大学に進んでくる学生の面倒を見ていると、遺伝学の専門家から見て、明らか におかしいことを正しいと信じてしまっている人がいます。しかもこれは、勉 強不足な学生でなく、高校生・受験生時代に非常に努力して、よく勉強してきた人に見られることが少なくないのです。
どうもこれには、高校の先生がたのあいだや参考書などに、誤った−−あるいは不十分・不適切な−−「伝説」が多々伝えられていることに原因があるようです。このような伝説は、自然科学を正しく理解するすべを身につける上で妨げになるだけでなく、入試における無意味な奇問・珍問のもとにもなり、せっかく生物学に興味を持った学生の意欲を失わせかねません。これは結局は、理科教育の振興を妨げ、日本の自然科学の発展を阻害することにもつながります。
そこでこのページでは、我々ショウジョウバエ研究者が気づいた「伝説」の例をあげ、どこがおかしいのかを解説してみました。
参考:
(1999. 1.18 追加)
1.「F2は、F1を自殖して得られる子供のことをいう。したがって、ショウジョウバエなどのように他殖を行う生物に、F2やF3を用いることは誤りである」
これを強硬に主張する先生がいるが、モーガン自身がショウジョウバエでF2を用いている。この誤解の元は、岩波生物学辞典の記述ではないかと思われる。この辞典には、以下のように書かれている:
- 雑種第一代:
ある対立遺伝子のそれぞれをホモに持つ両親の交雑によって生じる第一代目の子を言う。記号はF1。・・・・・F1以後の、自殖によってできる子孫はそれぞれ雑種第二代、第三代・・・とよばれ、F2、F3・・・の記号で表される。
- 自殖:
同じ個体に由来する生殖細胞の結合による生殖。すなわち自家受精または自家受粉による生殖であるが、雌雄異株の植物や雌雄異体の動物でも、同じおやからでたもの同士の交配、すなわち兄姉交配を自殖に含めることがある。
これから考えると、F2は自家受精によってできた個体をさすのだから、ショウジョウバエは自家受精で子はできないのだからF2は間違い、といえそうにもみえる。しかし実際には、モーガンの例を見ても分かるとおり、この表現は自殖・他殖に関わりなく用いられる用語である。
岩波生物学辞典をバイブルのごとく考える先生が多いが、間違いもないわけではないので、これを絶対視するようなことをせず、自分で調べるなり、専門家に相談するようにして欲しい。
2.「ショウジョウバエの遺伝地図が100cM(センチモルガン)を越え
るのは実験誤差によるものである」
これは、組換え価と遺伝距離を混同し、組換え価の最大値は、100%のはずという思い込みから生じた誤解であろう。実際には、遺伝地図は、乗換え価をできるだけ正確に反映するように、2重乗換えがほとんど起こらないような近い距離にある遺伝子座の間の組換え価を求め、これらを積み重ねて作成される。したがって、遺伝距離は乗換えの頻度を反映するので、100cMを越えることはなんら不思議ではない。事実、クロショウジョウバエなどでは、200cMを越える長さの染色体がある。
なお、乗換えは染色体の複製後、すなわち、4本の染色分体のうちの、2本の非姉妹染色分体の間で起こるため、組換え型配偶子の割合、すなわち組換え価の最大値は50%を越えることはない。逆にみれば、50cM離れた遺伝子座の間では、平均して1回の乗換えが、また、100cMの場合には、平均2回の乗換えが起こることを意味する。
最近の高校の教科書の減数分裂の説明では、乗換えが染色体の複製後に起こることが明示されているにも関わらず、組換え価が50%を越えないことを理解している学生は少ないようだ。乗換えというのは、有性生殖の本質ともいえる生物学的にはきわめて重要な現象なので、もう少し踏み込んだ説明が欲しい。
3.「ショウジョウバエの眼の色は伴性遺伝する」
