、 もの思ひ知らねば、今までながらふるにや。それもいつま で」と心細く思す。宮も、隠れなきものから、隔てたまへる もいと心苦しければ、ありしさまなど、すこしはとりなほし

つつ語りきこえたまふ。 「隠したまひしがつらかりし」な ど、泣きみ笑ひみ聞こえたまふにも、他人よりは睦ましくあ はれなり。ことごとしくうるはしくて、例ならぬ御事のさま もおどろきまどひたまふ所にては、御とぶらひの人しげく、 父大臣せうとの君たちひまなきもいとうるさきに、ここはい と心やすくて、なつかしくぞ思されける。  いと夢のやうにのみ、なほ、いかで、いとにはかなりける ことにかはとのみいぶせければ、例の人々召して、右近を迎 へに遣はす。母君も、さらにこの水の音けはひを聞くに、我 もまろび入りぬべく、悲しく心憂きことのどまるべくもあら ねば、いとわびしうて帰りたまひにけり。念仏の僧どもを頼 もしき者にて、いとかすかなるに、入り来たれば、ことごとし くにはかに立ちめぐりし宿直人どもも見とがめず。あやにく に、限りのたびしも入れたてまつらずなりにしよ、と思ひ出 づるもいとほし。さるまじきことを思ほし焦がるることと、

見苦しく見たてまつれど、ここに来ては、おはしましし夜な 夜なのありさま、抱かれたてまつりたまひて舟に乗りたまひ しけはひのあてにうつくしかりしことなどを思ひ出づるに、 心強き人なくあはれなり。右近あひて、いみじう泣くもこと わりなり。 「かくのたまはせて、御使になむ参り来つる」 と言へば、 「今さらに、人もあやしと言ひ思はむもつつま しく、参りても、はかばかしく聞こしめしあきらむばかりも の聞こえさすべき心地もしはべらず。この御忌はてて、あか らさまにものになん、と人に言ひなさんも、すこし似つかは しかりぬべきほどになしてこそ。心より外の命はべらば、い ささか思ひしづまらむをりになん、仰せ言なくとも参りて、 げにいと夢のやうなりし事どもも、語りきこえさせはべらま ほしき」と言ひて、今日は動くべくもあらず。                  大夫も泣きて、 「さらに、この御仲のこと、こまかに知 りきこえさせはべらず。ものの心も知りはべらずながら、た

ぐひなき御心ざしを見たてまつりはべりしかば、君たちをも、 何かは急ぎてしも聞こえうけたまはらむ、つひには仕うまつ るべきあたりにこそ、と思ひたまへしを、言ふかひなく悲し き御ことの後は、私の御心ざしも、なかなか深さまさりてな む」
と語らふ。 「わざと御車など思しめぐらして、奉れた まへるを、むなしくてはいといとほしうなむ。いま一ところ にても参りたまへ」と言へば、侍従の君呼び出でて、 「さ ば、参りたまへ」と言へば、 「まして何ごとをか聞こえさ せむ。さても、なほ、この御忌のほどには、いかでか。忌ま せたまはぬか」と言へば、 「悩ませたまふ御響きに、さま ざまの御つつしみどもはべめれど、忌みあへさせたまふまじ き御気色になん。また、かく深き御契りにては、籠らせたま ひてもこそおはしまさめ。残りの日いくばくならず。なほ一 ところ参りたまへ」と責むれば、侍従ぞ、ありし御さまもい と恋しう思ひきこゆるに、いかならむ世にかは見たてまつら

む、かかるをりにと思ひなして、参りける。黒き衣ども着て、 ひきつくろひたる容貌もいときよげなり。裳は、ただ今我よ り上なる人なきにうちたゆみて、色も変へざりければ、薄色 なるを持たせて参る。 「おはせましかば、この道にぞ忍びて 出でたまはまし。人知れず心寄せきこえしものを」など思ふ にもあはれなり。道すがら泣く泣くなむ来ける。  宮は、この人参れり、と聞こしめすもあはれなり。女君に は、あまりうたてあれば、聞こえたまはず。寝殿におはしま して、渡殿におろさせたまへり。ありけんさまなど、くはし う問はせたまふに、日ごろ思し嘆きしさま、その夜泣きたま ひしさま、 「あやしきまで言少なに、おぼおぼとのみもの したまひて、いみじと思すことをも、人にうち出でたまふこ とは難く、ものづつみをのみしたまひしけにや、のたまひお くこともはべらず。夢にも、かく心強きさまに思しかくらむ とは、思ひたまへずなむはべりし」など、くはしう聞こゆれ

ば、まして、いといみじう、さるべきにて、ともかくもあら ましよりも、いかばかりものを思ひたちて、さる水に溺れけ ん、と思しやるに、これを見つけてせきとめたらましかば、 とわき返る心地したまへどかひなし。 「御文を焼き失ひた まひしなどに、などて目を立てはべらざりけん」など、夜一- 夜語らひたまふに、聞こえ明かす。かの巻数に書きつけたま へりし、母君の返り事などを聞こゆ。  何ばかりのものとも御覧ぜざりし人も、睦ましくあはれに 思さるれば、 「わがもとにあれかし。あなたももて離るべ くやは」とのたまへば、 「さてさぶらはんにつけても、も ののみ悲しからんを思ひたまへれば、いま、この御はてなど 過ぐして」と聞こゆ。 「またも参れ」など、この人をさへ 飽かず思す。暁に帰るに、かの御料にとてまうけさせたまひ ける櫛の箱一具、衣箱一具贈物にせさせたまふ。さまざま にせさせたまふことは多かりけれど、おどろおどろしかりぬ

べければ、ただ、この人におほせたるほどなりけり。何心も なく参りて、かかる事どものあるを、人はいかが見ん、すず ろにむつかしきわざかな、と思ひわぶれど、いかがは聞こえ 返さむ。右近と二人、忍びて見つつ、つれづれなるままに、 こまかにいまめかしうしあつめたることどもを見ても、いみ じう泣く。装束もいとうるはしうしあつめたる物どもなれば、 「かかる御服に、これをばいかで隠さむ」など、もてわづら ひける。 薫、右近から実情を聞き、嘆きつつ帰京す 大将殿も、なほ、いとおぼつかなきに、思 しあまりておはしたり。道のほどより、昔 の事どもかき集めつつ、 「いかなる契りに て、この父親王の御もとに来そめけむ。かく思ひかけぬはて まで思ひあつかひ、このゆかりにつけてはものをのみ思ふよ。 いと尊くおはせしあたりに、仏をしるべにて、後の世をのみ 契りしに、心きたなき末の違ひめに、思ひ知らするなめり」

とぞおぼゆる。右近召し出でて、 「ありけんさまもはかば かしう聞かず。なほ、尽きせずあさましうはかなければ、忌 の残りも少なくなりぬ、過ぐして、と思ひつれど、しづめあ へずものしつるなり。いかなる心地にてか、はかなくなりた まひにし」と問ひたまふに、尼君なども、けしきは見てけれ ば、つひに聞きあはせたまはんを、なかなか隠しても、事違 ひて聞こえんに、そこなはれぬべし、あやしき事の筋にこそ、 そらごとも思ひめぐらしつつならひしか、かくまめやかなる 御気色にさし向ひきこえては、かねてと言はむかく言はむと まうけし言葉をも忘れ、わづらはしうおぼえければ、ありし さまの事どもを聞こえつ。  あさましう、思しかけぬ筋なるに、ものもとばかりのたま はず。 「さらにあらじ、とおぼゆるかな。なべての人の思ひ 言ふことをも、こよなく言少なにおほどかなりし人は、いか でかさるおどろおどろしきことは思ひたつべきぞ。いかな

るさまに、この人々、もてなして言ふにかあらむ」
と、御心 も乱れまさりたまへど、宮も思し嘆きたる気色いとしるし、 ここのありさまも、しかつれなしづくりたらむけはひはおの づから見えぬべきを、かくおはしましたるにつけても、悲し くいみじきことを、上下の人集ひて泣き騒ぐを、と聞きたま へば、 「御供に具して失せたる人やある。なほありけんさ まをたしかに言へ。我をおろかに思ひて背きたまふことはよ もあらじ、となむ思ふ。いかやうなる、たちまちに、言ひ知 らぬ事ありてか、さるわざはしたまはむ。我なむえ信ずまじ き」とのたまへば、いといとほしく、さればよ、とわづらは しくて、 「おのづから聞こしめしけむ、もとより思すさま ならで生ひ出でたまへりし人の、世離れたる御住まひの後は、 いつとなくものをのみ思すめりしかど、たまさかにもかく渡 りおはしますを、待ちきこえさせたまふに、もとよりの御身 の嘆きをさへ慰めたまひつつ、心のどかなるさまにて、時々

も見たてまつらせたまふべきやうに、いつしかとのみ、言に 出でてはのたまはねど、思しわたるめりしを、その御本意か なふべきさまに承ることどもはべりしに、かくてさぶらふ人 どもも、うれしきことに思ひたまへいそぎ、かの筑波山も、 からうじて心ゆきたる気色にて、渡らせたまはんことを営み 思ひたまへしに、心えぬ御消息はべりけるに、この宿直など 仕うまつる者どもも、女房たちらうがはしかなりなど、いま しめ仰せらるることなど申して、ものの心えず荒々しき田舎- 人どもの、あやしきさまにとりなしきこゆることどもはべり しを、その後久しう御消息などもはべらざりしに、心憂き身 なりとのみ、いはけなかりしほどより思ひ知るを、人数にい かで見なさんとのみよろづにあつかひたまふ母君の、なかな かなることの人笑はれになりはてば、いかに思ひ嘆かんな どおもむけてなん、常に嘆きたまひし。その筋よりほかに、 何ごとをかと、思ひたまへ寄るに、たへはべらずなむ。鬼な

どの隠しきこゆとも、いささか残るところもはべるなるもの を」
とて、泣くさまもいみじければ、いかなることにかと紛 れつる御心も失せて、せきあへたまはず。   「我は心に身をもまかせず、顕証なるさまにもてなされ たるありさまなれば、おぼつかなしと思ふをりも、いま近く て、人の心おくまじく、目やすきさまにもてなして、行く末- 長くをと思ひのどめつつ過ぐしつるを、おろかに見なした まひけむこそ、なかなか分くる方ありける、とおぼゆれ。今 はかくだに言はじ、と思へど、また人の聞かばこそあらめ、 宮の御ことよ、いつよりありそめけん。さやうなるにつけて や、いとかたはに人の心をまどはしたまふ宮なれば、常にあ ひ見たてまつらぬ嘆きに身をも失ひたまへる、となむ思ふ。 なほ言へ。我には、さらにな隠しそ」とのたまへば、たしか にこそは聞きたまひてけれ、といといとほしくて、 「いと 心憂きことを聞こしめしけるにこそははべるなれ。右近もさ

ぶらはぬをりははべらぬものを」
とながめやすらひて、 「おのづから聞こしめしけん、この宮の上の御方に、忍びて 渡らせたまへりしを、あさましく思ひかけぬほどに入りおは しましたりしかど、いみじきことを聞こえさせはべりて、出 でさせたまひにき。それに怖ぢたまひて、かのあやしくはべ りし所には渡らせたまへりしなり。その後、音にも聞こえじ、 と思してやみにしを、いかでか聞かせたまひけん、ただ、こ の二月ばかりより、訪れきこえさせたまひし。御文はいとた びたびはべめりしかど、御覧じ入るることもはべらざりき。 いとかたじけなく、なかなかうたてあるやうになどぞ、右近 など聞こえさせしかば、一たび二たびや聞こえさせたまひけ む。それよりほかのことは見たまへず」と聞こえさす。  かうぞ言はむかし、しひて問はむもいとほしくて、つくづ くとうちながめつつ、 「宮をめづらしくあはれと思ひきこえ ても、わが方をさすがにおろかに思はざりけるほどに、い

とあきらむるところなく、はかなげなりし心にて、この水の 近きをたよりにて、思ひよるなりけんかし。わがここにさし 放ち据ゑざらましかば、いみじくうき世に経とも、いかでか 必ず深き谷をも求め出でまし」
と、いみじううき水の契りか なと、この川のうとましう思さるることいと深し。年ごろ、 あはれと思ひそめてし方にて、荒き山路を行き帰りしも、今 は、また、心憂くて、この里の名をだにえ聞くまじき心地し たまふ。  宮の上ののたまひはじめし、人形とつけそめたりしさへゆ ゆしう、ただ、わが過ちに失ひつる人なり、と思ひもてゆく には、母のなほ軽びたるほどにて、後の後見もいとあやしく 事そぎてしなしけるなめり、と心ゆかず思ひつるを、くはし う聞きたまふになむ、 「いかに思ふらむ。さばかりの人の子に ては、いとめでたかりし人を、忍びたることは必ずしもえ知 らで、わがゆかりにいかなることのありけるならむ、とぞ思

ふなるらむかし」
など、よ ろづにいとほしく思す。穢 らひといふことはあるまじ けれど、御供の人目もあれ ば、上りたまはで、御車の 榻を召して、妻戸の前にぞ ゐたまひけるも見苦しけれ ば、いとしげき木の下に、苔を御座にてとばかりゐたまへり。 今はここを来て見むことも心憂かるべしとのみ、見めぐらし たまひて、    われもまたうきふる里を荒れはてばたれやどり木のか   げをしのばむ  阿闍梨、今は律師なりけり。召して、この法事のこと掟 てさせたまふ。念仏僧の数添へなどせさせたまふ。罪いと深 かなるわざと思せば、軽むべきことをぞすべき、七日七日に

経仏供養ずべきよしなど、こまかにのたまひて、いと暗う なりぬるに帰りたまふも、あらましかば今宵帰らましやは、 とのみなん。尼君に消息せさせたまへれど、 「いともい ともゆゆしき身をのみ思ひたまへ沈みて、いとどものも思ひ たまへられずほれはべりてなむ、うつぶし臥してはべる」と 聞こえて出で来ねば、しひても立ち寄りたまはず。道すがら、 とく迎へとりたまはずなりにけること悔しう、水の音の聞こ ゆるかぎりは心のみ騒ぎたまひて、 「骸をだに尋ねず、あさ ましくてもやみぬるかな、いかなるさまにて、いづれの底の うつせにまじりにけむ」など、やる方なく思す。 薫、中将の君を弔問、遺族の後援を約束す かの母君は、京に子産むべきむすめのこと によりつつしみ騒げば、例の家にもえ行か ず、すずろなる旅居のみして、思ひ慰むを りもなきに、またこれもいかならむ、と思へど、たひらか に産みてけり。ゆゆしければえ寄らず、残りの人々の上もお

ぼえずほれまどひて過ぐすに、大将殿より御使忍びてあり。 ものおぼえぬ心地にも、いとうれしくあはれなり。    あさましきことは、まづ聞こえむ、と思ひたまへしを、   心ものどまらず、目もくらき心地して、まいていかなる   闇にかまどはれたまふらんと、そのほどを過ぐしつるに、   はかなくて日ごろも経にけることをなん。世の常なさも、   いとど思ひのどめむ方なくのみはべるを、思ひの外にも   ながらへば、過ぎにしなごりとは、必ずさるべきことに   も尋ねたまへ。 など、こまかに書きたまひて、御使には、かの大蔵大輔をぞ 賜へりける。 「心のどかによろづを思ひつつ、年ごろにさ へなりにけるほど、必ずしも心ざしあるやうには見たまはざ りけむ。されど、今より後、何ごとにつけても、必ず忘れき こえじ。また、さやうにを人知れず思ひおきたまへ。幼き人 どももあなるを、朝廷に仕うまつらむにも、必ず後見思ふべ

くなむ」
など、言葉にものたまへり。  いたくしも忌むまじき穢らひなれば、 「深うも触れはべら ず」など言ひなして、せめて呼び据ゑたり。御返り泣く泣く 書く。    いみじきことに死なれはべらぬ命を心憂く思うたま   へ嘆きはべるに、かかる仰せ言見はべるべかりけるにや、   となん。年ごろは、心細きありさまを見たまへながら、   それは数ならぬ身の怠りに思ひたまへなしつつ、かたじ   けなき御一言を、行く末長く頼みきこえさせはべりしに、   言ふかひなく見たまへはてては、里の契りもいと心憂く   悲しくなん。さまざまにうれしき仰せ言に命延びはべり   て、いましばしながらへはべらば、なほ、頼みきこえさ   せはべるべきにこそ、と思ひたまふるにつけても、目の   前の涙にくれはべりて、え聞こえさせやらずなむ。 など書きたり。御使に、なべての禄などは見苦しきほどなり、

飽かぬ心地もすべければ、 かの君に奉らむと心ざして 持たりけるよき斑犀の帯、 太刀のをかしきなど袋に入 れて、車に乗るほど、 「こ れは昔の人の御心ざしな り」とて、贈らせてけり。  殿に御覧ぜさすれば、 「いとすずろなるわざかな」との たまふ。言葉には、 「みづからあひはべりたうびて、いみ じく泣く泣くよろづのことのたまひて、幼き者どものことま で仰せられたるがいともかしこきに、また数ならぬほどは、 なかなかいと恥づかしくなむ。人に何ゆゑなどは知らせはべ らで、あやしきさまどもをもみな参らせはべりて、さぶらは せん、となむものしはべりつる」と聞こゆ。 「げにことなる ことなきゆかり睦びにぞあるべけれど、帝にも、さばかりの

人のむすめ奉らずやはある。それに、さるべきにて、時めか し思さんをば、人の譏るべきことかは。ただ人、はた、あや しき女、世に旧りにたるなどを持ちゐるたぐひ多かり。かの 守のむすめなりけりと、人の言ひなさんにも、わがもてなし の、それに穢るべくありそめたらばこそあらめ、一人の子を いたづらになして思ふらん親の心に、なほ、このゆかりこそ 面だたしかりけれ、と思ひ知るばかり、用意は必ず見すべき こと」
と思す。  かしこには、常陸守、立ちながら来て、 「をりしもかくて ゐたまへることなむ」と腹立つ。年ごろ、いづくになむおは するなど、ありのままにも知らせざりければ、はかなきさま にておはすらむ、と思ひ言ひけるを、京になど迎へたまひて む後、 「面目ありて」など知らせむ、と思ひけるほどに、か かれば、今は隠さんもあいなくて、ありしさま泣く泣く語る。 大将殿の御文もとり出でて見すれば、よき人かしこくして、

鄙び、ものめでする人にて、おどろき臆して、うち返しうち 返し、 「いとめでたき御幸ひを棄てて亡せたまひにける 人かな。おのれも殿人にて参り仕うまつれども、近く召し使 ひたまふこともなく、いと気高くおはする殿なり。若き者ど ものこと仰せられたるは頼もしきことになん」など、よろこ ぶを見るにも、まして、おはせましかばと思ふに、臥しまろ びて泣かる。守も、今なんうち泣きける。  さるは、おはせし世には、なかなか、かかるたぐひの人し も、尋ねたまふべきにしもあらずかし。わが過ちにて失ひつ るもいとほし、慰めむ、と思すよりなむ、人の譏りねむごろ に尋ねじ、と思しける。 四十九日の法事を営む 匂宮・薫の心々 四十九日のわざなどせさせたまふにも、い かなりけんことにかはと思せば、とてもか くても罪うまじきことなれば、いと忍びて、 かの律師の寺にてなむせさせたまひける。六十僧の布施など、

おほきに掟てられたり。母君も来ゐて、事ども添へたり。宮 よりは、右近がもとに、白銀の壼に黄金入れて賜へり。人見 とがむばかりおほきなるわざはえしたまはず、右近が心ざし にてしたりければ、心知らぬ人は、 「いかでかくなむ」など 言ひける。殿の人ども、睦ましきかぎりあまた賜へり。 「あやしく。音もせざりつる人のはてを、かくあつかはせた まふ、誰ならむ」と、今おどろく人のみ多かるに、常陸守来 て、主がりをるなん、あやしと人々見ける。少将の子産ませ て、いかめしきことせさせむとまどひ、家の内になきものは 少なく、唐土新羅の飾をもしつべきに、限りあれば、いとあ やしかりけり。この御法事の、忍びたるやうに思したれど、 けはひこよなきを見るに、生きたらましかば、わが身を並ぶ べくもあらぬ人の御宿世なりけり、と思ふ。宮の上も誦経し たまひ、七僧の前の事もせさせたまひけり。今なむ、かかる 人持たまへりけりと、帝まで聞こしめして、おろかにもあら

