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色盲・色弱の人の体験談

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 色盲や色弱の人が直面する問題の一つに、色盲や色弱が仕事の能力に直結するのではないかという偏見があります。「色盲や色弱なのに各方面で活躍しているという人の例がほとんどないではないか?だから色盲や色弱は不利に違いない」という考えです。

 他の障害と違い、色盲や色弱というのは自分が言わなければ他人には分からない場合も少なくありません。そのために、実際には多くの分野で色盲や色弱の人がおおぜい活躍しているのに、あたかもそういう人はほとんど居ないかのように見えてしまっています。

 これから職業選択に臨む色盲や色弱の若い方にとって、果たして自分が志望する分野で色盲や色弱の人は普通に仕事できているのか?またその仕事につくにあたって、色盲や色弱であることがどういう点では案外困らなかったか?逆にどういう点では不便であったか?そのような不便をどのように回避し・克服したのか?を具体的に知ることは、大きな参考になるでしょう。

 また現代の日本では、残念ながら色盲や色弱であると分かると、それだけで就職や昇進、また日常の仕事を進めるうえで差別や偏見を受けることがあるという現実があります。しかし、すでに仕事で高い評価を得て、ある程度の地位に達している人なら、色盲や色弱だと公表しても今さら不利益をこうむる心配は少ないことでしょう。むしろそういう方が積極的に公表することによって、色盲や色弱への偏見を減らしてゆく効果があると思います。

 そこでこのセクションでは、さまざまな分野で活躍しておられる色盲や色弱の方に、自分の経験を語っていただきました。参考になれば幸いです。

(なるべく多くの職業について体験談を集めたいと考えております。ご協力いただける方は、ぜひ伊藤啓 (itokei@iam.u-tokyo.ac.jp) までご連絡下さい。)


「色盲・色弱の人の体験談」目次 > メーカー > 湯浅 一弘

湯浅 一弘

プロフィール

株式会社リコー パーソナルマルチメディアカンパニー ICS事業部 事業部長
1952年福井県生まれ.
1977年神戸大学工学部修士課程卒業後,株式会社リコーに入社.
以降,ファクシミリやMFPの設計に従事.入社当初,電気回路設計・ファームウェア設計を担当し,その後,電子写真技術をベースとした画像生成プロセスを担当して世界初の普通紙ファクシミリの開発など数多くの商品を手がける.
1998年よりデジタルカメラ事業を担当.従来のやり方にこだわらない開発プロセスの改革を実行し,事業の発展に邁進中.


子供のころの経験

 私の生まれたところは,福井県にある三国町という小さな港町.東尋坊の近くと言った方が全国の皆さんには分かって頂けやすい.日本海に面した港町であり,魚は実においしい.特に,冬の越前ガニはつとに有名.

 そんな町に生まれた私は,3歳から保育園に通いました.入園して間もなく,保育園の先生が私に家に飛んできて,“大変です.お宅の子が色弱です.”と言ったそうです.例の色覚検査があったのでしょう.それ以降,私は学校で色覚検査があるたびに“赤緑色弱”という結果を言われ続けてきました.もちろん成績表など記入する欄があるものには常に書かれていたような気がします.

 子供の頃は,この色覚検査がいやいやで仕方がありませんでした.普段の生活では本人も周囲の人も意識していないのに,この検査の時だけは意識せずにはいられません.自分には“6”と見えるのに,周りの人は“分かりません”と何故答えるのか?自分には何も見えないのに,他人は何故“5”と答えるのか?とても不思議でした.

 他の先生方同様,私も“図画工作”の時間に描いた絵を誉められたこともありましたし,コンクールに入選したこともあるし,展示されたこともあるし,という経験があるくらいですから,日常生活では困るはずがありません.ある時,近くの神社神殿の絵を描いていたときに,“色弱だから暗い色使いになっているのかな.”と家族から言われたのが,子供の頃に色覚異常を意識した唯一の生活の中での出来事でしょうか.でも思い返すに,なんて無神経な言葉なのでしょうか.その時点でそう思わなかったのは,私自身が余程強い人間だったか,余程鈍感な人間だったかのどちらかなのでしょう.

 学校では黒板に書かれた赤のチョークが見えにくいということはありましたが,これも見えないわけではなく,注意してみていたので余計に記憶ができたというぐらいの意識しかありません.他の人も同じように見えにくいとしか思っていませんでしたので,これとても特に色覚異常を意識することなく,これを“色弱”とつなげて考えられるようになったのは随分経ってからだったような気がします.