伴性遺伝の例として、どの教科書もショウジョウバエの白色眼(white)の遺伝様式を挙げているが、眼の色が、赤色か無色かという極端な違いであるためか、この遺伝子が、眼の色素の合成に関与しているものと誤解されやすい。一方、1遺伝子−1酵素説の例として、褐色眼(brown)や朱色眼(vermilion)など、白色眼以外の眼色突然変異を扱っている副読本などがあるにも関わらず、これらの遺伝様式には触れられていないため、これらも、当然、伴性遺伝のはずと思い込んでしまうらしい。かなり勉強熱心な先生の間でも、このような誤解がみられる。
白色眼遺伝子が眼の色素の合成に関与しないこと、眼の色の突然変異は、これ以外にも多数知られており、その多くは常染色体の遺伝子であることなどの補足説明が望ましい。あるいは、伴性遺伝の説明には、白色眼以外の伴性突然変異を例として用いた方がいいのかも知れない。
4.「伴性遺伝や補足遺伝などはメンデルの法則の例外である」
高校の教科書の中にさえ、時として、このような記述がみられることに驚かされる。メンデルの法則が、3:1や9:3:3:1といった表面的な分離比としてしか理解されていないことによるものであろう。典型的な分離比に従わないケースは、例外ど
ころか、メンデルの法則が遺伝現象全般にあてはまることを示すものであるという観点から教えるようにしていただきたい。
事実、モーガンは、ショウジョウバエの白色眼を用いた交配実験の結果から、これがメンデルの法則に合致することに直ちに気付いたし、「補足遺伝」、「抑制遺伝」などの名前で呼ばれるさまざまな両性遺伝の様式も、メンデル遺伝の範疇で扱われてきたものである。
なお、メンデルの法則は、日本の教科書では、依然として、「分離の法則」、「優性の法則」、「独立の法則」の3つからなると記述されているが、後の2つは、例外が多いので、とても法則といえるようなものではく、現在では、科学史的な意味しかないことを補足するようにしていただきたい。「メンデル遺伝」という言葉は、現在でも広く用いられているが、これは、「分離の法則」を意味する。
5.「血友病の遺伝子は女性では劣性致死である」
高校でこのように教えられたという学生が多い。不思議に思って調べたところ、受験参考書の多くにこのように記述されていることが判明した。その元をたどると、昔、集団遺伝学の知識のない医者が唱えた説によると推察されるが、1951年に
は女性の患者が発見されており、この説はとっくに否定されている。にもかかわらず、半世紀近くにわたって、教え続けられているのは驚きというしかない。
受験参考書の類は、専門家の校閲をあまり受けていないためか、この例にみるように、現在では誤りであると判明しているようなことが、まったく訂正されることなく版を重ねている場合が多いことに注意が必要であろう。
6. パンネットの方形「もどき」の罪作り
高校で生物を勉強してきたはずの学生の多くが、もっとも基本となるメンデルの法則を正しく理解していないことに驚かされることが多い。この原因の一つに、高校の教科書などに例外なく載せられている「パンネットの方形」があるのではない
かと思われる。この名前を知らない人でも、欄外に配偶子系列を書いた正方形またはひし形の表といえば、ああ、あれかとわかるであろう。これは、本来、メンデルの法則を理解する上で、きわめて優れた表現法である。
ところが、日本の教科書に出てくる「パンネットの方形」には、実は、致命的な欠陥がある。正しいパンネットの方形ではなく、似て非なる「もどき」なのだ。欠陥というのは、肝心な配偶子の頻度が、まず例外なく抜けていることである。単性
雑種の例でいうと、配偶子系列には、例えば、Aとaが単に並べて書かれているだけで、それぞれの配偶子がどのような頻度で生じるのかが抜けているのである。これは、あくまでも、(1/2)Aと(1/2)aとしなければならない。外国の教科書を見
ると、必ずこのように書かれている。
