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色盲・色弱の人の体験談

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 色盲や色弱の人が直面する問題の一つに、色盲や色弱が仕事の能力に直結するのではないかという偏見があります。「色盲や色弱なのに各方面で活躍しているという人の例がほとんどないではないか?だから色盲や色弱は不利に違いない」という考えです。

 他の障害と違い、色盲や色弱というのは自分が言わなければ他人には分からない場合も少なくありません。そのために、実際には多くの分野で色盲や色弱の人がおおぜい活躍しているのに、あたかもそういう人はほとんど居ないかのように見えてしまっています。

 これから職業選択に臨む色盲や色弱の若い方にとって、果たして自分が志望する分野で色盲や色弱の人は普通に仕事できているのか?またその仕事につくにあたって、色盲や色弱であることがどういう点では案外困らなかったか?逆にどういう点では不便であったか?そのような不便をどのように回避し・克服したのか?を具体的に知ることは、大きな参考になるでしょう。

 また現代の日本では、残念ながら色盲や色弱であると分かると、それだけで就職や昇進、また日常の仕事を進めるうえで差別や偏見を受けることがあるという現実があります。しかし、すでに仕事で高い評価を得て、ある程度の地位に達している人なら、色盲や色弱だと公表しても今さら不利益をこうむる心配は少ないことでしょう。むしろそういう方が積極的に公表することによって、色盲や色弱への偏見を減らしてゆく効果があると思います。

 そこでこのセクションでは、さまざまな分野で活躍しておられる色盲や色弱の方に、自分の経験を語っていただきました。参考になれば幸いです。

(なるべく多くの職業について体験談を集めたいと考えております。ご協力いただける方は、ぜひ伊藤啓 (itokei@iam.u-tokyo.ac.jp) までご連絡下さい。)


「色盲・色弱の人の体験談」目次 > 医師 > 岡部 正隆

岡部 正隆

プロフィール

国立遺伝学研究所 発生遺伝研究部門 助手
ロンドン大学キングスカレッジ MRC 発生神経生物学研究センター 客員講師
第1色盲(強度)
1969年1月生まれ。1993年東京慈恵会医科大学卒業、1996年同大学院博士課程修了 医師、博士(医学)。科学技術振興事業団研究員(研究代表 岡野栄之)を経て、1997年より国立遺伝学研究所 助手。 2002年より文部科学省長期在外研究員として渡英、現在に至る。専門は分子発生生物学。ヒトの体がどのように作られるか、それを制御するメカニズムを明らかにしたいと考えている。なぜ我々はえらを持たなくなったのか? 脊椎動物の進化の過程で異なる形態をもたらした遺伝子の変化の実体とは。魚と獣の違いを見抜くため、日々マーケットで魚屋と肉屋に足を運ぶ。

子供のころの経験

 私は医師の家系に生まれた。3世代同居であった自宅では祖父が内科を開業し、父もまた内科医で大学病院に勤めていた。偶然にも父もタイプこそ違うが色弱である。母方の祖父は私と同じタイプで同じ程度の赤緑色盲であるが、大変色のセンスのよい紳士であったらしい。若くして他界したため私は会ったことがない。母は色盲の男児を生む可能性があることを知っていて、私が3歳のときにお菓子の包みの選び方を見て色盲であることを確信した。色弱でも医師として活躍している父、色盲の父親の色のセンスに一目おいていた母の元で育った私は、色盲に関して大変理解のある恵まれた環境で幼少を過ごしたといえる。

 自分の色覚が人と違うということを確信したのは、小学校の図工の時間に野外写生をしたときのことである。校庭にあったイチョウの木を中心に校舎の絵を書いた。イチョウの木の幹を緑色に塗っている私を見て、周囲が騒ぎだし、あっと言う間に同級生に囲まれ「へんだ、へんだ」と言われたのだ。私をかばってくれる同級生もいたが、見たように描いているのに、なぜそこまでへんと言われるのか、どうしようもない感情を整理できない私はその場で泣き出してしまった。余談だが、そのとき私をかばってくれた同級生の一人は現在も弁護士をしている(笑)。直後に図工の先生は全員を教室に呼び、色盲の話をみんなに説明をして理解を求めた。先生がどう説明したかはよく覚えていないが、少なくとも、その後色覚をネタにいじめられることは決してなかった。むしろ心配してくれる同級生が多かった。適切な説明をしてくれた先生には大変感謝している。次の写生の時間に私は忠実に色を再現したいがために、自分が混ぜた絵の具を実際にイチョウの木の幹に塗ってみて同じ色であるかどうかを確かめた。しかしながらそうして作った色でさえ他の人には同じ色に見えないことを知ると、自分の色覚が信じられなくなり、自由に色を表現することが怖くなった。色盲や色弱の人が絵を書き、その色遣いを先生から褒められ、その後絵を描くことに興味を持ったという人の話をよく聞くのだが、先生に褒められるのが先か、同級生から「へん」と言われるのが先か、数時間差とはいえこれも人生、若いころの出来事は生涯に大きく影響するものだ。そうは言っても、鉛筆でのデッサンなどは大好きであったし、絵を描くことが嫌いになることはなかったので、それに特別思い悩むということもなかった。