ざりける人を、宮にかしこまりきこえて隠しおきたまへりけ るを、いとほしと思しける。  二人の人の御心の中、旧りず悲しく、あやにくなりし御思 ひのさかりにかき絶えては、いといみじけれど、あだなる御- 心は、慰むやなど試みたまふことも、やうやうありけり。か の殿は、かくとりもちて、何やかやと思して、残りの人をは ぐくませたまひても、なほ、言ふかひなきことを忘れがたく 思す。 薫、小宰相の君と思いをかわす 后の宮の、御軽服のほどはなほかくておは しますに、二の宮なむ式部卿になりたまひ にける。重々しうて、常にしも参りたまは ず。この宮は、さうざうしくものあはれなるままに、一品の 宮の御方を慰めどころにしたまふ。よき人の容貌をも、えま ほに見たまはぬ、残り多かり。大将殿の、からうじていと忍 びて語らひたまふ小宰相の君といふ人の、容貌などもきよげ

なり、心ばせある方の人と思されたり、同じ琴を掻き鳴らす 爪音、撥音も人にはまさり、文を書き、ものうち言ひたるも、 よしあるふしをなむ添へたりける。この宮も、年ごろ、いと いたきものにしたまひて、例の、言ひやぶりたまへど、など か、さしもめづらしげなくはあらむ、と心強くねたきさまな るを、まめ人は、すこし人よりことなり、と思すになんあり ける。かくもの思したるも見知りければ、忍びあまりて聞こ えたり。    「あはれ知る心は人におくれねど数ならぬ身にき   えつつぞふる かへたらば」と、ゆゑある紙に書きたり。ものあはれなる夕- 暮、しめやかなるほどを、いとよく推しはかりて言ひたるも、 にくからず。    「つねなしとここら世を見るうき身だに人の知るまで   嘆きやはする

このよろこび、あはれなりしをりからも、いとどなむ」
など 言ひに立ち寄りたまへり。いと恥づかしげにものものしげに て、なべてかやうになどもならしたまはぬ、人柄もやむごと なきに、いとものはかなき住まひなりかし、局などいひてせ ばくほどなき遣戸口に寄りゐたまへる、かたはらいたくおぼ ゆれど、さすがにあまり卑下してもあらで、いとよきほどに ものなども聞こゆ。 「見し人よりも、これは心にくき気添ひ てもあるかな。などてかく出で立ちけん。さるものにて、我 も置いたらましものを」と思す。人知れぬ筋はかけても見せ たまはず。 中宮の御八講 薫、女一の宮をかいま見る 蓮の花の盛りに、御八講せらる。六条院の 御ため、紫の上などみな思し分けつつ、御- 経仏など供養ぜさせたまひて、いかめしく 尊くなんありける。五巻の日などは、いみじき見物なりけれ ば、こなたかなた、女房につきつつ参りて、もの見る人多か

りけり。  五日といふ朝座にはてて、御堂の飾取りさけ、御しつらひ 改むるに、北の廂も障子ども放ちたりしかば、みな入り立ち てつくろふほど、西の渡殿に姫宮おはしましけり。もの聞き 困じて女房もおのおの局にありつつ、御前はいと人少ななる 夕暮に、大将殿直衣着かへて、今日まかづる僧の中に必ずの たまふべきことあるにより、釣殿の方におはしたるに、みな まかでぬれば、池の方に涼みたまひて、人少ななるに、かく いふ宰相の君など、かりそめに几帳などばかり立てて、うち やすむ上局にしたり。ここにやあらむ、人の衣の音すと思し て、馬道の方の障子の細く開きたるより、やをら見たまへば、 例、さやうの人のゐたるけはひには似ず、はればれしくしつ らひたれば、なかなか、几帳どもの立てちがへたるあはひよ り見通されて、あらはなり。氷を物の蓋に置きて割るとて、 もて騒ぐ人々、大人三人ばかり、童とゐたり。唐衣も汗衫も

着ず、みなうちとけたれば、御前とは見たまはぬに、白き薄- 物の御衣着たまへる人の、手に氷を持ちながら、かくあらそ ふをすこし笑みたまへる御顔、言はむ方なくうつくしげなり。 いと暑さのたへがたき日なれば、こちたき御髪の、苦しう思 さるるにやあらむ、すこしこなたになびかして引かれたるほ ど、たとへんものなし。ここらよき人を見集むれど、似るべ くもあらざりけり、とおぼゆ。御前なる人は、まことに土な どの心地ぞするを、思ひしづめて見れば、黄なる生絹の単衣、 薄色なる裳着たる人の、扇うち使ひたるなど、用意あらむは や、とふと見えて、 「なかなかものあつかひに、いと 苦しげなり。たださながら見たまへかし」とて、笑ひたる まみ愛敬づきたり。声聞くにぞ、この心ざしの人とは知り ぬる。  心づよく割りて、手ごとに持たり。頭にうち置き、胸にさ し当てなど、さまあしうする人もあるべし。こと人は紙に

包みて、御前にもかくてまゐらせたれど、いとうつくしき御- 手をさしやりたまひて、拭はせたまふ。 「いな、持たら じ。雫むつかし」とのたまふ。御声いとほのかに聞くも、限 りなくうれし。 「まだいと小さくおはしまししほどに、我も、 ものの心も知らで見たてまつりし時、めでたの児の御さまや、 と見たてまつりし。その後、たえてこの御けはひをだに聞か ざりつるものを、いかなる神仏のかかるをり見せたまへるな らむ。例の、安からずもの思はせむとするにやあらむ」と、 かつは静心なくてまもり立ちたるほどに、こなたの対の北面 に住みける下臈女房の、この障子は、とみのことにて、開け ながら下りにけるを思ひ出でて、人もこそ見つけて騒がるれ と思ひければ、まどひ入る。この直衣姿を見つくるに、誰な らん、と心騒ぎて、おのがさま見えんことも知らず、簀子よ りただ来に来れば、ふと立ち去りて、誰とも見えじ、すきず きしきやうなり、と思ひて隠れたまひぬ。

 このおもとは、 「いみじきわざかな。御几帳をさへあらは に引きなしてけるよ。右の大殿の君達ならん。うとき人、は た、ここまで来べきにもあらず。ものの聞こえあらば、誰か 障子は開けたりし、と必ず出で来なん。単衣も袴も、生絹な めりと見えつる人の御姿なれば、え人も聞きつけたまはぬな らんかし」と思ひ困じてをり。かの人は、 「やうやう聖にな りし心を、ひとふし違へそめて、さまざまなるもの思ふ人と もなるかな。その昔世を背きなましかば、今は深き山に住み はてて、かく心乱らましやは」など思しつづくるも、安から ず、 「などて、年ごろ、見たてまつらばや、と思ひつらん。 なかなか苦しうかひなかるべきわざにこそ」と思ふ。 薫、女一の宮と女二の宮とを比較して嘆く つとめて、起きたまへる女宮の御容貌いと をかしげなめるは、これより必ずまさるべ きことかは、と見えながら、 「さらに似た まはずこそありけれ。あさましきまであてにかをりえも言は

ざりし御さまかな。かたへは思ひなしか、をりからか」
と思 して、 「いと暑しや。これより薄き御衣奉れ。女は、例な らぬもの着たるこそ、時々につけてをかしけれ」とて、 「あ なたに参りて、大弐に、薄物の単衣の御衣縫ひてまゐれ、と 言へ」とのたまふ。御前なる人は、この御容貌のいみじきさ かりにおはしますを、もてはやしきこえたまふ、とをかしう 思へり。  例の、念誦したまふ。わが御方におはしましなどして、昼 つ方渡りたまへれば、のたまひつる御衣御几帳にうち懸けた り。 「何ぞ、こは奉らぬ。人多く見る時なむ、透きたるもの 着るはばうぞくにおぼゆる。ただ今はあへはべりなん」とて、 手づから着せたてまつりたまふ。御袴も昨日の同じく紅なり。 御髪の多さ、裾などは劣りたまはねど、なほさまざまなるに や、似るべくもあらず。氷召して、人々に割らせたまふ。取 りて一つ奉りなどしたまふ心の中もをかし。絵に描きて恋し

き人見る人はなくやはありける、ましてこれは、慰めむに似 げなからぬ御ほどぞかし、と思へど、昨日かやうにて、我ま じりゐ、心にまかせて見たてまつらましかば、とおぼゆるに、 心にもあらずうち嘆かれぬ。 「一品の宮に、御文は奉りた まふや」と聞こえたまへば、 「内裏にありし時、上の、 さのたまひしかば聞こえしかど、久しうさもあらず」とのた まふ。 「ただ人にならせたまひにたりとて、かれよりも聞 こえさせたまはぬにこそは、心憂かなれ。いま、大宮の御- 前にて、恨みきこえさせたまふ、と啓せん」とのたまふ。 「いかが恨みきこえん。うたて」とのたまへば、 「下- 衆になりにたりとて、思しおとすなめり、と見れば、おどろ かしきこえぬ、とこそは聞こえめ」とのたまふ。 薫、女一の宮を慕って中宮のもとにまいる その日は暮らして、またの朝に大宮に参り たまふ。例の、宮もおはしけり。丁子に深 く染めたる薄物の単衣をこまやかなる直衣

に着たまへる、いとこのましげなり。女の御身なりのめでた かりしにも劣らず、白くきよらにて、なほありしよりは面痩 せたまへる、いと見るかひあり。おぼえたまへり、と見るに も、まづ恋しきを、いとあるまじきこと、としづむるぞ、た だなりしよりは苦しき。絵をいと多く持たせて参りたまへり ける、女房してあなたにまゐらせたまひて、我も渡らせたま ひぬ。  大将も近く参りよりたまひて、御八講の尊くはべりしこと、 いにしへの御こと、すこし聞こえつつ、残りたる絵見たまふ ついでに、 「この里にものしたまふ皇女の、雲の上離れて 思ひ屈したまへるこそ、いとほしう見たまふれ。姫宮の御方 より御消息もはべらぬを、かく品定まりたまへるに思し棄て させたまへるやうに思ひて、心ゆかぬ気色のみはべるを、か やうのもの、時々ものせさせたまはなむ。なにがしがおろし て持てまからん、はた、見るかひもはべらじかし」と聞こえ

たまへば、 「あやしく。などてか棄てきこえたまはむ。内- 裏にては、近かりしにつきて、時々も聞こえ通ひたまふめり しを、所どころになりたまひしをりに、とだえそめたまへる にこそあらめ。いま、そそのかしきこえん。それよりもなど かは」と聞こえたまふ。 「かれよりはいかでかは。もとよ り数まへさせたまはざらむをも、かく親しくてさぶらふべき ゆかりに寄せて、思しめし数まへさせたまはんこそ、うれし くははべるべけれ。まして、さも聞こえ馴れたまひにけむを、 今棄てさせたまはんは、からきことにはべり」と啓したまふ を、すきばみたる気色あるかとは、思しかけざりけり。  立ち出でて、一夜の心ざしの人に逢はん、ありし渡殿も慰 めに見むかし、と思して、御前を歩み渡りて、西ざまにおは するを、御簾の内の人は心ことに用意す。げにいとさまよく、 限りなきもてなしにて、渡殿の方は、左の大殿の君たちなど ゐて、もの言ふけはひすれば、妻戸の前にゐたまひて、 「お

ほかたには参りながら、この御方の見参に入ること難くはべ れば、いとおぼえなく翁びはてにたる心地しはべるを、今よ りは、と思ひおこしはべりてなん。ありつかず、と若き人ど もぞ思ふらんかし」
と、甥の君達の方を見やりたまふ。 「今よりならはせたまふこそ、げに若くならせたまふならめ」 など、はかなきことを言ふ人々のけはひも、あやしうみやび かにをかしき御方のありさまにぞある。その事となけれど、 世の中の物語などしつつ、しめやかに、例よりはゐたまへり。 中宮、浮舟入水の真相を聞き驚愕する 姫宮は、あなたに渡らせたまひにけり。大- 宮、 「大将のそなたに参りつるは」と問ひ たまふ。御供に参りたる大納言の君、 「小- 宰相の君に、もののたまはんとにこそははべめりつれ」と聞 こゆれば、 「まめ人の、さすがに人に心とどめて物語する こそ、心地おくれたらむ人は苦しけれ。心のほども見ゆらん かし。小宰相などはいとうしろやすし」とのたまひて、御は

らからなれど、この君をばなほ恥づかしく、人も用意なくて 見えざらむかし、と思いたり。 「人よりは心寄せたま ひて、局などに立ち寄りたまふべし。物語こまやかにしたま ひて、夜更けて出でなどしたまふをりをりもはべれど、例の 目馴れたる筋にははべらぬにや。宮をこそ、いと情なくおは しますと思ひて、御答へをだに聞こえずはべるめれ。かたじ けなきこと」と言ひて笑へば、宮も笑はせたまひて、 「い と見苦しき御さまを、思ひ知るこそをかしけれ。いかでかか る御癖やめたてまつらん。恥づかしや、この人々も」とのた まふ。   「いとあやしきことをこそ聞きはべりしか。この大- 将の亡くなしたまひてし人は、宮の御二条の北の方の御おと うとなりけり。異腹なるべし、常陸前守なにがしが妻は、叔- 母とも母とも言ひはべるなるは、いかなるにか。その女君に、 宮こそ、いと忍びておはしましけれ。大将殿や聞きつけたま

ひたりけむ、にはかに迎へたまはんとて、守りめ添へなど、 ことごとしくしたまひけるほどに、宮も、いと忍びておはし ましながら、え入らせたまはず、あやしきさまに御馬ながら 立たせたまひつつぞ、帰らせたまひける。女も宮を思ひきこ えさせけるにや、にはかに消え失せにけるを、身投げたるな めりとてこそ、乳母などやうの人どもは、泣きまどひはべり けれ」
と聞こゆ。宮も、いとあさまし、と思して、 「誰か さることは言ふとよ。いといとほしく心憂きことかな。さば かりめづらかならむことは、おのづから聞こえありぬべきを。 大将もさやうには言はで、世の中のはかなくいみじきこと、 かく宇治の宮の族の命短かりけることをこそ、いみじう悲し と思ひてのたまひしか」とのたまふ。 「いさや、下衆 はたしかならぬことをも言ひはべるものをと思ひはべれど、 かしこにはべりける下童の、ただこのごろ、宰相が里に出で まうできて、たしかなるやうにこそ言ひはべりけれ。かくあ

やしうて失せたまへること、人に聞かせじ、おどろおどろし くおぞきやうなりとて、いみじく隠しけることどもとや。さ てくはしくは聞かせたてまつらぬにやありけん」
と聞こゆれ ば、 「さらに、かかること、また、まねぶな、と言はせよ。 かかる筋に、御身をももてそこなひ、人に軽く心づきなきも のに思はれたまふべきなめり」といみじう思いたり。 薫の女一の宮思慕と、わが半生の回顧 その後、姫宮の御方より、二の宮に御消息 ありけり。御手などのいみじううつくしげ なるを見るにもいとうれしく、かくてこそ、 とく見るべかりけれ、と思す。あまたをかしき絵ども多く、 大宮も奉らせたまへり。大将殿、うちまさりてをかしきども 集めて、まゐらせたまふ。芹川の大将のとほ君の、女一の宮 思ひかけたる秋の夕暮に、思ひわびて出でて行きたる絵をか しう描きたるを、いとよく思ひ寄せらるかし。かばかり思し なびく人のあらましかば、と思ふ身ぞ口惜しき。

   荻の葉に露ふきむすぶ秋風もゆふべぞわきて身にはし   みける と書きても添へまほしく思せど、さやうなるつゆばかりの気- 色にても漏りたらば、いとわづらはしげなる世なれば、はか なきことも、えほのめかし出づまじ。かくよろづに何やかや と、ものを思ひのはては、 「昔の人ものしたまはましかば、 いかにもいかにも外ざまに心を分けましや。時の帝の御むす めを賜ふとも、えたてまつらざらまし。また、さ思ふ人あり と聞こしめしながらは、かかる事もなからましを、なほ心憂 く、わが心乱りたまひける橋姫かな」と思ひあまりては、ま た宮の上にとりかかりて、恋しうもつらくも、わりなきこと ぞ、をこがましきまで悔しき。これに思ひわびてさしつぎに は、あさましくて亡せにし人の、いと心幼く、とどこほると ころなかりける軽々しさをば思ひながら、さすがにいみじと、 ものを思ひ入りけんほど、わが気色例ならずと、心の鬼に嘆

き沈みてゐたりけんありさまを聞きたまひしも、思ひ出でら れつつ、重りかなる方ならで、ただ心やすくらうたき語らひ 人にてあらせむ、と思ひしには、いとらうたかりし人を。思 ひもていけば、宮をも思ひきこえじ、女をもうしと思はじ、 ただわがありさまの世づかぬ怠りぞなど、ながめ入りたまふ 時々多かり。 匂宮、侍従を呼んで語らう 侍従中宮に出仕 心のどかにさまよくおはする人だに、かか る筋には身も苦しきことおのづからまじる を、宮は、まして、慰めかねたまひつつ、 かの形見に、飽かぬ悲しさをものたまひ出づべき人さへなき を、対の御方ばかりこそは、 「あはれ」などのたまへど、深 くも見馴れたまはざりけるうちつけの睦びなれば、いと深く しもいかでかはあらむ。また、思すままに、恋しや、いみじ やなどのたまはんにはかたはらいたければ、かしこにありし 侍従をぞ、例の、迎へさせたまひける。

 皆人どもは行き散りて、乳母とこの人二人なん、とりわき て思したりしも忘れがたくて、侍従はよそ人なれど、なほ語 らひてあり経るに、世づかぬ川の音も、うれしき瀬もやある、 と頼みしほどこそ慰めけれ、心憂くいみじくもの恐ろしくの みおぼえて、京になん、あやしき所に、このごろ来てゐたり ける。  尋ね出でたまひて、「かくてさぶらへ」とのたまへど、 御心はさるものにて、人々の言はむことも、さる筋のことま じりぬるあたりは聞きにくきこともあらむ、と思へば、承 け引ききこえず、后の宮に参らむとなんおもむけたれば、 「いとよかなり。さて人知れず思しつかはん」とのたまは せけり。心細くよるべなきも慰むやとて、知るたより求めて 参りぬ。きたなげなくてよろしき下臈なり、とゆるして、人 も譏らず。大将殿も常に参りたまふを、見るたびごとに、も ののみあはれなり。いとやむごとなきものの姫君のみ多く参

り集ひたる宮、と人も言ふを、やうやう目とどめて見れど、 なほ見たてまつりし人に似たるはなかりけり、と思ひありく。 宮の君、女一の宮に出仕 匂宮、懸想する この春亡せたまひぬる式部卿宮の御むすめ を、継母の北の方ことにあひ思はで、兄の 馬頭にて人柄もことなることなき心かけた るを、いとほしうなども思ひたらで、さるべきさまになん契 る、と聞こしめすたよりありて、 「いとほしう。父宮のい みじくかしづきたまひける女君を、いたづらなるやうにもて なさんこと」などのたまはせければ、いと心細くのみ思ひ嘆 きたまふありさまにて、 「なつかしう、かく尋ねのたまはす るを」など御兄の侍従も言ひて、このごろ迎へとらせたまひ てけり。姫宮の御具にて、いとこよなからぬ御ほどの人なれ ば、やむごとなく心ことにてさぶらひたまふ。限りあれば、 宮の君などうち言ひて、裳ばかりひき懸けたまふぞ、いとあ はれなりける。

 兵部卿宮、この君ばかりや、恋しき人に思ひよそへつべき さましたらむ、父親王は兄弟ぞかしなど、例の御心は、人を 恋ひたまふにつけても、人ゆかしき御癖やまで、いつしかと 御心かけたまひてけり。大将、 「もどかしきまでもあるわざ かな。昨日今日といふばかり、春宮にやなど思し、我にも気- 色ばませたまひきかし。かくはかなき世の衰へを見るには、 水の底に身を沈めても、もどかしからぬわざにこそ」など思 ひつつ、人よりは心寄せきこえたまへり。  この院におはしますをば、内裏よりも広くおもしろく住み よきものにして、常にしもさぶらはぬ人どもも、みなうちと け住みつつ、はるばると多かる対ども、廊、渡殿に満ちたり。 左大臣殿、昔の御けはひにも劣らず、すべて限りもなく営み 仕うまつりたまふ。いかめしうなりにたる御族なれば、なか なかいにしへよりもいまめかしきことはまさりてさへなむあ りける。この宮、例の御心ならば、月ごろのほどに、いかな