メンデルの法則の基本は、雄配偶子と雌配偶子がランダムに受精することであり、したがって、それぞれの配偶子の頻度の積が接合体の頻度になることにある。つまり、単性雑種の分離比は、3:1ではなく、3/4:1/4が正しいのである。どっちみち大した違いではないと思う人がいるかも知れないが、遺伝が確率現象であることを理解する上で、きわめて重要なことであろう。例えば、配偶子が、1:1の比率で作られないようなケースを考えてみるだけでも、その違いが容易に理解できよう。
高校の先生に言わせると、遺伝を勉強する時点では、数学で確率をやっていないので無理だという。しかし、この程度の確率の概念は、経験的にも理解させることは可能ではないだろうか。
7.「互助遺伝子」の謎
「互助遺伝子」という言葉は、一部の受験参考書などに出てくるそうだが、専門家には理解できない受験専門用語の一つである。ニワトリのとさかの形態の遺伝様式がその典型例で、「補足遺伝子」の一種として教えられているらしい。この用語が具体的にどのような現象を指すのかを説明した例を知らないし、実際に教えている先生方に質問しても要領を得ない答しか帰ってこない。これに相当するような原語も見当たらないので、おそらく、受験参考書の著者の創作と想像されるが、全く意味のない用語を一つ増やしただけであろう。
なお、ニワトリのとさかの遺伝様式を補足遺伝子であると説明している場合も多いが、これは不適切である。「バラ冠」と「豆冠」という2つの優性形質の両方が発現した表現型がたまたま「クルミ冠」という名称で呼ばれていたにすぎないので
ある。このようなケースを補足遺伝子と呼ぶならば、2つの遺伝子の関係のほとんどすべてがこの範疇に含まれてしまい、わざわざ名前を付ける意味はないことになる。
さらに付け加えるならば、そもそも「補足遺伝子」などという言葉を教える必要があるかどうかも疑問である。「補足遺伝子」は、一つの正常形質の発現に、2つの異なる遺伝子を必要とし、どちらか一方でも機能しない場合に、同一の突然変異形質を示すケースを指すのが普通である。しかし、一つの形質の発現に多くの遺伝子が関与することは、ごく一般的なことであり、2つの遺伝子の関与する例をことさらに取り上げ、特別の名前を付けて呼ぶことに意味があるとは思えない。むしろ、これが何か特殊な遺伝子作用を意味するものだという誤解を生徒達に与えかねない。
もし教えるにしても、このような現象のことが、かっては補足遺伝と呼ばれたことがあったが、遺伝子発現の分子機構を考えれば、当たり前のことであるというスタンスで扱うことが望ましい。しかし、遺伝の法則が、生物IBに、遺伝子発現が
生物IIに分断されてしまった現状では、難しいかも知れない。
8. 組換え価算出の「公式」
試験問題などで、2つの遺伝子座間の組換え価を求めるのに、摩訶不思議な方法が「公式」として広く普及している。AB/ab ヘテロ接合個体の作る配偶子の比率を、
AB : aB : Ab : ab = n : 1 : 1 : n
として、組換え価を、1/(n+1) で計算する方法である。試験問題などのように、やらせのデータの場合には、nが整数になることが多く、計算が簡単というのがその理由らしい。しかし、組換え型の配偶子の比率を1に基準化することに生物学的
な意味はないし、nが整数になる必然性もないことから、組換えの本質を理解する上で妨げとなることが懸念される。また、現実のデータを前にした場合、この方法は全く無力であることはいうまでもない。
この場合、
AB : aB : Ab : ab=(1-r)/2 : r/2 : r/2 : (1-r)/2 (rは組換え価)
として求める正しい方法を用いても、計算がさほど難しくなるとは思えないので、このような教え方に改めるようにしていただきたい。
1〜8 項に関する問い合わせ:
布山 喜章 : 東京都立大学大学院理学研究科生物学教室
e-mail : fuyama-yoshiaki@c.metro-u.ac.jp
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