 一方で、思う存分色を扱うことを楽しめたこともあった。田宮模型から販売されていた1/35ミリタリーミニチュアシリーズというプラモデルにはどっぷり浸かった時期があった。第2次世界大戦時の戦車や兵士を忠実に再現したプラモデルで、その説明書には兵士の制服のどの部分をどの色名の塗料で塗ればよいかが書かれている。色を自分の色覚をたよりに選ぶ必要がないのだ。大好きだったドイツ軍の制服は、全体的に「フィールドグレー」と「フラットブラック」の2色であったが、水筒のバックルや皮のベルト、憲章という細部にいたるまで、同じ田宮模型から発売されている塗料が指定されていたため、同じ色名の塗料を探せばよいのだ。田宮模型は色覚バリアフリーの先駆者である(笑)。どこまで詳細に塗装をするかを親友と競い合いながら楽しんでいたのだが、困ったことが生じた。それは兵士の顔面の塗装である。当然ながら制服と違って髪の毛の色、眉毛の色、瞳の色、これは人様々であるので、説明書には髪の毛の色や瞳の色の指定までは書かれていない。日本人であれば、黒い髪に黒い瞳という定説があるので、黒を選べばよいのだろう。しかしナチスドイツの兵士は東洋人ではない。金髪に青い瞳にしようとしても、どの色を選べばいいのか、金髪はゴールドを塗ればいいのか、、、、今はもう当時作ったものが残っていないので思い出せないが、きっと余興で金粉ショーを演じたナチスの親衛隊がそこにあったに違いない。

 自由に色表現をすることを拒んでいた私を知ってか、小学校の高学年になって母が新宿の某眼科クリニックに色並べ演習に通うことを勧めた。色盲が治らないことを母は知っていたはずで、それでもこのようなトレーニングに通わせたのは色に対して自信を失っている息子になにか心の変化のきっかけになればと考えたのかもしれない。結果としてトレーニングの効果はなかったし、トレーニングの最中にもよくなっていくという兆候も感じることができなかったが、一定の時間、真剣に色見本とにらめっこすることで、微妙な色味の違いや明暗の違いで、注意してみれば色の違いが存在することを見抜くのことができると思えるようになった。

医学部志望にあたって

 小学生の頃から生き物が大好きで、生物学、化学の成績が比較的よかった私には、当時の利根川進の快進撃にも心踊らされ、分子生物学へのあこがれを持っていた。高校3年生の秋まで理学部生物学科志望であったが、将来ヒトを研究対象にしたときに医師であることのメリットを思い立ち、突然医学部志望に変えてしまった。親戚中皆医師であるし、小学校低学年からブラックジャックを読みふけっていたことを考えれば、医学部へ進学するのはごく自然なことであったかもしれない。

 さて、色盲や色弱の人が医学部へ進学することには長らく「門前払い」があったが、日本色覚差別撤廃の会の粘り強い活動のおかげで、現在では色弱であろうが色盲であろうがそのことで入学を拒否されることは完全になくなった。しかし私が受験する頃は、門前払いは減っているもののまだ完全には払拭していない時代であり、入学試験の点数が足らないのならまだしも、色覚が問題となり健康診断で不合格になるのはなんとしても避けたいと思った。実際にその頃は入試説明で「色弱は可(色盲は不可の意味)」とする大学はまだいくらかあった。自分の色覚が軽度である色弱なのかそれとも強度の色盲なのか、私の父が引率して、同じ悩みをもっていた歯科医師希望の同級生といっしょに大学病院の眼科で精密検査を受けにいった。検査結果は父が代わりに聞いたのだが、「お友達の方は軽度でまず問題になることはない。しかし息子さんは正直かなり強度です。」という結果だった。