るすき事どもをし出でたまはまし、こよなくしづまりたまひ て、人目にはすこし生ひなほりしたまふかなと見ゆるを、こ のごろぞ、また、宮の君に本性あらはれてかかづらひ歩きた まひける。 六条院の秋 薫、女房らと戯れる 涼しくなりぬとて、宮、内裏に参らせたま ひなんとすれば、 「秋の盛り、紅葉のころ を見ざらんこそ」など、若き人々は口惜し がりて、みな参り集ひたるころなり。水に馴れ月をめでて御- 遊び絶えず、常よりもいまめかしければ、この宮ぞ、かかる 筋はいとこよなくもてはやしたまふ。朝夕目馴れても、なほ 今見む初花のさましたまへるに、大将の君は、いとさしも入 り立ちなどしたまはぬほどにて、恥づかしう心ゆるびなきも のにみな思ひたり。例の、二ところ参りたまひて、御前にお はするほどに、かの侍従は、ものよりのぞきたてまつるに、 「いづ方にもいづ方にもよりて、めでたき御宿世見えたるさ

まにて、世にぞおはせましかし。あさましくはかなく心憂か りける御心かな」
など、人には、そのわたりのことかけて知 り顔にも言はぬことなれば、心ひとつに飽かず胸いたく思ふ。 宮は、内裏の御物語などこまやかに聞こえさせたまへば、い ま一ところは立ち出でたまふ。見つけられたてまつらじ、し ばし、御はてをも過ぐさず 心浅しと見えたてまつらじ、 と思へば隠れぬ。  東の渡殿に、開きあひたる 戸口に人々あまたゐて、 物語など忍びやかにする所 におはして、 「なにがし をぞ、女房は睦ましく思す べきや。女だにかく心やす くはあらじかし。さすがに

さるべからんこと、教へきこえぬべくもあり。やうやう見知 りたまふべかめれば、いとなんうれしき」
とのたまへば、い と答へにくくのみ思ふ中に、弁のおもととて馴れたる大人、 「そも睦ましく思ひきこゆべきゆゑなき人の、恥ぢきこえは べらぬにや。ものはさこそは、なかなかはべるめれ。必ずそ のゆゑ尋ねて、うちとけ御覧ぜらるるにしもはべらねど、か ばかりおもなくつくりそめてける身に負はざらんも、かたは らいたくてなむ」と聞こゆれば、 「恥づべきゆゑあらじ、 と思ひさだめたまひてけるこそ口惜しけれ」などのたまひ つつ見れば、唐衣は脱ぎすべし押しやり、うちとけて手習し けるなるべし、硯の蓋に据ゑて、心もとなき花の末々手折り て、もてあそびけりと見ゆ。かたへは几帳のあるにすべり隠 れ、あるはうち背き、押し開けたる戸の方に、紛らはしつつ ゐたる、頭つきどももをかし、と見わたしたまひて、硯ひき 寄せて、

   「をみなへし乱るる野辺にまじるともつゆのあだ名を   われにかけめや 心やすくは思さで」と、ただこの障子にうしろしたる人に見 せたまへば、うちみじろきなどもせず、のどやかに、いとと く、    花といヘば名こそあだなれをみなヘしなべて   の露に乱れやはする と書きたる手、ただかたそばなれどよしづきて、おほかため やすければ、誰ならむ、と見たまふ。今参うのぼりける道に、 ふたげられてとどこほりゐたるなるべし、と見ゆ。弁のおも とは、 「いとけざやかなる翁言、憎くはべり」とて、 「旅寝してなほこころみよをみなヘしさかりの色にうつ   りうつらず さて後さだめきこえさせん」と言ヘば、    宿かさばひと夜はねなんおほかたの花にうつらぬ心な

  りとも
とあれば、 「何か、辱づかしめさせたまふ。おほかた の野辺のさかしらをこそ聞こえさすれ」と言ふ。はかなきこ とをただすこしのたまふも、人は残り聞かまほしくのみ思ひ きこえたり。 「心なし。道あけはべりなんよ。わきても、 かの御もの恥のゆゑ、必ずありぬべきをりにぞあめる」とて、 立ち出でたまヘば、おしなべてかく残りなからむ、と思ひや りたまふこそ心憂けれ、と思ヘる人もあり。 薫、女房らへの感想につけて中の君を偲ぶ 東の高欄におしかかりて、夕影になるま まに、花のひもとく御前の草むらを見わた したまふ。もののみあはれなるに、 「中 に就いて腸断ゆるは秋の天」といふことを、いと忍びやか に誦じつつゐたまヘり。ありつる衣の音なひしるきけはひし て、母屋の御障子より通りて、あなたに入るなり。宮の歩み おはして、 「これよりあなたに参りつるは誰そ」と問ひた

まヘば、 「かの御方の中将の君」と聞こゆなり。なほ、あ やしのわざや、誰にかと、かりそめにもうち思ふ人に、やが てかくゆかしげなく聞こゆる名ざしよ、といとほしく、この 宮には、みな目馴れてのみおぼえたてまつるべかめるも口惜 し。 「おりたちてあながちなる御もてなしに、女は、さもこ そ負けたてまつらめ。わが、さも、口惜しう、この御ゆかり には、ねたく心憂くのみあるかな。いかで、このわたりにも、 めづらしからむ人の、例の心入れて騒ぎたまはんを語らひと りて、わが思ひしやうに、やすからずとだにも思はせたてま つらん。まことに心ばせあらむ人は、わが方にぞ寄るべきや。 されど難いものかな、人の心は、と思ふにつけて、対の御方 の、かの御ありさまをば、ふさはしからぬものに思ひきこえ て、いと便なき睦びになりゆく、おほかたのおぼえをば苦し と思ひながら、なほさし放ちがたきものに思し知りたるぞ、 あり難くあはれなりける。さやうなる心ばせある人、ここら

の中にあらむや。入りたちて深く見ねば知らぬぞかし。寝ざ めがちにつれづれなるを、すこしはすきもならはばや」
など 思ふに、今はなほつきなし。 薫、女一の宮を想いつつわが宿世を思う 例の、西の渡殿を、ありしにならひて、わ ざとおはしたるもあやし。姫宮、夜はあな たに渡らせたまひければ、人々月見るとて、 この渡殿にうちとけて物語するほどなりけり。箏の琴いとな つかしう弾きすさむ爪音をかしう聞こゆ。思ひかけぬに寄り おはして、 「など、かくねたまし顔に掻き鳴らしたまふ」 とのたまふに、みなおどろかるべかめれど、すこしあげたる 簾うちおろしなどもせず、起き上りて、 「似るべき兄やはは べるべき」と答ふる声、中将のおもととか言ひつるなりけり。 「まろこそ御母方のをぢなれ」と、はかなきことをのたま ひて、 「例の、あなたにおはしますべかめりな。何わざを かこの御里住みのほどにせさせたまふ」など、あぢきなく問

ひたまふ。 「いづくにても、何ごとをかは。ただ、 かやうにてこそは過ぐさせたまふめれ」と言ふに、をかしの 御身のほどや、と思ふに、すずろなる嘆きのうち忘れてしつ るも、あやしと思ひ寄る人もこそ、と紛らはしに、さし出で たる和琴を、ただ、さながら掻き鳴らしたまふ。律の調べは、 あやしくをりにあふと聞こゆる声なれば、聞きにくくもあら ねど、弾きはてたまはぬを、なかなかなりと心入れたる人は 消えかヘり思ふ。 「わが母宮も劣りたまふべき人かは。后腹 と聞こゆばかりの隔てこそあれ、帝々の思しかしづきたるさ ま、異事ならざりけるを。なほ、この御あたりはいとことな りけるこそあやしけれ。明石の浦は心にくかりける所かな」 など思ひつづくることどもに、わが宿世はいとやむごとなし かし、まして、並べて持ちたてまつらば、と思ふぞいと難 きや。 薫、宮の君を訪い、世間の無常を思う

宮の君は、この西の対にぞ御方したりける。 若き人々のけはひあまたして、月めであヘ り。いで、あはれ、これもまた同じ人ぞか し、と思ひ出できこえて、親王の、昔心寄せたまひしものを、 と言ひなして、そなたヘおはしぬ。童のをかしき宿直姿にて、 二三人出でて歩きなどしけり。見つけて入るさまどももかか やかし。これぞ世の常と思ふ。南面の隅の間に寄りてうち声 づくりたまへば、すこし大人びたる人出で来たり。 「人知 れぬ心寄せなど聞こえさせはべれば、なかなか、皆人聞こえ させふるしつらむことを、うひうひしきさまにて、まねぶや うになりはべり。まめやかになむ、言より外を求められはべ る」とのたまへば、君にも言ひ伝ヘず、さかしだちて、 「いと思ほしかけざりし御ありさまにつけても、故宮の思ひ きこえさせたまヘりしことなど、思ひたまヘ出でられてなむ。 かくのみ、をりをり聞こえさせたまふなる御後言をも、よろ

こびきこえたまふめる」
と言ふ。並々の人めきて心地なのさ まや、とものうければ、 「もとより思し棄つまじき筋より も、今は、まして、さるべきことにつけても、思ほし尋ねん なんうれしかるべき。うとうとしう、人づてなどにてもてな させたまはば、えこそ」とのたまふに、げに、と思ひ騒ぎて、 君をひき揺がすめれば、 「松も昔の、とのみながめらる るにも、もとより、などのたまふ筋は、まめやかに頼もしう こそは」と、人づてともなく言ひなしたまヘる声、いと若や かに愛敬づき、やさしきところ添ひたり。ただ、なべてのか かる住み処の人と思はば、いとをかしかるべきを、ただ今は、 いかで、かばかりも、人に声聞かすべきものとならひたまひ けん、となまうしろめたし。容貌もいとなまめかしからむか しと、見まほしきけはひのしたるを、この人ぞ、また、例の、 かの御心乱るべきつまなめると、をかしうも、あり難の世や とも思ひゐたまヘり。 薫、宇治のゆかりを回想しわが人生を詠嘆

「これこそは、限りなき人のかしづき生ほ したてたまヘる姫君、また、かばかりぞ多 くはあるべき。あやしかりけることは、さ る聖の御あたりに、山のふところより出で来たる人々の、か たほなるはなかりけるこそ。この、はかなしや、軽々しやな ど思ひなす人も、かやうのうち見る気色は、いみじうこそを かしかりしか」と、何ごとにつけても、ただかの一つゆかり をぞ思ひ出でたまひける。あやしうつらかりける契りどもを、 つくづくと思ひつづけながめたまふ夕暮、蜻蛉のものはかな げに飛びちがふを、    「ありと見て手にはとられず見ればまたゆくヘもしら   ず消えしかげろふ あるかなきかの」と、例の、独りごちたまふとかや。 At Writing Practice 横川の僧都の母尼、初瀬詣での帰途発病す

そのころ横川に、なにがし僧都とかいひて、 いと尊き人住みけり。八十あまりの母、五- 十ばかりの妹ありけり。古き願ありて、初- 瀬に詣でたりけり。睦ましうやむごとなく思ふ弟子の阿闍梨 を添ヘて、仏経供養ずること行ひけり。事ども多くして帰 る道に、奈良坂といふ山越えけるほどより、この母の尼君心- 地あしうしければ、かくては、いかでか残りの道をもおはし 着かむ、ともて騒ぎて、宇治のわたりに知りたりける人の家 ありけるにとどめて、今日ばかり休めたてまつるに、なほい たうわづらヘば、横川に消息したり。山籠りの本意深く、今- 年は出でじ、と思ひけれど、限りのさまなる親の道の空にて 亡くやならむ、と驚きて、急ぎものしたまヘり。惜しむべく

もあらぬ人のさまを、 みづからも、弟子の中 にも験あるして加持し 騒ぐを、家主聞きて、 「御嶽精進しけるを、 いたう老いたまヘる人 の重く悩みたまふは、いかが」とうしろめたげに思ひて言ひ ければ、さも言ふべきこと、といとほしう思ひて、いとせば くむつかしうもあれば、やうやう率てたてまつるべきに、中- 神塞がりて、例住みたまふ所は忌むべかりけるを、故朱雀院 の御領にて宇治院といひし所、このわたりならむ、と思ひ出 でて、院守、僧都知りたまヘりければ、一二日宿らん、と言 ひにやりたまヘりければ、 「初瀬になん、昨日みな詣りにけ る」とて、いとあやしき宿守の翁を呼びて率て来たり。 「おはしまさばはや。いたづらなる院の寝殿にこそはべるめ

れ。物詣の人は常にぞ宿りたまふ」
と言ヘば、 「いとよか なり。おほやけ所なれど、人もなく心やすきを」とて見せに やりたまふ。この翁、例も、かく宿る人を見ならひたりけれ ば、おろそかなるしつらひなどして来たり。 僧都、宇治院におもむき怪しき物を発見 まづ、僧都渡りたまふ。いといたく荒れて、 恐ろしげなる所かな、と見たまひて、 「大- 徳たち、経読め」などのたまふ。この初瀬 に添ひたりし阿闍梨と、同じやうなる、何ごとのあるにか、 つきづきしきほどの下臈法師に灯点させて、人も寄らぬ背後 の方に行きたり。森かと見ゆる木の下を、うとましげのわた りや、と見入れたるに、白き物のひろごりたるぞ見ゆる。 「かれは何ぞ」と、立ちとまりて、灯を明くなして見れば、 もののゐたる姿なり。 「狐の変化したる。憎し。見あらは さむ」とて、一人はいますこし歩みよる。いま一人は、 「あ な用な。よからぬ物ならむ」と言ひて、さやうの物退くべき

印を作りつつ、さすがになほまもる。頭の髪あらば太りぬべ き心地するに、この灯点したる大徳、憚りもなく、奥なきさ まにて近く寄りてそのさまを見れば、髪は長く艶々として、 大きなる木の根のいと荒々しきに寄りゐて、いみじう泣く。 「めづらしきことにもはべるかな。僧都の御坊に御覧ぜさ せたてまつらばや」と言ヘば、 「げにあやしきことなり」と て、一人は参うでて、かかることなむ、と申す。 「狐の人 に変化するとは昔より聞けど、まだ見ぬものなり」とて、わ ざと下りておはす。  かの渡りたまはんとすることによりて、下衆ども、みな はかばかしきは、御廚子所などあるべかしきことどもを、か かるわたりには急ぐものなりければ、ゐしづまりなどしたる に、ただ四五人してここなる物を見るに、変ることもなし。 あやしうて、時の移るまで見る。とく夜も明けはてなん、人 か何ぞと見あらはさむと、心にさるべき真言を読み印を作り

てこころみるに、しるくや思ふらん、 「これは人なり。さ らに非常のけしからぬ物にあらず。寄りて問ヘ。亡くなりた る人にはあらぬにこそあめれ。もし死にたりける人を棄てた りけるが、蘇りたるか」と言ふ。 「何のさる人をか、この 院の中に棄てはべらむ。たとひ、まことに人なりとも、狐木- 霊やうの物の、あざむきて取りもて来たるにこそはべらめ。 いと不便にもはべりけるかな。穢らひあるべき所にこそはべ めれ」と言ひて、ありつる宿守の男を呼ぶ。山彦の答ふるも いと恐ろし。  あやしのさまに額おし上げて出で来たり。 「ここには若 き女などや住みたまふ。かかることなんある」とて見すれ ば、 「狐の仕うまつるなり。この木のもとになん、時々あ やしきわざしはべる。一昨年の秋も、ここにはべる人の子の、 二つばかりにはべしをとりて参うで来たりしかども、見驚 かずはべりき」 「さてその児は死にやしにし」と言ヘば、

「生きてはべり。狐は、さこそは人はおびやかせど、事 にもあらぬ奴」と言ふさま、いと馴れたり。かの夜深きまゐ り物の所に心を寄せたるなるべし。僧都、 「さらば、さや うの物のしたるわざか、なほよく見よ」とて、このもの怖ぢ せぬ法師を寄せたれば、 「鬼か、神か、狐か、木霊か。か ばかりの天の下の験者のおはしますには、え隠れたてまつら じ。名のりたまヘ。名のりたまヘ」と、衣をとりて引けば、 顔をひき入れていよいよ泣く。 「いで、あなさがなの木霊 の鬼や。まさに隠れなんや」と言ひつつ、顔を見んとするに、 昔ありけむ目も鼻もなかりけん女鬼にやあらんとむくつけき を、頼もしういかきさまを人に見せむと思ひて、衣をひき脱 がせんとすれば、うつぶして声立つばかり泣く。何にまれ、 かくあやしきこと、なべて世にあらじとて、見はてん、と思 ふに、 「雨いたく降りぬべし。かくておいたらば、死には てはべりぬべし。垣の下にこそ出ださめ」と言ふ。僧都、

「まことの人のかたちなり。その命絶えぬを見る見る棄てん こといみじきことなり。池におよぐ魚、山になく鹿をだに、 人にとらヘられて死なむとするを見つつ助けざらむは、いと 悲しかるべし。人の命久しかるまじきものなれど、残りの命 一二日をも惜しまずはあるべからず。鬼にも神にも領ぜられ、 人に追はれ、人にはかりごたれても、これ横さまの死をすべ きものにこそはあんめれ、仏の必ず救ひたまふべき際なり。 なほこころみに、しばし湯を飲ませなどして助けこころみむ。 つひに死なば、言ふ限りにあらず」とのたまひて、この大徳 して抱き入れさせたまふを、弟子ども、 「たいだいしきわざ かな。いたうわづらひたまふ人の御あたりに、よからぬもの をとり入れて、穢らひ必ず出で来なんとす」と、もどくもあ り。また、 「物の変化にもあれ、目に見す見す、生ける人を、 かかる雨にうちうしなはせんはいみじきことなれば」など、 心々に言ふ。下衆などは、いと騒がしく、ものをうたて言ひ

なすものなれば、人騒がしからぬ隠れの方になん臥せたり ける。 妹尼、女を預かり介抱するが、意識不明 御車寄せて下りたまふほど、いたう苦しが りたまふとてののしる。すこし静まりて、 僧都、 「ありつる人はいかがなりぬる」と 問ひたまふ。 「なよなよとしてものも言はず、息もしはべ らず。何か、物にけどられにける人にこそ」と言ふを、妹 の尼君聞きたまひて、 「何ごとぞ」と問ふ。 「しかじかの 事をなむ。六十にあまる年齢、めづらかなるものを見たまヘ つる」とのたまふ。うち聞くままに、 「おのが寺にて見し 夢ありき。いかやうなる人ぞ。まづそのさま見ん」と泣きて のたまふ。 「ただこの東の遣戸になんはべる。はや御覧ぜ よ」と言ヘば、急ぎ行きて見るに、人も寄りつかでぞ棄てお きたりける。いと若ううつくしげなる女の、白き綾の衣一- 襲、紅の袴ぞ着たる、香はいみじうかうばしくて、あてな

るけはひ限りなし。 「ただ、わが恋ひ悲しむむすめのかヘ りおはしたるなめり」とて、泣く泣く御達を出だして、抱き 入れさす。いかなりつらむともありさま見ぬ人は、恐ろしが らで抱き入れつ。生けるやうにもあらで、さすがに目をほの かに見あけたるに、 「もののたまヘや。いかなる人か、か くてはものしたまへる」と言へど、ものおぼえぬさまなり。 湯とりて、手づからすくひ入れなどするに、ただ弱りに絶え 入るやうなりければ、 「なかなかいみじきわざかな」とて、 「この人亡くなりぬべし。加持したまヘ」と、験者の阿闍梨 に言ふ。 「さればこそ。あやしき御ものあつかひなり」と は言ヘど、神などの御ために経読みつつ祈る。  僧都もさしのぞきて、 「いかにぞ。何のしわざぞと、よく 調じて問へ」とのたまヘど、いと弱げに消えもていくやうな れば、 「え生きはべらじ」 「すずろなる穢らひに籠りて、わづ らふべきこと」 「さすがにいとやむごとなき人にこそはべる

めれ。死にはつとも、ただにやは棄てさせたまはん。見苦し きわざかな」
と言ひあヘり。 「あなかま。人に聞かすな。 わづらはしき事もぞある」など口固めつつ、尼君は、親のわ づらひたまふよりも、この人を生けはてて見まほしう惜しみ て、うちつけに添ひゐたり。知らぬ人なれど、みめのこよな うをかしければ、いたづらになさじと、見るかぎりあつかひ 騒ぎけり。さすがに、時々目見あけなどしつつ、涙の尽きせ ず流るるを、 「あな心憂や。いみじくかなしと思ふ人のか はりに、仏の導きたまヘると思ひきこゆるを。かひなくなり たまはば、なかなかなることをや思はん。さるべき契りにて こそかく見たてまつるらめ。なほいささかもののたまヘ」と 言ひつづくれど、からうじて、 「生き出でたりとも、あやし き不用の人なり。人に見せで、夜、この川に落し入れたまひ てよ」と、息の下に言ふ。 「まれまれもののたまふをうれ しと思ふに、あないみじや。いかなればかくはのたまふぞ。

