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色盲・色弱の人の体験談

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 色盲や色弱の人が直面する問題の一つに、色盲や色弱が仕事の能力に直結するのではないかという偏見があります。「色盲や色弱なのに各方面で活躍しているという人の例がほとんどないではないか?だから色盲や色弱は不利に違いない」という考えです。

 他の障害と違い、色盲や色弱というのは自分が言わなければ他人には分からない場合も少なくありません。そのために、実際には多くの分野で色盲や色弱の人がおおぜい活躍しているのに、あたかもそういう人はほとんど居ないかのように見えてしまっています。

 これから職業選択に臨む色盲や色弱の若い方にとって、果たして自分が志望する分野で色盲や色弱の人は普通に仕事できているのか?またその仕事につくにあたって、色盲や色弱であることがどういう点では案外困らなかったか?逆にどういう点では不便であったか?そのような不便をどのように回避し・克服したのか?を具体的に知ることは、大きな参考になるでしょう。

 また現代の日本では、残念ながら色盲や色弱であると分かると、それだけで就職や昇進、また日常の仕事を進めるうえで差別や偏見を受けることがあるという現実があります。しかし、すでに仕事で高い評価を得て、ある程度の地位に達している人なら、色盲や色弱だと公表しても今さら不利益をこうむる心配は少ないことでしょう。むしろそういう方が積極的に公表することによって、色盲や色弱への偏見を減らしてゆく効果があると思います。

 そこでこのセクションでは、さまざまな分野で活躍しておられる色盲や色弱の方に、自分の経験を語っていただきました。参考になれば幸いです。

(なるべく多くの職業について体験談を集めたいと考えております。ご協力いただける方は、ぜひ伊藤啓 (itokei@iam.u-tokyo.ac.jp) までご連絡下さい。)


「色盲・色弱の人の体験談」目次 > 科学者(生物系) > 岡田 益吉

岡田 益吉

プロフィール

 1932年生まれ、1960年東京教育大学大学院理学研究科博士課程(動物学専攻)修了(理学博士)。筑波大学生物科学系教授で定年。その間、カリフォルニア大学(アーバイン校)で招聘研究員、発生生物学会会長、文部省学術国際局科学官、なども勤めた。現在は国際高等研究所副所長。

 アメリカでショウジョウバエと深い仲になり、帰国後は非常勤講師を頼まれると決して断らずにショウジョウバエで発生学が出来ることを話して回った。研究上の興味は主として、生殖細胞系列や子孫を残す役割を持つ細胞(体細胞も含めて)がどのようにして出来るのか、それらの細胞は個体の中でどのように振る舞いどのように扱われるのかである。発生現象を遺伝子の機能として語ることなど、全くの夢であった時代に研究生活に入ったのだが、現役終了間際には夢がどうやら現実となりそうな時代となった。しかし、そこで考えたのは、こんなに技術の進歩が速くては、自分が先頭に立って突撃するだけでは多分勝ち目はない。自分で出来るところまでは頑張るが、後継者を育てることにも重点を置き、自分の興味を引き継いで貰うように導いた方が学問の進歩に貢献できるだろうということであった。その判断は正しかったと思っている。


子供のころの経験

 伊藤さんにならって、子どもの頃の経験から書くことにするが、思い出をたどってみて、さしたる違いはないことに気づいた。誰でも同じような経験をするものだな、というのが感想である。私も小学校の「図工」の時間では絵画で先生に褒められたというおかしな経験を何度もしており、展覧会に出す絵をクラスの代表で描く羽目になったこともある。その時、先生が(多分見かねて)色を塗り重ねて直してくださったのだが、自分としては元の方が綺麗だったのにと思っていたような気がする。

 小学校二年生の頃、校医の先生が色盲の児童だけを集めて、何処だったか「色盲とその矯正法」を研究している施設に連れて行って下さったことがある。小学校四、五年生の子が、下半分が赤い色ガラス、上半分が素通しになっている眼鏡をかけて、首を上下に動かしながら、例の嫌らしい色覚検査で使うような、色丸の集合図の上を絵筆でなぞっているのを見学した。赤いガラスを通してみると図の上にくねくねとした道が見えるのだが、素通しの眼鏡ではその道は消えてしまう。その子が首を振りつつ、道をたどる様子がとてもおもしろかった。これを長い間続けると色盲が矯正されるという説明であったと思う。後で校医の先生が、あれで治ると言うのだが皆さんが始めるのはもう少し後でも良いでしょう、と言っておられた。子どもの直感は恐ろしいもので、校医の先生はこれで色盲が矯正できるとは信じておられないことが、ぴんと分かったことを鮮明に覚えている。

 小学校四年生から中学校二年生までは第二次世界大戦(当時は大東亜戦争と呼んでいた)。鬼畜米英打倒の大声が響き渡り、段々と戦況不利になって、アメリカの飛行機から機銃掃射された曳光弾が10メートルくらい横を飛んでも、焼夷弾が空気を引き裂く音を立てて落ちてきても、断固戦う決意には影響しなかった。クラスの何人かは幼年学校に合格し、将来は陸軍士官学校に進むと話しているのを聞き、色盲者は陸軍士官学校も、海軍兵学校も受験できなくて一寸残念だったが、そのころはすでに科学者になるつもりになっていたので、それほど悔しくはなかった。