 色覚が合否判定に影響するかを志望校に問い合わせる。「大丈夫ですよ」とは言ってくれるものの信用ならない。2次検査に健康診断がない大学医学部を探す、入学願書に添付する健康診断書をごまかせないかなど、いろいろ手を考えたが、結局、究極の策である色覚検査表の丸暗記しかないという結論に至った。どの検査表で検査をするかはわからないが、すくなくとも父の診療所(この頃には父も内科の診療所を開業していた)にある石原式色覚検査表のページ数と答えだけは覚えておいた方がよい。受験直前にそんなドタバタをやっていたが、そんな心配を他所に、受験した3校の医学部のうち2つから合格通知をもらうことができた。実際に進学した東京慈恵会医科大学の2次試験では、暗記していった石原式とは異なる東京医大式色覚検査表を見せられたため、正答できず、結局アノマロスコープによる色覚の精密検査まで受けるはめになった。受験した大学の眼科の専門が色覚だったというのは笑い話だが、精密検査で強度の色盲と診断しても差別なく合格させたこの大学には、今でも特別思い入れがある。

医学部に進学して

 医学部に進んで最初に色盲を意識したのは、組織学の顕微鏡実習だった。ヒトの組織を顕微鏡で観察するには、薄く切った組織片を色素で染色して個々の細胞を観察しやすくする。一般染色と呼ばれるヘマトキシリン・エオジン染色はヘマトキシリンの青とエオジンの赤の2色で組織切片を染めるが、エオジンの赤は淡くほとんどピンクなのでヘマトキシリンで淡く染まった水色の部分との区別が難しい。2色で染めているはずなのだが、私にはほとんど1色の色素で濃淡が染め分けられているように見える。「○○細胞は赤、△△細胞は青」と説明されてもよくわからないので、結局は教科書の記載とスケッチを見ながら、人に頼らず自分で特定の細胞を見つけだす工夫をしなければならない。もう一つ使われていた一般染色法はマッソントリクローム染色であったが、これは鉄ヘマトキシリンの黒褐色とアニリンブルーの濃い青、ポンソー・キシリジン・酸フクシンの赤で染め分ける方法で、ヘマトキシリン・エオジンに比較するとそれぞれの色素の彩度が高く、色盲の私にも非常にカラフルに見える。ヘマトキシリン・エオジン染色で色をたよりに細胞の同定をすることはできない私は、細胞の形や大きさ、ほかの構造との相対的な位置、細胞質の質感や核のクロマチンの形態などから特定の細胞を同定する。そんな自分にとっては、どんな染色方法で染めようと、問題なく目的の細胞を見つけることができる。しかし、多くの人々は色をたよりに細胞を同定していた。色で判断するということは、染色方法がかわると、その方法で何色に染まる細胞は○○細胞と、また覚えることが増えていくのだ。『個々の細胞の顔をしっかり見る』 色の差がわかりにくいことから始まった自分なりの工夫であるが、いつしか細胞の顔のバラエティーさに興味を持ち出し、胃の組織切片を見ながら「この胃の持ち主は女性だね」などと言ってのけるようになっていた。組織に浸潤していた白血球の核にヘテロクロマチン化したX染色体を見いだし、この組織が女性のものであると考えたわけだが、細胞の顔を観ていると本当にいろんなことがわかってくるのだ。組織学の面白さと肉眼解剖学の面白さに境界がなくなり、そして肉眼解剖学の対象である人体そのもの形作りの過程である人体発生学が面白くなり、その異常編として病理学が面白くなり、、、形態学に自信をつけた私は色の区別が不得意でもどうにかなるもんだと思った。