いかにして、さる所におはしつるぞ」
と問へども、ものも 言はずなりぬ。身にもし疵などやあらん、とて見れど、ここ はと見ゆるところなくうつくしければ、あさましくかなしく、 まことに、人の心まどはさむとて出で来たる仮の物にや、と 疑ふ。 下人来たり 八の宮の姫君葬送のことを語る 二日ばかり籠りゐて、二人の人を祈り加持 する声絶えず、あやしきことを思ひ騒ぐ。 そのわたりの下衆などの僧都に仕まつりけ る、かくておはしますなりとて、とぶらひ出で来るも、物語 などして言ふを聞けば、 「故八の宮の御むすめ、右大将殿 の通ひたまひし、ことに悩みたまふこともなくてにはかに隠 れたまへりとて、騒ぎはべる。その御葬送の雑事ども仕うま つりはべるとて、昨日はえ参りはべらざりし」と言ふ。さや うの人の魂を、鬼のとりもて来たるにや、と思ふにも、かつ 見る見る、あるものともおぼえず危く恐ろし、と思す。人々

「昨夜見やられし火は、しかことごとしきけしきも見えざり しを」と言ふ。 「ことさらことそぎて、いかめしうもはべ らざりし」と言ふ。穢らひたる人とて、立ちながら追ひ返し つ。 「大将殿は、宮の御むすめもちたまへりしは亡せたまひ て年ごろになりぬるものを、誰を言ふにかあらん。姫宮をお きたてまつりたまひて、よに異心おはせじ」など言ふ。 母尼回復し僧都ら女を連れて小野へ帰る 尼君、よろしくなりたまひぬ。方もあきぬ れば、かくうたてある所に久しうおはせん も便なし、とて帰る。 「この人は、なほい と弱げなり。道のほどもいかがものしたまはん。いと心苦し きこと」と言ひあヘり。車二つして、老人乗りたまヘるには、 仕うまつる尼二人、次のには、この人を臥せて、かたはらに いま一人乗り添ひて、道すがら行きもやらず、車とめて湯ま ゐりなどしたまふ。比叡、坂本に、小野といふ所にぞ住みた まひける。そこにおはし着くほど、いと遠し。 「中宿を設く

べかりける」
など言ひて、夜更けておはし着きぬ。僧都は親 をあつかひ、むすめの尼君は、この知らぬ人をはぐくみて、 みな抱きおろしつつ休む。老の病のいつともなきが、苦しと 思ひたまふべし、遠路のなごりこそしばしわづらひたまひけ れ、やうやうよろしうなりたまひにければ、僧都は上りたま ひぬ。 女依然として意識不明、妹尼たち憂慮する かかる人なん率て来たるなど、法師のあた りにはよからぬことなれば、見ざりし人に はまねばず。尼君も、みな口固めさせつつ、 もし尋ね来る人もやある、と思ふも静心なし。いかで、さる 田舎人の住むあたりに、かかる人落ちあぶれけん、物詣など したりける人の、心地などわづらひけんを、継母などやうの 人のたばかりて置かせたるにやなどぞ、思ひ寄りける。 「川 に流してよ」と言ひし一言よりほかに、ものもさらにのたま はねば、いとおぼつかなく思ひて、いつしか人にもなしてみ

んと思ふに、つくづくとして起き上る世もなく、いとあやし うのみものしたまへば、つひに生くまじき人にや、と思ひな がら、うち棄てむもいとほしういみじ。夢語もし出でて、は じめより祈らせし阿闍梨にも、忍びやかに芥子焼くことせさ せたまふ。 僧都の加持により、物の怪現われ、去る うちはヘ、かくあつかふほどに、四五月も 過ぎぬ。いとわびしうかひなきことを思ひ わびて、僧都の御もとに、    なほ下りたまヘ。この人助けたまヘ。さすがに今日   までもあるは、死ぬまじかりける人を、憑きしみ領じた   るものの去らぬにこそあめれ。あが仏、京に出でたまは   ばこそあらめ、ここまではあヘなん。 など、いみじきことを書きつづけて奉れたまヘれば、 「い とあやしきことかな。かくまでもありける人の命を、やがて うち棄ててましかば。さるべき契りありてこそは、我しも見

つけけめ、こころみに助けはてむかし。それにとまらずは、 業尽きにけりと思はん」
とて下りたまヘり。  よろこび拝みて、月ごろのありさまを語る。 「かく久し うわづらふ人は、むつかしきことおのづからあるべきを、い ささか衰ヘず、いときよげに、ねぢけたるところなくのみも のしたまひて、限りと見えながらも、かくて生きたるわざな りけり」など、おほなおほな泣く泣くのたまヘば、 「見つ けしより、めづらかなる人の御ありさまかな。いで」とて、 さしのぞきて見たまひて、 「げにいと警策なりける人の御- 容面かな。功徳の報にこそかかる容貌にも生ひ出でたまひけ め。いかなる違ひめにてかくそこなはれたまひけん。もし、 さにや、と聞きあはせらるることもなしや」と問ひたまふ。 「さらに聞こゆることもなし。何か、初瀬の観音の賜ヘる 人なり」とのたまヘば、 「何か、それ、縁に従ひてこそ導 きたまはめ。種なきことはいかでか」など、のたまひあやし

がりて、修法はじめたり。  朝廷の召にだに従はず、深く籠りたる山を出でたまひて、 すずろにかかる人のためになむ行ひ騒ぎたまふと、ものの聞 こえあらんいと聞きにくかるべし、と思し、弟子どもも言ひ て、人に聞かせじ、と隠す。僧都、 「いであなかま、大徳た ち。我無慚の法師にて、忌むことの中に、破る戒は多からめ ど、女の筋につけて、まだ譏りとらず、あやまつことなし。 齢六十にあまりて、今さらに人のもどき負はむは、さるべ きにこそはあらめ」とのたまヘば、 「よからぬ人の、もの を便なく言ひなしはべる時には、仏法の瑕となりはべること なり」と、心よからず思ひて言ふ。 「この修法のほどに験 見えずは」と、いみじき事どもを誓ひたまひて、夜一夜加持 したまヘる暁に人に駆り移して、何やうのもののかく人をま どはしたるぞと、ありさまばかり言はせまほしうて、弟子の 阿闍梨とりどりに加持したまふ。月ごろ、いささかも現れざ

りつる物の怪調ぜられて、 「おのれは、ここまで参うで 来て、かく調ぜられたてまつるべき身にもあらず。昔は、行 ひせし法師の、いささかなる世に恨みをとどめて漂ひ歩きし ほどに、よき女のあまた住みたまひし所に住みつきて、かた ヘは失ひてしに、この人は、心と世を恨みたまひて、我いか で死なん、といふことを、夜昼のたまひしに頼りをえて、い と暗き夜、独りものしたまひしをとりてしなり。されど、 観音とざまかうざまにはぐくみたまひければ、この僧都に 負けたてまつりぬ。今はまかりなん」とののしる。 「かく 言ふは何ぞ」と問ヘば、憑きたる人ものはかなきけにや、は かばかしうも言はず。 浮舟意識を回復し、失踪前後の事を回想す 正身の心地はさはやかに、いささかものお ぼえて見まはしたれば、一人見し人の顔は なくて、みな老法師ゆがみおとろヘたる者 どものみ多かれば、知らぬ国に来にける心地していと悲し。

ありし世のこと思ひ出 づれど、住みけむ所、 誰といひし人とだにた しかにはかばかしうも おぼえず。ただ、我は 限りとて身を投げし人 ぞかし、いづくに来にたるにか、とせめて思ひ出づれば、 「いといみじ、とものを思ひ嘆きて、皆人の寝たりしに、妻- 戸を放ちて出でたりしに、風ははげしう、川波も荒う聞こえ しを、独りもの恐ろしかりしかば、来し方行く末もおぼえで、 簀子の端に足をさし下しながら、行くべき方もまどはれて、 帰り入らむも中空にて、心強く、この世に亡せなん、と思ひ たちしを、をこがましうて人に見つけられむよりは鬼も何も 食ひうしなひてよ、と言ひつつつくづくとゐたりしを、いと きよげなる男の寄り来て、いざたまヘ、おのがもとヘ、と言

ひて、抱く心地のせしを、宮と聞こえし人のしたまふとおぼ えしほどより心地まどひにけるなめり。知らぬ所に据ゑおき て、この男は消え失せぬ、と見しを、つひに、かく、本意の 事もせずなりぬる、と思ひつつ、いみじう泣く、と思ひしほ どに、その後のことは、絶えていかにもいかにもおぼえず。 人の言ふを聞けば、多くの日ごろも経にけり。いかにうきさ まを、知らぬ人にあつかはれ見えつらん」
と恥づかしう、つ ひにかくて生きかヘりぬるか、と思ふも口惜しければ、いみ じうおぼえて、なかなか、沈みたまヘりつる日ごろは、うつ し心もなきさまにて、ものいささかまゐるをりもありつるを、 つゆばかりの湯をだにまゐらず。 浮舟快方に向かう 出家を望み戒を受く 「いかなれば、かく頼もしげなくのみは おはするぞ。うちはヘぬるみなどしたまヘ ることはさめたまひて、さはやかに見えた まヘば、うれしう思ひきこゆるを」と、泣く泣く、たゆむを

りなく添ひゐてあつかひきこえたまふ。ある人々も、あたら しき御さま容貌を見れば、心を尽くしてぞ惜しみまもりける。 心には、なほいかで死なん、とぞ思ひわたりたまヘど、さば かりにて生きとまりたる人の命なれば、いと執念くて、やう やう頭もたげたまヘば、ものまゐりなどしたまふにぞ、なか なか面痩せもていく。いつしかとうれしう思ひきこゆるに、 「尼になしたまひてよ。さてのみなん生くやうもあるべ き」とのたまヘば、 「いとほしげなる御さまを、いかでか、 さはなしたてまつらむ」とて、ただ頂ばかりを削ぎ、五戒ば かりを受けさせたてまつる。心もとなけれど、もとよりおれ おれしき人の心にて、えさかしく強ひてものたまはず。僧都 は、 「今は、かばかりにて、いたはりやめたてまつりたまヘ」 と言ひおきて、上りたまひぬ。 妹尼浮舟を慈しみ、事情を明かさぬを恨む                

夢のやうなる人を見たてまつるかな、と尼- 君はよろこびて、せめて起こし据ゑつつ、 御髪手づから梳りたまふ。さばかりあさま しう引き結ひてうちやりたりつれど、いたうも乱れず、とき はてたれば艶々とけうらなり。一年たらぬつくも髪多かる所 にて、目もあやに、いみじき天人の天降れるを見たらむやう に思ふも、危き心地すれど、 「などか、いと心憂く、かば かりいみじく思ひきこゆるに、御心を隔てては見えたまふ。 いづくに誰と聞こえし人の、さる所にはいかでおはせしぞ」 と、せめて問ふを、いと恥づかし、と思ひて、 「あやしか りしほどにみな忘れたるにやあらむ、ありけんさまなどもさ らにおぼえはべらず。ただ、ほのかに思ひ出づることとては、 ただ、いかでこの世にあらじと思ひつつ、夕暮ごとに端近く てながめしほどに、前近く大きなる木のありし下より人の出 で来て、率て行く心地なむせし。それよりほかのことは、我

ながら、誰ともえ思ひ出でられはべらず」
と、いとらうたげ に言ひなして、 「世の中になほありけり、といかで人に知 られじ。聞きつくる人もあらば、いといみじくこそ」とて泣 いたまふ。あまり問ふをば、苦しと思したれば、え問はず。 かぐや姫を見つけたりけん竹取の翁よりもめづらしき心地す るに、いかなるもののひまに消え失せんとすらむと、静心な くぞ思しける。 浮舟、小野の僧庵に不幸な半生を回想す この主も、あてなる人なりけり。むすめの 尼君は、上達部の北の方にてありけるが、 その人亡くなりたまひて後、むすめただ一- 人をいみじくかしづきて、よき君達を婿にして思ひあつかひ けるを、そのむすめの君の亡くなりにければ、心憂し、いみ じ、と思ひ入りて、かたちをも変ヘ、かかる山里には住みは じめたるなりけり。世とともに恋ひわたる人の形見にも、思 ひよそヘつべからむ人をだに見出でてしがなと、つれづれも

心細きままに思ひ嘆きけるを、かく、おぼえぬ人の、容貌け はひもまさりざまなるをえたれば、現の事ともおぼえず、あ やしき心地しながらうれしと思ふ。ねびにたれど、いときよ げによしありて、ありさまもあてはかなり。  昔の山里よりは水の音もなごやかなり。造りざまゆゑある 所の、木立おもしろく、前栽などもをかしく、ゆゑを尽くし たり。秋になりゆけば、空のけしきもあはれなるを、門田の 稲刈るとて、所につけ たるものまねびしつつ、 若き女どもは歌うたひ 興じあへり。引板ひき 鳴らす音もをかしく、 見し東国路のことなど も思ひ出でられて。  かの夕霧の御息所の

おはせし山里よりはいますこし入りて、山に片かけたる家な れば、松蔭しげく、風の音もいと心細きに、つれづれに行ひ をのみしつつ、いつともなくしめやかなり。  尼君ぞ、月など明き夜は、琴など弾きたまふ。少将の尼君 などいふ人は、琵琶弾きなどしつつ遊ぶ。 「かかるわざは したまふや。つれづれなるに」など言ふ。昔も、あやしかり ける身にて、心のどかにさやうの事すべきほどもなかりしか ば、いささかをかしきさまならずも生ひ出でにけるかなと、 かくさだすぎにける人の心をやるめるをりをりにつけては思 ひ出づ。なほあさましくものはかなかりけると、我ながら口- 惜しければ、手習に、    身を投げし涙の川のはやき瀬をしがらみかけてたれ   かとどめし 思ひの外に心憂ければ、行く末もうしろめたく、うとましき まで思ひやらる。

 月の明き夜な夜な、老人どもは艶に歌よみ、いにしヘ思ひ 出でつつさまざまの物語などするに、答ふべき方もなければ、 つくづくとうちながめて、    われかくてうき世の中にめぐるとも誰かは知らむ月   のみやこに 今は限りと思ひはてしほどは、恋しき人多かりしかど、こと 人々はさしも思ひ出でられず、ただ、親いかにまどひたまひ けん、乳母、よろづに、いかで人並々になさむと思ひ焦られ しを、いかにあヘなき心地しけん、いづこにあらむ、我世に あるものとはいかでか知らむ、同じ心なる人もなかりしまま に、よろづ隔つることなく語らひ見馴れたりし右近などもを りをりは思ひ出でらる。  若き人の、かかる山里に、今は、と思ひたえ籠るは難きわ ざなりければ、ただいたく年経にける尼七八人ぞ、常の人に てはありける。それらがむすめ、孫やうの者ども、京に宮仕

するも、異ざまにてあるも、時々ぞ来通ひける。かやうの人 につけて、見しわたりに行き通ひ、おのづから世にありけり と、誰にも誰にも聞かれたてまつらむこと、いみじく恥づか しかるべし。いかなるさまにてさすらヘけんなど、思ひやり 世づかずあやしかるべきを思ヘば、かかる人々にかけても見 えず。ただ、侍従、こもきとて、尼君のわが人にしたる二人 をのみぞ、この御方に言ひわきたる、みめも心ざまも、昔見 し都鳥に似たることなし。何ごとにつけても、世の中にあら ぬところはこれにやあらんとぞ、かつは思ひなされける。か くのみ、人に知られじ、と忍びたまヘば、まことにわづらは しかるべきゆゑある人にもものしたまふらんとて、くはしき こと、ある人々にも知らせず。 妹尼の婿中将訪れる 浮舟を見て、心動く 尼君の昔の婿の君、今は中将にてものした まひける、弟の禅師の君、僧都の御もとに ものしたまひける、山籠りしたるをとぶら

ひに、はらからの君たち常に上りけり。横川に通ふ道のたよ りによせて、中将、ここにおはしたり。前駆うち追ひて、あ てやかなる男の入り来るを見出だして、忍びやかにておはせ し人の御さまけはひぞさやかに思ひ出でらるる。これもい と心細き住まひのつれづれなれど、住みつきたる人々は、も のきよげにをかしうしなして、垣ほに植ゑたる撫子もおもし ろく、女郎花桔梗など咲きはじめたるに、いろいろの狩衣姿 の男どもの若きあまたして、君も同じ装束にて、南面に呼び 据ゑたれば、うちながめてゐたり。年二十七八のほどにて、 ねびととのひ、心地なからぬさまもてつけたり。  尼君、障子口に几帳立てて対面したまふ。まづ、うち泣き て、 「年ごろのつもりには、過ぎにし方いとどけ遠くのみ なんはべるを、山里の光になほ待ちきこえさすることの、う ち忘れずやみはべらぬを、かつはあやしく思ひたまふる」と のたまヘば、 「心の中あはれに、過ぎにし方の事ども、思

ひたまヘられぬをりなきを、あながちに住み離れ顔なる御あ りさまに、怠りつつなん。山籠りもうらやましう、常に出で 立ちはべるを、おなじくはなど、慕ひまとはさるる人々に、 妨げらるるやうにはべりてなん。今日は、みなはぶき棄てて ものしはべりつる」
とのたまふ。 「山籠りの御うらやみは、 なかなか今様だちたる御ものまねびになむ。昔を思し忘れぬ 御心ばヘも、世になびかせたまはざりけると、おろかならず 思ひたまヘらるるをり多く」など言ふ。  人々に水飯などやうのもの食はせ、君にも蓮の実などやう のもの出だしたれば、馴れにしあたりにて、さやうの事もつ つみなき心地して、むら雨の降り出づるにとどめられて、物- 語しめやかにしたまふ。 「言ふかひなくなりにし人よりも、 この君の御心ばへなどのいと思ふやうなりしを、よそのもの に思ひなしたるなん、いと悲しき。など忘れ形見をだにとど めたまはずなりにけん」と、恋ひ偲ぶ心なりければ、たまさ

かにかくものしたまヘるにつけても、めづらしくあはれにお ぼゆべかめる問はず語りもし出でつべし。  姫君は、我は我、と思ひ出づる方多くて、ながめ出だした まヘるさまいとうつくし。白き単衣の、いと情なくあざや ぎたるに、袴も檜皮色にならひたるにや、光も見えず黒きを 着せたてまつりたれば、かかることども、見しには変りてあ やしうもあるかな、と思ひつつ、こはごはしういららぎたる ものども着たまヘるしも、いとをかしき姿なり。御前なる人- 人、 「故姫君のおはしまいたる心地のみしはべるに、中将殿 をさヘ見たてまつれば、いとあはれにこそ。同じくは、昔の さまにておはしまさせばや。いとよき御あはひならむかし」 と言ひあヘるを、 「あないみじや。世にありて、いかにもい かにも人に見えんこそ。それにつけてぞ昔のこと思ひ出でら るべき。さやうの筋は、思ひ絶えて忘れなん」と思ふ。  尼君、入りたまヘる間に、客人、雨のけしきを見わづらひ

て、少将といひし人の声を聞き知りて、呼び寄せたまヘり。 「昔見し人々は、みなここにものせらるらんや、と思ひな がらも、かう参り来ることも難くなりにたるを、心浅きにや 誰も誰も見なしたまふらん」などのたまふ。仕うまつり馴れ にし人にて、あはれなりし昔のことどもも思ひ出でたるつい でに、 「かの廊のつま入りつるほど、風の騒がしかりつる 紛れに、簾の隙より、なべてのさまにはあるまじかりつる人 の、うち垂れ髪の見えつるは、世を背きたまヘるあたりに、 誰ぞとなん見おどろかれつる」とのたまふ。姫君の立ち出で たまヘりつる後手を見たまヘりけるなめり、と思ひて、 「ま してこまかに見せたらば、心とまりたまひなんかし。昔人は いとこよなう劣りたまヘりしをだに、まだ忘れがたくしたま ふめるを」と、心ひとつに思ひて、 「過ぎにし御こと を忘れがたく、慰めかねたまふめりしほどに、おぼえぬ人を えたてまつりたまひて、明け暮れの見ものに思ひきこえたま