 高校時代は楽しかった、とにかくバレーボール部と生物部のキャプテンで忙しく、受験間際までは色盲のことなど思い出す暇もなかった。ただ、部員が体調を崩し、他の人が「彼は顔色が悪い」と言っているのだが、私にはそれが分からなくて、「まあ、とにかく休め」とか何とか言うことしかできないのには甚だ困った。しかし、それで何も事故が起こらなかったのは幸運であった。

動物学科

 大学の入学試験の時に「色盲検査」は行われたが、それは合否に関係なかったのだと思う。それならば色盲検査なんかやらなければよいのに、と思ったが藪蛇になるといけないので黙っていた。1950年のことである。

 大学の4年間、色を使って判断しなければならないことはいっぱいあった。堀場製作所でpHメーターの試作に成功したのは1950年のことと聞いているが、私の学んだ大学にはそんな便利な道具はなかった。それで、pH測定実習というのがけっこう重きをなしていて、色々な緩衝液を作ってはそれにpH測定用の色素を加え、その色が、ラックに並ぶ密封試験管のどれと同じであるかを判断して、自分の作った緩衝液のpHを判定するという作業である。これは気が重かったが、意外に正しく判定できて自信をつけた。また、組織切片をヘマトキシリンとエオシンで2重染色する実習では、私の染色は、常にエオシンが強く、本人は綺麗だと思っているのだが、仲間に言わせると岡田の染色は派手すぎる、のだそうだ。金魚の鱗を顕微鏡で見ると、いくつかの色の色素細胞が見えるのだそうだが、これは苦手だった。どの色素細胞も同じ色に見え、分布のパターンなど分からない。必ず隣の席に座る友達に判定を頼むことにした。私は色盲であることを特に隠してはいなかったので、隣席のやつは「おまえは色に盲目だから」、などとからかいながら、よく助けてくれた。「それはこちらのセリフだ」と言い返しはしたが・・・。

 大学院の入学試験でも色盲検査はあった。検査に当たる医者は耳が遠いのか、やたらと声が大きく「ウン、暗い方の色は少し分かるのかな?色弱としておくが、色盲に近いね!」などと怒鳴るのには参った。同じクラスの仲間はにやにやしているだけであったが、他大学から受験した人が「色盲なのですか?」と嬉しそうに寄ってきた。彼は落ちて、私は合格した。

 大学院に入って間もなく、所属することになった研究室の助手の人が、私を呼んで、教授の伝言として「自分が色盲であることを常に忘れないようにしなさい」、と言われた。これは、それ以後の研究生活の指針となった重要なアドバイスであった。それまでは、色盲だってこのくらいは分かるのだ、普通の人と競争してもこのように遜色ないのだと、無意識ではあったが、弱点を自分では認めないようにしていたと思う。しかし、このアドバイスでそれまで突っ張っていたのは、実は逃避していたのと同じではないかということに思い至ったのである。

研究生活

 依然としてpHメーターなどの存在さえ誰も知らない研究室であったが、時代が移り、技術の進歩のおかげで段々と苦労がなくなった。しかし、新たな技術は新たな苦労を生み出したのはいうまでもない。蛍光顕微鏡が使えるようになればなったで苦労が増えたし、ウルトラミクロトームで電子顕微鏡の超薄切片を作るとき、切片の厚さは色で判断しなさいと言われても最初はとまどった。自分では「シルバー」か「グレイ」と思う切片でも、実は色が付いているのではないかと常に不安はつきまとったが、大学内の電子顕微鏡が自由に使えるようになってからは、とにかく電顕で見ればわかるさ、という方針で行くことにして、さしたる苦労はなかった。

 新技術の苦労の最たるものは、伊藤さんも言っておられたが、遺伝子導入されているショウジョウバエを複眼の色で選ぶことであった。ロージー眼を野生型眼と区別するのは私には無理であった。苦労を重ねたあげく、一寸黒っぽいのを選べばよいのではないかと結論してやってみたのだが、結果はさんざんであった。指導教官のアドバイスは正しかったと思い直して、突っぱるのはやめることにした。

 研究生活での苦労の経験は、これまで伊藤さんや岡部さんが書いておられるのと本質的には同じものばかりで、改めて挙げるほどのものはない。一方、大学の教師には学生や若手の指導も重要な仕事であるが、ここでは大学院入学の時の先生のアドバイスを守らないこともあったと反省している。学生指導や、ラボのディスカッションで2重染色の蛍光顕微鏡写真や、それ以外でも色分けのスライドでの研究発表が増加してくるようになった。いちいち「私にはそのスライドは分からない」と言うのは煩わしいし、第一、癪にさわる。そこはそれまでの経験にものを言わせて、時としては山勘で、何とかなったと、本人は思っているが、時にはとんちんかんな意見を言ったこともあったかも知れない。学生達には謝らなければいけない。

 指導教官のアドバイス通り自分が色盲であることから逃げず、しっかりと向き合ってきたのは、自分としては積極的な生き方をしてきたと思っている。しかし定年退官後、伊藤さん、園部さん達の色覚バリアフリーの活動を知り、その積極的な生き方に心を打たれた。私よりさらに積極的に生きている人たちを発見して、私に出来る範囲でその運動の手助けをしたいものだということを申し出た。その結果、このような文を書くことになった。何かお役に立ったならば幸いである。