 花を愛でる,風景を観る,絵画を鑑賞する,映画を見る,等々日常的なことで困ったことは一度もありませんでした.綺麗なものは私にとっても綺麗でした.

仕事のうえで困ったこと、困らなかったこと

 これまでの生活の中で最も“色覚異常”を意識せずにいられなかったのは,自分の進路決定の時でした.

 大学進学の時,私は理工系を希望しました.ところが,数ある大学の工学系のなかで“色覚異常”者の入学を許して貰えるのは極めて少なかったのです.今ではそういうことも少なくなったと聞いていますが,当時はこのことで諦めてしまう人もいたのではないでしょうか.優秀な人材をみすみすこんなことで排除し,技術の進歩に貢献できなくしてしまうのは大きな損失だったと思います.その意味で制約がなくなってきたことは大きな進歩ですね.

 話を戻しますが,ダメと言われれば何としてでもと思う私の性格が幸いしたのか災いしたのか,いずれにしても徹底的に入学制約のないところを探し,ようやく神戸大学工学部計測工学科を受験することができました.

 計測工学科では,機械工学・電気/電子工学・物理工学・制御工学など総合的な工学技術を学ぶことができました.入学後の授業で困ったことは一度もありませんでしたし,自分自身が忘れてしまえるくらいのことでしたので,他の学科に進んだとしても多分困ることはなかったでしょう.今となってはなぜ進路決定で“色覚異常”の制約があったのか,不思議で仕方がありません.

 社会人になっても,入社後これまでに一度たりとも困ったことに遭遇したことはありません.伊藤先生の依頼だからこんなことを書いているわけではなく,本当に拍子抜けです.ひょっとすると,困るべきことがあったのかも知れませんが,それはそれで些細なことだったのではないでしょうか.もっともっと真剣に頭を使わないといけないことの連続でしたから,問題にもしなかったというのが本当のところかも知れません.いずれにしても,“色覚異常”を意識せざるを得ないことがなかったことは事実です.

 今現在,私はデジタルカメラを主とした事業に取り組んでいます.仕事柄,画質にも話は及びますし,方向を決定する立場でもあります.しかし,色を見分ける目は優秀なメンバーの確かな目をはじめいくらでもあります.色を数値化する技術もあります. 色に限らず,すべての情報を集めるのは自分だけではできません.みんなが協力をして進めています.色覚異常だから“色”を判断できないなどということは全くありません.もしそうだとすれば,そういう人は何も判断できない人なのではないでしょうか?これは色覚異常とは全く関係ない能力の話です.

 今回,この文章を公表するにあたり人事担当に,一応スジを通したところ,“そうなのですか.湯浅さんが“色覚異常”だとは知りませんでした.”と言われたくらいです.もしリコーという会社の中で,“色覚異常”が支障になることがあれば,人事担当がこんな発言をするはずがありませんし,私自身がここまで仕事に従事することができなかったと思います.

ひとこと

 私のこれまでの経験を嘘偽りなく書いてきたつもりです.

 書いてみて改めて思ったのは,私自身が困ったと感じたことは,すべて“社会が決めた制約”が起因したことしかなく,それ以外(つまり,社会人としての生活を含めた日常生活)では全くなかったということです.すなわち,色覚検査の“結果”という事象でしかなく,またその結果を基にした進路上の制約でしかなかったのです. その制約がなくなってきた環境では,もはや悩むことなどばかげています.幸い私は家族からの“無神経”な言葉にも屈すことなく生きて来られましたが,ひょっとすると言い方や雰囲気次第では屈していたかも知れませんし,その時に屈していたらその後の進路は変わっていたかも知れません.

 家族や周囲の無意味な言葉で傷つき,本人がやりたいと思っていたことができなくなってしまうとしたらこれはとても不幸なことです.何とかやってきた人間が言うのだから間違いはありません.変なコンプレックスや偏見は無用です.皆さんの周囲でもきっと多くの色覚異常のかたが普通に働いていらっしゃると思います.自分を色覚異常者とは言わないだけで,ごくごく普通に働けるからなのです.もっともっと制約がなくなり,より普通に働けるようになれば良いと思っておいます.