ふめるを、うちとけたまへる御ありさまを、いかで御覧じつ らん」
と言ふ。かかることこそはありけれ、とをかしくて、 何人ならむ、げにいとをかしかりつと、ほのかなりつるを、 なかなか思ひ出づ。こまかに問へど、そのままにも言はず、 「おのづから聞こしめしてん」とのみ言へば、うちつ けに問ひ尋ねむもさまあしき心地して、 「雨もやみぬ。日 も暮れぬべし」と言ふにそそのかされて、出でたまふ。  前近き女郎花を折りて、 「何にほふらん」と口ずさびて、 独りごち立てり。 「人のもの言ひを、さすがに思しとがむる こそ」など、古代の人どもは、ものめでをしあへり。 「い ときよげに、あらまほしくもねびまさりたまひにけるかな。 同じくは、昔のやうにても見たてまつらばや」とて、 「藤中- 納言の御あたりには、絶えず通ひたまふやうなれど、心もと どめたまはず、親の殿がちになんものしたまふ、とこそ言ふ なれ」と、尼君ものたまひて、 「心憂く。ものをのみ思し

隔てたるなむいとつらき。今は、なほ、さるべきなめり、と 思しなして、はればれしくもてなしたまへ。この五六年、 時の間も忘れず、恋しくかなしと思ひつる人の上も、かく見 たてまつりて後よりは、こよなく思ひ忘れにてはべる。思ひ きこえたまふべき人々世におはすとも、今は世になきものに こそ、やうやう思しなりぬらめ。よろづのこと、さしあたり たるやうには、えしもあらぬわざになむ」
と言ふにつけて も、いとど涙ぐみて、 「隔てきこゆる心もはべらねど、あ やしくて生き返りけるほどに、よろづのこと夢のやうにたど られて、あらぬ世に生まれたらん人はかかる心地やすらん、 とおぼえはべれば、今は、知るべき人世にあらんとも思ひ出 でず、ひたみちにこそ睦ましく思ひきこゆれ」とのたまふさ まも、げに何心なくうつくしく、うち笑みてぞまもりゐたま ヘる。 中将、横川で弟の禅師に浮舟のことを聞く

中将は、山におはし着きて、僧都もめづら しがりて、世の中の物語したまふ。その夜 はとまりて、声尊き人々に経など読ませて、 夜一夜遊びたまふ。禅師の君、こまかなる物語などするつい でに、 「小野に立ち寄りて、ものあはれにもありしかな。 世を棄てたれど、なほさばかりの心ばせある人は、難うこ そ」などのたまふついでに、 「風の吹きあげたりつる隙よ り、髪いと長く、をかしげなる人こそ見えつれ。あらはなり とや思ひつらん、立ちてあなたに入りつる後手なべての人と は見えざりつ。さやうの所に、よき女はおきたるまじきもの にこそあめれ。明け暮れ見るものは法師なり。おのづから目- 馴れておぼゆらん。不便なることぞかし」とのたまふ。禅師 の君、 「この春、初瀬に詣でて、あやしくて見出でたる人と なむ聞きはべりし」とて、見ぬことなればこまかには言はず。 「あはれなりける事かな。いかなる人にかあらむ。世の中

をうしとてぞ、さる所には隠れゐけむかし。昔物語の心地も するかな」
とのたまふ。 翌日小野に立寄り浮舟に贈歌 妹尼返歌す またの日帰りたまふにも、 「過ぎがたく なむ」とておはしたり。さるべき心づかひ したりければ、昔思ひ出でたる御まかなひ の少将の尼なども、袖口さま異なれどもをかし。いとどいや 目に、尼君はものしたまふ。物語のついでに、 「忍びたる さまにものしたまふらんは、誰にか」と問ひたまふ。わづら はしけれど、ほのかにも見つけたまひてけるを、隠し顔なら むもあやしとて、 「忘れわびはべりて、いとど罪深うのみ おぼえはべりつる慰めに、この月ごろ見たまふる人になむ。 いかなるにか、いともの思ひしげきさまにて、世にありと人 に知られんことを、苦しげに思ひてものせらるれば、かかる 谷の底には誰かは尋ね聞こえん、と思ひつつはべるを、いか でかは聞きあらはさせたまヘらん」と答ふ。 「うちつけ心

ありて参り来むにだに、山深き道のかごとは聞こえつべし。 まして思しよそふらん方につけては、ことごとに隔てたまふ まじきことにこそは。いかなる筋に世を恨みたまふ人にか。 慰めきこえばや」
など、ゆかしげにのたまふ。  出でたまふとて、畳紙に、    あだし野の風になびくなをみなヘしわれしめ結はん   道とほくとも と書きて、少将の尼して入れたり。尼君も見たまひて、 「この御返り書かせたまヘ。いと心にくきけつきたまヘる人 なれば、うしろめたくもあらじ」とそそのかせば、 「いと あやしき手をば。いかでか」とて、さらに聞きたまはねば、 「はしたなきことなり」とて、尼君、 「聞こえさせつるや うに、世づかず、人に似ぬ人にてなむ。   うつし植ゑて思ひみだれぬをみなヘしうき世をそむく草   の庵に」

とあり。こたみはさもありぬべし、と思ひゆるして帰りぬ。 中将三たび訪れる 妹尼応対する 文などわざとやらんは、さすがにうひうひ しう、ほのかに見しさまは忘れず、もの思 ふらん筋何ごとと知らねどあはれなれば、 八月十余日のほどに、小鷹狩のついでにおはしたり。例の、 尼呼び出でて、 「一目見しより、静心なくてなむ」とのた まヘり。答ヘたまふべくもあらねば、尼君、 「待乳の山の、 となん見たまふる」と言ひ出だしたまふ。対面したまヘるに も、 「心苦しきさまにてものしたまふと聞きはべりし人の 御上なん、残りゆかしくはべる。何ごとも心にかなはぬ心地 のみしはべれば、山住みもしはべらまほしき心ありながら、 ゆるいたまふまじき人々に、思ひ障りてなむ過ぐしはべる。 世に心地よげなる人の上は、かく屈したる人の心からにや、 ふさはしからずなん。もの思ひたまふらん人に、思ふことを 聞こえばや」など、いと心とどめたるさまに語らひたまふ。

「心地よげならぬ御願ひは、聞こえかはしたまはんに、つ きなからぬさまになむ見えはべれど、例の人にてあらじと、 いとうたたあるまで世を恨みたまふめれば、残り少なき齢の 人だに、今はと背きはべる時は、いともの心細くおぼえはべ りしものを、世をこめたるさかりにては、つひにいかが、と なん見たまヘはべる」と、親がりて言ふ。  入りても、 「情なし。なほ、いささかにても聞こえたま ヘ。かかる御住まひは、すずろなることも、あはれ知るこそ 世の常のことなれ」など、こしらヘても言ヘど、 「人にも の聞こゆらん方も知らず、何ごとも言ふかひなくのみこそ」 と、いとつれなくて臥したまヘり。客人は、 「いづら。あ な心憂。秋を契れるは、すかしたまふにこそありけれ」など、 恨みつつ、    松虫のこゑをたづねて来つれどもまた荻原のつゆに   まどひぬ

「あないとほし。これをだに」と責むれば、さやうに世づ いたらむこと言ひ出でんもいと心憂く、また言ひそめては、 かやうのをりをりに責められむも、むつかしうおぼゆれば、 答ヘをだにしたまはねば、あまり言ふかひなく思ひあヘり。 尼君、はやうは、いまめきたる人にぞありけるなごりなる べし、    「秋の野のつゆわけきたる狩衣むぐらしげれるやどに   かこつな となん、わづらはしがりきこえたまふめる」と言ふを、内に も、なほ、かく、心より外に世にありと知られはじむるをい と苦しと思す心の中をば知らで、男君をもあかず思ひ出でつ つ恋ひわたる人々なれば、 「かく、はかなきついでにも、 うち語らひきこえたまヘらむに、心より外に、世にうしろめ たくは見えたまはぬものを。世の常なる筋に思しかけずとも、 情なからぬほどに、御答ヘばかりは聞こえたまヘかし」など、

ひき動かしつべく言ふ。  さすがに、かかる古代の心どもにはありつかず、いまめき つつ、腰折れ歌好ましげに、若やぐ気色どもは、いとうしろ めたうおぼゆ。限りなくうき身なりけり、と見はててし命さ ヘ、あさましう長くて、いかなるさまにさすらふべきならむ、 ひたぶるに亡きものと人に見聞き棄てられてもやみなばや、 と思ひ臥したまヘるに、中将は、おほかたもの思はしきこと のあるにや、いといたううち嘆きつつ、忍びやかに笛を吹き 鳴らして、 「鹿の鳴く音に」など独りごつけはひ、まこと に心地なくはあるま じ。 「過ぎにし方 の思ひ出でらるるに も、なかなか心づく しに、今はじめてあ はれと思すべき人、

はた、難げなれば、見えぬ山路にも、え思ひなすまじうな ん」
と、恨めしげにて出でたまひなむとするに、尼君、 「な ど、あたら夜を御覧じさしつる」とて、ゐざり出でたまヘり。 「何か。をちなる里も、こころみはべりぬれば」と言ひす さみて、 「いたうすきがましからんも、さすがに便なし。い とほのかに見えしさまの、目とまりしばかり、つれづれなる 心慰めに思ひ出でつるを。あまりもて離れ、奥深なるけはひ も所のさまにあはずすさまじ」と思ヘば、帰りなむとするを、 笛の音さヘ飽かずいとどおぼえて、    ふかき夜の月をあはれと見ぬ人や山の端ちかきやど   にとまらぬ と、なまかたはなることを、 「かくなん聞こえたまふ」と言 ふに、心ときめきして、    山の端に入るまで月をながめ見んねやの板間もしる   しありやと

など言ふに、この大尼君、笛の音をほのかに聞きつけたりけ れば、さすがにめでて出で来たり。 母尼和琴を得意げに弾き、一座興ざめる ここかしこうちしはぶき、あさましきわな なき声にて、なかなか昔のことなどもかけ て言はず。誰とも思ひわかぬなるべし。 「いで、その琴の琴弾きたまヘ。横笛は、月にはいとをか しきものぞかし。いづら、くそたち、琴とりてまゐれ」と言 ふに、それななり、と推しはかりに聞けど、いかなる所に、 かかる人、いかで籠りゐたらむ、定めなき世ぞ、これにつけ てあはれなる。盤渉調をいとをかしう吹きて、 「いづら。 さらば」とのたまふ。むすめ尼君、これもよきほどのすき者 にて、 「昔聞きはべりしよりも、こよなくおぼえはべるは、 山風をのみ聞き馴れはべりにける耳からにや」とて、 「い でや、これはひがことになりてはべらむ」と言ひながら弾 く。今様は、をさをさなべての人の今は好まずなりゆくもの

なれば、なかなかめづらしくあはれに聞こゆ。松風もいとよ くもてはやす。吹きあはせたる笛の音に、月もかよひて澄め る心地すれば、いよいよめでられて、宵まどひもせず起きゐ たり。   「嫗は、昔、あづま琴をこそは、事もなく弾きはべりし かど、今の世には、変りにたるにやあらむ、この僧都の、聞 きにくし、念仏よりほかのあだわざなせそと、はしたなめら れしかば、何かは、とて弾きはべらぬなり。さるは、いとよ く鳴る琴もはべり」と言ひつづけて、いと弾かまほしと思ひ たれば、いと忍びやかにうち笑ひて、 「いとあやしきこと をも制しきこえたまひける僧都かな。極楽といふなる所に は、菩薩などもみなかかることをして、天人なども舞ひ遊ぶ こそ尊かなれ。行ひ紛れ、罪うべきことかは。今宵聞きはべ らばや」とすかせば、いとよし、と思ひて、 「いで、主殿 のくそ、あづまとりて」と言ふにも、咳は絶えず。人々は、

見苦しと思ヘど、僧都をさヘ、恨めしげに愁ヘて言ひ聞かす れば、いとほしくてまかせたり。とり寄せて、ただ今の笛の 音をもたづねず、ただおのが心をやりて、あづまの調べを爪 さはやかに調ぶ。みな異ものは声やめつるを、これにのみめ でたる、と思ひて、 「たけふ、ちちりちちり、たりたんな」 など、掻き返しはやりかに弾きたる、言葉ども、わりなく古 めきたり。 「いとをかしう、今の世に聞こえぬ言葉こそは 弾きたまひけれ」とほむれば、耳ほのぼのしく、かたはらな る人に問ひ聞きて、 「今様の若き人は、かやうなることを ぞ好まれざりける。ここに月ごろものしたまふめる姫君、 容貌はいときよらにものしたまふめれど、もはら、かかるあ だわざなどしたまはず、埋れてなんものしたまふめる」と、 われ賢にうちあざ笑ひて語るを、尼君などはかたはらいたし と思す。これに事みなさめて帰りたまふほども、山おろし吹 きて、聞こえ来る笛の音いとをかしう聞こえて、起き明かし

たる。 中将、妹尼と歌を贈答 浮舟経を習い読む つとめて、 「昨夜は、かたがた心乱れは べりしかば、急ぎまかではべりし。   忘られぬむかしのことも笛竹のつらき   ふしにも音ぞ泣かれける なほ、すこし思し知るばかり教へなさせたまへ。忍ばれぬべ くは、すきずきしきまでも、何かは」とあるを、いとどわび たるは、涙とどめがたげなる気色にて、書きたまふ。    「笛の音にむかしのこともしのばれてかヘりしほども   袖ぞぬれにし あやしう、もの思ひ知らぬにや、とまで見はべるありさまは、 老人の問はず語りに聞こしめしけむかし」とあり。めづらし からぬも見どころなき心地して、うち置かれけんかし。  荻の葉に劣らぬほどほどに訪れわたる、いとむつかしうも あるかな、人の心はあながちなるものなりけり、と見知りに

しをりをりも、やうやう思ひ出づるままに、 「なほかかる 筋のこと、人にも思ひ放たすべきさまにとくなしたまひて よ」とて、経習ひて読みたまふ。心の中にも念じたまヘり。 かく、よろづにつけて世の中を思ひ棄つれば、若き人とてを かしやかなることもことになく、むすぼほれたる本性なめり、 と思ふ。容貌の見るかひありうつくしきに、よろづの咎見ゆ るして、明け暮れの見ものにしたり。すこしうち笑ひたまふ をりは、めづらしくめでたきものに思ヘり。 妹尼初瀬にお礼参り 浮舟小人数で居残る 九月になりて、この尼君、初瀬に詣づ。年 ごろいと心細き身に、恋しき人の上も思ひ やまれざりしを、かくあらぬ人ともおぼえ たまはぬ慰めをえたれば、観音の御験うれしとて、返申だち て詣でたまふなりけり。 「いざたまヘ。人やは知らむとす る。同じ仏なれど、さやうの所に行ひたるなむ験ありてよき 例多かる」と言ひて、そそのかしたつれど、昔、母君乳母

などの、かやうに言ひ知らせつつ、たびたび詣でさせしを、 かひなきにこそあめれ、命さヘ心にかなはず、たぐひなきい みじき目を見るは、といと心憂き中にも、知らぬ人に具して、 さる道の歩きをしたらんよ、とそら恐ろしくおぼゆ。心ごは きさまには言ひもなさで、 「心地のいとあしうのみはべれ ば、さやうならん道のほどにもいかがなど、つつましうな む」とのたまふ。もの怖ぢは、さもしたまふべき人ぞかし、 と思ひて、しひてもいざなはず。    はかなくて世にふる川のうき瀬にはたづねもゆかじ   二もとの杉 と手習にまじりたるを、尼君見つけて、 「二本は、またも あひきこえん、と思ひたまふ人あるべし」と、戯れ言を言ひ あてたるに、胸つぶれて面赤めたまヘるも、いと愛敬づきう つくしげなり。    ふる川の杉のもとだち知らねども過ぎにし人によそ

  ヘてぞ見る
ことなることなき答ヘを口とく言ふ。忍びて、といヘど、皆 人慕ひつつ、ここには人少なにておはせんを心苦しがりて、 心ばせある少将の尼、左衛門とてある大人しき人、童ばかり ぞとどめたりける。  みな出で立ちぬるをながめ出でて、あさましきことを思ひ ながらも、今はいかがはせむと、頼もし人に思ふ人一人もの したまはぬは、心細くもあるかなといとつれづれなるに、中- 将の御文あり。 「御覧ぜよ」と言ヘど、聞きも入れた まはず。いとど人も見えず、つれづれと来し方行く先を思ひ 屈じたまふ。 「苦 しきまでも ながめさせ たまふかな。

御碁を打たせたまヘ」
と言ふ。 「いとあやしうこそはあ りしか」とはのたまヘど、打たむと思したれば、盤取りにや りて、我はと思ひて先せさせたてまつりたるに、いとこよな ければ、また手なほして打つ。 「尼上とう帰らせたま はなん。この御碁見せたてまつらむ。かの御碁ぞいと強かり し。僧都の君、はやうよりいみじう好ませたまひて、けしう はあらずと思したりしを、いと碁聖大徳になりて、さし出で てこそ打たざらめ、御碁には負けじかし、と聞こえたまひし に、つひに僧都なん、二つ負けたまひし。碁聖が碁にはまさ らせたまふべきなめり。あないみじ」と興ずれば、さだすぎ たる尼額の見つかぬに、もの好みするに、むつかしきことも しそめてけるかな、と思ひて、心地あしとて臥したまひぬ。 「時々はればれしうもてなしておはしませ。あたら御- 身を。いみじう沈みてもてなさせたまふこそ口惜しう、玉に 瑕あらん心地しはべれ」と言ふ。夕暮の風の音もあはれなる

に、思ひ出づること多くて、    心には秋のゆふべをわかねどもながむる袖につゆぞ   みだるる 中将来訪 浮舟、母尼の傍に夜を過ごす 月さし出でてをかしきほどに、昼文ありつ る中将おはしたり。あなうたて、こはなぞ、 とおぼえたまヘば、奥深く入りたまふを、 「さもあまりにもおはしますかな。御心ざしのほども、 あはれまさるをりにこそはべるめれ。ほのかにも、聞こえた まはんことも聞かせたまヘ。しみつかんことのやうに思しめ したるこそ」など言ふに、いとうしろめたくおぼゆ。おはせ ぬよしを言ヘど、昼の使の、一ところなど問ひ聞きたるなる べし、いと言多く恨みて、 「御声も聞きはべらじ。ただ、 け近くて聞こえんことを、聞きにくしとも思しことわれ」と、 よろづに言ひわびて、 「いと心憂く。所につけてこそ、も ののあはれもまされ。あまりかかるは」などあはめつつ、

   「山里の秋の夜ふかきあはれをももの思ふ人は思ひこ   そ知れ おのづから御心も通ひぬべきを」などあれば、 「尼君お はせで、紛らはしきこゆべき人もはべらず、いと世づかぬや うならむ」と責むれば、    うきものと思ひも知らですぐす身をもの思ふ人と人   は知りけり わざと言ふともなきを、聞きて伝ヘきこゆれば、いとあはれ と思ひて、 「なほ、ただ、いささか出でたまヘ、と聞こえ 動かせ」と、この人々をわりなきまで恨みたまふ。 「あ やしきまで、つれなくぞ見えたまふや」とて、入りて見れば、 例は、かりそめにもさしのぞきたまはぬ老人の御方に入りた まひにけり。あさましう思ひて、かくなん、と聞こゆれば、 「かかる所にながめたまふらん心の中のあはれに、おほか たのありさまなども情なかるまじき人の、いとあまり思ひ知

らぬ人よりもけにもてなしたまふめるこそ。それももの懲り したまへるか。なほ、いかなるさまに世を恨みて、いつまで おはすべき人ぞ」
などありさま問ひて、いとゆかしげにのみ 思いたれど、こまかなることは、いかでかは言ひ聞かせん。 ただ、 「知りきこえたまふべき人の、年ごろはうとう としきやうにて過ぐしたまひしを、初瀬に詣であひたまひて、 尋ねきこえたまへる」とぞ言ふ。                                姫君は、いとむつかしとのみ聞く老人のあたりにうつぶし 臥して、寝も寝られず。宵まどひは、えもいはずおどろおど ろしきいびきしつつ、前にも、うちすがひたる尼ども二人臥 して、劣らじといびきあはせたり。いと恐ろしう、今宵この 人々にや食はれなん、と思ふも、惜しからぬ身なれど、例の 心弱さは、一つ橋危がりて帰り来たりけん者のやうに、わび しくおぼゆ。こもき、供に率ておはしつれど、色めきて、こ のめづらしき男の艶だちゐたまへる方に帰り往にけり。今や