 順風満帆に見えたが、臨床医学実習がはじまると新たな困難が生じた。それは体のあちこちの赤みの変化を見抜くのが難しいのだ。元々「顔色が悪いね」という言葉の意味がわからないのは自覚していたが、いざ患者さんの所見をカルテに記載するとなると「よくわからない」では済まされない。貧血かどうかは通常まぶたの内側で診る。まぶたの内側では血管が肉眼でよく見えるので、肌色の背景に濃い赤の線(血管)がどのくらい太いか細いかで貧血があるかどうかを判断することができる。これなら私にも区別ができるので、顔色が悪かろうが悪くなかろうが、必ずまぶたを引き下げて貧血があるかを確かめることで克服した。問題になったのは表面の赤みの変化だ。例えば喉の腫れや歯茎の腫れは血管が見えるわけではなく表面の赤みの変化なので、なかなか見分けが難しい。この問題はいろいろなところで遭遇した。手術をしていても組織の赤みの具合で血行の状態を見極めるし、内視鏡をやっていても粘膜がわずかに赤みを増すことで早期ガンを発見したりする。この困難に関しては、短い臨床実習期間で患者さんに接する限られた時間の中では克服する方法を遂に見つけることができなかった。

 在学中ヨット部に所属していた私は酒ばかり飲んでいた。同級生にレッドロブスターというあだ名のすぐに真っ赤になる男がいて、彼のおかげで「顔が赤くなる」というのがどういう色の変化であるかがわかるようになった。私から見ると明度が低くなるのだ。以前からこんな顔色をした人を見たことがなかったわけではないが、「顔が赤い」という表現と同義であることに確信がなかった。一方で普段の肌の色からあまり赤みを感じとれない私には、そこからさらに赤みの減った、血の気が引いた「青ざめた顔」というのがよくわからない。小学生の頃、肌色をつくるのに白と黄色を混ぜて作っていたことを思い出し、普段肌から赤みを感じないでいることを実証しているかのように思った。酒の席ではよく後輩に酒をむりやり飲ませていたが、顔色が悪くなるというのをずいぶん見逃していたようだ。

 医学部卒業の間際に、これまで見たことないほど充実した研究環境で自分の大好きな形態学・発生学を研究している医師たちに知り合う機会があった。この環境で研究ができるのであればと、高校生時代の分子生物学へのあこがれが再燃し、私は基礎医学研究者の道を歩むことにした。この直前に考えていた臨床医学への進路は、MRIなどの画像診断装置を通じて、解剖学の知識が活かせる放射線科診断医になることを考えていた。臨床医となって患者さんを診察する限り、人における酸素の媒体がヘモグロビンである限り、赤みの変化に鈍感な私は臨床医には向かないかもしれないと考えたこともあるが、形態学に強く興味をもっていた私が進みたいと思った道は、偶然にも、赤みとはあまり縁のない分野であった。

医学部に学んで

 医師と聞くと患者さんの病を治す人と認識されているが、医師免許を取得した後すべての医師が患者さんを診ているわけではない。放射線科診断医として画像診断をしたり、病理医として患者さんの組織を顕微鏡下で診断することにより、臨床医に診断治療のアドバイスをする医師や、医学生物学研究を専門に行ったり、次世代の医師を育成する教育者として働く医師、官僚(厚生技官)として保健所長として何千人何万人という人の健康を対象にして活躍している医師、監察医として日々生じる凶悪事件の解決に立ち向かう医師もいる。医学教育の優れたところは、人体に関連するほぼすべてのことを勉強しながら、これらすべての医師が関係する仕事がいったいどんな仕事であるのかを講義や実習を通じて学ぶことが可能で、さらに国家試験をパスするだけ知識を蓄えた後で、最後に自分の進路を選ぶことができる点であろう。つまり、ハンデがあるのであれば、どの仕事が自分にとって向いているかを6年間もかけて見定めることができるのだ。私は強度第1色盲であり、遺伝子検査の結果からもこれ以上症状の強い赤緑色盲はないことがわかっている。ほとんどの赤緑色盲・色弱の方々は私の色覚よりはずっと色盲でない人に近いはずで、ほとんどの赤緑色盲の人のもつ色覚にまつわる困難は私の感じた困難よりもずっと少ないかもしれない。またそんな色覚のハンデがあろうがなかろうが、実際には多くの医師は入学時と卒業時で思い浮かべている自分の将来像が大きく異なっている。世の中からハンデとは認識されていないような、手先の不器用さとか、緊張すると手が震えてなにもできなくなるとか、不眠不休で人命救助にあたれない体力のなさとか、たちっぱなしだとすぐに貧血でぶっ倒れてしまうとか、すぐにあきらめてしまう責任感のなさとか、泣き叫んで抵抗する子供がかわいそうで背骨の間に針をさせないとか、医師になる目的は裕福になりたいという理由以外に考えられないからとか、そういったことの方が自分にあった進路を探す上で大きく影響するからに違いない。