来る、今や来る、と待ちゐたまへれど、いとはかなき頼もし 人なりや。                                            中将、言ひわづらひて帰りにければ、 「いと情けなく、 埋れてもおはしますかな。あたら御容貌を」など譏りて、み な一所に寝ぬ。  夜半ばかりにやなりぬらん、と思ふほどに、尼君咳おぼ ほれて起きにたり。灯影に、頭つきはいと白きに、黒きもの をかづきて、この君の臥したまヘるをあやしがりて、鼬とか いふなるものがさるわざする、額に手を当てて、 「あやし。 これは誰ぞ」と、執念げなる声にて見おこせたる、さらに、 ただ今食ひてむとする、とぞおぼゆる。鬼のとりもて来けん ほどは、ものおぼえざりければ、なかなか心やすし、いかさ まにせん、とおぼゆるむつかしさにも、 「いみじきさまにて 生き返り、人になりて、また、ありしいろいろのうきことを 思ひ乱れ、むつかしとも恐ろしとも、ものを思ふよ。死なま

しかば、これよりも恐ろしげなるものの中にこそはあらまし か」
と思ひやらる。  昔よりのことを、まどろまれぬままに、常よりも思ひつづ くるに、いと心憂く、 「親と聞こえけん人の御容貌も見たて まつらず、遥かなる東国をかヘるがヘる年月をゆきて、たま さかにたづね寄りて、うれし頼もしと思ひきこえしはらから の御あたりも思はずにて絶えすぎ、さる方に思ひさだめたま ヘりし人につけて、やうやう身のうさをも慰めつべききはめ に、あさましうもてそこなひたる身を思ひもてゆけば、宮を、 すこしもあはれと思ひきこえけん心ぞいとけしからぬ。ただ、 この人の御ゆかりにさすらヘぬるぞ、と思ヘば、小島の色を 例に契りたまひしを、などてをかしと思ひきこえけん」と、 こよなく飽きにたる心地す。はじめより、薄きながらものど やかにものしたまひし人は、このをりかのをりなど、思ひ出 づるぞこよなかりける。かくてこそありけれと聞きつけられ

たてまつらむ恥づかしさは、人よりまさりぬべし。さすがに、 この世には、ありし御さまを、よそながらだに、いつかは見 んずる、とうち思ふ、なほわろの心や、かくだに思はじ、な ど心ひとつをかヘさふ。 僧都立ち寄る 浮舟懇願して遂に出家する からうじて鶏の鳴くを聞きて、いとうれし。 母の御声を聞きたらむは、ましていかなら む、と思ひ明かして、心地もいとあし。供 にてわたるべき人もとみに来ねば、なほ臥したまヘるに、い びきの人はいととく起きて、粥などむつかしきことどもをも てはやして、 「御前に、とくきこしめせ」など寄り来て言 ヘど、まかなひもいと心づきなく、うたて見知らぬ心地して、 「悩ましくなん」と、ことなしびたまふを、強ひて言ふも いとこちなし。  下衆下衆しき法師ばらなどあまた来て、 「僧都、今日下り させたまふべし」 「などにはかには」と問ふなれば、 「一品

の宮の御物の怪に悩ませたまひける、山の座主御修法仕まつ らせたまヘど、なほ僧都参りたまはでは験なしとて、昨日二 たびなん召しはべりし。右大臣殿の四位少将、昨夜夜更けて なん上りおはしまして、后の宮の御文などはべりければ下り させたまふなり」
など、いとはなやかに言ひなす。恥づかし うとも、あひて、尼になしたまひてよと言はん、さかしら人 少なくてよきをりにこそ、と思ヘば、起きて、 「心地のい とあしうのみはべるを、僧都の下りさせたまヘらんに、忌む こと受けはべらん、となむ思ひはべるを、さやうに聞こえた まヘ」 と語らひたまヘば、ほけほけしううちうなづく。  例の方におはして、髪は尼君のみ梳りたまふを、別人に手 触れさせんもうたておぼゆるに、手づから、はた、えせぬこ となれば、ただすこしとき下して、親にいま一たびかうなが らのさまを見えずなりなむこそ、人やりならずいと悲しけれ。 いたうわづらひしけにや、髪もすこし落ち細りたる心地すれ

ど、何ばかりもおとろへず、いと多くて、六尺ばかりなる末な どぞ、いとうつくしかりける。筋なども、いとこまかにうつ くしげなり。 「かかれとてしも」と、独りごちゐたまヘり。  暮れ方に、僧都ものしたまヘり。南面払ひしつらひて、 まろなる頭つきども、行きちがひ騒ぎたるも、例に変りてい と恐ろしき心地す。母の御方に参りたまひて、 「いかにぞ、 月ごろは」など言ふ。 「東の御方は物詣したまひにきとか。 このおはせし人は、なほものしたまふや」など問ひたまふ。 「しか。 ここにとまりてなん。心地あしとこそものしたま ひて、忌むこと受けたてまつらん、とのたまひつる」と語る。  立ちてこなたにいまして、 「ここにやおはします」とて、 几帳のもとについゐたまヘば、つつましけれど、ゐざり寄り て答ヘしたまふ。 「不意にて見たてまつりそめてしも、さ るべき昔の契りありけるにこそ、と思ひたまヘて、御祈祷な ども、ねむごろに仕うまつりしを、法師は、その事となくて

御文聞こえうけたまはらむも便なければ、自然になんおろか なるやうになりはべりぬる。いとあやしきさまに、世を背き たまヘる人の御あたりに、いかでおはしますらん」
とのたま ふ。 「世の中にはべらじ、と思ひたちはべりし身の、いと あやしくて今まではべるを、心憂しと思ひはべるものから、 よろづにものせさせたまひける御心ばヘをなむ、言ふかひな き心地にも、思ひたまへ知らるるを、なほ世づかずのみ、つ ひにえとまるまじく、思ひたまヘらるるを、尼になさせたま ひてよ。世の中にはべるとも、例の人にて、ながらふべくも はべらぬ身になむ」と聞こえたまふ。 「まだいと行く先遠 げなる御ほどに、いかでか、ひたみちにしかは思したたむ。 かヘりて罪あることなり。思ひたちて、心を起こしたまふほ どは強く思せど、年月経れば、女の御身といふもの、いとた いだいしきものになん」とのたまヘば、 「幼くはべりしほ どより、ものをのみ思ふべきありさまにて、親なども、尼に

なしてや見ましなどなむ思ひのたまひし。まして、すこしも の思ひ知りはべりてのちは、例の人ざまならで、後の世をだ に、と思ふ心深くはべりしを、亡くなるべきほどのやうやう 近くなりはべるにや、心地のいと弱くのみなりはべるを、な ほいかで」
とて、うち泣きつつのたまふ。 「あやしく。かかる容貌ありさまを、などて身をいとはしく 思ひはじめたまひけん。物の怪もさこそ言ふなりしか」と思 ひあはするに、 「さるやうこそあらめ。今までも生きたるべ き人かは。あしきものの見つけそめたるに、いと恐ろしく危 きことなり」と思して、 「とまれかくまれ、思したちての たまふを、三宝のいとかしこくほめたまふことなり、法師に て聞こえ返すべきことならず。御忌むことは、いとやすく授 けたてまつるべきを、急なることにてまかでたれば、今宵か の宮に参るべくはべり。明日よりや御修法はじまるべくはべ らん。七日はててまかでむに仕まつらむ」とのたまヘば、

かの尼君おはしなば、必ず言ひさまたげてん、といと口惜し くて、 「乱り心地のあしかりしほどに、乱るやうにていと 苦しうはべれば、重くならば、忌むことかひなくやはべらん。 なほ今日はうれしきをりとこそ思うたまヘつれ」とて、いみ じう泣きたまヘば、聖心にいといとほしく思ひて、 「夜や 更けはべりぬらん。山より下りはべること、昔はこととも思 うたまヘられざりしを、年のおふるままには、たヘがたくは べりければ、うち休みて内裏に は参らん、と思ひはべるを、し か思し急ぐことなれば、今日仕 うまつりてん」とのたまふに、 いとうれしくなりぬ。鋏とりて、 櫛の箱の蓋さし出でたれば、                            「いづら、大徳たち、ここに」 と呼ぶ。はじめ見つけたてまつ

りし、二人ながら供にありければ、呼び入れて、 「御髪お ろしたてまつれ」と言ふ。げにいみじかりし人の御ありさま なれば、うつし人にては、世におはせんもうたてこそあらめ と、この阿闍梨もことわりに思ふに、几帳の帷子の綻びより、 御髪をかき出だしたまヘるが、いとあたらしくをかしげなる になむ、しばし鋏をもてやすらひける。  かかるほど、少将の尼は、せうとの阿闍梨の来たるにあひ て、下にゐたり。左衛門は、この私の知りたる人にあヘしら ふとて、かかる所につけては、みなとりどりに、心寄せの人- 人めづらしうて出で来たるにはかなき事しける、見入れなど しけるほどに、こもき一人して、かかることなん、と少将の 尼に告げたりければ、まどひて来て見るに、わが御表の衣、 袈裟などをことさらばかりとて着せたてまつりて、 「親の 御方拝みたてまつりたまヘ」と言ふに、いづ方とも知らぬほ どなむ、え忍びあヘたまはで泣きたまひにける。 「あな

あさましや。などかく奥なきわざはせさせたまふ。上、帰り おはしましては、いかなることをのたまはせむ」
と言ヘど、 かばかりにしそめつるを、言ひ乱るもものし、と思ひて、僧- 都諫めたまヘば、寄りてもえ妨げず。 「流転三界中」など 言ふにも、断ちはててしものを、と思ひ出づるも、さすがな りけり。御髪も削ぎわづらひて、 「のどやかに、尼君た ちしてなほさせたまヘ」と言ふ。額は僧都ぞ削ぎたまふ。 「かかる御容貌やつしたまひて、侮いたまふな」など、 尊きことども説き聞かせ たまふ。とみにせさすべ くもなく、みな言ひ知ら せたまヘることを、うれ しくもしつるかなと、こ れのみぞ生けるしるしあ りておぼえたまひける。

 みな人々出でしづまりぬ。夜の風の音に、この人々は、 「心細き御住まひもしばしのことぞ、いまいとめでたくなり たまひなん、と頼みきこえつる御身を、かくしなさせたまひ て、残り多かる御世の末を、いかにせさせたまはんとする ぞ。老い衰ヘたる人だに、今は限りと思ひはてられて、いと 悲しきわざにはべる」と言ひ知らすれど、なほ、ただ今は、 心やすくうれし。世に経べきものとは思ひかけずなりぬるこ そは、いとめでたきことなれと、胸のあきたる心地したまひ ける、 翌日、浮舟手習に歌を詠じ中将にも返歌す つとめては、さすがに人のゆるさぬことな れば、変りたらむさま見えんもいと恥づか しく、髪の裾のにはかにおぼとれたるやう に、しどけなくさヘ削がれたるを、むつかしきことども言は でつくろはん人もがなと、何ごとにつけてもつつましくて、 暗うしなしておはす。思ふことを人に言ひつづけん言の葉は、

もとよりだにはかばかしからぬ身を、まいてなつかしうこと わるべき人さヘなければ、ただ硯に向ひて、思ひあまるをり は、手習をのみたけきことにて書きつけたまふ。    「亡きものに身をも人をも思ひつつ棄ててし世をぞさ   らに棄てつる 今は、かくて、限りつるぞかし」と書きても、なほ、みづか らいとあはれ、と見たまふ。    限りぞと思ひなりにし世の中をかヘすがヘすもそむ   きぬるかな  同じ筋のことを、とかく書きすさびゐたまヘるに、中将の 御文あり。もの騒がしうあきれたる心地しあヘるほどにて、 かかることなど言ひてけり。いとあヘなしと思ひて、 「かか る心の深くありける人なりければ、はかなき答ヘをもしそめ じ、と思ひ離るるなりけり。さてもあヘなきわざかな。いと をかしく見えし髪のほどを、たしかに見せよと、一夜も語ら

ひしかば、さるべからむをりに、と言ひしものを」
と、いと 口惜しうて、たち返り、 「聞こえん方なきは、   岸とほく漕ぎはなるらむあま舟にのりおくれじといそが   るるかな」 例ならず取りて見たまふ。もののあはれなるをりに、今は、 と思ふもあはれなるものから、いかが思さるらん、いとはか なきものの端に、    心こそうき世の岸をはなるれど行く方も知らぬあま   のうき木を と、例の、手習にしたまヘるを、包みて奉る。 「書き写し てだにこそ」とのたまヘど、 「なかなか書きそこなひ はべりなん」とてやりつ。めづらしきにも、言ふ方なく悲し うなむおぼえける。 妹尼小野に帰り悲嘆のうちに法衣を整える

物詣の人帰りたまひて、思ひ騒ぎたまふこ と限りなし。 「かかる身にては、すすめ きこえんこそは、と思ひなしはべれど、残 り多かる御身を、いかで経たまはむとすらむ。おのれは、世 にはべらんこと、今日明日とも知りがたきに、いかでうしろ やすく見おきたてまつらむと、よろづに思ひたまヘてこそ、 仏にも祈りきこえつれ」と、臥しまろびつつ、いといみじげ に思ひたまヘるに、まことの親の、やがて骸もなきものと思 ひまどひたまひけんほど推しはかるぞ、まづいと悲しかりけ る。例の、答ヘもせで背きゐたまヘるさま、いと若くうつく しげなれば、 「いとものはかなくぞおはしける御心なれ」 と、泣く泣く御衣のことなどいそぎたまふ。鈍色は手馴れに しことなれば、小袿袈裟などしたり。ある人々も、かかる色 を縫ひ着せたてまつるにつけても、 「いとおぼえず、うれし き山里の光と、明け暮れ見たてまつりつるものを、口借しき

わざかな」
と、あたらしがりつつ、僧都を恨み譏りけり。 僧都女一の宮の夜居に侍し浮舟の事を語る 一品の宮の御悩み、げにかの弟子の言ひし もしるく、いちじるき事どもありて、おこ たらせたまひにければ、いよいよいと尊き ものに言ひののしる。なごりも恐ろしとて、御修法延べさせ たまヘば、とみにもえ帰り入らでさぶらひたまふに、雨など 降りてしめやかなる夜、召して、夜居にさぶらはせたまふ。 日ごろいたうさぶらひ困じたる人はみな休みなどして、御前 に人少なにて、近く起きたる人少なきをりに、同じ御帳にお はしまして、 「昔より頼ませたまふ中にも、このたびなん、 いよいよ後の世もかくこそはと、頼もしきことまさりぬる」 などのたまはす。 「世の中に久しうはべるまじきさまに、 仏なども教ヘたまヘることどもはべる中に、今年来年過ぐし がたきやうになむはべりければ、仏を紛れなく念じつとめは べらんとて、深く籠りはべるを、かかる仰せ言にてまかり出

ではべりにし」
など啓したまふ。  御物の怪の執念きこと、さまざまに名のるが恐ろしきこと などのたまふついでに、 「いとあやしう、稀有のことをな ん見たまヘし。この三月に、年老いてはべる母の、願ありて 初瀬に詣でてはべりし、帰さの中宿に、宇治院といひはべる 所にまかり宿りしを、かくのごと、人住まで年経ぬるおほき なる所は、よからぬ物必ず通ひ住みて、重き病者のためあし きことどもや、と思ひたまヘしもしるく」とて、かの見つ けたりし事どもを語りきこえたまふ。 「げにいとめづらか なる事かな」とて、近くさぶらふ人々みな寝入りたるを、恐 ろしく思されて、おどろかさせたまふ。大将の語らひたまふ 宰相の君しも、この事を聞きけり。おどろかさせたまひける 人々は、何とも聞かず。僧都、怖ぢさせたまヘる御気色を、 心もなきこと啓してけり、と思ひて、くはしくも、そのほど の事をば言ひさしつ。 「その女人、このたびまかり出では

べりつるたよりに、小野にはべりつる尼どもあひ訪ひはべら んとて、まかり寄りたりしに、泣く泣く、出家の本意深きよ し、ねむごろに語らひはべりしかば、頭おろしはべりにき。 なにがしが妹、故衛門督の妻にはべりし尼なん、亡せにし女- 子のかはりにと、思ひよろこびはべりて、随分にいたはりか しづきはべりけるを、かくなりたれば、恨みはべるなり。 げにぞ、容貌はいとうるはしくけうらにて、行ひやつれんも いとほしげになむはべりし。何人にかはべりけん」
と、もの よく言ふ僧都にて、語りつづけ申したまヘば、 「いかでさる 所に、よき人をしもとりもて行きけん。さりとも、今は知ら れぬらむ」など、この宰相の君ぞ問ふ。 「知らず。さもや 語らひはべらむ。まことにやむごとなき人ならば、何か、隠 れもはべらじをや。田舎人のむすめも、さるさましたるこそ ははべらめ。龍の中より仏生まれたまはずはこそはべらめ、 ただ人にては、いと罪軽きさまの人になんはべりける」など

聞こえたまふ。  そのころかのわたりに消え失せにけむ人を思し出づ。この 御前なる人も、姉君の伝ヘに、あやしくて亡せたる人とは聞 きおきたれば、それにやあらん、とは思ひけれど、定めなき ことなり、僧都も、 「かの人、世にあるものとも知られじと、 よくもあらぬ敵だちたる人もあるやうにおもむけて、隠し忍 びはべるを、事のさまのあやしければ啓しはべるなり」と、 なま隠す気色なれば、人にも語らず。宮は、 「それにもこそ あれ。大将に聞かせばや」と、この人にぞのたまはすれど、 いづ方にも隠すべきことを、定めてさならむとも知らずなが ら、恥づかしげなる人に、うち出でのたまはせむもつつまし く思して、やみにけり。 僧都、帰山の途中立ち寄り浮舟を励ます 姫宮おこたりはてさせたまひて、僧都も上 りたまひぬ。かしこに寄りたまヘれば、い みじう恨みて、 「なかなか、かかる御あ

りさまにて、罪もえぬべきことを、のたまひもあはせずなり にけることをなむ。いとあやしき」
などのたまヘど、かひも なし。 「今は、ただ、御行ひをしたまヘ。老いたる、若き、 さだめなき世なり。はかなきものに思しとりたるも、ことわ りなる御身をや」とのたまふにも、いと恥づかしうなむおぼ えける。 「御法服あたらしくしたまヘ」とて、綾、羅、絹 などいふもの、奉りおきたまふ。 「なにがしはべらん限り は、仕うまつりなん。何か思しわづらふべき。常の世に生ひ 出でて、世間の栄華に願ひまつはるる限りなん、ところせく 棄てがたく、我も人も思すべかめる。かかる林の中に行ひ勤 めたまはん身は、何ごとかは恨めしくも恥づかしくも思すべ き。このあらん命は、葉の薄きが如し」と言ひ知らせて、 「松門に暁到りて月徘徊す」と、法師なれど、いとよしよ ししく恥づかしげなるさまにてのたまふことどもを、思ふや うにも言ひ聞かせたまふかな、と聞きゐたり。 中将来訪、浮舟の尼姿を見る 浮舟の精進

今日は、ひねもすに吹く風の音もいと心細 きに、おはしたる人も、 「あはれ山伏は、 かかる日にぞ音は泣かるなるかし」と言ふ を聞きて、 「我も、今は、山伏ぞかし。ことわりにとまらぬ 涙なりけり」と思ひつつ、端の方に立ち出でて見れば、遥か なる軒端より、狩衣姿色々に立ちまじりて見ゆ。山ヘ上る人 なりとても、こなたの道には、通ふ人もいとたまさかなり。 黒谷とかいふ方より歩く法師の跡のみ、まれまれは見ゆるを、 例の姿見つけたるは、あいなくめづらしきに、この恨みわ びし中将なりけり。かひなきことも言はむとてものしたりけ るを、紅葉のいとおもしろく、ほかの紅に染めましたる色々 なれば、入り来るよりぞものあはれなりける。ここに、いと 心地よげなる人を見つけたらば、あやしくぞおぼゆべき、な ど思ひて、 「暇ありて、つれづれなる心地しはべるに、紅- 葉もいかにと思ひたまヘてなむ。なほたち返り旅寝もしつべ

き木のもとにこそ」
とて、見出だしたまヘり。尼君、例の、 涙もろにて、    木がらしの吹きにし山のふもとにはたち隠るべきか   げだにぞなき とのたまへば、    まつ人もあらじと思ふ山里のこずゑを見つつなほぞ   過ぎうき  言ふかひなき人の御ことを、なほ尽きせずのたまひて、 「さま変りたまヘらんさまを、いささか見せよ」と、少将 の尼にのたまふ。 「それをだに、契りししるしにせよ」と 責めたまヘば、入りて見るに、ことさらに人にも見せまほし きさましてぞおはする。薄鈍色の綾、中には萱草など澄みた る色を着て、いとささやかに、様体をかしく、いまめきたる 容貌に、髪は五重の扇を広げたるやうにこちたき末つきなり。 こまかにうつくしき面様の、化粧をいみじくしたらむやうに、

赤くにほひたり。行ひなどをしたまふも、なほ数珠は近き几- 帳にうち懸けて、経に心を入れて読みたまヘるさま、絵にも 描かまほし。うち見るごとに涙のとめがたき心地するを、ま いて心かけたまはん男は、いかに見たてまつりたまはん、と 思ひて、さるべきをりにやありけむ、障子の掛け金のもとに あきたる穴を教ヘて、紛るべき几帳などひきやりたり。いと かくは思はずこそありしか、いみじく思ふさまなりける人を と、わがしたらむ過ちのやうに、惜しく悔しう悲しければ、 つつみもあヘず、もの狂ほしきまでけはひも聞こえぬべけれ ば退きぬ。 「かばか りのさましたる人を 失ひて、尋ねぬ人あ りけんや。また、そ の人かの人のむすめ なん行く方も知らず

隠れにたる、もしはもの怨じして世を背きにけるなど、おの づから隠れなかるべきを」
など、あやしうかヘすがヘす思ふ。 「尼なりとも、かかるさましたらむ人はうたてもおぼえじ」 など、 「なかなか見どころまさりて心苦しかるべきを、忍び たるさまに、なほ語らひとりてん」と思ヘば、まめやかに語 らふ。 「世の常のさまには思し憚ることもありけんを、か かるさまになりたまひにたるなん、心やすう聞こえつべくは べる。さやうに教ヘきこえたまヘ。来し方の忘れがたくて、 かやうに参り来るに、また、いま一つ心ざしを添ヘてこそ」 などのたまふ。 「いと行く末心細く、うしろめたきありさ まにはべるめるに、まめやかなるさまに思し忘れずとはせた まはん、いとうれしうこそ思ひたまヘおかめ。はべらざらむ 後なん、あはれに思ひたまヘらるべき」とて、泣きたまふに、 この尼君も離れぬ人なるべし、誰ならむ、と心えがたし。 「行く末の御後見は、命も知りがたく頼もしげなき身なれ

ど、さ聞こえそめはべりなばさらに変りはべらじ。尋ねきこ えたまふべき人は、まことにものしたまはぬか。さやうのこ とのおぼつかなきになん、憚るべきことにははべらねど、な ほ隔てある心地しはべるべき」
とのたまヘば、 「人に知ら るべきさまにて世に経たまはば、さもや尋ね出づる人もはべ らん。今は、かかる方に、思ひかぎりつるありさまになん。 心のおもむけもさのみ見えはべるを」など語らひたまふ。  こなたにも消息したまヘり。    おほかたの世を背きける君なれど厭ふによせて身こ   そつらけれ ねむごろに深く聞こえたまふことなど、多く言ひ伝ふ。 「はらからと思しなせ。はかなき世の物語なども聞こえて、 慰めむ」など言ひつづく。 「心深からむ御物語など、聞き わくべくもあらぬこそ口惜しけれ」と答ヘて、この厭ふにつ けたる答ヘはしたまはず。

 思ひよらずあさましきこともありし身なれば、いとうとま し、すべて朽木などのやうにて、人に見棄てられてやみなむ、 ともてなしたまふ。されば、月ごろたゆみなくむすぼほれ、 ものをのみ思したりしも、この本意のことしたまひて後より、 すこしはればれしうなりて、尼君とはかなく戯れもしかはし、 碁打ちなどしてぞ明かし暮らしたまふ。行ひもいとよくして、 法華経はさらなり、こと法文なども、いと多く読みたまふ。 雪深く降り積み、人目絶えたるころぞ、げに思ひやる方なか りける。 新年、浮舟往時を追懐し手習に歌を詠む 年も返りぬ。春のしるしも見えず、凍りわ たれる水の音せぬさへ心細くて、 「君にぞ まどふ」とのたまひし人は、心憂しと思ひ はてにたれど、なほそのをりなどのことは忘れず、    かきくらす野山の雪をながめてもふりにしことぞ今-   日も悲しき

など、例の、慰めの手習を、行ひの隙にはしたまふ。我世に なくて年隔たりぬるを、思ひ出づる人もあらむかしなど、思 ひ出づる時も多かり。若菜をおろそかなる籠に入れて、人の 持て来たりけるを、尼君見て、    山里の雪間のわかな摘みはやしなほおひさきの頼ま   るるかな とてこなたに奉れたまへりければ、    雪ふかき野辺のわかなも今よりは君がためにぞ年も   つむべき とあるを、さぞ思すらん、とあはれなるにも、 「見るかひ あるべき御さまと思はましかば」と、まめやかにうち泣いた まふ。  閨のつま近き紅梅の色も香も変らぬを、春や昔のと、こと 花よりもこれに心寄せのあるは、飽かざりし匂ひのしみにけ るにや。後夜に閼伽奉らせたまふ。下臈の尼のすこし若きが

ある召し出でて花折らすれば、かごとがましく散るに、いと ど匂ひ来れば、    袖ふれし人こそ見えね花の香のそれかとにほふ春の   あけぼの 紀伊守小野に来たり、薫の動静を語る 大尼君の孫の紀伊守なりけるが、このころ 上りて来たり。三十ばかりにて、容貌きよ げに誇りかなるさましたり。 「何ごと か、去年一昨年」など問ふに、ほけほけしきさまなれば、こ なたに来て、 「いとこよなくこそひがみたまひにけれ。 あはれにもはべるかな。残りなき御さまを、見たてまつるこ と難くて、遠きほどに年月を過ぐしはべるよ。親たちものし たまはで後は、一ところをこそ御かはりに思ひきこえはべり つれ。常陸の北の方は、訪れきこえたまふや」と言ふは、い もうとなるべし。 「年月にそヘては、つれづれにあはれな ることのみまさりてなむ。常陸はいと久しくおとづれきこえ

たまはざめり。え待ちつけたまふまじきさまになむ見えたま ふ」
とのたまふに、わが親の名、とあいなく耳とまれるに、ま た言ふやう、 「まかり上りて日ごろになりはべりぬるを、 公事のいとしげく、むつかしうのみはべるにかかづらひて なん。昨日も、さぶらはんと思ひたまヘしを、右大将殿の宇- 治におはせし御供に仕うまつりて、故八の宮の住みたまひし 所におはして、日暮らしたまひし。故宮の御むすめに通ひた まひしを、まづ一ところは一年亡せたまひにき。その御妹、 また忍びて据ゑたてまつりたまヘりけるを、去年の春また亡 せたまひにければ、その御はてのわざせさせたまはんこと、 かの寺の律師になん、さるべきことのたまはせて、なにがし も、かの女の装束一領調じはべるべきを、せさせたまひて んや。織らすべきものは、急ぎせさせはべりなん」と言ふを 聞くに、いかでかはあはれならざらむ。人やあやしと見む、 とつつましうて、奥にむかひてゐたまヘり。尼君、 「かの聖

の親王の御むすめは、二人と聞きしを、兵部卿宮の北の方は、 いづれぞ」
とのたまヘば、 「この大将殿の御後のは、劣 り腹なるべし。ことごとしうももてなしたまはざりけるを、 いみじう悲しびたまふなり。はじめの、はた、いみじかりき。 ほとほと出家もしたまひつべかりきかし」など語る。  かのわたりの親しき人なりけり、と見るにも、さすが恐ろ し。 「あやしく、やうのものと、かしこにてしも亡せた まひけること。昨日も、いと不便にはべりしかな。川近き所 にて、水をのぞきたまひて、いみじう泣きたまひき。上にの ぼりたまひて、柱に書きつけたまひし、    見し人は影もとまらぬ水の上に落ちそふなみだいとど   せきあヘず となむはべりし。言にあらはしてのたまふことは少なけれど、 ただ、気色には、いとあはれなる御さまになん見えたまひし。 女は、いみじくめでたてまつりぬべくなん。若くはべりし時

より、優におはすと見たてまつりしみにしかば、世の中の一 のところも、何とも思ひはべらず、ただこの殿を頼みきこえ させてなん過ぐしはべりぬる」と語るに、ことに深き心もな げなるかやうの人だに、御ありさまは見知りにけり、と思ふ。 尼君、 「光る君と聞こえけん故院の御ありさまには、え並び たまはじ、とおぼゆるを、ただ今の世に、この御族ぞめでら れたまふなる。右の大殿と」とのたまヘば、 「それは、 容貌もいとうるはしうきよらに、宿徳にて、際ことなるさま ぞしたまヘる。兵部卿宮ぞいといみじうおはするや。女にて 馴れ仕うまつらばや、となんおぼえはべる」など、教ヘたら んやうに言ひつづく。あはれにもをかしくも聞くに、身の上 も、この世のことともおぼえず。とどこほることなく語りお きて出でぬ。 浮舟、自身の法要の衣を見て母を思い涙す

忘れたまはぬにこそは、とあはれと思ふに も、いとど母君の御心の中推しはからるれ ど、なかなか言ふかひなきさまを見え聞こ えたてまつらむは、なほ、いとつつましくぞありける。かの 人の言ひつけしことなど、染めいそぐを見るにつけても、あ やしうめづらかなる心地すれど、かけても言ひ出でられず。 裁ち縫ひなどするを、 「これ御覧じ入れよ。ものをいとう つくしうひねらせたまヘば」とて、小袿の単衣奉るを、うた ておぼゆれば、心地あしとて手も触れず臥したまヘり。尼君、 急ぐ事をうち棄てて、 「いかが思さるる」など思ひ乱れた まふ。紅に桜の織物の袿重ねて、 「御前には、かかるをこそ 奉らすべけれ。あさましき墨染なりや」と言ふ人あり。    あまごろもかはれる身にやありし世のかたみに袖を   かけてしのばん と書きて、いとほしく、亡くもなりなん後に、ものの隠れな

き世なりければ、聞きあはせなどして、うとましきまで隠し けるとや思はんなど、さまざま思ひつつ、 「過ぎにし方の ことは、絶えて忘れはべりにしを、かやうなることを思しい そぐにつけてこそ、ほのかにあはれなれ」とおほどかにのた まふ。 「さりとも、思し出づることは多からんを。尽きせ ず隔てたまふこそ心憂けれ。ここには、かかる世の常の色あ ひなど、久しく忘れにければ、なほなほしくはべるにつけて も、昔の人あらましかばなど思ひ出ではべる。しかあつかひ きこえたまひけん人、世におはすらんや。かく亡くなして見 はべりしだに、なほい づこにあらむ、そこと だに尋ね聞かまほしく おぼえはべるを、行く 方知らで、思ひきこえ たまふ人々はべらむか

し」
とのたまヘば、 「見しほどまでは、一人はものしたま ひき。この月ごろ亡せやしたまひぬらん」とて、涙の落つる を紛らはして、 「なかなか思ひ出づるにつけて、うたては べればこそ、え聞こえ出でね。隔ては何ごとにか残しはべら む」と、言少なにのたまひなしつ。 浮舟の一周忌過ぎ、薫、中宮に悲愁を語る 大将は、このはてのわざなどせさせたまひ て、はかなくてもやみぬるかな、とあはれ に思す。かの常陸の子どもは、かうぶりし たりしは蔵人になし、わが御衛府の将監になしなど、いたは りたまひけり。童なるが、中にきよげなるをば、近く使ひ馴 らさむとぞ思したりける。  雨など降りてしめやかなる夜、后の宮に参りたまヘり。御- 前のどやかなる日にて、御物語など聞こえたまふついでに、 「あやしき山里に、年ごろまかり通ひ見たまへしを、人の 譏りはべりしも、さるべきにこそはあらめ、誰も心の寄る方

のことはさなむある、と思ひたまヘなしつつ、なほ時々見た まヘしを、所のさがにや、と心憂く思ひたまヘなりにし後は、 道も遥けき心地しはべりて、久しうものしはべらぬを、先つ ころ、もののたよりにまかりて、はかなき世のありさまとり 重ねて思ひたまヘしに、ことさら道心をおこすべく造りおき たりける聖の住み処となんおぼえはべりし」
と啓したまふに、 かのこと思し出でて、いといとほしければ、 「そこには恐 ろしき物や住むらん。いかやうにてか、かの人は亡くなりに し」と問はせたまふを、なほ、うちつづきたるを思し寄る方 と思ひて、 「さもはべらん。さやうの人離れたる所は、よ からぬ物なん必ず住みつきはべるを。亡せはべりにしさまも なんいとあやしくはべる」とて、くはしくは聞こえたまはず。 なほかく忍ぶる筋を、聞きあらはしけり、と思ひたまはんが いとほしく思され、宮の、ものをのみ思して、そのころは病 になりたまひしを思しあはするにも、さすがに心苦しうて、

かたがたに口入れにくき人の上と思しとどめつ。  小宰相に、忍びて、 「大将、かの人のことを、いとあは れと思ひてのたまひしに、いとほしうてうち出でつべかりし かど、それにもあらざらむものゆゑ、とつつましうてなむ。 君ぞ、ことごと聞きあはせける。かたはならむことは、とり 隠して、さることなんありけると、おほかたの物語のついで に、僧都の言ひしこと語れ」とのたまはす。 「御前に だにつつませたまはむことを、まして別人はいかでか」と聞 こえさすれど、 「さまざまなることにこそ。また、まろは いとほしきことぞあるや」とのたまはするも、心えて、をか しと見たてまつる。 薫、小宰相の話を聞いて驚き、中宮に対面 立ち寄りて物語などしたまふついでに、言 ひ出でたり。めづらかにあやしと、いかで かおどろかれたまはざらむ。 「宮の問はせ たまひしも、かかる事をほの思し寄りてなりけり。などかの

たまはせはつまじき」
とつらけれど、 「我も、また、はじめ よりありしさまの事聞こえそめざりしかば、聞きて後もなほ をこがましき心地して、人にすべて漏らさぬを、なかなかほ かには聞こゆることもあらむかし、現の人々の中に忍ぶるこ とだに、隠れある世の中かは」など思ひ入りて、この人にも、 さなむありしなど明かしたまはんことは、なほ口重き心地し て、 「なほ、あやしと思ひし人のことに、似てもありける 人のありさまかな。さてその人はなほあらんや」とのたまヘ ば、 「かの僧都の山より出でし日なむ、尼になしつる。 いみじうわづらひしほどにも、見る人惜しみてせさせざりし を、正身の本意深きよしを言ひてなりぬる、とこそはべるな りしか」と言ふ。所も変らず、そのころのありさまと思ひあ はするに違ふふしなければ、 「まことにそれと尋ね出でたら ん、いとあさましき心地もすべきかな。いかでかはたしかに 聞くべき。おりたちて尋ね歩かんもかたくなし、などや人言

ひなさん。また、かの宮も、聞きつけたまヘらんには、必ず 思し出でて、思ひ入りにけん道も妨げたまひてんかし。さて、 さなのたまひそなど聞こえおきたまひければや、我には、 さることなん聞きしと、さるめづらしきことを聞こしめしな がら、のたまはせぬにやありけん。宮もかかづらひたまふに ては、いみじうあはれと思ひながらも、さらに、やがて亡せ にしものと、思ひなしてをやみなん。うつし人になりて、末 の世には、黄なる泉のほとりばかりを、おのづから語らひ寄 る風の紛れもありなん。わがものにとり返し見んの心はまた つかはじ」
など思ひ乱れて、なほのたまはずやあらんと思へ ど、御気色のゆかしければ、大宮に、さるべきついでつくり 出でてぞ啓したまふ。   「あさましうて失ひはべりぬと思ひたまヘし人、世に落 ちあぶれてあるやうに、人のまねびはべりしかな。いかでか さることははべらん、と思ひたまふれど、心とおどろおどろ

しうもて離るることははべらずや、と思ひわたりはべる人の ありさまにはべれば、人の語りはべしやうにては、さるやう もやはべらむと、似つかはしく思ひたまヘらるる」
とて、い ますこし聞こえ出でたまふ。宮の御ことを、いと恥づかしげ に、さすがに恨みたるさまには言ひなしたまはで、 「かの こと、またさなん、と聞きつけたまヘらば、かたくなにすき ずきしうも思されぬべし。さらに、さてありけりとも、知ら ず顔にて過ぐしはべりなん」と啓したまヘば、「僧都の語 りしに、いともの恐ろしかりし夜のことにて、耳もとどめざ りしことにこそ。宮はいかでか聞きたまはむ。聞こえん方な かりける御心のほどかな、と聞けば、まして聞きつけたまは んこそ、いと苦しかるべけれ。かかる筋につけて、いと軽く うきものにのみ世に知られたまひぬめれば、心憂くなむ」と のたまはす。いと重き御心なれば、必ずしも、うちとけ世語 にても、人の忍びて啓しけんことを漏らさせたまはじ、など

思す。 薫、僧都を訪い、浮舟との再会を用意する 「住むらん山里はいづこにかあらむ。いか にして、さまあしからず尋ね寄らむ。僧都 にあひてこそは、たしかなるありさまも聞 きあはせなどして。ともかくも問ふべかめれ」など、ただ、 この事を起き臥し思す。  月ごとの八日は、必ず尊きわざせさせたまヘば、薬師仏に 寄せたてまつるにもてなしたまヘるたよりに、中堂には、時- 時参りたまひけり。それより、やがて横川におはせん、と思 して、かのせうとの童なる率ておはす。その人々には、とみ に知らせじ。ありさまにぞ従はん、と思せど、うち見む夢の 心地にも、あはれをも加ヘむとにやありけん。さすがに、そ の人とは見つけながら、あやしきさまに、容貌ことなる人の 中にて、うきことを聞きつけたらんこそいみじかるべけれと、 よろづに道すがら思し乱れけるにや。 The Floating Bridge of Dreams 薫、横川に僧都を訪い、噂を確かめる

山におはして、例せさせたまふやうに、経- 仏など供養ぜさせたまふ。またの日は、横- 川におはしたれば、僧都驚きかしこまりき こえたまふ。年ごろ、御祈祷などつけ語らひたまひけれど、 ことにいと親しきことはなかりけるを、このたび一品の宮の 御心地のほどにさぶらひたまヘるに、すぐれたまヘる験もの したまひけりと見たまひてより、こよなう尊びたまひて、い ますこし深き契り加ヘたまひてければ、重々しうおはする殿 のかくわざとおはしましたることと、もて騒ぎきこえたまふ。 御物語などこまやかにしておはすれば、御湯漬などまゐりた まふ。  すこし人々しづまりぬるに、 「小野のわたりに知りたま

ヘる宿やはべる」
と問ひたまヘば、 「しかはべる。いと異- 様なる所になむ。なにがしが母なる朽尼のはべるを、京には かばかしからぬ、住み処もはべらぬうちに、かくて籠りはべ る間は、夜半暁にもあひとぶらはむ、と思ひたまヘおきては べる」など申したまふ。 「そのわたりには、ただ近きころ ほひまで、人多う住みはべりけるを、今は、いとかすかにこ そなりゆくめれ」などのたまひて、いますこし近くゐ寄りて、 忍びやかに、 「いと浮きたる心地もしはべる、また、尋ね きこえむにつけては、いかなりけることにかと心えず思され ぬべきに、かたがた憚られはべれど、かの山里に、知るべき 人の隠ろヘてはべるやうに聞きはべりしを。たしかにてこそ は、いかなるさまにてなども漏らしきこえめ、など思ひたま ふるほどに、御弟子になりて、忌むことなど授けたまひてけ り、と聞きはべるは、まことか。まだ年も若く、親などもあ りし人なれば、ここに失ひたるやうに、かごとかくる人なん

はべるを」
などのたまふ。 僧都、浮舟発見以来の始終を薫に語る 僧都、 「さればよ。ただ人と見えざりし人 のさまぞかし。かくまでのたまふは、軽々 しくは思されざりける人にこそあめれ」と 思ふに、法師といひながら、心もなく、たちまちにかたちを やつしてけること、と胸つぶれて、答ヘきこえむやう思ひま はさる。 「たしかに聞きたまヘるにこそあめれ。かばかり心 えたまひてうかがひ尋ねたまはむに、隠れあるべきことにも あらず、なかなかあらがひ隠さむにあいなかるべし」などと ばかり思ひえて、 「いかなることにかはべりけむ。この 月ごろ、うちうちにあやしみ思うたまふる人の御ことにや」 とて、 「かしこにはべる尼どもの、初瀬に願はべりて詣で て帰りける道に、宇治院といふ所にとどまりてはべりけるに、 母の尼の労気にはかにおこりていたくなむわづらふ、と告げ に、人の参うで来たりしかば、まかりむかひたりしに、まづ

あやしきことなむ」
とささめきて、 「親の死にかヘるをば さしおきてもてあつかひ嘆きてなむはべりし。この人も、亡 くなりたまヘるさまながら、さすがに息は通ひておはしけれ ば、昔物語に、魂殿に置きたりけむ人のたとひを思ひ出でて、 さやうなることにやとめづらしがりはべりて、弟子ばらの中 に験ある者どもを呼び寄せつつ、かはりがはりに加持せさせ などなむしはべりける。なにがしは、惜しむべき齢ならねど、 母の旅の空にて病重きを、助けて念仏をも心乱れずせさせむ と、仏を念じたてまつり思うたまヘしほどに、その人のあり さまくはしうも見たまヘずなむはべりし。事の心推しはかり 思うたまふるに、天狗木霊などやうのものの、あざむき率て たてまつりたりけるにや、となむ承りし。助けて京に率てた てまつりて後も、三月ばかりは亡き人にてなむものしたまひ けるを、なにがしが妹、故衛門督の北の方にてはべりしが尼 になりてはべるなむ、一人持ちてはべりし女子を失ひて後、

月日は多く隔てはべりしかど、悲しびたヘず嘆き思ひたまヘ はべるに、同じ年のほどと見ゆる人の、かく容貌いとうるは しくきよらなるを見出でたてまつりて、観音の賜ヘる、とよ ろこび思ひて、この人いたづらになしたてまつらじとまどひ 焦られて、泣く泣くいみじきことどもを申されしかば、後に なむ、かの坂本にみづから下りはべりて、護身など仕まつり しに、やうやう生き出でて人となりたまヘりけれど、なほこ の領じたりける物の身に離れぬ心地なむする、このあしき物 の妨げをのがれて、後の世を思はんなど、悲しげにのたまふ ことどものはべりしかば、法師にては、勧めも申しつべきこ とにこそはとて、まことに出家せしめたてまつりてしにはべ る。さらに、しろしめすべきこととはいかでかそらにさとり はべらん。めづらしき事のさまにもあるを、世語にもしはべ りぬべかりしかど、聞こえありてわづらはしかるべきことに もこそと、この老人どものとかく申して、この月ごろ音なく

てはべりつるになむ」
と申したまヘば、さてこそあなれ、と ほの聞きて、かくまでも問ひ出でたまヘることなれど、むげ に亡き人と思ひはてにし人を、さは、まことにあるにこそは、 と思すほど、夢の心地してあさましければ、つつみもあヘず 涙ぐまれたまひぬるを、僧都の恥づかしげなるに、かくまで 見ゆべきことかは、と思ひ返して、つれなくもてなしたまへ ど、かく思しけることをこの世には亡き人と同じやうになし たることと、過ちしたる心地して罪深ければ、 「あしき物 に領ぜられたまひけむも、さるべき前の世の契りなり。思 ふに、高き家の子にこそものしたまひけめ、いかなるあやま りにて、かくまではふれたまひけむにか」と問ひ申したまヘ ば、 「なまわかむどほりなどいふべき筋にやありけん。こ こにも、もとよりわざと思ひしことにもはべらず。ものはか なくて見つけそめてははべりしかど、また、いとかくまで落 ちあふるべき際とは思ひたまヘざりしを。めづらかに跡もな

く消え失せにしかば、身を投げたるにやなど、さまざまに疑 ひ多くて、たしかなることはえ聞きはべらざりつるになむ。 罪軽めてものすなれば、いとよしと心やすくなんみづからは 思ひたまヘなりぬるを、母なる人なむいみじく恋ひ悲しぶな るを、かくなむ聞き出でたる、と告げ知らせまほしくはべれ ど、月ごろ隠させたまひける本意違ふやうに、もの騒がしく やはべらん。親子の中の思ひ絶えず、悲しびにたヘで、とぶ らひものしなどしはべりなんかし」
などのたまひて、さて、 「いと便なきしるべとは思すとも、かの坂本に下りたまヘ。 かばかり聞きて、なのめに思ひ過ぐすべくは思ひはべらざり し人なるを、夢のやうなることどもも、今だに語りあはせん となむ思ひたまふる」とのたまふ気色、いとあはれと思ひた まヘれば、 「かたちを変ヘ、世を背きにき、とおぼえたれど、 髪鬢を剃りたる法師だに、あやしき心は失せぬもあなり。ま して女の御身はいかがあらむ。いとほしう、罪えぬべきわざ

にもあるべきかな」
と、あぢきなく心乱れぬ。 「まかり下 りむこと、今日明日は障りはべる。月たちてのほどに、御消- 息を申させはべらん」と申したまふ。いと心もとなけれど、 なほなほとうちつけに焦られむもさまあしければ、さらば、 とて帰りたまふ。 薫、浮舟につき他意なきことを僧都に語る かの御せうとの童、御供に率ておはしたり けり。ことはらからどもよりは、容貌もき よげなるを、呼び出でたまひて、 「これ なむ、その人の近きゆかりなるを、これをかつがつものせん。 御文一行賜ヘ。その人とはなくて、ただ、尋ねきこゆる人な むある、とばかりの心を知らせたまヘ」とのたまヘば、 「なにがし、このしるべにて、必ず罪えはべりなん。事のあ りさまはくはしくとり申しつ。今は、御みづから立ち寄らせ たまひて、あるべからむことはものせさせたまはむに、何の 咎かはべらむ」と申したまヘば、うち笑ひて、 「罪えぬべ

きしるべと思ひなしたまふらんこそ恥づかしけれ。ここには、 俗のかたちにて今まで過ぐすなむいとあやしき。いはけなか りしより、思ふ心ざし深くはべるを、三条宮の心細げにて、 頼もしげなき身ひとつをよすがに思したるが避りがたき絆に おぼえはべりて、かかづらひはべりつるほどに、おのづから 位などいふことも高くなり、身のおきても心にかなひがたく などして、思ひながら過ぎはべるには、またえ避らぬことも 数のみ添ひつつは過ぐせど、公私にのがれがたきことにつ けてこそさもはべらめ、さらでは、仏の制したまふ方のこと を、わづかにも聞きおよばむことはいかであやまたじ、とつ つしみて、心の中は聖に劣りはべらぬものを。まして、いと はかなきことにつけてしも、重き罪うべきことはなどてか思 ひたまヘむ。さらにあるまじきことにはべり。疑ひ思すまじ。 ただ、いとほしき親の思ひなどを、聞きあきらめはべらんば かりなむ、うれしう心やすかるべき」
など、昔より深かりし

方の心ばヘを語りたまふ。 小君、僧都の紹介状を得て帰途につく 僧都も、げに、とうなづきて、 「いとど尊 きこと」など聞こえたまふほどに日も暮れ ぬれば、中宿もいとよかりぬべけれど、う はの空にてものしたらんこそ、なほ便なかるべけれ、と思ひ わづらひて帰りたまふに、このせうとの童を、僧都、目とめ てほめたまふ。 「これにつけて、まづほのめかしたまヘ」 と聞こえたまヘば、文書きてとらせたまふ。 「時々は、山 におはして遊びたまヘよ」と、 「すずろなるやうには思すま じきゆゑもありけり」とうち語らひたまふ。この子は、心も えねど、文とりて御供に出づ。坂本になれば、御前の人々す こし立ちあかれて、 「忍びやかにを」とのたまふ。 浮舟、薫の帰途を見、念仏に思いを紛らす 小野には、いと深く茂りたる青葉の山に向 ひて、紛るることなく、遣水の螢ばかりを 昔おぼゆる慰めにてながめゐたまヘるに、

例の、遥かに見やらるる谷の軒端より、前駆心ことに追ひて、 いと多うともしたる灯ののどかならぬ光を見るとて、尼君た ちも端に出でゐたり。 「誰がおはするにかあらん。御前な どいと多くこそ見ゆれ」 「昼、あなたにひきぼし奉れた りつる返り事に、大将殿おはしまして、御饗のことにはかに するを、いとよきをりなりとこそありつれ」 「大将殿とは、 この女二の宮の御夫にやおはしつらん」など言ふも、いとこ の世遠く、田舎びにたりや。まことにさにやあらん、時々か かる山路分けおはせし時、いとしるかりし随身の声も、うち つけにまじりて聞こゆ。月日の過ぎゆくままに、昔のことの かく思ひ忘れぬも、今は何にすべきことぞと心憂ければ、阿- 弥陀仏に思ひ紛らはして、いとどものも言はでゐたり。横川 に通ふ人のみなむ、このわたりには近きたよりなりける。 薫、小君らを内密の使者として派遣する

かの殿は、この子をやがてやらん、と思し けれど、人目多くて便なければ、殿に帰り たまひて、またの日、ことさらにぞ出だし 立てたまふ。睦ましく思す人の、ことごとしからぬ二三人送 りにて、昔も常に遣はしし随身添ヘたまヘり。人聞かぬ間に 呼び寄せたまひて、 「あこが亡せにしいもうとの顔はおぼ ゆや。今は世に亡き人と思ひはてにしを、いとたしかにこそ ものしたまふなれ。うとき人には聞かせじと思ふを、行きて たづねよ。母に、いまだしきに言ふな。なかなか驚き騒がむ ほどに知るまじき人も知りなむ。その親の御思ひのいとほし さにこそ、かくも尋ぬれ」と、まだきにいと口固めたまふを、 幼き心地にも、はらからは多かれど、この君の容貌をば似る ものなしと思ひしみたりしに、亡せたまひにけりと聞きて、 いと悲しと思ひわたるに、かくのたまヘば、うれしきにも涙 の落つるを、恥づかしと思ひて、 「を、を」と荒らかに聞

こえゐたり。 妹尼、僧都の手紙で浮舟・薫の関係を知る かしこには、まだつとめて、僧都の御もと より、
昨夜、大将殿の御使にて、小君や参う    でたまヘりし。事の心承りしに、あぢきなく、かヘりて    臆しはべりてなむ、と姫君に聞こえたまヘ。みづから聞    こえさすべきことも多かれど、今日明日過ぐしてさぶら    ふべし。 と書きたまヘり。これは何ごとぞ、と尼君驚きて、こなたヘ もて渡りて見せたてまつりたまヘば、面うち赤みて、ものの 聞こえのあるにやと苦しう、もの隠ししけると恨みられんを 思ひつづくるに、答ヘむ方なくてゐたまヘるに、 「なほの たまはせよ。心憂く思し隔つること」と、いみじく恨みて、 事の心を知らねば、あわたたしきまで思ひたるほどに、 「山より、僧都の御消息にて、参りたる人なむある」と言ひ

入れたり。 小君来訪 浮舟、小君を見て母を思う あやしけれど、 「これこそは、さは、た しかなる御消息ならめ」とて、 「こなたに」 と言はせたれば、いときよげにしなやかな る童の、えならず装束きたるぞ歩み来たる。円座さし出でた れば、簾のもとについゐて、 「かやうにてはさぶらふまじ くこそは、僧都は、のたまひしか」と言ヘば、尼君ぞ答ヘな どしたまふ。文とり入れて見れば、 「入道の姫君の御方に。 山より」とて、名書きたまヘり。あらじ、などあらがふべき やうもなし。いとはしたなくおぼえて、いよいよ引き入られ て、人に顔も見あはせず。 「常も、誇りかならずものした まふ人柄なれど、いとうたて心憂し」など言ひて、僧都の御- 文見れば、 今朝、ここに、大将殿のものしたまひて、御ありさま尋    ね問ひたまふに、はじめよりありしやうくはしく聞こえ

  はべりぬ。御心ざし深かりける御仲を背きたまひて、あ   やしき山がつの中に出家したまヘること。かヘりては、   仏の責そふべきことなるをなむ、承り驚きはべる。いか   がはせむ。もとの御契り過ちたまはで、愛執の罪をはる   かしきこえたまひて、一日の出家の功徳ははかりなきも   のなれば、なほ頼ませたまヘ、となむ。ことごとには、   みづからさぶらひて申しはべらん。かつがつこの小君聞   こえたまひてん。
と書いたり。  まがふべくもあらず書きあきらめたまヘれど、他人は心も えず。 「この君は、誰にかおはすらん。なほ、いと心憂 し。今さヘ、かく、あながちに隔てさせたまふ」と責められ て、すこし外ざまに向きて見たまヘば、この子は、今はと世 を思ひなりし夕暮にも、いと恋しと思ひし人なりけり。同じ 所にて見しほどは、いとさがなく、あやにくにおごりて憎か

りしかど、母のいとかなしくして、宇治にも時々率ておはせ しかば、すこしおよすけしままにかたみに思ヘりし童心を思 ひ出づるにも、夢のやうなり。まづ、母のありさまいと問は まほしく、こと人々の上はおのづからやうやう聞けど、親の おはすらむやうはほのかにもえ聞かずかしと、なかなかこれ を見るにいと悲しくて、ほろほろと泣かれぬ。 浮舟、小君との対面をしぶる 小君不満 いとをかしげにて、すこしうちおぼえたま ヘる心地もすれば、 「御はらからにこそ おはすめれ。聞こえまほしく思すこともあ らむ。内に入れたてまつらん」と言ふを、何か、今は世にあ るものとも思はざらむに、あやしきさまに面変りしてふと見 えむも恥づかし、と思ヘば、とばかりためらひて、 「げに 隔てあり、と思しなすらんが苦しさに、ものも言はれでなむ。 あさましかりけんありさまは、めづらかなる事と見たまひて けんを、さてうつし心も失せ、魂などいふらむものもあらぬ

さまになりにけるにやあらん、いかにもいかにも、過ぎにし 方のことを、我ながらさらにえ思ひ出でぬに、紀伊守とかあ りし人の世の物語すめりし中になむ、見しあたりのことにや、 とほのかに思ひ出でらるることある心地せし。その後、とざ まかうざまに思ひつづくれど、さらにはかばかしくもおぼえ ぬに、ただ一人ものしたまひし人の、いかで、とおろかなら ず思ひためりしを、まだや世におはすらんと、そればかりな む心に離れず悲しきをりをりはべるに、今日見れば、この童 の顔は小さくて見し心地するにもいと忍びがたけれど、今さ らに、かかる人にもありとは知られでやみなむとなん思ひは べる。かの人もし世にものしたまはば、それ一人になむ対面 せまほしく思ひはべる。この僧都ののたまヘる人などには、 さらに知られたてまつらじとこそ思ひはべれ。かまヘて、ひ が事なりけり、と聞こえなして、もて隠したまヘ」
とのたま ヘば、 「いと難いことかな。僧都の御心は、聖といふ中に

も、あまり隈なくものしたまヘば、まさに残いては聞こえた まひてんや。後に隠れあらじ。なのめに軽々しき御ほどにも おはしまさず」
など、言ひ騒ぎて、 「世に知らず心強くおは しますこそ」と、みな言ひあはせて、母屋の際に几帳たてて 入れたり。  この子も、さは聞きつれど、幼ければ、ふと言ひ寄らむも つつましけれど、 「またはべる御文、いかで奉らん。僧都 の御しるべは、たしかなるを、かくおぼつかなくはべるこ そ」と、伏目にて言ヘば、 「そそや。あなうつくし」など 言ひて、 「御文御覧ずべき人は、ここにものせさせたまふ めり。顕証の人なむ、いかなることにか、と心得がたくはべ るを、なほのたまはせよ。幼き御ほどなれど、かかる御しる べに頼みきこえたまふやうもあらむ」など言ヘど、 「思し 隔てて、おぼおぼしくもてなさせたまふには、何ごとをか聞 こえはべらん。うとく思しなりにければ、聞こゆべきことも

はべらず。ただ、この御文を、人づてならで奉れとてはべり つる、いかで奉らむ」
と言ヘば、 「いとことわりなり。な ほ、いとかくうたてなおはせそ。さすがにむくつけき御心に こそ」と聞こえ動かして、几帳のもとに押し寄せたてまつり たれば、あれにもあらでゐたまヘる、けはひこと人には似ぬ 心地すれば、そこもとに寄りて奉りつ。 「御返りとく賜は りて、参りなむ」と、かくうとうとしきを、心憂しと思ひて、 急ぐ。 浮舟、薫の手紙を見、人違いと返事を拒む 尼君、御文ひき解きて見せたてまつる。あ りしながらの御手にて、紙の香など、例の、 世づかぬまでしみたり。ほのかに見て、例 の、ものめでのさし過ぎ人、いとあり難くをかし、と思ふ べし    さらに聞こえむ方なく、さまざまに罪重き御心をば、   僧都に思ひゆるしきこえて、今は、いかで、あさましか

  りし世の夢語をだに、と急がるる心の、我ながらもどか   しきになん。まして、人目はいかに。
と、書きもやりたまはず。    法の師とたづぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまど   ふかな   この人は、見や忘れたまひぬらん。ここには、行く方な   き御形見に見るものにてなん。 などいとこまやかなり。かくつぶつぶと書きたまヘるさまの、 紛らはさむ方なきに、さりとて、その人にもあらぬさまを、 思ひのほかに見つけられきこえたらんほどの、はしたなさな どを思ひ乱れて、いとどはればれしからぬ心は、言ひやるべ き方もなし。  さすがにうち泣きてひれ臥したまヘれば、いと世づかぬ御 ありさまかな、と見わづらひぬ。 「いかが聞こえん」など せめられて、 「心地のかき乱るやうにしはべるほどためら

ひて、いま聞こえむ。昔のこと思ひ出づれど、さらにおぼゆ ることもなく、あやしう、いかなりける夢にか、とのみ心も えずなむ。すこし静まりてや、この御文なども見知らるるこ ともあらむ。今日は、なほ、持て参りたまひね。所違ヘにも あらんに、いとかたはらいたかるべし」
とて、ひろげながら、 尼君にさしやりたまヘれば、 「いと見苦しき御ことかな。 あまりけしからぬは、見たてまつる人も、罪避りどころなか るべし」など言ひ騒ぐも、うたて聞きにくくおぼゆれば、顔 もひき入れて臥したまヘり。 小君、姉に会わず、むなしく帰途につく 主、その小君に物語すこし聞こえて、 「物の怪にやおはすらん、例のさまに見え たまふをりなく、悩みわたりたまひて、御 かたちも異になりたまヘるを、尋ねきこえたまふ人あらばい とわづらはしかるべきことと、見たてまつり嘆きはべりしも しるく、かくいとあはれに心苦しき御ことどものはべりける

を、今なむいとかたじけなく思ひはべる。日ごろも、うちは ヘ悩ませたまふめるを、いとどかかることどもに思し乱るる にや、常よりもものおぼえさせたまはぬさまにてなむ」
と聞 こゆ。所につけてをかしき饗などしたれど、幼き心地は、そ こはかとなくあわてたる心地して、 「わざと奉れさせたま ヘるしるしに、何ごとをかは聞こえさせむとすらん。ただ一- 言をのたまはせよかし」など言ヘば、 「げに」など言ひて、 かくなむ、と移し語れども、ものものたまはねば、かひなく て、 「ただ、かく、おぼつかなき御ありさまを聞こえさせ たまふべきなめり。雲の遥かに隔たらぬほどにもはべるめる を、山風吹くとも、またも、必ず立ち寄らせたまひなむか し」と言ヘば、すずろにゐ暮らさんもあやしかるべければ、 帰りなむとす。人知れずゆかしき御ありさまをもえ見ずなり ぬるを、おぼつかなく口惜しくて、心ゆかずながら参りぬ。 薫、浮舟の心をはかりかねて、思い迷う

いつしかと待ちおはするに、かくたどたど しくて帰り来たれば、すさまじく、なかな かなり、と思すことさまざまにて、人の隠 しすゑたるにやあらむと、わが御心の、思ひ寄らぬ隈なく落 しおきたまヘりしならひにとぞ、本にはべめる。